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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

2:2005/05/10(火) 06:37:22
(無題)
私は、フランス人に日本語を教えるときは基本的に標準語アクセントを使うよう努力しました。たとえば日本人がマルセイユのなまりで下手なフランス語を話していたら、違和感が大きいので、そういうことがないようにです。( もちろん完璧なマルセイユ語で話したら、そこで育ったんだと思えますが。)イントネーションだけに限ると、関西なまりはTVでもよく聞くし、アナウンサーになるのでなければそれほどハンディにならないのでは?
 フランス人の生徒には最初から丁寧語だけ教えました。「書く」「読む」とか、原型を覚えても、実際の生活では、原型ではおかしいし、生徒が若い人たちだから、日本に行っても目上の人と話すことの方が絶対多いと思ったので。丁寧な言い方を崩す方は、簡単だと思うので。ちなみに私はフランス語でGros motsと呼ばれる「悪い言葉」はもちろん、くだけた表現も一切使わないようにしてきました。そういうものは環境によって身についたなら別ですが、大人がわざわざ習って口にするものではないと思うので。それで、うちはそういう言葉をまったく使わなかったので、子供達まで、口に出来なくなり、友人関係でハンディになっていると文句を言われました。私は、うちと外で適当に使い分けているとばかり思っていたのですが。娘達のボーイフレンドから、彼女らがきれいな言葉しか使わないといい意味で指摘されたこともあります。
 リセの生徒には、たとえば、目上の人に絶対2人称を使わないように徹底的に訓練しました。たとえば、フランス語でも、たとえばデザートを食べた招待客に、「これ、おいしいですね。誰がつくったの?」と問われたら、母親の方をむいて、「C’est elle(彼女です)」と答えるのは失礼で、「C’est maman」というのが丁寧です。これを納得、確認させてから、日本語では母親に2人称も使えないことを説明しました。基本的な敬意の気持ちがあれば、いいのではないでしょうか。後、いわゆる接客用語とかはマニュアルを見て訓練するしかないのでは?
 私はフランスに暮らしてからの方が関西なまりがよく出ます。東京にずっといたら東京風がすぐうつりますが。でももともと、親代々が関西というのではなく、父は鹿児島出身でしたし、神戸生まれの母も、両親が関東大震災で焼け出されて神戸に出てきたので、祖父母は東京なまり、それで生活用語に関東イントネーションが伝えられました。私は、今でも覚えていますが、マッチとか、ガソリンとか、白菜とかいう単語を発音すると関西の友人に「変だ」と言われ続けたので、そういう言葉を口にするときは緊張していました。
 田辺聖子さんのような流ちょうな関西弁などもとよりしゃべれないので、今は、イントネーションでちょっとローカルを味わうくらいです。でも、関西で講演したりすると、自然に関西なまりになります。そして、何より、外国で長く暮らしていると、母国語のなまりなんか相対化され、全部なつかしい日本語という気になります。イントネーションは話し言葉におけるヴァリエーションであって、話す内容があり、コミュニケーションしたいという心があれば大きな障害にならないのでは。それにこの頃は、特に若い人は、そもそもイントネーションをあまりつけずにフラットに話すのが流行りみたいだし・・・ やっぱり、相手をリスペクトする心と、話す内容と、伝えたい意思の3つが重要では? それと、堂々と話すとそれがその場の標準語になるってケースも見ました。話者に個性とカリスマ性があればね。
 また、イントネーション云々以外にも、鈴を振るようなきれいな声の人とか、魅力的な表情で話す人とか、もともと条件のいい人も世の中にはいるし、羨ましいこともありますが、ないものはないし、与えられたものでやっていくという思い切りも必要なのでは? 逆に、世の中には、声をうばわれた人や、コミュニケーション障害の人もいます。美記さんのように美しい声で歌ったり曲を奏でたり出来る恵まれた人は、方言を消したいという後ろ向きな気持ちより、フランスでフランス語を習ったように、今は新しい場所で新しいコミュニケーションの可能性を広げていこうという楽しい気持ちで過ごしてください。そしたら、美記さんとお話をする人にもきっとその楽しさが伝わっていくのではないでしょうか?

3:2005/05/11(水) 11:18:31
福知山線事故で助かった乗客の発言について
福知山線の列車事故で、助かった方が取材インタビューで「なくられた方の分も生きよう」という発言をよくされていて、違和感を禁じ得ません。
その場に居合わせた同士がある事件・事故に巻き込まれて、何かの縁を感じるにしても
「生き残った人だけがそれを感じ、そしていえる」という状況がとてもつらいのです。
周囲にそう漏らすと「わかるような気がする」といわれてしまいます。
マイクを向けられると「そのようなことを自分もいってしまうかもしれない」
というのです。私にはまったく理解できません。
鎮魂の気持ちをこのように表現してしまうのは日本特有な心性なんでしょうか?
竹下先生はどのように感じられますか?

4:2005/05/12(木) 02:57:46
生かされることの「気づき」
 「亡くなった人の分もがんばります」という言葉が受け入れられる場面は、普通、志を同じくした仲間同士がいて、そのうちの何人かは志半ばにして捨て石として亡くなり、「自分たちの死を無駄にしないで志を果たしてほしい」と言い残し、それを受けて、残された仲間ががんばることを誓う、というシーンではないでしょうか。だから、別に互いの面識のなかった事故の犠牲者同士が、「亡くなった人の分も生きよう」というのは、本来、誤用というもので、違和感を感じる方がいらっしゃるのは当然だと思います。しかし、誤用であろうとなかろうと、大事故から生還した人がそのショックから立ち直るためとか、理由のない罪悪感から逃れるためとかの「手立て」としてそのフレーズが機能するならば、それはそれで良いと思います。
 また、大事故の生還者は少なくとも一時的には出来事の「証人」として生きることを要請されてしまいます。匿名でなく、突如としてパブリックな存在になるわけです。つまり一種の「責任」が生じてくる。世間は、こんな人に、一週間後に酔っ払って線路に転落して死ぬとか、児童無差別殺人をやるとかしてもらいたくないわけです。「あんなやつならあの時死んだ方がよかったんだ」とか「あんなやつがあの時生き延びて、別の立派な人が死んでしまったのは不条理だ」とか、世間から価値判断が下されることを、「証人」はプレッシャーとして感じていて、「生還した」という「選ばれた人間」に恥じないように生きます、という意味もあるのでしょう。そうするとその裏には、亡くなった方は「選ばれなかった人」という価値判断が入ってくるので、それに違和感を感じることもあるのだと思います。(もっともアウシュビッツでランダムに餓死刑を宣告されたユダヤ人男性が自分には家族があって、と助命を乞うた時、コルベ神父が私には家族がないから私を、と身代わりを申し出て代わりに死んだという有名なエピソードがあります。この時助かったユダヤ人だって、結局ガス室で死ぬ確率は高かったわけですが、ホロコーストを生き延びた上、すごく長生きして、コルベ神父が福者や聖人の称号を獲得する度に証人として登場しました。こういう話を聞くと、「いただいた命を大切に」という言葉がぴったりですし、死んだ者が「負け組」という単純な判断は崩れてしまい、それが人間ドラマのおもしろいところですが。)
 ともあれ、そのような価値判断を保留するとしたら、この言い回しのもとには、もう一つ、「幸不幸の総和は同じ」という、よく知られた人生観があります。どんな人も死ぬときにはプラスマイナスゼロになるようにできている、若くして大きな幸運を得た人は晩年に苦しむとか、金があっても家庭運に恵まれないとかいうやつです。これを敷延して、ひとつの家族の中で、若くして死んだメンバーがあれば、残った人がその人の分も長生きする努力をするとかになりますし、同じ事故に遭遇した人々の寿命の合計は遭遇しなかった場合と同じで、生き延びた人は夭折した方の寿命の分をいただいたのだから体を大切に、という発想にもつながるわけです。これも、人生における「不当感」を納得するための「手立て」として多くの人に共有される知恵の一つとして機能しているのでしょう。
 けれども、いかにあれこれ理屈をつけようと、人生の幸不幸や事故における生死を分ける規則は、多分、存在しません。ある人が、健康に気をつけようと、精進しようと、努力しようと、自堕落でいようと、害虫のように嫌われていようと、実は、幸も不幸も、病も事故も死も、大局的には「すべてランダムに起こる」のです。日ごろの行いも、血液型も、生まれ月の星座も生まれ年の干支も、みな異なる人たちが同時に、いっせいに命を失う航空機事故などを見ても明らかです。戦闘機に乗っても死なない人もいるし、自転車に乗っていて事故死する人もいます。もちろんそういう不条理の前で人は「運命」を口にしたり、「神のみ旨」を口にしたりして、何らかの「意味」を探るわけです。そして戦争や大事故などで生き延びた人は、そういう「運命」との取引の意識を強くし、処世観が変わるのでしょう。
 たしか、90代で現役医師の日野原重明さんは、50代でよど号ハイジャックを経験した時に死を覚悟して、生きて帰れたら余生は人のために尽くそうと思われた、と読んだことがあります。大病から回復された方がその後で大きな仕事をするという話も聞きます。それはその人の個性でもありましょう。「もうけものの命だから、余生は思いきり享楽的に生きよう」と思う人だって多分いるに違いないからです。失くしたと思っていた大金入りの財布が思いがけず出てきた時に、一度失ったものだからと思って金を慈善事業に寄付する人も、ないものだと思って散在してしまう人もいるでしょう。しかしその「なくした財布」の物語が、「生と死がくっきり別れた大事故」などのように社会性を持っていたり、歴史的事件が個人の人生を横切ったような場合、人は個性だけで行動を決定できないで、何らかの「分かち合い」を必要とするのかもしれません。
 ちなみに、この「亡くなった方の分も生きよう」というのが「日本的心性」かどうかを確認するため、数人のフランス人に聞いたところ、「そういう言い方は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人がよく言っている」と言われました。ナチズムによる明らかな「人災」で無実の600万人の同胞が殺され、その犠牲を無駄にしないように、繰り返されないように努力しよう、というわけで、「長生き」もそこに入り、「犠牲」は同胞の長生きの「代価」でもあります。そこで「普通よりうんと長生きする」と決意するとしたら、それはナチスの平均寿命とユダヤ人の平均寿命の総和を同じにしようという、例の「総和は同じで納得する」バランス感覚による不当感の解消や、一種の報復意識もあるのでしょう。
 ここでどうしても思い出すのは、田川健三さんが、今の大学生には全然理解してもらえないとおっしゃっている福音書の中の例の葡萄園のたとえ話です。朝から日没まで働いた人の日当が1デナリオンで、午後から働いた人も、日没の一時間前に雇われた人もまた1デナリオンもらえたので、一日中働いた人が文句を言ったという話です。葡萄園の主は、最初から1デナリオンの約束でその通り払うのに何の文句があるのか、自分は自分の金を好きなように支払う権利がある、というようなことを答えます。
 田川さんは、たとえば1デナリオンは日雇労働者が一日生き延びる最低の賃金だと想定し、日没近くまで仕事にありつけなかった人は、その日飢えて外に寝るしかなかったところを、最後に雇ってもらえて最低賃金をもらえたのだという趣旨のを解説します。十分の一の賃金では生きていけないからです。キリスト教的発想は、たとえば労働量に見合う賃金というメリットの発想でなく、すべての人が人間らしく暮らせるように、一日中働ける強い人や朝に仕事を見つけた運のいい人は、働けない人や職のない人と賃金を分かち合っても当然だというのです。なぜなら運や力の強い人の強さは、自分の徳ではなく、たまたまそうであっただけであるからです。でもこの話を聞くたいていの学生は、一日中働いた人が一時間の人と同じ賃金では「働き損」という、損得勘定でとらえて不当感を抱くのだそうです。
 聖書には「神は与え、神は奪う」という有名な文句もあります。幸福な生活から一転、全てを奪われた義人が決して神を呪わないで、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と受け入れる話です。確かに、どの人も、生まれ育って生きているのは、自分の意志や能力によるのでなく、世界や他者との関係性の中で生まれ、育ててもらい、生かされているのですから、個人の努力やメリットに応じて死生観を打ち立てるわけにはいきません。いろいろな宗教には、徳を積めば救われる、天国に行ける、解脱できるなどのいわばポイント制になった行動規範もありますが、この世における不当感を相対化して平穏と諦念に導く理論もたくさんあります。
 ひとつ思うのは、たとえばユングが「宗教は心理療法のシステムであり、(教会は)精神的な問題の全体を表現する強力なイメージ群を所有する」と言ったとしても、宗教は治癒力や意味付けだけでなく、やはり、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」、という永遠の問いを誘い、支え、その答え探しに同行する機能をもっているだろうということです。その問いは「私はどこから来てどこへ行くのか」でなく「我々」という関係性の中でしか深さを獲得できません。
 事故の生還者が、「亡くなった人の分も・・・」と口にしてしまうのは、実は、事故があろうがなかろうが、自分は他者との関係性の中で生かされているのだという「気づき」の言葉でもあるのではないでしょうか。

5Naomi:2005/05/12(木) 14:12:18
一神教について
昨年以来、ずっと頭の隅にひっかかっていることがあります。昨年7月の朝日新聞に梅原猛氏の文章が載っていました。「人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、20世紀に起こった人間の大量殺戮が21世紀にはより大規模におこる可能性すらある。このような状況において、あえて人類の末永い繁栄のために西の文明の二つの原理である人間中心主義と一神教を批判する必要があろう。−中略− 一神教の批判はもっと難しい。なぜなら、多神教は人類の原始時代の盲信に過ぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるごとく存在しているからである。私は、多神教は、もともと森に住んでいた人類が、森の中の様々な生きとし生ける者に人間の力の及ばない霊妙なものをみて、それを崇拝することによっておこったと思う。今もなお自然は人類の及びがたい霊性を持っていて、多神教の成立の地盤は決してうしなわれていない。また多者の信じる神をみとめる多神教は、人類の平和共存をはかるためにも一神教よりもはるかに有効な宗教であるとおもわれる。一神教は森が破壊されて荒野となった大地にうまれた種族のエゴイズムを神の意志に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私はおもう。」
私は梅原氏がすでに、他を認めない矛盾に陥っているとおもいました。でもキリスト教者のおかしてきた、ホロコースト、十字軍、レコンキスタ、30年戦争などをおもいますと、頭がくらくらします。ではキリスト者を辞めるかといわれれば、おそらく、死ぬまでやめないでしょう。大文字のキリスト教はわからなくても、小文字の複数のキリスト者は魅力的です。竹下様のお考えをうけたまわれますと、幸いです。        

6:2005/05/12(木) 18:34:38
一神教の好戦性について
一神教に関するこのような、一種紋切り型の不信感というのは、確かにアメリカの
 
対イスラム政策を見ていて高まったような気がします。

 ブッシュ大統領が「悪の枢軸」国を制裁する姿勢を打ち出した時、

その善悪二元論を単純だと思ったり、一神教的だと思った日本人は

少なくありませんでした

 しかも、実際、イスラム原理主義の側もアメリカを「悪魔」だと決め

つけていることが知られているので、どちらも善悪二元論で自分たち

が善の側に立っていると信じているのだから、結局、融通の利かない

一神教同士の喧嘩じゃないかと短絡的に語りたくなるのです。
 
 でも、一神教と善悪二元論はほんとうに関係があるのでしょうか。

 確かに、一神教、特に世界の創造者としての神を戴く宗教は、それ

に拮抗する悪のキャラクターを作ってしまう傾向が多いのは事実です。

その理由は簡単です。全能で至善の創造神の創った世界は全き善で

あるはずなのに、この世には殺戮を初めてする悪や不和、秩序の乱れが存在します。その

悪はどこから来るのか? 神が悪を許すはずはないのだから、悪を押

しつけるキャラクターが必要になるわけです。最初のレトリックは、悪魔は神

に許しを得た範囲で人間に試練を与えるために悪を行使するというも

のでした。だから、現代世界の一神教の始祖であるユダヤ教における

悪魔であるサタンには「敵」という意味しかありませんでした。

 しかし、人々は「サタン=悪魔」のイメージを増幅し、悪の力を増

大させていきました。善であるはずの世界の中で悪を位置付けるためには

それが一番効果的だったからです。果てには、悪魔を神のように礼拝す

る悪魔教まで現れて、ミサに対してその逆のことをする黒ミサ、魔女

たちが獣の頭を持つ悪魔と乱交するサバトなどのディティールが充実

していきました。イメージ化が進んで一種の偶像崇拝が生まれたのです。

 多神教や陰陽二元論の世界では事情が少し違います。多神教の神は「神

人同型」が多く、その「人格」の中にすでに善悪二面性があると考え

られています。戦争のような集団的殺戮の「悪」も、神々同士の戦いと

いう形で表現されて納得されてきました。だから、人々は、神に拮抗する

ような突出した「悪の化身」を発明せずにすんだのです。また陰陽二元論な

どは、陰と陽が交替し得るし、互いに互いを支え合っているようなバ

ランスの関係なので、どちらかがどちらかを制圧するという展開には

なりません。

 だから、多神教的世界よりも一神教の方が善悪二元論に陥りやすい

心理構造をはらんでいるのは事実だといえるでしょう。しかし、だからこそ一神教の歴

史はこのような二元論との戦いの歴史だったことを忘れてはなりません。

 キリスト教は、その内部で次から次へと生まれる善悪二元論の誘惑を

執拗に断罪していきました。初期のキリスト教は、ギリシャ・ローマ的多

神教の世界の中で自分たちを差異化するために、多神教対一神教とい

う戦い方をしてきたのですが、その後のキリスト教が戦ってきた内なる

異端は、多神教ではなく、常に二元論に基づいたものです。といっても、

前述したように、異端となった二元論は、もともと、一神教における

「悪の起源」を説明しようとするいろいろな試みが、いつのまにか正

統を逸脱したものだといえます。

 エジプトの太陽神が一神教の成立に影響を与えたとしたら、それ以

前からあったペルシャのゾロアスター教が世界は善と悪、光と闇の戦

いだという二元論に影響を与えたのは間違いがないでしょう。 一神教のはらむ

二元論の契機にゾロアスター教の遺産が拍車をかけて、多くのキリス

ト教二元論が生まれました。初期のキリスト教の異端であるグノーシス思

想にも、マニ教に発展したペルシャ型があり、善と悪は最初から対等

な対立原理でした。

 これに対してシリア・エジプト型のグノーシス思想は、全能の神を

温存しながら何とか悪の起源を説明するために、平行ではなく縦型の

レトリックを駆使したものです。代表的なものに、悪を含むこの世を創造した

「神」を超えた上位世界を想定して、そこに至高神を置く体系があります。

そこからさまざまな要素が「流出」していき、ある段階で、アクシデ

ントのように、悪を含む物質的なものや人間的な心などが生まれたの

です。しかし、悪である心身の中にも、実は上位世界から流出した「霊」

が燠火のように隠れています。人にとって、悪の世界からの救済とは、

自己の中にあるこの霊を発見して、心身を捨てて上位世界に回帰する

ことであるわけです。このレトリックは今でも「本当の自分さがし」などという生

き方指南や、ある種のカルトの超人志向などと共通していますし、神性

はすべてのものに宿るという汎神論的な世界観にも通じています。

 この考え方だと、一神教を維持しながら被創造界の悪を何とか説明

することができます。しかし、キリスト教はこのグノーシスを異端とし

て論破することによって正統の基礎を築くことになりました。なぜかというと、

この考え方では、はじめに「光りあれ」といって天地創造をした旧約

聖書のユダヤの神の説明がつかなくなるからです。実際、グノーシス派

は旧約聖書を切り捨てて、新約聖書のみを奉じ、イエス・キリストの

語った神こそが至高神にあたるという見解を示しています。これに対し

て、「正統」キリスト教の方は、たとえ矛盾をはらんでいても旧約聖

書と新約聖書のどちらをも聖典とする姿勢を守ったわけです。グノーシ

ス派のいう「霊」も、上位世界からの流出ではなくて、肉体とペアに

なって創造されたものだという立場を守ります。

 しかし旧約と新約を共存させたせいで、キリスト教にはその後も二

元論的異端が絶えることがありませんでした。代表的なものは、中世キリスト

教最大の異端であるカタリ派です。カタリ派はグノーシスの系統で、魂

のふるさとである至高神のもとに回帰することが人の救済であるとし

ました。しかしカタリ派は旧約聖書を否定しないで、旧約の創造神は汚れ

た物質界を創造した「悪」であると考えたのです。こうして善なる至高

神と悪の創造神という善悪二元論が成立してしまいました。彼らには「完全

な人間」を目指して肉体を痛めつけ禁欲や苦行に走るという、これま

た今でもある種のカルトの修行にも見られるある意味で普遍的な「行

き過ぎ」がありました。 もちろんペルシャ型グノーシスの流れを受けるマ

ニ教の影響もあったでしょう。

 実際、カタリ派的な善悪二元論は、中世に突然孤立して現れたわけ

ではありません。「正統」キリスト教としてのローマ・カトリックが一応安

定して精神界を独占したヨーロッパでは、紀元千年を過ぎた頃から終

末思想が流行るようになりました。「至福千年」思想というもので、新約

聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』に基づいた一種の集団幻想です。

この世の終わる前に天使が降りてきて悪の化身であるドラゴンを

鎖でつなぎ、千年の間は至福の時代が続くというものです。ただし天使

とドラゴンの戦いの間は混乱が続きます。また千年後には封印が解かれて

混乱が再開し、最後の審判があるというのですから、終末思想の色合い

が濃いわけです。その成立や展開についてはここでは述べませんが、中世

ヨーロッパにおける飢饉や疫病や戦乱の中で至福の時に憧れる人々の

心性が、天使対ドラゴンの戦い、善による悪の征伐というイメージを

増幅していたという時代背景は強調できます。つまり、中世ヨー

ロッパにおいては、黙示録的イメージの中での善悪二元論はかなり支

配的なものであり、それが十字軍による聖地奪還のような好戦性にも

つながっていたということです。カタリ派はその鬼子に過ぎなかったのです。

カトリックの秘跡を排して独自の典礼や位階を作った上にそれなりの

経済的基盤を持ったことではっきりと「異端」の烙印を押されましたが、

二元論自体は、時代の潮流を反映していたわけです。ボスニアやブルガ

リアにも神の友団(ボゴモリスト)という同系の二元論教会が生まれ

ていたことも知られています。カタリ派は聖書(当時のヨーロッパでは

ラテン語聖書のみ使われていた)を地元のオクシタン語に訳してすべ

ての信者の手の届くものにしていたり、女性の聖職者や説教者を認め

るなど、後のプロテスタント運動の先駆のような立場でもありました。

 しかし、結局、「正統派キリスト教」が、アルビ十字軍を派遣して

カタリ派を殲滅した(14世紀)という事実は、政治経済的な理由

(トゥールーズ伯の領地をフランス王領に組み入れる)は別としても、

ヨーロッパのキリスト教が、必死になって善悪二元論に抵抗し続けて

いたという証しにほかなりません。アリストテレスの影響を受けた主理

主義哲学と神学を融合させたりして、二元論を排した一神教の「正統」

を強化していったのです。

 そもそも二元論は誘惑的に働きます。それは従属しない他者を悪として

排除することで強化される「権力」が自己を正当化するのに二元論が

便利だからでしょう。二元論の誘惑はしばしば権力の誘惑なのです。それ

を考えると、中世から近代にかけていつも権力の道具になっていたキ

リスト教が、善悪二元論に何度も足をすくわれながらもその都度、悪

は人間の自由意志に向けられた試練であり克服すべきものであるとい

う一神教の緊張を持ちこたえてきたことはほとんど感嘆すべきことです。

その結果、善と悪が裏表のように曖昧に共存していていたり浄不浄に

置き換えられたりする多神教的世界では発達しなかったような、厳密

で抽象的な理論(それが近現代の国際法や法治主義の基となった)が

試行錯誤の後に続々と生まれてきたからです。

 現在のヨーロッパ風のユニヴァーサリズムは、そのように、二元論

を排除し続けた「正統キリスト教」の執拗な戦いの遺産を受け継ぎ、

それを非宗教化したものです。2千年にわたる言語化や理論化の努力が、

多文化共存の世界における共通のルール作りに役立ったわけです。いい

かえれば、二元論を排する論理にあまりにも知恵をしぼってきたので、

そこから「神」や「教会」を取り去って非宗教化しても、「普遍」の

体系が残ったのです。「普遍」を追求し、極めれば、論理の帰結として

非宗教化せざるを得ないともいえます。キリスト教世界の内側だけが思

想の土壌だった頃は「神」の名において構築された体系が、非キリス

ト教、特に非一神教世界との共存のツールとして使われる時に、「神」

を抜きにして有効であり続けたのです。だから、本来、今の世界を牛耳

る西欧起源の「近代理念」は非宗教的であります。「一神教が多神教より

理性的」だからその理念を押しつけているのではありません。しばしば欧米

の植民地主義や帝国主義と共に弄されたそのような言辞を捨て、宗教

や文化の優劣を問わないところに西洋近代理念の普遍性が生まれたの

です。ただ、その普遍主義を錬成し研ぎすませてきたものこそ、キリス

ト教と二元論との思想的戦いの歴史だったということなのです。

 その点、アメリカの建国理念となったユニヴァーサリズムは、少し

違います。非宗教化の必要がなかったからです。アメリカの拠って立つピュ

ーリタン的なプロステタンティズムは、二元論との戦いで生まれたの

ではなく、ヨーロッパの「正統キリスト教」が陥ったもう一つの権力

の誘惑である非民主的ピラミッド型官僚主義との戦いで生まれたから

です。プロテスタント的な民主的宗教共同体の拡張としての「民主

的な神の国」の理想はありましたが、それはやはり「神の国」であり、非

宗教化には向かいませんでした。その中で、結局、強者が生まれ、強者の

権力の誘惑と共に二元論の誘惑が立ち現れてくる。その最も短絡的な

形が、民主的キリスト教社会は善、非民主的イスラム教社会は悪とい

うような二元論として現れ、世界中の非一神教世界からは、「一神教

同士の内輪争い」だとか「キリスト教優位の傲慢」だとか受け取られ

ているわけです。
 
 この歴史のダイナミクスを見ずに、日本の文化人が、キリスト教=

狩猟民族の好戦的な文化と先入観を持つことがあるのは残念です。

司馬遼太郎の講演録か何かで、西洋人のカトリックの修道女が、日本のミッションスクールの

教室で教えていたときに、猫が紛れ込んできて、 修道女が、ヒステリックに、悪魔を追うように

追い払ったというエピソードを紹介したのを読んだことがあります。それで、愛の宗教といっても、所詮狩猟民族というか、

日本的なやさしい共存とは相容れない正体見たり、という論調が続くのでびっくりしました。どう見ても、これはたまたま

その修道女が猫嫌いだったとしか思えません。 こんなことを、司馬さんのような影響力の大きい人が

比較文化的考察の論拠にするなんて驚きでした。 しかし、こういう安易な結論への誘惑は誰にもあるかもしれないので、

自分も気をつけようとも思い、また、修道女のように、普通の人間であっても他者からはその宗教だのその国の人の代表者

とも見られるような立場にある人は、やはり、イメージを大切にして、自分の好き嫌いをぐっと抑えても、身分に期待される行動を

とるべきだなとも考えさせられました。

 梅原さんの批判しているもうひとつの西洋近代思想「人間中

心主義」の方も私は絶対擁護です。人間中心主義が自然を破壊し云々という理屈

もすごく安易な論議ですが、バランスシートでいえば、この人間中心主義の

もたらした善の方が絶対大きいと私は思っています。正しい人間中心主義や

正しい普遍主義は人を自由に向かわせます。すごく単純に考えても、たとえ

ば日本人で、別に権力者の家系に生まれたわけでもなくしかも女性である私

が、今こうして自由にものごとを考え、書いて発表できるということ自体、

西洋近代理念が良くも悪くも世界に行き渡っているおかげですから。

長くなったのでここでやめます。なおこの二元論については、今執筆中の『犬の帝国と猫の共和国』

から一部を転用しました。

7小浜:2005/06/10(金) 22:25:05
B16の対中政策について
お久しぶりです、こんにちは!
竹下さんのB16へのフィーバーぶり、楽しく拝見しています。
さて、しばらく前、B16は台湾との国交関係を見直して、
中国との国交正常化へとシフトさせていく方針だという
ニュース記事を読みましたが、この動きはどのように
解釈されますか?

8sekko:2005/06/12(日) 05:14:56
ヴァティカンと台湾
 JP2 が逝去したとき、中国の国営TVはニュースを流しませんでした。ヴェトナムもそうです。その後、中国政府は、一応哀悼の意を伝えましたが、台湾のヴァティカン大使が葬儀に招かれたことに抗議して、葬儀には出ませんでした。実のところ、ヴァティカンは、B16の前、JP2時代にすでに、中国との国交正常化の方針を打ち出しています。
 ヴァチカンとの公使の交換、そのおかげでローマに外交官を駐在させておくことのメリットは、台湾にとって、とても大きなものなので、私も個人的には、続けてほしいと思います。しかし、問題は、やはり、今の台湾の憲法が、共産党から逃げてきた外省人による中華民国憲法であり、この憲法が、台湾が中国本土を領有しているという限り、他の国が、中国と台湾の両方と国交を結ぶのは、矛盾しているといわざるを得ません。共和党のブッシュが政権にいるうち、オリンピックの前に、台湾が、実情に合った台湾国の憲法を施行して民主的に独立を図ることが望ましく、ヴァチカンも、中国との国交正常化の条件として、台湾を武力制圧しないことを強調してくれていればいいですが。中国国内には、多分日本より多い隠れカトリック信徒がいるので、彼らを今の状態から解放して、愛国教会とも折り合いをつけるという課題ばかりをヴァティカンが優先させるとしたら残念です。中国の覇権主義に対抗するには、東南アジア諸国と独立台湾と日本がいい意味で連携することが必要だし、それは、対韓国や北朝鮮と違って、メンタリティ的にも可能だと思うのですが・・
 私にはフランスで知りあった台湾や中国の友人や知人もいて、台湾問題には大いに関心があります。昨年末の立法委員選挙で与党連合が敗北したのにはがっかりしました。台湾のヴァティカン大使らが外交能力を発揮することを望みます。ヴァティカンは、経済や政治や国益の思惑なしに、平和を何よりの優先事項として国際関係を見てくれる唯一の外交大国なのですから。

9:2005/06/19(日) 08:16:12
ロザリオに付いて
ルネッサンスの絵画集を見ていて気が付いたのですが、あの頃の絵に登場する聖職者達はロザリオを付けていませんね。またいろいろな絵にも十字架(磔刑図の十字架は別として)はほとんど描かれていないように思いました。いわゆるロザリオはいつ頃、何がきっかけで作られたのでしょうか?(多分、ロザリオの祈りができた時でしょうが・・)

10sekko:2005/06/19(日) 20:20:21
(無題)
お答えしまーす。ロザリオはもともと、聖母像の頭に、祈りひとつにつきバラひとつという計算で人々がバラの冠を
かぶせたことから始まり、12世紀くらいにはあったそうです。イエスの茨の冠の棘のない部分というか、それに拮抗するものだったんでしょうね。それから、ロザリオの祈りというものが出来て、バラ冠のロザリオが祈りの回数を繰っていく玉の輪になったのでしょうね。フランス語でロザリオを意味するシャプレ(chapelet)と言う言葉も帽子のシャポーと同じで、聖母の頭飾りから来ています。13世紀だかにドミニコ会を創設した聖ドミニコが、ロザリオを修道服の腰の紐にいつもぶら下げておくことを規則にしたので、ドミニコ会系の修道士をあらわした絵にはロザリオが描かれていることがあります。アクセサリーのように庶民にも蔓延したのは18、19世紀ではないでしょうか。ルルドのマリアが「出た」頃には、マリアが自分でロザリオを手にしていても違和感がなくなっていたのですね。「そんな新しいもの持つなよ」と突っ込みも入れたくなりますが・・・
 私がサウジアラビアで買ったイスラムの数珠(らくだの骨製)は11個球が3つで33玉でした。これを3回やると、アラーの99の名を唱えられるわけです。これを一生やってたら、天国でやっと教えてもらえるという100番目の名が知りたくてうずうずしちゃいますよね。でもいわゆる数珠はヒンズーとか仏教の方が古いでしょう。祈りと、手の中でころころ玉を繰るという感触は相性がいいんでしょうね。

11Hiromin:2005/06/21(火) 11:04:59
生命は脳にある?
竹下様。
カトリック・ウォッチングのコーナー、いつも新鮮な思いで拝読しています。
ところで、最新の記事の中に「受精卵はどこが脳になるか決まってないから生命とはしていない」というくだりがありますが、それが私にはちょっと不思議な感じがしました。私の中では生命(とか魂)って、必ずしも脳の中にはありません。私をもって日本人の典型とすることはできませんが、でも、そこのところに多少の違和感を持つ日本人は多いのではないかと思います。ヨーロッパの人にとってはやっぱり“脳”が生命活動の中心なのですか?

12sekko:2005/06/23(木) 18:49:20
受精卵について
 ごめんなさい。私の言葉が足らなかったようです。言いたかったのは、どこが脳になるかの体軸の決定によって、他の全ての器官の場所も決まってくるということです。受精卵は、分裂して胚細胞になりますが、それが試験管の中での人工授精の段階では、その後どこに何が出来るのかわからず、それを決定するのは、受精卵を子宮に戻して着床したときだということです。つまり、子宮という環境のない受精卵は、それが志向している有機体を実在可能態として身体化する能力を自己のうちに持たない、確かに生きているが、魂を入れられた生命体ではないというのです。
 ショウジョウバエとかの受精卵ではそういう位置信号が卵胞細胞から発せられますし、鶏では体軸は重力によって決定されるそうです(円盤状の胚が垂直線に対して45度の角度で卵黄の上に浮動し、その下方の突端が頭になる)。哺乳類では、卵が母体を離れないので、早い時期における体軸決定の必要がないそうです。だから、試験管の中でもう細胞が64分裂してても、その一部を任意に除去しても欠損が埋め合わされ、しかし一度体軸が出来たら、欠損は修復不可能なのです。
 カトリック教会は、人は受精の瞬間から生命であり妊娠中絶は罪といってたのですが、1996年にイギリスで、冷凍していた3000の受精卵が廃棄された時に、それが堕胎かどうかが議論されました。結局、(体軸の)位置信号のない受精卵はまだ胚とは言えない、形成原理を受容する能力はあってもそれを生み出す能力はないからというのが合意になったようです。このレポートは、日本語では、上智大学神学会の『神学ダイジェスト』(1998年冬号No85)で読めます。ちなみに、この号は、生命科学と倫理の特集ですが、すばらしい論考がたくさんあります。
 そんなわけで、脳が生命の中心というより、生命は環境とともにはじめて成立するという、含蓄ある話です。
それにしても、人工受精卵の廃棄が子宮外堕胎に相当するかどうかなんて、カトリック神学者以外にとってはどうでもいいようなことを真剣に考えて、詭弁を弄するのかと思えば、最新の発生学の成果を駆使してここまで深い洞察に達するイエズス会、あなどれません。

13今紫:2005/06/24(金) 22:58:34
はじめまして
拝啓、竹下節子先生。はじめまして今紫と申します。私はカトリックの洗礼に向けて勉強しています。先生の著書を拝読して聖人や聖母マリアの話に興味を持ち益々惹かれてゆきます。

ところでお聞きしたいのですが竹下先生、『ムー』という雑誌はご存知ですか? 今月発売された中の記事に「ローマ教皇」の特集がありました。内容によると、聖マラキ(アイルランドの司祭)がローマ教会、および教皇の未来を予言したことが書かれており、教皇レオ13世がイエズスと悪魔の会話を聞いて恐ろしい危機を抱いて祈りを作調しミサで披露した話と、聖ピウス神父が前教皇ヨハンネス・パウルス2世の誕生を予言したりと様々なことが書かれていました。

それと、日本も含めてカトリック教会が今、フリーメーソンに支配されているという噂も聞きますが先生はどう思われているのですか。私もそれが心配でなります。

もう一つ、ファティマの予言でフリーメーソンの活発、社会主義の台頭が述べられていますが私は(これはあくまで私の憶測ですが)こう考えてしまいます。聖母はひょっとすると、彼らのほかにキリスト原理主義、イスラム原理主義、エホバの証人、モルモン教、オウム真理教、リトル・ペブル、ラエリアン・ムーヴメントなどのカルト、そして、日本を中心に世界で「総体革命」の名の元で繰り広げ、政治、経済、芸能界、司法などに力を伸ばしている日蓮正宗(これも日蓮原理主義に属している)から分離した創価学会のことを警告しているのではないでしょうか? 信者の方には申し訳ないがもし、それが誠であれば私はそれに対し震えが泊まりません。そう考えるのは私一人だけでしょうか・・・・。

14sekko:2005/06/25(土) 08:50:11
心配ないです。
ご愛読ありがとうございます。もしこのご質問の趣旨が、そんなことはないですよ、と私に言ってもらって安心してカトリックの共同体に入りたいということであれば、とりあえず、大丈夫ですよ、と申し上げます。
 今日、中公文庫から、『ローマ法王』を出しました。文庫用の後書きも入っているので、お読みください。1998年に朝日新聞社から出した『ノストラダムスの生涯』という本のなかで「聖マラキの予言」について書きました。聖マラキは実在しますが、予言は400年もあとに突如現れて、ローマ法王の選出にまつわる権力争いに使われました。他にもいろいろなエピソードはありますが、すべて噂の域を出ず、信仰の問題とは関係がないので、お話として読むか、気になるならまったくその手の雑誌や本から遠ざかったらいかがでしょう。
 私は学生時代に、多分雑誌の特集だとかを読んで、突然、関東大震災の再来が怖くなって、こんな不安の中では暮らせないと真剣に考えた時期があります。80年代に世界各地の聖母のお告げを収集して、本当に聖母かどうかというより、これだけ多くの人が終末観にとらわれているなら、やがて核戦争が起こるに違いない、と確信してオーストラリア移住を計画したこともあります。99年の7月に東京にテポドンが落とされるという有名な噂がネットに広まったときは、ちょうどその日に東京で講演を頼まれていたのをキャンセルしようかとも思いました。
 幸いどの時も、正気に返って日常生活を続けましたが、私はこのように、ネガティヴな予測だの流言蜚語などに一時的に迷わされた経験もあるので、陰謀史観に恐れる人たちを笑えません。しかし、フリーメイソンなどの陰謀史観は、底に差別主義や排他主義が流れていることが多いので、まず信じないで退けてください。この手の話には固定ファンがいて、売れるから再生産されるわけですが、はまるタイプでまだはまっていない人は気をつけてください。すでにはまっている人や自分でそういう話を作っている人は、私のこのサロンに来てくださる方にそういう話を広めたくないので遠慮してください。
 特定の話題で、自分でいろいろ批判的に検討した末にどうしてもここが分からないというものについては答えます。でもたとえば陰謀史観を説く人には、同じ土俵で反論出来ないことが多いです。単純に言うと、「陰謀があった」というので、「その証拠は」と聞くと、「それが巧妙に隠蔽されているからこそ陰謀なのだ」、という感じですから。
 私はこの世に陰謀がないとは言いませんし、宗教原理主義が世界の平和を脅かさないとも言いません。でも、多くの場合は、そんな不安を口にして再生産しても、まず害の方が大きいです。個人の生活の周りには、もっと緊急でかつ、自分の努力や采配で回避したり改善したりできる危機や問題がたくさんあると思います。また、私達を直接必要としている人が近くにいるかもしれません。そんな堅実な生活感覚を失わせるような言辞は批判的に管理なさることがお勧めです。
 それにしても、いろいろな「警告」を同列に扱わずに、何が本当に危険なのか、それに対して何が出来るのかを見極めることは簡単ではありませんね。キリスト教風に言うと、それこそ聖霊が今紫さんを、より不安のない方へと導いてくれますようにお祈りします。

15Masako:2005/10/12(水) 13:43:01
現代のグノーシス
正教の図像表現については私も古典期のギリシャと正教化ギリシャの文化の
断絶を以前から非常に奇妙に感じていました。この点はまた別途ゆっくり考えてみたいのですが、竹下さんのレポートを読んでいて、アンティセミティズムに見られる
ような正教世界の負の側面に新に目を開かれました。ちょうどその頃、クルド人難民
(だったかちょっと記憶が定かではありませんが)の親がわからない子供を
ギリシャの片田舎の村のコミュニティで受け入れて、その理由が
「正教の洗礼さえ受ければ何人であろうとわれわれのコミュニティの子供だ」と
言ったという村の長の話をある人から聞いて、正教世界の懐の広さに関心した
ところだったからです。つまりこれはウラを返せば、正教以外のものに
対しては非常に排他的になるということですからね。

どうも我々(というか私は)近代主義や合理主義にむなしさを感じる
あまり、非近代的なものの暗部に対して甘くなるという欠点があることを
最近非常に感じています。

さて、表題なんですが、かつて政治学者の永井陽之助氏が20世紀をこれほど
悪くしたものとしてグノーシス主義を挙げていました。永遠に変わらない「本質」
顕現主義がその根底にあって、アクティブに現れれば地上に理想王国をつくろうという
大衆運動になるし、ネガティブにはわれわれの見ている世界はすべて幻である
という現世否定のシニカルなものとなると言っています。その極端なものとして
レーニンのボルシェビキ革命やナチズムが挙げられていますが、グノーシスの特徴は
人間世界を物理世界と同じようにパズルとして見る、それを解く解法があり、
その暗号解読のキーワードを発見すればこの世がよくなるというビジョンが
根底にあるという説明です。

私のグノーシスのイメージは永遠の真理、隠された叡智を一握りの
人たちが持っているというエリート主義、秘教主義的なものですが、
−ここで話がちょっと飛躍しますが−もし竹下さんが難病に
かかって苦しんでいて、その力を持った人があらわれてその病気を半分ぐらい
実際に治すことをしてくれた場合(秘教的なやりかたで)、
どうされますか?変な質問ですみませんが、たとえば代替療法のあるものが持つ負の
側面がグノーシスと関連しているような気がしての質問です。

16Sekko:2005/10/14(金) 23:40:22
グノーシスについて
 「代替療法のあるものが持つ負の側面がグノーシスと関連しているような気がして」というところは興味深いですが、質問との関連がいまひとつ分かりません。フランス語でagnostique といえばほとんど無神論と同義なので、誤解されると困りますが、私は基本的に、「超越的なもの」は感じてもいるし認めてもいるし、必要だとも思っていますが、地上的な形では私には理解不可能だとも思っているので、理解しようとも思わず、アグノスティックで暮らしています。だから「グノーシス的知識」を所有している(と称する)人を探そうとも頼ろうとも特に思いませんし、自分の中の「神的なもの」を抽象しようとも発展させようとも別に思いません。ニューエイジ思想と親和性があるせいか、グノーシス系カルトがあまりにも多いので、警戒心の方が強いです。私にとってはグノーシスの代替になっているのが理性とか知性です。信仰がそこに加われば磐石ですが、信仰の方は、私からはアクセスできないけれど、向こうからはアクセスしてくれている呼びかけを認めることで知性に意味ができる、といったものでしょうか。
 それで、もし秘教的スキルを持った誰かに難病を治してもらったらということですが(半分じゃやな気もしますが)、もちろん感謝すると思いますが、それでその人を宣伝しまくるとか、人に勧めて回るとか、帰依するということは多分ないと思います。ただし好奇心に駆られて、他のケースを観察したり、その人のウオッチングを続けたリ、「意味」を探ろうとはするかもしれません。これまで、難病はないですが、身体的な危機に陥った時が二度あり、その時に思ったのは、何とか治りたいとかこれが治れば魂を売り渡してもいいなどということではなく、これが楽になるなら死んでもいいとか、こんな状態だったら生きている意味はないなあかのどちらかでした。同時に、こんなにあっさり生の執着がなくなるなら、本当に死ぬ時も、割と楽かも、と自分で驚いていました。
 私も痛いのや苦しいのはもちろん嫌ですが、薬や手術もほんとは嫌だし、巡礼や奇跡のグッズや奇跡の療法とかにも全然惹かれません。シスターとかのお手伝いをして感謝される時には、これからもお手伝いできるように、私ができるだけ長く「頭がはっきり、体がしっかり」の状態でいられるよう祈ってくださいとはお願いしますが、そして、少なくとも何人かの方は多分ほんとに祈ってくださっているはずなので、そういう「プロ」の祈りが効かなくなればあきらめもつくかと思ってます。
 そういえば、MLにこの夏に会った人の話を書いたことがあるので、ここに一部再録します。

 「私はこの夏、癒しの超能力を持っているという男性に出会いました。能力に気づいたのは40歳で、今78歳で、生きているうちにそのメカニズムを私に伝えたいという話でした。そのとき、原因不明の全身の痛みに何年も苦しんでいる女性を救った話を聞きました。治療を施す前に、今までの生き方を反省して世界観を変えてもらうことが必要だそうです。それがあまりシビアな話なので、本当にそれをクリアする人なら治っても不思議じゃないと思いました。それくらい「なんとしてでも治りたい」という本人のモティヴェーションが要るのだそうです(軽いのは簡単に治せるらしいのですが)。私は「自分が
苦しんでたとしたら、こんなおじさんに説教されて自己批判するような気力はないだろうな、」とすでに負け組の気分で聞いてました。同行した友人のTVのディレクターは腱鞘炎がひどいからといってその場で治してもらってました。私も、痛いとこはなかったのですが、しいて言えば、唇にできたメラノーゼ(老人性のシミ)をとりたいけど、といいますと、水の入ったペットボトルを開けて手をかざしながら彼に携帯で電話したら、水にエネルギーを注入してあげるから、それでシミをなで続けると必ずとれる、と言われました。ほっとけば真っ黒になる、完全に真っ黒になった人も治したことがあるとも言われました。広がったらメラノーマで癌の一種ですから、ちょっと違うと思いましたが。
それで私がどうしたかと言いますと、ご想像通り、シミが消えなくても別にいいや、と思って、携帯に電話しなかったのです。せっかくエネルギーを入れてもらっても、毎日手当てするのも面倒だし、そんなに努力する気があるなら、私のところにはルルドの水やザムザムの水や各種聖水「癒し水」がすでにいろいろあるのですから。
(顔の欠点がすべて消える確かな方法は鏡を見ないこと、とも言われてますし)
母には、自分が使うからやってもらっといてよ、と言われたのですが、母は昨年病気をして以来、自分の健康が世界の最優先事項になってしまっていて、「生き方の反省」なんて不可能な自己チュウのモードで生きてるので効かない気もしたので。でも、母はルルドの水で毎日マッサージをしてるというので、モチヴェーションは高いかもしれません。まあ、何をしても治る人も治らない人もいて、たまにすごい根性で病や痛みをねじ伏せる人もある、といった感じでしょうか。ちなみに母は西式健康法の信奉者で、幼いころ右手を心臓の上に45分上げているという「行」をして、それから右手を上げるたびに「電気がきて」、それで子供たちのちょっとした傷や痛みをいつも取ってくれたそうです。そんな行をしたから神経がおかしくなったんじゃないかとも思えますが。」
 というものです。この夏ご親切に提案してくださったNさん、ご期待に添えなくてすみません。でも、絶対治せるという人に会ったり、そういう話を聞く度に、私が感じるのは目くるめくような不公平感なのです。そういうチャンスもなく苦しみながら死んだ信仰深い人とか、痛い治療を繰り返してよくならず絶望したり、医療過誤や薬物中毒の被害を受けた人とかのことが思われて。
 それに、癒しの能力がある人のことを認めると、呪いというか、人を病気にする能力がある人のことも認めざるを得なくなります。まあ、癒しの方が、相手に治りたいというモチヴェーションのレセプターがある分、能力が発揮しやすいと期待しますが。もし、私に突然、癒しの能力が授けられたら、不公平感に苦しめられながらも、できるだけたくさんの人を助けたいと思いますが、そこにセレクションの観点が入ってくるかもしれず、まあ、だから、そんな誘惑につながる能力は私にはない方がいいと思います。そして、そんな癒しの恩恵を受けられない大多数の人たちの側に立って、それでも、生には何か超越した意味があって、痛い人と痛くない人、苦しんでいる人と苦しんでいない人、そして多分死んだ人と生きている人の間にも同じ風が吹き渡っていると語っていければと思います。あまり返事になってないかもしれませんが、また他の皆さんの考えもお聞かせ下さい。

17Masako:2005/10/16(日) 23:56:44
癒しの超能力
竹下さん、お返事有難うございます。私の質問はちょっと変でしたね。実は、身体の不調からたまたま受けたある代替療法がたしかに効いて、その結果自体はかなり快適なものだったのですが、そのプロセスがどうにも秘教的なもので、続けるべきかどうかジレンマに陥っていたという個人的な事情からの質問だったのですが、難病云々という極端な設定をしてわかりにくくなってしまってりました。

この件については自分の中で結論が出てもうやめることにしていたのですが、竹下さんのお返事の
最後の部分「生には何か超越した意味があって・・・」以降がそれをもう一押ししてくれたようです。お世辞ではなく、こういう聡明な友人の一言を聞ける幸せを感じました。

当該代替療法はインドの伝統医学アーユルヴェーダで、おそらくアーユルヴェーダ医にもいろいろなスクール、タイプがあるのでしょうが、たまたまというか運悪く、私が関わったのが今になって気づくとかなりエソテリックなもので、これは相当やばいんじゃないかと思うようになった次第です。そしてそれでも治療を止められないのは単に効果があったというだけではなく、私の中にも「この病気にはどこかに完全解があるはずだ」といったような気持ち、また、自分の中に「病気の状態から健康な自分になりたい」という思いがあり(これは自然なことではありますが)、そこに完成型を前提とし、志向する不健全さを発見した次第です。

そしてもちろんその私の志向が引き寄せたということもいえますが、相手方の志向にもそれが強くあり、アーユルヴェーダ医学というのは心身ともにバランスがとれた状態を目指すものではありますが、いろいろ歴史等を見ていると、エントロピーの法則に逆行するような若返りの医学という
面も非常に強く持っているのではないかということに気づきました。これはマヤラジャなどの治療が中心だったことを考えればうなづけることです。

こういったものが大衆化によって今は日本でもアーユルヴェーダはかなり広まっています。いわばマハラジャ対象のような手のかかる治療が大衆化されOLにまで流布し、あくことなき健康とアンチエイジング志向の波に乗ってやってきているのが今の日本なのかもしれません。

そして私は(あくまでも私の関わったアーユルヴェーダ関係者限定ですが)彼らの中に到達点としての理想型へ患者を当てはめようとする志向という意味でグノーシス性を、また何か非常に乾いていて非人間的なもの、つまり治療対象とされた私へのコンパッションを欠いたものを感じたのです。それは普通の日本の西洋医でよくいる感じの悪いよくない医者というのと全く違う、ある種哲学的不快さでした。ここでまた飛躍してしまうかもしれませんが、ヴェーダ・ウパニシャッド哲学というのはそんなものなのかもしれないと感じています(あまり勉強したことがないので断言は危険ですが)。うまく表現できませんが、今回の体験を通じ、いままであたりまえのように思っていたlove とかcompassionという西欧キリスト教世界の価値を再発見した気持ちです。

18Sekko:2005/10/20(木) 05:32:27
それなりに
 なるほど、そういうわけだったのですね。哲学的不快さというのは、すごいですね。でも、ある意味、傷ついてる人は感受性が強くなっていて、直感的にそういうことを見抜くのかもしれません。フランスで仏教の講義をしてるフランス人と話したときに、慈悲をcompassion と訳すのはよくない、キリスト教では、イエスがともに苦しんでくれるからcom+passion でいいが、仏教では、苦しみが取り除けるのだから、もっと優れているのだ、と言われたことがあります。でも、よく聞くと、苦しみの原因になっている執着を取り除くとか、痛みのある実相の世界を虚と認めるというような、精神のアクロバットがあって、今ここで苦しんでいる人の多くはそんな努力をする気力がそもそもあるだろうかと疑問に思ったことがあります。イエスが一緒に苦しんでくれるというのも、ただのレトリックだと思えるかもしれませんが、同病の体験談を読んだだけでも、気が軽くなったりすることはありますから、誰かがずっと痛みに寄り添ってくれていると思えるのは、悪くありません。「希望は捨てずに、期待はするな」が、最近の私の生活哲学と前に書きましたが、「期待をするな」が不幸の回避の第一の智恵かなあと思うことがよくあります。
 ある状態が、悪化したとき、以前できていたことができなくなったとか、何かが壊れたとか、傷ついたとか、失くしたとかいうとき、まあ、できる範囲で部品を変えたり、修理するのはもちろんいいにしても、どこかで、「別に前のとおりに戻らなくてもいいじゃないか」と認めるのは、大事なことだと思います。確かに人間の自己イメージには慣性が働いていて、たとえば「若くてきれいで健康で」あった自分のイメージを結構引きずっているのに実際は多くのものが変化しています。そのずれも把握しないうちに、世の中には「もっと美しい、もっと能力のある本当の自分があるはず」などという言辞があふれているので、多くの人は、「前にあって今はないもの」の幻想と、「あるけれどまだ見えていないもの」の幻想の狭間で、「あるがまま」を2重に収奪されているのではないでしょうか。
 私の「あるがまま」「とりあえず」「それなりに」快適にやっていくお手本は、やはりうちの3匹の猫たちです。あちこちからたたき出されても、ティッシュ1枚落ちているのを見つけたら、とりあえず、その上に丸くなって、それなりに満足。2匹がいがみ合い、すごいストレスの基に生きているはずで、こちらもはじめは何とか昔の平和を回復しようとして、ありとあらゆることをやり、疲れ果て、もうあきらめてしまって、ふと見たら・・・別に解決したわけでなく、悪いままなんですが、なんと言うか慣れてしまって、
別に開き直ったとかいうのでなく、抵抗するのをやめたら、別の見え方もあるし、そのうちその実態に近い低レベルの「自己イメージ」ができて、いやあそれなりに落ち着いて、新たなちょっとした喜びとかもあるもんだ・・・というのが私の現実です。というと、あまりにもさえませんが、そこはそれ、それなりに、エントロピーを上げられるところは上げているんですよ、ほとんどニューロン・レベルだけですが。でも、外部が崩壊していくと、結構内部は充実していって、悪くないですよ。とにかく、paraitre から etre へ、
これが「真実があなたを自由にする」ってことの意味じゃないかなあとか思います。

19:2005/12/04(日) 13:38:25
全免償
今日ミサにゆきましたら、教皇B16が12/8、無原罪の聖マリアの祝日にミサ,告解、教皇のための祈りをすると、全免償(有限の罪を全部許す?)を与える、と言われたとききました。まるで、中世にかえつたような、時代遅れの宣言におどろきました。また一方妙に懐かしい感覚もあり、いつてもいいなあ、そういう機会もないと、教会にゆかないし、なんて考えもうかびました。竹下先生は教皇の発言をどのようにお聞きになりましたでしょうか?お聞かせいただきますと,幸いにぞんじます。

20Sekko:2005/12/05(月) 23:11:54
全免償について
 実は日本語の用語はよく分からないのですが、おそらく、フランス語のIndulgence pleniere 昔で言ういわゆる免罪符だと思います。それなら、2000年の大聖年のときには1年中やってたと思います。金で買える免罪符はさすがに反宗教改革時代になくなりましたが、金でなく愛によって免償できるということになり、完全に消えたことはありません。第2ヴァチカン公会議前のフランスでは、色々な特別の祈りのカードがあって、これを祈れば30年の免償とか書いたのがたくさんあります。罪障消滅の後に課せられる償いの部分が大きすぎ長すぎて、免償なしには一生かかっても償えなかったのですね。でも、第二ヴァチカン公会議以降は、償いが軽くなり、告解に行く普通の人には、事実上、すぐ償えるか、あまり感心を抱かれなくなりました。でもパウロ6世とか、JP2は、この全免償を、多分、信者のコミュニオンの道具として復活させたかったように思います。つまり、個人の罪と罰とかではなく、免償と一人一人の回心が、少しずつネットワーク全体を強くするようなイメージ、です。
 全免償がもらえるような機会に指定された場所で指定された手続きを経て祈ると、そこに参加できなかったすべての人に少し手をさし述べることができる、と思います。大聖年の免償も昔はローマのどこそこの教会とか決まっていましたが、今は、世界中で、司教が指定した場所でもOKとなっています。パリでは、そこかしこで、ここの教会は全免償認定とか書いてありました。私は、時代遅れというより、場所にとらわれなくてすんで、民主的というか、コミュニオンのヴァーチャル力が充実したなあと思いました。
 この時代、心のべクトルを、謙虚に他者に向けることができるような機会があれば、どんな手段でもあり、と私は思います。今のカトリック教会にとっては、免償は金儲けでもなく、脅しでもなく、自らの栄光の確認でもありません。多くの人が、現実のあまりにも物質的な世界から、少しでも頭を霊的な方に向けて、秘蹟の中で、他の人との連帯を感じあえるチャンスがあるなら、アメを差し出すことがあってもいいのではないのでしょうか。少なくとも、ある種のカルト教団が、こうしないと地獄に落ちるとか世の終わりだとか行って、恐怖のムチで、人を宗教に引っ張るやり方よりも健全です。
 今年はパリの不思議のメダイのチャペルの御出現の175年の聖年で、その最後の日が12月8日です。楽しそうなので行こうかなあと思ってます。ともかく、全免償を、なんだか、自分の罪悪感や不幸感に対して、お得感のあるようなものとして捕らえず、ましてや厄除けや願望成就みたいなものとは混同せず、思いを他の人と分かち合うこと、というのが、今のカトリック教会の狙いだと私は理解してます。

21:2005/12/08(木) 16:29:17
お返事ありがとうございました。
「心のベクトルを謙虚に他者に向けるような機会」「思いを他の人と分かち合うこと」という発想にうなりました。日本の場合全免償という言葉自体、半世紀前に信者になつたものにしか、つうじません。これで他の人とおもいを分かち合うことが、とにかく、教会で出会う機会がふえる、といつたことから、できるのだとすると、確かに意味のあることかなあ、とおもつたことでした。黙想会にでても全免償になるときくと、いつてみよう、とおもえてくるのですから、効果はあるのですね。ともかく、教会に行かない私が次の日曜の黙想にはでかけることになりました。友達が行こう,行こうというものですから。やはり他者とであい、心をわけあう機会になるのですから、全免償は少々、薬みたいなものかな、とおもいました。ただ、カトリツクが極端に少ない日本ではカトリツク内の少数にしか、こんな言葉はつうじません。これもバチカン内思考のようにおもえてくるのもたしかです。先生の思考の表現力には舌をまきます。だから、お礼もしどろもどろな私をおゆるしください。

22hiromin:2005/12/24(土) 12:02:36
聖母マリアについて
竹下様。
ちょっとおかしな質問なのですが。。。
この間キリスト教に関する本を読んでいて、ふと思いついたことがあります。
それはマリアさんはいつから聖処女になったのだろうか、ということです。
というのは、イエス・キリストがもし人間の男女の子どもでないなら、つまり人間世界の父親の子どもでないなら、
キリストは神の遺伝子を純粋に受け継いだ人で、変な言い方ですがマリアさんはお腹を貸しただけで、マリアさんの遺伝子も入ってないのではないのか?純粋な神の子であることにするためにマリアさんは聖処女でなければならなかったのではないか?
と、妄想したわけです。これは、マリアの母もまた聖処女であった、という話をどこかで聞いたことと合わせてそう思ったわけですが。。。
マリアさんが聖処女であるというのは最初から(キリストのいた時代から)言われていたことなのですか?

23Sekko:2005/12/26(月) 08:56:02
聖処女の話
 面白い質問です。というか、普通は、イエスは少なくともマリアの子供であることは間違いないといわれているので、もし遺伝子が片方だけなら、マリアの遺伝子は少なくとも受け継いでると思われています。だからこそ、マリアは母親の胎に宿ったときに現在を免れていたとかいう理屈付けをみなが考えたのですから。
 そして、母親の遺伝子だけなら、当然女性ですよね。イエスが男であったことは、Y染色体を持っていたことで、それはマリアから来ません。これだけでも両性生殖だということが分かります。トリノの聖骸布やオヴィエドの布や、アルジャンターユの長衣など、受難関係の聖遺物に付いた血痕はみなAB型で、これも、両性生殖でしかあり得ません。
 でも、キリスト教の関係者は、このことをあまり気にしてないと思います。マリアが処女じゃなかったとか、イエスがマリアとヨセフの子だったとか、そういうことが「ばれて」、それを隠すための陰謀とか刺客とかいうのは、安手のミステリーにはありがちですが、大事なのは、神が100%人間になってくれたというところで、人間ならAB型もあり、両性生殖も当然なので、「それがどうしたの?」ってとこもあると思います。たとえていえば、カトリックで聖体がイエスの体になるといっても、大事なのはPresenceプレザンスであり、聖体の成分を分析して「小麦と水」であっても困らないのと同じです。ワインに赤血球が入ってなくても平気。
 聖処女信仰は2世紀頃が起源のようで、教義の変遷については私の『聖母マリア』(講談社選書メチエ)とかを読んで見てください。「合理的解釈」をしたいなら、日本でも子供は神からの授かりものというように、1世紀のユダヤ世界では、子供のことを「神の子」と呼ぶことは珍しくなく、父母がそろっていて同時に神の子というのは矛盾しないという人もいます。でも聖処女信仰は、単に「単性生殖」とか、マリアと聖霊の合体だとかいうところから、受胎の時も出産のときも出産の後も処女だったとかエスカレートするので、もうそうなったら、「合理的解釈」は不可能です。
 でも、ここが、実は、キリスト教の面白いところです。エデンの園で、神のいうことをきかなかったアダムとイヴだとか、堕落する天使とか、悪いことばかり繰り返す人間だとか、外から見てると、「全能の神なら、もっと被造物を管理しろよ」と突っ込みを入れたくなるほど、神は、なぜか「自由意志」を尊重することになっているのです。
 ある人が誰かに自分への愛を強要しようとしたら二つの方法があるとアベ・ピエールは言います。ひとつは、一種のマインド・コントロールで、依存関係を作り上げること、お前は私なしではだめなんだよ、という類のもので、カルトの教祖とか、親子やカップルにも見られます。もうひとつは、人が愛さずにはいられないような完璧な存在であることが明らかな場合。もし、全能で愛である神が、白日の下にそれを表したら、人間は、神を愛する他に選択肢がありません。
 しかし、人間の自由意志にこだわる神は、だからこそ、ちょっと間接的に、身を隠しているというのです。そして、この暗闇の部分が、信仰を必要とするのです。神を触ることも見ることも直接知ることさえなく、それでも、信仰の中で神を愛することが可能だというのが神の望んだ人間の偉大さであり、それが実現するには「完全な自由」が保障されている必要があります。神は「自由な選び」を創造に組み入れたのです。専制君主とか、さまざまな暴力装置を必要とする国家や、カルト教団の教祖や、愛を強要する母親や恋人などと全然違います。多分、自由は、真実と関係があるからでしょう。「真実は人を自由にする」というのもそういうことではないでしょうか。
 だから、たとえば今のカトリックが、「処女受胎」を含む、検証不可能なさまざまなディスクールを掲げながら、それを万人に納得させるために無理につじつまを合わせることなく、AB 型でも、両性生殖でも単性生殖でも細かいことにはこだわらない、グレー・ゾーンは多い、でも自由意志で、まとめて信じてくださいね、と言っているのは、キリスト教的な神のやり方を踏襲していることになります。私は、個人的には、好きです。ご利益があるとか、良いカルマをつんで、良い来世を目指すとか、すごく偉い超能力の教祖様がいるとか、ましてや信じなければたたりがあるとか言われて、「信心」に誘われるのではなくて、まったく自由だと言われたいのです。
 アベ・ピエールは、ただし「人になった神」というのを一度信じたら、その人(キリスト教徒)には、イエスに倣う一種の責任が生じてくると言います。聖母マリアの話を信じる、という人は、自分や自分の愛する子供までを他者のために捧げたマリアの生き方に何らかの形で共感して寄り添っていく義務を自由に選択したということかもしれません。たとえば、自分や自分のエゴの投影である子供よりも優先される他者があり得ることを認めるとか。
 神が人間の「自由」を尊重したおかげで、人は悪からも逃れられずに苦しみまくっていますが、自由な信仰が他者の苦しみへと視野を広げてくれたら、苦しみは分かち合いへのトランポリン(これもアベ・ピエールの言葉)にもなると言われます。
 話が広がりましたが、そういうわけで、キリスト教は別にイエスが「人間の男女の子でない」と言ってないのに注意してください。まあいろいろな教派的、文化的理由でマリアが神格化していった歴史はありますが、人間マリアの子というのは大体のコンセンサスなので、マリアは別に代理母ではなく、イエスの少なくとも半分の遺伝子提供者だと思ってOKです。

24:2005/12/27(火) 09:00:41
お二人の会話に感激
ひろみんさんの質問はカトリツクである私をうならせました。なにも考えずただ、信仰が先にたつたものの盲点を指摘してくださり、考えがひろまりました。竹下先生の回答は見事というほかありません。『自由は真実と関係がある』『『信じるということは義務を自由に選択したということ』これは実にすつきりした、回答で自由意志で信仰を受け入れた、そのこと自体に神の愛と私に課せられた、責任を強くかんじました。そして、そんなすごい責任を果たす目標をあたえてくださつた、神に新たな感謝がわきおこつてきました。全国のかたに、ひろみんさんと竹下先生の問答を読んでいただきたいとおもいました。

25Miki:2005/12/28(水) 00:25:41
クリスマス1
竹下さん、お元気ですか?もう今年のクリスマスも終わりました。実は私、クリスマスのちょうど一ヵ月前に虫垂炎になって、(それもあまり軽くない)順天堂大学付属病院で手術したのです!その時入院手続きの書類に、順天堂関係の知り合いがいれば書いてくださいと書かれてあったのでリーズの名前を書かせて頂きました。そのせいかとても親切にして頂き、手術には副院長も携わったんです。ありがとうございましたとリーズにお伝えください。このサロンにいらしてる人たちより、とても低レベルな質問ですが、クリスマスって本当は何をするべき日ですか?

26Miki:2005/12/28(水) 00:43:17
クリスマス2
(続き)日本ではクリスマスは社会現象といってもいいほど恋人達のイベント化してます。今年も好きな人とすごせなかった私。そのせいかあんなにメダイユのマリア様に助けて頂いてるのにクリスマスなんてなくなれ!って思ってしまいました。今ではイエス様に申し訳ない思いでいっぱいです。クリスマスってカトリックでは何をするべき日なのですか?どんなふうにお祈りして、どんなものを食べるのかなどさっぱりわかりません。チキンを食べるのはキリスト教の教えですか?私はクリスマスに対して疑問だらけです。よかったら何か教えてください!

27Sekko:2005/12/29(木) 14:30:14
クリスマスについて
 今、日本に来ているので、「チキンを食べるのがキリストの教え」って何?と居候先に聞いてみると、クリスマスにはKFCとか、チキンマクナゲットとか、がすごい宣伝だったそうで、クリスマスは「フライドチキンとショートケーキ風クリスマスケーキ」がスタンダード、と言われてびっくりしました。チキンを食べるのはケンタッキーの教えでは?
 まあ七面鳥というのはありえます。コニャックで味付けした七面鳥にマロンを飾るとか。狩が解禁されているので、ジビエもよくクリスマスの食卓に出ます。普通の若鶏は少なくて、シャポン(去勢した雄鶏)が立派で柔らかいのでクリスマスっぽいですね。復活祭と同じく、イエスの象徴である子羊も良く出ます。イヴの夜の食事とクリスマスの昼の食事と両方が家族の集まリのメインです。
 カトリックではクリスマスの前の4週間が、伝統的には肉を断って地味に暮らすみたいな期間になっていて、その間のミサでは、将来のイエス再臨と最後の審判に備えるような、どちらかというと暗いテキストが読まれます。年間の典礼のどこかで、こういう終末観を入れて、心構えをさせるのですが、これがクリスマス前というのは良くできていると私は思います。今のカトリックでは、「最後の審判は近い、悔い改めよ」と脅すというより、再臨するイエスを迎えるために、うちをきれいにしてお花を飾るような、うきうきして、ケーキを焼くような、そんな準備をしよう、という呼びかけのトーンになっています。そして、その「再臨」の禁欲期間はけっきょく、赤ちゃんの誕生という形でクリスマスに結実するので、明るくかわいく楽しいです。もともと、冬至で、太陽がもっとも低く日照時間が短くなることで、その後、日が長くなります。つまり太陽神の死と再生という古代からの祭りをクリスマスに置き換えたので、4週間の間、日がだんだん短くなり、暗くなる間に、死とか最後の審判とかに思いをはせ、それが最高に達した時に、新しい光、赤ちゃんが誕生してくれる、というイメージがぴったりです。日が冬至の21日とずれているのは、グレゴリウス歴で今の計算をするまで、クリスマスが定着したユリウス暦のヨーロッパでは25日が冬至だった名残です。ヨーロッパにいると、冬の日が短くて、日光不足性のうつ病になる人も多いので、11月末からクリスマス前までの一番暗くて苦しい時期に街にイリュミネーションが灯ることは、心理的なサポートとなります。クリスマスのあとは、寒くても、光の春というか、日がどんどん長くなるのは、生まれた子の成長のようで楽しいです。
 はじめは、33年後に無残な殺され方をすることをみんなが知っているのに、どうしてこの「幼子」をみなが幸せそうに見られるのかと疑問でした。この子は皆の犠牲となって死ぬのに。死ぬために父から送られてきたのに。花祭りのお釈迦様ならもうすっと立って、「天上天下唯我独尊」と偉そうなので、長生きすることも分かってるし悲劇性はないけれど、赤ん坊のイエスというのは馬小屋で、無邪気に寝てるだけ。不憫だと思ってもいいはずだけど、人々は喜んでいる。これは、やはり、その前の4週間における「終末」への思いを経て、たとえ終末があろうとも、いや、終末が視野にあるからこそ、人は誕生を喜び、真に生きるのかもしれないと思えます。そして喪失の予感を抱きつつ真に生きるからこそ、人は愛することもできるのです。Mikiさんに好きな人がいるということそれ自体が生の証で、生のプレゼントだと思います。クリスマスは、好きな人のため、そしてMikiさんのことを好きである多くの人達のため、お祈りしてください。 そしてそういう出会いを用意してくれたことへの感謝を、馬小屋に無心に寝かされている赤ちゃんに投影してみてください。日本ではあいにく、25日を過ぎるとクリスマスは姿を消しますが、教会などに行くとまだ赤ちゃんが飾ってあるのでは? 私は、年々、クリスマスの赤ん坊イエスがかわいく思えてきました。
 イヴのミサではいろいろな歌が歌えるので、教会の音響が良ければ、本当に楽しいです。お祈りもまとめてできるし。でもとりあえずは、「家族のお祝い」というエッセンスを尊重して、貴方を愛するご家族のためにお祈りください。まだ遅くないですよ。1月6日までは「誕生祝」はつづくので。ではよいお年を。

28古川利明:2006/01/16(月) 17:35:45
男系の起源とは
 日本滞在中は、竹下さんの知人の方とも一緒に表参道のカフェで、例によっていろいろなお喋りを楽しめて、満足しています(笑)。その中で竹下さんに伺った中に「結婚制度の起源にあるものとは」という問いに、「父親の画定である」との答えに「なるほど」と思いました。といいますのは、今、「女性(女系)天皇の論議」がウルサイですが、要するに「男系天皇の血」をこれまでに維持できてこれた最大の理由は「側室(制度)」の存在ゆえなんですよね。つまり、これまでは「オトコの天皇」は、「男子」が生まれるまで側室を何人も持って、子作りをすることができたから、「男系の血」というのは保たれてこれたんですよ。しかし、近代の「一夫一婦制」のもとでは、そんなことはできませんから、「天皇制(王政)」と「近代(の婚姻制度)」はそもそも両立しえない運命にあるんですよ。ここの部分は敢えてというか、「わざと」一連のギロンから避けているんですよね(右派・保守も、左派系フェミニストも)。これは竹下さんの領域ですけど、キリスト教にはマリアの「処女懐胎」のエピソードがありますよね。あまりうまく質問ができなくて申し訳ありませんが、そこらのあたりから「婚姻制度」と「男系」というものを斬っていったら、竹下さんの目からはどのように映りますか。欧州にまだ存続している王政のあるところもあるので、そこらあたりも睨みつつ、ぜひ、竹下さんのお考えを聞かせてください。

29Sekko:2006/01/18(水) 02:50:19
男系について
 仕事が押せ押せになってきて、じっくり書けないのですが、このテーマは確かに面白いですよね。あの時お話ししたように、「男が自分の財産や権威を子孫に継承させる」必要が生れた時に、「子孫の確定」のために制度としての婚姻がどの文化でも生れているので、要は
妊娠の管理であり、「一夫一妻」の「一夫」の部分が重要なのですね。「一妻」かどうかは経済力によるだけだったりします。あるいは「一妻」が子供を生産できない時ですね。女性の結婚はたいてい、ヴァージンロードを父親に連れられて夫に渡されるのに典型的に見られるような、「財」の移動でした。
 確かにそういう意味では、聖母マリアが処女であり続けたというのは、「父なる神」の権威を「子なる神」に移行させるためには絶対必要だったのでしょう。それから言うと、男であるイエスには、子供がいては困るという論理は必ずしも成り立ちません。イエスは「教会」と結婚し、キリスト教徒はみなイエスの子というイメージ、聖職者や修道者の独身制や「イエスの花嫁」という表現も、「一夫」が重要なのであって、「妻子の数」はどんなに多くても問題ないのでしょう。
 一神教が「一夫」への貞節をベースにしているとしたら、多神教社会では、もっと母系が残ってもよさそうでしたが、結局、財と権威の蓄積が男系を生むのですね。ヨーロッパでは、財と権威の継承権としての王家の系図はいつまでも残しているから、傍系はいくらでもあって、あまり直系にこだわらないというのはあります。フランスでさえ、今王政復古しても全然平気というか、誰が王になるかという順番は自明のものとしてあります。
 感動的だったのは、敬虔なカトリックだったベルギーの先王ボードワンで、愛する妃(スペイン人)との間に子供ができず、すごく悩んだ末、「ベルギー国民の父」となる道にたどりついたことです。一妻を守ることを、一神を守ることに重ねて霊的な権威を増幅させていき、霊的な財を増やして、弟だったか、次の王に無事引き渡すことができたという感じですね。これがサウジアラビアとかになると、部族国家をまとめるために、アブドルアジズが各部族と姻戚関係を作り、何十人という子孫がいまやネズミ算式に1万人を越す王族になって、強固な消費者のマーケットを形成し、まあ、事実上「一神」を守るというイメージも薄れ、それが、原理主義者を刺激して、という事態になっているので、ベルギーとは対照的です。
 カトリックが国教のモナコは、独身で即位したアルベール公が、他に子供もいる黒人女性と婚外子(男子)をもうけていたことが分かったのですが、これをすり抜けるレトリックも面白いものでした。まあ、ヨーロッパの王家は、王権神授説時代から、独身制の聖職者に対抗して霊的権威をいかにシェアするかというのが課題でした。
 日本では、天皇家はそのまま祭司としての権威を保持し、しかも一神教じゃないから、教会との拮抗や一神教の霊的権威の獲得のために知恵をしぼってきたヨーロッパの王家のような基礎体力がないのかも。王族の「臣籍降下」という感覚はなく、プリンセスは結婚してもプリンセスのままだし「臣籍」じゃなくて「親戚」の世界。分かりやすいのか分かりにくいのかよく分かりませんよね。他に考えることもないではないのですが、とりあえず無難なセンでやめときます。

30古川利明:2006/01/20(金) 20:52:40
いろいろと考えさせられます
 「一夫一婦制」をベースに置く「婚姻制としての男系」の根っこにあるものとして、「財と権威の蓄積」という分析は、「うーむ」と考えさせられます。結局、集約的な農業生産の開始とともに、財産の蓄積、そしてそれとリンクしている貨幣が生み出され、そこから貧富の差や統治機構、さらには「システムとしての男系」が生まれてきているんでしょうね。私の大好きなジャン・ジャック・ルソーしかり、また、レヴィ・ストロースなんかもそうだと思うのですが、そういった「文明の進展(?)」という視点から、婚姻(家族)制度をみているんですよね。本来はそうした研究を専門にしているアカディミシャンこそが、現在の「女性(女系)天皇制」のギロンに一石を投じてもよさそうなのに、例によって、「見ざる、言わざる、聞かざる」ですものね(笑)。「天皇」と聞いただけで勝手に「タブー」だと思い込んでしまっているんですから。「諸君」や「正論」「SAPIO」といった「マッチョ大好き雑誌」はそもそもああいうノリなのは、私はアレで全然、かまわないと私は思うのですが(桜井よしこ等の主張も含めて)、「世界」や「論座」あたり(のツッコミ)がヒドイですよね。フランス同様、いまの日本の左派が腰抜けなのも、こういうところにも一因があるように、私には思えるのですが(笑)

31yoshi:2006/01/26(木) 19:53:13
落ち込むこと
竹下さんでも落ち込むことってありますか。

32くみん:2006/01/26(木) 19:57:34
あこがれ
ピアニストです。フランス人にどうして日本人のピアニストはロマン派が好きなのかと聞かれ、「ロマン派に憧れているから」と答えようとして辞書を引き、J'aspire と答えたら、全然通じませんでした。なぜですか。

33Sekko:2006/01/29(日) 02:17:44
落ち込むことんついて
 一日って、年平均したら、半分は夜ですよね。それで、普通の人は、日没の後も人工の光でまだ起きていて、睡眠というブラックアウトを日に7、8時間に抑えているわけですが、昼ばかりだと地球は焦げつき、夜ばかりだと凍りつくというわけで、起きている時間も、その半分くらいは暗くても自然かなあと私は思うのですが。そう、「普通の状態」があってそこから落ち込むというより、光になったり陰になったりするのっぺりした一日の中で、ブラックアウトの睡眠を楽しみ(小さい頃から、毎日やってくる、寝ることの不思議が、気になって気になってしかたなかったんです)、その中で、たまに他人との関係で、傷つけられたり、元気ををもらったりというのはあります。傷ついた時は、猫みたいに傷口ぺろぺろやって寝て治し、元気なときはそれをおすそ分けするためにわりと外へ出しちゃう方なので、外から見てると「いつも元気」っぽく見えるのかも。でも基本的に今落ち込んでるとか元気とか、「自分の状態」の把握に興味を持たないようにし、あるべきモデルも想定せず、自分の心身状態に関して、ぼーっとした距離感しか持ってません。もちろん病気になったら薬を飲むとかの最低限の対症療法はしますが、健康法もなし、健康診断もせず、です。
 最近、エルサレムから数キロのアブー・ゴシュの修道会の院長が変わりました。この修道会は、12世紀にマルト騎士団が建てた教会にあって、現在10人の修道士が住み、今年創立30年を祝います。30年前に、ノルマンディのベネディクト修道会の院長が、世界の分裂の元は、初期キリスト教とユダヤ人の分裂のせいだと言って、ユダヤ、イスラム分け隔てなく門戸を開き地域社会に尽くそうと、この地に4人の修道士を派遣したのです。今回新院長になったのは、最初の4人の生き残り2人農地の一人、シャルル・ガリシェ師です。
 何で、急にこんなことを書いているかといいますと、このガリシェ師の略歴が紹介されてるのを見てちょっとびっくりしたからです。「1976年、アブー・ゴシュ着任」の後、「1993年、鬱病」とあるのです。その後は、「1996年、パリ、サンタンヌ病院精神科看護師」「1999年、サンテ刑務所付き司祭」「2004年、イスラエルへ帰還」「2005年、アブー・ゴシュ修道院の院長に選ばれる」です。
 聖職者(しかも修道院長)の略歴に、鬱病なんて病名を書くなんて・・・でもわざわざ書くということは、それが彼のキャリアにとって大きい意味を持ち、最終的にはポジティヴだったからだろう・・・それにしても・・・一昔前なら、ここは「信仰の夜」と書かれるところだったろうに・・・と感慨を覚えました。逆に、十字架のヨハネからリジューのテレーズまで、聖人聖女を訪れ苦しめた「信仰の夜」、あれも今なら、鬱病と診断されかねない。信仰にも、昼もあれば夜もある。輝く光に照らされる人ほど、夜の冷たさも、睡眠でブラックアウトできずにひっそり絶えなければならないこともあるのだろう。アート評論のところで書いた12月の展覧会で、メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、鬱病へと変化していくさまをいろいろ見ましたが、神学にまでなっている「信仰の夜」も、ひょっとして鬱病に?
 それで、このガリシェ師がどうして欝になったかといいますと、ノルマンディから一緒に来てイスラエルで17年苦を共にしたアラン修道士の死を看取ったからです。それを振り返って彼は、「信仰は死別の時に役に立たなかった、死はいつも試練だ。しかし、英雄的に喪を生きない、とあきらめて、抵抗せずに受け止めたら、死は新しい生をくれる」と言っています。彼は、2004年にイスラエルに戻り、もう一人の同士である前院長の死を看取り、今度は「欝に落ち込む」ことなく、新院長の任を引き受けたわけです。
 ヴァチカンの聖人認定審査の基本は、英雄的な徳性とか、英雄的な信仰です。だから殉教者などはそれだけで、英雄性が認められるわけですが、この「ヒロイック」というのは、他者のために身を捧げると思えばいいのですが、「強い」とか、「負けない」とかと解釈しちゃうと、夜が来たとき眠れなくなって、「信仰の夜」や欝に突入するのですね。
 ちなみにこのガリシェ師は、1997年の復活祭の夜、ひどい狂乱状態で精神科に運ばれてきた女性が叫んだのを聞いた時に、本当に立ち直ったと言います。看護師がその女性の身につけていた十字架だか聖画のメダルだかを取り外そうとすると、彼女はすごい勢いで、「だめ、これは私の全部だから!」と拒否したというのです。狂乱の中でも残る分かりやすい信仰、小さなオブジェの中にでも自分の全部を託すことができる人の心の不思議、そこにガリシェ師は夜明けの匂いをかぎつけたのでしょう。
 そんなわけで、ショックはできるだけ抵抗せずにやり過ごし、夜が来たら目を閉じ、それでも体調や体質やらの具合で落ち込んでしまったら、それを厳しい目で見ないで、ぼーっと育てていけば、いつか新しい光が差してくるかもしれない、というのが、ガリシェ師に学ぶ欝の正しい過ごし方、でしょうか。
 くみんさんの憧れの質問の答えは、フランス語の質問箱のほうにしますね。

34Masako:2006/01/30(月) 22:08:49
メランコリア考
>
メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、
最近どうしてこんなに「鬱病」が増えているのだろうと思っていたのですが、「神なき時代の病」とみると、納得できるようなところもたしかにありますね。「存在」の病がprescribeされるレヴェルへと矮小化されたというか。でもそれなら、「神」について西洋人ほど突き詰めた思弁をしない日本人に鬱病が増えているのもちょっと不思議な気もします。生きる意欲の希薄さというのが日本的な「鬱」なのかもしれません。日本人の近年の自殺率の高さを「日本人総鬱病」説で説いている人もいますが、それはあたらないにしても、高率な原因は巷間いわれるような経済的な問題やリストラ云々でなく、現代日本人にはjoie de vivreが欠けているからではないかと推測しています。何でもmake loveの年間回数の最高がギリシャ人で最低が日本人だとかいう、ちょっと笑える統計が最近出ていました。このひとつをもって日本人総鬱病とはいえませんが(joieにはいろいろあるので)、少子化の一因は社会システムだけでなくここにもあるのでは。

35Masako:2006/01/30(月) 22:16:46
下記、1行目のみ引用です
すみません、下記の1行目のみ、その下の竹下さんの言葉の引用です。
<マークがわかりにくくてすみません。

ガリシェ師のお話たいへん感動的でした。
「信仰の暗夜」、十字架のヨハネとか思い起こさせられて、懐かしい気がしました。
「暗夜」とは何の関係もありませんが、少しは体調も回復したので今年は久々に渡欧して
憧れながら行ったことがなかった、コルマールへ行ってみたいななどと
考えています。イーゼンハイムの祭壇画を一度見てみたくて。

36Sekko:2006/02/01(水) 02:50:46
アルザスは・・・
 アルザスは冬すごく寒くて、夏すごく暑いので、春か秋がお勧めです。時期がわかれば、パリの宿泊先とかアレンジできますよ。アルザスはホンと、フランスじゃないですね。長崎も日本じゃないなあと思いましたけど。日本の自殺率の高さと少子化とセックスレスが関係していて、Joie de vivre が欠けているという推測は怖いです。実は私も、「それを言っちゃおしまい」というので言うのを控えていますが、日本って決定的に変と思うことがいくつかあります。
 熟年離婚のことなどはこちらでも報道されてショックだという人がたくさんいます。昔よく「亭主丈夫で留守がいい」とか「仕事とSEXは家庭に持ち込まない」などという言葉がありましたが、この二つもすごく深いところで怖いですよね。
 まあ病気としての欝はもう人生のアクシデントとしか言いようがない側面もあるので、ケースバイケースで対応し、自傷や他傷を事前に防ぐため周囲がベストを尽くすしかないとは思いますが。でも適切な言葉のコミュニケートによって回復することもあるので、そういう言葉を模索していくことは大切だと思います。

37古川利明:2006/02/01(水) 21:16:22
私もアルザスは・・・
 竹下さんの「アルザスはフランスではない」という発言に思わず驚いてしまって(笑)、哲学・宗教の話題から外れてしまいますけど、ひとこと。私もフランス国内はだいたい回った(つもりな)のですが、それでも「空白域」がまだ少しあって、その一つがアルザスです。東部地域のミュルーズまでは行ったというより、クルマでかすっただけですけど、その北、例えばストラスブールなんかは自慢ではないですが、一度も行ったことがありません。そもそもドイツ自体、まともに滞在したことがなくて(それはイギリスも同じ)、ポーランドは何度も行っているのに、ドイツはいつもワルシャワから(直通の夜行バスで)通過してしまうため、自分の中にはドイツはベルリンも含め、「街の記憶」というものがありません。ストラスブールあたりだと、食事なんかもドイツ料理そのものだ(じゃがいもにソーセージ、サワーキャベツ)とか聞きますし、「最後の授業」じゃないですけど、「フランスの中のドイツ」なのでしょうかね。しかし、そんなことを言ってしまったら、ペルピニャンはスペインですし、マントンはほぼイタリアですので、「国境」っていうのも、人間が便宜上、人工的に引いたものに過ぎないんだなあと思います。ユーロも流通して、前みたいな両替の煩雑さやパスポートコントロールもなくなったことですし、今度そっちに行ったら、たまにはフランスの国境の外に出てみようかなあ、と思っています。

38Fusako:2006/03/07(火) 23:43:53
鬱の話
たまたま竹下さんのご本を読んだので。フランスの少子化対策、じゃあない(「少子化対策」は日本での用語でした)「家族政策」について調べていて、ついでにあれこれで、竹下さんの本に行き当たりました。
で、家族政策と離れて、「鬱」の話。日本で鬱、自殺は増えています。で、欝はたいてい職場がらみか、或いは、これはあまり表に出ていませんが、家庭がらみですね。職場の問題は、教員・公務員・自衛隊に鬱が多い。企業にも増えていて、要するに仕事が回らないので問題になっています。民間ならとっとと首にするのを、公務員では解雇できないので、公務員の鬱が問題になるわけです。
自殺は経済問題。自殺も、「死んだことになっている」、つまり、戸籍から抹消されたホームレス(フランスで言えば、SDF、sans abris)も、借金(消費者金融という「金貸し」)苦からの逃避が、これも、仕事がらみですが、多いようですね。
フランスや北欧もけっこう「鬱」があるとはききますが、日本とはかなり違うのでは?

39Sekko:2006/03/08(水) 07:32:16
欝の比較文化
 北欧やフランスの特徴的な欝にはやはり、冬の日照時間が短くて、それがホルモンだか脳内物質の分泌だかに影響して、というのがあり、ハロゲンランプとかを毎朝2時間照らして治療したら緩和するというのはよく聞きます。ここのとこずっと天気が悪く、雨の翌日たまに青空が出ると、芽の出かけている木々が嬉しそうなオーラを出しているのに初めて気づきました。木は危険を察知すると化学物質を出してコミュニケートするとか聞いてましたが、嬉しい表現もあったとは、驚きました。全部の木じゃなくて、同種の木が集まっているところにたまに。
 というトンでも話はこれくらいにして、私は、このごろ、鬱病も自閉症などコミュニケーションと同じように、グラデーションを成していると思っています。普通に活動意欲のある部分から、まったくゼロになるところまで、漸進的にグラデーションがあると。それで、意欲の針が、職場の問題とか家族の問題とか、体の不調とか、日照時間の短さなどによって、どんどん、あるいは少しずつマイナスの方にぶれていく欝も確かに存在します。この契機は文化によってすごく差があり、カイロのスラムで何十年もヴォランティアをしていたシスター・エマニュエルが言っていたように、すごく貧しい生活でも、それが欝の契機にはならないで全員インがヴァイタリティに満ちている場所もあり、戦争中で空襲されて逃げているとか、収容所の中とか、サヴァイヴァルのアドレナリンが出ているような状況でも、欝への傾斜はないようです。何らかのきっかけでマイナスに傾斜していく場合も、少しずついい方に引っ張るより、ショック療法というか(たとえば家族が事故にあうとか、事件を起こしたとか、自分の体の方がSOS を出すとか、天災に巻き込まれるとか)、背に腹は変えられないというような状況にあって驚いて針がプラスの方へ向かうことの方が多いようです。欝に向かっていても、安定剤のような薬を飲んでいない限り、意識は明晰な人がほとんどですから、ケースバイケースで、カウンセラーを受けさせたり、原因を取り除く(太陽灯をあてるなどもふくめ)工夫を周囲の人ができればいいのですが。人の心をもっとも動かせるのは人の言葉だったりするので、適切な言葉を探して声をかけるというのが効果を発することもあります。
 しかし、体験のない人には想像しにくいかもしれませんが、欝の中には、意欲の針が、何の契機もなしに、グレーゾーンを通らずに、ぽんと、限りなくゼロに近いところに振れてしまうものもあるのです。これは前にも書きましたが、人生のアクシデントとしか言いようのないものです。ホルモン変化(つわりや更年期など)や他の病気が原因の時もあり、それは、じっとやり過ごして原因が取り除かれるとけろりと治ったりするのですが、うつ状態にいる人は、いつか治るという見込みや希望を自分では感じられないので、頭で理解できるように情報を与えるべきです。
 そうでなく、ただ、まるで遺伝子にプログラムされていたかのように、青空が広がろうと、健康状態がよかろうと、ただ、ぽんと針がマイナスに振れる時、これが一番、周囲の理解を得られにくいこともあってつらいし、文化や生活史から隔絶しているので、手のつけようがありません。活動意欲ゼロの上に孤独を抱え込みます。しかし、このタイプの中にも、周期性をつかんで、小康状態のときにいい仕事をするとか、意欲がなくても機械的に普通の生活をするとか、いわば「高機能鬱病」の人もいます。こういう人は、グレーゾーンを通過してきた個人的痛みやつらさがない分、一種抽象的な「死」と共存しながら、結構長く生きたりもできます。自殺する意欲もない時より、小康状態の時の方が危ないので、小康状態の時をどうやって管理するかが大事です。理由はなくとも、生れたからには生きて、自分の中の「生命」の部分に水をやって育て、他者との関係を結び、「死」の部分は覆いをかけて、繁茂しないようひ弱にしておく、と心がけるといいですね。
 って、あまり答えになってませんが、要するに、欝や自殺で比較文化が成立するような部分は、まだ、他者が助けになってあげられる段階なので、問題解決のためにみんなで力をあわせましょう。リストラや借金、老いや病気、私たちや私たちの大切な人にもいつでも襲いかかり得ることです。私で役にたつことがあれば、心の問題でもこのコーナーでどうぞ声をかけてください。

40Fusako:2006/03/09(木) 23:10:27
鬱、続き
お返事をありがとうございました。でも、わたしがおたずねしたかったのは、そう、日仏、ないし、日欧の違いですね。Joie de vivre という言葉を見て、日本でそれに当たるのは何かしら、と考えました。で思い浮かんだのが、全く逆の「生活苦」、で、日本人はこれで鬱になり、自殺するんですよね。もう一度ひっくり返すと「生活苦」という言葉がフランスにあるか、ということになりますね。
日本の鬱の場合、「生きる意欲」がなくなる、というより、「これでは生きてゆけない」と思いつめてのもの、で、欝であることがわかったらクビになる、と思いつめてひた隠しに隠してどんどん悪化する、とかね。病気ですから休みます、というAbsenteismeは日本ではあり得ません。
わたしは、あまり日本人ではないので、一時鬱になりましたが、それは友情の破綻によるものでした(ずっと後からわかった)。でも、たいていの日本の鬱、って(「メンタルヘルス」というのが最近の用語)、仕事や勉強がらみ、金がらみ、です。仕事がらみ、というのは、前回書いたように、業績不良だの、いじめ・セクハラで鬱になる現象。日本には、仕事をやめたらヨーロッパ型の生活扶助や失業手当がありませんし。そういうものがあって消費者金融というか「高利貸」に頼らないですめば、とか、フランスの家族手当ほどの現金給付(子ども一人に月額二万弱?)があればどれだけの子どもが育てられるか、とか、お金だけの問題ではないのですが(お金を出すシステムは国民の合意にもとづく社会政策から導き出されるわけですし)、考えています。これまた全然違う話題ですが、熟年離婚も、生活できるお金が保障されれば離婚する、という話です。

41Sekko:2006/03/10(金) 06:07:44
生活苦
 すみません。哲学宗教の質問箱だったので、欝は、理由のない、不条理な、「小さな死」のような、文化の比較を超絶したあの鉛のような鬱病を念頭においていたので。別に理由がはっきりしている欝の方が「軽い」とか治りやすいとかしのぎやすいと思っているわけではありませんが、理由なき欝の孤独は、社会状況や個々の生活史とは関係のない、人間の実存の深淵と結びついているようで、時々考えこんでしまいます。こういう欝の体験者がいらしたらコメントください。
 今TVのニュースを見てたら、フランス人の健康調査があって、自分が欝状態にあると感じているフランス人は8パーセントいて、その中の38パーセントが医者に通うとありました。言葉は低気圧と同じDepressionなので、イメージ的には「落ち込み」に近いですけど。
 昨日見た別の番組で、アメリカ人が自国とフランスとを比べて、アメリカは野心があればどんどん昇れるけれど、そこから落ちたりすると悲惨だ、それに比べるとフランスは負けたり失敗したりすることに寛容で、成功者の方がむしろ嫌われると言っていました。
 日本はむしろフランスの方に似てる気もしますが、日本の方が「世間体」を気にしてと言う要素は大きいでしょう。「生活苦」にぴったり当てはまる言葉は確かにフランス語にないし、「Joie de vivre 」にぴったりの日本的表現もすぐに思いつきません。きっと、フランスでは、きれいな服を着ておいしい物を食べて、飲んで、おしゃべりしてというのが長い間、王様から庶民までの分かりやすい幸せと善のコンセンサスだったのに比べて、日本では、武家に寡黙で質素な儒教文化が浸透して、着飾っておいしいものを食べるのは遊郭とかの「悪所」で、素直に喜びというより「遊蕩」のイメージがあったので、ずれているのですね。
 失業したりの純粋な生活苦というのはどの国にもあるし、そのために社会から疎外されるのは特に先進国の問題ですね。日本風の熟年離婚はあまりこちらでは聞きません。普通退職金というものはありませんし、相手が嫌になったら熟年まで我慢するという発想は多分ないです。日本は戦後の高度成長期に、専業主婦を夫婦のモデルのようにして社会が成り立っていたから、育児の途中で離婚したら母子の生活が成り立たない現実があって、それで熟年まで待ったりするんですね。フランスに5年住むアフガニスタンの学生が、初めてパリに来たときメトロの中でキスするカップルを見て驚いた、誰も気にしていないのにも驚いた、セクシャリテが楽しみのためにあるのだと知った、と言ったら、周りのフランス人は笑いました。彼らには楽しみ以外のセクシャリティが可能なのか一瞬分からなかったのです。アフガニスタンの学生は、僕の国では子供を作るためのものだと思っていたと答えました。フランス人たちはみんな虚をつかれた感じでした。彼らにとってはセクシャリティは「おいしい食事」と同じカテゴリーに入っていたようです。

42Masako:2006/03/10(金) 13:00:47
実存の深淵
下記のジャミソンの本は未読ですが、衝撃を受けたのでよく覚えているのですが、
パラパラと見たとき最初の方に、自分は深く鬱からくる自殺の誘惑と
戦っていて、同じ誘惑にさらされている友人ととにかく何らかの兆候が
相手にあったら何としてでも阻止しあうという約束をしていた、という
くだりがあって、ここを読んだ時、実存の深淵を垣間見たような、非常に深い
苦悩を感じ衝撃を受けたことを思い出しました。
「存在苦」と言えばよいのでしょうか、
そういう苦悩です。

ジャミソン自身、躁鬱病に苦しみながら、精神科医として素晴らしい仕事をしつつ
著作活動をしていて、アメリカでは非常に読まれています。

「早すぎる夜の訪れ―自殺の研究」
ケイ ジャミソン (著), Kay Redfield Jamison (原著), 亀井 よし子 (翻訳)

43Sekko:2006/03/12(日) 06:47:24
躁について
 ジャミソンの本、検索するとあまりにも面白そうだったので、今日早速、パリの本屋で仏訳を入手しました。彼女が躁欝で、躁の状態を知る故に、この病気を後悔しないみたいなことが興味深いと思ったのです。「普通」と「欝」の2状態の人には、欝からの回復が目標になりますが、「躁」の味を知っている人は欝のどん底にいても躁へのノスタルジーがひそかにうずいているので。そして、いったん躁になったときは、それも、周囲との状況とは全く隔絶してたりするので、欝のときに労わっていた家族は、ちょっと呆然として、躁を素直に喜んであげられない、「普通」を分け合えない断絶があります。「躁」は同情を得られない分、ある意味、欝より孤独であり、欝の予感があるので「生き急いでしまう」面もあります。この辺を
ジャミソンがどうとらえているか興味深々です。すべて「養生」は「中庸」にあり、それを侵犯して生きる躁鬱は、スリリングでもあります。(もちろん「生活苦」に由来する思いつめとは別の問題です。しかし、どちらも、あまりにも人間的な現象です。)

44Fusako:2006/03/13(月) 21:30:39
躁と鬱
鬱ときくと、ラフマニノフの曲をなぜか連想しますが、ラフマニノフには躁の要素はないような。昨年聴いたエレーヌ・グリモーのショパンがラフマニノフのような音で、色で言えばグレイでしたね。
こういうあっちこっち不安定に揺れ動くロマン派と違って、古い曲はバランスのとれた端正なものばかりのような印象があります。
忙しかった一日を終えての四方山話です。

45古川利明:2006/03/14(火) 13:15:43
面白いですね
 この躁鬱論議が面白かったので、私もチョット書きます(笑)。しかし、アフガニスタンから来た人への、フランス人の「楽しみ以外のセクシャリティにいったい、何があるんだ」との発言は何ともスペシャルですよね。もともと明治以前は日本のカルチャーもセクシュアリティに対して、もっとオープンだったと思うんですけど、例の「富国強兵路線」で、そういうものを「いかがわしいもの」と抑圧してきた部分はありますよね。かび臭い儒教的な発想を引っぱり出した部分もあるかもしれませんが、結構、アングロサクソン的なピューリタリズムもあるかもしれませんね。フランス人に比べて、日本人に鬱が多いというのは、そういった社会に存在するさまざまなタブーの存在とも関連があるような気がしますが。

46Sekko:2006/03/19(日) 01:35:33
ジャミソンの本
 私の買ったジャミソンの本はMasakoさんの書かれた自殺の本とは違う自伝のようです。一番よく読まれているという話だったので選びました。まだ全部読んでませんが最初はかなり違和感がありました。この本がこんなに人気を博したのは、「こんな病気を抱えている人でも社会的に立派に成功し幸せになれるんだ」と励みに思う人か、「こんなに立派な偉い人でも、実はこんなに苦労しているんだなあ」と自分を慰める人かどっちかに受けたような気がしたのです。躁の初期に一種の啓示を受けることへの著者の自覚にも、不思議に共感できませんでした。それに、躁で舞い上がって、浪費したら、頼もしい立派なお兄さんが飛んできて借金を清算してくれるんですよ。いや、別に、彼女が躁の落とし前をつけないことに嫉妬しているのではなくて、結局、彼女が金のあるWASPで、若くて頭がよくて、金髪碧眼の美女であることがすべてを変えるなあと思ったのです。
 どんなに躁鬱が実存的に苦しくても、金や権力やコネや若さがあれば、かまってもらえる。(アル中から復帰して大統領にもなれる。)しかし、年寄りや障害者や貧乏人の欝とか、女子供や凡人の躁は、無視されたり制裁されるだけ。結局、普通の世界の差別構造が、より先鋭化するのが「病気」というフィールドなんだなあという思いです。

47あんとに庵:2006/03/19(日) 09:19:54
十字架の聖ヨハネ
う〜む。鬱を巡るお話面白いです。わたくしも鬱傾向があるので。
「十字架の聖ヨハネ」が現代では鬱と診断されてもおかしくないというくだりに。おおう!と。
あのメンタルは画家が作品に悩む時によく体験する精神なんですね。「暗夜」を読んだ時の規視感といったら。
そしてアート論評に書かれた「怠惰との親和性」というのはもう痛いほど経験中と申しますか。(その辺り、怠惰とメランコリアについてもっと読みたいなぁ・・・)ダ・ヴィンチの作品の少なさも関係してるんでしょうか?ダ・ヴィンチのような天才ではありませんが、作品へ向えない、そのエネルギーの枯渇というのはよく体験します。ことに最近その傾向が強いのですが、鬱だな・・と思ったり致しますね。逆に作品を描くパワーってどの辺りから来るのかと自分でもわからない時がありますし。まぁマイブームがなんらの形で生じている時というのは作品に向える。そういう時は大抵操に入った状態かもしれません。マイブームの時の活動力は鬱時の10倍はあります。近年ではフィリッポ・リッピがマイブームだったことがありイタリアでリッピばかり見ていたりとんでもない分厚い画集を買い漁り、揚げ句の果てに絵柄までリッピになり、カルメル会にあこがれ、なんだかもう大変でした。しかし鬱になるとそういう意欲が全然無くなり草食動物化します。仕事の意欲も枯渇して困りますね
そういえば鬱の言葉が低気圧と関係があるとのこと。私は低気圧になると鬱状況に陥ります。何故かそうなりますね。かといって晴れたら操になるかというとそういうわけでもないのですが。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/

48Fusako:2006/03/19(日) 12:58:07
日本の若者の状態
鬱、とか、生活についてこちらに書くきっかけになった竹下さんの本は「カルトか宗教か」でした。「家族政策」と全然関係なさそうですが、風が吹いて桶屋になり、ついでに鬱となったのは、特に日本の失業者、とりわけ若年層を考えてのことでした。
フランスでは、今、暴動に続いて初期雇用契約で若者がまたまた行動していますね。日本では、ニート・フリーターという、若年の失業者・非正規雇用者がこれも大きな問題になっていますが、政策なんてないに等しいです。特に、これを「鬱」と言うべきか、「引きこもり」などの生きる意欲に欠けている若年が大量にいるのに対して、全国にNPO頼みの委託施設をわずかに数十箇所指定し、それも効果が疑わしいし、失業対策に本腰を入れるなら強化しないとならない職安は民営化し、そうでなくとも労働法と関係ない口入産業の派遣・請負業ばかりがはびこっています。人を転がす口入産業、金を転がす銀行(儲かる企業だけを向いている)と高利貸(セーフティネットのない社会で市民にはこれしかない「消費者金融」)ばかりが肥大化する社会。
特に若い層が、まともな賃金と労働時間でまともな生活ができる社会でなければ、子どもも持てないし、Joie de vivre なんてないですよね。
そういう中で、これは計量化できないけれど、日本の若者の「心」ってどうなってきているのか気になっています。欧米ほどの暴力的カルトではないけれど、もともと、あまりものを考えず、自力で生活できる意欲にも乏しく成長している日本の若年の中にはびこっている、あるいは、若年の中にできている空洞に入り込んでいるもの、それが気になっています。

49Nao:2006/04/10(月) 16:44:54
ユダの談合
????4/7,読売朝刊から。
????米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフイツク協会」は6日、1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。イエス・キリストの弟子ユダがロ−マの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従つたからとの内容が記されていたという。解読したロドルフ・カツセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

????イエスはほかの弟子とは違い教えを正しく理解していたとユダを褒め「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と,自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。

竹下先生
????このことはフランスでは、どんな議論になつているのでしょうか?これからなのでしょうが、フランスの論議がでてきましたら、是非ご紹介いただきたくぞんじます。

50Sekko:2006/04/10(月) 17:39:42
ユダについて
「ナショナルジオグラフイツク協会」は4月9日、15日、27日にこのテーマでTV番組を放映し、その後5月3日号でユダの福音書のダイジェストを発表するといっています。この中でユダは、裏切り者から「英雄」さらに「聖人」として復権という機運があります。
 しかしこの福音書はすでに2世紀からリヨンの司教エイレナイオスの異端論によって伝えられていて、325年にニカイアの公会議によって、他の30ばかりの外伝と共に正典から外され失われました。1978年になってエジプトの洞窟から農民が1部を発見、おそらくグノーシス派の一派カイン派のものだと思われています。カインの子孫と称するこの一派は、3世紀から4世紀ごろに、この「ユダの福音書」を手写したようで、元は、正典の4福音書と同時期(1世紀後半)にギリシャ語で書かれたものだと見られます。
 この手稿の現在の所有者で、エジプト政府に返還を決めているスイスのMaecenas財団で分析されるまでに手稿は痛みました。16年もアメリカ系銀行の金庫に眠っていたため、パピルスが乾いて、上部は裂けたそうです。キリスト教考古学者らが改めてユダの立場について研究しましたが、それ以来巷に出てきた「ユダ擁護」の本はすべて、イデオロギーの色のついたものです。ピエール=エマニュエル・ドザの『ユダからホロコーストへ』は、教会がユダをスケープゴートにして、反ユダヤ主義に必要だったユダヤ人像を生み出し、それがヒトラーにまでつながったとします。ニコラ・グリマルディ(『Le livre de Judas』Puf)によれば、ユダは、イエスの教えがモーセの教えと合致しているか審査してもらおうとしてイエスを司祭に引き渡したのだ、神の意思を確認したかったのだということです。今出ている本のたいていは、学問的考証の影に反教会主義が見え過ぎているものが多そうです。
 でも西方教会ではユダだけじゃなく、ユダヤ人全体が「イエス殺し」「神殺し」という汚名をずっときせられてきました。それは、西方教会を担うローマ人が、ローマ総督ピラトがイエスを有罪にしてローマ式の十字架刑を執行したというイメージを嫌って、「イエスの死を望んだのはユダヤ人」という印象を強める必要があったからでしょう。日本人などの眼から見たら、イエスだって、12使徒だってユダヤ人なのに変だなあと思うのですが、コスモポリタンでギリシャ的なパウロが普遍宗教のキリスト教を創っていったこともあって、イエスのユダヤ・ローカル性からローマ世界帝国領内の人々の眼をそらせるために、「イエスを殺したのはユダヤ人」という形を強調したのでしょうか。今もホロコーストの後遺症が大きいヨーロッパの反ユダヤ主義の根は、キリスト教の「神殺しのユダヤ人」史観そのものにあったので、「ユダ」という一人の裏切りにあったのではない、ユダの裏切りの物語は、イデオロギー的ではなくむしろ人間的な物語としてインパクトを持ち続けてきたと思います。でも私が『キリスト教』でちょっと書いたように、ユダの名前が「ユダヤ人」と重なるのが皮肉でした。彼がシモンとかヨハネという名だったら、大分変わってきたとおもうんですが。
 それで、またアメリカですが、アメリカのメディアが今急にこのことを大スキャンダルであるかのように言い立てるのは、ひとつにはユダヤ人コミュニティのロビーイングの力に支えられたイデオロギー的なものだと思いますし、キリスト教が原理主義的に政治勢力となっているアメリカだからこそ効果があるのですね。フランスでは、One of them という感じです。でも、『ダ・ヴィンチ・コード』の大成功以来、フランスでも、宗教無教養派がアメリカ由来の「スキャンダル」に飛びつく傾向があるので、この『ユダの福音書』を種にしてまたダン・ブラウン、または第二第三のダン・ブラウンがベストセラーを書けばいいなという雰囲気ですね。
 カトリック自体は、すでに4世紀の時点で、この福音書を正典とは認めないという立場を決めてしまっているわけですから、それを前提に発展しているので、個人の信者が動揺するとかは基本的にありません。信仰は考証や証明とかではないし、真実とは史実とイコールでもないのですから。

51Fusako:2006/04/10(月) 23:23:23
ユニヴァーサリズム
別のことを調べていて、フランスのユニヴァーサリズムについて触れた文章に行き当たりました。先日出ていたセゴレーヌ・ロワイヤルさんはPACSの方ですよね。で、これはフランスの同性愛者の問題についての研究者が書いたもののようですが、PACSは、フランスの実際的ユニヴァーサリズムの例である、というものでした。
http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/Pacs.pdf

52あんとに庵:2006/04/12(水) 18:56:25
ユダについて
sekkoさんのおっしゃられる通り、ユダが裏切り者だったからユダヤ人が・・・というのは本来的にはあまりないですよね。それよりもユダヤ人の中にある「反教会主義」の動向が気になりますね。何故なのでしょう?

53Sekko:2006/04/24(月) 01:22:42
ユダの福音書〈続き〉
ユダの福音書ですが、最近読んだコメントでは、それが「全ては宇宙的デザインにしたがってオーガナイズされていた」というグノーシス的世界観に傾くところが問題だとしていました。正典の福音書もよく見れば、イエスがユダに「しようと思っていることをしなさい」と言ったり、最後の晩餐のあの雰囲気で、ことの次第を見抜けなかった他の11使徒の方がお間抜けな感じです。オリーヴ山でのあの苦しみを見ても、イエスは次の日に逮捕されても「驚いた、ショックだったよ、弟子に裏切られて。晴天の霹靂。」というような状態じゃないですね。それにもちろん旧約の預言の成就というグランド・デザインがあるわけです。だから、『ユダの福音書』のようなテキストが嘗て流布していたことは不思議じゃないし、そんなにスキャンダラスじゃないですね。
 アングロサクソン国でまた騒ぐとしたら、ひとつは「復権ブーム」もあります。「ダヴィンチコード』が女性原理だの女神だのマグダラのマリアだのの「復権」を書いたように。
 また、ピューリタン系プロテスタントが、聖人伝系テクストを否定してきたので、「外伝」と聞くとすわ「秘密の伝承」と色めきたつ事情もあります。実際は、このユダの福音書が発見された洞窟文書は66ページ、13の手稿があり、そこにはヤコブの原福音書とかペトロの手紙とか、アロゲネスの書〈そのテキストの2つは1946年のナグ・ハマディ文書と重複)とかあるんですが、たとえばヤコブの原福音書が、ヨセフを老人の姿で描く伝統のもとになっていたり、別の、偽マタイ福音書とかが、イエスが馬小屋で生れ、馬やロバに囲まれていたという伝承を流布させたのだということは知られています。正典が採択された4世紀ごろには頃には、さまざまなテキストが出ていて、外伝となった後も実際は伝承の中で生き続けていたわけです。しかし、そういう枝葉を取り払ってできたプロテスタント世界では、外伝がメディアに出て来るたびにスキャンダルになったり、それを政治的宗教的に利用しようとするグループがでて来るわけですね。
 しかし、よく考えると、ユダの「裏切り」はすでに旧約の成就というグランド・デザインの中に位置づけられていたのですから、単純に「悪者」と見なされていたわけではありません。ボルヘスのように、「人類全てを救うためにもし神が屈辱を必要としていたのなら、真のメシアは沈黙のユダである」といった人もありました。裏切りもまた、神に対する人間の自由のひとつの表現だと見る意見もあります。ユダのおかげで、キリスト教世界の人は、いろいろな自問や思索を余儀なくされ、「裏切り=悪」という二元論的で単純な断罪の誘惑と戦ってきたのだと思います。
 裏切りといったら、他の11使徒も、イエスが殺されるまでちりぢりになって逃げて知らん顔していたのですから、これもひどい話です。80歳で弟子に囲まれ食あたりで死んだ釈迦に対して、33歳で弟子たちに裏切られて死刑になったイエス、それでそれが神の子で、そういうパラドクシカルなところがこの宗教の人間的魅力になってます。それを、「今まで悪人とみなされていたユダは、実は善人だった」という単純な「実はいいやつ」復権話で矮小化されたくないという感じですね。
 そして、ユダヤ教をキリスト教に接ぎ木するためのアクロバティックでパラドクシカルなグランド・デザインを、「全ては宇宙的な予定調和」という形でニューエイジ風に拡大希釈してしまうのも、また魅力を半減すると思います。それに危険でもあります。前世がどうとか先祖の霊がどうとかと言われるのと同じで、判断力や思考力の求められる余地がなくなるので。ユダやペトロのせいというか彼らのおかげで、キリスト教に陰影がもたらされて、永遠にじたばたするのは人間的でいいかも。

54Fusako:2006/05/12(金) 23:00:02
週末の四方山話
今週、フランスに住む友人と夕食を一緒にする機会がありまして、出かけるときに地下鉄に乗り、ちょうどその車両が「女性専用車」。「増えてるんですか。」とたずねられて「増えてます。」わたしは利用しませんし、良いと思えない傾向ですが、これってコミュノタリスム車両?
鬱話では、景気回復といわれていますが、日本の自殺は結局8年連続で3万人を超える、との報道がついさきごろ出ましたね。

55Sekko:2006/05/17(水) 02:24:02
女性専用車両
 女性専用車両、私は一度乗りました。ホームで待ってる時から華やかそうでなんだかわくわくしました。サウジアラビアみたいだと思いました。女性は他の車両でもOKなのに男性が乗れないのは気の毒な気もしました。歌舞伎座とかで女性トイレがいっぱいの時、女性(おばさんですが)は平気で男性トイレに入っても非難されないことを思い出しました。
 その後で、何かの雑誌で、この車両についてある男性作家が、どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさんまでが女性車両を利用していると書いていたので、驚きました。女性車両に乗るのは性的価値の自己申告だというのです。ひょっとして「若い女性」専用車両だったのかとびっくりしました。サウジアラビアの生活指針には、初潮からは顔や体を黒いアバヤで隠すのですが、閉経後も美しい人は隠さねばならないと書いてありました。リヤドでは、実際はおばあさんでも、いや、年配の女性ほど、家の中でも寝る時以外はヴェールをすっぽりかぶっている人が多いと聞きました。通りでは、全身黒で顔も見えないので、はっきり言って、老若や美醜どころか、性別も分かりません。ヴェールを外す人だけが、自分は男だとか女でも性的価値がないだとかカムアウトするわけです。(サウジでは性的価値というのは要するに男を誘惑する罪の根源ということです。) レイプは基本的に首切りの死刑なので、深刻です。
 本当に男が全て女を襲うのなら、確かにライオンとシマウマは同じ車両に入れられないとも言えますが、人間なんだから、すべては文化現象ですよね。でも、少なくとも東京とパリに暮らしたことのある女性はきっと、パリでは映画館やメトロで痴漢に会わないことに気づいていると思います。初めは、日本の映画館は自由に席を選べるけれど、パリでは(特にひと昔前までは)全て案内嬢が席を決めましたからそのせいで痴漢目的の人は来ないのかなあと思ってました。映画上映中の館内は日本よりも真っ暗になります。でもメトロでかなり込み合ってもまず痴漢はいません。
 別にフランス人の方が上品だとは思えないのですが、言えるのはフランス人女性だったら触られたら叫ぶ確率が非常に高く、そしたら周りにはそれに介入する乗客が多いだろうと言うことです。そういう予測がつくので、自然とブレーキがかかるのでしょう。リスクが大きすぎるということでしょう。それ以外にパリに痴漢が少ない理由は思いつきません。私も日本にいた頃は、映画館で何度も黙って席を替えたりしましたが、叫んだことはないです。フランスだったら叫ぶと思いますね。誰かがきっとフォローしてくれそうだから。日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか。逆に今は、狂言で叫ばれたら即男性の人生破壊というくらいインパクトが強くて、男性は戦々兢々、男性専用車両に乗りたい人もいるかもしれません。
 娘がルーマニアの学会に行ったとき、東欧の女性研究者はみな下着のような服で発表したと言って驚いていました。西欧ではみんな雑誌のグラビアのような服を着ていると思っているらしいというのです。フランスではむしろモノセックス的なカジュアルな服が多いです。白衣の下はジーンズにスニーカーでもOKで、日本で順天堂医大に研修に行った時はだめだったようで、黒い靴と黒いパンタロンを買ってました。体をどう包むかというのはジェンダーの大問題ですね。

56Fusako:2006/05/17(水) 23:14:44
女性専用車両(続)
これだけではなくて、今の日本の公共交通でのマナーの悪さ、ルールのなさ、に失望しています。空いている席をめがけて、若い人や子どもが、年上の人を押しのけてダッシュするのが普通の状態です。痴漢も多いようですね。わたしは流石に今は「どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさん」であることと(でもこの表現は嫌いですよ、痴漢されるぐらいなら女として認められている、という言い方ですね)、そんな風に、女性用、高齢者用、障害者用、と分ければいいとは思えないのと、それにもう一つは、女性専用車両を使っていた娘が「あれもすさまじいものがあってね、化粧はし放題だし、同性だからという遠慮のなさか、ぐいぐい押してくるし・・・」という話にへえー、というのがありまして、使わないです。
男性、女性、あるべきように自然にいて、お互いに言うべきことはきちんと主張できるのが望ましいですよね。日本の男性と女性のあり方、ってとても不自然だし、対等でないです。毎日毎日、それにイライラしています。だいたい、男女が、自然に半々に近い組織というのがほんとになくて、仕事の組織では「オールブラックス」がいまだに大半。たまに女性の多い組織だと、女性の問題点がもろに出ます。重箱の隅をつつくような細かい揚げ足のとりあい、優等生志向、人間関係と仕事とが感情的にからまりあっている、視野が異様に狭い、・・・でわたしは、日本自体が、どうもそのような女性的社会ではないか、という印象を持っています。

57古川利明:2006/05/18(木) 20:40:55
女性専用車両
 この女性専用車両、私なりにいろいろと考えさせられるものがあります。一般的には「痴漢対策」ということなのでしょうが、それって痴漢は「男性から女性」というふうに捉えられていて(もちろん、それは事実だと思いますが)、でも、以前、東海道線の満員電車に乗っていて、私、脂ぎったオバハンに股間へ太ももを差し込まれたことがありますよ。向こうは気持ちいい表情をしていて、「カンベンしてくれ」と思いましたが、こうした「男性の被害者」もいることを知ってほしいのが一つ(笑)。でも、こうやって「男性」と「女性」という枠にカテゴライズさせて、問題解決を図ろうとする手法っていうのは、非常にコミュニタリズム的ですよね。それと、直接的には関係ないのかもしれませんが、映画の「毎週水曜日は女性だけ割引料金」というのも嫌ですね。ただ、世の中、男女差別がいろんなところではびこっているので、そういう「罪滅ぼし」なのかということで、自分を納得させてますけど。とりわけ日本の社会は「男女差別」というより、「男尊女卑」が徹底しているんですよね。女性という存在に対するリスペクトの念がない男はダメですよ。男女間に体力差は一般に存在しますけど、能力に関しては基本的に「格差」はない、という立場です。ただ、ジャーナリズムなんかは、3Kなんていう生易しいものではなくて、どぶ板というのか、現実という汚濁の中に入って、ネタを取ってくるのが仕事なので、一方でそういうハードなことを女性にさせてしまうというのは、いかがなものか、という思いはありますけどね。例えば、後輩の記者を鍛えるのに、男性だったらいくらでもシゴいたところで、「アホ、お前なんか辞めてしまえ」でいいですけど(笑)、なかなか女性にそういうふうには言い辛いですよね。やはり、「女の涙」には弱いですから。

58hiromin:2006/05/19(金) 00:00:28
女性専用車両
突然失礼いたします。
私も通勤のとき、時々女性専用車両を利用します。混んだ時間帯は女性専用の方が空いているんです。
なので私の場合は痴漢対策ではありません。何度も痴漢にあってしまう友人もいますが、私はこれまでに一度だけ痴漢にあいました。
竹下さんのお話「日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか」を読んでそのときのことを思い出しました。
もう何年も前の朝の通勤電車の中でお尻を触られました。で、私は黙っているタチではないので「ちょっとアンタ何してんの?」と言い、一緒に乗っていた友人(女性)が「どないしたん?触ってんのか?」と言い、私は「次の駅で降りてもらうで」とにらみました。
それはものすごく気の弱そうな若い男で半分泣きそうになってたのですが、それを見た友人の闘志に火がついてしまい友人はその男をさらに責めました。そしたら周りの空気が若い男に同情的になったんです。もうびっくりです。だって私が被害者なのに。
(まあ確かに私をターゲットにしたその男はある意味で不運だったといえるかもしれませんが。結局次の駅でダッシュで逃げられてしまいました。)周りはほとんどが中高年のおじさんたちでした。なんか、こういう時誰も助けてくれないんだーと思うとちょっとショックでした。まあ我々のことを助ける必要はなかったんですが。。。
なんかこういうのって、今の日本の傾向を表してる、といえなくもない気がします。攻めやすいところを攻めるというか。
あまりいい例をいま思いつきませんが。

59古川利明:2006/05/19(金) 21:02:24
自己防衛の重要性
 確かに竹下さんの書き込みで思ったんですが、パリのメトロに乗っていても(別にメトロだけに限らないですが)、若い女性は服装がおしなべて質素というか、カジュアルですよね。だいたいジーンズで、そんなケバい化粧もしていないし、日本みたいにブランド物をチャラチャラさせてはいませんよね。少し話は逸れますけど、パリジェンヌ(&マダム) はやっぱキレイですよ。前、一度、ロンドンから入って、ドーバーを渡って、パリに着いたとき、ほんとに女性がキレイだと思いました(ただ、こういうことを書くとフェミニスト系のオバサンに猛抗議を受けそうですが)。フランスの女優はハリウッドのそれとは、全然、違いますもの。フランスの女性は30、40になってから美しいですね。その意味でいうと、セゴレーヌなんかよりも、ジョスパン内閣時代の司法大臣をやっていたギグー女史の方が私は好みです(笑)。で、話を戻しますと、痴漢だけでなくて、所詮、アカの他人なんて、「自分」を助けてなんてくれませんよ。見て見ぬフリ。とりわけ日本ではそうだと思います。ただ、私自身は、世の中、そんなもんだと思っているので、「私」(=古川)に関してはそれでいいと思っています。でも、自分から異議申し立ての声を上げないことには、なかなか周りの人もそれを支持してくれるふうには動いてくれなんじゃないか、と思うんですけど。

60Sekko:2006/05/20(土) 02:39:54
他人を助ける
フランスでは、「危険な目にあっている人を助けない」のは刑法上のDelitです。Crimeじゃないですけど。だから、助けて、と言いさえすれば、助けることが可能なのに助けない周りの人は互いにまずい立場になります。それで、助けようとしたけれど失敗しても、それはもちろん罪じゃありません。これにひきかえ、アメリカでは、たとえば急病の人をそばにいた医者が手当てして治らなくても後で、その介入がもっと悪くしたとか言われて訴訟を起こされることが多すぎて、一時期もう誰も他人を触らなくなりました。何もしなければリスクをかかえないということで。
 それで、確か聖書のエピソードから名をとった(今ど忘れしました。どなたか教えて下さい)法律ができて、緊急の場合に援助した行為の結果による法的責任は問われないことになったはずです。ちょうど、フランスのNon-assistance
罪と同じ頃の話だったので、あまりの差に驚いたことがあります。助けないと罪になる国と、助けた方が結果責任をびくびくしないように法律でフォローしないとだめな国があるんだと・・・
 ええと、エリザベット・ギグーは私も好き。好みが似てますね。セゴレーヌのことを友人(60代フランス人)が、「小学校の女の先生みたいだ」といってたので笑えました。もちろん小学校が悪いとか女の先生を軽く見てるんじゃないんですが、あまりにもぴったりだったので。ギグーは会ったこともありますが美人でシックで知性的でカリスマありました。
 ギグーなんかは別としても確かにフランスの女性は何か一生現役やっててそれはそれで気の毒に思えるとこもあります。「女性」としてはコミュニティ的にくくられますが独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜では分けられないですね。個人として評価される率大きいです。女性誌なら多少はターゲットが分かれますが、日本のように細かくないです。
 後、年配の女性ではバダンテールも好き。彼女もエリザベトです。

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61Fusako:2006/05/20(土) 08:37:37
法律
GOOD SAMARITAN ACTでは?

62Sekko:2006/05/20(土) 21:28:02
法律
そうかもしれません。でもそれって、イギリス? 政教分離してない国っぽいネーミングですね。私が前に聞いたのはアメリカの話でちょっと違う名のような気がするのですが、手元に当時のやり取りが残ってないので・・・また分かったら書きます。

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63Fusako:2006/05/22(月) 09:23:04
フランスの女性
前にもちょっと書きましたが、「独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜」で分けずに、フランスでは大人の女性を「マダム」と言う、「おばさん」という言葉で大人の女性をくくる日本と、雰囲気が違う、と書いた本を読んだことがあります。この表現そのものにあらわれているのではないかと思うのですが、かわいい子どもであるよりも、成熟した大人であることを重視する文化、ってこれは別の欄にも書きましたが、がフランス?
「おばさん」がもっと年取ると「おばあさん」で、「かわいいおばあさんになりたい」と言う人は多いですね。何だそれ、青二才から「かわいい」なんざ言われたかぁねえ、がわたしの見解ですが。「おばさん」「おばあさん」、いずれにしても、呼びかけのことばとしては良くないですね。大人に対する敬意、のようなニュアンスがなくて。少し古い日本語には、「おかみ」「ねえさん」「刀自」等と、「マダム」にじゅうぶん比肩できる言葉があり、また、そういう方たちもいた、と思うのですが。

64Sekko:2006/05/22(月) 17:09:01
女性の呼称
 うーん、フランスは大人の女が尊敬されていて・・と書きたいところですが、呼称については問題ありだと思います。マダムとかの語源や使われ方の変遷はここで触れませんが要するに、どの男の持ち物であるかという基準ですね。公式文書では、A嬢がB氏と結婚したら、「B夫人A」となります。そして、B氏が死んだら、「B未亡人A」と書かれます。世間的にはマダムBのままですが。
 通称はマダムAでもマダムBでもOKですが、Bだけ書いていたら必ず「旧姓」を書き込まされ、それは 「Nom de jeune fille」というんです。父の名と言われることもあります。つまりマドモワゼルは何歳でも、どの男の娘であったかを名乗り、マダムはどの男の娘からどの夫の妻になったのかをあらわしているわけです。アメリカ人から古いヨーロッパの封建制だと攻撃されそうな呼称です。でも、フランス人はあまり目くじら立てず、いろいろ改正の動きはあるものの、呼称は文化だからと割り切って、実質を取るという感じかなあ。実態がよくなればいいと言うのでしょうか(B夫人といってもB氏は夫人の所有物という人もいますから)。アメリカとは逆の方向でプラグマティックだったりします。
 それに比べて、日本の呼称は、よく言われることですが、一番末の子供の視点から見た関係ですよね。家族での呼称がおばあちゃん、お母さん、お兄ちゃんetc・・夫婦も母さん父さんと呼び合うような。そしてこれは年齢と大体連動してますよね。子供から見て両親と同年輩のが「おじさん、おばさん」です。日本の子供が、友達のお母さんをシステマティックに「何とか君のおばちゃん」というのもこのせいですね。つまりフランスの女性の呼称はどの男の所有物かを基準、日本の呼称は年齢を「子供の視点」から見た疑似家族における位置基準。で、孫からおばあちゃんと言われるのはいいけれど、知らない人や、看護師やヘルパーから、おばあちゃんと言われたくない、という人は多いわけです。地域共同体が家族みたいになってた頃は受け入れたんでしょうが。それで、おばさんと言うのも、親と同年輩、から、おばあさん予備軍になり、どちらにしても、もともと「女性」と言うメタカテゴリーとは別の無性的家族カテゴリーです。そして全ての呼称は敬意を失ってレべルダウンします。(「お前」とか「貴様」から「Monsieur」「Madame」まで世界共通)
 とにかく「呼ぶ」と言うことにすでに神聖の侵しが内包されているのですよね。だから、王とか「偉い人」は2人称を避けて3人称で呼ばれます。日本語などは王でなくとも、目上の人は2人称で呼べない、それで、子供という最も「目下」から見た3人称を使い、それが、しかし、どんどん敬意を剥ぎ取られていくわけです。
 それにくらべると、なんと呼んでもイントネーションだけで反応してくれる猫たちは、神聖不可侵かなあ。

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65古川利明:2006/05/22(月) 21:05:56
女性の呼称
 えっ、竹下さん、ギグー女史と知り合いなんですか?(驚)彼女はジョスパン内閣の司法大臣として、セクト対策にも力を入れていましたよね。何か、例えば、共謀罪法案審議でも、死刑執行なんかでも、法務官僚の言う通り以上の動きができない(つまり、官僚のロボット)日本の法務大臣とは大違いですよね.かつて、日本の自民党の法務大臣でも「私の信念として、大臣在任中は死刑執行のサインはしない」と拒否した人はいたんですけどね。民意に従って官僚をコントロールするのが大臣の仕事でしょう。そういう発想が皆無なんですよ。まあ、これは「男女の差」というよりも、「政治家としての資質の差」でしょうけど。で、ギグー女史については、私がパリに行った際には、ぜひ、紹介して下さい(笑)。ド・マゴーあたりでぜひ、お茶をしたいです。フランス語の女性の呼称でいうと、一般には「マダム」は既婚者、「マドマゼル」は未婚者ということですけど、ある一定年齢以上(30歳くらいより上?)になると、独身でも「マダム」を使いませんか。少なくとも、「マドマゼル」は失礼という感覚がありますよね。それと似た使い分けに「ムッシウー」と「ギャルソン」にもありますよね(例えば、カフェのボーイには「ムッシウー」を使うべきで、「ギャルソン」は失礼にあたるとか)。私は結構、「おねえちゃん」という呼称が好きですが、どうも、竹下さん掲示板だと「市民権」が得られていないので、使わないようにしてますが。でも、日本では、かなり年齢のいった女性に対しても、親しみを込めて、「お嬢さん」って言いますね(特に、おもいっきりテレビのみのもんた)。でも、そういう感覚で、ギグー女史に「マドマゼル」と呼びかけるのは、「C’est tres mal」なんでしょうね。

66Sekko:2006/05/22(月) 21:58:18
ギグー女史
 そうか、ギグーさんと政治的な話をするということはなぜか考えつきませんでした。彼女が私を覚えているかどうか知りませんが、彼女のENAの同級生が私の町に住んでいて、バロック音楽好きなので、私たちのコンサートにも来たのです。で、その人の奥さんがガボン出身のジャーナリストで、前のだんなさんがガボンで殺されたとか、その子供がうちの向かいの小学校に通ってて、そのガボンのジャーナリストが旦那の同窓生であるギグーを看板にして、アフリカの女性の会みたいなのをやってて、そこのテーマソングみたいなのを私のトリオの友人が作曲して、私の別の友人(いっっしょに踊ったことがある)に歌わせて、それにみんな当然ながら社会党が関わっていて、でもうちの町はUDF之市長で。ギグーは隣町から国会議員の選挙に出てて。しかし途中で私のダンスの友人である歌手とガボンが喧嘩して、そのうち作曲者である私の親友のゲイと歌手も冷たい関係になり、間に入った私もあわててと、なかなか複雑な関係になってまして・・ギグーみたいなビッグネームをつれて歩いてるとみんな権力とか利権に迷うようだし、特にガボンのジャーナリストはほとんど虚言癖だったんですよ。目いっぱいギグーを利用して。私の周りにはmilitants socialistes が多いのですが、EXPOをしてもコンサートをしてもギグーとか来ると即政治色ができて、私は敬遠しています。
 ギャルソンは黒人の奴隷や召使を何歳でもボーイとかガールとか呼ぶのと同じですね。アフリカのフランス人宅では今でも黒人をボーイとか平気で呼んでます。アメリカの初期、南部では、黒人の人口の五分の三が統計に入れられました。黒人男一人につき五分の三人前だったわけです。
 マドモワゼルだとはっきり分かってる知り合いにだったら、マダムと言って訂正されることもありますね。まあ普通はマダムですね。娘とお店に入って「ボンジュール、メドモワゼル」とか言われたら、うれしいというより不愉快です。財布を持っているほうを尊重しろ、と言いたくなります。朝市などに行ったら、誰にでも「マ・プチット・ココット」とか声をかけてますね。

67古川利明:2006/05/23(火) 20:37:40
ギグー女史
 そうですか、フランスも結構、狭いですね<特にENA人脈。ギグー女史は本来は何をやってる人なんですか?(弁護士とか、下院議員とか)。セゴレーヌの方はなぜか、脚光を浴びていますけど、ギグー女史に関してはその後、あんまりマスコミで取り上げられることもないですよね。ジョスパン内閣の閣僚になるくらいですから、社会党員なんでしょうけど、たぶん、セゴレーヌみたいな上昇志向はない人なんでしょうね。で、フランスの女性なんで、子供の4、5人くらいはいそうな気がしますが。しかし、そのガボン出身の「自称・ジャーナリスト」というのも、相当、胡散臭いですね。まあ、左派で票が割れてもしょうがないですけど、彼女あたりは大統領選への「色気」はないんですかね。セゴレーヌよりはいいんじゃないかと思うんですが。

68Fusako:2006/05/23(火) 22:11:29
女性専用車両
わたしは、「チカンがこわくて通勤電車に乗れるか、ってんだ」という見解ですので、女性専用車両は使いません。
で、今回、女性専用車両導入に際しての各社のお知らせをちょっと見てみましたが、「安心してご利用いただくために」というのが説明でしたかね。「痴漢」という言葉はなくて、明示的な説明はないままに日本人は全員でなんだか納得している(外国の方にはどう説明するのでしょうね。アラブとは全然違いますでしょ。)、というのが、「日本的」なのではないかと思った次第です。

69Sekko:2006/05/24(水) 16:07:36
なぜヴァティカンが?
どうもこのコーナーが宗教・哲学と関係なくなってきたんで、ちょいと戻して。
来週発売の読売系週刊誌からダ・ヴィンチ・コードについてのコメントを求められ短ですが、どの程度載せてもらえるか分かんないので、ここで宗教についての部分を敷衍しときます。
 『> ▽イエスとマグダラのマリアの関係にスポットをあてて、
> 物議を醸した映画は過去にもあったと思うのですが、
> 欧米ではどうして、こういう“異端”が受けるのでしょうか。

 キリスト教が欧米の成り立ちの根幹にあって、キリスト教権威との桎梏の中で「近代」を築いてきたという歴史があるので、基本教義について共通の了解があるからこそ、異説が意味を持つのでしょう。しかし、実際は、紀元4世紀頃までのキリスト教世界は、教義についてもいろいろな説を持ついろいろなグループがある多様なものだったのです。さまざまな「発掘」文書はそれを示しているに過ぎません。
 その中で、一定の聖典を採用したローマ・カトリックという宗派がたまたまヨーロッパの母胎になり、そこから派生した欧米文化が近代世界のスタンダードになった形です。でも別に「欧米キリスト教」以外のグループが無理に闇に葬られ「秘密」となったわけでなく、イスラムの勃興などによって自然淘汰されただけでしょう。そういう異説の文書が中近東で発掘される度に、やれ秘密だとかタブーだとか騒ぐのは、「欧米のキリスト教のみが正当な(正統の誤変換ではありません)キリスト教」という欧米中心史観が揺らぐからかもしれません。
 もう一つは、先のムハンマドのカリカチュア騒ぎのように、今の欧米には、うっかりフィクションにもできない本物のタブーのテーマがあります。イスラム教についてや、ユダヤのホロコーストについてです。これらについてはいくらフィクションだと言っても、威圧的なロビーはいるし、原理主義者テロリストはいるし、否定的なことは書けないのが現実です。
 これに対して、カトリックの教皇などは自由にカリカチュアにされています。いくらスキャンダルになったといっても、同じキリスト教文化圏の表現の自由ということで、宗教側の成熟や余裕が感じられます。
 もちろんキリスト教原理主義者もいるにはいますが、ダ・ヴィンチ・コードのスキャンダル程度では、所詮内輪ネタではないでしょうか。
 日本でも、過去に雑誌がホロコーストはなかった式のタブーを犯してユダヤロビーから叩かれたり、悪魔の詩の翻訳者が殺されたり、危機管理が出来ていないのを露呈してきました。でも、どうやらキリストネタやヴァチカンネタはお目こぼしの書き放題だと気付いて、ダ・ヴィンチ・コードに関するキリスト教側の反応をおもしろおかしく記事にしてるようですが、見苦しいです。日本のメディアにも皇室ネタをはじめとして厳然たるタブーがあると思いますが、多文化の内輪もめネタを垂れ流していると、タブーとそれをめぐる地政学からますます目をそらすことになるのではないでしょうか。
 キリスト教についてフィクションの中にある間違いや曲解について、それがある程度の影響力を超えたら、教会側が態度を表明するのは当然だと思います。権威とはそのためにあるのですから。それが結果的に本や映画の宣伝になったとしても、それをきっかけに、キリスト教の歴史などを知ってもらいたいというキリスト教メディアも少なくないようです。伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

70あんとに庵:2006/05/25(木) 04:00:49
なんと
>伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

そのアンケートの数字は頭が痛いですね。しかしフランスもキリスト教に関して無知な人が増えてきたということなのでしょうか?それとももともと潜在的にそういうのを信じやすい人がいるということなのでしょうか?
しかし、キリスト教の伝統のある、ある程度は教育が行き届いた国ですらそうなわけですから、アジアなどで教会が困って反ダ・ヴィンチ・コードを表明したのは無理もないかもしれません。ヴァチカンが重い腰を挙げた事情も分ります。
もっともお祭り好きのイタリア人はバチカンの反応で却って見に行く人が増えちゃったようです。それでもおっしゃる通り、これを機会に歴史を勉強するのも転んでもタダでは起きない的でよいかも。

71Fusako:2006/08/11(金) 09:13:39
東京新聞
本日の東京新聞朝刊25面にカルトに関連して竹下さんのコメントが載っていましたね。
東京新聞を手近で調達できない方は、Googleのニュース検索で、「カルト」で、今なら簡単に読めます。

72Fusako:2006/08/11(金) 09:14:43
追伸
「カルト」で、というのは、このタームで検索して、という意味です。言葉不足でしたので。

73Sekko:2006/08/15(火) 16:13:16
カルトのこと
 この東京新聞の取材は旅先に追いかけられてきたんですが、なかなか言い尽くせなくてあせりました。このことでラジオのインタビューも最近受けました。私の『カルトか宗教か』の本は、もちろんオウム事件を念頭において書いたのですが、それにしても、あの事件の後、日本人は全然学習してなさすぎ。ある人に、『あの事件で日本人が学んだのは[オウムは悪い宗教、だからオウムやその流れの宗教には入っちゃいけないし、その出身者やそこにいる人を排斥しよう]ということに過ぎない。別のカルトが別の教義でやってきたら免疫がないのだ』と言われました。ピンポイント学習で応用力はゼロ。ショックです。
 社会における宗教は何らかの意味で、共同体の人間にとっての「超越」(人はどこから来てどこへ行くのかなどの問題)のモデルを提供しオーガナイズする社会的サービス機関であり、宗教の仮面をつけたカルトは、その中の特定の人間やグループの利益を図る営利グループです。そもそも「人はどこから来てどこへ行くのか」などの問題は、思春期にすでに発見する問いであるはず。そんな頃に受験のスキルばかり教えないで、問いの立て方や、伝統宗教における答えのモデルを教えておくことで、青年期にそれに反発したり問い続けたりできるわけです。試験の設問の答え方だけ習った優等生が「いい大学」に入って、実存的な問いをよそおったカルトにやすやすと取り込まれるのを見るとがっかりです。でも、いい大人だって、こうやって脳を鍛えろとか、こうすれば人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るとか、(実はその裏に、そうしないとボケるとか、嫌われるとか、下流になるとか、老けるぞとかいう脅迫的言辞が張り付いてるんですが)ハウツーものや奇跡のメソードやお得な製品に心を惹かれ、「だめもと」で信じている人が多いんですから、若者を愚かだと笑う気もしません。マインドビジネスはビジネスのとこに本質があるんですから。変なカルトの原動力になるのは大抵金か性欲か権力欲のどれか又は複合で、ある意味単純なのですから、みなさん、バランス感覚を養い合いましょう。ダヴィンチコードでキリスト教に関心を持つようになった若者をキリスト教系カルトが狙うというのも情けないことです。まずまともそうな本を読み、話を聞きたくなったら、日本基督教団かなんかのお墨付きの老舗の教会などに行って気軽に質問してみましょう。日本のキリスト教業界の方、すでにいる信者の世話ばかりではなく、人生における問いの立て方と答え方のモデルを広く啓蒙してください。そう、正しい問いの立て方は、「どうやったら脳を鍛えられるとか、人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るのか」とかいうのではなく、どうやったら他者の役に立てるのか、自分より弱い人の力になれるのかということなんです。ちゃんとした宗教はみんな究極には「利他」を説いてますよ。自分の問題は自分のできる範囲でできるだけ他者を悲しませないようにクリアして、後は、自分より喉の渇きを訴えている人をみつけて水を分けましょう!

