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日本中世史スレ

1 ■とはずがたり :2002/11/04(月) 21:53
日本中世史を語る

190 とはずがたり :2018/12/29(土) 10:41:03
八介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八介(はちすけ)とは、武士階級の中で、同じ家が代々に亘ってその地方の在庁官人の介職に任官されている場合、尊称として自他共に認知されている「苗字(本貫地の地名)+介」という特別な名乗りを行っている八つの家の当主を指す。

一覧
大内介
代々に亘って周防権介に任官されている大内氏当主の尊称。
富樫介
代々に亘って加賀介に任官されている富樫氏当主の尊称。
井伊介
代々に亘って遠江介に任官されている井伊氏当主の尊称。
狩野介
代々に亘って伊豆介に任官されている狩野氏当主の尊称。
三浦介
代々に亘って相模介に任官されている三浦氏当主の尊称。
千葉介
代々に亘って下総権介に任官されている千葉氏当主の尊称。
上総介
上総氏は当主が上総権介に任官されたのでそれを苗字とした。
秋田城介
秋田城主兼出羽介の事で、鎌倉時代には安達氏の事を指した。織田政権の時は織田信忠、豊臣政権や江戸時代は秋田氏(秋田郡を領する安東氏が秋田城介と領地名に因んで改名)を指す。

191 荷主研究者 :2019/02/09(土) 23:53:48

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190106000088
2019年01月06日 18時50分 京都新聞
ガラシャは美貌だった? ヨーロッパ逆輸入説を学者が討論

勝龍寺城にある細川ガラシャと夫忠興の銅像。ガラシャの美は後世に創られたものだったのか(京都府長岡京市)

 明智光秀の娘である細川ガラシャは、なぜ美貌のヒロインとして描かれるようになったのか。2020年のNHK大河ドラマに光秀が主役の「麒麟(きりん)がくる」が決まり、ゆかりの京都でも注目が集まる中、その謎に迫るシンポジウムが国際日本文化研究センター(京都市西京区)の一般公開で開催された。キリシタンの洗礼を受け、悲劇の死を遂げたガラシャにさまざまな角度から光が当てられた。

 ガラシャ(玉)は勝龍寺城(長岡京市)を居城にしていた細川忠興に嫁いだ。本能寺の変で「逆臣の娘」となり、のちにキリスト教に帰依し、ガラシャという名前を授かった。関ケ原の戦いで西軍の人質になるのを拒み、家臣に手をかけられる形で死を選んだとされる。

 画家の堂本印象がユリの花を持つはかなげなガラシャを描き、2011年の大河ドラマ「江」では女優のミムラ(現・美村里江)さんがガラシャを演じた。

 「ガラシャの情報は、ほぼリアルタイムで欧州に届いた」とフレデリック・クレインス准教授(日欧交渉史)は指摘した。「ガラシャの侍女から大阪のイエズス会士に口頭で伝わった情報が書簡でローマ本部に届き、出版物を通じて欧州に広まった」。18世紀にパリで出版された「日本史」には、ガラシャが美人で理想的なクリスチャンとして書かれているという。

 日本語文学者の郭南燕さんは、ガラシャの死から約90年後に出版されたクラッセの「日本西教史」でガラシャの容貌を賛美する表現が現れたと述べた。その後、1698年にウィーンでイエズス会の音楽劇の主人公になり、絶世の美人として描かれたことも紹介。美人として描く本がのちに和訳されて日本で「美人説」が広がったと話した。

 現代のガラシャ像を作り上げる役割を果たしてきた一つに、長岡京市で毎年11月に開催されている「長岡京ガラシャ祭」がある。主要行事として行われる「輿(こし)入れ行列」では公募で選ばれた夫婦かカップルがガラシャ(玉)と忠興役を担う。この催しを1992年に立ち上げた小田豊・前市長が登壇し、ガラシャを題材に選んだ理由に知名度の高さを挙げた。「自立した女性としての生き方が時代にも合っていると考えた」

 ガラシャはどうして「美人」になったのか。

 井上章一教授(風俗史)は、近代以降の日本でキリスト教は、かつて迫害を受けたことからくるある種のロマンチシズムをかき立てる存在になったと指摘し、「その典型がガラシャ」と打ち出した。「大河ドラマでもきっときれいな女優さんが演じるのではないかと楽しみにしている」

