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日本中世史スレ

1 ■とはずがたり :2002/11/04(月) 21:53
日本中世史を語る

179 名無しさん :2016/02/13(土) 12:17:18
2016年02月13日(土)
乃至政彦
塗り替えられる戦国軍事史
?真田一族の「恐るべき謀略」から軍隊は生まれた!?雑多な「軍勢」から兵種別の「軍隊」へ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47735

180 とはずがたり :2016/02/20(土) 13:06:11
>、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。
鎌倉幕府の事は関東と云ってたけど。
調べたら幕府とは元々近衛大将の唐名だったそうな。

「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識
http://www.dailyshincho.jp/article/2013/10211630/?all=1
『歴史をつかむ技法』山本博文 著

「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(平成25年3月27日付)。

 なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。

 もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。

 つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。 

 結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。

 同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。

デイリー新潮編集部

181 とはずがたり :2016/05/21(土) 22:41:26
法性寺入道前関白太政大臣(わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波)を調べててwikiの源長経へのリンクに行き着いたが,同名の醍醐源氏代明流の長経へのリンクだった様である。

醍醐天皇─源高明(西宮左大臣)─忠賢─

┬守隆(右馬頭)─長季(従四位上・少納言・右衛門権佐(検非違使佐)・右馬頭・土佐守、備前守等歴任・良吏として聞こゆ)─
└致公(源満季猶子)

┬盛長┬盛経─
├長俊├盛家、
├守俊└盛季
├盛雅
├寛厳
└仁厳

┬経光(五条と密通『明月記』)
├長経
├盛光
└五条(藤原忠通側)


醍醐天皇─代明親王─源重光(致仕大納言)─

┬明理・長経(正四位下・越前守)─経成(権中納言)
└女(中関白家伊周室)

182 とはずがたり :2016/07/17(日) 17:36:10

宇多源氏と云えば庭田家なのだけど源雅信左大臣─時中─○─○─○─○─○─○─有資と来て,有資の実子信有が綾小路の家祖となったのに対して,嫡流の庭田家は外孫の経資が継ぐ事になった(庭田と号すのは経資の孫の重資かららしいが)。この経資は藤公直子という事は判ってたけどどこの公直か知らなかったけど,今調べてみると初名が実泰とあって明らかに閑院流である。と云う事で調べたら判るのでは無いかと思って調べたら直ぐに判った。気付くのが遅すぎである,俺としたことが。。(;´Д`)
で,判明した事は徳大寺家の庶流で河原or八条を号した実家(徳大寺公能男)流であった。●実家─公明─実忠─公直─公員又公貞となる流れの公直であった。宇多源氏とはいえ庭田家以外は半家で庭田家のみ羽林家なのは徳大寺家から出てるからなんであろう。もっと云ふと経資の室が大炊御門基雅女で徳大寺と大炊御門の両清華の血を引いていると云ふ訳だ。
其の後,皇室や伏見宮家と関係が深く後花園天皇及び後柏原天皇の生母を出したりしてるのも徳大寺・大炊御門効果か。

庭田経資 にわた つねすけ
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E7%B5%8C%E8%B3%87-1099722
徳大寺【とくだいじ】
http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm

五辻家は、家系は宇多源氏庭田同祖なのに何故半
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11127726486

183 とはずがたり :2016/08/29(月) 14:45:29
>>182の続きでネット彷徨いてたらみっけた。凄い充実。

閑院→徳大寺→河原又八条の庶流に近衛と大炊御門があって大炊御門の庶流から宇多源氏への養子があったと云う流れの様だ。

河原・大炊御門・近衛のいずれも河原家祖の実家から6代孫の代で絶えているがこの辺が朝廷衰微甚だしかった時期か?それとも武士の横領甚だしく一族で領有する荘園へ一緒に下向したのかな?

公家絶家当主
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu02.htm

184 とはずがたり :2016/09/27(火) 15:48:57
2014/06/29
女系で初期の当主達の血を維持してきた堂上家と絶家となった清華家
http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-76cf.html

185 とはずがたり :2016/11/29(火) 13:29:43
高校の時から欲しかった吉川弘文館の『国史大辞典』全15巻(17冊)遂に購入!!!古書検索サイトスーパー源氏で探したら27000円程で買えた。勿論筺は日焼けしたりしてるけど全く問題ない。

ずらっと並べて悦に這入っているが,なかなか中身全見報告とはいかないなw

先ずは那古野荘(なごやのしょう)がふと目に付く。
現在は那古野と書いて〔なごの〕と呼ぶが,昔は[なごや]と読んだ様だ。烏丸も昔は[からすまる]と読んだみたいだしな。
那古野が名古屋になって有名になって重複を避けたのか?