74Fusako:2006/08/17(木) 22:34:59
日本の宗教
日本は緩やかな多神教の国、と思っているのですが、緩やかな=強制の少ない、多神教の=多元的な価値が共存する、だったら、それはけっこう素晴らしい状態でしょうに、なぜかそういう社会でもないような感じがします。一見強制ではないけれど同調への圧力が極めて強くて個人を個人として活かさない、とか、多元的な議論が成り立ちにくく、「和」が良しとされる、とか。
そういう同調の「和」の仲間内的組織からはじき出される、あるいは、そういうものを求める心性に、「マインドビジネス」がつけこむように思います。
わたしは特定の宗教は信じていないのですが、個人を超えたものがあるという感覚を持つ、という意味での宗教心はとても大切だと思っています。そういうのは、教育の中の宗教教育で教えられるものなんでしょうか。
日本で、「ご先祖さま」とか「お天道様」「世間」といった言葉で表現してきた「個人を超えるもの」に対して敬虔である心、これが本来の宗教心に近いような気がしますが。

75Sekko:2006/08/20(日) 15:36:12
日本の多神教
 新陳代謝=外部とのエネルギー交換のない「仲間内組織」はそうしても全体主義に傾斜しますよね。日本の多神教とは、単に神が多数あるというのではなく、複数の神を信仰してもOKというので、先祖神、氏神、自然神、竈神、道祖神、その他、何とかに効く神、と多様性を認めることで、一神教とは、「他の神を拝むな」という排他性に本来の特徴があります。だからこそ、巧く機能すれば「神の前の平等」のような人工的な一種、逆説的「非宗教」空間ができるんで、キリスト教もローマ帝国内では「無神論」だと非難されていたんですね。
 なんにしても、生きた人間の欲望が作る恣意的な規範でなく、個人を超えたシンボリックな規範を提示して、それに敬虔な気持ちを抱かせるようにするという工夫や演出の積み重ねが人間の知恵であり続けたのでしょう。その意味では、集合的「ご先祖様」や「お天道様」はいいとして、「世間」の規範は、あまりにも人間的すぎて、ちょっと、と思います。人は世に連れ世は人に連れ、というんで、時代や所や力関係によって変わりながら抑圧的に働くことの多い「世間」は、一番厄介かもしれません。
 また、宗教心とか霊性というのは、多くの人間が二律背反的に意識してしまう「心と体」や「生と死」を統合するものとしての「超越」をさすのでしょう。そんな「統合のモデル+規範+期待の空間」が宗教の基本なのかも。

76Sekko:2006/08/29(火) 18:27:03
一元論と仔猫殺し
 個人のメールの方に、近頃ネットを騒がせている(?)女流作家の猫殺しについての意見を求める質問が来ました。猫を避妊手術する代わりに自然な出産をさせて、生れた仔はがけから落として殺すと言う話だそうです。
もうひとつおしゃべりルームに『バカの壁』を読んだ方からこんなコメントが。

{「一元論を超えて」ですが、ここでの「一元論」は竹下先生の論考の「善悪二元論」に相当します(と思います)。
「一元論」(竹下先生の論考の「善悪二元論」)を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなければならない(p,201)、という「常識」重視の立場、論考から結論を得てられます。}

それを受けて
{「一元論」「ニ元論」「それを超える論」について、竹下先生に整理していただき、解説していただきたいものです。}
というコメントも。

それで、まとめてここに日頃の考えを書きます。

 まず私は真実はひとつでないとか、全ては相対的であるというポストモダン的言説に組しません。
 もちろん真実は皿の上に盛られて出されてくるようなものではなく、我々と対象の係わり合いの中に生れ、ものさしともなり、それを導いてくれるもの、のような感じです。養老さんの話で「一元論」というのは、「許容できる真実はひとつしかなく、よってそれに反するものは全て偽である」という意味で、つまり一元的価値によって「裁く」という善悪二元論につながるということなのでしょう。一元論とは全体主義的ともいえます。一神教が善悪二元論に傾きやすい傾向を持つことは『アメリカに・・・』の本にも書きましたが、この二つは必ずしも一致しないので、気をつけてください。善悪二元論は権力保持者が一般に陥りやすい傾向です。
 そして一元が悪いから多元がいいという話も要注意です。多元による分割はコミュノタリスムの罠に陥りやすく、多元間の対立や競争を招くからです。
 それで、どうしたらいいかというと、類として(つまり生物学的な条件を共有する人類として一元的で普遍的な価値観を中心に共有して、その周辺部は個人レベルまで徹底的な「多様」を許容し、保護し、残すという立場に私は賛成しています。共有すべき価値観というのは、国際倫理規定にある『全てのヒトの誕生と死を含めた生命のサイクルを安全に全うさせることが善で、それを阻むものが悪』というやつです。
 その際、ヒト以外のものの生死や、あるいはヒトの誕生する前や、前世や、死んだ後のことは、それぞれの文化や文明や伝統や革新や流行や趣味の多様性に任せる。ただ、生れて息をした瞬間から最後の息を吐く時まで、この間は、いかなる理由でも互いに傷つけあったり殺しあったりせず、できるだけ守りあい助け合って、それぞれの寿命をまっとうできるようにしようということです。
 死んだ後の審判とか生まれ変わりとか、前世が何とか、そういうのはそれぞれの文化や宗教の任せです。しかしどんな古い伝統でも、権力の都合でも、「他のヒトを生贄にする」とか「典礼として特定のヒトを傷つける」とか、「ヒトにヒトを殺させる」とかはやめていこうとするものです。
 ヒト以外の動物はというと、唯一、「ヒトから固有名詞で呼ばれている動物についてはヒトに準ずる」とありました。(逆にヒトなら名もないAさんでも権力者や家族でも軽重はつけない)
 ヒトには生れて間もない仔猫を食べる飢饉の状態もあれば文化もあるかもしれないし、犬猫を食べるとか、毛皮のために動物を殺すとか、牛は聖なるものだから食べないとか、豚は穢れてるから食べないとか、まあ、食物連鎖だけから言っても、ものすごい殺生のうちにたいていのヒトは生きているので、罪のないもの、石もてこの女を打て」じゃないですが、かなり同じ共同体に生きてるヒト(私の場合は自分の子が仔猫殺しをしたら大問題にすると思います)同士以外には批判的なことはとても言えません。
 いったん固有名詞をつけちゃったタマとかポチには責任が生じるのですが、それでも、うちの固有名詞つきの猫たちに牛だとか羊だとか豚だとかのキャットフードを与えていると、食物連鎖からいっても不自然だなあ、牛が猫に食われていいのか、などと嫌な思いをしてます。また私は蚕の幼虫系がすごく嫌いなので、タイの市場などで、それがゆでられて食用に山盛りになっていたら、吐き気です。益虫でも姿が怖いと殺虫剤です。それは個人的なので、他のヒトに不快を与えないように気をつけますが。(蚕の幼虫を食べるタイのヒトを見て叫ぶとか顔をしかめるとかしないように。)そしてうちの固有名詞猫でない猫の仔を間引く作家を批判などしません。もちろん「タマや、こっちへおいで」といいながら毒を盛るのはだめで、そういう人はヒトへのリスペクトも問題ある可能性大です。
 とにかく、「中心になるルールは守る、周辺は多様を受け入れてリスペクト」、これが大事です。簡単に聞こえますが、今も、毎日戦争やテロヤ死刑でヒトがヒトを殺したり殺せと命令したり、そうかと思うと、ちょっと他人と違うヒトや弱いヒトを差別したりいじめたり搾取したり、そういうことが茶飯事なのですから、毎日このテーマを反芻して肝に銘じていかないと、と、永遠のテーマになっています。

77:2006/09/06(水) 10:20:47
ポストモダン的言説
 養老,『バカの壁』にはポストモダン的言説が散見されます。メモには一つしか記していないのですが、   NHKのモットー「公平・客観・中立」   を俎上に上げて、NHKは神か?と論じています。公平・客観・中立などできる筈がない、という訳です。そうしたらNHKはどんな報道・言論をすれば良いのか、思考中止に追い込まれます。
 中教審の報告でも「人は平等である筈がない」という驚くべき言説がされていたと思います。人の個性を見れば、人権宣言を持ち出してきても、福沢諭吉の「人の上に人を造らず、」と言っても、二の句がつげないのですね。
 この点に関して、竹下先生から次のような敷衍する助言を貰っています(おしゃべりルーム 8/15 )。

    社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな    「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめ   くほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。

 ポストモダン的言説は「生き方を導く志向」を軽視ないし毀損する可能性もあるように思いました。

78古川利明:2006/09/19(火) 12:43:12
ローマ法王の発言
 ご無沙汰しています。例のローマ法王の「ムハンマドは邪悪」発言で、イスラム圏を中心に大騒ぎになっていますね。特にイスラム原理主義系の連中にしてみると、「待ってました! 格好の脅しのネタが入った」っていう感じで(いちおう、法王は後で謝罪したので)、そのへんのヤクザとあんまり変わらないという感じですが(笑)、しかし、法王も「軽率の謗り」は免れないでしょう。彼は何であんなに脇が甘いというか、はっきり言って、「アホ」なんですか。ヨハネ・パウロ2世だったら、「ありえなかった」んじゃないですか。で、カトリックの信者は誰もこのことを批判しようとしないのですが。別に法王は「神」ではなく、ただの「オッサン」ですよね。で、竹下さんのファンもだれ一人、これだけアクチュアルな話題にどうして質問を寄せないんですか。組織や共同体の中にいて、その組織や、さらには「己」を自己批判できてこそ、「真に自由な精神」だと私は思うのですが…。

79Sekko:2006/09/19(火) 23:47:47
やっぱこういう質問は古川さんから来るんですねえ。
 私がこの話題に飛びつかなかったのは、質問がなかったこともありますが、いくつか理由があります。
 まず、日本で、「一神教同士の喧嘩」と一部で見られるほどには、フランスでは、キリスト教徒とイスラム原理主義の温度差が大きすぎて、争いになっていないことです。伝統的なカトリック国はまた伝統的なガリア教会の国でもあって、ローマ法王の存在はあまりにも希釈されています。JP2は確かにメディアティックでしたが、涜神とか冒涜とかいうコンセプトそのものがフランスではアナクロニックになっていて、教皇という存在はJP2の頃から、辛らつなカリカチュアや悪趣味なゴシップ記事やスキャンダルにさらされるのは普通でした。
 同じことが他宗教のシンボルや教祖はもちろん、個人やセレブに向けられていたら名誉毀損で大問題になるようなものが、カトリック系では野放しで、だから逆にインパクトもなく、そこには、今のカトリックの鷹揚さと共に、長い間カトリック教会が権力を持って社会を検閲してきた歴史に対する購いみたいな暗黙の了解があるかのようです。涜神罪の復活だけは避けたいという了解でしょう。
 今回の話も、面白いギャグにこういうのがありました。誰かがジダンに、
「知ってるかい、全イタリア人が、ムスリムに非難されているB16を支援しているそうだ。」と言う。
「いったいそいつは何をしたんだい?」
「ムスリムの兄弟を侮辱したんだ」
「なに、今度は姉妹じゃなく兄弟を? 捨て置けないな、よし、そいつの
ナンバーは16だな、行って懲らしめてやる」
 という感じです。
 ギャグになることのもう一つは「教皇の無謬性」というやつで、今回の件に関して、B16は謝罪したわけではなく、遺憾の意を表明しただけですが、それを揶揄して、教皇は謝らない、なぜなら教皇は「無謬」で絶対に間違わないからだ、というので、ギニョールなどでもからかっていました。
 もちろんこれはわざとした誤解で、近代カトリック教会は教皇と公会議(司教会議)のどちらが権威があるかということでいろいろもめたのですが、一応、教皇は公会議の承認を受けなくとも新しい教義を公布できるという意味の教皇の無謬性が1870年に決まりました。でも条件はいろいろあり数回しか使われていず、聖母マリア好きのJP2が聖母がイエスを助ける救済者であるという教義を出すかと思われていたのも出さずに終わり、ましてや普通のことでは、教皇が、この前言ったことは違っていた、と誤りを認めることがあるのは当然です。
 まあ、今回のB16の発言は、歴史上の発言を引用しただけで、全体の趣旨は異宗教間の平和的な対話を望んでいることなので、「遺憾」でOKだったと私は思います。最も彼はドイツ人でホロコーストの責任問題を民族的に背負っているので、ユダヤ人とユダヤ教への配慮が繊細な分、イスラムへの脇が甘かったのかもしれません。(といっても今回のババリア訪問では当地ユダヤのラビの面会希望に対して返事しなかったそうです。中東情勢と関係があったのかは分かりません)
 しかしこの教皇は、ともかく、神の名において人の命を奪うのはいかなる文脈でも全て誤っていると明確に言っています。「冒聖」や「涜神」を理由に人を殺すのは悪だというのです。
 教皇が「遺憾」の意を示した同じ日、ソマリアの病院で、イタリア人の看護修道女が侵入したイスラム過激派に狙い撃ちで殺されました。70歳の修道女です。カトリックである以外に彼女に非のないのは明らかです。教皇の責任は、むしろこのような罪のない犠牲者を出したことでしょう
 しかし、今回のことは、単に「アホなおっさん」が「空気を読めなかった」というようなことでは決してありません。今年初めの例のデンマークのムハンマドのカリカチュア騒ぎと同じ根を持っています。デンマークのカリカチュアも、今回の教皇の発言も、普通に見たり読んだりして、どうして問題になるのか理解できないのです。
 フランスに、アラブ系のモアメド・シファウイというジャーナリストがいて、イスラム原理主義のプロパガンダに対する西欧諸国の政治家の温い態度を批判する著作をすでにいくつか出しているのですが、カリカチュア事件の真相を暴いた本を最近出しました。ようやく冒神罪のコンセプトを捨てた西洋に、イスラムがらみでまたその基準を蘇らせようとする政治家は、近代が獲得した精神と表現の自由に反するものだという動機ですが、彼の取材の結果は驚くべきものです。要約するとこうです。
 デンマークの事件では、新聞デンマーク一の部数を持つ日刊紙が、まるでゴシップ誌のようにムハンマドを揶揄して、良心的なムスリムがそれに傷つき怒り、西洋の他の国が軒並みそれにあわてて襟を正したという風に見えました。
実は、この新聞Jyllands-Postenは、コペンハーゲンのイスラミストのモスクでの説教を継続して録音し、翻訳して、掲載することで、すでにイスラミストから嫌悪されていたというのです。フランスでも、過去に、モスクでの説教を公開してムスリムのヒステリーを引き起こして中止されたことがあったそうです。金曜日のモスクでのアラビア語の説教はそれほど過激だそうです。
 そして、コペンハーゲンのイスラム過激派のトップは、アフメド・アブー・ラバンというエジプトのイスラム兄弟団の人で、エジプトから追われた後、ナイジェリアとアラブ首長国で働き、その後デンマークに政治亡命を認められた人物です。モアメド・シファウイは、シンパを装ってこの人物に取材して、ことの真相を知りました。アブー・ラバンは、オランダの映画監督テオ・ヴァン・ゴーグが2004年に惨殺されたことに共感していて、1993年のワールド・トレード・センターのテロの指導者でアメリカに投獄されているオマール・アブデルラーマンら、過激派のイマムたちとも関係があり、デンマークのムスリムのメディア代表の地位にあります。
 それで、カリカチュアが載った時、デンマークのムスリムを扇動しましたが、あまりにも大したことがなかったせいか、3パーセントしか動員できませんでした。フランスのムスリムもそうですが、ほとんどは、モアメド・シファウイと同じ穏健派で、一部過激派に批判的だからです。
 そこで、ことを国際的に広げようとしたアブー・ラバンは、実際のカリカチュアに、もっと猥雑で汚らしい偽物を付け加えて、関係者に送り、その偽物がアラブ世界の公式リアクションを誘発したというのです。その最初はエジプトでした。デンマークのエジプト大使がプロパガンダをアラブ連盟の書記長でもと外務大臣のアムル・ムッサに送り、それが2005年の10月から2006年2月までダマスからジャカルタに至る、大使館放火やテロや過激抗議につながったのです。皮肉なことに過去にアブー・ラバンを追放したエジプト政府はこのプロパガンダを規制したそうです。この事件の最中に元のカリカチュアを掲載した勇気あるジャーナリストもヨルダンやエジプトにいましたが、投獄された人もいるそうです。
 フランスで掲載した風刺週刊誌(そのおかげで私も目にすることができた)に対する訴訟はこの秋再開されます。
 ちなみに、このモアメド・シファウイの本のカヴァーにはアルジェリア系のイラストレーターのラモが、カリカチュアを描いています。彼らの身辺が心配ですが、「共和国の自由」のためにフランスのムスリムががんばってくれるのは楽しみです。

 この本の表紙はここで少し見れます。
http://www.amazon.fr/L-Affaire-caricatures-Dessins-Manipulations/dp/2350760316/ref=sr_11_1/171-2743065-3291405?ie=UTF8

長くなったので、一応これで。

80Sekko:2006/09/20(水) 00:05:24
あんとに庵さんち
 今、あんとに庵さんのブログを見たら、今回の教皇発言について他の方のブログも借りて分かりやすく解説してありました。私はこういうことを書くのは面倒だったんで、よかったらそちらをお読みください。9月19日のとこです。http://d.hatena.ne.jp/antonian/
 とにかく、この国にいたら、原理主義の足音があらゆるところから響いてくるんで、ほんと怖いです。今回モロッコに行って、相対化できてよかった。レポートをまた書きます。

81あんとに庵:2006/09/20(水) 22:06:54
ベネディクト16世問題
sekko様>いつもお世話になっております。
ご紹介戴き恐縮です。

信者からすると、「あの強面な学者教皇がなんとも脇の甘いアホかましたな。意外に抜けてるのな。」以上の感想しかないんですが。部外者である世の人のほうが教皇の無謬を信じているかのような反応にこれまた鼻白むことしきり。

古川さんだけでなく、ヨハネ・パウロ2世と比較する人も多いようですが、時代が違いますがな。笑)それくらい今難しい時代になっている。政治の現場ですら複雑化し、20世紀の指導者のようなカリスマが出にくい状況になっています。

ヨハネ・パウロ2世のカリスマ性を重視するのは危険です。そういう構造は実はカルト化しやすい。劇場型政治がどれくらい危険かはわが国の例を見てもわかるとおりです。その点脇が甘く、なおかつハンス・キュングという教皇と真っ向から対立する神学者を友人に持っているベネディクト16世の方がいいかもしれません。我々はその意見の対立の中でどのようにあるべきか思考することが可能になります。

まぁ閉じた場である神学校の講義があたかも公的に発せられたもののごとき扱いこそおかしいなとは思いますが、それでも教皇職というのはもう一学者ではいられないということを、今度こそラッツィンガーは自覚したでしょうね。

もとよりイスラム教が暴力を内在する宗教などとは思ってませんね。普通信者はみなそう思ってるでしょう。だから余計に反応が冷ややかではあるかもしれません。信者や司祭からは「教皇はポカやらかしたな」という感想しか聞きませんです。一部の第二バチカン公会議前の宣教師ぐらいか「教皇のいう通りや」などという了見の狭い反応していたのは。

82古川利明:2006/09/24(日) 17:20:27
場の空気
 竹下さんの書き込みを読みながら、ふと、思ったんですが、「9・11」以降、例の「文明の衝突」というロジックで、アメリカが旗振り役となって、イスラム原理主義を中心に、イスラム社会を必要以上なまでに叩いて、虐めている状況があるじゃないですか。確かに、法王の発言問題は、その説教の一部を引っ張り出し、過剰に反応しているという側面はあると思いますが、今、イスラム教徒がキリスト教文化圏(特に米英)で、どういう状況に置かれているか、「場の空気」が読めなかったのかなあ、と思います。都合が悪くなると、素人にはなかなか入っていけない「神学論争」で逃げるのはナンセンスだと思います。本来のアカデミズムも、明晰に、かつ、平易に語りうるものだと、私は思うのですが。

83古川利明:2006/09/26(火) 21:44:11
一過性の問題でしょうか
 それと、たまたま、昨日の毎日新聞の朝刊(25日付け)で、国際面の「東論・西談」という記事で、ローマ支局の海保真人記者が書いています。彼は私が毎日の大阪社会部にいたときの同じ持ち場のキャップだった人で、いちおう、それなりの取材力とニュースセンスを持っているとは思います。私自身は今のバチカンについて、細かいことはよく知らないのですが、ただ、記事では、一つに前法王との比較で、「ヨハネ・パウロ2世は、イスラム原理主義に潜む暴力的脅威を察知していたゆえ、世界のイスラム指導者と接し、共に祈り、平和を唱えた。結果、イスラム社会から尊敬され、『西側の敵』とみなされることはなかった」とあります。そして、その後段で、「西欧主義的かつ保守的な法王の今回の発言は一過性の問題ともいえない」とも。竹下さん、そのへんのあたりは、どういうふうに捉えておられますか?

84あんとに庵:2006/09/27(水) 23:11:12
神学の講義を「神学に逃げる」とはこれいかに?
神学論争に逃げるもナニも、それが為されたのはカトリックの神学校という閉じた場であり、原文読めば神学の話でしかない。つまりイスラム批判などではなく、あくまでも「主意主義」批判の話です。イスラム云々はタマタマ彼が最近読んだ本にあった記述で、そこに見出される事例から読み取れる神観はフランシスコ学派の「主意主義」にあるものでもあり、それがやがて宗教改革のちの神学世界、或いは西洋思想の世界に通じるという話であり、主知主義の再発見を促しているものです。つまり彼の主題は西洋に蔓延するニヒリズム的な思想や、或いは自由主義神学への批判でしょう。寧ろリベラルなプロテスタント神学、或いはリベラルなカトリック神学批判です。あと「信仰と理性」を強調している背景には、カトリック世界が今、このリベラル(理論が先に立つ)と保守(信仰がどっぷり系)が二分しているような傾向もありますから、後者をも批判しているのでしょうね。
この彼の神学論が果たして妥当か?否か?についてはわたしは沈黙する神の時代にどうなのか?と懐疑的ではありますし。教会至上主義な教皇の思考の一端を見たという感じで微妙に批判的になりますが、とにかくカトリックギョーカイ内の神学のミニマムな話であることに変わりはありません。

その「神学論争の場における神学の話」を、政治的な場に持ち込む発想そのものがいかにも宗教を政治的なものとしか捉えられない「ナンセンスな」発想でしかない。そういう場の言葉を一部切り取り取り上げ、政治利用し大げさに騒ぎ立てるマスコミの二分化した発想こそ、先ずアカデミズムへの侮蔑と聖域(神学世界)に生きているものの価値をまったく評価しない、ある種、原理的な視点を感じざるを得ませんね。

85Sekko:2006/09/28(木) 10:19:32
B16発言再び
 以下は『カトリック・ウォッチング』のコーナーにアップするつもりで書いたものです。でもこのコーナーでも引き続きコメントがあるので、長いですが、まずここに入れておきます。

B16の問題発言騒動について(2006・9・22)

 宗教哲学質問箱(2006・9・19)に、9月12日のB16がドイツで神学について講演した内容についてのイスラム世界の抗議行動への感想を書きました。B16の発言内容そのものについてはあえて触れなかったので、やや沈静化した今、内容についてコメントします。これについて、いろいろなフランス人のコメントを読みましたが、リベラルなキリスト教の立場からのものと、無神論哲学者の立場のものが同じことを別の角度と照明で観ているのが興味深いでした。
 B16の講演内容は、難しいと思われるかもしれませんが、今、西洋無神論の系譜についての本を準備している私には、とてもよく整理された分かりやすい内容だと思えて、参考になりました。同時に、それに対する無神論者の反応が、私のテーマの内容を検証するようなものであり、ますます自分的にはタイムリーなものでありました。全貌は私の「無神論の系譜」が仕上がってから読んでいただくとして、この欄でB16を擁護してきた私として、今回の話をこれまでの彼についてのこの欄とどう関係付けるかをコメントしたいと思います。
 まずフランスのリベラルキリスト教者の見方に沿ってみましょう。
 B16の講演の論点は、三つあります。
 a)キリスト教はユダヤ教の子供であると同じくらいギリシャ思想の子供でもある。つまり「信仰」と「理性」のバランスの上に立つ。
 b)次に、すべての宗教は暴力を排除して精神の自由を尊重しなくてはならない。
 c)最後に、行き過ぎた合理主義と共に、非合理的な狂熱に陥るような信仰を斥けなくてはならない。
 この三点は、B16がすでに主張してきたことで一貫しています。ここで注意してほしいのは、a)です。
 日本では、日本的アニミズムや多神教を差異化したいせいか、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の問題というと、「一神教」内部の問題だとくくりがちですが、ユダヤ世界で生まれたキリスト教が普遍宗教として発展したのはギリシャ語を共有するヘレニズム世界とそれを継承したローマ帝国でした。つまり、多神教世界だったのです。それから一時、同じ多神教のケルトやゲルマン世界の宗教と集合していくのですが、中世にもう一度、アリストテレスを再発見して、今日まで多大な影響を与えているトマス神学が成立したのです。
 これに対してユダヤ教は民族単一神から一神教に発展しましたが、多神教社会で何度も「偶像崇拝」の誘惑に負けては神に罰せられています。最後に現れたイスラムと言えば、一神教としてはかなり厳格なすっきりした偶像拒否のものですが、アベロエスやアビセンナというような大学者を輩出して、古代ギリシャ思想を復権させました。ヨーロッパのキリスト教は、彼らのおかげでアリストテレスらのギリシャ思想を再発見したのです。だから、思想的には、キリスト教もイスラムも、主知的なギリシャ哲学の洗礼を受けているということです。つまり信仰と理性のバランスをどうとるかという問題は、キリスト教にもイスラムにも共通のものであって、一神教同士が自分らの神の優越性を競っているという単純な話ではありません。
 明治の日本は和魂洋才を建前にしましたが、理性=科学=テクノロジーが世界に遍く力を持つ近代以降には、どの国のどの文化も、テクノロジーと産業のツールである理性に対して信仰や伝統をどう折り合いをつけていくのが大問題であるわけです。
 次にb)ですが、歴史上、宗教はたいてい権力装置と結びついていましたから、暴力装置を内在し、さまざまな蛮行を繰り返しました。それは別に「宗教」だからの蛮行ではなく、覇権主義独善主義に向かう人間の蛮行で、「人間だもの」の蛮行なんですが、テクノロジーが発展して蛮行の規模が大きくなり共倒れの全滅の潜在力を得た時分から、まあ平和への外交の智恵も進んできました。特に西欧カトリックなどの老舗宗教は、世界が非宗教化されていく過程で、権力装置と宗教を分けるという智恵に到達し、まあ、もう宗教の名で暴力を発動しないという合意にようやく達したわけです。
 しかし、イスラム世界は、もともとキリスト教風の政教分離が難しい上に、南北問題のあおりや、石油利権の問題、イスラエル問題もからんで、宗教の名のもとに暴力を発動する原理主義グループや戦闘的グループが生まれているので、理性と狂信や暴力の折り合いは今現在の大問題になっているわけです。しかも数からいうと少数であるはずの原理主義者たちは、情報社会のネットワークをフル活用して、少しでもネタ(カリカチュアにしろB16発言にしろ)あると、正確な「情報」でなくプロパガンダの「狂熱」をあっという間にイスラム世界全域に広げてしまいます。
 原理主義者でないムスリムはもちろんこの状況を憂慮しています。
 フランスのムスリムへのアンケート調査では、宗教にかかわらず全ての人間の平等を認めるというのが94パーセント、政教分離に賛成するのが73パーセントとあります。ここでのフランスのムスリムとは三分の二がフランス国籍(移民の二代目や三代目が多数派)で三分の一が外国籍の、両方を含みます。成人の半数が三〇歳以下です。男女平等には91パーセントが賛成、たとえフランス以外のイスラム国においても一夫多妻や不倫女性の石撃ち刑には反対というのがそれぞれ79パーセントと78パーセント、88パーセントがラマダンを守り、43パーセントが日に5回の祈り、週一モスクへ行くのは17パーセントだそうです。フランスのカトリックで毎週教会へ行く人よりは多いという程度でしょう。
 問題は、ムスリムがキリスト教に改宗することについて、受け入れられない、許さないとするのが45パーセント、自由だとするのが46パーセント(無回答9パーセント)というところです。
 これは、近代ヨーロッパの理念の一つで基本的人権の一つとされる「信教の自由」の問題です。人は必ずどこかの共同体の中で生まれますから、普通は当然「親の宗教」を受け継ぎます。成人してからもその宗教を捨てたり離脱したりすることはどこの社会でも許されませんでした。異宗教間の婚姻が不可能だったり、棄教者は共同体から追放されたり殺されたりもしたのです。ヨーロッパでは異宗教間どころか同宗教間でも新旧争いで血を流した時代を経たので、この「信教の自由」を抜きにしては「近代」理念は成立しませんでした。「信教の自由」のある空間、これがフランスでは「非宗教空間」という仮想の共和国聖域なわけです。
 このフランスにおいて、ムスリムの45パーセントも互いのイスラム離脱を許さないと答えているのを、共和国主義に反する由々しきことと見るか、イスラムでさえ46パーセントが他宗教への改宗を自由としているのはさすがフランスだと見るか、難しいところです。どちらにしても、「信教の自由」は、「寛容」と結びついています。「親の宗教」は家族や親族の価値観や先祖をどう祀るかという問題と関わっているので、それを捨てるか捨てないかというのは情緒的な問題でもあります。そこで「個人の自由」を基本的人権と認めるのは、情緒を制御して平和に他者と共存する理性の働きでした。情緒からはなかなか「寛容」は生まれません。
 また宗教そのものが寛容と相いれないとする考えもあります。それは宗教が基本的に「蒙昧」であって理性とは相いれないと言うことにつながります。それに対して、B16は、キリスト教はギリシャ哲学の理性とパレスティナ宗教の信仰という二つの流れを持っているのでバランスがいいと言っているわけです。今回の発言の要旨は、信仰は、蒙昧頑迷ではなくて、人間に共通である普遍的な理性に従わなくてはいけない、ということです。そして理性に従うことは決して神の意志に反することではなくむしろ神の本性につながるというのです。
 これに対して、イスラムでは、キリストのような「人になった神」をたてないので神はまったく抽象的超越的であるから、理性という人間的なものは意味をなさない、という議論が古来からあったという例をB16が引いたので大騒ぎになったのです。この文脈で、イブン・ハズムという人が、絶対超越者である神は、自分の言ったことに責任を持つ必要もない、何でもありだ、と言っていたと孫引きしたのですが、このイブン・ハズムという人は、実は非常に主知主義的なイスラム神学を批判した人だったわけです。前述したように、キリスト教神学がギリシャ理性主義を取り入れたのは、イスラムの学者たちによる古典ギリシャ哲学の発見のおかげであったぐらいですから、イスラム世界はすごく知的で理性的な流れの伝統(アヴィセンナやアヴェロエスなど)があり、蒙昧とはほど遠かったのです。しかし誰かが理性的になると、原理主義や狂信の側にふれる人も必ず出てくるわけで、神は絶対不可知の存在だからすべての理性的議論を無化するという人も出るのです。
 B16は、アヴィセンナなどが信仰を理性的に語ったことに触れずにイブン・ハズムの言葉を出したものですから、まるで、イスラムは理性的でない、キリスト教は理性を重んじる、みたいにとられてしまったということですが、別に一般向けの講演でなかったのでそのへんが誤解されるとは思わなかったのですね。趣旨は、宗教や信仰の問題を力で解決してはならない、理性で解決しようということで、宗教者としての自戒だったのですが。
 ややこしいのは、B16は、蒙昧主義は原理主義や聖戦主義(これはイスラム原理主義やテロリストに限らずキリスト教原理主義や十字軍の侵略や異端審問の蛮行も含めて)批判しているのですが、同時に、理性主義や近代主義の行き過ぎが招いた信仰やモラルの喪失や相対主義の罠に対しても、同じくらいの危機感を持って批判していると言うことです。 特に、ヨーロッパ近代は、キリスト教自体を母胎にして生まれた事情があります。絶対的一神教とちがって、キリスト教の特徴は、人であり神であるというイエス・キリストという仲介者をたてて、そこに聖霊も加えて三位一体の神を信じるところです。
 「絶対神」対「人間」の関係の時は、神が絶対王権みたいなもので、神の言葉は一方的に通告、神罰も一方的、だったのが、人間であるキリストを通じて、少しずつ人類という議会が王と交渉できるようになったという見方もあります。王権の一部委譲、立憲君主制みたいになって、教義の解釈や適用に柔軟性が出てきた。悪く言えばご都合主義、良く言えば時代や人類の文化、政治、科学の発達などの条件に合わせて宗教を発展させてきたわけです。しかし、こうして民衆を王宮に招き、人間を神の領域に招いていると、少しずつ、民衆は王を必要としなくなり、人間の「理性」は「超越的な神」を必要としなくなっていきます。近代理念を生んだ「啓蒙主義」の時代は、無神論をも生んだのです。
 そして、それが「西欧の神」と「西欧の無神論」であった次代は、まあ同じことの裏表というか表裏一体をなしていたので、互いに支え合って共存できたわけです。しかし、ポストモダンの時代になって、多文化多宗教が混在してくると、文化相対主義というのが生まれ、西欧的キリスト教にとっては、実は、これが「無神論」よりも深刻でやっかいなものでありました。なぜなら、すべてを相対化してしまうと、「絶対神」も、「絶対善」も「真理」も、「絶対理念」も、「民主的多数派の支配」も意味をなさなくなってしまうからです。それでもまだ冷戦のイデオロギー対立があった時代は、仮想敵や善悪がはっきりしていたのですが、そしてJP2も自由陣営側で戦えたのですが、冷戦が終わると、「キリスト教無神論」よりもっと始末の悪い「相対主義的無神論」が自由陣営に蔓延している現実に目を向けざるを得ませんでした。それと戦うために、冷戦下の自由の戦士だったJP2は、晩年には頑迷な保守主義者と言われてしまうのです。
 B16もそうです。主知主義のインテリで、第二ヴァティカン公会議でもカトリックの近代化のためにがんばった彼は、JP2が倒すことに成功した「マルクス主義的無神論」の後で、今度は資本主義世界の「ポストモダン無神論」と戦わなくてはなりませんでした。B16は教皇になってから大きく言って三点で「反動」姿勢を打ち出しています。
 まずJP2が認めたダーウィン主義の見直し、科学の中に「知性ある摂理」を盛り込もうとするニュアンス、遺伝子医学への批判などです。第二に啓蒙主義批判、理性はキリスト教的限界と共存すべきであること。第三に、政教分離の侵犯というか、遺伝子治療に関するイタリアの国民投票で信者にボイコットを呼びかけたことです(効を奏しました)。
 まあ、大手宗教のトップがこの手のことを言うのは、ノーマルというか、それはまあいいのです。問題は、「西欧近代」とともに、少しずつ政教分離して非宗教化してきたと思われていた世界で、1970年代の終わり以降、イランのホメイニ革命に象徴されるような原理主義的傾向があちこちで台頭してきたことです。そして、「ポストモダン的無神論」と戦って保守化するキリスト教も原理主義的カラーを帯びて、イスラム原理主義と競合するように見えることです。それで、「一神教同士の内輪争い」などと言われたり「宗教が悪い」と言われたりして、「ポストモダン無神論」の倫理なき拝金主義や歯止めなく環境を破壊する産業主義が野放しになる現実があります。

 この状態を、近代主義理念を創った「キリスト教無神論」の哲学の側から見てみると次のようになります。
 世界のコンセプトには二つあり、その一つは、宇宙は精神と物質とに分けられるというものです。たいていの独裁者や独裁体制はこのコンセプトを採用します。なぜなら、独裁を、従属させられている側が「理性的に批判」するのを封じるために、自分たちの独裁の権利は「超越的なもの」によって保証されていると言うためです。それが無神論の共産主義国家でも同じです。彼らの独裁を保証するのは神でなくとも、イデオロギーでもいいのです。だから法治国家によって追われることを恐れる独裁的指導者たちは、キューバでもボリビアでもイランでも、けっこう連帯し合ったりするのです。
 もう一つのコンセプトは宇宙には一つの実体しかなく、エネルギーも精神もマチエールの中に含まれているというもので、社会をオーガナイズするには、その宇宙の調和を自分で考え出さなくてはなりません。これが宗教指導者や理想主義者や国家主義者や民族主義者を含むグループで、自分たちが価値観やルールを創出できると信じています。それを押し付けるために血を流すのもいといません。
 しかし、この世界の諸問題、政治的暴力や経済的不公平を解決するには、そのような原理主義者や独善主義者や覇権主義者たちに殺し合いをさせて多くの犠牲者を出すほかないのだろうか。我々は、火にかけた牛乳が煮こぼれるのを防ぐために見張るように、彼らの暴走を常に見張っていなくてはならない。

 このキリスト教無神論の見方では、B16の反動もイスラム原理主義者の反応も同じカテゴリーで、神の代理人のような宗教指導者やイデオロギーの化身みたいな扇動者は等しく「要注意」ということのようです。「我々」という彼らの宇宙のコンセプトがどちらなのかははっきりしません。これは『シャルリィ・エブド』(風刺週刊紙)のフィリップ・ヴァルの意見で、彼は、『シャルリィ・エブド』がムハンマドのカリカチュアを掲載したのは、キリスト教側からのイスラム批判のためではなく、価値観の押し付けに対する表現の自由のためだけであったことを強調したいわけです。確かに『シャルリィ・エブド』はキリスト教や教皇や政治家のカリカチュアはもっと派手に、時には悪趣味に出し続けています。

 理性と信仰のバランスの問題は確かに大きな問題ですが、バランスの問題だけではないような気もします。精神と物質とか精神と肉体の問題も同じです。それが離反していると自覚してしまう人間だけがその統合も必要とするのかもしれません。「知・情・意」という言葉がありますが、知性と感情の他に、意志をもって進んでいくには、ある光に照らされる必要があるのでしょう。その光を求めたのが「啓蒙」思想だったのだとしたら、その光を守っている限り、啓蒙思想のいろいろな展開は、キリスト教無神論もふくめて価値を持ち続けていると思います。
 同じ光が宗教のリーダーたちを照らしてくれることを願いましょう。

 さて、ヴァティカンは、時期外務大臣にフランス人のマンベルティ枢機卿を任命しました。彼はコルシカ人の父を持ち、モロッコのマラケシュ生まれ。イスラムにも強く、ラテンにも強い頼りのありそうな人物で、パリの政治学院を卒業、パンテオンのパリ第二大学法学部で公法の学位も持っています。
 今回のB16の「失言」について、B16は発表するすべての文を自分で書き、最後の最後まで自分で推敲するので、担当官がチェックする暇がないという指摘がなされていました。現在の世界の宗教的緊張の中で、一国の首長がその発言にどんなに気を使っても使い過ぎでないというのは正論です。しかし、教皇は政治ではなく聖霊によって選ばれ聖霊によってインスピレーションを得ているはずの宗教の長でもあるので、外務担当官の用意した無難なコミュニケばかり読み上げるとしたら、たとえ「失敗」や「揚げ足取り」を避けられたとしても、何か大切な部分を失う気がします。
 馬鹿げた自主規制や行き過ぎた政治的公正がはびこる世界では批判的精神は痩せてしまいます。B16は経験ある神学者で、理性の行き過ぎと信仰の行き過ぎの両方を戒めて試行錯誤している人なので、信ずるところを自由にしゃべってもらうのは悪くないと思います。「次の選挙」だの「お世継ぎ養成」だのを心配しなくていい世界で唯一の首長なのですから、時々メディア的に墓穴掘っても、それで世界中の人にようやく注目してもらえるのだから、どんどん平和主義的正論を言ってほしいですね。JP2は二〇世紀末にカトリックの蛮行をいちいち謝罪して回っていました。その後から出発するB16にはまた彼なりの使命があるのでしょう。
 ともかく、誰がどこでどんな「失言」をしたとしても、「復讐」を唱えて暴力を行使するのは間違いなのは確かです。それを言うのすら遠慮しなくてはならないとしたら、表現者が生きていくことはできないでしょう。これからのB16の言説に引き続き注目したいです。しかし「失言」だけじゃなくて聞くべきことをたくさん言っているのに、最も注目されるのが「失言」とは皮肉ですね。

86古川利明:2006/09/28(木) 21:29:34
法王の発言の重み
 あんとに庵さん、一つだけ意見を言わせて頂いても宜しいですか。私はこの発言が、例えば、現場の無名の神父さんの発言でしたら、「あー、そうですか」で済みますし、そもそもニュースにもならなかったと思うのですよ。しかし、法王はバチカンのトップで、法王庁はいろんな国とも外交関係を持っているわけですよね。そうした「立場」にある、いわば「公人」たる法王の発言は、例え、神学校の場であっても、もう少し慎重であるべきじゃなかったんでしょうか。法王の発言というのは、ものすごい重みがあると私は思います。それはおそらく、バチカンの歴史的、政治的、そして宗教的な重みの中から出てきていると、私は思うのですが。

87Sekko:2006/09/29(金) 19:56:50
命を狙われる言論人
 今朝、ラジオで、イスラミストから家族(妻と娘)もろとも命を狙われる哲学教師Robert Redeker が2日ごとに引越しする潜伏先でインタビューに答えているのを聞きました。B16がらみで、9月19日にFigaro紙の論壇で「イスラミストの脅しに対して自由世界は何をすべきか」という論考を載せたからです。次の日、チュニジアの内務省がこのフィガロを発禁処分にし、続いて、原理主義グループからの弾劾判決ファトワが発せられたのです。
 私がショックだったのは、これについて、教職員組合が彼を支援しなかったことです。フランスには「哲学教師=無神論者=反カトリック=左翼=親アラブ」という根強い伝統があり、誰かがカトリックを批判することで教会や保守主義者から弾圧や統制を受けると、すぐに連帯して表現の自由のために戦います。しかし、そういう左翼インテリの伝統のせいでイスラム原理主義には脇が甘く、しかも、攻撃されたのが伝統的に彼らの敵であるローマ法王ということで、そのローマ法王をかばう形になったルデケールの記事に冷たかったということです。この哲学者は2001年の11月、の「ル・モンド」でもイスラム原理主義の批判をして、普通なら9・11の後でもあり無難だったはずが、やはり「イスラム嫌い」ということで哲学教師組合から追放されかねない騒ぎになりました。
 ところが、実際、ルデケールは、フランスの「哲学教師=無神論=左翼」の一人ですから、今回のことも、別にローマ法王をかばったのでなく、表現の自由に対する暴力的反応に怒ったのだと思われます。確かに表現は少し過激でしたが、それによって、彼と彼の家族が命を狙われるというのはまったくの理不尽であるのは言うまでもありません。ルデケールは記事の内容については後悔していない、自分は充分に言葉を選んで書いた、と言っています。もちろん誰かが信念を持って何かを書いても、それが一部の人に忌み嫌われたり、誰かを傷つけたり、社会的に抹殺、糾弾、無視などされることはあり得るでしょう。しかし、それでも、少なくとも身体の安全は守られるというのが自由世界の最低の保障であるべきです。
 たとえ、責任ある一国の長や大手宗教の長が「失言」しても、その個人や彼が代表する国やグループを即攻撃するなどが許されていいはずはなく、話し合いによる解決に向けて努力するべきで、ルデケールもそういう意味で論じたわけです。ラマダンの期間に入ったこの時期、一人の哲学教師が、共和国の中で、仕事も捨てて潜伏を余儀なくされ、妻子もおびえなくてはならないとしたら、まさに異常事態です。
 だから私は、むしろローマ法王みたいに、独身で、選挙区や跡継ぎなど個人的に守るものが何もない人に、リスクを負って平和の正論をどんどん言って欲しいのです。でも、そのせいで罪もない修道女がアフリカで殺されることや、カトリック教会が過去に自由の敵で弾圧と暴力の装置だったからといって、今の状況に連帯せずに口をつぐむフランスの「左翼インテリ無神論者」には我慢できません。「失言」のもとがローマ法王だからといって、「宗教同士のいがみ合い」と矮小化しているうちに、怖いことになりそうです。日本でもすでに禁書の訳者が暗殺された事件もありました。危機管理だけの問題ではないと思うのですが・・

88あんとに庵:2006/09/30(土) 09:40:26
古川様
表現の自由を謳うマスコミが、表現者の意図を曲解し間違ったイメージを流布した。そういうマスコミこそ批判されてしかるべき一件でしょう。まぁマスコミ人が国語力がまったくないというか、知性がないというか、哲学思想の知識がかけらもないので理解できるトコに反応しただけかもしれませんが、そうでないなら意図的にそこを切り取って政治の場に教皇を引きずり出そうとしたことになりますね。そういう動きのほうを警戒したくなります。

これが逆転していたらどうだったんでしょうね。イスラム教徒の指導者がキリスト教に関する批判的とも言えることを言ったために西側諸国の人が暴力に出た。という構図だと。日本人なら暴力に出た西側の人間に怒りをぶつけるでしょうねぇ。

教皇発言は批判されてもいいけどそれはその言論、つまりここではあの神学講義に対して為されるべきであって、「周りに気を使え」倫理を持ち出すのは知的放棄の何者でもない。ましてやsekkoさんが仰るとおり言論に暴力を持って応じるはたとえどんなものであっても愚の骨頂です。

ただ。わたくしもブログに書きましたが、古川さんの仰るとおり「教皇職」というのは神学者でいることは赦されない。その辺りどう振舞うかは確かに問われるものではあるでしょう。(ただ、カトリック神学校の講義まで公的な対象者向け的なものとして扱われるってのは学の現場としては激しくつまらないなぁ。)

また、前教皇との比較、ステロタイプな評価等は、チョムスキーのいうまさになんらのコントロール下に置かれているとは言えます。前教皇は現教皇と保守性においてナニも変わりはない。表象に見えるポーズに騙されちゃ駄目です。前教皇はレーガン、もしくは小泉並の演技者です。

89あんとに庵:2006/09/30(土) 09:44:26
いや流石です
しかしsekkoさんの16発言への所感は流石です。
べね16さんのあの回りくどいうにゃうにゃした文章よりずっと整理されていて判りやすいです。

90Sekko:2006/10/10(火) 06:38:38
公務員の責任
 前回書いたロベール・ルデケールの話(組合の支援を得られないことについて)をフランス人にしましたら、公務員の発言は中庸で穏健であるべきだという教育大臣の言葉にあるように、公務員だからそういうことを書くべきではなかった、と猛烈に反論されました。国家公務員はある意味でフランスを代表する立場にあるのですから、外国にいる同国人(この場合はイスラム国にいるフランス人)を危険に陥れるような言動は許されなかった、と言うのです。確かに日本でも教員や裁判官はプライヴェートでも風俗に行ったり賭け事をしてはいけない、とかあったのを思い出しますが、それは品位の問題で、危機管理とは違いますね。イスラム原理主義がらみで殺された方は国立大学の先生でした。彼の場合は自分だけの被害でしたが。ルデケールの書いたものは確かにいたずらに原理主義者を刺激する口調でしたが、それが彼の信ずるところだったとしたら、署名記事だったのですから、書く権利はあったと思うし、新聞社が載せたということ自体の責任も大きいと思います。
 B16もそうですが、つくづく、テキストとコンテキストということを考えさせられます。文と文脈。文も発言も、どういう時期にどういう場で誰に向かって発させられたのかを抜きにしては存在しません。その意味ではコーランの内容がどうとか言うのも同じで、福音書の中の平和主義者のイエスの言葉だって、文脈を無視して取り出したら、その辺のカルト宗教と変わらないものもありますから。B16がコンテキストを曖昧にしたまま歴史文献を引用したのは不用意であり、その発言をまた、コンテキストを抜きに取上げてプロパガンダに使う原理主義者は卑怯であり、その緊張状態の最中に、危機状況を読まず火に油を注ぐような発言をフランス公務員が書いて、それを載せた新聞も挑発と取られても仕方ないのかもしれません。
 先週の月曜、ヴァチカンはヴァティカンにいるイスラム国の外相を全て招いて、対話路線の続行を強調しました。こういう対応を見ると、B16がただの「宗教の長」や「公務員」でなくて独立国の元首であることの強みを感じます。彼がぽかをしても百戦錬磨のスタッフがついてるし、テロに萎縮したり居直ったりしないで、逆に話し合いのきっかけにもって行くのはいい対応でした。B16のトルコ訪問も含めてこれからどう展開するか注目です。
 トルコと言えば今日シラクがアルメニアで、アルメニア人のホロコーストを認めないとトルコのEU参加は不可能みたいなニュアンスでしゃべって、アルメニア人を喜ばせていました。ジャック・シラクでJ・C、イエス・キリストと同じイニシャルなので、その気になってすっかり博愛主義になったと揶揄されていました。

91古川利明:2006/10/02(月) 21:21:03
よくわかりません
 ひとつは竹下さんの意見も読ましていただいたのですが、あまりにも長すぎて、主張されたいポイントが掴めないのが、まず、あります。「法王の発言の趣旨自体は正しい。しかし、引用等に不適切な部分があったのではないか」ということなのでしょうか? 明快さとわかりやすさを求めようとしている、竹下さんにしては、いつもの歯切れのよさがないように感じます。それはそうと、あんとに庵さんですが、「表現者の意図を曲解し、間違ったイメージをマスコミは流布した」とありますが、これはいったい具体的には何を指すのですか? 要は「マスコミの一連の報道は、ただの揚げ足取りで、そのことにより、神聖なる法王の名誉を傷つけたことは、許せない」という趣旨なのでしょうか。私はこの世に100%正しく、善なる人間はいないし、逆に100%間違っていて、悪い人間もいないと思っています。しかし、あんとに庵さんの考え方を推察するに(竹下さんも、このカトリック問題に関しては、どうも、少しそういう傾向があると思いますが)、「法王の言ってることは100%正しいのだ」という独善性のようなものを感じます。そこには、「批判」を受け入れる寛容性があまり感じられないのです。ひょっとして、今度の問題も「私たちは、いわれのない迫害を受けているのだ」というふうに感じておられるのでしょうか? そして、これだけ世界を巻き込んだアクチュアルな話題だというのに、ほかの竹下さんのファンの方々の書き込みがないのも気になります。賛成、反対、批判等々、いろんな立場から談論風発があっていいように思うのですが……。私自身の立ち位置、そして、意見はありますが、いろんな意見、もちろん「反対意見」を言う権利と自由だけは、絶対に守らなければならないと思っています。私は法王発言の存在まで否定しているのではないんです。でも、その発言を巡って物議を醸した背景にあるものは何なんだろうと、そこについていろいろと意見をぶつけることが大事ではないのか。そういうふうに思っているだけです。

92Sekko:2006/10/02(月) 23:18:05
私の立ち位置は明快です
 B16発言内容についての解説は、カトリック・ウオッチングに入れるために書いたもので、もともとカトリックの動きやB16の「文脈」に関心を寄せている人のためです。
 今回の事件、カリアチュアからルデケールも含めて、私の信ずるところは単純です。なんびとも、その表現が犯罪を構成しない限りは、表現の自由を有するというものです。フランスで言うと、私文書、公文書の偽造や詐欺や誇大広告などはもちろん、人種差別撤廃法に触れるなどもそうです。名誉毀損は親告罪でしょう。しかし、フランスでは、カトリックの力が強かったことと戦ってきたという歴史があるので、宗教についての表現の規制は現在ありません。涜聖罪もありません。つまり、宗教や神や教祖や聖者について、どんなに悪口や偏見を書いてもそれだけでは罪を構成しません。特定の宗教リーダーについての悪口なら、その教祖が名誉毀損で訴えることも可能ですが。
 つまり、今のフランスでは、たとえばアラブ人がアラブ人だということを理由に侮辱すれば差別罪に引っかかりますが、ムスリムと原理主義者とテロリストを混同しても、それは信教や思想のグループなので、罪になりません。言論上で議論がなされればいいことです。同時にイエスやマリアやマホメットや仏陀について悪意を持って書いても罪になりません。
保護する対象になるのは、自分で自由に選べないこと(障害者であったり、女であったり、肌の色が違ったり特定民族であったり、など)です。
 フランスでも、王や神や教会の悪口や批判を書いて冒涜罪や涜聖罪になった時代がありました。今は違います。
 聖書のここがひどいとか、コーランは暴力的だとか言うことは、間違いではありえても罪ではありません。公務員も、哲学教師のルデケールが学校で生徒や学生にイスラムの悪口を言ったら問題ですが、それでも、教育大臣は、内輪の勧告をすればよかっただけです。公に批判すべきではありませんでした。ましてや公務員といえども、一公民として、生徒でなく一般読者に向かい、一般新聞に署名入りで自分の考えを(たとえそれが妥当なものでなくとも)発表する自由はあるし、それがフランスで罪を構成していない限り、そのことで自由や安全をおびやかされてはなりません。
 フランスの教育大臣は、その自由の保障こそ、世界に向けて発信すべきでした。世界には、特定権力の押し付ける冒涜罪や涜聖罪のある国がたくさんあり、そのような国で、権力を批判したり、基本的人権や男女平等を主張して投獄されたり殺されたりする人は多く、さらにもっと多くの人が、言論を封じられたり恐れながら生きています。自由と安全を望んでいるそんなサイレント・マジョリティたちは、ヨーロッパで起こっていることをどう見るでしょう。「空気を読む」ことや「原理主義者を刺激しない」ことが、表現の自由(挑発する自由、失言の自由、間違いを犯す自由も含むみます。古川さんの言うように、100パーセント正しい人はいないのですから。)に優先するかのような昨今では、原理主義的な少数者の独裁下で自由を奪われている人たちを絶望させるでしょう。そりゃあ、フランス人は、自国の大使館が焼き討ちにあったり、パリにテロが仕掛けられるのは嫌なので、原理主義者の神経を逆なでするのはよくないと思うでしょう。でもそれは、恐怖に負けたエゴイスティックな保身ですよ。
 力がまかり通ると法は引っ込むんです。「法的な罪を構成しない限り表現は表現者の責任において自由である。」この基本に到達するために、キリスト教ヨーロッパは何世紀も血を流してきたんですよ。
 だから、私は、その原則に立って、B16には謝罪の必要がないと言っているのです。内輪的には、巻き添えになって焼かれた教会や殺された修道女のためにも反省すればいいと思いますが、彼のように、内容的(イスラムを弾劾するものではなかった)にも文脈的(カトリック神学部内部での講義)にも、本質的な間違いを犯していない場合、彼が保守的宗教人間だからというだけで、その表現の自由と安全が制限されるものではないと思います。ましてや、過去にカトリックが異端審問や火刑や十字軍などいろいろな蛮行を犯してきたという理由で、今のカトリックのリーダーが基本的人権を制限されるべきではありません。それなのに、法王を糾弾しないとカトリック・シンパだからだと思われたり、あるいはルデケールのように、イスラムを糾弾すると狂信的なやつだ、原理主義者と同じ穴の狢で危険人物だと叱責されたりするのはおかしいのではないでしょうか。
 宗教の経典がそれを生きる人間の世界と連動していくのは当たり前で、こんなにひどいテキストがあるなどと、外側からや内側から疑問や批判の声が上がることで、自己批判したり、解釈を変えたり、民主主義や基本的人権といった普遍的価値と折り合いをつける試行錯誤がなされていくものでしょう。モーツアルトのオペラでクレタの王がマホメッド(他の賢人もですが)を批判しているので上演禁止とか、シェイクスピアの「ベニスの商人」が反ユダヤ的だから上映禁止とか、歴史的文脈を無視して芸術表現を規制する動きもあります。心と精神を拡張しないと自由はありません。
 宗教や軍事やイデオロギー独裁の多くの国で恐怖のうちに生きている多くの人々と連帯するために、今のフランスや日本のように表現の自由を保障されているはずの法治国家の表現者は、恐怖に負けずに正論を唱え続けるべきではないでしょうか。

93あんとに庵:2006/10/07(土) 05:12:22
バイアスがある
古川さんは、教皇文書を読まれたのでしょうか?
普通に国語力があればあれがイスラム批判が主眼ではないことはわかることです。

尚、私は教皇も当然批判しますよ。「神聖な教皇」なんてチャンチャラおかしいですね。教皇も間違いを犯す人間に決まってます。私の文を読んで教皇批判が出来ない人間だと判断を下すようなそういう感想しか抱かれないというのはきついようですが読解力を疑います。どうして今回の事件に関してマスコミ報道の仕方がおかしいといっただけで、そういうものの見方になるのか不思議です。それこそまさにある種のメディアコントロール下にあるというか、洗脳されたものの見方ではないかと思ってしまいます。

まずもって、イスラムの暴力を引き起こした報道の仕方は果たして正しい為され方だったのか?これは教皇文書をきちんと読むならば、イスラムに関連した文書のみ特化して持ち出し煽った方法論こそ問われるものではあるでしょう。
日本の報道に関してはあまりにも酷いとしかいいようがありませんね。これが逆にイスラムの識者、もしくは無神論者が同じようなシュチュエーションで糾弾されても私はその人をかばうでしょう。問題は「カトリックの教皇が批判された」ことではなく(教皇がくそなことを言えばわたくしも容赦なく叩きます)「発話者の意図を曲解」して反応した原理主義者やマスコミの受け止め方です。発話者がどういう立場であれ、本人の意図と関係なしに物事が一人歩きしてしまい、それが既成事実化するというのはメディアによく見られる現象です。

ですので今回の事件に関してはまさに報道の問題がまずあるでしょうね。
尚、教皇の影響力を大切に考えているのは寧ろ古川さんだという感じなのが面白いです。わたくしは教皇なんぞのいうことは普段はあまりいうこと聞かないほうなので、下らないことをいうならスルーしてしまうから今回も初めは真剣に受け止めませんでしたが、世の中のほうが大騒ぎになったので、真面目に注視してみたという感じです。

94あんとに庵:2006/10/07(土) 05:30:00
教皇職ということ
sekkoさんと意見が多少異なるのですが、教皇職というのは一神学者ではいられないという厳しい立場であるとは思います。この点に於いて古川さんの仰る「果たして教皇として適切であったか」という問いには、やはり「教皇」として脇が甘かったというしかない。本来は自らの意見を述べる自由があるのは理想なのですが、現実としては人の命に関わるという難しい立場ですね。ですので古川さんの主張もよくわかります。

しかし暴力を前にいうべきことをいえないということは例えば信徒達が人質に取られているかのごとき状況下で暴力化していくナチズムへの批判が出来なかったあの時代へ逆戻りしてしまうといえます。この点に於いてsekkoさんが主張なさっている暴力を否定し、言論の自由を守るべきというご意見に賛同します。

一部の暴力的な人々のせいによって、ムスリムが誤ったイメージをもたれることもまた懸念します。

95KAORU:2006/10/10(火) 12:07:27
B16がくれたもの
古川様、あんとに庵さま、竹下先生。B16の発言に関する皆様のやりとり、勉強になります。
しかしながら(古川さんの疑問に答えることになりますが)、ものすごい論客たちを前にして話すべき内容を持ち合わせていないというか。
ただ、古川さんの『教皇として発言は慎重であるべきだった』というところは分かる気がします。どっかの知事が大学などの講演でこんな発言をしてた、というのを批判する記事はよくあるし、それを読んで私たちはいろんなことを判断します。でも、もちろん、皆さんのおっしゃるようにだからといってそれを暴力に結び付けてはいけないと思います。
B16の発言について、新聞などではほとんど詳しい内容は分かりません。たぶん私が読み落としているだけなのだと思うのですが、新聞を軽く読む限りでは『教皇の発言が一部のイスラム教徒に批判されて教皇は遺憾の意を表した』ぐらいにしか読めませんでした。だからマスコミの報道の仕方がおかしいというお話もなんだかピンと来なかったです。ただ、私はマスコミというものについてあまり信用していないので(つまりその報道の仕方は往々にして偏りがあり、世論を煽ろうとする傾向もままあると思っているので)、これがとても興味のある話題であったならいろんな方面から調べただろうなぁとは思います。そして、マスコミを判断する材料をまた増やしたことでしょう。
で、私は、宗教の世界もこの掲示板のようにガシガシ言いたいことが言えたらいいのにと思いました。暴力とかじゃなくて、例えとっかかりは揚げ足取りだったとしも、こんな風な言葉によるバトルはいいことではないかと思います。いろんな立場の人がいていろんな考え方があって、立場を変えればこうなるんだなぁ〜って考える想像力ってとても大切で、それがなければ互いに寛容になれはしないですよね。暴力のない平和な世界を築くためのキーワードのひとつは寛容ではないかと思っています。
なんだか、脈絡のない文章でスミマセン。自分で言いたいこともよく分かってないし、それにも増して文章力がないんですけど、私も何か書きたくなっちゃって口を挟みました。
考える機会を与えてくれたB16に感謝です。

96古川利明:2006/10/10(火) 21:53:38
相変わらずよくわかりません
 皆さんの書き込みを読みながら、非常に世の中の現実から遊離しているなあと感じます。まあ、竹下さんはジャーナリステックなところもきちんと踏まえているので、たぶん、今度の教皇発言問題が、どういうところで世間を騒がせているかというのはわかっていると思います。教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。すごく私は、とりわけ左派的な市民運動にありがちな独善性と排他性を感じます。「反戦平和」だとか、「憲法改悪反対」だとか、誰の目から見ても文句がつけようのないフレーズを、目を吊り上げて言って、それで満足しきっているっていうのか(そういうのは、案外、女性が多いですよね。でも、別に女性一般がすべてそうだとは全然、思っていませんので、念のため)。たとえ説教のうちの全体のごく一部であれ、あのムハンマドの引用に、どうしてイスラム系の人たちが過敏に反応してしまったのか、そこに目をやって考えてみようとする精神のしなやかさと、想像力が欠けているのではないかと、私は思います。まあ、「マスコミ報道は低劣だ」と言うことで、自己を正当化するしかないんでしょうが、そんな姿勢でいると、より世の中から遊離してしまいますよ。なんていうんですかねえ、もう少し「清濁合わせ呑む」ようなキャパを期待するのは、私のないものねだりというものなのでしょうか(苦笑)

97Sekko:2006/10/10(火) 23:57:49
あるジャーナリストの死
 日本では多分北朝鮮の核実験(地震とか誘発しないのですか?)のせいで目だっていないと思いますけど、先週末、チェチェンを支援しプーチンの批判をしていたロシア人女性ジャーナリストが自宅の前で銃弾を4発受けて暗殺されました。都合の悪いことを言われたら力で圧殺、ペンを剣で斬って捨てるというのは、宗教原理主義だけではありません。
 「教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。」と古川さんは書いておられますが、これが誰が聞いてもごもっともでないところが問題なんですよ。「隣人は牽制、うちだけが大事」、「民族、宗教が違うと連帯なんて不可能だし、する気もない」、と思う人のほうが多いし、動物としての生存戦略としてもほとんど自然です。
 そこを、あえて「不自然」な理想を唱えるのが宗教家だの「左派市民運動の女性」だのだとしたら、それは貴重なのではないかと今は思います。私も「市民運動家」とか風紀委員とか委員長みたいなのって苦手だったのですが、この時代、もしあらゆる宗教のリーダーがそろって「汝の隣人を愛せよ」と信者に言ってくれたら嬉いですよ。ローマ法王、あんたが目を吊り上げて暴力を糾弾し平和を唱えなくてどうする。
 清濁併せ呑むキャパばかりが支配すれば、目を吊り上げて清を唱える人はいつの間にやら濁から殺されるのです。
 まあ、実際の戦略は、突撃で解決するものではなく、交渉、取引、妥協とか、雌伏とか、いろいろやらざるを得ないのは当然ですが、それこそ、役割分担の妙があってもいいと思います。宗教家と称する人は、神の名で人を殺さず、理性と愛が大事と説けばいいし、感情をむき出しにして市民運動をする人や、ヒューマニズムに駆られて戦地に赴き人質になって国に迷惑をかける人がいてもいいのです。そんな人がまったくいなくなっちゃったら、その方が怖いですよ。だって、「清濁併せ呑む」技は、それこそ微妙なバランス感覚を研ぎ澄ませ続ける必要があって、「清」や「濁」に振れる人あってこその高度な技ですから。そして、「清」に振れる人を揶揄するより、「濁」に振れる人をきっちり批判しましょう。
 まあ、古川さんの言ってること(相変わらずわかんないと言ってること)はなんとなく分かりますけど。でもまあこの話題はこの辺ですね。考えるタネに移民と奴隷の話を近くUPしますので、それについてまた感想を聞かせてください。

98聖アシジのフランシスコ(前世):2006/10/30(月) 01:38:55
本来の環境保護に目覚めましょう。
私の独り言2006/最終内容。より多くの人に愛が届きますように!
これから私が話すことは、ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
何が正しくて、何が違っているという内容ではなく、まず私の主観をおつたえします。経済そのものが生きずまり、大変な状況のように思えますが、
景気も回復し大丈夫のように見た目ではそう思います。しかし、地球環境からして考えるに、起こっている社会の実態とスクラップ・アンドビルドは
個々の気づきを促し、それぞれのカルマが刈り取られ成功しているようにみえます。しかし、地球環境=経済の実態は密接な関係にあります。用は
日本国内においては多くの人が無駄に働き(非効率)、環境を破壊しながらエネルギーを生産、それを稼ぐために余分に働いているのが実態です。
神から出た無限のエネルギー(ソーラーパネル)は活用されず、金儲けの手段に成り下がり、豊かな国であるはずなのに、貧乏を好んでいます。
多くの国で稼いだお金は預金され、金が金を生むと金貨極上のごとく信じています。
無限のエネルギーを活用しなかったら、今後必ず、危機を生むことでしょう。
私が思い、涙が出てた内容は、悪の連鎖の行き着く先は、地球の崩壊はもとより宇宙の崩壊にいたることでいす。今の宇宙は7度目の宇宙です。
近隣の惑星の方に迷惑をかけることとなるでしょう。
全人類のカルマを日本人が全て刈り取るか、そのまま見ていて、最後の審判を拡大させ、多くの方の命を消し去るか。地上に天国を作るか、多くの人を本人が気づくまで待つて手遅れになるかです。
多くの富を抱え込んだまま、滅んでいく日本の姿は、世界の7不思議となるでしょう。
地球環境から見てもう時間がありません。お金もうけで地球は救えないのです。
まずは地球あっての、各個人のカルマの刈り取りが可能であり、地球あっての審判です。
スクラップ・アンドビルドとは悪の国アメリカのやり方です。
神の国日本は、創造的・破壊です。言葉の通り受け止めるべきだと思います。
創造が先です。でなければ、悪のエネルギー連鎖反応がおこり、その後は誰にも止められません。
経営上はスクラップ・アンドビルド有効です。
しかし、地球を消し去ってから取り戻せないと思うのです。


私のような若いものでも、財政赤字、北朝鮮核問題、省資源、過労働、殺人、犯罪。これらのすべての原因は一つだとわかります。、神の無限のエネルギーの蛇口をひねれば、地球は救われるのです。自分たちを救う前にまず地球が先です。地球あっての私たちです。ファチマ第3の予言も、因果の理法、エネルギー連鎖反応からして、地球の最後を女性の宇宙人が通告した内容です。
タイムリミットは、マヤ暦が終わる2012年12月22日、このタイムリミット地球崩壊をさすものではありません。
しかし、地球が崩壊しないとも言い切れません。私たちの未来は不確定性理論です。
これらのことは、地球に住まわせてもらっている私たちと宇宙との約束事です。
その約束を果たす時が来たということです。

ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、またある人には、生活には困らない。ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
ですから、人の話は、半分聞いておいてください。全てを信じたらだめです。あなたらいしすばらしい個性が無くなるからです。
あなたの良きインスピレーションにお役立てください。

一消費者より、無限の愛をこめて。

99Sekko:2006/10/30(月) 05:30:07
これ何ですか?
下のこれって、「宗教」というキーワードに反応して来るスパムですか?
それとも、善意の警告メール? 「私のような若い者でも」とあるから若い方なんですね。
どうかもう少しリラックスして楽しいことを考えたりしてみてください。「無限の愛」ありがとうございました。

100:2006/12/26(火) 02:26:14
Massimo from Amsterdam
Shu no go-koutan oyobi shin-nen no o-yorokobi moushi agemasu. Watakushi wa ahita kara Roma de shin-nen o sugoshi masu. Takeshita-sama no rainen no go-takou to go-katsuyaku o o-inori moushiage masu.
Koko suujitsu, watakushi wa, "ika ni shinu ka?" to "ika ni ikiru ka?" itsuite kangaete imasu. Kitto sono hutatsu wa onaji koto ka, arui wa sugoku chikai mono dato omoi masu.
Tanoshii kyujitsu o!

101Sekko:2006/12/26(火) 08:36:16
よいお年を
 ローマでお正月、いいでしょうね。私は、母と石垣島でお正月です。私は沖縄は初めてです。3年前に私の息子が母に那覇での正月をプレゼントしたので、今度はもっとディープなところになったみたいです。
 今、聖ヨセフについての本を書いているんですが、聖ヨセフはカトリックで早いうちから「善き死」の守護聖人だったんですよ。死のシーンは福音書には出てこないんですが、聖書外典などを通してすごく有名だったんですね。イエスは彼の実子じゃなさそうだし、妻ともセックスレスの関係だったとされていて、普通に考えたら味気ない人生にも思えるんですが、血縁とか結婚じゃなくても、他者(聖母子)の人生に親密にかかわって他者の命の役に立てたということで、生と死が充実して完結したのかもしれません。イエスの生と死はそれをさらに先鋭化したと言えるのかも。血を分けた子を得て自分の財産を継承させたいなんていう願いの方がよくあることですが、そんな基準をぶっとばしている彼らが「聖家族」としてキリスト教社会のモデルになっていたことって、なんか新鮮だなあとこのごろ思ってます。
 いかに生きるかといかに死ぬかは一続きなんでしょうけど、そしてキリスト教の伝統の中には善き死の準備みたいなのがずっとありましたが、事故とか天災で死ぬこともあるし、終わり方はなかなかコントロールできないと思うので、とりあえず生き方にポリシーを持っとくべきだなあ、とか思ってます。

102:2007/01/08(月) 22:24:33
S.Etienne
Sei Joseph ni kansuru go-hon o kaite orareru tono koto, totemo tanoshimi desu.
Joseph to iu sei-ja wa chimei-do no takasa no wari ni minkan shinkou no level dewa jimi na sozai to iu ki ga shimasu. Gensei-teki na gan-kake niwa imahtotsu yowai youna....
1962nen ni toki no houou JohnXXIII ga missa no shiki-bun no naka de sei-jin namae o rekkyo shita inori-bun (Communicantes)??ni Joseph no namae o kuwaeta toki no kyoukai naibu no han-nou mo sorehodo ookiku nakatta youdashi.
Sonna jimi na kare no shirare zaru bubun o, mata sude ni shirarete iru bubun mo atarashi shiten de shoukai shite itadaketara kitto tanoshii deshoune.
Tokoro de, Watakushi no temoto ni Etienne to iu sei-ja no sei-ibutsu ga arimasu. Kin-iro no youki no chuuou no garasu goshi ni sono hone to nahuda(?) o miru tabi ni "Ittai donna hito?" to omoi, kensau suruto machi no namae shika dete kimasen.
Sokode shitsumon desuga, Takeshitai-sama wa sonna sei-jin kiita koto arimasuka? Moshi?? St.Etienne ni tsuite nanika go-zonji deshitara oshiete kudasai.
Yoroshiku onegai itashimasu.

103Sekko:2007/01/09(火) 13:04:14
St.Etienne
サン・エチエンヌは、町のサッカーチームが強いので、検索しても真っ先に町の名が出るんでしょうか。でも、すごくメジャーな聖人というか、使徒です。最初の殉教者といわれる聖ステファノ、ステパノのフランス語読みです。石打刑で死に、使徒言行録に書いてあります。聖人の名はヨーロッパ各国でそれぞれ読み方が違いますが、(ペトロがピエールとかピーターとかピョートルとかパブロとか・・・)確かに、ステファノとエチエンヌは想像つきませんね。ステファノは有名だから、フランスにもステファンヌという男の名があります。Stephanと書くんですが、an はフランス風鼻母音でなくアンで、フランス人は「ン」をうまく発音できないので、ステファヌと聞こえます。ドイツならシュテファン・ツヴァイクとかいますよね。英語圏ならStephen となり、ステファン・キングとか。とにかくメジャーな名です。フランスではエチエンヌもステファヌも女性名っぽい響きですが、一応男性名です。女性ならStephane と語尾にe がつきますが発音は同じですね。なぜ、ステファンがエチエンヌなったかという音韻変化の話はまた別のことです。Massimoさんが最初の殉教者の骨を持ってらっしゃると想像するのは楽しいですね。

104:2007/01/09(火) 21:21:17
Bikkuri shimashita
Sou dattn desuka. Etienne wa Stephen datta towa souzou mo shite imasen deshita. Benkyou ni narimashita. O-tazune shite yokatta desu. Totemo kuwashii o-kotae o arigatou gozaimashita.
Jitsu wa, nafuda niwa tsuzuki ga atte, "S.Etienne de Mur???" to aru node, sakihodo "stephen" no keyword de kensaku shita tokoro, kare wa St.Stphen of Muret (St.Etiennede muret) to iu10seiki no shikyou datta koto ga wakari mashita.
Saishyo no junkyou dewa nakatta keredo, mattaku betsu no jidai, betsu no bashyo de ikita hito no jinsei no konseki to kakwatte iru nnoga totemo fushigi na kanji desu.
Itsuka St Etienne no yukari no chi o otozurete, jimoto no kyoukai ni sei-ibutsu o kizou dekitara kuyou ni narukana, nadoto kangaeru watakushi no seishi-sei wa kanari nihon-teki desune.

105ふじやさだすみ:2007/02/09(金) 08:19:10
不思議の国
サウジアラビア」読了。P.187[常住坐臥」は行住坐臥では? 然し、坐臥に常住はアラビアならでは。ともあれ、ペラペラに軽い著作の濫発は玄侑宗久に変る所無し。HPが派手な所も共通。とはいえ、開けて看る様では、やはり浮薄。慙愧。

106Sekko:2007/02/09(金) 18:30:56
ミスです
 ご指摘ありがとうございます。タイプミスによる誤変換がそのまま通ってしまったケースですね。残念ながら、どの著作にもこのような単純ミスはもちろん、勘違い、思い違いを含めいろいろなミスがあります。こちらで把握してるものも読者に指摘してもらったものもあります。重版で訂正できたものもありますが、いずれ、正誤表をこのサイトに載せるつもりです。単純ミスはまあいいのですが、事実関係の誤認もたまにあって、申し訳なく、気になっています。ミスに気がついた方は、質問箱ではなく、著作紹介の感想コーナーに入れてください。正誤表に反映させます。なお、この質問箱では、人生相談などはOKです。このサイトは、ネット上の健康相談に感激した後、自分も質疑応答のボランティアができたらという動機から作ったものなので、そのへんをよろしく。

107Greencurry:2007/02/10(土) 21:38:17
合格祈願
こんにちわ。いつも楽しく拝読しています。日本は今受験シーズンです。この時期に神社などへ行くと「合格祈願」だとか「合格お守り」だとかの文字がよく目に付きます。
で、ふと疑問に思ったのですが、キリスト教の方々は目的に応じて行く教会を選んだりするんですか?「聖女の条件」の中でリタを聖人としている教会に訪れる人が多いというお話は載っていましたが、例えば私なんかは学問の神様は菅原神社、病気平癒ならここ、縁結びはあっち、という風にいろいろ使い分けていますが(←神様に失礼?)そういうことをキリスト教徒の方もするのですか?
私は聖人の話を読んで、日本の神道の神様みたいだなぁと思いました。聖人も神様も得意分野があって、それにあわせて人々に利益を与えている感じがして。
でも、フランスでどこの教会へ行っても、神社のように看板があって「聖人:○○、○○に効きます」なんていうのは見たことないし。日本のように気軽な感じではないのでしょうか?

108Sekko:2007/02/11(日) 03:27:14
聖人について
 キリスト教(といっても特にローマ・カトリックの話ですが)の聖人信仰は確かにそれ以前にあった多神教の神々を置き換えた面があって、得意分野別というのがあるにはあります。そして、その分野別やら、また自分の洗礼名や出身地や職業などの守護聖人をひいきにして祈願するというのはよくあることですし、この病気にはこの聖人が効くという本なんかも出ていますから、気軽に(あるいは必死に)祈ってる人もいるでしょう。別にその聖人のチャペルのあるところに行ってろうそくを捧げなくてはいけないということもないです。でもそうしたら、もっと「効く」ような気がするのは東西を問わず同じですね。ただ自分と相性のいいマイ聖人を信仰している人もいます。詳しくは『聖者の宇宙』をご覧ください(今年中に文庫化される予定あり)。
 それで、話の核心はこれからです。実際、困ったときの神頼みという民衆のレベルでは、自助努力や自己責任のピューリタンや無神論者と違って、カトリックの人や大多数の日本人は、まあとりあえず祈願しとこう、いいということには何でもすがろうという、同じ行動をとります。でも、今は21世紀、ちょっと考えたら、合格祈願することでみんな合格するなら試験は存在しないようなものだし、年に一回5円や10円の賽銭を投げてすべての人が学業成就とか病気の平癒とか商売繁盛とか、機会均等にかなえてもらえるとは、だれもすごく真剣に信じてませんよね。この辺のあまりのムシのよさというのを、みなどう処理しているのか、あえて考えないでスルーしているのか、私はいつも疑問でした。初詣の人ごみの中で、中には病気の快癒など真剣に祈って千円札を投げている人もいるのに、私のどうでもいいような願いを神が気にとめるはずがない、優先順位というものがあるはずだ、あるいは人事を尽くして天命を待てというように、まず努力をし尽くしてどうにもならなかった人が救われるべきだ、となんとなく思っていたのです。
 ところが、キリスト教の聖人信仰には、その基盤に「代祷」というのがあるのです。その根拠がはっきり現れてるのは旧約のヨブ記の42−7〜9 です。簡単にいいますと、ヨブは神の前にすごく善人で、彼の3人の友人たちは、悪いやつなんです。それで神は悪い友人たちに腹を立ててます。当然彼らは神に懲らしめるだろうと思いきや、神はこういいます。「私はお前たち3人に対して怒っている。・・・・しかし、今、雄牛と雄羊を7頭ずつ私のしもべのヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえを捧げれば、私のしもべヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。・・・お前たちに罰を与えないことにしよう。」そして彼らはそれを実行し、神はヨブの祈りを受け入れました。
 分かります? 神の怒りをかっている悪いやつでさえ、聖人にとりなしてもらえたら、助かるんです。代祷システムとはこういうことです。そこを踏まえないと、何か、聖人信仰は多神教みたいでまずいから、ヒエラルキーをちゃんとするために、聖人に祈るのは聖人を通して神の恵みを祈っているという建前にして一神教の筋を通してるんだろうとか考えがちです。でも、代祷の本当の意味は、救いに値しない罪ある者も聖人の徳に免じて(あるいは便乗して)救ってもらおうというところなんです。日ごろ何の努力もせずに自業自得で窮状に陥った、日ごろ神に感謝を捧げていたわけでももちろんない、常の行いも正しくない、むしろ、後ろ暗いところがあるし、たたけば埃も出る、そんな人が、それでも、願いをかなえてほしい、と直に、神に祈願したらどうなります? なんか、だめに決まってるというか、やぶへびで、罰が当たりそう、大体、今の窮状がすでに神に下された罰だったりして・・・ と私なんか思っちゃいます。
 そこで、聖人の登場。私はこの通り、救いに値しない人間ですが、聖人さま、生前苦労をしのび、神に仕え、我欲を捨てたあなたさま、ちょいと神さまに無理をきいていただけませんでしょうか・・・・というのが、代祷のプロセスなんです。これ、わりと好きです。自分が神の覚えがいいとはとても思えないけど、仲介人として評判のあの聖人に頼めば・・と、もちろんこれもムシがいいんですが、それなりに腰が低い。祈願の根底には、どこかに謙虚がないと落ち着かないと思うんです。そうでないと、お金がほしいと神に頼んだ、帰り道で1万円拾った、わーい、ラッキー、ということになり、ラッキーは自分の幸運で、別に神に感謝という心につながらない(というか、1万円ネコババしていいのか?)。ともあれ、「神と私」ってなんか勝手に特権関係を幻想して、願いをきいてもらえて、とか思い込むより、全然へたれの私、ツールとしての立派な聖人、ルールとしての祈りや捧げ物、その向こうに立ち現れるかもしれない神、コミュニケーションとしての恵み、という複合した関係がいいなあと思うんです。
 ちなみに、それでは、凡夫は祈りにおいて、ひたすら聖人に便乗してればいいのかというと、それはたとえばこう言われております。イエズス会のルイ・ブルダルー(1632−1704)という人がその著作『万聖節の説教』という本の中で、「神は、天国にいる聖人たちに、地にいる信者のために祈るように命じられた。そして、地にいる信者たちは、煉獄で苦しんでいる死者たちのためにとりなしの祈りをするよう命じられた」と言ってます。つまり、生きてる人たちは、罪を重ねつつ、聖人にとりなしてもらうことで、なんとか生き延びていますが、死んでしまうとさすがにこれまでの悪行があるので、天国へ直行というわけにはいかない、煉獄で、懲役みたいにお勤めしています。それを見越して、生き残った人たちが、死者のその刑期が短くなるように祈るのです。これは直接神に祈ってもOK。なんといっても自分のことじゃないから、無私の徳で効果も期待できます。日本の仏教で、生前何の戒律も守らず煩悩に溺れて殺生しまくっていた人たちが、死ぬとあわてて戒名をもらって、49日の中宥の期間に、残された人たちががんばって回向して供養して、晴れて成仏してもらうというのと似てます。カトリックの死者もこうやって、煉獄から出してもらって、無事天国にたどり着き、今度は自分も聖人の端くれとして、生きてる人の祈願のとりなしをする側に回るわけです。祈りの連鎖、救いの連鎖です。
 人は自分のためには有効に祈れない、という感じがします。いつも他人のために祈り、また自分のためには他者や、聖人たちが祈ってくれる。「神と私」ではなかなか無理な気がするし、他のもっと必死な人や有徳の人の「神と私」にまけそうな気がする、しかし、自分の犠牲や自分の善行を他の人のために役立てるのなら、少し有効かも、と思えます。祈りや恩寵は、こうしたネットワークの中で大きな力を持っていくのかもしれません。
 自分のことはできるだけ自助努力、困ってる人、苦しんでいる人、死んだ人たちのためには祈る、利他の祈りなら有効だと信じる、これはすなわち、聖性というものを認めるということです。たとえ普段は聖性と正反対の生き方をしていても、聖人がどうして神の覚えがよいのかをみんながどこかで納得している。利他を聖として認める、こういうスタンスがすきです。

109:2007/02/18(日) 06:06:28
Amsterdam kara
"Katazukeru beki shigoto ga takusan ari, karada no guai mo waruku nai noni guzuguzu daradara to sugoshite jiko-ken-o ni naru toki ga aru."---'Barokku ongaku wa naze iyasunoka'??182page--
Masashiku koko suu-shuukan no watakushi no shinkyo desu. Tabun Oranda no tenki sei deshou ne.
Jitsu wa 3 shuukan mae ni, hisashiburi ni Paris de shuumastu o sugoshimashita.
Nichi-youbi niwa, yuujin ni sasowarete St.Gervais St.Protais Kyoukai no missa ni shusseki shimashita. Fransu-go ga wakaranai nagara mo jikken-teki na reihai wa srenari ni omoshiroi mono deshita.
Hontou wa, watakushi hitori de Raten-go (latin) no missa ni yuku tsumori??de imashita. Watakushi ni totte Fransu-go yori wakari yasui koto mo saru kotonagara, dentou-teki na Raten-go no missa wa esoteric na miryoku ga arimasu.
Oscar Wilde no "The Picture of Dorian Gray" no naka de, Dorian ga Katorriku no tenrei ni miryou sareu byoushya ga arimasu ga, choudo ano youna kanji o oboe masu.
Motomoto mizoku-gaku (folklore) ni kyoumi ga atte,kirisuto-kyou ni kagirazu shuukou-girei o miru nowa suki nano desu ga, sore towa betsu ni, Takeshita-san no "Seijyo no Jouken" no naka de shoukai sarete iru, Garia-tenrei no St.Rita kyoukai ya, Quartier Latin ni aru St.Nicolas du Chardonnnet kyoukai nado, koshiki ni nottota reihai ga totemo suki desu.
Fransu dewa, dentou-teki na tenrei ni kan shite dokuji na kangae kata ga aru you ni kanji masu. toki niwa??sono utsukushi-sa no tame ni Uyoku (Right wing) no propaganda ni tsukawaretari...
Soko de shitsumon desu ga, Takeshita-sama wa dento-teki na tenrei (reihai) ni tsuie don-na fuu ni o-kangae desuka? Kore, jitsu wa mae kara ukagatte mitakatta koto desu.
Itsumo nagara yominikui roma-ji deno shitsumon go-youshya kudasai mase.

110Sekko:2007/02/18(日) 21:18:19
ラテン語ミサについて
 どうも、バロックの本から変なとこ引用しないでくださいよ、ぐずぐずだらだらなんて、誰のことかと思ったら、私なんですね。赤面。今はそんな生活卒業、といいたいところですが、今もだらだらモードは基本で、もともと脱力系なんです。しかもだんだん猫化して、自己嫌悪もなくなりつつあります。
 それで、ラテン語典礼ミサですね。『ドリアングレイの肖像』を例に引いておられますが、私の場合は、仏文に近くてキリスト教に興味を持った普通の日本人ならかなりの確率でそうだと思いますが、ユイスマンスの『出発』(田辺貞之助さんの訳あり)に出てくる、カトリックに改宗したユイスマンスの分身であるデュルタルという主人公がこれでもかこれでもかと書く、パリのサンシュルピスやサンセブランの典礼の美しさに強い印象を受けました。彼は礼拝の華麗さの中に神の恩寵とか召命とかを聴くのですが、まあ美に淫しているのと霊的幻想を自分で統合した面もあります。
 個人的には、音楽や歌が充実してる礼拝はもちろん好きです。と言うより、全然自分で歌うチャンスのない典礼って苦しいのではないかと想像します。特に修道会なんかで、来る日も来る日も、日に何度も聖務があるとしたら、コーラスの充実してるとことか音楽への関心の高いとこを基準に選ばないと私には無理です。もし自分で修道会を作るとしたら、フランス・バロックのモテットとかを駆使した、歌手や楽器奏者の充実した典礼にして、収入源は修道者による音楽教授とコンサートにしたいです。私がこういうと、そこに入れて、という仲間が何人かいました。そういうバロック時代のモテやミサ曲はみなラテン語ですから、そういう意味では当然ラテン語に親近感があります。また日本からルルドに来る人に、ラテン語で祈ると他の巡礼者と共通語になり、連帯感ができてうれしいという話も聴きました。隠れキリシタンのオラショとか、ラテン語の名残をきっちり伝えてて感動ということもあります。
 そういうことは別として、私は古式豊かなミサを特に探していくということはないです。ミサ曲のコンサートには行きますが。なぜなら、やはり、フランスでは、B16になってからやや変わりつつあるわけですが、ラテン語ミサ=教条主義者という図式があって、そういうとこに集まる人には違和感を感じ、警戒心を覚えるからです。何ごとも、「こだわる」と「とらわれる」ことになりがちで、そこに単なる美意識だけでなく宗教心が加わると、なおさらやっかいだと言う認識もあります。
 第一、典礼だけ言うと、カトリックよりも東方教会のほうが壮麗豪華なものが多いですし、実際、清貧の中で福祉活動をしているパリのカトリックの修道院でも、礼拝は東方教会風で「この世で天国を垣間見る」風の立派なものにこだわっているところもあります。また、貧しい国の教会も、儀式の壮麗さで非日常的な祝祭空間を提供し、信仰心の支えとなっているところもあります。時代や場所や、人それぞれの欲求に応じていろいろなチョイスがあるのがいいのかもしれません。私の個人的な状況では、戦争も飢饉もない場所で、劇場にも美術館にもアクセスのいい年中祝祭のような大都市でばかり生活してきたので、宗教にまで美を要求しようとは思わず、典礼はニュートラルでシンプルで分かりやすくてさりげないのでOKです。その点フランス語の普通のミサは日常と乖離してないのでナチュラルかなあと思います。日本語のミサは翻訳のカタカナ世界で外界と比べて特殊感が残るかもしれません。文語の祈りとかはそれなりに伝統感があって好きですが、一度イグナチオのフォークミサに顔を出しましたが、美的には「けっ」という人もいますが、私は何でも歌えたら好きです。要求水準が高くありません。後は、massimoさんと同じく、フォークロリックな興味はすごくあるので、そういう意味では、ローカルでディープな典礼を拝見するのは大好きです。
 でもスピリチュアルなものと美しいものを結びつけようとする人間の心理は重要な意味を持っていますね。真善美が一体化するという直感はすてきですが、それがまた真善美原理主義みたいなものに傾かないよう要注意かなとも思ったりします。

111Greencurry:2007/02/23(金) 00:40:11
聖人のお話で
Sekko様、ご回答ありがとうございました。(って、いつの話〜?!という感じですが。すみません、なかなか時間がとれなかったのと、あまりのご名答に頭が固まってしまいました。。。)
で、拝読して、連想したのですが、仏教においてのお地蔵様の役割です。あまり仏教に詳しくないので確かではないのですが、お地蔵様は衆生を天国(?)へと導いてくれる存在らしいです。
なんでも、悪いことをして閻魔様によって地獄行きを決定されたときなども、「そこをなんとか」と閻魔様をとりなしてくれて、地獄に落ちないように努力してくれて、「今度は正しく生きるのやぞ」と導いてくれるそうなのです。
あと、ダライ・ラマ法王さんがよく「慈悲の心、利他の心」と言ってます。
人を救うのは常に慈悲の心なのかなぁと思いました。
ありがとうございました。

112:2007/02/24(土) 21:07:43
聖霊
Sekko様、「ヨーロッパの死者の書」「聖女伝」「聖者の宇宙」を読んで啓発されることが多く、とても感銘しました。
ところで質問ですが、イエスの死の後で使徒や信者に自分たちの信仰に確証を与え、勇躍困難な伝道に赴かせた最大の原因となる事件は、五旬祭における聖霊降下の体験だったと思われます。そして使徒たちは、その後の伝道において、聖霊を受ける体験を重視し、祈りや按手などで、信者に聖霊を受けさせようとしたことが使徒行伝からわかります。
しかし聖霊を受ける体験は、その後次第に下火になっていったようです。その理由はどこにあると思われますか? またその経緯に関する研究がありますか?
このことは、その後三位一体説によって聖霊をいわばイエスに限定しようとした問題含みのニケヤ公会議、そのなかに聖霊への言及がない信者信条を定めた第2回公会議への流れと密接に関係するように私には思われます。
さらに聖霊との直接接触を望む聖者願望者を修道院に囲い込もうとしたカトリックの方針とも多分関係するでしょう。

113Sekko:2007/02/24(土) 23:55:52
聖霊について
 なかなか微妙な問題です。特に近頃、たましいがどうとか前世がどうとかという言説が日本で無批判に出まくっているので、「実証不可能なこと」との関係性についてすごく気になってます。「実証不可能なこと」、たとえば先祖霊の姿とか聖霊とか守護天使とかオーラとか、そういうのを信じること自体は人間性の一部だと思ってます。自分が霊に接触したとか御出現を見たりお告げを聞いたと信じることも、人間の認知のメカニズムから言っても、大いにあると思います。でも、ある特定のAさんにだけその能力がありAさんの言うことだけが真実だと、Aさんでない多数の人に信じさせるのは、組織や制度の問題だと思うんです。
 西方カトリック教会に関しては、はじめは使徒による洗礼を受けていない人には後から使徒が按手して聖霊を与えるというやり方から、聖霊は堅信(confirmation)にシフトしていきました。
堅信の歴史については研究書があります。洗礼でも聖霊パワーをもらえますがそれは神の子にしてもらえることで、その後「霊的な成熟」を経てから、堅信式で司教によって、キリスト者の使命を果たせるように聖霊パワーをもらいます。聖霊の七つの賜物といって、イザヤ書(11.2−3)にインスパイアされたもの(知恵、分別、力、思慮、勇気とか)を受けることになってます。
 とにかく制度化された聖霊の授与はこの司教による堅信式がメインになっていて、これについては司教が聖霊の授受を管理しているわけです。その他に、確かに、気のように、宇宙エネルギーのように遍在している聖霊のイメージも確かにありますが、組織できない個人の体験は、普通は「実をもって木を判断する」と処理されるのでしょう。あと、集団で聖霊が降りてくるのを待って、口々に異言を発するってのも、聖霊降臨以来、キリスト教系世界でいまだにいろいろな形である現象ですね。しかし問題は、そのような聖霊の降り方とか受け方が、人々をばらばらにするのか、結びつけるのか、ということではないでしょうか。旧約の神がバベルの塔を壊して人間たちが互いに言葉が通じなくなったというエピソードと、キリスト昇天後の聖霊降臨で人々が世界中の言葉を話せるようになったエピソードは、一種「対」になっていて、聖霊ユニヴァーサリズムの可能性を語っているものとして平和への希望を抱かせてくれます。聖霊降臨に異宗教間対話の根拠を見ようとする本を読んだことがあります。参考にコピーします。

De Babel à Pentecôte. Essais de théologie interreligieuse, Claude Giffré, Paris, Cerf, Coll. "Cogitatio Fidei" n° 247, 2006, 363 p., 39?.

114:2007/03/02(金) 15:04:37
(無題)
Sekko様、お忙しいでしょうからお返事は2,3週間後だろうとチェックしていなかったので、すぐのご返事に驚きました。ありがとうございました。
 聖霊付与まで人間(司祭)がコントロールし得るものとされて、ある意味で制度化されていることを知って、少々驚きました。聖霊はおのれの欲するところに吹く、というような言葉があったような気がしますので。私は若い頃から聖書は好きで新約は繰り返し読みましたし、旧約も通読いたしましたが、キリスト教のドグマのため、また形骸化したとしか思われないため、教会には足を踏み入れたことがなく、そんなことも知りませんでした。
 (なお、私は若い頃、一種の宇宙意識的な見神体験 ― W.ジェームスの「宗教経験の諸相」の分類では突発的回心と言われるようなもの ― をいたしましたが、それはどんな準備もなしに突然訪れ、どのような宗教教義とも結びついていませんでした。)
 聖霊体験がほんものかどうかを簡単に識別する客観的手段がない以上、おっしゃるとおり、果実を見てその木を知る、のが最も確実な方法と言えるでしょうし、その際「神の力は人々を結びつけ、悪魔的な力は人々を分かつ」というのが一つの基準になるだろうという考えには、私もまったく同感です。(なお私は感情を刺激するなどの人間的手段によって生じる、いわゆるエクスタシー体験は信用していません。)その意味で、たとえばマザー・テレサは、間違いなく聖霊の働きを受けていたのだろうと感じます。彼女は宗教によって人々を分けませんでしたから。
 ところで、ご返事がいただけたので、もうひとつまったく別の質問をさせてください。
 最近、トマス福音書や、マリア福音書などに関する研究の書物を興味ふかく読んでいますが、最近の報道では、「イエスの墓」(イエスに子供がいたという推測を示唆するらしい)に関するテレビ番組が米国で近く放映されるらしく、インターネット上に、早速それに関するサイトがつくられています。
 キリスト教教会は(カトリックもプロテスタントも)もちろんこれらの報道や、教会のドグマの正当性をおびやかしかねない学問的研究に対して、(中世のように弾圧はできないでしょうから)完全無視の態度をとり続けるのではないかと私は思いますが、Sekkoさんはどう予想されますか? また最近の研究の進捗状況から考えると、これらの説に対していつまでも反発や無視ではすまされなくなり、(決定的な証拠はなかなかでないでしょうから)時間はかかるかもしれませんが、かたくなな態度だけでは、将来ガリレオの天動説に対して地動説を守り続けようとした教会のような立場におかれる危険があるのではないかと思いますが、どう思われますか? もちろん個人的なお考えで結構です。

115:2007/03/02(金) 15:19:23
(無題)
すみません、地動説と天動説を反対にしてしまいました。もちろんガレリオの地動説に対する教会の天動説です。

116Sekko:2007/03/02(金) 17:40:43
イエスの墓について
 ちょうど2日前に、ある編集者からそのイエスの墓についての話を教えてもらい、意見をきかれました。その時に返事したのをまずコピーします。

「知らなかったですよー。
ネットで検索したら、確かに今日のフィガロの朝刊に載っていました。
ドキュメンタリーのダイジェスト版も見ました。
 ヨセフとイエスとユダって親子の骨があって、DNA鑑定で親子だったってだけで、その名の刻み方も考古学者からみたら「?」で、たとえ、ほんとでもヨセフもイエスもユダもマリアも当時最もありふれた名なので、このタイプの墓所と骨箱を作れるくらいに裕福な(ナザレのイエスさんちはそうでなかったし、代々の墓がベツレヘムならともかくエルサレムにあるのも無理がある)一家族の墓だったというだけですね。家族の骨に親子関係があるのは当然だし。
ドキュメンタリーの中でも、インタヴューされたまともな学者はまともに答えてました。
 それに確かオカルト世界でのイエスの子供は女の子では? その方がなんとなく納得いきます。
まあ、このドキュメンタリーの背景には商業主義はもちろんですが、エルサレムに対するユダヤの所有権を正当化するイデオロギーと政治的意図があるので、前のユダの福音書なんかのヴァリアントだと思われます。結局、天の父なる神のDNAを採取して鑑定する以外、「科学的証拠」は挙げられないわけで、屏風の虎をまず出してくれ、という話になりますね。
 ジェームズ・キャメロンって、そんな変なやつだったのか、というほうが印象的です。 」

 私には、イエスの「体」をそんなに気にする人がいまだにいて、それがメディアのマーケットになること自体が不思議です。教義の事実性を確認したいというならまだ分かりますが、聖書の内容や教義は実証とは関係なくそのまま受け入れるかどうかが信仰なので、基本的には「事実性」は問われません。それでも考古学的にちらほら「ほんとだったらしい」という発見みたいなのが今でもニュースになります。でもたいてい商業性はないですね。逆に、「教義は嘘で事実はこうだ」みたいなものが商業価値を持つのは、まあしょうがないです(今度のドキュメンタリーも、キリスト教最大の行事である復活祭前の四旬節の真ん中を狙ってるんですし)。
 でも実際は、今となっては、教義の事実性も、反事実も、「科学的に検証」というのは不可能な気がします。「事実」じゃなくて「真実」を標榜する信仰のディスクールには合わないし、意味がないし・・・ 私が興味を持つのは関係性とその文脈、その変化なので。
 4月の復活祭に、講談社からトリノの聖骸布についての本(解説を書いてます)が出ます。実物大の精密写真付です。こちらは、受難や復活のストーリーが「事実」だったんだ、という逆のベクトルですね。モノが介在してるので、昔からフェティッシュな信仰が寄せられ、巡礼者に多くの回心や、「奇跡」を起こしてきました。「事実」がどうあれ、そういう信仰を生んだダイナミズムがおもしろいです。私の興味を引くには、つなぎ、結びつける要素が必要です。聖骸布は、20世紀後半からむしろモノとしての信憑性を次第に増してきたので、そういう好奇心も刺激されますが。
 今回の「イエスの墓」の骨では、復活昇天を信じる人々の信仰心の基盤と合わないので、それをありがたがって祈る人もなく、したがって「奇跡」も起こらないでしょう。ただの否定の材料なので、私にはあまり意味はありません。
 その墓のイエスさんのDNAと聖骸布の血痕のDNAが合ってたりしたら、俄然、野次馬としての興味はわきますが。

117:2007/03/05(月) 09:43:55
日本から
久しぶりの里帰りです。私も竹下さんのフランス・バロック修道会に対抗(?)してルネサンス・ポリフォニー&マドリガル修道会を創立しようと思います。
 冗談は別として、竹下さんの典礼についてのお考えがうかがえて、とてもうれしかったです。「年中祝祭」、なるほど私達の日常は非日常的なものがあふれていますね。「ハレ」に囲まれた「ケ」、とでもいうような。
 私個人としては、典礼にもっと多様性があって、それらが共存しあっていたらもっと楽しいかなと思います。英訳聖書に例えれば、わかり易い New Revised Standard Version が普及している一方で、翻訳の下敷きになった King James Version が今でも健在なように。極端な強迫性革新主義と同様に教条原理主義も私の好むところではありません。

118Sekko:2007/03/06(火) 18:13:56
Massimoさんへ
おしゃべりルームの方にいれます。

119:2007/04/23(月) 21:18:49
竹下先生はカトリック信者ですか?
先生のご著作を多年にわたり読ませさせていただき(最近では「カトリック生活」の「スピリチュアルとカトリック・ライフ」)、カトリックのリッチさ、人間臭さ、可愛いさなどに心惹かれます。先生のように、カトリックを歴史的、社会的、文化的に広く、鋭く研究され、透徹した見解をお持ちになると、いわゆるカトリック教義をそのまま信じることは困難になるのではないか、と推察します。先生の信仰のよりどころを教えてくだされば、助かります。小生は、9年まえ家内に迫られてカトリックの洗礼をうけましたが、その後、カトリックを研究すればするほど、自分が異端的になっていくのを感じます(キリストは、人間として生まれ、苦悩のうちに死んだが、その愛を説いた生と死は多くの人を感動させ、「神」を感じさせた、というのが小生の信じる核心です。カトリックが成立の初期に切り捨てた、異端の中に、より素直な、生々しいキリスト像があったのではないか、と思えてなりません。その意味で、「異端」研究の先生の最近のご著作を期待しております。吉田重信

120Sekko:2007/04/23(月) 22:32:09
ご愛読ありがとうございます。
 私もカトリックってちょっと可愛いかなと思ってます。B16も可愛いと思えてしまうので。最近彼がイエス評伝を出しまして、イエスはキリスト教世界の所有物ではない、と言ってました。今「無神論の系譜」というテーマで書いていて、こわもての無神論者の本をいろいろ読んでいるんですが、彼ら(ヨーロッパ人)は、西洋の倫理規範はみんな「ユダヤ−キリスト教」に呪縛されているからよくない、と糾弾するんですが、日本人の私から見ると、他の文化でも宗教や表現は違っても同じような倫理規範はあるので、何を基礎にしていてもそれを非宗教化したフィールドで、共存を図ればいいと思うんです。交通標識をグローバル化しても、事故なく移動しあえるという目的が果たされれば、それがもとは特定文化のシンボルだったとしても別に目くじらたてなくてもいいんじゃないか、という感じです。
 人間の共同体としての教会や教義は、世に連れ人に連れ変わっていく面もありますから、それもあまり気にしません。自分がど信じるかとか、あまり自分を主体に考えないんです。ツールであれば充分です。私をどう使うかということは、きっと大きい力が導いてくれると信頼しています。教義のあれこれについて納得しなければツールとして自分を差し出せないという危機が訪れれば、その時には回心の体験があることを期待しますが、ぬるいままでもツールとして見切り発車したまま一生を終えても別にいいです。
 知り合いのシスターや神父さんで、「竹下さんを聖霊の光が導いてくれますように」とか、「頭がよすぎて道を踏み外さないようにお祈りしてます」とおっしゃってくださる方がいますので、安心してます。私が自分で祈っても無理でしょうが。全体として、自分よりも弱い人とか、困ってる人とかのお役に立てるよう心がけてさえいれば、教義的に異端とかたいそうなことにならないと思います。
 次に出るのは講談社選書メチエから8月10日に聖ヨセフの本です。タイトルは未定。聖ヨセフって、なかなかすてきですよ。B16の名前もヨゼフですね。

121:2007/05/01(火) 01:12:45
お礼
間髪を入れず、実に含蓄のある回答をいただき、感激しました。長年の「わが信仰」に対する後ろめたさが、和らぐとともに、少し安心できる気になりました。
日本のカトリック神父の中には、井上洋二神父や、藤原直達神父(内観運動を指導)のように、カトリックを日本文化の中に当てはめたり、類似性を見つけて、説くひともおられますが、やや牽強付会の感がぬぐえない思いでした。他方、梅原猛先生のように、「西欧の多神教は行き詰っているが、日本は多神教なので救いがある」との説も、本当かナと考えていました。竹下先生は、西洋文化に心身的に文字通り肉薄して、その理解の中で、カトリックの人類共通性を説いておられるようで、日本人の西洋文化、その表象としてのカトリック理解もここまで進み、普遍的になってきた、と心強く感じます。−−−偉そうな言い方でごめんなさい。
他方、「バロック音楽は何故いやすのか」をワクワクしながら読んでおります。とくに、バロック・ジェスチュエル、振り付け譜の紹介は、目から鱗が落ちる気がしました。オードレーの母親、マルティーヌとのやり取りには、涙が出ました。
吉田重信

122迷える大羊:2007/05/11(金) 00:21:48
カトリックへのためらい
 皆さん、こん??は。ノンクリスチャンですが、結婚前提に付き合っている彼女がクリスチャン(福音系)である関係でキリスト教に関わりを持つこととなりました。彼女はできれば、私にクリスチャンになってもらいたい思いがあるようで、私も彼女の教会(プロテスタント福音派)に通ってみましたが、どうにも感覚や考えが合いません。

 独自にいろいろ教会を訪ねてみた結果、カトリック教会が当初思っていたのとは違い、意外とリベラル(他宗教の慣習に対し寛容、逐語霊感説のような硬直した聖書解釈をしないなど)な部分に惹かれ、クリスチャンになるならカトリックがいいのかなぁ、と思っています。しかし、ひっかかる点がいくつか・・・。

 1.自殺、離婚に対する厳しい姿勢。近くのカトリック教会や信徒の方々に聞いたとこ    ろ、さすがに今は葬儀をしないとか、離婚は何がなんでも認めない(婚姻の無効宣言   で対処するそうですが)みたいなことはないみたいですが、それでも「罪人」として   これらをやってしまった人は肩身の狭い教会生活を送るのか?聖体拝領停止などのペ   ナルティを課せられてしまうのでしょうか?

  別に今から離婚や自殺の心配をしているわけではないけれど、人生何があるかわからな いし、この二つをせざる得ない事態に陥ることもあるかもしれません。ある意味、一番神 や教会の救いが欲しいときに罪人扱いされ疎外されるのは酷いし、これでは何のために神 や宗教に関わるのかわからない、と思ってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

 2.他の教派の信徒との結婚はどうなのか?ダメってことはないでしょが、ある意味ノン   クリスチャンとの結婚以上に面倒かも。お互い 、同じ神を信じる者同士という思い   込みがあるだけ、却って考えの違いが鼻につく、なんてことがありそうな気がする。
   まあ、彼女は福音派といっても比較的緩いところではあるけれど、それでも、カトリ   ックにはやや冷淡な傾向があるような感じがします。
   これまた、どなたかパートナーがクリスチャンだけど他教派、なんて方がいらっしゃ   れば、メリット、デメリット併せて聞かせていただきたいものですが。

 3.あと私が心配してもしょうがないことですが、神父、信徒ともに高齢化が著しく、将  来大丈夫かしら?なんて思ってしまう(大きなお世話ですが・・)

 最後、3はともかく、上の1、2が気になります。実際のカトリック国の現状なども含め
 どなたか体験、見聞、御意見などをいただければ幸いです。

123Sekko:2007/05/11(金) 07:25:49
大羊さんへ
 私は身近にはフランスの例しか分からないので、これを読んでる方のなかで、カトリックとノン・カトのカップルの方やカトリックで離婚された方がいらっしゃれば情報ください。
 私の知ってるフランスの例では、カトリックで、法律的に離婚した女性で、聖餐を続けられるように再婚しないという人がいます。つまり宗教の秘蹟としての結婚は生きているので(取り消しは結構手続きが大変なので)、法律上再婚しなければ、不倫の立場に陥らないそうです。それで、いったん離婚したら、後は事実婚だけ、で教会には行き続けているわけです。もちろん教会法にのっとった結婚取り消しがない限り、秘蹟としての結婚はもうしてもらえません。
 欺瞞じゃないかと思われるでしょうが、大半のフランス人は、洗礼を受けていても、教会に定期的には出入りしてないので、離婚したら教会とも縁が切れます。でも再婚で生まれた子に洗礼を受けさせるのは可能です。不倫で生まれた子になりますが、子には罪はないので。再婚しないで教会に行き続けている人はミサにあずかることにそれだけこだわっているわけですから、本当は別の相手と暮らしてるだろう、とか勘ぐられて追い出されることはありません。そんなことしたら誰もいなくなります。今の教皇は離婚者の聖体拝領OKの方向で動いてるようですから、実際、緩和されるでしょう。DVの被害を受けて離婚する女性などは確かに被害者であって、教会から罪人あつかいされると困ります。聖体拝領は、資格の問題ではなくて「必要」の問題だから、といわれるのを聞きました。絶望した人の「緊急避難」としての聖体拝領は、責められません。まあ、法律婚した後で、教会で結婚しようという人は、神を仲人にしようと思うわけですから、結婚生活で何か困難に出会った時、二人で仲人に相談、という初心に帰る方法ができます。
 カトリックの結婚式は、その前に何度か通って、結婚についてのレクチャーを受けることが課せられているので、それなりの覚悟や準備もできますから、悪くはないと思います。片方がカトリックでない場合は、生まれる子供はカトリックの教育を受けさせるという夫婦の合意に署名させられるケースもあります。でも、なんというか、少なくともフランスでは、老舗の伝統宗教なので割と大まかです。特に都会ではコミュニティ感があんまりないので。離れても追ってこないのは確かです。他の宗派間の結婚は昔はややこしかったのですが一時楽になり、今また他宗派との共同ミサは認めないとか、保守化も一部始まっています。
 日本ではキリスト教はマイノリティだし、それだけに同じ教会に属する人の共同体意識も強くて、離婚などで「肩身の狭い思い」とかが出てくるのかどうか、私にはよく分かりません。
 今は自殺者は全然ペナルティがないです。立派な葬儀ミサも可能です。まあ、自殺はやめて下さい。離婚は相手のあることなので、自分の努力だけではどうにもならないケースがありますけど、自分の生殺与奪の権力への誘惑には負けないでください。もちろん病気その他で判断力がなくなり、衝動的に自殺ということはあっても、それは事故みたいなもので、残された人があまり罪の意識にとらわれないように願います。キリスト教によって、「自分の主人は自分ではなくて、命は神から授かった不可侵のものだ」と思うことで少しでも自傷や自死の歯止めになるのならいいのですが。
 神父、信徒の高齢化、これは難しい問題ですが、ゼロになって「営業停止」ということにはならないでしょう。中南米やアフリカではカト人口も増えているので、外国人神父の「調達」というのは必ず可能ですし。そういう「開かれたコミュニティ」に向かっていくほうが健全ですし、ユニヴァーサルなところがカトリックの魅力でもありますから。
 でもフィアンセの方が福音派ということですが、今の日本で若い方が福音派というのはこだわりが大きいと思うので、大羊さんの感覚や考えが合わない場合、将来それがつまずきにならないようにちゃんと話し合っておいた方がいいと思います。ちゃんとした宗教には必ず「利他」とか「自己犠牲」の要素が入ってるはずで、結婚にもそのテイストが必要ですから、互いがそういう感覚を持つのは結婚がうまくいく秘訣かもしれませんし。以上、とりあえず書いてみました。

124迷える大羊:2007/05/11(金) 15:44:50
ありがとうございます
 Sekkoさん、早速、ありがとうございます。

 >事実婚

 日本の浅はかなおフランスかぶれの一部マスコミや識者は、これを「形にとらわれない新しいライフスタイル」みたいなふうに取る人々がいますが、実際は離婚、再婚が宗教的に難しい(非カトリック国に比べ)という理由も大きいのですね。

 結婚式については、彼女の母教会で行う予定ですので、あまり問題はないかな?とは思いますが。まだ、クリスチャンならカトリックがいいかな?くらいの認識で、結婚の時点では私はカトリックにはなっていないでしょうし。
 仮に私がカトリックになった場合、問題は幼児洗礼など子供の問題でしょうか?何やらもめそうなイヤな予感がします。

>福音派

 意外に思われるかもしれませんが、福音派は若者比率が結構高いです、私の知る限り。プロ・カト問わず他の伝統的な教会が軒並み高齢化している中で、福音系の教会だけは若者(20、30代)比率が高めなんですよね。私にとってはよくこんなこと(聖書はすべて真実、聖書に反する進化論は邪道みたいな)を素直に信じられるなぁ、って感じですが。まあ、率直に言って、何も深く考えなければ、福音派の教会の方が楽しいかもしれません。ゴスペル歌ったり、フォークソングの礼拝があったりするし、新参者に対する対応も細やかだったりするし(それが煩わしい、という方も当然いますが)。

 別に高齢者ばっかりがいけない、ってわけではないですが、奉仕の負担が大きくなりそうだなぁ、とか俺が老人になった頃には誰も仲間がいなかったりして、なんて不安にかられますね・・。

 >神父

 近くのカトリック教会の神父さんの働きぶりなどを見て感じますが、こんなハードな仕事(いろいろな意味で)、果たして成り手がいるのか?いつも疑問に思っていました。カトリックは信徒には寛容(離婚問題を除いて)な宗教ですが、その分、聖職者に対する要求がハードになっているシステムなのだな、と感じます。

 特に独身制は納得できるところと、いいのか?これで?って思うところとがありますね。確かに妻子を抱えての聖職者生活は大変だし、独身ならば貧乏しても、とんでもない僻地に飛ばされても平気、というメリットがありますが、一方で健康な男性なら沸きあがってくる異性への欲望をどう抑えるのだろう?孤独感はどう克服するのか?そういう煩悩を克服できても世俗の一般人と付き合えない「変人」になったので困るし・・、とある意味矛盾するような条件を神父は兼ね備えていなくてはならないですよね。そんな人、日本人、外国人問わず、そう何人もいるものなのか?と思ったりもします。

 何より問題なのは、カトリックは結婚、離婚に関する考え方が他教派に比較して堅いわけですが、果たして結婚生活を送ったことがない聖職者が離婚問題、男女や家庭の微妙な問題に適切な判断を下せるものなのか?という疑問が大きいですね。この辺り、カトリックの方々はどう考えているのでしょう?
 まあ、修道士なら独身でも全然OKだと思いますけど、神父、司祭は世俗の一般信徒と付き合わないといけませんからね。

 自殺の問題に関しては、安心、納得できました(いや、今自殺したいなんて考えてませんよ、念の為(笑)) 。もちろん、そんなことは無いほうがいいに決まってますけど、もしも、ってことはありますからね。大体、自殺を企てる場合、心は壊れていて、まともな判断などできないでしょうし。

 問題は結婚に関する事柄ですね。他教派に関する態度が保守化していることは気になります。また、近くのカトリック教会や信徒の方々、こういうBBSなどでもう少し広く詳しく、事情を探ってみたいところです。

 彼女は私のカトリック志向については特に何もいいません。「同じ神様信じてくれるだけでありがたい」てな感じなのかな?でも聖餐が一緒に受けられないのが気になるみたいです。彼女自身は思想的にカトリックと合わないというより、礼拝のスタイルや福音派の家族的な人間関係に慣れた身からすると愛想がない、そっけなく映るところがダメみたいですね。
 今のところ、結婚にまつわる諸問題がカトリック道への障害ですね。聖公会あたりの方が無難かな?と思ったりもします。

 カトリックの知人、友人がいない、私にとってこのサイトは貴重です。これからも、お相手いただければ幸いです。

125Sekko:2007/05/11(金) 19:47:34
福音派
 フランスの郊外でも福音派は進出していて、やはり若者に人気です。カトリックは文化の背景になってて地味だし、親がすでに教会離れしている、周りのマグレブ移民はモスクに通っている、ということで、共同体への渇望が福音派に向かわせるようです。温度が高いところにいくんですね。このサイトのカトリック・ウオッチングのところにも書きましたが、今日はB16がブラジルで初のブラジル人の聖人を聖別する日です。ブラジルは一昔前はほぼ全員カトリックの国だったんですが、パフォーマンスのすごい福音派に何千万という人が転向したことで知られます。それに対抗して、カトリックでもロック・ミサとかやって、民衆のカト離れを防ごうとしている有名な神父がいます。確か今日はその神父とB16が共同司式を行うミサがあるような・・ラテン語ミサOKのB16とロック・ミサの神父〈若くて、身長2メートルで、大迫力の人です〉の組み合わせ・・・とにかく布教戦略上、福音派はカトリック批判してますから、なかよく共存という関係ではないですね。信者にとっては、派手な方、より燃えることのできる方へ引き寄せられるんで、特にトランスがカタルシスになるようです。アメリカのドキュメンタリー映画、『ジーザス・キャンプ』って知ってますか? 福音派と聖霊降臨派が共同で、子供たちのキャンプを組織して、イスラムには神のために命を捧げる若者がいるんだからキリスト教でも可能だみたいに、原理主義的なことを教えて、最後はやはり子供たちがトランス状態になってブッシュの等身大写真に群がって「God bless you!!!!』とか言って泣き叫んだりするんですよ。平均的日本人や平均的フランス人が見たらどん引きの光景なんですが、カトウオッチングでも書いたように、今日聖別されるカトリックの聖人でも、祈りを書いた紙を丸めて毎日飲んでたら奇跡が起こるとかそういう話なんですから、郷に入れば郷に従えというか、問題は、何の宗派だとかいうことでなく、ある場所、ある時代で、ある人々が求めているものは何で、宗教はそれにどう応えることができるのかということですよね。
 カトリックは過ちも含めていろんな歴史を通過してきたので、清濁や、知と情や、合理と神秘や、伝統とインカルチャレーションやなんかを併せ呑む柔軟性というか懐の深さというかがあるように思いますが、単にエントロピーが増大してカオスに向かっているのかもしれませんね。
 独身の聖職者に家族問題でごちゃごちゃ言われたくないという声はフランスの田舎のおばさんとかよく言ってるのを聞いたことがあります。でも、人間、自分の経験したことしか語れないというのであれば、文学だって成立しませんからね。カトリックは、イメージとしては、聖職者や修道者を神に捧げることで、一般信者は比較的楽に生きられたという歴史があります。人が堕落すればするほど、必ず、清らかに生きるグループが出てくる自浄力はおもしろいです。そして、フランスのような国では、一昔前と違って、聖職は直接は権力にも結びつかないし、世俗的な意味ではいいことはあまりないですから、それでも敢えて聖職につく若い人は、ほんとうに人間が好きで、使命感と召命を感じ、無私でエネルギッシュなすてきな人も少なくありません。昼間、自分をすべて人々のために捧げるので、夜は疲れはてて、ようやく神と二人きりになれると言う若い司祭の言葉を聞いたこともあります。
 すごーく変なことかもしれませんが、弱肉強食の競争社会ではとても生きたくない、生きられないと思いながら出口の見つからないタイプの引きこもりとかニートとか若年ホームレスの人の中には、聖職者や修道士という形で自分の人生を他者に向けていく選択肢があれば命の輝きを取り戻せる人もいるんじゃないかと想像します。つまり、聖職者とかのアイデンティティなしに、孤独とか、性的飢餓の状態にある人は社会的弱者や障害者もふくめてたくさんいるとはずで、それは聖職者の孤独なんかよりもっとずっと辛いと思うんです。使命感とともに独身を受け入れた聖職者は別に気の毒とは思いません。妻子など、守るべきものがないからこそ自分をかけることもできるでしょうし、そういう「犠牲」によって、尊敬を得たり、説得力を持ったりすることもあるでしょうから。別に禁欲してるから偉いとかは私は思いませんが、少なくとも、私は、新興宗教の教祖なんかで、奥さんがいて、子供もたくさんいて、美食してるような人は、即うさん臭いと思ってしまいます。
 修道士や司祭で結婚して教会から離れたり出された人も知っていますが、それは離婚と同じで、事故もあれば運命もあると思うので罪とは思いませんし、家族を持ち一回り大きくなって、また共同体に尽くせるとか両立できる人もいます。ケースバイケースですね。奇跡を起こすカリスマだったミリンゴ司教という人がいますが、統一教会で韓国人女性と結婚しちゃったり、その後ヴァチカンに軟禁されたり、いろいろ大騒ぎでしたが、4人の妻帯司祭を叙階するまでは破門宣告は受けなかったです。カトリックも、独身誓願は選択肢の一つというように変わっていくかもしれません。他の方の考えもきかせてください。

126nao:2007/05/11(金) 21:40:56
信仰
私は無宗教の夫とつれそつて、半世紀。最近夫をなくし、仏式の葬儀でおくりました。結婚したときは、私だけがカトリツクで、夫はそれをみとめてくれましたが、夫の両親は子どもの洗礼についてはすごく怒りました。でも当時はそれがカトリツク信者の約束事で私は針の筵で、それに耐えました。夫はなにも言わず、ゆるしてくれました。夫の家は真言宗ですが、彼は別段仏教にくわしかつたわけではありません。日本人が大抵そうであるように、宗教はたいして問題にならない人生をおくりました。私は彼が別の派のキリスト教だつたら、とてもこまつただろうとおもいます。信仰というものは理屈じゃないので、カトリツクをみとめてくれないキリスト教の派でしたら、争いがたえなかつたろうとおもいます。無宗教だから、カトリツクのことはわからなくても「家内はカトリツク」とわりきつて、平気でした。大羊さんは信仰をおもちなのでしょうか?それが気になるところです。どの教団もへんな、わかりにくいことだらけです。教義だつて、洗礼をうけていても判らないことばかりでした。でも信仰が先にあると、おかしなことも、だんだん、なるほどなあ・・と納得がゆくようになるものです。カトリツクの「マリアの被昇天」という、玄義がありますね。へんですよね。でもこれが20世紀中ごろに宣言されたものなんです。科学精神一辺倒の現代の知性がみとめたんですよ。ユングはこの教義をとても偉大だとほめました。河合はや雄氏は「不思議な教義を知性のすぐれたヨーロツパ人が信じているという事実が大切だ」といわれました。要するに、少しずつ納得が行きそうな、感じがしてくる教団は健全だとおもうのです。どうも、おかしい・・とおもいつずけるようなら、やはりその教団にはおられないとおもうのです。司祭の独身制などは聖書にかかれていませんから、妻帯者も独身者も司祭になれる時期はきつとくるでしょう。老齢化もそう、いちがいにいえませんよ。他民族がはいつてくることもあるでしょうし。あまり心配せず、はいつてしまわれてから、悩むのもいいとおもいます。福音派とカトリツクはかなりしんどいかな・・とおもいます。カトリツクつて、やめる方いないんですよ。案外いい加減みたいですが、芯のところは「くさつてもなんとか」みたいなところがあるんです。福音派がそうなら、やはり大変でしょうね。でも日本人というのはお互いに干渉しないで、カトリツク、プロテスタントで仲のいいご夫婦も身近にいますよ。お相手次第でしょうか?なんだかまとまりのない話になりました。ごめんなさい。

127迷える大羊:2007/05/12(土) 01:16:07
教派間結婚
naoさん

 初めまして。レスありがとうございます。

>信仰

 今のところ無宗教です。結婚予定の彼女の信仰がどういうものなのか?理解するべく、キリスト教を探求している最中です。ただ、福音系は私にとって理解しづらい部分、束縛感を感じる部分が多く、その反動なのか、カトリックの清濁併せ呑む、いい意味での節操のなさ、意外とリベラルで現実的なところが気に入って、シンパシーを持ちだしている、といった立場、状況です。もっとも第二バチカン会議以前のゴリゴリのカトリックでしたら、全く鼻にもひっかけなかったでしょうけど。

  とまあ、偉そうにカトリックがどうの、福音派がどうのと述べていますが、本当のところ、神を信じるという心境がどういうものなのかわかっていないし、そもそも自分は宗教に向いているのかどうかも今のところよくわかりません。

>子供の洗礼

 ああ、やはり揉めたのですね。そうだろうな、と思いました。その辺りの事情は近くのカトリック教会の神父さんもよく御承知なのか、子供は「なるべく」洗礼を受けさせてね、といったおっしゃり方でした。

>マリアの被昇天

 意外と違和感ありませんでした。むしろ、こういう風に、信じてみた方が気分的にいいかもしれない、と思いました。あくまで信仰の教義の上での話なので別に問題ないかと。

 福音系教会で違和感を感じることの一つに、私にとって聖書とはあくまで信仰の上での真実をあらわしている書物としか思えないのですが、福音系教会の場合、それらを「科学的、物理的、歴史的にも事実」と言い張る信徒や聖職者が多いことでした(全部が全部の信徒、聖職者そうだというわけではないですけど)。

>福音派

 といってもいろいろありまして、彼女は穏健な方かと。遠藤周作や曽野綾子、矢代静一などカトリック系作家の作品もよく読みますし、聖霊降臨派などは彼女や彼女の母教会の人々にとってもちょっと異様に映るようです。深く突っ込んで付き合わなければ普通のプロテスタント教会です。ただ、使っている聖書が「新共同訳」ではなく、「新改訳」であること、牧師さんは遠藤周作氏の作品については「立場が違うので読まない」というところなんかは、ああ福音派だなぁ、ということを改めて認識させられますが。

>カトリックとプロテスタントの夫婦

 カトリックとプロテスタントが血みどろの争いを展開した歴史があったり、教派の違いが社会的な差別につながったりする欧米と違い、日本にはそんな歴史も背景もない。大体、クリスチャン自体が人口比1%以下ですし。極端な話、どちらが、どれが合うか合わないかの問題に過ぎないとも思うので、よく話し合えば確かに共存も可能かもしれませんね。僕が通った福音系の教会にも御主人がカトリックという女性の方がいましたし、夫婦ではないけど、僕が訪ねた、近くのカトリック教会の神父さんも御兄弟がプロテスタント教会の牧師さんで、当人も元プロテスタント信徒だったそうですし。そう考えれば、日本にいる限り大した問題ではないかもしれません。残る問題は子供ができた場合でしょうね・・。

 ところでどうでもよい話かもしれませんが、naoさんの洗礼名ってもしかして「モニカ」ですか?いや、深い根拠はありませんが・・(笑)。

128nao:2007/05/12(土) 09:24:31
子どもの洗礼
大羊さん お返事頂きありがとうございました。まだキリスト教模索中でいらつしゃるんですね。お相手のかたが遠藤周作をお読みになるときいて、少し安心しました。遠藤先生が「沈黙」を発表されたときのカトリツクの反発すごかつたですものね。それが、いつのまにか、皆わかるようになつて・・遠藤先生はそれをよく口にしておられました。(少し関わりがありましたので)。福音派についてはよく知りませんので、聖書を物理的にもその通り・・と解釈するのだとすると、これはやつかいなことになりますね。カトリツクは「・・と・・」の宗教で、プロテスタントは「・・のみ」の宗教だといわれてますね。カトリツクは聖人信仰など、多神教にも通じるものをいれこんでいますし、聖書のみでなく、聖書外伝もつかいます。だからふくれあがつて、肥えてしまつて、『マリア信仰』にのめりこんだりする人もでてきます。だから、保守的なヴアテイカンが必要なんでしょうね。プロテスタントは「聖書のみ」で派がおおすぎて、牧師の数だけ、解釈がことなるといいますから、これも大変ですね。日本人の場合、ご縁でどちらかになるようです。私はカトリツク教会しかしらなかつたので、そうなつたんですですが。
子どもの洗礼はその後、思わぬご縁をうむことになりました。娘がカトリツクの方と結婚して、その子ども達3人もカトリツクになり、意外な展開におどろきました。息子もカトリツク式の結婚式をしました。お相手はプロテスタントの大学出身。息子は教会からはすつかりはなれましたが、結婚式で神父さんから、3回講義をきき、その神父さんの話では基本的なことは全部わかつてますよ・・ということでした。息子の子どもがまたプロテスタントの高校にいつていますが、宗教間のややこしさはなにもありません。基本的に彼らはキリスト教的教養だけはあるといつたことでしょう。次の世代はまたどうなりますか、何代か先が楽しみですね。私の霊名はレジナ・マリアです。モニカとおもつてくださつたのは母性を感じていただいたのかも・・それならうれしいですね。大羊さんの悩みは皆考えるべき大事なことだとおもいます。あれこれかいているなかで、何かにご自分の方向性の参考になるものがあれば、幸いです。どのような方向にゆかれるか、これからも発信してくださいね。
竹下先生の知性は幅広く、しつかりした指針があたえられますので、竹下先生なしには、私も生活できない点が多いです。ありがたい先生ですね。フランスにおられるので、ヨーロツパの状況もおしえていただけて、すごく頼りになります。ああ・・そういう方のおられるということも、方向の指針になりますね。ようするに、ひとがどのようにそだつているかということで、自分の所属をきめる。これもいいですね。私は大好きな神父さんが、人生をかけておられたので、カトリツクになりました。いまも大好きなベルギー人の神父さんがいて、この方のような生きた信仰を持ちたいとねがつています。おおくの素敵なカトリツクの友人も支えになつています。おおらかで、芯が強い、そういう友人がつくれそうかどうか、よくお考えくださいね。

129迷える大羊:2007/05/12(土) 09:34:44
フランスでも
 福音派は若者が多いんですね。私はその考え方に馴染めず、離れましたが、すべてがイヤなのか、というとそんなことはなくて、先ほども書きましたが、新参者に対する対応ですとか、聖職者と信徒間のコミュニケーションなどは伝統的教会より熱心で上手ですよね。

 仮に孤独感や挫折感に悩んでいる、落ち込んでいる若者がいたとして、訪ねても黙って放っておかれ、聖職者は遠くから仰ぎみるだけって感じの教会と積極的に迎え入れ、話を聞いてくれる教会があれば、どちらに安心感、居心地のよさを覚えるかって問題ですよね。少々おかしなことをいっていても居心地が良さそうなところ、楽しそうなところに流れるのではないかなぁ、って気がします。

 もちろん、これには個人差があって、私なんかはちょっと様子をみにきただけなのに、あれこれ聞かれたり、礼拝の最中に紹介されたりなんかするのは煩わしいですし、変に熱いのも、なんだかうっとおしく感じるタイプです。

 あとカトリックの場合、教会一つあたりの信者数がとにかく多いので、一人一人いちいち相手にしていられないって問題もあるでしょう。カトリックや伝統的教会で聖職者とじっくり話そうとすると、ある程度厚かましさが必要だな、と感じました。フランスの場合は存じませんが。

>清濁、合理、神秘を併せ呑む

 そうですね、それがカトリックの魅力ですね。ラテン語OKのベネディクト16世とロック・ミサ神父のコラボレーションですか?みてみたいものですね〜。そういうカトリックの層の厚さ、幅の広さみたいな長所が日本でも広く一般に知られるといいですね。私自身、キリスト教に関わる以前は、カトリック?旧教だろ?なんか自殺すると村八分に遭う、恐ろしく保守的な教団だろ?みたいなイメージというか偏見ありましたから。

>「ジーザスキャンプ」

 これもみてみたい。怖いものみたさ、っていうかなんというか(笑)。しかし、今のアメリカはこの手のクリスチャンが結構な勢力があるみたいで、笑うに笑えない状況らしいですね。

>独身制

 なんだか批判がましく聞えることを述べてしまいましたが、聖職者の独身制は広く宗教全体を見渡せば普通の考え方なのかもしれませんね。プロテスタントの牧師は建前の上では聖職者ではなく、あくまで「信徒代表」だから妻帯OKなんですよね?確か。

 仏教も本来、僧侶、聖職者は独身でなければならないはずですけどね。明治になって政府より、僧侶も妻帯して良い、となると皆こぞって結婚しちゃったけど、教義の上で結婚OKなのは確か浄土真宗だけであるはずです。
 カトリックの第二バチカン公会議みたいなことをやってこれからは結婚してもいい、という教義を打ち立てたならわかりますが、なし崩しに「お上がいいっていってるもん」てな感じで結婚OKになっちゃうのはいかにも日本的と思うのは私だけでしょうか?

 独身だと孤独感がだとか、異性欲などの煩悩をどう克服する、なんて低次元な発想をしてしまう私は俗人中の俗人、信仰というものがわからない、宗教に向いていない人間なのかな、と己の「罪深さ」をちょっぴり反省してしまいました。

130迷える大羊:2007/05/12(土) 22:27:02
LET IT BE
 カトリック関係のサイトなら、是非、話題にしてみたいことがありました。実は私、ビートルズ好きなのですが、彼らのラストシングル「LET IT BE」って今にして思うと、讃美歌、それもカトリックの賛美歌みたいだなぁ、と思うことしきりです。「悩んでいると母マリアが現れて、知恵の言葉をささやくのさ、なすがままに・・」だなんて、カトリック教会のミサで流れても違和感のない曲です。

 この曲の実質的な作曲者はポール・マッカートニーですが、名前からしてアイルランド系っぽいし、アイルランドはカトリック国ですもんね。調べるとポール本人はどうかわかりませんが、彼の母はメアリーで、熱心なカトリック信徒でした。父親のジムはあまり熱心でない英国国教会信徒だそうです。多分、母親の名と聖母マリアをひっかけた歌詞なんでしょうね。ついでにいうと、ビートルズの主要メンバーで、なおかつ曲を作っていた、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは教会のパーティで出会ったそうですが、どこの教派の教会だったんだろう?と興味が膨らみます。

 あと、「愛こそはすべて」だとか「イマジン」だとかいかにもクリスチャン的な感じのする曲だし、「キリスト教なんて関係ない」という顔をしている彼らも、なんだかんだいってもキリスト教圏の人間なのだな、と思いました。ロックミュージシャンというと福音系のペンテコステ(プレスリー、パット・ブーン、ガンズ・アンド・ローゼスのアクセル・ローズ)が多いのですが、カトリックからもビートルズという大物を排出し面目躍如といったところでしょうか。

131迷える大羊:2007/05/17(木) 00:27:46
信仰を持つメリット
 連続投稿失礼致します。私の背景は下の投稿を参考にしていただくとして。単刀直入にお尋ねしたいのですが、キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?
 もちろん、キリスト教やカトリックが信じれば、お金儲かる、健康になる、災難から逃れられるなどの、いわゆる現世利益を目的にする宗教ではないことはわかりますし、そんなことはハナから期待していません。

 キリスト教の場合、神道などの他の日本の伝統宗教と違い、教義を理解し、信仰を告白し、洗礼を受け、教会員として礼拝、ミサへの参加、奉仕、献金を主体的に行わなければなりませんよね。そこまで自覚的な行動を要求されるからには、それにみあった何かメリットが欲しい(しつこいようですがストレートな現世利益ではなく)、とつい考えてしまいます不謹慎ですかね?

 生きがいでしょうか?そうだとして、それは仕事や趣味で得られるそれとはどう違うものなのでしょうか?皆さんの経験、御意見をお聞かせいただければ幸いです。

132Sekko:2007/05/17(木) 03:18:41
メリットについて
 この質問はある意味新鮮でした。別に不謹慎とか思いません。すごく本質的だと、私には思えます。「私にはこういうメリットがあったとかいうお答えもあるかもしれません。でも、私の考えていることを言ってしまいますと、いわゆるメリットはありません。というか、メリットとデメリットでものごとを選択するという当然の処世術や世界と違う世界を見られるというのが、メリットと言えば言えるかもしれません。私たちの世界には、努力すれば報われるとか、強いものが勝つとか、消費した時間や労力には対価があるとかいうのが普通です。でも、信仰の世界には、そういうギヴアンドテイクの物差しはないということ自体が、私たちを別の形で、生かせてくれます。
 イエスは、祝福されて神の国にいける義人とは、洗礼を受けた人だとか、献金した人だとか言ってません。飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませ、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねた人だと言っています。最も小さいもの、弱者にしたことがイエスにしたことだと言っています。フランスで8歳の子を対象にしたカテキズムの最初の時間に出た時、担当神父は、「ここで教えるのは、キリスト教的生活とは、他者の生活をより快適にするように努力することだということです」と言いました。私はこれがとても気に入りました。もしみんながこう努力すれば、搾取も戦争もないと思ったからです。そして、宗教の名に値するものは、こういう利他のメッセージを必ず含んでいるはずだと思いました。キリスト教は、全知全能の神の他に、人間として最悪の殺され方をしたイエスを救世主とします。渇いて、裸で、死にました。33歳で磔にされて窒息死するより、80歳で弟子に囲まれて大往生した仏陀の人生の方が、多分、だれでも好むかと思います。でもこの過激さが、「最も弱い人に寄り添う」というキリスト教の根本を作っているのでしょう。
 現実には、とりあえず、自分の身の回りで自分よりも困っている人とか、自分よりも弱い人のために、自分の相対的に強い部分を差し出してお手伝いします。絶対的強者とか弱者はいなくて、だれでも病気や老いや自己や障害で弱くなったり、また元気になったりとかします。たとえば、子が小さい時は強い親が助けて守り、子が大きく強くなって親が老いて弱くなれば子が親を助けて守る。恩返しとか義理とか、誰は誰に何々すべしという固定的なものではなく、生きているその時点で、自分より弱いほうをアシストするということです。これに最近、「強い立場の者と弱い立場の者の利害が対立した時は、強い立場の方が譲歩すべきである」というのを私は付け加えました。結構難しいです。でも、迷った時はこれらの原則に従うことにしています。
 これさえ守れば、キリスト教的人生です。それと、共同体の一員として期待される振る舞いをするというのはまた別ですが。メリットと言えば、昔は自分を犠牲にして何かに仕えてきた人も目についたでしょうが、今は、みな自分の損得を考えて生きています。価値観も、年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること自体が貴重だと思います。これからご結婚ということで、人生の中で幸せと力にあふれていらっしゃる大羊さんには多分ぴんと来ないかもしれませんが、人は自分では自分を幸せにできないように思います。できるのは欲求充足で、それももちろんできないことだってあるし、欲求が次から次へと湧いてくることもあります。でも、人を幸せにするのは比較的楽です。笑顔とか、優しい言葉とか、仏教でもこれらは金と関係ない布施とされています。大羊さんも、フィアンセの方が、笑顔で優しいことを言ってくれるのが、どんなプレゼントよりも嬉しいでしょう?
 私の若い頃は、結婚しても家事を分担するとか、何でも平等にというカップルがたくさんいました。そんな中で、その公平感が仕事や育児などで崩れたら、女性が「損をしている」と思ったり、結婚にメリットがなかったとか言い出したりするのです。その時々に、より疲れていない余力のある方が、寄り疲れている人をフォローしカバーし、助けるだけでいいのに。
 とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること、自分よりも他者が大切ということがこの世にあるんだということを忘れないためにこそ、宗教はいいなあと思います。その時に、カトリックのシスターや、司祭さんたちが独身誓願してるってことは、私のような俗人には、彼らがまず他者のことを考えて自分を犠牲にしているというシンボルに見えて、信頼感をそそります。家庭を持ってる人には責任というものが出てくるし、家族が自分のエゴの拡張になることもあるし、一人なら自分の時間を100%捧げるということで、「時間を捧げてこそ愛」みたいな実感もあるので。いくら奇麗事をいっても、誰かがその人を必要にしている時に、「ちょっと待って、忙しいから」と言うのは、寄り添うことになりません。今、この質問を見て、やることをすべて放り出してすぐにレスを書いてるのも、私なりの「キリスト教的生き方」であるのはいうまでもありません。
 組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし、服従とか清貧とか誓ってる修道者もすごいなあと思います。もちろん、聖職者が天使だというわけじゃないし、いろんな人やいろんな状況やいろんな歴史があるでしょうが、私にとっての今のカトリック観の基礎はこんな感じですね。実際、私の日本のカトリックの知り合いの方たちはすてきな人が多くて、それも信頼の根拠ですね。やっぱり、共同体って、一人一人の人間の魅力も必要ですし。取りとめなくなりましたが、一応返事に代えます。他の方のご意見も歓迎です。

133nao:2007/05/17(木) 09:41:39
愛するということ
大羊さんの質問は本当に皆がお返事しなければならない、大切なことだとおもいました。私は竹下先生のように、知的に問題をうまく整理できませんので、思いのままにかかせていただきます。遠藤周作先生の「侍」という小説ご存知でしょうか?支倉常長がローマからかえつたとき、日本はキリスト教弾圧のさなかで、彼は最後に処刑されることになつてしまいました。彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています。夫を焼き場の扉が閉まるまでみおくらねばならなかつたとき、私はやはり夫にこの声をかけました。この言葉に慰めをえられるのは、信仰なくして無理なことですね。私も人生の終わりに近い年齢になつて、自分がお棺の中にいる姿を想像することがあります。しかし「あの方が一緒におられる」とおもうと、恐怖がさつてゆきます。信仰というのは「愛する」ということに尽きます。お子様がおできになるとき、「子どもつて、こんなに可愛いんか」とおどろかれることでしょう。これつて、理屈じゃないですよね。ただただ、可愛いんですよ。それと同じでただただ、キリストに恋するというんでしょうか?私は信仰から、はいつて、勉強はいくらしても結局、わからん(学生時代4年熱心に勉強しましたが・・)ということで、飛び込んでみよう、そうすれば、何かがはつきりする、とおもつたんです。それは予想たがわず、はいつてから、信仰は信念をつくり、人生を単純化し、「愛することだけ」かんがえていれば、よろしい、ととても楽になりました。愛する優先順位は竹下先生とのお付き合いで私も単純です。とにかく、身近にいるかたでこまつている人に手をさしのべる。そこにキリストがいる。そうおもつています。少々癪にさわる人にも、彼が弱い立場にいるとき、私は感情を流しその人のためにいうごくことができるようになりました。いつの間にか、「愛」が先行する人生がつくられていつたわけです。信仰がなければ、癪にさわる奴なんて、許せん!といつておればすみますが、自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです。キリストが一番惨めな姿でなくなつたことはおおきいです。だれもあんな苦しみにはたえられません。すべての苦しみを凝縮させて、人間を救う神つて、他にはみあたりませんよね。私は夫の介護、自分の病気で随分おおくの方の情けをうけました。このときも自分ができることは「この善意の人のために祈る」ということだけでした。それで、「申し訳ない」から「きつとあなたに幸せがおとずれますように、いのつていますから、当てにしてね」ということができるようになりました。お相手もそえれがとても嬉しいようです。「申し訳ない」なんてばかり言われていると、たまりませんからね。それから、戦うべきときには、かなり勇気がでてくるというメリツトがあります。夫の介護中、随分施設の方と、やりあいました。けんか嫌いの私にも「愛する」ということのためにはこんな勇気がでるんか!!とびつくりしました。これもキリストの勇気を感じてきたからでしょうか?竹下先生のおことばのように、信仰はあれか、これかという対立をこえた世界に目がひらかれてくるという、すごいお恵みだとおもいます。こういう世界にひらかれてゆくのは、一定の「儀式」なしには危険なんです。やみくもに無意識界に参入すれば、カルト的にもなりますし、病人にもなる可能性がでてきます。シャーマンが厳しいイニシエーションをへなければ、できないように、洗礼という扉を通ることがひつようなのです。それだからこそ、「神体験」の世界が理性を破壊せずかえつて、するどくさせるのだとおもいます。信仰の世界は広大です。これなくして、見られない世界の広さは人生をたしかに豊かにしてくれることでしょう。献金はまつたく自由にされています。身分におおじていればいいのです。その強制力もどの教会をえらぶかの指針となるかもしれません。あれこれ書きました。老婆の強みは長い人生をどう生きたかおしらせできることですね。少しはお役にたちましたら、幸いです。

134迷える大羊:2007/05/17(木) 23:42:34
うーん
SEKKOさん、いつも、御丁寧にありがとうございます。

>とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること

 つまり、意識を自分中心の狭い視野から開放され、他人や広く人間全体に向けることができるようになるということなのですね?でも、私にできるのか?なんだかとても難しく感じます。
 やっぱり私は自分が一番かわいくて関心があります。自分を救う、安定させることで手一杯なのに、他人のことなんて、とつい考えてしまう私は俗人中の俗人、罪な存在としかいいようがないし、信仰を持った場合、現実の自己中心な自分と信仰上の教えとのあまりのギャップに却って悩まされそうな気がします。

>年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること

 アメリカのハードボイルド小説のセリフに「強くなくては生きていけない、優しくなくては生きている資格がない」といったものがありますが、信仰とはこの「資格」の部分なのでしょうか。これは分かる気がします。いかに稼いだかだとか、勝ち組入りしたとかしないとかで決まる世の中なんて、考えただけで息苦しい。そんなものと無縁の世界が一つくらいなくては、世の中、本当に殺伐とするばかりだと思います。

>組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし

 それは、なるほど、と思います。例えばローマ教皇が家族を持ち、その地位が北朝鮮のごとく世襲制だったりしたらなんて思うとぞっとしますし、それでは必ず、腐敗、公私混同が発生し、信徒の信頼も得られないでしょうしね。カトリックのように上下関係がはっきりし、組織も大きい教団はこれくらいのケジメが必要なのかな?と思いました。

 でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

135迷える大羊:2007/05/18(金) 00:33:03
同伴者イエス
naoさん、いつも御丁寧にありがとうございます。

>彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています

 いわゆる「同伴者イエス」という考え方でしょうか?私は個人的にいろいろなキリスト教の本に当たりましたが、遠藤氏のこの感覚、信仰のあり方が一番理解しやすいものでした。一人になっても、あの世へいっても常に側にいてくれ、話しかけることができる相手がいる、というのは人の精神安定にとても大きく寄与するかもしれない、と考えることはあります。
 蛇足ですが個人的にメンタルな面でのキリスト教解説書でいいな、と思ったのは遠藤周作氏の「私にとって神とは?」(光文社)と日本基督教団の牧師で同志社大の付属高校で聖書科教諭の富田正樹氏の著作「信じる気持ち」(日本基督教団出版局)ですね。

>キリストに恋するというんでしょうか?

 恋、で思い出しましたが、諸外国の場合はどうなのか、存じませんが、日本のキリスト教会の場合、女性比率がとても高いことに驚きます。単に私の気のせいではなく、カトリック中央評議会の統計をみても信徒の男女比は4:6。女性の方が多いんですよね。ネット上の知人であるお坊さんの話によれば、お寺には女性はあまり来ないとのこと。どうして、キリスト教は女性が多いのか、改めて不思議に感じます。

>自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです

 立派だとは思いますが、自分がそんな心境に本当になるものなのか、とても想像がつきません。実は私、短気、というのとは違いますし、普段は怒ることがないのですが、一度「この野郎」と思うとかなり熱くなるタイプでして、徹底的に怒り、ケンカするタイプです。周囲はびっくりしますし、あまりいいことではないのでしょうが、怒るときは徹底的に怒らないと、ストレス溜まってつらいです。まして、そんな相手の為にどうこうなんて絶対に考えないタイプ。そんな自分ですから、上のような心境が実感としてわからないのです(多少反省はしますが)。やっぱり、キリスト教に向いていないのかなぁ、なんて考えてしまいます。

>「愛することだけ」

 月並みですけど、結局のところこれに尽きるんですよね。でも、これがある意味では、一番難しかったりして、と思ってしまうのですが(身内だけなら簡単ですけどね)。

136Sekko:2007/05/18(金) 17:15:53
大羊さん
 >でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

 っておっしゃいますが、それこそ、「何々できる人が共同体に入れてもらえる」というメリット(資格という意味で)の問題じゃないんですよ。そうしないと偽善者の集団になってしまいます。でも、利他を頭の隅においとけば、他人への怒りがおさまった時とかに、そこはかとなく自責の念が湧いてくると思うので、そのことで、次の怒りの時に少し陰影が出てくるかもしれない。「自分中心主義」の絶対王政の中に、反対勢力も敢えて温存しとくのは、危機管理としてある種のセーフティネットを用意するためにはいいことですよ。
 特に子供には、家族や「お母さん仲間」や先生などとは別にまったく無償で時間を割いてくれるカテキストのおばさんなどが存在しているということを見せるということはすごく貴重だと思います。そうでもしないと、いまどき無償でやさしくしてくれるなんて、それこそカルトの勧誘かと疑ってしまいますから。
  どの国でも教会に行くのは女性が多いですね。日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう。女性はミッションスクールに通って影響を受け洗礼を受けるという「おじょう様カルチャー」もあるので、そんな女性が結婚して、男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。リタイアして暇な分、教会の共同体という場を与えられて、いろいろ活動を始める人もいるようですね。
 まあ、信仰というのは、基本的に「呼ばれる」「召される」ということで、迷われているということは、きっとイエスの方ではもうとっくに大羊さんを見つけて「同行」しているのかもしれません。
 私は苦労が少ないせいか、この世で親切な同行者たちにめぐまれてるせいか、「あの方に同行して欲しい」とか切実に思ったことがありません。もし、刑場に向かうとか、激痛で断末魔のとこにいるとかいうシーンになったら、その私より相対的に弱そうな人はもう手近に見つからないと思うんで、その時は、その時こそは、受難のイエスに寄り添ってあげたいですね。一人じゃないってことで慰めてあげたいです。元気に生きてるときはセーフティネットを張っとく、でもそれが敗れたらあっさりあきらめる、で、奈落の底で、手足に釘を刺されて「渇く」と言ってるイエスに、私がそばにいてあげるからね、と言って一緒に苦しむ。そいで、私の方が死んで、イエスもお花畑も視界から消えても、まあ、そんなもんだと思って、「下界?」で私に祈ってる人や私を愛してくれた人たちに何かできないか考えますよ。「だめもと」です。

137nao:2007/05/18(金) 20:26:43
年齢ということ
大羊さんはこれから、結婚なさるというとてもお若いかたですよね。まず私の年齢の半分以下であることはまちがいありません。3分の1、かもしれません。「かなりあつくなるタイプ」。けつこうです。男らしいじゃありませんか!でもそれが「キリスト教にむいていない」とはまつたく検討違いだとおもいますよ。
私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。でも大羊さんより、半世紀ほども長くいきてきて、やつぱり、自分もひどいや!とおもうことがおおいんですよ。これは年のせいで少しはわかつてきているのと、キリストがやはり自分の内面に絶えず語りかけるものがあるからだ、とおもうんです。自分の償いになるとおもえてきたのはまあ・・この年になつて、やつと・・てところかな・・。言葉がたりませんでしたね。
私はキリストが最初はわからなかつたんです。わかつたのはマリアでした。「マリアを通じてキリストへ」と最初にであつた神父さんがおしえてくださつたので、そのうち、キリストがわかるだろう、とおもつて、何十年もたちました。そして、やつと、いまごろキリストの十字架の意味もわかつてきたようなわけです。こんな信者もいるんだいうことを知つていただけると、うれしいです。
私は大羊さんのように、ご自分の意見を上手に表現される若いかたを最近みたことがありません。嬉しい限りです。サイト上でまじめに応答してくださることは、本当に素晴らしいことですし、年齢をこえて、いろんな方が大羊さんと会話してくださることをねがつております。
内緒ですが、キリスト教会にはへんな自信家がいるんですよ。自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております。大羊さんのような正直なかたこそ、皆キリスト教会にむかえたいのではないでしょうか?もし、私たちの教会に大羊さんのような正直なかたがきてくださつたら、大歓迎ですね。
どうか、なつ得のゆくまで、まよつてください。もうキリストがご縁のない方ではなくなつていますね。竹下先生のご明察のとうりだとおもいます。
それから、『自己実現』ですがこれには自分の能力を最大限にのばしてゆく、ということと、宝石の原石をカツトしてひかり輝くという二つの意味があるとおもいます。若いときは能力をのばす、しかし、やがて、限界がみえてくるときがあります。そんなとき、自分の何を捨てるか、かんがえてゆくのも「自己実現」だとぽもいます。後者のほうがじつはひどく難しい。そんなとき、キリスト教は「愛する」ことを最優先するので、カツトの方針がたちやすいようにおもいます。
大いに、競争OK.でもいつかはそれが空しくなるという引き出しもあると、「時」がくれば、その引き出しをそつとあけてみるということもいいのではないでしょうか?
理想を前面にたて、自分の至らなさに、こんなことでは・・と考えるひとがいますが、それは不自由な生き方だとおもうのです。自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら、どんなに嬉しいかとおもつた次第です。きつとそうなることをねがつております。竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください。

138迷える大羊:2007/05/19(土) 01:17:10
キリスト教あれこれ
Sekkoさん

 いつも、お疲れのところ恐れ入ります。

>日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう

 実はクリスチャンならカトリックと思った理由の一つにこの辺りの問題についての対応が現実的だったことがあるのですよ、カトリック教会って。近くのカトリック教会の神父さんの話では、葬儀はノンクリスチャンの家族とのことも考え、仏式で執り行った後、非公式でカトリック式の葬儀も上げる、という対応もできるし、分骨も可能とのこと。

 なんといってもホッとするのはプロテスタント福音系の教会と違い、お焼香などを「偶像崇拝、異教崇拝」などといって拒否したり、タブー視したりする信徒や聖職者が少ないこと。私の近くのカトリック教会の神父さんなどは、むしろ、積極的にお焼香しなさい、という立場です。未信者の分際でいうのもなんですが、お焼香ってそんなにクリスチャンのアイデンティティに関わることなんですかね?ごくごく一般的な日本人でお焼香に信仰を問うたり、踏み絵的な意味を見出している人なんてどれくらいいるんでしょう?それを異教崇拝とかなんとかいって拒否するのは大変自己中心的な、それこそ愛に欠けた行為のように私には映ってしまい、福音派プロテスタント教会から離れた理由の一つになってます。

 あと、若い男、働き盛りの男が宗教などに頼るのは女々しい、という感覚は確かにあるかもしれません。私の友達(もちろんノンクリスチャン)も「信じれば救われるなんて甘いんだよ」なんていってますし、カトリック東京教区のサイトの掲示板でも、ノンクリスチャンの夫を持つ女性信徒の相談で、上の女の子が生まれたときは幼児洗礼OKだったけど、男の子のときは「男に宗教はいらない」ってことで幼児洗礼を反対された、なんて話が出てました。

>男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。

 有名人では元巨人軍で野球解説者の故青田昇氏、寅さんの故渥美清氏がそのパターンのようですね。あと、いわずとしれた長島茂男氏(大学は聖公会系ですね、そういえば)の夫人、亜希子氏はカトリック信徒のようですから、茂男氏もそろそろ・・ってことはないか(笑)

>まあ、そんなもんだと思って

 信仰のあり方は人様々なのですね。ところで、クリスチャン、カトリック教徒はイエスを「神」(それもあの意味不明な三位一体論とセットで)と信じなければならないのでしょうか?実のところ、私にとってイエスは欠点も弱点もある(聖書にはイエスが故郷では評判が悪く、家族仲も良くなかったことを推理させる記述もあるし・・)、至って普通の人間だと思ってます。その普通の人間が神を連想させる生き方をしてみせた、ひたすら人を愛することに徹してみせたところに意義というか、偉大さみたいなものを感じる、というのが私のイエス観(遠藤周作の「イエスの生涯」の影響が大きいのですが)なのですが、これは「異端」ってことになるのですかねぇ。
 イエスが完全無欠で超能力を駆使する「神」だなんて話はなんだか、その辺の怪しげな新興宗教の教祖様みたいで却って信じる気持ちが失せてしまいます。
 ちなみに福音系プロテスタント教会では「それではダメなんですよ、あの方は単なる偉大な思想家、宗教家ではないんです」ということでした。

139迷える大羊:2007/05/19(土) 01:56:21
クリスチャンあれこれ
 Naoさん
 いつも、参考になる話、ありがたく拝見させていただいております。

>私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。

 いや、ホっとします。こういう話を聞くと。皆が皆、「敬虔」な人々だったりしたら、却って怖くて、引いてしまいます(笑)

>私はキリストが最初はわからなかつたんです

 確かにわかりづらいところはあります。私には現在進行形の話しです。まあ、奇跡なんかは信じなくてもあまり差し支えないかもしれないけれど、問題は復活と贖罪思想ですね。これらはキリスト教の核ですものねぇ。

 復活なんかも最初はホラー映画のように死体が動きだすんかい?アホラシと思ったものです(すみません)。やがて、そういう意味ではない、精神的なものであることがわかりますが、それにしても、あまりに非合理で、困り果てます。贖罪思想も理屈はわからなくもないけれど、そもそも、2000年以上前のユダヤ人宗教家の刑死が、一体全体、21世紀の日本という、あらゆる意味で一番遠いところにいる自分に一体どう関わってくるのか、今一つ実感が薄いことがありますね。
 私も年を取らないとわからないのでしょうかね。

>自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております

 まあ、それは宗教に限らず、どこの世界にも必ずいますよね、そういう人。実は私の職場にもそういう人いましてほとほと困ってます。ただ、宗教の場で厄介なのは「神」が絡むことでしょうね。客観的にみれば、明らかに自分の思い込み、意見、偏見を語っているだけなのに「これは神の御心」だなんて神の御威光をバックに自分を正当化しようとする人は確かにいそうです、というかいます。そういう人や出来事をみると「これだから宗教っていうのは・・・」なんて思ったり、思われたりしますよね。まあ、折角、心の洗濯をしに教会に行くのに、また煩わしい人間関係が一つ増えただけだった、なんてことがないように、お祈りするしかないのかな?

>竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください

 大体、見当がつきましたが、公の場での明言は女性への礼儀として避けます(笑)。でも、ボケどころか、年代的にIT、パソコン関係が苦手な方が多い中、これだけの書き込みが出来るなんて大したものです。うちの母などパソコン、インターネットはもちろんのこと、携帯電話すら、怪しげです(笑)

>自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら

 そうですね、無理をしても仕方のないことですし、長続きはしないでしょうね、まあ、焦らず、自然体で行きたいものです。それにしても、クリスチャンの彼女との出会いがなければキリスト教にこうして関わることもなかったでしょう。やはり、何かしらの縁がキリスト教と私の間にはあるのでしょう。先のことはそれこそ「神のみぞ知る」ですね(笑)

140Greencurry:2007/05/19(土) 09:24:50
信仰とは?
大羊様、皆様、

大羊さんの信仰するメリット・デメリットという疑問が印象に残り、
皆様のやりとりを拝見していて、信仰ってなんだろうなあと思いました。
私はキリスト教徒ではないし、宗教にも詳しくないので、あまり語るべき言葉を持っていません。
ですが、遠藤周作の本は好きでだいたい読んでいます。
『沈黙』に出てくるイエス像が私の考えるイエス像にもっとも近いです。
そういう点では大羊さんと似ているかもしれませんし、ひょっとしたら多くの日本人がそう感じるかもしれません。

それで、今週は、宗教とは?と会社の行き帰りに満員電車に揺られながら考えてました。
ずっと以前、祖母が亡くなったとき、斎場の帰りに見た夕暮れの空がとても美しくて、
その美しい空にひときわ光の強い星がひとつ出ていました。
その星を見て私の叔母(亡くなった祖母の娘)が『見て、きれいな星が出てる。きっとおばあちゃんだよ。』と言いました。そばにいた数人はみんな『ほんとだ、おばあちゃんだ』と言って、小さな感動に包まれました。
その時に私は宗教のはじまりってこんなものじゃなかったのかなぁ?と思いました。
星とおばあちゃんは何の関係も無いのに、何の迷いも無く星がおばあちゃんだと思える。
おばあちゃんが亡くなったのはとても悲しいのに、もう病院のベッドで機械につながれてもいなくて、痛みもなく、きっと自由で楽になっていると思えて、悲しみが少し和らぐ。
(クリスチャンなら「神のもとへ帰った」と思える場面かもしれません)
信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?
そういえば、前に拉致被害者の家族の人が「今まで自分を支えてきたのは信仰だ」
と言っているのを聞いたことがあります。(そこしか聞こえなかったので詳しくは分からないですが)
宗教のよい面はそういうところではないかと思いました。
だから、「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

なんだか、幼稚な話で失礼しました。
みなさんが高度なお話をされているので、投稿しようかどうかと迷ったのですが。。。
大羊さんが大いに悩まれて幸せなご結婚をされることをお祈りしています(あ、これも宗教的だなぁ)

141あんとに庵:2007/05/19(土) 11:45:02
横入り失礼します
迷える大羊様
はじめまして。
実存世界やなんかで竹下先生にお世話になっているものです。日本の離島(カトリック教会なし)に住むカトリック信者です。
naoさんからこちらでの会話のお誘いをいただき参りました。

いくつかの疑問点、出された命題について記してみようかと思います。まずご質問への回答として。

・キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?

メリットという発想がなかったです。子供の頃に教会に通わされ、中高とカトリックの学校に行き、その時洗礼受けようかと勉強したこともあります。しかしすぐに思春期固有の反抗期がきて、シスターや神父に「けっ」てな感じになって離れましたが。
祖母も聖公会之女学校出身で家族の死生観というか、なにか基礎となるアイディンティティ、思考がキリスト教徒だなぁと実感したので、カムアウトする為に洗礼受けたです。うちの父が「お前はどう考えても耶蘇なんだから洗礼受ければ?」と言ったのが教会に再び通うきっかけになりました。
それとわたくしは独身で、しかも自由業という、家族や仕事等のなんらの共同体に属していないので、そういう疑似家族的な共同体にちょいとした憧れがあったんですね。ほんとうは共同体に属するって面倒くさいじゃないですか。嫌な他人(めんどくさい家族)と付合わなきゃならん。でもそういうむかつくことも含め、他者と一緒にいるってのが、まったくの孤独な状況だと憧れになったりするんですよね。で、教会も当然人間の作る共同体ですからむかつくこともあります。なんじゃこいつ?と思うこともありますが、そういう迷惑の掛けあいってのが共同体ってモノなんだと思ってます。あと、親との共同体以外の逃げ場が欲しかったというか・・・。逃げ場って必要かも。

ところで、教会に戻る時にキリスト教会ならどこでもいいや。と思っていたので、近所にある福音派の教会に行こうかなと悩んでいたすが、ふとしたきっかけで知りあった福音派の牧師先生に「君はカトリック以外考えられないから、カトリック教会にいった方がいいよ」と言われまして、カトリック教会に行きましたです。今思えばその牧師先生は本質をついていたと思います。向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと思います。もっともいまやカトリック教会もプロテスタントの日本キリスト教団や、福音派のようなメインラインの教会すらない小さな離島に住んでしまいましたが。(でも隣の島から神父様がうちに来てミサ挙げてくれるんですよ)

・奇跡、復活について

私がかつてした告解の一つが「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答をいただきました。未だそれがなにか考えています。

・人間イエス

迷える大羊さんがおっしゃるように、これこそキリスト教の中心的課題で、あきらかに弱い人間であるイエスがナンで神よ???を考えることが神学のひとつだったり。「み言葉が神になる」ということがキーワードかもしれません。ちなみにわたくしもあきらかに人間だろう?優れた思想家だったんじゃない?と思っておりましたが、今はその「み言葉が神になる」ことゆえに神だと考えています。しかし、ここに至るには30年を要しました。
ちなみに神でもあるイエスが、悩んだり、トンでもなことを母親にいい放ったり、空腹のあまりにイチジクの木に八つ当りをしたりするのは、人でもあるからなんですね。人としてこられた神というのそのように人でなければいけないのです。それこそがまさにキリスッと教の中心を為す神学の根底にあり、迷える大羊さんの疑念はすごく健全で、神学世界の入り口に立っておられるなと思います。

142nao:2007/05/19(土) 12:32:02
お礼
あんとに庵さま 早速願いを聞いていただき、投稿していただきまして、本当にありがとうございました。なんだか大羊さんの母親になつたみたいな感覚で(失礼!)今回はおおくのかたに是非参加していただきたかつたのです。皆さん、竹下先生から多くをいただいているかたが、この機会にどんどん発言してくださいますよう、先生にかわりまして、お願いもうしあげます。
大羊さんのおかげで、自分の信仰つてなんかな?とかんがえはじめました。うまくかけないのに、驚いている始末です。おかしなものですね!普段は信仰抜きに生活できていないのに!またおもつたことをかかせていただきます。まずはお礼まで。グリーンカレイさん、また新鮮な問題提起でしたね。考えさせられます。

143迷える大羊:2007/05/19(土) 20:15:28
信仰の威力
GreenCurryさん

 初めまして。お応え、ありがとうございます。

>「沈黙」

 いい作品だと思いますが、発表当初(1966年)はカトリック教会からは猛烈な反発があり、遠藤氏はミサの最中、司祭より名指しで非難されたそうですね。確かに主人公が最終的に踏み絵を踏んで、棄教してしまうクライマックスは保守的なクリスチャンには耐え難いものがあるかもしれませんねぇ。何カ国語かに翻訳され、好評を博し、ノーベル文学賞候補にも上ったらしいのですが、結局受賞できなかったのはキリスト教国である欧米諸国でもこのクライマックスに賛否両論があったのと、あまりに日本人的なイエス、キリスト教理解が、今ひとつ受け入れられなかったせい、と聞いたことがあります。

>信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?

 なんとなくはわかりますけどね。ちなみに私の彼女がクリスチャンになったのは、実母が小学5年か6年のころ病気で亡くなったことがきっかけです。彼女にとってつらい時期を支えてもらった「恩義」があるせいか、キリスト教に対する思いいれは人一倍で、私みたいに、やれ奇跡がどうのこうのだとか、聖書にはとんでもないこと書いてあるぞ、みたいな疑義は全く生じる余地がなかったみたいで、本当に素朴に信じてます。
 彼女に限らず、熱心な信者の方というのは肉親との死別とか失業、事業の失敗とか何か強烈に日常生活の価値観に疑問を感じる出来事を体験された方が多いように思えます。とある教会で話をした女性信徒の方(私と同年代30代)などは嫁姑などの家庭問題、育児問題に悩んでの末の入信でしたし。あくまで私の見聞きした範囲での話しですが。

>「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

 大部分はそうかと思います。でも、話をややこしくする原因にはなってるんじゃないかなぁ、とは思います。例えば、パレスチナ紛争におけるイスラエルはどう考えても侵略者の立場ですが、ユダヤ教の経典である旧約聖書では彼の地は「神から与えられた土地」になってますよね、確か。これじゃあ、まともな話合いなど成り立ちようがないですよね。

 ちなみに私は旧約聖書があまり好きではないのです。単純に登場人物の相関、状況背景が分かりづらく、読みにくい、というのもあるし、苦労して読んでみても、侵略、虐殺、とんでもない話(同性愛者は死ね、だとか、親に反抗する子供は石投げて殺せとか、兄弟を売り飛ばす話とか)のオンパレードで、こんなおっかなくて、ビンラディンもびっくりの過激な破壊行為をやたらと繰り返す神様を本当に「主」として崇めなくちゃならないの?と聞きたくなってしまうんですよね。
 クリスチャンの皆さんは、旧約聖書ってどう思っていらっしゃるんでしょうね?話が脱線しました、ゴメンナサイ。また、お相手下さい。

144迷える大羊:2007/05/19(土) 21:11:39
横入り歓迎いたします
あんとに庵さん

 初めまして。信仰歴について興味深く拝見させていただきました。

>父

 お父上はクリスチャンなのですか?もし、そうでないとしたら、ずいぶんとキリスト教に理解のあるお父様ですね。大概のクリスチャンでない日本人はキリスト教に悪い印象はほとんどないもっていないけれど、自分や自分の身内が洗礼を受けるとなると抵抗する人が多いじゃないですか。父親ではなく、私の会社の先輩の話ですが、彼女がクリスチャンです、という話をすると、「へぇ〜、いいじゃない、でも、日本人なのになんで?」ってな感じの反応をされました。どこか、自分とは遠い世界のファンタジー的な感覚があるんでしょうね、キリスト教に関しては。

>疑似家族的な共同体

 まあ、これはジョークですけど、なんだかヤクザ組織に似ているような(笑)。あちらの方々も、見習い(求道者?)から始めて、修行(公教要理教育?)して後、盃を交わし(洗礼?)、構成員(教会員?)になるってプロセス、互いを兄弟に擬して、兄だとか姉だとか呼び合うこと(カトリックではあまり聞かない気がしますが)、シノギ(生活手段、稼ぎ)は各人の自由で上納金(献金)を組織に納める、などなど・・・。

 極端な話、違いは悪いことをするとヤクザ、善いことをするとクリスチャンになる、くらいかな、なんてね。最大教派のカトリックはさしずめ山口組みたいなものかな、などとくだらないこといろいろ、考えました。しつこいようですが、あくまで冗談ですよ、怒らないで下さいね(笑)。でも、伝統的教会は高齢化が進み、若年者が不足しているようですが、あちらの方々の世界もそれは同様だったりするなど、妙に共通点があったりして・・・。

>向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと

 そうですね、でも、それが逆にキリスト教のいいところだと思います。一つの教会がダメだからといって即、キリスト教の世界から去らねばならない、ってことがないのですから。また、それがキリスト教の奥深さかと・・。組織、人間関係の面倒さなど気にならないくらいの生き甲斐、というか信じ甲斐のあるものを見つけられればいいんですけどね。

>「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答

 そうでしょうね。真面目に考えて、信じれば信じるほど却ってワケがわからなくなりそうな気がしますよ。信徒になってもそうなんですね。でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?あまり、心底からは信じていないけど、とりあえず「信じます」と答えたとか?また、カトリックの信仰告白ってどんな内容なんでしょう?

>み言葉が神になる」ということがキーワード

 うーん、今の私にはよくわかりません。あと、神でもあり人でもあるっていうのも。昔のテレビヒーローの仮面ライダーやウルトラマンみたいに変身するとか??(笑)。あと、それだと、神が神に生贄をささげ罪を償ったってなことになっちゃいそうな気がしますし。
 別にふざけたり、茶化しているつもりは全くないのですが、真面目に考えれば考えるほど、よくわかんなくなる、というのが率直な感想です。

>離島

 それは大変ですね。離島でも伊豆大島ですとか佐渡島なんかにはカトリック教会があったりしますから、そういうところではないのですね。出張ミサなんてあるんですね。ただでさえ、信徒数のわりに人手が不足し、忙しい神父さんがそこまで行くのもまた大変だな、ご苦労様です、と声をかけたい気分ですね。
 お相手ありがとうございます。

145あんとに庵:2007/05/19(土) 22:35:47
どもども
迷える大羊様

父はクリスチャンではないですが神戸育ちなもんで。聖書も若い頃に読んでいますし、勉強もしたようです。でもバリバリの日本人です。しかも右翼。読んでる本が「正論」取ってる新聞が「産経」・・・ですんで本人は「俺は神道の民だ!」といいながら、永平寺に座禅組みに行ったり、寺の檀家の集まりに行ったり、教会に誘うと大きな声で聖歌をうたったりしています。典型的無節操ともいえるほどの宗教観の日本人です。
あと、子供の頃の環境での馴染があるから抵抗感もなかったのだと思います。父はそのあたりは国境なき思考です。
なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした。

ヤクザとの関連ですが、ヤクザ組織の家族制って実ははみ出し者を救う機能はありますね。どこにも行けないつまはじきのものを受け入れる懐の深さ故に昔のヤクザ組織は、世間より仁義を大切にしていたわけで。ゆえに失礼ではなく、寧ろ本質ついているかもです。

近代合理主義以降の現代の風潮の欠点を挙げるとするなら、「家族」的なるモノ、血縁でない他者との関わり合いの希薄さが挙げられるかもしれません。やくざもカトリックもその古臭いシステムの中で他者との関係性を大切にするという点では共通してますね。

ま、ローマ時代の伝統的存在といえば、マフィアとカトリック教会。マフィアのファミリーってローマ貴族のあり方が起源だったり。

>でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?

信仰告白はミサの度にやります。ニケアコンスタンチノープル信条といいます。検索すると出て参ります。カトリックの教義の全てが詰まっています。「クレド」ってラテン語で言いますね。
そのクレドの「からだの復活を信じます」と言う度に「うにゃぁ@?」となっておりましたので告解したのです。
で、神父様の回答を聞き、判らないことは信じますとは言えないけど信じないとも言えないのが「わからない」ということナンだなと。たぶん自分が死に直面していないから呑気に考えているのかも。でも友人が死んだ時、再び会うために復活を信じたいよなぁと思ったのも事実なので、その「復活の希望」ゆえに信じてみたいとは思っています。

イエスが神になる>

イエスは変身するんではないんですが、笑)生まれた時から完全な人である完全な神って考えるのがキリスト教なんですが、まぁ、普通はなんだそりゃ?ってなりますよねぇ。変ですよ。これは。

この辺り、三位一体論が形成されていく推移を読むとなるほどなぁと思います。ギリシャ哲学的素養を必要とするので、私にはかなり難解で大変でした。あと青野太潮さんというプロテスタント神学者の著作は助けになりました。これを紹介してくださったのはルーテルの牧師さんでしたが、青野氏は福音派の方だったかと記憶します。まぁ、どんなキリスト教派の人も悩みぶつかる問題なんでしょうね。真剣に考えるとわからなくなるから多くの人が、著作書いたり読んだり、2千年間それをし続けているのだと思います。
ゆえにそれがなにかを考えることが信仰の一つの営みだったりします。イエスが神って、それってどういうこった?って考え続けることもまた、祈りの一つなんだと思いますね。

146nao:2007/05/19(土) 23:44:36
目にみえないもの
今「博士の愛した数式」テレビで見おわつたところです。そのなかで「一直線」というのがありました。線分は実は永遠につづく目にみえないものの一部分なのだ、というんですね。イエスは線分、神は永遠。その二つは一つ。でも神は永遠。イエスは永遠で有限。有限が無限と一体。これこそ、考えるに値するテーマですね。三位一体のような判りにくいものをまじめに考えつづけてきたヨーロツパの知性にこちらもまじめにとつくんでみてやろう、とかんがえるのも面白いかもしれません。

カトリツクは人間関係がややこしかつたら、よその教会のミサにゆけばいいという逃げ場所があります。私の知人はキリスト教会でいじめにあつて、よそにゆきましたが、そこでもまたいや・・・な目にあつて、もうどこにいつたらいいんかわからん・・となげいていました。どこの教会にも出入りできるつて、すごいことなんですよね。

あんとに庵さんがはいつてくださつたおかげで大羊さんは、ものがいいやすくなられたみたい。あんとに庵さんて、ブログでもこの魅力ありますね。大羊さんもお邪魔してください。

ではお休みなさい。

147Sekko:2007/05/20(日) 21:24:33
日本人とキリスト教
 バロックバレーの研修がようやく終わったのでここを見るとなんか盛り上がってました。ありがとうございます。後、室内楽とオーケストラ、生徒の発表会などというイヴェントが少々あり、その他はいよいよ無神論の本に集中です。
 この無神論の本を準備していくうちに、神とか信仰の問題がよりよく分かるようになりました。要するに、神を信じていた人がそれを失うのが無神論なんですよね。最初から無関心とか信じてない人は、否定すべき対象がない。否定するということは、その対象と真っ向から向かい合って対決することなんです。昔、私は典型的な「普通の日本人」だったので、たとえば、大羊さんやあんとに庵さんみたいに、イエスの復活?まさか、あるわけないよね、とか、いまいち信じられない、なんて考えたこともありませんでした。たとえはすごく変ですが、「ミッキー・マウスの耳って、大きすぎて不自然じゃない?」とかいう問いを立てないみたいなもので。
 大人になって無神論になった人の「神っていなかったんだ、自分はずっとだまされていたんだ、」という愕然とした恐怖の記録(あるいは呪縛が解けた自由の記録)って、読んでも実感がなかったんです。サンタクロースがいないと知ったって、親がそっとプレゼントを置いといてくれる善意のメカニズム自体がサンタクロースなんだなあ、とか思うタイプなので。
 しかし、子供の頃から、困った時の神頼みってのはありました。どうにもならない時「神さま、助けて、」と言うのは。これは「神さま、仏さま」と同義で、別に一神教の神ではなかったのですが。ある日、そういう超越した存在はなくて、すべて「脳内神さま」だったとしたら・・・という仮定をたててみたら、ちょっとショックでした。じゃあ、今まで祈ってたのは一体なんだったんだとか思って、無神論者の絶望をちょっと実感できました。それと平行して、信仰、疑い、棄教、回心、無神論、ニヒリズム、とか、ミニサイクルで、ぐるぐる何回転もシミュレーションしました。もし日本にずっといたら、そういう実感のシミュレーションはできなかったと思います。今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。私の場合、他のみんながそう言ってる信仰の共同体の真ん中で、「私は実はちょっと、ここのところは信じられないんですけど・・・」なんて敢えていうことで、そこにいる人を不快にさせたり悲しませたりしてはならないという原則が優先的になります。私個人が心の中で信じているとかいないとかはその場ではたいしたことじゃないと思えるんで、優先事項にならないんです。「私の信仰」とか絶対的なものがあるんでなく、文脈や関係性のうちに、他者をリスペクトすることを優先することで選択される感じですね。
 でも、トリノの聖骸布とかの話を読んでると、復活もありかなあと思います。いわゆる栄光の体じゃなくて、傷口が開いたまま、では血まみれではなかったのかとか、使徒にさえすぐに分かってもらえなかったというのは、殴られた痣と腫れで面変わりしていたからなのか、いろいろ考えてしまいます。『カトリック生活』という月刊誌の5月号と6月号に知人の写真家と編集者の話が載っています、二人ともカトリックではないんですが、カトリックの巡礼マニアです。6月6日には、『聖骸布の男』というムック(講談社)が出ます。聖骸布の実物大ポスター付。彼らと一緒に去年の夏、実物大精密写真を見に行って、みんな魅せられた感じになりました。私はポジ画像の布の繊維に残った血の跡があまりにも生々しくて、すごく残酷、すごくかわいそうだと思いました。無限の神が有限の人間になるって、結局こういうことなんですよ。あまりいいたとえじゃないですが、3次元の存在の神が、2次元の紙の上でアニメみたいに展開するこの世の出来事を眺めてるとします。その2次元の表面は神の3次元に全面的に触れているんですけど、空間概念はないんですね。そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。でも2次元には結局彼の居場所はないんです。血のしみを残して追い出されるんですね。でもそのしみも、2次元の世界はすべて、アニメ原作者だった神のいる3次元と境界を接していて、いつもコンタクトを受けているんです。ええと・・・話が変なほうに逸れました。あまり深く考えないように。
 ここに書きたかったのは、私が「日本人とキリスト教」で連想する二つのエピソードの紹介です。一つはプロテスタントの家に生まれて幼児洗礼を受けた知人(団塊の世代)の話。当然まったく普通の人で、普通にふるまってるんですが、私にとっては、その年代で、プロテスタントであることで、子供の時に自分は他人と違うという意識は相当芽生えたはずだろうとすごく好奇心を持ったんです。質問したら、全然そんなことはない、マイノリティ意識はまったくないと言うんです。私がしつこく聞くと、そういえば、と中学時代のエピソードを話してくれました。昔の公立中学は、制服はもちろん丸坊主におかっぱとかいう髪型の校則のあるところが多かったんです。彼の中学もそうでした。だけど、お母さんが、自分たちはクリスチャンなので、と学校にかけあって、彼だけが3年間たった一人坊主頭でなかったそうなんです。その人はすごく自然に、なんでもないような感じで話すので、私は返す言葉がありませんでした。でも頭の中にはありとあらゆる「つっこみ」が渦巻いていました。えー、それって、めちゃトラウマなんでは・・・ヌーディスト・ビーチでコート着てブーツはいてるような感じでは? いじめの原因にならないかとか、いや、そもそも、クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ、それをOKして例外を認めた学校側も相当変では・・とか。
 私は校則のドレスコードなど、すごく嫌いでした。何度も注意されました。だから、個人の表現に関する校則を守らないというのは気にならないんです。でも、中学くらいでは、たとえ、うちの子には髪型を自由に選択させます、それが教育方針ですので、って親が学校に乗り込んだとしたら、嫌がる子の方が多いんでは。昭和40年代くらいの話でしょう。日本のクリスチャンって、日本人じゃないんだなあ、とか思ったエピソードです。
 もう一つのエピソードは、普通の仏教の家に生まれて、自分で思うところあって洗礼を受け、その後でカトリックの司祭になった人の話。日本でカトリックの司祭になる人って、家代々カトリックという幼児洗礼組が圧倒的に多いかと思います。洗礼を受けるのでさえ先祖の墓は誰が守るって話になるのに、生涯独身の司祭となると、もっとむずかしいのは想像できます。でも、その司祭は、両親がそろって洗礼を受けたんですよ。なぜかというと、「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」というんです。もちろん、両親の宗教で差別されるようなことはありません。そんなこと言ってたら、ますます日本に聖職者なんていなくなります。だから、この人なんかは、親に洗礼を勧めたわけでもなく、逆に、司祭になることに反対されないかということの方が気がかりであってよさそうです。それが、親のこの言葉・・・
 私の義理の妹はカトリック・ファミリー(といっても日本の仏教と同じで、他に選択肢のない檀那寺や氏神さま状態の村の話)で生まれて育ち今はチベット仏教の尼僧です。独身誓願もしてます。家族の誰も反対せず、チベット・コミュニティーと交流してます。しかし、彼女の立場がよくなるようにみんな仏教徒になろうという発想は絶対ありえないですね。
 「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」・・・すごく日本的だと思いました。この親にとってはイエスの復活がどうとか、三位一体がどうとか何の障壁にもならなかったに違いありません。神は息子だけじゃなく、両親も呼んだんですね、きっと。

148Fusako:2007/05/21(月) 21:28:49
私とキリスト教
私は、中学・高校とプロテスタントの学校に通いました。長老派だったでしょうか。でも、プロテスタントの中の宗派はおろか、カトリックとプロテスタントの違いも定かでない、という程度の興味しか、昔も今もキリスト教には抱いていません。
わたし自身は無宗教、しいて言うなら「自分教」などと人には言っています。
でも、年をとって、昔、学校で学んだいろいろなことが、如何に自分の中に入っているか、不思議なもの、キリスト教の学校で良かった、と思っています。
クリスチャンになる、というつもりはないのですが、学校で教わったことにとても多くを負っています。で、キリスト教自体には肯定的な感じを持っています。その、肯定的な感じは、もっぱら、聖書と聖歌から来ていますね。聖書は好きです。その一番の理由は、聖書がセクトの言語で書かれたものではないこと。教団・宗派、はもとより、閉鎖社会・サークルの中での「業界用語」で閉鎖された社会を作る人々、が好きではないので。それから、聖書について好きなのはその内容。若いときにはわからなかったり、それから納得できなかったことが沢山ありましたが(放蕩息子の喩えとか)、今は、そうした喩えを興味深く思います。
聖歌、というのは、主として賛美歌ですけれど、美しい歌とハーモニーに満ちた学校生活だったのは恵まれていたことでした。ハーモニー、つまり、違う音色の人たちの美しい調和、から毎朝が始まる、毎朝の音楽を楽しみにする暮らし。一番感じやすい年頃にそういう生活を送れたことには感謝しています。感謝は、親と神様に。
で、この「神様」というのが、結局、今に至るまでわたしの中に残っているキリスト教ですね。宣教師の先生も多い学校で、英語教育にも力を入れていました。で、聖書や英語から学んだのが、「与えられたもの」という観念ですね。人は「生まれる」のではなくて、was born 生み出してもらうものですし、人の心の深いところに届くものは、自分で選んだものではなくて、touched、moved のように思いがけなく捉えられるものですね。
端的に、最も大切なものは、人間が自分で選べるものではなくて、与えられた、選択の余地のないもので、そのように、与えられたものを大切にしなければならない、ということが、「神さま」の教えの中心として残っています。誰も、自分を選んで生まれることはできないし、自分の親も子どもも選べない。結婚も、まあ、計算で選ぶ結婚も多いですけれども、恋愛は、自分で選ぶのではなくて、fall in してしまうのが本来でしょうし。
そんなことが、学生時代からの「教え」として入ってしまっているので、逆に、わたしは特定の教義に入らなくなってしまったのかもしれないです。メリット、デメリット、よりも、人間が自分で選ぶ教義、これが他のものよりも良いから、というような説明のつく教義、神様、なんて、逆になんだか変、という気がするんですね。
というわけで、自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう、と考えています。
久しぶりにここのやりとりを読んで、ちょっと入れて頂こうと思ったのですが、まとまりのない抽象的な感想になってしまいました。

149迷える大羊:2007/05/22(火) 00:54:09
イジメ、ですか・・・
>私の知人はキリスト教会でいじめにあつて

 イジメ、イヤですねぇ。キリスト教会でイジメって、なんだかなぁ、まさに神も仏もあらへんわ・・って気になっちゃいますねぇ。まあ、クリスチャン、とかカトリックとかいっても別に普通の人間であるわけで、水ひっかけられたり、かぶったりしたくらいで変われれば苦労しないよ、ってところなんでしょうが。しかし、選りによって、信仰の場でイジメに遭うなんてと職場とか学校でイジメられるよりつらいでしょうねぇ、何が原因なのかはわかりませんが。人間関係の苦からは教会でも逃れられないものなのですね。

>なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした

 あ、うちの親もそうです。ちなみに父は無宗教ですが、宗教は好きで、聖書やコーランには詳しいですし、母はとある仏教系新興宗教の信者です。そんなわけで、平均的日本人がキリスト教に関わる際につきものの反対、抵抗はないですね。

>二ケア・コンスタンチノープル信条

 近くのカトリック教会で買ったの祈祷書らしきものに載ってました。確かに「からだの復活」とありますね、弱りましたね、これは、どう読んでも生物学的復活を信じろ、といっているようにしか・・。あと、ちょっぴり気の毒な気がするのがローマ総督ポンティオ・ピラト。彼からすれば、何の興味もないユダヤ教内部の内輪もめに巻き込まれたあげく、2000年以上にわたって、基督教が続く限り、ミサや礼拝の度に責められ続けるのですから、たまらないよなぁ、と思うのは私だけでしょうか?素直さが足りませんかね?私。告解した方がいいのかしら??(おっと私はカトリック教徒ではありませんでした)

>そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。

そういえば、詳細は忘れましたけど、少年時代にそんな感じの話のSF小説を読んだ覚えがありますね。

>ますます日本に聖職者なんていなくなります

 本当に神父さんって不足してますよね。近くのカトリック教会の神父さんも確かもう70歳近く。年齢の割りにはとてもお元気で精力的に活動されていますが、彼が倒れたり、亡くなったりしたら、あの教会はどうなるのだろう、と心配してしまいます。他にもそんな教会いっぱいあるんじゃないですかねぇ?何しろ、プロテスタントの牧師以上に求められる条件が厳しくてそうおいそれと養成できませんしね。

>自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう

 趣旨はなんとなくわかるのですが、そういわれてしまうと、もうそれ以上何もいえなくなってしまうし、「与えられた」という機会や実感のない人、未信者で理屈で理解するより仕方がない人間は、そこでもうキリスト教との関わりはお終い、ってことになってしまうのでは?。そんな人(他力本願的に信仰が与えられる人ですね)どれだけいるんだろ?それこそ、日本人の1%以下にじゃないか、困ったものだなぁ、というのが率直な感想です。

 ところで、先々週のカトリック教会のミサの説教では、共同体の交わりを大切に、要するにミサにはちゃんと参加しましょう、とのことでしたが、現在の日本で、土日がきちんと休みになる職場の人っているようで、実は少ない気がします。かくいう私も、以前は工事関係で土日完全休みなどとても望めない状況でしたし、他にも仕事がサービス業、警察、消防関係等など、充実した教会生活を送ることが難しい人々はクリスチャンになるのは難しいのでは?私も今は土日が休める職場ですが、将来はわかりません。

 一応、カトリック教会では平日の早朝や土曜日もミサをやっているし、プロテスタントでも平日に祈祷会をやっていたりしますが、こういった職業の方はどうしても教会生活からは疎遠にならざるを得ないですよね。
 何回か職を変わったり世の中を曲がりなりにも泳いだ実感からすれば、今の日本で土日きちんと休め、それでいて生活をできるだけの定収入がある人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないか、という気がします。
 こうした元々恵まれている人々のみに信仰が与えられ、人が休んでいるときにも働く人々、癒しが一番、求められる人々にはなかなかその恩恵に授かれない、というのもちょっと矛盾しているような気がします。
 といって、基督教にとって主日は変えられない、変えようがないものですし、難しいところですね。
 なんだかまとまりのない文章ですが、皆様、またお時間あればお相手下さい。

150nao:2007/05/22(火) 09:02:18
あれこれ
いじめにあつた知人という人はプロテスタントの70名位の教会でした。かなり知識人の多い地域の教会です。その中に、自分の考えを押し付ける教会役員がいて、この人にいじめられたんです。その人はいじめとはおもつていなかつたようです。転会するためにこまつたことは、住所がかわらないのに、転会は不可能といわれたことです。それで彼女は教会になつていない、集会にゆき、またそこでも、考えをおしつけられてこまつたというのです。そこは10名もいないところでしたから、毎回苦労したそうです。
考えをおしつけられる・・これが一番こまつたことですね。大羊さんがいつしゃつたように「神」が加担してくるような押し付けはエゴに神を利用しているわけで、許せません。
転会なんて、厄介なことやらなくても、ミサに自由にゆけるというのがカトリツクのいい点なんです。

151nao:2007/05/22(火) 09:06:01
あとで
どこかに手がふれたらしく、途中ではいつてしまいました。宅急便がきましたので、またあとで、続きをかきます。ピラトのこと、同じことをかんがえていました。あまりにもしつうこい、というか、あんなにやられたら、ピラトがかわいそうです。なんとかしてあげてほしい・・とおもいますよ。

152あんとに庵:2007/05/22(火) 20:09:26
共同体
どもどもです。

・共同体のこと

いじめの話が出ていますが、共同体というものに付物の宿命ではありますね。教会に限らず、或いは教会もまた一つの共同体なので。だから逃げ道として、複数の共同体を持てるというのが一番いいだろうなぁとは思います。

・ピラトさん

ピラトはトリック・スターですね。彼、個人というより、シンボリズムなんですが。彼的な立場に立つことって往々にしてあるとき自分はどう振舞うか?ということでもあるんでしょう。ピラトさんはあれら物語の中では第三者的な客観的人間として美味しい立場とも言えたり。
ユダのほうが気の毒な気が・・・(^^;

・関係性ということについて

sekkoさん
>今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。

キリスト教というのは関係性の宗教だなとは思います。三位一体の構造からしてそうですよね。ミサもまた「交わり(コミュニオ)」が大切だと言われます。それは神と人との関係でもあり神を通じた人とのかかわりというものが教会でもあり、二千年に渡る多くの人々との交流でもあるなぁと。
聖骸布に関わっていった人々も、その繋がりの中にあるなぁとか、考えてしまいます。なにかそういう過去の、或いは遠いところの人とも同じキーワードで繋がっていける面白さはありますね。

>クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ

このエピソードは笑えた。

・土日のミサ

迷える大羊さんがご指摘の通り、確かに土日の休みがない職場の方だと大変かもしれません。つっても教会もない土地で信仰の話などが出来るネットがある現代はそんなに辛くないかな。

・「与えられた」信仰

Fusakoさんがおっしゃる与えられたってのは「縁・えにし」みたいなものではないかな。なんでもそうですが「出会いに敏感でありたい」みたいな。縁を受け入れる。自然にあるものを素直に受け止めるような、そんな信仰。自然体の信仰。そういうのはいいなぁと私も思います。

迷える大羊さんの人生の中でキリスト教が縁あるものとして現れたのはいま現在ですが、それがまたどういうところに流れ着くかは、これもまた神様にしか判らないことかもしれません。神と大羊さんとで対話していくことなのだろうなと。

153Sekko:2007/05/24(木) 18:29:20
放蕩息子
Fusakoさん、ちょうどこのサイトの猫のコーナーにUPした記事に放蕩息子のたとえが出てきます。よかったら読んでください。

154迷える大羊:2007/05/26(土) 00:17:43
復活とは?
 先のあんとに庵さんとの対話にも出たことでありますが、イエスの復活って皆さん、どこまで信じますか?他の水の上を歩いた、といった類の奇跡はシャレで済むようですが、この復活はキリスト教の根幹にあたる教義ですから、いい加減にスルーするわけにはいかない、と思い投稿してみました。

  一口に復活を信じるといっても、主に三つのパターンがあると思われます。
 1.文字通り体ごと復活した。信者もこの世の終わりには体の蘇りがあると信じる。アメ リカの田舎、南部あたりにはいっぱいいそうですね、こんな人。

 2.イエスの復活は弟子たちの心の中に起こった体験である。イエスを裏切った弟子たち に対する恨みを叫ぶどころか、救いを祈って死んで行ったイエスに対する罪悪感、感動な どが入り混じった複雑な感情が巻き起こした、心の現象とする立場。

 3.イエスの復活は信者一人一人にイエスの精神が生きている、という心のあり方
   私なんかは信仰するとすればこの立場が一番受け入れやすそうな気がしますが。

 しかし、前のやりとりでも出てきたように、二ケア・コンスタンチノープル信条にはしっかりと「からだの復活」とあるし・・・。

 さて、皆さんはどの立場でしょうか?私個人の考えでいえば、たとえ、クリスチャンになったにしても1のホンマもんの生物学的復活だけは勘弁してくれ、という立場です。

 大体、イエスが肉体的に復活したからって、「だからイエス様はすごい、だからイエス様は神なんだ」と連呼したところで私の生活の実感が深まるとも思えないし、すごいのはあくまでイエス様だけであって、自分自身、あるいは自分が大事にしている人たちも、死んでしまったら、まず間違いなく蘇生なんかしないわけで、そんなオカルトじみた教義が一体、私たちの何の現実的な問題の解決になっていくのか、さっぱりわかりません。そんなこと本当にイエスが望んでることなのかなぁ、とも思ったりします。
 別に普通に21世紀の科学でものを考えりゃいいじゃないか、と思うのですが、こんな考えは一般的なクリスチャン、カトリック教徒からは受け入れられませんかね?

155nao:2007/05/27(日) 20:09:36
いまだに答えられず
いやあ・・大変な問いですね。お返事できないことだけ、あやまつておきます。そのうち何かかけるとおもうんです。ごめんなさい。それほど、本質的な問題なので、うかつにお話できないつて、おもつています。竹下先生、あんとに庵さま、よろしくお願いいたします。

156Sekko:2007/05/28(月) 01:00:34
フランスの信者の種類、復活のことなど
 フランスで私がとってるカトリック系総合週刊誌の今週の特集は信仰についてでした。面白い話が満載なので、少しずついろんなところで紹介していきます。ここでは、その中でフランス人信者の七つのグループという分類を紹介します。フランスはカトリック教会の長女といわれているくらい、カトリック的伝統は根強く、洗礼率で言えば軽く過半数がカトリックです。先だっての大統領候補12人のうち10人が洗礼を受けていてカテキズムも受けていました。でも、日常的には、日本人の仏教徒と同じで、家族の行事以外にあまり宗教色がありません。
 そんなフランスのカトリック(または元カト)の7つのグループ。

その1 迷わない派 「信じる、そして疑わない」
  ?道程 信者でプラティカン(実際に毎日曜教会に行く人のこと)の家庭に生まれ、ごく若い頃にラディカルな神体験をした。信仰は人生の本質に関わる。教区の中心人物
  ?座右の作家  十字架のヨハネ、ベルナノス、パスカル
  ?我慢できないもの  過激な無神論者、おざなりな聖歌、日曜にサッカー観戦かミサかを選べると思っている輩、社交のために教会で結婚式を挙げる人
  ?感動すること  神のみ心の徴し、回心の体験談
  ?教会でいつ会える?    最低限、毎日曜日

その2 探求派  「信じる、でも疑う」
  ? 信仰の中で育ったが、組織と愛称が合わなかった。教会の見解のいくつかには賛成できない。無垢な純粋派の信者にはいらいらする。あの世の存在には懐疑的だ。しかし信者だと公言して教区民としてふるまったりエキュメニカルな活動(超宗派的活動)や、宗教交流に参加するのは抵抗がない。
  ? シルヴィ・ジェルマン、モーリス・ベレ、ティヤール・ド・シャルダン
  ? 教条主義者、懐疑によって信仰を拒否する人
  ? 霊的探求をする人の話、希望
  ? 毎日曜、または、行事の日、または必要を感じた時。

その3 失望派  「信じていたがもう信じない」
  ? 組織や、教会の言説にうんざりしたか、病気や近親の死などで傷つい他後で教会から離れた。哲学や精神分析学や科学と出会って、確信が揺らぎ、自分のすべての土台を検討している。
  ?ニーチェ、アンドレ・コント=スポンヴィル
  ?真実を独占する信者、信仰は理性を無視していいとする輩
  ?ピエタ像やカテドラルのラインの美しさ
  ?結婚式、葬儀、ヴァカンス先での観光

その4 見習い派  「信じていなかったが、今は信じる」
  ?無神論かアグノスティックか、子供に宗教教育をしない家庭で育つ。 ある、出会い、読書、審美的なショックや、試練などが神への欲求を目覚めさせた。または、超越なしの人間の虚栄に気づかせてくれた。
  ?クローデル、エティ・ヒレスム、ジャン=クロード・ギユボー
  ?信者への軽侮や、教会の後退
  ?親しい人たちの懐疑、受け入れてくれたコミュニティの信仰
  ?毎日曜または、行事のある日

その5 悶々派  「信じてないけれど、疑う」
  ?出身は関係ないが、自分の存在の意味について自問している。宗教にも哲学にも満足な答えを得られない。
  ?レジス・ドブレ、パオロ・コエリョ
  ?盲目的な信者、神秘家、教条主義者、実証主義者
  ?修道院の静謐さ、祈りの熱意
  ?葬儀、結婚式、偶然

その6 ボーン・アゲイン派 「再び信じ始める」
  ?クリスチャンの家庭で育ったが、教会から遠のくことや形而上的疑問によって信仰を失った。ある出会いや、根本体験により、教会に戻った。信仰の中の自由を見出した。今は、信仰は人生の中心的位置を占める。新たな生である。
  ?リジューの聖テレ−ズ、マクス・ガロ
  ?社会的慣習によるカトリック信者、戦闘的無神論者
  ?集団で熱くなること。信仰コミュニティへの帰属意識
  ?毎日曜か行事の日

その7 回心派  「宗教を変えた」
  ?よその大陸か、他の宗教文化の中で生まれたが、出会いや、住んだ社会の影響によって、キリスト教の神を知った。キリストの人間性と神の慈悲に心を打たれた。
  ?リュスティジエ、レイモン・パニカール、聖アウグスチヌス
  ?ぬるいキリスト教徒。近親者と離れるリスク
  ?キリストの姿。聖餐の秘蹟。
  ?毎日曜、教会内組織、祈りのグループ

 以上です。日本ではカトリックはマイナーだから、成人が信者になろうかという時はいろいろな自問が渦巻くでしょうが、カトリックがなんとなく風景になっているフランスではこんなにグラデーションがあるわけです。実際、キリストの肉体の復活を字義通り信じるかというような根本的な教義についても、アンケートをとったら信じると答える人は年々少なくなっています。その乖離についてすごく悩んでいる人は実際問題としてすくないです。日本で、南無阿弥陀仏と唱えて、本当に阿弥陀仏がいて極楽に連れて行ってくれると字義どおり信じるとか、お宮参りにいくが天照大神の話を字義どおり信じるとかいうような感じです。
 もちろん、キリストの肉体の復活を少なくとも、使徒たちが信じなかったら、キリスト教は成立していなかったでしょう。でも、彼らが昔の無知の人だから肉体の復活などを信じたのだろうと思うのは間違いで、その頃だって、すごく信じられなかったんですよ。それでも、一応、そういう不思議なことが起こったというのでいろいろ書き残されて、それを基にして、キリストの十字架上の死と3日後の復活がなぜ人類すべての罪の購いとなり救済になるのかという神学が延々と築き上げられていくわけです。で、三位一体の話とか、父なる神に関するところは超越に属することで、実証的な頭ではもとより理解できないんですが、人間イエスの死やその肉体の復活っていうのは、まだ「こっちの世界の出来事」だから、いろいろ想像の余地があります。シンボリックな意味はもちろん山のように積めるでしょうが、事実関係はやはり気になるところです。
 私は、不思議なことに「そんなことあり得ない」とか思ったことはありません。世の中には私の想像や理解を超えたことがいくらでもあるので、何でもあり得る、というのが基本です。この前も書きましたが、イエスの復活のことで不思議だったのは、例のトマスの話で、脇の傷に指を入れろとか何とかいう話で、トランスフィギュレーションのように光り輝く栄光の体、この世と存在のモードが違うような体で復活したのではなく、傷口が開いたままの体というところでした。ラザロが起きてきたように、イエスもほんとに「よっこらしょ」と目が覚めたのなら、そして遺体をつつんだ亜麻布を残したなら、どうやって墓石をどけたり服(死ぬ前に着てた服は兵士にとられて人々がくじで分け合ってますし血まみれだった)を調達したのか分かりません。生々しい傷があったということは、メル・ギブソンのパッションじゃないですが、足の棒で頭をがんがん殴られたり、鞭打たれたり、転んだり、手足の釘跡ももちろんだし、かなり悲惨だったはずなんですよ。そんな姿で、姿を現したら、みんなびっくりだと思うんですが、エマオに向かう途中で旅を共にしてイエスのことを話題にした二人の使徒なんか、いくら「目をさえぎられていた」といっても、とにかく気づかないんですよね。普通っぽければ気配とか、声とか、話の感じとかで分かりそうだし、まさか血まみれで裸ってことはないだろうし、不思議です。その他にも、自分だと証明するために積極的に手と脇を見せたみたいだから、顔はどうなんだ、顔や背格好はそんなに説得力のないものだったのか、殴られた痣や傷や瘤や窒息死の苦悶で変形してたのか、とか、すごく気になります。
 まあ、普通の人が、最後の審判の時に体が復活する時は、栄光の肉体ってことで、死んだ時の病気とか傷とか状態に関わりないそうなのでほっと安心です。イエスはなんといっても死後から復活まで実質一日半しか経過してなかったんだから別なんでしょう。それに、そう、そのときの人ですら、むごたらしく刑死したはずのイエスがもしきれいな体で現れたりしたら、栄光の体だと言ってありがたがる代わりに、替え玉だと言って退ける率が高かったんですね。きっと。人は見たいものだけを見るのかもしれません。
 もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです。誰かから「あなたは私を信じられますか?」と言われて、「信じる」と答えるのは、その人のこれまでの実績を調べてある程度リスクを減らすことはできたとしても結局一種の賭けですから、直感や期待感によって決めるしかない。永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう。愛とか希望とか信頼とか信仰とかは、自分の限界(理性とか利害)を超えてひたすら相手に向かっていくんですから。
 しかし人間の肉体を持ったイエスが人として死んで、人として生き返ったという話を、具体的なものとして考えさせるよすがは、前にも書きましたが、なんといってもトリノの聖骸布の存在ですね。こういうコアなオブジェが残っているのは好きです。まあこういうのを持ち出すと、オカルト的で信仰のつまずきになるという人も必ずいるんですが、「好奇心」には負けます。等身大ポスター、ご一見ください。あ、今発売の文藝春秋Specialという増刊号に「スピリチュアルとのつきあい方」という文を載せています。ご参考にどうぞ。

157nao:2007/05/28(月) 20:46:34
あれこれ
竹下先生がお書きくださつたことで、もうなにも書く必要なさそうな気がしているのですが。すこしつづつてみます。まず大羊さんがだされた3ッはどれもYESだしどれも単独ではNOだと思います。つまり理性の範疇を超える問題なので、『信じる』ことしかない。でも復活したイエスから、聖霊が降されて、弟子達が世界中に宣教にむかつたわけですから、これを信じないかぎり、キリスト教徒ではないわけですよね。
じゃあ・・いわしの頭も信心からでいいのか・・いやそういうわけにはいかない。理性が健全でそれを超越した「物語」として、認識できないと、ダメでしょうね。
「信じる」という行為は理性より先にあるし、永遠にもつながるとおもいます。子どもは自分の親を認識するまえに信じているし、親がなくなつても自分をまもつてくれていると、信じていろ。
大体自分という人間が時間的、場所的にこの世にヒトリしかいないつて、信じていますよね。これを疑う人はまずいない。でもホントウにそうなの?信じるしか仕方ないすよね。
復活の体つて、なんだかあるような、ないような、考えてもわかんないから、聖書にかいてあつて、そのことから、キリスト教ができたんなら、信じるほかないですよね。
でも「信じる」ことから、人生が豊かになるし、何よりその「枠」があることで、かえつて自由に生きられるつてことは信仰の強みですね。

文芸春秋special,2007,SummerNo.1 早速買いにゆきました。竹下先生の「スピリチュアルとのつき合い方」とても良くまとめられていて、他の人とくらべて、格段論旨が上だとおもいました。大変参考になりました。大羊さん、是非読んでみてください。今回は「心の時代を生きる」日本人と宗教  になつていて、大特集 あなたは宗教を信じますか? の記事が面白いです。2,3しか読んでいませんが、人は何かを信じることなく、生きられないことだけはよくわかりました。

7つのグループ、面白いですね。私はどのあたりかな?1ではなさそう。1−7、すこしずつ、はいつていそうです。

158迷える大羊:2007/05/28(月) 22:27:57
うーん
 毎度、お世話になります。人のキリスト教、宗教に対する思いは様々ですが、私が信者になるとすればその2のタイプ、ありえないのがその1タイプかな?(笑)。あまりにも熱心すぎる、信じすぎる人を見ると感心するよりはイライラしたり、ついおちょくりたくなってしまうタイプかも(彼女の前ではできませんが・・・)。テイヤールド・シャルダンなんかいいですねぇ。こういう聖職者がいるから、カトリックって信用できそうな気がしたりします。

>もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう

 いや、そういうお話ならわかるんですが、しかしですね、私が当初関わったプロテスタントの牧師さんは、聖書やら奇跡を本当に字義通りに、「科学的にも」真実と、信じている感じでしたよね。。もちろん、進化論なども反対で、最初の学び会でいきなり、唯物論である進化論をとるか、神をとるか、みたいな話をされて、こりゃいかん、俺には合いそうにない、と思いました。復活については詳しい話をしないまま通うのを止めちゃいましたが、多分、「からだのよみがえり」を文字通り信じている可能性大です。
 カトリック教会に流れた(といっても信者になってないけど)のも、こういう多分にファンダメンタルなキリスト教理解への違和感と反動って面もあります。

 で、こういう聖職者、教会や信徒を見て知っていますから、「復活」のキーワードを聞くとなんだか落ち着かない気分になってくるんですよね、「まさか、とは思うが・・」とつい疑り深く、あれこれ突っ込みたくなるのですよ。
 聞くところによれば、アメリカにはこの世の終わりの蘇りをものの喩え、言葉のあやではなく、「本当に」信じている人たちが結構いて、金のある人などはエバーミング、つまり近親者や自分の遺体を完璧な防腐処理を施し、完全防虫の地下室で冷凍保存し、来るべき「復活の日」に備えているらしいですね。あとダーウィン嫌いで、「理科の」時間に創造論を教えろと主張する人々、産婦人科医をリンチにかける中絶反対主義者など、アメリカのクリスチャンの話を聞くとなんだか鳥肌が立ってきて、俺はこんなイカレた連中の仲間にはならんぞ〜、と叫びたくなります。

 ところで、こういう極端な人、いわゆるファンダメンタルな人々は、カトリックよりはプロテスタント、ヨーロッパよりはアメリカに多いってところがいろいろと興味深いところですね。日本の教会でもアメリカから入った教会はややファンダメンタルなところが多い感じがします。

 とまあ、なんだか「復活」にいちゃもんをつけるようなことばかりいっているように思われるかもしれませんが、確かに「復活」がないと、師は売るわ、逃げるわ、とぼけるわなんてやっていた情けない弟子たちが、どうしてあらゆる困難、殉教すら恐れない人間になったのかに関する説明がつかず、キリスト教のストーリーが続いていかないですよね。
 本当に何があったんでしょうね??下手な推理小説より謎に満ちてますね・・。

159nao:2007/05/29(火) 09:32:08
ご紹介
ご存知でしたら、失礼!小説2冊ご紹介。
?エリツクーエマニュエル・シュミツト著「小説 イエスの復活」NHK出版
イエスは自分が神の子でありメシアであることを最後まで疑つていた。一方、イエス磔刑をみとめたローマ総督ピラトは消えた死体の謎を、現代人と同じように合理的に解明しようとした。どうしても復活が信じられなかつた。二人の告白の物語は、生身の人間が(神秘)にどう立ち向かうかを描いていく。そして、ピラトの心境は死体のゆくえを追ううちに変化し、癒されていく。臨場感あふれ、心地よい読後感が残る小説。(裏表紙より)

原題は「ピラトによる福音書」です。ピラト側からみたイエスの復活は大羊さんのピラトの疑問と復活への疑問に、小説ではありますが、大いにこたえるものになるでしょう。私はシュミツトの「モモの物語」(いぶらむおじさんとコーランの花たち)をよんで、好きになり、この本を知りました。フランスではベストセラーになり、演劇化され、東京でもあつたそうですが、地方住まいの私は、やつと今頃、しつた次第です。

?M.スコツトペツク「死後の世界へ」集英社
精神科医、主人公ダニエルの死後の世界がかかれています。小説です。死後の体の有様が想像されていて面白いです。光の玉になつたり、そのままみえたり、だいぶ前によみましたので、わすれましたが、復活を考えるときの一つの助けになりそうです。スコツトペツクはご存知のように、「愛と心理療法」でベストセラになつたアメリカのプロテスタントの精神科医。「平気でうそをつく人」はすごく役にたつ本でしたね。
2冊の本でやはりシュウミツトのピラトの合理精神での復活の追い方のほうが面白く、役にたちました。
大羊さんの出会われた最初の牧師さんは私にはどうも・・。そういう考えのかたもいらつしゃるんですね。そんなんで、自由にいきられるんかな・・魂の自由がひろがらないような宗教はゴメンです。「この枠のなかで自由にふるまいなよ」というのが好きですね。枠のありかたはやはり、鍛えられ、修羅場をくぐつてきた末にできあがつている枠。人類の知恵が長くかかわりつづけてきて、なおかつ、命を保つている枠。そんなものなかなか、わからないですけど・・ご縁でみつかるのでは。

160迷える大羊:2007/05/30(水) 23:02:13
毎度お騒がせします
 毎度、お世話になります。?も?も初めて知りましたね。「ピラトによる福音書」ですか?確かにピラトの心境は興味ありますね。思うに、私にとって聖書のキャラクターの中でピラトが、ある意味一番感情移入できる人物、というか気持ちが分かる人物かもしれませんねぇ。私もピラトの立場なら聖書に記述されている通りの行動を取るでしょうね。何の縁もゆかりもない、ユダヤ教の内輪もめなんか興味ないし、そんなことのためにせっかくの総督職を棒に振りたくない、でも、目の前のイエスは明らかに無実、死刑にするにはあまりに忍びない、ああ弱った、どうしよう、そんなこと俺知らないよ、あんたらで勝手にやってよ、俺のせいじゃないって気持ち・・。銀座の教文館で探してみますか。ちなみに私は首都圏在住です。

 そうそう、あとキリスト教についてはもう一つ重大な疑問がありました。信徒の人に向かって面というと激怒されそうで、なかなかいえないし、ここでも嫌われたらどうしよう、と思いながら、質問しますが、イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?あと、オウムの麻原尊師の「空中浮揚」を信じることと、イエスの「奇跡」を信じることの違いもなんだかよくわかんなかったりします。どれも、これも私にはいわゆる同じ「現人神」信仰のような気がしてしょうがないのですが・・・。この内、天皇陛下は戦後「人間宣言」をされていますが、キリスト教の世界でイエスの「人間宣言」が為される日はありえるのでしょうか?

 これがイスラム教ですと、ムハンマドは「最高の預言者」で特別扱いはされていますが、一応「人間」ですので、話がまだすっきりしているのですが・・・。

 実をいうと、福音派だろうがカトリックだろうが、キリスト教会に行く限り、このイエス礼賛、崇拝は必ずあるわけで、そのたびに「いいんだろうか?これは一種の個人崇拝ではなかろうか?この民主主義の時代、科学の時代に現人神だなんて・・」と思ってしまうことが、躓きになっております。ただでさえ、疑問を感じるところに奇跡だ、復活だなんてさらに話をややこしくするものが入ってくるところが、困ったところです。

 あと、オウム(現アレフ)の麻原代表には去年死刑判決が下りましたが、まがりなりにもキリスト教の歴史に触れた身で考えるに、死刑はマズいような気がします。つまり、今もなお残る信徒たちに「尊師は我々の罪をその死で贖われたのだ!」ってことで、却って、その信仰、団結を強化することになるような気がしてしょうがないんですよね。そして、数々の迫害に耐え抜き、数百年後は日本の国教に・・・、なんてことになったら怖いな・・。

 不愉快な疑問かもしれませんが、またお時間があれば御意見聞かせていただければ幸いです。

161Sekko:2007/05/31(木) 01:19:18
イエス万歳
「イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?」って。ぜんぜん違いますよ。だって、イエスはもう人間としてはこの世にいないんですから。

 イエスを救世主だと認めるとか、三位一体の話とかは、また別です。私は、人が現在生きてる人を拝むのに抵抗があるんです。人だった菅原道真を神に祀って拝むのは平気というか、気にならないんですが、信者に断食させて自分はメロンを食ってるような「尊師」とか、自分は何々の生まれ変わりとか大宇宙の霊神とか、他称自称してる人は、生理的にすごく嫌です。
 カトリックは教皇とか偉い人にもまあ、イエスの生まれ変わりと言わせてるのでなく聖ペトロの継承者で、神に関しては仕え人というスタンスなんで受け入れられます。聖人や奇跡やなんかも、生きてる間は認められなくて、死んでからのみの称号であるところが好感をもてます。世界中から聖女のように尊敬されてきたマザー・テレサですら、死後の祈りの中で起こった奇跡だけが審査されて聖女の道を進むのですから、それはもうシンボリックな世界、スピリチュアルな世界です。宗教だからそれでいいのです。でも、今生きてる人が奇跡を起こすとか、癒すとかで崇拝されるのは、どこか間違ってる、と思うんです。
 私はチベット仏教のセンターに時々行くんですが、そこのリンポチェ(活き仏)の前でみながはいつくばってお辞儀をします。それは彼という「人間」を拝んでいるのではなく、彼が体現している「智慧」を敬して拝んでいるのだ、と説明されます。そのリンポチェはすごくいい人なんですが、子供の時からある仏の生まれ変わりだと認定されて召使に囲まれて大事に育っているので、亡命の身とはいえ要するに貴族なんですね。みんなに拝まれるのが普通の状態なんです。ダライラマもそうですが、子供には罪がないとはいえ、リンポチェを出したら一族にコネと権力ができますから、大人の欲望や権謀術策が渦巻きます。私なんかから見たら、子供の人権を侵す問題だと思うくらいです。とにかく人は、生きてる限り、多くの人から神のように拝まれる状態というのは、その人にとっても、周りの人にとっても健全でない、と感じます。
 もちろん、死んでもうものを言わない神や、目に見えない超越者を掲げて、それとチャネリングできるとかその名を騙って権力を掌握したり独裁者になったりする人もいて、それもまあ、神を自称する人よりもっとたちが悪いこともあります。やはり、その神や神の周りに成立した言説を注意深く検討して、モラルの方向として納得いくものかどうかを判断するのがいいと思います。神でなくとも、奇跡を行わなくとも、「正しい人」というのは必ずいるし、そういう人は、別に人から拝んでもらおうと思わないものです。
 それにイエスはわざわざ人間宣言しなくとも、一応、100%人間で、かつ100%神ということで落ち着いているので、人間性は100%引き受けてると思います。だからこそ、「超能力」を発揮せずにむざむざ殺されたんでしょうし。数々の聖人たちも、人間出身で、死後にスピリチュアルな存在として神と人を結ぶ存在として認識されてると言う意味では、死者の霊魂を神として祀る神道なんかと似てますね。祖霊信仰なんかも心理的には近く、生きてるときはうるさいと思っていた祖父母や両親とかも失ってからは心の支えになり、素直に手をあわせて加護を願う心境になるのも良くある話です。
 そんなわけで、周りの人の思惑や権力の誘惑なども鑑みて、今生きている生身の人を崇めるのと、歴史に洗われててスピリチュアルな評価の定まった人、生きてる時に残した言行に共感のもてる人、などを崇めるのはリスクも含めてまったく違うというのが私の答えです。

162迷える大羊:2007/07/01(日) 01:13:12
イエスタブー
 いつもお世話になります。

 誤解を招くと困りますが、イエスを否定しているつもりは毛頭ないです。彼の倫理的、道徳的な教えは傾聴に値しますし、無私の心を唱えた史上初の人物、と思っております。
 おっしゃるとおり今生きていて権力もある人間を崇めるのとは違うし、実害を与えたわけでもなく、イエス自体には何の問題もありません。

 苦手なのは、なんていったらいいのか、周囲のイエスへの妙な気がね、気遣いなんですよね。
 例えば、ハリウッド映画「ベンハー」などでは、イエスは後姿しか描かれないし、最近はそこまで気を遣わないにしても、教会の一般的なイエス理解から外れたイエス描写は、欧米社会で必ずすったもんだの騒ぎになりますでしょう?例えば、スコセッシ監督の「最後の誘惑」だとか、近いところでは「ダビンチ・コード」だとか。イエスに子供がいて何がマズいのか?どこがどう侮辱したことになるのか?未信者の私には理解に苦しむところです。作品自体はあんまり面白いものでもないのに、こんなことで騒ぐから余計注目されて、却って逆効果、って気がしますが。

 また、ビートルズのジョン・レノンが1966年、イブニングスタンダード誌のインタビューで「ビートルズはキリストより有名(もちろん、一種の比喩でキリスト教の欧米社会での影響力低下について語っただけで、イエスについては評価している)」と発言したところ、アメリカ南部の保守的なクリスチャンの猛反発を食らい、レコードが焼かれ、ビートルズのアメリカツアー中にも数々の脅迫電話、脅迫状が舞い込み、ジョン・レノンは急遽、釈明会見を開く、なんて騒ぎもありました。

 またまた、ジョン・レノン(本当にこの人とキリスト教会って相性が悪い)の話になりますが、彼の曲「BALLAD OF JOHN&YOKO」って曲がアメリカとカナダで一時放送禁止なったことがありますが、一体全体何が理由で?と思ったら「キリストさんよ、気楽じゃないぜ」って部分がまずかったんだそうです。これまた、未信者には、「え?こんなことで??」てな感じで理解に苦しみます。こういう事例を聞くと、もう二千年以上前の人物に対して、なんでここまで気を遣ったり、タブーがあったりするのか?素朴に疑問を感じるんですよね。

 日本でも、天皇陛下は映画やテレビドラマでは姿を出せない、なんて時代が長くあったし、今でも、正しい、間違っているは別にして、故昭和天皇の「戦争責任云々」などという意見を公の場で表明しようとすると右翼団体から銃撃されたり、かなりの抗議と勇気を覚悟しなければならない、ってところがありますよね。なんか、基本的な構図が似ているような気がしてしょうがないんですよね。

 あと遠藤周作氏の「イエスの生涯」も私の知る限り、一部のクリスチャン、教会関係者にはあまり評判が良くないらしいんですよね。これまた、未信者の私には何がどうマズいのか、分からないのですが、要するに、奇跡も行えない、無力な男イエス、というのは一部のクリスチャンにとって耐え難いイエス像であるらしいんですよね。これも、私にはすごく理解に苦しむ話。本当にイエスが人生がうまくいかない人間、弱い人間の味方だ、ってことなら、超能力を駆使する神がかりな超人である必要なんか全然ないじゃないか、そんなものを求めるなんて、それこそキリスト教が否定する「御利益」信仰なんじゃないの?と思ったりするんですけどね・・・。

 あれやこれやで、基本的に日本の「天皇タブー」も欧米の「イエスタブー」も私には同じに見えてしまって、自分の心の中に、こんな理不尽でワケのわからないタブーというか、足かせみたいなものを新たに作るのがイヤ、っていうのが、うまく言葉にできたかどうかはわからないけれど、キリスト教にイマイチ踏み込めないの一つになっているんですよね。
 まあ、考えすぎかなぁ、と思うこともありますけど。

163Sekko:2007/06/03(日) 21:46:51
イエスのフーリガン
 日本のことは詳しくわかんないのですが、アメリカはかなり特殊です。「欧米のイエスタブー」とひとくくりになさっていますが、欧と米ではだいぶ温度差があります。ビートルズはイギリス人だからその辺が自分でも理解できなかったんでしょう。今のヨーロッパではイエスを含む「キリスト教」全体が、個人の私的領域か、文化とか伝統の事象と理解されてるのですが、アメリカでは政治とか社会の事象ですから。今無神論についての本を書いてるのですが、アメリカの無神論は別個に取り上げてます。アメリカって、これから無神論が旬になりそうな国です。今年3月ピーター・スタークが米国議会初の無神論者議員としてカミングアウトしました。社会的に影響力のある人で無神論者にカムアウトを勧める団体の運動が効を奏しつつあるのです。これって、フランス的には(多分日本的にも)、考えられない事態です。無神論が意味を持つのは、信仰が社会的アイデンティティの核だからです。サウジアラビアなんて、イスラム教から離教イコール国籍離脱ですから、日本やフランスのように宗教が歴史に洗われてヌルくなった「古い」国にいると、想像もつかない状況は今も地球上にたくさんあるわけです。神でもあるとされるイエスと違って預言者でしかないはずのムハンマドのカリカチュア(私から見ると政治的妥当性は別としてべつに過激でもなく、フランスにはローマ教皇やイエスのカリカチュアの方がひどいのがよくある)をめぐって大使館が焼き討ちされたり教皇の失言で罪のない修道女が殺されるとか、原理主義者やそれを煽る人もいるわけですし。それに比べたらイエスのフーリガンたちはまだちょっとましかもしれません。それに、まあ、イエスをめぐるイエス万歳の人たちがまあましと思うのは、たとえば他の現人神のご真影とかなら、勲章をいっぱいつけてるとか、ロイヤルファミリー写真でも立派なお城で立派な衣装とか王冠とか、そういう見た目の立派さがありますね。彼らをたとえば裸で描いたら、即、冒涜じゃないですか。それなのに、イエスって、欧米系では13世紀以来磔刑像が多いですからね。もう、外観としては最悪ですね。『最後の誘惑』の映画だって、文句をつけた人は、イエスの幻想みたいなシーンよりも、本当は、全裸のイエスを赦せなかったんじゃないかと思います。でも中世の磔刑図には結構全裸のものもありました。そこんとこの葛藤が、他のシーンに向かったんじゃないかと私は思ったんですが。
 ともかく、「私は最も小さきものの中にいる」、みたいなことが口だけでなく、まあ、誰でも普通はああいう死に方はしたくないという図像が前面に出ているんですから、それなりの説得力があります。倒錯的ともいえばいえますが、本当につらい人や迫害されてる人が、最後の救いを十字架のイエスに求めたりする心境も分かりますね。天国に行けば美女に囲まれるとか楽な暮らしがし放題、というタイプの慰めより、なんか、十字架上で永遠に苦しみながらさらし者になってる人が共にいる、みたいな。まあ、それでは、教義的にもっと本質的である復活の栄光の影が薄くなりそうなんで、十字架は十字架の形だけでシンボリックに、イエスは復活のイエスを強調して、という教育的配慮も近年は多くなされてます。
 もう一つ、これはすごく論議になってるとこなんですが、カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。

164迷える大羊:2007/06/04(月) 00:43:25
アメリカって・・・
>アメリカはかなり特殊

 確かにそうですね。私が最初に行った教会も彼女の教会(聖書を丸ごと信じる保守的、私からみるとファンダメンタルな信仰)って大体アメリカ起源のプロテスタントですもんね。それにしても、キリスト教を知らず、欧米社会の事情に関心が薄かった時期は、なんとなくアメリカ、プロテスタント=進歩的、リベラルでヨーロッパ、カトリック=保守的、聖書を丸ごと信じる、というイメージがあったのですが、実態は全然違う、というよりむしろ逆なんで驚きました。。ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより・・」発言もヨーロッパでは全く読み流されているんですよね。

 それにしてもアメリカといえば、世界一科学が進んだところ、ってイメージがあるんで、そういうところで、創造科学(つまり、聖書に書いてあることはすべて「科学的」にも正しいことを証明するトンデモ科学)が結構幅を利かせていて、創造論を「理科」の時間に教えろ、という主張が一部の州で法律で大真面目に可決されてしまうことにびっくりします。

 1996年にヨハネ・パウロ教皇は進化論を認める旨の発言をされていますが、この発言の背景には「あんなワケわかんない人たち(同じキリスト教徒として)と一緒にしないでね」みたいな意味もあったのかなぁ、と勘ぐりたくなります。カトリックにあまりその手の原理主義者が見当たらないのは北米出身者の比率が低く、アメリカの宗教状況の影響をあまり受けないせいかもしれない、と思うのですがどうでしょうかね。

>ムハンマドのカリカチュア

 イエスフーリガンのイカレぶりばかり話題にしましたが、これもなんだかなぁって感じですね。それこそ、ムハンマドは「人間」なんだから、何をカリカリしているのか?と思いますね。でも、これはイスラム教やムハンマドそのものの冒涜に対する怒りというよりは、西洋人に自分たちの信仰、文化をおちょくられた悔しさなんじゃないかなぁ、って気がします。イスラム諸国も中世の時代、ヨーロッパ諸国より経済的にも軍事的にも優位に立っていた時代は、ヨーロッパ人からムハンマドについて何をいわれようが全然歯牙にもかけなかったと思うし。

>カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、

 私がカトリックに好感をもったのはこの宗教的多元性を認めているところなんですけどね。福音系教会ですと、「本物の神とは〜」みたいな話が多く、焼香ダメ、七五三ダメ、みたいな調子でウンザリしたもので、カトリックの異教の風習や考えも良いものは積極的に取り入れ、その土地、その土地の文化風習を認める姿勢はとても新鮮で感心したものですが。そうでない人も当たり前ですが、いるんですね。

 とにかくアメリカの宗教事情はとても興味深いですね。著作が出来上がりましたら是非拝見させていただきます。

165流れ梅:2007/06/04(月) 11:23:03
横入り失礼致します。
Sekkoさま、迷える大羊さま>

ここ数日のログを拝見していて、一応、イエスタブーと言われているものと菊のタブーと言われているものは性質も由来も違いすぎるんじゃないかと思いました。ただ、こんなこと書いて右翼認定されても嫌で、書き込みを躊躇しておりました。ですので、以下の内容は右から左に受け流して頂けますと感謝しますし、今回のみでお邪魔をいたします。

皇室というのは、日本とくに日本神道の「祭祀権」を持つお家であるのだと解釈されると分かりやすいと思います。歴史のある仏教寺院の縁起を見ても皇室が関わりになっているところは多いです。天皇家が直接の為政者であったのは平安朝くらいまでのことです。あとは武家が「征夷大将軍」なる位を賜る形で統治をしていました。鎌倉が足利幕府になろうと、戦国の世を誰が平定しようと、そういう皇室のスタンスは変わってないわけです。江戸初期の「紫衣事件」(http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/sii-ziken.htm)みたいなことはありましたが。

そのスタンスが変質をしてしまったのは、「明治維新」と呼ばれる、薩長土肥の徳川幕府に対するクーデターがきっかけでしょうか。彼らは「官軍」になるために『天皇の権威』を有効に利用したと思います。大政奉還も、江戸城無血開城も、「賊軍」に成り下がった側がそれを理解してのことでしょう。ただその後にこれまでの日本神道のあり方を変えて、政治的なイデオロギーのために使ったこと、また廃仏毀釈などを行い、他の宗教と皇室を徹底的に分離したことは、間違いだったのではないかな、と個人的には思います。
というのは、神社神道側の人たちは決して「戦前の国家神道を神道のあり方と考えてない」ようなのです。聞くところ、明治政府があれこれと神道の祭祀に干渉をしてきたそうで、そのために出来なくなってしまっていた祭祀があったそうです。戦後、その出来なくなっていた祭祀が復活したそうでして、つまりは神社神道すら厳しい統制下にあったことには変わりが無かったということなんです。キリスト教ほどに酷い弾圧は受けなかったじゃないか、と怒られればそれまでなんですけど。長い時間かかってるかも知れませんが、現状として神社神道は<全体としては>元の形に戻りつつあると考えてよろしいかと思います。
また、皇室もそうであると思います。皇室というのは祭祀などは勿論ですが、一貫して、日本の伝統文化を継承し守る役割も負ってきたお家です。渡来文化の保護、慈善事業への関わりもしてきています。海外公務が出来たのは戦後ですが、美智子皇后が「皇室は祈り」と発言されたように、戦後の公務の一つの大きなポイントに「戦没者(戦争被害者)慰霊」などが挙げられると思います。

皇室は為政者としてのロイヤルには成り得ないですし、実際、明治から昭和にかけてもそう成り切れなかったのでは?成り立ちや歴史上のことから考察すれば、日本にヒトラーのような独裁者が出来なかったのはそういう皇室の性質ゆえかも知れないと個人的には思う事があります。

166迷える大羊:2007/06/04(月) 23:25:05
横入り歓迎いたします
流れ梅さん はじめまして。別に右翼だなんてちっとも思いませんよ。貴重な知識をお教えいただいてありがとうございます。「紫衣事件」のことはとんと知りませんでした。おっしゃる通り、本来の神道と国家神道は別ものだし、長い日本の歴史の中で、ここ百年くらいの天皇家のあり方の方がむしろ特殊なのはわかります。元々、西洋社会にキリスト教という宗教の核があることを見聞した明治の元勲たちが、日本にもキリスト教に対抗する、宗教、価値基準を持たねばならない、という発想で始まったものらしいですからね、国家神道って。

 ところで美智子皇后、で思い出しましたが、日本の皇族を見て不思議に思うのは神道の祭祀の家のはずなのに、何故か神道系の学校の出身者がなぜか少なく、それどころか、ミッションスクールの出身者の方がむしろ深く入り込んでる感じがするところですね。美智子皇后はカトリック系の聖心女子大出身、雅子妃はこれまたカトリックの田園調布双葉学園出身、さらに現天皇陛下の家庭教師はエリザベス・バニング夫人、エスター・ローズ夫人でいずれもクウェーカーのクリスチャンだったりします。どうなってるんだろ、と思うのは私だけですかねぇ?
 あと、上流階層、名門のお嬢様というとミッションスクールを思い浮かべるのはなぜだろう?とも思いました。日蓮女子学院だとか、阿弥陀女学校みたいな感じの仏教系学校は思い浮かべないですもんね、なぜか(笑)

167Sekko:2007/06/05(火) 05:04:04
私も歓迎します
 私も天皇家は祭司の家系として貴重で、その意味でよく残ってくれたと思います。確かに明治の国家神道の創設で大変な役割を担わされましたが、たとえこの先いわゆる天皇制がなくなっても、日本の伝統的な祭祀の保存のために国が保護していくべき職能じゃないでしょうか。歴史の中で権力に結びついた宗教や芸能は時代と共に立場が変わっていきますが、フランスで1905年以前のすべての教会が国に没収された後でもカトリック教会が無償の店子として活動を続けているように、多様な社会の中で伝統的シンボルが生きているのはいいことだと思います。能でも観世宗家には文化庁から助成金がでているように、天皇家の祭祀はどんな形でも続けて欲しいです。でも今の時点では皇族には投票権がなかったり、微妙な立場なので、外から入ってくる女性などはますます困難が大きくなるでしょう。誰かが国や国民のため専心して祈り続けているというのは決して意味のないことではないと思います。
 特に、日本の神道は、自然神や神話の神や家康など権力者が神に祀られているのを別としたら、「非業の死を遂げた人」の祟りを恐れて祀った霊が多いですね。荒御霊を鎮魂して守り神にしてしまうような。民間宗教としても、死んだ人=ホトケが、時間をかけてカミという習合守り神になっていくというイメージでした。仏教と習合してからは、死者は回向によって49日で仏になり、49年で集合的祖霊神に融合という感じです。
 それでいうと、第2次大戦で非業の死を遂げた人たち(それは戦死者たちだけでなく戦災で死んだ民間人も先般で処刑された人もみんな)、もう49年を経ていて、昭和天皇と今の天皇が鎮魂を祈り続けたと思うので、みんなカミになってくれたかなあと思いたいです。天皇は戦犯の合祀問題などでさっさと靖国参拝を控えましたが、天皇の名の下に始まった戦争の被害者はいわゆる戦死者だけではないのだから、多分皇居ですべての人の鎮魂を続けてくれたのでしょう。こういう職務の家に嫁ぐからには、祈りとか宗教観の合う女性が大事ですよね。自己犠牲と利他を勧め、死者への敬意を大事にするなら何教でも通ずると思います。
 確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀があったという暴露本が去年出てましたよね。マッカーサーがアイルランド系でカトリック、吉田茂もカトリックということで、なんかそれらしいお話なのかもしれませんが、皇室がカトリックになっちゃったらそれこそ国家神道の元で非業の死を遂げた人たちが浮かばれないですよね。神道祭司としての存在理由も消えてしまう。あり得ないですよね。
 現天皇陛下の家庭教師が絶対平和主義のクエーカー教徒だったというのは好感が持てますね。平和憲法を是非擁護して欲しいです。

168迷える大羊:2007/06/06(水) 00:16:47
聖書って・・・
 毎度、お世話になります。キリスト教に関する疑問って真面目に考えれば考えるほど出てくるのですが、実は聖書っていうのも私にとってはよくワケのわからない本だったりします。もちろん、いいメッセージがたくさんあることは十分に認めます。前にも述べた通り、イエスの倫理、道徳的な教えは時代を超えて不滅だと思うし、十戒など、人の守るべきルールをよくこれだけシンプルにまとめたものだ、と関心もします。まあ、そんな聖書きれいな部分は教会に行けばいくらでも聞かせてもらえるわけで、あえてここで触れる必要もないでしょう。

 しかし、よくよく読んでみると(聖書を読むことは大変骨が折れる作業ですが)、それ以上にトンデモな話が多い文書だったりするんでびっくりします。特に旧約の部分。いやはや、すさまじい話の連続。サムエル、列王記、歴代誌など果てしない血みどろの内戦、スプラッターもどきのクーデターでいっぱい、それも加害者としての話の方が多かったりするし、申命記や民数記を読めば、親に反抗する子供、同性愛者は石投げて殺せ、とあるし、尾ひれとウロコのない魚、つまりタコやイカかな?は食べてはいかん、ともある。また、浮気を疑われた妻はゴミだかチリだかの入った水を飲み干さねばならないらしいんですね。

 かつてオウム真理教の犯罪が世をにぎわせていた頃、評論家はこぞって「彼らの教義は殺人とテロを肯定する部分があって危険だ」などと語っていましたが、それいうなら、このユダヤ・キリスト教の教典は一体??。まさに自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレードではないか、これを信仰している、というキリスト教徒、ユダヤ教徒は一体全体、何を信仰してるんだろう、この旧約の部分をどう考えているんだろう?、との疑問がわいてきます。

 新約は旧約に比べると変な部分は少ないけれど、それでも、ヨハネ黙示録、というきわめつけのトンデモ文書があって聖書の最後を締めくくっています。なんだか話がぶっ飛んでいてわかりづらいんですが、最後の審判の間に神に捧げられるのは14万4千人の童貞の男たち、なんだそうで、思わず「はぁ?」と声に出してしまいました。独特の、あまりに逞しすぎる想像力、この聖書記者は、何か変なクスリでもやりながら書いたのでは??と疑りたくなる文書です。

 なぜ、キリスト教はこんなとんでもない文書を聖典として残しておいたのでしょうか?キリスト教の歴史においていくらでも編集、改訂する機会はあったと思うのに。また、キリスト教関係の出版物を読むと「聖書とともに生きています」みたいな人が出てきますが、これらの人々はこういう聖書のダークな部分についてはどう考えているんでしょうか?私が読んで気づくくらいのことが、私など、比べ物にならないくらい聖書を読み込んでいる彼らが知らないはずはないと思うのですが・・・。

>確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀

 え、そんな陰謀本だとか、陰謀のウワサがあったんですか?初耳です。まあ、私個人は都市伝説の一種なんじゃないの、と思いますが。

169Sekko:2007/06/06(水) 20:38:16
聖書の話
 聖書の解釈って、古来、神学論議も哲学論議も個人の思弁もオカルト読解も山のようにあるんで、簡単には紹介できませんが、すごく単純にいうと、キリスト教はイエスは人間として生まれたのだから当然人間の特定の歴史と文化の文脈上の存在なのだから、旧約聖書でそれを明らかにするというスタンスだと思います。でも、イエスが生まれて死んで復活したからには、その前の出来事はもう無視、ではなく、成就したことになって、基本的にその後のことを制約しません。ユダヤーキリストーイスラムの三つの「アブラハム系一神教」ノうちユダヤ教徒イスラム教は戒律がありますが、キリスト教はユダヤの戒律宗教がキリストによる罪の購いで成就されたので、生活の全部を管理するいわゆる戒律はないんです。戒律を形として守るよりも、心の持ち方が大事だということになりました。逆に言えば、自分の行いを自分の良心に照らして絶えずチェックしなければなりません。でもそのおかげで、ローマ法の発達していた世界に広がることができたし、今もインカルチャレーションということで、ローカルな伝統と共存しやすいですね。ヨハネの福音書も普通は一種の象徴文学ということでスルーです。ネロンによるキリスト教迫害とか、執筆時の状況や危機感もあるでしょう。
 キリスト教では20世紀前半に、聖書の非神話化という作業が盛り上がった時期があります。精神分析学的解釈というのもありました。今は一段落していますが、原理主義的になったり、恣意的になったり、目をそらしたり、いろんな段階や局面を経ていますから、普通の人は変だと思うところにはそれなりの距離をおいてつきあっているのでしょう。
 では、ユダヤ教の人がどうやって破天荒な物語をありがたがっているのかというと、これも、一部の原理主義者は別として、今の普通のユダヤ人には、共同体のアイデンティティというか、帰属性を意識させてくれるよすがというところでしょうね。フランスのムスリムもみんなでラマダンの断食をすることで世界の仲間とつながっていると思うようです。理屈とかは別の連帯の次元でしょうね。
 私は個人的には、戒律の多い共同体は苦手です。特に食べ物の戒律にうるさいところは苦手です。殺生が嫌で肉を食べない、というのはすごくリスペクタブルだと思うんですが、うろこのない魚がだめとか、ひづめがどうこうとかいうのは、要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除につながるんで嫌いなんです。また屠殺するときに動物の頭をこれこれの方向に向けてこれこれの祈りを唱えてからならOKというのも、御都合主義とは言えないまでも、そういうのは呪術の領域だよなあ、とか思ってしまいます。
 まあ、普通の本でもいろんな読まれ方をするんですから、聖書と共に生きてますと言う人がみな同じ見解を持っているわけでも同じ接し方をしているわけでもないでしょう。また、聖書の言葉は、定義上、啓示であり、神の言葉なんですから、人間が「ここが変だ」と考えたり突っ込みを入れたりしたくなるのとは別のレベルの言説なんでしょう。ただ、これも定義上、神と人の間の一種の契約なんですから。双方向に通じるものがあってこそ意味を成すともいえます。契約に応じるという信仰のレベルに入らない限り、「わけの分からない本」であり続けるのかもしれませんね。「いまここで」分からなくてもノーマルなんでしょう。
 良く、この世で罪のない赤ん坊が殺されたりするのは神も仏もいない証明だ。とか言う人もいますが、「罪のない赤ん坊が殺されるのが絶対悪である」という確信自体に私はむしろ神の可能性を感じます。聖書の中のある種の記述が「自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレード」と大羊さんが認識できるってこと自体、私は正義の存在を信じちゃいます。悪は、ある実体ではなく、いつも、人間のある選択の結果なんですよ。

170迷える大羊:2007/06/10(日) 10:14:37
聖書の話2
 いつも、参考となるお話、ありがとうございます。

>要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除

 私もそう思います。ところで、普通の人は聖書の「変だ」と思うところはそれなりに距離をおいて付き合っている、とのことでしたが、私の見聞の範囲ではどうもそうでない人も結構いらっしゃるようなので、あれこれツッコミを入れたくなるのですね。前にも触れましたが、私が最初に関わりをもったあるプロテスタント教会の牧師さんは、聖書の創造論を、信仰の上だけではなく、物理的にも信じているフシがあって、「進化論という唯物論、無神論をとるか?それとも神をとるか?」などといわれて、とてもついていけない、と思ったものですし、キリスト教会(もちろん教派によるが)の同性愛者、性的マイノリティへの極端な差別、嫌悪はこの旧約聖書の申命記の一節からきているのでは?と思うからです。(別に私もその手の趣味はないが)

 今から15、6年前、クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」などという暴言を吐いたとか吐かないとかいうことで揉めた「府中青年の家」事件なんてトラブルも詳しくは知りませんが、あったようですし。
 また、戦争行為などを正当化したがるクリスチャン(ブッシュ大統領みたいな)は旧約聖書の「目には目を・・」の部分を強調したがる気もします。要は聖書ってどうとにでも使える部分があるんじゃないかと。確かに貴重な書物には違いないのですが、あまり信じすぎるのもどうか、と思ったりするんですね。

 その辺りの聖書への疑問が「聖書のみ」が信仰の対象となるプロテスタント、特に福音派教会への疑問となってしまったわけです。
 ところで、私の彼女はその福音派なんですが、いいづらいですね、この辺の話。下で述べたような聖書のダークサイドの話をすると、上げ足をとっている、とかキリスト教をバカにしているみたいな風に思われちゃうみたいで。でも、そういう誤解に対しては「だって聖書にちゃんとそう書いてあるんだけど・・」というしかないですね。

 あと、中絶問題はキリスト教関係者の重大関心事と思いますが、聖書に中絶問題について意見を表明している箇所ってありましたっけ?私自身は妊娠中絶に関しては、反対派も賛成派もどちらの言い分も分かる気がして、態度を決めかねる議論ですが。

 と、まあ聖書についていろいろ能書きを垂れましたが、実のところ、今まで何人かのクリスチャンの方と話しをしてみましたが、意外と聖書なんて大して読んでない人多いなぁって感じもします。手前ミソで恐縮ですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」なんて思うことも多かったりします。

 実際のところ、信仰生活において聖書の果たす役割って意外と小さいのでは?という気もします。私の知る限りでは、クリスチャンホームに生まれてそのまま信仰するようになったとか、身近な神父さん、牧師先生がいい人で、とか付き合いで、とか、もっと切実な、肉親の死(彼女の場合はこれ)だとか失業、だとかで神仏に頼りたくなった時期に出合ったのがたまたまキリスト教だったとか。
 それらは教義とは関係ない、単なるきっかけの問題なのかもしれないですね。仏さんを信じる人が皆仏典を読んで、南無阿弥陀仏だとかの意味を正しく理解しているか、っていうとそんなことは全然ないし。

 そう考えると、私みたいに妙にあれこれこだわるタイプって、素直さが足りないのかな?と思ったりもします。でも、納得いかないところはきちんと納得いくまで問い詰めないと気がすまないし、わけがわかんないのに信じる、という気持ちは私にはない、もうこれは性格だからどうしようもないですね、、我ながらカワイくない、と思いますが。

171流れついた梅:2007/06/11(月) 13:41:27
ええと、またお邪魔してしまいます。
昔、私のいた共同体というのが「超教派」でして、福音派からペンテコステ、カトリックの聖霊派の方もいらしたところでした。ですから、大羊さまのお話拝見しておりますと、非常に思い出すところが多いなあ、と思いつつ拝見しています。

大羊さまの彼女である方を通じて、大羊さまは福音派をご覧になっていると存じますが、福音派がアメリカの多数派を占めたのは'80〜'90年代くらいのことだと記憶しております。昨年か一昨年引退した、と聞いていますが、ビリー・グラハムという名前をお聞きになったことがありますか?こういったテレビ説教師の成功によって、福音派は今まで多数派を占めていたメインラインと呼ばれる各教派(会衆派、長老派、聖公会、ルーテルなど)から改宗者を得ています。
メインラインの教会の神学と福音派の神学が相容れないところからも、溝が出来たようです。
つまり、聖書を科学的に分析し、批評的な研究・解釈を支持するあまり、処女懐胎やイエズスの神性の否定に至る、そこまで行ってはや宗教性をも失ってしまった自由主義神学への反動として、聖書の一字一句をそのままに受け取るというファンダメンタルが生じてしまった、と。

個人的には、それぞれに行き過ぎたところを感じるところがあります。

>クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」
これは典型的な行き過ぎの一例でしょうね。カトリックでは信者個別の問題として、相談があるならのる、という感じだと思います。

>戦争行為などを正当化したがるクリスチャン
ブッシュ大統領のブレーンを見る限り、軍事産業の関係が多いのではないでしょうか?ブッシュがキリスト教の教えと繋げて、イラク派兵その他の話をしたなら別ですが、アメリカというのは、多民族・他宗教国家ですので、一概にそうは言えないのでは?また、クリスチャンの軍人や従軍司祭・牧師などもいるわけですが、それについてもブッシュ大統領のようにお考えになられますか?

>中絶問題
そもそもは十戒の『殺すなかれ』『姦淫するなかれ』からきているものではないでしょうか。故に「命はどこからはじまるか」という生命倫理の問題として考えている中での流れと解釈します。以下、ご参考ください。これはカトリックの公文書ですが。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音
http://www.japan-lifeissues.net/writers/doc/gol/gol_evangeliumvitae-ja1.html

プロテスタントの成り立ちについても、ルターの発表した「95箇条の論題」があくまでも神学的な問題として意見交換を呼びかけたものであるにも関わらず、当時の為政者に政治利用された側面は否めません。事実、ドイツはその後30年間の内戦状態となりました。
ルター派が国教となった北欧などは、そういった問題の発生が無かったようですが、次々と出来てくる教派と既存の教会との共存が困難だったことから、アメリカへの移住があったものと思われます。教派についてはそれぞれに在り方というのがありますが、非常に残念であるのは、プロテスタントの方々が初代教会からカトリックが積み上げてきたものを捨てることで、アイゼンティティを保っているように感じられることですね。
例えば、彼らが捨てていった教会美術、そして典礼。そもそも、欧州ではさほど識字率は高くなかった。羊皮紙本を筆写する時代には、聖書なんてものはなかなか一般人には入手が難しかったのです。そしてかさばります。教会や修道院は、図書館の役割を果していました。字の読めない人たちにも聖書の内容が分かるように、絵画やステンドグラスが作られ、また典礼において人々に分かりやすく伝えることもしていたわけです。

そういった時代の人々の信仰は、非常に素朴であったかと思います。
神学を修めるのは聖職者だけで良かった、みたいな。しかし「無知だった人々のもの」それだけで、その時代の人々がもっていた信仰を否定することは出来ないのでは?
さて、今は、情報に飢えることが考えられない恵まれた時代です。
世俗の者でも信者でなくても、神学オタクにはなれるんですが、単なる神学オタクと信者・聖職者との見分けは、知識云々ではなくどうしてもついてしまうものなのです。そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。
勿論、理性のない信仰は私もどうかと思うのですが、信者さんにとっては「自分と神だけの間の問題であること、そうしたいこと」も多いはずなので、そこはある程度は心やって下さいますと感謝いたします。信仰を持つきっかけについても、その人にとっては大切な部分であるところを論評の的にされてしまっては、大概の方は傷つかれるのではと思いますので。

まあ、私の指導司祭だった方は、「疑って、疑って、疑いなさい。疑う余地が無くなったら信じなさい」と仰ってました。あれこれこだわるタイプも、素直さが足りないタイプも大羊さまだけでは決してないのじゃないか、と思うので、これはお笑いまでに。

172迷える大羊:2007/06/11(月) 23:20:18
まずは反省します
>そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。

 これは、イヤミに聞えますね、我ながら。素直に以後気をつけ、反省します。もちろん、自分が聖書読んでる、エラいのだ、といっているつもりなどないし、思っているわけでもありません。おっしゃるとおり、頭でっかちで、宗教オタクぽくなってしまっている自分をやや自嘲気味にいってみた意味もあるのですよ・・。いや、実は彼女にもそのようなこと言われたことあります。でも、一方で今まで宗教に縁がなかった人間は理屈で理解する以外ないし、「それは理屈じゃないの!」って切られてしまうと、もう何もいえないし、困ったところです。

 彼女と付き合いだした当初、正直、なんでこんなこと素直に信じられるんだ〜?とも思いましたし、教会の独特なムードに最初は大変緊張したものでした。彼女と宗教の話をする際はそれなりに慎重を期しているつもりではあるけれど、たまにそういう話になると、「なんでこんなことで怒られるのだ?」といった戸惑いもたくさんありました。傷つかないように、というのも十分、分かるのですが、一体、何に気をつければ良いのだろう?という戸惑いもありますし、宗教やら信仰やらに対する反発(つまり、変なことを変といって何が悪い、とか、焼香しないとか、神社行かないって何事よ、何でそんなことに気を遣わなきゃならないんだ??神が人を作ったって、じゃあどこの神?天照大神かい?等など・・)がない、というとウソになります。
 一方で私は無神論者ではないし、イエスに対する敬意はあるし(本当ですよ!)、理解してみようという気持ちがないわけではないし、遠藤周作氏の著作のような、理解しやすい信仰のあり方もある。そう思って教会もいろいろいってはみたし、聖書読解も自分なりにトライしてみましたが、でも、その「信じる気持ち」というか、その思考様式はやっぱりよくわからないところが多いです。

 そしてそのわからないこと、彼女にとても面と向かっていえない疑問をここでぶつけていた、というのが実情です。未信者なら当然いだく疑問だと自負してはいたのですが、不快な点が多々あったのであれば、素直にお詫び申し上げます。
 それも「信仰心」に対する無知ゆえのものです。

 最近は彼女も私にクリスチャンになってもらいたい、みたいなことは言わなくなりましたし、私もなんとなく、信仰を持つ人間に対する付き合い方の要領みたいなものを呑みこんできたところがありまして、うまくいっております。
 やはり、宗教と政治の話は慎重に行うべきですね・・・。当分、発言、投稿は自粛することにいたします。

173nao:2007/06/16(土) 10:09:18
反省無用じゃないですか。
投稿を控えられるとおききして、さびしい思いをしております。「不快な点が多々あつたのでは」なんて、誰もおもつていませんよ。きつと。大羊さんの問題は信者自身の問題なんです。みな「言葉」がたりないんです。竹下先生、流れ着いた梅さんには本当に敬意を表します。あんとに庵さんにも。これを見ている多くのかたは発言したくても、言葉に窮するのだとおもいます。

先日「仏教とキリスト教の接点」本多正昭著、行路社、を著者からいただきました。本多先生は師にして畏友。先生は高校の先生をやめて、九大の哲学科に入学、求道生活の末ゆきついたのが、カトリツクでした。すべてをすてて、ドミニコ会にはいり、マニラで神学研究。西洋神学に凄い違和感を感じ、心身症に。ドミニコ会をやめて、帰国。大学の先生になり、仏哲中山延二博士に出会い、仏教の「即」の論理に目覚め、以後キリスト教改心の言葉の表現は「即」をもつてしかできないと考え、それをいろんな論文でかいてこられました。
これはむつかしいのですが、神と人間の関係を表現するのに、ピツタリの言葉をもつています。

ながくなりますので、省きまして、最後にいかに改心の言語化がむつかしいか、この本に紹介されていたハンド神父という方(日本で禅を修めアメリカで禅指導されたかたでつい2年ほど前になくなられました)の言葉をおつたえいたしましょう。これが結論になつています。
ハンド神父の声
1、キリスト者にとつて本質的な特徴は、イエスの神体験に参入すること、イエスを通して神に参入することである。

2、しかし、イエスの神体験に関する教会的表現は、ユダヤ、ギリシャ・ローマなどに特有な知的枠組みによつておこなわれてきている。

3、とりわけ教会史最初の五世紀の間に入念に練り上げられたニケア公会議による信仰箇条は、明らかにキリスト体験の西洋的な表現なのであり、これがそのまま東洋に、したがつて日本にも伝道されてきた。

4、しかしそうした中でも、非西欧的・とくに東洋的伝統の枠組みで表現されてきたキリスト体験を、改めて創造的に再表現するという試みは、最近、やつとごく少数のクリスチアンによつて敢行されはじめたばかりである。

5、アジアの司教団が、初めてこの新しい方向付けの必要性を公言したのは、つい1998(平成10年)4月のアジア・シノドスにおいてであつた。
非西欧の伝統に潜む神の声を、神学的に再構築してゆくという重大な課題は、21世期がとりくむべきキリスト教の重大な使命として受け継げられているのである。

以上です。いかに信仰の言語化がむつかしいか、とくに日本でそれがむつかしいか、おわかりいただけるのではないでしょうか。そんなとき、竹下先生が現教皇の枢機卿時代の信仰問答を訳しておられ、大羊さんにとてもいい、とメールくださいました。ハンド神父とはまたちがつて、西欧知性のはつきりした回答ですが、素晴らしい訳文にできあがりつつあります。まもなく紹介していただけるものと、期待しております・

大羊さん、彼女とうまくいつてるようで、なによりです。お二人の愛情こそ、イエス理解の鍵をにぎつているはずです。神こそ、愛なんですから。どうか、いい愛情をはぐくんでいつてくださいますように。信者になるかならないかは生涯にわたつて、お考えになればいいことで、あせる必要はいつさいないとおもいます。いまは大いに楽しんでいただき、またなんでもぶつけてきてくださいますよう、ねがつております。

174Fusako:2007/06/18(月) 21:56:08
竹下さんにおたずね
「猫のコーナー」にお書きになっている、不当感を持つ三つの寓話、それは、わたしがやはり若い頃に納得できなくて、今は深く納得するものです。で、これについての田川さんの説をご紹介いただきましたが、日本人だけでなく、フランス人もやはり似た反応をするのですか?

175Sekko:2007/06/19(火) 19:40:33
そうですね
 大体そうです。というより、フランス人は、日本人なら違った反応をするんじゃないかとむしろ期待するんですが、フランス人も日本人も、同一労働の同一賃金とか、たくさん働いてたくさん稼ぐ、というような近代資本主義の労働観がきっちり刷りこまれているんで、同じです。こういう話では、たいていインド人が、そういう刷り込みとは別の宗教観を維持しているみたいなので、インド人の意見を聞きたいですね。

176Fusako:2007/06/19(火) 21:34:13
連帯のフランスでも
そうなんですか。だとしたら、アメリカ人なんてそういう新約の教訓にもっと反発しそうなものですが、狂信的なプロテスタンティズムはむしろアメリカにあるということが興味深いです。

177Sekko:2007/06/19(火) 23:48:58
ジーザス・キャンプ
 福音派(ここではペンテコスタ教会)の主催する子供の休暇村のドキュメンタリー映画『ジーザス・キャンプ』、日本でも見れますか? それによるとアメリカ人の8千万人が福音派かそのシンパだというのです。地球の人口の3分の1は15歳以下だそうで、彼らを戦士にするのが宗教の使命だというようなことを言ってまして、委員長タイプの女の子が胎児の模型とかを握り締めて涙を流して中絶反対とか叫んでるんです。自分たちの「罪」の改悛に対しても涙また涙です。
 あんまりすごいんで、いじめの問題などに直面してる教師とかが、この福音派の女性牧師ほどの演出力や演技力や使命感があればいじめっ子を完璧に改心させられるだろうにとか思ってしまいました。
 7歳から9歳の間に刷り込んだイデオロギーは一生残ると言ってました。学校教育を受けないですべて家庭教育という子供が少なからずいて、その75%は福音派だそうです。学校で子供にあんたは動物だ、自然の存在だといわれるより、神に創られた神の子だと言ってあげたいというのです。子供にこそ多様性を呈示すべきなんだし、複数の違ったレベルのディスクールも伝達できると思うんですが。「あんなとこに子供を入れる親が悪い」と思います。中絶にしても、私は女性の選択優先派で、しかしB16が中絶反対というのはOKという立場なんで、結構いろんな人と議論になります。

178:2007/06/22(金) 23:44:14
Jesus Camp
Suu-kagetsu mae ni CNN news de, mijikai eizou to tomo ni shoukai sare mashita. Zuibun mae no koto de shikamo hontou ni mijikai eizou datta no desu ga, atama o hageshiku furinagara goukyuu shite ayamaru kodomo o mite, nani ni tsuite shazai shiteirunodarou to omotte shimaimashita.
Mita chyokugo wa shokku deshita ga, yoku kangaereba, ginrui no rekishi ni oite wa ma-atarashi mono dewa nai to omottara, shourai o hikan suru kimochi wa yawaragi mashita. Kodomo no jousou niwa mochron warui to omoimasu.
??Tariban demo nitayou na koto o yatte iru to iu hito mo imasu ga, watkushi kojin wa souritsu toushyo no Iezus-kai(Jesuits) o rensou shite simai mashita.

179Sekko:2007/06/25(月) 01:33:57
お久しぶりです
 そうなんですよね、キャンプの人も、タリバンのコーラン学校では子供たちを、宗教のために命を捧げる戦士に教育できるんだから、キリスト教もできないはずはない、といってるんです。キリスト教でも、有名な小児十字軍ってのがあって、でも、そのほとんどは奴隷商人につかまったりしました。ある種の子供は、純粋に高揚するんで、それ自体はいいんですが、それを利用する大人たちが必ずいることが問題なんですよね。
 日本のような国では福音派といっても、戦闘的なコンテキストがなく、イデオロギーとも結びついていないと思うので、ああいう展開にはならず、ただ、理想に燃えて熱くカタルシスとしての異言語り(ペンテコスタ派の場合)に留まるのではないかと想像するんですが・・
 日本人はあまり人前で羽目をはずさない国民性があるから、ダンスのレッスンでも普通の人は即興とか苦手なんです。人前で大声で叫ぶとうのも苦手だし。でも、そのおとなしさを評価して認めてくれる共同体が崩壊したら、うまくガス抜きの装置がないと、カルトも含めていろいろな危うい「奴隷商人」に取り込まれて行くのかもしれません。
 創立当初のイエズス会もそうですが、今も南米中心に教皇直属の「キリスト軍団」ってのがあるじゃないですか。
こういうの。 http://www.legionduchrist.org/
これって、時代錯誤っていうか、ネーミング自体、怖くないですか? 前から注目してるんですけど・・・こういう人たちが非の打ち所なく控えているからこそ、教皇ってのは、理性80%くらいの冷静な人にやってもらいたいですね。

180:2007/07/06(金) 05:24:45
B16 no Kyourei
Kondo no doyoubi ( 7/7 ) ni Benedict XVI ( B16 ) ga arata ni kyourei (Motu Proprio) o koufu shimasu.
Naiyou wa, tsui 40-nen kurai mae made kyoukai-nai de futsuu ni okonawarete ita, Kyuu Roma-tenrei = <frui Laten-go no missa> o jiyuu ni kyoshiki suru koto ga??dekiru to iumono desu.(*imamade wa kisei ga arimashita.)

Shin-Kyuu no missa no ookina chigai wa, Laten-go toiu kotoba no chigai??igai ni, genzai wa : Missa=Bansan (shokuji o tomo ni suru) to iu gainen ni taishite, mukashi wa : Missa=Hansai (ikenie o sasageru) to iu gainen no moto de kyoshiki sarete imshita. Mottomo, seizen no Jean Guitton ni yoreba, ima mo missa nimo "hansai" no gainen wa nokkotte iru keredo "mokisatsu saretei iru" noda soudesu.

Jitsu wa watakushi wa kono "ikenie" toiu kangae-kata ga suki desu. Ima no jibun-tachi no shiawase wa dawrka no doryoku ya kurou no ueni aru toiu "gisei ni taisuru kanshya" ni tsuujiru youni omoimasu. Mata, KyuYakuSeishyo no shikou nimo tsunagaru you nimo omoimasu.

Mukashi no missa-tenreisho konna inori ga arimasu :
....Daignez, Seigneur, jeter un regard de complaisance et de bonte sur ces dons, et agreer ce Sacrifice saint, cette Hostie sans tache, comme il vous a plu d'ageer les presents d'Abel, le juste, vorte serviteur, anisi que le sacrice d'Abraham, notre Patriarche, et celui que vous a offert votre grand pretre Melchisedech...??(...Korera no sasage-mono o odayaka na on-manazashi o motte kaerimite kudasai.??Shimobe de aru gi-jin Aberu no sonae-mono, warera no taiso Aburahamu no ikunie, dai-saishi Merukisedeku ga kenjou shita kumotsu o ukeire tamouta youni...)

Mochiron, furui mono wa subete sugurete iru mitia na kyokuron niwa hantai desu.

Tokoro de, kinou, Fransu shikyou-dan no osa de aru Bordeax no Richard suukikyou ga shikyou tachi o Pari ni atsumete, kono atarashii kyourei??no atsukai ni tsuite hanashi-ai o motta sou desu. Shousai ni tsuite wa mada kiite imasen ga, douyara atarashii kyourei wa amari karera ni kangei sarete inai you desu.

Dochraka ippou ga, mou katahou ni totte kawaru to iu nodewa maku, shin-kyuu souhou ga o-tagai kara manabi, katorikku no tenrei ga yori yutaka ni nareba yoi to omotte imasu.

181Sekko:2007/07/06(金) 08:26:42
生贄のこと
 フランスのカトリック界は、先ごろ、過去に破門されてスイスで活動していたラテン語司式のモンセニョール・ルフェーブル系の司祭らをヴァティカンが受け入れた事実についてすでにすごく困惑していました。第二ヴァティカン公会議の精神を死守しようとする人が多いフランスのカトにとっては大問題なわけです。ミサにおける「犠牲」のシンボリズムもすごく大きな問題ですね。
 昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
 二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。

Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...

つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
 宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。

182:2007/07/06(金) 23:54:02
Fraternite St.PieX
Maido no koto nagara, yominikui roma-ji no choubun o yonde kudasatte arigatou gozaimasu.

Watakushi ga omouni, Fraternite St.Pie X ( Mons.Lefebvre no sousets shita shisai no kai )??no mondai-ten wa furui Laten-go tenrei to iu yorimo,??"katolikku-kyoukai dake ga yuitsu tadashiku,??zettai ni machigaeru kotoga nai!"??to iu rinen no moto de, hansei toka jiko-hihan o shinai koto dato omotte imasu.

Sonna karera no tokoro ni??"Nazisu no dai-gyaksatu nante decch-age da!"??nante shuchou suru hito ga kekkou atsmatte iru noga kowai desu.

183Sekko:2007/07/07(土) 01:00:45
その通りですね
 実は、最近、改めてヴァティカン2の憲章と、Ratzinger時代のB16の『Dominus Iesus』を読み比べて、Vatican2は、ある意味当然ですが、結局『Dominus Iesus』に直結してるんだなあ、とも思ったところです。でも、実際は、宗教観対話のためにB16は最近、多元派のフランス人を任命しました。この質問箱で一月ほど前に書きましたが、多元派というのは救済における宗教的多元性を認めるということで、基本的にB16 に批判されています。
 コピペしますと、

「多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16−12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。」

ということで、少なくともB16が多元派を採用したということは、プラグマティズムというか、開かれた態度が感じられてほっとします。
 大体において、今のカトリックは、メンタリティにおいて結構はっとするほどモダンなんですが、システムが旧弊なんでそれが見えないんですよね。それに比べると福音派とかは、内容はアナクロでも、経営の仕方がマーケッティングとかメディア利用などにおいてすごく今風なんですね。

 しかし歴史修正主義の誘惑ってのは、興味深いですね。何か普遍的な病理につながってる気がします。

184:2007/07/07(土) 21:22:19
Summorum Pontificium
Tsui ni B16 no atarashi kyourei "Summorum Pontificium" ga demashita.

http://www.vatican.va/latest/laterst_fr.htm

O-jikan no arutoki ni go-kansou o ukagaetara ureshii desu.

185Sekko:2007/07/09(月) 02:12:41
読みました。
 司教への手紙、読みました。ラテン語司式許可についての二つの懸念に答えていますね。一つは、第二ヴァチカンの精神と逆行するのでは、典礼の改新を否定するのではという懸念。これには、第2ヴァチカンがその前の典礼の無効を宣言していないこと、ある意味、ラテン語司式はまだ生きていること、二つは標準典礼と特別の典礼(日本語が良く分からないので適当です)としてすみ分けうる、との見解ですね。古い司式に愛着を持つ人も少なくなく、若い世代でもラテン語ミサにこそ神秘を感じると言う人がいることも。そして、新しい司式が、自由に変形され展開されてもよいという誤解によって、その精神が逸脱しているケースを批判されています。新しいものを自己裁量で使うよりは、伝統に磨かれたラテン語司式の方がよい、というニュアンスです。改革派だったラツィンガーが、相対主義に絶望して保守に戻ったという経緯を反映しています。また、1988年にJP2がルフェーヴル派に最後まで歩み寄った分裂回避の姿勢に触れ、これまで、各司教がケースバイケースで判断することに頭を悩ましてきた苦労を軽減するとも。
 第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
 新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
 実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
 問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。

186:2007/07/09(月) 04:21:33
B16 no yasashisa
Takeshita-san, arigatou gozaimasu.

Jitsu wa, "Dentou Fukken" o takaraka ni utai agete shimatte irunodewa nai ka to, naishin shinpai deshita. Honbun o yonde hotto shite imasu.

dai2Vatican no ketsugi ni tomonau kaikaku ni tazusawatta shikyou-tachi e no kei-i ga kanjirare masu. Watakushi jishin mo, karera no kufuu ya doryoku niwa kanpuku shimasu.

Shikashi sono ippou de, kaikaku o gouin ni okonatta tame ni kyoukai kara shmedasreru hame ni natta hito-tachi ga imasu.
Nagaku shikou-seikatsu o tsuzukeireba, sono shikou ya dentou ga jinkaku to missetsu ni musubitsuku baai ga arimasu. shikashi kyoukai-gawa wa sore ni kizukazu, dentou-teki shinkou o motsu hito no jinkaku o hitei suruyou na koto o shite shimatta youdesu.
Furui tenrei no fukkou-undou ni kakawaru hito ni, tsuyoi Ressentiment o motsu hito ga ooi nomo sono tame dato omoimasu.

Konkai no "Summorum Pontificium" niwa souiu shiitgerareta hitobito ni taisuru itawari mo kanjiraremashita.

B16 no yobikake, "Kokoro o hiroku" (IIcor. 6:13) ni kongo kyoukai ga dou kotaeruka chuumoku shiteimasu.

187Sekko:2007/07/09(月) 05:49:55
改革とは
 企業の改革やら社会の改革や修道会の改革などと違って、典礼の改革というものが真に内容を持つのには実は100年くらいかかるんではないかと思います。ラテン語の典礼は千年もかけて少しずつスピリチュアリティを獲得してきたわけで、そこにはいろんな人の思いがつまっています。審美的な肉付けも、神秘の喚起力も、歴史の刻みも、恐れや陶酔や歓喜や慟哭も。新しい司式を整えて訳したところで、実は古い典礼と簡単に置き換えられたり拮抗するわけではないでしょう。今日の改革が明日実を結ぶというのは、精神の営みや霊的な営みには不可能な気がします。また、聖なるものへのセンシビリティというのは典礼だけではなくいろんな形で養われていくものなのでしょう。私もB16の優しさを感じます。

188迷える大羊:2007/07/12(木) 23:37:52
またお邪魔します
 迷える大羊です。信仰に関して、こちらとしては素朴に疑問に思うこと、反発を感じることを素直に書いたつもりでいても、人によっては心の勘所に触れてしまうことをリアルでもネットでも身にしみて知ったこともあり、宗教問題に関してはしばらく発言を自粛しておりました。しかし、宗教、キリスト教、信仰に関し、またまたいろいろ、知りたいこと、いわずにおれないこともあって、あえて禁を解き、発言します。naoさんにも御心配をかけたまんまですし。(著作の紹介ありがとうございます、遅れましたけど)。

 こちらで、しばらく見ない間に福音派の話題がでておりましたが、この件に関して、私は今まさにリアルタイムで関わっております(彼女が福音派クリスチャン)ので、聞きたいこと、いいたいこと山盛りです。
 なぜ、この福音派の話を蒸し返すか、といえば、いよいよ結婚を控えて、やっぱり、というか、なんというか、彼女の母教会の牧師ともども、私にクリスチャンになってもらいたいという話がはっきりと出ました。

 別にキリスト教全体やイエスに対する悪印象はないんですけど、やっぱりクリスチャンのメンタルな部分は今ひとつよくわからない上、福音派(ペンテコステ系ではないんですが)の人たちの信仰は、私にとってあまりに強烈、という言い方が失礼なら、純粋すぎ、真面目すぎで、私の宗教感覚とはとても合わないんで困りました。

 もちろん、だからといって、このままでいても彼女の信仰とは付き合わざる得ないし、いつかはクリスチャン、というプレッシャーはこの先ずーっとかけられ続けるだろう、考えた末、こんな妥協案を。「わかった、まだ信仰のことはよくわかんないけど、神についての探求は続けるよ。その代わり、教会、教派は俺の考え方に合うところ、近いところにさせてもらうよ」といい、彼女もそれで納得しました。とりあえず、同じ神の下にいてくれればいいようです。

 で、キリスト教や信仰心について大してわかっていない上でいうのもなんですが、今まで、キリスト教会を巡り、神父、牧師などの聖職者の方々に話しを伺った中で、一番考え方に違和感が薄かったのがカトリックでした。理由としては他宗教や異教文化に対する対応が排他的でなく、私の苦手なファンダメンタルな思考様式を方々があまり見当たらないんで、落ち着くんです。あと多神教的な要素があることも、プロテスタント福音派からは批判材料になるんでしょうが、私の宗教感覚からすると、ホッとさせられる要素だったりします。とにかく、あちらは「本物の神とは〜」みたいな話が多くて、そういう考え方は私にとって押し付けがましく思えて窮屈きわまりない。

 彼女は一応、「カトリックでもいいよ」とはいいますし、表立っては批判しませんが、カトリックにはやや冷淡です。彼女の母教会の牧師さんは、遠藤周作などカトリック系作家の作品は「立場が違う」ということでこれまた読みません(理由はなんとなく分かる気がしますが・・)。

 で、何が最終的に言いたいのか、といえば、彼女や彼女の母教会の牧師さんは、夫婦は信仰が同じ、というか同じ神の下にあるべき、という考えなんですが、私的には、同じ神を信じたからといって、感覚や価値観の相違までがぴったり同じになるとは思えないけどなぁ、うまく言葉にならないけど、なまじ互いに同じ神を信じている、という思い込みがあるだけ却って、その感覚、考えの違いが鼻についてしまう、最初からこの人は違う種類の人間と思えば気にならないことが、イラつくなんてことの方がありがちな話のような気がするけどなぁ、とも思ったりします。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか?やはり、カトリックと福音系の組み合わせはマズイかなぁ?彼女の方でカトリックじゃなくてもいいから、せめてもう少しリベラルな教派に変わってくれないかなぁ・・、と悶々と考える今日この頃です。

189迷える大羊:2007/07/13(金) 00:58:51
進化論
 またまた失礼します。こちらでしばしば話題になる福音派と今まさにリアルタイムで関わっている迷える大羊です。彼らと関わって思うのは進化論を排斥したがる人がやたらと多いこと。私は結婚式の司式の条件として、福音系(その頃はキリスト教のセクト、教派の関係がよくわからなかった)教会の学び会に行ったことがあるんですが、いきなり「進化論は唯物論、無神論、クリスチャンになるということは神を取らねばならない、したがって進化論は捨てなければ・・・」なんて話をされました。

 また、僕の彼女(福音系教会員)の母教会の礼拝にカナダで宣教活動をしている女性伝道士の方が講演してましたが、内容は子供たちは人間の先祖はサルで、自然にできたものなんて進化論にいつの間にか洗脳されている、それは人間の尊厳を傷つける、創造論も同じように教えなくては、学校でも教えるべき、そんなような内容で、彼女は子供たちに創造論を教える活動、運動をしているそうです。

 また、彼女のクリスチャン仲間(50代くらい)の人とお話する機会があったんですが、彼も曰く「進化論は人に生きる目的を見失わせる、時代がくだるほど生物が良いものになっていくなんて信じられない(進化論はそういう話ではないと思うんですが・・)」そうです。
 彼も、そして彼女も「進化論と同様に創造論も学校で教えるべき」なんだそうです。
アメリカでそういうことを主張する人が現在勢い盛んであることは以前から知識として知ってはいました。でも、この日本で、しかも自分の身近な存在として関わりあうこととなるとは夢にも思いませんでした。

 私としては、これってどこか話しのスジが根本的に違うような気がするんですよね。私は生物学者でもなんでもないですけど、一つはっきりいえるのはあれは科学理論ですよね。別に神の有無やら人としての生き方を論じたものでも何でもない。聖書の創世記とは話の成り立ちがまるで違う話。

 本屋さんの宗教コーナーに行くと、聖書の上げ足取りの本をしばしば目にします。ネットでも、「聖書はここがおかしい、こんなことはあり得ない」なんてことを指摘したサイトがよくあります。まあ、冗談とか話のタネとしては面白いですし、私も大好きです。

 でも、それを元に、つまり現代の科学や常識の基準で聖書を断罪し、「だから、キリスト教はダメなんだ、こんな間違いだらけの本の内容は見直し、キリスト教はその価値観を考え直さなければ・・」なんて大真面目に主張する科学者がいたら、クリスチャンの方々は冒涜とかなんとか言う以前に「アホか」と思うだけでしょう。聖書は別に科学や歴史の教科書として使用されることを目的に書かれた本ではないですものね。

 進化論ぎらいの福音系クリスチャンの方はどうもこの逆パターン、つまり、信仰の基準を全く別次元の話である科学に持ち込んで、ああでもないこうでもない、なんていっているのが筋違い、というのが私の意見なんですよね。この種の人々の中には、進化論や生物学に詳しい人も中にはいて、進化論の問題点をあれこれ指摘し、生き物が神によって作られた「科学的」証拠をあれこれ並べ立てる人もいるんですが、結局のところ、その根拠は聖書にたどりつくし、進化論の問題点が分かる以外にこれといった説得力がなく、どう考えても護教的な立場で語っているだけとしか思えない。
 大体、神の存在が科学的に証明できるんだったら、宗教なんか要らないんじゃ?信仰を深めるためには聖書なんかより、ひたすら生物学、物理学を勉強しよう、という話になるんじゃないのか?ってツッコミを入れたくなってしまうのです。

 学校で教えろ、というと当人たちは大真面目でも、私にはさらにバカバカしい、というか信教、思想の自由上、大いに問題あり、としかいいようがない。彼らは進化論は仮説に過ぎない、そんなら創造論、創造科学も、といいますが、科学の世界に科学じゃないものを持ち込むのは変。思想や哲学の時間に教えるなら全然問題ないと思いますけどね。

 また、創造論はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教みたいに造物主信仰がある宗教の信者にとっては耳に心地いい話ですけど、世の中には、例えば仏教みたいに造物主の考えがない宗教だってあるわけで、そういう宗教の信徒の立場は一体どうなる?彼らからすれば、どこの神様、とは明言されていなくても、明らかにこれは特定の一神教の押し付けと映るんじゃないかなぁと思います。
 つまり、学校の「理科」の時間に創造論を教えろ、と主張する人々って、他宗教、未信者の人々の立場、気持ちに全然鈍感すぎる、と思ってしまうんですね。

 信仰にまつわるデリケートな話は彼女とはなるべくしないようにしてるんですが、これはさすがにあまりにおかしい、と思うんで、彼女に僕の意見を表明したところ、黙ってました。
 それにしても、この類の話(はっきりいってファンダメンタル)はカトリックではほとんど聞かず、プロテスタントの方に多いんでしょうね?この辺りの事情はとても興味深いです。

190Sekko:2007/07/13(金) 02:33:48
そうですね
 遠慮なく来てください。なかなか大変ですね。福音派の原理的創造論って、さすがに日本では強調されてないのかなと想像してたんですが、アメリカなんかとあまり変わらないんですね。キリスト教的文化のベースのある国ならまあそれなりに・・と理解できないではないんですが、日本のような国に生まれて育って、「神のために進化論を捨てなきゃいけない」なんて集団で思えるという自体、私には驚きです。まあ、それが宗教なんで内輪ではそれはそれでいいとして、もしほんとに子供の教育とかに押し付けられたら、嫌ですよね。まあ、アメリカの場合はイデオロギーと結びついて、お金もすごく動いて、ロビー活動とかすごいですが、日本の場合がそうは展開しないのではと思うのですごく危機感はないんですが。
 前に書いたかもしれませんが、全体として、今のカトリックと福音派系を比べますと、カトリックは、内容はすごく近代化しているのにフォームや方法論が古い、福音派は、内容はアナクロニックなんですが、伝道の仕方にメディアを用いたりマーケッティングの手法を取り入れたり、と、戦略がとても新しいのです。カトは、いわゆる古い革袋に新しい酒,福音派は、あたらしい革袋に古い酒、という感じです。そこのところを分かってないと、カトは旧教、古臭い、福音派は新しい、みたいな錯覚を起こすこともあります。

 それで、学問的や宗教的言説じゃなく、善し悪しの判断でももちろんなく、もし、私が大羊さんだったらどうするかということをお答えしますと、私だったら、彼女がそう言ってくれてるんだから、プロテスタントのルーツであるカトリックかルター派か公教会か、穏健な老舗をチェックして、地域の直接の司祭とか牧師に事情を話し、最も人柄に共感を持てて、相談に乗ってくれそうな人がいる共同体に決めます。教義がどうのこうの言っても、結局、直接接する人の人格が大きいですから。最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという思いが届かないのでは悲しいので。それに、彼女がこだわる以上、将来子供ができたり、あるいは人生で試練にあったりした時にも、広い意味でのキリスト者の共同体にいるからね、という安心感を与え、決意を見せたいと思います。その上で、私なら、少しずつ、彼女を原理主義的メンタリティから遠ざける努力をします。彼女の家族全員がそうだとかいうなら至難の業かもしれませんが、少なくとも、遠ざける姿勢を忍耐強く見せて、しかも私が彼女に納得して認めてもらえるほど福音的な誠実なキリスト者であるところを見せていけば、彼女が深みにはまったり(子供の教育のこととかで)するのを避けることができるかもしれませんし、互いに尊重しあうことが本当にキリスト教の精神なのだと分かり合えるかもしれません。


 日本では報道されてないかもしれませんが、5月3日に、ポルトガルの南のヴァカンス地で、イギリス人の医師夫婦の4歳の娘が誘拐されたまま消息を絶つという事件が起きました。二人はアイルランド系でカトリック(といっても教会に通っていなかった)なので、地元のポルトガルの教会が二人を支えるミサに招き、それが非常な支えになったそうです。司祭は夫婦が夜でも好きな時に祈るようにといって教会の鍵を渡してくれたそうです。ある夜、父親は啓示を受け、この事件をメディアに載せようと決心しました。イギリスのサッカーチームとかもみな協力するようになりました。夫婦はポルトガルの聖地ファティマに巡礼に行き、ローマにも巡礼に行きました。アイルランド系の枢機卿の口利きで教皇にすぐ面会できました。教皇は、子供を奪われた同じ状況にあるすべての親に会う用意があると言いました。そのことですごく有名になり、両親に自家用ジェット機を提供する富豪も現れました。小児性愛のために子供を誘拐する組織が裏にあるとも言われています。
 二人は、この苦しい時期、信仰にどんなに助けられ勇気づけられたかを語っています。
 それで、あるカトリックのジャーナリストが、この二人に、「もし、お子さんが結局無事に戻ってこなかったら、あなた方の信仰はどうなりますか?」と尋ねました。
 父親は「すごく揺さぶられると思う、しかし私たちを支えてくれた人々を感謝する気持ちは変わらないのだから、彼らと同じ共同体に残ることになると思う」と答えました。
 母親の答えはこうです。「それはすごくショックなことです。でも、娘が帰ってこないから神を信じなくなり信仰を失うというのなら、そもそも、娘がいなくなった時点でもう神を信じなくなってもいいはずでした。でもその反対で、私は娘がいなくなったときに神を見い出して力と希望を得たのですから、神をもう見失うことはないと思います」

 いろいろ考えさせられます。貧しい国から来たある不法移民で貧しい人がいつもひたすら教会で祈ってるので、「願いが一向に聞き届けられてないことにいつ気づくんだろう」と心配してたことがあるんですが、あるシスターから、「ああいう人たちはね、豊かになったら、神さまを失うもんなんですよ」と言われて、そんなものかと思ったことがあります。
 でも、これから結婚する人にこういうのもなんですが、人生なんて、いろいろ大変なのが基本で、完璧な幸福は夜の嵐の中の稲妻みたいなもの、ある日、夫婦で大きな試練に会わないとも限らないし、そんな時、「そうだ、二人とも同じ神さまがいるんだっけ」と思えることが何かの救いにならないとも限らないです。人間がサルから分化しようが、神に土から造られようが、幸せな時はあまり関係ないので、人がつらい時に互いに結びつけてくれ支えてくれるものがあれば心強いかもしれません。彼女がすでに信仰を持っているということは彼女には今もそれが必要だということなのでしょうから、彼女を愛する大羊さんの人生にも、きっと意味のあるものになっていくのかもしれません。今どこかの共同体を選択したからといって、それは終わりではなく、始まりなので、仕事や家庭とのバランスヤ良好感を模索しながら、一生かけて「真実」みたいなものに向かって船を漕ぎ出せばいいと思います。海は広いので、二人の航跡が違っても、星の位置を手がかりにして同じ方向に向かうことはきっとできると思います。最初から同じ船に乗って安心感から漂流するする人だってたくさんあるのですから。

と、宗教というより人生相談の答えでした。

191nao:2007/07/13(金) 17:18:27
おかえりなさい。
大羊さん、よくこのサイトにかえつてきてくださいましたね。うれしいです。Sekko先生のこの度のご提案はとてもいいですね。私はカトで夫は、なにも宗教について考えないいわゆる仏教徒でしたから、生涯信仰面での話しあいはありませんでした。もし、私が男でしたら、こんな遠慮はしなかつたことでしょう。やはり苦しいとき、同じイエスが側にいてくれるのはすばらしいことです。でも夫婦愛は充分育ちましたよ。信仰だけが夫婦を生かして
いるわけではなく、二人の愛情が結婚生活をはぐくんでゆくんですからね。もつとも信仰と二人の愛情は別ののでありながら、一つという側面もありますが。私の提案は結婚までに何かに籍をおくのがむりなら、結婚後、自由に選ばれたら、いかがかとおもいます。そうすると、彼女が強く福音派を押すかな?その可能性がおおいなら、せつこ先生のいわれるような選択のほうが、身をまもるのによさそうですね。この間アメリカのメガ・チャーチをTVでみて、信仰もビジネスになつたんだなあ・・気持ち悪かつたです。「古い皮袋に新しい酒」なら皮袋がかわつてゆく可能性のほうが反対の場合よりよさそうですね。

192迷える大羊:2007/07/14(土) 11:31:58
弱りました
 SEKKOさん、naoさん

 いつもレスありがとうございます。こういう宗教問題って誰にも相談する相手がいないんですよね。キリスト教の事情を知っている友人、知人なんていやしないし、親はキリスト教に関しては好イメージを持ってはいますが、なんとなくいいんじゃない、って程度でキリスト教にもいろいろあるなんてことはてんで理解していません。牧師と神父の区別もつかないくらいですから、とても相談の対象には・・・。

>最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという

 確かに私もそう思いもしますし、SEKKOさんの御提案は現実的と思いますし、実際に実行に移してみるつもりではあります。カトリック、ルーテルなどの「大手老舗」なら確かにあまり素っ頓狂なことは言い出さないし、まあ、安心でしょうし、一応は同じキリスト教なわけで、なんとか理解と安堵を得られたらいいな、とも思うし。

 ただ、私の方でそれ以前にキリスト教的メンタリティが本当に自分のものになるのか、わかっているのかどうかは疑問ですし(知識はいろいろ増えましたが)、こんな理由、つまり、本当に自分自身が神の必要を感じて、というのではなく、とりあえず配偶者を安心させたい、納得させたいみたいな理由で出入りしていいんだろうか?とも思います。

 前述したように、キリスト教の歴史だとか、教義などの知識は増えましたけど、それが一体、自分の心の問題、人生の問題にどう関わってくるのか、イマイチ実感としてわからなかったりします。こちらで散々書き散らしたように、100%神、100%人ってどういうことよ?とか、賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらないし、「おまえ、罪人」というのも趣旨は理解できるんですが、あまりに罪罪いわれると、イライラしてきたりで躓きだらけですし。

 つまり、今のところ、私にとってキリスト教は勉強や教養の対象としては面白いんですが、自分自身の心の癒しになっているか?というと、今のところ?で、むしろ、彼女のことなどを含め、悩みの対象となっているのが正直な実感でして・・。こんな心境で来られても、牧師さん、神父さんはむしろ迷惑なんじゃないかなぁ、とも思ったりします。本当にこまったなぁ、どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?とすら思ってしまいます。本当に弱りました。

193nao:2007/07/14(土) 16:22:10
今は静観ですね。
いやあ〜わが子にそういわれると、どうしようかなあ〜。と考えてしまいましたよ。今は宗教を外から眺めていたほうがいいんじゃないですか?配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。いくら配偶者といつても人の内面にはカツテに入れませんからね。夫と連れそつて、半世紀。でも宗教は別。それでもうまくゆきました。相手がそれを受け入れないときはそもそも、結婚そのものが無理ですから。お二人が愛しあつておられるんなら、「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう。あまりやさしく、相手を思いやるのも、あとで、後悔することになるんで、はつきりいえば、あつさり「そうね」と応じてくださるんじゃないでしょうか?むつかしいかな〜。

194Sekko:2007/07/14(土) 17:11:19
それなら・・・
 発想を変えてみましょう。ここまでは、大体において「キリスト教理解」という観点からお答えしてきましたが、純然たる人生相談として答えてみます。

>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?

とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
 たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
 つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
 誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
 これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
 カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
 宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
 私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?

 後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。

195Sekko:2007/07/14(土) 17:17:10
訂正と・・・
下の「説教的な布教をもとめられて・・」は「積極的な布教」の打ち間違いでした。訂正します。
 しかし今ちらと考えたんですが、般若心経なら、すぐには意味がわからない呪文みたいなもので、「賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらない」という弊害はないですね。

196Sekko:2007/07/14(土) 17:30:42
続き
書き終わってないのに勝手に投稿されました・・・続きです。
私の思ったのは、こんな時、一昔前みたいに、ローマ系キリスト教の典礼がみんなラテン語とかだったら、かえって抵抗なく楽だったもしれないなあ、ということです。般若心経を口語訳して唱えろなんて誰も言わないし、言霊がなくなって効果がないような気さえします。カトはその国に根付くようにその国の文化にあわせたやり方をという方針があり、日本でも、ほんとうに日本的なキリスト教とは、みたいな模索もありますけれど、安土桃山とか江戸時代は農民だって「オラショ(祈祷)」をずらずらとラテン語で唱えてて、殉教するくらいに強い自分の信仰にしていたんですからね・・・
今は、ラテン語ミサとかいうと即原理主義とか懐古主義とか思われがちですが、こういう効用もあるなあ、と思いました。私も、日本語のカタカナの世界の賛美歌や祈りの言葉使いは、何か違和感があって、恥ずかしいというより、テーマパークにいるような気がします。テーマパークも隙なんで嫌じゃないですけど・・・とおしゃべりになってしまいました。

197迷える大羊:2007/07/15(日) 03:03:37
よくおわかりで・・
 SEKKOさん、こういう相談に乗りなれているのでしょうか?そうなんです。まさに彼女はキリスト依存症、イエス依存症です。クリスチャンだからどうこう、というのとはまた別の話かもしれません。
 この辺りの事情や相談、愚痴ももっとこぼしてみたいのですが、何しろ、ここは公のBBSなんで、教会関係者を含めたプライバシーをどこまで書けるか、という問題もあって書けないのが残念です。

>配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。

 それでなかなか満足してくれないのが、福音系の世界なんですよね〜。彼らにはノンクリスチャンの配偶者を持つことが試練と映るらしく、福音系出版社のI社より「クリスチャンでない**を持つ**へ」なんて本が出版されてます。とにかく、なんとかして配偶者を「導こう」「救おう」とするんですよね。しかし、キリスト教国ならともかく、この日本でクリスチャン同士の結婚にこだわったっておのずと限界があろうかと思うのですが。
 にも関わらず、私はクリスチャンじゃないと結婚しません、なんていう女性が多い、というかそれが多数派ですね、福音系の教会では。私の彼女なんかは、まだ大分マシな方です。

 SEKKOさんも指摘しておりましたが、福音系の教会っておしゃれな若者比率は高いし、ゴスペルで盛り上がったりして、全体的なムードとしては垢抜けたところが多いのに、その信仰内容はなんでまた、こう保守的というかガチガチなのか、そのギャップがすごいです。

>「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう

 まあ、大丈夫でした。少々苦労はしましたが。前にも書きましたけど、時間はいくらかかってもいい、教派や教会は私の望むところでよい、というところまで妥協しております。
 がんばります。また、御相手下さい。ただ、さっきも申し上げたとおり、ここは公のBBSなんで、プライバシーに深い部分はあまり微にわたり、細にわたりなことが書けない、という限界はありますけどね。ありがとうございます。

198Sekko:2007/07/15(日) 05:00:24
もし困ったら・・
 そうですね、何かのご縁なので、これから先、もしとても困って、だれも相談相手がいないという時は、このサイトの著作紹介の読者の感想コーナーのフォームから、個人メールでお送りになってもけっこうですよ。いっしょに考えましょう。答えが見つかるとは限りませんが、ここにいらっしゃった限り、大羊さんはもうたった一人で悩む必要はないですよ。分け合いましょう。

199vino:2007/07/24(火) 18:23:23
まずはYMCAなんてどうでしょう?
始めまして。福音派や原理主義で検索していましたら、こちらにたどり着きました。とても勉強になります。私はプロ〜の日本基督教団の信徒ですが、夫の転勤に伴い、海外暮らし、今は超教派の教会に通う身、大羊さんの心中、お察しいたします。同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです。(一人、一人はとても良い人であっても)正直、F派の考えには面食らう事が多いですが、婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)YMCAはいかがでしょうか?環境や平和、人権を学びつつ、ボーイ・スカウトの活動拠点も兼ねていたりと、間口は広く、敷居は行きも帰りも低く、さまざまな<老舗大手>のクリスチャンと交流できますし・・・。どんなボランティア団体も宗教団体も所詮、人間の手で動く所、完璧な人間はどこにもおりません。私は信仰というものは形が違って、表現の仕方が違うだけで、イスラム教を悪だの、仏教、神道を偶像だのとは思いません。こういうことを言うと、<だから、K団はわかっちゃいない>とつっこまれそうですが・・・。

200nao:2007/07/25(水) 16:24:10
いいですね。
成程!YMCAからというのはいいですね。思い浮かびませんでした。迷つているかたに教えてあげることにしましょう。vinoさま。ありがとうございます。

201迷える大羊:2007/07/25(水) 22:37:54
はじめまして
 VINOさん初めまして。

>同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです

 戦時中にプロテスタント各教派を強引に統合した教団だから、そうなっちゃうんでしょうね。ネットで見る限りD大神学部出身の牧師さんってかなりリベラルな方が多いように思いますが・・・。

>正直、F派の考えには面食う

 おお、わかっていただけましたか、私の戸惑いを。何しろ、日本でキリスト教は信徒が1%しかいないマイナーな世界である上、その中でもさらにいろいろあるなんて、一般人にはほとんど知られてないものですから、私の抱える宗教問題を他人に説明するのがちょっと面倒で困っちゃいます。

>婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)

 いや、あまり詳しくは書けないんですが、そこに至るまではいろいろあったんですよ。それに、彼女のところはF派といっても、一部のペンテコステ系の教会のようなキツめなところではないですから。とはいうものの、リベラル系の教会、カトリックには冷淡な傾向があるところは、やっぱりF派です。

>YMCAはいかがでしょうか?

 昔の西城秀樹のヒット曲を思い出します、ってすみません、下らないギャグをいってしまって(笑)。名前は聞いたことありますが、どういう組織なのかは実のところよく知りません。今度、調べてみますね。

 まあ、「大手老舗」の教会にしよう、といっても、ネットではともかく、リアル世界では深く話をする知人、友人の類はおらず、礼拝、ミサに思い出したころに参加し、何人かの牧師、神父さんと話したことがある程度ですからね。もう少し、様々なクリスチャンと交流してみる必要があることは確かだし、そういう機会がYMCAで得られるのであればいいですね。

>仏教、神道を偶像だのとは思いません。

 福音系出版社のI社より刊行されている本に日本の習慣とキリスト教信仰との絡みについて考える本があります(正確な題名は忘れましたが)。そこには、〜は偶像崇拝、他の神々への崇拝だから×、〜は差し支えない、なんてことが事細かに書いてあるんですね。いやぁ、よく調べたなぁ、なるほど、そうなのか、と思う一方で、盆暮れの度に、葬儀の度に、祭りの度にこんなこと気にしながら過ごすのかよ、やってらんないぜ、と思ったものです。

 そういう意見(もちろん表現はもっとマイルドですよ)を彼女の母教会の牧師さんにいってみたところ、「それは、あなたに信仰がないから」と言われました。「そういう問題かなぁ?」とずっと思っていましたが、VINOさんのようなプロテスタント信徒だっていらっしゃるし、教会だってあるんですね。
 やっぱり、私には、どこか一人よがりな感じがして合わないですね、F派は・・。

 また、機会がありましたら、いろいろお教え下さいませ。

202vino:2007/07/26(木) 13:39:33
邪道でしょうか・・・・?
正直に申し上げますと、恥ずかしながらこの地に暮らすまで、F派のことはまったく知らなかったのです。中学・高校とプロ〜の環境で過ごし、英語を習う時もYMCAやYWCAに通い、(授業料が安いのです)求道中もYWで過ごし、<老舗大手>の方々とは出会いがあったのですが・・・。今、思うとF派の方たちは我が道のみを思いっきりイッテルので、判っちゃいない<大手>の人間とは交流する気もないのではないかと・・・。  今の教会は今までどこの団体でも感じたことのない独特のノリでして、この熱さ、真面目さ、純粋さは何!?って感じで違和感を抱きつつ、数年が過ぎました。K団の友人に聞いたところ、F派の名前が出て来まして、PCで自分なりに調べ、D大の小原先生のブログや本も読んでみました。 今の時代、<大手>は信者を増やす事よりも個人の心の中で信仰を深めることに重きを置いているように思えるのです。キリ〜を基盤に平和、人権、環境に取り組み、他の宗教とも連動して会議の場も持っていますしね。 私の知る限りですが、K団の牧師は神式、仏式のご葬儀にも出席していますよ。奥さんだけ信徒・・という方がほとんどを占める日本のこの業界(まぁ、罰当たりな言い方だわ〜)、そのご家族のご葬儀には出席なさっていますよ。 信徒も家にお仏壇、平気で置いてある方、多いです。 子供がいれば、お祭りや盆踊りにも行きたがりますし、そんなときは親はお掃除やお茶のお当番も致しますよ。神様は日本人の事情は判って下さいます。最近、思うのですが、こちらのコーナーに以前、あったように、F派の皆さんはジーザスのフーリガン・・・な感じを受けます。<大手>の人間はイエス様を通しての神・・なわけですよ。  救われる・・とか、それこそ、ボーン・アゲインとか聞くとこの頃では心の中で笑う余裕もできてきました。(あっ、言っちゃった!!)  もう、5年ほど前になるでしょうか、<世界がひとつの村だったら・・・>がブームになりましたよね。私はそれで良い・・・と思いますよ。節子さんのご本の前書きにもフランスの神父さまが、日本人を総クリスチャン化しようだなんて思ってはいない・・・の文章があり、ちょっと嬉しくなった私です。これって、F派の方には信じられないことなんでしょうね。地獄に落ちるのかしら・・・?時々、参りますね、どうぞ、よろしく。

203迷える大羊:2007/07/27(金) 00:09:32
YMCA
 実際に足を伸ばしてはいませんが、ネットでは調べてみました、YMCA。「Young Men’s Chiristian Associasion」の略で「キリスト教青年会」といった感じなんでしょうか。活動内容を見ると、ユースホステルだとかボランティア、語学と多岐に渡り、確かにいろいろと充実していそうですね。YWCAというのもあって、こちらはMen’sがWomen’sになっているわけで、男女別々なんですね、意外とお堅いです(笑)。YMCAの日本支部は四谷に本拠がありますね。

 ところで、私としては、YMCAでどうしても思い出してしまうのは、西城秀樹の往年の大ヒット曲「ヤングマン(YMCA)」なんですけど、原曲はアメリカのディスコミュージックグループ「ヴィレッジ・ピープル」の曲。で、このヴィレッジ・ピープルってグループってルックスを見ると一目瞭然なんですが、まあ、なんていったらいいのか、ゲイのイメージ(私生活でもそうなのかは不明)で売っているグループ。それがまた、なんで「YMCA」なのか?というと全米各地にあるYMCAの宿泊施設には、団体の性質上、また、宿泊費が安いことから若い男(YOUNGMEN)が大勢やってくるわけです。そういう場所をいかにも(ゲイ)、という面々が「最高だ、素晴らしい」なんていっているのが、あの曲なわけで、ほとんど冗談みたいな曲らしいんですね、元の曲は(それでも全米2位の大ヒット)。

 それが日本にやってきて、西城秀樹氏の手にかかると、健全きわまりない青春謳歌ソングになってしまったのだから恐ろしい、というかなんというか。能天気に「わ〜いえむしーえー」なんて振り付け付で歌っていた私って一体?高校野球の行進曲にまでなっちゃったぞ、どうしよう、てな感じです。大ヒットから20数年以上たってやっと気がつきました・・。洋楽ファンの間では常識だったみたいですが。
 ちなみにあの「わ〜いえむしーえー」の人文字パフォーマンスは西城秀樹氏オリジナルだそうで、本家の方に逆輸入され、世界に広まったらしいです。

 くだらない話、すみません。思わず笑ってしまったもので、つい。

204迷える大羊:2007/07/28(土) 02:56:09
今更ながらパワー・フォー・リビング
 今年初め、謎めいたCMをテレビ、雑誌に大々的にうち、その広告主の非公開、秘密主義何かと物議をかもしたデモス財団の「POWER FOR LIVING」。週刊誌では、アメリカの宗教右派とのつながりが取りざたされたり、カルト疑惑も招いた財団、本です。その「POWER FOR LIVING」を彼女(くどいようですが、F系クリスチャン)の集会(といってもジャズコンサート)に付き合いで見た帰りに、配布していたし、彼女が勧めるのでもらってきました。

 さぞかし、F派な内容か?と構えてみましたが、普通のキリスト教エッセイ、入門本でした。文章もわかりやすいものだと思います。まあ、最後はイエス様がいるから安心よ的な内容で・・。
 ただ、巻末の「推薦」図書を見ると、ああ、これはF派の出版物なんだなぁ、と改めて認識させられました。

 というのはそこでの「推薦」される聖書は「新改訳」聖書、「リビングバイブル」。「文法的に正確であり、多くのクリスチャンに読まれてきました」とありますが、「多くの方に読まれてきた」ということならずっと部数の多い「新共同訳」も紹介すればよさそうなものですが、そっくり抜かしてます。別に気にしなければ良いといえばよいのかもしれませんが、これはやはりキリスト教、それも特定の立場から書かれた本で、その辺をぼかして、あんな大々的なCMを打つのはどうだろうな〜、って気がしますね・・。

205vino:2007/07/30(月) 12:28:58
カルピスか糠漬けか!?
前回、少々、悪口に走ってしまったので、今日は反省を含めて、<上手に距離を保ち、皆さんとお付き合いする方法>を私なりに考えてみました。 その成り立ち、戦時中のお上に屈した経緯などから<大手>は学校を多く運営していますよね。授業・単位に宗教の時間が決められていて、朝の礼拝も毎日持たれるところがほとんどだと思います。そんな環境の中ですと、信仰を持つ事に対して抵抗感はなくなると思います。学校ですから、強制的な宣教・・・という感じではなく、歴史や理論も教えますし、それこそ、Y〜っぽい感じで平和、環境などを大切に考えるようになるというか・・・。生徒も無意識に噛み砕いて消化・吸収し、いつしか、骨や血になっていくプロセスを取り、大人になった時ふと、気づいて、教会へ通い始め、なんとなく、クリ〜になっていたような・・・。(私もそうですが)<殊更>ではないタイプが<大手>には多いですね。  それこそ、家族がクリ〜の方なんぞは<ボン・クリ>って自虐的におっしゃいますしね。 神様との関係もそれこそ、中年夫婦の関係のようで空気・・・のようになっていると言うか、日々、普通にあるほうじ茶や糠漬けと同じ、ベタな愛情にも似た感覚・・・と言うか。それこそ、<あってあるもの>なのですが・・・。   対してF派の場合、初恋につっぱっしっている少女のノリ・・・を感じます。いつも、360度全方位から大好きな人を見つめ、彼好みの女の子になろうと必死に努力を重ね、周りの人に彼の魅力を熱く語り、自分と同じ意見を期待し・・・。恋愛中毒なるものもありますし、SEKKOさんもアディクトという言葉を用いてましたね。 中年夫婦の糠漬けか、初恋少女のカルピスか、どちらも<乳酸>の働きですが、<大手>は超高齢社会、F派には若者が多く集うのも判る気がします。  白黒はっきりつけ、善悪を決めたがるのは、若者の特徴ですものね。  <大手>は司祭や牧師の説教も日常の生活に引き寄せて受け手が自分なりに噛み砕いて解釈する部分も多いと思います。F派はストレートの一本道とでも申しましょうか?  <国家の品格>に自由に考え、自分で選ぶ事はじつは大変な労力を要し、それに疲れると、決められたことに乗っかるほうが楽なことに気づく・・・というような事が書いてありました。若者たち、疲れているのですね? やっぱり、悪口かしら?

206nao:2007/07/30(月) 19:26:12
はじめカルピスあとぬかずけ
私はカトリツクですが、最初は初恋でしたね。でもどういうわけか、宣教はいつさいしませんでした。私の恋したイエスは他のひとには説明できない、とおもつていましたから、言葉になるまで、沈黙していました。中年になつて、ぬかずけ、になつてきたころから、言葉が体から、出だした(たいした言葉にはならなかつたにしても)と思います。大手は別に高齢化してばかりじゃありませんよ。うちの教会には若いひとも子どもも沢山いますよ。神戸中央教会なんて、外人が半分を占めています。神父の高齢化はたしか。この皮袋はなんとかかわつてゆくでしょう。長年きたえられてきた大手のなかの信徒のこころはやはりはじめは初恋ですが、こりかたまつてはゆきませんね。大羊さんも初恋は必ずさめて、ぬかずけになる可能性ありと考えられたところに身をおいてほしいとおもつた次第です。VINOさまのお話、いつも楽しみにしております。

207迷える大羊:2007/07/31(火) 00:30:18
カルピスもぬかづけも・・
>前回、少々、悪口に走ってしまったので

 その辺りは私も反省してますね。でも、信仰にまつわるストレス解消ってこういうところでしか、できないのもまた一つの現実ですものね。お気持ちはお察しします。

 公平を期すために言っておきますと、F派だっていいところはありますよ。なんといっても相談事とか信仰にまつわる議論なんかは、なんだかんだいってもF派の関係者の方が真面目に対応してくれること多いです(私の狭い経験で見る限りですが)。全部が全部そうだってわけではもちろんないですけど、(大手)は時々、やる気あんのかなぁ〜?的な対応のところも結構あるんで・・。もう、本当に昔なじみのお得意さんだけ相手にして気楽にやってりゃいいや〜みたいな・・。
 営業努力は明らかにFな人々の方が上です。もっとも、あの独特の熱さ、あまりの純粋さがその長所を帳消しにしてしまうくらい、私を引かせてしまうのですが・・。

>神様との関係もそれこそ、中年夫婦の関係のようで空気・・・のようになっていると言うか、日々、普通にあるほうじ茶や糠漬けと同じ、ベタな愛情にも似た感覚・・・と言うか

 F派の場合、伝統的教会に比べると歴史が浅いところが多く、今は青年期で熱く、燃えていますが、あと数十年もして、今の若い信徒たちが老年になるころには良くも悪くも意外と角がとれて、幅が広くなるかも、と想像しますが。それとも逆にさらに頑固になってしまうか?どうなんでしょうね?大体、プロテスタントの成り立ち自体、一種の信仰復興運動で、今のF派っぽいところがあったんじゃないか?と個人的に思ったりしますし。

 でも、今、手元に「日本における福音派の歴史」(いのちのことば社刊)がありますが、それによれば、カリスマ派、ペンテコステ系とそうでないところでは分裂やら対立やらがあるようですし、「聖書は誤りなき神の御言葉」とする教義もどこまでが「誤りなき」なのか、などでいろいろ論争があるみたいで、そう単純でもないようですね。

>うちの教会には若いひとも子どもも沢山いますよ。

 そういえば、カトリック教会って子供が多いなぁ、という印象があります。幼児洗礼があって、「お家の宗教」って感じの人が多いのかな?