 講演後に行われた4人による討論では、「ガラシャ美人説」も語られた。クレインス准教授は光秀の肖像画が美男子であることと、夫の忠興が、色好みで知られる秀吉にガラシャを会わせることを恐れていたことを挙げ「ガラシャは美人であったと思う」と指摘し、小田前市長が同調した。

 井上教授は自説を補強した。キリスト教系の女子大学は仏教系女子大の学生から「かわいい」「金持ち」「キリスト教」の頭文字を取って「3K」と言われることを紹介。「キリスト教はCなのに」と笑いを誘いつつ、「現代社会でキリスト教は冷遇されるどころか、高い位置を占めている」と、日本のキリスト教観が美しいガラシャ像を創った側面を強調した。

 2018年の日文研の一般公開は「京都と時代劇」をテーマに、東映太秦映画村(右京区)と長岡京市が協力して行われた。京都映画界を代表する監督で、20年ぶりの長編劇映画「多十郎殉愛記」が来春公開される中島貞夫監督(84)が登壇するシンポジウムもあった。

 日文研の研究者が映画を語る催しもあり、時代劇を見るのが趣味という木場貴俊プロジェクト研究員(日本近世文化史)は「時代劇の愉しみ方」を語り、「歴史学は現代とは異なる常識を持った世界である過去との交流だが、時代劇は海外ドラマを見る感覚で楽しむのが一番」と呼び掛けた。

192 名無しさん :2019/02/15(金) 21:19:29
なるほど。

193 とはずがたり :2019/06/01(土) 20:05:35
管領代六角定頼。燃え♪

https://twitter.com/zakkiroku/status/1134099302601482241
雑記録
? @zakkiroku

村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』を読了。
複雑怪奇な畿内情勢の中で「天下(京都及び畿内近国の諸国)」の執権を掌握し、将軍や管領の威光を超越する程の権勢を誇った六角定頼の事績を中心に、高頼?義治(義堯)の六角氏四代の動向を纏めた点において非常に意義がある一般書だと思った。

194 とはずがたり :2019/07/07(日) 23:05:20
木寺宮とかあの辺激萌え

赤坂恒明
「柳原宮考 ── 大覚寺統の土御門宮家 ──」 
 日本史史料研究会会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)第二十七号,
日本史史料研究会, 2014年5月, 1〜22頁.
http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/h/yanagiwara-no-miya.html

195 とはずがたり :2019/08/15(木) 22:14:23

[藤原]秀鄕(鎮守府将軍)─千常(鎮守府将軍)─文脩(鎮守府将軍)─文行(左衛門尉)─公光(相模守)─(佐藤)公清(左衛門尉)─季清(左衛門尉)─康清※─西行(義清)─隆聖(実子ではなく弟子とも)・女(発心集に拠ると仲清に懇ろに頼んでいた=仲清猶子?)」

※─仲清(西行同母弟)―基清(承久の乱で敗死)─基綱(宮騒動で失脚、後に六波羅評定衆)─…─(細川頼春寄騎・阿波移住)─…─長勝(中富川の戦いで十河方について敗死、以後帰農)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13125337568

佐藤家…紀伊国田仲荘預所職・衛府

196 とはずがたり :2019/08/18(日) 19:16:21
変わる室町時代のイメージ 応仁の乱で「焼け野原」は大げさ!?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00010000-kyt-l26
8/18(日) 10:30配信 京都新聞

 足利氏が京都に幕府を開いた室町時代のイメージが変わってきている。文献や考古の研究調査が進み、教科書の記述や伝承とは違った見解が示されている。応仁の乱や祇園祭山鉾巡行、北山・東山文化を例に、歴史家に知見の一端をひもといてもらうと…。

 京都で「先の戦争」と評されることもある応仁の乱(1467〜77年)。将軍や有力者の跡目争いや対立に端を発した争乱は幕府の権威を失墜させ、乱世のきっかけになった。この歴史的な評価は変わらないものの「京が焼け野原になった」との言い回しはやや大げさかもしれない。
 近年は「応仁・文明の乱」と表記するように、二つの元号にわたって11年ほど続いたが、史料にある洛中の戦火は応仁年間の2年間に集中し、文明の9年間は劇的に減ったようだ。被害状況を見ると、将軍御所「室町殿」などのあった上京が中心だ。もう一つの市街地・下京も無傷ではすまなかったが、焦土にはなっていない。その後の「天文法華の乱」(1536年)の方が被害が大きかったとの見方もある。