この荘園,開発領主は九条顕頼(wikiに拠ると九条民部卿・勧修寺流・正二位権中納言・鳥羽上皇院近臣)の子,東大寺別当小野顕恵で4代目以降は女子相伝となったそうな。

186 とはずがたり :2017/01/27(金) 13:45:12

対馬で盗難の仏像、韓国の寺に所有権=裁判所が引き渡し命令
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600242&g=soc

長崎県対馬市の寺から盗まれ、韓国に運ばれた「観世音菩薩坐像」(韓国大田地方警察庁提供)
 【大田(韓国中部)時事】長崎県対馬市の観音寺から2012年に盗まれ、韓国に運び込まれた県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」について、「かつて所蔵していたが略奪された」と主張する韓国の寺が韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下した。日本政府は日本への返還を求めてきたが、一層遠のく見通しだ。
〔写真特集〕盗まれた芸術だ!

 提訴していたのは、中部・瑞山にある浮石寺。14世紀に朝鮮半島などに出没していた海賊、倭寇によって略奪された可能性が高いと主張。窃盗団から没収され、大田の国立文化財研究所に保管されている仏像の引き渡しを求めていた。
 大田地裁は判決で「仏像は贈与や売買など正常な方法ではなく、盗難や略奪で(対馬市の観音寺に)運ばれたとみるのが妥当だ」とし、「仏像は浮石寺の所有と十分に推定できる」と判断。「(政府は)浮石寺に引き渡す義務がある」と指摘した。
 大田地裁は13年、観音寺が仏像を正当に取得したことが証明されるまで、日本側への返還を差し止める仮処分を出していたが、効力は切れていた。(2017/01/26-12:08)

187 とはずがたり :2017/05/20(土) 07:37:47

朝日新聞取ってるけどこの記事見逃したな。。くそぅ。

勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方
http://www.asahi.com/articles/ASK147788K14ULZU00L.html?iref=com_rnavi_arank_nr03
編集委員・宮代栄一2017年1月8日11時35分

 モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。

 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。

 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。

 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。

 だが、こうした見方は修正が必…

188 荷主研究者 :2017/06/01(木) 00:54:52

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170524000075
2017年05月24日 13時10分 京都新聞
足利義満、「法王」目指した? 豪の研究者が新説

義満の政治・宗教複合空間

 室町幕府3代将軍足利義満(1358〜1408年)が、入念な都市計画を基に幕府の拠点「室町殿(花の御所)」や相国寺を建て、同時代の東南アジアにあった仏教王朝の頂点の地位を目指していた-。オーストラリア人の研究者が新しい義満像を唱えている。

 シドニー大日本学研究科のマシュー・スタブロス准教授(中世日本都市史)。米国出身で、日本外務省勤務を経て、東京大史料編纂(へんさん)所の客員研究員や京都大の客員准教授などを務めた。3月の京都府立京都学・歴彩館(左京区)の国際シンポジウムで発表した。

 義満は、南北朝の分裂を終わらせ、幕府の基盤を固めた。将軍職を辞して出家して以降も、武家や公家、寺社の勢力を抑えて実権を握り続けた。天皇や上皇になろうとしたという説もあり、義満の思惑に謎が多い。

 スタブロス准教授は、義満が平安京北端の一条大路(現一条通)の北側に整備した、幕府中枢の室町殿と、禅宗の大寺院の相国寺、国内最大級の木造建造物だった同寺七重塔の位置に注目。義満の政治・宗教空間では、相国寺を中心に室町殿と七重塔がほぼ左右対称で、京域との間にある相国寺の法界門が、南北に延びる高倉小路(現高倉通)にあったといい、「義満は高倉小路を中心に、平安京の東エリアをあらためて左右対称に再整備しようとした」と指摘する。

 相国寺などの整備を進める一方、義満が郊外に新しく整備した北山殿(現金閣寺)について、「院政期に、平安京から離れて荘厳な法勝寺や鳥羽離宮を設けた白河上皇を意識した」とみている。

 また、スタブロス准教授は、中国・明との交易に熱心だった義満が同時代の近隣諸国の情報を入手していたと推測。8〜14世紀の東南アジアの仏教王朝では、王は宗教と政治の頂点に位置する「法王」=サンスクリット語でダルマ(仏法)・アルタ(実利、政治)=と位置付けられていたという。「義満は、日本の天皇経験者がなる上皇(法皇)ではなく、海外の仏教王朝の『法王』を目指したのでは」と考えている。

 同志社女子大の山田邦和教授(都市史学)は「義満が都市計画を持っていたという考察や、海外情勢と関連づけた視点は新鮮だ。十分に検討の余地があり、研究の進展に期待したい」と話している。


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