>外人が半分を占めています。

 このユニバーサルなところがカトリックの長所ですね。sekko先生がおっしゃるとおり神父の高齢化問題も外国人神父の「調達」でなんとかなりそうな気もします。ところでnaoさんって関西の方だったんですね?

>初恋は必ずさめて、ぬかずけになる可能性ありと考えられたところに身をおいてほしいとおもつた

 宗教、信仰は細く、長〜くが一番健全で賢い付き合い方だな、と思ったことはありますね。適度に距離を置いた、大人の付き合いというか、なんといいますか。

 ところで、ここ最近の私は本当にスピリチュアルな日々です。金曜日は東京のF派教会のイベントに彼女の付き合いで行き、また、あるときは会社近くのカトリック教会の聖書講座
に参加し、先日は、別のキリスト教サイトで知人となった仏教(曹洞宗)の僧侶見習いの方に東方正教会の信徒の方が加わって、一緒にお食事、散歩なんかをしてたりして・・。

 もう、イエス様もマリア様もお釈迦様もニコライさんもみんなドーンと来いや〜って感じです。

208Sekko:2007/07/31(火) 08:32:29
いいですね
 なんかもりあがってますね。スピリチュアルな日々、いいですね。スピリチュアルと言っても変な前世がなんとかにはまってるよりは、各種伝統宗教の方が教養はつきますし・・・
 こっちの哲学雑誌で男脳女脳の話を読んだら、男は集団への忠誠心か群のリーダーへの帰依が強く、女は個人への思い入れが強いとありました。男は集団で狩とかしたからで、女は自分の子供に愛情をそそぐからだそうです。
 だから女の方がイエスに夢中、状態になるのかなあ、とも思いました。でも集団への帰属意識より、イエス個人に惹かれてるのなら、集団や集団の生きた教祖とかに盲従してるよりも融通がきくかもしれないですね。まあ、男の聖人でもマリア命、みたいな人もいますが・・
 ちなみに私はカルピスでも糠漬けでもないですね。ミッションスクール文化とは縁がなかったし、福音書のイエスはすぐに好感が持てましたが、なんか気の毒で・・同情の方が大きかったです。
 でも、今、無神論について研究していて、啓蒙時代以降のキリスト教無神論者たちの言い分を聞けば聞くほど、私にはストア派の哲学者たちが結局キリスト教に傾いていった心情が分かるような気がして、哲学が信仰になる機微を追体験しているところです。それはやっぱり、「今ここで」の世界の中で、超越というものをどうとらえるかということで、イエスを神であり人であると言ったキリスト教の強引さがもたらした「救い」というのはすごかったと思います。
 でも、戦争や疫病のない国で「今ここで」を生きている若くて力ある人々にとっては、「救い?なにそれ?」となる方が普通で、それでもいいと思います。でも、「今ここ」が閉塞したり、力を失ったりすることも人生では必ず起きるので、そんな時に救いのレトリックを知っておくことは有効ですね。
知識がブレイクスルーして生きる支えになってくれる時って、あるんですよ。人生は長い長い回心の道で、いつか超越の方から来る光に照らされることを期待してそっちの方に顔を向けておくのを忘れないようにしたいと思います。

209:2007/08/02(木) 00:38:59
パリのマリア三つ巴
 やっと日本語が書けるようになりました。
 ところで、最近ある方から「赤いスカプラリオ」というのを頂きました。一緒にもらった由来書によれば、1849ねんにパリの愛徳姉妹会のApollineAndriveauという修道女が受けたイエズス(イエス)の啓示にもとずく信心具だそうです。
 さらに、驚いたことに「緑色のスカプラリオ」というのもあって、こっちは、1939年にJustineBiqueyburu修道女(パリ愛徳姉妹会)に出現した聖母に命じられて製作したのが始まり。
 パリの愛徳姉妹会といえば、あの「不思議のメダル(奇跡のメダイ)」の修道会ですよね。あの御出現が1830年だから、約20年の間に3人のシスターが啓示を受け、3種類の信心グッツを世間に発信していたことになります。
 その間愛徳会は救貧活動に従事していて、「霊能巫女集団」みたいにならなかった自己管理力もすごいけれど、シスター達の啓示を握り潰さない個性尊重主義みたいなところにも感心します。
それにしてもリュ・ドゥ・バックではメダルしか売ってませんよね。なんでだろ?

210Sekko:2007/08/02(木) 06:13:17
よかったですね!
 日本語環境できてよかったですね。
Scapulaire rouge のことですね。Scapulaire vertの方が有名かと思います。1840年ですね。私の思い違いでなければ、聖母はその使い方を教え、その中に、最初に使う前に祝別されなければならないという話だったと思います。
 それで、祝別したものは売ることができませんから、おのずと、いわゆる売店には出ないのだと思います。祝別前のものを買って、後で司祭に祝別してもらえばいいわけですが、すでにアクセスが簡単な不思議のメダイがあるので、大量販売用としては淘汰されたのでしょうね。カルメル山のスカプラリオとか有名ですが、それも信心会のメンバーの徽章みたいな使われ方なので、不特定多数の人に売られる不思議のメダイのような広がり方はしなかったんでしょうね、
 逆にいうと、不思議のメダイがあまりに成功したんで、柳の下に2匹目のドジョウ・・じゃなかった、次は内輪用というか、もうちょっとハードルの高いグッズを開発したのかもしれません。マリアもいろいろ考えますね。
 確かに、愛徳姉妹会のプラグラマティクでエネルギッシュな活動と、相次ぐ御出現は一見ミスマッチですが、1830年からの20年って2度の革命が起こった激動期で、特にパリは大変な時期だったので、そんなところで社会活動をした愛徳姉妹会には、アドレナリンを促すようなイヴェントが必要だったのかなあ、とも思います。

211nao:2007/08/02(木) 16:39:38
これつていいですね。
>もう、イエス様もマリア様もお釈迦様もニコライさんもみんなドーンと来いや〜って感じです
 仏教の研究つて、とてもいいですね。私も随分やりました。キリスト教理解に大いにやくだちましたよ。改心の言語化は仏教のほうがすぐれていますね。

212vino:2007/08/02(木) 18:56:54
関西のノリ
nao様、関西の方らしい懐の深さを感じます。私も関西には長く居りまして(私の個人的な環境などは一部、フィクションで通させて頂きますね。)何と言うか、<まぁ、ええやん、ボチボチで。所詮、人間なんやから・・・>なノリはキリ〜の教えに通ずるものを感じます。 我が息子たちは関西系のノリでして、末の小学生なんぞは「ここの人達、日本の教会の人より濃くて熱い」などと申します。 若かりし頃、ヨーロッパに住んでおりまして、日本の学校で長く教えられたというシスターに聖書クラスを開いていただいていました。彼らは仏教や神道のお勉強もとても熱心で、私達・日本人へのリップ・サービスもあるでしょうが、「やはり、これも真実。」と仰います。  私は最近では香取慎吾くんの<西遊記>を観ても<同じだわ>と思ってしまいます。  カト〜は女心を揺らす環境ですね。ロザリオとか、横文字の名前、百合の花、ベール・・・。非クリ〜の我が夫なんぞは女性がクリ〜に多い理由には洋風なものへの憧れにもあるのでは・・・と申します。  大羊さま、この機会に良くお勉強なさってくださいね。私が痛切に思いますのは、F派とK団の組み合わせはちょっとツライでしょうという事ですね。外から見るとK団は権威的に映るそうですし、おかしな言い方ですが、右と左・・・の反応ですよね。ダン・ブラウンへの理解の仕方なんておもしろいくらい逆ですもの。アマースト大出身のダン・ブラウン、同じアマースト出身の同士と共にD大を創設したのが新島譲ですものね。この溝はなんとも表現できません。

213:2007/08/02(木) 22:05:05
臓器信仰?
 漢字変換ってこんなに面倒だったんですね。ローマ字に戻りたくなってしまう・・・でも、日本ではみなさん普通にやってることだし、はやく慣れようっと。
 スカプラリオ自体がもともと修道服の一部を小さくしたものだから、会員特典みたいな側面があるのは納得出来ます。
 絵柄なんですが、それぞれ3つとも心臓が描かれていますね。パーレル・モニアルの聖マルグリート・マリ・アラコクもそうですが、こういう心臓を信仰の対象にすることってフランスの女性に由来するものが多い気がします。
 でもなんで心臓?しかも図案化されたハートじゃなくてモロ臓器。はやくから解剖学が盛んだったとか。でもなんで女性???
 儒教思想の根強い日本みたいな国では、この手の臓器崇拝ってどんな風に受け止められるんでしょうね。(生殖器崇拝なら聞いたことあるけど)
 謎だらけのフランス臓物信仰にワクワクしている私です。大きい声で言うのはちょっと憚られる気がしますが。

214nao:2007/08/04(土) 09:42:38
ありがとうございます。
VINOさまから、関西人の懐・・をお褒め?頂き、うれしかつたです。関西に生まれ育ち、関東とは絶えず接点はあつたものの、仕事と身内を訪れるくらいでしたので、私は狭いところで生涯をおわることになりそうです。だから、関西人の特性に無意識になりがちです。はじめて仕事をはじめたころ(もう40年も前でしが)「関西、とくに大阪では、実積があがつて、なんぼのもの」とよくいわれました。大阪の人間は「できる、できない」に焦点をあてるから、地位、名誉なんて、なんにもならないんだ、ともきいていました。それが信仰とどう関係するのか、わかりませんが、「心にぴつたりこないことは自分のものじゃない」とおもつてきました。カトだからといつても、さつぱりわからんこともある、そいじゃ、仏教もやつてみようか・・というわけでそれが自然でした。でもカトには最後までとどまつたわけですから、不思議というほかないですね。
 私はカト、ミツションの出身ですから、体にしみついたのかもしれませんね。教育とは恐ろしいものです。ロザリオ、ベールなど、やはり美しいイメージでしたね。メダイ、スカプラリオなど、いつも身につけている高校時代の友達もいましたので、自然にそのような信心もそだちました。
 神戸に近いところで仕事を20年あまりしました。友達は阪神間がおおいです。でも私の住まいはそこから2時間あまりはなれています。関西はまつたく、イメージの異なる京都、神戸、大阪、奈良が通える距離にあり、その点、関東よりめぐまれています。

http:// 

215nao:2007/08/04(土) 09:52:14
続き
自然に投稿になつてしまいました。VINOさま、また関西人の特性など、お考えになられたことをお話くださいませ。とても参考になります。
 大羊さま、たしかにFとKは対極みたいですね。悩み深いですね!!このサイトを見ている、複数のかたから、「大羊さんて、なんて素敵な男性なんだろう」といつているのをききました。みなさん、注目していますよ。自分の信仰に無意識だつた面が、意識にのぼつてきて、生き方を修正する大きな力になつております。感謝で一杯です。

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216迷える大羊:2007/08/04(土) 18:48:07
F派とK団、カトリックなどなど
>私が痛切に思いますのは、F派とK団の組み合わせはちょっとツライでしょうという事ですね

 F派とK団以上につらいのがF派とカトリックですね。F派系出版社のいのちのことば社から出ている高校生向けキリスト教入門本「キリスト教なんでもQ&A」(HI−BA著)にこんな一節が・・・。

「Q19.カトリック信者でも救われますか?」です。内容はカトリック教徒のキリスト信仰、社会的貢献は認めつつも、予想がつくかと思いますが、聖人、マリア信仰、煉獄など、聖書にない教義が批判の対象に上っています。

 さらにこれはまずい、というか余計なお世話では?と思える1節に「(カトリック信徒には)あなたは救われていますか?とかあなたは今死んだら天国に入れるという確信がありますか?と質問し、聖書を開いて救いの道を示してあげたらよい、と思います」とか「個人として福音的信仰を持ちながら、なおそのような教えを持つ(聖書から逸脱した教義ですね)教会の一員として主に仕えること生きることに矛盾はないのか?」なんてのがあります。

 うーん、ちょっとこれはなぁ、何も入門本でこんなこと話題にせんでも、と思わされましたね・・。
 ちなみにHI-BAってなんなのか? というと「HIGH-SCHOOL BORNAGAINERS」の略(出ましたね、ボーンアゲイン)で高校生対象の伝道グループだそうです。
 カトリック信者の皆が皆、教会の言うことを100%真に受けているとは限らないように、F派信徒のすべてがこれら真に受けているわけではないにしても、F派教会の大ざっぱな思考様式を理解する上で、この本は格好の教科書かもしれません。

>数のかたから、「大羊さんて、なんて素敵な男性なんだろう」といつているのをききました。みなさん、注目しています

 いやぁ、実物は単なるオヤジ年代も近いサラリーマンに過ぎません(笑)。まあ、リアルワールドで面と向かってストレスを、表現に注意しつつ、書き散らしてストレス解消しているだけなんです。ネット外では彼女と以外、宗教、信仰の話などしません。

 ちなみに、私が教会にちょくちょく行っていることを知らない会社の同僚に、冗談めかして「俺、教会に行ってんだ」と行ったら、「おまえが?教会?ミサ?、似合わねぇ」と大笑いされました。いつも、品のないジョークを言い、お世辞にもファッショナブルとはいえない私は、日本におけるクリスチャン(なぜか品行方正でハイソな、ある意味ハタ迷惑なイメージがある・・)のステレオタイプに合わないらしいです・・・。

217vino:2007/08/08(水) 17:03:50
難儀ですね・・・・。
大羊様、本当にいろいろとお勉強なさってますね。知識の点では私なんぞより、遥かに勝っている・・・と思われるだけに本当にご苦労が多いですね。私も今のこの環境には苦しいものを感じますが、今まで全く、交流の無かったFの方々(個人的には良い人達です)と知り合えたこともこれもお勉強と思い、このコーナーで皆さんとお話できるご縁も感謝しています。普通に自分の教派だけにいたらFとKなんて出会いませんもの。(ご縁・・・という言葉もFの方々は使わないことでしょう。)  マリア様、ダメ・・・みたいですものね。8月15日は聖母マリア被昇天の日・・・と話したところ、イエス様の昇天と同じ意味・・・と知ってびっくりされた方もいらしたくらいです。 日本人には仏教の菩薩信仰と重なるようで、マリア様への崇拝は判り易い・・・と考えるのはABOUTなK団の考えなのだと自分を納得させました。 私のKの知り合いはお子さんの幼稚園は別にこだわりも無く、カト〜だったという人いますよ。家から近いとか、車の運転ができないとかの理由です。職場はカト〜の学校なんて人、いくらでもいますし。FだけGOING MY WAYですね、やっぱり。  塩野七海さんのエッセイでマリアに抱かれて永遠の眠りにつくイエスの絵画や彫刻は数多いが、マリア様のほうが若く表現されている事が多い・・という文章があり、わたしにはとても印象的に感じます。若く美しい、優しい母のもとで永遠の眠りにつく・・・これは世の男性の究極の望みだと彼女は言うのですが、息子を持つ母としてはあってはならない事ですが、そう思ってくれていたら嬉しいような、でも私は唯のおかんですしね。人間が制度や組織や教義を定めたところで絶対に超えられない本能や業・・のようなものってやはりあると思うのです。こんなことを言うと、それはボーン・アゲインしていないからだ・・・の答えが返って来る事でしょう。   8月は戦争に絡み、行事も多い月ですね。お盆もあって、命や平和の大切さを考える良い機会です。比叡山では宗教を超えた会議も開かれました。このあたりをきっかけにお二人で歩み寄れると良いですね。

218Sekko:2007/08/09(木) 18:43:10
マリアさまって・・
カトのその道では偉い方に聞いたんですが、マリアさまって、不細工だったんですって。15でイエスを生んだとして、ピエタの時は40代後半、昔の人って、ふけてた感じがするので、普通のおばさんだったかもしれません。そのマリアが、被昇天する時は輝くように美しくなり、御出現する時も美しかったそうです。その方によると、臨終の秘跡を受けらた病人はすうっと美形になるんだそうです。でも、すぐに亡くならないとまた元に戻るそうで、その効果は24時間くらいだとか・・・すみませんつまらない話で。べつに意味はありません、でもこういう話ってわりとすきなんで。マリアとか聖人とかキャラが多いほうがアナザライフで楽しめます。

219迷える大羊:2007/08/11(土) 02:15:43
イエスの容姿は?
 マリア様の容姿の話が出ましたが、肝心のイエス様の容姿はどうだったんでしょうね?
昔からあるステレオタイプは痩身でひげ面、長髪の優男、ですが、聖書には背が高いとか低いとか、ブサイクだった、とかイケメンだったとか何にも書いていない(ヨハネ黙示録で鬼気迫る化け物じみた、イエス描写がありましたが、ま、これは文書の性質上、リアリティがあるとはいい難いのでパスです)ですよね?確か。

 ちなみに私、「トリノの聖骸布」は全く信じてません。なんだか、あそこに出てくるイエスの似姿ってあまりにステレオタイプ(ロン毛、ひげ面など)にはまりすぎで、話出来すぎ、と思えて・・・。

 ところで、今週講談社の青年向けマンガ誌「モーニング増刊」を読んでいたら、「聖なるお兄さん(SAINT YOUNGMEN)」ってイエスと仏陀が下界で仲良く、首都圏にアパート借りてバカンスを楽しむ、なんてマンガが連載されてました。大爆笑はしないけど、キリスト教や仏教を多少なりとも知っている人間なら、ついフフフ、と笑わせられるギャグが随所に入ってます。

 今週号ではイエスはカナヅチだったことが明かされて(?)おり、キリスト教の洗礼が頭に水をかけるだけなのは、パブテスマのヨハネが要求する潜水洗礼にカナヅチのイエスが応えられず、ヨハネに泣きついて、ハードルを下げてもらって、水をかけてもらうだけになった、という珍説(?)が登場しております(笑)。

 「布教時代に泳ぐことなかったの?」の仏陀の質問に対し、「ああ、沈みかけた舟を助けに行かなきゃならない時があったけど、気合で5km湖面を歩いたからね・・」と返答。すかさず仏陀に「泳ぐ方が簡単な気がするけど・・・」とツッコミを入れられて、なんて感じで話が展開していきます。

 もっとも、こういうギャグってある程度宗教に興味と知識がないと、何が面白いのか、わからないわけで、宗教音痴の多い日本のサラリーマン向けマンガ雑誌でどこまで善戦するか疑問な気もしますが・・。このマンガの著者、中村光さんってどういう人なんだろう?って気になりますね・・・。

 >15でイエスを生んだとして、ピエタの時は40代後半

 うーん、それだと美しい聖母、というよりサザエさんのフネさん(サザエやカツオのお母さん)のイメージになっちゃいますね(笑)。

 なんかマンガの話ばかりしちゃいました、失礼・・。

220迷える大羊:2007/08/11(土) 11:08:09
カトリック教会 気になる点
 あんとに庵さんのブログで述べた内容と重複してしまいますが、ご容赦を。先日、別のキリスト教サイトで知り合った元カトリック教徒の方とお会いして話をしたのですが、彼女(女性です)は期間は短いながら、熱心なカトリック信徒でした。それがなんでまた離教したのか、教えていただけました。理由はいろいろあったようですが、その中で私的に気になる点がいくつか・・・。

 一つは政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団がいて、そのこと自体は悪くもなんともないのですが、問題はそれを教会の中に持ち込んで、無関係の信徒を巻き込もうとすること。政治的な活動、というのは憲法9条改悪反対、国旗、国家への反対を熱く語る、といった類のもので、少々大雑把ですが党派的にいえば社民党、共産党的な感じのするものです。
 どうも、彼女は教会内で奉仕などしているうちに、そういう類の運動に賛同、あるいは参加することを求められたらしいのです。

 彼女がそういった運動に与する意図がないことを伝えたら、信徒からなのか、聖職者からなのかは定かではないですが、「お前は戦争が好きなのか」なんて無茶苦茶な決め付け方をされたそうで、本当ならとんでもない話。

 大体、社会問題に関する答えって一つに簡単に決められないと思うし、自分に賛同しないから「戦争大好き」なんて決めつけは信仰面での原理主義者そっくりでイヤです。こりゃ、辞めたくなるわ、と思いました。

 誤解を招くと困るので、申し上げると、その元信徒の彼女にしても、あんとに庵さんにしても、私にしても、社民、共産、憲法九条万歳ならダメで、その逆、つまり自民マンセー、憲法改正GOGO、ならいい、ということではありません。別の党、政治的見解への賛同であってもやっぱり同じように嫌気が差してくるだろうと思います。

 あと、古株の信徒の一群には今も「ミサにこないのは罪」と考える人々がいて、新入りを捕まえて、あれこれ説教してきたり、これまた自分たちの活動に巻き込もうとする人々がいるそうで「大羊さんも(もしカトリック教会に関わるなら)、気をつけた方がいいよ」とのことでした。

 元信徒の彼女がいうには、自宅近くにカトリック教会があるのに、わざわざ遠くのカトリック教会に電車を使ってまでやってくる信徒がいるのは、そういう人間関係に嫌気が差して、という人なんだ、ということでした。

 お断りすると、以上の話はあくまで私が元信徒の方から個人的に聞いた話です。私自身が体験した話ではありません。私自身はそういった場面を近くのカトリック教会で目撃したことはないです(もっとも、忘れたころにちらっとミサを覗くだけなので、本格的に中に入るといろいろあるかもしれませんが)。

 ちなみに、その元信徒の方が関わった教会と私の自宅近くの教会では教区が違います カトリック教会、と一口に言っても、教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?また、皆さんは、今回、話題にした元信徒の方の話のような場面に普段通われている教会で出くわしたことありますか?

221塩梅:2007/08/13(月) 23:04:24
どなたもレスがないようなので、失礼をします。
お答えになるか、分からないのですが。

迷える大羊さま>
いい資料の一つと思うので、ご紹介しますが、聖母の騎士社から出ている「神父様、納豆好きですか?」(フェルナンド・アカソ著)という本に『カトリック学連と安保闘争』という章があります。
その記述によりますと、著者である神父さまは京都にある二つの大学のカトリック研究会に顔を出されていたそうで、第二バチカン公会議(1962年〜1965年)が打ち出すいろいろな新しい姿勢を受け止める際に行き過ぎた部分を感じておられたそうです。しかし、やんわり言っても受け入れられるどころかますます政治的な色合いを濃くしたそうでして。で、日米安保の更新(S35年)の折だそうですが、東京の「カトリック学連」は新宿駅での騒動にカトリック学連の旗を掲げて参加したそうで、このことによって、当時の司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

そもそも、第二次大戦前後にキリスト教全体(教派神道などもそうですが)に明治政府の強い監視がかかったのは事実です。また「チマッティ神父さまの手紙」(ドンボスコ社)の中にも、「上智大学事件」発生と同じ年に『別府不敬事件』の発生について記述があります。チマッティ神父さまの手紙には『この国ではカトリックは容認されているのであって、承認されてない』といった趣旨のことが書かれています。

今もよく取り上げられる上智大学事件、また戦時中のカトリックのことについては、まずこちらご覧下さい。他、キリスト教全体のことをご覧になりたい場合、「平和遺族会」「戦責告白」などのキーワードでの検索をお勧めします。

ウィキペディア:
土井辰雄  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E8%BE%B0%E9%9B%84
田口芳五郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E8%8A%B3%E4%BA%94%E9%83%8E

個人的な見方として、戦死者・戦災遺族の立場の世代そして「団塊の世代」とその指導司祭というのが『政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団』の第一世代と見ます。
元・信者さんのお気持ちも分からなくないです。平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。
こういう人たちの一番宜しくないところは「左に巻きギレたこと」ではなくて、自分が良いことをしていると強烈に信じておられることと、他者に対する自己優越思想です。私もこういうタイプの方にお会いしたことがありますが、”人のためになること”というより”人のためになっている自分”に満足しておられるところがあります。運動の目的が”社会、また自分の生活を良くすること”じゃなく、”自分のやりがいのため”になっちゃってます。
こういう人たちに「被害者」とか「弱者」だとか祀り上げられて、いわば囲い者になり、どうしようもなくなった人も知ってますが…ああはなりたくない。運動家を利用し利用される『共生関係』の外にある人たちには、何の益にもならないどころかむしろ迷惑なんですよ。

>教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?

異なる部分もあります。教区内でも、その教会を司牧しているのが教区か修道会か、また修道会によっても違います。ただ良し悪しの部分については、一口では言えない部分がありますね…。

222迷える大羊:2007/08/15(水) 01:44:28
はじめまして、ありがとうございます
 塩梅さん、はじめまして、そしてレスありがとうございます。先日、自宅近くのカトリック教会のミサに出てみたところ、季節柄、平和の祈りを行っていましたが、別に特定の政治勢力、主張への攻撃や肩入れを感じさせる内容の話は出ませんでした。件の元信徒の方の教区、教会ではどうだったんだろう?と気になるところです。

 しつこいようですが、私自身はそのようなカトリック聖職者、信徒に直接お会いしたことはないのですが、そういう政治色の強い聖職者、信徒の一団に辟易している一般信徒の方の声を、件の元・信徒の方とは無関係にネットでも現実でも複数聞いたことがあり、これは「火のないところに〜」かな??と思った次第なのです。

>司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

 そうだったんですか。個人の独断と偏見ですけど、この当時の司教協議会はとても「まっとうな」判断を下したと思います。一個人として安保反対運動、政治運動に熱を上げるのは勝手だけど、教会や信仰の名を使ってやるな、って、安保反対、賛成に関わらず、私がもし当時カトリック信徒や聖職者であったなら、きっと考えると思います。

 思うに、歴史上、宗教戦争、紛争と思われている事件のほとんどは、実は宗教だとか神だとか信仰はあまり関係なくて、特定の政治思想、志向を持つ勢力がたまたま、ある特定の宗教に属していて、神や信仰の大義名分を拝借しているってパターンが大部分ではないか?という気がします。

>明治政府の強い監視がかかったのは事実です

 もちろん、キリスト教会が国家主義だとか政治の右傾化に警戒心をもつことは歴史の行きがかり上、ある程度は理解できるのですが・・・。でも、靖国問題などで政教分離を訴える一方で、別の政治勢力、団体に肩入れしている、としか思えないようなことを主張するんじゃ、何のための「政教分離」なんだか、と思ったりもしますね。

>平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。

 今、「「世界征服」は可能か?」(岡田斗司夫著、ちくまプリマー新書)って本がなかなか面白くて読んでます。内容は、仮面ライダーだとか、007、オースチンパワーズなどなどマンガや、映画、TV番組、ドラマに出てくる「悪の組織、帝国」を題材に組織や国家、理念とは何なのか?などを考えた、表面的な話とは裏腹になかなか真面目な本です。

 その中に、「皆殺し、というと残虐非道な極悪人たちに聞えますが、その正反対です。意外にも正義感がなければ人は皆殺しなど考えません(中略)正義感が強く、不正が許せないタイプのあなた、世界征服をするときはくれぐれも気をつけて下さいね。」なんて一節がありました。

 この類の人々のことを聞くにつけ、まさしく言い得て妙、という感じですね。思えば、ヒトラーだって「ユダヤ人はドイツ民族の害毒」、それこそ「平和の敵」という「正義感」に燃えて、あれだけの大虐殺を実行したわけですし・・・。キリスト教の異端狩りやら十字軍なんかもそうで、宗教でも、政治でも何事も一方的な決め付けや、激しい思い込みは怖いですね。

223Sekko:2007/08/18(土) 16:21:19
宗教と政治など
 留守しててレスが遅くなりました。

 イエスも仏陀もムハンメドも、普遍宗教の創始者って、要するに既存の共同体のヒエラルキーを否定する形で出てきたので、必然的に弱者救済のソシアルの人だったと思います。だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。でも歴史的には世俗権力側の御用宗教になってるケースが多いので、国家主義とか右翼的言辞とも繋がるわけでなかなか複雑ですね。

 でも、アメリカのF派もそうですがイデオロギーと結びついて党派的になるのは、本来の政教分離の精神と乖離していますよね。イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう。ヨーロッパ近代は、世俗と教会の権力の葛藤を経て非宗教ライシティという理念の空間を気づき上げたわけですが、イエスは当時のユダヤ社会でライシティを先駆的に体現していたとも言えます。それは、しかし、他者の自由をも保障するものでなくてはなりません。対話とは説得ではないし、相手が同意しないから排斥するなどは問題外です。

 福音書のイエスを見ていると、キーワードは、「ライシティの中の自由とポエジー」です。愛とか思いやりとかはもちろんなんですが、重要ポイントは、自由とポエジー(詩想)だと思うんですよ。自由とポエジーのないカリスマ性は、独善や権力性を免れないと思います。このへんについてはまたあらためてどこかに書きますが、どこの教派のどこの教会でも、自由とポエジーが実現していないところは、本当の意味でのイエスの精神から離れていると思います。

 イエスの顔のステレオタイプは、トリノの聖骸布が出発点なんですよ。あれが出て来る前は、パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです。『聖骸布の男』のムックを見てたら「モノ」の迫力ありますよ。でもそのイエスはわりとハンサムで、マリアと瓜二つと言われてるのですから(マリアの変形クローンみたいなものだとしたら当然ですが)、じゃあ、マリアもそれなりに美人だったかなあと思います。正教のイコンはマリアの生前にルカが描いたというのを含めてみな細面なので、フネさんってのはあり得ないと思いますけど・・・

224迷える大羊:2007/08/19(日) 09:10:55
左翼とキリスト教など
>だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。

 わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?宗教否定ですよね、共産党とか共産主義って・・。でも、遠藤周作氏だったと思いますが、共産主義とは「裏返ったキリスト教」だ、といっていましたが、確かにそうかも、と思うことあります。キリスト教も共産主義も共に、弱者救済、既存の共同体のヒエラルキーを否定するところから始まった、共にすさまじい「異端狩り」「粛清」の歴史があり、様々な分派がある、どちらも「聖書」「資本論」という「聖典」がある、などなど、正反対の立場にみえて共通するところはとても多い気がしますね。

>イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神のものに・・」っていうのは聖書きっての名言だと思いますし、キリスト教の「近代性」がよく出ていることばですよね。でも、2千年前にはこういう考え方はなかなか理解されなかったんでしょうねぇ、きっと。

>パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです

 パンチパーマですか・・(笑)。今は優男のイメージが強いイエスですが、筋骨たくましいマッチョなイエス像っていうのはあったんでしょうかね?祭壇で大暴れしてますし、単なる優男でもない気もしたりしますが、どうなんでしょうね。でも、そういうイエス像だと、キリスト教の姿も微妙に違ったものになっていたかな?今みたいに女性信徒が多数を占める、なんてことはなかったのかな?と想像が広がりますね。

 後、よく考えるとおかしいな、と思うのは、ハリウッド映画や欧米のメディアのイエス像。聖書にイエスの容姿についての説明がない、ということは当時としては特に書くこともない、至って普通のユダヤ人だったと考えられるわけで、その中東の「普通のユダヤ人」が絵に描いたような金髪、青い目の白人だなんて、そんなことないだろ?、とツッコミたくなりますが、どうなんでしょうね?

225塩梅:2007/08/19(日) 22:50:49
ご参考になるといいですが…
> わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?

明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系、ほか途上国援助、フェミニズム関係の著書をだしている聖職者・修道者は結構います。9条の会やら無防備平和運動他に賛同してたり、部落解放、靖国訴訟などに関与している方々もあります。運動自体の趣旨はともかく、バックに特定政党・政治勢力などがついている部分に偏りを感じるものがあります。

さてこれをどう理解するかですが、「解放の神学」というのがあるのですが、御存知でしょうか?
ある程度までご存知だと、理解が出来るところがあるかも知れません。

こちらは神社さんのブログですが、意外と分かりやすく書かれてます。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070510

あと聖職者・修道者の講演録です。
http://www.wa.commufa.jp/~momochan/kaiho/soma.html(故・相馬信夫名古屋司教)
http://www.jca.apc.org/gendai/salon/ezln/kaiho.html(メルセス会弘田しずえ修道女)

ちなみにこれについては今の教皇さまが枢機卿時代にインタビューに応じた本「信仰について」(ヴィットリオ・メッソーリ著・ドンボスコ社)のなかで見解を出されています。一部、抜粋します。

(以下、『信仰について』247〜248p)
「解放の神学は、マルクス主義を踏襲するその形態からして、けっしてラテン・アメリカ、
あるいは他の発展途上国地域の人民の骨折りによって、ほぼ自発的に生まれ成長していったと
いうような、原地の、土着の所産ではない。少なくとも根源は知識人、富める西側諸国で
生まれたか、あるいはそこで教育を受けた知識人の創案である。それを手がけた神学者たちは
ヨーロッパ人であり、それを南アメリカで成長させた神学者たちはヨーロッパ人-----あるいは
ヨーロッパの諸大学で教育された者-----である。あのスペイン語、あるいはポルトガル語の
背景には、実際、ドイツ語、フランス語、アングロ・アメリカ語がちらつく」

つまりヨーロッパの理論家によって第三世界に輸出され、実験されているイデオロギーの一つである、と。実のところ輸出先が実験先なので、この神学が言っている「人民の側に立つ」神学者たちが本当に人民に影響を持てるかどうか全て実証されなくてはいけない、と。

そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります。

226vino:2007/08/20(月) 19:02:30
(無題)
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

227vino:2007/08/20(月) 19:05:01
あれやこれや・・・
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

228迷える大羊:2007/08/21(火) 00:39:17
結局のところ・・
 みなさん、いつもお世話様です。

>明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系

 ええ〜、新日本出版社って、そのものずばり共産党じゃないですか。どうなってるんでしょう、一体?。目的が一致しておれば、無神論、宗教否定の政党との共闘もOKなんですかね?敵の敵は味方、ということなのか?私的にはどうにも理解に苦しむ話ですね。まあ「解放の神学」的な立場に立つ、聖職者、信徒の主張からすれば、私も所詮「上からの立場で批判している」に過ぎないのでしょうけど。

>そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります

 でも、いろいろ問題を抱えつつも私がカトリックに魅力を感じるのはこの多様性だったりします。「解放の神学」に立つ「左」の信徒、聖職者がいる一方で、渡部昇一氏、曽野綾子氏、麻生太郎氏など右系、保守系の信徒も共存していて、世俗では正反対の立場のものが、神の前ではすべて同じ、平等、というのが宗教やカトリックの良さではないのかな?と思ったりもしますし。それだけに教会や教団全体として、右であれ、左であれ、特定のイデオロギーに深入りしてもらいたくないですね。

>ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね

 一方で北朝鮮の拉致問題などには無関心ですよね。拉致被害者の横田めぐみさんのお母さんの早紀江さんが福音系教会のクリスチャンである関係で、福音派の一部の教会が取り組んではいますが、ブッシュ大統領に抗議文を送ったのと同様に、金正日氏に抗議文を送った、なんて話はとんと聞いたことがありません。韓国の方の民主化や独裁政権には、あれほどああでもない、こうでもないといっていたのに・・。私的にはその辺りがキリスト教会の平和運動=政治がらみ、左翼、との勘ぐりが抜けない理由の一つでもあります。

>両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます

 なんだか、ミもフタもない話ですねぇ。結局のところ、教会だ、信仰だ、といっても不完全で「罪深い」人間の営みであることには変わりないのですね。感覚的に地域の自治会とか、マンションの管理組合がどうのこうのというのと変わらない話で、水をかぶったくらいで人間変われりゃ苦労しないよ、というところでしょうか。

>100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

 長年の信仰生活から導き出された、貴重かつごもっともな御意見だと思います。私もクリスチャンを彼女にし、まがりなりにもこの世界に関わるようになってなんとなく感じていたことでもありますし。

229塩梅:2007/08/22(水) 11:05:52
何かが違う「隣人愛」実践の実際
vinoさまの仰るとおりで、「細く長く適度な距離と温度を保つのが無難」だと私も思います。>教会とは

あと、キリスト教の「隣人愛思想」は良い方向に向かうと人間関係の改善や社会貢献に繋がりますが、逆を行くと< 小さな親切、大きなお世話 >になりやすいんですね。聖書の中のイエズスの言葉に基づいてるとされる活動でも、イエズスの実際の行いやその心には基づいてるだろうか、と思うことがあります。信者でない人にも時々そういう風な質問を受けることがあり、困惑します。

大体、熱心な人ってのは、

・『弱者のために』何もかもお膳立てするのはいいけど、それが自分好みの活動にならないと
  気が済まない人
・『弱者のために』と言いつつ、実は自己満足や利益・他者への優越思想のためにやってる人

こんな感じです。(政治的党派性がくっついてくると、さらに面倒です)

そういうことが皆、彼らにとっては『弱者のために』なんですから、誰の忠告・注意も聞かない。
例えば、商業でやることでさえ、リピーターを得るために「リサーチ」するじゃないですか。だけど彼らの多くは、意見をする方を「悪意の人」と見て傲慢な態度を取ったり攻撃をしてきます。『反対者の方が間違ってるんだ』と言わんばかりの対応で、あえて諫言する「善意の人」も退けます。

そして、ますます< 彼らの活動は独善性を増す >結果になります。

しかし実際、こういう方々の「奉仕活動」の恩恵を蒙ることが出来るのは、『個人的にお友達になって』彼らのすることなすことにお付き合いする能力のある方(一種のエリートですよね)か、知能や精神的な障害などにより自分の意思を一切主張出来ない状態にある方ですね。つまり、運動家と『利害関係になる』か『使われちゃう』かです。

こうして彼らは、他の大勢の人たちを置いて行っちゃう。あるいは団体ごと無理に囲い込もうとする。

それだから、医療・福祉の現場で地道に働いている人々、彼らに『弱者あつかい』されている人々のなかには「キリスト教・クリスチャン嫌い」が居ますし、信者で医療・福祉関係者やってる人間にも< 教会の活動の評判 >は必ずしも良くないです。教会によっては、信心業や聖書研究などよりもずっと社会活動を重視されるようなところがありますが、現場としてみれば本当にその道のプロとして取り組んでくれる以外で、(現状の)教会の人に入ってもらいたくないですね。信者さん個人個人の日常生活や余暇まで犠牲にした「生きがい・やりがい」までは、社会は求めてないと思います。

どっちかというと、年に一回の文化祭やイベントに招いてくださる・連れてってくださるとか、例えば施設内なら洗濯モノたたみや共有スペースのお掃除といった『それ限定の方々』の方が入所者の方々や職員も付き合いやすいし、長続きします。というのは、あまり自分の生活を犠牲にしてない人の方が実は聞く耳を持ってることが多いし(意地になったりとかしないし)、お互いの利害関係が後々変に絡む心配をしなくていいので。

230vino:2007/08/28(火) 16:01:39
身もふたも無くて・・・
我が夫婦の仲人をして下さった大学教授、K団の信徒なのですが、大教室での講義の際、「日本人にとってはキリスト教というのは隣の神様だ。クリスチャンでさえ、その感覚が抜けていない。クリ〜というのは素晴しい存在だと思い込んでる。歴史上、免罪符やら南米がラテンアメリカと呼ばれるようになったのは何故か、カト〜の愚かな行為の故だ。だからってプロ〜だってひどいもんだ。英語が世界共通語になっているのは何故か、何故、英語と言われるのか。現代もアメリカって国が世界中でやってる事を考えればすぐ判る。人間なんて本当にしょうもない」と仰いました。当時、求道者でもなかった私ですが、<この方はK団の人だな>とピンと来たものです。   前回、身もふたも無くむしろ、偽悪的なほどの表現を致しましたが、さすが、皆様、真意を汲んでくださいますね。そう、どこまで行っても性悪な生き物なのです、人間は。私は洗礼の際、牧師からは再三に亘って「所詮、人間のする事だから」と言われたものですが、年を重ねるごとにそれを実感します。  料理研究家の小林カツ代さん、ご存知でしょうか?彼女のお話を聞いたことがあるのですが(K団信徒です)お母様からは<キリ〜はなんのご利益も無い代わりになんのタタリもない自己満足の宗教>だと言われていたそうです。彼女自身も「クリ〜になる、なんて事なかった。何にも変わりません。」と仰いました。実はこのふたつのエピソードは私の中では凄く大きな意味を持つのです。  超・マイノリティーだからか、日本人クリ〜、どこか<上から目線>になりがちなのです。選民思想に近いくらいの人も見られます。自分の足元を見据えるためには少し、自虐的なくらいで調度良いのでは・・・・。

231迷える大羊:2007/08/30(木) 00:33:51
熱過ぎるのは・・
 皆様のお話を伺うと、クリスチャンになるということは別に人格改造を行うわけではなく、他の未信者の方々と別人種になってしまうわけではない、ということがよくわかります。

 また、批判じみた話になっちゃいますけど、F派の信徒って「ボーンアゲイン」なんて言葉が代表的ですが、その辺何か、熱過ぎる、というか暑苦しい感じさえ(言っちゃった)してきてダメなんですよね。
 恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」と躍起になるんですよね。理由を聞くと「その方が安心できる、落ち着ける」なんていうんですが、クリスチャンでない人間は何か自分とは別人種とでも思っているのか、何か勘違いしてないか?そんな人と人の間に垣根を作る信仰なんて抵抗あるなぁ、というのが本音ですね。

 多分K団もそうだと思うのですが、カトリック中央評議会の教勢統計を見ると、結婚相手がノンクリスチャンである信徒が多数派なのですが、F派はいわゆるクリスチャンホームが圧倒的(少なくとも教会に恒常的に顔を出すメンバーは)で、それもまたこの日本においてはえらく不自然で、閉鎖的な感じがして、抵抗感を感じる理由なんですよね。

>料理研究家の小林カツ代さん

 あら、この人、クリスチャンだったんですか。初耳ですね。私事ですが、本日、職場の先輩でお世話になった方が亡くなり、告別式に行ってまいりました。浄土宗のお葬式でした。
お焼香も上げました。でも、F派の信徒となると、こういう場面に出くわす度に頭悩ますんでしょうね・・・。やっぱり、そういう信仰は私には抵抗ありますね。

232塩梅:2007/09/21(金) 02:49:23
教会も「渡る世間」のうちだというか。
>恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」

ええ。

「結婚するならクリスチャンにしなさい。”カトリックでもいいから”クリスチャンと結婚しなさい」

本当に牧師に言われたのですが、すごく嫌な感じを受けてしまったのです。当時、カトリックの存在をあまり意識していなかったこともあり、逆に、

『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』

と思ったのです。やはり自分の目で見ないと納得がいかないと思いました。ただ多分…後々考えるに信者同士の又聞きとかだからそうなったんだろうけど、「カトリックは礼拝が難解だと聞いている。皆ラテン語で日本語の礼拝はない」と神学生の人が話すのを聞いていましたのでかなり悩んだ時間はありました。が、勇気を出して(苦笑)最寄のカトリック教会に「行っても宜しいですか?」と電話して、行ってみたのです。そして、

「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

と思いました。で、当時所属していた場所の人たちの方が感じ悪いと思いました。と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。あのときは「何だそりゃ?」みたいな感じでした。そういう諸々の事情から、プロテスタントにはもう戻らないと思います。勿論、そんな人ばかりではない事も知ってるのですが、親友と思っていた人に責められたのは悲しかった。

その悲しみを忘れかけていた中越震災の直後に、その人たちが再び私に電話をくれました。私は純粋に電話をもらえた事を喜んだんですが、直後にかつての所属教会の封筒で、とある先生の分厚い著書が送られて来まして。「所在確認だったんだな」と直観しました。かつての所属教会の活動のありようから、彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました。

シスターには「貰っておけばいいじゃないの?」と言われたんですが…
デリカシーの問題ってのがあると言いますか……(ノ_-。)

信仰を持つのはいいけど、<正しい事を>と思ってする言動が<上から目線><排他性>として現われるのは、やっぱり抵抗感・反感を持たれる所以になってしまうのじゃないかと思います。他人の話を聞くことも大切だし、聞く耳のあること=妥協ではないんですから。話を吟味したうえで、どうしても妥協できない面をお話することだって出来るんですから。そういう面倒を拒否しちゃあいけないと思うのですけど。「対話」ってのは『説得』のことでも『意見の押し付け』のことでも無いんだからね、と思うのですけど。

でも以上のことが、どうして困難な課題になるのでしょう?

233迷える大羊:2007/09/21(金) 05:21:57
それはまた・・
>『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』
>「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

 そうですね〜、私もこの世界に関わりを持った当初、カトリックって「うっかり自殺=
村八分」「うっかり離婚=村八分」みたいな極めて戒律のキツイところ、というイメージがあって全然興味がわきませんでした。いろいろ調べるとそんなに単純ではない、むしろ、一部のプロテスタント教会の方が、ずっと保守的で厳しいですね(もちろん、いろいろな教派があるので単純にいえないが・・)。カトリックだってすべての人々が寛容ってわけでもないのでしょうけど、幅があって、狭い一つの考えを押し付けられないんで気楽なんですよね、私としては。そこら辺のプロテスタント教会よりはずっと理性的で、リベラルだと思います。
 でも、私や塩梅さんが誤解していたのと同様、世間一般には今でもカトリック=厳しい戒律、保守的のイメージは強いんじゃないですかね?
 もっとも、ラテン語ミサに関しては、そんなに悪いイメージないですね、私は。SEKKOさんの以前のコメントにもありましたが、むしろ、日本語で「主のなんとかかんとか」って言ってやる方が何か恥ずかしいというか、テレが抜けないというか・・。お経を唱えて照れくささを感じないように、ハナから外国語のラテン語なら、あのなんともいえない照れくささ、恥ずかしさを感じなくていいし、どこの国の国民にとっても「外国語」なので、公平で良いではないか?と思うのですがどうですかね?

>と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。

 それはまた、すごい話ですね・・。一体、いつの時代の話ですか?私、プロテスタントでも保守的なF派の信徒が身内にいて、関わりがありますけど、そこまで極端な反応ってないですけど・・(確かにカトリックには冷淡ではありますが)。
 まあ、F派といってもいろいろあって、比較的ヌルいところだからかもしれませんが。最近の話ならびっくり、というか問題ですね。
 そんなところ辞めて正解、そんなことで離れる友人なんてハナから友人じゃない、と私なら割り切りますけどね(ってそう簡単に割り切れれば苦労しないでしょうが)。

>彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました

 うーん、話を聞く限り、私的に非常に問題がある教会のような気がしますが?そのかつての所属教会って・・。皆さん、いろいろ現在の信仰を持つに至るには紆余曲折があるものですね。
 まあ、この辺はこういうBBSでは詳しくは語るわけにはいきませんね。どこかのミサでお会いしていろいろ語れればいいですね。ちなみに私は首都圏の住民で、都内勤務の人間です。

234迷える大羊:2007/09/06(木) 01:00:54
学んでみます
 散々、こちらの部屋で書き散らし(ここ最近、ひょっとしてこの部屋で一番発言数が多い??)、皆様にお世話になってますので、御報告ぐらいはしておかねば、と思いました。

 私、九月半ばより、都内某所、職場近くにあるカトリック教会のキリスト教講座(アルファコースっていったかな?)に通ってみることにしました。平日の夜なので、残業なんかがあったりすると、行けないこともあるかもしれませんが、できるだけ参加しようと思います。
 講座の内容より、実際のカトリック信徒にはどういう人々がいるのか、何を考えているのか。よく語り合って、観察、確認してみて、自分に合った教派、宗教であるかどうかを試してみるのが目的ですね。神父さんと話したり、こういうネットやメールでいろいろ話はしてみたものの、現実の世界では、信仰や思想の深いところまで話したことがあるカトリック信徒の人って実のところいないので。
 私の彼女も、当初誘う予定がなかったのですが、話したら興味を持って、ついてくることとなりました。はたしてどうなりますやら・・・。

235nao:2007/09/06(木) 08:42:57
うれしいいです。
大羊さんが現実のカト教徒と話し合いしてくださるようになつたこと、とてもうれしいです。がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと、心からねがつております。彼女もきてくれるなんて・・感激ですね。時々、ご様子お知らせいただけると嬉しいです。よろしくおねがいいたします。竹下先生とは生涯お付き合いくださいますように。こんな出会いは世の中にそうあるものではありませんから。

236Sekko:2007/09/07(金) 11:22:26
私もうれしいです。
 お久しぶりです。なんかとっても充実した感じのやりとりが続いてるようで、あえて口を挟む感じじゃないなと思ってたんですが・・・
 彼女が一緒にきてくれるなんて、すてきですね(お目付け役だったりして)。
 大羊さんの誠実さが伝わってるんですね、きっと。
 いい方たちと出会われることを願っています。彼女のほうも視野が広がって、お二人の連帯感もさらに深まって、いい感じになるのでは。
 宗教や宗派がどうというより、人が一緒に生きていくには、毎日起こる具体的な問題と対策だけではなくて、その背後にひそむ病や死というものの影がいつかかぶさってきたときにどう受け止めるか、どういたわりあっていけるのかという部分で共鳴できる波長が必要です。今すぐではなくともだんだん共振できるような関係もありますし。
 (ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します。興味のある方は「東京けやき会」のサイトをご覧ください。もう30年近く前にフランスに留学なさっていたとき知り合った石彫の坂井達省さん、織田啓介さんらの作品を見に行きます。お目にかかれればお話しできるかもしれません。)

237迷える大羊:2007/09/09(日) 02:22:40
まあ、ボチボチと・・
>(お目付け役だったりして)。

 まあ、そんな感じですね(笑)。こちらも、別に彼女の信仰を変えようなんて考えは毛頭ないし、それは横暴だし、無理というもの。要は視野を広げてもらいたい、もう少し考えに幅がでれば、それで良いと思ってます。

 あと、なんだか、ここでF派に対し、批判がましいことばっかり言っている印象があるかもしれませんが、人の信仰にチャチャを入れようなんて野暮なマネをする気は全然ないし、F派といえども様々なのはわかっていますし、良い点、もっともな主張だってあることも認めてます。

 ただ、自分の宗教観、感覚に合うか、合わないか、自分が信者になれるか否か、という観点、そして、私自身の狭い範囲の見聞の範囲で話をしているだけでして。
 このBBSを見て、不快になっている、あるいは、そんなことはないだろ〜、と思われているF派の方、ゴメンなさいね、といったところです。

>がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと

 VINOさんや塩梅さんのおっしゃる通り、教会とか信仰とかいうものに、あまり過剰に期待だとか、逆に恐れだとかをもたず、適度に距離を置くつもりで行く、要は力を抜いていくと、意外といいことがあるのかもしれませんね。

>宗教や宗派がどうというより、

 その通りですね。それだけに、何が何でも、同じ信仰の人間としか恋愛・結婚できない、幸せになれない、と決めてかかる、あるいは身内はなんとしても、’導かなくては’、’救わなくては’、なんて躍起になる一部クリスチャンの言動を見聞すると、何か違うんじゃないのか?と思え、却ってキリスト教から離れたくなっちゃいます、逆効果ですね。

>ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します

 ああ、是非行って見たいのですが・・・。フランス在住の著名作家と直にお話できる機会なんて滅多にないですもんね〜。しかし、その当日は彼女の母教会での打ち合わせや実家訪問などの予定が複数あって、行けません・・。またの来日の機会を狙います。

238vino:2007/09/10(月) 19:36:31
心の赴くままに・・・
<お目付け役>・・・かもしれませんが、かなり、前進ではないでしょうか?  私の場合、母校が長老派だった為、YWCAに繋がり、現在に至ったわけですが、それこそ、信仰というものは、<縁と運とタイミング>によるものも大きいと思いますので、今後の人生を過ごす上での<引き出し>が一つ増える・・・くらいの気持ちも大切だと思います。 遠藤周作さんの文章で(K団の信徒はなんのコダワリもなく愛読者、多いです。曽野さんしかり、勿論、三浦綾子さんも)それぞれが心にそれに畏敬の念を感じ、他者の思いも尊重することが大切。それはナスでもカボチャでも良い・・・なんて表現がありました。肩の力が抜けた感じで私は好きですけれど・・・。  それにしても、塩梅さん、教会にかなり悩まされた経験がおありなのですね。ネットでは「地獄に堕ちるぞ」とか、「サタン」とか言われた事のある人の話も知っていましたが・・・。私の古くからの友人でカト〜で求道中の女性があります。彼女いわく、枝葉はいろいろあれど、根っこが一つなところに安心できる・・・と。プロ〜の方はそれこそ、牧師の数だけ解釈がある・・・と言うところでしょうか?まぁ、聖書も説教もその時、その時の自分の状況でとらえ方は違って当たり前ですし、同じ教会の中でもいろんな人がいるわけですから、<一色>に染まるはずはありません。彼女の信仰に色が一つ増えるのも良いと思いますよ。大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう。夫婦はそれぞれ違う人間ですからね。NAO様、人生の大先輩として、これからも暖かいお言葉をお待ちしています。  ハリケーン・カトリーナの被害に遭ったアフリカ系の家族が復興支援をされたとある団体に心を癒され、ソルトレイクに移住した件をだいぶ前にニュースで観ました。<ワスプにあらずば人にあらず>の雰囲気の濃い南部に住むよりはかの地で幸せならば、それも良い事ですよね。

239塩梅:2007/09/10(月) 21:18:32
良かったです。
お一人でなくて、お二人で通えるということは本当にいいことです。
その方にとっても、いい出会いになりますように。これは心から祈っております。>大羊さま

うっかり以前の体験…本当に余計な話をしてしまいましたけども、それは…。大羊さん仰るように、F派全体というよりその教会の問題になるのですね。離れてしまった教会は今も存在するので、ネット上での発言は本当、申し訳ありません。その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました。

ですので、それを否定出来ない気持ちもあるのです。大羊さんほどにクールになれない情けなさをずっと自分に感じています。

…始末の悪いことに、彼らは「自分たちはいいことをしている」のだと固く信じています。
ゆえに、今はそれをどうしようも出来ない事を分かっているのですが、「仮想敵ありき」のそのあり方、そして金銭問題その他について憂慮しております。
と申しますのは、昔、神学生であった友人がある内紛に巻き込まれ、海外宣教の夢を絶たれてしまいました。そのことに当時の所属教会が関わっていたことを知ったことが大変ショックでした。でも所属教会に抗議をしたくても、彼らは私とその人との友人関係を知ってましたので…聞く耳持つどころか

「今から先生がこの部屋にくるのだけど、貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

と言われてしまったのです。言われたときはかなり泣きました。

そこから「教会」「信徒同士」という人間の繋がりに恐怖を感じるようになりまして、それを克服できなかったのです。それこそ教会ジプシーです。また家庭の介護問題から随分長い間、教会を離れざるを得ず…。教会はキリストの身体といいます。だけど繋がれないままに長い時を過ごしてしまったこと、そして指導司祭さまとの繋がりが諸事情(異動含む)あって上手く行かず、改宗が上手くいかない。
何せ、地方では司祭・信徒さんの高齢化が進み、私が今いる小教区では主日ミサが5箇所くらいの巡回です。それでも信徒さんは「通信でなんて言わないで。聖櫃の前で神父さまとじっくりお話をしてちょうだい」と言ってくださいましたし…それはとても有難いお話と思っています。

ただ今、それに甘えていいのかどうかを迷っているのです。

240迷える大羊:2007/09/12(水) 12:38:13
異端とは?
>大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう

 勉強、といいましても、キリスト教のトリビア、雑学的、オタク的な知識が増えただけで、「信じる気持ち」は、未だによくわかりません。賛美歌とか祈りの文句を唱えるのは未だにこっ恥ずかしい気持ちが先に立ち、みんなよく照れずに大声で歌える、唱えられるなぁ、と感心することしきり(失礼!)です(笑)

>ソルトレイク

 といえば、多くの主流派キリスト教会から異端扱いされる某教団のホ一ムグラウンドがある街ですね。
 話が脱線しますが、キリスト教系教団でよく社会的に物議をかもすのは、このソルトレイクに本拠を持つ某教団、韓国に本拠を持ち、詐欺まがいの商法や特異な結婚式が問題となる某教団、輸血拒否、独特の終末思想、過剰な奉仕、家庭崩壊等が問題となる某教団の三つ。

 もちろん、他の主流派教会はこれらの教団のあり方に対し、一般人以上に批判的で、メディアには必ず、この三つの教団とは何の関係もありません、と銘打つのがお約束です。でも、その批判の仕方が未信者の私からすると時々「ん?」と思うことがあるんです。

 というのはこれら三つの教団はいずれも三位一体を否定していて(否定の仕方はそれぞれ異なるようですが)、主流派キリスト教会、信徒は「だから、異端で問題を引き起こすんだ」みたいな単純な議論をする人が少なからずみられるんですけど、それって何かピントがずれている気がするんですよね。

 部外者からすれば、大切なのは、第一義的には表に出ている彼らの所業、そして、問題のある行為を不断に誘発している教義です。三位一体説を否定していても、表に出ている行動が問題なければ別にどうでもいいんです。例えば、ユニテリアン教会(ユニテリアン・ユニバ〜サリスト)はイエスの神性を否定し、三位一体説をとりませんけど、別に何か問題行動を起こしたなんて話は聞かないですし。

 逆に、例えば、塩梅さんのかつての所属教会は恐らくは「三位一体」説をとる「正統派」キリスト教会と思われますが、反社会的というところまでいくのかは、なんともいえませんが、非常に問題の多い教会、教団と思われます。私的にはほとんどカルトすれすれ、との心象を抱いてますね。そもそも、異端って言葉自体、時代錯誤、排他的、偏狭な感じがしてあまり好きな教会用語ではないです。

>「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

 これはイジメだ、と憤ったり、悲しくなる以前に、あまりに時代錯誤な物言いにあきれ果てて、頭がクラクラしてくるような話ですね。
 これ本当に現代(20世紀、21世紀)の話ですか?なんだか、中世の異端審問、魔女狩りの話を聞いているみたいなんですが・・・。

>その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました

 そうですね、以前の思い出まで、記憶から消すことは難しいですよね。ハナから友人じゃなかった、と割り切れ、なんていうのはちょっと無神経なもの言いだったかな、と反省しております。

>金銭問題

 これ、非常に気になったんですが、まさか、旧約聖書の一節を字句通りに解釈した、
「十分の一」献金を半強制的に実行しているとか・・??。

 塩梅さんのお話には大変、衝撃を受けました。マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。
 正直、私は心に傷を負った塩梅さんにはなんといってよいのやら、わからない状態ですが、新しい教会で、一刻も早く苦い記憶が風化していくことを祈ってます。

241vino:2007/09/12(水) 18:40:48
きれいは汚い、汚いはきれい
<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>のもっともな部分を経験されてしまったのですね、塩梅さま。<渡る世間・・・>の文章を読みまして、単立の皇帝牧師のところかしら・・・?と思っていたのですが、どうも、違うようですね。必ず、時が満ちますので、カト〜への改宗がうまく行くよう、お祈りしています。私のお世話になった牧師は自分の休暇の時は違う宗派の礼拝へ出掛け、お勉強もされていました。私は現在、教会で<!?>な感じを受けた時は<これも勉強>と、かの牧師にしてみれば、思うだろうなと割り切る事にしています。   さて、海外宣教・・・ですが、日本キリスト教団小松教会のHPに様々な土地の日本語教会のことがとても良くまとめられています。<超教派>のプロ〜、多いですが、圧倒的に牧師はF派の方が多く派遣されていますね。どういうシステムで派遣が決まるのか良く判らないのですが、<熱心な伝道>はFのお得意ですから、海外で<救われた>信者さん、帰国後もFに連なる方が多いのでしょうね。    <自分達は良い事をしている>、これ、なんとかならないでしょうか?命を落とされたお二人、とても残念ですし、惨い事件だとは思いますが、土足で神田はるさんのお宅へ伺う・・・のはどんなもんでしょう?旧ソ連のイスラム色の強い辺りにも日本人が宣教に出ているとか、いないとか・・・・。こちらから見ればあちらでも、あちらから見ればこちらがあちらになるのです。私の知らない真理も世の中にはたくさんあるのです。  <揺ぎない真理を知っているから自分は大丈夫>だなんて、それこそ、神をも恐れぬ傲慢ではないでしょうか?

242迷える大羊:2007/09/15(土) 12:50:10
行ってきました、学び会
 カトリック教会の学び会、第一回いってまいりました。正確にいうと、「アルファコ−ス」といって、主に英国教会のニッキ−ガンベル氏という牧師が提唱した、キリスト教入門コ−スらしいです。いわゆるカトリックの公教要理教育とは違います。

 最初に奉仕の方が作って下さった夕食を食べ(なかなかおいしかったです)、雑談、話し合い、ニッキ−ガンベル氏の講演ビデオ鑑賞、神父さんのお話、などですね。
 進行は信徒の奉仕者の方主体で、神父さんが登場するのは最後のお話くらい。初回の今回は宗教らしい話が出るのは、ビデオ鑑賞のときくらいで、あとは話しあい、コミュニケ−ションに重点が置かれていました。リラックスしたム−ドで、とりあえずは現実のカトリック関係者と交流をする、という私の目的に適った会合で、なによりでした。

 キリスト教会はプロテスタントも女性比率が高いのですが、カトリックはそれに輪をかけて高いですね。奉仕者の大半は女性。参加者も女性が多く、男性参加者は、少なくとも私のグル−プは「奥さんが信者、クリスチャンで」なんてパタ−ンで、私みたいな人ばっかりでした(笑)(私同様、未洗礼の方もいました)。プロテスタントからの改宗者も結構いましたね。
 彼女の方の評価も「これなら続けられそう」ということで上々でした。

 ところで、全く関係ない話ですけど、自民総裁選、麻生氏と福田氏の一騎打ちは福田氏が圧倒的優勢のようで、日本史上初の現役カトリック信者の首相誕生、はなさそうですね。

243Sekko:2007/09/18(火) 20:25:17
よかったですね。
 考えれば考えるほど、大切なのは、宗教の差を取っ払った部分のライシテの中での連帯ってことだと思えてきます。
 特定の宗教共同体の内部の連帯、なんて、内部には抑圧的に、外部には覇権的または独善的に向かうのがオチだという気がするんです。

 宗教や共同体や社会的階層や立場の枠を超えたユニヴァーサルな連帯、それがキリスト教、というか、少なくともイエスが詩心を持って実践しようとしたものですよね、各宗派はそれぞれの歴史的文化的な産物、あるいは政治的、経済的な思惑の表現でしかありません。だれでも社会的存在であることを逃れられないように、各宗派の枠にありながらも、なおかつそれを超えた理念に眼を向けるのは簡単なことではないですが、永遠の課題、でもあります。

244nao:2007/09/19(水) 09:18:14
時代差を感じますね。
私がカト教会の入門講座にかよつたのは、戦後、10年たらずのころでした。大学生のころです。大阪の中心街、北浜教会でM神父という、素晴らしく信仰心のあつい、ハンサムな方で毎週1回、夢中になつて、かよつたものです。その時はトマス神学を中心としたかなり学問的なもので、毎回プリントが頂けて、何度も繰り返して読んだことをおもいだします。大羊さんの「学び会」のような雰囲気はまつたくありませんでしたが、その頃は、多いに満足したものです。修道院に入る方が続出したのもその頃です。カトリツクだけのことしか、学べませんでしたが、それの弊害よりは、神父の信仰心の厚さが皆の心をしつかりとらえていました。ご自分の書籍(当時、どれだけ大切なものだつたことか!)を講座の日に燃やす石炭にかえられたことも、度々でした。このM神父さんは、ミサ後、出口で一人ひとりに声をかけておられました。話された講座は殆どわすれましたが、神父の祈る姿だけが、くつきりといまでも瞼に浮かんできます。こういう信仰心の厚い神父さんが多くなるように、祈りたいとおもいます。大羊さん、これからもご様子きかせてくださいね。VINOさま、いつも温かいお言葉ありがとうございます。竹下先生はフランスで大多忙の毎日のご様子。無神論、楽しみにいたしております。

245塩梅:2007/09/19(水) 15:56:36
牛歩ながら。
> マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。>大羊さま

あまり書けませんが、今も全国各地で集まりを持っている場所です。残念ですけれども、vinoさま仰るとおりの「単立皇帝牧師」に今はなっておられるお一人というと、もう分かる方に分かるかと。「集まり」、一見開放的なのです。ところがどっこい、入るとまるで違う。これについては賛否両論ですが什一献金。これ、源泉徴収表に書いてある所得(つまり税を引かれる前)からの什一でした。そして、関係著書等の購入やイベントのお誘いのノルマは今思うときつかったです。私はそういうことが得意ではないので、自分の分については他の信者さんの手を借りざるを得ませんでした。そうなると、奉仕活動で補完をせざるを得ません。

しかし、以上のことは『信仰があれば』…つまり本人がやる気なら「本人的に」問題のないことなんでしょう。ただ、信仰生活とは本来別のこの奉仕の部分で、あまりにあまりの部分を見てしまった。スポンサー獲得・信者獲得のためにすることが、あまりに商業的に過ぎて。それも商業なら働いた人にそれなりの報酬が出ますが、信者がやれば奉仕です。「そういう方向に狂ってないか?」という疑念の発端は、集まりの幹部の女性が見た夢の話でした。

”この集まりに相応しい教会堂が与えられる”という夢を。

そして、共同体は「それを正夢にするんだ」という方向に流れたのです。その後、神学校のこと他あり、その女性に「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」と言われまして。私が出て済むならと思いましたが、しかし今に至るまで、その夢を信じて…祈り、奉仕している信者さんがたの夢は叶ってません。また集まりの主宰者たる某牧師先生については賛否両論あることを出てから知りました。それが分かると、出入りを許してくれない教会もありました。『私のしたことでなく、某先生の名前で居られなくなる』ために、教会ジプシー状態でした。

本当に、<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>状態の年月が長かったのです。

個人的にはもっと単純に、神様を信じるもの同士が、、、と思うのです。また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。勿論、おもねることではなく、きちんとお互い腹蔵ない「対話」をしたいし「相互理解」をしたいのです。あくまで理想論ですが・・・

今まで様々ありましたが、歴史・先人の智恵も通じて学ぶのがいいという結論をしています。
これからの信仰生活のためにも。諸事情あって愚図愚図に伸びていますが、お祈り頂けますと感謝します。私も大羊さまはじめ、これからの方々のために祈っています。

246迷える大羊:2007/09/23(日) 00:40:18
学び会(アルファ)など
 学び会2回目ですが、キリスト教最大の難関(?)、「復活」について、でした。我らがニッキ−牧師は復活の意義を熱っぽく語っておりました。ただ、気になるのは彼は復活を物理的にも事実、と思っているのか、それともあくまでも信仰、思想の上での真実、と考えているのか、イマイチ判然としないところでしたが・・

 参加者との語らいでは、皆さんは「科学的」な事実、と思っている人はおらず、大事なのはそこにこめられた信仰、思い、願いである、ということで、私にも理解できる考え方をする人が大半でホッとしました。いや、これまで、「これは本当だ、全部、物理的にもあったことなんだ」と言い出しかねない人と出会うことが多かったんで・・・。

 あと、ニッキ−氏の話で興味深かったのは宗教離れ、宗教嫌いは必ずしも日本特有の現象ではないこと。ニッキ−氏自身、英国人ですが、若き日はキリスト教、教会のことなど全く無関心で、学生時代のル−ムメイトが、教会に通い出したのをみて「ヤバイんじゃねえの」「変な教えをふきこまれなきゃよいが」と心配したそうです。また、あちら(英国)でも「キリスト教は関心ないけど、イエスはいい人ね」なんて日本人みたいなこという人はゴマンといるようですね。

 他には私が、キリスト教とか宗教への偏見、つまり、わけわかんない話を盲信する、みたいな先入感を改めさせてくれたのは、遠藤周作氏の「私にとって神とは」でしたが、私と同年代の方でやはり同じ過程を辿った方がおられまして、話が合いましたね。

 塩梅さんの元の教会、お話を聞く限り、私の基準ではこれはもう立派なカルト、一信徒の個人的トラブルのレベルを超えているように思えます。個人的な生ぬるいアドバイスや気休めでどうにかなるような話ではないような・・。どこか然るべき相談機関(例えば宗教、カルト被害者救済のボランティアとか、伝統的教会でカルト被害者の相談に応じているようなところなど)に相談されたことはあるのでしょうか?でも、今更、古傷を蒸し返すのも酷ですよね・・・。

>また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。

 私がキリスト教に反発を感じたのは、初詣、七五三、仏式の葬儀の際のお焼香拒否でした。別にそれらの風習に思いいれや思想を持っているわけではないのですが、考え方がイヤです。
 それらが、江戸時代の踏み絵のように信仰を試すものであれば、拒否するのも致し方ありませんが、そんな意味を込めてこれらの行事、風習を続けている日本人なんてほとんどいないはずです。じゃあ、キリスト教の葬儀や行事で「俺はクリスチャンじゃないから」といって、祈りなど、キリスト教の伝統をことごとく拒否する人がいたらどう思うのか?そういうこと考えないのかな、なんて独りよがりな、なんて反発がありました、というか今もありますね。

 そういう頑なというか、未信者との協調を考えないような信仰をする人が少ない、ということで(それだけではないですけど)カトリック教会に流れたんですけどね。

247Sekko:2007/09/24(月) 23:56:57
お気をつけください
この直前、1件削除しました。このコーナーを宗教の掲示板として使うことはまったく問題ありません。しかしあくまでも竹下節子の考え方のシンパであることがこのサロンのメンバーの条件です。ここでは、いっさいの勧誘や布教はしませんし、どこかの宗派をめぐる内部の対立も持ち込まないようにお願いします。建設的でないもの、適切でないと判断したものははすぐ削除します。

 さて、復活についてですが、復活を物理的事実として原理主義的にしがみつくあまり一人の人間だったイエスの人生の意味を無視する人たち、また逆に「人間イエス」にのみ固執して復活は宗教的蒙昧や単にシンボリックな者として切り捨てるグループ、どちらも本当のミステールが見えなくなる危険があります。

 少なくとも最初の弟子たちがイエスの体の復活を事実として見て、信じた、そこからキリスト教が生まれ、それを語ろうとしてイエスの記録である福音書も編まれたのですから。復活が事実かどうかとは別に、復活を事実とした使徒たちの確信を抜きにしてはキリスト教は語れないと思います。
 そのイエスを神としたリ、唯一の救世主キリストとしたのはまたその後の展開です。まあ、刑死した人が復活、子なる神とされる、というかなりアクロバチックな展開のおかげで、偉大な神、裁く神、罰する神、のイメージから、苦しむ神、悲しむ神、寄り添う神へシフトした部分があるんで、それはなんというか、宗教に、限りないやさしさをもたらしてくれた感じですね。

 イエスの死と復活のストーリーとそれを信じた人たちを通して「全知全能の絶対神」の孤独や犠牲とかを考えると、この世で有限である自分の命に対してもなんか、すなおに受け入れられる気がしてくるんです。

248迷える大羊:2007/09/28(金) 21:32:27
麻生太郎さん
 復活をどう捉えるか、は本当に難しいですね。どんなにリベラル、現世的、合理的な考えをする教派でも、これを否定はできないし、否定してしまうと、どうして、卑怯だったり愚劣だったりした弟子たちが、殉教も辞さない強固な信仰の持ち主になったか?の説明がつかないし、実際、キリスト教が成立することもなかったでしょうし。といって丸呑みしてしまうのもこれまた受け容れ難いものがあるし・・。

 ところで、話が変わりますが、自民総裁選で惜しくも敗れてしまった麻生太郎氏。政治家として彼を特別支持しているとか、人格的に敬服しているってわけではないのですが、彼をみているとホッとすることが多々あります。
 つまり、「ああ、こういう人でもキリスト教、カトリック教徒やっていられるんだ」という意味で(失礼!麻生さん)。

 ほら、なんとなくあるじゃないですか、日本でキリスト教徒、というと下品なこと、特に下ネタ禁止、いつも穏やかで人格円満、ビジュアル面では男性の場合は開祖イエスを筆頭に優男風のイメ−ジ、あるいはマザ−テレサのようなやたらと立派な人、ボランティア精神あふれた人、みたいな・・。

 麻生氏の場合、こういう日本におけるキリスト教徒のイメ−ジをことごとく打ち破ってくれる、という意味で「すばらしい」クリスチャン、カトリック教徒だ、と思うわけです。何しろ口が悪くて余計な敵を数多く作ってしまう、人相も大変失礼ながら、どちらかといえば悪役風、少なくとも優男風のイメ−ジでは全くない。弱者救済に特別熱心、という風でもないし(別に批判も肯定もしているわけではないです、口や言葉でいうほど簡単なことではないとおもいますし)上にマンガオタク・・。

 かくいう私も、下ネタ大好きでスケベですし、ボランティア活動など立派だ、とは思うけれど、自分自身がやるとなると、住んでいるマンションの管理組合の役員程度でもメンドクセ−、なんで休日にこんなことせないかんの、とぶつぶついうタイプ。電車でも、誰がみても明らかに身体が不自由で、という方なら別ですが、お年寄りを見ると率先して席をゆずり、なんてタイプでは間違ってもない。
 マザ−テレサ氏など、あまりにすごすぎてとても同じ人間とは思えない、感じです。また、腹の立つことをいわれれば相手が年長者、上司でもつい声を荒げ、場合によってはケンカもしてしまいますし、「右の頬を打たれたら、左の頬を・・」なんて心境は実感としてさっぱりわからないですしね。

 あと、麻生氏の場合、キリスト教徒ですが、靖国公式参拝も行ってます。政治家の靖国参拝の是非については、これまた議論がいろいろ割れるところで単純にどうこういえる問題ではないですが、神社仏閣というと、異教、偶像崇拝、真の神ではない、などといって切り捨てるクリスチャンと出会うことが多かった私には、政治の問題とは別に「ああ、こういうキリスト教徒もいるのか」という感じで、むしろ、ホッとする要素だったりします。

 つまり、復活信仰と並んで私にとってのキリスト教への障害である、やたらと高邁な道徳律、倫理観、唯一神への窮屈きわまりない絶対服従を要求されて、重苦しい毎日を送らなくてはならないのでは?という憂慮を身をもって取り除いてくれる存在、ということで、麻生氏は私にとって貴重な存在なのです。

 もっとも、政治家、芸能人、文化人などの著名人のイメ−ジって多分に作られたものもあると思うので(特にメディアが高度に発達した現代では)、本当の、素顔の麻生氏がどういう方なのかは存じません。あくまでメディアに露出したイメ−ジを前提にしたお話であることをお断りしなくてはなりませんが。

249Sekko:2007/09/30(日) 00:24:07
日本のキリスト者の責任
 私は昔は日本でいわゆるキリスト教関係の人、と付き合いがなかったので、キリスト教のコミュニティにはじめて参加したのは、フランスです。特に、フランドルなんですが、その村は、もう何世紀も、カトリックしかないんで、全員カトリック、まあ、キリストは氏神みたいなもんで、信者コミュニティはそのまま町内会みたいなものです。

 だから、当然、立派な人、いい加減な人、あきらかに悪いやつ、など、人の数だけいろいろいるわけで、その上田舎だから、へんな呪術みたいなのやっている人までいましたね。そんな村の出身で、スピリチュアリティに目覚めた義妹は、パリにでたあと、チベット仏教のコミュニティに入ってしまいました。

彼女の指導ラマであるチベットのお坊さんは、家族の洗礼とかある度フランドルの教会にも出入りしてました。

 フランスでチベット仏教やれば当然マイノリティなので、変な行動を取れば即カルトだと思われるから、倫理規範というか外から見える「正しい行動パターン」が自然と要求されます。カトだと、日本の浄土真宗とかと同じで、そういうプレッシャーはないですから。でもたまに、いかにも信仰が篤くて、いつもせいいっぱい誠実に篤実に生きていて、ああいう人だったら、死ぬのも怖くないだろうなあ、と羨ましくなる人もいます。それは、どの宗教でも同じでしょうね。

 日本だと、キリスト教がマイノリティなので、日本でキリスト者、っていうと、その人の生活態度とかが、「信者だからああなのか」と思われがちですから、何か、責任のようなのがでて来ますね。

でも、理想は、人間として誠実に生きていて、人の信頼を得て、後で、あの人、カトリックなんだ、じゃあ、あの人の信じてるものを信じてみようかなあ、と人に思わせるような展開でしょうね。

 でも、最終的には、何教とか何の宗派なんてことよりも、愛とか連帯とか、弱者を支えたり、弱者に譲歩したりとかいう精神を実践すること、それが一番じゃないでしょうか。そのためのガイドラインなら、宗派や文化の違いはこだわらなくてもいいんじゃないかと思います。

何かに帰依したからといってそういう行動が自動的に獲得されるわけでないのは当然で、でも、理想があるからこそ、多少ともいい方向に向かえるんで、規範がなければ人間なんて、どんどん悪い方、下劣な方に流れますからね。
各種の戒律って、すごい智慧かもしれません。

あっ、ほっといてもまっすぐな人間ってのもこの世にはいますよ。何してもねじくれてる人もいるように。だから、連帯、が大事なのかも。

250迷える大羊:2007/10/01(月) 22:48:22
キリスト教徒の歴史観
 ここのところ、カトリック教会ではペトロ岐部、原主水などの戦国末期から江戸時代にかけての殉教者がよく取り上げられまして、ちょくちょく覗きにいく教会でも、ゆかりの地の巡礼ツア−、遠足などをやっていたりしますね。。

 もちろん、この時代に殉教していった多くの信徒や司祭は個人としては純粋に頑張った、立派とも思います。だけど、私の歴史観だと、だからといって、キリシタンを弾圧した秀吉、家康や江戸幕府が単純に血も涙もない極悪非道な連中で、キリシタン、キリスト教側がこれまた単純に一方的に苛められるばかりの善意の人たちばかり、とは思えないんですよね。

 キリシタン大名の領地では逆に仏教神道が迫害されて、神社仏閣が破壊されていましたし、ロ−マ教皇に土地を寄進までした大名もいたし、あの当時のキリスト教、宣教師といえば、植民地獲得の露払い役的な役割があって、現にフィリピンなどその土地の伝統文化、宗教がすっかり破壊されてしまって、国名までスペイン国王の名前になっちゃったわけですよね。(後の時代のハワイなどもやっぱり伝統文化、宗教がすっかりなくなっちゃいました)

 それにキリスト教って今でも、他宗教、他の伝統宗教に対し、非常に排他的な態度を取る信徒、聖職者が少なからずいますよね。まして、この時代ならなおさらで、ザビエルはじめとする宣教師たちも、キリシタン大名の領地で仏閣、寺院が破壊されることを褒め称えていたわけで、私など、この時代、日本がキリスト教国にならなかったのはむしろ幸運なこと、今でもキリスト教徒の人口比1%以下なのは、残念でもあるけど、一方で一つの国としてはある意味では健全、精神的に独立している証拠で必ずしも悪いことじゃないな、とも思っていたりします。

 大体、同時代(戦国末期〜江戸時代初期)に逆に日本の僧侶や神官があちら(ヨ−ロッパ)に行って、自由に仏教や神道の布教活動ができたのかどうか?同じキリスト教内でも異端だ、魔女だとかいって殺し合いしてましたし、キリスト教徒でなくなる、つまり教会から破門されることは、社会生活が営めなくなることを意味するわけで、だからこそ、ガリレオも涙を呑んで、地動説を撤回したわけですよね。こんなところにとても、他宗教が入る余地があったとは思えません。多分、寺院を建てたり、信者獲得の間もなく、あっという間に逮捕、宗教裁判にかけられるのがオチであるような気がします。

 それに対し、日本ではある期間まではキリスト教の布教活動ができたわけで、それなりにある程度までは受け容れられたわけですよね。秀吉や家康にしても最初からキリスト教迫害をしていたわけではなく、当初は好意的だったり黙認していたりしたわけで、この時代に関していえば、日本の方がどう考えても、キリスト教国のヨ−ロッパより、今でいうところの「信教の自由」があり、宗教的には寛容だった気がします。

 要するに、話を戻せば、多くの殉教信徒や殉教司祭の頑張りはわかりますが、単純に感動できない、むしろ迫害する側の考えもわかる気がするなぁ、というのが私の歴史観なんですけど、こういう考え方をする人間ってクリスチャン、カトリック教徒としては受け難いですかね?そりゃ、まあ、保守的な人にはいい顔をされない考え方でしょうけど・・。

251Fusako:2007/10/01(月) 23:02:06
マルタの話
最近、キリスト教の女子校出身の友人たちと、一人は同窓の友人、一人は別の学校の若い友人と話す機会があって、「猫のソシアル」に出ているたとえ話のことをきいてみましたら、二人とも、マルタの話に納得できなかった、とやはり言っていました。わたしも含めて、三人とも、学校時代はキリスト教にも、お嬢さん学校的女子校の雰囲気にも反発していた口で、若い人は、「不合理なたとえ話」にはいまだに納得できないようでしたが、同窓の友人は、わたしと同年代でけっこう大変な暮らしを経てきていまだにタイヘンという人で、わたしもですが、自分が「10タラント」の人間とは特に思わなくなっているし、まあ、人それぞれがそもそも同じタラントで一直線上に並べられるものでもないと思うようになっているので、「なかなか味わい深いものがあるたとえ話よねー、信者じゃないけど、若い頃にキリスト教に触れたのは良かったわ」と二人でうなづきあった次第でした。

252vino:2007/10/08(月) 10:01:26
まず、御用ありきでして・・・
このマルタとマリアのお話はいつも胸に深く染み込んでおります。まだまだ私程度のレベルですと、礼拝中も<この後、あの件を○○さんに確認して、来週のあの事を××さんと相談して・・・>という感じで教会へ出掛けるイコールまずは御用!!になってしまいがちです。神様にはちょっと失礼しちゃう事ばかりです。いくつかの事を同時進行でできる能力はそうそう授かるものではないですよね・・・。思えば、求道中の方が今よりもずっと素直で熱心でした(笑)  キリスト教は逆説の信仰とも言うそうですからボチボチと、できる人ができる時にできる事をするよりないのでしょうね。

253Sekko:2007/10/08(月) 17:58:09
いろいろ
大羊さま、
この夏、江戸時代のキリシタン狩りでキリシタンを告発したら賞金がでて、身分の高い人なら高額、一般人でも今にして700万円ももらえたので、貧乏なうちは家族の一人を無理やりキリシタンとして売った、という話を聞きました。なかには、キリシタンのことに無知で偽物だとばれてしまった人もあったそうです。
日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。
「えーい、邪魔だ、皆殺し」とか感情的なとこがあまりないんですね。それだけにより怖いとも思います。ヨーロッパの連中の魔女狩りとか先住民狩りの方が単純といえば単純かもしれません。悪における洗練の問題って、倒錯的ですが、必ず傑出した天才が隠れているので、凡人には平凡な悪しか手が届かないみたいです。だからと言って害が少ないわけではないですけど。

Fusako様、vino様、
人生って、生存に必要なメンテナンスと、生活に必要な義務と雑用と、それがメインで、スピリチュアルな部分って、嵐の夜の閃光みたいなものかもしれませんね。でも、逆に、超越的なものの陽光にずっと照らされていたりしたら、かえって誰もそれに気がつかないかも。
一度でも光を意識できた人が、その記憶にすがって長い信仰の夜を生きていく、ていうのが普通かもしれません。マザー・テレサの50年にわたる信仰の夜が最近話題になりましたが、彼女は神がいないといったんじゃなくて、隠れてる、見えない、と苦しんでいたんですね。
「見えないときは気にしない」、天気や昼夜を変えるわけにはいかないんだから、と不可知論的にあしらってもいいんじゃないでしょうか。信仰に基づいた行動規範さえあれば(マザーテレサがそれで50年やってきたように)いいんですよ、きっと。

254迷える大羊:2007/10/13(土) 16:34:30
カトリックとロ−マ帝国
 >日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。

 イジメにしても欧米がストレ−トなもの言い、行動をするのに比べ、日本は精神的に追い詰める、疎外していく、というパタ−ンが多い感じですよね。しかし、金目当てに家族売るんですか?旧約聖書にも確か、優秀で親の覚えもめでたい末っ子をエジプトに奴隷として売り飛ばす、とんでもない兄貴たちの話がありますが・・。昔は子供を売り飛ばすことって今考えるほどとんでもない話じゃなかったんですかね?

 ところで、話変わりますが、私がキリスト教の中でもカトリックに近づいた理由として、もちろん、感覚や考え方に違和感が少ない、ということが第一ですが、古代ロ−マ人の感覚、文化を色濃く残している宗教、教派ってこともあるんですよね。

 いささかミ−ハ−で恐縮ですが、塩野七生の「ロ−マ人の物語」とか「スタ−ウォ−ズ」(宇宙が舞台になっていても、皇帝やら元老院やらが出てきたりして、そこで展開される世界はまるっきり古代ロ−マ帝国)、「ベンハ−」、「スパルタクス」、「グラデュエ−タ−」などロ−マ帝国関連の小説、映画が大好きだったりします。

 カトリックの場合、マリア崇敬は昔のロ−マ人の女神ビ−ナス信仰がマリアに置き換わったもの、と聞きますし、教皇制はかつてのロ−マ帝政の制度の影響をある程度受けたものなのかな?と思いますし。かつてのロ−マ帝国では国家に貢献した皇帝、軍人、著名人は元老院の承認の上、神に祀り上げられましたが、カトリックの聖人とか福者というのもその名残なのかな?と思ったりします。あと、昔はラテン語でミサを行っていたこともロ−マ帝国の匂いを色濃く感じるところですね。

 また、カトリック教会が比較的、異教の風習、文化に寛容で抵抗なく取り入れるところもかつてのロ−マ帝国、ロ−マ人の気質と共通するところを感じるんですよね。

 当方の勘違いなのかもしれませんが、こういうカトリックの諸制度や考え方を見聞きすると古代ロ−マ帝国の影響をかなり感じますが、実際のところ、どうなのでしょうね?

255Sekko:2007/10/14(日) 05:05:09
そうですね。
少なくとも今の大手の、いわゆるカトリックって、ローマ帝国の版図に広がったローマ・カトリックだし、今に至るまでのインカルチュレーションのやり方とか、ローマ帝国の広げ方と似てますよね。

そういった古代のギリシャ・ローマ系の土台に、かなり異質なパレスチナの荒野の一神教が接木されてしまったところがハイブリッドで興味があります。

まあ、私のいるフランスなんかは、ラテンとケルトとゲルマンのまざった辺境だったんで、そこを地中海系の高度な文化や宗教が席巻して、それでもある程度自己流に変えてお茶を濁しちゃってます。

日本に道教やら仏教やら儒教やらが大陸から入ってきたのを日本化しちゃってるのと意外と似てるなあと思います。

旧約聖書のヨセフを兄たちが売ったのはどっちかと言うと嫉妬のせいです。貧乏のせいじゃないですよ。
でも貧乏な家族が生き延びるために子を売るなんて、昔は珍しくなかったのでは? 口減らしに奉公にやっちゃうのはもちろん、女の子を遊郭に売ったなんてよくある話です。だからいいってわけじゃないけど。
その金はたいしたことなかったと思うんで、それに比べたら、キリシタン告発でもらえる金はいかにも大金だったと思います。
家族内部でのキリシタン告発でも金をやる、これはけっこう私にとって盲点だったんで、他の国のキリシタン弾圧にはなかったんじゃないかなあ、と思います。誰かに調べてほしいですね。

256greencurry:2007/10/19(金) 10:01:40
弱い父ヨセフ
Sekkoさま、「弱い父ヨセフ」読み始めました。まだほんの数ページですが、今まで知らなかったことがいっぱい出てきて興味深く読んでいます。
それで、とっても基本的なことをお伺いしますが、プロテスタントは聖人信仰という迷信を排除した、というくだりがあったと思うのですが、
聖人信仰はカトリックだけのものなのですか?
あとギリシャ正教とかにもあるのですか?

257管理人:2007/10/24(水) 11:57:43
特定の宗教の宣伝不可
サイト管理人です。
このサイトでは、特定の宗教の宣伝は不可とします。
したがって、そのように私がみなしたものについては削除します。
よってこの直前の投稿については削除いたしました。

258太陽丸:2007/10/25(木) 21:55:15
感謝 感激
なんだか竹下さんのサイトみていると、毎回、エンパワ−され、元気づけられます。本当に、ありがとうございます。

 私が共鳴、エンパワ−された竹下語録を以下に。

 1、理想が、戒があるからこそ、人は悪手を少しでも減らすことができる。よって、各種 の戒律、規範はすごい智慧であること。
 2、何宗教、名派なんてことより、愛とか連帯、いたわり等の精神の実践のほうが大切。
 3、人生は、悪手の山河、嵐、泥沼を渡り歩いているようなものだが、いつしか、来たる 超越の光にてらされるまで、その闇夜をバランスのとれた紳士な精神で、はっきりした理 由は証明しきれなくとも、続けることが大切である。
 4、信仰というのは、理性とか利害とかを超えた、突き抜けた行為である。それ故、危険 な面もあり、真実も含まれている。
 5、結構、現状が劣勢で、外部が崩壊してきていても、内部を充実させるチャンスである こと。外部が結構、崩壊しても、自己イメ−ジのク−ルな下方修正によって、相応の喜び は得られるという救い。
 6、猫の存在から愛の感覚へのインスピレ−ションのありがたいお話。

まだまだ、感謝語録は満載ですが、とりあえず、私の勝手な味付けも加えながら、とっても元気づけられたことを、感謝、申し上げます。

ありがとうございました。  文は下手です。

259太陽丸:2007/10/28(日) 18:35:32
ごめんあそばせ
質問じゃなかったので、別掲示板に投稿すればよかったですね。
では。

260Sekko:2007/10/29(月) 02:25:59
いえいえ
 こんな風に言っていただけると、何らかの形でこのサイトがお役に立ってると思ってうれしいです。
 言葉が人を深いところで変革する力を持っているというのは、私も実感しているので、そういう言葉を醸成できるような心の余裕を持ちたいです。今読んでいるChristiane Singer という作家によるエロイーズの手記の中に、啓示とは、幻想の調和世界に亀裂が入ることで、そこから内臓に穴が穿たれた時に、人は、はじめて真実に向き合う用意ができるという意味のことが書いてありました。
 言葉って、ただ脳内世界で構築されたものじゃなく、内臓の傷を通して生まなきゃいけないんだなあ、とか思いました。
 これからもよろしくお願いします。

261太陽丸:2007/10/29(月) 19:48:51
お忙しいなか、ありがとうございます
ほんと、竹下さんの、著作やサイト、交流作業によって救われている人はたくさんいると思います。
そして、ご返信ありがとうございました。私には、少し難しくて、深くは理解できません。
でも、思い当たる節としては、例えば、日常生活において、紳士的でない邪念(実に、さまざまな形状、種類がありますよね)が脳内に生じたときに、それを打ち消すポジティブな内語をつかうのですが、容易に打ち消せるときはよいとして、身を切るほどつらい、抵抗感のあるケ−スもあります。
まるで、体中に泣きがはいるほどストイックでつらいときもあります、そして、そんなときにオ−ラみたいなものが大きく立ち上がる感じがするのです。つまり、体、精神の根源的なツボにふれて、正解の合図なのかもしれないなどと感じています。
このような、体中に、泣きがはいるほど辛い、身を切るようなポジティブな打ち消しの内語で対処する作業のときに、もしかして、内臓にも泣きの傷が刻み込まれて、刻印されて、それが、その人の身体性に反映され、その変化した身体性から、その人ならではの、独自の言葉、まさに、マニュアルでない、身を削ったエネルギ−のあるい迫力いっぱいの言葉や響き
言霊がうまれてくるのかもしれないと感じました。

少しは、合っているでしょうか?  末永く、よろしくお願いいたします。

262迷える大羊:2007/11/12(月) 23:17:58
クリスマスって・・
 クリスマスが近いんですけど、いつも感じる疑問。クリスマスって元々、キリスト教の祭りではなくて多神教時代の古代ローマ帝国にあった太陽神信仰の宗教のお祭りですよね。
 保守的なキリスト教会だと七五三や初詣などを異教のイベント、崇拝として拒否しますが、だったらクリスマスはなんでOKなんだ?といつも思ってました。
 冗談抜きで誰かこの疑問にスジの通った説明ができる方、いらっしゃいませんか?

263Sekko:2007/11/12(月) 23:33:38
クリスマス
 それは、ちゃんと意識的に、太陽神の祭りを置き換えるために教会がわざわざ冬至をクリスマスに設定したんですよ。日照時間が一年で一番短くなり、次の日からまた長くなるので、死と再生のイニシエーション儀式でもあるし、救世主の「誕生」のシンボリズムともぴったりだったんですね。ユダヤ人がエジプト時代に太陽神の信仰に触れたことで、それまでの民族神が普遍的な一神教に進化したという可能性もあるし、もともと、地球上の生物にとって、すべての生命の源のような太陽は「一神教」か、少なくとも「最高神」になりやすいですからね。
 教会はたいてい主祭壇が東にあって、朝のミサは、昇る
朝日に向かって捧げられる形でした。太陽の運行の方向や高さや日照時間を無視した宗教なんて、古代には成立しなかったでしょうね。その後も1月1日のヤヌス神の祭りはイエスの割礼の祝日だとか、太陽カレンダーや異教カレンダーをイエスの生涯にうまく当てはめてうまく調整していったわけです。七五三まではちょっと無理でしたね。

264迷える大羊:2007/11/12(月) 23:50:59
信じる理由
 現在、とあるカトリック教会の信徒有志が運営する、アルファコースという学びで様々なカトリック信徒、予備軍の方々と交流してますが、思ったより面白いですね。単に仲良くやっていけそう、というだけではなく、肝心の宗教観も私とそう大きく隔たっておらず(他宗教に寛容、積極的に理解する姿勢がある方が多いところが好感が持てるところですね)。意外と私と同年代の人間も結構いて、これは教会員としてもやっていけそうかも?という感触が現在のところあります。一緒に参加した妻(いささか保守的なプロテスタント信徒、結婚しました)もカトリック教会への印象が良くなったみたいで、「**(私のこと)ここで受洗してもいいんじゃない」といっております。彼女自身は特に改宗する予定はないですが、身内を預けても問題ないし、教会は違っても同じ宗教に居場所を見出してくれるのは単純にいいこととと思ってくれたみたいです。

 ただ、俺は本当に神様って信じてるかな?というと微妙です。もちろん、無神論者なわけはありませんが、強烈に信じている、というより、神様がいる、と仮定して生きた方が人生楽だし、筋の通った生き方ができるかもしれないな、という程度の認識なんですよね。
 正直、聖書が「誤りなき神の御言葉」とまでは思えないし(価値は認めてますが)、理解しがたいことは山ほどあります。

 ただ、遠藤周作氏の受け売りみたいになるんですが、「90%の疑いと10%の希望。その10%の可能性に賭けてみる」といった感じの心境といったところでしょうか?
 こんな感じで受洗なんて可能なんですかね?カト、プロ問わず受洗されたクリスチャンの方の受洗時の心境っていかがなものでしたでしょうか?

265Sekko:2007/11/13(火) 03:15:24
おめでとうございます
 結婚されたんですね。おめでとうございます。
 奥様のカトリック観も軟化(?)したみたいでよかったですね。受洗は到達点じゃなくて出発点だと考えるといいのでは?
 結婚生活もそうですよね。大羊さんの毎日がすてきなことでいっぱい満たされますように。

266迷える大羊:2007/11/13(火) 21:41:38
毎度お世話様です。
 なるほど、相性が良い風習をうまく調整して取り入れた、というわけですか。でも、やっぱりまだちょっと釈然としないところはありますねぇ。ヨーロッパの異教ならOKで日本の異教はペケですか?所詮は欧米人のための宗教なのね、みたいな感じがして。
 実はこの異教のあまりに頑なな排除がキリスト教への大きな抵抗の一つでもありましたから。
 そう思っていたら、カトリック教会って七五三のミサやってたりして、お、公平じゃないか、話がわかるではないか、と感心したことが、カトリックっていいよね、と思った理由の一つだったりします。

 受洗に至る過程、その時点での信仰度、心境は、また信徒の方にアルファコースで出会った際にじっくりお話を聞いてみよう、と思います。

267Sekko:2007/11/14(水) 00:50:11
七五三のミサ
 へー、七五三のミサなんてあるんですね。知りませんでした。

 ヨーロッパの異教はOKで日本のはだめ、ってわけでなく、ローマ帝国の版図にキリスト教が広がる過程で、先行するギリシャ・ローマの多神教とどう折り合いをつけるかという戦略だったんでしょう。

 それを見すえて典礼カレンダーを整備したわけです。で、日本に宣教、って時代には、すでに帝国主義的メンタリティだったので、インカルチュレーション、なに、それ? って状態だったんでしょうね。

 でも、中南米とか見てたら、やはり帝国主義メンタリティで布教されたにもかかわらず、インディオの宗教とかアフリカからの宗教とかがカトリックと習合してブードゥーみたいなものすごい繁殖力を持ちましたから、何が何でも力で制覇するってのは、心の問題や死生観のかかわる分野では所詮無理なのかも、です。

 日本人は真面目だから、そして、中央集権がが確立して来た時代だったから、中途半端な習合に至らずに、完璧追放と弾圧にふみきったのかもしれませんね。仏教を神道と習合させてしまったような業をもう一度使うには、キリスト教は一神教過ぎた、ってことなのでしょうか。

268vino:2007/11/17(土) 15:30:59
(無題)
大羊さん、ご結婚、おめでとうございます。人生の墓場の先輩として、お喜び申し上げます。いえいえ、墓場はオーバーですが、何がどう回っても、大変な事の方が多いのが人生ですものね。既婚、未婚、子有り、子無し、関係ありません。  間違っていたらごめんなさい。大羊さん、DのK高校、T先生のBBSで時折見かけるノンクリさと同一人物でしょうか?<S・・・な気持ち>なんて表現もされていますし・・・。私もあちらも良く覘かせていただいています。SEKKOさん、<超越的なものの陽光に照らされ・・・>のコメント、本当にありがとうございます。まさに私が言いたくて上手に表現できなかった気持ちにピッタリです。この数年、<夢で観た>ならかわいいほうで、<声を聞いた>とか<姿を観た>とか、何ですか、<霊的出会い>を強調する人の多い環境におりますので、ホッとしました。(すみません、またまた悪口言ってますね。)  さて、カト〜に七五三のミサがあるように、プロ〜にもこの時期、児童祝福式なるものがあります。S公会の人いわく、上手に当てはめたのねとのことです。時の王様が自分が離婚して再婚したいがために作られたS公会、現代の信徒は妙に達観している人が多いような感じです。濃いFの方はS公会のことをMIXなんて呼んでいてこれまた、びっくりしました。信仰の形や色はほんとうに様々ですね。

269迷える大羊:2007/11/18(日) 10:58:18
そうですよ
 T先生にもいろいろ教えていただきましたし、あちらのオフ会も出たことありますよ。
ネットのオフ会っていうと男性ばかりのことが多いのですが、キリスト教関係はどこも女性が多数派。いつもながら驚きます。

 信仰やキリスト教ではいろいろ困惑したり、悩んだりしましたので、いろいろなキリスト教関係者(ただし熱すぎない人)の意見を聞いてみたくて。そう思っていた矢先にこちらやT先生のサイトに出会ったわけです。
 思いもよらなかった交友(といえるかな?)関係が広がったのは単純に楽しいですね。

270nao:2007/11/18(日) 11:28:26
おめでとうございます。
大羊さま ご結婚おめでとうございます。毎朝、新妻と共にお食事できるのは、新鮮な喜びでしょうね!!大昔をおもいだしますが、私は働き続けていたので、なんだか、バタバタしたことだけが、記憶にあります。教会には行けなくなるし(夫は反対ではないけれど、日曜一人でいることに抵抗しました)さびしかつたことも思いだします。
今日は七・五・三のお祝いのミサでした。子どもが答唱詩篇を歌いました。「世界よ、神に向かつて喜びの声をあげ・・」という詩篇98の歌でした。朗読も子ども。大人よりきれいです。声が若いつて、素敵でした。ミサのあと神父さまから、祝福を受け、メダイを首にかけてもらい、千歳あめの袋に似せて、聖絵がかかれた、お菓子の袋をもらいました。25名くらい。さすがに小学低学年までの子だけでしたが、別に7・5・3歳でなくてもいいようでした。
信仰の入り口は本当に個性的ですね。加賀乙彦さんは「城塞」のなかで臨終のおじさんに「何故神を信じるようになつたのか」について語らせています。「聖書には一つもまちがつたことが書いてない。だから私はイエスの言葉を100%信じようとした。それを信仰の入り口とした」と。遠藤さんは10%の希望にかけた。遠藤さんは加賀さんの代父だつたかな?安岡さんも。男の人つて、自分の意識できめるんだな〜とおもいましたね。私は大学生のころ、3年公教要理(当時はカトリツク要理のことを、こうよびました)の勉強をし、わからんとこだらけで、でも「もういいわ、賭けてみよう」と決心して、親の猛反対をおしきつて受洗。今から考えると、私の精神的自立を果たしたわけです。「賭けてみよう」とおもつたのは、神父さまの生き様に心うたれたからかな・・信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる、と思えたときが決断の時でした。
聖書の言葉はいまでもわからないところだらけです。でも「信仰の書」として、今わからなくても、深い意味があるんだろう、とレスペクトする精神でよんでいます(さぼりですが)
大羊さん 奥様はやはり神様への橋渡しをしてくださつた、大事な方ですね。二重の意味でおめでとうございます。

271迷える大羊:2007/11/18(日) 21:35:25
女性は素直です
 皆様、ありがとうございます。

>信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる

 今日はとあるプロテスタント教会の礼拝に出てまいりましたが、その礼拝で信徒の一グループが受洗に至る過程、経緯をそれぞれ報告されてました。女性ばかりのグループでしたし、信仰に至る過程は皆、様々なのですが、全般的に女性の方々って素直で感性豊かですよね。彼女もそうですが、話を聞くとなんだか自分が理屈っぽい、ひねくれたイヤな奴なのかなぁ、と思えてきます。聖書(特に旧約部分)を読んでも、「うわー、こんなとんでもないこと書いてあるよぉ」とついアラ探しみたいなことはじめだしますし(もちろん、好きな聖句だってありますけど)。

 男って信仰のあるなしに関わらず、素直になれない、弱さを出せない、損な生き物なのかも、と思うことしきりですね。

272迷える大羊:2007/12/22(土) 23:53:57
クリスチャンと休日
 キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

 一応、カトリック、聖公会の場合ですと、ある程度以上の規模の教会に限りますが、平日も早朝にミサをやっていたりしますし、プロテスタントの場合も主に水曜日に祈祷会をやっていたりします。でも、そういう平日ミサのない地方の教会、プロテスタントの場合は休日がうまく祈祷会に当たらない人は実質的に教会活動は無理ですよね。

 まあ、教会に行くばかりが信仰ではないとはいえ、そういう交流がないのはちょっとつらい、というか寂しいものもあるのでは?という気もします。

 どうしてこんな疑問を感じるか?というと私の前職が工事関係で土日出が非常に多く、休日数が少ない職業であったこと、特に中小の下請会社、職人となると「いつ休むの?」といった感じの方が少なくありません。

 また、警察官、消防官、鉄道バス、コンビニ、デパートなどの流通関係に勤務している人も教会生活は困難でしょうね。でも、こういう人々がいなければ世の中は回りません。過去に転職したり世渡りをした個人的経験からいえば、少々乱暴ですが、なんだかんだいっても現在の日本で土日祝完全に休みで存分に教会活動ができる人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないかな?という気がします。

 諸外国のことはわかりませんが、今の日本で完全に土日祝休みの職、業界といえば、なんといっても事務系公務員、大企業社員、実家暮らしなどで正社員になったり、しゃかりきに働かなくとも、とも生活に困らない人などなど・・、比較的「恵まれた」人が多い気がします。

 結局、何がいいたいか?というと、電車を動かし、コンビニで働く、工事などなど、土日祝も休まずに働く職業の人がいるからこそ(人によっては大変ひどい労働条件で)、世の中回っているのに、そういう人々が信仰の恵みに授かりにくく、別にキリスト教信仰の恵みにあずからなくたって十分恵まれていそうな(つまり、土日休みで、なおかつ生活に困らない人々)が存分に教会活動の楽しみを味わえる、というのはなんとも理不尽、とはいかないまでも不条理を感じてしまったりしたからなんですが。

 こういう、土日休めない職業に従事しているクリスチャンの方の知人、友人がいらっしゃる方、彼らの信仰生活ぶりはどうなのか知りたいところですね。

273nao:2007/12/28(金) 09:27:57
偉大ではなかつた生涯 作者不詳
彼は 小さな村に おとめを母として生まれた。
別の村で成長し そこで30歳まで大工として働いた。
その後 3年の間 巡回説教者として村々を巡り歩いた。

彼は一冊の本も書かなかつた。
選挙に出たこともなく 家庭も 自分の家ももたなかつた。
故郷から300キロ以上遠くには旅したこともなく
ふつうの人が偉大だと考えることは 何一つしなかつた。
自分の身一つ以外に 何の肩書きもなかつた。

世評が彼を攻撃し始めたとき 彼はまだ33歳だつた。
友人たちも彼を見捨てた。
敵の手に引き渡され 形だけの裁判でなぶりものにされた。
二人の泥棒にはさまれ
その真ん中に 釘で十字架に打ちつけられた。

死を目前に彼の唯一の持ち物だつた衣服は、
死刑執行人たちのくじ引きにされた。
彼が死んだ時 死骸は 知人の同情で友人の墓に葬られた。

それからおよそ2000年が過ぎ去つた。
今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。

今日に至る歴史の中で かつて進軍した いかなる軍隊も
かつて航行した いかなる戦艦も
成立した いかなる議会も
統治した いかなる王たちも
さらにそれらすべてを合わせても
この たつた一人の人の生涯ほどには
地球上の人間の生に 影響を与えることはなかつた。


遅まきながら、主のご降誕のお祝いを申し上げます。

大羊さん、クリスマスはどのように過ごされましたでしょうか?カト教会のクリスマスは如何でした?福音派のクリスマスは?
私は足が悪い老人ですので、周りの方々のご好意がなければ、教会にはいけません。それは日曜日にミサに行けない方々と少し似たところがあります。
私はつれていつて下さる方が必ず、毎週いてくいださるので(人はかわりますし、たのんでいるわけでもないのに)クリスマスの夜のミサに預かることができました。
そして、大羊さんが書いておられた、教会に行けない人々のことを、しつかり心に刻み、お祈りをしました。またいつも私の生活を支えてくださる方々に幸せがありますように、とお祈りしました。
クリスマスはこういう感謝の気持ちや、不遇な方々のために祈る気持ちにさせてくれるありがたい日です。こういう気持ちが常に新たにされる、ということ自体、私の心をすくつているわけで、改めて信仰のありがたさとその不思議さに思いをいたしました。

うちの教会報にこの詩がのつていました。どこからとつてきたものか、かいてありません。どなたか、ご存知のかたがおられましたら教えてください。この「偉大でなかつた生涯」をおくられた方のおかげで、日々暮らしてゆける老女がいるというのは、やはり奇跡です。

SEKKO先生、大羊さま、VINOさま
いいお年をお迎えくださいませ。

274:2007/12/28(金) 13:24:18
ごあいさつ
はじめておたよりさせていただきます。
あまり模範的とはいえないカトリック信者です。
ことしはほとんど教会のミサにあずかることができませんでしたが、ぎうぎうの通勤電車の中でロザリオを唱えるという生活習慣を確立することができて、
自分ではそのことをよろこんでいます。
主日†主がご復活なさった日曜日すなわち土曜日の日没後†に教会のミサにあずかるのは、信者としての義務!であるわけですが、高校生の頃、パブテスト派のともだちと教会とはどのような場をいうのかと、語り合い、それは「建物のことではなく、心をひとつにする人々の居る場所のこと」であると、話がついて以来、どこで祈るかということでは、わたしは心煩うことを忘れました。金祝(誓願50年)を迎えられたC.N.D.シスタ、ホスチアさまにおかれましては、あり得ない信仰態度であっても、ユダヤ系ポーランド人ドミニコ会士懐疑派の主任司祭トマスさまは、肩をすくめて「余計な邪魔が入らないお祈りはさいわいでしょう」と祝福!してくださいます。シスタはわたしの憧れですが、その謹厳さが頑迷にうつることもありました。
竹下節子さんの著作を読むことで、共感的ではあっても、聖なるものに対して理性的なアプローチがありなんだと勇気づけられました。未読の著作もまだありますし、このサイトもたくさん情報が紹介されていて、きゃほう!です。竹下さんに主の祝福がかぎりなく注がれますように!

信仰にしても、妄想にしても、いつも複数のことを頭においておりますし、道草が好きなので、自分がなにを考えて調べていたのかわからなくなることが、よくあります。おたよりすることで、さまざまなことばが連なればさいわいと考えます。どぞよろしく。

275塩梅:2007/12/28(金) 14:41:36
お久しぶりです。
大羊さま

>キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

私は昔、介護職員でして、土日休みはまずあり得ませんでした。
当時通っていたところが、超教派で日曜日夜に集会を持っていたため、宿直・夜勤明けとか早番あがりで努力をしていましたが。しかし、それでも、毎週とまではいかなかったです。しかし、そのうち集会で知り合った夜間神学校のスタッフの女性がその学校の聴講に招いてくれるようになり、そこで一種埋め合わす形でした。
ただ不規則勤務でしたので、気力のみで乗りきった感じです。無理はしなかったつもりなんですけど、そのうち持病の発作が頻回になってドクターストップがかかってしまい、職場を辞めて療養の形になり…今に至ります。

当時の同業、また看護士の人たちに聞くと、

「夜間勤務のみにしてもらって、規則的な生活を取れるようにしている」

という人もいました。しかし、そういう条件で雇用いただける場所は限られているのではないかと思います。

介護の仕事を辞めてから、いくつかの仕事、家族介護を経由しましたが、特に家族介護しているときが教会に通いたくても通えない時期でした。そういうことで、私もロザリオを覚えたのです。数珠(…)の扱いが苦手な頃は、両手の指とかでやってました。未だに指でやる癖があります。信者でない家族への遠慮もあって、家ではなるべくそっとやってます。あと、自分のいける日でお聖堂に入れる時間にそっと入れていただいてお祈りさせていただくこともあります。そこは神父さまやシスター、教会事務の方にご理解をいただいてなんですが。私の場合は、率直に相談してよかったようです。

そう言えば、もう年末なんですね。このBBS管理・閲覧者の皆さま、どうぞ良いお年を。

276Sekko:2007/12/29(土) 01:31:42
みなさま、よいお年を
 おー、このコーナーはなんだか心優しい人の集まるあったか掲示板化してますね。ありがとうございます。日本のキリスト者の方、みなさん誠実ですね。フランスで葬式カトリックをやってる人たちとはえらい違いです。

 でも、私の中で仏教があまりインド的でないのと同じように、フランスにいるせいか、キリスト教って、パレスチナ起源とか、世界宗教というより、コーカソイドご用達だよなあ、という気がします。

それで、

「今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。」

 って言われると、教会報的にはもちろんマルでしょうが、「全人類」とか「最重要」って形容されると、ほんとかよ、と突っ込みたくなることを告白します。

 キリスト者のみなさん、「彼」の死後(というか復活後)、2000年も、あなたたちは、彼のメッセージに忠実でしたか? 「向上」しましたか?
 すみません、けちをつける気はありません。
 軍隊やら戦艦や王たちよりも、長きに渡ってメッセージを発し続けるイエスという存在に感謝します。毎クリスマスに、これでもか、これでもかって、デジャヴの生誕シーンによって、光と希望を与えてくれることにも。

 パキスタンでベナジル・ブットがテロにやられましたよね。その後の暴動でさらに20人近くが死んでます。その20人は「その他大勢」あつかいです。そんなことすべてに不条理を感じる年の瀬です。「自分以外の人も大切にする」って、そんな単純な唯一のことを誰も守れないんでしょうか。
 この世には権力や経済や政治のパワーゲームがある。環境問題も格差問題もある。それらの問題の答えはもちろん一つではありません。
 X+Y=5 という式があったら、それは「不良設定計算問題」です。
 マイナスの整数やら少数もOKであれば、答えは無限にあるからです。
 でも、計算の拘束条件があれば?
 たとえば、自然数だけといえば、可能性はぐっと減ります。
 この世の複雑な問題も、「他者を大切にする」っていうルールさえ設定すれば、限りのない相対主義やカオスや憎悪の増幅には向かわないだろうに。

 宗教の教祖たる人は、釈迦でもキリストでもみんな口をすっぱくして利他を説いているのに・・・
 確かに、「彼」だけは、賛同者にまで見捨てられ、敵になぶりものにされてこの世の第一幕を閉じました。それは、胸を締めつけられる出来事です。だから、「彼」を信じる人はせめて、他者の不幸に共感力を持てる人であって欲しいです。
 すみません、なんか、空気を暗くして・・

 空頭さま、伝統キリスト教は理性的アプローチを含んでいますよ。ギリシャ哲学の牙城に切りこんでいったんですから、理性をツールとせずにはおれなかったんです。去年の秋、教皇がドイツでうっかり言っちゃったのはそういうことです。カトリックと理性は古くから野合しました。だからこそ、カトリック無神論は大きな力として成立したり、西洋近代が生まれたりしたんです。
 その意味で、プロテスタントやイスラムが文句を言ったのは無理もないです。
 まあ、内部にこういう絶対のパラドクスをかかえてるところがカトの魅力でもありますが。純然たる「信仰」には、理性は太刀打ちできませんから。

 というわけで(どういうわけ?)、お仕事やましてや肉体的ハンディや介護などのため、教会にいけない方、全然気に病むことはないと思います。自分を必要とする他者のそばにいる、ことほど、大切なことはないでしょうから。教会法上、教会に行くことは義務となってますが、あなたのそばにいて助けを必要としている人の役に立つことの方が、「義務を果たすよい信者」でいることより優先すると私は思います。「彼」だって、きっとそう言ってくれると思いますよ。

277迷える大羊:2007/12/31(月) 14:42:27
皆様よいお年を
 この年末は残業、また残業の猛烈な忙しさで、おまけに風邪ひいて寝込んでしまってさんざんでした。

 クリスマスはどこの教会もやることは一緒ですね。行きましたよ、カトリックも福音系も・・。まあ、ちょっと福音派の教会については大袈裟に言いすぎたきらいがなきにしもあらずですね、我ながら(私にとってはあの伝道熱心さ、クリスチャンホームへの異様なこだわりが困ったところなんですが)。NAOさん、足が悪い、というのは初めて聞きました。階段の多い都会で何かと大変とは思いますが、この年末年始、不慮の事故には十分お気を付け下さいね。

 塩梅さんは元介護職員ですか、大変なお仕事ですよね。で、聞くところによれば、大変な重労働なのに給料が恐ろしく安いらしいですね。同じ大学を出て、介護職員なんかよりはるかに労働条件が楽な一般企業のOLの方がずっと高収入、なんていうんじゃやってられませんよね。介護職員に限らず、今の日本で福祉関係の職はおしなべて、低賃金かつ厳しい労働条件を強いられる場合が多いですね。いつまでもボランティア精神あふれる人の献身に期待するのにも限度がある気がしますが・・。

 もっとも、僕は祖母がそういった介護施設に入所していますが、利用する立場からすると、人件費アップで利用料が上がっても困る、というのも偽らざる本音だし、難しいところで、ここでエラそうなことはとてもいえません。

 なるほど、ロザリオというのは、教会に行けない人の祈りの場、という意味合いもあるんですね。教会に行ける、行けないの問題は然るべき人に相談したり、工夫次第でなんとかなるみたいですね。

 僕はプロ・カト問わずあまりに教会べったり、イエス様べったり(つまり、キリスト教以外の価値観とか世界に対する視野が狭い)のクリスチャンって嫌い、とはいわないにしてもあまり望ましいものとは思わないので、教会に頼らず、信仰を自分なりに工夫して保っていくというのはかえっていいことなのかも、と思ったりもします。

 まあ、年末にエラそうな御託をいろいろ並べたててしまいましたが、皆様、良い新年をお迎えください。

278nao:2008/01/02(水) 10:14:49
介護職員の方々
私の夫はカトリツクの特養に3年間お世話になりました。カトリツクの施設なので、信徒の方が職員に多いのかとおもつていましたら、事務のかたは殆どカトリツクなのに、現場の看護、介護職員さん達には一人も信者がいませんでした。外部回りのかたには2名いましたが。現場の介護職員さんは実にいろんな宗教にはいつていましたね。宗教にはいつていない人のほうが、すくないのです。あまりよく知られていない、小さな教団がおおかつたです。その方たちの親切さは、見事でした。手かざし、とか、祈りを唱えながら世話するとか。おおきな教団が力を失なつていることは確かだとおもいました。でもその方たちもミサにはちやんと、参加して、共同祈願をいつてくれました。日本て、いろんな宗教が共存できる不思議な国だとおもいました。
大羊さん、足はたいしたことないんです。大腿部骨折で、杖がないとあるけないんです。それだけ。まあ、少しはあるけますが、遠方は無理なので、皆さんがたすけてくださいます。要介護一を頂いています。お掃除、買い物、通院には介助が必要な身ですが、家のことはこなしています。大げさになりましたね。ごめんなさい。
元旦のミサには帰省した若い方々で、教会がいつぺんに若返りました。クリスマスと元旦だけは若い人で溢れますが、それでも少なくなつた印象があります。まあ、配られたおもちは160個なくなつたようですが・・。

279迷える大羊:2008/01/06(日) 22:09:37
奇跡話とは?
 以前にも似たようなスレ立てましたし、しつこくて恐縮なんですが、私がキリスト教について気になる、いまいち踏み込めないなぁと思うことの一つに「これは個人崇拝の宗教ではないか?」というものがあります。(言い訳めきますが、私だって「彼」のことは敬愛してますよ)

 その象徴的な話が福音書に見られる、「彼」が水の上歩いた、とか死人を蘇らせたとかいった類の奇跡話で、私が最初に関わった教会ではどうもこれを字句通り信じているのでは?といった感じの方が少なくないところでした。彼らは「私たちはそういう能力を持つ神様の存在を信じているんです」とか「自分が信仰を託す神様は一番強くて無敵でないと困るんです」とかいうのですが・・。

 私からすると、もちろん奇跡話自体が荒唐無稽でダメ、ってこともありますが、キリスト教は現世利益を追い求める宗教でない、といいつつそんなものに憧れる、そういう俗っぽい「超能力」を「教祖」「開祖」に期待するメンタリティが理解不能ですし、それでは「尊師は空中浮揚ができる」とか「うちの総裁はチャネリングであの世の著名人とお話できる」とか「先生は世界各国の大学から名誉博士号を受けた」なんてことを信じて喜んでいる、カルト団体、新興宗教の信徒とレベル的に大して変わらないじゃないか!と思うこともあります。

 こういう、カルト団体、新興宗教の教祖様の「超能力」を信じることと、「彼」ことイエスの「超能力」を字句通りに信じることの質的にどう違うのか?おちゃらけでなく真面目に知りたいです。

280vino:2008/01/08(火) 19:05:43
明けましておめでとうございます
2008年も滑り出し、子供達の成長と共に、こちらの老い、両親の老い、そして何よりも時間の過ぎる速さを痛感します。 T先生のブログに<ヨーロッパのクリスマスを経験する事は牧師を現役中は無理>なる意味の事が書いてあり、本当にあのお立場は大変な事ばかりなのだと改めて思わされた次第です。 それこそ、遠方に年の多い親御さんがあるなんていう場合は<その節>にも親の死に目にも会えないですし、親子で牧師の場合も親御さんの<偲ぶ会>に欠席して自分の御用を執り行うわけですし、クリスマス疲れの後の気楽なお正月・・・になるのも無理の無い事です。憧れや思い出でと共にどんなものも少し遠くにありてこそ美しいだけで済むのですね。  我家ではお雑煮やお節料理、年賀状なども日本人の普通の家庭の行事として行っていますが、F派の濃い方々ですと、<あれは良いけれどこれはNG>なんて感じで大変なんでしょうか?  勿論、節分だの、恵方巻きなど、サタンだったりするんでしょうか?  悪口になりますが、そして大羊さんの疑問の答えにはならないでしょうが、イエスをあまりにも担ぎ上げるあの方向性は日本史で習った<摂政・関白>のごとき感じを受けてしまいます。お神輿を動かすのは人間であって結局自分の都合の良い方向へ進んでいるだけなような・・・。 今年は特にアメリカで大統領選挙のある年ですし、<モスリムは悪>ってことにしておけば都合よく済む・・・ってなもんでしょう。 人口のわずか1%にも満たない日本のクリ〜ですが、明治維新以後、政府のお雇い外国人と交流のあった旧・武士階級から信仰が広まったそうです。あの時代、英語が身近にあったり、ミッション・スクールに通うなどほとんどの庶民には別世界の話ですものね。  今も<高収入、高学歴、高意識>な人が多いと言われているようですし、<敷居が高い>感じなのもこんなところからも来ているのでしょうね。本当に必要なところへは届いていないのかしら?病院やホスピスでの奉仕で日曜も教会には来られない方もK団の信徒にはいらっしゃいます。近所のお年寄りの病院やらそれこそお寺さん通いの運転を引き受けていて自分の教会の御用ができない方もあります。勿論、牧師や皆さんの考え方にもよるでしょうが、<必要とされている場所>で働く事は大切だと思います。だからこそ、<時と健康を感謝して・・・>なる表現も多様されるのでしょうね。  寒い季節です、皆さん、お体を大切に。NAO様、ご無理をなさらないでくださいね。  今年もどうぞよろしくお願いします。

281Sekko:2008/01/08(火) 23:21:59
大羊さんへ
 みなさま、今年も宜しくお願いいたします。

 大羊さん、相変わらず「迷える」状態で大変ですね。

 イエスの奇跡とか、超能力について、私は、全然、気にしてません。
 イエスの奇跡は信仰の対象になっていますが、それは、別に証明の対象じゃないですからね。

 ヒーラーといわれる存在は世にいろいろいるみたいだし、ああ、そうですかと思いますが、私は自分にはあまり期待してません。それこそ「信仰が足りない」と思うんで。絶対救ってもらえると思うより、あきらめる方が私には簡単かも、です。

 奇跡譚は、まあ、水上を歩くなら、普段歩いて渡れる川が増水して渡れないのに、向こう岸に行きたいって時には便利かもですが、まあ、船って手もあるし、胡坐をかいて空中浮揚なんて、それこそ、何の役に立つのか・・・って感じです。イエスの「超能力」は同時代的じゃないので別に問題ないです。同じ能力を獲得するために修行しろとか教祖の風呂の残り湯を飲めとか言われるのじゃなければ気にしません。別に特に「尊敬」の対象にもなりません。「超」でなくとも、「能力」を尊敬したい人たちは無限にいますけど。

 大体、聖書の解釈学の歴史を紐解くと、イエスの「奇跡譚」について徹底的に否定した時代や傾向もありました。あれはいわゆるレトリックで、シンポリックな表現なので文字通り受け取ってはいけないとか、新約の中ではパウロの手紙類が一番古いテキストで、そこには奇跡譚は出てこない、福音書は、原始教会がイエスを救世主とした後で編集された教育的言説なので文学の一種である、奇跡譚はその時代のその地方の文学の流れの中で形成されたのだ、とか・・・

 人間が世界を見る視座には、科学的なものと宗教的なものの二つがあります。科学的なものは、仮説をたてて実験的に再現できるなど、試行錯誤的真理であり、宗教的なものは、超越的な視野を持つことです。

 ややこしいのは、ここで「宗教的」といったのは、「キリスト教的」と言うことです。キリスト教以前は、アニミズム的、つまり、「呪術的視座」が普通でした。そこにキリスト教が、ギリシャ的な科学観をツールにして、人を呪術的世界から「解放」しようとしたのですね。しかし、ギリシャ的な科学が、コスモスを閉じた秩序と見てその中に人の居場所を見つけようとしたのに対して、キリスト教(ユダヤ教も)は神が人を自由意志を持つ自分の似姿で、自分のプロジェクトに参加させようと、契約をかわした、という考えを打ち出しました。「進歩思想」というのはそこから生まれ、近代科学もそこから生まれたんですね。

 でも宗教としてのキリスト教は、世界を超越的に捉えようとしたので、聖書にも世界の呈示はあっても「解明」はありません。ガリレオが地動説を捨てて転向したのは教会の圧力でしたが、聖書が天動説をうたっていたわけではなく、地動説は当時教会が採用していた「アリストテレス的宇宙観」と相容れなかったからなんです。

 ギリシャ科学と神学をまぜちゃったところが失敗だったんですね。でも、そうやって形成された西洋科学主義は、結局、近代科学を生んで、今のカトリックでは、「世界の解明」は「科学」に任せるという、宗教と科学を分離するスタンスが普通かと思います。超越の視座と、実証主義の視座、二つのシステム、二つの理解の仕方であり、そのどちらかがどちらかを「従属」させようとする時に無益な対立や戦いが起こるわけです。

 日本はアニミズム的呪術的世界を温存してたので、「西洋近代科学=実はギリシャ科学とキリスト教の融合」を輸入した時、「和魂洋才」という二つの視座にあまり悩みませんでした。
 呪術と理性は葛藤しなかったんですね。近代西洋で超越と理性が葛藤したようには。
 まあ西洋以外のキリスト教文化では、呪術的心性をハイブリッドしてるところは多いですが。また、西洋的世界でも抑圧されてきた呪術的志向が、キリスト教の中の超能力とかオカルトとかを歪んだかたちで引き出しているという動きもあります。

 だから、この問題は、すごく複雑なんですよ。この辺のところを解説した本を今書いてるところです。

 ガリレオは、地動説は確信してたんですが、「この世には死んだり殺されたりされるに足る値打ちのあるような科学的真実などない」といって、地動説を引っ込めました。「それでも地球は動く」・・・

 ですから、大羊さんも、周りに宗教と科学と呪術を混ぜてしまってる人がいても、勘違いしてるんだなあ、とスルーして、あまり悩まない方がいいですよ。

282greencurry:2008/01/10(木) 23:02:45
奇跡
奇跡の話といえば、空海も奇跡を起こしたと言われていますね。持っていた杖(?)で地面を叩いたら温泉が湧き出て、人々がそれで癒されたとか。(それ以外の話も聞いたことありますけど覚えてないです、すいません)
私はいわゆる葬式仏教徒ですが、神道の考え方や密教、仏像などには興味を持ってます。空海の奇跡譚も、彼ならそんなこともあるかも・・なんて考えます。でも、私が空海を(大げさな言い方をすれば)尊敬するのに奇跡は必要ありません。
とある新興宗教の教祖(?)にはまっている知人は、その教祖が手品のように手から宝石とかを出したことを「すごい」と言います。だから尊敬に値するのだ、といわんばかりで。私はそれを聞いてMr.マリックもすごいぞ、それがどうした?と思ってしまうのですが、本人はとにかくそれで尊敬しちゃってるみたいです。
これって奇跡に対する温度差かもしれないなーとも思いました。
私にとってはそれが手品であるほうが尊敬してしまいます。
大羊さんの周辺の方々もその辺の温度差ってあるかもしれないですね。知人を見ていて「この人は不思議な話が好きなんだなー」って思いました。あと尊敬すべき対象が「すごい」人であるための単純な根拠みたいなのが必要なのかなーとも。
私はキリスト教徒の方で奇跡譚を信じている方を知らないのでなんともいえないですが、新興宗教の教祖の奇跡を信じることの方がちょっと危険な感じがします。
大羊さんの問いへの答えにはもちろんなってませんが、私もいろいろ考えちゃいましたので。
最後になりましたが、今年もよろしくお願いします。

283迷える大羊:2008/01/12(土) 20:15:15
奇跡話とは?2
 皆さん、レスありがとうございます。さすがにこちらのBBSには奇跡話を字句通りに受け取る方はいませんね。まあ、イエスの場合、別に権力者だったわけでもないし、キリスト教団を作ったわけでもない(むしろ、彼は組織化された宗教団体には否定的な感じがするのですが)んで、超人と崇めてもとくに害があるわけではないんですけどね。

 イエス、といっても宗教家として活動していたのは数年にも満たない期間だし、具体的な記録も聖書の福音書(それにしても書かれたのはイエスの活動期間より数十年後)しかないんで、人によって、イエス観が様々になってしまうんでしょう。そして、各々が描くイエス像にその人の神に対する見方、期待するものが見えてくるんでしょうね。

 ちなみに私は超能力者イエス、には何の興味もなく、かえって胡散臭く思えてしまいます。私からすればイエスは普通の、いや普通以下の弱い人だから信用できて共感できるし、その普通以下の人間がどんなに馬鹿にされようが、屈辱的な扱いをされようが、人を愛することをやめず、ひたすら己の信じる「救世主」の役割を放棄せず生き抜いたところが偉大というか「真の人、真の神」の所以ではないか、と思ってます。

 なんか、「救世主」とか「神」に死人を蘇らせるだの、らい病を一瞬のうちに治すだの、水の上を歩くだの、なんて超能力を期待する人って、新約聖書の時代にイエスにイスラエルからローマ帝国を駆逐する政治軍事的な役割を期待し、それが間違いとわかると「うそつき、磔だ」なんて叫んだ一般庶民と似たりよったりの気がしてしょうがないんですよね。

 ところで個人崇拝、で思い出しましたが、竹下先生の著作「ローマ法王」によれば、北朝鮮の「教祖」、故金日成首席の外戚はクリスチャンで、その関係か、かの国の食糧難の際には他の国に先駆けてヴァチカンに援助を求めてきたそうですね。かの国の独裁体制がやたらと宗教的なのはそのせい?(やはり、金父子に関する奇跡話が喧伝されているようです)
  朝鮮民主主義人民共和国になる以前のピョンヤンはあらゆる宗教が花盛りの土地だったとも聞きますし。

 これまた「ローマ法王」からの引用ですが、キューバのカストロも両親は実に敬虔なカトリック信者で本人もカトリックの教育を受けているそうですし、旧ソ連のスターリンも確か神学校の出身だったはずで、宗教、キリスト教が嫌いなはずの旧共産圏の独裁者はなぜか揃いも揃って、人一倍宗教的、キリスト教的な環境で育っているのは不思議といえば不思議。

 神に対して可愛さ余って憎さ百倍、ってところがあるんでしょうかね??

284迷える大羊:2008/01/19(土) 23:05:56
洗礼の基準って?
 なんだか、私一人でいろいろ書き連ねて、恐れ入りますが・・・。このサイトでさんざんキリスト教へのツッコミやらケチを入れている私。ケンカ、論争をふっかけている、と誤解をされる方もいるかもしれません。

 そんなことはないんです。イエス自身の生き方、死に様、思想は共感していますし、尊敬してます(マネは無理ですが・・)。でなければ、いくら妻が信者とはいえ、もっと徹底的に教会との関わりも否定してますし、第一このサイトにも出入りしません。
 クリスチャンの条件がイエスという宗教家、思想家の思想、行動、ライフスタイルに共感できるか?ということだけであればとっくに今頃、受洗していたでしょう。

 しかし、現実のキリスト教となると、「余計」な話が多すぎる、というのが実感でして・・。処女懐胎だの三位一体だの、イエスは神の子かそうでないか、とか、キツめのところとなると神社、寺で拝んじゃいかんとかいいとか、神をとるか進化論をとるかとか、ありゃなんとかならんのか?というのが偽らざる本音でして(やっぱりケチをつけてるんでしょうか?)。

 こちらの板で話題にした「キリスト教はイエス様への個人崇拝?」の疑問もとある教会の牧師さん(表現の通り、カトリックではありません)にぶつけてみたところ、「イエス様は神が人間の姿になったんです、人間がウジ虫になったものなんです、すごいことなんです。」と熱く語られ、困ってしまいました。「あなたも信仰をもてばそう思えるようになります」っていいますが、かえって「そういう問題かなぁ?これは俺のついていけない世界かも・・」と思わされたものでした。

 処女懐胎も三位一体も「真の人、真の神」論もすべて理解不能、「イエス様は至って普通の人(だから信じられる)です」といいきってしまう、焼香拒否のクリスチャンに対しては「自分が神を信じるなら、他の人間の信じる神にも礼儀を払わんかい!」といいたくなってしまう・・。唯一クリスチャンとしての条件を満たしている部分といえば、前述したとおり、イエスの生き様、死に様、思想、行動に共感できる、ことくらい。

 前述した牧師さんにそういう話をしたところ「それじゃ、ガンジーだとか、仏陀を尊敬するのとレベル的に変わらないんです、単なる道徳なんです」みたいなことを言われ、「それで何がまずいの?」とわけがわかんなくなりました。そういうものですかね?古代や中世の話とか、カルト団体の話ならともかく、現代にそこまで人を神と熱く信じ込めるメンタリティとか信仰って、なんだか想像がつかなくて。まあ、なんでも合理的ならいいって世界ではない、ってことくらいのことはわかりますが、それにしても、、という感じで。

 皆さんが洗礼を受けた際、やはり「イエスは神が人の形をとった(実在する人物を神のなんとか、と信じるのは前述したとおりどうにもカルト教団的な感じがして抵抗がある)」と信じてましたか?やっぱり「偉大な宗教家、思想家、その生きざま、死に様に共感する」程度じゃダメなんですかね?

285Sekko:2008/01/20(日) 07:30:23
大切なこと
 ここはカテキストさんのサイトでもなく、司祭さんや牧師さんや神学者のサイトでもないので、今大羊さんの関わっている信仰共同体で、何がどういう基準なのかは分かりませんし、私が答えることもできません。
 ここで是非お勧めしたいのは、マルシェル・ゴーシェの本なのですが、今アマゾンで検索したら、何と、翻訳が1冊しか出てないようなのです。それも私のお勧めの本ではありませんでした・・・その本を読んでくださると話は早いのですが・・・私の今執筆中の本には解説するつもりなので、もう少し待ってください・・・
 ここで大切なとこを押さえときますと、キリスト教というのは、やはり、イエスという人の思想に共感、というところから生まれた宗教ではないんですよ。
 当時、思想や生き様に共感した人たちは、死に方にはがっかりしたんです。
 その中からキリスト教がキリスト教として成立したのは、やはりイエスが復活したことと、それから彼を神と同格の「主」とみなしたところにあるわけです。
 それに比べたら、処女懐胎とか奇跡とかは枝葉です。
 で、三位一体で、神が受肉して人になって云々のディスクールですが、これは検証するとか証明できるような問題ではないわけですが、「これを受け入れた世界には何が起こったか」が興味深いところです。
 それまでも、人間のいるところ、神とか聖なるものとかの感覚やそれを扱うシステムはどこにでもあったわけですが、そのほとんどは、「聖なるもの」が社会か自然かのどちらかに癒着していたんです。そのどちらにおいても、聖なるものと個々の人間の関係は、個人が聖なるものに従属するものでした。供物を捧げるとか人身御供とか・・・それが龍神さまの怒りを鎮めるためであれ、共同体の秩序のためであれ。あるいは、個人がその個人性を消して聖なるものにフージョンするとかいうイメージでした。
 ところが、キリスト教は、神が先に自分の子=分身を人間に贈り捧げたということになり、神と人間の間の相互の「行き来」の関係性が生まれました。
 そこで、神は、自然とか社会とよりも、人間と癒着しちゃったわけです。
 それでキリスト教には、人間が神を通さなくても自然や社会を組織できるという予知が生まれたので、自然の研究とか管理の発想が生まれ、政教分離の発想も登場してきました。
 もちろん、最初は、これでは当時のローマ帝国の秩序には合うはずもなく、壊滅しようと図られたのですが、信者は増えるばかりで、結局コンスタンティヌス帝は、この宗教を利用することにしました。それから1500年以上も、世俗の権威と宗教の権威が住み分けながら拮抗して並び立つ体制ができたんですね。
 その中で、宗教の権威=教会も社会に干渉しようとしてきましたし、自然観にも干渉しようとしてきました。
 教会は長いことこの癖がついてるので、いまだに世俗を従属させようとする部分もあります。

 でも、こういう聖俗の権威同士の葛藤や煩悩にも関わらず、キリスト教は、「神が人間になった」という、そもそもの出発点はなぜか捨てなかったんです。まあ、捨てたらそれはもうキリスト教ではなくなるのですが。

 それで、その細々とだけど強靭に受け入れられ手来た信仰のおかげで、自然の驚異もある程度コントロールでき、個人が共同体のいいなりにならずにある程度の自由を生きることのできる「近代文明」や「近代社会」が、キリスト教ヨーロッパに生まれたわけです。

 私たちはその恩恵を受けています。
 基本的人権とか、民主主義とか、信教の自由とかでさえ、キリスト教の持っていた、この「聖なるもの」と人間の主従関係をとっぱらった「開かれた相互関係」によって少しずつ可能になった成果なんです。
 成果、それは弱者にとっての成果ですね。昔ながらの共同体でもその強い側にいる人はいいでしょう。でも、「賤民」に生まれちゃうとか、障害を持って生まれちゃうとか、時には単に女に生まれちゃうとか言うだけで、尊厳や権利を奪われる時代や場所はいくらでもあったわけです。
 私たちは、今、アニミズムや汎神論的な世界の方が地球に優しいとか、村落共同体のほうが情があったとか言いがちですが、その中で、弱い者が搾取されたり犠牲に供されることは当然のようにあったわけで、たとえ環境に優しくて共同体のためになっても、私は自分が「龍神の生贄」に捧げられたりするのは嫌です。

 こういう経過を鑑みるに、この時代のこの世界に生きることのできた私のような弱者にとっては、イエスという人の生と死が発展的に解消してキリスト教というものになってくれて、それが自由・平等・友愛とかいう近代ユニヴァーサル理念を生んでくれてよかった、よかった、って思うんですよ。

 そして、歴史上の具体的なキリスト教権威者がどんな愚行をしたところで、元のイエスの生き方や思想にはすでにそういうユニヴァーサリズムが確かにありました。

 だから、イエスのメッセージはそれ自体としても価値を持ち続けているし、その彼の生と死と復活を信仰告白としたキリスト教については、メッセージの内容より、それが開き、導き、可能にした関係性の方が大切だと私には思えるんです。
 だから、進化論だめだとか神仏を拝むなとかは「よけいな枝葉」で、「イエスは神が人間の姿になったというのが大事」というのは、根幹ですね。
 牧師さんのいうとおり、人間が蛆虫の姿になったとしたら、人間と蛆虫の関係だってラディカルに変わるでしょうね。その時点で、蛆虫は、忌むべき下等な存在ではなくなりますもの。
 三位一体を分けの分からないこじつけと見るか、いろんなことの出発点になったキリスト教マジックと見るか、いろいろ考えてみてください。

286迷える大羊:2008/01/20(日) 17:02:21
三位一体の不思議
 またまた、すみません。説明が不足してました。「人がウジ虫に」の話はキリスト教に関わりだした初期の話ですけど、未だに解けない疑問だし、キリスト教信仰の根幹にまつわる話、というのはなんとなくわかるので、やはりきっちりした説明をいろいろ聞きたいな、と考えたものですから。まあ、あの頃は「神をとるか進化論」をとるかの話にあまりにびっくりしたので、またまた、わけのわからん話が・・、てな感じで受け止めてしまったんですね。
 カトリックのカテキズムの講習はまだ受けたことがないので、どういうものかわかりません。

 おっしゃるとおり、基本的人権とか信教の自由とか民主主義などはキリスト教の成果であることはわかりますし、認めてますし、思想とか教養としてのキリスト教は受け入れるのに全然やぶさかではないんです。

 しかし、「宗教」「信仰」としてとなると??だらけで。
 決して揚げ足とりをやってるつもりはなくて、真面目に勉強したり、調べたりしてるつもりなんですけど、真面目に考えれば考えるほど「えー?」とか「ちょっと待てよ」みたいな話が次々に出てくる、といった感じで。

 三位一体もその一つで、理屈そのものもさることながら、不可解なのはキリスト教界(プロ・カト、教会問わず)での扱いなんです。
 「真の人、真の神」もそうなんですが、いくつかの教会で学び会ですとか入門講座にいろいろ出てみましたけど、三位一体の話を進んで積極的にする教会って私の知る限りほとんどないんですよね。こちらから切り出さない限り、ほとんどそういう話をしません。

 でも、ミサや礼拝に出ればいやでも「父と子と聖霊の御名により」なんてやっているのが目に耳に入ってくるわけで、当然「何、それ?」となるわけで、調べると「三位一体」なんて教義があるわけです。これまた当然「三つで一つってなんですか?キリスト教って神は一つなんじゃないんですか?」という単純きわまりない疑問がわいて聞くんですが、大抵の場合、触れてはならないタブーとはいわないまでも「えー、そんなこと聞いてくるの?」みたいな反応をされます。

 その上、返ってくる答えもなんだか要領を得ないものが多く(私の理解度が足りないせいもあるんでしょうが)、聖職者だとか信仰歴の長そうな人でも「人智では到底わからない奥義」だとか「そういうもんだ、として受け入れるしかないね」みたいな、私的には到底納得しかねる答えだったり、ごくごく普通の信徒さんの場合も「そういうもの」みたいな答えが大半。私の知る限りでは、どうも、普段深く考えたことない人がほとんどみたいなんですよね。

 だったらキリスト教の本筋とは関係のない(聖書にも出てこないし)ことだし、信じられなくても全然差し支えないんだな、と思ったら「キリスト教の根幹にまつわる」重大な教義で、これなくしてはキリスト教は成り立たない、とまでいわれるわけで、そんな重大な話がなんで「そういうものだ」で済むんだ?ワケもわからず、そんな「黒いカラスを白いといえ」みたいな話を「信じるなら受け入れろ」なんてそんなムチャな、と思ったものでした。

 歴史の本をひっくり返して調べると、別にイエスの時代からあった教義でもなんでもなく、ましてやイエスやパウロや使徒たちが言い出したことでもなんでもない、私が読んだ限りでは聖書に出てくる話でもない、325年の二ケア公会議ですさまじい論争の末、やっと決定した教義で、三位一体説をとらず、闘争に負けたアリウス派はあえなく「異端」となる、とあって、なんだ結局、教会内の政治的な事情で決まったことやんか、どうしてそれが今に至るまで神聖不可侵の不磨の大典みたいな扱いをされるんだか?と理解に苦しむところがあるんですよね。

 私には宗教的感性が全然ないから、こういうひねくれた見方をしてしまうのかな、とも思いましたが、出典は忘れましたが、イスラム教の開祖、ムハンマドも私と似たような疑問(三位一体の扱いだとかキリスト教はイエス個人崇拝なんじゃないのか?みたいな)を持ちしまいには怒りだしたみたいで、時空を超えて「そうですよね、ムハンマドさんもそう思いますか?」なんて感じで思わず握手したくなりました(笑)。そのせいかどうか他の面はともかく神様に関する定義に関していえばイスラム教ってキリスト教に比べるとちょっと合理的なのはそのせいか、とも思ったりもしました。いや、別にイスラム教の肩を持ってるわけじゃないんですけど・・・。

 それよりなにより、子供のころから家の宗教だった、という信者さんはともかく、成人になって自発的にクリスチャンになった人って、私みたいな疑問やら躓きやらって持ったことないのかな?やっぱり宗教って失業、失恋、病気、借金みたいな何か人生上の大きな苦難を経ないと素直に心に入ってこないものなのかな?とも思ったりもします。

 いろいろ、教会を巡ったり、勉強もしてみましたが、どうも私には宗教としてのキリスト教は向いてないような感じがしてきました。皮肉や冷やかしではなく、なんで皆さんあんなに受け入れられたり感動したり信じられたりするんかなー、と未だに心理的な面は未だにわからんことだらけです。キリスト教に限らず、宗教全般に関して。

287Sekko:2008/01/20(日) 21:10:01
分かんなくてもいいのでは・・
 最近、キューブラー・ロス『子供と死について』(中公文庫)を読みました。

 子供を病気や事故や犯罪で失った親たちがどういう風に生き続けるか、みたいな例がつまってます。

 大筋は、子供の肉体は繭であって、死んだ子は蝶になって飛び立った、っていうアレゴリーなんです。今流行のスピリチュアルの、魂が修行のためにこの世に来る、みたいなのと同工です。

 私は、こういう魂がなんたら、っていうのはあまり信じられないんです。
 まあ、これも証明しようのない話なので、信じてる人はどうぞって感じで、でも、うさんくさいとか思ってしまいます。

 でも・・・

 もし、今、あるいはこれから、自分の子供を失うような体験をするとしたら、
 もう、「蝶々」にまっしぐらだと思います。

 多くの親たちを癒してきたこういう考え方があってよかった。
 こういう本の存在を知っといてよかった。

 と感謝するでしょう。
 そしてこの考えに救われるでしょう。

 だとしたら、私の「信」は、必要から生まれるのです。

 だから、この考え方を知っといて損だとは思わないし、そういう「流派」の中にも、ちゃんとした誠実なのもあれば、親の悲しみにつけこんで、高額で霊媒が死んだ子供と話しさせてくれるみたいな悪質なのもあると学習しときます。

 そしたら、いざ、そういう「信仰」を必要とした時に、つけこまれたりするダメージは少ないかもしれない。自分の悲しみを乗り越えて他の人と連帯する方向にいけるかもしれない、って思います。

 つまり、そうなると、「教義」の字句の内容が問題じゃないんで、どういう文脈でどういう風に語られ、どういう関係性を生きられるのか、が問題なんですね。
 それなしで、字句だけ取り出しても、文脈を共有してない限り、所詮、字句は字句です。

 あまりこだわらないで、今は、「学習」だけで、いいのでは?

 私は、カトリック主流国でカトリック・カルチャーの人と暮らしてますから、年取ったり死んだり死なれたり、という局面には、カトリック共同体が頼りになるかも、と思ってます。だから、別にカトの人に、「三位一体」って変じゃない?とか言う必要も感じません。

 大羊さんはやはり奥様の信仰の関係でキリスト教に近づかれたわけですから、その関係性をいい感じで育んで、長い人生で出会うかもしれない試練を前にした時にささえ合えるような「信仰」を今のところはゆるーく視界にいれとく、だけでいいのでは?