  次に室町に源流を持つ祇園祭山鉾巡行は、どんな様子だったか。現在は神事の印象が強いが、山と鉾が登場した14〜15世紀ごろは「現代風に例えるとディズニーパレードのようだった」(佛教大の八木透教授)。山は物語の一場面を見せる能舞台のような存在で、鉾は全てにお囃子(はやし)があるように歌舞や見世物(みせもの)の要素の強い「風流(ふりゅう)囃子物」がルーツとなる。踊りあり、音楽あり。このいわばお祭り騒ぎによって疫神を集めて退散させる「より代」の役割を果たしていた。

 果たして当時も「町衆の祭り」だったのか。関連書籍を多く著す奈良大の河内将芳教授は「町人が担ってはいたが、幕府や、祇園社(現八坂神社)を末寺・末社にした延暦寺・日吉社という権門の意向に左右されていた」と否定的だ。

 そもそもこのイメージは歴史家の故林屋辰三郎氏の見解を下地に、祇園祭の小説や映画を通じて戦後に広まったという。一方、史料からは山鉾巡行が延暦寺の都合で大みそかや冬にあったり、祇園社の神輿(みこし)が出なくとも幕府の要請で行われたりしたことが分かってきた。

 「神事これなくとも、山鉾渡したき(神輿渡御が停止になっても山鉾巡行は行いたい)」。こう記された当時の祇園社の日記を基に林屋氏は自説を述べたが、近年には山鉾巡行を中止・延期した際に幕府が課した「失墜料」を逃れるためとする、指摘もある。

 文化については「義満の北山文化、8代将軍義政の東山文化という二つの高揚期に分かれるのではなく、一体的な室町文化だった」と京都文化博物館の西山剛学芸員が解説する。室町の全盛期は義満期にとどまらず、4代義持、6代義教の頃まで続いたとの見方が強まった。将軍家コレクション「東山御物」の収集も進んだ時期となり、武家や公家、禅宗が融合した特有の文化は義満から義政までの合間を含めて一連の流れを通じて熟成されたようだ。

 室町研究の進展を背景に書店では現在も関連本が並ぶ。著書「応仁の乱」がブームのきっかけとなった国際日本文化研究センターの呉座勇一助教は語る。「ブームの背景には室町と現代の世相がリンクしているところが挙げられる。応仁の乱で秩序が崩壊し混沌(こんとん)として先が見えなかったのと同じように、現代は名ばかり管理職が増え、終身雇用も先行きが不透明で、会社がいつまであるか分からないといった共通点がある。高度成長期に人気のあった豊臣秀吉の出世物語ではなく、何が何だか分からないが、必死にもがく世界にリアリティーがあり、共感できる時代になっているのではないか」

京都新聞

197 とはずがたり :2019/08/18(日) 19:17:24
応仁の乱で武士酷使「ブラック企業のよう」 呉座氏が背景を解説
https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20181223000037

 ベストセラーとなった著作「応仁の乱」で知られる呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の講演が22日、京都府亀岡市余部町のガレリアかめおかで行われ、応仁の乱で大きな影響をもたらした丹波地域の動きを解説した。

 呉座助教は、京都での戦闘が長期化し、いかに補給路を確保するかが勝敗の鍵となったと説明。「都に至る主要ルートだった丹波は最重要となり、東軍の細川方が激戦の末、死守した」と語った。

 また、応仁の乱後、丹波の武士が蜂起した「延徳の丹波国一揆」にも触れ、「細川家は財がなくなり、乱の時に酷使し、疲弊していた武士からさらに年貢を取り立てようとした。今でいう“ブラック企業”のようだ」と話し、一揆が鎮圧された後、細川家は内紛で弱体化したという。

 呉座助教は「東軍の勝利とされるが、細川家は何も得をしていない。勝者なき戦争だった。教訓は現代にも通じ、争いをできるだけ回避する努力が必要ではないか」と締めくくった。

【 2018年12月23日 13時48分 】

198 とはずがたり :2019/09/06(金) 08:06:42

2013年6月16日
眠れぬ夜の義詮ちゃんが語る、室町幕府管領誕生の巻
https://togetter.com/li/519125

199 とはずがたり :2019/09/06(金) 09:26:46
処理水→簡易処理水→未処理水の3段階。

もし東京五輪に開催の意義があったとしたらこういう雨降ったら糞尿海へ垂れ流しの古い下水処理システムが解消されることとかだったんちゃうの?


五輪が照らす下水問題
お台場の海、降雨で水質悪化 「選手本位の大会」懸念
2019/9/6付日本経済新聞 朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO49477820V00C19A9EA1000/


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