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海上コンテナ鉄道輸送

100 とはずがたり :2005/02/12(土) 12:55:38
舞鶴(田辺)
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d34120e0b062da/7d34120e0b062da12.html
■「舞鶴」という地名のはじまり
 明治2年(1869)、版籍奉還の後、太政官より「田辺」は山城や紀伊にもあってまぎらわしいので改名するように命令があり、田辺城の別名であった「舞鶴城」から「舞鶴」という地名がうまれました。

■東地域と西地域“それぞれの道”

 江戸時代、舞鶴湾を囲み、田辺藩というひとつの共同体地域として発展してきた舞鶴ですが、軍港設置により東地域と西地域はそれぞれ性格の異なる都市として発達してゆきます。
 東地域は、軍港設置にともない多くの海軍軍人・軍属・海軍工廠工員およびその家族が 移住し、新たな住宅、商店、娯楽機関が必要となったため浜・余部下・余部上を中心に新市街地が造成されました。明治36年(1903)、碁盤目状に区画した浜の市街地は、東西に走る道路に三笠や富士など明治時代の軍艦名がつけられ、ここに全国から商人が集まり、にぎわいました。
 西地域は、商工業を中心とする産業港湾都市としての建設と繁栄を目ざし港の修復を行い、昭和に入り、樺太、朝鮮、大連、天津、北海道間にそれぞれ定期航路を持つ商港となっていきました。

■両舞鶴合併
 東地域の東舞鶴市と西地域の舞鶴市は、それぞれ昭和13年に市制を施行していましたが、戦局が悪化するにつれ、軍港としての戦力増強が急務となり、海軍諸施設が両市にまたがるようになりました。この結果、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く望み、強引に両市の合併を押しすすめ、昭和18年5月27日(海軍記念日)、東舞鶴市と舞鶴市を合併し、人ロ86,051人の「舞鶴市」が誕生したのです。

■舞鶴の戦後

 敗戦により、鎮守府や海軍工廠は解体し多くの人々が生活基盤を失いました。
 昭和25年、市民の努力により、『旧軍港市転換法』が制定されました。この法律は、「旧軍港市を平和産業港湾都市に転換することにより、平和日本実現の理想達成に寄与すること」をその目的にうたい、旧軍用の土地・施設その他の財産は新しい都市計画に活用することを、その内容としています。この法律は、舞鶴の復興に大きな役割を果しました。

東舞鶴→海軍の鎮守府。浜・余部下・余部上を中心に新市街地。市の中心駅:東舞鶴。舞鶴支線・舞鶴港線分岐。市制施行:東舞鶴市
西舞鶴→商港:樺太、朝鮮、大連、天津、北海道間にそれぞれ定期航路。市中心部に田辺の地名。市に中心駅:西舞鶴。宮津線分岐。市制施行:舞鶴市
東西合併→舞鶴市:軍部の強い意向。人口8万。市の中心駅:東舞鶴。市役所も東舞鶴地域に


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