288Fusako:2008/01/28(月) 07:25:43
弱い父ヨセフ
ずっと前に読み終わりましたが、感想がまとまらずにいました。
あまりにも圧倒的だったので。何が圧倒的かというと、「おまえの子ではないけど、面倒見るように」と言われて素直にその声に従い、辛い旅の間、妻を守り、生まれた子をだいじに育てて、その後はひっそり身をひいてしまう、普通、そんな「父」は有り得ない。それを真正面からとりあげて論じられて初めて、目の前にあったものに初めて驚く、そんな感じだったので。
「自分で見る、自分で考える」人のお話をきく醍醐味を味わいました。ありがとうございました。で、失礼ですが、西成で献身的に活動しておられる渡部宗正師(カトリック)におまわししました。

289迷える大羊:2008/01/28(月) 21:25:43
同伴者イエス
 宗教、信仰としてのキリスト教はなかなかわからない私ですが、なんとなく分かる気もする信仰のあり方もあるんです。例えば、遠藤周作氏の「イエスの生涯」に登場するようなイエスなら全然、自分にとって違和感のないイエス像なんですけどね。

 遠藤周作氏といっても、有名どころの小説(沈黙など)を数冊、エッセイを数冊読んだことがある程度ですが、彼のような、ああいうリベラルな信仰のあり方っていいな、と思うことあります。(特に彼のキリスト教、宗教エッセイ「私にとって神とは」は、キリスト教に限らず、あらゆる宗教の入門本になるのでは?と思います)。

 しかし、彼が属していたカトリック教会における、遠藤的信仰の立場ってどんなものなんでしょう?やっぱり、少数派?
 別のキリスト教サイトではカトリック教会で遠藤的な信仰をあまり期待すると肩すかしを食らう、なんて書きこみがありましたし、名作「沈黙」も華々しい殉教者をひたすら美化した「聖人列伝」を書いておれば、「いい信者」なんて教会から思われた時代に最後は主人公が棄教するストーリーは、猛烈な反発が教会、保守的信徒からあったらしく、ミサで名指しで批判を食らう、なんて出来事もあったそうで。

 現在のカトリック教会ではどうなんでしょうね。彼のような信仰、「同伴者イエス」的な考え方って違和感がないものなんでしょうか?まあ、教会により、人により、神父さんにより信仰に対する考えは様々でしょうから、一概にどうこうとはいえないでしょうけど、少なくとも非難を浴びるようなものでなければよいな、とは思いますが。

290nao:2008/02/02(土) 08:43:27
違和感はないと・・
かつて、遠藤周作先生の造られた「キリスト教芸術センター」に属しておりました。じかに先生に触れる機会もおおかつたですし、旅行も一緒にさせていおただきました。旅行はもう20数年前のはなしですが。そのころ先生は「『沈黙』が出たときのカトリツク教会の批判のすごかつたこと、ひどいものだつた。ところがどうだ、今は僕の考えに同調する人がすごく多いじゃないか。かわつたものだよ」とおつしゃつたのを、今まざまざとおもいだします。
今のカト教会で遠藤先生の考えに批判的なことをおつしゃる方にはあまりお目にかかりません。いろんな考えがあつて、当然という雰囲気のようにおもいます。もつとも私はサボりですから、あまり教会の中には深くはいりこんでいませんので、よくわかりませんが、すくなくとも反対とう方にはお目にかかりません。

291迷える大羊:2008/02/02(土) 14:23:27
お久しぶりです
 nao様 お久しぶりです。そうですか、遠藤先生と直接、お会いしたりお話したりしたご経験があるのですね。羨ましい。彼の語るキリスト教って私には一番理解しやすいもので、他宗教に対する考え、聖書の読み方などは私にも共感できるものが多く、キリスト教に触れたときの違和感、アレルギーが彼の作品からは感じられないんですよね。

 発表当時は物議をかもした「沈黙」も今ではプロテスタント教会の映画鑑賞会でも上映されますし、マーチン・スコセッシ監督の手によりハリウッド映画になる計画も進行中のようです。ただ、ハリウッド映画の方はわけもなくニンジャやゲイシャがでてくるような、あちらのオリエント趣味に阿った映画にならなきゃいいけど、なんて懸念もあったりしますが(笑)。

292迷える大羊:2008/02/03(日) 22:32:24
西洋音楽とキリスト教
 先日、カトリック生活2月号を購入して読んだら音楽と信仰の特集でした。いろいろ読むと西洋音楽の成り立ちって教会と密接な関係があるんですね。

 もっともクラシックや教会音楽はさっぱり知識がなく、私にとって西洋音楽といえば、ロックなんですが、ロックやジャズ、リズム&ブルースも思えば、教会中心、キリスト教中心の音楽に対する一種の反抗みたいなところが少なからずあるのかな、という気がしてきましたがどうなんでしょう?(ビートルズの曲にも「ROLL OVER BEETHOVEN」なんて曲があったりする)

 実際、アメリカなどはロックの本場である一方で、キリスト教右派を中心に有害図書ならぬ有害音楽として忌み嫌う向きも多いらしいですし。
 もっともロックが好き、といっても一部の教会で行われているらしい、フォークとかロックミサとか、礼拝って全然興味ないです。やっぱり教会には教会にふさわしい音楽がいいな、って思う方ですね、私は。

293Fusako:2008/02/04(月) 01:49:00
ロックと教会
教会は、あちらの日常生活ですから、ロックにも別に普通に入っていますよ。あれは1980年代半ばかな、アメリカのグループMr.Misterの"Kyrie"という曲が大ヒットしましたし、ヴァン・ヘイレンには「カテドラル」という名曲があるし、クイーンが代表作の一つ、"We will rock you"を教会で録音したというのは有名な話だし、とか、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画「天使にラブソングを」や、古いけれど、教会で育った孤児の恩返し映画「ブルース・ブラザーズ」とか、「反抗」でない「ロックと教会」の話はいーっぱいありますよ。
あと、クラシックとロックで言えば、ロックが反クラシックではないですよ。ちなみに"Roll over Beethoven"はビートルズではなく、チャック・ベリーの曲ですが、反クラシックというよりは、気取ってクラシックしか音楽と認めないことへの反抗、でしょうね。クラシックの音楽家でロックやジャズの愛好家、その逆とかいっぱいいますし、欧米ではとっぢも好きな人の方が多いように思います。ロックだけ、とか、クラシックだけ、みたいな人の方が多い日本がむしろ西洋音楽についての例外のような。ヴァン・ヘイレンの「カテドラル」なんて、知らないできいたらロックと思わないでしょうし、クイーンは、オペラ(「ボヘミアン・ラプソディ」)、シャンソン(「キラー・クイーン」)、ゴスペル(フレディの曲ですが「タイム」)と何でも使ってますね。

294Fusako:2008/02/04(月) 01:55:45
追加
「天使にラブソングを」は、教会が人々に親しまれる音楽を通して再び地域に根付いてゆく話ですので、機会があったら見てください。

あと、全然関係ないけど、「カテドラル」を、B'zが「闇の雨」に引用していましたね。

295rotondo:2008/02/04(月) 15:34:58
ご存知の方、教えてください!!
初めて投稿させていただきます。

昨年末から今年にかけてイタリアへ行って参りました。カスキアへの
聖女リタさんの教会へも行ったのですが…

現地では気づかなかったのですが、帰国後!?と思った事があります。

リタさんのご遺体の前にあった、装飾された硝子の二重容器(展示されていた聖遺物の
結婚指輪やミニロザリオの容器と同じ様な)の中身は一体何なのでしょうか??

多分、聖遺物だとは思うのですが…額に刺さった棘?心臓?

もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください!!

296迷える大羊:2008/02/06(水) 20:36:39
ロックと教会
 確かに、ロック=教会音楽へのプロテストっていうのは単純すぎる見方でしょうね。「Roll OVER BEETHOVEN」はまあ、確かに原曲はチャック・ベリーですが、ビートルズのカバーバージョンのイメージの方が強かったもので。
 右派系の教会から目をつけられやすいのはロック全体というより、一部のヘビメタの類でしょうね。それにしたって草創期の50年代、60年代ならともかく、いまどき「ロック=反抗、カブキ者」のイメージなんて成り立たないですね。

 それに、ロック界のスターたちも結構、教会との関わりある人、多いですね。プレスリーやレッド・ツェッペリンのベーシスト兼キーボードのジョン・ポール・ジョーンズは聖歌隊出身だったり教会音楽の演奏者出身だったりしますし、ビートルズのジョンとポールが最初に顔合わせしたのは教会のパーティだし。

 全く話が脱線しますが、聖書の「ヨハネ黙示録」、あのシュールな世界はジミ・ヘンドリックスの「Purple Haze」、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」など、ドラッグソングと噂された60年代、70年代の名曲を思い出しちゃいます・・・。

297Sekko:2008/02/07(木) 07:59:12
rotondoさま
 聖女リタの遺体の前の聖遺物について、今すぐに思い出せません。内臓系なら心臓でしょう。心臓を別にするのは一般的でしたし。棘ってことはないですよ。あれは棘が飛んできて刺さったと言ってるだけで、聖痕はできても棘がくっついてたとは聞いてません。こないだアヴィラの聖女テレサの聖遺物をいろいろ見てきたとこで、彼女はもう目いっぱい解体されてるので、ばらばらでしたね。
 リタは本体のインパクトがあるので、付属聖遺物はインパクトが小さいかなと思います。この季節ではウンブリアは寒かったのでは?

298rotondo:2008/02/07(木) 21:03:54
ご回答を賜り、ありがとうございました。
竹下先生の著書「聖女の条件」に導かれ、カスキア巡礼に行ってまいりました。カスキアは所々に雪が残っていて、とても寒かったです!!

また先生の別の著書「奇跡の泉ルルドへ」や、訳本「聖カタリナ・ラブレ」を拝読し、昨年の春先にはフランス巡礼にも行く事が出来ました。

どちらの巡礼も先生の書かれた素晴らしい本にめぐり合い、お導きを頂いたからこそと、心より感謝致しております。ありがとうございました。

聖女リタさんについてはイタリアから帰国後、写真を見て初めてご遺体の前のガラス容器に気付きました。残念ながら中身までは、はっきり写っておらず、ひょっとして心臓かも!?と、インターネットで何時間もかけて検索してみたのですが、結局判らずじまいでした…。

またいつの日かその中身について、お気づきになられましたら、お書き込み頂けませんでしょうか。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

299nao:2008/02/16(土) 10:15:13
Lourdes
2・11に「France Facile」のニユースをきいていましたら、最後にLoudes,depuis 150
ans ,
n`est plus la petite ville qu`elle etait en fevrier 1858,Genevieve Delrue.
とありました。それまでのところはルルドの解説です。最後のGenevieve Delrue
というのはその地方の名前なのでしょうか?先生の「奇跡の泉ルルドへ」でしらべてみましたが出てまいりません。
150周年のルルドに病気の知人がゆけるといいなあ〜と願つておりますが。病人があつまるのに、明るさが支配するルルドに夫と行けたこと(最初で最後の旅行となりました)を、本当に幸せにおもつております。

300nao:2008/02/16(土) 10:19:29
フランス語質問箱の間違い
すみません。フランス語質問箱にいれたつもりになつておりました。どちらにも関係はありますが・・申し訳ありません。

301Sekko:2008/02/16(土) 18:00:21
それはジャーナリストの名前です
 こういう文脈なら、必ず、それはその放送をしている人の名前です。署名みたいなものですね。フランス語では、姓名を並べて一気に言うと、なんか公式のレッテルみたいになるんですよ。日本語なら「ご案内は・・・でした」とかい
うフレーズになりますから分かりやすいですが。
 普通のインタヴューで、本人を前にしても、「ムシュー・・・」というほかに敬称抜きでフルネームを使えます。肩書きなしでそういえる場合は、公人としてとかいう意味がありますね。

 ためしに今、Google で検策しましたらそのジャーナリストの顔も出てました。
 http://www.rfi.fr/radiofr/emissions/072/accueil_50.asp

 ご参考に。

 naoさんはルルドに行かれたんですね。私も今年是非行きたいと思ってます。
 行けたらみなさんのためにろうそく捧げときますね。

302nao:2008/02/17(日) 08:37:24
なんと・・
あらまあ〜なんということ。ジャーナリストの名なんですね。すぐ後ろにきていたので、想像できませんでした。女の方なんですね。
間違いのおかげで、しつかり先生の御本を読み返しておりますので、かえつてよかつたです。ルルドからまた「聖母マリア」を再読です。この本は実に素晴らしい!!の一言です。前にお聞きしたことがありますが、「聖母」という訳は誰がつけたのでしょうか?ある学会でもききましたが、だれも知りませんでした。もし、すでにおわかりでしたら教えていただけると、嬉しいです。

303迷える大羊:2008/03/08(土) 23:08:00
組長はイエス?
 ノンクリスチャンながら、身内の信仰がキリスト教でその世界に片足を突っ込むようになって大分経ちます。決して悪いものとは思っていないし、人類史への貢献ぶりは認めるものの、信仰となると躊躇してしまっているところ。その理由の一つにこれはイエスという2000年前の実在する宗教家を実質的に神と崇めるということがあるのですが・・。

 でも、最近読んだ、牧師やクリスチャンになった元ヤクザのグループ(?)ミッション・バラバの本にそのことに関して妙に納得のいく説明があって、それは、誰の発言かは忘れましたが「親分がイエス様になっただけのこと」といった趣旨の発言で、思わず、ああなるほどね、と思ってしまいました。以前も似たような趣旨の発言を冗談半分にUPしましたが、最近は冷やかしでも冗談でもなくそう思うこと多いです。

 うまく、言葉にできないんですけど、そういうヤクザ的な論理で考えると、つまり、構成員(信者)にとって「親分、組長は絶対だ、神同然」というのは当然のことで、カタギの理屈で「個人崇拝だ」「三位一体なんてヘン」なんてツッコミを入れる方が野暮に思えてきますし、自分が頼みとする親分が「奇跡を巻き起こし」、「永遠の存在(復活した)」である無敵の存在であって欲しい、という願望、信仰も物理的、歴史的事実としては到底受け容れ難い話ですが、心情としては分かる気がしてきます。

 もちろん、クリスチャンとかキリスト教はヤクザと違って反社会的な行為を生業としているわけではないですし、長い歴史に揉まれた末、そのスタイルも考えも洗練されたものとなってはいますが、なんていったらいいのか、カタギの常識的な発想で考えると理解不能な風習、慣習もやくざ的論理を当てはめるとな〜るほど、と思えるところが少なからずあるような感じがするといいますか、根本的な発想に似たようなところがあるんじゃないのか、という気がして・・。

 例えば、ヤクザもクリスチャンも建前上、ともに組長、親分、イエスを中心とした擬似家族制ですし(教会報など公の文書では信者同士〜姉とか〜兄なんていいますし)、構成員(信者)になるに際して、盃を交わす、洗礼を受けるなどの儀式がある、組員(信者)からの上納金(献金)で組織が成り立っている、ともに構成員(信者)の高齢化が進むなどなど妙な共通点がありますし・・・。聖母マリアはさしずめ「姐さん」といったところでしょうか・・。極端な話、宗教とかキリスト教とヤクザとか暴力団というのは裏と表、神と悪魔、光と闇のような関係なんじゃないのか、と思ったりします。

 パンやワインをイエスの血と肉になぞらえた聖餐式も亡き(という表現はキリスト教的には変か?)「組長」「親分」との今も変わらない連帯感の確認の儀式と考えればなんだか私的に理解できるような・・。
 そう、クリスチャンとはイエスを「親分」「組長」とする任侠道ならぬ、人道団体の構成員(組員)と思えば、これまでキリスト教に関して不思議でならなかった風習、考えの謎がクリアーに分かる気がするのですが、どんなものでしょうかね??

 この譬え、もし不謹慎、不快に思われる方がいらっしゃればごめんなさい。

304Sekko:2008/03/09(日) 05:27:15
親の心子知らず
 理念や理想を掲げる共同体みたいなのは、どこでも、えてしてこうなりますね。やくざは功利的目的があるかもしれないけど、社会の表で生きにくい人が生き延びる救済システムに多少の美学も足したものって面もあるでしょう・・・
 でも、親分や兄弟分とあまり情動的関係を結ぶと、冷静な状況分析ができなくなったりしますね。やくざ映画でも、子分の先走りや暴走のせいでどうにもならなくなった親分が涙を呑んで、負けると分かっている戦いをしたりなんてシーンがあります。西南戦争の西郷隆盛とかも?
 自分で権力欲にかられて演出する人はかってだけど、頼ってくる人々から神のように祭り上げられたトップが、自分の意に反して、カタストロフィに突き進むとか、自分を犠牲にしても子分の期待に応えてしまうとか、そういうのはこまりますね。ミュージカルの「ジーザス・クライスト・スーパースター」もちょっとそんな感じでしたっけ?

 でも、共同体のうちわの家族的満足じゃなく、公共の利益というのもあるし、やはり、外にも開いているグループでないと、風通しが悪くなってあちこち故障がでると思います。何を信じるかというより、他に対して、どう働いていくかによってそのグループの価値が問われると思います。

 特定の誰かを崇めることで、そこから得た安心やエネルギーを、助けを必要としている人たちに広く分け与えるようなグループだったらいいですね。

305迷える大羊:2008/03/23(日) 18:15:13
ミサの式次第
 について何か分かりやすい、解説書ってありますでしょうか?何回かカトリック教会のミサに参加しておりますが、いつも、次はこの賛美歌、今度は答礼で・・なんて電光掲示板みて、あたふたしているうちにいつの間にやら聖餐となり、気がつくと終わってしまうといった感じでして(笑)、結構疲れます。信徒の皆さんはこれ完全に暗記してるんでしょうか?慣れの問題とはいえ、よく覚えるものだなぁ、って思います。

 余談ですが、うちの妻はプロテスタントですが、カトリックグッズが結構好きでイエスの像のついたカトリック式の十字架ペンダントしてますし、ロザリオ欲しがってたので、ミサの後、売店で買っていきました・・。

306塩梅:2008/03/24(月) 02:05:27
お役に立つと良いのですが…
大羊さま>
ごミサ全体の進行が分からないというお話でしたら、「カトリックの祈り」(サンパウロ刊)があれば、大体は大丈夫と思いますが…。文庫サイズの祈祷書になりますが、もっとハンディなものをお探しでしたら「キリストと我等のミサ(改訂版)」(サンパウロ刊)というのがあったと思います。教会の売店みたいなところでお聞きになって、現物ご覧になられてご確認されるとよろしいかと思います。
あと歌われる聖歌は、多分ミサ前にどれを歌うかが表示されてると思います…典礼聖歌集に何本も栞が付いているのって、あらかじめはさんでおくためのものだと思いますし。それとオリエンス宗教研究所が出しているリーフレット(こういうのです→http://www.oriens.or.jp/st/seiten.html )でアレルヤ唱+答唱詩篇は歌詞が分かると思います。

307迷える大羊:2008/03/24(月) 22:07:05
ありがとうございます
 塩梅さん、お久ぶりです。いつもありがとうございます。聖歌、賛美歌歌って、あとは牧師の説教を聞いておればよいプロテスタントと違って、カトリックのミサは実に忙しいですよね。オリエンスのリーフレットとか、聖歌集などを手にとっては見ますが、どこでどれをさっと開くかが問題ですね・・(^^;。もう神父さんに顔と名前を覚えられるくらいにミサに出ているのに全然進歩ないです(^^;。

 信徒の皆さんはよくさっさかさっさか反応できるもんだ、と感心します。思うにカトリック教会は信仰とか教義を頭ではなく、感覚、身体で覚えこませる、という傾向が強いのだな、と感じますね。説教もプロテスタントに比べ短めだし・・、と思いきや、行きつけの教会で担当の主任司祭が出張(?)していて別の教会の司祭さんが司式を担当したことがあったけど、そのときの説教の長いこと長いこと。カトリックのミサでも説教が長いことががあるんだ、とちょっと驚きました。

308Sekko:2008/03/24(月) 22:50:42
ちょっと遅ればせですが、
 復活祭、おめでとうございます。
日本のことはよく分からないので、塩梅さま、ありがとうございました。
フランスのカトリックのミサは、いつ行っても、その日に歌う文句が式次第とともに印刷されてるので、簡単に歌える感じです。たまには聖歌集の番号が書いてあることもあってその時はページを繰らなければなりませんが。しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし、声を出せるので退屈しないし、私は好きですが。その代わり途中で入って、次第を手にしなかったときなんかは、あんまり歌えなくてがっかりです。うちの娘なんかは、リセの時に週2回ミサに出席してたそうで、たいていの歌はすべて覚えているので、たまに友人の結婚式とかに招かれてミサに出席しても歌詞をみなくても全部歌えるので尊敬されると言ってました。
 復活祭、となると、あらためて、イエスの復活なんてことが「ほんとうに」あったのかどうかなんて疑問が湧き上ります。
 それを信じた人たちがいて、それをもとにして、「正義」による復讐とか懲罰とかいうロジックをラディカルに断ち切った宗教が生まれ、「生き続けている」キリストに背中を押し続けられる、というのは理解もできるし、実感もできます。そしてそのことについては、もう、事件の「真相」が何であったかなんてことを超越してるというのも分かるのですが、でも、あの日、そしてそれに続く40日間やその後10日目に、ほんとに何が起こったかと言うのは、やはり永遠のミステリーで、時々好奇心に身が焼かれます。
 私たちは私たちの人生においてそれを別のやり方で証しし続けるように招かれているんでしょうけど。

309迷える大羊:2008/03/28(金) 22:41:19
教会あれこれ
>しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし

 逆に歌うことが嫌いだとつらいんでしょうね。私、実はやたらとオッサン臭い悪声で音痴なのと、以前も触れたとおり「主をたたえ〜」みたいな歌詞を大声で歌うことに対する気恥ずかしさが未だに抜けないところがありまして、ちょっと疲れるところもあります。

 あと、教会員になった場合の奉仕の負担はどのようなものなんでしょうかね?特に慢性的聖職者不足のカトリック教会は信徒の力なしでは教会が成り立たないでしょうし。マンションの自治会や管理組合の役員、理事を誰にするか、でいつも役目の押し付け合いみたいなことがありますが、やっぱり教会でもそういうことあるのでしょうかね?

 正直、平日夜遅くまで働いて、また土日も仕事まがいのことすることになるんじゃたまらんなぁ、というのも偽らざる本音、といっていつもお世話になっといて何にもしない、というのもこれまた良心がうずく・・。信徒の皆さん、この教会における奉仕の問題はどう考えていらっしゃるんでしょうか?現役の信徒さんの忌憚のない本音が聞ければ幸いです。

310nao:2008/04/06(日) 15:58:29
やはり大変なようです。
私はもう老人なので、教会の役割からははずしてもらつていますが、少し若いころは婦人会の選挙でいつ、何があたつてくるかわからないので、ハラハラしていました。病気や仕事の関係で逃れてきましたが、皆さんに申し訳なくおもつてもきました。
男性の場合は壮年会(社会人)に入ることは、義務になつていますね。典礼、会計、建物の管理、広報など、役割がまわつてきます。日曜、ミサのあと少し居残りということもありますね。

311nao:2008/04/06(日) 16:09:26
ミス
途中ではいつてしまいました。
教会が300名くらいですと、やはり何かは仕事をしなければなりません。でも自分にできそうなことを申しでれば、家でやれるようなものもあります。広報の原稿とか。大きい教会では役はまわつてこないのでは・・。でもこれらは信者になつてからの話ですから、これらの仕事がこまるので、教会にゆくのはやめよう・・という風にはならないでくださいね。
私のように、遂になにもしないけれど、朗読やら共同祈願くらいはするという方も多いですし。あまり心配ないとおもいますよ。やつておられるかたは本当にすごい時間さいてますね。本当のところはどうなつているのか、教会員でもわかりません。それだけ、役員さんは苦労しておられるんでしょうね。役員にならないかぎり、まあ〜たいした仕事はありません。女性のほうが掃除当番があるので、大変です。役員さんになんとなく、聞かれるのもいいかとおもいます。いい加減なお返事ですみません。どなたも書き込みなかつたもので、つい・・。

312迷える大羊:2008/04/06(日) 23:06:10
お久しぶりです
 nao様、お久しぶりです。お聞きしたところでは、マンションの管理組合とか自治会と全く同じですね。まあ、自ら望んで、組織に所属しているかいないかの違いはありますが。

 まあ、月に1回程度の掃除当番とか、朗読当番くらいなら、当然だろうな、と思うし負担感はないでしょうね。しかし、役員ともなるとなると、教会に限らずどこの組織でも大変ですよね。

 実は私、マンションの管理組合の役員やってまして、年度末になり、任期切れ近くなり次の後継者を探しているところですが、これが気の重い仕事でして、皆さん、よくそんなに次から次へ断る言い訳考えるよなぁ、感心するくらい、理由をつけて免れようとする方が結構いて、「ほんとにいい大人が・・」と思わされることがたびたび。ホント、人って「罪深い」ですねぇ。

 教会でも、同じことがあったら、そりゃまあ、クリスチャン、カトリック教徒だって基本的に普通の人とわかっちゃいても、ちょっと幻滅しちゃうかも(自分のことは棚にあげて、ですけど(笑))。
 あと、とあるカトリック教会の学びで、現役信徒から聞いた話ですが、告解、いわゆる懺悔も教会員には意外にも人気のないイベント(?)らしく、その順序、当番(っていうんですか?)を巡ってもめる、とか、20代、30代の信徒が教会になかなか来ない、とかいろいろあるみたいで、基本的によくも悪くも「普通の人」の集まりなんだな、教会って、と思ったものでした。まあ、言い方は悪いかもしれませんけど、水をかけられたくらいで、いきなり人間が変わったら誰も苦労しませんよ、といったところでしょうか・・。

313nao:2008/04/09(水) 16:14:51
役員
自治会役員とホント、おなじようなものですね。婦人会でついこの間まで役員選挙がありました。そこでとうとう当てられた人が「教会つて、こんなに恐ろしいところだとは思わなかつた」と皆の前で言いました。皆、彼女に役員を押し付けたわけですから、シーンとなりました。「申し訳ないけどお願いします」ということで、彼女は1年間頑張りました。こんなことがあつてから、現在は役員さんが次ぎの方に直接交渉して、なんとかなつてもらう、というかたちになりました。毎年、これはなんとかしなくては、といいながら皆の努力でカバーするしかないということになつています。年一回の夏の大掃除もあつて、さすがにこの日はさぼりにくいです。なんだか、出張にかこつけて休む方やら旅行中にしていたり、みなせこいですが、私も同様でいやはや・・冷や汗ものです。組織がある以上、どうにもならんのでしょうか?

314迷える大羊:2008/04/10(木) 23:32:15
いやはや・・
 なんだかねぇ、ほっとしたようながっかりするような・・。ほっとする部分は、クリスチャンといえば、金銭抜きの慈善事業に精出すような、あるいはコルベ神父やらマザーテレサみたいやたらと立派な人にならんといかんのかなぁ、なんて思ってましたが、なんや、一皮むけばまるっきり普通の人でも、カトリック、クリスチャンやってるやん、という安心感。

 がっかりな部分は、神様信じたからからといって、クリスチャンになったからといって、教会にいったからといって、人間関係のわずらわしさとか、共同体に属する面倒くささ、人のズルさ、せこさから逃れられるわけではなく、相変わらずそういうことで悩んだり、腹を立てたりし続けることは変わらないこと、ですねぇ。
 うーん、結局面倒が一つ増えるだけかなぁ。

 ところで、海外の教会のこういう奉仕事情ってどうなってるんでしょうね?特にカトリックのホームグラウンドであるイタリア、フランスの教会はどうなんでしょうね?すごい偏見であることを承知でいえば、どうもこういうラテン系の人々がしおらしく、大掃除したりしたり、真面目に教会委員の活動に励んでいる姿がどうにも想像がつかないんですが・・・(笑)、

315Sekko:2008/04/15(火) 01:09:08
私の知ってること
 日本ではマイノリティってことで、「一般的な傾向」っていうのがひょっとしてあるのかもしれませんが、フランスでは地域によっていろいろでしょう。
 私のよく知ってるフランドルの小教区(つまり一つの村全部ということです。洗礼率100%でしょう)では、教会のお掃除などは、教区の持ち物である家にタダで何十年も住んでいる家族の主婦が受け持ってました。教会に隣接してる家で、彼女にとって、教会は自分の家の延長みたいな感じです。
 概して、機械的に当番を割り当てられるというより、皆が自分のできることをする、ということが多いと思います。カテキズムがあるので、子供たち、カテキスト、そしてそういう子供を持ってる親たち、それから高校生から大学生くらいで人道活動に目覚めたような若者、後は年金生活者、って感じの人がそれぞれ得意の分野で協力するって感じです。子供が大きくなってもう教会に行かなくなったような親は自分たちもまた行かなくなって、次は子供の結婚式とか孫の洗礼とかでまた少し近寄るって感じが多いですね。弱者救済の連帯というのは基本なので、仕事のない人や住まいのない人を教区が助けてその代わりに奉仕をしてもらうというのはすごく自然でいいと思って見ています。
 日本のように、地域の自治会とか町内会というのがないので、小教区の各種組織がその役割を果たしていることも多いですね。でも、都会では今は、移動が激しくてそんな感じではないように思います。できる時にできることをする、というスタンスの人は結構いるでしょうね。
 嫌なのを無理に当番させられるくらいなら、それなりの金銭的負担をして、お掃除や雑用とかなら信者でなくとも、仕事を必要としてる人に提供して支払った方が人助けにもなると思いますけど、どうなんでしょうね。

316迷える大羊:2008/04/18(金) 22:39:27
なるほど
 確かにSEKKOさんが御存知の教会のような自然発生的な奉仕が理想的ですよね。
思うに日本人は真面目に考え、組織をかっちり作りすぎて、却って身動きが取れなくなっている、みたいなところがあるのかも。でも、日本ではカトリックとかクリスチャンってマイノリティ、至って特殊な存在なので、なかなか同じようにはいかないでしょうし、ちょっと考えがまとまりませんね・・。

 ちなみにマンションの管理組合の後継者は、人の善意とボランティア精神に期待することは諦め、規約と法を前面に出し、半強制的に決めることとしました。古参の住民の方に相談したところ「そんな、まともに頼みにいったってダメよ」といわれ、そうしました。

 なんだか、キリスト教の性悪説がなんとなくわかる、というかほの見えた一瞬でしたね(大げさな・・(笑))

317迷える大羊:2008/04/20(日) 10:20:52
何度もすみません
 もう、何回となく同じ話をして申し訳ないのですが、自分にとってキリスト教最大の障害は、イエスを実質上、神そのものズバリ、としてしまうこと。

 もちろん、別にイエスが嫌いとか反発してるわけじゃありません。その行動思想はおおいに学ぶところあり、と思ってますし、宗教家としての偉大さは全く疑っておりません。聖書のいい部分は存分に認めてます。

 しかし、神そのものずばり、でその教祖様が奇跡を巻き起こすとなると、(もちろん、皆が皆、字句通りとっているわけではないことはわかりますが)どうしても世間を騒がせる怪しい教団、ヤバイ宗教の「教祖」を連想して「うぇ」となりアレルギー反応をおこすのです。現代人でなく、二千年前の人間にだって理解に苦しむ考えで、聖書を読むと、やはりイエス=神の子論に対する信者以外の人々の反発、冷笑の反応はいたるところにでてきますよね。

 一体、この辺どう考えてるんだ、ということをプロ・カト問わず、牧師、神父、信者の皆さんに聞いてみましたが、彼らにとってイエス=神はあまりに当たり前すぎて、「神といったら神なんだ、わかんなきゃいい」という問答無用のお答えか、普段、あまり深く考えていなくて、説明できないか、あるいは、やはりクリスチャンにとってカンに障る話なのかイヤな顔をされてしまうか、のいずれかです。
 「これは信仰なんだから」ともいわれますが、イスラムは開祖ムハンマドと神をきっちり分離してますし、開祖様の奇跡談なんてほとんどないですが、ちゃんと宗教、信仰として成り立ってるじゃない、とも思っちゃいます。

 いずれにしても、私の満足のいくお話って得られないのです。揚げ足とり、意地悪をしているつもりはなくて、真面目に考えてるからこそ出てくる疑問なんですが、やはり、言い方がマズいのかな?とも思ってしまいます。

 で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってないものでしょうか?
 あくまで、歴史と過程です。教義そのものは真面目に考えるとおかしくなりそうなのでパスします(笑)。

 多分、私みたいな考え方ってちょっと「アリウス」派っぽいのかも。世が世なら追放刑だとか火あぶりの刑になるのかな?冗談のつもりですが、「神といったら神なんだ」といった問答無用の反応をみると、まんざら冗談ですまないような気もします。

318Sekko:2008/04/20(日) 20:29:13
神の子が神になったわけ
 「何度もすみません」どころか、大羊さんが今まで質問をしてきたギョーカイの人々がこの大切なところにちゃんと答えられてない方が大問題です。
 私は、考えれば考えるほど、ナザレのイエスを神とした三位一体の神学の意味に感動しています。詭弁とか、単なる伝統とか、深く追求しないで敬して遠ざけるっていうようなものではありません。
 今の私たちから見ると、古代の人たちはこうこうだと言われたら何でも受け入れたけれど現代人には納得できないものは呑みこめないよな、と思うかもしれませんが、昔から、三位一体が「なんか変だ」「無理がある」と思う人はいくらでもいたわけです。いやむしろその方が多かったでしょう。それですごく論争が起こり、325年のニカイア公会議で司教たちの多数決で「イエスは神」としたわけです。その時点ではそう認めることの必要性がいくつかあったわけです。しかし、キリストは神とは別の被造物で神の養子になっただけとするアリウス派系統の力は依然として強く、皇帝コンスタンティヌス2世もそっちを支持しました。
 今のキリスト教でもエホバの証人なんかはイエス=神を認めてなかったと思います。とにかく、「三位一体」って無理があるんじゃない? という疑問は、キリスト教の成立の歴史と同じくらい古い疑問出し、解決していない問題だと言えるかもしれません。
 だからこそ、ニカイア公会議から100年以上も経った後でまた、451年のカルゲドン公会議で、改めて、「イエス=キリスト=神ではない」説が弾劾されました。でもそのおかげで、この二つの公会議の間に、この教義を確立した教父たちが出て、とてもすてきな三位一体弁護論を繰り広げています。私は特にナジアンズのグレゴリウスが好きで、彼の論議の展開を見ていると、イエスの死と復活の物語が今日的に有効であり得るには、三位一体のダイナミズムが絶対必要だったんだなあ、と納得できます。あの時代の最高の知性たちが、どうしてもこの教義をたてなければ呪術的な古代世界から弱者を解放できないと考えたのは、理解できるんです。そして今も、残念ながら世界中で弱者が抑圧されてる現実は変わっていないので、この考え方を継承するのは意味があると思います。私にとっては結果オーライだなあって。

 今、たとえば「教祖が神だという強弁」を誤解されないようにとキリスト教関係者が及び腰になって人間イエスのすばらしさだけ強調したり、あるいは、三位一体のような教義は禁域に隔離して祀っておくだけみたいな態度をとるのは不思議なことです。
 このことについて、少しだけ、『カトリック生活』(ドンボスコ社)の5月号(発売中)と、次号(5月10日発売)に書きました。

>で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか
>「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、
>歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってない
>ものでしょうか? あくまで、歴史と過程です。

 という大羊さんの質問にどなたか答えてくださるとうれしいです。
 なければそのうち私が書きますよ。

319迷える大羊:2008/04/22(火) 00:01:59
謎に満ちているのは・・
 毎度、ありがとうございます。やっと、まともな回答にありつけましたね。今までは「俺、そんなにイヤなこと、変なこと、無茶なこと聞いてるかぁ?」といいたくなるような反応が多かったですから。

 先日行った某教会の信仰入門の先生もとにかくこの件に関しては、とにかく神といったら神なの的な答えで聞く耳もたず。ああ、説教もうまいし、70代とは思えないはつらつとした方で、いい先生、と思ってたんだがなぁ、とちょっとがっかりしたところでした。
(単に忙しいのに、苦手なところをしつこくつっつく私がうっとおしかったのかもしれませんが・・)

 三位一体、イエス=神で人で、の教義そのものより、こういう実際のクリスチャンたちの反応の方が私にはよっぽど不可解で謎に満ちてます。変なたとえですが、八つ墓村で触れてはならないタブーに触れた金田一耕介の気分でしょうか。何かタタリでもあるんですか?と聞きたくなります。

 でも、この疑問ってある意味、クリスチャンの個人単位での性格とか信仰のあり方を計るリトマス紙になりそうですね。以下、私の独断と偏見で分類します。

 1.「よくわかりません、知りません」 素直でいいと思います。聖職者であってもちっとも恥ずかしいことではないと思います。そんなことで「牧師のくせに」とか「神父のくせに」なんて思ったりしません。
 別にキリスト教とか教会はオタク的な知識を競う場ではないと思いますし、〜を知ってるからすごい、とかエライといった世界でもないと思いますから。でも、キリスト教の肝心かなめの部分がそれでいいのか、という一抹の不安は感じる。

 2.「これは人間業ではわからない奥義で云々」 ホントかぁ?やたら話を仰々しくして誤魔化してない?本当はあなたもよく知らなくて勉強してないでしょ?といった疑いを持ってしまう。教義そのものの説明は難しくても、そんなものが教義になったワケぐらいは教えてくれたっていいでしょ?と思ってしまう。実際、SEKKOさんはきちんと御説明されているわけだし。

 3.「これは信仰なのだから」 とにかく受け容れろ、丸呑みしろ、とのお答え。だけど、大してわかってもいない、実は心の奥底ではあんまり納得もしていないことを信じたフリをするというのは自分に対しても神様に対しても不誠実じゃないですか?との感想を持ってしまう。

 4.「問答無用、神といったら神だ」 私にとって最悪です。こんなこという牧師や神父さんは他にいくらいいところがあっても一発で幻滅してしまいそうです。信仰って無理やり自分にマインドコントロールをかけることなんですか?と思ってしまう。

 まあ、くどいようですが、あくまで私の偏見ですから。月並みですが、人間、年齢、身分問わず素直なのが一番いいですね、という結論になるのでした(そういうお前はどうなんだ、というツッコミはなしで・・)

 SEKKOさん、是非、三位一体、イエス=人であり神であり、について本書いて下さい。楽しみにしてます。

320迷える大羊:2008/05/02(金) 23:38:05
信仰と道徳の違いとは?
 キリスト教、宗教の話をしていつも言われるのは「これは単なる道徳律とは違うんです」ということ。例えば、聖書について「確かに今から見ると変な話も多いですけど、人を裁くな、とか、神の国はあなたがたの間にあるとか、いろいろいいことも書いてありますよね〜」というふうに話をすると「ええ、でもそれだと論語などと変わらないんです。単なる道徳なんです」ということを、これまた教会、教派問わずいわれます。

 で、この信仰・宗教と道徳・哲学との違い境目とか違いって何なのでしょう?信仰・宗教として聖書を読むとするなら、現代、あるいは未信者の感覚からしてどんなにメチャクチャなことが書いてあっても「神の御言葉」「神の霊感によって書かれた」として受け取らなくてはいけないんでしょうか?

 あくまで、書かれた状況や時代を鑑みて「著者はなんでこう表現したのかな?」とウラを読みながら、その意図を考えていく、なんて読み方は邪道になるんでしょうかね?
 いや、自分としては至って普通のことを言っているつもりなんですが、「宗教・信仰」の世界では通じない話なのでしょうか?
 またまた、すみませんが、どなたかお教え下されば幸いです。

321nao:2008/05/03(土) 22:16:31
公式巡礼、公式行列
竹下先生のご著書「奇跡の泉ルルドへ」のなかに「公式巡礼」「公式行列」という言葉が度々でてきます。「公式」というのは、どういうことなのでしょうか?だれかが組織してくる巡礼、行列なのでしょうか?私は10年前、日本の枢機卿と共に25名で巡礼しましたが、そのような巡礼は「私的」というのでしょうか?「公式」と「私的」の違いをご教示くださいませ。

大羊さんの問いにはいつも啓発されております。信者になつて、「このような問いに自分はどう答えることができるだろうか?」と考えてしまいます。でも残念ながら答えの言葉がまつたくでてきません。何故なのか?いつも悩んでいます。プロの司祭様たちがこのサイトをご存知なら、ご登場ねがいたいものです。

322Sekko:2008/05/03(土) 22:42:26
聖書との付き合い方について
 私の立場でお答えしときます。別にその筋のお墨付きではないのでそのつもりで。

 キリスト教に関しては、紀元1世紀にパレスチナで生きたナザレのイエスという人間が「人間でありそのまま神である」という信仰が基盤になっているわけです。
 そこのところは一応おいといて、ともかく「神が人となった」というのですが、すべての「人」は社会的歴史的存在なので、ナザレのイエスがどういう時代のどういう場所でどういう伝統と共同体意識の中に生まれたかということは彼の「人間」の部分にとって大きい意味を持っています。
 たとえば、ある人が突然「神懸り」になってそれ以降は生き神として機能し、それ以前の個人史は問題にならないとか、逆に、生まれた時から「神の化身とか生まれ変わり」であり普通の人間の文脈からは超越しているんだというタイプの宗教もあるでしょう。
 でも、キリスト教では、ナザレのイエスというユダヤの歴史や伝統を背負って生きて死んだ男が神としていかにして普遍宗教の核になったかを、弟子たちが書きとめたわけです。彼らの宗教がはじめにユダヤ人の間で形成されたことは、イエスが救世主となることを「ユダヤの聖典の成就」であるという「後付け」がなされたことを示しています。
 それで、旧約聖書の部分は、それが「文字通りの絶対真実」というプレゼンテーションではなく、イエス・キリストがどういう「時代と文化の文脈に生まれたのか」、そういうコンテキストの中でその民族的枠をどのようにして突破して普遍宗教〈地縁血縁を救いの条件にしない宗教〉に展開していったかの道筋を残す部分です。イエスの教えや行動は、他の普遍宗教の開祖と同様その社会では革命的であったにせよ、だからこそ生きた時代や伝統からインスパイアされたものであります。
 旧約聖書があるからこそ、イエスがどういう人間であり、弟子たちがどういう風にイエスを理解したかが私たちにも追体験できます。
 新旧聖書のおかげで、イエスの人間としての文化的社会的ルーツをも知ることができ、それを、使徒たちや初期教会の人たちが、どのように新しい世界観を提供し、戒律主義や偶像崇拝や権力維持に陥りやすい人間の性向からその犠牲者である弱者を解放していくシステムを作ったのかがよく分かります。

 人はどのような身分に生まれてどのような能力を持っているかということでは評価されず、それをいかにして運用するか〈=自分より弱い者に仕えるか〉が大事なのだというガイドラインを示した点では、「・・・するなかれ」の古典的で形骸化しやすい戒律主義から一歩進んだ倫理感も提供しました。

 キリスト教の歴史の中では、聖書を文字通りに解釈してそれを知識や行動規範としておしつけるというような蒙昧主義や教条主義も何度もありましたし、今もあると思います。逆に、それに反発して、すべてはシンボリックだとか比喩だとか、神話だとか、文学だとか言って、「イエスという手本にすべき立派な人間の物語」だとか、その他多くの道徳や宗教や哲学のテキストの一つに過ぎない、と位置づけるとかの、矮小化や相対化の流れもたくさんあります。
 いろんな読み方読まれ方をすること自体は、他人に抑圧的にならない限り、別に自由でいいんじゃないでしょうか。

 けれども、

 旧約の世界に養われて、
 新約の世界が突破して、
 時空を超えたメッセージとして、
 今、現在も、平和と利他の実現のためにキリスト教を生きている人も実際にいるわけです。

 そういう存在の根っこの部分で人を連帯に導くために突き動かす力は、聖書には充分あると私は見ています。

 各派教会筋の方にはそれぞれの立場上いろいろあるのでしょうが、大羊さんは、今の所、とりあえず、旧約はイエスの人間の部分の理解とキリスト教の生まれたユダヤ世界の共同幻想〈と言って悪ければ伝統的世界観とか歴史観〉を知るための資料集、新約はその中で生まれたイエスの生と死と復活が、旧約的文脈の中でどのようにして世界宗教となるほどの信仰の普遍性を生んだのかを語ってくれる「証言」集、というスタンスでお付き合いすればいいんではないでしょうか。
見方を、あるいは崇め方?を押し付けられても、別に、それで信仰が深まるとかいう問題ではないと思いますけど。それで信仰が深まるならただの洗脳でしょ。

 あと、新約に関しては、逆説的な表現が結構多く、それが魅力にもなっているので玩味できるのでは?

 このテーマについて、私にとって聖書はこうだったけど、今はこうなった、という体験談とかあればどうぞ。アドヴァイスの場であっても論議の場にはしたくないのでよろしく。

323Sekko:2008/05/03(土) 23:19:06
naoさま
 すみません、本が手元にないので〈お貸ししたり差し上げたりしてすぐなくなるんです)、どの箇所かは分かりませんが、Pelerinage officiel というフランス語が出てきたときにそれをそう訳出したんだと思います。今聖域は300名近い常勤職員のいる会社のような組織があって、聖域主催の午後の聖体行列とか夜の蝋燭行列とかは混乱が起きぬようにセキュリティとかがすごくよく管理されてるものです。他のグループの行列とか巡礼も、ある程度の規模以上なら届け出てオーガナイズされてると思います。司教区が主催するような巡礼は、宿泊のこともありますから当然、聖域と連携してるでしょうね。聖域のカレンダーに明記されてる巡礼のことだと思いますが、確認しないと分かりません。
 狭い意味での「公式の巡礼」とは、タルブ=ルルド司教区の主催する巡礼という意味かもしれません。たとえば、ルルドの第一回「公式巡礼」は1864年4月4日とありますから〈下にコピーしときます)。

La première apparition de la Vierge à Bernadette remonte au 11 février 1858. La commission d’enquête, nommée par l’évêque de Tarbes, Mgr Laurence, conclut en janvier 1862 à l’authenticité des faits. Depuis 1858, en dépit de la fermeture de la grotte de Lourdes par les autorités municipales et préfectorales, le mouvement de prière et de conversion, popularisé et rendu public par des guérisons éclatantes, n’a jamais cessé. Le premier pèlerinage officiel remonte au 4 avril 1864, à l’occasion de la bénédiction et de l’inauguration solennelle de la statue de Notre-Dame de Lourdes à la grotte des apparitions, cette première procession donne le branle à toute une série de pèlerinages paroissiaux. La crypte, commencée en 1863, est consacrée le 21 mai 1866, la ville de Lourdes est reliée par le train à Bayonne depuis 1867 et à Toulouse l’année suivante. Les Assomptionnistes parisiens prennent la direction et l’encadrement du premier pèlerinage national de 1873.

324nao:2008/05/08(木) 09:23:23
奉献
お返事いただきありがとうございました。また質問です。
マリアは聖書外典によると、3歳で神殿奉献され、神殿に移ります。この奉献は神殿に身柄をうつしますので、巫女のような生活になつたものと想像しております。イエスも奉献されますが、これは「長男はみな主に聖別されたものととなえられねばならない」というユダヤ教のしきたりに従うものであつたようです。辞書を引くと「聖別」とは人の場合「祈祷、儀式などによつて、神の礼拝、神への奉仕のために捧げる行為をいう」とあります。そうすると、長男の生活には他の子とちがつた義務が生じてきたのでしょうか?聖別されても儀式だけうけたのか、特別な神への義務が生じたのか、よくわかりません。細かいことで申し訳ありませんが、教えていただけますと、ありがたいです。

325Sekko:2008/05/08(木) 16:25:27
イエスの神殿奉献
 イエスの場合についての特別なことは知りませんが、これは当時の感覚ではただの「お宮参り」みたいなものだったと思います。
 形としては出エジプト記の13章、レビ記の12章にある規定を守ったわけで、産婦の妊娠出産による穢れの清めの儀式、贖罪の儀式がメインで、穢れを解消してコミュニティへ復帰するというシンボリックな意味、それから事実上は捧げものが神殿の財源の一つになっていた、最後に、イスラエルの神の「初子」に対するこだわりの現れでしょう。エジプトを出たときにユダヤ人以外の家庭の初子を神がことごとく殺したというエピソードが、さすがに集団トラウマになって、その犠牲を忘れないように、自分たちの子も神に捧げ続けるという形をとったように思われます。現実には出産後の節目であり、子供の将来も祝福してもらおうという、古今東西変わらぬ普通の行事だったと思うんですが。もちろんイエスの場合それがいろいろシンボリックな意味を持ってくるわけですが。

326nao:2008/05/08(木) 17:22:06
ありがとうございました。
お忙しいなか、早速お返事いただきまして、ありがとうございました。当時、トラウマはまだなまなましかつたわけですから、初子はまず、神殿へ・・と急いだことでしょう。「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」ときめられた捧げ物をしたということですから、財源となつたことでしょう。当時の様子を描いてみるのも楽しいことでした。有り難くおもつております。

327Sekko:2008/05/08(木) 18:13:34
捧げもの
「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」は、レビ記で「産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は」という、貧乏人のオプションなんですよね。この辺が将来のイエスの物語の伏線にもなってる感じかな。
 「産婦が貧しくて」とありますが、では父親は関係ないとして、マリアの実家のヨアキムやアンナは裕福なようだったから、何で実家が子羊を調達しなかったのかなあと思うんですけど。やはりイエスの出生がいまいち「誰の子か分からない」という感じで、ヨセフの手前、実家がおおっぴらに祝福しにくかったんでしょうか。と、つまらぬことをいろいろ考えてしまいます。

328迷える大羊:2008/05/25(日) 21:58:53
法とキリスト教
 私事でなんですが・・・。最近、仕事で内部統制関係の仕事をすることになったんですが・・。
 まず、内部統制って何なのか、といいますと、ここ10年来のアメリカではエンロン、ワールドコム、日本ではカネボウ、などの巨額の粉飾決算、三菱自動車のリコール隠しなど、上場企業、株式市場の信頼性を揺るがす不祥事が相次いだことを受けて、アメリカで「サーベンス・オクスリー法(発案した議員の名らしいです)」略してSOX法が2002年に成立、その動きを受けて、日本でも06年に金融商品取引法、いわゆるJ−SOX法が成立しました。

 ということで、日本でも上場企業ですとか、その関連企業は、簡単にいえば、この法にのっとって、正確な財務情報の提供、不祥事防止の体制つくりなどが必要となってくるわけですが、これが、いたるところで責任者、上長のチェック、承認、文書による証明の連続で、純粋な日本人的発想だと、人間関係で築かれる信頼関係とか、話し合いですますところも徹底的にチェックで正直、面倒というか、余計な仕事が増えて、うっとおしいですし、あまり人を信用しないシステムというかなんというか、まあ、不祥事防止の為にできた制度だから当たり前ではあるんですが、それにしても、徹底しているというか・・。

 これまた、欧米生まれの企業活動の品質規格であるISOもそうで、これまた、責任者のチェック、承認、文書による証明の連続で、参ってしまいます。

 これって、キリスト教の原罪思想、つまり、人はほっとけば神から離れていく生き物なのだよ、みたいな考え方がやっぱり元にあるんだろうか?とふと考えるのですが、どうでしょうかね?あと、契約に関する考えなんかも・・。

 とにかく、一般のごくごく普通の日本人の感覚からすると、そこまでせんでも、みたいなところがあるのは確かですね・・。

329迷える大羊:2008/07/20(日) 23:49:20
「正統派」の中のカルト?
 以前、こちらのBBSで塩梅さんが過去に在籍されていた教会の様子について発言されていたことがありましたが、その様子が異様で、「正統派」となっていることになっている教会にも極めて運営が怪しげなところがあると知り、驚いたことがありました。

 そしたら、最近になって朝日新聞系の週刊誌「アエラ」が7月28日号でまさにその問題に触れていました。タイトルは「キリスト教会の「カルト化」。牧師に対する個人崇拝、ささいな理由で行われる体罰。時代錯誤な「悪霊払い」による「病気治療」、「皇帝牧師」の乱れた異性関係などなど・・・。そういった問題で係争中の教会を中心に取り上げていました。

 それが、大多数の主流派教会で関係を否定される「エホバ」「モルモン」「統一教会」ではなく、「正統派」ということになっている、つまり、三位一体の教義をとり、「異端」ではない聖書を使う教会なので驚きます。
 それにしても、記事中にもありましたが、教会らしい建物をもち、聖書をひいてもっともらしいことをいう「牧師」を純粋な人はつい信じてしまうみたいですね。

 教会はともかく「聖書」が清廉潔白で道徳的な話ばかり、と信じている人が多いのにはとにかく驚きます(かつての私もそうだったけど)。もちろん、そういう面もあるのだけども、実際のところ、旧約は下ネタ、暴力ネタが極めて多い文書だし、新約になると大分大人しくなるし、イエスの教えは傾聴に値するものが多いけど、そのイエスにしても過激発言(例・私と父(神)は一体だ! ヨハネ福音書より)が結構あるし、決して単純な勧善懲悪の本、文書じゃないのに。
 とにかく良くも悪くも使えるのが「聖書」という書物で、その諸刃の剣、取り扱い注意な面をもっと既存の教会はきちんと求道者とか信者さんにきちんと説明すべきなんじゃないかなぁ、とも思いましたね。きれいなところ、カッコいいところばかりを読み上げるんじゃなくて・・。

 記事の締めくくりとして 櫻井北海道大大学院教授のコメントが掲載されてまして、要約すると・・、

 ・牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得した上で信仰を持つこと

 ・いろいろな教会を比較し、一番しっくり行くところを選ぶのがベター、そういう行動を不信仰などという牧師がいたら、その教会は止めた方がいい

 とのことでした。それにしても、以前にも「アエラ」誌はこうした特集を組んでましたし、キリスト教会と何かあるんでしょうかね?

330塩梅:2008/07/21(月) 09:06:03
Re:「正統派」の中のカルト?
カト関係の掲示板でこういう話をするのも何なんですが…。
何だか申し訳ありませんです。>All

大羊さま>
多分、今回「アエラ」掲載の関係、あれは非常に残念です。
事の推移を見守っていましたが、かなり昔に聴講生として通っていた神学校ほかお世話になっていた聖職者・共同体(少なからないのです)が俎上に上がっていますので、かなり悲しく思っています。勿論、被害者になられてしまった方々に関しては…当方はあのような肉体的な暴力といった仕打ちは受けたことはないけれど、非常にお気持ち察するところがあります。

プロテスタントというのは、カトリックみたいなヒエラルキー的な人間組織の頂点に立つバチカンみたいなところがない(そもそも聖座の腐敗へのアンチテーゼみたいなところが大きいか)、あと明確な教会法であるとかそういうものも無い。ある意味…教会運営が個々の教団・そして教会の良心にひたすら任されている状況だと思います。あと教団にいられなくなったら、どこの教団にも属さない「単立」という形も取れてしまいます。
そんな中できちんとした活動を行っている教会もあるんですが、やはり何かあったときのチェック機能が甘くなってしまうのかな…とは。で、やっぱりH派・S派関係で、信仰そのものというよりいわゆる「カリスマ牧師」およびその共同体への依存に持ち込んでしまっている教会があるとは思います。気付く人は気付くんですが、やっぱり「傷つくような何か」があってのことなので…その後はトラウマとの闘いです。

で、多分、俎上に上がっている教会の元・信者さんもこれからその辺が大変だと思うんです。受け入れてくれる教会があるか、聖職者及び共同体がそういった問題に関する理解度が少しでもあるか…そういうところで。受け入れ自体は多分にプロテスタント教会のお仕事になると思いますが、やはり問題のある共同体にいたとか母教会(洗礼を受けた教会)に問題があった場合に「まず、受け入れてもらえない」という問題が出る可能性があるかな、と。

そういう経緯もあって、私の場合は最終的にカトリックに飛び込んだので…。
ただカトリックに飛び込むのは(本当に知らない世界だったので)それこそ「清水の舞台から…」と言った気持ちで、最初カトリック教会にお電話して「行ってもよろしいでしょうか?」と。受話器を持つ手がプルプル震える、そんな感じでした。

ただ、個人的にカトリック教会にお世話になるとき、神父さまに言われたのは、

「以前の教会へのアンチテーゼでは(改宗は)ダメですよ」

と。そこら辺を解決するのに、私の場合は随分時間がかかりました。何年単位のことでしたが、やっぱりそれで良かったんだと思います。それと結局は洗礼の有効性などの問題があって、受け直しなんですが…かえってそれもいいかな、と。

331迷える大羊:2008/07/21(月) 10:08:21
宗教にも規格が必要??
 アエラ誌の記事や塩梅さんのお話を伺うと、宗教団体にも一般企業のISOや金融取引法に基づく「内部統制」の仕組みに相当する規格を導入した方がいいんじゃないか?と思えてきますね。

 例えば、〜規格に基づいた審査を受けその資格を取得している教会、団体なら
とりあえずおかしなことはないだろう、みたいな目安になるんじゃないかな?信者(消費者)にとっては。まあ、実際は言論、思想、信仰の自由の問題が絡んで難しいし、それが本当に有効に機能するかはわからないけど、何にもないよりマシかなぁ、なんて思ったんですけどね。

 ISOとか、「内部統制」ではその企業の業務・活動内容、財務内容について、第三者にも一目で分かるよう文書化、担当者以外の第三者がチェックに入るようなシステム作りが求められます。半年ぐらいに一回くらい、規格に沿った企業・活動運営が行われているかどうか。外部の関係機関の監査が入ります。(まあ、これはこれでいろいろ問題はありますが)
 それに絡んで「コンプライアンス」、というと難しそうですが、要は「法令順守」ですね、に対しても企業社会は日々うるさくなってきています。

 元々、アメリカのエンロンの粉飾決算だとか、日本では、西武鉄道、カネボウ、ホリエモン、村上ファンドなどの問題があって、声高に叫ばれるようになったわけですが、宗教界だって、これだけ不祥事が出れば、似たような流れ、動きがあって然るべきなんじゃないかなぁ、と思うんですけどね、キリスト教系団体、仏教系団体、その他を問わず。
 「うちはそんなことやってないから大丈夫」とか「正統派の教会だから安心」なんていうんじゃなくて・・。
 結局、宗教界、キリスト教の世界といえども「神の目」があるから安心、ってことはまったくなくて「第三者の目」がないと、ロクでもないことをやる人間が必ず現れる、というのは俗界と全く同じで、なんだかなぁ、という気がしましたね。

332Sekko:2008/07/21(月) 16:21:38
サービス機関かブランドか
 アエラの記事は読んでないので細かいことはわかりませんが、今朝のラジオで、オーストラリアのカトリック青年の日の行事の最終日に教皇が、みんなの期待していたように、聖職者の不祥事についての謝罪をした、って言ってました。謝罪できるトップ(その身辺はきれいだと認められている)がいるというのはこういう時、確かに分かりやすいですね。でも、プロテスタントの牧師さんたちはその成り立ちから言って信者代表の立場だから、シンボリックな意味は担いにくいです。

 どんな仕事でも、立場や肩書きが責任感や使命感や自律を促したリ育てたりってことはあるでしょうが、やはり、心の問題に関しては、サービスや救いを求める側が、相手の人間性を直接見て判断するしかないですね。でも、弱っていて救いを求めている人にはそういう判断が難しいかもしれないし、だからこそそれにつけこむようなのは許せないですが・・・

 宗教機関の「正統派」をブランドと見なして、消費者の信頼を裏切ったとか、モラルの低下みたいにも見えますが、宗教帰属が消費行動になること自体がおかしいとも思います。行きずりの寺社におまいりしてお賽銭を上げて頼みごとをしても、帰属感はないから、その一時の安心感やら希望を買った消費みたいなもんで後腐れはないですが、要は、何につけ、「人間のやっていること」に「期待」してはだめということだと思います。キリスト教的には信仰と期待はセットになっていますが、それは基本的にはこの世を越えたところでの救いの話ですから。

 ともかく、正統派とか何とか言う「ブランド」に関係なく、サービス機関としてかかわるなら「消費者」の方にもそれなりの意識の高さや分別力が必要出し、ある機関が道を外さないように、また弱者を守るためには、最低限の法の規制や枷や監査機構は必要でしょうね。

 カトで私が最近気になったのは、復活祭に教皇がエジプト系イタリア人ジャーナリストに洗礼を授けたことです。その人を取り巻くイスラム環境的には改宗は死に値するそうで、JP2は、そのために、ムスリムの改宗洗礼にたいしてすごく慎重だったそうなんですが、B16のやり方は挑発じゃないかという意見もありました。そっと内輪でやればいいのに・・・
 良心に恥じるところがないからって堂々とやるのも困りものです。
 フランスには8月にダライラマが来て、9月に教皇が来るというんで、宗教とか平和とか外交とか政教分離とかについていろいろ考察が促されるでしょうしそれは楽しみです。

333迷える大羊:2008/07/21(月) 20:32:49
最近のアエラ
って、時折、こういう宗教問題を取り上げることありますね。「こういう宗教問題」というのは、かつてのオウムのように、誰が見ても、はっきりとヘンだ、カルトだ、とわかる教団とか宗教ではなく、一見するとまとも、派手な反社会的行動を取っているわけでもない、それどころか、世間一般のウケも良い団体に潜む問題とか悪だとかといったものですね。

 今回はプロテスタントの所謂「単立教会」が遡上に上ってましたが、詳しい年月日は失念しましたが、数ヶ月前には日本キリスト教団とかカトリックとか聖公会、ホーリネスなどなど、いわゆる老舗の伝統的教会のそれもしっかり遡上に載せておりました。アエラ以外の他のメディアにはあんまり出てこない種類の記事なので、「あれ?」と思ってつい読んでしまいましたね(他はそもそもキリスト教会自体に無関心だったり無知だったりで・・)。

 私の読んだところ、アエラの前回、今回に共通する論調としては・・、

 キリスト教は日本では人口比1%以下の極めてマイナーな世界、にも関わらず、欧米先進諸国の文化に連なっている、ミッションスクールの質の高さ、なども相まって、そのイメージは高く、存在感もある、しかし、そのイメージに惑わされず、自分の考え、目と耳でよく見極めないと、中にはとんでもない教会、聖職者も存在しますよ・・、

 といったタッチ、趣旨ですね。

 「正統派云々」という話も、記事で取り上げた問題ある教会、聖職者が生き延び続ける理由として「「正統なキリスト教会」であることを掲げている点が指摘できる」とアエラ誌が推理、結論しているところからきてます。

 まあ、人間は「性善説」より「性悪説」で見た方が後々の失望が少なくていいかもしれませんね。その点、キリスト教の人間観察は鋭いと思います。だからこそ、宗教に限らず、不祥事や人の悪に対する抜本的な対策は是非キリスト教会の側から出てくれば、と期待したりするのですが。
 な〜んて、こんなこというなんて、少し前の私からは考えられないことで、なんだかんだいって私もキリスト教の世界に染まってるんだなぁ、と思っちゃいました(笑)

 >B16

 どこかで、SEKKO先生もおっしゃっていたことですが、やっぱりこの方、「KY」なんじゃ?決して悪い人ではないことは分かるんですが・・。

334nao:2008/08/17(日) 21:05:41
恵果の呼び名
空海に密教世界の両部(金剛界と胎蔵界の世界観)をすべて伝えた「恵果」の呼び名はなんというのでしょうか?梅原猛、末木文美士は「けいか」、司馬遼太郎は「えか」と呼んでいます。どちらも正しいのでしょうか?中国ではどう呼ぶのでしょうか?

335Sekko:2008/08/18(月) 02:53:00
恵果の読み方
 ええと私は「けいか」で行こうと思っています。

 理由は、種智院大学学長の頼富さん(この方のお寺が私の母の実家の檀那寺でした)が監修されている一般向けの空海入門書で「けいか」とルビがふってあったからです。これからやるかもしれない仕事の参考図書としてそれを渡されているので。
 今の中国語のピンイン表記では「hui-guo」となりますが、「hui」は、日本語表記するとフェイとかフイとかホエとかホェイとか、いろいろですね。空海と恵果の出会いを中国の古代劇にすることを考えているので、そしたら、読み方も古代風になるのかもしれません。
 「恵」を「エ」と読むのは呉音で、もとは「ウェ」ですね。真言宗や一般に仏教は呉音を使うことが多いので、司馬さんが取材した時に真言の人は「えか」って言ってたのかも知れません。「けい」は漢音で、今は、一般的に、中国人の名の日本語読みは漢音ですることが通例なので、「けいか」でいいのだと思います。漢音はもともと7、8世紀に遣唐使が伝えた読みで、唐音は鎌倉時代以降で禅語などが中心と聞きますから、空海は「恵果」のことを「けいか」に近い呼び方をしていた可能性はありますね。恵果あじゃり(変換できません)という時も「空海と恵果」という時も、「けいか」の方が語呂がいいので「けいか」でいいんじゃないかしら。司馬さんの『空海の風景』は、30年前に読んだ時は、なんだか想像ばかりでたゆたいすぎていて、はっきりしないなあ、感情移入できないなあ、と思った記憶があるんですが、今読み返してみると、すごいなあ、空海のように神話や信仰の対象になってるような人を作品で料理するにはこれくらいの洞察と距離感が必要なんだなあ、と感心しています。こういうスタンスの人のイエス伝も読んでみたいくらいです。

336nao:2008/08/18(月) 09:35:26
ありがとうございました。
呉音と漢音があることも、中国語の読み方もなにもわかりませんでした。ありがとうございました。これからは先生にならつて、「けいか」とよむことにします。そのほうがよみやすいものですから。

337nao:2008/08/18(月) 16:21:00
「空海の風景」
途中で投稿になつてしまい、しりきれトンボになりました。司馬遼太郎の「空海の風景」は近所の真言宗の若いお坊さんに勧めていただきました。「やはり小説風のもののほうがよみやすいですよ」と20代のお坊さんがいいました。昭和50年度初版のものが2005年新装改版になり字が大きくて、よみやすくなりました。司馬遼太郎記念館は近いので、何度もいつてますのに、この本のことを、今はじめて知りました。夢中になつて読ませる迫力があります。空海という人のことも我が家が真言宗で菩提寺が高野山にありますのに、しらべたこともありませんでした。でも今回「両部は不二である」という空海のことばにつよく惹かれるものがあります。しかし即身成仏だけはどうしても解りませんし、惹かれません。すごい教養と鋭い政治感覚、宗教的天才、理論家としての天才性。三筆のひとり。というようにものすごい人だつたんですね。
先生がどのような古代劇をお書きになられるのか、非常に興味がありますし、そのお芝居の日や場所がはつきりしましたら、サイトにいれてくださいますよう、おねがいいたします。
日本に帰国してからの空海にも興味はつきません。「曼荼羅」についても、勉強したいとおもつております。今度高野山にゆくときには観るものがちがつてみえるだろう、とこの本を読みながら、その日が楽しみになつてきました。いつもきちんと、お返事いただき有り難くおもつております。

338迷える大羊:2008/08/21(木) 22:43:47
聖母マリアと聖書
 実はこれ、別のキリスト教関係のウェブでも出した話なんですが、いろいろなクリスチャン、キリスト教関係者の見解が知りたいということで、ここでもお話させていただきます。

 それはイエスの母マリアの位置づけ、です。カトリックのマリア崇敬は有名で、中にはイエス差様よりマリア様の方が好きなんじゃないの?といいたくなる人もいますし、教派にもよりますが、プロテスタント教会でも処女懐胎は感慨深く語られる出来事です。

 でも、実際に聖書読むと、処女懐胎がはっきりと描かれるのはルカの福音書だけ、そのルカにしても聖母マリアが「活躍」するのは、誕生時だけであとは至って影が薄いような・・・。もう少し母親らしく、イエスを叱ったとか諭したとか庇ったとかいう、親子らしい触れ合いのドラマがあったってよさそうなものなのにそこら辺の話が全然ない。ルカに一つだけ、少年イエスが神殿で親から離れて、学者たち(だったかな?)と議論する、なんてエピソードがあって、ルカはイエスがいかに神秘的で賢い少年であるかを説明したいようですが、どちらかといえば、生意気な印象を与え逆効果のような気も・・。
 とにかく、福音書全体を通じて少年時代、青年時代のイエスについての部分がまるでスカスカで、母のマリアがイエスをどんなふうに育て、どんな影響を与えたのかまるでわからない。

 親子の触れ合いどころか、福音書中のイエスの言動を見ると、家族とか血縁というものに対して非常に冷淡な考えを持つ人物、彼自身の家族関係自体、あまりうまくいってないのでは?との疑惑に駆られるセリフや描写が少なからずあって、例えば、「私が来たのは地上に平和をもたらすためではない(中略)人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、こうして自分の家族が敵になる」とか「私より自分の父母を愛するものは私にふさわしくない」、なんてどこかのカルト教団の教祖のような怖いことをいってますし、イエスが群集に語りかけているときに彼の兄弟と母(聖母マリア)が外にきて話したがっていて、それを誰かがイエスに知らせると「母って誰?兄弟って誰?」などと実にそっけない返事をしてます。これには後に、「天の御心を行う人こそが私の兄弟、姉妹、母」というフォローが入るのですが、こんなときにあてつけがましくいわんでも・・、との感が否めないです。

 さらに問題は「復活」の時で、聖母、聖家族信仰の観点からすると、イエスは復活したら、真っ先に母親マリアの前に参上すべきでは?と思うのですが、真っ先に参上するのはマリアはマリアでも「マグダラのマリア」の前であって、聖母マリアの元に参上した記録がどの福音書にもない・・。

 福音書の後は使徒言行録を皮切りにパオロやその他、使徒たちの記録と手紙になるわけですが、これも不可解なのは、使徒言行録とか使徒の手紙にこの処女懐胎(イエスの奇跡の数々もですが)が全然出てこないこと。ひょっとしたら触れられているのかもしれないですが、少なくとも目につくような分量、形では見当たらない。

 使徒たちはイエスを神の子、メシアと主張するために旧約聖書の記述の引用をしきりにしていて、それはそれで間違いではないと思うのだけれども、どうして福音書に書かれた処女懐胎という劇的な生まれ方を話さないのだろう?と思ってしまいます。まさに彼が神の子、メシアであることを証明する決定打であるはずなのに?。

 私はキリスト教とか聖書について専門の教育を受けたわけではありませんし、聖書って私にとって決してスラスラと読みやすい文書とは言い難いので、何かと勘違いとか読み落としをしていることがあるのかもしれません。

 でも、読んだ限りだと聖母とか聖家族、ましてやマリアの無原罪ってどこからどう出た話なのかがわからないし(神学的な理論づけはいろいろあるようですが)、私などよりずっと聖書を読み込んでいるはずのカトリック信徒やクリスチャンの皆さんがどうして、こうした聖書の記述と矛盾することなく、聖母マリア、聖家族信仰を保てるのかがわからないんです。

 お断りしなくてはなりませんが、あくまで「わからない」のであって正しいとか間違っているとかいっているわけではありません。また、人の信仰心にチャチャを入れるつもりは毛頭ありません。
 その辺の「信じる気持ち」を教えてもらえないものでしょうか?単純に信仰心というものを知りたいだけで、繰り返しますが、いいとか悪いとか、あれこれいうつもりは全くありません。

339Sekko:2008/08/25(月) 05:37:33
聖家族とか・・・
 返事遅れてすみません。ひと言じゃいえないし。
 聖家族信仰の成立については、私の『弱い父ヨセフ』(選書メチエ)を一度読んでください。『聖母マリア』には聖母の位置づけの変遷をちょっと書いています。

 私の了解しているキリスト教は、別に聖書のコンテンツを理性で理解して納得して、たとえばイエスがちょっと変な言動をしても、「これには自分の分からない深い意味があるんだろうな」とか、「まあ、これは不問に付しとこう」とか思ってめでたく信仰成立ってものではないです。
 キリスト教の成立したヘレニズム世界はストア派の論客がたくさんいて、福音書の伝承の変なとこはすでに批判されたりもしてました。だから「神の子」の言動にふさわしく改竄するとか、いろいろな手があったかもしれないのにそのまま残したのは、使徒たちや初期共同体の中にも大きな疑問符があったわけで、でもそれをはらんだままでスタートしたということは、ヘレニズム世界の弁証法的思考があったからです。その緊張と本質的な不安が、キリスト教を育てたんだと思います。

 無理があるけど、確かに使徒や初期の信者が確かに信じたと思えるのは、イエスの死と復活と昇天で、ほんとに何が起こったのかは今となってはわかりませんが、それを軸にパウロが各教会に手紙を書きまくったのが、キリスト教の核をなしているわけで、その結果どうなったか、というところが私には興味があります。そしてそのパウロは、聖母がどうしたかとか、復活前のイエスがこう言った、ああ言ったとかはほとんど問題にしてません。その意味では、後からの神学的整合性の追求は別として聖母の処女性とか、イエスの言動とかは、本質的ではないと思います。

 聖書に出てくるとこだけ読んだら、私だって、あんな息子、あんまり欲しくないし、あんなこと言われたらむっとしますけど、まあ、普通の人の言動ですら、文脈を無視したり視座を定めないと、どうにでも編集されちゃいますからね。
 イエスとパウロによって人は、「法」からは解放され、ただ、「愛」についてのみ責任を要求されました。そのせいで生まれたのが「秩序」より「緊張」です。
 これが、キリスト教世界観が円環でなく螺旋であるゆえんですね。

 私は、弁証法的思考法にはまっているせいか、「答えがない状態」が嫌ではないです。すべて、答えのある状態とは、多分弱者に抑圧的に働くと思うから。

 これからも大羊さんは、いろんな答えを知ろうとして「迷える羊」であり続けるでしょうが、そこで見つかるのは、いつも、「答え」ではなくて、「新たな問い」でしょう。でもその問いはどんどん深くなると思います。それが本当にキリスト教らしい旅だと私は思いますけどね。

340迷える大羊:2008/08/27(水) 23:02:25
イメージと実態のギャップ
 我ながらいろいろ細かく突っ込みすぎなのか、と思わないでもないですが、それは聖書とかイエスってイメージとその実態のギャップが結構あるからなんですよね・・・。

 聖書といえば、世界一のベストセラー、世界人口3分の1の人間にとって「聖典」であり、人類を代表する世界宗教「キリスト教」の大元なわけで。また、教会によっては「誤りなき神の御言葉」で「聖書にどう書いてあるか?」でその行動、思想を決めてしまう、人生の規範とする人々が多くいる。極端なところでは「聖書はすべて事実が書いてある」とし、よって「創世記の記述と矛盾する進化論は間違っている、人の倫理を乱す、学校で教えるな、学校で創造論を教えろ」などと言い出す人々までいるわけで。

 こういう人々を輩出する聖書って一体何が書いてあるのかな?、まさか、すべて事実が書いてあるとは思わないにしても、さぞかし、練り上げられた完璧なストーリー展開、涙なくしては語れないストーリーがてんこ盛りで、人間や神のあるべき理想の姿が高らかに歌い上げられている・・、に違いない、と思って読んでみた、そしたら、あまりにも、とまではいわないにしても、何か違うんで戸惑ってしまう、というのが実感なのですよ・・。

 もちろん、イメージ通りのところもあります。十戒の8割方は正しいと思うし、預言者たちだっていいことを言うことはいっている、イエスの道徳、倫理的な教え、生き方はもちろん敬意を払うに値するとは思います。

 だけど、そのストーリーというか、話の組み立ては結構アバウトでいい加減なところがあるし、旧約聖書は下ネタ、暴力の連続、これを信仰している、というクリスチャン、ユダヤ教徒は一体何を信仰しているんだ??と思ってしまう。

 イエスも「左の頬をぶたれたら、右の頬を・・」などと言っている先から神殿で大暴れ、ムチまで作って持ち込んで、振り回して、完璧な確信犯・・。親子仲は悪そうだし、自分を受け入れない町に呪いの捨て台詞を吐く上、弟子に自分のことを「あなたは神の子」なんてわざとらしく言わせる・・・。マリアには教会の伝承とは裏腹に「聖母」を思わせるエピソードがほとんどない・・。宗教画や教会で語られる、優しげで慈悲にあふれ、意地悪くいえば、ちょっとナヨっとしたヤサ男風のイエスは一体何なのだ?どこからそんな人物像が??と思ってしまう・・・。

 今まで、思い描いていた、キリスト教とかイエスとかとは違った姿がいろいろ出てくるんで驚くんですよね、聖書をちゃんと読んでみると。でも、いろいろ、文句を言わせつつも読ませてしまう聖書というのはやはりすごい本なのかもしれません。

 「弱い父ヨセフ」、読みますね。ヨセフもマリア以上に聖書では影が薄く、聖書記述と教会の伝承との差が目立つ人物だし、タイトル通り、なんだかぱっとしないイメージですね。
 今度、教会の神父さんにもいろいろ聞いてみます。でも、揚げ足とりと思われて嫌がられるかな??

341charis:2008/08/28(木) 10:33:33
迷える大羊さんへ
はじまして。この質問箱、たのしく読ませていただいています。たしかに、『聖書』というのは不思議な本で、旧約と新約とでもずいぶん違います。

大羊さんのような疑問に対しては、スピノザ『神学・政治論』をお読みになるのが一番よいと思います。『聖書』を「聖典」としてではなく、人間が書いた文書として、テクスト・クリティークを行った、おそらく最初の本でしょう。

その他にも、ユング『ヨブへの応答』など、聖書の内容とキリスト教信仰とのズレについて書かれた興味深い本はたくさんあります。いろいろと覗いてみられたらいかがでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

342迷える大羊:2008/08/29(金) 21:58:57
はじめまして
 charis様 はじめまして。ご指南ありがとうございます。まあ、私は難しい神学、哲学とかの学問の類の話はさっぱりで、きちんと理解できるかな?との不安はありますが。

 今回の聖書と実際のキリスト教とのギャップの話も、とにかく、聖書を買って、余計な知識に頼らず、ストレートに読んでみた結果出てきた素朴な疑問、感想をつらつらと並べ立てただけなわけで、神学的、哲学的のバックグラウンドは何もありません。SEKKO先生よりせっかくご返事をいただいても「弁証法的思考?何?うにゃ?調べなきゃ」などという誠にお粗末なレベルです。

 ただ、実際に教会や信者の方々に関わった実感からすると、聖書が実際に信仰に占める割合って大きそうに見えて、実は小さいのかも?と思うことあります。かなり信仰歴の長い人でも、聖書を隅から隅まで読んだって人は稀ですし。もちろん、教会でよく取り上げられるところ、ミサや礼拝の説教に出てくるところ、についてはよく知ってます。でも、その「メインルート」から外れた部分については意外と知らない、読んだことがない人が多いみたいで。
 考えてみれば、クーデンベルクが印刷機を開発し、ルターが登場するまで、普通の人は聖書などまったく読んだことがないわけで、それでも立派にキリスト教徒、クリスチャンをやっていたわけだし、聖書を完璧に読みこなし、理解しなければクリスチャンできない、なんてことになれば、世界のクリスチャンは激減しちゃいますよね、みんな、そんなにヒマでもないでしょうし。
 また、SEKKO先生もおっしゃるように聖書のコンテンツを理性で納得したらOKというものでもなく、聖書のあそこがどうした、イエスのここがヘン、なんていうのは信仰の本質とはあまり関係ないのでしょう。でも、やっぱりつい気になってあれこれいいたくなる私ってヤな性格かな?とちょっと悩んじゃいますが(笑)

343nao:2008/09/02(火) 08:55:19
私もまた・・
charisさまに勢いをお借りしまして、私もまた本の紹介させてください。「気になつてあれこれいいたくなる性格」つて、私は尊敬しますね。イヤな奴なんて、とんでもない。
私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました。でもそういう人つて、案外多くて頼りになるんですよね。遠藤周作もそうでしたし。
ユングはその最たる人。彼の理論はキリスト教に対する疑問からはじまりました。それだけに迫力があります。
聖母マリアの処女性について、はつきり目えをひらかせてくれたのは湯浅泰雄「ユングとキリスト教」人文書院の解説でした。「ユダヤ教の伝統が肉の中に霊的価値が宿ることを認めようとしないかぎり、原始キリスト教はこれから分離せざるを得ない必然性をもつていたのである。要するに童貞聖母の理念は、霊と肉の分離と一致という論理的に矛盾する二つの考え方の結合を示している。原始キリスト教の人間観のもつ運命的な両義性がここに生まれたのである」「処女懐胎の理念はやがて聖母崇拝を生み出す。古代キリスト教が地中海世界にひろまつてゆく過程で、聖母信仰は非常に大きな役割を果たした。それは古代諸民族の宗教に共通した地母神信仰をキリスト教のなかに吸収してゆく通路の役目を果たしたからである。しかしこの理念は新しい困難をよび起こさざるを得ない。聖母となつた人間マリアは、神といかなる関係に立つのかという弁神論的問題があらためておこつてくるからである」134p。

344nao:2008/09/02(火) 09:19:24
続き
途中ではいつてしまいました。続けます。
この問題は精神と身体、肉と霊、人間性と神性、を如何に考えるかということで、キリスト教内部では東方教会のソフイア性、西方教会の男性性、カトリシズムとプロテスタンテイズムというように、キリスト教精神史の展開はこの人間本姓論の課題を軸として回転している・・ということになります。
私は哲学なんて難しくてわからないんですが、湯浅先生のユング論にはこころうごかされました。
でもまだ、満足できなかつたときに竹下先生の「聖母マリア」にであいました。両方の本をあわせて、マリアの問題は、いまのところ、「これでいいや」とおもえるようになつてきています。
ついでにいいますとユングはマリアの被昇天の教義を大変歓迎しました。そこには深層心理学的な観点があります。深層心理学からみると、随分おかしな表現もすごい象徴性をもつている場合があります。やればやれほど、おかしなことの方が、大事だつたりしてきます。
竹下先生は、信仰の迷いといわれましたが、この迷いほど、人生を豊かにしてくれるものはそう、ざらにないと私はおもつています。
大羊さんの疑問はつねに私には刺激です。これからもどしどし、投稿してくださることをねがつております。

345迷える大羊:2008/09/02(火) 22:20:07
マリアって・・・
 nao様 毎度です。

>私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました

 やはり、そう思いましたか?そうですよね。通常の常識を持ったまま、聖書を読むと、なんでこの人がここまで特別扱いされる?って思いますよね。カトリック信徒でもそうなんだ・・。charis様も引き合いに出されていましたが、ユングもやっぱり同じこと考えたんですね・・。キリスト教世界のど真ん中にいるような人でも似たようなこと考えるとは。
 といっても、ユングについては精神分析の大家、としか知らなくて、その著作は全然読んだことがないんですが・・。しかし、何しろ「無意識」という概念の発明者らしいし、一度は読まねばなりませんね。

 彼のキャリアのスタートがキリスト教への疑問から始まっているというのは興味深いですね。また、そんな人が、「マリア被昇天」を歓迎、というのもまた興味深い・・。
 思うのですが、欧米で反宗教、反キリストを掲げる人って実のところキリスト教にくわしかったり、人一倍影響を受けている場合が多いような・・。

 私が知っている例ですと、元ビートルズのジョン・レノンで、反教会ともとれる発言で物議をかもしたりしたものですが、その作る曲とか詞というは「IMAGINE」とか「ALL YOU NEED IS LOVE」とか妙にキリスト教的、イエス的だったりするのがおかしい・・。

 マリア問題に関しては私も、少々大人げないのかな?とも思うこともありますね。まあ、言ってみればSF映画の「スターウォーズ」を観て、宇宙空間で音がするのはおかしい、とかなんとかツッコミを入れているようなもので、ひょっとしたらかなり野暮なことを言っているのかなぁって。

 もちろん、アメリカのファンダメンタリストのごとく、「処女懐胎は科学的に可能、神は科学の法則も変えるのだ!!」みたいなことを言い出したら、ドン引きしますし、これは何か言わねば、と思いますが、純粋に伝承として、見えない世界に思いを馳せる、ということなら、まあ、多かれ少なかれ宗教ってそういうものかもしれないし、あれこれ言う筋合いもないかな?と・・。

 聖書に照らし合わせてあれこれ言ったものの、聖書に忠実ってことが必ずしもいいこととは思えない気もしますし。というのはいわゆるファンダメンタリストとか他宗教、他文化に対して極度に排他的(例えば、仏式の葬儀に出るとか出ないとか言い出す)な姿勢をとるクリスチャンって私の知る限りでは、信仰が「聖書のみ」のプロテスタントの方が割合的にずっと多いので・・。

 マリア信仰もどうやらキリスト教以前の民俗信仰が深く関わっているようで、これも一種の文化的な豊かさ、と割り切ればいいのかもしれませんね。

346:2008/09/08(月) 15:54:09
聖ヨセフの油
フレール アンドレの聖ヨセフの油の入手方法がおわかりでしたら、
教えて頂けないでしょうか?

先生の御著書 弱い父ヨセフ を読んで知りました。
宜しくお願いします。

347:2008/09/20(土) 08:44:50
キリスト教の歴史
 少し前、友人から質問を受けました。キリスト教(カトリック)が、政治と(国家と)深い関わりを持つようになったのはいつ頃からなのでしょうか?現在の日本の教会のような体制ではなく、いわゆる「政教一致」のような状態はキリスト教の歴史にも存在したのでしょうか?また、現在はどうなのでしょうか?
 愚問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

348Sekko:2008/09/21(日) 00:42:48
とやまさんへ
 ローマ・カトリックに関して言えば、カロリンガ朝を始めたPepin le Brefが、ロンヴァルディアを征服してローマ教皇に寄進したことで、ローマ教皇が封建領主の仲間入りをしてからでしょうか。その後、800年にシャルルマーニュが教皇から神聖ローマ帝国皇帝として戴冠されたりしたあたりから、ヨーロッパで王権と宗教の馴れ合いと対立が一体となった歴史が本格的に始まったと思われます。今は、ローマ教会は、いわゆる領地をほとんど持たないし、ヨーロッパ諸国は建前的にはどこも政教分離なので、政教一致はないですね。モナコの王室がカトリックとか、イギリスの王室の国教会とか、王室自体の伝統は残っているところが多いと思いますが。
 普通の西洋史の本の中でも書かれてると思いますよ。

349Sekko:2008/09/21(日) 01:29:20
岡田さんへ
 見落としていまして、お返事遅れて失礼しました。

 以前は L’Oratoire Saint‐Joseph のサイトに載っていたと思うのですが、今調べたらありませんでした。エゾテリックの店の通信販売みたいなのはありましたがお勧めではありません。

 もっと調べてもいいのですが、私は、こういう「奇跡のグッズ」的なものの普及に積極的に協力するつもりはありませんので、ご縁がなかったと思ってください。

 私は個人的には聖女リタの聖油を持っています。その他、聖油、聖水、メダル類もたくさん持っています。
 でも、それで何かを治したとか願いがかなったとかいう体験は全くありません。
 信じ方が足りない、心がけが悪い、使用法を間違っていた、効果がでるまで待たずに早く諦めすぎた、それらがただの水や油や気休めのグッズだった、などのいろんな理由が考えられます。でも、たとえ偶然にせよ、これらのグッズのおかげで恩恵を蒙っていたら、つい人にも勧めたくなると思うので、何かのご利益を得たという実感がなくてよかったと思っています。
 グッズに頼らなくてもかなう願い事が、その人に適した恵みだという気がします。

 私は確かに、「他の人の身に起こった奇跡話」が好きです。で、つい、本にも書いてしまいます。人間の願望やら絶望やら欲望やら、いろいろなものが宗教というシステムやら宇宙やらを動かしていきます。それ自体に感慨を覚えます。
 でも実は私は散文的な人間で、お守り類を本当に信じてるわけではありません。開運グッズを手に入れたりするのは、アンティックのメダルでも、温泉地の招き猫でも、わりと好きなのですが、たいていはそれで終わりです。

 申し訳ありません。

 でも、もし岡田さんが、自分ではどうすることもできないような心配事を抱えていらっしゃるとか、大切な方の病気の快癒を願っているなどのシチュエーションでしたら、どこか身近な教会とか寺社とか、岡田さんの宗教的風景に適した場所でお祈りをなさるだけでも楽になると思います。

 私も、信じるとか信じないとかは別に、何かにすがりたくなることはたまにあります。そういう時には、そういうグッズを身につけることで、「まさかこれ以上はひどくならないだろう」とか、「一応やるだけのことはやった」と思えることがありますので、岡田さんが何かを見つけられるとよいのですが。

 本にも書きましたが、聖ヨゼフは「効く」という噂なので、聖油で効くものなら、お祈りだけでもきっと効きますよ。

 毎年10万本の聖ヨゼフの油が売られている(聖油そのものは売れないので、ビンの値段ということです)とサイトにもありますから、モントリオールにいる知り合いに今度持ってきてもらいましょう。その時には喜んで差し上げますよ。

350迷える大羊:2008/09/21(日) 14:49:59
キリスト教の性意識
 聖書と現実のキリスト教信仰の落差がどうにも気になってしょうがないことが多いのですが、その一つに性の問題がありますね。
 旧約聖書を読んでびっくりするのはその下ネタの多さ。有名なオナンの話は、要するに子孫繁栄、お家存続につながらない性行為が神の怒りを買うわけですが、その性行為をするべき相手、というのが兄嫁だったとか、イスラエルの始祖となるアブラハムは妻のサラをエジプトのファラオにあてがって、その見返りに奴隷やららくだやらをもらって何の罪の意識もなくリッチな生活をエンジョイしたり・・・。また、堕落したソドムの町から逃げ出し、うっかり後ろを振り向いて塩になったお母さんの話で有名なロト一家の娘たちは、その後、山奥のほら穴で生活、「このまま、男性と縁のない人生を送るかも、父から子種を受けましょう」などといって、父を酒で酔わせ、交わってしまう、、。

 エゼキエル書23章では、神様はサマリアとエルサレムを、エッチな姉妹(オホラとオホリバ)になぞらえて、その忌まわしい淫行をかなり露骨な表現で描写してたりして、「これじゃ、聖書じゃなくて、性書じゃないか〜」と思わずいいたくなるほど。

 いえ、別に聖書の内容がすべて清らかなものでなくてはならないなんて野暮なことをいおうなんておもわないですし、あまりきれいごとばかりでもかえってウソくさいとは思います。でも、キリスト教とかクリスチャンとかいうと、性の問題に関してはよくいえば、極めて真面目で潔癖、悪く言えば、うっかり下品な冗談もいえないくらいお堅い、といったイメージがありますが、その聖典が、そういったイメージとあまりにかけ離れた話を多数含んでいるので、頭がクラクラすることがあるんですよね。

 キリスト教の世界では同性愛者には厳しく、カトリックでは今でも同性愛者は司祭になれないし、聖公会や日本キリスト教団では同性愛者の牧師が誕生してますが、やはりかなり激しい議論があるようです。同性愛者に厳しいのは旧約の記述の影響かと思われますが、私としては「じゃあ、近親相姦はいいのか?」「カトリックの司祭は独身制なんだし、同性愛者の方がかえって都合がいいんじゃないの?」なんて思ったりします。

 実際、キリスト教世界の同性愛者への風当たりの強さは私にはよく理解できなかったりします。もちろん、私自身にそんな趣味はないですし、個人的には全く受け付けない性向ですが、別に第三者に多大な迷惑をかけているのでない限り、そんなに責められないとならないことなのかなぁ?近親婚の方がよほど問題では?という感じがどうしてもしていまいます。

 以前、「女性は産む機械」などと発言して物議をかもした厚生労働大臣がいましたが、旧約聖書の性意識自体がまさにそれ、子孫確保、お家存続のためならなりふり構わず、近親相姦も辞さず、という感じで、この厚生労働大臣を非難するクリスチャンの方は一体、旧約の記述をどう思ってるんだろ?と思わず考えてしまいます。
 あと、同性愛の問題で不思議なのは、非難されているのはもっぱら男同士の同性愛、いわゆるホモであって、女性同士の同性愛、いわゆるレズには何の言及もされていないのはまたなんで?との疑問もありますね。

 新約の我らがイエス様はさすがにそういう男尊女卑的な言動は全く見当たりません。むしろ、フェミニストといってもいいかと思います。しかし、その使徒でキリスト教界の大貢献者パウロ先生となると「女は男のために生まれてきた」とはっきり言いきっており、これまた、イエスの言動と落差があって「あんた、本当にイエス様の使徒なの?」といいたくなっちゃいます。この人は「目からうろこ」といいつつ、生前のイエスの言動にほとんど興味ないんだ、と改めて思っちゃいます。

 だらだら、と書き連ねましたけれども、クリスチャンの皆さんは常日頃、心がけている性とか性生活に対する倫理感と聖書に実際に書かれている、現代の感覚では到底受け入れがたい性行為やその考え方とどう整合性をとっているのでしょうか?
 「そんな昔のこと」とお思いになるかもしれませんが、現に業界その昔の記述をもとにして、同性愛者への扱いに様々な論議があったりするわけですから、決して、単なる揚げ足とりではない、と思えるのですが、いかがでしょうか?

351Sekko:2008/09/21(日) 17:48:12
大羊さんへ
 私は別に旧約聖書の性的乱脈が気になりませんね。古代社会って大体どこでも似たようなもんだという感じがします。キリスト教的にも、キリスト教は神が受肉したってのがメインで、だから、どこかの時代のどこかの社会に生まれたわけですから、旧約でその文脈を知るのはもっともだと思いますね。
 後のキリスト教はストア派的な世界で発展したので、ちょっと厭世的で、禁欲的なのはこれも当然の帰結でしょう。その後、キリスト教的性の禁忌は、はっきり言って、婦女子を男の財産として縛るために維持されてきたと思います。
 17世紀頃のヨーロッパの農村とかでもすでに、男たちは結構勝手なことやっていて、それでも女子供は教会に行かせていました。貞潔とか貞節とか、性に対する罪悪感を植えつけることが財の継承システムにとって大事だったんでしょう。
 男同士の同性愛がタブー視されるのも、子孫を残さないとそういう財の継承ニ不都合が生じる上に、女の役をする男への同性内での侮蔑感とか危機感があると思います。男っぽい女の方は、どちらかというと女性から憧れられたりするんですよね。これも、社会的な刷り込みから来る反応でしょう。

 チベットのお坊さんの基本戒では、僧侶の独身を求めるだけでなく、性行為そのものが禁じられていて、異性だけじゃなく同性とも動物ともダメ、と書かれてます。この方が人間性を心得て厳しいのか、あるいは、キリスト教のほうが抜け道を用意したザル法で人間的なのか、分かりません。カトリックでも時代や場所によっては、聖職者の独身の誓いは、神の秘跡としての結婚ができないというだけで、実際は家政婦的な人と同棲しているケースもよくありましたし、アフリカとかでは今もあるようです。

 古代ヘレニズム世界でも同性愛は文化のうちだったし、ストア派的な禁欲は、異性愛とか同性愛に限らず、欲望の抑制がメインだったんでしょう。
 同性愛が神の意思に背くといって、即地獄落ちというような教条主義的宗派は今もありますが、同性愛者だって異性愛者だって、それを律していくという意味では同じ試練を課せられているんでしょう。司祭になりたい人は、独身や貞潔の誓いを受け入れればいいので、別に自分の性的傾向をカミングアウトする必要はないと思います。妄想レベルだったら何でもあり得るわけだし・・・

 それに普通は異性愛者だって、同性愛者だって、別に生まれてから死ぬまでずっとそれにとらわれてるわけじゃないし、1日24時間それにとらわれてるわけでもなく、習慣とか環境とか、ホルモンの具合によってスイッチが入るんだと思うし。そんなことで、神と人に仕える大切な使命とか召命とかが損なわれないことを希望したいです。
 たとえばフランス内での今のカトリックの人にとっては、やはり離婚して再婚した人が聖体拝領できないとか、女性が司祭になれない、とかについて、教皇が一貫して旧守の立場を表明してる方がつまずきになってるみたいです。まあ、歴史的にも文化的にも複合的な問題なので、変わるとしても時間がかかるんでしょう。

 面白いのは、こっちでは主に、男たちによる婦女の教育、洗脳、支配、の手段として長らく機能してたカトリックの性教育が、女性の社会的立場が相対的に上のプロテスタントでは、女性の側からの男性の糾弾として使われることですね。

352charis:2008/09/21(日) 22:58:10
大羊さんへ
どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

パスカルに『プロヴァンシャル』という本がありますが(日本語の全集で読めます)、ある意味では『パンセ』より面白い。イエズス会のずぶずぶのマニュアルを批判した本です。新約では、イエスは、「金持ちは天国に入れない。天国に行きたければ、全財産を寄付せよ」みたいな過激なことを言っています。でも、それを文字通りに真に受けたんじゃ、金持ちを敵に回すことになって、教会はやっていけない。だから、イエズス会は、一見すると聖書に反するような階級や人間でも、ちょっと何かすればちゃんと救われるという、手を取り足を取るようなマニュアルを書いているのです。それを原理主義者パスカルが批判したのが『プロヴァンシャル』です。ほんと面白い本です。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

353迷える大羊:2008/09/22(月) 21:30:33
毎度どうもお世話様です
 皆様、いつもお世話様です。

 確かに、古代世界ってそんなものかもしれないかもしれないとは思いますが、レビ記を読むと主はモーゼに近親相姦はダメだってはっきり言っているのに、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもあったりする)に何のおとがめがない、というのはどういうこっちゃ?どうも、旧約の神が考えることはようわからん、といった感想を持ってしまいますね・・・。

 そのレビ記にある規制の一つに(チベット仏教の僧侶の基本戒にもあるそうですが)、動物と交わってはならない、っていうのがありますが、これまたどうにも気になる話ですね。
 「いわれなくとも、しないわい、そんなこと」って思うのですが、こんな規制が出てくるってことは古代世界には動物と交わってしまう人間がいたってことなんですかね??。
 同性愛とか、近親相姦ならまだ、私の想像のつく世界の話ですが、動物相手の性行為となると、いくら現在とは価値観が全然違う社会の話とはいえ、もう想像の域を超えていて、これまた頭が痛くなってくる話です。

>どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

 これは、本当に大変だな、と想像できます。一番てっとりばやいのは聖書の内容を変えることなんでしょうけど、世俗の法律や憲法とは違い、聖書は「神との契約」内容なわけで、それが時代や状況によって簡単に変えられるようでは、権威というか重みがまるでなくなってしまうわけで、つらいところだと思います。

>イエスの過激さ

 聖書をまじめに読んでみて一番変わったのが、イエスのイメージですね。それまで、なんとなく温和で無抵抗主義っぽいイメージがあったのですが、どうも、この人は一種の過激派(テロリストってことではなく、道徳的な意味での)なんじゃないのか?ということですね。
 その過激な部分を中和し、もうちょっと一般人にも受けやすいものに変えて、大々的にプロモーション、プレゼンテーションしたのがパオロって感じですかね。
 いってみればパオロはプレスリーのマネージャー、トム・パーカー、ビートルズのブライアン・エプスタインのような有能なマネージャーというか、プロデューサーみたいな。もちろん、独断と偏見ですけど。

354Sekko:2008/09/23(火) 18:52:09
イエスとパウロ
 イエスが神懸りの教祖でパウロが宗教組織のオーガナイザーって図式は、昔私も何となく受け入れてたんですが、今は全然違うって思ってます。
 イエスをキリストってしたことがキリスト教を成立させたわけですが、受肉とか贖罪の思想におけるその逆説の力はすごいなあと今は感心します。
 しかし、西洋近代を生んだキリスト教社会ではその辺のところがまったく闇の中になってしまったんで、過激も毒も逆説も見えなくなり、信仰と懐疑の緊張が、似非科学主義とか、「イエスはシンボル、人としての模範」、みたいな方向とかに行っちゃったのは、ちょっと残念です。

355Sekko:2008/10/02(木) 21:35:38
大羊さんへ
 中公新書ラクレの『アメリカの宗教右派』(飯山雅史)という本を最近いただいて読みました。そこに福音派の成り立ちがすごく分かりやすく書かれていたので、大羊さんのことを思い出しました。やはり、歴史的文化的コンテキストに位置づけてみると、すごくクリアになることがありますね。

 でもこの本を読んで、多分、日本のほとんどの人にはアメリカの宗教右派の実態なんて興味がなく、遠い世界なんだろうなあと今さらながら思いました。
 そんな日本で、福音派に出会ってどっぷり浸かる人もいるのですし、本当に難しいです。今日のブログでも少し触れました。あわせてどうぞ。

356迷える大羊:2008/10/05(日) 00:55:55
福音派など他あれこれ
 といっても、そういうまとまった教派があるわけではなく、保守的、原点回帰的な信仰を持つプロテスタント教会全般を指すわけで、その「濃さ」も教会により、牧師により信徒様々で、一慨にこうだ!とは決めつけられないところもありますね。伝統的教会とさして変わらない穏健なところから、カルトか、これは?といいたくなるところまで、本当に様々。もっとも私も実地、実体験で知っているのは日本の福音派教会だけで、海外のそれは書物でしか知らないんですが・・。
 もともとプロテスタント教会自体、教会により牧師によりカラーががらりと変わってしまうところがあって、日本キリスト教団などもあれだけ信仰の形態も考え方もバラけた人たちがよく同じ団体にいられるもんだなぁ、って思うところがありますし。

 福音派(以下F派)だからといって全部が全部の牧師や信徒が「神をとるか?進化論をとるか」みたいなこといっているわけでもないし、中には「聖書を字句通りとるのは危険」との私に近い立場の方もおります。でも、まあ、そういう(神か進化論か、的な考えの)人の割合は確かに高いですね。

 それより何より日本の福音派の信徒の場合、緊密な人間関係が心地よくて所属している人が多いように思えますね。カトリック、プロテスタント問わず、伝統的な大教会って確かに理性的だし、あまり素っ頓狂なことは言わない代わりに役所的なところがあって、ちょっと厚かましいぐらいでないと聖職者と直に話す機会も少ないし、教会にも溶け込めず、ミサやら礼拝やらを流れるままにすごし、結局誰とも話さずに終わったなんてことになりかねないところあるんですよね。
 「聖書についての101の質問と答え」(レイモンド・ブラウン著 裏辻 洋二訳 女子パウロ会)によればアメリカでもその辺りの事情は同じみたいですね。


 日本の福音派とあちらの福音派の最大の違いは政治的な立場ですね。あちらで熱心なクリスチャンとか福音派というと政治的には保守、右寄りとなることが多いようですが、日本では福音派(というかキリスト教会全般)って政治的には全く逆の左寄りの場合が多いですね。教会によっては、教会報読むと「あれ、ここは社民党か共産党の事務所だったんかなぁ?来る場所間違えたかな?」と思っちゃうことありますし。

 ブログでも触れられておりましたが、進化論って確かに弱肉強食の正当化だとかナチスあたりの人種理論に「応用」された経緯があって、キリスト者としてそれに嫌悪感を抱く、というのはなんとなく理解はできるし、私も現に福音派のクリスチャンの方からそのような趣旨の話を聞いたことあります。でも、それいうなら、キリスト教だって異文化破壊、異教徒弾圧、異端狩りなど到底誇れない歴史があるわけで、だから、キリスト教ダメ、十字架禁止!って理屈も成り立たなくもないわけで、やっぱりヘンというか、理解できないです。それに、人種差別反対とか公民権運動って進化論が出てきた後の話だし、「人は神が自らに似せて作った」ことになっていた時代に不道徳とか不正が何にもないのか、っていうとそんなことまるでないわけだし。

 とまあ、キリスト教に関わって世の中のいろいろな面が見えたような気がしますね。

357charis:2008/10/05(日) 08:41:28
進化論とキリスト教
Sekkoさんの10月2日のブログはとても勉強になりました。ダーウィンの進化論は、20世紀になってメイナード・スミスやドーキンスなどによる遺伝子レベルからの捉え返しによって、その意味がはっきりしてきました。「弱肉強食」ではないんですね。偶然の突然変異によって生じたごくわずかに形質が違う個体が(たとえば、ほんの数センチ首の長いキリン)、それまでの形質をもつ個体に比べて、一生の間に産む子供の数がほんのわずかだけ多いとします。たとえば首の長いキリンはライオンにすばやく気がつくから、首の短いキリンより産む子供の数が1%だけ多いと仮定しましょう。すると、たとえば数万年の間には、首の長いキリンだけになってしまう(これを数学的にキチンと計算するのが現代の進化論です)。摂理とか目的論とかを一切抜きにして、結果として、繁殖力がわずかに優位した形質をもつものが生き残って現在存在している。これが進化論のポイントです。

重要なことは、進化的に生き残ってきたものは、一定の環境のもとで繁殖力が大きかったという事実だけで、その個体が「生きやすかった」とか「幸福に生きられた」ということではまったくないということです。奇妙な形の動物がたくさんいるわけで、進化論は個体の生の幸福にはまったく無関心です。ここが我々人間の関心と異なるところで、我々は誰でも、自分が幸福に生きたいと願い、これがキリスト教だけでなく、人間の基本的な考え方です。

自然的存在としてのヒトには、たしかに進化論は妥当しますが、人間のあり方の社会的・文化側面に、進化論を当てはめるのは正しくありません。たとえば性欲は繁殖力に関わる自然的性質でしょうが、だからといってレイプが許されるわけでないのと同じです。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

358迷える大羊:2008/10/05(日) 20:47:31
キリスト教とアメリカ
 これまで、聖書の内容と現実のキリスト教信仰のズレについてしつこく話題にしましたけど、そういう話となると、アメリカの話を飛ばすわけにはいかないですね。

 このギョーカイに関わるまで、アメリカといえば科学、合理主義の極みのような国家。日本以上に宗教色が薄く、なんて思っていたんですが、実際は全く逆、私を戸惑わせた、聖書を字義通りに信じてしまうような教会の出自は大体がアメリカ、なのには本当にびっくりします。

 話変わって、本日、とある教会の聖書講座にてぶどう園の労働者の話をいかにも品のいいおばさま、といった感じのシスターを講師に受講しました。ああ、なるほどね、このたとえ話(だけではないんでしょうけど)、社会保険だとか失業保険の発想の源になっているわけね、とこれは素直に感心しました。

 この話に限らず、聖書、福音書を読む限り、イエスは度の過ぎた競争社会とか、格差社会には明らかに否定的で、現代でいう社会主義、共産主義的な発想の持ち主のように思えます。
 ところが、そのキリスト教や聖書やイエスを進化論を否定するほどまでに信仰しているはずのアメリカは、世界でも有数の競争社会だし、なんといっても驚くのは国民皆保険ではなく、健康保険は自前。豊かそうに見えても、中流以下の人間は一旦、大病、大ケガでもしたりすると、あっという間に貧困層、とういうこれまた世界一の経済大国のイメージからは信じ難い現象があったりで、これまた、頭が混乱します。

 ほんとにあなた方キリスト教信じてるんですか?聖書ちゃんと読みました?同性愛者の結婚だの中絶がどうのこうのなど、そんな個人的な問題をぎゃあぎゃあ言う前にもっと他にやることないですか?ってつい言いたくなってしまうのは私だけでしょうか??
 特に健康保険の国民全加入なんて、聖書やイエスを信じるキリスト教国なら建国するやいなや即刻実現していて良さそうなものですが、全然そうでない、一体、アメリカの人々は矛盾を感じないのだろうか?聖書のどこをどう読んでいるのだろう?との疑問を感じます。

 また、離婚の多さも謎です。日本も最近は多いですし、ヨーロッパもしかりですが、それでも統計を見るとアメリカ人の離婚の多さは群を抜いてますよね。まあ、離婚の是非、現実問題として妥当かどうか、は別として、聖書をひもとけば「離婚はダメよ」とイエス自らが直々に語っているわけで、なんで、そんな宗教信じていながら、あんなに簡単に別れられるんだ??とこれまた矛盾とか感じないのかなぁ、と不思議になってきます。

 アメリカに限らず、こういう現象をみると、キリスト教の世界でいくら「聖書は神のみ言葉」なんていっていても、結局は各人が自分の立場、主張に都合のいいとこつまみ食いしてるだけなのかなぁ、とニヒルな意見を持ってしまいます。

 ほんとどうなってるんですかね?

359ラザロ:2008/10/07(火) 14:13:06
愚かな金持ち
イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、

あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

360Sekko:2008/10/07(火) 19:13:59
下の書き込みについて
 この下の書き込み、スパムの一種かもしれませんが、こういうものにも答えちゃうのが暇な人、じゃなかった、善意の人の義務なんで、ブログに書いときました。http://spinou.exblog.jp/
 暇な人は読んでみてください。

 しかし、私もそれほどには暇、じゃなかった、善意の人じゃないんで、次に似たようなのが来たら消去しますので悪しからず。

361vino:2008/10/08(水) 15:22:55
CRAZY AMERICA
家族のことで忙しかったり、自分も背中を痛めたりなどでしばらくこちらは拝見するだけにしておりました。皆様、相変わらず、本当に問題意識の高い、博識なご様子、立派です。  今年はアメリカで大統領選挙があり、何故、あの国があんなにおかしいのか、この数年の経験でかなり判るようになった私としては、思うこともいろいろです。  日本の福音派の方々は(現実の世界は汚れきっていて、自分達の価値観の世界を信仰によって作ることこそ大切)くらいの方向性の人が多いように感じられます「政治は関係ない」などと仰いますが、関係あるようにしているのはどこのどいつだっ!と突っ込みを入れたくもなります。(笑)平和よりも正義などとノタマウ人ありで、<おおいなる陰謀>のトム・クルーズのようです。正義、正義って言いますが、反対側から観たら、ただの欲でしょう。いろいろな物が値上がりしていますね。アメリカの子分のような日本ですが、信仰の方向性はかの地に大量に棲息する<敬虔な信徒さま>とは違う道を歩みたいと思います。

362迷える大羊:2008/10/11(土) 14:27:22
アメリカの福音派
 SEKKO先生より御紹介された、「宗教右派」読んでみました。なかなか興味深い内容でした。著者の飯山氏の疑問や戸惑いはまさに私のそれです。やはり、アメリカの福音派も日本のそれと同様、一言ではくくれない多様な面があるようで、勉強になりました。

 思えば、福音派キリスト教って良い意味でも悪い意味でもアメリカらしいキリスト教って感じがします。アメリカ人のステレオタイプなイメージといえば(あくまでステレオタイプです)、基本的に人は良く、陽気で楽しげ、常に前向き。自国の民主制度と価値観(信仰)が人類を救う、幸せにすると純粋に信じ、それを拡げる(伝道する)ことが使命と強く信じている。

その一方で、他国の文化、価値観(他宗教)に対する理解も理解する意欲も薄く、ときにその押し付けがましく、無神経に映る部分が他国(他宗教、未信者)の反発を呼ぶ場合がある(実際、アメリカ人でパスポートを持つ人々の比率、つまり、外国に出たことがある人の比率は極めて低いらしい)・・。
 といった感じで、私の中での福音派のステレオタイプとアメリカとかアメリカ人のステレオタイプって重なる部分が多々あるんですよね。こんな風に思うのは私だけでしょうか??

 飯山氏の「宗教右派」中では最近下火になったらしい、とはいうものの、アメリカ社会の中絶と同性愛問題への異様なこだわりってあれ何なんでしょうね?
  もちろん、どうでもいい問題とは思いません。でも、そこに至るまでの過程、というか事情は百人百様なわけで、善か悪か、是か非かの二元論で割り切れるものではないし、ましてや国政の場で踏み絵的な政争の具にするなんて、無理がありすぎるというか、エネルギーの無駄遣い以外何ものでもない感じがしますが・・・。

 いつだったか「日本の常識は世界の非常識」って言葉がありましたけど、それいうなら「アメリカの常識は世界の非常識」っていうのも十分成り立ちそうに思えます。ただ、日本と違って、アメリカの場合、日本ほど「世間、世界の目」を気にしないし、世界一の経済、軍事大国なので「自国の常識」を強引に「世界の常識」にしてしまう、というだけの話だろ、って気もします。

 聖書をひも解くと、同性愛は旧約聖書では非難されまくりですが、新約の方には目立ったコメントがない、イエスは一言も触れていない、中絶については旧新両方ともコメントなし、なんですが・・・。

 あと、アメリカの宗教、キリスト教事情に触れた本としては立花隆氏の「宇宙からの帰還」(中公文庫)も面白かったです。

363迷える大羊:2008/10/25(土) 23:27:45
聖書のヘンテコな点について
 題名の件について、どう考えるか?とある教会の神父さんにあれこれ聞いてみました。いろいろ話しましたが、答えとして一口にまとめると聖書は一人で勝手に読んで解釈するものではない、とのことでした。
 私がここであれこれあげた他にも、背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

 これは納得いきました。解釈を教会が監督、コントロールというとなんだか言論、思想の自由の妨害って感じがしますが、聖書を読むとこれを字義どおり勝手に解釈すると大変だ、って部分は確かに多かったりしますし、現にその過激な部分(イエスの「家族を棄てろ」発言とか)を「利用」しているカルト団体もあるわけで。聖書に関する限り、ある程度のコントロールはやむえないかも、と思います。
 思うに聖書って「良いも悪いも読む人次第」な部分がたぶんにあるな、と思うのですが、どうでしょうか。

 学校なんかで習う世界史だと、聖書を一般信者から遠ざけ、腐敗の限りを極めていたカトリック教会に対して、ルターをはじめとするプロテスタントたちが敢然と立ち上がり、なんて図式で描かれることが多く、それはそれで間違いではないとは思うものの、ある程度、キリスト教の事情がわかる今となっては「聖書に帰れ」とか「信仰は聖書のみ」って本当に手放しでいいことなのか?と思うようになりましたね。

 原理主義についてあれこれここで述べましたけど、実は教派云々ではなくプロテスタント成り立ち、存在自体が一種の原理主義なのかも、と思ったりします。実際、聖書を「字義どおり」信じる人ってプロテスタントの人の方が割合的に圧倒的に高いし。

364Sekko:2008/11/19(水) 13:34:34
大羊さま
>背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

 というのは、カトリック教会の方が危機管理にすぐれていたのかなあ、って気がしますね。聖俗の境界部分はきちっと管理しといて、内輪では自由に意見交換するっていうのもひとつのやり方です。普通の人って、自分や自分の周りの生活の質や救いとかさえケアできるシステムがあれば、細かいテキストなんてスルーできるだけの健全さがあるのかもしれません。
 その「普通の人」に無理やり教条主義的な聖書勉強会をおしつけると、中途半端な独善主義に染まりやすそうです。
 ユダヤ聖典に対するイエスの態度は全然原理主義的じゃなかったですからね。生きて滅びる存在はめぐりゆき変わり行く、枠にはめてフリーズさせるともうそれは本質から離れていくのかもしれません。

 聖書を読んでも、それを通して、同じ見解の人とだけ連帯するような方向ではなく、宗派を問わずより多くの人々に寄り添えるような読み方がいいんじゃないんでしょうか。

 今、日本に来ておりまして、私事で取り込んでいてお返事遅れましてすみませんでした。懲りずにいつでもどうぞ。

365迷える大羊:2008/11/26(水) 23:00:57
レノン バチカンより赦される
 BBCなどの欧米マスコミに出ている話。元タネはバチカンの日刊紙「オッセル・バトーレ・ロマーノ」らしいです。

 こちらのBBSでも以前、話題にもしましたけど、この話は、ビートルズのジョン・レノンが英紙イブニングスタンダードで1966年の春ごろ「ビートルズはキリストより有名」とやって、米国のバイブルベルトの保守的なクリスチャンを中心に猛反発、その騒ぎがバチカンにも伝わり、バチカンもレノンに謝罪と釈明を求めた、というもの。

 実に42年ぶりにカトリック教会からレノンは赦されたんですね。でも、この発言、よく読むと、イエスの教えや行動自体は評価してるし、「キリストより有名」っていうくだりもあくまで、比喩のような感じだし、教会に真面目に通うようなクリスチャンには確かに面白くない部分があるにせよ、嫌がらせしたり、ヴァチカンが組織を上げて謝罪と弁明を求めるほどの話かなぁ〜という感じがどうしてもします。

 実際、騒ぎになりだしたのはアメリカに話が伝わってからで、当初ヨーロッパでは全く注目されなかった発言だし。バチカンが許したっていうよりは「あんなことつまんないことで騒いで、大人げなかったな、今にして思うと」って感じがしますけど、どうなんでしょうね。

366Picky(管理者):2009/01/02(金) 07:11:12
Bonne Annee !
皆様、あけましておめでとうございます。
本年も楽しい投稿お待ちしております。
クリスチャンの両親を持つ知人に聞きました。クリスマスというのは、12月25日までの4週間が準備期間で、25日から1月12日ごろまでがxmasということらしいですね。なので12日頃まではメリークリスマスと挨拶するそうです。
(その話を聞いて、ジョンレノンのHappy Xmas の歌詞の謎がとけました)
というわけで、皆様、Merry Xmas and Happy New Year !
今年も素敵な1年になりますように。

ところで、この直前の2件の投稿はこちらの判断で削除いたしました。

367:2009/01/19(月) 05:15:23
キリスト教文化とイエス
はじめまして。

現在、あるカトリック教会の入門講座に通っており、そこで『カトリック生活』を頂き、このサイトのことを知りました。

基本的な質問はシスターにすれば良いのでしょうが、私のうちにある問題点はあまりに個人的なものなので、こちらに問い合わせした方が良いかと思いまして・・・

プロテスタント的背景を持っているため、聖書から出発してしまいます。キリスト教文化には圧倒的に引きつけられるものがありますが、それは欧州文化だと思います。聖書のイエスはユダヤ教世界の中に現れており、ずいぶんかけ離れているように思えますが。

漠然とした質問なので、確たる回答はあり得ないと思いますが、感じられるところでもお返事願えると幸いです。

368phantom:2009/01/22(木) 19:15:28
メジュゴリエの記事
ブログのメジュゴリエの記事、日本ではなかなかこういう
インフォメーションが入ってこないのでとても面白かったです。

聖人の認定にしろ、御出現の真贋にしろ、難しいですよね。
こういうものは運やタイミング(時代背景や医学の発達度合い等)もあるでしょうし。
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンはタイミングが悪かっただけで
聖人にはなれませんでしたし、アビラのテレジアはもし現代人だったなら
統合失調症の一言で切り捨てられていた可能性もありますし・・・

メジュゴリエでの御出現はその内容に神学的に引っかかる部分がありますし、
関わった人々も問題がないとはいえませんよね。でもその土地では確かに
恩寵があると言えますし、そこにある意味では本当に聖母の力が働いているのかもしれません。そうなると本物か偽物かなんて、誰にも本当の所は判断できないでしょうね。

不謹慎かもしれませんが、2009年度末の調査修了の結果が非常に興味深いです。
ただ、万が一の場合は純粋な信仰を持った人達がかわいそうかもしれないな、と
心配でもあります。それに対してカトリック教会がどういった対応をするのか?
その辺も気になるところです。

369Sekko:2009/01/23(金) 23:49:36
和泉さんへ
 和泉さん、こんにちは。

 歴史上のどこかの時点や地点に「キリスト教」というものがある、と考えると、理解できないことがいろいろ出てくると思います。
 しかし、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ福音書14−6)」と言っているように、キリスト教も、真理と命に向かう「道」だと思われます。私たちはその途上にあるので、先人の歩いてきた道には、それぞれの時代や場所によって、それぞれの固有の表現としての文化遺産が生まれました。
 ローマ・カトリックは、まさに、ヘレニズムの影響を受けた古代ローマ帝国の文化と版図の中で形成されてきたので、それがまた、欧州の基盤になりました。イスラムの台頭から免れた部分の西ヨーロッパは、それなりに成熟したキリスト教文化を築いてきました。

 それがいろいろな経緯で、非宗教的な西洋近代へと展開したわけです。その近代西洋はテクノロジーの優越と帝国主義的発想によって、近代の一種のグローバル・スタンダードとしての地位を獲得してきました。私たちの日本の近代も、それに倣うことで生き延びたし、発展もしたし、恩恵も受けてきたと思います。
 だから日本が接触したキリスト教は西欧系が多かったですし、文化の傾向としても明治以降の欧化政策の結果、今の私たちにはパレスティナよりも欧州文化と親和性があると思います。

 そこだけ比べると、聖書のイエスが古代パレスティナに現れ、ユダヤ教がエジプトやメソポタミアの影響を受けているのことと、ヨーロッパキリスト教文化とは、「かけ離れている」ように見えますが、キリスト教が神の国へと向かう旅する途上にあること、道であるとすれば、どれが正しいとか正統だとかはいえないと思います。

 変なたとえですが、たとえば、南極から出発して北極に向かいたいとして、みなが北極星を仰ぎ見て指針にして漕ぎ出したとしても、辿る経路は無数にあるわけです。砂漠を横切ったり、山や谷を越えたり、嵐にあったり、遭難したり、間違えて地中に穴を掘ったり、迷ったり・・・ 目的地は、真理や命が実現する神の国でも、道は一つではない、というより、辿ったところに道ができるので、その中で「近代西洋ルート」というのがもっとも今風に整備されている感じでしょうか。
 でも、南極にいたペンギンを北極でさがしても意味ないですし、大切なのはどこに向かうかっていうことでしょう。渡り鳥が経路を間違えないのは地磁気に導かれているとか聞いたことがありますが、旅するキリスト教にとってその地磁気みたいなのが「聖霊」ということになります。

 和泉さんが、聖書から出発され、聖書は特定の時代や場所の文脈の中にあるのですから今目に見えるカトリック文化と付き合わせると違和感があるというのは理解できますが、いろんな時代のいろんな場所でいろんなキリスト者が何にインスパイアされてどうやって歩いてきたかというのを見ていくと、世界が広がるし、自分の足であるいていこうと勇気づけられますから、どうぞ、どんどん知識や出会いの場をお広げください。

370Sekko:2009/01/24(土) 00:03:24
Pickyさんへ
 いつもお世話になっています。

 フランスでは、クリスマス・イヴから始まる年末年始のお祭りは一応、1月6日のエピファニーまでという感じですが、新年の挨拶(VOEUX)は、一応1月末までなら言える感じです。でも、クリスマス過ぎたら、もうJoyeux Noel とは言いません。Bonne Annee です。
 考えてみると、Bonne Annee って、グッド・イヤーだから、Bグッド・モーニングみたいな文字通り「よいお年を」で、Happy New Year の方が新年の祝詞っぽいですね。フランス語だと、クリスマスはイエスの誕生日でめでたいとしても、別に新年そのものがめでたいわけでなく、「新年にあたって、今年もご健勝を祈ります」、みたいな言い方が決まり文句ですね。Bonne Annee と、Bonne Sante はセットになってることが多いです。

 で、フランス風だとまだOKということで、Pickyさん、

 Bonne Annee,Meilleure Sante!!!

 今年もよろしく。

371迷える大羊:2009/03/04(水) 20:28:06
オーストラリアのカトリック
 先日、オーストラリアを旅してきたのですが(クイーンズランド州)、現地のTVでオーストラリアのカトリックの現況について特集をやってました。英語力の不足で内容はよくわからなかったんですが。「ケネディ」(アメリカ大統領とは無関係)という神父さんが代表してインタビューにいろいろ答えてましたね。

 でも、改めて「特集」がニュース番組で組まれるってことは彼の国ではカトリックはもの珍しい、とまではいかなくても主流派ではないのな?元々、英国の南太平洋支店みたいな国だし、アメリカ同様、教派としては最大でも、全体としてはプロテスタント(含む英国教会)が多いんでしょうかね?やっぱり。

 オーストラリアのカトリック教会の現状というか社会における位置ってどういうものなんでしょうかね?いささか、抽象的な疑問、質問ですが、ちょっと知りたくなりました。

372迷える大羊:2009/03/04(水) 21:06:05
会社の神棚
 連続投稿失礼します。この三月より転職しまして、新しい会社に通っています。

 ところで、その会社には神棚があって、月2回の朝礼の際、出席者全員で柏手打つんですよね。現代日本人の常として、その会社の人々にとってそれは単なる慣習であって、誰も信仰というレベルでとらえてはいませんが、クリスチャンの人々はどうなのだろう?F派の方々にとっては強烈な抵抗感あるだろうなぁ、カトリックやリベラルなプロテスタントの人々はあまり気にしないかな?でも、神棚は許せても柏手はイヤって人は結構いるかも?などなど考えてしまったのでした。

 もっとも私自身は仮にクリスチャンになったとしても、多分全く気にしないでしょうねぇ。宗教学的にはともかく、大多数の人が信仰を試す意図も意識もないものをとやかくいっても仕方ないと思うし。
 日本の会社、商店は特に他意なく、神棚が祀ってあってそれに向かって祈るところが多数派ではないにしても結構あったりしますね。
 クリスチャンを身内にするまで、ほとんど自覚なかったんですけど、日本人=無宗教は大間違い、実は宗教がいろいろありすぎて、そのためにそれぞれの宗教の差異に鈍感になってしまってるというのが本当のところかも、と思ったものでした。

 ところで、フランスの企業にはこのような現象ってあるんでしょうか?つまり、イエスの磔像はなんぼなんでも強烈すぎるにしても、例えば、マリア像がオフィスの片隅に祀られていて、商売繁盛を月に一、二回みんなで祈願する、なんてことが(多分、ないだろうな、と思ってますが・・)

373Sekko:2009/03/04(水) 23:39:23
お久しぶりです。
 お元気そうで何よりです。

 オーストラリアは、私も「旅行者」としては、すごくいいイメージを持ってます。もちろん、英国の支店みたいなメンタリティはあると思いますが。
 現地の日本人と話して、子どもが付き合うのに、英国系の子どもは、両親の移住の年を聞け、・・年以前なら囚人の子孫だから、と気をつけている、というのを聞いて、出自の差別意識にちょっと驚いたことがあります。
 しかし、最近、首相が、バリのテロ以来、イスラム原理主義者を毛嫌いして、シャ−リア法で生きたいやつは出て行け、ここはキリスト教の理念で建国された国だから、キリスト教の文化や価値が尊重されるのは当然で、ここに住みたいなら英語が公式語だからアラビア語や中国語や日本語を使わずに英語を勉強しろ、などと言いました。移民問題に悩んでいるフランスで、これくらい言う政治家がいてもいいのに、というフランス人もいます。
 オーストラリアといえばアボリジニのことを自動的に考えるので、おいおい、よくこんなことを言えるよなあ、と、私なんかはびっくりですが。
 それほどに「キリスト教」アイデンディディが強そうなのにはびっくりです。一見、ユニヴァーサリスムの同化主義の言葉のようですが、実はものすごくコミュノタリズムの国で、ヨーロッパならタブーなことや、アメリカですら本音を言わないようなことをも、首相が平気で言っちゃえるのは、南半球の大陸という強みゆえなのでしょうか。白豪主義とキリスト教が結びついてるみたいで、ちょっと気持ち悪いです。カトリックはその中ではまあ「キリスト教」のお仲間なんで容認されてる程度なんでしょうか。

 日本の会社の朝礼で神棚に柏手って、今でもそんなところがあるんですね。まあ、個人的には、たとえば創立者の銅像に最敬礼を強要させられるよりましかなあ。
 日本の会社で、キリスト教徒だからといってそういうのを拒んだら実際に左遷させられた、という話を聞いたことがあります。切支丹狩って、今もあるんですよ、って。
 今のカトリックでは、神社とかにお参りという状況になったら、柏手は遠慮して軽く礼をするだけにして、リスペクトだけ示しましょう、って感じですかね。
 形は形でしかないので、信じてない対象に対してなら、逆に何をしても何も起こらないと思いますけど。信じている対象に対してはがんばって心を込めて形式にも気を使う、っていうのでいいんじゃないですか。
 この前バリ島に行った時、毎朝、家の内外53箇所にお供えをするという人の話を聞いてびっくりしました。ヒンズー教です。棕櫚やバナナの葉とかにお花を組み合わせたとってもきれいなお飾りにご飯やコーヒーとか、少しずつ差し上げるのです。毎朝取り替えるんですよー。53箇所!!お祭りの時はもちろんもっと盛大に。
 病気の時などでできない時は、別に誰に責められるわけでもないけれど、元気になったら、神々への感謝と無病息災のためにまた一そうがんばってお供えをするんです。
 一日5回も祈るっていうイスラムも私には無理だと思いますが、ヒンズー教のうちにお嫁に行かなくてよかった、と思っちゃいます。日本で仏壇に毎日かげ膳を供えるとか、一箇所くらいなら、何とかなるかなあ。

 フランスの企業には多分ないでしょうね。極小企業とかもともと宗教系のグループなら知りませんが。一般企業がそんなことしたらそれこそ組合でも個人でも、国に訴えれば、たとえ、お祈りを拒否することで具体的に差別されなくてもモラルハラスメントが成立しそうです。
 フランスでの問題はむしろその逆で、会社などの公の空間は非宗教空間というのが決まっているにもかかわらず、「信教の自由」ということで、その宗教の祭日に勝手に休んだり、就業時間中に勝手に祈りの時間を組み込んだりとか、信仰を表に出すこと自体をどうセーブして監視、管理、対応するかの方が微妙ですね。公立学校に入れている子どもを、宗教行事のために休ませる親とかもいますし。
 日本のこういう会社の風景なんかは、むしろフォークロアっぽいですね。そう思って割り切れば生きやすいのでは?
 キリスト教は、神棚や仏壇を自宅にしつらえるっていう感じでは「祭壇」を作れないし、基本的に聖餐などは「共同体」の「集まり」が主眼ですから、それはそれで大変(出席したかどうかをチェックされる)ですが、うちで毎日複数の神棚に拝んだり、53箇所のお供え、みたいな煩雑がなくてすっきりしてる部分はありますよね。
 宗教がない人だって、一日を始めるときには、なんだかんだとジンクスがあったり、いろんな、「マイ儀礼」を必要としたりします。何らかのメタ世界によって現実を構造化しないと、なかなか自然に生きられないのかもしれません。

374迷える大羊:2009/03/05(木) 20:28:04
オーストラリア/会社の神棚
>オーストラリア

 確かに、アメリカやらヨーロッパに比べ、人種に関してはあけすけにいうらしいですね。例の反捕鯨運動も欧米本土よりむしろ盛んで、人種偏見と思われても致し方ないようなTV番組が作られたりもしたようですし。
 ただ、一方で日本語学習者とか日本在住歴がある人も欧米諸国の中では多い部類に入るらしく、実際、オーストラリア行きの飛行機にはオーストラリア人が大勢乗ってましたし、北海道などはスキー、スノボーをやりに来る人も多いようです。

 まあ、白豪主義というか純血主義に関しては日本や日本人もあまりオーストラリアを悪くはいえないでしょうね。
 そもそも、日本のベトナム難民などの難民受け入れ数はオーストラリアを遥かに下回りますし、最近、日本に居住する外国人数は見た目にもはっきりわかるくらいに増えましたけど、それでも欧米、オーストラリアに比べれば比率的にも、数的にも、まだまだであるにも関わらず、国籍認定を緩める法改正などがあると本音レベル(特にネット)で、かなり激しく拒否反応を示す人が多いですし。
 この辺り(外人に対する本音)はどっちもどっちって感じです。でも、オーストラリアに日本人が大挙して移民した歴史や事象なんてありましたっけ?ほとんどがビジネスがらみの滞在か観光客かで、日系移民の話なんて全然聞いたことないですけど。

>会社の神社

 宗教的、思想的に深いわけがあるのではなく、建設関係だからだとも思います。くだんの朝礼の名称も「安全朝礼」ですし。日本の建設・土木関係って地鎮祭などもともと神道のお世話になることが多いので、その延長でしょう、多分。

 異論はいろいろあるかもしれませんが、キリスト教って元々が現世利益を追求する宗教ではないって建前があるし、特に日本のキリスト教は少数派故なのか、純粋で、特にプロテスタント保守派(F派)などは現世利益を追求しないことをプライドの拠り所としてる場合も多いわけで、こういう素朴なニーズ(工事安全、商売繁盛)に応える「営業努力」をあまりしなかったことから、日本において「安全」「商売繁盛」に関することは「神道」へ、と相成った理由かな、と愚考するのですが、どうなんでしょうね。

375迷える大羊:2009/04/05(日) 22:06:52
日本のキリスト教と左翼
 とまあ、のっけから刺激的なタイトルになりましたが。ここでも何度か話題にしましたが、キリスト教、クリスチャンについて、日本でキリスト教やろうとすると左翼っぽい思想に染まらないといかんのかなぁ?という疑問が常日頃抜けないんですよね。

 もちろん、何をもって左とするか、右とするかは人により、立場により異なるし、人によっては「迷える大羊、お前こそ右だろ」と言われるかもしれませんし、あまり安直に決めつけるのは差し控えなければならないのは重々承知してますし、信徒や聖職者が個人単位でどんな政治的見解、立場をとろうがもちろん、それは自由です。

 ただ、自分たち個人の見解や立場を教会全体、信徒全体の「見解」として世間に発表したり、何も知らない信徒や年少の信徒に様々な異なる見解がある問題について、一方の側の意見、立場を「正義」として吹き込むのはいかがなものか、という疑問によくとりつかれます。

 例えば、キリスト教会がやる「平和運動」とか祈りの類、キリスト者として、人として当然でそのこと自体は批判できませんが、その中身が私からするとどうも胡散くさくて・・。
 ぶっちゃけてはっきりいってしまうと、単に社民党、共産党の方針に従ったものなんじゃないの、との疑念が抜けません。まあ、わかりやすくいえば、旧日本軍の悪事だとかアメリカの軍拡だとかいったことへの批判は極めて熱心ですが、北朝鮮とか中国の不祥事、不正となるとスルーしたり、なんとか触れないようにしたり、みたいな・・・。

 個人単位でも、身内に公立学校の教師やってるクリスチャン(プロテスタント)がいて、国旗掲揚、国家斉唱義務化反対運動に熱心だったりします。私だってそんなこと国が義務にすることじゃないだろ、とは思いますし、別に祝祭日に国旗を掲げるタイプの人間でもありません。にも関わらず、教職員組合のこの手の運動の胡散臭さも経験的に知っているだけに(生徒に同意を半強制するなど)、どうにも厭な感じがしてしまいます。あと、感情的にも、「公務員だろ、国家から飯のタネもらって、民間より厚い福利厚生にあずかってるのに、従うのはイヤ?ずいぶん、お気楽な反対運動だこと。イヤならさっさと民間人になればいいだけの話だろ」とつい冷笑的な反応をしてしまいます。まあ、心のうちで思っているだけで、本人に面と向かっていったことはないですが(いえない)。
 彼女(女性)は子供時代からのクリスチャン(それも熱心な)で、教会におけるそういう言論(私からみて左翼っぽい)が影響を与えた可能性は大と思ってます。

 ちなみに私の政治面の立場、思想は天皇だとか、国家神道だとかは冷ややかなので、そういう意味では「右」ではないです。しかし、一方で、非常に手前ミソになりますが、現在のように社会問題化する以前から、北朝鮮の拉致問題には関心があり、被害者の集会にも顔を出していたりして、その過程で左というか進歩系のマスコミや政党の偽善ぶりもたっぷり見聞きしたせいで、かなりの左翼嫌いでもあります。

 正直、今、仮にクリスチャンになったとして、自分の心にもない見解だとか意見が「信徒」全体の意見になるなんて冗談じゃない、との思いがあって、キリスト教というものに対する壁の一つになってますが、皆さんはその辺、どうお考え、あるいは割り切っておいででしょうか?

376:2009/04/20(月) 11:17:01
リッタ バセの手記
カトリック サプリを愛読している者です。リッタ バセの手記の事を知りました。私の
友人で一人息子が自殺してなかなか精神的に立ち直れないでいます。邦訳されているのであれば、彼女に贈りたいと思います。題名と出版社を御存じであればお知らせいただければ
幸甚です。なければ英語またはドイツ語でも良いです。
お手数をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。

377:2009/04/30(木) 10:05:55
有難うございます
竹下節子様
はじめまして

ペールポール
に竹下さんのお話を聞き感動しています。
メールしてよいと言って下さいました。うれしいです

そして
堤さまにふらんすご
おしえていただきます、
心温かきメールくださいます

素晴らしい出会い
ありがとうございます

聖ひるでがるど
クリスタルヒーラーとしてお手本です
あまりしらないのですが

もっとお勉強頑張ります

良いひーらーとして何か
いのりとともに
越えていきたいです


すくるししんぷさまのおかげです

感謝

378Sekko:2009/05/06(水) 19:33:30
お返事遅れてすみません
 日本に行っていて戻ってきたところで、時間が取れなくてすみませんでした。
 この掲示板の書き込み通知がうまく届かなくなって、時々チェックしているのですが、チェックしない時に限ってお便りが・・・すみません。

 岡田京子さま

 リッタ・バセ(Lytta Basset)の本は今のところフランス語しかないように思います。息子との消えることのない関係について書いた本は、

 http://livre.fnac.com/a1990744/Lytta-Basset-Un-lien-qui-ne-meurt-jamais?Mn=-1&amp;Ra=-1&amp;To=0&amp;Nu=1&amp;Fr=3

 で見ることができ、第一章はフランス語ならネット上で読めるようになっています。

 子供の死は親にとってあまりにもつらいことで、自死となると、なおさら、怒りの持って行き場がなく、自分が罪悪感に捕らわれます。子供を失った方すべてに、「あなたは悪くない」、と伝えたいです。

 いつも最悪のケースを想定してあれこれ考えるタイプの私は、自分の子供の自死よりも悪いことは、自分の子供が他人の命を殺めることだと気づいてから、少し落ち着きました。無差別殺傷した挙句に自死したり死刑を望んだりする人の親の心を思うと、そのつらさはさすがの私でも想像を絶するものです。


 小児皮膚科病棟に勤めていた私の娘に言わせると、最悪の病気は全身の皮膚が過度に脆い遺伝子病だそうで、そういう子供たちは、たえず全身が痛く傷だらけで、口内も傷つくので飲食ができず、ずっと胃からの管栄養だけで生きていて、対症療法以外に治る見込みはないので、親たちはずっと罪悪感に苛まれるそうです。

 体が死んでも魂は残るという考えでなく存在とはもともとこちら側の世界とあちら側の世界でペアになっているもので、こちら側が失われてもあちら側との絆は永遠に残るというリッタ・バセの考えは、喪失への向き合い方を変えてくれます。でも、実際に子供さんを亡くされた方は、その「空虚」をご自分の中に抱え込んでその中に身を投じるような期間を過ごすもので、自分の中に最初からあって消えることのない「子供のもうひとつの存在のあり方」との絆を封印してしまいがちなのです。

 バセの本には、金色の野の花が語りかけてくれるのを感じた時に、その封印が解けて、亡くなった子供との絆を回復できた母親の話が出てきます。お友だちも、大きな命につながっているような小さな自然に目を向けられたら、自分を閉じ込めている空虚の穴から抜け出すきっかけになるかもしれません。

 岡田さんのようなお友だちの存在も、じわじわと、彼女の助けになると思います。どうか寄り添ってあげてください。

 いつかバセの本を翻訳する時が来るかもしれません。

 野口志世さま

 お便りありがとうございます。

 実はこの頃急に、「気の流れ」みたいなものが実感されるようになったので(今までは、そういうのはイマジネーションの産物だと思っていたのですが)、ヒーラーというのはあり得るんだなあ、と感じます。でも、情報にノイズが多すぎて、「こちら側」で処理される時にはなんだか変な方向に行ったり玉石混交というか、あやしいものがほとんどになるんでしょう。それに、多少なりとも有効なヒーラーって、消耗も多そうだし、お気をつけください。目の前の他者との共感力の強い人と、もっと集合的なものとの共感力が強い人と、二つのタイプに分けられるような気もします。ヒルデガルドなんかはリーダーとしても神秘家としてもすぐれていたみたいですね。
 でも、そんな人になれるかはもちろん、運良くそんな人にめぐり合う可能性だって普通はあり得ないので、私はどちらかというと不公平感に悩んでしまいます。まあ、生き方、苦しみ方、小さな喜びや、死に方も含めて、その人それぞれの命のあり方なんだと思って、比較や仮定はしない方が無難ですけど。

 迷える大羊さま、

 弱者救済や、富の分配という点においてキリスト教がいわゆる左翼と親和性があるのは当然だと思います。
 でも、左翼イデオロギーでは暴力革命や敵の打倒という急進的な形で「今ここで」平等や彼らの理想を実現しようという、短絡的なプログラムと化していたり、左右を問わず内部の権力争いなどの誘惑に駆られて逸脱していることが多いわけで、そのへんを見極めたり常に自戒していないと、「共闘」というのはキリスト教的な道からどんどん外れるんでしょうね。
 しかし、もともと西洋近代政治の概念である右とか左とかを、キリスト教内部を分断するようなレッテル付けに転用することがそもそもの間違いであると私は思います。
 そのへんのところを、一部、5月10日発売の『カトリック生活』のパウロ特集で書きました。チャンスがあったら読んでください。
 右とか左とかいう立ち居地そのものは、それぞれの人の育った国とか環境によって変わってくるもので、それを絶対のものとして意見の異なる人を排除したりする傾向は、信仰に関するすべてを貧しくするものだと思います。

 そのうち又ゆっくり書きますね。私の訳した『自由人イエス』という本が秋頃出る予定なので、それもお知らせします。

379:2009/05/09(土) 15:32:11
Paraguay
パラグアイの大統領に、カトリック司教が就任したことの記事拝読しました。当方ブログに
リンクを貼りました。http://tokyonotes.cocolog-nifty.com

それから、バチカンの司祭職は辞めなくてもいいことになったと聞きましたが。

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com

380:2009/05/09(土) 19:11:30
(無題)
憧れの竹下様
今お返事拝見しよろこびかんしゃにつつまれております。
聖ひるでがるど
聖テレーズ
聖マリア様にいのり
もっとたかまってすみわたり
少しでも良いクリスタルヒーリングしたいです。

勇気いただきありがとうございます。
ペールポールに報告いたします

381Sekko:2009/05/10(日) 01:11:34
Orwellさま
 ありがとうございます。その注目のルゴ元司教なのですが、一応司祭活動は停止状態のままですが、就任1年になる最近「隠し子」で話題になりました。一人の子供を認知して、責任をとると言いましたが、他にも続々名乗りをあげる女性がいるみたいです。関係のあったのは司教時代であったはずであること、もし複数の女性との隠し子を認めるなら、司祭の独身だけでなく、一夫一妻も裏切るわけで、裏切ってないのは避妊しなかったところだけ?なんて言われています。
 汚職や政治的腐敗とは又別なんでしょうし、文化も違うのかなあなんて思いますが、まあ、スキャンダルとはいっても、フランスに聞えてくる限りでは、ピューリタン的非難はされていないので、政治生命には影響ないかもしれません。個人的な部分は分りませんが、人間的であるところや博愛精神って、カリスマ性を発揮すると女性にもてたり、そっちの方に行ってしまうこともあるのかなあ、とちょっと複雑な気分になっていたところです。わざわざ話題に取り上げないつもりでしたが、今お便りをいただいたので、一応御報告です。
 このサイトの更新は、掲示板以外は目下ブログの方(お知らせのコーナーにリンクがあります)にまわっています。

 世界の構造的貧困を是正するには、既成の観念を打ち破るような根本的な考え方の変革が必要なんだとは思いますが・・・自立自尊の国同士がいかに連帯するかということで、それには、自立や自尊を奪われている国をまず援けることも必要かと思います。依存でない連帯が理想なんですが・・

382vino:2009/05/18(月) 11:41:11
右やら左やらではもはやないと・・・
新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。  私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。  大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、SEKKOさんの言葉にもあるように<弱者救済>と重なるわけで、きっと、どんな主義主張も宗教も立派な思いから始めても性悪の人間が始めるとしょせん以たり拠ったりの結果なのかなと思っちゃいます。  さらに濃い目の方々はしょせん、人間・・・なる意識は薄いですね。自分達は神から選ばれた特別のもの、人は神が作られた特別のもの・・・なわけですからね。洗礼を受ける事をそれはことさらに<救われる>とのたまいます。クリスチャンが原罪意識を忘れてどうする?と思っちゃう私です。 アメリカ人はゴミの問題なぞあまり考えないようですし、大量に作って買って、捨てて、地球もつのかしら?

383vino:2009/05/18(月) 11:41:45
右やら左やらではもはやないと・・・
新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。  私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。  大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、

384:2009/05/21(木) 18:31:20
うれしい昨日
節子先生
きのう
スクルス神父様のところにお邪魔しました・
あいにくお忙しくフランス語は勉強なく
いつも心の深ーいおはなしに
ごそうだんさせていただき
ペールポール
はたからの父です。

節子先生のことが大好きで
本の表紙ぶんかくのってよろこんでおられました。
ブルカルト神父
が私のお父さんですが
二人の神父にまもられ
千里でたくましく安心して暮らしております。

すくるすしんぷさまに
エゾてリズムをソルボンヌではかせごうとられているとききました。

神秘宗教
どんなものか教えてください
秘密宗教でした

猫足ロココ
猫がだいすきなヒーラーです。

385迷える大羊:2009/05/25(月) 23:17:51
(無題)
 皆さん、お相手いつも恐れ入ります。

>単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが

 多分そうかも、とは思いますけどね。上層部はともかく、個々のクリスチャンのサイレントマジョリティはノンポリがほとんどと思われますから・・。

 ただ、欧米で熱心なクリスチャンというと日本と逆で大抵、政治的には右というか保守派ですよね。アメリカがいい例ですし、カトリック教会も世界的、全体的には反共ですよね、何しろ冷戦のさなかにポーランド出身の教皇を推し立てるのですから・・。単にマジョリティか、マイノリティかの差かしら?もちろん、あまり決めつけるのもなんですが。

 ただ、イエス自身は有名な「カエサルのものはカエサル、神のものは神に」という言葉に代表されるように、また、いくら煽られても政治的言動は一切行わなかったですよね。慧眼だと思います。マザーテレサもそのあたりのケジメはしっかりしてました。
 全くの独断と偏見ですが、私の知る限りだと救世軍なんか、マトモだったかな?日本のキリスト教会にありがちな、年月日の記載に元号をヒステリックに排除する、なんてこともしてませんし。

386迷える大羊:2009/05/25(月) 23:34:13
ダン・ブラウン「天使と悪魔」
VINOさんの話にも出た、「天使と悪魔」、映画観ました。お話はかつて中世にカトリック教会より弾圧を受け、地下にもぐった科学者集団、イルミナティがなぜか現代に復活。反物質分子を奪い、枢機卿を拉致監禁、バチカンへの復讐を果たすべく、行動を開始、ここに例によってラングドン教授参上・・、といったお馴染みのストーリー。

 このラングドン教授シリーズってどうも前から何か不思議な既視感があったのですが、ある時、はっと思いだしたのは我が国の誇る探偵小説、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」ですね。「八つ墓村」とか「悪霊島」、「悪魔が来たりて笛を吹く」とか、のあのノリ。

おどろおどろしい、因習渦巻く戦前、あるいは戦後間もない地方の村、そこに伝わる裏面史、伝説。そして伝説を前フリとして起こるおぞましくも残虐な殺人の数々・・。

 ダン・ブラウンのラングレン教授ものにおける「因習渦巻く地方の村」はキリスト教会、それも、いかにも、といった趣のあるカトリック。「村の伝説、裏面史」に相当するのが「キリスト教裏面史」、で「イルミナリティ」とか「なんとか騎士団」とか「イエスとマグダラのマリアはデキてる」などというお話ですね。

 金田一耕助もラングドン教授も殺人防御率が低いことも共通。「天使と悪魔」ではそれが顕著。あと、犯人に自殺されて、無傷で捕えられない、とか・・。
 ただ、金田一とラングレン教授の違いはラングレンがキリスト教、カトリックという世界最大の宗教団体が絡んでいるために騒ぎが少々が大きくなっていることくらいでしょうか。

まあ、なんだかんだいってカトリック教会は寛大な気もします。これだけイジられても動じないのですから(さすがに撮影協力などはしてないようですが・・・w)。これまた我が国が誇る殺し屋、スナイパーのゴルゴ13も、キリスト教はカトリックだけじゃないことぐらいわかってるでしょうに、キリスト教とか教会といえば必ずカトリックを出してくるし、幾度となくヴァチカンから依頼を受けてるし・・。
 カトリックは都市伝説の吹きだまり、ゴミ捨て場かい!って感じです。

 まあ、ビジュアル面とその歴史の厚さが魅力的である、好意的に解釈すればそういうことになるのかもしれませんけど・・・。

 あと冒頭の枢機卿の会議になぜか「タカハシ」なる日本人枢機卿が登場(話の本筋にはほとんど関係ないけども)。作者は日本のクリスチャンは1%未満、カトリック信徒はわずか0.4%、その辺の新興宗教以下の信徒数であることを知ったらなんと思うやら・・。

387Sekko:2009/06/11(木) 00:50:18
天使と悪魔
 迷える大羊さん、

 私も、「タカハシ」に反応しましたよ。昔は「ヤマモト」が一番だったけど、ちょっと進化したなあ、と思って。

 昔、ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました。まあ、別にそれは単なる情報なんで、私のオリジナルとかじゃないからいいんですけど、さすがに著者の私は、あれ、丸うつしだなあ、と思いました。(別に嫌じゃなくてメジャー感を抱きましたけど・・ゴルゴ13のお役にたてたのかって。)

 カトリックってちょっと自虐史観ありかもしれません。あちこちでひどいこと言われてるけど、あまり文句つけたら、十字軍だの異端審問のこと持ち出されて薮蛇になるかも、っていうんで。カトリック教会自体が偶像化した時代もありましたからね。

 ラングドン教授の殺人防御率が低いってのも笑えます。私も、「また2分前かい、気づくの遅すぎ」って。「他人事?」ながら、見ててイライラしました。トム・ハンクスがよく我慢してあんなつまらないのに懲りずにでてるなあとか。

388Sekko:2009/06/11(木) 01:06:54
野口志世 さま
 野口さま。

 私がエゾテリズムに興味を持ったのは、キリスト教や西洋近代の確立の中でその受容がどういう意味を持ったのかという点なんですよ。
 西洋キリスト教の発展の中では、キリスト教の源流のオリエント的なもの(バビロンとかエジプトとかパレスチナとか、ギリシャまで)が、なんとなく全部影に押し込められた時代が長かったですし。

 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 』中央公論新社という本で、エゾテリズムの流れが、今もいかに影響を与えているかの例を書いています。良かったらお読みください。

 個人的には、いまや、すべての「秘密」なんたら、というのには警戒心の方が強いです。この世では、すべての真理が明らかにはならないし、秘められていることも多いし、秘められていてこそ機能するものも多いと思います。説明や証明もできないことを切り捨てていては世界は成り立たないし。
 ただ、「自分だけが」あるいは「自分たちだけが」、「秘められた真実」を知っているとか所有しているとかいう考え方は、閉鎖的、排他的、独善的になりやすいから、もうそれだけで、「真実」が捻じ曲げられてるような気がするんですよ。

 スクルス神父さまはそういうことと全く反対の方ですから、いい方に会われて良かったですね。力をいただいて、それを他の方の癒しにどうぞ役立ててください。神父様が序文をお書きになった『自由人イエス』は、この秋にドン・ボスコ社から発売予定です。いい本ですよ。是非どうぞ。

389迷える大羊:2009/06/18(木) 21:29:22
ゴルゴとキリスト教
>ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました

 もしかして、中国とカトリック教会の関係がちょっと出てきた話かですかね?うろ覚えですが、メインテーマは確か中国の新興宗教と中国共産党とのからみでした。
 これまで、「ゴルゴ13」なんて思いっきりキリスト教ネタのタイトルなのにキリスト教描写が結構適当なところがあったんで、オヤ?と思ったものでした。「ゴルゴ13」中のヴァチカンは人身売買組織のボスをゴルゴに依頼して、始末したり、ゴルゴの影武者をいつの間にか造ってたり、なかなかアクティブな組織で、ゴルゴ13の良き顧客となっている模様です。

 まあ、日本の劇画やドラマに出てくるキリスト教っていい加減ですよね。妻子持ちの神父だとか、モグリの神父だとか(単立教会があり得ないカトリックでは不可能では?)がでてきたり、いつでもどこでもやたらと「神、神」を連呼したり、ちょっと変人なのでは?と思うくらい、「品行方正」だったり・・・。

390あがるま:2009/06/22(月) 13:32:46
ラディスラフ・クリマ
についてブロッグで書かれて居るのを拝見しました。
エリカ・アブラムさんはパトチカの翻訳者なのですね。
成る可く解り易い彼の著作としては何をお奨めになりますか?
Deus sumは手に這入るのですか?
触りのあたりでも日本語で書いて戴ければ有り難いのですが。

391Sekko:2009/06/23(火) 23:48:31
こんにちは
 あがるまさん、こんにちは。

 クリマのソリプシスムの真髄は、日記と書簡で全部分ります。書簡といっても、彼の信奉者からの個人的援助に応えて論文を送っていたわけです。フランス語版は手に入ります。

 http://livre.fnac.com/a1603340/Ladislav-Klima-Oeuvres-completes?Mn=-1&amp;Ra=-1&amp;To=0&amp;Nu=4&amp;Fr=3

 でも、高くて分厚くすごく読みにくいです。

 今の仕事が一段落したら触りを紹介したいですが。それにはもう少し読みこまなくては。エリカからPCで送ってもらったものも、私は読むと肩が凝り、目がかすみ、これほど魅力的でなかったらもうとっくにギブアップしているところです。

 もうひとつの問題点は、この間、チェコの人と話したら、そもそもエリカ(の夫)が冷戦中にクリマの手稿をチェコから持ち出したことに対してすごい不信感と敵意を持たれました。その辺も含めてクリマの本格研究はけっこう微妙です。

 ドイツ語ラテン語ギリシャ語も混じっていますがそれはあがるまさんなら問題ないでしょうし、チェコ語がOKならもっと嬉しいです。ただ、彼のようなタイプの思想の読み解きには、キリスト教とヨーロッパ中心主義の幻想と伝統の葛藤をかなり体感していることが必要かもしれません。まあ知性の腕力(って矛盾ですが)さえ強靭なら大丈夫でしょう。後は感性の問題ですが、私のブログからクリマをたどってここまで来て下さったということは、すでに、「仲間」だなあと思います。

 あがるまさんがクリマの思想を分析してくださって、エリカと違う視点で他と関連づけてくださればすごく嬉しいのですが。

 私はクリマの研究をするより紹介し、自分がクリマ風ソリプシストになって、今の世界の文脈の中で別の論を展開してみたいと思います。できたら「生き方」も。

 そのうちクリマ専門の紹介ブログをつくって、サークルができるものか見てみたいですね。

392あがるま:2009/06/25(木) 07:38:37
九鬼周造
に関する論文でパリでF.ダステュールの許で学位を取つたサイトーさんと云ふ方の話を大分前に聞いたことがありますがネット上での噂は聞きません。
日本語で著作を発表された様子もありませんが、中村弓子?の本の後書きで彼女の名前が記載されて居たのを見た気もします。
竹下さんなら、お年や在仏期間からご存知かも知れません。
日本には帰らずに現地で学者人生を送る方も沢山居られるのでせう。

393Sekko:2009/06/26(金) 06:24:18
日本人の研究者や
 学者の方とはほとんど交流がありません。ずっと昔からいて、こっちの大学で勤め上げて、引退して日本語もほとんど話さない方もたまにいます。
 日本のような国と、ヨーロッパではかなり歴史の接点が少ないので、両方に足を置いていないと、距離のとり方が難しくなって見えてこないことも多くなります。クリマと今のチェコの関係も、東ドイツでずっと排斥されていたニーチェが冷戦後急に「真のヨーロッパ人」としてもてはやされたように、政治的反動もいろいろありますから。ヨーロッパは特に、第一次大戦と第二次大戦の傷と、互いの移民関係とが重なり合って、哲学や宗教のトレンドにも強い影響を与えているのです。その辺のニュアンスや事情を知ってはじめて腑に落ちるようなことも、いまだにいろいろあります。

 今は、クリマのソリプシスムは正教のヘカシズムと大いに関係があるのではないかと思っているところです。エックハルトなんかをクリマがどう読んでいたのか、次にエリカに聞いてみます。無神論にはいくつか種類があって、「神と合一=自分が神になる=無になる」という神秘主義的無神論とクリマのソリプシズムは親和性があると思うのですが、彼自身が膨大な理論を構築しているのをまず読まないとなんとも言えません。私の考えは大体エリカによって承認されているので大筋は外れていないと思うのですが・・・
 今のところあまりお役に立てなくてすみません。

394あがるま:2009/06/26(金) 14:41:49
パラミズム
ご丁寧に何度も有難うございます。
神秘主義や東方教会よりも、ダスチュール→現象学(九鬼、パトチカ、ロンバッハ)→クザヌス云ふ聯関がありさうですが、クザヌスとエックハルトの関係を、詳しく辿る知識がないので申し訳ありません。
グレゴリオス・パラマスをダシにして、初めて集合論を学んだ高校生が思ひつきさうな本を書き笑殺された方も居られます。
日本では(キリスト教や)古典的形而上学の原理が理解されて居ないのか、簡単に欧米の哲学が超越されて、独自の『思想』が樹立されます。
ディスクールなどと云ふ言葉が盛んに使はれてもその本来の意味(概念的思惟)を分つて使つて居るのか?高橋里美や九鬼周造などフッセルから直接間接に学んだ連中は分つて居たと思ひますが。
最近でも水村美苗が、日本語は滅びると云つても、日本には古典とかカノンと云ふ概念がないために何が主題なのか分らなくて見当違ひのことが云はれて居るやうです。
日本の学校教育の缺陥が問題になるのでせう。

395Sekko:2009/06/29(月) 20:46:06
パラマスとクリマ
実は今、クリマのソリプシズムをパラマスとひそかにすり合わせているのです。
 クリマのソリプシズムを、宗教神秘主義の中で理解しようと思ったら、Filioque はやはりまずいと思うんですよ。じゃあ、Hus や Wiklif はどうだったんだということも当然見なければならないし・・・

 太陽が、直接見えないけれど父的本質であって、聖霊と子はその働きとしてキャッチ可能な光線だというパラマス的イメージはすごくよく分かるんですよ。
 クリマのソリプシズムでは、私も神、あなたも神、という神の関係性があり、しかも、それはひとつの全体だというのがあって、それは、光線と光線源を分けないと(切り離すというわけではない)不可能です。集合論的に、たとえば、部分集合でも無限である(偶数習合とか)というたとえは、読むと「おおっ」と思うんですが、生き方に適用するとリアリティを失うし。クリマのソリプシズムはそのまま彼の生き方だったのがすごいんですけれど。

 まあ、今のところ、もう少し読み込んで、人に紹介できる程度になってからまた書かせていただきます。

396あがるま:2009/06/30(火) 00:26:32
theosisも
クザヌスのcontractioも碌に知らないのでまともな応答もできないのですが、アウグスティヌスの三位一体論が人間の(志向的)意識をモデルとした、極端な人間中心主義=solipsismeであることを思ひ出せば良いのではないかと思ひます。
八木雄二『中世哲学への招待』でドゥンス・スコトゥス論の三位一体論は認識論であり、『父なる神』は認識の起源=記憶、『子なる神』はロゴス=理知で、聖霊は愛=意志である、と云ふ興味深い指摘がありました。でも何故か彼はそれをアウグスティヌスと結びつけることはしませんでした。
フッセルなら父=志向対象、子=志向内容、聖霊=志向作用とでもしたかも知れません。
差異性は同一性に対立する差異ではなくて同一性の差異化(Rombach)、とでも云ふのか?

397Sekko:2009/06/30(火) 21:41:23
Vladimir Soloviev
 昨日エリカに話したんですが、私がクリマの中にヘシカスムを見るのは自由だが、クリマは自分が東方的な神秘主義とは違うことを強調していたそうなんです。Vladimir Soloviev を批判している膨大な論考をpdfで送りつけてきました。クリマは一切の関係性を拒否していたというのです。まあ確かにそうでないと、ソリプシストとはよべませんが・・・独我論と我神論の比較論考も残しています。エリカとの話をまたブログの方に備忘メモしておきます。パトチカは、クリマの論理学を評価した文を残してるそうです。でも、たいていのチェコ人は、クリマを文学者の枠に閉じ込めるか、黙殺しようとしているのです。クンデラとかも。自由世界でどう売り込みどう生き残るかが最大の関心みたいですね。

398あがるま:2009/07/02(木) 13:10:21
(無題)
クリマの文章を一行も見たことがないのでは話にもならないので
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。

399あがるま:2009/07/06(月) 17:58:43
パトチカ(
カンディンスキ(その先生はF.シュトック)と云へばガブリエレ・ミュンター ― 坂崎乙郎が女性画家として唯一認めた。
彼らが共同生活をして居たムルナウと云ふ場所は列車で通つただけですが、湖(シュタッフェル湖と云ふらしい)が美しくて途中下車してみたい町でした。
さう云へばカンディンスキはR.シュタイナーの信奉者でもありました。
05/07/09

<自己が世界の現出Erscheinungの可能性の制約MoeglichkeitsBedingungであり、世界が自己の現出の制約であるが、自我的egologischなものは普遍的な現出構造ErscheinungsStrukturを組織化する中心点にすぎない>(新田義弘『現象学』から。 多分Patocka, La monde naturel comme probleme philosophique.1976から。ドイツ語は適当に入れた)
と云ふものであれば、意味と存在の次元の区別が不十分としても、(他者との)関係を拒否する訳はありませんね。04.07.09

400あがるま:2009/07/08(水) 12:32:51
バッハの
『Wohltempeliert』esKlavierを『平均律』ピアノ曲集と云ふから両者は同じものかと思つてゐたら、Wikiによれば違ふものらしい。
『純正』調は(イデアの世界だけで)現実には(竹下流に云へば身体的には)在り得ないもので、皆少しづつ調子が違ふからこそ美しいハーモニーが奏でられのでは?

401Sekko:2009/07/08(水) 18:44:43
バッハのことなど
 ブログのご愛読ありがとうございます。

 シュタイナーの絵も見ましたが、当時はどう評価されたか知りませんが、古いなあ、という印象を免れませんでした。カンディンスキーはさすがに古くない。いろいろなところに書きましたが、私が絵を観る時の基準は、それをベッドのそばにかけるとして、毎日、朝目覚めた時に一番に目に入るもの、夜寝るときに最後に目に入るものだと想定し、それに耐えられるか、というのと、地球が滅びたとして、宇宙船で別の惑星に向かう時、たった一つの絵を「地球の生命」というタイトルで持っていけるとしたらそれを選べるか、というのと2種類あります。私の場合、何かそうなると、形より、色が大事になるかもしれません。色のない世界って辛いです。カンディンスキーは別にすごく好きな画家ではなかったのですが、今回見て、宇宙脱出するなら晩年の作品を一つ、って思いましたね。ミュンターとの付き合い方には、あまりいい感じは持ってないんですよ。アーティストのカップルというのはやはりどちらかがどちらかを潰すことが多く、そこにさらにジェンダーがからんで、複雑です。
 バッハのこととかについてはブログでまた少し続きを書きました。

402あがるま:2009/07/30(木) 14:45:08
超・異端
現代新書の『ジャンヌ・ダルク − 超異端の聖女』を通読しました。
彼女についてはミシュレや高山一彦の簡単な本しか読んだことはありませんでしたが、
「正統と異端のパラドックスの中をぐるぐる廻る私」と仰る通りとても面白く興味深く、また複雑なものですね。うまく概念的に分節されたものだと感心します。

J.ル・ゴッフの提唱するPara-Heregieと云ふ基礎概念の、異端heregieを「選択」と云ふほどの意味(34頁)と書かれて居るので、ラテン語のheresis(haeresis)はギリシア語の(di)hairesisをのまま使つたので、「(二つに)分離する」と云ふ意味で現代語で言ふ「セクト」のことだと思つて居たのですが、慥かに古典語の辞書には「選挙・選択」と云ふ意味が載つて居ました。

またギリシア語のparaは「傍らに」と云ふ意味で、「(河を)超へて」と云ふ意味のラテン語のtransとは明らかに違ふし、ル・ゴッフも両綴にギリシア語を使つて居るが、日本語ではpara-psychologyを超心理学と云ふ様に「trans超」と「para副次的」は(戯画的に)混同されることもある様です。(フランスの大学の科目たるprapsychologieは米国のとは別物なのでせう)
第一哲学たる存在論ontologieに対する 本質論ousiologieや神学theologieが副次para的なものの典型でせうか?
「柄(正統)と地(異端)」を超へた「地平(超・異端)」、の言外には超越範疇transcendentalia(ト・ヘン一者たる神)が透かし見えるやうです。より現実的な登場人物の傍らで、ジャンヌは已然として、お伽噺と云ふ印象です。
30.07.09

403あがるま:2009/08/09(日) 00:48:48
flocci-nauci-nihili-pili-fication
<生物の種も惑星にも太陽系にも宇宙にも寿命があって、そのスパンの中で考えるだけでも、個人の生などは、絶対の無意味でしかない。floccinaucinihilipilification。
これがポストモダンのニヒリズムであり、「神の死」である。>

明らかにこれは間違つてゐる、ハイデッガーは「人間は宇宙の大きさに較べては微小な無のき如きものである」などと言つた訳ではない。
細谷貞雄は夙に渡邊二郎のそのやうな単純な誤解を指摘した。
まして死が永遠の代替物だとも思へない。個体にはすべて始めと終はりがあるのは、それが有限で形を持つてゐるからだらう。

パラ・ヘレジーは日本語では「エセ似非・異端」とでも云ふべきか。

404Sekko:2009/08/09(日) 06:47:30
para と trans など
 ええと、ブログで書いたことは文脈を省略した断片なので、言葉が足らなかったと思いますが、ハイデッガーのことは全く頭にありませんでした。
 ちょうど扱っていたところが、Martin Rees と Richard Dawkins の無神論だったので、ああいう言い方になったのです。ハイデッガーは全然別物だと思っていますし、私はむしろ、ハイデッガーは、ポストモダンというより、形を変えたモダンの系譜じゃないかと感じています。フランス実存主義の哲学者たちも、反教権主義は別としても、ニヒリズムと背中合わせの無神論とは違うんじゃないかと。まあ、この辺は、長くなるんで、いつかちゃんとまとめてみたいですが・・
 実は、Martin Rees なんかのこの考え方は、solipsisme historique 批判なんです。「今ここ」だけ主義の批判なんで、「今ここ」だけ主義というものが、「永遠に死ぬ=つまり生まれ変わりとか復活とか死後の世界がない」ことに対する恐怖から生まれていると見ているんで、結果的に「永遠の否定」にもなってるのが逆説的なんでおもしろいんですが。分りにくいかもしれませんが・・・
 私個人は、「死=しょうがない」という感慨しかないんですけど。
 個体には、終わりは確かにあって有限だけど、初めはどこが最初か確実には遡れないので、始まりの方が無限だ、って言ってる遺伝学者がいましたが、それもなあ、別に慰めにはなんないです。若い時に無神論者でも死が近づくと不可知論者っていうのは、若い時の革命家が中年になってブルジョワ左派になるように、多分、イデオロギーの一種なのかも。
 私は「今ここ」の管理すらも上手くいかないんで、procrastination、神とか死とか偉そうに言えません。

 パラとトランスの訳ですが、確かに、パラは「併行」とかのニュアンスを出すべきだと思ったのですが、ご指摘のように、パラプシコロジーが超心理学と通常訳されているのを知っていたので、語感もいいし、あがるまさんがおっしゃってくださったように、transcendance をイメージしたかったのです。その意味では、成功したかと思います。でも例えば、paramedecine なんかは明らかに「代替医療」なんですよね。alterとかじゃなくても。後、metanoia という時のメタというのも、しっくりきません。まあ、パラエレジーもそうでししたが、カタカナを示すことで、ある程度類推してもらえると思っていますが。

405あがるま:2009/08/12(水) 02:34:48
ポスト・モデルネ
と云ふ概念を知りませんが、『近代(主義)』と云ふのを一番良く定義して居るのはバルトなどのプロテスタント神学でそれは『AnthropoZentrik人間中心(主義)』と云ふことだと習ひました。大分前には『post-historic』と言つたものかも知れません。
Stanford Encyclopedy of philosophyが一番良く説明してある様ですが、ハバマスが云ふやうに自己言及的なもので、自分の論拠を破壊してしまふものでせうか。
http://poznejsamsebe.wz.cz/filosofie_ladislava_klimy.pdf
でDavid Seterleの Filosofie Ladislava Klimyと云ふのを見つけました。40ページくらいの文章ですから私もチェコ語が解れば良いのですが。

406迷える大羊:2009/08/23(日) 21:51:59
キリスト教の「救い」とは?
 これまで、キリスト教に関して、いろいろ質問させていただきましたが、実はキリスト教に関して一番肝心な部分がどうしても理解できないでいます。

 何かといいますと、イエスは救世主、といいますが、一体、何から「救った」のか?ということで。これが私にとってはわかったようで、わかりません。

 そりゃまあ、信徒一人一人、個人単位でみれば、いろいろあるでしょう。たとえば肉親が亡くなって悲嘆にくれているところを癒された、とか、信じたら、心が楽になったとか、仕事や人生がいい方向に向かいだしたとか・・・etc。

 でも、これらは、当人にとっては重大なのでしょうが、その救いはあくまで個人単位でのことだし、客観的にみれば、別にイエスでないと、というものでもない。、心が弱った時、悩んでいるときにたまたま出会った救いがキリスト教だったに過ぎない、極端かつ失礼な話、オウムに出会っておればオウムに流れてしまったんじゃ?と思ったりもします。

 キリスト教によって救われた、と思える場合でも、実態としては、イエスとかキリスト教というよりは親切で人柄のいい牧師さんとか神父さん、信者、教会関係者に助けられた、といったものが多いんじゃないかなぁ、と。

 もちろん、信じたら借金が消えた、長年の持病が治ったとかいういわゆる「現世利益」を保障する存在とも違いますし、ローマ帝国を蹴散らし、ユダヤの地を解放・・といった旧約聖書タイプの政治・軍事的なヒーロー、救い主、という役回りもイエス自身が福音書の中で否定してるし・・。

 大体、ローマ時代のイスラエルって客観的にみて、どうしようもなく酷かったか?というとそうでもないような気もします。ローマ支配下、といってもある程度の自治権は保障されていたし、民族宗教(ユダヤ教)を信仰する権利も守られていたみたいだし、他のローマの属領、植民地に比べれば、だいぶマシな状況であるように思えます。現代でも、例えばチベットとかもっと悲惨な支配にさらされている地はいくらでもありそうな。

 この程度の状況で「救世主を」なんていっていたんでは、他のもっと悲惨な状況にある地域の住民からは「ケッ」っていわれそうですし、所詮はユダヤ人だけの都合に過ぎませんし・・。

 個人単位ではなく、キリスト教全体の立場として、イエスは何から信者を救った、ということになっているのでしょうか?
 特にイエスの直弟子、初期クリスチャンは具体的に何から救われた、解放された、と思って、強力なパワーだとかエネルギーを得たんでしょうか?

407迷える大羊:2009/08/23(日) 22:32:05
ローマ帝国とキリスト教
 連続投稿失礼します。あとキリスト教に関してはローマ帝国との関係も外せないところですが。教会でパウロとか使徒とかの苦難の伝道行を聞かされると、つい「ローマ、悪い奴じゃ」と思ってしまいがちですけど、私なんかは、根が天の邪鬼なのか、逆にローマ帝国ってすごい先進国じゃないか、と思ってしまいます。

 先スレでも述べたとおり、イエス存命時のイスラエルはローマ支配下ですが、ある程度の自治権と信仰の自由は保障していて、決してローマ古来の信仰を押し付けていませんし(難しくてできなかったのかもしれませんが)。法律・裁判制度なんかも、政治的でないものはほとんど現地人に任せていたようでもありますし。古代にしてはかなり理性的な支配だな、という感じが。イエスの生まれた年には帝国全土にわたって国勢調査をやったりしてますし。

 パオロなんかもキリスト教改宗語、伝道の旅をしていますが、あの当時、ローマ帝国以外の地域で市井の一般人があれだけの旅をすることが(資金とか時間の問題はあるにせよ)可能だったのかどうか?これまた、非常に高度な法による統治と交通網が整備されていた証拠ですよね。
 また、パオロ書簡には他宗教の信者との折り合いについて書かれた部分があるけど、これまた様々な宗教が帝国内に存在可能だったということなわけで。むしろ、中世以降のヨーロッパのキリスト教以外ナシ、な状況の方が遥かにひどい。

 キリスト教もローマ時代の全期にわたって年がら年中弾圧されていたわけでなく、キリスト教嫌いの施政者が権力の座についた場合だけの散発的なものだったらしいですし。

 このキリスト教嫌いの施政者、権力者というのも、ネロのような例外、論外はありますが、決して悪辣、愚劣な人間というわけではなく、例えば五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスとか帝政後期のディオクレアヌス帝とか、有能で責任感のある皇帝ほど、キリスト教にきつくあたっているわけで、なにやら事情は複雑、決して善悪の二元論で割り切れない気もします。
 権力者ではないけどローマ帝国きっての歴史家のタキトゥスなんて、キリスト教のことを「有害な迷信」とカルト扱いしてますし。彼だって決して偏狭な価値観の持ち主とは思えないし。

 というわけで、教会でパオロや使徒たちの苦難に満ちた伝道行や、初期クリスチャンの受けた弾圧の話を聞かされるたびに、確かにその精神力とか信仰心には感心するものの、「ローマ帝国って本当にひどいの?あの時代にしては、かなりマトモな部類に属する国家なんじゃないの?」とか、逆に「すごいなぁ、一般人があれだけの旅ができるインフラがあるなんて」とローマ帝国びいきになる私は天の邪鬼なんでしょうか?

408フランチェスカ:2009/08/29(土) 06:50:06
シュタイナーのアントロポゾフィー
初めて投稿します。
『大人のためのスピリチュアル「超」』たいへんおもしろく読みました。私自身は信者ではないのですが、宗教(特にキリスト教、そしてカトリック)に関心があり、ますますいろいろなことが知りたくなりました。
ところで、タイトルの「シュタイナーのアントロポゾフィー」ですが、エゾテリックな分野もご専門であるSekkoさんならば、ご存知でしょう。日本でも「シュタイナー教育」の名でルドルフ・シュタイナーの名は知られてきています。私も教育に関心があり、本を読み始めました。シュタイナーは、人間は身体、エーテル体、アストラル体、自我の4つから成り、最初の3つはそれぞれ鉱物界、植物界、動物界と共有するものと言っています。さらに、人間の霊魂は生前と死後は霊の世界にあり、地上においてカルマを背負い、身体に受肉する、という考えです。また、キリストというものがアントロポゾフィーにおいては、非常に重要な概念になっていて、これはシュタイナーの宇宙論ともからんで、私にはよくわからないのですが、キリスト教では異端とされるようでもあり、同時に、本質的には「正しい神秘主義」といってもよいようにも思われます。
Sekkoさんはどのように考えられますか?

409Sekko:2009/09/05(土) 08:47:08
みなさまへ
 お返事遅れてすみません。ここのところネットの接続が上手く行かなくて、今やっと回復しました。

 まず、ローマ帝国とキリスト教、ここではくわしいことは書けませんが、このテーマではいろいろな本が出ているので、興味があれば探してみてください。私は次の本で少しまとめています。
 キリスト教が、ユダヤ世界を出て普遍宗教になったのは、ローマ市民であったパウロの活躍が大きいし、ローマ的な世界観や当時の宗教事情や、政治軍事状況が関係しているので、「キリスト教が弾圧に負けずに最終的に勝利した」というような単純な話でないことはもちろんです。
 キリスト教によって何を救われたか、これもいろいろありますが、みなが当時の煩雑な宗教儀式や典礼や供物のシステムにがんじがらめになっていたのから救われた、っていう側面はあるようです。後、やはり、実存的なこと、ストア派のように肉体の死後は、魂が「宇宙=コスモス」の秩序の中に帰っていくというのでなく、肉体も魂も復活して、永遠の命をもらえる、というところが魅力だったと思います。仏教も中国を通過するうちに輪廻が消えて、みんな成仏して祖霊となるのが基本になり、さらに、成仏のための悟りや修行から、絶対他力の阿弥陀信仰と極楽往生が人気を得たように、「生前の人格を失わないままで無条件丸ごと救済」みたいな方向に流れるんでしょうか。
 しかし、もう少し掘り下げて考えると、イエスは、「救いを求める人々の心を利用して惑わせる偶像崇拝」の実情や傾向というものから、人を自由にして救ったというところが大事なので、そこのところをちゃんと説明した『自由人イエス』(クリスチャン・デュコック師、ドンボスコ社)を翻訳解説したものが10月か11月に出る予定ですのでそれをぜひ読んでみてください。


 フランチェスカさま、

 私は、シュタイナーは、昔シュタイナー教育とかリトミックによって最初に知りました。音楽と身体性や、教育について、私の考えて多少実践していることと通じるので、それには共感します。
 でも、あの辺の、つまり、19世紀後半から20世紀前半にどっと出てきた神智学とか人智学とか、つまり心霊主義とか、ブラバツキー夫人とかシュタイナーとかの一連の人々には私は偏見を持っています。
 あの頃のオリエント趣味とか、シンクレチックな諸教混交神秘主義とか、あまりにもあの時代の西洋の特別な精神状況と結びついているので、普遍性が感じられないし、その後の展開を見ても、相対化せずにはおれません。科学と宗教とか理性と信仰とかの対立をどう折り合いをつけるかという西洋近代の相克の中のヴァリエーションですが、さまざまな伝統を継ぎはぎした宇宙論にそんなに説得力があるとは思えません。
 シュタイナーの方は、一応、神智学と東洋趣味と離れたんですが、今度は西洋中心主義の方に針がふれちゃって、第一次大戦の頃にはゲルマン人の霊的優越を唱えていたみたいですし、私は一般的に、あの手の、霊的進化論が苦手なんです。霊のステージを上げて進化して救済されるなどのエリート思想も。
 シュタイナーの教育論には理想主義がそれなりにいい方に表れていますが、そして、彼が天性のアーティストであったらしいことにも好感を持ちますが。
 まあ、元が西洋キリスト教世界の人たちなんで、イエスは解脱したマイスター
として特別の地位を与えられてはいますが、お話としてきくのは嫌いじゃないですが、それを説いてまわる側には私はなれません。何が「正しい神秘主義」というような価値判断も無理です。「うちの宗派が一番」というような主張があるところからは、すべて距離を置くことにしています。ごめんなさい。
 不思議話は好きなんですよ。でも超越とか魂とか霊とかの話は所詮、この世界の物差しで測れないものですから、他の人と優しい関係が築けるような形で上手に付き合って行くのがいいと思います。人生において迷っているときや苦しい時にはつい「神秘」に「救われる」どころか足をすくわれることがありますから気をつけた方がいいですよ。

 明日から留守ですので、また帰ってからこの掲示板を拝見します。

410フランチェスカ:2009/09/05(土) 22:54:50
「正しい神秘主義」とは?
お返事ありがとうございます。
いえ、私も決してシュタイナーの思想に「惚れこんでいる」というわけではないのです。が、教育の実践を見る機会があり、なかなかよさそうだと思ったわけです。思想に関しては、よくわからないところが多々あります。ただ、日本でおこなわれている「シュタイナー教育」に関心を寄せている人々は、どちらかというと、ロハスとかエコロジーとか自然育児とかマクロビオティックとか、そういったものに関心がある人々が多く、オカルトとか心霊主義とかブラバツキー夫人とかいったものに関心があるわけではない、という印象を受けます。でも、たしかにどこか「あやしい」感じはあります。やはり、これは「うちの宗派が一番」というような思想なのでしょうか・・・?
「正しい神秘主義」という表現は、ご著書のカバーに書いてあったのでしたっけ、それを引用させていただきました(たしか「正しい神秘主義は気持ちいい」でしたっけ?図書館の本でしたので、今手元にありませんが)。たしかに、何が正しく、何が正しくないかということに基準を設けることはできないと思います。
「神秘」に足をすくわれないよう、気をつけます。

411Sekko:2009/09/07(月) 13:42:10
フランチェスカさま
 そうですね。私も今本が手元にないですが、人生良好感をあたえてくれて、他の人や社会と切り離さないでいい関係を持ち続けられるのなら、「正しい神秘主義」というか神秘主義との正しい付き合い方なんでしょう。ただ、体質的に、シュタイナーもそうでしょうが、「霊的」な人っているようで、それも、それをどう使うかが問題なんでしょう。フランスでも、超能力好き、ロハス、エコロジー、マクロビオチック、仏教、瞑想、自然育児、自然療法、オカルトって、境界引きが難しく、実際重なっているのもたくさんあります。ツマミグイシテ免疫を作っておくほうが、頭から否定して何かの拍子にかえってのめりこむよりはいいと思うんですが。

412迷える大羊:2009/10/12(月) 23:15:51
メディアにおけるムハンマド
 最近、ネットを眺めていると、日本マンガ・アニメの世界への意外な、とんでもない拡散ぶりにあっと驚くことがしばしばあります。「まさか、こんなものが」っていうものまでいつのまに流れていたりして。そんなマンガの一つに「最聖☆戦隊ホーリーメン」なる作品があって。(URLはエロ画像多しの理由で削除しました悪しからず)
 なんでも、一般人として立川で暮らす聖イエスと聖ブッダ。しかしひとたび立川に危機が訪れれば「最聖☆戦隊ホーリーメン」に変身して悪と戦う、という作品のようです(未読)。
 この作品は、一昨年くらいから連載開始されて人気を博している、イエスとブツダが現代日本に降臨し、立川のアパートで二人暮らしする「聖☆おにいさん」のセルフパロディーというか別バージョン。まあ、日本らしいというか、日本以外ではありえないマンガですね、自慢していいのか、悪いのかわかりませんが、・・。

 しかし、このマンガにムハンマドは出演しません。世界3大宗教、何億もの信徒を抱える宗教の開祖にも関わらず。その理由について作者は原作者がインタビューで「シャレにならないからやめた」、とはっきりいってます。

 それにしても、昨年だか一昨年だったか、デンマークでの騒動をみるまでもなく、世界中のメディアがムハンマドの扱いにはピリピリしてますし、公の場でムハンマドのパロディーをみかけることはありませんが、こういう状況って本当にイスラムとかムハンマドにとっていいことなんですかね?という疑問が・・。

 まず、はじめにしっかりお断りしておきたいのですが、他宗教、それも全世界に何億もの信徒を抱える信仰に対する故なき中傷誹謗は厳に慎むべき、っていうのはわかりますし、当然です。
 また、その教えの優れた部分は十分認識してるつもりですし、騒ぎを起こす原理主義者、過激派はごく一部ということもわかってます。数とか割合からすれば、むしろキリスト教のそれより少ないかも、とも思ってます。

 でも、その辺を考慮した上であえていうのですが、「あの方」にはあまりにもタブーが多すぎなんじゃないか、と。間違っても「聖☆おにいさん」「最聖☆戦隊ホーリーメン」みたいなマンガのキャラにはできないし。

 しかし、あまりにタブーが多かったりとか、自主規制を徹底してしまうと、悪意が陰にこもって却ってヒドいことになるんじゃないか?と思わないでもないです。
  実際、「あの方」の教えを信ずる人々への中傷誹謗の主に欧米系の動画、サイトはネットでいっぱいみかけますし、ご紹介したサイトにも、

>「あれ? 誰か一人足りないような…」
 「預言者の人?」

 などという皮肉・イヤミまじりのコメントもちらほら・・・。

 こういう意見を開陳するとやっぱり断罪(差別肯定ということで)されちゃいますかね?

 ちなみにクリスチャンの方にこのマンガ見せましたけど、普通に面白がるかつまんない、と思うかのいずれかで不快感を出す人はいませんでした。外国人の反応も同様でご紹介したサイトでも、カトリックとかクリスチャンの方も普通に面白がっているコメントがついてましたが・・・。

 一番の疑問は「人であり神である」イエスより、あくまで「人間」であるはずの、あの方に対する扱いの方がよっぽど気を遣われている、という現状がなんだかなぁ、と思ってしまうんですが。
 イスラム教界でムハンマドの描写についてはどういう議論があるのですかね?キリスト教同様、イスラムにもリベラル、保守、といろいろあると思うのですが・・。

413Sekko:2009/10/14(水) 20:13:47
「触らぬ神に祟りなし」
 大羊さま

 日本に限って言えば、仏教やブッダはもちろんなじみがあるし、キリスト教も一応15世紀に入ってきて一時は流行ったわけだし、明治維新以降は、西洋キリスト教文明をいろいろ採用したのだから、これも、信者数が少ない割りになじみがあるのではないのでしょうか。お釈迦様の花祭りよりキリストのクリスマスの方が商業的に根付いてることもそうですね。その点やはりイスラム教とは、そのようなはっきりした接点がなかったのでなじみがないのは確かだと思います。
 それにいわゆる一神教の中では、同根の創造神を戴いているはずですが、ユダヤ教の神とイスラムの神は、具象化する偶像崇拝の禁止が徹底しているのでアニメのキャラには使いようがなく、その点でキリスト教の神は三位一体の人格神ということでずっと図像化されていたので使いやすいんでしょう。イエスやブッダが「元人間」というか、一応「歴史的人物」であり、同時に人間の条件を超えたというのも、超能力者テイストでいろいろ転用しやすいんでしょう。
 その点、歴史的人物のMさんの方は、神の言葉や意志を仲介する預言者であり(もっともM さんはイエスも one of 預言者だって言っているわけですが)、うまく他の二人の仲間キャラとしてアレンジできないのかも。
 実際にはどの宗教の教祖にでも起こることですが、Mさんを神格化しちゃっている異端グループもあるわけで、まあ、今の国際情勢から言っても、それこそ「触らぬ神に祟りなし」っていうことでしょうか。

 考えたらこの「触らぬ神に祟りなし」って智恵は奥が深いかも、です。宗教や欲望に関するリスクマネージメントなんでしょうね。
 信仰というのが「信頼」に基づくとしたら、難しいところです。最終的には「分別」の力で、でも、それにもインスピレーションのひと押しが必要かもしれないし・・・

414迷える大羊:2009/10/14(水) 23:21:28
すみません・・・。
 先スレ「メディアにおける・・・」で御紹介したサイト、よくみると、どうも、エロな方面のマンガ、アニメもかなり紹介されていて、現在のところ、その手の作品が一面に出ています。申し訳ないんですけど、URLの方だけ、削除できますか?

 日本マンガ・アニメが普及するのはいいけど、こんなものまで観るなよ、てな感じでネットも良し悪しですね。

415Picky:2009/10/15(木) 21:33:48
大羊さま
大羊様、いつもメッセージありがとうございます。管理人のPickyです。
さて、URLだけ削除とのことですが、管理人は基本的に全文削除できても一部削除はできないんですよ。で、このページの下の方へとずずずいっとスクロールしてくだされば、「自分の投稿の編集」ができますのでそちらでお願いできますでしょうか?
ご面倒ですがよろしくお願いします。
ところで、大羊さんの投稿を読んで、ちょっと前に流行ったダンブラウンの小説、あの方を題材にしていたらえらいことになっただろうな、と思いました。おっと、触らぬ神に、でした!

416迷える大羊:2009/10/17(土) 06:43:09
触らぬ神に・・ですか。
 お相手ありがとうございます。やはり、結論は触らぬ神に・・・ですか。しかし、不公平な気もしますねぇ。人であり神であるはずのイエスとかカトリックとかは散々パロディとかギャグのネタにされているし、ブツダだってここまで気を遣われてないんですけどね。
 侮辱はいかんにしても、なんでここまで扱いに差があるの?てな気も。

 こちらでも、教会でも、人であり神でありとか三位一体、ってなんやねんってさんざんツッコミましたし、「あの方」も同じツッコミを入れていましたが、今思えば、重要なのはそんな理屈ではなく、信仰の実際の実態の方かなぁ、と思わないでもありません。
 どう考えても、実質的に神様扱いされているのは「あの方」の方のような気がしますけどね。

417今紫:2009/10/17(土) 21:09:49
日本におけるカトリック教会の人物の列聖、列福はありえるか
 竹下先生、お久しぶりです。先生の掲示板に書き込みを入れて4年が経ちますが覚えていらっしゃるでしょうか。あれから洗礼を受けて3年の歳月を迎えました。

 さて、先生に質問があります。日本におけるカトリック教会で日本二十六聖殉教者、日本205福者殉教者、日本十六聖人殉教者(聖トマス西と15人)、2008年(平成20)11月24日に福者ペトロ岐部と187殉教者が列聖、列福されてきました。現在、高山右近や北原怜子、チマッティ神父の列福運動が盛んですが、では、それ以外に日本のために尽くした宣教者や信徒への列福、列聖はありえるのでしょうか。

 日本のカトリック信者の大半は外国の聖人らを崇敬していますが、わが国におけるカトリック人物(あくまでも故人に限ります)のほとんどが未だ列福はおろか、教会による公式調査や崇敬が少ないのではないでしょうか。

 たとえば、永井隆博士や岩下壮一神父に細川ガラシア、大友宗麟、B・プティジャン司教にM・ド・ロ神父、戦国時代、徳川時代、幕末から明治、大正、昭和のカトリック教会に進行と力を示した殉教者に証聖者らがあげられますがどうなるのでしょうか。やはり、彼らに対する崇敬が必要なのでしょうか?

418Sekko:2009/10/18(日) 07:44:05
列聖列福について
 列福、列聖に至るまでの手続きは複雑で、「公式調査」などの前に、基本的にはボトム・アップ、教区レベルで運動が盛り上がらなければなりません。上から教育的な意図で今度はこの人を、って感じにはならないし、その意味では活動修道会系の人の方がネットワークがしっかりしていてチャンスが多い気がします。チマッティ神父なんかも、サレジオ会はもちろんですが、出身のトリノとかの地元の教会でがんばって熱心に奇跡を求める祈りをしてる人の方が日本より絶対数は多いんじゃないかなあという気がするんですが。何か起こるとしたらトリノじゃないかなあ、と。
 しかし・・・私は、個人的には奇跡譚も聖人システムも好きですけど、実際問題として、今、誰かを列福まで持っていくには、崇敬心や情熱だけでなく、それなりの時間と費用がかかります。ある意味壮大な無駄で、まあそれはそれで、時間や費用に換算できない次元での価値や豊かさがあると思いますが、そもそも、そのような徳のある方たちは、公式のタイトルがあろうとなかろうと、すでに尊敬の対象にもなり、今生きている人間の助けにもなると思います。そういう方たちの気持ちや信仰を受け継いで、今の世界をよくしていくことに時間と金を使うことで本当の意味での諸聖人のコミュニオンに参加できるのではないでしょうか。仏教に「妙好人」って言葉がありますが、広く知られることのない地味な信仰者でも、本当に聖人のような人は少なくないかもしれません。公式の聖人として光をあてられるのか、野の花のようにひっそりと過ぎるのか、それこそ私たちの思惑や理解を超えたいろいろな恵みのあり方なんだと思います。
 今紫さんの挙げられたような方たちの多くは、すでに信仰の恵みによって報われてるような気もしますし。
 今紫さんの生活が充実したものでありますようにお祈りします。

419今紫:2009/10/18(日) 15:46:40
返事と訂正です
 ご返答ありがとうございました。神への信仰と謙遜で柔和に生きてきた彼らに倣いより充実した生活を送って参ります。
 それから、訂正があります。質問文の中に「進行」という言葉がありますが正しくは「信仰」の誤りです。お詫び申し上げます。

420迷える大羊:2009/11/23(月) 23:19:40
ベルメルシュ神父事件
 最近、手がけた事件は殺人だけで124件、帝銀事件、下山事件など昭和、特に戦後の混乱期の大事件に多く関わった、昭和の名刑事、平塚八兵衛氏(1913年〜1979年)の回想録(「刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史 佐々木嘉信著、産経新聞社編、新潮社)を読みました。
 一般的には昭和三十八年の村越吉展ちゃん(当時4歳)の誘拐殺人事件において、アリバイの矛盾を突破口に犯人を自供に追い込んだことで有名な方。
 そのプロフェッショナルとしての意識の高さ、すさまじい捜査、犯人検挙への執念に思わず唸らされてしまいました。推理小説に出てくるような「名刑事・名警部」という存在が本当にいるんだ、といった感じで。

 そんな彼が手がけた事件の一つにスチュワーデス事件がありました。これは、昭和34年(1959年)三月十日、東京・杉並区の善福寺川で、英国航空でスチュワーデスをしていてカトリック信徒であった武川知子さんが遺体で発見。司法解剖の結果、ベルギー出身の司祭ベルメルシュ氏が重要参考人として浮上するものの、任意の取り調べも進展しないうちに、同年6月、ベルメルシュ氏が急に帰国、事件は迷宮入りした、というもの。
 平塚氏の回想録を読む限り、容疑はかなり濃厚。血液型の検出を拒んだり、日本語ぺらぺらなのに何もしゃべらなかったり、何よりも急に帰国してしまったり、心証的には限りなくクロっぽい。当時のカトリック教会の対応(急に帰国させちゃった)にはかなり疑問を感じます、というか実際、世論は非難ごうごうだったらしいですが。
 松本清張氏などはこの事件を元に「黒い福音」という作品を書きあげたりしてます。

 この事件の回想を読んでいて興味深いのは、当時の日本人の「欧米人コンプレックス」ぶり。外人は苦手、ってことで捜査員が誰も容疑者の神父に近寄らない、平塚警部自身、「外人相手じゃ呼吸(取り調べの)が乱れてやりづらい」などとこぼしていること。先日、やはり同時代の日本が舞台になった松本清張氏の「ゼロの焦点」を読んだのですが、そこにもやはりそういった趣旨の描写があって、なんていうか考えさせられました。米軍占領が解けてまだ7、8年程度、経済レベル、生活水準も先進国レベルには程遠かったあの時代、欧米とか欧米人相手になるとどこか引いてしまう、屈折した対応が出てしまうところが、なんだかなぁ、と思ったものでした。あと、どうにも気になるのは、平塚氏の回想によれば、ベルメルシュ神父の名が捜査陣に出てきたきっかけというのが、救援物資の横流しの捜査の過程だった、ということ。まさか、教会や神父が??てな感じですが、前述の「黒い福音」ではそうやって布教資金を稼いだことになってます。もう、ダン・ブラウンどころの騒ぎではないですね。

 ところで、このスチュワーデス事件。現在のカトリック教会とか信徒はどう思ってる方が多いんでしょうね?私個人は潔白なら日本の取り調べに従うべきだろう、骨を埋める覚悟でやってきた日本で身の証しを立てるべし、殺人をやってしまったのなら、神ではなく人間なのだからこういうこともあったと裁きを受けるべき。あの当時のカトリック教会の対応って聖書の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」にまったく反してるじゃないか?何より、素朴な感情として、日本人として不愉快、と思ってしまうのですが・・。

421Sekko:2009/11/26(木) 01:04:13
知りませんでした。
 面白そうなのでちょっと検索。ほんと、便利な時代ですね。

 当時の朝日新聞の記事に、まだ神父の名が挙がっていない頃に、松本清張さんがすでにコメントを載せていて、それによると、

「ともかく犯行のもようからみて犯人は自家用車を持っている。 経済的にもゆたかな男ではなかろうか。 男友達はたくさんあったというが、どうもスチュワーデスになって からの友達が犯人ではないかと思える。
そして彼女の職業がら日本人ではなく、外人ではないかとも考えられる。 外人も中華料理を食べるし、また外人ならこっそり彼女を連れて泊まる ことのできる知人宅などもたくさんあるわけだ。 いずれにしろ犯行の動機は愛欲のもつれだろう。」

 これって・・・これはこれですごいバイアスがかかっているなあと思いました。コンプレックスの裏返しもあるんでしょう。
 別の推理作家は、「男は若くはない。 女にふられた恨みからだというのが私のカンだ。 胃のなかにあった中華料理がわりと高級だった点から犯人は金持で、 彼女が看護婦時代からの友達ではなく、スチュワーデスになってからの つき合いだと思える。 犯行現場だが、よそで殺して死体を運んだ場合、タクシーなら届出が あるだろう。 自家用車、ドライブクラブの車も考えられるが、発見現場で殺したとも いえる。どうも私は発見場所が犯行現場のような気がする。 これもカンだが、殺し方からみて外人ではなさそうだ。」っていうんです。

 1959年に外国航空会社のスチュアーデスが殺されたという時点で、「日本人か外人か」という見方がされること自体、何か偏見に満ちているなあとも思いました。別の記事によると、遠藤周作さんはエッセイの中で、「真相が究明されるまで、あの神父をとり調べるべきだった。あの神父は逃げたらいけなかった。堂々と取調べを受けて、潔白ならば証明すべきだった。あの事件のせいで、どれほどの悪イメージが日本の教会に当時広まったかが計り知れない」という趣旨の言葉を残したそうですね。

 私が新聞記事だけで読んだ感想では、この神父さんが神経衰弱になって胃がおかしくなったので、面倒を避けたかった修道会が帰国させた、というのはありそうだと思うし、何だか、この派手な騒ぎの裏で罰せられずにすんでほくそえんでいる真犯人がいるかもしれないなあとも思います。それが外人だか日本人だかは知りませんが。私のイメージでは、殺人に至るくらいの深い仲になっていたら、もう少し周囲に目立っていたと思いますが。それに当時のカトリックの外人司祭は目立ちすぎて、そんなに隠れてふらふらできたとも考えにくいんですけど。救援物資隠匿何とかはよく分かりませんね。私のイメージではサレジオ会は戦争の同盟国のイタリア系だったので戦中もなんとかやってたけど、管区長のチマッティ神父なんかの窮乏ぶりは大変だったようで、戦後にそんなにいい汁を吸えたとも思えないんですけどねえ。6千通も手紙を残したチマッティ神父の書簡集は1932年のまで読んだんですが、1959年のこの事件の時のことをすごく読みたいですね。当時すでに80歳だったはずで、かわいそう。まあ、このベルメルシュ神父のアリバイとか確信できていたなら、良心の問題はなくて、帰国させたことの是非について悩んだかも。

 真実ってすごく知りたいです。被害者の葬儀ミサとかどうしたのかなあとか、そういうのは小説とかにでてくるのかしら。親がカトリックをどう思ってたのかとか。好奇心が描きたてられます。

 殺人者がでる可能性があるということ自体は、イタリアとかベルギーとか、一昔前はデフォルトがカトリックだし、なんでもあるでしょうから驚きませんが。

 私はこの事件の被害者のようなミッションスクールの出でもないし、若い頃は、「白人の神父さん」とかアテネフランセのアヌーイ神父しか見たことなかったです。彼はサンタクロースみたいですごくやさしいでしたね。

422迷える大羊:2009/11/28(土) 00:09:04
外人(欧米人)コンプレックス
 ってまあ、今でも日本人にまったくなくなったとはいえませんが、あの時代、戦後間もない時期のそれはちょっと異様ですよね、今からみれば。まあ、当時の状況を考えればムリないといえばムリないのですが。
 あと、あの時代に日本に居住、滞在する外国人といえば、いわゆる在日韓国人、朝鮮人と中国系が少々で、東京ですら、いわゆる「外人」を見かけることは稀だったでしょうし。
 捜査員も、日本人の犯罪者を数多く「落として」きた平塚警部もどう接してよいのやら、かなり困惑したようです。
 今は外国人なんて全く珍しくなく、通勤途中の電車やバスの中でもよく見かけるし、私の職場でも、いわゆる在日韓国人以外の、人種が異なる外国の方いますし。ここ十年ちょっとくらいでやけに増えたなぁ、と思っていましたが、実際、日本に滞在、居住する外国人って10年前の5割増しだそうで。
 平塚警部も存命なら「外人は苦手」なんていってられませんね。

 ところでクリスチャンの増減と日本人の外人(欧米人)コンプレックスの間には微妙な関係があるような気がするのは、単なる思いすごしでしょうか?
 というのは日本でクリスチャンが増えた時期というのは明治時代と戦後間もない時代ですが、いずれも欧米人コンプレックスとか憧れの強かった時期ですよね。
 逆にいえば、イエスは今でも日本では「ガイジン」扱いってことか?

423あがるま:2009/11/30(月) 14:01:04
ドン・ボスコ
私の住んで居た処がこのドンボスコ(さう呼ばれてました)の近くなので興味があります。
この団体が作つた高等学校の出身者で有名なのはヴァイオリニストの江藤俊哉で、彼の旧宅は私の家の近くでした。
今でもサレジヲ会の尼さんを見かけます − 外国人神父が一緒でも別に目立つほどではない。近くの東伏見にはイエズス会の立派な施設もあります。
戦後のどさくさ紛れに沢山の外国人が犯罪がありました。
上智大学の所有になつて居る四谷お堀端の運動場は不当占拠したものだし、大久保のロッテ製菓の工場もさうだといはれてゐます。
(神父がとは言はないが)耶蘇教徒は5百年も前から日本人を東南アジアや欧州に売笑婦として売り飛ばすのが商売だつた。

424Sekko:2009/12/01(火) 08:19:28
この話はこれで終わりです。
 何々事件で誰それが犯人かもしれないという噂話だけなら興味深いこともありますが、「耶蘇教徒は・・・が商売だった」とあるカテゴリーの人をまとめてしかも5世紀にわたって断定するような中傷は歓迎しません。これが仏教徒でもムスリムでも女性でも日本人でもフランス人でも同様です。ここは一応質問箱なので、個人の見解はご遠慮ください。

 大羊さんの意見について。日本で一番布教が効を奏したのは安土桃山時代かなあと思ってました。その時も「南蛮人」のもたらしたテクノロジーが興味を引いたと思いますし、カトリックで、明治時代は、インテリがプロテスタントに惹かれた、ってイメージを私は持ってました。戦後は、修道会とかが戦災孤児の救済をしたことや、占領軍の多くがクリスチャンだったでしょうし、それこそ救援物資の流れも、横流しは知りませんが、キリスト教国から教会や修道会を通した援助もたくさんあったと思います。今の豊かな日本ではぴんと来ませんが、マザーテレサのように布教を直接目的とせずにひたすら奉仕に身を捧げた人もいます。
 日本では、キリスト教はしばしば欧米文明とセットとなっていた上、ミッションスクールのお嬢様カルチャーがあって、政財界人の夫人なんかにミッションスクール出身の方が多いとかで憧れがあったのかもしれませんね。ホテルのチャペルでキリスト教風に結婚式を挙げる時、白人男性がバイトで牧師役をするとか、カトリックの神父でも日本人が司式するとがっかりするとかいう話もあるそうで、そうなると、やはり、欧米風への憧れみたいなのと結びついていたんでしょう。今はアジア・アフリカや南米の方が信者数が多そうで、日本の教会でも信者の半数が外国人なんてところもあるようです。「イエス」は、パレスチナ人だから、本来ならヨーロッパでは外人扱いですが、日本ではどうなんでしょう。お釈迦様はインド人だし、山とか樹とか滝とか蛇とか鹿のような人間や動物ですらないものでもご神体として拝んだりできるんだから、イエスの「ガイジン性」自体はどうってこともない気もしますけれどね。

425VINO:2009/12/07(月) 15:37:38
欧米かっ!
ちょっと古いギャグですみません。 私もキリスト教を取り巻く風潮のひとつにこの欧米へのコンプレックスは切っても切れない関係があると思います。安土桃山時代にカトリックが入ってきて、江戸時代は禁止されていたにも関わらず、長崎、特に五島列島の辺りは日本の古来からの風習、それこそ神道、仏教と独特な感じでMIXされたカト〜が浸透しているそうですし、開国後は旧・武士階級から広まったそうですし(だからなのか、年齢が多い方、おハイソな感じ未だにあります。高学歴で、英語にも堪能・・・なんて方も珍しくないですし)これは主に所謂メインラインの教会に見られる現象でしょうが、戦後はレッドパージ政策とセットで福音派・・・のグループがどどど・・・と入って来たと思います。
またまた悪口になりますが、彼らの信仰の方向性は<キリスト教は偉いっ!正しい!>ですし、元々は謙虚が美徳・・・の日本人の自分を謙遜する部分と妙に合ってしまうのかな?とも思います。なまぐさ坊主とはよく聞きますが、神父や牧師ですと聞きませんよね?  数年間、外国で過ごしまして感じた事は、始めはメインラインの人間が立ち上げた日本語のプロ〜教会も熱く、濃いFの人たちに浸食されつつあるということです。子供をインター校に通わせたり、そのカレンダーに沿った生活をしている間に<欧米は偉い!>がどんどん増殖するのでしょうね。女性に限って言うと、日本に普通に暮らすのと違い、親戚関係やご近所との間のお嫁さん、奥さんを演じなくても良い・・・がさらに拍車をかけるのだと思います。そうして熱い信仰を持ってとにかく多くの人が受洗しますが、帰国後はとまどうようですね。メインラインではぬるいし、違和感を抱くそうです。困ったもんです・・・話はそれますが、今、私の通う教会では<聖☆おにいさん>が人気です。二人ともとても良い人ですよね。私は仏陀も好きですよ。

426Sekko:2009/12/09(水) 20:10:49
女性の場合
 日本の女性のカトリック信者で、先祖代々の宗旨(仏教)と暮らしている人には、世代や土地柄によっても違うでしょうが、肩身の狭い思いをした、隠れキリシタンのように暮らした、という人もいれば、「あそこの奥さんはキリスト教だから」ということで、完全に世間にあわせなくても例外扱いしてもらえて、ある種の自由を享受できた、という人もいます。キリスト教だから、と冠婚葬祭の縛りをうまくかわして日本内外人の個人主義ですむとしたら、差別やいじめがなければ楽かもしれません。差別やいじめは、原則横並びの人が「ちょっと違う」時に起こるので、「欧米だもんね」と言っちゃえば免れるのかも。
 大昔に小学校の同級生の女の子が急に「私は今日からアニエスと呼んで」と宣言して驚いたことを覚えてます。「・・子」がデフォルトみたいな時代に、突然「アニエス」ですから。洗礼を受けてアニエスになったと言うことで、なんだか根拠なく「尊敬?」されてましたよ。というのは大げさだけど、仲間はずれとかでなかったのは確実です。
 もっと言っちゃうと、日本においてキリスト教がいまだに「欧米風」で寛大に扱われてるのって、私には、コンプレックスよりも、「女子供」への差別の匂いがしますね。女の子はミッションスクールに入れといてお嬢様風で洗礼受けてもちゃんと伝統社会のエリートと結婚できて、「だんな様」からも教会行事への出席を「ゆるしてもらえる」とか。家の先祖の法事などさえちゃんとこなしてれば、教会は「女子供の世界」という感じがあるのではないでしょうか。
 それって、「家事の手抜きをしないのなら外で働くのを許す」的な発想ではないでしょうか。

 実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ。

 日本の場合、よく言えば女子供は、精神が柔軟で適応能力もすぐれているから「外来」文化も違和感なく取り入れて自分のものにしてしまうけれど、「大人の男」は、それこそコンプレックスとか世間体とかいろいろ邪魔して、保守的になるとも考えられるのですけれど。

 逆に、ヨーロッパでも教会離れが進んだ時代には、ジャンセニズムに見られるようにその反動としての神秘熱や厳格さも出てきて、それがまた、キリスト教離れにつながったという悪循環もありました。
 日本でマイナーなキリスト教の中で、一部の独善的な言動がことさら目立つことになれば、全体としてまさに負のスパイラルですよね。

 ドン・ボスコ社の新刊『自由人イエス』
 http://www.kyobunkwan.jp/xbooks/shop/45_718.html

 をぜひ読んでみてください。

427迷える大羊:2009/12/12(土) 10:03:32
宗教=お花畑?
>実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ

 うーん、ガリレオ裁判とか魔女狩り、異端狩りの印象が強烈すぎるので、意外な話ですね。でも、私の独断と偏見ではカトリックの世界ってわりと、それはそれ、あれはあれ、信仰の世界と現実を割り切って分けて割り切って考えるタイプの方が多そうな感じ。良くも悪くもあまり「宗教の信者」といった感じのする人が少ないように思います。葬式でも普通に焼香する人が大多数だし、やたらと神経質に神社仏閣を避けてまわる人もあまりいませんし、プロの一部教会、信者のように信仰心が昂じすぎて、聖書はすべて事実と言い張る人もいませんし。そういうことを考えれば「さもありなん」といった気もしますね。

 面白かったのは、麻生元首相と鳩山現総理の公開討論。カトリック信者の麻生氏の方が見た感じといい、発言内容といい良くも悪くもプラグマティックで、おそらくは無宗教の鳩山氏のいうことの方がこれまた、良くも悪くも「宗教っぽい」感じがしたことですね。

 しかし、キリスト教会の女性比率の高さは他宗教と比べても際立ってますね。いつも、どうしてだろ?と考えます。

 蛇足ながら、これはあくまで独断と偏見であり、別にカトリック、麻生氏、鳩山氏を特に持ち上げてるわけでもなければ、貶めてるわけでもないことをお断り申し上げます。

428marie(HNnaoからかえました):2009/12/13(日) 17:49:47
キリスト教の時間
キリスト教には典礼暦という暦があります。待降節からはじまり降誕ー公現ー受難節ー復活節ー聖霊降臨ー主の昇天ーそして、マリアの被昇天、それ以後は諸聖人の祝日がつづいて、また待降節とめぐつてゆきます。これは我々がイエスの生涯を共にしながら、イエスにちかずく喜びの日々でもあります。こうして、一年の円環的時間がまわつてゆき、生涯、これはくりかえされてゆきます。
しかし、またキリス救には天地の創造からキリストの再臨までの線的時間もあります。円環的時間はわかりやすいですが、線的時間は日本人には馴染みがうすいようにおもわれます。私の考えでは円環的時間が螺旋状にあがつてゆき、この線的時間を生きてゆく、というのがキリスト教の時間感覚かとおもつています。そのめざすところは「自由他在」つまり先生の「自由人イエス」の解説によりますと、「自分が自由で何ものにも捉われない境地にあつて、その自由を人と共にあることに行使するということ」にあると考えられます。イエスの自由はまさに自由他在の完成であつたわけですから、線的時間はやはりイエスの再臨によつて、完成される、そのためにはわれわれはイエスにならつて円環的暦の時間をいきてゆけばいいのかな・・というのが今の私の考えです。足りないことや間違いがありましたら、ご指示いただけますと幸いにぞんじます。

429marie:2009/12/13(日) 22:05:20
追加です。
典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな〜とおもつているところです。変ですかね?

430marie:2009/12/13(日) 22:05:20
追加です。
典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな〜とおもつているところです。変ですかね?

431Sekko:2009/12/16(水) 04:02:49
キリスト教の時間
 そうですね。典礼暦と「創造から終末に向う一回性の線的時間」の考えはキリスト教の中で上手くできていると思います。キリスト教無神論の歴史の中では、必ず、この創造に関する「初めと終わり」の概念が否定されて、物質世界は永遠であるという主張がされてきました。これはエネルギー普遍の法則とか、原子の不滅みたいな理論の形成とも連動しているんですが、そのうち、地球はもとより、宇宙にもビッグバンによる「始まり」があったとか、いつかはクラッシュして消滅するとか、見方のスケールを変えると、永遠性とか循環性とか終始のある線的時間は、互換性があったり、共存したりできると思います。もっとも普通の人間には、循環し再生する自然の営みに比べて、生まれ育ち老いて死んで消えていく自分や自分の近いところにいる同類のかかえる線的時間の一回性の意識というのは強烈で、不可逆的な死の恐怖をどう管理するかというところから宗教儀礼も生まれたのでしょう。仏教でも弥勒信仰などで釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして多くの人々を救済するとか、一応線的な時間もありますが、基本はこの世の時間や空間などは幻であり、循環的な輪廻から脱することこそ救済ですよね。キリスト教も、終末の後に魂といっしょに肉体も復活するとかいうことで、肉体の一回性を相対化したり、線的時間を無意味にする各種聖人の時空を超越した「交信」などによって、歴史性を無化する工夫があります。
 イエスが十字架上で一度死んだけれど復活して、そのままずっと、生きているというのも、たんに聖なる人が死後も腐敗しないとか存在の仕方を変えたというより、また別の生き方へとすべての人をいざなってる感じはします。
 愛する人の誕生日や命日やらを毎年想起するというのは、自然な感情だし、それが権威的に押しつけられたら嫌ですが、繰り返して想起しないと人って忘れっぽいからなあ、という実感もあります。
 螺旋的に円環しながら上昇していくイメージはすてきだし、そこに神の国の建設とかいうポジティヴな目標が与えられるのはいいことですね。そうしないと、正直言って、毎年季節や暦や行事は巡るのに、人生の後半ではそのスピードが年々早くなって、体力も衰え、螺旋上昇どころかきりもみ的に落下するって実感さえありますから。それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです。実際、自分の生も、すでにいない多くの人の共同作業の上で育まれたという感謝と感動がすでにあります。私一人では、家一軒建てられず、食糧も調達できず、病気も治せず、サヴァイヴァル力はゼロですから。今私より弱い立場にいる人とか次の世代の人などに私も微少でも何らかの形で役に立ちたいです。

432marie:2009/12/16(水) 09:24:37
ありがとう
お返事ありがとうございました。「別の生き方へとすべての人をいざなつている」という復活のイメージに共感大なるものがあります。

>>それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです

私のキリスト教時間イメージで生きることに自信のようなものが生まれました。ありがとうございました。

433M.N:2010/01/07(木) 11:38:48
認識論と存在論
哲学でいう認識論と存在論はどう違うのでしょうか。
たとえば机の上にコップがあるとします。このコップがあるようにみえているが、
実際にはないというのが観念論で、あるように見えているし実際にもあるというのが
実在論とします。そこで認識論というのはコップがある(存在する)根拠を理路整然
説明するものだと思うのですが。そうであれば結局認識論=存在論ということにならないでしょうか。なぜ哲学では認識論、存在論などとわけるのですか。

434Sekko:2010/01/13(水) 23:45:39
存在論について
認識論と存在論の違いは、かなり大きな問題です。哲学的にも、コンセンサスなどありません。「認識論と存在論の違い」でネットで検索すれば、いろいろな考え方が出てくると思います。
 カントはそう言わないと思いますが、私はハルトマン風で、認識論は存在論を必要とし、認識し得うる関係の存在論だと思います。
 つまり、存在論はかなり形而上的な話ですが、認識論はもっとプラグマティックで、認識するものされるものとの関係性が問題になるからです。
 たとえば、M・Nさんが「存在している」かどうかは、少なくとも私にとっては、こうしてここで、私に問いかけてくださリ、私が答えることによって意味を持つものであります。逆に、ここを黙って見てくださっている他の方の存在は開示されない限り、私には意味を持ちません。私は最近、『無神論の系譜』(仮題)を脱稿したのですが、神の存在証明とか言うものも、そういう堂々巡りの連続でした。存在論と認識論と論理学の間を行ったり来たり。マザー・テレサが神を見失って苦しんでいたというのが、死後に、一部で話題でしたが、「聖人」と呼ばれる人たちで、神の存在に対する信仰は失わないけれど、神の不在(非存在でなく)に悩んだ人は少なからずいます。
 私の音楽の生徒で6歳の少女が年末、突然、サンタクロースは存在しない、と言った時、私は、存在の仕方にはいろいろあるもので、私は信じている、もしあなたの両親を含む多くの人が信じていなければサンタクロースは存在しなくなるんだ、と答えました。サンタクロースの名のもとに、子供を喜ばせたいと親に思わせるのガサンタクロースの存在の仕方じゃないかって。
 神には体とかないんですから、あるのは「情報の元」みたいなもんで、どこにでも宿せるから、自分の心に囲っておけるんです。
 最近、ウィルスは微小すぎて遺伝子のような情報しかなくて、ミトコンドリアのように、人間の遺伝子も昔からウィルスを取り込んでは進化してきた、今もひょっとして進化のヒントを得るためにインフルエンザ・ウィルスなどを取り込むのだ、という趣旨の医学論文を読みまして、神と似てるなあと思ったところです。ウィルスは「火星人の襲撃」のように、実体を持った「敵」でなく、からだの中で増殖するわけでもなく、体がその情報を次々とコピーしてしまうだけなんだそうです。他者による受容がその存在の根幹というか唯一の実体であるような存在もあるんだなあ、と思うこの頃です。
 質問の内容とずれてるかもしれませんが、クラシックな答えは他所で探してください。

435あがるま:2010/01/15(金) 04:56:20
認識論は心理学で
存在論は論理学です
バークレー僧正が『存在esseとは知覚されるpercipiことだ』と云つたことはご存知でせう。
存在を『がある存在』DaSeinと『である存在』SoSeinに区別するのは和辻哲郎以来だと思ひますが、それを適用すれば認識論は『である』であり存在論は『がある』になります。
アリストテレス以来の伝統では両者の区別はなく主語(基体)に述語を結合させた命題でもつて事態を端的に表現して居ました。
『存在は本質的に論理的であり、論理は単に主観的な心理現象ではなく、あくまで客観的な実在の表現』です。
ニコライ・ハルトマンはカントの存在論的解釈で『我々の認識が物自体の認識ではないならばそれは認識と云ふ事柄自身に撞着する』と云ふ訳です。
カントが『存在とは実在的な述語ではない』とか『観念論論駁』や『可能性の条件』と云ふのは心理学的解釈を擁護した訳ではありません。

436M.N:2010/01/15(金) 10:48:59
認識論と存在論
お二人に感謝します。ありがとうございました。

437あがるま:2010/01/26(火) 12:46:36
村上靖彦がブロッグで
滞日中のパトチカ(パトチュカ)の1月23日の講演に触れて居る。
彼に特徴的な現出と意味と存在の区別が不明確な『ノエマの現象学』が、フィンクの『自体的に現出する世界遊戯』に由来することは夙に新田義弘が指摘して居るが、クリマとパトチカの仏訳者が同じなのは重大な意味があるのだらう。

438あがるま:2010/01/26(火) 12:50:21
訂正
滞日中なのはプラハカレル大学のカレル・ノヴォトニKarel Novotnyです。
彼もクリマを読んで居るだらうから、今にクリマについても語りだすかも知れない。

439Sekko:2010/01/27(水) 20:08:08
分りませんよ
 エリカは年末ずっとプラハで、学会記録の翻訳チェックをしていたんですが、パトチカの専門家と同室に詰めていて、彼女の発行したクリマの本が書架にあったに関わらず、彼らは全く本の存在すら知らなかったそうです。でも、年末の滞在で、ずっと探していたクリマの文章が一つ見つかったそうで、収穫はあったようです。今この瞬間にクリマに興味を持っているのは、世界でエリカと私とあがるまさんくらいですよ、きっと。エリカはクリマの思想ついてあれこれ考えているのは自分の他は私だけだと言ってましたから。

440あがるま:2010/02/06(土) 22:33:18
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

441あがるま:2010/02/06(土) 22:36:11
クリマ、パトチカ、未知動物、神
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です!

<クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた − その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。

<パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト − 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 − に従つて考古学を研究して居たらしい。

<未知動物>
以前、史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの − 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) − と今でも思つて居る。

442Sekko:2010/02/16(火) 06:46:28
クリマは哲学者として認識されてましたよ。
 クリマの小説には確かにSMやスカトロジーのシーンが出てきますが、彼のソリプシスムと明らかに連動してる哲学小説の面があります。社会主義政権が倒れた後すぐにプラハのある出版社がクリマの小説を他の匿名小説と共にキッチュな小説として出しました。それで誤解を招いているのかもしれません。
 エリカのお勧めは1909年に彼が自分が神であるという啓示を得たときと並行して書かれた『チェコ物語』で彼の父親がモデルになっているようですが、その政治家のインセストシーンなど出てきます。でもその主人公は独我論にたどり着くのです。ストイシズムとマゾヒズムは同根で、神の創造の業はマゾヒズムの一種であり、クリマのソリプシズムも苦しみの中から生まれた、とエリカは言っています。『チェコ物語』は発見されている断片の半分くらいがチェコで出版されていますが、残りはエリカが持っているということです。
私は全集に入っている仏訳の Le Grand Roman を読みかけています。なかなか途方もないものです。

443金太郎とまさかり:2010/03/06(土) 21:17:27
(無題)
はじめまして、金太郎とまさかり、と申します
ハンドルネームで「申します」もないとは思いますが・・・

つい最近になって個人的事情によりキリスト教とものみの塔について調べていた時
竹下さんの「知の教科書 キリスト教」を書店で少し立ち読みしまして印象に残り
今は「カルトか宗教か」を拝読している最中です

著書の中の「人がカルトから離れるとき」の件で「エホバの証人」
と書かれているのですが「ものみの塔=エホバの証人」とはやはりカルトなのでしょうか?

私はものみの塔に関係している人間ではありません
古い知り合いが5,6年前からものみの塔に自ら入信し、活動に参加しています
その事はつい最近知ったのですが
話を聞くと社会生活からどんどん離れていってしまうようで心配でしょうがありません
今の今までものみの塔はカルトっぽいなと思っていましたがよく分からなかったし
とは言え、家族でもない自分のようなものが脱会のすすめなど到底出来ません
出来る事と言えば竹下さんの仰るとおりに自分のささいな日常を一方的にメールしていたくらいです
知人の親御さんは伝道を聞かない代わりに自由にさせているようです、話しを聞いた限りですけど

どうすればいいんでしょうか?
本音としては脱会してもらいたい
でも5,6年も教団の教えや仲間とのつながりの中で生きてきたわけですから
もう知人の血肉の一部になっていると思うんです

ひょっとして竹下さんにご相談する事ではないのかも・・・
もっとしかるべき機関に相談するべきなのでしょう
もう少し時間がたてばひとりでも今よりは冷静に考えられるとは思いますが

不適切な書き込みと思われましたらお手数ですが削除お願いいたします
では失礼いたします

444Sekko:2010/03/07(日) 07:22:16
難しい問題ですね、
 こればかりは万人向けの回答はありませんね。
 私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。
 私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。
 どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。
 私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。
 先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。
 とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。
 でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・

 でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。

 あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。

445金太郎とまさかり:2010/03/08(月) 00:14:38
(無題)
竹下さん、訳のわからない書き込みに早速お返事頂いて
本当に感謝致します
何度も読み返しています

今日友人ふたりにも話しを聞いてもらい
大分落ち着きました
そのうちのひとりはギリシャ正教やカトリック、プロテスタントに触れてきた人で
やはりものみの塔の事は良く思っていないようです
家族も巻き込むしね、と
竹下さんの仰るとおりに、カルトな宗教から奪還?させるような団体に相談してみたら?とその友人にも言われました
家族でもないのにそんな権利はないと思うとか信仰も古くからの知人の一部になっているから無下に出来ないとか本当にいろいろ話しました

そして話し合った末、当分の自分のスタンスとしては
キリスト教やものみの塔の組織の仕組みなどの知識を増やしつつ
古くからの知人が教団に飽きたり、疑問を持って辞めたりした時に(そうなるかどうかは皆目見当がつきませんが)
受け入れられる体制を作りたいと思います
私が根負けしないように、マイペースで行きたいと思います

今後もこちらのホームページは継続されていくのでしょうか?
何かあればまた寄らせて頂きたい所存です

446迷える大羊:2010/03/10(水) 22:09:36
教会との相性
 まだ、こちらの掲示板は「生きて」いますでしょうか?ワケあってキリスト教の世界に関わって数年。しかし、未だに受洗はしておりません。別にキリスト教とかイエスが嫌いとか賛成していない、というわけではありません、疑問はいろいろありますが・・。

 その理由(受洗)しない理由の一つは、合う教会がないってことがあります。私の経験、見聞の範囲では、老舗の教会、大手の教派というのは理性的。怪しげな要素も私的にアレルギーを催す要素はほとんどないのですが、概して形式的でお役所チックな面が多く、平たくいってしまうと「つまんない」。

 では、活気があって「楽しい」教会ならいいのか、といえば、そういうところは信仰面では恐ろしく保守的な場合が多く、たとえば、他宗教、日本文化に対し妙に排他的(お焼香は絶対できません、とか・・)、聖書を一字一句信じて、疑わない、やたらと神聖視する、とかでちょっとついていけない、と思わされる場合が多々ある。
 特に害がなく楽しければいいんじゃない、という意見もありそうですが、自分の宗教観や考えからあまりにかけ離れているのでは、周囲に合わせるのがつらいところ。

 「現役」のクリスチャンの方はこの辺り、どのように考えていらっしゃるのでしょうね?どこで妥協し、どこで譲らないのか?考えを聞いてみたいところです。

447Sekko:2010/03/11(木) 21:37:50
教会の選び方
 って・・・

 受洗によってある共同体に参加することは、ボランティアグループや趣味の同好会と違うのですからいろいろ比較検討して最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 また、社交クラブでもないのですから、楽しいとかつまんないとかの基準というのもまずいでしょう。それなら「サービス機関」として魅力的な営業努力をしているところが有利ですが、もうそれだけで、他の人(コミュニティの内外にかわらず)に心を寄せるという精神から離れそうです。

 とりあえずは、身近な教会に、人間として尊敬できて信頼できる先輩か指導者がいるかどうかが大切ではないでしょうか。また、今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると決めつけるような態度に出る人たちがいるの避けた方がいいでしょう。また、今の自分の状況にだけ照らし合わせるのではなく、たとえば将来育てるかもしれない子供たちによりよい世界観を与えてくれるかどうか、困難に出合った時に信頼できるか、とかも視野に入れればどうでしょう。

 それでも、「判断の誤り」はありますし、向こうも人間の集まりですから、カラーが変わったりすることもあるでしょう。今の、そして、今までの大羊さんの誠実な探求の姿勢を見る限り、たとえ、選択を誤っても軌道修正はできると思うし、ほんとうの意味でのキリスト者として成長し続けていかれると思います。

 参考に『自由人イエス』
 http://shop-pauline.jp/?pid=17548299

 をぜひお読みになってください。

 掲示板は不可抗力以外は、今のところ続けます。場所を改める時はここと、ブログでお知らせします。

448marie:2010/03/12(金) 09:14:41
土居健郎氏の場合
「甘えの構造」で有名な土居健郎氏が「信仰と『甘え』」春秋社をだしています。そのなかに学生時代の信仰遍歴が見事に書きだされています。土居先生は最初はプロテスタントでしたが、無教会の矢内原先生の門下生となり、最後にホイベルス神父に出会いカトリツクになります。その過程が「キリスト教と私」に書かれています。また内村鑑三の信仰遍歴の記述も見事です。大羊さんの迷いは「あれか、これか」ですよね。信仰はその二分法が崩れたところから発生します。そこで出会う人が本当に信頼できるかどうか、ここが鍵でしょうね。信頼できれば、飛び込めます。信頼できなければ、まだ遍歴をくりかえすのがいいでしょう。土居先生は遍歴の果てにたどりついたカトリツクから生涯離れることはありませんでした。ホイベルス神父のいう「懐かしき神」に生涯ひかれておられたことが他の本でもよみとれますし、70歳以後、信仰問題をどしどし発表されていますが、「本来の面目」といえるものがそこに脈をうつて、つたわつてきます。
信仰は毎日、しらぬうちに育つもので、その育ちにアツと気がついたとき、貴方は「神の国」にいることでしょう。

449Sekko:2010/03/12(金) 19:49:20
信頼
 marieさん、ありがとうございます。

 私の体験だけで言うと、私の信頼感をそそる人たちは、全然排他的でもなく、「自分の宗教」に私も入信すればいい、と誘うようなことは言われたことがありません。また、私は個人的にあらゆる種類の「勧誘」が好きではないので、誘われると引いてしまうし、信頼感も薄れます。宗教の中には一定の様式の宣教や布教やある種の実践を一般信者にノルマとして課しているものもあり、そういうのも私は苦手です。「信じなければ不幸になる」「信じれば幸せになる」というタイプの説得もいやです。

 しかし、周りのだれも助けてくれない時に、そういうグループだけが手を差し伸べてくれるという状況の人もいるわけで、その問題は大きいと思います。結局、「所属している共同体」に関わりなく、「自分よりも困難な状況にいると思われる人たちが必要としていることを少しでも提供できないか」について各自が意識することが大切なのではないでしょうか。

 何々派はここがよくて何々派はここが悪いとか比較検討し始める時点で、何か本質的なものを見失ってしまうかもしれません。

450迷える大羊:2010/03/13(土) 23:16:24
すみません、よくわかりませんでした
 お相手ありがとうございます。「つまんない」とか「楽しい」というのはちょっと語弊がありましたね。もちろん、同好会などと同等のレベルでそんなことをいったのではなく、なんていったらいいのか、「得るものがあった」という歯ごたえというか、出会いというか、うーん、私の乏しいボキャブラリーではちょっと表現が難しいです。

>最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。

 せっかくお答えいただいたのに申し訳ないのですが、この辺りがよくわかりませんでした。そんなものは、それこそ神様が決めること、自分の頭で考えたり、吟味してみるという行為は、神様に対して「無礼」というか、おこがましい行為ってことなのでしょうか?。
 確かに教会でも、職場でも自分の希望とか考えとか要望とかなどと、100%合うところなんてありえないよ、ということ、理屈でどうのこうのいう世界ではないよ、ということくらいはわかりますが・・。

>今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると

 あからさまにそのようなことをする教会とか信徒とかに出会ったことはありませんが、遠回しにはあります。また、身内がクリスチャンってことで、私がクリスチャンになることは当然、そうでないとうまくいかないよ、みたいなことを言われ、反発を覚えたことはありますね。逆効果っていうか、却って意地でもキリスト教など近づかない、少なくともこの教会には関わらない、と思ってしまいました。

 >信頼できる人

 これも、難しいですね。人柄的にはいい人、見習う点も多い人だけど、信仰面ではとてもついていけない、ってことはありました。具体的には、すでに何度かお話しているかと思いますが、他宗教とか日本の風習についてあまりに排他的で、七五三などはもちろん否定、「仏式の葬儀にはなるべく出ないで済むようにする」とか「神社仏閣に行くと気持ち悪くなる」なんて話を聞いたときには、あまりの感覚の違いに頭がクラクラする思いでした。それなら、クリスマス(元はローマの異教の祭り)も止めたら?といいたくなる衝動を抑えるのに苦労したものでした。
 自分は別に仏教や神道とは何の関わりもシンパシーもないのですが、どうにもこういう考えとか感覚にはアレルギーがありますね。

>子供たちによりよい世界観

 私自身、大した世界観なんてもっていませんので、これも考えてしまうところです。ただ、「神社仏閣に入ると気分が悪くなる」みたいな感覚だとか「聖書に書いてあることは絶対正しいんだ、創造説を学校でも教えろ」みたいなことを自分の子供に吹き込まれるのは、頼むから勘弁して、とは思いますね。

 どうも、言われていることが今一つピンと来ず、私にとって、まだ信仰の世界というのはよくわからないもののようです。ところで、世間一般的に宗教とか信仰、というと、「何か不幸に遭ったのか?、つらい目にでも合ったのか?」と思われることが多いし、実際、そういう人の心のスキマにつけ込む怪しげな団体も多々あるのは事実。

 で、私として、実際に信仰を持たれている方にお尋ねしてみたいのは、信仰を持つきっかけとして何か「不幸なこと」に遭われたのですか?ということ。やっぱり、そういう目にでも遭わない限り信仰の世界というものは理解できないものなのかな?と思ったりもしますね。プライバシーにもかかわりますし、聞き方によっては、ある意味失礼かもしれないので、面と向かってはなかなか聞けなかったりするのですが・・。

451Sekko:2010/03/16(火) 09:10:10
こちらこそ
 分かりにくくてすみません。

 確かに、生まれ育った環境で自然に家族や地域の信仰となじみがあればすんなりいくんでしょうが、大人になってから、そういう絆のない宗教と関わるというのは、「自然」ではないのかもしれません。
 若くて元気で人間関係にも金銭的にも物質的にも不自由してない人は、とりあえず宗教とか信仰とか、「必要ない」かもしれません。「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 ただ、だれでも、いつまでも若くて元気でいることは不可能ですし、事故、災害、大病を避けられたとしても老いや死は絶対来るわけで、自分だけでなく、親や子や連れ合いを亡くすことだってあるわけです。そういう局面において突然、宗教に勧誘されたりしたら、藁をもすがるって心境になるかもしれないし、病気の治癒に関しても、変な薬や代替医療やあやしい祈りや信心グッズに騙されるかもしれません。そういうことを避けるためにも、元気なうちに危機管理ということで、信頼のおける宗教と冷静に関わっておいて、それを周囲にもそれとなく言っておくのがいいと私は思いますが。

 たとえば両親が交通事故で同時に死んだ場合に、宗教がばらばらだと子供たちが困るだろうからそろえとくとか。別の例で、子供がいつもマジョリティの立場にいるのは教育によくないからあえて日本ではマイノリティなキリスト教のコミュニティに入れたという人もいます。反対に、フランスの日本人で、マイノリティで異文化だということで周囲に溶け込めないのがハンディだからマジョリティのカトリックの洗礼を受けたという人もいます。日本の女性ではやっぱりミッション・スクールに通って影響を受けたという人が多いのではないでしょうか。でも、全然関係ない普通の高校で、文化祭の時に何かの道具を借りに近くの教会に寄って、それが縁でついにシスターになってしまったという方もいらっしゃいます。

 まあ、この話は、内的な信仰の問題と宗教コミュニティの選択の問題が混ざっているので、人生の危機管理として、両方ともに、割り切って考える必要があります。家族代々の宗旨でも、今は共同体が崩れて、葬儀の時は葬儀ビジネスに取り込まれて悲しみに付け込まれて搾取される、ってこともありますし。私は自分の親が、自分たちの信仰は押しつけませんでしたが隠しもせず、葬儀の形とかも全部決めて置いてくれていたので、すごく気が楽でした。見送る方から見て、病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ただ、大羊さんの問題は、これまでの経緯から想像しますと、奥さまがかなり熱心な共同体活動をしていてそれが生活の一部になっていて、大羊さんが、少なくとも同じ神を信じてくれないと完全に一体化できないというか落ち着かないというか、ということで、プレッシャーがあるのかもしれません。

 でも今の日本では、夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし、片方の宗教が閉鎖的な場合は、バランスをとったり、いざという時の受け皿としてもう一方はアバウトで寛容な共同体を選んでおく、というのがいいかもしれません。そもそも大羊さんが奥さまの宗教に無批判に飛び込むのが可能なタイプであれば、もうとっくに入信して二人で何の疑問もなく熱心に活動してるはずです。これだけいろいろ迷っているということは、「かなり無理」があるんじゃないでしょうか。でも、今大羊さんが、奥さまの宗派から敵とみなされているような宗派に入ってぎくしゃくするか、奥さまが最終的に今の宗派から距離を置いてもらえるか、あるいはいっそギリシャ正教とかロシア正教とかの方が緊張が緩和するとか…今のお二人の信頼関係が宗教についてどういう感じなのかよくわからないので、なんとも言えませんが、とにかく互いに互いを尊重し合えて、譲歩もし合えるのが大切で、支配関係や依存関係にならないように注意しなくてはなりませんよね。愛し合っていっしょになられたお二人の仲を気まずくさせるような神さまなんて意味ない気がします(すみません)。

 少なくとも、家庭内政治判断が困難で迷っている間は無理に決めなくてもいいんじゃないでしょうか。私には、正直言って、今のところ「不幸にも遭わずつらい目にもあってない」大羊さんが「信仰が分からない」というのは、別にそれはそれでいいと思いますが。他の人間とどう関わってどう生きるかのほうが大事ですよ。

452迷える大羊:2010/03/16(火) 22:39:27
またまた、すみません
 いつも、答えづらそうな質問に丁寧に対応いただき恐れ入ります。ちょっと、くどくなるかもしれませんが、キリスト教とか信仰の世界をまったく否定的にみている、なんてことは決してありません。キリスト教にしたって文化とか思想としては大いに肯定しています(本当ですよ)。

 また、「不幸云々〜」などという話を他人事のようにお話しましたが、私だって悩みもあれば劣等感もありますし、人生の上で大失敗、失策も数多くしでかしてますし、自分の力だけで人生を切り開いてきた、なんて自惚れているわけでもありません。
 遠藤周作氏の信仰、キリスト教エッセイ「私にとって神とは」は非常によく理解できましたし、だから、「信仰」に頼る人々の気持ちが100%全くわからないわけではないとは思っていますが・・・。

>病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。

 ちなみに私の母親はとある仏教系の宗教団体の信徒です。別に彼女は信仰を私に押し付けたりしません。だからこそ、単なる私自身の好き嫌いではなくキリスト教でも、あまりに他宗教への考え方が排他的すぎる教会とか教派は困るのです。

>夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし

 私もそう思うんですが、保守的なキリスト教会とかクリスチャンはそうは思わない、クリスチャンファミリーの形成に熱心な方が多いみたいで、彼女の母教会が所属する団体から、「クリスチャンでない家族を持つ女性へ」(特定の団体についてあれこれいうことが目的ではないので、題名はぼかしてます)なんて本が出てまして・・。要は身内がノン・クリスチャンである、ということは彼らには「試練」らしいんですね。思ったほどには独りよがりな内容ではなかったですが、やっぱりよくわからない感覚で、そんな、家族、夫婦といえど、心の内面まで同じにできるわけないじゃないか、自分に合った信仰を選ぶ(「選ぶ」って不遜ですかね?)より他ないじゃない、というのが私の感想でした。

 実際、私がクリスチャンになったからといって、同じような「信じ方」をするとは限らないし、なまじ同じ神様を信じてる、ということで却ってその「違い」が目についてしょうがない、ってことになりそうな気がしないでも・・。
 実際、私の見聞、独断と偏見ではクリスチャンとかキリスト教徒といっても、「イエスを救い主とする」「使徒信条の内容を肯定する」以外には皆、信仰面でも政治面でも右から左までバラバラ、(非クリスチャンと比較して)特別な要素は何もないと思いますし、皆、クリスチャンになればうまくいくってことなら、世界の三分の一(クリスチャンの世界人口比)は平和で離婚もないってことかい?とシニカルなことを思ってしまいますね。

 あと、もう一つ、ご質問してみたいと思うことに「信仰を持つ」ってことは(神とか聖書とかイエスに対し)「疑う」とか「自分で考える」ってことをやっちゃいかんのかなぁ?ということですね。それこそ、自分の目で冷静に各教会を比較してみたり(別に優劣を比較しているわけではないですよ)、こちらの質問箱でもたびたびしたような、聖書の矛盾点とかトンデモない部分について質問したり(ちなみに彼女はこれやるとイヤな顔、というか「キリスト教批判」と受け取るみたいで、こちらは困惑するのですが・・・)するってことは「神への冒涜」になるんですかね?

 聖書に書かれていることなら(現代の感覚、常識、非クリスチャンからして)どんなに無茶苦茶だったり、奇異に感じられることでも、「これは意味のあること」「誤りなき神のみことば」と信じることが「良き信者」なのですかね?
 なんていったらいいのか、その辺りの感覚も私にはなかなか分からない点でもあります。

453Sekko:2010/03/18(木) 06:56:07
信じること
 信じることとは、何かを字義どおりに刷り込むことではなくて、それによって生き方の変容になるとか世界の見方が変わるとか行動の指針になることだと思うんですよね。変な例えですが、小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね。ま、クリスマス禁止とか神社参拝禁止って宗派もありますけど。

 何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、真偽なんて優先しないこともありますし、逆に、「何々」を頭から信じるかどうかによって人を裁いたり排除したりするようなシステならは、それはただの「何々」への偶像崇拝じゃないかと私は思います。

 大羊さんが今抵抗を覚えているということは、その「何々」を信じる、認めることが第一義かのようにふるまう人がいるからじゃないでしょうか。

 イエスは、天国に行けるのは洗礼を受けた人だとか自分を信じる者だとか言わず、飢えた人に食べさせ、渇いたいた人に飲ませた人だと行ってるし、何よりも偽善や形式主義を嫌ってたと思います。

 今の時代にキリスト教のドグマをどう考えるかということについて、4月10日発売のカトリック生活5月号で私の考えを書いてますので、チャンスがあればお読みください。

454迷える大羊:2010/03/20(土) 22:21:30
自然が一番ですね
 お忙しいところ恐れ入ります。

>小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね

 そういう力の抜けた自然な信仰なら、ああいいよね、と思うんですけどね。お焼香がどうのこうの、という話も別に何が何でも世間一般に合わせろって思ってるわけじゃないですよ。江戸時代の「踏み絵」だとか戦時中の神社参拝みたいに、明らかに信仰を試す意図がある、キリスト教信仰にケチをつける目的があるものなら、そりゃ拒否するのもやむなし、とは思いますよ、私だって。
 でも、そういう意図が全くない、こちら(クリスチャン側)がどう思おうが、あちらは単なる習慣、文化としか思っていないことにまで、やれ異教がどうのこうの、だの偶像崇拝云々なんて感覚はやってられないし、率直にいうとええ加減にしてくれよ、という感想しか湧いてこないです。

>何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、

 そうですね、そんな「信仰」が見つけられるといいですね。私の場合は、公正さとか優しさももちろんですが、「強さ」も欲しいです。もちろん、権力とか地位、という意味ではなく、なんていったらいいのか、困難や理不尽にめげない、うろたえない精神力というか、そういったものですが。

 話が脇道にそれますが、今の職場の上司はクリスチャンみたいですが、別に「イエスの精神を体現した」「立派な人物」か?というと、それははなはだ疑問(笑)、どちらかといえば、面倒は部下に押し付けるタイプで「ちょっとあんた、神様はなんでも赦して下さる」なんて開き直ってるんじゃあるまいな?、と思わされることが・・・(笑)

455迷える大羊:2010/04/10(土) 18:13:54
多子とカトリック
 最近、少子化に関する論議がかしましい日本ですが、その逆、つまり人口増加、子沢山が問題となる国々について。
 先進国と違い、発展途上国というのは多子とか過剰な人口増に悩む国々が多いわけですが、多子と宗教ってどのくらい関わりがあるものなんですかね?たとえば、フィリピンあたりなど、宗教がカトリックで、カトリックでは避妊・中絶厳禁であるために、多子となりがち、などという説明がされますが・・。

 でも、一方で、カトリックの本家本元、ヴァチカンのおひざもとのイタリアは世界的に出生率が低い方に属しますし、フランスについてもかの国が爆発的な人口増加に悩んでいる、などという話は聞いたことがありません。
 あと、カトリックだからすべて避妊反対、中絶反対というとそうでもなく、10年位前、米国大統領選でブッシュの対抗馬であったケリー候補はカトリックでしたけど、確か中絶容認派でしたし・・。
 こうしてみると人口問題とか少子化、多子化に宗教、信仰はあまり関係ないのかな?と思ったりもしますが。
 実際のところ、家族計画とか問題に宗教、信仰というのはどこまで関係があるものなのでしょうか?
 さらに、実際のカトリック信徒にとってヴァチカンの動向、方針というのはどれほどの影響力をもっているものなのでしょうか?個人的な見聞の範囲ではあまり関係なさそうな感じもしますが・・。

 それにしても、現教皇は私の知る限り(カトリック信徒には)不人気ですね〜。思想とか信仰面では前任者(ヨハネ・パウロ?)も現教皇も大して変わらない気がしますが、やはり空気を読むというか、人の気持ちをつかむ能力面が人気の差なんでしょうかね?

456迷える大羊:2010/04/10(土) 19:15:19
現世利益
連続投稿失礼します。

 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 以前のご質問で御回答の中に、上のようなお言葉があり、ちょっと気になりました。教会なんかに行くと、確かに「キリスト教は現世利益を追求する宗教ではない」とよくいいますし(まあ、普遍宗教はみなそうだと思いますが)、それを誇りにしてますよね。
 そりゃ私だって、年がら年中「金儲けたい」とか「病気退散」みたいなことを露骨にいってる宗教って「胡散臭いな」とか「下品」で宗教としてレベル低いんじゃないの?思ったりします。
 でも、一方でそういった(現世利益)を全く気にしない、そんな「煩悩」とは100%無縁に信仰を得られる「立派な人」って一体どれくらいいるんだ?という疑問が・・。

 天国に行けるとか、(たとえ気休めであっても)安心が得られる、というのも立派な「御利益」じゃ?と思ったりもしますし、100%「御利益」というものを心の底から否定できる「立派な人」ならそもそも宗教とか信仰なんてはじめから必要ないんじゃないの?と思ったりします。
 つまり、よほど立派な、強い人間でない限り、ある程度は宗教とか信仰に「御利益」を期待してしまうのは人間の性みたいなもんで、それはそんなに悪いことなのかな?(もちろん、度を過ぎているのはバツですが)、という疑問がわきます。
 実際、聖書とかキリスト教が全くそういう現世的なことを軽んじているのか?というとそうでもないような・・。たとえば、ルカの福音書などカネの絡んだ話が結構多いし(無くした銀貨を見つける話とか、塔を立てるために費用を見積もる話とか、遺産を使い込んだ放蕩息子の話とか、借金をごまかした不正な管理人の話とか)、主の祈りでは「日毎の糧を私たちにお与えください」としっかり祈りますし。

 宗教改革、というかルターのカトリック告発のきっかけとなった有名な「免罪符の発行」も見方を変えれば「(罪からの解放、救いを手軽求める)一般大衆のニーズ」に応えていた、という面も無きにしもあらずかも?と思ったりします(いいのか?こんなこといって)

 話をまとめると、現実のクリスチャンの皆さんは本音部分で誰もが期待すること(御利益というか自分の個人的な幸せ、救い、安心の追求)と、なんていったらいいのか?キリスト教の理想の部分とをどのようにしてバランスをとってますか?
 また、本音の部分で「神様、仕事うまくいきますように、給料上がりますように」なんて祈るのは「悪いこと」ですかね?まあ、あまり露骨なのはキリスト教云々に関係なく、下品だ、とは思いますけど。

457Sekko:2010/04/11(日) 01:18:46
子沢山の問題
 子沢山の問題は、昔はともかく今は、貧困の問題が大きいでしょう。医療が発達して、平和で、生存チャンスの大きい国では、普通子供の数は減りますよ。そういう国ではむしろ有産階級が既得権を継承させるために子沢山のような。アフリカの一部なんかでは、今も、少女が12歳くらいから毎年のように子供を生み続け、その多くは破傷風やマラリアのために育たず、母親は30歳くらいで消耗して死んでしまうというケースはあります。エイズの蔓延ももちろん。

 そういう国を救うのは女子に教育と保護と現金収入を得る労働を与えることです。これで出生率は下がります。

 アフリカで活動していたカトリックのシスターは避妊具を配布していました。エイズの予防のために、バチカンが避妊具禁止を目立って唱えないという具体的な合意も前教皇との間にできていて、その後ではノーコメントが続きました。それなのに、B16は、「避妊具は解決法ではない」とコメントしたことに尾ひれをつけられて大騒ぎになっています。避妊具禁止といったわけではなかったのですが。脇が甘いのは確かです。彼がなぜメディア受けしないのかというのを分析した本も出てるほどです。

 フランスの司教会議(フランスカトリックの最高決議機関)なんかではエイズ予防の避妊具OKでしたし、それも、しょせん多数決の決定。ヴァティカンの見解も多数決ですよ。直接ドグマに関わることじゃなければ当然政治的力関係で決まったりします。いわゆる一般信者と言えば、カトリックがデフォルトの村とかで、子供の作り方を教会にきく人なんてもちろんいませんよ。

 でも、ほしくなかった子供が生まれて育てざるを得ない状況の人とか、社会の犠牲になる子供たちとかがいる場所で、「新しい命」は無条件に尊い、と言いきってくれる宗教の首長がいるのはいいことだと個人的には思います。

458Sekko:2010/04/11(日) 02:00:04
ご利益
 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。

 と前に書いたのは、別にキリスト教系で拝みに行かなくても手近なところがたくさんあるのだから、という意味で、キリスト教がご利益を否定してるという意味じゃありません。まあ、その出発点においては呪術否定、偶像崇拝を否定してる宗教ですが、前ヨーロッパでキリスト教がデフォルトになった時点で、これはもう何でもありに向かうのは当然で、早い話がすべての巡礼って、「奇跡」という名の「ご利益」を期待してると思います。ご利益を得たお礼の巡礼もありますが。
 つらい時にそこから解放されたいのは自然ですし、イエスも治療者として崇められていましたし、それにあやかりたいのは必ずしも誤りじゃないと思います。福音書の中のカネテーマはまあ、例えだと思います。やはりそういう例えが一番人々の実感に訴えたんでしょう。免罪符の乱発は、確かに信者のニーズに応え、封建領主でもあった教会の財政対策だったんでしょう。今でも、どこそこに巡礼したら罪が軽減されるとかちゃんと書いてありますよ。今はそれで金もうけしてないし、詐欺にもなりかねない奇跡や成功の保証じゃなく、教会の守備範囲の「免罪」なんだから、無害な「ご利益」だと思います。

 ご利益を求めるのは人情でも、「他人の不幸」を願うのはペケで、自分の幸せが他人の不幸と連動しているような「ご利益」を願うのは間違いで、それに応えるのも間違いだと思います。だから、病気平癒を願ったりするのはOKで、戦勝祈願とか優勝祈願とか、敗者を必要とするものは基本的におかしいし、入試なんかの合格祈願っていうのも微妙だなあと思います。
やっぱり平和を祈ったり、試合や入試の時期に風邪ひいたり故障のないことを願ったり、実力を発揮できますように願ったりすべきですよね。ジャンヌ・ダルクが一方的に「イギリス軍出て行け」って、神の名のもとに軍を率いたのも、歴史の文脈の話であって、キリスト教の本質的にはかなり「それでいいのか?」っていう気がします。

 私は個人的には「本音の部分」で自分の幸せを祈るってことはないです。本音をすなおに探ると、神さまが私のような中途半端な人間の願いとか気にとめるわけないだろ、と思うからです。絶望的な状況で必死に祈っている人々を有名教会で見かけると、ほんとに、私なんかはスル―していいから、この人たちをなんとかしてあげてって、気はします。その時に、「この人たち、本気で奇跡が起こると思っているのかなあ、単純すぎ」とかは思いませんね。ただ、本気で祈る人を見ていると、ますます、私のようなヌルさでは自分のことは祈るのも無駄、って思います。

 大羊さんの前途に聖霊のお恵みがあって、大泉さんにとっての世界がクリアに見えてくるようにとお祈りします。(これでも人のためにはすなおに祈れるんですよ、ま、私のフォローなんてそれこそご利益なさそうだけど)

 あと、私のためにいつも祈ってくださるという型が複数いらっしゃって、それを聞くたびに元気がでます。ありがとうございます。これが私にとってほんとうのご利益です。

459迷える大羊:2010/04/11(日) 22:32:01
人の為に祈る
 というのはいうまでもなく、キリスト教とか普遍宗教の良き部分ですよね。ええ、それは十分認めます、わかります。でも、議論を仕掛けたり、ケチをつけたりするつもりはもちろん、全くないのですが、「本当に心の底からそんな心境になるものなのですか?」という疑いが抜けない、というか信じられない感じですね。

 うーん、私などは自己中ですから、口では「〜さん、祈ってますよ」といっていても、本音部分では「自分の願望、都合」優先になってしまいそうです。というか、そんな「立派な人々」に囲まれていては、「罪深き私ごときが同席してよろしいのかしら?」ってことで却って落ち着かないことこの上ないような気も・・・。

 あと、私の知るクリスチャンってそんな立派な人ばかりだったかなぁ?つい先月まで、私の上司だった方もクリスチャンだったけど、責任回避が得意技でおよそ人の為に祈る、というタイプではなかったような・・(笑)。洗礼、といっても人格改造とか洗脳とは違うわけですし、水かぶったくらいで都合よく変われりゃ苦労しないよ、とシニカルなことを思ったりもします。

 現教皇は、独断と偏見でいえば、実際に現場で実務で信徒と触れ合ったり、向きあったりした経歴・経験が少ないのが、KYだったり脇が甘かったりする原因の一つかも?と思ったりしますね。学校で教えている方が向いているような感じも。意外と本人も「(教皇に)向いていない」と悩んでいるんじゃないかな〜、なんて思ったりします。

 あと、蛇足ですけど、このサイトでフランス事情についてもいろいろご質問させていただいたものですが、本日、教会で初めて「リアル」のフランス人と話しましたね。日本語はペラペラでした。バイトをしつつ日本とフランスを往復だそうで、なんか自由人してていいなぁ〜、若いっていいよねぇなんて思ったものでした。
 国籍を問わない知人のネットワークが広がる、というのもキリスト教はじめとする「普遍宗教」の「御利益」、ですかね。

460Sekko:2010/04/12(月) 05:50:52
人のため
 「情けは人のためならず」って言葉を間違って解釈する人が多いって話を聞きますが…なんていうか、「人のために祈る」方が「効く」ような気がするんですよ。きれいごとは別として、自分より大切な人のために必死で祈るというのは、見ていても感動しますし。
 大羊さんは時々、「立派な人たち」に対する違和感を表明なさいますが、そんな「ぼくたち立派な人」オーラを出している人たちが周りにいられるんですか? そんな清らかな自信に満ちているグループがあれば、私はすぐうさんくさく思ってしまいます。それだけでありがたみが消えますよ。

 でも、私のために祈ってくれるという人には、すなおに感謝です。ほんとに私が自分で祈るより「効く」気がします。毎日の幸せ度だって、何か自力で「立派なこと」や「満足のいくこと」をすることより、ひとからちょっと優しい声をかけてもらったり、気にかけてもらっていたり、ということの方がじーんときます。私には「神と私」みたいな関係性ではだめなんです。人を介在させないと、自己中というより自家中毒起こしそうで。立派でなくとも自分のできることで人とつながっていればいいんじゃないでしょうか。私がここでこれを書いているのもそのためです。少なくともこれを書いている瞬間は、私の中の優先順位は、仕事よりも家庭よりも大羊さんです。特に立派でなくとも、みんなが、だれかから声をかけられた時に少しでも、ちゃんと振り向いて時間を分け合う、っていうのが、多分、一番たいせつなことです。

461迷える大羊:2010/04/12(月) 22:59:13
なるほど
 いつもながら、お忙しい中、お相手すみません。

>立派でなくとも自分のできることで

 なるほど、これなら理解はできますね。いきなり、マザー・テレサだのコルベ神父並みの利他精神を発揮せよ、などといわれたらそりゃビビりますし、多分自分は死ぬまで無理だろうって思いますが。
 まあ、周囲に「ぼくたち立派な人オーラ」を発する人はいないけど、クリスチャンという立場をやたらと強調する、特別視する人は確かにおりますね。何かというと「クリスチャンとして〜」みたいな枕ことばがでてくるみたいな・・。

 聖書にもありましたね、確かヨハネ福音書だったか「新しい戒律を与えよう、お互いを愛せというものだ」とありましたね。しかし、単純そうで、実はそれが実行が一番難しかったりすることを日々実感する毎日です、私にとっては。やっぱり、好き嫌い、ねたみ、ひがみ、嫉みといった煩悩とか罪からはなかなか自由にはなれないものですね。

462:2010/04/17(土) 08:51:52
悪魔祓いについて
竹下節子様
はじめまして。竹下さんの著書をいくつか拝読させていただいています。特に「聖女の条件」が面白かったです。今回お尋ねしたいことは、悪魔祓いについてです。といっても唐突なんですが、私の親友の日系ブラジル人女性は、日本で就労している日系ブラジル人たちの間で雨後のたけのこのように乱立している福音派教会に出入りしているのですが、どうもそうした教会では、牧師さんがひんぱんに悪魔祓いをするようなのです。先週その友人が、個人宅でおこなわれる祈祷会に参加しました。彼女自身は、いつも悪魔祓いについては私に詳しく語ってくれたことがありません。ただ、牧師さんが彼女の頭に手をのせて祈られると、その場に倒れてしまうと、私に語ったことがあります。で、その祈祷会には、彼女の息子と娘(21歳と19歳)も参加して、娘さんが私に、祈祷会でのできごとを語ってくれました。やっぱり悪魔祓いで、息子さんが牧師さんに祈ってもらうと、息子さんは人がかわったようになってうなり声をたてたりし始めて、最後には飛び跳ねたかと思うと床に倒れた、というのです。悪魔祓いはカトリック教会でも昔はおこなわれていたけれど、今では大部分の神父が無関心か無知かまったくその分野は廃れてしまったが、プロテスタント教会のある派では成功を収めていると、読みました。(ガブリエル アモース神父の、エクソシストは語るという本です。この本を読んでもまだ当惑しているのですが。)ブラジルはどうも、交霊術なんかがさかんな土地らしく、悪魔祓いにも違和感なく彼らは応じているようなのですが、日本人の私には一種のカルチャーショックで、いったいどうとらえていいのかわからないのです。悪というのは確かに私たちの心の中にある、原罪というか、自己中心性、嫉妬とか優越感とかいろいろあると私は思うのですが、友人のブラジル人は、悪霊とか悪魔という言葉を頻繁につかいます。実際には悪魔そのものを意味するdiaboとは言わず、敵を意味するinimigoを使うのですが。それは、例えば精神病とか貧困とか逆境とかの原因という意味のようです。私には、悪を、悪魔と悪霊につなげる思考回路が欠けているのか、彼らブラジル人の厳しい現実(失業、将来の見通しがたたないことなど)と悪魔祓いはセットにして考えるべきなのか、私の頭の中では整理できていないのです。カトリック教会でも聖霊刷新運動がありますが、悪魔祓いはその聖霊による癒しと同じレベルのことと考えればいいのでしょうか?

463Sekko:2010/04/17(土) 20:18:34
セニョーラさま
 衛星放送で、福音派のミサの度の悪魔祓いのシーンを延々と流している番組を見て驚いたことがあります。按手されるだけで、叫ぶ人もいるけれど、とにかくみなが、意識を失って(と私には見える)後ろにまっすぐ倒れるので、背中を支える人が必ずついていました。で、みんな一列に並んで、はい、次、はい、次、という感じでバタバタ倒れるので、なんだか師匠に受け身の稽古をつけられてるみたいな感じでした。

 キリスト教だけでなく、シャーマンの修行にも似たようなのはあるし、ヤマOシとかでも、他の宗教のイニシエーションでも、とにかく、いわゆる「変性意識状態」、トランス状態を作り出すノウハウやプロセスはいろいろあります。ある種の代替医療もそうですし、心身症には自己暗示が効くかもしれません。

 いいか悪いかは一概に言えないと思います。宗教ではそういうのと、浄不浄とか罪の意識とかを合わせられることが多いので、マインドコントロールにつながりやすく、リスクは大きいと思います。特に、子供や若い人は、近付かない方がいいと私は思いますが、ケースバイケースでしょう。カトリックの洗礼式でも悪魔祓いが込みですが、ドラマティックなことはおこらず、普通のお祈りといった感じです。カトリックの今のエクソシストは精神科医や心理学者とも連携してますし、演出によってショック療法をするというのはもうないでしょう。ただし、ブラジルなんかでは、福音派の派手なパフォーマンスで信者を失いはじめたカトリック側が、同じようにいろんな面で派手な演出をして人心を取り戻すという動きもあります。

 まあ、シエナのカタリナとか、やはり聖体を口にするだけで毎回失神していた聖女もいるので、どんな状況でも「入れ込んでしまう人」とか体質はあるんでしょう。それは必ずしも「聖女の条件」じゃないですけれどね。

 大人が、他に弱みを付け込まれて洗脳されるという状況ではなく、自分の意思で何か(セラピーとか儀式の参加)を選択するのは自由だと思います。でも、それによって家計が圧迫されたり、社会生活や家族関係に支障をきたすようなのは要注意だと思います。

 ブラジルのように、一定の文化やメンタリティのもとに、経済や政治の問題が加わって、多くの人が極端に流れるというのは、また別の大きな問題があって単純ではありません。悪を特定のだれかに託して、スケープゴートのように葬ったり、軍事攻撃をしかける、などというよりはまだ、抽象的な「悪魔」とか「敵」とかに託して「祓う」方が、害は少ないと思います。

 でも、とにかく、今現在、生き難さを感じている人に「それ、おかしいだろ、目を覚ませ」とかいうのは、それこそ代替案なしには無責任なことで、とりあえず「悪魔祓い」の必要を感じないで生きていける余裕のある人間が、彼らの状況の改善に向かってささやかでも連帯することしかないんじゃないかと私は考えます。

 そういうことを視野に入れながら、親友の方の生活上の困難に力を貸してあげ続けていれば、ほんとうの信頼関係は、少しずつ築かれると思います。悪を祓うより、善意の輪を育てる方が、最終的には、きっと強いですよ。

 セニョーラさんのような方たちが、日系ブラジル人のコミュニティと連帯して問題解決のための何かをやっていくようなNPOも、ひょっとしてもうあるかもしれませんね。

464セニョーラ:2010/04/19(月) 08:08:33
Sekkoさま
お忙しい中、お返事ありがとうございました。お返事いただいて、少し頭の中が落ち着きを取り戻したように思います。親友の日系ブラジル人k子の出入りする福音派教会は、「カルトか宗教か」で教えていただいたような、カルトに値するようなところは今のところは見受けられません。悪魔祓いを別にしてひとつ気になることは、心療内科に通うk子は双極障害と診断されて服薬を続けていたのが、教会に行きだしてから「私はもうイエスに癒されたの。だからもう薬なんて必要ない」と勝手に服薬をやめてしまって、お医者さんが困惑されていることでしょうか。病気が病気なので、いつ彼女の症状が元にもどってしまうか、私も正直はらはらしているのですが。ただ彼ら福音派教会の、同胞に対する連帯意識は本当に見ていて感心させられることも多いのです。おととしからの経済危機で、困窮しながらも滞日を希望する人たちに対して、物心両面での貢献には目を見張るものがあります。もちろんそれは、彼らの教会のもつ豊富な資金力のなせるわざだと言えばそれまでなのですが。悪魔祓いに関しては、竹下さんが言われた、他国を悪とみなして攻撃するようなメンタリティに比べれば、はるかに害が少ないということを忘れずにいたいと思います。そして、ブラジルの宗教事情を理解することは容易でないということも。このことを忘れずにいれば、私も彼らの悪魔祓いに対してうろたえずに一定の距離をもって見つめることができるような気がします。日系人向けのNPOは少しずつですがいろいろ生まれているようです。私はそんな大したことはできていませんが、個人的には微力ながら格安でのちょっとした書類の翻訳とか医療通訳をしています。でも日本の社会ではその存在が忘れられがちな彼らへの援助だけでなく、連帯をこれからも模索していきたいです。ありがとうございました。

465:2010/05/08(土) 18:31:46
宗教という機関について
Sekkoさん(は竹下節子さんでいいんですよね…?)の著書は、色々と読ませていただいています。最近は2ターン目を読んでいます。
この掲示板もみなさん、すごく深いことを色々と知ってるんだなぁって驚いてます。

どの箇所かは正確にはわからないですけれど、Sekkoさんが書いておられた「宗教とは人を神(真理)へといざなうサービス業、旅行代理店の様なもの…」という部分に、うーん…そうだなぁ… とすごく納得させられています。宗教が真理そのものではなくて、そこへ人を向けてくれて同行してくれるってイメージでしょうか?
そう思うと色んな宗教サービスがあっても(深いところでは)矛盾はしないんだと思います。
山頂は一つでも、その道順はいくつもある、っていう言い方はよくされますよね。

今日、バスに乗っていて、ふとバスの中を見渡すと、高校生や中学生くらいの人たちがいたんですけど、楽しそうにおしゃべりをしたり、ケータイいじってたり、音楽聴いたりで
なんか、そういう雰囲気と接していると、宗教ってとくに絶対必要ってわけじゃなさそうにも見えたりしてきました。

その後、バスを降りて帰りながら考えたことは、その人の居場所(この場合学校とか)の中で、マジョリティーでいられる時は、散文的な日常生活が宗教無しにも送れるのかなぁということです。公園で遊んでる小学生なんかを見るともっとそんな気分です。

でも、だんだん、それぞれにその人の興味や特性なんかが育っていって、それぞれの道を歩く時、いつもいつも、安心なマジョリティーの中にいるってことは、できなくなる事があるかもしれません。そして、それが深刻な事の場合だってあると思います。
宗教ってそういう時に、人の悩み生き方の指針として、寄り添ってくれるものなのかなぁと思いました。 独りになった時なんて特に…

だから、「いざという時のために宗教と馴染んでおいたり、親しくなっておいた方がいい」、こういう事もたしかSekkoさんが言っておられたと思います。
ぼくも最近、この事をしみじみ、そうだなぁって感じています。
こういう頭のひらめきが光るようなことが、Sekkoさんの著書などを読んでいると時にあります。
Sekkoさんには、その貴重な知識と理性と体験を、手に取って読める本やネットなどで分かち合って下さってることに本当に感謝しています。

長くなりましたけれど、最後に、
実は今、自転車で15分くらいの所にあるカトリック教会に、行ってみようかなぁ…どうしようかなぁ…って、迷ってる自分がいて、それの整理のためにもここに書かせてもらいました。(すいません)
その教会のHPに載っていた主任神父さんは、大学教授でもあるみたいで、ちょっとこわもてなカンジがして、それにもちょっと勇気がいります…(笑)

いつも、夕方6時には、その教会から鐘の音が遠く聞こえくるんです。山をバックにしたそんな夕方の風景がぼくは好きです。

466:2010/05/08(土) 19:59:10
(無題)
憧れのせっこ先生
洗礼を受けたくてまっしぐらに教会にいき
そこにいたのが ブルカルト アンデレ  しんぷ
わかいとき純真会をたばね  管区長もなさっていたり  スクルス神父 ともに純真会で
らてらん  バチカンの父  ともいわれてるきょうかいでも はたらかれ

そして もうすぐ神父になる  オノレブラザー  3人にまもられ
千里ですくすく  これたわたしは
ベルギー  のごえんがあり  フランス語が ただただ大好きであっただけなのに
フランコフォン 聖職者  に人生でであえたよろこびは  本当に大きいです。

しかし 7年目のして
なぜか  教会離れのあり
重い空気 がきょうかいにながれ まだ わかめの私と同年代の方が少なく
友達  ができにくいとか  あまり  合う ひと 話せる人がいないと思ってしまっているのか  少しとうのいてきています。
神父様に  共同で祈るということで ま、ま  お友達さがしは う〜ん
と言われ  つきひがながれ
ただ  宗教も出会い のひとつで  いきたいときに行けばいいのでないかと思う私目は
不謹慎ですか? 静かに家で祈る方が集中できるのです。お祈りが趣味です
とうしょう詩篇 を謡わせていただける お年寄りの方が喜んでくり
歌ことが好きになり  声楽まで  習いに行くようになって

これもおおきな めぐみ 幸せをもつけました、いきがいになりそうです。人生の
わたしはとっても  この宗教に出会えてよかったです。
ただ
ずばらで
ひとりでマリア様の前で ひざまずき お祈りを日に何度も するのがだいすきです

こんあんでもよいですか?

467Sekko:2010/05/10(月) 03:57:12
くうさんへ
 ご愛読ありがとうございます。励みになります。

 そう、マジョリティに落ち着いている時って、一見救いとか必要ないような感じなんですが、そのこと自体でマイノリティの人とか、自分の部分の弱い部分にも目をつぶってしまうことがあると思うんです。今無心に遊んでいる子供や若者でも、やはり自分や他人の弱い部分に対してのやさしさみたいな感覚をちゃんと養っていかないと、自分だけじゃなく家族や友人などのちょっとした事故とか病気とか人間関係の齟齬や失望や失敗とかに出会ったときに、自分にも人にもやさしくなれないかもしれません。こういうのって心配性でネガティヴかもしれませんが、私自身も、そういうやさしさに救われ続けました。まあ、自分に関しては甘やかしかもしれないんですが・・・
 小学生だって、小動物を飼って世話するとか、自分を必要とするなにかとの関係が必要だと思います。
 教会でいい出会いがあるといいですね。神父様とか大学教授って、お山の大将になりやすいポジションだから、ひょっとしてエラそうに見えるってこともあるかもしれませんが、これはもう人柄の問題かもしれません。教会がサービス機関だとしても、そこに行く人はクレーマー消費者の心は持たない方がいいと思います。そういうところとは反対の無償の世界につながっているということを感じられるといいですね。

468Sekko:2010/05/10(月) 05:35:00
marie josephine さん
 声楽をなさったり、お年寄りに喜んでもらえたり、すてきですね。

 スクルス神父さまたちと出会われたのもよかったですね。私が最初に会ったfrancophone
の神父さまは1970年代、アテネフランセのアヌーイさんでした。フランス語がうまくないのにフランス語で卒論を書かなくちゃいけなくて、だれも見てくれるあてがなかったので、突然アヌーイさんにタイプ原稿を持っていったんです。教会はもちろん個人的な関係はまったくなかったのに。私がよほどおどおどしていたらしく、サンタクロースのような風貌のアヌーイさんは、原稿を受け取ると、にっこり笑って、「もう大丈夫、僕がいるからもう大丈夫」と言ってくれました。忘れられません。

 あと、楽器演奏なんかそうなんですが、いくら練習しても、あるところまでいってどうしても壁に突き当たる曲とかがあります。そんなとき、無理強いしないでちょっと休んで他の曲とか弾いていて、しばらくぶりに前の曲を弾くと、練習していないのに、壁を超えていることがよくあります。私たちはこれを「熟した」と表現するんですが、多分かってに熟したんじゃなくて、練習してなかった期間にも、頭の中でその曲を反芻していて、それが「聞こえてくる」のをキャッチしようと自然に耳をすませていたのかもしれません。

 信仰の形とか共同体との付き合い方とかにもそういう面があるのではないでしょうか。今の形にこだわらなくとも、耳をすませていれば、また「熟した」形で自然に共同体と連帯できる日も来るかと思います。

 神父さまたちはきっと祈っててくださってますよ。

469:2010/05/10(月) 19:04:55
(無題)
大好きなせっこ先生

ヨセフのひにうまれ
クリスチャン である  神の道、、、   ブルカルト神父  がだいすきで
みんな しんぷさまがたがすきです。
守られてて あい  を感じます。清らかな   あい
祈っていただいてること感謝でいっぱいです。
引きつずき
お歌  でお人に喜んでもらえるよう  生きがいとして邁進します。
スクルス神父様は せっこ先生の大ファン
父であるヨセフ
の御本  すばらしいでした。
才女 のせっこ先生が  そんなときがあったんですね。
また
素晴らしいアドバイス よろしくお願いたします。

神に感謝

470:2010/06/03(木) 22:43:01
純粋理性批判 序論
純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。

「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。
『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』

また、
「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。
『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。【自然科学からその実例を引き出すとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。】日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』

素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受ける、つまり、上の2つの記述は矛盾しているように感じるのですが、納得させていただけないでしょうか。

471あがるま:2010/06/06(日) 14:25:31
因果律が
アプリオに演繹可能(つまり原因から誤謬なしに結果を導出)な純粋命題であるか、それてとも経験則(結果から原因に遡る)てあるのか?と云ふことですが、如何にして純粋思考の形式(純粋悟性形式=カテゴリ)を経験の対象に適用できるのかにはカントも苦労し法律家の論理を適用するしかなかつた。
ヒュームにより経験則としての因果律が否定され、しかし外界の存在を肯定するのは経験・感性しかないのですから、カテゴリーとしての因果律は慥かに成立し、しかしその対象の実在は感覚・経験が証明するといふ二重構造になるのでは。

472あがるま:2010/06/10(木) 12:09:31
セッコさんがクリマの
『ル・グラン・ロマン』を読み始めたと聞いて『細かい活字で大判600ページもあるあんな長い小説を良く読む気になる』と呆れましたが、4月にパリに寄つた時にrue des ecolesの私が必ず行くGalerieDeLaSorbonneなどで半値で新しいものを手に入れました。
改訳全集が出るので20年ほど前の本が安く手に這入るのだと納得。
気になるのは1904年の哲学上の主著と見られる『意識と無としての世界』ですが200頁ほどのこの本はネットで見ても20ユーロと結構高い。
一年前の1903年には同じオーストリ・ハンガリー帝国ではO.ワイニンガー『性と性格』も出版され著者のピストル自殺にもより600頁もある大著なのに世界的大ベストセラーとなりました。
ウィーンに行つてフロイトの診療所とワイニンガーが自殺したベートヴェンの部屋は同じ大通りに面し距離も2ブロックほどだつたので驚きました。
新宮一成『夢分析』と言ふ新書本を見てゐたら『我々は実際に夢を見るから万能感と世界創造感を得られる』とありました。
11.01.10

473:2010/06/17(木) 17:04:41
あがるまさん、ありがとうございました。
お陰さまで腑に落ちたように思います。
また質問させていただくと思いますが、その際にはよろしくお願いいたします。

474Sekko:2010/06/17(木) 19:13:05
留守にしていてすみません。
 huyuharuさん、あがるまさん、留守にしていて失礼しました。

 気にしていたんですが、コンサートと、日本に行く前に片付ける仕事とで、手いっぱいでした。その上にネコの介護をしているんです。末っ子が、乳癌の手術をして、うまくいったんですが、目が見えなくなりました。ストレスなのか、脳転移なのか分らず・・

 この質問には、あがるまさんが回答してくれるだろうなあって、ちょっと期待してたんで、助かりました。ありがとうございます。

 この質問箱は、別に哲学の問題について教科書的な解説やオールラウンドな質問を受けているわけではなく、なんていうか、私の経験や知識とかで役に立つことがあればお返事しますということなので、特に信仰とか死生観についての話なら役に立てます。

 それに、カントと比べるわけじゃないですが、私の自分の本でも、同じ本の中でも別の本でも、同じことなのに一見して矛盾している記述があり、それは、文脈によるもの、自分の意見が進化したもの、逆説的なもの、など、いろいろな場合があります。カントのこの部分も、考えていくといろいろ厄介で、簡単に答えられないんです。最近講談社の広報誌『本』5月号で、野矢茂樹さんの『自由という相貌』という記事を読み、そこでも、因果律について、自由と決定論は両立するカという、非常に面白い話が展開していました。論理だけでなく、そこに相貌や物語という考えを導入するのはすごく納得がいきます。

 あがるまさん、クリマに引き続き興味を持ってくださってありがとうございます。必要なら、エリカに直接コンタクトされた方が早いです。私が転送しますよ。英独仏語(もちろんチェコ語も)OKです。

475あがるま:2010/06/20(日) 02:41:16
Jan Nepomucen Potocki
お蔭様でパトチカならぬポトツキ伯爵(1761− 1815)と云ふ奇人を知りました。
彼がフランス語で書いた『サラゴサ手稿Le Manuscrit trouve a Saragosse』は映画にもなつてるさうですね!
パスカル・キニャールを知つたのも最近です、マラン・マレとサント・コロンブの話も面白さうですね − DVDも千円程度なので機会があれば。

476:2010/06/23(水) 16:51:23
人間の感性について
初めてメールします。東京で宗教や哲学など素人の立場で学んできた者です。多くの課題がありますが、じょじょにお尋ねできればと思います。先生の「無神論」の著書は、未だ深読みしていませんが、私は有神論の立場です。そこで、先生は歴史的に無神論の系譜をたどっておられるのですが、人間は根本的に何故目に見えない存在に対して、2つの系譜が出てきたと思われますか?聖書的に考えれば人間は堕落して、神との関係が切れたからと言えるかも知れませんが、それではまだまだ抽象的かと思います。世の中には、霊感性に優れた人がいますが、何故そんな人やそうでない人がいるのでしょうか?私もそうした霊的感性が開かれなければ、霊界の存在も分からないし、益して神の存在ははるか遠くの課題かと思います。尤も、最近はご存知のようにID理論が出てきて、有神論に力を加えているかと思います。竹下先生は、中立的立場かと思いますが、本の最後に、神が人間を信頼できる場所を人間の心の片隅に開けておく時代になっても良いのでは・・・と書かれています。そう思います。そうした態度に加えて、やはり人間の感性的無知や霊感性が問われるべきかと思いますが如何がお考えでしょうか?

477Sekko:2010/06/25(金) 01:59:32
中島さま
 ご愛読ありがとうございます。

 私は人間のあり方は、どんな人でも、自分を超えた世界、つまり自分の以前にあったものとか自分の後に来るものとか、あるいは同時代的でも会ったことのない人や見たことのない場所とつながっていると思います。それがはっきり感じられるとか、亡くなった人や別の世界とチャネリングできるようなこととは別に。

 見ないで信じるものは幸いである、というように、見たり聞えたり感知できなくても信じられることはあるし、逆に、見たり聞えたつもりでも錯覚や勘違いや自分の願望の反映や病気ということもあるし、また、信じられなくても期待はしたい、ということもあると思うんですよ。

 特に、見えない世界に善意とか肯定的なもの(信じれば救われる、とか、誰かに愛されているとか・・)を期待できれば「だめもと」で信じようかってことになるし、反対に、見えない世界に悪意とか否定的なもの(信じなければ罰が当たる、とか、誰かに呪われてるとか)を見て怖れれば、危機管理的に信じようかってことになるかもです。

 私は甘言も警戒しますが、脅しの言説がさらに嫌いなので、「信じなければ大変なことになりますよ」とか言われるのは、私にとっての「神」のイメージではないですね。人生で自分で対応できない出来事の前で「怖れなくなる」というのは、信仰の一番のポイントだと私には思えます。
 それに比べたら、霊感があるかどうかなんて、体質みたいなもんです。いや、この世を生きてるうちは、そういう感性は、普通、ある程度封印しているようにできているんだと思いますよ。そういう感性をちゃんと管理できて人のために役立てられるような能力はまた別で、普通の人は、堅実に、別の具体的な形で大きな善意とつながった方がいいと思います。

 霊感は多くの場合一種のアクシデントみたいなもので、それがある人はいい方向に養い、ない人は「ある」と公言する人の言説にあまり惑わされない方がいいと思います。これは私が『カルトか宗教か』以来追求してきたテーマでもあり、7月8日には、その系列で、ベスト新書で『陰謀論にダマされるな!』という本を出しますので、ご一読下さい。私の中では『無神論』とセットになっているんですよ。でも新書だし読みやすいです。またご感想をお聞かせ下さい。

478Sekko:2010/07/06(火) 08:49:08
おしらせ
 ようやく新しいサイトができました。まだ工事中の部分もありますが、このサイトの記録はほとんど残します。新刊のお知らせもあります。
この掲示板にはForum2というところからいままでどおりリンクできますので引き続きお使いください。 新しいアドレスは

http://setukotakeshita.com/ です。

479T.M:2010/07/30(金) 10:19:10
(無題)
ニーチェの言う権力は結局人間的なものとうけとれるのですが、
フーコーの言う権力とは何ですか。簡略に示していただけないでしょうか。

480sekko:2010/08/02(月) 11:23:41
申し訳ありませんが、
このような形のご質問にはお答えできません。他の質疑応答サイトをご利用ください。教科書的なもの、哲学のレポートなどの参考になるような答えはネット上で検索すればいろいろ出てくると思います。ここでは、いろいろ当たった末でどうしても自分はこう思うけれど私の意見も聞きたい、一緒に考えてほしいというタイプの質問のみ受け付けます。タイトルの下の説明文を参考にしてください。

481:2010/08/03(火) 15:20:21
竹下節子さんについて
竹下節子さんについて質問します。
marie josephineさんの書き込むを見ましたら、
竹下節子さんは、カトリック千里ニュータウン教会の信者らしいですが、
本当ですか?

482Sekko:2010/08/03(火) 15:30:11
ここは
そういうプライヴェートな事実関係の質問の場所ではありません。
ご理解ください。

カトリック千里ニュータウン教会には行ったことがありません。

どこそこの所属とかの枠で縛られる人間関係はできるだけ避けているのでよろしくお願いします。

483グドウシャ:2010/09/06(月) 20:47:56
信仰するとは
宗教を、あるいはある特定の宗派を信仰するとはどういうことでしょうか。
たとえば、キリスト教を信仰するとはどういうことでしょうか。「キリストを善美な人間の理想と掲げ、この理想に沿うこと、あるいはそのキリストに倣う生き方をするために、それまでの自己を否定することを求めること」という人がいます。そのほかにも、イエスを救い主と信じることとか、神と信じるとか、三位一体を信じるとか、復活を信じることとか種々聞きますが、sekkoさんが説明してくれるとしたら、どのようにしていただけますか。
自分はキリスト教に関心がわき、近づきたいと思っていますが、どうも信仰するということがわかりません。また、キリスト教には東方正教・カトリック・プロテスタントなどあり、なにかそれぞれから見ると、それぞれが異端ではないのかといっているような感じがあります。
宗教を信仰するとはどういうことか、キリスト教を信じるとはどういうことか、なぜカトリックを信仰するのか、なぜプロテスタントを信仰するのかなどわかるような書物はありますか。

484グドウシャ:2010/09/06(月) 21:06:40
信仰するとは02
自分としては、「この世が苦しく、来世というものがあり、そこでは苦しみなく平安に暮らせる」とか、楽観的にある宗教に没入することで現在でも「すでに救われている」状態になることかと思ったこともあります。
また、聖書はどの訳を読んでいけばいいでしょうか。よほど詳細な注釈とかがなければそうそう簡単には読み進めないと思われるのですが。日本の古典文学で、文庫本でも詳細な註がついているのですから、日本聖書協会訳ではまず無理ではないでしょうか。

485Sekko:2010/09/07(火) 01:50:04
グドウシャさま
 まず、宗教としてのキリスト教を信じるとはどういうことかについて。

 私が合意する見解は次のようなものです。

 唯一創造神が万物を造った。
 ナザレのイエスが生きて十字架上で殺され、復活した。
 ナザレのイエスが救世主である。

 このみっつを信じて受け入れることでしょう。これが宗教としてのキリスト教の必要最低限の根幹だと思います。
 後は、教義(とそこから派生する典礼)の違いによって宗派の違いがあります。それは歴史的、時代的、文化的、民族的、地政的ないろいろな要因によって形成されてきたり分かれてきたものなので、どれが正しいとか異端とか言えるものではないと思います。

 三位一体の教義は、わりと本質に迫ると私は感じます。神が人となったとか、復活による永遠の命とかいうニュアンスを理解するためにはなかなかすぐれものだと思います。

 後は、いわゆる信仰共同体というものの問題があり、普通の人は多かれ少なかれ「家の宗教」や「地域の宗教」の土壌や習慣の中で生まれ育つわけで、それは特定の宗派や人間関係や、多分権力関係とか、支配従属関係と無縁ではないでしょう。そういうものとどう折り合って、ほんとうに納得のいく「救い」を求めるのか、別の共同体を探して模索するのか・・・あるいは宗教書や人生読本を読んで自分の安心立命を得るのか、どの宗教でも尊敬できる師のような人と出会って私淑するのか、いろいろな場合があると思います。

 私がキリスト教が好きなのは、創造主とか復活がどうしたというところは、まあ、判断できないというか考えてもしょうがないのでスルーなのですが、自力本願や修行とか悟りとか解脱とか、自助努力、刻苦精励、進歩向上系が個人的に苦手なので、「えっ、偉いはずの神さまが辱められて抵抗されずに殺されたんだって???そんなんでいいのか・・・」というナザレのイエスのラディカルな悲惨さに惹かれるからかもしれません。だから、復活というミステリーが光ります。いったい何が起こったんでしょう・・・卑怯だった弟子たちがそれで一転して「福音」を述べはじめたのですから。

 偉い神さまや仏さまがいても、それは弱い衆生とは所詮別世界、その偉い神仏の助けを得るにはそれなりのプロの仲介者を経て、規則を守って精進しなくちゃいけない、というシステムは、ある程度自信があって元気でないときついものがあるような気がします。

 救われる条件らしきものをイエスが言ったのは、とりあえず自分より困っている人や弱い人の役にたつようにしなさい、ということなので、それを心がけるくらいならなんとかできるかなあ、という感じです。

 で、この、弱い者の側に常に立ってればいいことや、自分は弟子たちからも一度は見捨てられてしまったイエスが救世主だという逆説的な教えのおかげで、キリスト教は本質なところで弱さの中での「神人一如」の部分があって、親しみが持てます。すごーく立派なリーダーやカリスマを崇め奉らなきゃいけないというのも苦手なもので。

 あ、もちろん、キリスト教の中にも禁欲苦行する人とか自分に厳しい人たちもたくさんいるわけで、人のタイプや文化や時代によってどの宗教でも似たようなヴァリエーションがあるのも事実です。

 そんなわけで今のところ私自身は精神的にはあまり悩んでないので、その余裕の部分でどなたかのお役に立てることがあればいいと思ってこのコーナーを存続させています。

 聖書の読み方ですが、私の体験では、気にいっている著者や研究者や宗教者や雑誌などが、その都度、トピックを解説してくれるようなものが好きです。自分で読んでいるだけでは全然見えないことが見えてくるし、語句もそうですが、前後の文脈によって納得のいくこともあるし、文字通り「目から鱗」の説教や解説にもたくさん出会えました。

 聖書の中で好きなところや気になるところについて、解説書を読み比べて見て、いちばん共感の持てるものを選んで他の部分も読んでいかれたらどうでしょう。翻訳の問題の深みにはまってあれこれ考えるより、魅力的な先人が幸いたくさんいるのでいろいろ参考にしたほうが楽しいと思います。聖書だけいきなり一人で読んでも見方によっては突っ込みどころが多すぎると感じるだけになりかねませんから・・・

 自分の言葉でちゃんと語ってくれる解説がいいですね。また、それこそ「神も仏もあるものか」って状況(十字架上のイエスもそうだったかもしれません)にある人が聖書を生きるよりどころにしている場合の文章には心を打たれます。

 無料で敷居の低い「聖書勉強会」などでもすばらしいものもあるようです。私は若い頃に日本にいた時は「聖書研究会」なんて言われると即カルトの勧誘かと警戒しましたが、あるいはジョークの通じない悩める人たちの集まりかと敬遠しましたが、いい場所でいい人に出会えれば、一人で本を読むよりも豊かな経験ができると今は思います。

 グドウシャさんが「道」を見つけられることをお祈りします。

486:2010/09/07(火) 05:02:08
キリスト教の受難と復活は捏造?
「2000年の歴史があるキリスト教ですが、
イエス・キリストは実在していましたが、
受難と復活の出来事は、
古代エジプトなどの太陽神を真似て作られたそうです。」


キリスト教は捏造? から引用しました。
http://nowsmartsoft.blog121.fc2.com/blog-entry-48.html

イエスと同時代に流行っていた「ミトラ教」とキリスト教には非常に多くの類似点がある事は最近知ったばかりなのですが、この動画内でも述べられています。さらに、エジプトの「ホルス神」との類似性についても述べられています。類似性があるというより、その「複製(コピー)」だとか?

処女受胎した聖母から生まれ、12月25日の三日前(?)に死んで、その三日後に復活するというような話は、キリスト教以前の他の多くの宗教と共通しているそうです。そしてなぜそのような共通点があるのかという事に関しては、天文学的に12月22日に太陽が出ている時間が最も短くなった後、22日,23日,24日は、「停滞し」、25日以後、一度づつ太陽の位置が回復していくとか、そんな感じのことが言われています(一度見た記憶だけに頼って書いており、曖昧です)。この時の 22,23,24 の三日が復活前の三日間に相当するのだとか。

オリオン座の腰の三つ星とシリウスとが載っている直線と地平線が交差する位置に太陽が昇る日が丁度12月25日で、シリウスが新約聖書のイエス生誕の日に出てくる有名な星で、オリオン座の三つ星が、「三博士」、太陽がイエスを表している。つまり、キリスト教は太陽信仰に他ならないとか。ちなみに、ホルス神も太陽神なので、キリスト教がホルス信仰の複製なのだとすれば当然なのですが。

ほかにもイエスが行ったとされる奇跡と同じ奇跡が、やはり、キリスト教以前の宗教の伝説にも存在していたとの事。

キリスト教のシンボルの十字架は「南十字星」から来ているとのこと。これに関しては、イエスが処刑されたとき、イエスが張り付けにされたのは単なる一本の棒であり、二本の棒(複数本)であるところの十字架ではあり得ないという説を聞いたことがあります。


ツァイトガイスト パート1(動画を見て下さい)
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803&amp;ei=2t3KSvWhDI3-wQPj-MmYAw&amp;q=%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881#

487グドウシャ:2010/09/08(水) 05:27:06
Sekkoさま
Sekkoさま、親切なご回答をありがとうございました。とくに、ご回答の中にもありました地縁の影響を再考し、見聞など他者との出会いの中で自分の関心をさらに推し進めていくかを考えていきたいと思います。

聖書の読み方についてもたいへん参考になります。ありがとうございます。

このサイトが続いていくことを願っています。

488Sekko:2010/09/10(金) 01:44:08
神話や宗教
 スルーしようと思いましたが匿名希望様にひと言。

 私が「復活が不思議、何が起こったんでしょう・・・」と書いたのは、復活についてのその後の言説や教義のいろいろな面における他の宗教との影響などとは何の関係もありません。

 キリスト教はユダヤ教と同じくエジプトやバビロンの宗教の神話や典礼の影響を受けていますし、キリスト教が成立するにあたって、別の宗教との置き換えを意識して典礼暦を整えていったのもよく知られた事実です。
 キリストの誕生日を冬至に合わせることに決めた時には、太陽暦の修正法が確立していなくてすでにずれていて、それを修正したにもかかわらず、冬至が21日になっている現在との日付の差は残ったし、夏至も確か同じ理由で聖ヨハネの祝日などがずれたと思います。比較宗教史学はいろいろな興味深い研究がありますから、ネットで拾った安易な「真実」みたいなものは、一人で楽しむだけにしてください。

 歴史研究とか比較研究とか、考古学とか文献考証学とか、何世紀も何世紀も、碩学の先人が積み上げていますが、ある特定の宗教への帰依とか信仰の真実というものは、それらとは別の地平にあるものだと思います。

 キリスト教について言えば、「唯一神がすべてを造り、人は復活して永遠に生きるキリストの体として一体である」というぎりぎりのところを押し詰めれば、キリスト者の使命とはすべての人の兄弟となることだ、と理解できるようになったという神父がいます。こういうシンプルさは大好きです。ここでいう兄弟とは、互いに相手の必要に応じて助け合う存在、という意味でしょう。

誰でも、どこか痛い時には、疾患や療法についての知識の披露を聞くより、痛いところにそっと手を当ててもらうとか優しい言葉をかけてもらうことを望んでいると思います。ここはどちらかというとそういう場所にしたいです。

489あがるま:2010/09/18(土) 03:09:21
<松井冬子「痛みが美に変る」>
日本での学位論文だと云ふ今村純子『シモーヌ・ウェイユの詩学』(慶應大学出版会)にも同じやうなテーゼがありました。
どうやら美女にとつては不幸は美に繋がつてゐるらしい
<認識を阻む不幸の直中で美的感情が溢れ出るところに至高の自由が開かれてゆくウェイユの形而上学において、詩といファクターに着目するならば、私たちは、創造的想像力が構築した『架空の世界』を、すなはち、けつして経験してえない、『無』、『真空』、『ないもの』を、現実の非実在性として認識してしまつてゐるといふ『不思議さ』のうちにある。p.26>
この引用文では難解のやうですが、この本はとても読み易くて博士論文としてのアカデミックな骨格が不足してゐやうにも思はれます。

490:2010/09/18(土) 05:51:38
竹下節子さん
節子さんの本「無神論」を読みました。
具体的に色々書かれていました。
竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、
無神論という本を書かれたのですか?

491Sekko:2010/09/19(日) 00:39:46
無神論の本について
「匿名希望」さま

>竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、無神論という本を書かれたのですか?

そんなことはまったくありません。そう読めたとしたら、私の力不足です。

キリスト教の歴史の中でも、他の宗教もそうですが、どうしても人は「自分」や「自分の家族」や「自分の共同体」の損得や都合によって、神も宗教も変質させていく傾向があり、けれども、それに対して、いつの時代にも、エゴイズムを離れた刷新の力もまた生まれるもので、それによって、「既成宗教」もまた、自分を見直していく、そういう繰り返しだと思います。

キリスト教の中には、人と人が支配関係や依存関係を維持するのに都合よく作られた偶像を破壊する力があると私は思います。(別に他の宗教にはその力がないという意味ではありませんが。)

逆に、キリスト教と称していても、キリスト教信者と称していても、弱い立場の人を従属させたり依存させたり無視したりする個々のケースはあるわけで、そういう場合は、名前が「キリスト教」だからといっても、本質は遠いところにあると思います。たとえ「無神論者」と称している人でも、今目の前に倒れている知らない人をすすんで助けるとしたら、倒れている人にとっては、道路の反対側に渡ってしまうキリスト教信者よりも、「隣人」ですよね。福音書にあるとおりです。

結局は、一人一人が、実際にどうやって他者とかかわって行くかという毎日の実践が問われていると思います。

その意味で、「キリスト者」だと言われるかどうかよりも「隣人」だと言われるように生きたいですが、難しいですね。

492arikui:2010/09/24(金) 23:50:54
司祭になることについて
はじめまして。
フランスの事情に詳しい竹下節子さまに伺いたいことがあります。
最近テレビでフランスでカトリックの司祭・修道女への志願者が激減していて
教区でミサを行い続けるためにアフリカから司祭を招いているというニュースを見てびっくりしました。
世界全体の潮流とはいえ、フランスでさえそうなのか・・・という感じです。
かつては一家から聖職者を出すことは「誇り」のようにとらえられていたと思うのですが(或いは貧しい家庭の秀才にとっては勉強を続けるチャンスという)今のフランス人家庭にとって子供が司祭・修道女を目指すということはどういうとらえ方なのでしょうか?

493Sekko:2010/09/25(土) 23:48:08
arikuiさま
 そうですね。でも、「司祭が足りないから、アフリカから招く」という単純なものでもないです。人口に対する司祭の割合は今でも、フランスはアフリカよりも多いです。
 カトリックでは司祭に叙階される時、特定の司教区か修道院などの所属が決められます。Incardination といいます。五年間以上別のところで働いたら変更も可能だそうです。で、昔はどの小教区にも、所属の司祭がいたんですが、今は、老齢化して、フランスの小教区所属司祭の半数以上が75歳以上です。75歳が一応定年なのですが、司祭不足なのでその半数は現役です。というより、健康状態が許す限りみな続けるようです。
 Pontoiseの例で、181人の司祭のうち、62人がincardineされた人、68人が、他の司教区所属の人(たとえば別の場所の修道会に所属しているとか、企業で言えば出向 立場)、51人が外国人司祭となっています。
 アフリカ人が多いのは、たとえばコンゴなど旧ベルギー領のカトリックがマジョリティの国とかでは、フランス語が公用語だし、フランス語系修道会が根強いので、フランスやベルギーの神学校に入って司祭になる人も多いからです。つまり、言葉を含めて歴史的に関係が深いからです。
 後は、EU拡大で、ヨーロッパ同士の行き来が自由化したこともあり、司祭の数の多いポーランド人司祭がたくさん来ています。人口の規模からいっても、ポーランド人司祭が外国人司祭の中でも多いようです。

 確かに昔は、教育の質のために神学校に行く人も少なくなかったし、一家に一人は聖職者を、という傾向もありました。カトリックの聖職者は独身なので、甥や姪たちにとって持続したスーパーバイザーとしてよりどころになったという側面もありました。

 今はブルジョワのカトリック家庭の子女のグループなどをのぞいて、若くしてカトリックに深くかかわる青年は少ないです。全体として精神的な危機にあたって救いを求める若者はカルト宗教や福音派などマーケッティングがうまいか積極的なグループへと向かいますし、カトリックでも教条主義的なグループとか、「キリスト軍団」のような使命感に燃えたタイプのグループに近づくことが多いです。
 これは、カトリックだけが衰退したということではなくて、今は情報も多く、若者のモラトリアムが許される時代でもあり、すべてについて、昔のように若いうちに「社会での立ち位置を決めて引き受ける」という傾向が減ったことの一部でもあと言われています。昔はたとえば、労働組合の所属は基本のひとつでしたし、結婚も標準でした。今のフランス人は子供は作っても、結婚率はすごく少なくなってます。組合参加率も。

 でも、ある意味で、長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になるとか、自覚的な選択が可能なのは悪いことばかりではありません。
 親が子供の選択をリスペクトする率は日本より高いと思います。

494arikui:2010/10/11(月) 06:49:08
御礼が遅くなりました
Sekkoさま
御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。丁寧なご回答ありがとうございました。

>長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になる
ことのベネフィットについては同感です。
問題は「受け入れる」カトリック教会の組織の柔軟性ですよね・・・

495迷える大羊:2010/12/16(木) 22:21:44
東京都「青少年健全育成条例」
 以前から、現都知事が熱心に制定を推進していたこの条例、ついに今月可決されました。それと、キリスト教、宗教に何の関係が?ということは後述するとしまして、とりあえず、この条例がなんなのか?と申しますと・・・。

『非実在青少年』(18才未満の登場人物)の性行為をみだりに性的対象として肯定的に描写した漫画など」を「自主的な区分販売」とし、成人コーナーにしか置かないようにするよう自主規制、です。

 この「非実在青少年」というのが基準があまりにあいまい、との反発をマンガ家、出版社側から受け、「非実在青少年」の言葉が削除し、「刑罰法規に触れる性行為や、婚姻を禁止されている近親者間の行為を、不当に賛美・誇張して描いた漫画など」の表現が加え修正、めでたく?今月条例成立と相成ったわけです。

まあ、この条例については賛否両論いろいろあるでしょうが、その辺はとりあえず脇に置いといて・・。

 個人的に気になるのは、この条例によれば、旧約聖書の「マンガ化」はアウト、思いっきり「成人指定」の範疇に入ってしまうんじゃないのか?近親相姦、ノゾキ、レイプ、親子どんぶり・・などなど、「健全な青少年の育成」に「有害」な要素がテンコ盛りやないか!とふと考えてしまったのですが・・。

 これから東京都下のキリスト教書店などにおいてもマンガ化された聖書本は、一般の神学本、エッセイとは隔離して「成人コーナー」に置かないとならなくなるんですかねぇ?あと、日本を代表する古典文学「源氏物語」も相当にヤバいんじゃ?
 これも、マンガ化されたものは今のように呑気に一般の受験本と並べて陳列、っていうのはダメなのでしょうかね?

 あと旧約聖書が日本・東京で「成人指定」を受け、エロ本扱いされた場合、イスラエルあたりを筆頭に世界の一神教の国々がどのような反応を示すかも気になるところですね。

 しかし、個人的には「青少年健全育成」(偽善ぽくて嫌いです、この言葉)に「有害」なコンテンツは他にいくらでもあるだろうに、なんでマンガ、アニメなんでしょうね?とりあえず、叩きやすいところから叩いてるとしか思えないんですが・・。そもそも、エロマンガの流通と「青少年健全育成」だの、実際の性犯罪だのに本当に何か関係あるんですかね?

 旧約聖書についても、やれ性的に乱脈だとか、矛盾しとるやないか、と散々ツッコミを入れてきましたが、あれが、やたらと「清らか」で「健全」で単純な「勧善懲悪」な話ばっかりだったら・・・。確かに理解はしやすいかもしれないけども、恐ろしく単純で図式的な、感動的ではあってもどうにも底の浅い、それこそ「マンガチック」な有様にとっくに飽きがきて白けきってるかもしれませんね。

 先生はじめ、皆さんはどうお考えでしょうか?

496異邦人ヨハネ:2010/12/18(土) 17:41:59
迷える大羊さん、心配不要では
確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

497迷える大羊:2010/12/19(日) 13:03:37
(無題)
>確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。

確かにレビ記では主はモーゼに近親相姦はダメって言ってますね。でも、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもある)に何のおとがめもないですし、親子で交わったロト父娘に対しても主より非難やお仕置きが加えられた形跡は・・。
 それどころか、「オナニー」で有名なオナンが交わるべき相手は兄貴の嫁さんですし。ダビデなど部下の妻に横恋慕し、風呂をノゾき、ものにして、旦那は職権でもって最前線の戦場に送りこみ戦死させ・・、鬼のような男ですね(でも、マタイの福音書ではイエス様のご先祖)。ダビデに対しては一応、お仕置きはあるにはあるんですが、何にもやってないヨブが悲惨な目にあわされていることを考えると、随分、罰が軽いっていうか、エコひいきされているよな、やっぱり、アウト、まずいなぁと個人的には思います。

 まあ、「マンガ」にしなけりゃいいんですけどね。しかし、エロマンガ、エロアニメ、その他エロ本の流通と青少年の「健全」な育成だのって本当に何か関係あるんですかね?
 こんな「聖典」を常日頃読んでるクリスチャン、ユダヤ教徒、ムスリムは「変質者予備軍」なんでしょうか?

 大体「肯定的に描写」しているかどうか?なんて誰が何の基準を元にして判断するつもりなんですかね?
 そもそも、条例でいう「健全な青少年」というのがどういう定義なのかわかりませんが、条例の内容を鑑みて、とりあえず性犯罪を犯さない青少年、と定義することにして、未成年の性犯罪ってそんなに増えているのか?統計、データをあたってみましたが、そんな傾向は全然見当たらない、むしろ近年はえらい勢いで減ってますけどね。

http://www.npa.go.jp/toukei/keiki/hanzai_h21/h21hanzaitoukei.htm
(平成21年の犯罪(警察庁))

http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm
(少年によるレイプ統計、未成年の強姦犯検挙人数と少年人口(10歳〜19歳)10万人あたりの比率、元ネタはやはり警察庁統計書)

 ただ、これらのデータは日本国全体を対象にしたデータで、「東京都のみ」に絞ったデータは発見できませんでした。また、エロマンガ、エロアニメとの因果関係を調べたデータも今のところ発見しておりません。
 東京都側、現都知事側でそういうデータを持っているのかもしれませんね(棒読み)。

498Sekko:2010/12/20(月) 07:23:17
この話、
東京都の条例って言うところが、知事さんのキャラやキャリアから考えてなんだか、笑える感じがしますね。彼の昔の小説なんかは映画化はされてましたけれどマンガやアニメはなかったんですね、きっと。

そう言えば私は前に、旧約聖書のマンガ化について監修などのお話を相談されたことがあります。でも、そういう細かいこと考えつきませんでした。

よく猥褻物の基準として「劣情を刺激」というのがありますよね。あれもなんだか笑えますね。別に肯定的とか賛美とかじゃなくとも、否定的でも「劣情を刺激される」ことはシチュエーションによってあるでしょうけど。

そういうことを言い出したら、なんでも、マンガとかアニメでビジュアルに表現してしまったら、想像の余地は減ってしまって、タブーの持つ刺激も少なくなるんじゃないかなあ。

まあ、年齢やシチュエーションによってはもう何をどのように見ても聞いても読んでも劣情を刺激されちゃう人もいるでしょうし、そんな心配をするなら、青少年の鬱病や自死の問題の対策を立てる方が急務のような気もします。

後、キリスト教圏の人がどうこう言うよりも、すごく正直に言って、劣情を刺激するだけの表現テクニックなら日本人の方がはるかに進んでると思いますよ。屈折しているのかなあ。ラテン系の人とか一般に単純だと思う。普通のフランス艶笑ジョークとか、日本人には全然おかしくないと思うのは私だけなのかなあ。もちろん頽廃的で倒錯的なすごい文学もフランスにはあるわけで、あくまでも平均レベルの話ですけど。

個人的には、あまりにも進化した日本製のひどいマンガやアニメがフランスに入ってくるのは嬉しくないですし、私がもし、妻とか娘とか恋人とかを愛する男だとしたら、ものすごく嫌だと思います。そういうものがあるからこそ、何が嫌なのか、とか、自分が大切にしたいのは何なのかとかを気づかせてくれるという面もありますね。

499迷える大羊:2010/12/20(月) 22:43:31
「健全」って何?
 お断りしておきたいのですが、別に私だって「いかにも」といったキャラが性器むき出しでナニをしているシーンが露骨なエロアニメ、エロマンガのあからさまな氾濫を肯定しているわけではないですよ。倫理というよりは趣味の問題ですけど。

 でも、この手の問題って結局のところ客観的な基準を設けることが難しい、というか不可能じゃないですか。それにそういったものを不自然に排除した社会が本当に「健全」なのかどうか?はなはだ疑問で。

 それに「青少年の健全な育成」とはいうけれど、自分の子供時代を省みても、大きなお世話っていうか、子供をあまりにバカにしすぎてないですか?という疑問もありますね。

 日本製のアニメやマンガがどうして世界でどうしてウケたのか?というと、いろいろ理由があるけれど、子供だからこの程度でいい、といった「手抜き」がないことがあると思います。つまり、日本製アニメやマンガの登場以前、世界の大抵の国々でマンガやアニメといえば「子供向き」、子供相手だから、この程度の話、なるべく「健全」で「当たり障りのないもの」という呪縛にとらわれていたところが多かった。でも、子供は大人が勝手に考えるほどに世間知らずでも、ものを考えていないわけでもない、自分自身の子供時代を省みても、そういう「手抜き」とか「偽善」は意外とわかっちゃいます。

 そんな中、そういった呪縛に囚われない、子供相手だからといって「手を抜かない」ストーリーやクオリティで作り込んだ日本製アニメがタイミングよく出てきた、というところが大きいと思うのです。
 例えば、40代以下の日本人、特に男性なら大体名前くらいは知っているアニメに「機動戦士ガンダム」なんてのがあります。ロボットがドンパチを展開するアニメ、ってことで内容を知らないと子供向けそのものに見えますが、宇宙植民地の独立闘争とか、人類の進化とか、中間管理職の立場の苦しさ、あと、なんといっても勧善懲悪ではなく、敵側にも彼らなりの正義とか理想があるし、主人公の側にもずる賢い人物が結構いて、一筋縄ではいかないキャラクターばかり、どうみても大人にならないと理解できそうにないストーリー(少なくとも一部のおバカなハリウッド製アクション映画よりは、はるかに「大人」な内容)にも関わらず、子供たちにバカ受けし、関連商品のプラモデルはデパートで奪い合いになるような大ヒット。
 初回放送から三十年経った今も人気は廃れず、「国民的アニメ」になってます。あれが、明るくて「健全」な少年が主人公が「悪い」敵をやっつける内容なら・・、例え子供時代でも観る気なんておきませんね。
 今回の規制が東京都限定とはいえ、日本のマンガ、アニメの衰退のはじまりにならなきゃいいけど、と思う次第。日本のマンガが「スーパーマン」みたいな単純、無難きわまりない、「健全」な「勧善懲悪」ものばっかりになるなんて、考えただけでゾッとします。

 ここで引き合いに出した、旧約聖書にしたって、いろいろツッコんできましたが、あれが「健全」な内容だったら、さぞかし「つまらない」代物だと思います。聖書解説本の中には旧約聖書(新約もだけれども)の毒毒しい部分はカットして、見て見ぬふりをして、当たり障りのない、誰にでも理解できる道徳的な部分しか紹介しないものがありますが、一体、何を考えているんだろう、と思ったりします。実際、それではキリスト教、ユダヤ教は単なる「道徳」とは似て非なるもの、という本質的なところがわからなくなるんじゃないでしょうか?

 

500りゅう:2010/12/23(木) 08:29:52
聖Sekkoによる救い?
カトリック生活1月号の「カトリック・サプリ」を読ませていただきました。
よくわからない点があったので質問させてもらいます。

「でも、神の愛が永遠だとしたら、やぱり永遠の地獄などない。一人で這い上がれなくても、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。地獄にいるときはその手をつかむ勇気をもとう。天国にいるときは手を差し伸べる勇気をもとう。」(カトリック・サプリ 最後の段落)

これは、まだ生きている状況のことを言っているのでしょうか。
それとも、死後の話をしているのでしょうか?

死後の話だとすれば、これは完全に異端説になると思います。
神が救ってくれないなら、わたしたちが救おうと言っているように見えます。わたしたちに人を救う力があると言っているのでしょうか。
人を救えるのは神のみで、わたしたちはそのお手伝いをするだけでしょう。
また、地獄に落ちてしまったなら、それを神の意思として受け入れるのではなく、天国にいる神ではない誰かに助けを求めようと言っていますね。

つまりは、
「救いに関しては、もう神様など関係ない。わたしたちで勝手にやりましょう!」
と言っているように見えます。


上のカトリック・サプリの文章は、とても優しい文章に見えて、実は神不在のまま救いを進めようとしている、とても恐ろしい異端説に思えます。
わたしたちの救いはイエスからのみでしょう。
それとも、主イエス以外にも、「聖Sekkoとその仲間たち」による救いも別にあると説いているのでしょうか?

解説をお願いします。

501Sekko:2010/12/24(金) 04:16:06
りゅうさまへ
誤解を与えてすみません。

死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。

その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。


実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。

『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)

この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。

その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。

姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。

埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。

で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。

このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。

愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。

思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。

いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。

リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)

私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。

連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!

502りゅう:2010/12/25(土) 00:05:55
解説ありがとうございました
解説ありがとうございました。

カトリック・サプリの中盤くらいに、個人的に異端だと思っているテイヤール・ド・シャルダンの引用があったり、ニーチェが出たりと、かなり疑いながら読んでいました。
ド・シャルダンが否定している地獄は、間違いなく「死後の地獄そのもの」でしょう。

また、解説を受けた今も「神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などない」の表現は良くなかったと思います。

辛いことや悲しいことを経験すると、自分の人生を『永遠の地獄』と思い込むこともある。そのような時「天国の状態にある人」は手を差し伸べる勇気を持とう。
解説を読んだ今は、そのように受け止められます。

しかし、ド・シャルダンの引用があり、その後に『神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などはない。』と言われると、死後の地獄を想定すると思います。

ここで解説してもらえて安心しました。
質問をしたおかげで、新たな良いお話も読めて、カトリック・サプリを二度楽しむことができました(^ー^* )♪

メリー・クリスマス♪

503迷える大羊:2010/12/31(金) 08:55:50
アカのイエス?
 聖書読んで、イエス様のお言葉について、いつも気になるのは、どこまでが本気?どこまでが冗談?どこまでが譬え?どこまでが挑発、皮肉?なのかが今一つ判然としないこと。

 その中でも、特に気になるのは「金持ちの青年」の話(マタイ19章16−30、マルコ10章17-31、ルカ18章18−30)

 何がか、というとイエスって私有財産制を否定しているのかな?今でいうところの共産主義者(それも過激な)なのか?ってこと。
 それも財産だけならまだしも、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、みんな捨てろ、といっているのだから穏やかではないですよね。

 字句通りに読むなら、共産主義的な平等社会を理想として、しかも、出家のような形で教団みんなが加わることにより実現しようとした、ととれますが。

 しかし、出家っていうとオウム(現アレフ)の「出家信者」を連想してしまって、どうにも落ち着かないです。個人的に・・。あと「親兄弟を捨てろ」のくだりは、スターリン政権下のソ連や文化大革命中の中国といった旧共産圏で、「反党分子」は親兄弟であっても告発、密告した歴史を思い浮かべてしまい、ぎょっとします。
 もしかして、イエスが処刑されず生き延びていたら、スターリンや毛沢東ばりの独裁者になっていたんだろうか?と失礼かつ恐ろしい想像すらしてしまいます。

 それとも、現実には不可能であることは承知で、あえて弟子や、弟子志願の青年の「覚悟」を試す意味で「言ってみた」だけなのか?どう解釈すればいいんでしょうね?

 字句通り解釈すれば、高額所得者、セレブのクリスチャンは「あり得ない」話ですし、クリスチャンは全財産を捨て去り、無一文にならなければならないことになりますね。
 これですと、十一献金どころの話、騒ぎではなくなってしまいますが・・

504迷える大羊:2010/12/31(金) 09:11:18
ダビデへのエコひいき
 連続投稿失礼します。旧約聖書を読んで思ったことなんですが・・。主はどうして、ダビデに「甘い」んでしょうか?
 これまでに何度か触れましたけど、トンでもない男ですよね。

 人は殺しまくり、部下の妻、人妻の風呂を覗いて、横恋慕して、ナニをして、旦那は最前線の戦場に送り込んで亡き者にして・・・、鬼畜の如き所業。この哀れな旦那の他にもダビデに殺戮された者は数知れず・・。

 一応、主も彼にお仕置きはしているんですけど(寝取った部下の妻パテシバとのの赤ん坊は亡くなったり、領民が殺されたり)、彼が行ってきた殺りく行為、レイプの数々と比較して、どうにも軽い感じがするのは否めない、なんといっても彼自身は無事だし、と思うのは私だけでしょうか??

 なんといっても主、神様がおかしいのは、後世の王様を残酷な目にあわせるとき、いつも、都合よくダビデの所業を忘れて

 「しかし、我が僕ダビデが私の戒めを守り、心を尽くして、私に従って歩み、私の目にかなう正しいことだけを行った・・」(列王記上14章8節、新共同訳聖書より)

 あまり、主に向かってこんなこといいたくありませんが、「アホですか?どこに目をつけてるんですか?」といいたくなります。
 一体、ダビデのエピソードで旧約聖書の記者はどんなメッセージを送りたいんでしょうか?主の御贔屓にあずかれば、どんな悪さをやってもOKとか、世の中力がすべて、という身もフタもない不条理な教訓しか読み取れませんが・・。

 それにしても、私もダビデのように主の御贔屓にあずかれればなぁ、と思う次第。

 よい御年を。

505Sekko:2011/01/06(木) 06:58:48
謹賀新年
年末年始でバタバタしていてお返事遅れてすみません。

まず最初の話。

金持ちの青年の救いの話の方ですが、これについてはいろいろな人が解説しているし、説教も読めるので、ネットで検索してみてください。

ポイントは、後半にあるのだとは言えます。

つまり、金持ちが天の国に入るのはほとんど不可能(だってらくだが針の穴を通る方より難しいんですからね)なのですが、そういういろいろな掟だの条件を超えて、

「人間にできることではないが、神には何でもできる」

というところであって、人間が掟をあげつらって完全になるとか天国に行くとかについて仕分けすることはできない、というのが分かります。

確かに初期キリスト教会はかなり原始共産制に近かったですが、それはイデオロギーではなかったし、支配のツールでもなかったわけです。

次のダビデの依怙贔屓ですが、これはもう、キリスト教的には、ナザレのイエスが人と神との新しい関係に入って行くにあたって、どのような文化的、歴史的、宗教的な文脈に現れたのかということを知るための大きな流れとして読んでいくしかないですね。

まあ、政治や権力を担う人を宗教のリーダーになる、あるいは、宗教のリーダーが政治や軍事のリーダーになると、いつの時代も結局は大変なことになるわけで、だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません。

ダビデというと、去年の夏に広尾の山種美術館に行くために恵比寿から歩いて行くとミケランジェロの巨大ダビデ像の型どりコピーが道路沿いに立っているのでびっくりしたのを思い出します。ゴリアトを投石で殺した若きダビデはそれなりにオーラがありますが・・・

アメリカのメガ伝道師たちは、アブラハムもダビデもソロモンも経済的に恵まれていたのだから宗教的指導者が経済的に恵まれることは望ましいのだと堂々と言ったりしているようなんですが、これはもう、キリスト教と違いますよね。

キリスト教のメッセージで何が本質的なのかというのは、素直に読めばキャッチできると思います。多分大羊さんも分かっていらっしゃるのでしょうが、どうしてもダビデの所業やその評価なんかが気になるあたり、それは、ひょっとして、別のレベルの不信感が形を変えて現れているような気がします。まあ、今年もぼちぼち行ってください。

506迷える大羊:2011/01/06(木) 22:06:32
明けましておめでとうございます
 いつも、御世話になります。不快な表現もあるかもしれませんが、これでも、聖書は私なりに真面目に読んでいるつもりですし、キリスト教についても真剣に考えているつもりです。信じていただけないかもしれませんけど・・。というか、真面目に、真剣に聖書を読んだり考えたりすると、却ってワケわかんなくなりますね。
 まあ、単に察しが悪いだけかもしれませんが・・。そういえば、ペテロも察しが悪いというか、いまいち空気が読めないところがあって、イエスによく叱られる印象がありますね。なんていうか、絶妙なボケとツッコミというか・・。

>だからこそ神はついに自分の独り子を武器を持たさずに送りこんだということになるのかもしれません

 しかし、現実にイエスについてきたのは、どう考えてもダビデタイプの救世主を期待しているユダヤ民族主義者が大部分で・・。なんでまた、イエスってこんな過激派を連れて歩いたんでしょうね?いずれ、彼らの怒りやら憎しみやらを買い、裏切りを招くことはわかりそうなものなのに・・。また、どうして自分は旧約でいうところのメシアとは違うってあっさり認めなかったのかな?とも。

>ゴリアトを投石で殺した若きダビデ

 重箱の隅をつつくわけじゃないんですけど。私は以前、ダビデは投石一発でゴリアテを殺した、とばっかり思いこんでいたんですが、聖書を真面目にじっくりと読んでみると違いました。
 確かにダビデの投石はゴリアテの額に命中するんですが、致命傷にはなっておらず、戦闘不能に陥らせただけ。そこから、ダビデは倒れたゴリアテに駆け寄り、ゴリアテの腰に差している剣を奪い、とどめを刺し、首をちょん切って絶命させた・・、というのが聖書の記述ですね(新共同訳聖書 サムエル記上17章49〜51節)。
 聖書を真面目に読んでみると、聖母マリアとかイエスの誕生(馬小屋で云々)とか、教会や一般的に信じられている伝承と実際の聖書の記述って微妙に、あるいは全然違っていることが多くて、なんだか戸惑ってしまうことが多いです。

 それにしてもなぁ、ダビデに関してはやっぱり納得がいかない、どう考えても神様を一番ナメている人物としか思えないんですが・・・(笑)。

507今紫:2011/01/08(土) 23:49:46
謹賀新年
 竹下先生、明けましておめでとうございます。そしてお久しぶりです。

 昨年は複雑な年でした。サタンが勢力を伸ばしているようです。
さて、先生の著書である『陰謀論にダマされるな』を拝読しました。確かに事件やスキャンダルの裏には陰謀が存在するといわれますが「陰謀論」になりますと、却って物事の判断を誤らせる危険性があることを知りました。私は中丸薫氏やベンジャミン・フルフォード氏の著書やサイトを拝読することがありますがこれも決して惑わされないようにすることが大切なのですね。
 おしまいに著名なエクソシストのアモルス師の言葉で覚えている箇所があります。
 「オカルトの木は真の信仰が翳ると育つ」
 イエス様が「偽預言者には警戒せよ」とおっしゃっているのと同じです。真の信仰をゆるがせる「陰謀論」「カルト」「ニューエイジ」「マシューブックス」に対してどの様に接したらよろしいのでしょうか?
 『聖者の宇宙』も拝読しました。改めて聖人の世界を味わうことができました。どんな英雄や偉人、新宗教(カルト)、各宗教の原理主義も彼らには敵わないでしょう。本年の活躍を期待いたします。

508迷える大羊:2011/01/09(日) 12:41:06
不信感
 >不信感

 ああ、これはですね。まあ、以前から抜けない疑問、でこちらでも何度かお話しさせていただいてはおりますが、キリスト教やクリスチャンの世界では、聖書にどんなに理不尽な話、明らかにひどい話があっても、「これは何か意味があるに違いない」「いや、聖書は侵略、略奪行為を正当化などしていない」なんて無理やり思いこまなければいけないんですかねぇ・・ってことですね。

 正直、私、旧約聖書にはどうにもついていけないものを感じることが多くって。ダビデの話なんてまだいいんです。どうにも個人的に「これは問題だ」と思わざるえないのは、ヨシュア記。

 神様はイスラエルの民に「足の裏が踏むところすべてをあなたたちに与える」と約束。しかし、そこにはすでに異民族が居住。で、主はどうしたか、っていうと、城門を閉じて抵抗する(当たり前ですね)現地人(異民族)への攻略方法をイスラエル人に指南した上、略奪行為に「お墨付き」を与えているのですから恐れ入ります。
 とにかく、イスラエル人に占領された異民族の街は男も女も若者から老人に至るまですべて抹殺されたのだからすさまじい限り。

 これ読むと、「ああ、道理でパレスチナ問題は解決しないはずだ・・」とため息が出てきますね。第三者や非ユダヤ教徒、非クリスチャンからすると「超勝手」「自己中」、としか言いようがない理屈、所業でも、イスラエルの民、ユダヤ教徒からすれば「主のご命令」だし、占領地は「約束の地」なのですから、話がかみ合うわけないですし。

 でも、私がわけあって関わっている教会(プロテスタント)の牧師さんなんかは「聖書は侵略、略奪行為を決して正当化していない」って言い張るんですよね。察しが悪く、素直でもない私などは「ええ??どこをどう読んだらそんな風に解釈できるんだ〜??」と頭を抱えざるえないんですが・・・。
 ていうか、クリスチャンの世界じゃ、たとえ聖書でもおかしい個所はおかしい、っていったり考えたりしたらいかんのかなぁ、という疑問と、何か必死に自分の理論を正当化しようとして、歪曲に歪曲を重ねている姿が見えてくるようで、白けてしまいました。

 どうも、聖書の過剰な神聖化は考えものだなって思うのと、別にカトリック関係者のサイトだからいうわけではないのですが、聖書に対する接し方とか距離の取り方はカトリックの方が「健全」かもなぁ、と思った次第です。

 あと、私のイエスやキリスト教についての考え方っていうのは、時に過激なこと、首を傾げたくなるようなことも言ったりやったりする、胡散臭いところもあるけれど、でも、その教えや生きる姿勢には共鳴するし、この社会において様々な良き部分を担ってきた、特にあまり目に見えない部分での良き部分を担ってきた、その存在が世の中や自分を良い方向に変える可能性を信じます、といったもの。

 しかし、「この程度」ではクリスチャン失格みたいなんですね。「それじゃ、ガンジーなど、一般の偉人と同じなんです、信仰にはならないんです」のだそうです。さらに「イエス様がこの世に来られたのは人が虫けらになったことに匹敵するすごいことなんです」なんて熱く語られてしまいました。
 キリスト教にシンパシーはこれでもあるんですが、そこまで「強烈」に「信じる」ことを求められるんじゃ、厳しいな、と思った次第。

 ところで、うまく言葉で言えないんですが、先生やこちらに集う皆さんの信仰の「度合い」ってどの程度のものなのでしょうか?やはり、私程度の「信仰」は「甘すぎる」「生ぬるすぎる」ものなんですかね?

509Sekko:2011/01/10(月) 07:21:46
今紫さま
ご愛読ありがとうございます。

確かにキリストも釈迦も、呪術的な世界から人々を解放しようとしているのはすばらしいと思います。

それでも人は自分や大切な人の老病死などを前にすると、どんなあやしいものにでもすがってしまいますし、神仏も願いをかなえてもらう取引相手のように見てしまったりします。最悪の場合は、自分や自分の大切な人以外の利益や安全は損なわれてもいいくらいの気にもなりかねません。だとすると、「サタン」はきっと私たち一人一人の心に潜んでいるのでしょう。それを飼いならし、すべての人にとってそれぞれ一番いい道が開けるようにと願うばかりです。

今紫さんにとって今年が充実したものとなることをお祈りします。

510Sekko:2011/01/10(月) 08:24:56
大羊さま
まず最初に、これは、「善意の近所のおばさん」程度のスタンスでのお答えなんで、それ以上のものではないことをお断りします。

大羊さんが、もし、そんなに、

「聖書についてみんなと同じように考えるのでなくてはうちの共同体の仲間に入れてやらないよ」

だとか

「うちの仲間になるのなら、うちの考え方に完全に合意しなくてはならないよ」

というタイプの共同体と関わっているとしたら、大羊さんが向こうを変えることは絶対にできないと思うし、よほど洗脳されない限り納得できることもないと思うので、細部にこだわって悩むのは時間の無駄だと思いますよ。

キリスト教は旧約部分を聖典に取り入れることでキリスト教が歴史的にどう位置付けられてユダヤ教を普遍宗教として仕上げるに至ったかを明らかにしているわけですが、

民族宗教であるユダヤ教の文脈では神さまは明らかに民族神であり、氏神みたいなものですから、他民族の利益なんて眼中になくても自然な感じがします。

でも、多神教が一般だった世界から、「私だけを拝め」とオンリーワンの方向に進化したユダヤ教の一神教体質のおかげで、地縁血縁を超えたすべての人がキリストの名のもとで救われるという普遍宗教が誕生したのだから、普遍主義擁護の私の立場としては感謝です。

イエスもユダヤ人によるバイアスのかかりまくっていたユダヤ教を普遍的な隣人愛に敷衍ししてくれましたし、神との契約や律法を解釈する人々の恣意性を批判しました。それに続く人たちも、人種民族性別立場の差を超えて誰もがキリストの体の一部として永遠に生きる有機体を構成しうるというイメージを与えてくれたので、その連帯生命力の可能性の前では、旧約のヘンなところのごり押し正当化など、無意味というよりマイナスととられても無理ないですね。

普通のキリスト教シンパの人は、ただ、自分より弱い者や小さい者を気づかう、大きくて強いものより小さくて弱いものを優先する、という教えだけ、実践をできるだけ心がけるだけでよく、キリストやキリスト教の名のもとにそういうことを実践している人を助けたりリスペクトするだけでいいと思います。

もちろん他の宗教でも同じような利他の勧めはありますし、それは結局、あまりもの極端なエゴイストは人間の歴史の中で結局自然淘汰されて、ある程度の利他に価値を認める遺伝子が生き伸びて社会を構成してきたからだと思います。そういう意味で利他には普遍性があります。

もちろん、強いものが弱いものを縛り支配するという社会もいつの世にもあるわけですが、そんな時に、いつも勇敢で身を賭しても弱い人を救ってきた宗教者や信仰者は出ましたし、その価値は測りきれません。

キリスト教の場合、イエスを偉人として見ているだけではなく、その復活と聖霊降臨の場面で何かが起こったことによる信仰が核になっているので、それに関しては、その意味がインスパイアされるかどうか、または「回心」に至る歩み方は、人それぞれだと思います。

大羊さんの場合、大切な奥さまの関わる共同体ということで、どうしても「理解したい」と思われるのかもしれませんが、

じつは、最近ついブログ http://spinou.exblog.jp/15742118/
に書いちゃったんですが、他宗教とのすごく楽で平和な共存方法は、その共同体のことを宗教だと思わずにカルチャーだと思えばいいのではないでしょうか。

もちろん、信じている人たちにとっては宗教であるのですから、それを否定するわけではありません。でも大羊さん自身はまだ宗教を求める心になっていないし帰属欲求もない、だからその共同体を「大羊さんにとっての宗教」として吟味する必要もないということで、カルチャーとしてリスペクトすればいいのでは?

夫婦に別々の愛読書があったり、別ジャンルの音楽が好きでも、互いにけなしたり強要したりしなければ、理解をしあって棲み分けたり、たまに相手の好きなコンサートにつきあったりと、平和で豊かな関係が築けるのと基本的には同じだと思います。

本当に内面的な神との関係などは別でしょうが、所詮人間が集まって作る共同体には、その時々の組み合わせで特殊な展開をすることは大いにあると思います。

大羊さんのように健全な批判精神と奥さまを思いやる心があれば、きっといい方向に行くと思いますよ。今年がいい年でありますように。

511迷える大羊:2011/01/13(木) 04:43:34
聖書に従う、とは??
 いつも、お忙しい中、御丁寧に恐れ入ります。ところで、どうして私は、「それは聖書にいかに書いてあるかで判断します」とか「聖書は誤りなき神の御言葉」なんていっている人々をみると、イライラして、聖書のヘンなところをいろいろあげつらいたくなるのだろう?とあれこれ考えてみました。もちろん、聖書とか神だとかイエスだとかを貶めているわけでもなければ、バカにしているわけでもありません。

 で、結論としては、その「ウソっぽさ」もさることながら、自分の意見や自分の好き嫌いにすぎないものを「聖書の権威」を借りて正当化したり、自分の意見に対して自分自身で責任を持とうとしないその姿勢(それは神の御意志ですとか、聖書に書いてあるからとか)に苛立ちを感じるんだ、と気付きました。

 例えば、キリスト教の世界では同性愛者に大抵否定的です。で、同性愛者に否定的なクリスチャンは大抵、「聖書に罪と定めてある」と、聖書を引き合いに出します。これが、私からすると、非常に「ウソ臭く」感じてしまうのです。じゃあ、そんなことをいっている人々、そのように言うクリスチャンって、本当に聖書に定めたとおりの生き方をしているのか?って話です。

 確かに「同性愛者は死ななければならない」(レビ記18章22節、20章13節)と聖書にありますが、同じように、「反抗的な息子は殺せ」(申命記21章18節以降)と書いてありますし、また、「結婚している兄が死んだら、家系を絶やさぬように、弟が兄の妻と再婚しろ」(参照:申命記25章5節以降)とか、その他、面白いのとか過激なのとかが、いろいろありますが、そういった掟を全部守っているクリスチャンがいるかと言えば、そんな人は世界中探しても、まずいないでしょう。

 にも関わらず、同性愛の禁止(とか自分の個人的な主張、趣味趣向に沿う部分)に関してだけは敏感になって「聖書に書いてある」と言い出す人がいるわけです。
 自分が守ってもいないし、従ってもいないくせに、その聖書を盾に自分の主張を正当化する、聖書を自分の目的のために都合よく利用する、という根性が気に食わないのです。

 こういうことを言いだす人々って、聖書の記述で、自分が守り切れない、あるいは納得できないものは「神はこのような不完全な私をも赦してくださいます」などと言って逃れ、
 自分が守る必要を感じないものについては、「これはユダヤ教の律法であって、キリスト教はこれを克服した」などと言ってスルーし、 自分でも守れるな、これは、と思ったものについては順守を頑固に主張する、と・・。

 要するに、判断をしているのは自分の主観であって、聖書はそれに後から理由をつけるために都合よく利用しているだけだろ、と言いたくなってくるのです。自分の主観に過ぎないものを、神の意志、聖書の意志であるかのように称するのは、自分で判断したことや発言したことに対して自分で責任を取らない事にもつながるんじゃないの?それってある意味、聖書やイエス、神に対する冒涜なんではないの?と思うのですが・・。

 まあ、キリスト教に限らず、信仰にはこういった独善に陥る危険性は多かれ、少なかれ付きものだと思いますが、このような独善に対しては、どのように対処、あるいは自制すべきなのでしょうね?

512arikui:2011/02/14(月) 21:31:34
ようやく
質問ではないのですみません。ようやく日本でも「神々と男たち」が見られることになりました。お蔵入りかと心配していたのですがシネスイッチ銀座で3月5日から公開されます。ブログを拝読して興味を持っていたので楽しみです。

513:2011/02/19(土) 23:54:37
ルカの福音書第16章
ルカの福音書第16章は聖書中の最難関といわれています。不正な管理人のたとえが記載されています。

イエスは、弟子達にいいました。

主人に一人の会計管理人が雇われていました。この男は主人の財産を無駄使いしていると告発する者がいました。主人は会計管理人を呼んでいいました。

「あなたのことについて聞いていることがありますが、本当はどうなのですか。会計の報告を出しなさい。管理を任せておくわけにはいきません」

会計管理人は考えました。

(どうしようかな。主人は私から会計の仕事を取り上げようとしている。土方をする力もないし、乞食をするのも恥ずかしい。そうだ、いい考えがある。会計の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような人を作ればいいんだ)

そこで会計管理人は主人に借りのある人を呼んで、最初の人に

「私の主人にいくら借りがあるか」

と聞きました。

「油100缶だ」

というと、会計管理人は

「これがあなたの証文です。急いで50缶と書き直しなさい」といいました。

また、別の人に「私の主人にいくら借りがあるか」と聞きました。

「小麦100俵だ」というと会計管理人はいいました。

「これがあなたの証文です。80俵に書き直しなさい」

主人はこの、不正な会計管理人のやり方をほめました。

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、あなたはがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえるでしょう。ごく小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。ごく小さなことにも忠実でない人は、大きなことにも忠実ではありません。だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値あるものをまかせるでしょうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたのものを与えてくれるでしょうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を軽んじるか、どちらかです。あなたがたは、神と富に仕えることはできません」

この「主人」は原典では、ルカがイエスにだけ使用した「ホ・キュリオス」となっていますので、通説では「主人」はイエス自身であるとされています。また、このたとえは弟子達に話されています。

イエスの会計管理人は、ユダですので、これはユダへの皮肉なのかもしれません。ユダは横領の疑いをかけられていたのかもしれません。

俗説では、「富の追求の批判である」とか、「唯一無二の主人であるべき神への忠誠の勧めである」などといわれていますが、はっきりしないように思います。教会の関係者に聴いても、明瞭な解釈を示してくれた人はいません。直後に、この話を聞いていた金に執着するファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑ったと書かれています。

禅問答のようなこのルカの福音書第16章ですが、聖書というテキストの奥深さを感じさせてくれる一章だと思います。

ルカの福音書第16章について、どのようにお考えでしょうか。長年の課題ですが、まだ、はっきりした結論がだせないでいることの一つです。

514Sekko:2011/02/20(日) 20:53:46
ルカ16章
いいテーマですね。

私はイエスのたとえ話の中でこの手の、説教者が「・・・」となってしまいがちなものが好きです。初期教会の頃から、「不都合なエピソード」を削除するチャンスがいくらでもあったと思うのにちゃんと残しちゃうのが、かえって本物っぽい感じがするからです。

「神からのお告げ」というのは言葉にした途端に何らかの解釈や恣意が入りそうですが、周りの人と同じ言葉を使って話していたイエスの言葉の聞き書きって、もちろん伝聞の不確かさはあっても、「ちょっと変」なものを残しているところが誠実な感じがします。

特にこの話は、

「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らより賢くふるまっています。」

と、明らかに、信者にとって一見「不都合」な対比がありますからね。

まあ、いろいろなこじつけに近い解釈がたくさんあり、一番まともそうなものは、その前の「失くした銀貨の話」や「放蕩息子の話」の流れで読むことで、神の前では数字の多寡などこの世の物差しは関係ないという風に読むものです。また、「金を作るより友達を作ることの方が大事」という意味だとか、「ここでの『金』とは愛のことで、愛を独り占めにするとよくないので他の人にも大盤振る舞いをすることで赦されるのだ」とか、「誰でも自分の罪を十字架のキリストに背負わせて購ってもらうので、その手続きを罪人が他の罪人にしてもいいのだ(つまりここでは、横領していた人が、勝手に別の人の借金も軽くする)」という意味だという人もいます。

私は、今のネオリベラル経済の世界の中での格差の問題とアラブ社会で次々と起こりつつある民主主義革命との関係を見ていると、このエピソードがよく分かります。

いや、このエピソードが「よく分かる」というより、このエピソードを通して見ると現実世界の状況がよく見えてくる、といった方がいいでしょう。

聖書の「?」な箇所、特に「科学的に見て『?』な箇所」の取り扱いには、一つは非神話化というか、ここはシンボリックな意味であり実はこういう意味なのだ、という風なやり方があります。でも、聖書の記述を無理に「リアル」に合わせるよりも、「リアル」の出来事を、聖書の記述を通してシンボリックに解釈していく方が、目が開かれることがあると思います。

長くなるので私の見方については別のところでまた書いて、あらためてここでお知らせします。

http://setukotakeshita.com/

515:2011/02/21(月) 00:16:18
マタイの福音書第8章
子供の頃、カトリック系の学校に通っていたため、聖書は、若い頃から比較的よく読んでいました。処女受胎や復活の奇蹟話は、古代人の牧歌的な物語だと思っていました。それでも、イエスの言説には、いくつか興味深いところがありました。例えば、マタイの福音書第8章のローマ軍の百人隊長の僕の病気を直すところなどです。

当時のエルサレムは、戦後の日本がアメリカの属国だったのと同じようにローマの支配下に置かれていて、ローマ軍が街を闊歩していました。そうした中でこの事件は起きたものだと思います。

民衆の中にいたイエスは、ローマ人の百人隊長から「部下が中風で寝こんでいるんだ。何とかしてやってくれ。そいつの家に行かなくたってお前ならできるだろう。俺だって別に動かなくても、手下の兵隊どもに行けといえば、行くし、来いといえば来るのだから、お前ほどの力があれば、部下のところに行かなくても、ここでできるだろう」といわれます。

百人隊長の手下達は、面白おかしくイエスを嘲笑したかもしれません。

この時、イエスは、ユダヤの民衆に向かって毅然とこういいます。

「皆さん、お聴きになりましたか、この隊長さんは本当に素晴らしい方です。イスラエル中探してもこの方ほど信仰に厚い方はいないでしょう。そう、いつの日か、東西から大勢の異国の方々がやって来て、天の国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくでしょう。隊長さん、お帰りなさい。部下の方の病気はもう直っています」

子供心に、この状況下で、とっさにこの対応をしたイエスという男を心底すごいと思ったのですが、カトリックの教会関係者に聞くと、この話は、最初からすごく熱心なイエスの信者だったローマの百人隊長が、懇願してイエスに部下の病気を直してもらった奇蹟話だと、皆、一様に主張します。

マタイの福音書第8章についてどう思われますか。長年の懸案の一つです。

516Sekko:2011/02/21(月) 01:33:40
百人隊長の話
ここのところはそんなに不思議だとは思いません。

百人隊長は別にそんなに挑発的な態度をとったのではなくて、むしろ懇願していたのでは?

「自分はあなたにふさわしいものではないですが頼みます。」と謙虚なイメージもあります。

ここのところで私がすぐ思い出すのは前に訳した『聖骸布の仔』(中央公論新社)の中で(p157)、主人公がこのくだりを思い出して、「自分はとてもあなたをうちに迎えられるようなものではありませんがひと言だけ言ってください」と願うシーンです。
ローマ人の家にユダヤ人が入れないという事情を差し引いても、ここは、「直接に触れていただくのは無理ですがひと言だけでも・・・」という切羽詰まった気持ちが背景になっています。このエピソードはルカやヨハネにも類似のものがあるので比べて見てください。

あ、今、日本語で検索してみましたら、こういう分かりやすいものがありました。

http://gnarly.at.webry.info/201009/article_7.html

ご参考に。

この話で私にとって面白いのは、「遠隔治療ができるかどうか」というテーマです(すみません、信仰とあまり関係がなくて)。

触ってもらうのはもちろん、言葉をかけるだけとか、後ろから衣に触れるだけで癒されるとか、いろんなイエスの「奇跡」がありますが、

「あなたの信じたとおりになりますように」という言葉がもらえるのは最高ですね。

日本にキリスト教宣教師が来た時も、加持祈祷の僧たちは病人のそばにつきっきりで平癒祈願をしたのに効かなくて、宣教師たちは「自分ちで祈って治した」ので感心されたというようなエピソードもあるようですが、今のカトリックの聖人システムにおける「奇跡の治癒」も、その伝統にあるんでしょう。

まあこのエピソードのヨハネ・バージョンではイエスも「不思議なわざを見なければ決して信じない」というのはいかがなものか、という態度を見せていますが・・・

「遠隔治療」は今でも「実はよく聞く話」でもあるので、すごく興味があります。

その治癒を本人か近くの人が必死に望まないと「ひと言」は伝わらないのかもしれません。される方が望まないのに遠隔操作できたら呪いだってかけられてしまいそうで怖いです。

日本でミッションスクールに行かれていた方たちは、みなそれぞれに聖書の一節などにいろいろな思い出や思い入れもおありなんでしょうね。回りとちょっと切り離されているから独特な感じで残るのかも・・

http://setukotakeshita.com/

517:2011/02/22(火) 03:37:15
イエス・キリストの本質
外典のトマスの福音書には次のような記載があります。

あるとき、イエスが村の道を歩いていると、一人の少年が走ってきてイエスの肩にぶつかった。イエスは腹を立て、「この道を二度と歩けないようしてやる」と言い放った。すると、その子はすぐに死んでしまった。その子の親は、驚き、怒り、イエスの父であるヨセフの家にやってきて文句を言った。「こんな恐ろしい子と同じ場所に住むことはできない。この子を連れて、村を出て行くか、それとも、このような呪いの言葉を二度と口にしないよう教育することだ」と。ヨセフは、イエスを呼び、叱ったが、イエスは次のように答えた。「お父さんの気持ちもわかりますから、そのようなことは口にしないようにします。でも、あの人たちは、必ず罰を受けることになりますよ」まもなく、イエスを訴えた人たちは、みな目が見えなくなった。それを知った人々は怖れおののき、イエスが口にすることは、善いことも悪いことも、必ず成就すると言い合った。

また、正典のマタイの福音書第21章には、次のような記載があります。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかに何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』といわれると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」

神の子イエスの悩み、苦しみの原点は、こうした事象の積み重ねのなかから形成されてきたものなのではないかと思います。

「山上の垂訓」はイエスのオリジナルではなく、エッセネ派のテキスト死海文書にその原型を見ることができますが、イエスの伝えるところに奇妙な説得力があるのは、だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向け、下着を取ろうとする者には、上着も取らせないと、その者達が、いちじくの木のように死んでしまうためなのではないか、そういう懸念を常時、持つなかで培われてきた思考なのではないかと思うわけです。

反対に、神の子イエスを信じ、敬愛する者には、様々な神の恩恵とご加護がもたらされています。キリストの復活の奇蹟により、その効力は、2000年以上たった今も健在で、数多くのキリストを敬愛する人々が、今も、その恩恵に預かっているのではないか。エトワールの素朴なキリスト教観は、以上のようなものです。

間違っているかもしれません。

遠隔治療についてですが、パソコンを通じてのネットでのボードゲーム対戦(囲碁、将棋、チェス、オセロ、バックギャモンなど)の経験がある方であれば、思いあたるのではないかと思うのですが。パソコンの向こう側にいる相手からパソコンを通じて強烈な気を感じることがあると思います。相手が強者の場合、それは、まだ、何の情報も伝わっていない開戦前の対面の時から不思議と分かるものです。この原理を応用すると、遠隔治療も可能であろうと思いますし、例えば、絵画、書、彫刻などを通じての時間を超えた治療というものも行えるのではないかと思います。

これも、間違っているかもしれません。

新約聖書は、繰り返し読んでいますが、特に誰かに教えてもらったり、解説書を読んで、定説の解釈を覚えたりしたことはありません。あるがままに自分自身が、テキストから読み取れた内容について、時間をかけて考えているだけです。もちろん、キリスト教徒ではありません。それでも、この思想は、非常に魅力的な古代の思想であり、また、有効なものだと思っています。

518Sekko:2011/02/22(火) 04:10:06
本質ですか・・・
そんな大仰なタイトルでへんな話を振らないでください。どうフォローしていいか分かりませんから。

この外典の話は確か、その後で、少年イエスに呪われた人たちは全員あっさり癒されるんですよ。
イチジクの話は何となく笑えます。このことについて、パレスチナ出身の人がイチジクの季節を知らなかったはずがない、これはイエスが青森出身の日本人だった証拠の一つ、っていう変な議論を読んだことがあるのも思い出しました。

まあ、深入りしても意味のないものはスル―してください。

これ以上お答えできないのでForum3の雑談に移動してください。

ネットゲームなどで相手の気みたいなのが感じられるとか、あるいはPCそのものがある時点でやけにパーソナルな反応をするというのは私も聞いたことがあります。おもしろいですね。死んだ人が電話とかテレビとかパソコンとかの回線を使ってコンタクトしてくるとかいう話もありますね。死んだら実験したいです。実はこういう実験をしようねとある人と約束していたことがないでもないんですが、実際は、怖くて怖くて・・・
自分が死んだらやってみたいですが、こちら側でキャッチするのは怖くて嫌です。

http://setukotakeshita.com/

519:2011/02/26(土) 08:55:29
ヒルデガルド・フォン・ビンゲン
こちらのサイトにあるヒルデガルド・フォン・ビンゲンに関する記載を大変興味深く拝見しました。

オーストリアの軍医ヘルツカによって紹介された薬草(ハーブ)研究家のヒルデガルドと中世の無伴奏ボーカル曲の作曲家ヒルデガルドが同一人物だということを初めて知りました。

彼女の挿し絵は、カール・グスタフ・ユングの象徴図(マンダラ)や仏教の曼荼羅によく似ています。また、幻視体験(ヴィジョン)の記述は、大乗仏教の仏典「無量寿光量経」と似ているように思います。

中世ヨーロッパ最大の賢女と言われているのもうなずける気がします。

バーバラ・ニューマンの「ヒルデガルト・フォン・ビンゲン 女性的なるものの心理学」(村本詔司訳 新水社)がよい研究書といわれているようですが、他にも、ヒルデガルドに関することが記載されているよい邦訳本はあるものでしょうか。

少し、研究してみたいと思っています。

520Sekko:2011/02/27(日) 07:35:20
ヒルデガルド
彼女のことは是非まとめたくて、サイトに少しずつ書いていこうとしていたのですが、後回しになっています。

日本語では種村季弘さんの『ビンゲンのヒルデガルトの世界』を読んだことがありますが、私的には今一つでした。フランスにはいろんな切り口のものがあります。
私もいつかは挑戦したいです。

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521:2011/03/04(金) 03:10:50
エフライムの木
旧約聖書のエザキエル書第37章に次のような記載があります。

主の言葉がわたしに臨んだ「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上にユダおよびその友であるイスラエルの子孫のためにと書き、また、一本の木を取って、その上に、ヨセフ及びその友であるイスラエルの全家のためにと書け。これはエフライムの木である。あなたはこれを合わせて、一つの木となせ。これはあなたの手で一つになる」

日ユ同祖論の根拠とされる旧約聖書の記述です。


旧約聖書の系図です。

アブラハム = サラ
     ↓
イサク = リベカ
     ↓
エサウ(兄)
ヤコブ(弟) = レア(姉)
        = ラケル(妹)
        ↓
       ユダ他
       ヨセフ = アセナテ
           ↓
          エフライム


古事記の系図です。

スサノウ = アマテラス
      ↓
オシホミミ = トヨアキツシヒメ
      ↓
ホアカリ(兄)
ニニギ(弟) = イワナガヒメ(姉)
        =  コノハナサクヤヒメ(妹)
        ↓
       ホデリ他
       ホホデミ = トヨタマヒメ
            ↓
       ウガヤフイアエズ

この二つの系譜の構造はそっくりです。

1 エサウもホアカリも毛人といわれていました。

2 コノハナサクヤヒメとリケルは絶世の美人で、レアとイワナガヒメは今一つの容姿です。ニニギとヤコブは、この姉妹をいずれも妻にします。

3 ホデリ(海幸彦)は、ホホデミ(山幸彦)が釣り針を失くしたことを責めて海人の国へやります。そこでホホデミはトヨタマヒメと出会います。ヨゼフは、兄達にいじめられ、エジプトへ売られて行きます。そこでアセナテと出会います。

ウガヤフキアエズとその妻タマヨリヒメの子供が神武天皇ですので、この系譜の一致は、とても不思議なことだと思います。

個人的には、8世紀の創作物である古事記に、聖徳太子の厩戸伝説などとともにネストリウス派キリスト教(景教)の影響が色濃く反映されたものなのではないかと思っていますが、長年の関心ごとの一つです。

エフライムの木=古事記と旧約聖書の系譜の構造の一致について、どう思われますでしょうか。

522Sekko:2011/03/05(土) 01:18:53
相関?
一定以上の情報量のあるcorpusを比較して、「似ている部分」を取り出して並べて「偶然とは思えない相似」と驚かせる手法や「トンでも説」は山のようにあります。

その手際に感心させられることもありますが、その意図とかねらっている効果とかに警戒心を抱かされることも多いです。

宗教や民族に関する言説でそういう話をするのは誤解のもとなので、コメントしません。あしからず。

http://setukotakeshita.com/

523:2011/03/09(水) 23:37:33
構造主義
学生の頃、構造主義が流行していて、邦訳で、ソシュールの「一般言語学講義」やレヴィ・ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミッシェル・フーコーなどのテキストを読んでいました。言語、親族の構造、神話などから始まった構造は、その後、商品、貨幣、資本、無意識、狂気、囚人などへ対象範囲を広げ、さらには、料理、服飾、文学、チェス、サーカスなども構造主義の対象となり、ロラン・バルトにいたっては、プロレスまで構造主義の対象にしてしまいました。自分では、その頃、彼らを、皮肉をこめて「構造主義の達人」と呼んでいました。

ポスト構造主義については、よく知りません。

現在、構造主義は、フランスで、どのように評価されているのでしょうか。また、フランスの人々は、今でも、構造主義のテキストを読まれているのでしょうか。

ルイ・アルチュセールのテキストを一番熱心に読んでいましたので、1980年11月におきた不幸な事件には、ひどくショックを受け、その後、構造主義のテキストをあまり読まなくなりました。今でも、新聞報道を読んで、とても驚いた時のことを、思い出すことがあります。構造主義のテキストから、いろいろなことを学びましたが、自分では、まだ、完全には整理しきれていない感じです。

524Sekko:2011/03/10(木) 07:10:32
ポスト構造主義など
私も学生時代が構造主義全盛でした。なつかしいですね。
まあ構造主義がその後どのように展開したかなどはネットで検索するか別の一般質問掲示板にでも問い合わせてください。

私は日本で構造主義を知り、その後フランスに住んでいる者としての印象だけ言います。

言語構造主義が人類学や民俗学や比較宗教などに応用された時、それまで、日本にいて「欧米思想」を学んでいた人たちにとって、

東西の文化の差などは表面に現れた差であってその底には人類共通の語りの構造だの、普遍的な概念図式だのがある、と言われたのはちょっとしたグローバリゼーションというか、自分たちの言葉で自分たちの文化から構造を抽象してグローバルに語るという快感があったような気がします。

同時に、ほぼ並行して、すでにポスト構造主義のデリダの脱構築のような言説も入ってきました。「文化的差異の奥には普遍的な隠れた構造がある」というのはいわば理神論や無神論のヴァリエーションであり、一神教的ヨーロッパに中心となる視座をもつものである、という批判のもとに、構造が解体された中心なき相対主義が流行ることになったわけです。
文化や社会現象の意味は多様であって、構造主義の「構造」をなしていた二元主義的価値観の要素は否定され、すべてはグラデーションをなしているかのようでした。

この構造主義からポスト構造主義への推移は、常に疑似科学的な衣をまとっていました。キリスト教的自由意思を駆使したリベラルなユマニズムにおける人間主体の世界観から、非宗教的で中立的で普遍的な価値を探ろうとしたわけです。

そこにアメリカ的なコミュニタリアニズムだとかマイノリティの尊重などの流れも加わったので、日本では

「欧米中心主義の時代は終わったよね、今はアジアが面白いよね」

という動きも生まれまして、その一部は内向きになり、縄文文化礼讃とかナショナリズムにまで向かったように思います。

フランスではアングロサクソンの共同体主義に対抗する普遍主義の伝統があるので、「普遍主義の中での相対主義」という構造主義的立場が今でも根強くあります。
「普遍=絶対」ではないわけで、相対主義は、普遍主義が全体主義に向かわせない有効な歯止めとなっています。

それは思想のトレンドなどではなく、政治理念として残っているわけです。

今の世界は全体としてはまだまだ蒙昧や宗教原理主義や狂信や人権無視がはびこっていますから、過去にそれらに対する最も有効な防護策として登場した「普遍理念」自体を脱構築的に相対化して有名無実にしてしまうのは100年早いと私は思います。

フランス人の一般がどうとかは分かりませんが、

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

と考えている人たちが確実にいて、私はその一人です。

今のアラブ世界の民主「革命」を見ていて、自由とか民主主義というものがただのスローガンなのか、どの程度の普遍性と実効性があるものか、それらは果たして民族や文化によってヴァリエーションがあるものなのか、などについて考えています。

日本にとって「舶来」の自由とか民主主義は常に「言葉」であって、倫理的に決断して選択した行動規範ではなかったと思います。アメリカが持ってきたものも「言葉」で、彼らの行動は一貫してパワーゲームでした。

この辺の事情について今いろいろ考えているところです。

http://setukotakeshita.com/

525:2011/03/17(木) 23:04:58
普遍主義
3月11日に発生した大地震の被災地に在住していましたので、パソコンが不通になり、返信が遅れてしまいました。

とても丁寧な回答をいただきましてありがとうございました。何度も繰り返し、丁寧に読み返しました。

「理念や価値観というのは、個人や社会にとって、具体的な行動の規範になる選択を倫理的に決断したものであるべきだ」

という考え方は、自己の無意識に忠実に粗野に生きている自分自身には、縁遠い感じの生き方のように思いましたが、そういう風に過ごすのが、本当は一番よい生き方なのではないかと思いました。

構造主義以外にも、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識、チョムスキーの生成文法、ジョルジュ・バタイユの蕩尽、カール・ポランニーの経済人類学、マイケル・ポランニーの暗黙知など、1970年代〜1980年代に流行した思想は、普遍主義を元にしたものが多かったように思います。

例えば進化論にしても、日本には今西錦司教授の今西進化論が、多くの支持を集めていましたし、吉本隆明の共同幻想、廣松渉の物象化論なども、広義の意味での普遍主義に位置付けられるのではないかと思います。

デカルト、べーコン以降、近代の主流となっていた「主観−客観」図式(二元主義的価値観)から、ハイデッカーの「世界−内−存在」図式の出現を踏まえ、ベトナム戦争、ドルショック、オイルショック、公害、オカルトブームなど1970年代に起きた様々な事象から「近代の終焉」とか「近代の超克」というテーゼが、掲げられていた頃のことです。

これらの思想潮流が十分総括されないうちに、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊し、オウム真理教の一連の事件が起き、世紀末を迎え、9.11が起き、イラク戦争を経て、今日を迎えています。

今は、思想的にも、とても混乱した中にいるような気がします。シンプルで分かりやすい明瞭な新しい思想潮流が現れることを期待しています。

そうしたもので、何かご紹介いただけるよい知らせはないものでしょうか。

526:2011/04/06(水) 21:19:25
現象学について
現象学の定義がよくわかりません。
? ある本には、"主観と客観の融合"であるとか、ある本では"実在の予想に基づく態度を排除し、ありのままの「事象そのもの」を明らかにするもの"とか本によってさまざまです。わかりやすく簡潔にお願いします。

メルロ・ポンティについて
(1) 彼によると、"私たちは身体によって他者や世界と関わっている"(身体図式)ということですが、これは物事を認識するにあたって、身体で感じるもの、身体に触れるものでなければ、認識できてないという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(2) 彼の"身体図式"の説は、どういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??と関連して、お願いします。

527:2011/04/06(水) 21:20:40
フッサールについて
本に、"自然的態度を変更し、世界の存在を括弧にいれて(判断中止=エポケー)、そこにあらわれる志向性を有する自我意識を観察すると、世界の意味がわかってくる"とありましたが、
(1) 彼のいう「志向性」とは、人間がもっている"思い込み"と解釈してよろしいでしょうか?
もし違うのであれば、ご教授願います。
(2) "世界の存在を括弧にいれて"とは、どういうことでしょうか?
(3) これは、「あす事象がある」という前提をいったん保留して、ある程度自分のもっている知識や情報をもとにある認識を解明すると、その意味が確信できるという解釈でよろしいでしょうか?
もし間違いであれば、ご教授願います。
(4) 彼の説のどういうところが"現象学"と呼べるのでしょうか??

528:2011/04/06(水) 21:22:03
現象学
「実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。
彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?

529Sekko:2011/04/11(月) 07:53:42
現象学について
エクリチュール千代丸さまへ

哲学質問箱と言った言葉で検索してここにたどり着かれたのかとお察ししますが、申し訳ありませんが、ここは一般的なあるいは教科書的なお答えをする場所でないので、別の質問サイトや、あるいはキイワードの検索でお調べください。

ここを見ていらっしゃる私の読者のみなさんのためにひとこと付け加えておきますと、私は、カトリック神学と現象学の関係に非常に興味を持っています。

フッサールの弟子だったエデイット・シュタインが現象学を捨てて神学に向かったのとは反対に、後にヨハネ=パウロ2世となるカロル・ヴォイティラ(以下JP2)は、神学と現象学(これもシュタインと同じくフッサールの弟子でユダヤ系でカトリックに改宗したマックス・シェーラーの価値倫理学がJP2の学位論文)を統合しました。スコラ哲学のトマス・アクィナス神学を現象学によって読み替えたのです。トマス神学では、神にのみ絶対の権利を認め、人間同士の権利や義務は相対的な関係性にあるという立場でしたが、JP2は、倫理や価値は人間の外にあるのではなく人間の自己像という意識化と切り離せないものだと考えました。
私が行動を起こす、という能動と、何かが私の中で起こる、という受動の二つが、内在性と超越性というものが同時に作用しあうという意味で、自己表現に結実すると考えたのです。(Personne et Acte)

まあ簡単には説明できませんが、結論から言うと、現象学的倫理学に依拠するカトリック神学を模索した結果、JP2は「基本的人権は共同体に優先する」という方針に至ったわけです。それまでのカトリック教会は、そこのところが曖昧というか、自分たちも共同体優先だったので、20世紀の全体主義や全体主義的共産主義に対して明確な弾劾ができなかったのです。
ところがJP2はトーミズムの現象学的再考によって、むしろ福音書のイエスに近いラディカルな平等主義、個人の尊重、共同体の縛りからの解放、自律としての自由を志向したので、あれほど徹底した社会主義陣営との戦いを展開できたわけです。

これらについては今準備中の本でもう少し分かりやすく解説するつもりです。

ここではこのテーマは打ち切りですのでよろしく。

http://setukotakeshita.com/

530:2011/06/05(日) 15:24:17
post modern
竹下さんお久しぶりです。小谷野敦です。震災以来、まともな知性の持ち主まで陰謀論にはまっていて困って竹下さんの本を見てみました。すると「ポストモダン」という語が出てきたので気になりました。私はポストモダンというのは建築の用語以外には使えないと考えていますが、竹下さんはどういう定義で使っておられるのでしょうか。

531Sekko:2011/06/05(日) 23:14:22
ポストモダン
私の『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)で使われているのは、陰謀論を解説する心理学者が使っているという文脈だと思いますが、そこでは、ごく普通に、つまりWikipedia なんかで出てくる程度の意味です。「大きな物語」の終焉とあるように、リオタール風の意味でもあります。世界は民主主義と人権主義、自由平等、という方向に向かって「進歩」していくはずだし、進歩しなくてはならないという確信に基づいた歴史観があって、それに基づいたシナリオが構成されていたのが「西洋近代」であり、ポストモダンとは、その西洋中心史観が崩れて脱中心、相対主義が基本になった、という意味です。歴史の流れを説明する教科書的権威が否定されたので、そこに陰謀論が繁殖する土壌が用意されたという感じでしょうか。

私個人的には、「西洋近代」とは、キリスト教的理念の非宗教化、世俗化ととらえているので、ポストモダンとは、「西洋近代」の基盤をなす世俗化されたキリスト教的理念の否定だと考えています。「西洋近代」は反教権的イデオロギーの理神論に拠って打ち立てられたもので、ポストモダンは、さらにそのイデオロギーを否定したものであり、そのままでは「非キリスト教社会」の文化の文脈には組み込めないものだと考えています。つまり、20世紀後半にフランス構造主義などによって広く共有された近代批判とは区別して考えています。
『陰謀論に・・・』は、その前の『無神論』とセットになって構成されたものです。

これについて話し出すと長くなるので、ここではこれだけで失礼します。

http://setukotakeshita.com/

532:2011/06/06(月) 12:59:34
小谷野敦
どうもありがとうございます。リオタールの使い方はヘーゲルを前提にしたもので、竹下さんはポパーに言及しているので、ヘーゲルを踏襲するのは変だなと思ったのです。また、私の考えでは、人権・自由・平等といった理念は未だ全然否定されていないので、ポストモダンはおかしいだろうと思ったのです。

533迷える大羊:2011/06/15(水) 22:13:56
サムライとキリスト教
 先日、新聞の中の方をペラペラサクサク見ておりましたら、2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻・新島八重を主人公とした描き下ろしドラマに決定とか。

 新島襄はいわずと知れた、明治6大教育家の一人であり、クリスチャンであり、彼の創設した同志社大学はいわゆるミッションスクールです。その新島襄は安中藩士の家に生まれていますし、「武士道」で有名な新渡戸稲造(は盛岡藩士の息子、津田塾大学の津田梅子は旧幕臣の娘、内村鑑三(高崎藩士の家)、坂本竜馬の甥の坂本直寛・・、といった具合に、今さら何を、と思われるかもしれませんが、幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

 ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。
 個人的には、元新撰組で、坂本竜馬を斬った疑いが濃厚な今井信郎氏とか、元新撰組なのかどうかはあやふやですが、結城無二三とかに興味ありますね。単純にあの斬ったはったの血で血を争う抗争に明け暮れた日々からクリスチャンというのはなんともすごい転身、いろいろな紆余曲折、第三者からみると面白い人生を歩んだんだろうな、と思いますし。

 ところで、サムライといえば、海外では未だに日本のステレオタイプの主要な位置を占めているようですが(こんな動画がネット上に腐るほどありますし)、

http://www.youtube.com/watch?v=1-C40DliUTI&amp;feature=player_embedded

 そのイメージは肯定的なものなんでしょうか?それとも否定的なものなんでしょうかね?
ただ、いずれにしても有名なのは戦士、軍人としての部分で、こういう側面(宗教家、教養人)はあまりしられていないんだろうなぁ、とは思いますが・・。
 

534Sekko:2011/06/16(木) 06:17:59
明治のクリスチャン
>幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?

>ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。

やはり、当時の知識人階級が「洋学」を吸収するのとセットとなって入ってきたからではないでしょうか。いくら「和魂洋才」といっても、19世紀後半にピークに差しかかっていた西洋近代進歩思想は、特にプロテスタント国やWASP文化と結びついていたから、洋「才」を学んだエリートが洋「魂」にも染まったのは不思議じゃないと思います。

それに比べてフランスなどカトリック国は、その時代、もうがちがちの政教分離へと向かっていたので「洋魂」部分はかなりパーソナルなものになっていたかと思います。

もちろんフランスのパリ外国宣教会などは、開国した日本に宣教師を送っていましたが、17世紀に壊滅したはずの幻のキリシタンの子孫を見つけようといったところにロマンを見出していたような気もします。

要するに、カトリックは16世紀にイエズス会とかフランシスコ会とかが、かなりがんばって日本で布教したのに弾圧されて大量の殉教者を出して、一度、ストーリーが終わっていたわけです。それでも、それに対するノスタルジーみたいなのはずっと語り伝えられていたわけで、そのこだわりはなかなかでした。隠れキリシタン発見の感動ストーリーなど有名ですね。

16世紀末から17世紀はじめにかけての大量殉教者と武士道との関係を述べる人もいますよ。
あの頃すでに戦略として大名が宣教されたこともありますし、家長が改宗したら一家郎党全員改宗という感じだし、一度改宗したら後でいくら迫害されても「節を曲げない」というのも武士的美学のうちだし、それなりの相性はあったのかもしれません。

サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙ですが、今でもフランスでは柔道や合気道のスポーツクラブによくついている名前だし、ネガティヴではないと思います。ま、教養人というよりはやはり体育会系のイメージですけれど・・・

http://setukotakeshita.com/

535迷える大羊:2011/06/17(金) 21:45:08
ステレオタイプ
お忙しい中、どうも。

>政教分離

 日本が鎖国中の18,19世紀にフランスなんか、かなり政教分離が進んじゃいましたからねぇ。今でももっとも「真面目に」政教分離している国ではないでしょうか?フランスって。
 ただ、日本においてはなんだかんだいっても信者数はカトリックの方が多い(プロテスタントより)ですね。カトリックは一般人にターゲットを絞って、プロテスタントと棲み分けたのかしらん?と勝手に想像してしまいました。

>サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙

 あの神風特攻隊の日本のイメージダウンに果たした役割は果てしないものがありますね。もちろん、個々の特攻隊員には同情しますけども。それにしても、今だにサムライが日本のステレオタイプになるくらい、日本の現状って一部を除く海外の国々には知られていない事実には溜息がでますねぇ。
 しかし、単純に国力だけみれば、中国に抜かれたとはいえ、世界有数のもの。そんな国がこれだけ存在感が薄い、ということは今まで世界史上であったんでしょうか?

536迷える大羊:2011/07/24(日) 13:11:15
リアル・イエス
 今から10年も前の話ですが、BBCで放送された科学ドキュメンタリー番組「神の子」にて。
 なんでも、マンチェスター大学法医学教室が、エルサレムで大量に発見された紀元1世紀のユダヤ人の人骨群の中から、当時の典型的なユダヤ人男性の頭がい骨を選出して「イエスの顔」を復元したそうで。

http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhb616.html

 クリスチャンの方とかキリスト教圏の人々にとって、やはり「実在したイエスの姿、声、振る舞い」、つまり、リアル・イエスに対する関心は昔から高いようですね。
 しかし、史料があまりに無さ過ぎて、結局、行けども、行けども推測の域を出ず、確か、100年くらい前だったか、ドイツのブルトマン(でしたっけ?)って神学者が

「聖書の記述はあまりにも神話的な表現に彩られていて、歴史のイエスを知る事はほとんど不可能だ」

 なんて言って匙を投げてましたね。要するにヴァーチャルでないリアルなイエスについてはさっぱりわからない、てなことで。
 ところで、考古学とか歴史学が将来、飛躍的に発達して、極端な話、タイムマシンが実現して、リアル・イエスの姿が判明した場合、クリスチャンの信仰心にどういう影響が生じるでしょうね?

 ヴァーチャルでない、生身のリアル・イエスが「発覚」「発見」された場合、アイドルがスキャンダル発覚、才能の枯渇、加齢などで「幻滅」され人気が落ちるように、イエスについても同様なことが起きないでしょうか?
 思うのですが、リアルな生身の「人間」としてのイエスは綺麗ごとでない面が多々あるでしょうし。福音書ですら、故郷での評判は至って悪かったこと、家族関係はよくなかったことが、それとなく示唆しているくらいですしね。

 SF小説にも、英国のマイケル・ムアコックの「この人を見よ!」なんて、タイムマシンで2000年前の世界で、リアルのイエスやマリアに会ったものの、まったくの俗人で、失望し、結局、主人公自身が「イエス」の役割を歴史上で演じてしまう・・、なんて話がありましたね。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-SF-444-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4150104441

537Sekko:2011/07/25(月) 00:39:54
リアル・イエスのこと
この復元写真って、一世紀の典型的なユダヤ人の骨からって、あまりにもアバウトだと思いますが・・・
言動や女性に囲まれていた様子からしてもっと優男だったイメージはあるんですが。

人間としてのイエスが復元されたらどういう反応を引き起こすのかという物語『聖骸布の仔』(中央公論新社)を訳したことがあります。おもしろい小説です。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E4%BB%94-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3-%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88/dp/4120037231/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1311520250&amp;sr=1-1

また講談社ムック『聖骸布の男』に、聖骸布の実物大写真ポスターを載せたのは迫力があります。
私もコメントを書きました。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E9%AA%B8%E5%B8%83%E3%81%AE%E7%94%B7-%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%81%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B-G-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA/dp/406213957X/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1311520529&amp;sr=1-1

調布でコンプリ神父の話を聞くたびに、感動を覚えます。

コンプリ神父の本もどうぞ。

ムアコックの本も読んだことあります。

私は、聖骸布の真偽がどうあれ、イエスの生と死にまつわる「事実」関係がどうあれ、キリスト教の信仰の基本的なところは変わらないと思います。

でも他の神さまの、検証不可能な神話とちがって、人間だけれど復活したというミステリーが根本にあるのがいろんな人の好奇心を刺激して、「信仰」とは別に独特の世界を形作っているのは興味深いですね。

http://setukotakeshita.com/

538迷える大羊:2011/07/25(月) 20:37:21
リアル・イエス2
 お相手恐れ入ります。

 まあ、聖書はイエスの容姿について、何も語っていませんからねぇ。常識的に考えれば、大きくも小さくもない、イケメンでも不細工でもない、ごくごく普通のユダヤ人男性ってことになるんでしょうが・・。

>『聖骸布の仔』(中央公論新社)

 何やら、「ジェラシック・パーク」のイエス版みたいな話ですねぇ。ところで、なんでこんなスレをたてたか、と申しますと、前にも触れましたけれども、キリスト教の世界には、聖書やイエスにまつわることなら、なんでも「都合よく解釈」する人々がいて、たとえば、旧約聖書の、第三者からすると、どうみても残虐、ひどい話としか思えない、列王伝とかヨシュア記、ダビデの所業の部分をみても、「聖書は侵略行為を決して正当化していない(どこが?)」なんて言い張ったりするし・・・。

 また、福音書にチラチラ出てくるイエスのダークな部分、例えば、故郷で敬われなかったエピソードは、「それはイエスの正体を罪に満ちた不完全な人間たちには理解できなかったからである」とか、家族関係が悪かったように見える場面も「肉による家族には理解できなかったのである」・・、なんて、おいおい、よくそんな、都合よくというか、「相手が悪いんだぁ」みたいな自己中な解釈ができるもんだなぁ、と半ば感心、半ば呆れることがあるからなんです。

 まあ、なんていうか、そこまで何事も自分側に都合よく物事を考えれば、人生に悩みは少ないだろうなぁ、確かに「信じる者は救われる」だよ、と思ったと同時に神様を信じるって、そんな風に何でも自分側に都合よく物事を考えることなのかしらん?という疑問があるもので・・。ま、私の周囲だけの話かもしれませんが。

 そんな人々が、リアル・イエスを知ってしまって、なおかつ、それが自分の思い描いていた「イエス様」とまったく違っていたら、どう反応するのかしら?というちょっと意地の悪い疑問というか、想定を考えてしまったんですよね。

 まあ、イエス様は今まで通り、ヴァーチャルな神様であり続けた方が無難だし、世のため、人の為なのかもしれませんね。
 それにしても、こういうヴァーチャル神、アイドル、イエスを作り上げた、パオロのプロデューサー的な才能は大したものだなぁ、と改めて思います。

539迷える大羊:2011/10/10(月) 14:10:46
カルトとまともな宗教
 について、なんだかよくわからなくなっています。よく言われるカルトとまともな宗教の見分け方は、カネにシビアっていうか汚くない、危機感を煽ったりして恐怖で人を縛らない、ってことですが、それをいうなら、初期キリスト教会は「アウト」になりませんか?実際、ローマの歴史家タキトゥスは「有害な迷信」として、「カルト」扱いしてますし・・。

 イエスとか初期キリスト教も「世の終わりは近い! 悔い改めよ!」みたいなこと言っているし、カネについても、聖書にこんな話があったりしますし・・・。

 使徒言行録5章1〜11節(新共同訳聖書より)

1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事をしらずに入って来た。
8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 要するに、財産を正直に差し出さないと、献金しないと、天罰が下るぞ!って話ですよねこれ?しかし、献金額を多少偽ったくらいで、人が死ぬのなら、今ごろ、日本中、いや、世界中の教会は死体だらけじゃ??。それよりなりより、献金をごまかす奴には死を!なんて発想がなんだか・・。

 聖書についても、正典にすら、イエスの「過激発言」はいろいろあるし、さらに、いろいろ聞いたり調べたりすると、正典には入らなかった福音書群やイエスの幼児期の物語とかには、イエスと肩がぶつかったから呪われて殺されたとか、イエスが遊んでいたのを邪魔したから呪われてすぐ殺されたとか、そういうのは割とありふれた形で転がっているみたいで・・・。

 これでは救世主どころか、「恐怖新聞」とか「エコエコアザラク」の黒井ミサです(ご存知なければ、すみません、70年代のホラーマンガです)。

 こういうキリスト教初期の歴史から鑑みるに、今カルト、異端扱いされている、某教団も、政界との関係が取り沙汰されるあの団体も、何百年か後には立派な「伝統宗教」となり、教祖や開祖に向けられた社会的非難、取り締まりは「法難」とか「迫害」ってことになるんでしょうかね?
 教祖、開祖が如何に凶悪犯罪を犯そうとも、死刑判決などもっての他で、それこそ、「尊師は我々の罪を背負って神に召されたのだ!」なんて話になりかねない?反キリスト教の立場からすれば、ローマ総督ピラトは実に愚かな判断を下したものです。

 まともな宗教とそうでない宗教、教団、教会の境界線、違いってなんでしょうね?なんだかわからななくなってきました。

540Sekko:2011/10/10(月) 17:48:42
宗教と金
についての特集があった時に、二年ほど前ですが、私はこのアナニアのエピソードを取り上げました。それらの記事をまとめた本が来年1月に出る予定です。

私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。

でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。

(一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)

http://setukotakeshita.com/

541迷える大羊:2011/10/10(月) 20:36:58
ありがとうございます
>私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが

 そうなんですか。私の家内に、こういう聖書の「アラ探し」みたいな話をすると、かなり嫌な顔されたり、怒られたりしましたが・・。もっとも、今は私の影響?を受けたのか、全く動じない、むしろ、自分から変なところ探して面白がっておりますが・・。
 ただ、関わっている教会の関係者の方なんかだと、やはり、聖書はとにかく正しいんだ、意味があるんだ、みたいにとらえてる人が多くて。
 やはり、カトリックの方が聖書との距離の取り方が適切、というか緩いのかな?って思ったりしますね。

>考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによっ>て延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざ>んいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。

 そうでしょうね。ただ、この神学とか哲学とかいうものに対する基本的な教養が私には決定的に欠けておりまして。それではいけない、とその手の本を読んだこともなくはないのですが、あまりにもクソ難しくて・・。とにかく、脚注の脚注の脚注のものすごい、多重ネスティングで、私の頭脳では結局、なんだったんだ?、でして。

 結局、エラそうなことを言っているようですが、私のやっていることって、聖書を買ってきて、とにかく読んでみる、参考書、解説書に頼る(頼ってもわからない)ことなく、そのままストレートに読む・・、だけでして。で、単純に読んでみた結果、これなんだ?おかしいじゃないの?みたいな話をこちらでさせていただいているわけです。

 リアルの教会はどうかっていいますと、全部が全部がそうってわけではないですけど、これまた、聖書のわかりやすいところ、誰もが理解でき感動できるところばかりを繰り返して読ませる、で、こんなアラ探しみたいな話はスルーされ、なかなか付き合ってくれませんね。

>自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、

 結局はそこに尽きますね、確かに。でも、それはそれで難しい話ではないか?と。まあ、犯罪とか第三者に迷惑をかけるのは論外にしても、どんなにお金を好き放題に巻き上げられても、どんなに度外れた奉仕を強いられても、自分が満足なら、その人にとってはカルトではない、って見方もできちゃうような気がしますが・・。

 プロテスタント教会にはカルトからの信者救済に頑張っている人が結構いたりするものですが、そういう方から聞いた話によれば、入信してしまった人は、絶対に自分は正しいと思っていますし、それを脱会させるためには、「逆洗脳」、つまり洗脳と同じ方法で、こちらの世界の常識を叩き込みますから、やってる人も自分がやってることが妥当なのかどうかわかんなくなってしまうこともある、って言っていましたが・・。脱会者も、とりあえず理屈とか頭では、自分が間違っていたことを理解しても、生き甲斐というか、張りを無くしたような状態になる場合がある、との話も聞いたような。

 正直いって、私にはわからないことだらけです(何が正しいか?正義か?について)

542迷える大羊:2011/11/07(月) 19:56:22
ブログをよんで
http://spinou.exblog.jp/17063887/

 先生のブログ最新版(11/7)の欧米の政教分離についての記述に興味深く拝見、かつ、ああなるほどね、と思わされました。これ、兼ねてから関心のあった話でして。ていうのは、日本のキリスト教会って、とかく靖国神社だとか、建国記念日とか国家神道の絡む事項に関し「政教分離」を大義名分としてて非常に敏感かつ、批判的なところが多いです。
 私が知る限りでは、日本のキリスト教会で公文書に元号を使用するのは確か「救世軍」だけだったような・・。
 もちろん、戦前のある時期から戦時中に至る時代に非常に屈辱的な妥協を国家権力によって強いられた歴史は確かにありますし、理解できないわけでもないのですが、いつも、思うことは、「そういう欧米のキリスト教主流の国家の政教分離はどうなってるの?」ってこと。

 私が知る限りでは、先生がおっしゃる通り、本当にきっちりと「政教分離」しているのはフランスぐらいで、聖書に大統領が宣誓するアメリカなどがいい例ですが、日本と引き比べて格別、政教分離がしっかりしているような感じでは・・、というのが正直な感想。
 キリスト教側の「政教一致」は批判しないの?何とも思わないの?って心の中でいつもツッコミを入れていました。
 某キリスト教関係のサイトでその辺りを突っ込んでも、左派系政党の引き写しやら、欧米人目線みたいな反応ばかりでどうにも納得いく個人的に論説がみられませんでした。

 うまく、言葉で説明できないけれども、

>G20における日本の立ち位置というのは、「欧米」先進国と同じように疲弊して低成長なの>に、「老獪パワー」仲間に入れてもらえるパスワードを有していない、空気を読めないヒ>トみたいだ。

 日本のキリスト教会には上のような状態にある日本とか日本人と「欧米」先進国の橋渡しというか通訳のような存在になるべきなんじゃないの?外からの借り物思想で日本的伝統を否定ばかりしてないでさ、と思ってしまいました。
 内村鑑三とか新渡戸稲造とか明治のクリスチャンはそういう人多かったように思えますが。

 まあ、ユーロはかつての共産主義のような「壮大な社会実験」に終わりそうな予感が個人的にはしますです・・。

543F.T:2011/11/08(火) 15:39:53
霊感占い
ご著書を読ませていただいています。カトリック信者です。

友人(やはりカトリックです)が、霊能占いの類に関心が深く、そういうところで前世をみてもらったりして、今の不運な状況を因果律で説明を受けては、「当たっている」と深く納得しています。家族が闘病中で、私にも相談に行くように強く勧めてきます。病気というのも先祖、家系などに伝わるあらゆるものの融合体の現象だとか・・・食べ過ぎたらおなかを壊す、という因果関係は、わかりますが、先祖にこういうことがあるから、その連鎖で不幸や病気がおとずれるという発想に違和感を覚えます。イエスの時代に、悪霊がついているから、そのような病気になる、と阻害された病人に重なります。自分に深い悩みや迷いがあるときは、ふとほだされそうになるのですが、このような発想をどのようにとらえたらよいでしょうか。もしかしたら、友人は一種のカウンセリングのような効能を感じているのかもしれないのですが・・

544Sekko:2011/11/09(水) 02:20:33
F.T.さま
占いだとか「スピリチュアル」系のグッズやパフォーマンスがサブカルチャーとして野放しになっている今の時代は、自分のスタンスを自覚していなければそういうものとの「依存」関係にはまってしまいがちなので、注意が必要だと思います。
明らかに「宗教」色を出しているものとなら、カトリックに軸足を置いている方は警戒することができるでしょうが、何となく迷信のようなものはかえって付き合い方が難しいですね。ご家族が闘病中というのはF.T.さんでしょうか。そのような辛い時期は、「藁をもつかみたい」時ですから、その状態の「説明」をしてもらって原因を取り除きたいという気持ちには誰でもなると思います。

私は、先祖が何とか、という言説は、個人的に一切受けつけません。先祖との関係は私たちの心の中にあると思うので、カトリックでの「聖人とのコミュニオン」のように、「先祖が守ってくれる」という信頼の連鎖であると思います。「先祖をちゃんと祀っていなかったから罰があたった」というような表現は、罪悪感につけこむマインド・ビジネスにもつながります。

気持ちの安定を求めるならカトリックの方なら闘病している方のためにミサをあげてもらうとか、信頼できる方に祈ってもらうとかも可能だと思います。
私は母が倒れた時に、ある神父さまに「お母様にとって一番いい結果になるように神さまに祈ります」と言われてすごく楽になりました。

また、去年、肩を傷めて痛みに苦しめられたので、早く楽になるなら何でもしようと、ダメもとだと思って霊能者にも見てもらいましたが、「生き霊が憑いている」と言われました。そんなことは信じないけれど、反証することすらできないブラックゾーンですから気分が悪く、結局、別のポジティヴな霊能者から「そんなことはありませんよ」と言われてやっと落ち着きました。

占いでひどいことを言われたことも過去にあり、それを回避するには特別の祈りが別料金で必要と言われました。その時も、「そんな人を信じてはいけない。何の問題もない」と言ってくれる別の占い師に否定されるまで気分が悪いでした。

ドクターショッピングのようにスピリチュアル系を渡り歩くと、実にいろんなことを言われるものです。ポジティヴでいいところだけキャッチすることでストレスを軽減するスキルのない人は、最初から近寄らない方がいいと思います。

それに、病気でいうと、先祖から受け継いだ遺伝子でさえ、病気に決定的なものでなく、生活習慣や環境汚染やいろんな要素が複合しているのです。
ちゃんとした情報を集めて読み解いて、試行錯誤し、精一杯手を尽くし、それでも治る見込みがないとしたら辛いですが、病気の人に寄り添ったり大切に思う気持ちや感謝の気持ちなどを伝えたりすることで、病気にも死にもさえも切り離されることのない絆を深めることは可能だと思います。
愛は死より強し、と言いますが、それは「愛はたいていのものの前で屈するのに、「死」にだけは屈しない」、という意味だという人もいて、本当だなあ、と最近思います。

苦痛や不幸の原因を先祖などもろもろの他者や他のことに転嫁するのは逃避の一種で、それを分かっていながらマネージメントする自信があるなら、他の人に迷惑をかけないなら、それも「方便」でしょう。
逃げ道や言い訳がたくさんあった方が柔軟に生きていけるかもしれません。でも、本当に老いや病気や死を前にした重大な危機の前には、かえって耐性がなくなって心が折れてしまうか、悪意の人に騙されてしまうかもしれません。

まあ、何にしろ、今「はまってしまっている」人とは同じ土俵で話し合えないので、やんわりと無視するのがいいと思います。私が役に立てそうなことがあれば遠慮なくおっしゃってください。

http://setukotakeshita.com/

545F.T:2011/11/10(木) 12:34:42
ありがとうございます
早速のお返事ありがとうございます。
病人をかかえているのは、私の方です。順調なときであれば、軽くスルーできたのですが、辛い時期には、ついそういう誘いに反応してしまいそうになります。その友人は、除霊(手かざし)を受けに信仰宗教のお寺にも足しげく通っていて、それにも誘ってきます。

でも病気やら不幸な出来事に見舞われている人なんて、いくらでもいるわけで、もっと言えば、3・11の津波であっという間に人生を奪われてしまったおびただしい数の人たちは、その先祖からのどんな因縁でそういう目にあってしまったわけ?と思っていました。

そのような誘いには、どこか弱みにつけこんでくるような気配を感じてならないのですが、弱っているときには、それに反駁するだけのエネルギーがなくて、不安感だけがあおられてしまっていました。「悪霊がついている」と霊能者に言われて、それを別の霊能者に否定してもらって、安心なさった、というお話に思わず頬がゆるみ、ほっとした気分です。

病人に対しては出来うる限りの手は、尽くしているつもりですし、あとは、痛みに寄り添っていきたいと思います。

546Sekko:2011/11/10(木) 19:12:42
そうですね。
ほんとうに、津波や地震で流されたり下敷きになって亡くなった方の恐怖や苦しみや、残された方の辛さを考えれば、できる限りの「闘病」をご家族の方と共に続けられることは、それだけで恵みだと言えるかもしれません。

今は痛みの緩和治療も発達していると思いますから、そのことでセカンドオピニオンを聞いたり、少しでも楽になる療法を探すのは当然だと思います。でも、エビデンス(有効性の統計的根拠)が重視される医学の世界ですら、医師との相性やめぐり合わせでまったく変わってくるのですから、霊媒師系は手を出さないのが一番です。

痛みを訴えながら亡くなった若い友人の最後の日にいっしょにいた体験がありますが、新興宗教にはまっていた彼女がなぜか聖母の不思議のメダイを握りしめていて、私はずっと彼女の腕をさすっていました。

闘病中のご家族にとって、F.T.さんの想いや、スキンシップは、どんな「除霊」より有効だと思います。どうか無力感にとらわれることなく、さまざまな苦しみも許容する港のような心境でいられますように。

http://setukotakeshita.com/

547迷える大羊:2011/11/29(火) 23:49:27
イエスが上司だったら
 最近、携帯電話をスマートフォンに変えたのをきっかけに、スマートフォンの実質的な開発者であるスティーブ・ジョブス氏の伝記やら関連記事やらをいろいろと読んだのですが。

 外から、一消費者としてみると確かにすごい人、天才、変革者、ですが、相当アクの強い人でもあったらしく、あちこちで衝突をし、自分の会社から追い出されたこともありますし、部下、社員には相当キツイ、厳しい要求をする、無能者は容赦しない人、実際に身近な人間として付き合うのはかなり厳しい、緊張を強いられるタイプの人だったようです(大病を患ってからは、かなり「丸く」なったみたいですが)。

 イエスなんかも、外から、一信者としてみると「愛の人」「変革者」のイメージですが、実際に教祖、というか現実の上司、先輩として付き合ってみるとどうなんだろ?という気もしてきました。聖書のエピソードを読むと、かなりの過激派(テロリストってことではなく)だし、舌鋒鋭いし、皮肉屋だし・・。実際、ペテロなどかなりきつ〜い言葉をイエスから投げかけられているシーンがしばしばありますし(引き下がれ、サタンが!、とか)。

 実際に私なんかが、イエスに会って部下になったら、言動の矛盾を激しく罵倒されて全人格を否定されて追い出されて終わるのかも、という気がしないでもないです。彼の思想からして、身近な人間、血縁者だから優しくする、なんて発想はまずない、むしろそういう人間にこそ厳しくあたりそうですし・・。
 まあ、冷静に考えて、単なる「いい人」「優しい」だけの人が、カリスマ的な人気を集めたり、逆に磔にしてやりたいほどの憎しみを買うこともないでしょうし。

 いずれにしても、凡人が天才と付き合うのは大変、私自身は凡才でも、愚者でもいい、「いい人」とだけ付き合って平凡に暮らしたい・・・、なんて考えちゃいます。
 実際、あらゆる虚飾、名声を抜きにした本当のイエスのキャラクター、性格はどのようなものだったのか?今となっては不可能と知りつつ、知りたくてたまらないですね。

548Sekko:2011/11/30(水) 23:33:28
イエスの性格
イエスは子供はみんな天国に行けると考えてたように、多分、いろいろ保身を考えたりする大人の偽善性を一番嫌ってたのだと思います。共同体主義みたいなのも。

家族だから、血がつながっているから、同じ村出身だから、みたいな「なあなあ」もすごく嫌いそうですね。

でも、ただ弱い人間とか、懐疑や恐怖によって道を誤る人間には、わりと寛容だと思うんで、私は怖くないです。

スティーブ・ジョブスは私には、絶対、無理。

でも、イエスが上司だったら、そもそも商売はうまく行かないでしょう。

パウロの方がやはり(仕事の)上司としては適性があるかも、です。

でも、本当の意味で「偽善」を排するのって、凡人にはすごく難しいことで、「いい人」の9割は偽善とか妥協とか、あるいは単に「鈍い」のかも。

普通の人が「自然体」にしてたらエゴの固まりになるだけだと思うので、目いっぱい偽善を排して自分に厳しくして、それでようやく少しだけ他人に寛容になれる程度じゃないかなあ、とこの頃は思います。

http://setukotakeshita.com/

549迷える大羊:2011/12/01(木) 21:46:40
お忙しい中、恐れ入ります
 イエスの教えとか行動をみて考えさせられることの一つは、本当に「いい人」「優しい人」ってなんだろうな?ってことですね。
 で、キリスト教、というか、イエスの教えの本当のご利益っていうのは、世間一般の「いい人、悪い人」「優秀な人、劣った人」というくびき、「常識」から解放され、自分らしく、肯定して生きていける、ということじゃないかな、と思います。うまく、説明できないんですが・・。

 パウロって、以前から、個人的にマイクロソフトみたいだなぁ、って感じてます。思想的には別にオリジナリティに溢れる・・、てわけではない、彼の功績は一にも二にもその営業マンとしての素晴らしいセンス。つまり、独創性あふれる考案はできないけれど、既存のものをとって、うまくパッケージングして、売って売って売りまくる。

  売り込みの為なら、オリジナルをまるっきり書き換えることも辞さない・・。ビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトは、いろんなアイデアをごった煮的に入れては、それを協調性のない形で実装して広める、オリジナルを知っている人々は、「なんだこりゃ?」と怒るけど、一般ユーザー(信者)からすりゃ、とりあえず手軽に使えれば(救われれば)、なんだっていいんで、なんだかんだいわれつつも普及していく・・。
 なんだ、パオロの布教、宣教の過程そっくりじゃん・・ってことで。怒られるますかね?こんなこというと。

 もっとも、パウロがいなければ今ある、世界宗教としてのキリスト教はなかったわけですし、イエスの教えだけでは、ある意味エキセントリックすぎて、常識的な一般市民には受けなかった可能性も大。どちらがいい悪いではなく、イエスとパウロの二人がそろって、合わさって、初めて世界宗教・キリスト教なんでしょうね。

 ま、ビートルズのレノン・マッカートニーみたいなものか。まったくどうでもいい話ですが、前教皇・ヨハネ・パウロ二世って、英語で読むとジョン・ポールだな、ってふと思い出しました。失礼しました。

550迷える大羊:2011/12/30(金) 14:40:30
金一家とキリスト教
 「将軍様」崩御で、またまた話題を世界に振りまいている北朝鮮について。このニュースを見て思い出したのは、将軍様・金正日氏のお父上、首領様で「永遠の主席」こと金日成氏について。
 先生の著作「ローマ法王」で金日成氏は外戚にクリスチャンがいて、食糧支援などの援助もその繋がりで獲得した・・という話があったように思ったのですが、本当ですか?
 そういえば、あの国のロイヤルファミリーには、例えば、将軍様については白頭山(韓国人、朝鮮人にとっての霊峰、富士山のようなもの)のふもとにて、一番星の下、お生まれになった・・、と第三者からすれば、ホンマかいな?としかいいようない伝説が多くあります。
 イエスについても、ダビデの末裔でベツレヘム生まれなんて、到底、事実とは信じがたい「伝説」が福音書で語られていますが、自らの「神格化」に当たって、聖書とかキリスト教を「参考」にしたんでしょうか?
 思えば、スターリンも元は牧師になるべく、神学校に通っていた人物みたいで、共産主義って実のところキリスト教の裏返ったものなのかも?とよく思わされます。

 ところで、以前から述べていますように、私は、なんていったらいいのか、左がかったもの言いに強い拒否反応がありまして。そんな私にとって、日本のキリスト教会の「左巻き」な言動の多さにはついていけない、と思うことが多々あります。

 もちろん、私自身も含めて完全に不偏不党、中立、公正な組織、人間などというものは存在しないことは重々承知しているんですけれども、それにしても、これはないだろう、と思ったのは、日本キリスト教協議会(NCC)の今年3月の北朝鮮の食糧危機に関する声明。

http://www.kirishin.com/2011/03/ncc2011312.html

、「北朝鮮で食糧不足から餓死者が出ているという情報を日本のメディアが報道していないという現実、また、それと深く結びついていると思われる日本政府の一方的な韓国政府への肩入れというわたしたちの置かれている現実を深く自覚せざるを得ません」

 あくまで悪いのは日本政府と韓国政府なんだそうな・・。いくら、キリスト教と左翼・左派系思想には親和性があるといったって、「左側」の不正やら矛盾には目を瞑るのが、キリスト教の「正義」なの?との疑問がいっぱい・・。
 もちろん、前述したように、完全に公正な人間、不偏不党な人間なんていないでしょう。だからこそ、「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに」とか、確か、ヨハネの福音書だったと思いましたが、「正しい人など誰もいない」といった具合に、地上の問題について、信仰や教会の立場で特定の立場に肩入れすることを否定しているんじゃないの?と思うんですが。
 どうしても、その種の政治運動がやりたければ、あくまで個人単位で、教会とか信仰を表に出さないで下さい、って思うんですけどね・・。
 

551Sekko:2011/12/31(土) 02:28:19
キリスト教と左派
私も今度のことで、金正恩にどの程度キリスト教の影響があり得るか調べてみようとしたのですが、今のところ具体的なことは見つかりません。ただ、ブログにも書きましたが、韓国のカリタス・コリアやパリ外国宣教会、韓国司教会議などを通じたNGOなどのパイプは、現在、しっかりつながっているようです。ピョンヤンのカトリック教会のミサに参加したフランス人ジャーナリストのドキュメントも見ました。アラブにおけるイスラミストと違って、民族宗教でもないこういうところから「民主化」へのきっかけができるといいのに、と思っています。

弱者の側に立つとか、飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませる、というのはキリスト教の基本姿勢なので、それは「政治的中立」に優先すると私は思います。

ただし、それを「日本政府」がどうとか「韓国政府」がどうとかという政治的言説にして批判するとしたら、日本のキリスト教協議会は、自国の信徒や一般人の「空気を読めない」ことはなはだしいですね。たとえばミッションスクールのカルチャーとしてのキリスト教シンパや信者の人に対しては、逆効果もいいところでしょう。

政治的な公正とか中立とかは、時代や状況によって変わるものですし、党派がどうあれ、明らかな「犠牲者」の側に立つアクションというのは、「無関心」や「見て見ぬふり」よりずっとましなことだと思います。今年の3月の時点で本当に韓国政府がNGOの食料援助を規制していたのだとしたら、キリスト教組織による抗議は必要だったのかもしれません。

今年はアフリカでもひどい飢餓難民が出ましたが、普段は帝国主義的姿勢をとったり移民に差別したりしているヨーロッパ諸国が毎日のようにキャンペーンを繰り広げ、大騒ぎして援助に駆けつけたのを見ると、「偽善者ですか、キリスト教的自己満足ですか」という突っ込みも喉から出そうになりますが、飢えている人の立場に立てばやはり、健全な反応かなあと思います。政治的な右や左の問題じゃなくて、強者と弱者の問題でしょう。

フランスのカトリックはもちろん、「保守」の側に秤が傾いていますが、「社会福祉」もその「保守」に組み込まれています。「カトリック左派」というのももちろんいますが、フランスで「左派」で活動しようと思ったら宗教色を出さずに政教分離の「共和国主義」の看板を掲げることになります。日本のキリスト教が左派的言動を表に出すことがあるのは、それだけ、日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

http://setukotakeshita.com/

552迷える大羊:2011/12/31(土) 08:01:35
左派アレルギー
>日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・

 それはその通りで、私にしたって、抹殺してやろうとはゆめゆめ思いません。でも、日本の左派って国家権力とは別の「強者」に阿ってるパターンが多いですし。
 北朝鮮についていえば、例えば拉致事件についても無視、あるいは相当に証拠が出た段階でも「日本政府・韓国政府のでっち上げ」みたいなことをいってましたし、いよいよ否定できなくなると「植民地支配の清算をしない日本がどうのこうの」と絶対に北朝鮮政府への直接的批判は避けるんですよね。私には、本来の意味での「弱者」の味方にはみえません。
 なんていうか、もうちょっと現実に即した理論なり、立場なりをとってもらいたい、って思います。本当の「弱者」がわかんなくなってきます。彼らの言説をみていると。

 しかし、本当にカトリックとかキリスト教系団体が北朝鮮国内で「自由に」活動してるんですか?うーん、信じがたいですね。あの種の独裁国家において、キリスト教というのは、エイリアンが宇宙船に入り込むようなもの、中から食い荒らされるようなものだと思うんですが・・。
 真面目に信仰すれば、どうしたって今の体制はまともなのか?って疑問を抱きますよね。そんなことがわからないほど、朝鮮労働党側もアホとは思えませんが・・。

553:2012/01/14(土) 21:27:14
アンネリーゼ・ミシェルについて
映画「エミリー・ローズ」のモデルとなったアンネリーゼ・ミシェル (Anneliese Michel)の悪魔憑き事件について、どうお考えになっていらっしゃるかご意見をうかがいたいのですが、よろしくお願いいたします。

アンネリーゼ・ミシェルは、1968年の16歳頃から震えなどの異変が身体に出始め、精神科医に「てんかん」と診断されます。薬を処方され暫くは落ち着いていましたが、やがて普通のてんかんの症状を逸した症状が出始め、幻覚を見たり、身体を何かに持ち上げられベッドに何度も叩きつけられたりします。彼女の意思とは関係なく物凄い力で体を動かされたりしたため、 薬を飲んでも治まらず、やがて蜘蛛や蝿を食べるようになります。とても本人の声とは思えない声で汚い言葉を吐いたり、彼女が知りもしないラテン語を喋るようにもなったといわれています。彼女は自分が悪魔に取り憑かれたのだと考えます。

1973年(20歳)の時、両親は、教会に悪魔祓いを頼みますが拒まれます。 医者にかかり再び薬を処方されましたが、症状とその現象は悪化していきます。1975年、22歳の時、ようやくヴュルツブルク司教会は悪魔祓いの許可を出し、カトリックのエルンスト・アルト司祭(当時41歳)とアーノルト・レンツ(67歳)が悪魔祓いを行います。司祭が「お前は誰だ」と問うと、返事をし、名を名乗ります。アンネリーゼには、6体の悪魔が取り憑いています。

6体の悪魔は、次のとおりです

1 ルシファー(堕天してサタンとなったとされる地獄の王)
2 カイン(アダムとエヴァの息子。アベルという弟を殺し、人類最初の殺人者とされる)
3 ユダ(十二使徒のひとり。キリストを裏切った)
4 ネロ(キリスト教徒を迫害し後世暴君と評されたローマ皇帝)
5 バレンティン・フライシュマン(1572年から1575年にかけてエットレーベン教区で司教を務めた堕落した聖職者)
6 ヒトラー(近代史のドイツの悪名高い独裁者)

悪魔払いは一度は成果をあげますが、再び、アンネリーゼにとり憑き、食事も摂らなくなり1976年7月1日他界しています。

その後彼女の両親と神父は起訴され、裁判の結果両親と神父は過失致死で懲役刑、執行猶予6ヶ月という判決を受けています。写真や録音記録が多数残っていることから、何かと話題になることがあります。この件に関しては、長年いろいろと疑問を持ってきましたが、未だによく分からない不思議な事件だと思っています。

554Sekko:2012/01/15(日) 04:18:35
悪魔憑き
映画は見ていません。

この事件のことは読んだことはあります。

私は、生きている人から発せられているにせよ死んだ人からにせよ悪意を持ったサイコエネルギーとか逆に善意のエネルギーなどが、生きている人に影響を及ぼすことがある、ということは信じられるのですが、この事件の場合は違うような印象を持ちます。特に、いわゆる「憑依」現象で、ルシファーだとかネロとかヒトラーとか、固有名詞が出てくるようなのはただの文化的表象だと思います。

このアンヌリーズさんが、幼い時は非常に熱心なカトリックであったことや、てんかん、統合失調、ジストニア(不随意運動)、ジル・トゥーレット症候群、多重人格、記憶障害など、複合した神経疾患を発症していたらしいことを考えると、「信仰や祈り」に拠ってもそれが治らないことへの絶望から「悪魔憑き」に逃避した(それを言いだしたのは彼女自身だそうなので)のは十分あり得ると思います。

そこで悪魔祓いをしたのは「火に油を注ぐ」ようなものでかえってそこにのめり込むことになった気がします。

私が親だったら、「悪魔を祓う」という方向より、むしろ、彼女が崇敬していたらしい聖母の巡礼地に連れて行くなど、「恩寵」をもらえるという期待の方に誘導していったでしょう。何らかの演出というか、お話しの道筋をつけることは、薬の服用と並行して有効かもしれませんから。

プラセーボとしても、「悪魔祓い」によって悪魔のパフォーマンスを全開させるのはよくなかったと思います。若いのだからとりあえず点滴などで栄養確保して、ひたすら休ませる方がよかったとは思いますが、重症だったのでしょうから症状が軽減したかどうかは分かりません。この事件のように餓死とか脱水で死なせるのは避けたいところです。でも、実際に子供がこういう事態に陥ったら、両親はそれこそ「祈る」しかないような気もします。

宗教的な教養のある精神医によるサイコテラピーがある程度苦しみを軽減したかもしれません。彼女の苦悩の原因を悪魔以外のものにうまく「転嫁」することは可能だったんじゃないかと思います。

余談ですが、この人の悪魔祓いの音源をフランス系のウェブで聞いたら、何分何秒目のところでフランス語で「私は死にたい」と言っている、というコメントがついていて、そこを聞いてみると、本当に、だみ声でそう言っているように聞こえるんです。日本人だって、日本語で「・・・言っている」というコメントをつけられるかも。あるいはもうついていたりして・・・。「言われてみればそう聞こえる」ということで、「超常現象」をエスカレートさせるのもなんだかなあ、と思います。

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555:2012/01/15(日) 11:38:07
潜在意識の奥深さ
素晴らしい回答をありがとうございました。この事件については、You tubeの映像なども多く、遺族や当時の関係者の証言なども見ることができます。40年ほど前の事件ですが、歴史に残る事件ではあると思います。私が長年疑問に思い考えていたところと、ほぼ同じ見解の回答を拝見して、ほっとしました。ここまで極端な事例ではなくても、似たようなことは、身の回りに意外にたくさんあるのではないだろうか思います。人間の潜在意識の問題は、本当に奥深いものだということを実感いたします。

556:2012/02/06(月) 11:20:53
旧約時代
アブラハムの時代は多神教だったのでしょうか?

557sekko:2012/02/06(月) 21:18:04
和多田 敦子さま
ユダヤ民族が多神教だったというより、彼らを取り巻く世界全体が多神教だったと思います。その中で、「アブラハムの神」「イサクの神」のような部族神への信仰が生まれて、その後、出エジプトの試練の中で一神教的な優越神が生まれ、それでも、すこし落ち着くと周りの他の神に目移りする人は多く、バビロン捕囚などの新たな苦難を経て、ようやく、一神教の形ができたというのが今の歴史学の通説ですね。Jean Bottéro の『神の誕生』という本に詳しく解説されていました。今検索したら日本語版も出ていました。『神の誕生―メソポタミア歴史家がみる旧約聖書 』(ヨルダン社)

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558:2012/02/18(土) 10:27:56
聖アウグスティヌスのテキスト
竹下様
初めてお尋ねします.面識も得ずに失礼します.

私は「ヨーロッパの死者の書」を拝読し,3回読み直しました.
著書に出会ったのは,図書館で,バルタザールの「過越の神秘」の直ぐ側にあったからです.
もう10年ほど前になりますが,母の葬儀の際,私は「別れは小さな死」というフレーズを言いましたら,司式司祭が「死は小さな別れ」と言い直してくれました.
このニュアンスが心にとどまっていて,いつか解きほぐしたいと思っていました.
文中に深く思考された方の心を感じて,沢山慰められました.本当にありがとうございます.

それで,私なりに調べてみましたが,素養がないため,探せず,ご示唆をお願いしたいことがございます.

ソレンヌへの葬送の辞として兄が選んだ12頁掲載の聖アウグスティヌスのテキストは,どの著書の何巻かをご存じないでしょうか?

どうか,ご返事を下さいますように,お願いいたします.

559sekko:2012/02/19(日) 07:50:45
mimemegeneさまへ
あのテキストは、フランスでは「アウグスティヌスの祈り」として今でも、教会での葬儀ミサで読まれることがかなり多いものです。最近では女優のアニー・ジラルドの葬儀で読まれたはずです。
いろいろなところに引用もされています。

ソレンヌの葬儀の時にもそのタイトルで読まれ採録されていたので、私は現代フランスの標準的死生観の一端としてあの本にその部分をフランス語から訳して収録したわけです。

すると、このテキストに感動したという声があり、同じものがその後、雑誌に一度、単行本『大人のためのスピリチュアル超入門』(中央公論新社)にも採録されました。

そんなわけで、非常に気になっていたのですが、実は、フランスでそう言われているだけで、元はイギリスの国教会司祭Henry Scott Holland(1847-1918)の説教(1910にエドワード7世の遺体がウェストミンスターに安置公開されていた間の5月15日、セイント・ポール大聖堂で話したもの)の一部なのです。

そして、これは真偽は定かではないですが、それをフランス語に訳したのがシャルル・ペギーだそうで、その訳文があまりにも感動的なのでペギーの祈りとも呼ばれているのです。(ペギー研究者は1996年にこれを否定しています。)

また、今でも、Holland師がアウグスティヌスのテキストにインスパイアされてこれを語ったという話もあるので、もともとがどこにあったのかは私には分かりません。説教全文の中でアウグスティヌスに触れたのかどうか、全文を読んでいないので確かめていません。イギリスでもこの部分だけが語り継がれているように思います。

私もとても気に入ったので、本の中では、若くして命を絶ったソレンヌや遺族に思い入れを入れて日本語訳しました。その思いが通じたのか、それが今でも、mimemegeneさんの慰めとなったことは望外です。

とにかく、英語の原文だったと思われるテキストは今はネットでも読めます。英語では、以下の通りです。フランス語にはかなりヴァリエーションもあります。

? Death is nothing at all, I have only slipped away into the next room.

I am I, and you are you.

Whatever we were to each other, that we still are.

Call me by my old familiar name, speak to me in the easy way which you always used, put no difference in your tone, wear no forced air of solemnity or sorrow.

Laugh as we always laughed at the little jokes we shared together.

Let my name ever be the household word that it always was.

Let it be spoken without effect, without the trace of a shadow on it.

Life means all that it ever meant.

It is the same as it ever was.

There is unbroken continuity.

Why should I be out of mind because I am out of sight?

I am waiting for you, for an interval, somewhere very near, just around the corner.

All is well. ?


フランス語や英語では、「私」や「あなた」という人称代名詞にいろいろな思いを込められますが、日本語では、故人や遺族に合わさないとしっくりこないこともありますね。

その『ヨーロッパの死者の書』を書いてから現在までの間に私は両親を次々と亡くしましたが、両親が別の形ですぐそばにいてくれることは実感しました。生前、日本とフランスにわかれていた頃よりもずっと近くの感じです。

私には死者が勝手に千の風になって吹き渡るとは思えませんが、互いに思いを残した者同士が想起し合うとき、生きていた時のさまざまな障害(距離とか病気とか老いとか・・)を越えてより親密な深い場所で何かが起こるような気がします。両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。

そんなわけで、ちゃんとお答えできなくて申し訳ありません。それでも、このテキストの価値には変わらないと思います。

ご質問していただいたおかげで、ようやくこの件についてくわしく書くことができました。ありがとうございます。

(ここまで書いた後で、思い立って日本語で検索したら、ホランドの詩として『さよならのあとで』というタイトルで今年の1月27日に夏葉社から絵本が発売されているようです。知りませんでした。ごめんなさい。)

http://setukotakeshita.com/

560:2012/02/19(日) 22:36:44
心からの感謝を!
ご返事に心から感謝します.
こんなにも長文の概要を教えて下さったご親切に,とても感激しております.
『両親との「別れ」はその意味で「新しい出会い」でもありました。その「出会い」からずいぶん力をもらえたようにも思います。mimemegeneさんもそんな思いがおありになったのではないでしょうか。』と,私のことを思いやって下さり,本当に安らぎます.
私にも帰天した両親との「新しい出会い」が沢山あります.
そして両親だけでなく,他にも幾人かの出会いが続いています.
この他にも私の体験では,死後10年以上経っているのに生身のままのご遺体に聖なる業を見たことや,霊操の体験で多くの恵みをいただきました.
向きあうようにイエスが現れたという人も沢山知っています.
竹下様がおっしゃるように,出会いが恵みだと実感しています.
今日は,聖三木図書館に行って,竹下様の著書を沢山読みました.所蔵数が多くて,一日では読みきれませんでした.

もうお読みかもしれませんが,
夏葉社刊「さよならのあとで」は,その夏葉日記という創業者のブログの2012.01.16(mon)に,
「1月27日に一編の詩とイラストの本を刊行いたします。
3年前、僕は、一番の親友であった従兄を、事故で亡くしました。
以来、創業時から、祈るような気持ちで、この本をつくってきました。
みながみな、いいという詩ではありません。
けれど、僕が、この詩に慰められたように、この詩が、かなしんでいる人の心を、ほんの少しでも、支えてくれたら、と願っています。
なお、この詩の訳者は匿名ですが、その方もまた、大切な家族を失っています。
下記に、全詩を、引用いたします。。。。。」
と書かれています.創業は09年.
1995年の竹下様の訳出文が,上記の方々にとって,「新たな出会い」になっているように思えてなりません.
("Death Is Nothing at All "(ISBN-13: 978-0285628243, Souvenir Pr Ltd UK)が1994年に出版されていて,日本のアマゾンでも買えるようになっていますね.)

私が祈りたいのは,竹下様の訳出文が,日本の司牧者にとって「新たな出会い」になってほしいことです.
竹下様の訳出文のまま複数サイトで掲載されていますし,著書もあるのに,残念です.
カトリックは特に「自死」を通年で取り上げていますが,多くの方がご存知だと嬉しいです.

561sekko:2012/02/20(月) 04:14:15
ハイブリッド
ありがとうございます。

夏葉日記のことは知りませんでしたが、今読んでみたら、最後の

「あなたは私の心をまた見つけるでしょうその中で純化したやさしさといっしょに。
涙をふいて。もし私を愛しているなら、泣かないで」、という文はありませんね。

それでまたフランス語のウェブをあれこれ検索しましたら、ドミニコ会やらベネディクト会の紹介している「アウグスティヌスの祈り」がありまして、中身は違うのですが、「涙をふいて、もし私を愛しているなら、泣かないで」、で終わっています。
「あなたは私の心を・・・」の部分も入っています。出典はありません。死者を悼む祈りのアンソロジーには必ず入っているようです。

でも、アウグスティヌスの『「泣かないで」の祈り』で検索すると、私の訳した文も出てきて、これを葬儀ミサで読んだ、慰められた、という人の手記が少なからずあります。

経緯はわからないのですが、1990年代からこのテキストが多用されるようになったそうで、ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。「泣かないで」というのを最初に持ってきたものもあります。前回書きましたように、ペギー訳ということに関しては学者から反論が出ていますが、アウグスティヌスのものと合体しているという指摘をしている人は、ネット上ではまだ見つかりません。

文学や神学の研究の過ちではなく、実際の葬儀ミサで読まれて広がったということで看過されているのでしょう。
フランスだけでこういう現象が起きているのかどうかわかりませんが、アウグスティヌスの部分が入ったことで、より胸に響くようになったと思います。国王の死の説教から、愛する人の死の方により親密にシフトしたような。

祈りというものはこうして語り継がれていくのだなあと思います。

私はソレンヌの葬儀で読まれたもののヴァージョンを訳したので文脈上出典は気にしませんでした。それを読んだお兄さんの感じていただろうように訳しただけです。

このような祈りに著作権やら商業的意味があるわけではありませんから、こうして「出会い」のきっかけになったことを感謝するばかりです。

PS??参考にアウグスティヌスの方のフランス語をコピーしておきます。
ここでは、亡くなった方が天に行って、そこがどんなに美しくて幸せか、とあり、見つける「心」は神の心だと解釈できます。

Si tu savais le don de Dieu et ce qu’est le ciel,

Si tu pouvais d’ici entendre le chant des anges et me voir au milieu d’eux,

Si tu pouvais voir se dérouler sous tes yeux les horizons et les champs éternels, les nouveaux sentiers où je marche,

Si un instant tu pouvais contempler comme moi la Beauté devant laquelle toutes les beautés pâlissent …

Quoi ? Tu m’as vu, tu m’as aimé dans le pays des ombres, et tu ne pourrais ni me voir, ni m’aimer encore dans le pays des immuables réalités ?

Crois-moi, quand la mort viendra briser tes liens comme elle a brisé ceux qui m’enchaînaient, et quand un jour que Dieu connaît, et qu’Il a fixé, ton âme viendra dans le ciel où l’a précédée la mienne, ce jour-là tu reverras Celui qui t’aimait et qui t’aime encore, tu retrouveras Son cœur, tu en retrouveras les tendresses épurées…

A Dieu ne plaise qu’entrant dans une vie plus heureuse, infidèle aux souvenirs et aux vraies joies de mon autre vie, je sois devenu moins aimant !

Tu me reverras donc, transfiguré dans l’extase et le bonheur, non plus attendant la mort, mais avançant d’instant en instant avec toi, qui me tiendras la main, dans les sentiers nouveaux de la Lumière et de la Vie, buvant avec ivresse aux pieds de Dieu un breuvage dont on ne se lasse jamais et que tu viendras boire avec moi …

Essuie tes larmes et ne pleure pas si tu m’aimes !…

562:2012/02/20(月) 13:09:04
日常に深く根付くように
仏文を下さって,ありがとうございます.
その後少しネットを見ましたら,作者Saint Augustineとして
St.Augustineへの母St.Monicaの言葉
上記とHolland師の合体
の2バージョンがありました.
いずれもアメリカに住むカトリック信者のサイトで見ました.母St,Monicaの出典は調べていません.
『ホランド師の説教の一部とアウグスティヌスの祈りの最後の部分が合体したようです。』という竹下様のご指摘のとおりですし,『祈りというものはこうして語り継がれていく』という推測の通りでした.
ありがとうございます.

味わったり,祈ったりして,深く感じられるようにしてみようと思います.
各国で,この祈りが,葬儀とその後の日常に深く根付くようにと願ってやみません.


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St.Augustineへの母St.Monicaの言葉

Words of Saint Monica’s Soul to Saint Augustine

If you love me, do not weep.??If you only knew the gift of God and what Heaven is!??If only you could hear the angels’ song from where you are, and see me among them!??If you could only see before your eyes the eternal fields with their horizons, and the new paths in which I walk!??If only you could contemplate for one moment the Beauty that I see, Beauty before which all others fail and fade!

Why do you who saw me and loved me in the land of shadows, why do you think you will not see me and love me again in the land of unchanging realities?

Believe me, when death breaks your chains as it has broken mine, when, on the day chosen by God, your soul reaches Heaven where I have preceded you, then you will see her who loved and still loves you.??You will find her heart the same, her tenderness even purer than before.

God forbid that on entering a happier life, I should become less loving, unfaithful to the memories and real joys of my other life.??You will see me again transfigured in ecstasy and happiness, no longer waiting for death, but ever hand with you, walking in the new paths of light and life, slaking my thirst to the full at the feet of God from a fount of which one never tires, and which you will come to share with me.

Wipe away your tears, and if you love me truly, weep no more.

Saint Augustine
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上記St.AugustineとHollandの合体

If You Love Me, Do Not Cry

If You Love Me, Do Not Cry
Don’t cry if you love me
If you know God’s grace
And what Heaven is like,
If you were able to listen
To the angel songs
And you see me among them,
If you were able to think for awhile
About the beauty
That no other beauty can match,
Wipe your tears and do not cry,
If you love me.
Death is nothing.
It is just having moved to the other side.
I am still what I am and you are still what you are.
What we used to be for each other is still the same.
Call me by the name you used to.
And talk to me as you have done before.
Do not use a different tone.
Do not be rigid or sad.
Continue to laugh about what used to make us laugh.
Pray for me.
Smile.
Think of me and pray with me.
Let my name be mentioned at home as before.
Without any exaggeration or distress.
Life continues to mean what it always did.
And it is still the same
The thread did not break.
Do you feel I have become outside of your thoughts
Because I am far from your sight?
No.
I am not far from you.
I am just on the other side of the road,
And everything is fine.
You will find my heart and my love pure.
Wipe your tears and do not cry.
If you love me.
St. Augustine

563迷える大羊:2012/03/19(月) 22:44:44
キリスト教のメディア戦略
 以前、雑談スレで話題にした、日本のヴァーチャルアイドル「初音ミク」ですが、ネット上を見る限り、その人気はリアルのアイドルを押しのけて世界的になっていて、海外では日本のポップスターといえば「初音ミク」と思われているようで、英国の通信社ロイターが今月3月8日、9日に東京で行われた、彼女(それ?)のライブのニュースを世界中の報道機関に配信したみたいです。

http://www.reuters.com/article/2012/03/09/us-japan-digital-diva-idUSBRE8280DO20120309

 こんなエピソードもありました(毎日新聞WEB版より)

http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20120129ddm002070124000c.html

http://www.youtube.com/watch?v=HWcw8S9_0ts&amp;feature=related

 いろいろ興味深いことが多いのですが、なぜ、哲学・宗教スレで話題にするのか?というと、この初音ミクがメジャーになっていく過程が、イエスとかキリスト教のそれとそっくりなのではないのか?という気がしてしょうがないからです。以前は冗談半分でしたが、詳細を知るにつけ、もう冗談ではないような気がするもので。具体的には・・。

・イエスと「初音ミク」の「キャラクター」設定

 初音ミクに発売元のクリプトン社がつけたキャラ設定は16歳 身長158cmだけ。しかし、その透明さが却ってネットユーザーの想像力は刺激され、動画サイトには思い思いの初音ミク像を反映した自作曲・PVが次々とアップされブーム化。

 イエスも、福音書でもヨセフとマリアとの間に生まれ、家業の大工を営んでいたらしい、ということくらいしかわからず、救い主としてではない、リアルな人間としての「キャラクター設定」はほとんどないような。単に不明なのか?でも、イエスの弟子たちが何も知らなかったとは思えないし、取材だってしようと思えばいくらでもできたわけで、あえて「真っ白」にしているのではないか?と思えるのですが、どうでしょう?パオロもリアル・イエスについては全く追及していませんし。

 初音ミクの場合、オリジナルは存在せず、ファン同士が動画サイトでさまざまな「初音ミク」を共有できたのがブームの理由ですが、初期のキリスト教会もこういう効果を狙ったんではないか?と思えてくるのですが・・。

 ・聖書と「初音ミク」の楽曲・イラスト等の作品

 初音ミクの楽曲等の作品は特定のアーチスト、制作グループが作っているわけではなく、インターネット上のユーザーがプロ・アマ入り乱れてよってたかって投稿(主にニコニコ動画)したもので、そのうち、ネット上で人気のあるもの、高評価であったものがCDになったり、ライブ演奏されたりしているわけですが。
 その辺りの様子はグーグル日本版のCMに要領よく表現されてます。

http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q&amp;feature=related

 そういえば、聖書も特定の作家によって書かれたわけではなく、信者(アマ?)、聖職者(プロ?)入り乱れて作り上げた、さまざまな伝承、信仰告白、信仰証言のうち、クリスチャン社会(ネット?)で人気の高いエピソード、信憑性の高いエピソード(曲?)が取捨選択されて、文書となった(CD化?)もので、トップダウンではなくボトムアップで作られた・・という点では共通しているような気が。初音ミクはネット、動画サイト、聖書は印刷機、とその時代の「先端メディア」にうまく乗っかって爆発的に「ヒット」したのも同じ?

 ・二次創作による豊かさの獲得

 「初音ミク」制作のクリプトン社は著作権を厳密に解釈せず、商業目的ではない、過激な暴力・エロがない限り、二次、三次創作を認める、というよりむしろ積極的に推奨する姿勢をとったおかげで、レベルの高い創作環境が整備され、作品世界が非常に豊かになったわけですが、キリスト教、聖書も、それを元にした二次創作ともいうべき、宗教画、彫刻その他の芸術作品が非常に多く生み出され、ヨーロッパの文化レベル向上に貢献、といった面があるのと似てるのかな?と思ったりします。少々大げさですが・・。
 ミケランジェロやダ・ビンチは「オタク」?現代人に生まれていたら、作品をニコニコ動画に投稿したり、2ちゃんねるあたりに「マリア様、マジ女神」なんて落書きをしていた、かもと思うとなんだかおかしいです・・。

 ・「プラットフォーム」としてのイエスと初音ミク

 カナダのフランス語新聞は初音ミクを「人物というより、インターネットユーザの協力、コミュニティの出現、そしてアイデアの流通を許すプラットフォームなのだ。」と評していますが、キリスト教におけるイエスというのも神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を許すプラットフォームみたいな存在、なんでしょうか。

http://www.cyberpresse.ca/arts/musique/201111/25/01-4471639-hatsune-miku-paternite-multiple.php

http://lunaticprophet.org/archives/6013


 クリスチャンが信じているのは、なんというか、プラットフォームとか信仰の集合体としてのイエスであって現実の人間を崇め奉っているわけではない、というのが「人であり神であり」という話なのかも、と思ったりします。
 「復活」も死人が蘇る、ではなく、リアル人間としてのイエスは死んでしまっても、プラットフォームとしてのイエスは永遠に存在する、みたいな話だったのかも。古代世界に、ネットとかバーチャルとかリアルなんて技術も概念もなく、ボキャブラリーも貧困であったために、うまく表現ができず、いろいろな「誤解」を招くことになった・・と思えるのですがどうなんでしょう。

 こうして書き連ねてみると(もし意図的にやっているとすれば)、キリスト教ってすごい宗教だな、2千年以上先のネット社会を先取りしてるじゃないか?と思ったりします。それとも、単にメディア戦略の基本は時代が変わっても変わらない、というだけのことでしょうか?
 また、こういう解釈ってクリスチャン一般の感覚に近いものなんでしょうか?(特にイエスの位置づけとか「復活」とか「人であり神であり」の部分)

 初音ミクの「ライブ」の様子

http://www.youtube.com/watch?v=aY44nr0ZUZ8&amp;NR=1

564sekko:2012/03/20(火) 08:58:03
キリスト教と初音ミク
うーん、なかなか面白いお話ですね。

でも、私は、この初音ミクのライブの動画を見てカルトの大会みたいな印象を受けます。観客というかファンは、脳内の仮想空間だけを互いに共有しているので、ステージの初音ミクからの情報って、予測できるものばかりですよね。

これが生身の歌手なら、その場は華やかでも、覚醒剤中毒とか、暴力沙汰とか結婚とか妊娠とか離婚とか病気、老い、怪我、事故、酔っ払い運転、激やせ、激太り、いろんなことが起き得るわけだし、過去も背負っていたり、家族や子供を背負ってたり、いろいろあって、いつファンを裏切るかもしれないわけです。そういう危うさも含めて、情報処理負荷がずっと大きい。

これに対して、初音ミクはオーバースペックであっても、中につめられる情報は、受け手の脳の情動システムを本当に駆り立てるようなものではない、と思うんです。逆に、快感を得るために要求される脳内資源というのは小さいと思われます。だから安易にはまってしまう。もちろん、ゲームデザインによる規制には縛られるわけですが、この世で一番ストレスフルな「予測できない他者」とは対峙しない。

でも、生きた他者と対峙しないところには創造的知性は生まれないし、創造的知性のないところに真の救済もないと思うんです。

キリスト教はむしろ、ひとつのテンプレートとして西洋世界に今も使いまわされているので、それを共有しない文化では、仮想空間としてもなかなか認知されにくい気もします。

キリスト教が普遍宗教としてその福音宣教にかけてきた情熱は分かりますが、そして今の福音派のように巧妙なマーケッティングをしているところもありますが、特にヴァーチャルだとは思えません。ヒーローや教祖や神の記号性というのはキリスト教だけではなくてどの宗教や支配者神話にも当てはまると思います。

むしろ、ナザレのイエスは、出自などはなるほど曖昧ですが、受難のシーンというのはかなり真に迫ってリアルに書かれていて、痛みとか傷とかの身体性があり、弟子からの裏切られ方、見捨てられ方、民衆からの嘲罵、どれをとっても、普通の予測を超えたシーンの連続なので、それを消化するだけでも、信者は大変なんじゃないでしょうか。

でもどんなにつるりとしたヴァーチャルな教義に閉じ込めようとしてもそこから必ずしみ出てくる血と水みたいなのがあるところが醍醐味だったりして・・・

http://setukotakeshita.com/

565迷える大羊:2012/03/22(木) 13:24:41
お忙しいところ失礼しました
 まあ、もちろん、初音ミクみたいなボーカロイドがリアルのアイドルにとって代わる、なんてことはなさそうで、一種のニッチ産業でしょうね。たとえ、SFに出てくるようなアンドロイドが実現したとしても・・。初音ミクにしても、冗談が本当に、ひょうたんからコマ、みたいな展開で販売会社自体がビックリしてたりしますし・・。

 私自身はそのSFチックな展開を面白がっている、という立場ですね。あと、従来の作り手→受け手、大手プロダクション、大手テレビ局、電通などの大手広告代理店、マスコミ経由というアイドル製造のパターンを全く破った形で出てきた、という点に痛快さを感じたのもありますね。
 で、そんな「アイドル」が生身のアーチストだって困難な海外ライブ、ロサンゼルス・ノキアシアターライブをあっさり成功させたっていうのも、これまたSFというかギャグ以外なにものでもないてな感じで。(アメリカにも、世界にも「ニコ厨」「2ちゃんねらー」みたいな人々が大勢いるんだなぁって思いました)。
 2009年に「アルバム」がオリコンチャート一位を獲得した際に古い音楽ファンやテレビ局からの「生身のアーチストより仮想歌手の方が人気なんて、世も末」との反発もこれまた予想通り・・てな感じです。

 あと、初音ミクの場合、ヤマハの音声合成技術「ボーカロイド」、SEGAの3DCG、ホログラム技術、アニメ・マンガ、同人文化、ニコニコ動画、2ちゃんねるなど日本独自のネット文化、山口百恵、ピンクレディー、キャンディーズから松田聖子、小泉今日子などを経てAKB48に至る、これまた日本独自の「女の子アイドル」カルチャーなどなど、善し悪し、好き嫌いは別にして、ある意味、日本の技術と文化(サブカル)が集大成されている、といったところも興味深かったです。

 まあ、もちろん、所詮は娯楽ですし、キリスト教とは「内容」が違いすぎるので比較は何なんですが、純粋にイエスのイメージや聖書が流通、拡散していく過程は良く似たところがあるよなぁ、と思った次第です。

 でも、乱暴なのは承知しておりますが、キリスト教には「聖と俗」、「信仰としての真実」と「客観的な事実」を使い分ける姿勢っていうか、伝統みたいなものがあるように思えますが。いえ、遠藤周作氏からパクッた理屈ですけど。でなければ、復活とか奇跡とか、一般常識的にはかなり「ヘン」なことを信じている人々が浮世離れしないで生活していられないでしょうし。
 その辺の感覚が壊れちゃった人がいわゆる「原理主義者」「過激派」になるんだろうなぁって思いますし。ちなみにネットでは初音ミク、ボーカロイドに入れ込み過ぎ、な人を「ミク廃」と呼んでます(笑)。
 

566迷える大羊:2012/04/21(土) 00:06:08
キリスト教の「被害者意識」
 先日、身内の付き合いで教会に行ったのですが、説教の際、日本においてキリスト教が1945年の敗戦・終戦に至るまで、いかに迫害され、偏見にさらされてきたか・・なんて話をされました。別に、件の教会に限らず、この種の話は日本の教会ではよく聞きます。
 でも、個人的にこの種の話を聞くと、なんだかイラっとしてくるのです。なんか、私たちはいつも正しいのに、苛められてばっかり・・なんて被害者妄想全開の愚痴かつ独善的な感じがしてきて。

 いえ、別に日本においてキリスト教に対する偏見とか、障害がなかった、とはもちろん思っていないし、戦前、特に日中戦争勃発後の戦時色の強まった時期においては国家神道との兼ね合い、信仰と戦争協力との矛盾に悩んだりとかあって大変でしたでしょう、確かに。
 さらに1941年にプロテスタント諸派は強引に統合されて「日本キリスト教団」になりましたし。かの遠藤周作氏も「天皇とキリスト、どっちが大事かいうてみい」なんて嫌がらせをよく言われたそうですし。
 あと、江戸時代はもちろん、間違いなく迫害の時代、クリスチャンには暗黒の時代だったでしょうね。

 だけれども、明治時代から終戦に至るまで、絶え間ない迫害と偏見に・・なんて言われると「??」です。そんなこと言うのなら、日本にあるキリスト教会は、戦前はすべて、ローマ時代のカタコンペみたいな地下教会だったのか?

 手元に遠藤周作氏の「私にとって神とは」という本があるのですが、それによると遠藤氏が離婚して入信した母親に連れられてカトリック教会に行き、洗礼を受けたのが10歳か11歳ころの話。遠藤氏は1923年生まれですから、それは1933、34年、元号でいうと昭和8年か9年ごろの話となります。バリバリの戦前期ですが、別に官憲の目を気にして、隠れ家のようなところに行き・・などという描写は出てきません。どう考えても、読んでも白昼堂々と教会に通っていたとしか思えないのですが。

 あと、戦前期の大事件の一つに昭和7年(1932)、白木屋デパートの火災事件があるのですが、その原因は「クリスマスセール」に使用するクリスマスツリーの電球のスパークによるもの・・って「クリスマスセール」??。いくら、信仰とは無関係の商売・イベントとはいえ、常に「偏見と迫害」にさらされている宗教の行事を「祝ったり」するなんてことがあり得るのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)#.E7.99.BD.E6.9C.A8.E5.B1.8B.E7.81.AB.E4.BA.8B

 さらに突っ込むと日本にミッションスクールはすべて、戦後の創立なのか?と思って調べますと、全然、そんなことはない。日本を代表するミッションスクール・上智大学の沿革をみると、1913年(大正2年)の創設、学長にはヘルマン・ホフマン氏という外国人、それも、どうみても教会関係者としか思えない方が学長に堂々と就任しているんですが・・。

http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/HISTORY-CHART/ayumi1

 あと、明治期から昭和初期のクリスチャンには当時のインテリ階級の武家出身者が多く(内村鑑三、新島襄、津田梅子・・etc)、勝海舟とか渋沢栄一など当時、一級の人物と交友のあった人間も多い。忘れてはならないのがクウェーカーの新渡戸稲造氏で国際連盟事務次長までやっているんですが・・。「偏見と迫害」にさらされて、苛められてばかりの宗教でこんなことあるんでしょうか?

 公平にみて、明治以降、確かに戦時中の一時期、肩身の狭い、つらい思いをしたこともあったかもしれませんが、全体的にみれば、インテリっぽいイメージ、あと欧米先進国のバックがあることもあってイメージはすこぶる良かった、むしろ、迫害・偏見ってことなら金光教とか大本教とか、仏教・神道系の新興宗教あたりへの方がよっぽどひどかったように思えるんですよね・・。
 戦国末期から江戸時代の迫害にしたって、当時のキリスト教はヨーロッパ諸国の植民地獲得の斥候、みたいな側面があったし、じゃあ、同時代のキリスト教国であったヨーロッパって思想・信仰の自由が花開くパラダイスだったの?とのツッコミをどうしても入れたくなりますし。他にもいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺りで。

 なんていうか、そこらへんの「事実関係」とか、わりと「恵まれた」環境を「無視」して一方的に迫害、迫害みたいに言われると「いい加減にしてよ」って気分になるのです。
 あと、詳しくは知らないのですが、日本のカトリック教会は戦国末期だか江戸時代初期だかに迫害された人々を聖人候補に申請して認められた(のかな?)ようですが、彼らを否定したり、貶めたりするつもりは全然ないけれども、なんていったらいいのか、もっと前向きな人選はできなかったものなのか?と思ってしまいます。

 質問としては、私みたいに考えるクリスチャンとか教会関係者っているのかな?ってことと、私のようなメンタリティっていうか、ものの見方をする人間はクリスチャンとかカトリック教徒として受け入れられるのかな?ってことですが、どうなんでしょう?

567sekko:2012/05/09(水) 22:19:18
日本のキリスト教
被害者意識は、連帯に向けたマイノリティ・グループのとるサバイバル戦略の一種ですから、そこから自由になるのは難しいですね。

でも、逆に、マジョリティ・グループが、加害者意識と贖罪ばかり考えている自虐的なケースだってこの世には多いわけで、私たちはいつも、そのどちらかに安易に落としこむ誘惑を避けてバランスをとる必要があります。

キリスト教的メンタリティというのは、結局は、信仰に照らされて、人間の生命を絶対に尊重したり、常に、「より弱いほう」に寄り添ったりということだと思うので、過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと私は思います。

迫害した側がそれを正しく認識するのは大切で必要だとは思いますが。

http://setukotakeshita.com/

568迷える大羊:2012/05/16(水) 13:34:57
信仰と現実
>過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと

 これなんですが、もしかすると、「事実関係調べたら、日本でキリスト教は当のキリスト教会が主張するほどにはいじめられてないじゃん、だから、問題なし」という風に思われた?だとすると困ったなぁと思ったりします。

 うまく説明できず困ってますが、これは自分の性格とか経歴の問題かもしれませんが、私、初めにストーリーありきで、情緒優先な話の仕方が体質的に受付ないのです。
 弱者保護とか寄り添うことは、もちろん、とても大切だと思ってます。ただ、本当の「弱者」がそういう、情緒優先、初めにストーリーありきの発想ではわからなくなってしまうのではないの?世の中、そんなに単純なの?という疑問がわいたからです。

 あと、日本のキリスト教、特に戦前期についていえば、確かに個人単位で偏見を持つ人間もいたでしょうが、理解者だって多かったはずです。例えば、聖公会系の知的障害者の福祉施設「滝乃川学園」の理事長は、あの渋沢栄一が勤めていますし、勝海舟の支援も受けてます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E4%B9%83%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%9C%92

 そんな面を全く無視して、あるいは知らずに、情緒とストーリー優先で1945年まで迫害と偏見に晒され、未だにクリスチャンは増えず・・みたいな話をされると、「そんなメンタリティだから、キリスト教は日本で普及しないんじゃないの?」っていいたくなります。第一、キリスト教への理解者、シンパだった日本人に対し失礼以外何ものでもないし、「感謝」という念を知らんのか?と思ってしまいますし。

 あと、こちらで書くのはどうなのかな?と思う話なんですが、日本カトリック司教団が「原発の即時廃止を」という主張をしています。個人単位でこういう主張をすることは一向に構わないですし、私だって原発は安全、未来のエネルギーなんて夢にも思ってないですし、不信感はいっぱいあります。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm

 しかし、キリスト教会の名義で、信仰の名において、そういうことを主張するのは、それは一体どうなのよ?と思ってしまいます。単に清貧の生活をすればいい、なんて個人単位でどうこうなる話じゃないでしょってことで。
 合法的に営業していた企業が、電力不足で突然自社の生産設備の半分を「廃棄しろ!!」などと言われたら、どうするのか?
 最悪、生産縮小、他地域への移転などなどで、地元の雇用が無くなり・・なんてこともあり得るわけで、そうなったら「弱者」に寄り添うとか、救済どころじゃなくなるぞ、ってことですし。
 第一、原発の立地自治体は原発の運用で財政収入とか雇用を得ているところが多いんだし、そういったところの住民、自治体をどうこうする策でもあるのか?実際、関西電力大飯原発の地元、大飯町は原発再稼働を求めてますし。

http://www.asahi.com/national/update/0514/OSK201205140063.html

 単純に原発即時廃止=正義、再稼働、存続=悪という問題じゃないだろ、そんなところに信仰とか神を安直に絡ませてどうする?そんな、学生とかその辺のオジサン、オバサンレベルの、わかりやすい「正義」をキリスト教会で聞きたいんじゃない、むしろ、そういう、あちら立てればこちら立たず、本当の弱者救済とは?という悩みとか矛盾にキリスト教はどうこたえるのかが知りたいのに・・。と思ってしまうのです。
 それどころか、自分は「安全地帯」(物理的にという意味ではなく立場的に)にいて、何「御花畑」を語ってんの?いい子ぶってんの?と反発すら感じてしまいます。

 いささか、不愉快な話があれば、申し訳ありません。でも、どうも、ここのところ、キリスト教会で話を聞いていて、イラッとすることがしばしばあるもので。
 やはり、私はキリスト教には向いていないのかなぁ?と思ってしまう今日この頃です。

569sekko:2012/05/16(水) 22:47:28
弱者やエコロジーについて
いや、私の知っている限りでは、たとえば最近のカトリックの活動型修道会などは、弱者を生むシステムや制度そのものを問題にしたり、新しい時代の新しい形の弱者の「分別」(?)にも力を入れていて、今ここで貧しい人にお食事を提供して、という従来の形ではだめだと言っていて、情緒的どころかなかなか過激ですよ。

日本のカトリック司教団の原発即時廃止の話ですが、日本のことはよく分かりませんが、少なくとも、フランスの司教会議のいろいろな宣言だとかコメントに関しては、別にカトリック全体としての決議とか行動指針ではなく、彼らの内部での多数決の決議だと私は了解しています。必ず反対派の司教もいるわけで、それは教義だの信条だのと違って、何の拘束力もないはずです。もちろん、ヴァティカンの指針としてのエコロジー、環境保護というのは合意となっていると思うので、まあ、最近の日本の状況で宗教家たちが反原発を唱えるのは、全日本仏教会の「反原発」宣言文もあったかと思いますが、妥当なんじゃないでしょうか。

私は個人的には、反原発とか即時廃止とかいっても、即時廃止できるような問題じゃないところが問題なのだと認識しています。こうなった今はもう、テクノロジーの暴走の後始末は、祈りや善意よりも、テクノロジーをさらに駆使して何とか抑え込んでほしいと思っています。核廃棄物処理への長い戦いをどう予算化するかのほうが気になるんです。

二元論的なまたはイデオロギー的な言説はいろいろあるかと思いますが、そんなこと気になさらないで、これまでどおりの複眼で本質をキャッチするようにしてください。

http://setukotakeshita.com/

570迷える大羊:2012/05/25(金) 13:48:50
ワルとキリスト教
 現実のお話ではなく、映画中のお話ですが・・。「2001年宇宙の旅」で有名なスタンリー・キューブリック監督の作品で、「時計仕掛けのオレンジ」という作品がありまして。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%98%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8

 気になるのは、その作中で、浮浪者イジメ、レイプ、強盗・・とワルの限りを尽くす主人公が仲間の裏切りにより逮捕され、刑務所送りとなり、看守から「貴様の教会は?」と聞かれて「英国教会」と即座に答えるところ。(動画中の3:30〜3:36の辺り)

http://www.youtube.com/watch?v=Q1UUZSXFlyc&amp;feature=related

 フランスではなく、英国の話ですが、ああ、あちらじゃ、あんなワルも「クリスチャン」(真面目に信じてるかは別にして)なんだなぁ、所属教会がすぐに出てくるんだ・・映画ではなく、現実でもそうなのかな?と、いろいろ考えさせられました。

 何を今更・・とお思いになるかもしれませんが、日本でクリスチャン、教会員というと、ステレオタイプと半ばわかってはいても、すごく真面目で道徳的、「不道徳」などという形容詞がつく言動とは無縁、性に関してはひたすら保守的・・なんてイメージが強いので、こういう映像をみると、改めて違和感と驚きを感じてしまうのです。

 フランスではどうなのでしょう?イスラム系の移民は別にして、例えば、およそ神とか信仰などとは縁が無さそうに見える、不良やらワルやらでも、映画のように所属教会を聞かれたら、すらすらと答えられるものなんでしょうか?
 あちらでも、毎週教会にやってくるような人はやはり、「真面目」「道徳的」な人ってイメージが強いですか?

571sekko:2012/05/26(土) 17:09:38
ワルと信仰…
なんというか、社会生活に必要なモラルを内包しているまともな宗教をまともに信仰している人は「ワル」を抑制してるでしょうけど、ワルの側に安住している人にとっては宗教の諸族など関係ないのでは…。

逮捕された後という特殊なケースなので私には分かりませんが、フランスは少なくとも英米と違って、共和国の建前上、公文書に宗教の所属や人種を書きこむことはあり得ないので、犯罪者(容疑者)が収監された時にそういうことを聞かれたりサインさせられたりすることはないはずです。刑務所内で聖職者を読んでもらう権利は保証されてますが。

だから、そういうことを聞かれる機会もないわけで、また、歴史的にイデオロギー的無神論者も少なくないので、「非行少年」みたいなのが、自分の宗教を聞かれてすぐに答えられるなんて、日本の「非行少年」が実家の檀那寺の宗派を答えられるのと同じくらいの確率だと想像します。

ドイツなんかは、ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

毎週教会に行っている人、のイメージは、教区によって違います。

移民(中南米系とかアフリカ系)の多い教区では、連帯や支援を求めて、また、生き抜く力を求めて本当に信仰を必要としているとか、神頼みを必要としている人も多いです。情報収集の場、ボランティアとコンタクトできる場でもあります。

ブルジョワの多い教区では、やはり彼ら同士の仲間の社交的な情報交換の場、アィデンティティの確認の場、また、特権的人脈を広げる場にもなりますし、ボランティアをする場でもあります。

後は、地方の小教区などでは、教会は氏神さまみたいなものなので、町内会(というようなものはないので)と同じような感じで、ひたすら近所づきあいや生活習慣、典礼カレンダーにそって季節の移り変わりを感じるリズム、などが続いている人、というイメージでしょうね。

モラルとはあまり関係がないのでは…

逆にフランス人仏教徒で週末には仏教センターなんかに行って講習を受けたり瞑想したりしている人たちに対しては、菜食者で殺生をせず、エコロで痩せてて、まじめで堅い人というイメージがあります。

多分、宗派と関係なくマジョリティとマイノリティの関係でしょう。

http://setukotakeshita.com/

572迷える大羊:2012/05/29(火) 21:18:33
ありがとうございます
 なるほど、この辺りの感覚は欧米でも、国によってかなり感覚が異なるんですね。それにしても、フランスの政教分離は徹底してますね。恐らくは世界一徹底しているのでは?と思ったりします。

>ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…

 映画のケースは(現実に基づいているとすれば)、このケースなのかもしれませんね。あるいは・・

>ひたすら近所づきあいや生活習慣

 で、聞かれたら機械的に答えただけ・・であまり深い意味はないんでしょう。大半の英国人やヨーロッパ人からすれば。キリスト教との距離感覚でいつも思い出すのは、かのビートルズのジョン・レノンの「キリスト発言」。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E7.99.BA.E8.A8.80

 英国では全く問題にならず、というかほとんど無視されましたが、米国に伝わるやいなや大騒ぎ。ビートルズ排斥運動やらメンバーの脅迫やら、大変な事態になったみたいで。
 いわゆる「信心深い」人は英国よりアメリカの方が遥かに多いんだ、キリスト教に対する距離感が英国と米国では全然違うんだ、実はこれこそが、英国と米国を区別する最大のポイントなんだ、ということがよく解るエピソードでした。

573ルチア:2012/06/12(火) 09:37:52
洗礼
初めて質問させて頂きます。竹下様と同年齢の主婦です。初めに、いつもホームページにて「無料」で勉強させて頂いていますこと感謝しております。
竹下様が4月にイグナチオ教会でお話しされた時に、参加させて頂きご本も購入し、大変面白く読みました。(他の著作も愛読させて頂いております)
私は竹下様が信者様なのかどうか、以前から疑問に思っておりましたが、4月の講演で「信者様」だと確信しましたのに、先日の日経新聞でそうではない事を知り考えてしまっています。

私事で申し訳ありませんが、現在、イグナチオで「死生学」で有名な神父様のクラスに3年程通い、「洗礼」を受けるべきかとても迷っています。
神父様の「カソリックで大事なことは、自分を出て、より深く他者と出会う事なのですよ」という言葉に共感しております(神父様はクラスでは、あまり深い話はなさりませんが…)。教会に出入りするようになり、教会の門は開かれており、「洗礼」は聖体拝領を出来るかどうかの問題なのかもしれないとも感じたりしております。とはいえ、今以上に勉強をしたいと思えば受洗された方の為のクラスになってしまいますし、どうしたものかと思っています。もちろん、勉強は本を読んだりして個人でも出来るものではありますが、ボランティアに参加しても自分のみ非受洗者で居心地が悪い(周りは本人ほど気にしてないようですが)部分もあります。
神父様のお話や竹下様の書かれたものには、とても共感しますが、ミサの会衆の応答の時に「復活」を完全に信じていない自分や、応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)
出来たら、竹下様が「洗礼」を受けない理由。竹下様が考える「受洗者」と「非受洗者」の違い。二点をご教示願えたらと思い、投稿させて頂きました。
(余談となりますが、3月に家族でパリに滞在したとき、近くにある「Ste.Trinite教会」に行きましたが信者さんの数の少なさに驚きました。皆さん、教会へ行かれないのでしょうか…)
拙い文を読んで頂きありがとうございます。

574sekko:2012/06/12(火) 22:21:08
ルチアさま
ごめんなさい。記事を事前に確認しなかったので、誤解されるような書き方をされていることに気づきませんでした。記事をまとめられた方は、私の著書を読んでキリスト教徒の視点というよりも、客観的で冷静な視点でキリスト教文化を分析し、語っているといつも感じていられたということで、ああいう書き方になってしまったそうです。

信者であることと冷静な視点は両立しますが、キリスト教がマイノリティの日本では、私自身も、昔、宗教学科でキリスト教を教えている人はみんな信者か聖職者、みたいなイメージでバイアスがかかっているんじゃないかという偏見も無きにしも非ずでしたから、特に表に出す必要はないと思っています。

この記事を読んだ担当の編集者は「信仰を明らかにすると何か不都合が生じて、テロリストから狙われるのかと懸念」した、などと言っていましたが、もちろんそんなこともないです。

私は日本でごく普通の家庭に育って、キリスト教とは知的な興味以外の付き合いはありませんでした。ミッションスクール文化ももちろん知りません。

ミッションスクールで中学高校を過ごし上智で洗礼を受けられたエッセイストの故・島村麻里さんは、「竹下さん、日本にはカトリックお嬢文化というものがあるんですよ」と教えてくれ、彼女は馬小屋セットでお人形遊びをしていたとか、「ルルドのひめぎみマリア様」というような「カトリックいろはカルタ」で育ったと言っていました。私は同じころ、「世界の王者ルーテーズ」といった「プロレスカルタ」で遊んでいましたから、あまりの違いに笑いあいました。

島村さんもそうですが、洗礼を受けた後で教会から離れ、少し罪悪感があったのが、私の本を読んでまたカトリックに親しみを受けた、楽しくなったという人は何人もいらっしゃるようです。「実は、私は、幼児洗礼を受けていまして…」と突然「カミングアウト」なさる仕事関係の人もいて、どう反応すべきなのか分からなかったこともあります。

フランスでは幼児洗礼を受けている人は今でもマジョリティですが、教会に毎日曜行っている人は一割をきっています。まあ、日本人がお宮参りに行ったりお葬式でお坊さんを呼んだりするように、クリスマスや復活祭にだけ教会に行ったり、葬儀ミサだけはするという人はたくさんいますが。

フランスでは逆に仏教徒と称する人は、カトリックの洗礼名簿からわざわざ消してもらって仏教の戒を授けてもらって戒名をもらう、という熱心な人がほとんどです。そんなフランス人の集まりに行くと、私なんて、日本人だから、自然に一目置かれたりしますよ。なんか「Zen」な感じがするらしく。それなりの仏教国カルチャーもありますから。

そんな国で、しかも、フランドルの田舎で、今から30年以上前に成人洗礼を受けたのですが、80歳を超えていた司祭は、そもそも成人洗礼のやり方を知らず、多分司教に問い合わせるという智恵もなかったのか、生まれて初めて授ける成人洗礼(その村にはカトリック以外は存在しません。小教区と町内会の区別がないという感じです)に興奮するばかりで、私は、いわゆるカテキズムなどもなしに、幼児洗礼と同じような感じで、洗礼を受けました。(しかも巡礼者が分けてくれたヨルダン川の水で。)

そんなわけでその日には地方の新聞社が来て大騒ぎになり、その地方新聞に写真も載りました。代父も代母も、幼児洗礼なら絶対に選んでもらえないような老人で、とっても感激してました。

でも、聞かれてこの話をすると、フランス人は面白がるだけですが、日本のカトリックの人には、真面目に勉強している他の人に悪い影響を与えるからそういうことを話すな、と注意されたことがあります。まあ、そういうこともあって、なるべく目立たないようにはしていますが、別に、隠れキリシタンをやってるわけではありません。


こちららの子供のカテキズムでは「キリスト教的生活とは他の人の生活をより快適にするよう努力すること」と言われるので、私は、老司祭さん(私の洗礼の後、それをずっと自慢したいて一年後に亡くなりました)も幸せにしたし、村中を喜ばせたので別に罪悪感はありません。そういうコンテキストで、会衆の応答の言葉とかクレドに対して「全部はいまいち信じてないかも」などというそれこそ皆の予定調和の世界を破って困らせるようなことを突き詰めて考えることもありませんでした。

大人が受洗できるかどうかなどは資格の問題ではなく内的な必要に駆られてだと思いますし、基本的に無償でいただくプレゼントだと思うので、それを大事にしていくかどうかはまた別の問題です。まさに「より深く他者と出会う」ことなしには意味がありません。

日本の方に対しては、そんなわけで、信者としてアドヴァイスするような立場にはまったくありませんが、できるだけ他の人の立場に寄り添うことを自分に課すことを続けています。

そして、ある時、誰かに「えっ、あの人がカトリックならカトリックって信頼できるのかも…」と思ってもらえることがあるとしたら、最高です。私の周りにはそういう素敵な人がたくさんいますよ。

http://setukotakeshita.com/

575jean:2012/06/13(水) 00:32:43
ルチアさま、竹下さま
びっくりしました。竹下さん、信者だったのですか。竹下さんの著書は何冊か図書館で借りて読み、それも始めから終わりまで読むのではなく、つまみ食いする程度の知識しかないのですが、この人、信者でもないのにカトリックのこと、あれこれ調べて書き散らしているぐらいに思っていたのですが、信者だったとは。日経朝刊(6月10日)に載った記事は私も読みました。そのとき、やっぱり、この人、信者ではなかったんだと再確認したつもりになって、イグナチオの8時半のミサに行ったのですが、信者だったとは。ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。それで、思わず投稿してしまいました。

ルチアさんは竹下さんと同年齢とのことですが、私も同世代です。違うのは、私は女ではなく男だということ。1952年生まれ。受洗は1984年の復活徹夜祭。妻と1男1女。キリスト教とは何の関係もない家庭で育ったのに、小さいころから何となく十字架やキリスト教に関心があって、カトリックになってしまいました。でも今では、カトリックではない自分は考えられません。

ルチアさんは、「ミサの・・・応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)」と書いておられますが、具体的に、どのようなところでしょうか。ミサの典文を聞いていて、ちょっと変かなと思うところは私にもあります。教えていただければ、お役に立てるかもしれません。あまり他人のことには関心がなく、洗礼に導かねばという使命感もないので、おかしいと思うことを気楽に話し合えればと思っています。

576ルチア:2012/06/13(水) 17:02:12
受洗
竹下様、お忙しい中、私の質問に丁寧に答えて下さり、心より御礼を申し上げます。
頂いた返答を読み、まず事実が違うことに驚きました。確かに宗教は微妙な問題ですが、事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」マークになってしまいました。微妙な問題ととらえるなら、違った書き方もあったのではと思いますが。
とはいえ、そのおかげで竹下様の受洗の経緯も教えて頂ける事となり、感謝しなければいけないのかもしれません。フランドルで受洗されたのですか…。加賀乙彦さんに「フランドルの冬」という御本がありますね。竹下様の文章を読んでいるだけで、こちらも胸が暖かくなってくるような受洗の光景だと思いました。素晴らしい受洗を得られたのですね。
竹下様が仰るように、「大人の受洗は内的な必要に駆られて」の方が殆どで、通っているクラスでも、何か深いお悩みをお持ちの方が「受洗」有りきでクラスに通ってらっしゃる方が多いように思います。私的なことで申し訳ありませんが、私は大きな悩みが有るわけではなく、知的興味(知的と書くのは恥ずかしいくらい低レベルです)から勉強を始めて、想像していた世界よりもカトリックは遥かに奥行きが深く、包容力があることを知り「受洗」を考えるようになった次第です。個人的に確実なことは、勉強を始めてから世界の受容の仕方が変わったことです。これは既にプレゼントのうちに入っていると自分でも思います。
竹下様の返答は「大きなアドヴァイス」になりました。改めて御礼申し上げます。

応答の言葉でひっかかりを覚えるのは「万軍の神なる主。」「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。」でしょうか。一般的な意味での日本語が指すものとは違うとは考えますが…。

余談ですが、竹下様は「ハンス・リヒター展」を観に行かれたのですね。羨ましいです。リヒターは現役の現代アーティストの最高・最大の作家で、私も観に行きたいのですが、贅沢な願望なので我慢しています。3月にはマチス展が開催されていたので、観ました。その時の「DANCE」の展示があったところでリヒター展は開催されたのでしょうか。こういう大きなアーティストのツアーも、最近はアジア開催があっても日本は素通りだったりして残念です。

竹下様が対応してくださったこと、こちらのホームページを運営されていらっしゃる方のご努力に心より感謝いたします。このような場に触れる機会を得ることこそ「恵み」かと思っております。
ありがとうございました。

577sekko:2012/06/13(水) 19:00:58
ルチアさま
>事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」

というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。

フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。

これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。

私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。

でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。

逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。

私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。

一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。

「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。

(中略)

竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。

(引用終わり)

ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。

さて、

「万軍の神なる主」についてですが、

日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。

Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。

でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。

今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)

訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)

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578sekko:2012/06/13(水) 19:24:17
Jeanさま
>ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。

ということにこちらこそ驚きました。

日経の記事よりここでの返事の方がインパクトがあったわけですね。

このことで、あらためて、私の関係するカトリック雑誌の連載や出版物の紹介文を見てみたのですが、確かに、別にどこにも私が洗礼を受けているとかどうとかいうことは出ていませんね。

でも、そういうところ自体が、カトリックがいかに党派性や今ある共同体だけに固執しない、開かれた世界であるかという特色の出ているところで、私としては好感が持てます。

Jeanさんはイグナチオ教会に行かれるのですね。

先日ヨセフホールでトークする前にもちろん聖堂に行きました。復活のキリスト像に、いつも通りフランス語で「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」(近頃年齢のせいかおかあさんモードになりつつあるので)と話しかけてしまいました。

Jeanさん、ルチアさんの疑問などにもどんどん答えてさしあげてください。ありがとうございます。

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579mimemegene:2012/06/13(水) 23:29:24
ルチア様
前略,
ルチア様を端緒とする交わりに,私も加わりたいと願って,メールをしてしまいました.

私は竹下様が受洗されていると知覚していました.
主イエスと出会った人だ,神が育てた人だ,と感じると言ったほうが,わかりやすいかも知れませんね.
決意をした人,崇め頼む方をハッキリ知っている人の語り方や感じ方の表現を著書に沢山感じています.
私はイグナチオ教会で30年程前に成人洗礼した一般信徒.年の霊操を始めて15年程の男性.

それで,ルチア様に私の日常を,少しだけ分かち合いたいと願います.
書かれている文を読んで,受洗に向き合うセンスがとても素晴らしいと感じたからです.
私個人のつたない経験で,しかも少し長くなってしまったので,
お時間があるようでしたら,読んでみてください.
無視しても全くかまいませんので.

?「ありがとう」「ごめんなさい」「助けてください」
私は毎晩,一日を振返ります.
三位一体の御交(おんまじわり)が私に触れて下さったことを思い起こします.
振り返る順番はタイトルにある順でないと,上手くできない事は,やり続けるとわかってきます.
例えば,「御交様,今日怒りそうになった時,心がなぜか柔らかくなりました.感謝します」という感じです.
この振返りをした後に,前後での心の変化に集中して,何らかの変化を感じたら,それも言葉にします.
できれば,一連のことを簡潔に書き留めると,1週間毎の振返り,1ヶ月毎の振返りの時に助けになります.
?は,「御交との交わりを体験したらどんなに素晴らしいか」というのを,誰もが感じられるやり方だと思っています.

?主イエスは私を慕う
谷川の水を求める鹿のように「あなたを慕う」というのは旧約のイメージですね.
この聖歌で言うと,新約は「神よ,あなたは私を慕う」となります.
御子イエスの方から,私を求めて来て下さっている.人間になった.
更に,御聖霊が常に私と共にいてくださいます.
知識よりも御聖霊への感度をUPするように,私は常々お願いしています.
身体が霊魂を持っているのではなくて,霊魂が今だけ身体を持っているというイメージを描き,
共にいてくださる感覚を味わうように私はしています.
しかも神様は無理強いを決してなさらないので,いつも安堵ですね.

?改心よりも開心
マザーテレサが著書に書いています.
「テオドーア修道女が亡くなる少し前に、どれほど苦しみがひどいか彼女にたずねました。すると彼女は美しく答えました。
『それはイエスと私の間の秘密です』と。」

それで,テオドーア修道女は,「何故私がこんな死を迎えるのか」等も含めて,全てをイエス様に言い続けたと思います.
イエスはその全てに触れたので,イエスとの秘密が生まれたと思います.恵みですね.

テオドーア修道女のように開心せずに,つまり,「誰にも言わずに自分で解決しようと心にしまってある事」は,解き放たれたくて,「心の傾き」になって,常に関わりを求めてきます.
ですので,ルチア様がミサ応答でひっかかりを覚える言葉は,「心の傾き」を照らすきっかけ,神様からの働きかけの光ではないでしょうか.
私の経験では,このようなきっかけは「しまってある事を神に捧げてほしい」というメッセージです.
また,デーケン師が「より深く他者と出会う事」と表現されているのは,心の中の「二人の自分」(慰めと荒みの二人)の出会いも示唆していると思います.

それで,タイトルの開心のことですが,
「私だけの秘密で,御交にもみてほしくない」というような事は誰にでもあると思います.
その秘密こそ,御交にむかって心を開くのは,恵みだと思います.私も度々恵みを感じています.
言葉では説明できない恵みの塊のような,常に心も身体も温めている体内の塊のような,そんなものが私の中に感じられるようになってきて,これは御交との秘密としか表現しようがないと思っています.

神様がきっと受け取ってくれるだろうと勝手に思った事の方を神様に見せますが,隠している事の方を本当は捧げてほしいと働きかけて下さいます.
神様は全てをご存知だから,私の場合は,「全てをみてください」と言うだけでも開心の扉は開いてゆきました.
恐れは全くないので,?が日々の開心です.

最後の晩餐で「私の身体」と言って割かれたパンはイエス様ですね.
そして,イエス様はパンの形で弟子達の身体の中に入って行きました.
その時のイエス様は,どんなお気持ちで,何を感じられていたでしょうか.
現代では,日々のミサではどうでしょうか.
自分の心を開いて,キリストの心を感じ取れるように求めるために,
私の場合は,言葉や定義ではなく,「感じる」事が全てです.

竹下様の著書は,この「感じる」時に,私の心の霧を晴らす風のようです.だから冒頭で知覚していると書きました.

神父達が言うように,神を愛する心や神との歓びも,既に私に与えて下さっているから,「私は神を愛している」と言えます.
既に恵みを全てをいただいていて,それに少しずつ気付いていく日々が,ルチア様にも始まっていると感じております.
「イエス様を愛している」と言葉はありませんが,そのニュアンスが文から匂い立っていませんか?

580ルチア:2012/06/14(木) 10:55:07
万軍の神なる主
竹下様、初歩的な疑問に調べて答えて下さり、有難うございます。
「天使の軍団」とても受け入れやすくなりました。竹下様の仰る通り、あまり表面的な字句にとらわれずに勉強していこうと思います。「神学」の道を目指しているわけではありませんからね。

日経の記事から波及した皆さんの反応に、一番驚いてらっしゃるのは竹下様ご自身かのように見受けられます。確かに、私も単純に興味を持った本として読むのであったなら、著者が「信者さん」かどうかは全く気にならないと思いますし、推測もしないと思います。
シスターが仰られたように「好都合」(信仰から距離を置いた宗教本という意味かと思いますが)のほうが、読者に先入観無く受け入れられて良いのでしょうか。
読み手としても、熱心な信者さんの書かれた本は「布教目的?」というバイアスがかかって読んでしまいますね。

竹下様がご自身で書かれた「複数のアィデンティティ」は、竹下様の魅力の中で「補完的」ではあっても、大きな部分のように思います。一読者として、どのように「なる」のか、この先をとても楽しみに思っております。
L'art de croireも愛読させて頂いておりますが、この「哲学・宗教質問箱」とは文体も違うし、「複数のアィデンティティ」を感じております。

一つだけ、質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?全くの興味だけからの質問です。
ここに投稿してくださった方々は、主日のミサに与ってらっしゃるように思いますが、竹下様はフランスでミサにお出になったりはしないのでしょうか?(純粋にミサ出席だけの為に)
私もイグナチオしか知らないので、認識に偏りがあると思いますが、平日でも夕方6時のミサの前にベンチに座っていると、人が行き交い会話が交わされ、教会が大きな家族として機能しているのを実感します。竹下様の文章から推測するに、これは日本でカトリックが少数派だから起きていることなのでしょうか…。ヨーロッパで教会へ行って、とにかく驚いたことばかりで、人は少ないしベールを被っていらっしゃる方も見当たらないし、考えさせられてしまいました。

お時間の許す時に書いて頂けたら、幸いに存じます。

581ルチア:2012/06/14(木) 11:04:38
jean 様
私の拙い迷いに対応してくださり有難うございます。

このような場所で見知らぬ方から受ける好意に、何と感謝して良いかわかりません。
また、迷った時に投稿させていただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

582ルチア:2012/06/14(木) 11:16:18
mimemegene 様
丁寧な文章で伝えて頂き、本当に有難うございます。

私はmimemegene 様のような深い信仰は得ておりませんが、仰られていることの意味は少しだけ分かるような気がしてきました。「自分を出る」「開心」はなかなか奥が深く、時間がかかることのように思いますが、「全てを理解しないと受洗できない」という考え方は却下の方向で進んで行きたいと思っております。

御礼申し上げます。

583mimemegene:2012/06/14(木) 19:33:53
ヨーロッパ死者の書
竹下様

4月の聖イグナチオ教会での講演会は,とてもわかりやすく,ありがとうございます.
又ご挨拶ができて,幸せでした.


お尋ねが一つございます.

「ヨーロッパ死者の書」で取り上げている,ジャン・プリユールの「死者の書」が,とても心に残っております.

それで,竹下様は,日本で翻訳出版なさるご予定やおつもりはございますか?

584jean:2012/06/14(木) 20:42:55
「万軍の神なる主」
ルチアさま

竹下さんの回答があるので、それで十分なのですが、あえて付け加えるなら、「主よ、憐れみたまえ」「天のいと高きところには神に栄光」「神の子羊」と比べると「聖なるかな」の歌は確かに少し違った感じがあります。さあ、これからミサの中心、とっても大切な奉献文が始まるのだぞ、という意気込みがあるような感じがあって、私は嫌いではありません。「万軍の神なる主」に限らず、ルチアさんの疑問はほかにもあるでしょう。そんなときは、遠慮せずここで質問されたらいかがですか。難しい問題は竹下さんが的確に答えてくださるでしょうし、簡単な問にはmimemegeneさんや私もお役に立てるかもしれません。

585jean:2012/06/14(木) 20:44:06
「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」
竹下さま

女の人は、聖堂でこんな風にイエズスさまに話しかけるのですか。

私は「今日もここに来ることができました。これから始まる御ミサ、カルワリオの再現に与らせてください」といった感じです。中年のときも年を取っても、ミサの前のこの語りかけは変わりません。

竹下さんに、ひとつ質問があります。答えるのが面倒であれば無視していただいても構いません。質問とは、「末っ子に大きな役割が任されるのは何故」「このことをヨーロッパの人たちは、どう考えているのか」です。

ヤコブの12人の息子のうち、エジプトの宰相となってイスラエル人を救ったのは末っ子のヨゼフでした。ダビドも兄たちが次々に面接ではねられ、最後に残ったのは末っ子のダビドでした。12使徒の中でイエズスさまに最も愛されたのは一番若いヨハネでした。ヤコブの弟です。怠惰に見えるマリアのことでイエズスさまに文句を言ったマルタはお姉さん、そのマリアは妹で、マリアの方が大切にされているような感じがします。有名な放蕩息子も弟、帰ってきた弟のために宴会を催した父に文句を言ったのは兄ですね。日雇い労働者の話で、朝早くから汗水流して働いたのに、夕方に少しだけ働いた人が同じ賃金をもらったのはおかしいと文句を言ったのは、聖書には書いてありませんが、何となく兄、夕方だけ働いたのは弟という感じがします。「L’art de croire」で「リジューの聖テレーズを読み返すことにした」と書いておられた教会博士の聖テレーズも4姉妹の末っ子です。何故なんでしょう。なぜ、末っ子がこのように大切な役割を任せられるのでしょう。このことを、ヨーロッパの人たちはどのように解釈しているのでしょうか。

『弱い父「ヨセフ」』を書いた竹下さんなら、この疑問にも答えをお持ちではないかと、お尋ねした次第です。

586sekko:2012/06/15(金) 00:59:32
Jeanさま
女の人は・・・というのは、他の人のことは知りません。

私の場合、フランス語なんで、敬語がなく、こんな感じなんで、日本語にしたら違和感があるかもしれません。私の年代のフランス人なら、カテキズムを受けた時はまだ第二ヴァティカン公会議の前だったでしょうが、私にとってのキリスト教は1980年以降のフランスのリベラルなキリスト教なんで、まあこんなもんです。

イグナチオのイエス像は磔刑像でないのでいいですが、フランスにはリアルなのが多くて、この頃、磔刑像で痛そうにしているキリストを見ると気の毒で気の毒で、こんな痛そうな人に何かお願いしている場合じゃない、一人くらい「私ががんばってあげるからね」と声をかけてあげればいいような気がしまして…
特に五十肩をして腕が痛いのを経験した後では、磔刑像を見るだけで痛くて。
まあ、これは私の内臓的な反射に近いので、スルーしてください。

末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

こちらでは、半年年上の親戚である洗礼者ヨハネに対するイエスの優越というか、ヨハネが自分は衰えねばならない(ヨハネ3-30)と言ったことも、必ず、聖書の中の年齢の話に引き合いに出されます。また、旧約でいうと、カインがアベルを殺して追放されて、困った(?)アダムがその後にセトをもうけて、そのセトが人類の先祖(カインも子孫を残したしアダムもその後にも子供ができたとかいうのは無視です)になったんで、三番目の子が後継ぎになったというストーリーも(長子の歩が悪い例として)引き合いに出されることがあります。

ユダヤの律法では長子の特権は明らかなんですけれど、古代社会では実際、末っ子が実家に残って老親の面倒を見て家督を継ぐという形態もめずらしくなかったようです。

ヨーロッパでいうと、本当の意味で長子相続が確立したのは11世紀頃らしくて、その長子には、家督や財産を守るために軍事教育を施し、下の子は聖職者に、というのが多くて知的教育を施し、実際聖職者や文人には長子ではない子が多いそうです。テレーズの姉妹のようなのは例外として、修道女になるのも末娘が多いという統計も読んだことがあります。

また、ガラテヤ(4,21-31)にあるように、最初の子は奴隷の子、二番目の子が自由の子、という比喩もあって、この話(アブラハムの2人の子の話)も文字通り読むと、なんだか最初の子に対して不当だと思えますが、「自由」ということについていろいろ考えさせられますね。

つまり、こういう例えがいつのまにか、「家督や財産」などこの世の名や富を継承し守るべき長子的なのが「肉」の子で、聖職者になっちゃって子孫を残さず神にだけ仕えるのが長子の権利と義務を負わない「霊」の子、みたいな図式にすり替わって、安定したのかもしれません。日本でも昔なら子供がたくさんいると末っ子くらいはお寺に修行にだすとか、フランスでも昔はやはり末の子くらいは聖職者にして家族のために祈ってもらうとか、いろんな思惑があったのかもしれません。

旧約聖書って、律法はもちろん細かくて厳しそうですが、実際に展開する物語はなんだかリアルで、人間の家族の微妙な心理とかが露わになっていて、その落差が次の新約になだれ込む契機を作っているのかもしれませんね。そしてその後に続いたたくさんの神学者とか聖職者たちも、その流れの向かう何かの中でいろいろな試行錯誤をしているのかも。

あまり答になってませんが、とりあえず書いてみました。

http://setukotakeshita.com/

587sekko:2012/06/15(金) 07:35:23
mimemegene さま
『ヨーロッパの死者の書』は、私の読んだのは1981年版の

http://www.amazon.fr/livre-morts-occidentaux-Prieur-Jean/dp/2221006151/ref=ntt_at_ep_dpt_8

 なんですが、最近新しい版も出たようです。

この著者はもう百歳近いのですが、まだ活躍しているようで、タイトルだけ見ると、日本だとオカルト本じゃないかと思われるような怪しいジャンルもあるのですが、実は本格的な歴史家で信仰者でもあるという、すごくフランス的な人だと思います。

翻訳出版する出版社があれば私はもちろん協力しますが、どうでしょう。

それから、mimemegene さま、ルチアさまへのお言葉ありがとうございます。しかも、私のことをあんなふうに言っていただけるなんて、それだけでもこのボランティア掲示板を残しといてよかったなあと思います。

サイトを作る時、基本的に、自分の宣伝はしない、私生活は垂れ流さない、目立たないようにする、という路線を決め、ブログも、ネット上で出会ういい加減な批判にうんざりしていたのでコメントもトラックバックも受けつけない「覚書」に限定していたのです。まあ、ネット上であれこれ言われるのは読まないようにしているのですが、今回は、紙の媒体での誤解をきっかけにネットですてきなお声を聞くことができました。

今回のことに関して、なかよしのシスターから、

「わずらわしいことがあったとしても、プラスのことはその何倍もでしょうから。。。そう考えてまたどんどん発信なさってください。」

とメールで言ってもらえたんですよ。確かにそうだなあと思います。

人間、マイナスのことの方がなんでも強烈にインプットされがちですが、公平に考えたら、絶対にプラスのことの方が多いと実感します。

皆さまほんとうにありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

588sekko:2012/06/15(金) 08:34:03
ルチアさま
ええと、ご質問の答えとして…

平日の6時のミサ、みたいなのは、ルルドなどの巡礼地に行った時でもないと出席したことはありません。

フランドルの田舎のうちがあった頃(今はもうありません)は、日曜は絶対行ってましたよ。鐘がうるさいので忘れられないし、というか、町内会みたいなものなので顔を出さないと近所の人に病気だと思われそうだし、司祭さんが気の毒だし、という感じです。

私は歌を歌うのが好きなので、苦になりません。昔、歌を歌えなかった時があるそうで、じっと聞いてるだけだったら苦痛かもしれません。

イグナチオでも昔、フォークミサというものがどんなものか見たくて行きました。そういえば結構人が来てましたね。ミサの前にちょっとリハーサルみたいなものがありました。後は日本では、演奏会や講演を別としたら、町田教会、水戸教会、垂水教会、成城教会で一度ずつ、ミサを体験しましたが、エキゾティックな感じがしました。日本じゃない別世界って雰囲気でした。よそ者には敷居が高い感じもしました。

舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいた時は毎朝6時半のミサにつきあいました。シスターたちはみなすてきな歌声です。

日本の教会では、「はい、未信者の人は祝福に並んでください」、とかいうシーンがあるのに驚きました。フランスの都会なら、互いに顔を知らない人も多く、日本人の観光客で、ただ好奇心でフランスの教会のミサに出て、なんとなく並んで聖体拝受までした学生とか何人も知ってますよ。

パリのモスクとかシナゴーグとかだったら、無知からとは言え、そんなよそ者が儀式に参加したら恐ろしい感じがしますが、やっぱカトリックって、老舗の大所帯だから、鷹揚というかルーズというか、怖くはないです。

あ、もちろん、個人的にすごく気にする人はいるので、離婚したとか再婚したとかで聖体に近づかない人もいます。

でも、初聖体前の娘がガールスカウトの仲間と聖体を拝受してしまったと言って真っ青になって、司祭さんのところにかけつけてきたお母さんを見たことがありますが、司祭さんは笑って、「それはコミュニオン・ソヴァージュ(野生の聖体拝受)と言って、気にしなくていいよ、聖体をいただくのは資格の問題でなくて必要の問題なんだから」と答えていました。

ミサで、今はほとんどの人が席から立つ時に、しっかり跪く人もいます。ホスチアをもらう時、舌の上に乗せてもらう人も、跪く人もいます。他の人と同じようにしなくてはならないという感じは特にありません。

これも日本人のブログで、教会で跪いて口でホスチアを受けようとしたら司祭に拒否されて無理やり立たせられたとかいう人がいるのを知って驚きました。第二ヴァティカン公会議でいろいろ変ろうがヨーロッパ中ではいろんな司祭さんや教区があるので、それこそ巡礼地に行っていろんな国の巡礼団のミサを見ると、千差万別だなあと思います。それでもみな親近感があってつながりがある感じで、私はすごく好きです。

以上、ただの観察と感想のレベルでお答えしただけで、信仰の話ではないので、霊的なことが気になる方は無視してください。

http://setukotakeshita.com/

589mimemegene:2012/06/15(金) 15:08:45
kansya
竹下様

『ヨーロッパの死者の書』

不躾なお尋ねにご返事下さって,本当に有難うございます.

私の帰天ミサの手本・台本にしたいと願っている位です.
私のmimemegeneは「模倣の遺伝子」という意味で使っていて,少しずつ色々倣って,将来の前備にしたいです.
実現できるように,まずは祈っていきます.

Le livre des morts des occidentauxは,東京の大学図書館(東大,上智,聖心,その他私大6校)にはいずれも蔵書がありません.プリユール氏の他書は東大で8冊,上智で6冊とかありました.日本版のアマゾンでは,ISBN検索でもヒットせず,他のネット書店で1冊だけ(1981年版)見つかりましたが,価格が7千円弱位でした.
------------------

★それから,このボランティア掲示板には,心から感謝しています.

例えば,2月にお尋ねした「アウグスティヌスの祈り」について,竹下様から深く教えていただきました.
私はこれを味わって,「輪廻転生」してしまうかもしれないというなんとも言えない心のささくれがとれて,霧が晴れました.


「霊操」の230番に「愛は言葉よりも行いによって示すべきである」とあり,
竹下様は,まさに著述で愛を示されていると,私も皆様と同様に感じております.

私の場合は,「感じたいのは,キリストの心」です.
こういう内的理解を祈っていて,私の気づきの傾向が単調になってしまって,つらい時期がありました.
この時期に竹下様の著書を読んで,腑に落ちる光源を幾つも知り,気持ちも落ち着きました.

まさに著述のおかげです!

590ルチア:2012/06/15(金) 17:38:28
jean様
jean様の答えて下さった中で「さあ、これからミサの中心〜」というところを読み「ミサをそのように受け取る捉え方が有った」ということに遅まきながら気づきました。考えてみれば、ミサの中で流れの方向と起伏があるのは当前のことで、それに気づかず語句にとらわれていたのかもしれません。jean様の投稿を読んだ後で「キリストと我等のミサ」を読み直してしまいました。
有難うございます。

591ルチア:2012/06/15(金) 18:28:18
竹下様
フランスでのミサ模様の様々を生き生きと伝えて下さり有難うございました。
「はい、未信者の人は祝福に並んでください」に驚かれたというところを、興味深く感じました。(最近のイグナチオで個人的に驚いたことは、平日の12時のミサの司式の奉仕者がお二人とも女性になられたことです。)

私は時を経るごとに「カソリックの信者さんの信仰のあり方が、一人一人個性的」と強く感じております。信者さんの中で信仰の方向が違うのは問題となるでしょうが、信仰のあり方はとても個性的に感じます。こちらの掲示板でも、様々な角度から助けて頂いていますし。

mimemegene様も仰ってらっしゃいますが、私も本当にこの掲示板に感謝しております。
竹下様は「みなさんありがとう」と謙虚に仰ってらっしゃいますが、運営者の捌き方ひとつですから、竹下様のお力によるものと強く思います。
有難うございました。

いろいろと助けて頂いた流れで書いてしまいますが、mimemegene様・jean様、今私が勉強をするならどのような本をお勧めになられますでしょうか?

592sekko:2012/06/16(土) 00:22:45
mimemegene さま
リンクした通り、古い版ならこちらのamazonでは6ユーロから手に入ります。もしフランス語がOKでしたら、注文して次に日本に行く時に差し上げますよ。

そこまで言ってもらえる本って幸せですね。
もし、どうしても翻訳が必要なら、すぐには無理ですが、個人的に少しずつ翻訳してmimemegeneさまのところに配信しますよ。

私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。「だめもと」だし、一応、できるだけ多くの人の役に立つことを考えとこうと思います。

http://setukotakeshita.com/

593mimemegene:2012/06/16(土) 00:53:21
ルチア様
ルチア様

1日は1440分で,1%が15分です.ルチア様は,日々毎日,何%を神様に捧げたいですか?

私は「祈り」だけで育てられました.
神様と互いを照らし合い,あの深い感動や感謝を感じるのは祈りだけなので,
本よりも,おすすめするのは「祈り」ですと,書いてしまうのを,お許し下さい.
祈りでおすすめしたいのは,8日間の霊操です.ルチア様もいつか一度はなさってみてください.

■推奨本は,新約聖書だけです.更に絞ると,4福音書です.

・気に入った箇所や単語を小さなノートに書き写して携帯すると,とても深まります.
・大事な御言葉のリストをノートにでも記録して積み重ねると,一生涯使えます.
・聖書のその場面に自分が立ち会っていることをイメージするとか,
・登場人物の一人になりきってみたりして味わうと,
・御言葉が生きいきしてきますし,その時の心を書き留めてください.

■聖書を知る31の鍵 500円位
60頁程の聖書ガイドで優しくわかりやすい
内容を全部わかるようになれば,それだけでも知識量は十分.後は竹下様の本で,パーフェクト.

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B31%E3%81%AE%E9%8D%B5-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4886262279/ref=sr_1_1?ie=UTF8&amp;qid=1339771525&amp;sr=8-1


以下全ての本はイグナチオ教会内にある聖三木図書館蔵書です.


■ 1冊目なら,薄く読みやすいロングセラー
二人の自分―心の動きをみつめてイシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%88%86%E2%80%95%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8D%E3%82%92%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%81%E3%81%A6-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4789601463/ref=sr_1_4?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339765996&amp;sr=1-4

■2冊目なら,初心者向けで,とても心に入りやすい
祈りを深めるために その1〜その6 計6冊  イシドロ・リバス著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%82%92%E6%B7%B1%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%B9/dp/4883820246/ref=sr_1_3?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339766053&amp;sr=1-3

■3冊目では,とても大事なロザリオを
ロザリオバリョヌェボ著(イエズス会士)(購入なら,絶版なので,アマゾンから)
私はこの本で毎日ロザリオしています.光の玄義がないので,創作してます.
ロザリオをぜひなさってください.マリア様が主イエスのことを優しく教えて下さいます.

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E2%80%95%E3%81%84%E3%81%A4%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%82%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%99%E3%81%90%E3%81%AB%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805696036/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339765700&amp;sr=1-1

ロザリオでもうひとつは,チマッティ神父によるロザリオの黙想です.
北浦和教会のサイトにあります.

http://members3.jcom.home.ne.jp/catholic_kitaurawa/inori/rozario1.html

■4冊目は,マリア様の事を
人びとと共に歩むマリアカルロ・マリア・マルティーニ著(枢機卿・イエズス会士)
聖書と向き合う著者の真摯な姿がわかります

http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB%E6%AD%A9%E3%82%80%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4789604136/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339766418&amp;sr=1-1

■全ての愛を行いに込めた姿を知りたいなら
イエスの渇き―小さきテレーズとマザー・テレサジャック・ゴティエ著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B8%87%E3%81%8D%E2%80%95%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%8D%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%82%B4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8/dp/4789606414/ref=ntt_at_ep_dpt_1

■聖書の読み方や触れ合い方がとても深まります
ひとりきりのとき人は愛することができるアントニー・デ・メロ 著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%8D%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC-%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AD/dp/4789604187/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339766195&amp;sr=1-1


■自分の事がよくわからなくなった時に,私を照らしてくださった本! (まずは3冊)

キリスト教竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/406258249X/ref=sr_1_2?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339765805&amp;sr=1-2

キリスト教の真実: 西洋近代をもたらした宗教思想 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E5%AE%97%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480066594/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339765805&amp;sr=1-1

ヨーロッパの死者の書 (ちくま新書)竹下節子著

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E4%B8%8B-%E7%AF%80%E5%AD%90/dp/4480056424/ref=ntt_at_ep_dpt_9

■私が一番好きな公教要理本
Golden Ruleを丁寧に書き,「信仰・希望・愛」の愛がLoveではなくCharityだという事も書いています.
Golden Rule(黄金律)「人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」
キリストへの新しい道 求道者のための教えと行いキリストバル・バリョヌェボ (著) (イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E9%81%93-%E2%80%94%E6%B1%82%E9%81%93%E8%80%85%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E8%A1%8C%E3%81%84%E3%83%BC-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%8C%E3%82%A7%E3%83%9C/dp/4805620811/ref=wl_it_dp_o_pC_S_nC?ie=UTF8&amp;colid=2IK7PIOA4KL1&amp;coliid=I35UXWCWEM80E0

■カトリック教会のカテキズム要約
読んでも楽しい内容です!

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0%E8%A6%81%E7%B4%84-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%83%A0-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A-%E5%B8%B8%E4%BB%BB%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4877501533/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1339774455&amp;sr=1-1

■私が常々参照する本
霊操(改訂版) 聖イグナチオ・デ・ロヨラ著(イエズス会士)

http://www.amazon.co.jp/%E9%9C%8A%E6%93%8D%EF%BC%88%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%EF%BC%89-%E8%81%96%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9/dp/4915623483/ref=sr_1_12?ie=UTF8&amp;qid=1339773561&amp;sr=8-12

594sekko:2012/06/16(土) 01:07:35
ルチアさま
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。

ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。

唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。

お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。

音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。

ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。

Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。

私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。

「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。

「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。

で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。

音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。

http://setukotakeshita.com/

595mimemegene:2012/06/16(土) 14:20:06
竹下様
竹下様

ご返事に,深く感謝しております.

●あまりに嬉しくて,今朝1時間の黙想は,竹下様の書かれた
「私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。」をずっと祈りました.

これまで私の今への「神の望み」は沢山祈りました.
それが死んだ後にも続く「望み」であることに,気づきが深まりました.

22日から年の霊操に入るのですが,その準備のために,神様は竹下様を通って,メッセージを伝えていると,感じました.
竹下様に心から感謝します.

●プリユール氏の「死者の書」では,最初に書くべきことが抜けておりました.
全て竹下様のお陰で,心の霧が晴れたので,翻訳等をお尋ねしました.

経緯で申しますと,
私は実母葬儀で,「母が帰天しました.『別れは小さな死』だと感じています」と挨拶しましたら,司式神父が「神の元では,死は小さな別れです」と言い直して下さいました.この神父の言葉に,私も家族親族一同大変癒されました.

この経験を深める本を探してもなく,ようやく竹下様ご著書「ヨーロッパの死者の書」に出会いました.
通読して「死者の書」の著述意図に照らされました.

そして,ご著書には,

-人々は「良き死」のための実用的な智恵の貧困さに愕然とする時がいつか来ることを予感し始めた.そんな時代に,新しい「死者の書」の創造が目指されるとしたら,それはより完全な「生」を知るための模索でなくてはならない.172頁-

-要は,こういうテキストで編まれた「死者の書」が葬礼の書ではなくて「希望の書」となることである.「死者の書」は死者を送る時に読む「生きるガイド」であり,自分が死に直面した時に読む「死ぬガイド」であり,死後に近親者に思いを込めて読みあげてもらう時には「生き続ける」ガイドとならなければならない.174頁-

-死者と残された者とがともに生きた精神の風景の中に,時空を超越するような普遍的なメッセージがきっと隠されている.そんな確信を持って,ジャン・プリユールは「西洋人の死者の書」を著した.173頁-

と書かれています.
「これだ,これなんだ」とその時思いました.

第7章プリユール氏著書解説は沢山の教示がありました.でも,上記3センテンスがとても意味深く,私の求めを言い表して下さっています.
3センテンスがなければ,アウグスチヌスの祈りでのお尋ねで,私の求めは止まっていたと思います.

ご著書発刊の意図に促されて,私は動いていると感じております.
第7章の何処かに「なおこの「死者の書」は来春翻訳出版を予定している」等の予告を探したのは,私だけではないと思います.

●それで,ぜひ原著を手にしたいと願います.何卒よろしくお願い致します.
私はフランス語は初歩レベルです.まずは,在日フランス人や神父他数人で読んでみようと思います.
本当に有難うございます!!

596ルチア:2012/06/16(土) 15:43:11
mimemegene 様
mimemegene様

私の質問に丁寧に答えて下さり、感謝いたします。
mimemegene様が教えて下さった本を全部ネットで見てみました。
ご教示頂いたところをプリントして、これからの勉強の指針にしたいと思います、何冊か既に持っている本もありますが来週本屋さんへ行ってみます。(竹下様の御著書が、どんなに重要かという事も再理解できました)

そうですね、聖書の中で気に入った所をノートに書き写せば良いのですね。お祈りのカードはノートに挟んで折々に見るのですが、思いが及びませんでした。いつも神父様が「皆さん、私の話を聞きに来てくれるのも良いのですが、一日5分聖書を読んでくださいね」と仰っていることが、形を持って感じ取れてきました。
こうして、自分の勉強の仕方を見つけて行くのですね。お力添え有難うございます。

「祈り」難しいです…。これも個人的には大難問の一つです。理由は簡単で私が現実的すぎて、忙しい人間だからだと思っています。でも、聖堂の中に入ると心が落ち着きますので努力してみます。

ご親切、心より御礼申し上げます。

597ルチア:2012/06/16(土) 16:23:08
竹下
竹下様

伝えて下さった事、有難うございます。

「風姿花伝」も「ベルグソンの Elan Vital」も、ネットで調べてみました。(分かったふりをするのは良くありませんから、すみません「お能」とか古典の素養がないのです)私に理解できたのは「とても難しそう」という事と、神父様が恩師と仰っている「ガブリエル・マルセル」はベルグソンのお弟子さんという事だけです。そして、竹下様の「音楽」「ダンス(身体表現)」と、カソリックがやっと繋がって理解できました。

ミサの与り方の姿勢というものを教えて頂いた気がしております。そして、個人が孤立した点として存在しているのではないという事も。

竹下様は「私の書いた本を、しっかり読んでください」と仰らずに、初歩的な質問に答えて下さり、何とも御礼の言いようがありません。
有難うございました。

598jean:2012/06/16(土) 18:19:45
sekkoさま
>末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。

楽しみにしています。本が出たら、買います。

竹下さんの周りには各社の編集者がいて、原稿の相談に乗ってくれるでしょうが、私も2年ほど前まで某出版社(ビジネス・理工系)にいたので(編集です)、もし出版先とは関係のない編集者に頼んでみたい何かがあれば、協力しますよ。いまは早期定年退職し、時間はありますから。

599jean:2012/06/16(土) 23:16:50
ルチアさま
>今私が勉強をするならどのような本をお勧めに

勉強もいいですけど、時間があるなら聖堂に座っているのはもっといいかもしれません。

でも、それだけでは突き放したような冷たい言い方なので、一冊挙げておきます。人それぞれに好みや感性の違いがあるから、ルチアさんに向くかどうか分かりませんが、私はこの本、好きです。『カルメル会の会則とその精神』。ドン・ボスコから出ています。文庫本サイズの、青色の表紙の割と薄い本です。700円ぐらい。執筆者はフランス人の神父さんです。本文は取っ付きにくいかもしれません。序文が4、5ページあって、これは日本在住の神父さん(多分イタリア人)が書いています。この序文が良く出来ています。熟読玩味されたらいかがでしょう。四谷のサンパウロでも棚に置いてあります。入って右の奥、カルメル会の著作がある棚です。

600sekko:2012/06/17(日) 01:55:53
みなさまへ
ここでのやり取りはとても勉強になりました。

何が求められているのか、わかったような気がします。

書きたいことがたくさん出てきました。

元気で長生きしなくっちゃ。

(で、死んじゃったとしても、その時はまた別の形で同じ路線で行こうとは、まさにテレーズや多くの聖人や、それから先だった多くの方に教えていただいたんです。キリスト教とは限りません。死後、あえなくブラックアウトってことも当然考えられますが、どういう場合にどういうことができるのかって、ずっと考えてきたんです。それが、『自由人イエス』の解説で書いた「自由他在」なのです。「他在」の流れにいる限り、自分が死んでもあんまり関係ないんですよ。私の年代の日本人は戦争も飢饉もない国に生まれて60年も生きてきたという多分人類史で初めての幸運な世代に属していると思うんで、これをみんなで還元していかないとだめだなあと思います。)

http://setukotakeshita.com/

601mimemegene:2012/06/17(日) 13:03:31
ルチア様
祈りのこと

「ヨーロッパの死者の書」194頁に,
「子供を対象にした公教要理のクラスでも,自分の言葉で祈りの文句を作文させる.神は初めから『対話する相手』として教えられているのだ」とあります.

日本でよくある,もらうばかりの勉強よりも,このほうがステキですね.
私も祈りの作文をしてみました.良かった!
ルチア様も作文してみませんか?

さて,私の例ですみませんが,祈りが「生活そのもの」で,「難しいのは祈りではない」ことを分かち合います.

このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
個人的なほんとに一例に過ぎず,私的な濃いめなあり方だけなので,全て無視して下さっても,結構です.
「大問題で難しい」とおっしゃるので,そのお気持ちを受け留め,一度だけでも,分かち合えればと願いました.


●「霊操」114番
「観想における人物を見ること。すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、出来る限りの畏敬と敬意を尽くし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、この方々を見、観想し、入用な物の世話をする。」

と,とても堅苦しく,?な,表記です.(大問題で難しいかも)

でも,この最後にある「入用な物の世話をする」を,私は今でも実際にします.霊操の時も,日常でも.

どのようにするかというと,イメージします.(驚かないでください)

祈りの中で,イエス様のオシメを取り替えたり,抱っこして散歩に行ったり.
「イエス様,少しお爪が伸びましたね.」「イエス様,お体を拭きますよ.梅雨時だから,汗をよく拭きましょうね」.と声をかけ,奉仕します.

私の気づきで言うと,
ルチア様の目の前に,みどりごのイエス様がいらっしゃる.
イエス様は,ルチア様に,全てをゆだねて,保護と養育を求めていらっしゃいます.
ルチア様はそれに応えて,イエス様を抱き,奉仕します.

この幸せを一生涯味わって生きている人達も沢山います.

家事で言うと,マリア様,ヨゼフ様に仕えます.
ベッドメークをしたり,シーツを綺麗にして,洗濯をします.お部屋の掃除をします.
「マリア様,ヨゼフ様に言われて,ヨゼフ様のベッドよりも,藁を多く入れました」・・・
朝食時,パンにバターをぬる時「ヨセフ様,バターはこのくらいですね」
「マリア様,今日はお好きないちごジャムですよ」と言って,自分のパンをぬります.
「卵は上手く半熟にできて,嬉しいです.ヨセフ様,どうぞ召し上がって下さい」・・・

ポイントは,イエス様,マリア様,ヨセフ様,とお名前を呼んで,入用な物の世話をすることです.
普段している家事が,そのまま聖家族への奉仕になります.聖家族も,生活し,暮らしをしました.

ままごとのようですが,聖イグナチオ・デ・ロヨラは,大切な祈りとして,この「お世話」を取り上げています.

祈りの時間をとって,お世話をイメージしても良いですし,単に家事をしながらやってもいいんです.

福音書を読むときも,このような感じを思い起こすと,リアルに体感できて,うまくいくことが多いです.
これは私の傾きです.

●祈りの時間を取れないなら,無理をすると,誰でも疲れるだけで,心から捧げられなくなってしまいます.

では,どうするかというと,日常生活で,食事の時,お風呂や,トイレや,家事や,通勤他で祈ります.
私の場合,青信号で歩き出す時,「さあ,イエス様,一緒に渡りましょう」・・・
というように,動作をイエス様と一緒にします.主語をイエス様にして.それだけでも私には祈りです.

●ルチア様が聖堂の中で心の落ち着きを「感じ」るのは,とても素晴らしいです.

ですので,その落ち着きの「感じ」を,普段の忙しさの最中に,思い起こして,味わうのは,どうでしょうか.
できれば,五感夫々を感じながら.
私なら,これは神様を感じること=祈り になります.

●大問題で難しいと思っているものは何でも,大問題になります.

小さく,具体的な行いや動作でも,祈りです.
例えば,今,心臓のあたりに手をあててみてください.何かが変わりますか?
聖堂の中での心の落ち着きの「感じ」を心に感じてみませんか?

胸:
最後の晩餐で主イエスの胸に顔をうずめていた,羨ましいヨハネ.
死後に槍でつかれた胸.
百人隊長が拳で叩いた胸
放蕩息子が父親と重ね合った胸
どんな感じがしますか?
そのうち,その部位が,イエス様の部位と重なって感じられるようになってきます.

●祈った後,振り返った時にも分かります

「〜だと思った」と書いている時は,祈ったのではなく,考えていた.
「温かくなった」「嬉しかった」等と心の言葉がでてきた時は,祈っていた.
「何の理由もなく,幸せを感じた」時は,祈っていた.
「悲しくなった」ら,祈りが失敗しただけ.やり直す.

●御言葉を書き写す時に,イエス様を思い出して書く祈り.

書き写す時が祈りの時だと思えれば,それも祈りです.
祈り味わいながら,書いている自分を,どう感じますか?
私なら,「私って,なんて幸せなんだろ〜」と言います.

●私の変化 例

勉強しているという思い込みが弱点になるので捨てた
教えてもらって,その場で心が温かく豊かになったら,それは勉強ではなく,恵み.(このサイトのように)
恵みと知識,どちらを求めているかがわかってきた.
互いの,本当の気持を,イエスと語り合う
「どうしたら良いか示してほしい」と,神に強く言い続ける
「直観」だけが頼り
祈って,心が温かくならなかったら,祈りを失敗しているから,やり直せばよい.
祈りは対話
傾聴だけだと,イエス様は物足りないとお感じになるかも.イエスの聖心で,私はそう感じます.

●人さまざまで・・・

十字架の根本にひざまずき,死んでいくイエスを見上げ続け,歓びに溢れて,語り合い続ける.
この祈りだけを,毎日ずっとしている人がいます.
ルチア様も色々な祈り方をお聞きだと思います.

●「できない」と思うのは・・・

仕事でも,何でも,「無理だ,できない」と思う時,それは神様の働きかけではないようです.
その思い全部を,イエス様に丸投げしたら,受け取ってくれます.
私も知人から教えてもらって,スッキリしました.
いやな気持ちを数分味わって,楽になるまで,その気持を何度も手放してみて,渡してみて,綺麗サッパリ,なかったコトに.

先々の事で心配するくらいなら,それを全て渡してしまって,
今(過去でも未来でもなく)を幸せだと感じます.
私には大事な祈りです.

●知らなくて,恥ずかしくて,自己卑下してしまうとき・・・

未来の心配や問題を思い起こさせるのは,悪い手口からの影響です.
自己卑下や無関心は,愛の反対だから,
イエスを愛する心を消し去ろうとする策略です.
神様は,誰かとルチア様を比較して,どちらが良い等は,なさらないです.

●自分もゆるせない・・・
沢山の祈り方があります...

●私は,迷ったら,神が喜ぶ方を選び,選んでもできなかったら,できるようにと願います.

神が喜ぶ方の選び方は,恵みと暖かさを感じる2択を並べて,味わって,神様の望みはこちらでしょうか?と尋ねてみたとき,しっくり来る方です.

---

それで,ルチア様のご返事に感謝しています.
また私は,勉強の仕方を教える意図等なく,私の経験を分かち合っているだけなんです.
このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので,
私も,上記のように,「不器用だから,こんな事までしてるのか〜」という事も分かち合っています.

神様はルチア様を愛し,ルチア様用のプロセスを計画されています.
ルチア様が好まれる事だけ,なさって下さい.

ご紹介した本は,デーケン神父がイエズス会士なので,その傾向にしました.
カトリックの多様な宝石は,竹下様の著書から掘り出してください.ザクザクと.
全冊目の前に並べたら,「少しだけでもわかれば,そこから始めよう!」と謙虚に思う程の量ですね.

まず優しい1冊を複数回通読して,気に入った箇所を味わうようになさってみてはいかがでしょうか.
ルチア様の「心の中にある聖書」と比べてみると,楽しいです.

竹下様の3冊も,冒頭で書いたように,味わい深いですね!
「二人の自分」や「祈りを深めるために」だけでも,数ヶ月かかります.
楽しいから読みたいという気持ちの時に読めたら,もっと幸せですね.

福音書も,腑に落ちたり,気に入ったり,気づきがあったりしたところを深めると,それが心の扉になっていきます.

神様は無理強いをしませんから,締め切りもありません.
浅く広い知識よりも,神様とルチア様との対話で培われてきたお智恵を大事になさって下さい.

これまでの素敵な人生経験は全て神の御計画だと思います.

スペシャルプログラムをルチア様のために神は用意されています!

以上

602ルチア:2012/06/17(日) 16:41:22
jean 様
伝えて頂いたこと、有難うございます。

助言して下さった事を大事にしていきたいと思っています。『カルメル会の会則とその精神』、読んでみます。jean様の紹介文を読んだだけでも、魅力的な御本である事がわかりますので。

見知らぬ人間に親切にしてくださり、御礼申し上げます。

603ルチア:2012/06/17(日) 17:08:10
mimemegene 様・竹下様
mimemegene様

「無視」など、とんでもありません。何回も読んでしまいました。
有難うございます、こんなに丁寧な文で伝えて頂き、お時間も頂戴してしまったでしょうに、何と御礼を伝えたら良いのでしょうか…。

竹下様

「竹下様のサイト」で勝手にやりとりして申し訳ありませんでした。こんなに素晴らしい真心をお持ちの方が集うのは、運営なさる方の心の大きさかと考えます。竹下様、有難うございました。

前回の主日に「驚いて」から、また次の主日を迎えました。一週間前には予想もしなかった思いで、今日を過ごしております。

皆さん、お世話になりました。ご厚意、この先も忘れられないと思います。
有難うございました。

604sekko:2012/06/20(水) 19:56:49
mimemegene さま
ヨーロッパの死者の書、古い版ですが、注文したらもう着きました。古本ですが十分読めます。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。この下にあるサイトのアドレスをクリックして、その中のerrataという場所にあるアドレスに連絡ください。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。ルチアさまもよろしければどうぞ。

http://setukotakeshita.com/

605迷える大羊:2012/06/22(金) 00:26:11
家族の宗教
 広くいろいろな方のご意見、体験談がいただければ・・と思う話なのですが、夫婦、あるいは身内との間で信仰が違う、という方はいらっしゃいますか?信仰が違う、といっても無宗教とクリスチャン、あるいはその他というのではなく、例えば、カトリックとプロテスタント、など所属宗派、教会が異なる場合。あるいはキリスト教と仏教系新興宗教といった塩梅の実際に信仰を持つ者同士の「違い」です。

 具体的には・・・。
 ・信仰の違いによって、夫婦、または身内の仲に問題が生じた、といったことはないの  か?

 ・子供がいる場合、どちらの教会に連れて行く、などでもめたことはないのか?どう解決  しているのか?

 ・これが特に聞きたいことのですが、プロテスタント(あるいはプロテスタント同士でも 宗派が異なる場合)とカトリックは同じキリスト教ですが、変に「同じ」だけに、かえ って細かいメンタリティの違いがハナについて・・なんてことはないのか?

 いろいろワケあってキリスト教に関わることになり6年以上、本もいろいろ読み、こちらのサイトでしつこいくらいにいろいろ聞いて(先生には迷惑だったかな、失礼だったかなと思いつつ)、キリスト教世界の幅広さにいろいろと驚きました。特にカトリックに関してはステレオタイプなヴァチカン発の情報では知ることができない面がいろいろと。
 自分でいうのも何ですが、カトリックからプロテスタント福音派まで大抵の教会に足を踏み入れましたし、もしかすると、その辺のクリスチャンより教会によく行ってるかも・・な生活です。
 身内はムリは言わないけど、できればクリスチャンになってくれないかなぁ的な願いは今でも、端々に感じられます。

 別に無神論者ではありませんし、イエスも好きです。でも、実際のクリスチャンの人の信仰心をみると「そこまでは・・・」と思ってしまうし、教会で讃美歌を歌うことは何年経っても恥ずかしくてたまらない。悩みや困難にぶち当たると神様についていろいろ考えますが、そうでない時は神様のことなんざ全く考えてません。品行方正でもなく、慈愛に溢れているわけでもない、イエスの精神とは程遠い全くの俗人です。

 あと、いろいろ教会を巡ったり、講習なども受けた結果、正直いうと、カトリックの方が好きというか、合うような気も。これまで、ある意味失礼だったり、しつこいと思えるような質問をぶつけられた先生からすると「ほんとかよ?」と思われそうですが・・。
 いえ、別にカトリックにすごーくいい人がいたというわけではなく、また、プロテスタントにすごくイヤな人がいた、というわけではありません。教義的に納得した、ってわけでもありません。

 変なところに感心するなよ、あるいはそれは違うよと言われそうですが、いいなぁと思ったのはその「淡泊さ」でして。なんていうか、「キリスト教ですか?」「ええ、そうですよ、それが何か?」くらいのさりげない信仰ぶりが好ましい感じがして。
 「私はクリスチャン、クリスチャンたる者・・」みたいな力みがない、といいましょうか。あと、日本の神社仏閣、関連する行事に妙な壁を作る人も少ない、聖書を過剰に崇めすぎない、教会べったりでもない、というあたり。

 あと、現実的な問題として、教会によって、牧師によって、たとえ同じ教団であってもカラーやムード、教えすらガラッと変わってしまうプロテスタントに比べると、カトリックの場合、教会によってあまりにもいろいろ変わってしまう(少なくともプロテスタントほどには)なんてことがなく「安心」という点もありますね。実際、プロテスタントの身内は引っ越しの後、現在の教会に落ち着くまでに、周辺の教会をいろいろ彷徨いましたし。
 あとは文化的な重厚さ、歴史の厚さはなんだかんだいっても魅力的です。

 まあ、これまでいろいろ述べた通り、キリスト教とか教会自体にまだまだ疑問がありますし、知識は増えたものの、信仰心というやつにもまだわかったようなわからないような、ですし、クリスチャンになるとすれば・・という「仮定」の話ですが。

 ただ、仮に「その日」、つまり、クリスチャンになろう、という日がきた場合、プロテスタントの身内に向かって「いや、実は俺、カトリックの方がいいかなぁ〜と」なんて言ったらどんな反応があるんだろ?やはり、やめといた方がいいかな、面倒が多そうだし、といろいろ考えたもので、スレを立てさせていただいた次第です。
 

606安井 彰:2012/06/22(金) 23:40:03
アウグスティヌス
竹下さま、

ちくま新書版「キリスト教の真実」を楽しく読み始めさせていただいています。
ところが校正ミスでしょうか、85ページの教皇グレゴリウス1世によりイングランドに派遣されたベネディクト会士アウグスティヌスの生年−没年がアウレリウス・アウグスティヌスのものになっています。4世紀と6世紀の違いもあるし、アフリカとイングランドの違いもあるし、ちくまにクレームもんではないでしょうか?
akirayasui@kxe.biglobe.ne.jp

607sekko:2012/06/23(土) 00:22:51
訂正
ご連絡ありがとうございます。

p.85のアウグスティヌスについては、すぐに指摘してくれた人がいたのですが、重版には間に合わず、今度出る3刷りから訂正してもらいました。カンタベリーのアウグスティヌスと呼ばれるこの人は、生年が不詳で、没年はグレゴリウス一世と同じ604年です。文脈からどの時代の人か分かるので私は原稿に入れなかったのでチェックもしていませんでした。大きな誤解はないと思いますが申しわけありません。

後3刷りで訂正したのは、

1)p.83の7行目 「フン族」を削ること。
2)p.108の2行名 「東ローマ帝国」→「神聖ローマ帝国」
3)p.181の5行目 「神聖ローマ帝国」→「西ローマ帝国」

2)と3)は単純ミスですが、世界史を勉強している人などには迷惑だったと思います。

1)は、フン族ではなく七世紀には何度もアウストラシアによって破壊され、八世紀にはサラセン人に焼かれています。ここで関係ある修道院は二つあって、焼かれた年ももちろん分かりますが、このあたりは、もともと細かいことを書きこんでも煩雑になるばかりなのでたたみかけて書いたものなので、新版では

ブルゴーニュの修道院も何度も破壊され、

とだけしてもらいました。

丁寧に読んでくださる読者の方々に感謝します。

サイトのerrataのコーナーにもそのうちに載せてもらいます。

まだ他に単純ミスの間違いがあるかもしれません。お気づきの方はご一報ください。

http://setukotakeshita.com/

608KIMI:2012/06/23(土) 20:54:21
家族の宗教について
夫の家族が「・・バの証人」でした。私は幼児洗礼のカトリックで結婚はカトリック教会です。夫の両親も来てくれました。夫の兄も成人してから無宗教のようですが、夫は子供の時から神を信じていたので神なしではやっていけないそうです。夫の両親は今も信仰活動を続けているようですが、そのことは話題に出ません。昔は大反対で大騒ぎしていたのにあれはいったい何だったのだろうと思います。夫はまだカトリックの洗礼を受けていませんが、子供は洗礼を受けさせました。私の両親からは反対されたことはないです。両親はふたりともカトリックです。参考になるかどうか分かりませんが。

609迷える大羊:2012/06/26(火) 22:59:21
レスありがとうございます
>KIMIさん

 レスありがとうございます。お礼、遅れてすみません。そうですか、ご主人が「あの」教団で、ご自身のご家族はカトリック、と。私なんぞ比べものにならないくらい、いろいろ、おありになるんでしょうね。ただ、ご主人自身は信徒をやめてはいないものの、例の教団に対しての帰属心は、今現在さほどないのでしょう?

 聞いた話では、例の教団で一家で信者の場合、離脱したり、「信仰」を捨てようとすると家族と絶縁状態になる、と聞きますが、最近は違うんですかね? まあ、あの教団といえども人により様々ってことなのでしょうか?いずれにしても、家族の宗教とか信仰に関する問題に関しては「正解」がない・・んでしょうね。

 余談ですが、私のキリスト教とのファーストコンタクトは「・・バの証人」でした。高校時代の友人がそうでした。話も結構聞きました。人は神が自らに似せて作り給うたもの、進化論など邪悪などなど。ただ、知識はないにしても、子供心にどこかロジックが独善的で変だ・・と思ったのと、自宅に二人組で勧誘に現れるようになったため、心苦しいながらも縁切り・・となりましたが、その友人とは。
 その後、双方のご家族がうまくいきますように、お祈りいたします。

610迷える大羊:2012/07/11(水) 02:10:15
カトリック国と自殺
 今週(2012年7月4日号)のニュースウィーク誌日本版の「欧州に蔓延する自殺という疫病(EUROPE'S WHITE WIDOOWS)」(バービー・ラッツァ・ナドー記者)について(ウェブ版なし、紙媒体のみ)。

 簡単にいえば、財政危機、信用危機に端を発する不景気・失業、緊縮財政で追い詰められ、特に状況のひどいイタリア・スペイン、ギリシャなどで、中小企業主(家族や従業員を養えなくなったことを苦にして)や若者(スペインの25歳以下の失業率はなんと50%超)の自殺が著しく増えている・・という記事です。

 記事によればイタリアでは財政再建の為、徴税を厳しくする方向に動いていて、「エク・イタリア」なる徴税専門の公社ができ、その取り立てが例えば、経営難の中小企業の経営者などにとっては厳しいものらしくて。原題のEUROPE'S White WIDOWSというのはイタリアで自殺者の未亡人たちが人生への「降伏」の意を込めて白旗を振ってデモ行進したことからくる題だそうです。

 で、この記事を読んで痛ましさもさることながら、疑問に思ったのはイタリアにしても、スペインにしてもカトリック国で、特にイタリアでは実際の信仰の程度はともかく、名義上は9割方がカトリックなわけですよね?
 もちろん、皆が皆、教会に毎週通い、常に神様のことを考え・・ってわけではないでしょうし、昔みたいに、自殺者は葬儀しない、村八分、なんてことはないにしても、自殺というのはやはり、タブーなのではないのか?
 信仰心とか宗教が自殺への抑止力になってないの?との疑問がわきました。現代の現実のカトリック国の自殺への感覚は、非カトリック国と大して変わらなくなっているのでしょうか?

 まあ、カトリック国であるはずのフランスの離婚率はきわめて高いし、やはり、公式には避妊ダメ、であるはずのカトリック国のイタリアの出生率は世界最低レベルであることを考えると、自殺について同じことがあっても不思議ではありませんが・・。

611sekko:2012/07/02(月) 07:37:10
迷える大羊さま
この件について、あまり答えになりませんが、書きたいことがあったので、ブログの方にアップしておきました。ごらんください。

http://spinou.exblog.jp/18174878/

http://setukotakeshita.com/

612迷える大羊:2012/07/02(月) 11:44:54
なるほど
 ブログ拝見いたしました。良く言えば「寛容」、悪く言えば「適当」なカトリックの世界で、かつて、どうして自殺が殺人犯以上の厳しい扱いを受けていたのか?かねてから不思議だったんですが、その感覚、考え方がよくわかりました。

 キリスト教、少なくともカトリックの世界では神の救いを信じられなくなる、絶望すること、拒否することが何よりも罪、という考えなんですね。

 あと、私が今回のニュースウィーク誌の記事に興味を持ったのは、痛ましさもあるけれど、自殺もそうですが、他にもカトリック国とかラテン系へのステレオタイプが覆されるような話がいろいろ出てくるから、なんですよね。

 まず、カトリック系、ラテン系っていうと、借金や徴税なんて、少々汚い、ずるい手を使ってでも免れて、それこそ、今日本で問題となっている生活保護の不正受給なんかもやって、考えられるあの手この手を使って、経済危機などなんのそので、たくましく強かに生きていく・・というステレオタイプがあったのですが、そういうことができない人間だって大勢いる、という、考えてみれば当たり前の事実が改めてわかったってこと。

 あと、男は働いてナンボ、妻子を養ってナンボ、という昔ながらの価値観の男性がこれまた、大勢いたこと。ステレオタイプでいえば、こういう状況になれば、ヒモになってでも、とにかく頼れるものは何にでも頼って、プライドなど捨ててたくましく生きていく・・って思ったのですが、これまた、そういうことができない不器用な「男らしい」男性が大勢いること。
 記事中の徴税公社エクイタリアの前で焼身自殺した男性も、結局、自殺するまでに、経営難とか税金とか借金とかについて、奥さんには全然話をしてなかったみたいで・・。個人的には、さっさと話してしまえばいいのに・・、そっちの方が結局のところ誠実だし、楽なのにとも思いましたが、プライドというか、自分の不甲斐なさとか情けなさが先にたってそれができなかったみたいで・・・。

 詳細は実際の記事をご覧いただくとして、結局、国や宗教に関係なく、こういう経済苦、借金、徴税苦っていうのは真面目というか不器用で正直な人間ほど、まともに苦しんでしまうっていうのが、なんだかなぁ、と思わされます。

 問題の徴税公社エクイタリアの職員にしても、やはり精神的にストレスの多いイヤな仕事で顧問弁護士が辞めたようですね、記事によれば。そりゃそうだろうな、と思いましたけれども。


 

613jean:2012/07/02(月) 23:53:05
自殺が駄目なのはユダが自殺したから?
竹下さんがブログで書いておられたように、自殺は告解できない唯一の罪、自殺したら敗者復活のチャンスがないというのは、その通りですが、それは後付けの理由という感じがしなくもありません。その前に、普通の人々に自殺はよくないと思わせる何かがあったのではないでしょうか。あの裏切り者のユダは自殺した、自殺するとユダのようになる、それは嫌だ、という思いがベースにあったのでは? 何の根拠もない勝手な想像でしかありませんが。

614Takata Yoshitomi :2012/07/07(土) 12:27:33
「自由人イエス」を読みました。
先日「自由人イエス もう一つのキリスト論」をamazonで購入し、数日かけて一応読了しました。スクルス司祭の「すすめのことば」の通り、訳者の竹下さんに感謝します。私が高校時代に福音書を読んだ第一印象は、ここに本当に自由な人がいるということでした。この本はただ一度通読して終わるべきではなく、生活しながら、読み続けるべき著作だと思います。私はフランスの神父、学者としてGerard Bessiere, Joseph Moingt,Timothy Radcliffeといった人の著作を眼にしてその学殖と誠実なキリストへの信仰に尊敬を持っています。最近では訳書の出たミシエル・アンリの「キリストの言葉」を原書と照合しながら少しずつ読んでいます。信仰のキリストと歴史の中のナザレの人イエス、それを繋ぐ十字架と復活という出来事をなんとか理解したいという気持ちです。これからも優れた著作の紹介と現代日本への提言を期待します。

http://ytakata.apionet.or.jp

615sekko:2012/07/07(土) 20:31:01
まだ迷える大羊さんへ
あ、ラテン系のステレオタイプって、私の感覚では、そしてたとえば普通のフランス人の感覚では「マッチョ」ですよー。

女性の権利を早くから認めて、男女平等共稼ぎ社会が出現した北欧系プロテスタント国とちがって、南欧系カトリック国って、男は外で稼いで、彼ら同士でつるんで、そのマッチョさを男兄弟間の絆の強さで担保するって感じの…まさにちょっとマフィア的な強がりの感じです。

ラテンの母さんは、家の中では絶大な力を持ってたくましそうですが、社会の中での「稼ぎ手」としての認知は低いような。

だから、家族を養えなくなった男のつらさっていうのは自己否定につながるくらい厳しいものもあるのではと想像します。少し前までの日本もそんな感じだったんじゃないでしょうか…

http://setukotakeshita.com/

616sekko:2012/07/07(土) 20:45:26
Jeanさま
私はむしろ、たとえイエスを裏切った後でも、赦しを信じてすがりさえすれば救ってもらえたはずのユダが、絶望して自殺したという話を伝えてきたことの方が後付けの感じがします。

イエスはユダの足もしっかり洗って、聖餐でも他の弟子と差別せず、復活の時にもユダはまだいたという説もあるほどです。そもそも、ほとんどの弟子がみな保身に汲々として四散していた十字架刑の後で、死刑の判決を聞いてすぐに後悔して自殺したなどというユダの消息に気をとめている余裕などだれにもなかったはずですから、ユダの自殺の話こそ、「勧善懲悪」的な教育的配慮で付け加えられたような…

もっとも、「裏切り者」と「自殺者」を結びつけるユダのエピソードが、その後のキリスト教世界に影響を与えたのは確かで、私は今そこのところを掘り下げる『ユダ論』を書き下ろしているところなので、またごらんください。

http://setukotakeshita.com/

617sekko:2012/07/07(土) 21:22:54
Takata Yoshitomi さま
『自由人イエス もう一つのキリスト論』を読んでいただいてありがとうございました。この本はほんとうにすごいですね。

偶像崇拝にとらわれている犠牲者は人間ばかりでなく神も同じことで、そこから自分を解放してしこうとする人は、同時に、神もいっしょに解放して連れて逃げなくてはいけない、という感じがしますね。

自分だけ自由になろうとしても、結局、偶像崇拝のシステムを維持している連中と同じく、エゴイズムの足枷に再びとらわれてしまいます。

ほんとうの自由というものがどれだけ、エゴイズムや時間や空間などを超えるものかということが分かりますね。

フランスで、偶像崇拝を否定するあまり無神論という新しい檻の中で発言する知識人たちに比べて、「それでもカトリック教会に残る」という自由な選択をした思想者たちの書くものには、いつも新鮮な解放感を味わわせてもらえます。

http://setukotakeshita.com/

618迷える大羊:2012/07/18(水) 22:24:29
クリスチャンと葬儀
 こちらに出入りするようにになって以来、何度となく繰り返している話で申し訳ないんですが・・。
 日本の一般的な仏式の葬儀の風習、とくに焼香については、人にもよりますが、日本のカトリック教徒は概ねこだわらず、普通に行う人がほとんど。プロテスタントでもリベラルというか、あまり保守的でないところは普通に行いますが、保守的な教会(非常にぶっちゃけて、なおかつはっきりいってしまうと、「新改訳」聖書を使用する教会)ですと「本当に信仰心があれば自然とそんなことはできなくなります」とか「(焼香しないのは)クリスチャンの証です」みたいなことを言われます。

 で、ご質問ですが、カトリック国、キリスト教国の一角であるフランスのカトリック教徒(なんちゃってカトリック信徒は除いて)はどうなのでしょう?
 つまり、例えば、キリスト教式以外の葬儀に参加する際、「これは異教崇拝だからできません」みたいなこだわりがあったり、日本の神社で「おみくじ」は占いであり、神の御計画を覗き見る不届千万な行為ってことで絶対やらない・・みたいな人が多いんでしょうか?
 それとも、日本の大多数のカトリック教徒同様、こだわらない人がほとんど?

 なぜ、この話を今頃また遡上にあげたか?というと、個人的に最近、また葬儀というものに関わり合いになりそうな状況だからですが・・。

619sekko:2012/07/19(木) 05:28:38
いろいろ大変ですね。
フランスでは、一般的なカトリック信者、なんちゃって信者も含めて(もちろん少数の教条主義的な人はどこにでもいるでしょうが)、つくづく思うんですが、たいていは意識していないと思いますが、もちろん他宗教一般に寛容で、でも、その本音は、前にブログでも書いたんですが、要するに、

「自分ちの伝統宗教だけが宗教だと思っていて、世界の他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」

ような気がします。もちろん、自分ちでいろんな原理主義的主張をするイスラムとか、歴史的罪悪感を持たざるを得ないユダヤ教とかについては、同じ「アブラハムの宗教」として葛藤だの警戒だの偏見だのがそれなりにありますが、それ以外の地域の多神教だの仏教だのは「エキゾティックな異文化」程度の認識です。

仏教が無神論で哲学で生き方マニュアルだという見方は根強いですし、仏教、ヒンズー教、神道など、ギリシャ・ローマ神話と同じくらい歴史的、文学的、民族学的、審美的な扱いだし、ヨーロッパに直接の影響関係がない分もっと単純に憧れたり反対にスル―したりするので、セレモニーに参加する機会があるとしても、「信仰の踏み絵」にならず「興味深い異文化体験」か、もしくは「他文化リスペクト原則」の体験という認識だと思います。

いろいろなセレモニーというのは、時代や環境とともに変化してきたもので、セレモニーが人のためにあるので人がセレモニーのためにあるわけではありませんし。

私なんか、母の一周忌のお経をお墓の前で浄土真宗(実家の宗旨)のお坊さんにあげてもらいましたが、その時参加したのはカトリックのシスターたちも含めて全員カトリックだったので、それでもいいですか、と聞くと、お坊さんから「私が行っても、よろしいんですか・・・」と言われてしまいました。でも、浄土真宗では亡くなれば南無阿弥陀仏で即成仏で極楽浄土にいるわけなので、お経も回向のためというより出席者が故人をしのぶためだとも言われたので、どちらもノープロブレムでした。「何教でも何宗でも宗教者が故人のために祈ってくれるのはありがたいことだ」というのは、伝統のメジャー宗教にいる人にはよくある感覚だとも思います。

故人の宗旨をリスペクトして、遺族感情もリスペクトして、自分の立場が周りにとって挑発的なものにならないように控えめにしている、というのが葬儀に臨んでの「普通の大人」のスタンスだという気がします。

http://setukotakeshita.com/

620迷える大羊:2012/07/22(日) 19:10:35
教会通い
 いつも、恐れ入ります。ところで、クリスチャン、キリスト教信者の教会通いについて、ですが・・。
 キリスト教徒にとって礼拝やミサは安らぎと大切なコミュニケーションの場であることは理解しているつもりですし、通常の週末に毎週通うのは、別に何らあれこれいうべきことでもないのは当然です。

 しかし、年に何回もない旅行やらお出かけやらの際にも、また、年に何回、どころか十何年に一回の葬儀だとか、親類の集まりの際にまで「教会があるから、早く帰る・・」みたいなのは一体どうなのか?と・・。イエス様って年に何回単位の行事の際すらも、ミサとか礼拝に参加しないと、忠義を認めない、救いを与えてくれない神(であり人間)であるお方なんですかねぇ?という疑問が・・。

 それ信心深いっていうより、「イエス依存症」だろ?って思うんですが、このような人に対してはどのように接したらいいんでしょうね?

 葬儀のお焼香にしたって、レスいただいたように「他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」でええやん、大体、踏絵と違って信仰を試しているわけでなし、遺族や故人がクリスチャンじゃないんだからしょうがないじゃん、としか言いようがない、と思うんですが・・。

 しかし、ことがことだけに言い方には注意せんと、と思いますが、一方ではこんなに人に気を遣わせる「信仰」って何やねん?と思ってしまいます。

621mimeme_gene:2012/07/23(月) 14:49:43
竹下様、 感謝!
竹下様

妻の友人の奥様が自死で帰天されました。
ご著書の「聖アウグスチヌスの祈り」をカードに転記して、その友人に妻が渡しました。
友人から、翌々日に電話が妻にきて、

「これからは、子供たちと3人で暮らすと思っていました。
この詩を読んで、
これからも家族4人で暮らしていくんだと納得して、とても慰められ、救われました」
と分かち合ってくださったそうです。(友人は未信者)

妻と二人で、とても良かったと話し合いました。

竹下様のおかげです。
妻と二人で、竹下様に感謝します。

622迷える大羊:2012/07/29(日) 20:52:18
イジメとキリスト教
 現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。

http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#

 今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。

 誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
 はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。

 昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。

 私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
 関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
 まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。

 個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
 少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。

 前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言

 「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1

 に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。

 それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?

623sekko:2012/08/01(水) 01:45:41
迷える大羊さまへ
しばらく留守にしていたのでお返事遅れてすみません。

まず、「教会通い」が親戚のイベントよりも優先したりする話について。

上智大学のサイトのキリスト教Q&Aでこんなのがあります。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。
あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害 をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を 待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。
もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。
確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。 それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。
隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信 じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みを お与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

引用終わり。

私はこの意見に全面的に賛成です。

でも、個々のケースで、どんな習慣でも大羊さんのおっしゃるように、「依存症」みたいになってしまうこともあると思います。

それは信仰とかキリスト教とか教会とかとはもう別の次元の問題だと思います。

でも、本人が信仰のため、と思い込んでいるなら、その共同体内のしかるべき人に相談してその依存症状態から脱却するのに協力してもらうことも可能かなあと思います。

その共同体自体が依存性を誘発しようとしているなら別ですが。あり得ない例えですが、もし誰かが私に夢中になって家族関係をおろそかにしているという訴えが家族からなされたら、私なら本人とよく話し合って、もっと柔軟で自由なスタンスでいてくださるように仕向けるでしょう。

もうひとつ、いじめの話。

いろんな言説がありますし、私も書いたことがありますが、

玉聞伸啓さんの「いじめと闘おう!」サイト

http://www.ijimetotatakaou.com/

が、対策と克服を具体的に提示していて今、一番共感しています。

昔のいじめはいわゆる「弱い者いじめ」が多くて、そこにははっきりと「弱い者いじめはダメ」という自主規制もそれなりに生まれていたと思うんですが、今はみんなが横並び的な部分で、何が基準でいじめられているのか分からない、権力関係にも似ていて、外部からの介入がより難しい部分もあるのかもしれません。

ネットを通してなどだとなおさら分からないし。

やられればやり返せ、と言うのも、大人ですら一度自力で負のスパイラルに落ち込んだら鬱から抜け出せないことも多いくらいですから、簡単なことではないし、ましてや赦すとか赦さない以前に、被害者の自死をふせぐためには、これはもう、大人が命をかけて関わるべきだと私は思っています。

大人の社会のハラスメントやDVも、絶対に他からの援助が必要な場合の方が多いと思います。

あとはやっぱり、子どもが幼児のうちから、理屈抜きで、理由なしに誰かをいじめたり攻撃してはいけない、他の子どもたちはたとえ好きになれなくとも絶対にリスペクトしなくてはならないことを徹底的に繰り返すのが必要だと思います。

http://setukotakeshita.com/

624迷える大羊:2012/08/07(火) 19:40:16
お忙しい中、恐れ入ります
 誤解されては困りますが、教会に通ったり、イエスとか神様に頼ること、信じることを貶めてるわけでもありません。
 私だってちょくちょく行きますし、聖書だって読みますし・・。

 この問題は善し悪しっていうより、私自身の性格というかメンタリティとの兼ね合いの問題もあるのかも?です。
 身内は食事の際も「イエス様の御名により」って毎回唱えてお祈りします。当人にとっては大事なアイデンティティ確認であるのはわかりますが、こちらとしては毎回連呼されると、ちょっと押し付けられてるような、プレッシャーを感じちゃうのですよ・・。
 私にイエス様への願いに付き合わせるくせに、焼香しない、他宗教の流儀には従わない、付き合わない・・っていうのはなんだか手前勝手にみえたこともありましたね。
 まあ、時々ふざけて「イエス様にも、仏陀様にもお願いして」って混ぜ返しますけど(^^;。

 自分で何がどう気に食わないのか、整理して考えると、どうも、その「自意識過剰」さがハナについてしょうがない、ってことですね。例の焼香の問題も、別に信仰を試す儀式であるわけでもなし、三位一体のキリスト教の神も異教の神も、誰も気にしとらんわい!って言いたくなってしまって・・。
 つまりクリスチャンであること、というアイデンティティを(私からみて)過剰に確認したがる部分がどうにも、個人的にイラっとするところがあって。「私の宗教ですか?キリスト教ですけど、それが何か?」ぐらいの信仰の方が個人的には好ましく映るんです。
 私としては、身内の信仰に関しては、もうちょっと「さりげない」ものになってくれないかな?と。
 でも、こればっかりは善し悪しでなく、人それぞれですからね、面と向かっては言えないところが、つらいところ。

 ここがカトリック関係者のサイトだから「ヨイショ」をしているわけではなく、カトリックとか正教会とか聖公会の方が個人的に、なんとなく良さ気に映ったのは「さりげない」人が多い印象があったもので。毎週のように教会に来てる人って意外と少なくて、あんた本当に洗礼受けた教会員なの?って人が結構いるし、「現法王が嫌いだからミサいかねぇ」なんて人がいたりしますし(笑)。
 本来は「誉める」ようなことでもないのかもしれませんが、私個人としてはなんとなくそっちの方が「安心」なんですよね。

 もっとも、カトリックとか正教会の場合、自発的に信仰の道を選んだっていうより、家代々の宗教という人が多く、それらの人々にとっては日本の葬式仏教における「檀家」に近い感覚になっているせいもあるかもしれないですが・・。
 あと、これらの教会は世界各地に教会があるグローバルな組織で、歴史も長く、異文化間の摩擦、コミュニケーションに関しても「経験豊富」で「老獪」である、って部分もあるんでしょうね。
 プロテスタントの場合、教会にもよりますが(というか差が激しい)、細かい教団組織にバラバラに分裂し、個々の教会は決してグローバルとか「経験豊富」とはいえず、少人数でこじんまりとまとまっていることが多い、この辺の孤立感とか「若さ」が「自意識過剰」な信仰になりやすい理由かな?と思ったりもしました。

 まあ、以上は私の体験と独断と偏見から、勝手に考えたことで、どこまで的を得ているかは不明ですし、もし不快感を覚える部分があったならば、ご容赦願います、悪意はございません。

625sekko:2012/08/09(木) 00:51:28
迷える大羊さま
この掲示板を昔から見ている人はご存知かもしれませんが、迷える大羊さんは、今の奥様とご結婚なさる前にすでに、奥様のキリスト教との熱心な関わりについて不安を抱いていらっしゃって、ここでご相談されていました。

私は大羊さんも奥様もリアルには存じ上げませんが、その頃、そのテーマをいっしょに考えてコメントしてくださったリアルの友人がいます。

実は、あの頃、その彼女と会った時、大羊さんの話題が出て、「後から難しくなることが見え見えだから、やめておいた方がいいのに」とか、「もし私の息子なら考え直しなさいとアドヴァイスするのに」とかいう話になりました。

あの時そういう「本音」を言わなかったのは、もちろん、大羊さんが宗教について誠実に考えていらっしゃること、当時フィアンセだった奥様を真剣に愛していることなどを理解したからですが、もう一つ、私の方針というか指針があって、それに従ったからです。

それは、

イエスを不和の原因にしない、イエスの名において人と争わない、

ということです。

これは、イエスだけでなく、神さまでも仏さまでもアッラ―でも同じです。

多くの人の「救い主」として信仰の対象になっているシンボルを不和、争い、戦争などの原因にするのは常に人間の愚かさや弱さ、頑迷さや卑怯さからくることだと思います。救い主として崇められているような存在が、自分の名のもとで人々が不和になったり不幸になったりすることを望むとは思えません。

で、私は、大羊さんが今でも「迷える」大羊でありながら、その一線を守っていることを、頼もしく思います。

こういうことって、日常の小さな不満の積み重ねがいつしか、

「君はぼくとイエスとどっちが大切なんだ」とか

「ぼくをとるのかイエスをとるのか」というような短絡的なフレーズとなって口から滑りだし、

「もちろんイエスさまよ、最初から言ってるじゃない」とか

「そんな問題の立て方をする人なんて信じられない」とかいう応酬と共に、

愛だの絆だのがあえなく消えたり切れたりすることが往々にしてあるからです。

もちろんそのような問題の立て方は「イエスを不和の原因に巻き込む」ことであり、なすべきことではありません。たとえ、ある種の人が、自分でも気づかずに、神さま大事、教会第一で家庭の不和を招いているようなことがあったとしても、それに対して宗教の言葉で返すのは正しいやり方ではないと私は思っています。

大羊さんは、共同体の縛りの強い信者や信念を前にしていろいろフラストレーションもあると思いますが、一度、それらを宗教の地平から切り離して、どうすればお二人の生活で互いの力や思いやりをつなげていくことができるか工夫してみてください。大羊さんが奥様をリスペクトし抜く決意はどんな神さまだって肯定してくれますよ。

以上、なんだか、大羊さんの一連の質問の陰にもやもやしたものを勝手に感じたので書いてみました。的外れならスルーしてください。

http://setukotakeshita.com/

626迷える大羊:2012/08/10(金) 21:23:09
恐れ入ります。
??御心配をおかけします。まあ、細かい不満、不安はあるにせよ、不和というわけでもないです。宗教については最初からわかっていましたし、
 まあ、宗教というのは数ある家庭問題のバリエーションの一つで、そういう問題がなくても離婚してしまう夫婦は離婚しますし(友人が離婚しました。)、キリスト教とかイエスそのものが悪いわけでも、不満の原因でもないです。ただ、その信仰具合、形態が「予想外」だったということで・・・。
 私が身内の宗教についてあまり気にしなかったのは、実母がとある仏教系宗教団体の信者なのですが、そのことで家庭内に問題が起こったことなんてなかったからでして、キリスト教?プロテスタント?別に怪しい宗教でなけりゃいいんじゃない、くらいに考えていたのでした。
 実は身内の実家はクリスチャンではなく、ごく普通の無宗教の日本人です。子供時代に肉親を亡くしつらかったところ、日曜学校で通っていた教会の牧師先生にいろいろお世話になり、洗礼・・という、キリスト教に限らず、宗教に入るきっかけとしてはよくあるパターンです。

 ただ、私的に困ったもんだ・・と思ってしまうのは、その牧師先生というのが、話を聞く限り、私からすると非常に保守的というか、ちょっと教条主義的な信仰解釈をする方だったみたいで・・・。今は、その牧師先生もいませんし、身内も引っ越したこともあって、実質的な所属教会も変わってます(というか、正規に所属している教会はない)けども、影響はかなりあったみたいです。何しろ、自分を「導いて」くれた人ですし・・。

 私としては、ノンクリスチャンの私がいうのも変だし、おこがましい気もしますが、「君が知っているキリスト教ばかりがキリスト教の世界じゃないんだよ、キリスト教たっていろいろだよ」ってことをいいたくて、一時期、カトリックとか聖公会の教会やら、いろんな教会に引き回しましたけども。
 以前に比べれば、(私からみて)頑ななところは少なくなったかな・・と思ってますが。

 仮に私がクリスチャンになったとしても、別に洗脳を施されるわけではないですし、この辺の、なんていえばいいのか、神様とか信仰に対する姿勢とか感覚は変わりそうにないですし、万事万歳ってわけでもないと思いますね。

 おっしゃる通り、イエスとか宗教は不満の直接の原因ではありません。それに、身内と出会わなければ、キリスト教とか宗教について、ずっと無知、無理解のままでしたでしょう。 そういう意味では感謝すべき面もあります。

 しかし、かくいう自分も、ノンクリのくせにキリスト教サイトの常連のようになってしまい(なんだかかなり年数が経ったような)、聖書もよく読み(自慢してるわけじゃありません、本当にただ読んでるだけですし、神学的なこ難しい話の知識は未だゼロ、です。むしろ自虐です)、そこいらのクリスチャンより、いろんな教会を訪問した俺って奴も、もしかすると「イエス依存症」か?人のことは言えない・・と思わないでもないです(笑)。
 

627おばさん:2012/08/11(土) 11:53:23
迷える大羊様
竹下様
ホームページで勉強させて頂き有難うございます。運営されていらっしゃる事に感謝しております。

迷える大羊様
現在、この投稿を制作時点で、このサイトの3つの板が全て「迷える大羊様」からの投稿になっております。ご自分で仰られているような「イエス依存症」というよりも「掲示板依存症」のような印象を受けてしまいます。1か月程、投稿をお休みになられて、ご自分の様子をみられてはと考えてしまいますが。
出過ぎた投稿、お許しください。

628sekko:2012/08/12(日) 00:36:30
投稿について
私が迷惑だと思った時はそれなりに表明していますし、偏見のひどいものなどは削除もしていますから、ここで返事しているものについては、みなさまお気づかいなきようお願いします。

「迷える大羊」さまだって、その気になればハンドルネームを変えて続けることもできるのだし、私も普段考えていないことを考えさせてもらっている部分もあります。

一昔前、毎日のようにFAXで長々と質問を寄せられる読者(私より十歳位年上の方でした)がいました。しかも手書きで判読しにくく、大変でした。私はちゃんと返事を書いていましたが、せっかくいろいろ考えて返事を書いたのだから、それを他の人と共有できないのはもったいないなあと思っていました。

FAXでのやりとりは、今はもう限りなくゼロに近く、ネットのスキルのないその方とは、結局私の方から音信を途絶えさせた形になり、申しわけなかったと今でも罪悪感があります。私もデジタルスキルは低いですが、それでも、簡便な今のやり方を一度知ると、もうなかなか昔には戻れません。

ネットのおかげで外国にいても、昔日本にいた頃よりずっと日本のいろいろな人の状況がよく分かって、毎日拝見しているブログなども複数あって、私も依存症と言えば依存症です。まあ誰にも迷惑かけないなら、みなうまくつきあっていきましょう。

私もできる範囲でしかやっていませんので、どうかあまり気になさらないでください。

http://setukotakeshita.com/

629mimeme_gene:2012/08/19(日) 12:05:44
迷える大羊様へ
大羊様

私は毎日祈りますが,その中で幾度もあなた様が心に浮かびました.
だいぶ時間をかけて,少しだけでも,お伝えして良いことを書きます.


●私は,大羊様が御子イエスと出会いますようにと幾度も祈っています.

最初の使徒達は未受洗者です.
多くの方々と同様に,私も幾度も会っています.
全てが恵みで,奇跡ではなく,ともに生きている実感です.

まだでしたら,
イエスと出会いたいと,強く何度も願い,イエスに言い,

出会われているなら,
その出会いを悟り,深められますようにと,祈ります.


●悟りと対話を祈っています.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)

ご自分との内的対話で,御子が全て答えてくれます.
何を聞いても返事があります.
様々な選びも御聖霊が導いてくださいます.

もう既に悟りが芽生えていらっしゃるのかもしれませんね.
三位一体の御交が望む大羊様へのご計画は,
大羊様にしかわかりません.

大羊様は多才な方とお見受けしますので,
一つの深まりや悟りが,全ての対話のきっかけとなりますようにと,祈ります.

630迷える大羊:2012/08/20(月) 19:51:27
投稿の件
 おばさん様がどのようなお立場の方であるか、存じ上げませんが、もし、こちらのホームページ、BBSの運営関係者で、私の投稿により何か不都合、不具合を与えたのであれば、お詫びする以外にありません。
 しかし、内容に関係なく、ただ、投稿が多すぎる、目障りだ、不愉快だ、というご批判でしたら、他のBBSでは受けたことのないご批判ですので、戸惑いを隠せない・・というのが正直なところです。
 掲示板依存症であるのは認めます。何しろ、リアル世界では相談相手が見つけづらいテーマでも簡単に質問出来たりするのですから、つい、いろいろと余計なことを語ってしまいます。実のところ、リアル世界では私、宗教やら政治やら、海外情勢やらって相手が話を振ってこない限り全然話しないのです。そういうことには関心のない人、と思われています。

 ただ、言い訳めいてしまいますが、かなり以前になってしまいますが、竹下先生にはレスについてはムリしないで下さい、忙しい、あるいは答えようのない投稿には無理にお答せずとも結構です、とお断りさせていただいたように思いましたし、実際、お答いただけないことがあっても、なんとも思ったことはありません(他のBBSでも)。

 内容が稚拙、あるいはタイミングが悪い、絡みようがない、などなどでレスがつかない、というのはネットではよくあることですし、ましてや先生はそれが仕事でも何でもないのですから。レスがつかなければ、あ、ちょっとこれは何かまずかったかな?ということで、それ以上話題を進めないようにするだけです。
 私自身もせっかく先生からレスいただいたのに、礼も感想も延べずにほおっておいてしまったこともありますから、お互い様です(忙しかったり、うまく文章が書けない、などで)。

 それより何より、ここは「BBS」ですから竹下先生「だけ」のご回答を求めているわけではありません。特に家族と宗教の問題については多種多様な方々の体験談が聞きたかったところなのですが、私の文章力の稚拙さ故か、内容故か、竹下先生にしかお相手していただけない場合が多く、結果として(特に第三者からみると)、私が竹下先生に怒涛のごとく「課題」を押し付けている・・みたいな形になってしまっているのは、我ながら困ったものだなぁ、悪いなぁとは思ってました。

 こちらのBBSでは、私の「発言中」は他の方は投稿できない、質問できない、とのルールがあるのでしょうか?それならば、申し訳ない、以後気を付けます。
 あるいはそのようなルールがなく、単に遠慮されているだけならば、どうぞ、お構いなく投稿願います、です。

 竹下先生やこちらの方々には感謝こそすれ、悪意など全くない、ましてや「掲示板荒らし、乗っ取り」の意図なんて全くありませんから。

631迷える大羊:2012/08/20(月) 20:18:20
ありがとございます
mimeme_gene様

 ありがとうございます。こちらのBBSでは、聖書のアラ探しみたいなこといったり、一丁前に教会批判みたいなことを言ったりしていたので、キリスト教が嫌い、バカにしている、なんて誤解されていないか?いつも気になっていました。
 全然、そんなことないです。イエスそのものは大好きです。ただ、ちょっと一般的なクリスチャンの方々の「信仰」とはズレているところがあるかもしれませんが・・。

 身内と宗教については、いろいろ気になる(墓やら子供やら・・・etc)ことがあったりしますが、でも、お話をいろいろ伺うと皆さん、いろいろな事情を抱えておられるみたいで・・。別に具体的なアドヴァイス(直接、面識がないのですから無理ですし)でなくとも、「わかっていただける」だけでも大きな励みです。

 そういえば、明日を思い煩うことなかれ・・って聖書にもありましたね。

632mimeme_gene:2012/08/21(火) 01:58:21
まよえる大羊さまへ
大羊様はイエスが「大好き」と書かれています.相思相愛ですね.私もそうです.

キリスト教ほどおめでたい宗教はないと思います.
「全ての人のあらゆる罪がゆるされる」からです.
「じゃあ,どんな悪事をしても,ゆされるの?」と聞かれます.
答えは「ゆるされる」です.公教要理等にも書かれています.

ですので,「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です.

更には,天国で,「なんでこの人がゆるされて天国にいるの?」と思いたくなってしまう人がいたりして...
私は天国に行く前に,その方からゆるされたいし,和解したいです.

でも,その前に,私にできることは,祈りです.

罪であっても,その人の命の一部だから,イエスは喜んで受け取って,イエスの命へと清めてくださり,私達に返してくださいます.

こう書きたくなる実感があります.
祈りの中で,十字架の下に行き,自分の罪を取り出し,掌にもって,五官の全てでそれを感じてみて,イエスに差し出します.
罪の手触り,味,匂い,色合,温度・・・と感じてみると,自分との対話になります.
そして,その後の喜びは,一度なさってみると,感じると思います.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)
を私なりにやっています.

竹下様の著書を読んで,「この方は,三位一体のどなたかと,何か話されて,それを文章にしている」と直感しました.

正直に言いますが,私は,大羊様の文章を読んで,竹下様が答えられているようには,ピンときていません.
もちろん素養や知性が違います.そのストックは,計り知れないようです.

でも,それだけではなくて,大羊様がイエスに何を話されたかよりも,イエスが大羊様に何を話されているかの方に,私の関心があるからだとわかりました.相思相愛の豊かさや楽しさでしょうか.
大羊様の文に,もっと見つめられるように,なりたいです.

今日はこのへんで.

633Sekko:2012/08/22(水) 23:28:49
ゆるされること、など
mimeme_gene さん、いろいろフォローしてくださってありがとうございます。

>「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です

というのはほんとですね。

「他人の罪や欠点をあげつらう」というのは、想像力の欠如のせいもあるかなあと思います。自分に厳しい人が他人にも厳しいというのはよくありますがそれですら的外れのことがほとんどなのに、中には自分に厳しくなくて他人にだけ厳しいって人もいますよね。

私は他人に厳しくしないことで自分に厳しくしないことを正当化するタイプかもしれません。

罰せられるのは嫌だけど、あれやこれやの多少の罪悪感はいつも抱いているので謙虚になっていいだろう、ぐらいのいいかげんなスタンスなので自戒します。


キリスト教がおめでたい宗教、というのは私も感じます。いろいろ紆余曲折を経て、本来のおめでたさを回復しつつある、みたいな感じ。

すべての人のあらゆる罪が赦される、ということについて、前にもユダのことで少し触れましたが、今ユダ論でちょうどオリゲネスのアポカタスタシスなどについて書いていたので、あらためて考えさせられます。

「罪が赦される」とは、単にこの世で「罰せられない」ということなのか、あの世で地獄だの煉獄で責められないということなのかと考えると、この世で社会的に罰せられない罪しか犯していず、死後の世界も信じていなければどうでもよくなりますよね。それでも「因果応報」とか「悪業のたたり」みたいな言葉がどの文化にもあるということは、たとえばあまりにも利己的な行為に対して自然に「後ろめたさ」を感じるような心性があった方が、全体として種の存続に有利だからこそ受け継がれてきたとも考えられます。

で、「罰せられない」ということが即「救い」なのかどうかということも気になります。

古来、富や権力を掌中にした支配者などは、人間からは「罰せられない」立場にあるわけですが、満足して生きているかと言えば、最後は「不老不死」の秘法を求めるとか、結局、実存的な不安からの救いを求めてしまうのかもしれません。あるいは老いや死そのものを一種の「罰」だと感じるのかもしれません。だとしたら「原罪によって人が不死の存在でなくなった)という考え方もそれと表裏をなしているのでしょう。

キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。永遠に生きるという見方に立ったときには、もう罪とか罰とかいう限定的な枠組みは消えてしまう。「地獄で永遠の劫火に焼かれ続ける」などという表現は、それ自体が現世的な表現であって、神的な永遠や無限の中にはそういう「仕分け」はないという考え方も古来ありました。少なくとも「永遠に生きる」という視点なしには「救い」も「ゆるし」も成立しませんでした。

何年か前に、プロテスタントの教会に垂れ幕がかかっていて「イエスを信じる者は死なないで永遠に生きる」とあったのを見た時に、ものすごくカルト的な印象で愕然としたことがあります。ボーン・アゲインのような運動にも個人的にはすごく違和感があります。でも、確かにキリスト教のおめでたさは「永遠に生きる」「死んでも生きる」ところにあるので、そのことを、今生きている間に本気で視野に入れないとしたら、「救い」も「ゆるし」も言葉だけになってしまうかもしれないなあとも思います。

でも実際そういうことを視野に入れて生きて、死んで、その結果、その後もずっと人々を結びつけつつ生かし続けている人々は決して少なくありません。継承され分かち合われるメッセージ性はそれが思想的なものであれ芸術的なものであれ、永遠とか超越とかいうコンセプト抜きには生まれないのだというのが実感です。

実存的不安に対して儒教や仏教系の「安心立命」的な悟りの境地に至るのは、私には多分不老不死の薬を得るのと変わらないくらい難しいので、それに比べれば、とりあえず、死後も超越的な何かを通してみんないっしょに永遠に生きると想定して「立命」できたらなあと思います。(みなさまからのお祈りが効いてきたのかも…)

http://setukotakeshita.com/

634mimeme_gene:2012/08/26(日) 14:22:26
竹下様
私の感覚ですと、罪は何かを限定や特定してしまうと感じます。
その方にも私と同じ限界があると感じます。
罪に無限の広がりを感じることは、私にはありません。

竹下様のおっしゃるように、「想像力の欠如のせいもあるかなあとおもいます」というのは、とても暖かい感じがします。

御交が全てなさってくださるから、私は、他の人に罪を感じたら「罪という契機から、愛されている実感に私が気づいたように、その方も御交の無限の愛に気づかれますように」と沢山いのります。

御交が無限の愛だから、私たちも愛になるようにと、御交から愛されていると感じます。
聖イグナチオの愛を得るための観想を、「愛になるための観想」と読み替えて、私は日々祈っています。

私自身の大小様々な罪については、日々感じます。
罰という感覚はなくて、御交の愛を受け止めていないという事実を痛悔します。
特に霊操の罪の究明のやり方にならっています。

「キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。」と書かれていた文章を読んで、私は、「永遠」というイメージと、今の生活にこの「永遠」をもっと埋め込んでいきたいと強く願いました。

本当にありがとうございます。感謝です。

635phantom:2012/10/07(日) 15:51:24
教会博士
竹下先生、こんにちは。ブログを拝読致しました。
ビンゲンのヒルデガルト、今年は大出世ですね!
このまま、非公式な聖女のままなのだろうなぁ、と思っていたたけに、驚きました。
先生と同じように、私も彼女が大好きなので嬉しいニュースでした。

ヒルデガルトは邦訳がほとんどないのが残念です。日本語では関連書籍も極僅か…題材としてこんなにユニークな存在は他にないのに、もったいないですね。特に精神医学的なアプローチをしたら、面白そうです。

竹下先生の書いたヒルデガルトやアビラのテレサについての文章、いつか読んでみたいです。どうか、是非ご検討を!

636Sekko:2012/10/07(日) 19:05:50
中村 千尋 さま
中村千尋さま、前に書きこんでいただいていたのですが、何か続きがあるのだろうとそのままになっていました。もし、続きがあるなら加筆ください。

http://setukotakeshita.com/

637Sekko:2012/10/07(日) 19:39:56
phantomさま
ブログを読んでくださってありがとうございます。

ディープな聖女もので書きたいテーマはいくつもあるのですが、そのうちにと思っているうちに持ち時間が少なくなっていくような…

私はかなり昔からヒルデガルトが好きでしたが、オリバー・サックスの『偏頭痛』でヒルデガルトの幻視が網膜に映るスコリーだという解説を読んでその図を見た時に、それが私が昔から目を閉じた時に見ているのと同じなので驚きました。目を閉じた時に見える形がいろいろ変化するのは誰にでもあることだと思っていたからです。今でも寝床に入っても眠れないときはその画像をいろいろ操作しながらずっとながめています。

ヒルデガルトが本当に見ていたのは何か分かりませんが、不思議なのは、そういうものを見て、神から与えられたビジョンだと思える心のメカニズムです。

ただの偏頭痛の症状や幻聴をビジョンやお告げだと信じ込む人もいれば、ひょっとして、本当にビジョンやお告げが来ているのに、全くスルーするするタイプの人もいるのかもしれません。

信じ込むためには何かどこかが壊れなくてはだめなのか、たとえ壊れても真実に導かれる人がいるのか、そんなことも気にせずに境界領域をぼんやり生きていける人もいるのか、謎です。

米国大統領候補のロムニーのような人が本気にモルモン教を信じているのか(代回頃フランスに布教活動で滞在していた)というのも私には謎です。

アニミズムとか、お天道様やご先祖さまを拝んだり、各種の神々だとか遠い昔の預言者を崇めたりするのはなんとなく分かります。距離の取り方によっては人生の潤滑油になるかもしれません。

でも、近代以降とか現代になって新たに自分がキリストの再来だとか最終預言者だとか最終解脱者だとか突然新たなお告げを発掘して訳したとか、各種聖人の霊言をキャッチするとかいう生身の人間を教祖として、巨大な金が動く教団になっているような新宗教の場合、現役の社会人に、その「教祖」の言うことを本気で信じるための一線を越えさせるものとは、一体何なのだろうと思ってしまいます。

もちろん育った家庭や地域の影響がある場合は理解できますが、それでも、ロムニーのような人が、単に「信仰を持っている」というアメリカ的モラルの担保として以上にモルモン教に軸足を置いているのは不思議です。

ヒルデガルトの場合は、自分の周りにいる教会の権威たちには全然屈していませんから別ですが、あの時代にあの環境で、自分の言葉で語るには、やはり神のひと押しがあったのか、神の言葉とセットにしてでないと表現できなかったのか、探ってみたいところです。

http://setukotakeshita.com/

638リジュー:2013/02/06(水) 23:03:24
ヴィジョン
竹下様初めまして。以前「聖女伝」を読ませて頂きいろいろ考えました。興味深かったのは、フランソワ・ド・サルとジャンヌ・ド・シャンタルの出会いです。二人のヴィジョン(召命)が素敵です。私自身は聖人洗礼ですが幼稚園、高校がカトリックで影響うけています。私は神父様に心がいってしまう傾向があり、フランソワとジャンヌのような関係に憧れます。竹下様はこういう二人のヴィジョン(召命)をどう思われますか?神の摂理をどうお考えでしょうか?また神父様にイエス様や世の理想的な男性を求める私は人間的にちょっとかもしれませが、神様に対するいろんな方の考えに興味を持っています。竹下様はカトリックの洗礼は受けられていらっしゃるのかと思っておりますが、(すみませんよく存知あげておらず)以前パリの友人宅に訪問し、教会などいろいろ行きましたが、フランス人のカトリック観は日本人と違いますし、私は宣教師の方の特に深い関心と尊敬のような物を持ってしまいます。どうか竹下様のアドバイスをいただきたいです。

639Sekko:2013/02/07(木) 09:15:50
リジューさまへ
リジューさま、こんにちは。

そうですね。「霊的カップル」っていうのに私もちょっと憧れます。

フランソワ・ド・サルとシャンタルの場合はなんだかんだといっても名士同士、エリート同士かなあ、とも思いますが、それでも、いわゆる「相性」を超えた大きな何かを介在させていたのだなあと思います。

上流家庭で妻母嫁と人生のフルコースを味わってその後またフランソワ・ド・サルのような突出したキャラクターと出あい、共に新しい修道会を創り上げたシャンタルの人生はなかなか羨ましいです。

私の身近でよく知っているのはカトリック関係者とチベット仏教関係者なんですが、どちらも独身の誓願を立てている人たちで、「神仏に帰依して人々を救う」という決意と、自分の「個人としての家庭の団欒や子孫を残すことはしない」という決意とがペアになっているのを見ると、自然とリスペクトの念がわきます。

もちろん家庭を持たれていても宗教的使命を遂行する人もいれば、独身でも俗な欲望にまみれている人もいるわけですが、何につけ、禁欲的に専念しているタイプの人には惹きつけられます(自分がそうじゃないからかもしれませんが)。

カトリックの宣教会のヨーロッパ系の神父さんなどで、若い時からずっと日本に来て、カトリックの少ない日本に骨をうずめたいという方たちにも感心します。

昨年お亡くなりになったネラン神父さまのようにリタイアしてから新宿にバーを開いてサラリーマンに寄り添った人もいるくらい(ネランさんについてブログで書いたことがあります。http://spinou.exblog.jp/15666988/ )で、みなユニークで、それなのになんだか波長が日本人っぽくなっていて親しみやすいですね。

ただ、出会いというもの、人柄というものはすごく大事なので、チベット仏教では一人のラマ(指導僧)につくのですが、10年間は、自分に合わなければ替えていいそうです。

いいかえると、10年くらいのスパンで見ていかないと、本当に自分にとって霊的な指導者になってもらえるかという大切なことの見極めはつかないかもしれないということです。

まあ結婚などでも、一目ぼれで何十年も幸せに添い遂げる人もいるのですから、これは運命かもしれません。

シャンタルだって、運命の人フランソワ・ド・サルに惹かれながら、別に告解僧もいたし、なかなか特別な関係に入れなかったですよね。試練があった方が本物の気持ちを確かめられるかもしれません。

ある程度の年配になるとずっと何かの仮面をかぶってきたり何者かの振りをしてきたりしたような人たちにはそれなりの不透明さが出てくるように思います。

そうでない人は年を重ねるごとに生まれるある種のシンプルさによって信頼感をそそってくれます。

「この人の信じている神さまなら信じてもいいな」と思えることもあるでしょう。

ただ、「理想的な男性を求める」的な惹かれ方は、あまり深入りすると失望したり、相手を困らせたりするかもしれませんから、気をつけた方がいいかもです。

あまりアドバイスになってませんが、ケースバイケースだということで、ひとまずこの辺で。

http://setukotakeshita.com/

640リジュー:2013/02/09(土) 22:41:06
(無題)
竹下様

お返事ありがとうございます。ネラン神父様のこと少しネットでみました。とてもいろんなご経験をされた方で、素晴らしい方ですね。宣教師として活動され、引退後は生き方も選択できるのは理想的でもあり、でもそれは神様がその方それぞれに与えたものであり、自分で決めることでもあり、その辺の判断が私は難しいと感じてしまいます。仮に聖職者が聖職者を辞める場合もあるのでしょうけど、それは世間的にみてどうでしょう。仮に結婚したとしてもそれは素敵なことだと思いますが、批判の目でみられたりもするんでしょうか?
「聖女伝」の中のテレーズのことも普通の女の子は聖人になれるか?という所にも考えさせられました。聖人、カトリックは奇跡がが好きとか、いろいろありますが、何というかいわゆる召命もその時々で変わることもあるし、カトリックの世界で自分を大切にしてしまい、世間での付き合いが好きでなくなったり、聖書も自分視点で解釈したり、自分で解釈するのが好きなのは、良くないことなのか、やはり神父様のご指導の下が一番でしょうが。神様の思い方は人それぞれですが、よく違うと言われることもあります。それで少し落ち込んだり、人々と分かちあうことも大切ですが、私の中の神様は自分の中で大切にしたいですし。
霊的指導者は10年位かけてのお付き合いが大切なのだと、10年位自分の近くにいて下さる神父様がいたら本当に理想的ですね。神父様にイエス様を重ねてしまうことはどうでしょうか?自分がそんな気がしてますが。ゆるしの秘跡にしても良く知ってる神父様だと人間的な目で見られてしまったらと思うこともあったり、やはり友人と一緒で人柄が重要なのでしょうんね。確かに偽った生き方や人間的な優しさがあるかどうかは年を経た方は自然とでてしまいますね、そう思います。

641今紫:2013/02/23(土) 07:39:05
ローマ教皇の退位と聖マラキの預言の的中?
竹下様、お久しぶりです。

ローマ教皇ベネディクト16世の退位のニュースは驚きました。高齢の理由でそうなるのは致し方がありません。3月末の次期ローマ教皇が決まる選挙、コンクラーヴェ(根競べに似ていますね)でどんな方になるのでしょうか。

さて、巷(特にネット)ではアイルランドに実在した聖マラキ(マラキアス)の預言が再び浮上しています。偽書の疑いがあるとはいえ、歴代ローマ教皇のことをほぼ、的中しています。たとえば、前教皇ヨハネ・パウロ2世は「労働の太陽」、現教皇は「オリーヴの栄光」といったいかにも彼らの特徴や象徴を現しているようです。12世紀の人がこんな明確な預言を残すことができるのでしょうか。まあ、私は預言と信仰は区別して考えて行動しています。こういう「預言」良くも悪くも「的中」してほしくはありません。

くだらない内容になり申し訳ありません。教皇退位でこんなことを思い出しました。
四旬節は2月13日の水曜日から始まりました。2月13日はファティマのルチア修道女の命日(将来は記念日なる可能性がある)にあたり、これも何かの因縁があるのでしょうか。

花粉症には十分気をつけてくださいますように。先生のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

642sekko:2013/02/24(日) 09:16:50
聖マラキですか。
今紫さん、こんにちは。

聖マラキですか。

教皇の引退宣言以来、数々の記事を読んでいますが、さすがに聖マラキを持ち出すようなタイプのものは読んでませんでした。

聖マラキの預言書については『ノストラダムスの生涯』のp171-176で解説してコメントしたことがあります。

その時はまだ前教皇の時代でしたけれど、なるほど、今の教皇の辞任が「時の終わり」で、では、次の教皇は「ローマ人ペトロ」でどんな苦難が待っていることやら…。

ローマ人っていうのはヴァティカンに常駐する枢機卿ってことかしら。

つい先日は、イタリアの左派系新聞が、ヴァティカン内の同性愛ロビーの存在を知ったことが教皇を辞任に追いやったなどと書いてこちらでは多少話題になりましたが、検証記事を読むと何の根拠もない話でした。

それにしても、教皇の変わり目というのはいろんな人がいろんなことを言いだすものだなあと思います。

今の教皇は、次の教皇について、統治能力があり、ルーティーンに陥ることなく、キリスト教諸派の統合を目指し、非キリスト教世界に向けて発信できる人を、などと言っていましたから、適任者が現れるといいのですが。

643Phantom:2013/02/26(火) 12:37:40
(無題)
竹下先生こんにちは!
2月25日のブログ記事、まるで短編小説のようでとっても素敵でした。
「教皇のリタイアが希望を感じさせてくれた」なんて、96歳のシスターがこんなにものびのびとした自由な心をお持ちなのかと、驚くような、嬉しくなるようなエピソードでした。
キリスト教国では、教皇辞職について「裏切られた」とショックを受けた信徒が多い、などとニュースで見ておりましたので尚更です。

時流を諦観でなく、こんな風にポジティブに捉えられるのは、もちろん元来の個人の性質に由来するのでしょうが、一般信徒に比べて何かと制約の多い修道者が(ましてやこの世代の受けた宗教教育は現代よりも厳しかったはず)、その上で自由に開かれた心を持っているというのは、何とも言えずすがすがしく感じられました。

以前カトリックサプリの記事で、パレモニアルで召命を確信し、バチカンで毎日を生き生きと過ごす司祭のエピソードがありましたが、この記事を読んだ時も同じく爽やかな風が吹き抜けるような感動を受けました。

胸のつまるような事件の多い中、このようにある意味で純粋に、自由な心で生きる方々がいるという事を知るだけで、希望が湧いてきます。真似はできないかもしれないけれど、そんな風に視点を変える事で、世界をよりよく生きられるんだと、こちらまでワクワクしてきます。

いつも素敵な記事を書いて下さってありがとうございます。まとまりのない感想で恐縮ですが、どうしてもお礼を伝えたくなってしまいました。

またコンクラーべ関連の記事も楽しみにしております!ネットがある事で海外ニュースは簡単に読めますが、やはりその国の空気感まではどうしてもわかりませんから、竹下先生のブログは本当に興味深く拝見させていただいております。
いつも日本から応援しています!

644sekko:2013/02/27(水) 00:16:25
phantomさま、ありがとうございます。
愛徳姉妹会はもともと活動修道会ですから元気なシスターが多いです。

私たちのトリオが最初に日本で公演した時、愛徳姉妹会の養護施設にも行って、その時には最初に日本に来られたという最年長の日仏混血のシスターも来てくれました。すごくかわいい人でした。その方が100歳になった時、敬老の日に市から祝いの品を持ってきた職員がいて、シスターは何で祝ってもらえるのかピンとこないまま、その人が帰る時に「お大事にね」といたわったそうです。

シスター・クレールは自分たちはいわゆる老後の心配がないのだから、生きている間は他の人のために役に立ち続けたい、と言っています。

確かに普通の人は老後の暮らし、介護、葬式から遺品の整理までいろんなことを考えますが、彼女らは先のことを考えず生涯現役、とも言えるのでうらやましいです。

春には彼女のいる特養のサロンで慰問コンサートをします。

「年寄りやシスターたちがわらわらいるのを見ないようにすればなかなか素敵なところよ」

と言っていました。

私はむやみにポジティヴな人を見るとひいてしまうタイプなのですが、96歳であのポジティヴさを見ると、神さまっているのかも・・と嬉しくなります。

そんなシスターなので、ひょっとして教皇の引退のことを「まだまだ若いくせにがんばりが足らない」とか言うかもしれないと思っていたのですが、人はその時々に自分に合ったがんばりをする見極めが必要だということなのでしょうね。

http://setukotakeshita.com/

645Phantom:2013/02/27(水) 20:57:37
なるほど!
竹下先生、お忙しい中お返事ありがとうございます。

確かに、修道者は生活の心配はありませんね。
知識としては理解していても、その点はうっかり失念していました。一般社会と違って「引退」という概念がないからこその生涯現役なのかもしれませんね。

私自身もいわゆるポジティブは苦手ですが、このシスター方のような自然なあり方は素敵ですね。なかなかシニカルだったりするのもいい感じです。キリスト教ワールドも色々あるけれど、意外と捨てたモノじゃないかも、と感じさせられます。

春の慰問コンサート、きっとシスター方も楽しみにされている事でしょう。感想などブログで様子をアップして下さると嬉しいです。

竹下先生の演奏、いつか拝聴してみたいです。バロック音楽は普段接する機会がありませんでしたが、最近のブログ記事でとても興味を惹かれました。いつも先生のブログから知的好奇心を刺激されます。

646今紫:2013/02/27(水) 21:41:47
次期教皇は統括力のある人を
竹下先生
多忙の中でのお返事ありがとうございます。

次期ローマ教皇はどんな世相や思想に対して寛容かつ統括力のある方が選出されるとよろしいですね。同性愛もどのように受け入れられるのでしょうか。
変わり目というのは何か騒ぎ出す要素が存在するのでしょうか。そのせいで大変な不幸に遭遇しないことを願います。

できれば、よい方向へと進んでほしいのです。

647Sekko:2013/03/30(土) 07:59:21
教皇と陰謀論?
無視しようと思ったのですが、書きたくなったのでブログに思うところを書きました。興味ある方はどうぞ。

http://spinou.exblog.jp/19538718/

陰謀論系のコメントに対応する気はないので次からは削除しますのであしからず。

http://setukotakeshita.com/

648愚者:2013/04/05(金) 23:58:43
(無題)
人権侵害の禁止を骨抜きにし立憲主義を否定する改憲案を、憲法及び学説を学んだこともない無知な人が主張しています。赤ちゃんから高齢者まで全国民に番号を付けて住所氏名生年月日性別、所得資産負債、職歴、婚姻歴、病歴等を国に管理される国民番号法案を国会が審議中。大部分の国民が忌避する原発に固執。福祉の財源に充てるための増税と言ったくせに50兆円も外債購入(売却出来ない米国債)に支出。関税権立法権、食糧自給を放棄し、国内法に優越する国際秘密条約TPPに国民を騙して駆け込む。一票の格差違憲判決を根拠なく議員定数削減に結びつける政府与党。議員を減らして首相が人選するナントカ会議を乱立させ政策を仲間内で勝手に決める無法。マスコミはアベノミクス万歳のごますり嘘つき報道一色。止まらない司法の不正行為・冤罪。アメリカは天使、中韓は悪魔という恣意的な報道。なんだかカルト政党に制圧されたようで大変不吉です。宇沢弘文、鈴木宣弘、孫崎享他の識者やアカデミズムの人々の発言はマスコミが報じない上、度々事実に反する中傷を受けています。竹下先生のテーマと違う相談で恐縮ですが不吉な空気を訴えずにはいられません。どのような抵抗が考えられるでしょうか?

649Sekko:2013/04/07(日) 23:37:30
愚者さま
このご質問は、私がブログ記事http://spinou.exblog.jp/19734282/で、アメリカに対するフランスと日本の対応を比較したことをお読みになってのことでしょうか。

そのブログにも書きましたように、10年前のイラク派兵の時の日本政府の支持の基準がひたすら「英米の便宜を図る」ことであったことを知り、あらためて、あの頃の日本での反対運動はいったいなんだったのだろうかと愕然としました。

原発再稼働反対や、TPP反対にしても全く同じです。

いくら、現実を突きつけても、信頼できるデータや予測を並べて、正論を語り、道理を説き、真の利益を訴えても、政府の方針は国民の声の総意ではなく、「連合国」の声の総意で決まるという現実があるようです。

そして、今や、その「連合国の声」も、実は一部の多国籍大企業のパトロンたちの利益によって決まっているという現実があります。

それにもともと、日本には、国民の意思が国家の意思に変換されるという伝統はありません。

「仁者による徳政」に期待するような伝統がありましたから。

東浩紀さんなどが、国民の声を政府の独断への有効な抑止力とするために情報ツールを駆使して集合知を可視化するというタイプの提言をされているのを読んだことがあります。
でも、いくら集合知が可視化しても、日本の「戦後」は、「政策決定はアメリカの意向に沿う」という合意から出発しているようなので、それを変えない限りは、だれがどんなに正論を唱えても多分「多数で説得」とか「理屈で説得」ということにはならないと思います。

では、どうしたらいいか。

ひとつは、そうやって押しつけられてきた憲法だの政策だのを日本の国益にかなうように巧妙にすり替えて利用する。
今の世の中で国際的な合意である普遍主義や平和主義や環境保全主義などの流れをうまく使ってロビー活動をする。FTAも対EUとか中韓とのものを平行して進めて、アメリカを牽制する。

もう一つは、拝金主義の資本家たちではなくアメリカの一般国民に的を絞って、啓蒙活動をすることが考えられます。アメリカ人は子供の頃から「アメリカ一番」を刷り込まれているのでものの見方が単純ですが、いざ「知らなかった過ち」を突きつけられると本気でショックを受けて懺悔したりします。

私は第二次大戦時の日系人の収容所のことを初めて知ったアメリカ人に面と向かって涙を浮かべて詫びを入れられたこともあります。

アメリカ人は平均的に、ひとりひとりは日本人やヨーロッパ人ほど偽善的でなく、正義感の強いいい人たちだと思います。
だから、ステファン・エッセルの呼びかけにもすぐ反応してオキュパイ・ウォールストリートの運動を始めるし、TPPにですら、http://democracynow.jp/video/20120614-2
で日本人にも明らかにされたように、

「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」

と糾弾の声を上げたりしているわけです。

従軍慰安婦の話でも多分そうだったのでしょうが、「犠牲者」側がうまく働きかけて利用すればアメリカ人は義憤に駆られてすぐ話がまとまり、それが政府の方にまで届きます。つまり、アメリカは、一応、国民の声が上に達するとそれを反映しないではおけない基本線はあるわけです。

だから、日本人も、アジア政策におけるアメリカの傲慢さを今の情報ツールを使ってうまくアメリカの一般市民に伝えることができたら、「そりゃひどい」ということになるかもしれません。

戦勝国と敗戦国の関係で政府の側にはもうどうしようもない負の前提があるようですから、もうそちらには期待しないで、アメリカ一般市民の「草の根義憤」につながるような正論啓蒙活動を戦略的にやっていく方が流れを変える可能性があるような気がします。

「日本がアメリカに蹂躙されている」というのではなく、あくまでも、日本もアメリカ一般国民も、企業による世界支配の犠牲になっているのだというスタンスで。

国民番号法案も完全にマーケティングのベースデータのような気がしますね。

アメリカ人のピューリタン的メンタリティを刺激すれば、できることもあるような気がするんですけれどね。日本の政治家を変えることよりはまだ可能性があると思います。

最近、北朝鮮の好戦的な挑発なんかについては、ローマ法王に手紙を書いてもらえばどうかとも思いました。

キューバ危機の時に、当時の教皇ヨハネ23世がソ連のフルシチョフに平和を訴える手紙を書き、なんと、共産党機関紙の『プラウダ』に掲載されました。

当時のケネディ大統領がアイルランド系カトリックだったので思いついたのかもしれません。

北朝鮮は表向きは信教の自由があるのでカトリック教会も一応はあり、韓国からのキリスト教NPOもたくさん入っています。金日成の家族にも確かカトリックがいました。

何かそういう超国家的、あるいは、超ビジネス的なネットワークを利用して、小さな危機、ひいては大きな危機を回避できるのではないかと期待します。

3.11の後で、それまで原発のことを問題にしていなかった多くの人が自主的に情報を集めて啓蒙し合い、原発廃止のコンセンサスができた(けれど国家の政策や企業の方針にはもちろん反映しないわけですが)ように、弱者連帯の潜在的な力は普遍的にあると思うのでそれをどうつなげていくかということですよね。

私もずっと考えていきます。

http://setukotakeshita.com/

650愚者:2013/04/13(土) 12:58:23
コメントありがとうございます。
私の環境からforum3に投稿する方法が解らないのでこちらに書かせていただきます。『フランスの不思議』の記事を読み直しました。ヴィルパン外相のイラク戦争反対の国連演説でフランスはいざという時に指導者が理性的な判断ができる国という強烈な印象を受けたので、その後の政治家達の姿勢がそんなものだったとは興醒めです。
伝統宗教のゾンビに匹敵するものが日本にはないのでしょうか?日本人の拠り所というか偶像はいまや市場、自由主義経済、アメリカのようです。
竹下先生やNPOの方々のご指摘のとおり、敵を間違えずに99%がグローバルに連帯して1%に抵抗するべきですが、具体的な方策はあまりにも微力です。
郵政民営化を境に日本の行政機関は金融業者か詐欺屋?みたいになり、産官学の連携も行き過ぎになりました。東大総長がM総研のトップに就任して新聞各紙に広告が出たり。国会や内閣はテレビのワイドショーとなり、芸人が活躍しまっとうな政治家は排除されています。「自由な競争」や「規制緩和」の信者たちが政官財界を仕切っていて、テーマパークのアトラクションみたいなプランをどんどん出しています。

651愚者:2013/04/13(土) 13:11:26
連投2
(続き1)会議や社内のコミュニケーションを英語にする規則とか、秋入学にすれば世界中から優秀な留学生を集められるとか。大震災の美談は飽きられてきて、原発、基地、TPP、改憲、増税の致命的な国内問題を忘れさせるためマスコミは近隣諸国への反感を煽る報道一色です。
夏の選挙で逆転しないと、国民番号法案、秘密保持法案、国家総合安全保障法案(憲法改正)があっというまに成立して、政府に不都合な者をいくらでも取り締まれる全体主義軍事国家への決定的な一歩を踏み出すということです。護憲の運動は存在しますが、驚いたことにカトリックのピース9は猛烈に信者達に叩かれているらしいです。日本が99%が犠牲になる国になりつつあるというのに。B16教皇は何度か市場至上主義と相対主義を公式に非難しましたよね。JP2教皇の死の文化への非難を具体化したものと思います。宗派的な主張ではなく普遍的な、99%が共有する考えです。
竹下先生の『アメリカにNOといえる国』が、本澤二郎氏という評論家のブログの今読むべき本のリストに挙げられていました。

652愚者:2013/04/13(土) 13:26:29
連投3
(続き2)
知識人達はレジスタンスを既に実践してきたとも言えますが、今やメディアと言論の戦場で本気で戦っていただく時です。特にいわゆる保守良識層が、仁者の徳政を信頼する気風につけこまれたのか、政府与党のイデオロギー(市場主義、アメリカと組めば間違いないという信仰)に気づいていない点が難しいのです。与党と、野党を装う市場教政党の八百長が繰り広げられマスコミの政治報道を独占しています。
99%と9条に象徴される立憲主義を殺さないために、知識人やアーティスト達が緩く連携して、石ノ森章太郎氏の999のキャラクターを活用したりして1%を叩きのめし正気にしてあげて下さい。お願いします。
連投失礼しました。

653Sekko:2013/04/15(月) 08:23:37
愚者さま
イラク戦争の頃のことを今思うと、2002年の時点でたとえばドイツではシュレーダー首相がフランスと共に不参加を表明した時、「戦後ドイツの政治家たちがずっとアメリカのいいなりになってきた中ではじめてアメリカの要求を拒絶した」とドイツ国内で絶賛された話を思い出しました。その時にブッシュの政策をヒトラーになぞらえた女性閣僚がいてアメリカが激怒したという話もありました。

で、その後、米独関係がどれだけ壊れたかというと、大して壊れていない。

2002年や2003年の時点での日本なら、日本がもしNOと言っていても、失うものはなかったようにも思います。

フランスに暮らしていてもそうなのですが、一般的に言って、いわゆる欧米人って日本人が思うほどいろいろなことを根にもたないというか、単純というか、すぐ忘れるというか、割と関係を修復しやすい人たちなんです。

拒絶したい時にはバシッと拒絶しても、別の機会に友好的にふるまえばまたうまくいくというような。日本人は自分で前のことを気にして気まずくなったり、あるいは関係が悪くなるのをおそれて嫌なことでも譲歩したりしても、そんなことも分かってもらえないし、譲歩し損ということが往々にしてあります。

こういうメンタリティの問題は、それでも、国際関係をじっくりと観察していれば分かると思うんですけれどね。

それでも難しい問題はたくさんありますね。

たとえばフランスは痩せても枯れても普遍主義の国なので、そして、社会民主主義の国なので、福利厚生の各種手当が、収入の多寡や国籍に関係なく、合法的にフランスに住んでいるというだけで支払われます。

そういう政策のせいで新自由主義経済に後れをとっていて、そのおかげで自分たちは得をしているとドイツやイギリスは公言しています。

理念に殉ずること自体は私はいいことだと思うので、その結果の不都合は受け入れるのにやぶさかではないのですが、問題は、そうやって、「稼ぐ以上にばらまく」うちに、財政赤字が膨大なものになってしまっていることです。

もっとも、CAC40のトップが税金逃れのために国外に投資している金だけで財政赤字の3分の1に達するそうで、噴飯ものという気はするのですが、それでも、カユザックを擁護するわけではないですが、そういうことも知り尽くしている人が政治に目覚めるというのは悪いことだけではないとも思います。少なくとも、政治家になることで金儲けをしようと思っているのではなく、最初から金がある人がようやく政治的使命に目覚めたのかもしれませんし。

清貧だけで生きてきた人ばかりで国を動かすのは別のリスクがあるかもしれませんし、フランス革命などもほどなく恐怖時代に突入したわけだし、「1%をたたきのめして…」などという目線では語れないかもしれません。

個人的にはもっと社会学者にがんばってほしいです。日本の社会学って、なんだか、「ガラパゴス化した日本に特有の社会現象」みたいなものを分析したり解説したりしているようなのが目だって、本質的なものはあまり語られていないような気がします。

多くの人が多様性を活かしながらおっしゃるように緩い連携をして、立憲主義、平和主義を守っていければいいですね。

でも、最近、ドイツに占領された時のフランスのヴィシィ政権について、これまでは親ナチのコラボの極悪政権みたいに言われていたんですが、あの時点では、「平和主義」、つまり戦闘を回避する道だったという評価も出てきています。まあナチに過剰に迎合して自主的にユダヤ人狩りをするなど結果的に道を誤ったわけですが、親独政権なしでみながそろってレジスタンスに向かえっていえば、ずっと多くの血が流されていたかもしれないのも事実でしょう。

どちらにしても、何を譲れない線とするかをまず明確にして、それを歴史の文脈とすり合わせながら個々の場面に対応していくのが大切かと思います。

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654グラ(愛犬の名称):2013/06/21(金) 05:05:41
トラウマについて
竹下先生
先生がご指摘になった「トラウマ」について、補足的な説明をさせていただきます。
なお、このメールへの返信は、気になさらないでいただければと思います。
しかし、なぜ、竹下先生に、宗教相談のメールをするかというと、竹下先生の著作やブログを読んでいて、キリスト教を平易に表現することを通して、若い人たちにも理解してもらおうという姿勢に貫かれているように思えるからです。この「平易に」という意味は、日常の生活感覚を通してということです。

私は、プロテスタントの福音的な教会に身を置く者です。謂わば、キリスト教原理主義者であるかもしれません(笑)
ただ、この日本のプロテスタントも超高齢化社会の到来とともに、絶滅危惧種にリストアップされそうな勢いにあるということです。
そして、その原因のひとつに、敗戦後のプロテスタントのキリスト教が、マッカーサーの占領政策の一環としてアメリカから直輸入されてきたことにあります。負け犬が虎の威を借る、です。(マッカーサーは本気で、キリスト教による日本人の洗脳を考えていたことは事実のようです。)

問題は、敗戦後のプロテスタントのキリスト教の受容が、こうした卑屈な屈折した気分の中で展開したことですが、さらに問題を複雑にしたのが、無教会主義の台頭でありました。
戦時下、非戦を貫いたということで、共産党と無教会は戦後一大ブームとなります。戦後の初代東大総長は南原繁、続いて矢内原忠雄と、無教会出身者を就任させて、新生「東京帝大」は戦前からの権威付けに成功します。(岩波文化も後押しします。)

無教会主義、特に、塚本虎二を中心としたグループは、「教会の外に救いあり」として、カトリック・プロテスタントを問わず、総ての教会に挑戦します。

以上が、敗戦後のプロテスタントの歴史を、私なりの理解で略述しましたが、問題は、無教会主義は「メイド・イン・ジャパン」なキリスト教であり、「かなり異端臭い」のではないかという疑問です。
内村鑑三が主張した無教会(行くべき教会が無い)と塚本虎二の無教会主義は似て非なるものと思います。
しかし、一世を風靡した無教会主義が今や「風前の灯」であることを対岸の火事とは思えません。カトリック・プロテスタントを問わず、日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから、この「ご相談」は先生にとっては理解不能のような気もします。

しかし、日本の戦後のプロテスタントは、無教会主義と向き合い、清算すべきものを清算しないのであれば、いずれ絶滅危惧種に確実にリストアップされることになると思います。

私も「天の風」に吹かれてみたいものです。

655sekko:2013/06/21(金) 08:15:40
グラさま
興味深いお話をありがとうございました。

>日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

そんな指摘があるのですか…

でも、第二次大戦後の伝統宗教の崩壊ぶりはフランスのような国でも同じで、資本主義の肥大が人々を即物的にしたのは「先進国」の共通した傾向だと思います。

そんな時代に無教会主義の果たした役割もあると思います。

結局、マイノリティ宗教に属するとどこでも共同体主義に陥りやすいということかもしれません。私はフランス人の仏教徒コミュニティと親しいのでよけいにそう思います。

私は、昨年出た中公文庫の矢内原忠雄さんの『キリスト教入門』に解説を書きました。グループとして、あるいは運動としては「風前の灯」なのかもしれませんが、また、教会の本当の意味から逸脱している点もありますが、矢内原さんたちが誠実にキリスト教を説明しようとした姿勢は今も充分通用する重さと深さをもっていると思いました。

日本に限らず、今の世界のキリスト者は、非キリスト者に何かを促したり納得させたりするというのではなく、自分の生き方によって、「人となった神を通して、人は人を愛することができる」というあかしをしていくのがいいのではないでしょうか。

その意味で、

>竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから

という印象をもっていただいているのは嬉しいです。

「キリスト教信者っていろいろ不自由なんだ」などという印象などもちたくないしもたせたくもないですから。

トラウマのないところでキリスト教にかかわった私はその立場を生かしていきたいと思っています。

ゲラさまもどうか時々は視点をずらせてリラックスしてください。

「天の風」って、吹いてますよ。

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656グラ(愛犬の名称):2013/06/23(日) 08:26:08
矢内原忠雄
矢内原忠雄の「キリスト教入門」を手に取らせていただきました。先日の竹下先生へのメールは釈迦に説法どころではなく、『無知の恥!』も度を超しておりました。大変、失礼いたしました。

私事ではありますが、私が矢内原忠雄を知ったのは、私に同じ教会内の女性を紹介し、結婚へと導き、結婚式の際には仲人までしてくれた、教会の長老格の役員を通してでした。その意味では、彼は今の私たち家族の土台を作ってくれた方であります。その彼は、1937年(昭和12年)12月2日の東大を辞する矢内原忠雄の最終講義に出席しており、その時の様子を語ってくれております。特に、矢内原の最後の言葉、「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」との言葉は脳裏に焼きついたと語りました。この彼は、その後、学徒出陣します。彼は学生時代、全日本での剣道での優勝やら、ヒトラーとの謁見、賀川豊彦との出会いがあったようです。彼は仏印に従軍し、傷病兵を置き去りに撤退しようとする上官たちを縛り上げたため、叛乱罪、要凶器上官殺害未遂で軍法会議で死刑の宣告を受けましたが、敗戦により9月に釈放されたという波乱万丈の持ち主です。彼は1984年に召天しますが、葬儀は彼の遺言で「凱旋式」として執り行いました。敗軍の将校が天に凱旋するというのが、彼の信仰でした。
彼にとって矢内原忠雄は福音の証人、人生の教師、信仰の導師であったと思います。彼の死後、彼の蔵書から矢内原の畏友で、矢内原が編集した藤井武全集10巻は、今、私の本箱にあります。
私たちのグループは、その彼を記念して、「凱旋」という私家本を発刊いたしました。

竹下先生が解説でお書きになっている通り、「だからこそ、敗戦の後で、『民主主義』を採用しても実は昔から何一つ変わらず(原文は代わらず)、経済の繁栄に目をくらまされて実存的な弱さの手当てを怠ってきた結果、希望や目標を失って漂流するに至った二十一世紀の日本において、矢内原の言葉が貴重な証言であり続けるのだ。」は、私にとっても「クレドー」となり得ております。

657sekko:2013/06/23(日) 23:50:33
グラさま
とんでもありません、お話はとても参考になりました。

仲人の方がヒトラーと謁見してどういう感想を抱いたのか、何をヒトラーと話したのか、興味津々です。

藤井武さんというのもすごい方ですね。

日本のような国で何につけてマジョリティの側にいる人は空気にのまれて思考停止に陥りがちですから、「日本のクリスチャン」の体験する葛藤は精神を強靭にして貴重ですね。

しかもその中で共同体主義への誘惑を斥けて真の「普遍性」に到達した人々はすばらしいと思います。

矢内原本の解説、短いものなのに変換ミス(「変わらず」を「代わらず」)があったのに気づきませんでした。ご訂正ありがとうございました。

お話からグラさまが男性だと知りました。なんとなく同世代の女性をイメージして書いてました。グラって、犬の名にしても珍しいのでは? 奥さまや愛犬グラちゃんによろしく。(グラちゃんのイメージは柴犬。これも違っているかもですが)

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658ウラヌス:2013/06/24(月) 07:44:38
最近のポストモダン
昨日は詳しい回答をありがとうございました。また質問してよろしいでしょうか?フランスではフーコーやドゥルーズ、ガタリ、デリダ、リオタールといった思想家が20世紀後半に現れて、日本にも影響を与えましたが、彼ら以降フランスではポストモダンの思想はどうなったのでしょうか?私が知る範囲ではバディウとかナンシーが今も現役のようですけど、特にどういう人がポストモダンの今現在の中心なのでしょうか?それと日本では80年代から90年代にかけて、ポストモダンがもてはやされましたが、最近はロールズのような英米系のリベラリズムも影響が強まっているように思われます。フランスではポストモダンの思想はどの程度評価されているのでしょうか?かつて日本でよく読まれたサルトルやフランクフルト学派のアドルノは本国では極左とされ、批判も多かったと聞きました。ポストモダンもフランスでは案外批判が多かったりするのでしょうか?特にソーカル事件以降はどうなったのでしょうか?

659sekko:2013/06/24(月) 16:08:24
これは自分で調べてください
ウラヌスさん、申しわけないですがこういうことはまず自分で調べてください。上のタイトルに説明を加えたように、一般的情報をレジュメして答える場所ではありません。よほど時間があってちょうどそのこと考えていた、というような場合は答えます。お書きになったようなことのキイワードをフランス語でフランスのgooglなどに打ち込めばいくらでも情報は出てきます。フランス語がおできになるのですから今はやり方次第で良質の情報もいくらでも手に入ります。その上で、「ここではこれについてこう言われてあそこではこう言われているがじぶんはこう思うのだが…」というようなピンポイントの疑問が出てきたらまた寄ってみてください。(この掲示板の過去にもポストモダンについての話題はあったように記憶しています。暇があれば検索してください。)

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660ウラヌス:2013/06/24(月) 16:59:01
わかりました
承知しました。では今後は一般的なことは避けます。

661グラ(愛犬の名称):2013/06/25(火) 21:55:36
西洋近代理念
グラはトイプードルで、娘が連れてきましたが、その娘も結婚のため、グラを置いて引っ越して行きました。
十日ほど前のことです。別れる時は、グラを抱き締めて、娘は大泣きしました。私とってグラは、娘が置いて行った「コ・コ・ロ」と思い、<ネコっ可愛がり>しますので、家内から「バ〜カ」と言われている今日この頃です。

竹下先生の「キリスト教の真実」を再読しました。
矢内原忠雄の本で、キリスト教の入門書が文庫サイズというのは、私の中では「想定外」でありましたので、敷居の高いキリスト教も、それも無教会関係の本も、「ここまで来たか」という驚きでありました。
それで、改めて、「キリスト教の真実」を再読しました。
佐藤優氏の「はじめての宗教論 右巻・左巻」あたりから、「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎氏・大澤真幸氏共著と、キリスト教界以外からの積極的なアプローチを、それこそ不思議なモノを見るような感覚で眺めておりました。その線上で「キリスト教の真実」を読みましたが読みやすかったですし、「腑に落ちました!」その感覚がなぜだろうと思い、再読しました。

竹下先生は、ISOをご存知ですか。国際標準化機構のことです。私は、ISO9001の品質管理システムの統括管理責任者(社長の代行)の経験があります。非上場企業でしたが、資本金約5億円、社員はアルバイトまで入れると約1千名の規模で、新規導入の責任を持たされました。
戦後のQC(品質管理)運動はアメリカから持ち込まれますが、中途半端に終わります。ISO9001はこのQC運動をまさに普遍化したものです。
企業がISO導入に積極的になるのは公共事業の入札条件になったからです。
ISOの原理的なことの説明は省きますが、導入時は、文書化が面倒臭いとか、作業手順は気合だとか、それはそれはすごい抵抗に遭いました。しかし、標準化がされると、「言った言わない」の責任の曖昧さがなくなったばかりか、利益も大幅な改善をみて、期末賞与まで支給されることになりました。
ISOは、P(計画)D(実行)C(評価)A(改善)のサイクルを通して、継続的な改善を実施する「運動」です。

竹下先生があとがきでお書きになっている、「『近代理念』とは、『受容』して『順応』し、『停止』や『惰性』に至れるような着地点ではない。それは、たえず『自己定義の統合』に向かって前進し続けることを課された『運動』なのである。」(P275)に符号しております。
ちなみに、神学をまじめに学んでいる牧師は、このISOの原理は理解できるようです。
ISOは、中小企業を中心とした草の根運動として定着しました。
普遍化の意味を生活レベルで理解できる初めてのツールになったと思います。
その意味でも、「キリスト教の真実」は、他のキリスト教界以外からの積極的なアプローチ「本」とは、一線を画していると思います。

662sekko:2013/06/26(水) 06:07:05
トイプードルでしたか
グラさまの思い入れのようなものからなんとなく健気な柴犬を想像したのですが、健気なのはグラさんの方だったのですね。

子供の置いていった犬や猫を世話し続ける親ってすごく多いですね。子供たちってひょっとして、親元から羽ばたくために、ほんとに「こころ」の一部を残してあげようとして、無意識にペットを持ち込むのかもしれません。ペットって、永遠のかわいい二−トですよね。

ISOはもちろん知っていますよ。日本での受容がそういう具合になっていったということは知りませんでしたが、なるほど普遍主義が文化を超えてこういう風に機能していったといういい例の一つですね。有意義なお仕事をなさいましたね。

先ほど別の読者の方にForum3でお答えしたのですが、『キリスト教の真実』と『戦士ジャンヌ・ダルク…』は私の中では実は一続きの本なのです。

以前『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)、『聖女の条件』(中央公論新社)、『アメリカにnoと言える国』(文春新書)という3冊で、ユニヴァーサリズムの擁護の路線をはっきり意識して始めました。

何を書いても、形を変えてはいますが、どうすれば、弱者を排除することのない世界に近づけるかという模索を続けていることには変わりはありません。

これからの予定はユダ論とフリーメイスン論とナポレオン論ですが、いつも同じ風を感じ続けて航行していくはずです。お祈りください。

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663グラ(愛犬の名称):2013/06/29(土) 06:08:07
「聖母マリア」
聖書での表記も、イエスの母については、マリアとマリヤに分かれといるように、振り返ってみますと、プロテスタントの、それも福音派と呼ばれるキリスト教原理主義では、マリアの生涯、例えば、15歳でイエスを生み、多分、72歳頃に「被昇天」したなどということは、聖書研究でもその対象にすらなりません。

しかし、イエスの十字架は、神学的にも、天と地を決定的に隔てる出来事であると同時に、天と地を結び合わせ、救済する真理となります。そのイエスの生涯に寄り添い、様々な出来事を「心に納めて、思いを巡らし、(ルカ2:19)、心に留めて(ルカ2:51)」、と記すことで、マリアがイエスの生涯を、その真実の姿を十分に理解できないながらも、心に刻むことを、福音記者ルカは強調します。

竹下先生の「聖母マリア」を読むことで、マリアの生涯とその後の民間信仰の展開を通して、私自身の信仰の在り方にリアリティーを齎しました。
ヨハネの福音書によりますと、マリアは、十字架の足元に留まっております。マリアは、自分が産んだ子を罪人として死刑に処せられる場面に立ち会っているということです。母マリアは、母である自分よりも先に死ぬ「親不孝」の場面に無力な姿を晒しています。さらに、十字架上のイエスからは、「女の方」と呼ばれます。

実は、私は教会の礼拝で、時々、信徒説教者として、牧師たちの「検閲」を受けた説教原稿をもとに礼拝説教をします。「検閲」が通れば、7月21日の礼拝で、先ほどの聖書箇所も含め、イエスが、なぜ「女の方」と呼んだのか、これは同じヨハネの福音書のカナの婚礼での奇跡でも、「女の方」と母マリアが呼ばれることと関連付けて、説教をする予定でおります。

とにかく、竹下先生の「聖母マリア」からも大きな刺激を受けて、聖書の読み方が変わったことをお伝えしたかったのです。
わたし的には、依然として、思弁的であり、敬虔主義的でありますが、日本のプロテスタントの教会が絶滅危惧種もしくはガラパゴス化から抜け出す努力をしたいと考えております。

これと関連して、竹下先生にお尋ねしたいことがあったのですが、躊躇しております。
カール・バルトの神学の出発点となった出来事に、「ブルームハルトの体験」があります。この体験については、わたし的には、結局、思弁的、敬虔主義的な理解に留まっているのではないかという疑問が、最近、湧いてきております。これも、竹下先生の本を読むことで、ヨーロッパのキリスト教文化の伝統を踏まえて、「ブルームハルトの体験」を理解しないと、表面的な理解に終わっていたのではないかという反省を持ち始めているからです
この「ブルームハルトの体験」は、
「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」 井上良雄著 1982年3月 第一版第一刷発行 新教出版社
に、詳しく記載されておりますが、いずれにしましても、躊躇しております。

664sekko:2013/06/30(日) 05:11:23
ブルームハルトの体験
ブルームハルトの体験って、息子の方の1896年10月の出来事ですか、それともおとうさんの方の悪魔祓いの話ですか?

私にとってブルームハウトというのはキリスト教社会主義が行き過ぎて社会党から議員になってしまった人、バルトが評価したように「宗教」という言葉のかわりに「神の国」を語っていた終末論的な人というものなのですが、グラさまにとって問題となっているのはどういうことなのでしょう。(彼についての日本語の本は読んだことがありません)

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665グラ(愛犬の名称):2013/07/02(火) 18:35:27
「父ブルームハルトのこと」
竹下先生
所謂、「悪魔祓い」のことです。
場所は、シュトゥットガルトから鉄道で2時間、ヘルマン・ヘッセの故郷カルフの町から東北に向かって8キロほどのメットリンゲン村。恐らく、ヒルデガルトのビンゲンとも約々二百キロ圏内かと思われます。

この「悪魔祓い」は、映画エクソシストのような内容で、ゴットリービン・ディトゥス(1815年生まれ)という娘の二年以上続いていた憑依状態のなか、1843年12月のクリスマスの期間に決定的な出来事が起きます。ブルームハルトのヴィテンベルクの宗務局への「報告書」によりますと、「娘は頭と上半身を、椅子の背にのけぞらせていたが、人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ。』と、吼えるように叫んだ。この言葉は、それを聞いた限りの人々に理解され、忘れることのできない印象を与えた。」と記されております。

ブルームハルトにとって、この「悪魔祓い」についての理解は、キリスト教教義のいう「恵みの勝利」などではなく、さらに、一つの原理とそれに対立する別の原理の戦いというものではなく、活きた人格的な神とそれに逆らうやはり人格的な暗黒の力とのつばぜり合いの戦いであったということです。この戦いは、「模擬戦」などではなく、事実粗野なまでに「肉薄戦」であったということです。

バルトは、教会教義学で、「イエスは勝利者だ」という節を設け、「この言葉は、当時においても新しい言葉であり、そのような言葉として、当時もそしてその後長い間、孤独な言葉であり続けた。」と記します。

私は、ここでバルト神学を説明する能力もありませんが、しかし、この「悪魔祓い」事件は、ヨーロッパの歴史おいては、竹下先生の「聖者の宇宙」=「聖者システムの歴史と実態と意味」(P12)の一齣であるようにも思えます。
ブルームハルト父子・バルトは、信仰覚醒・教会覚醒に進みますが、カトリック的な理解、ビンゲンのヒルデガルトをブルームハルトも知っていたかも?などと想像しております。

竹下先生にどのように説明しようか、右顧左眄してましたら、
井上良雄著 「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」の一節に、
ブルームハルトが東方教会的だということを言うのは、バルトだけではない。エルンスト・ガウグラ-は、そのブルームハルト論の中に、「あるロシアの神学者」が、ブルームハルトの書いたものを読んで、「父ブルームハルトは、私にはプロテスタントの『長老』のように思える」と言ったというエピソードを伝えている。
と記しておりました。
この長老の注釈として、
「ロシア語で『スターレッツ』は、年老いた人の意。ロシア正教会における宗教的指導者、修道士であるが、「長老」というのが、教会内の階層的な職位として位置付けられているわけではない。霊的な賜物によって、権威を持ち、若い修道士たちの訓練に当たった。「長老」は、東方教会の歴史において古くからあったが、十八世紀の後半から、ロシアの修道生活の中で大きな役割を持つようになった。平信徒たちは、その苦悩を癒してもらうために、その周囲に集まった。われわれには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれたゾシマ長老の姿によって親しい。」
とありました。

竹下先生には、プロテスタントの視点での、この「ブルームハルト的なもの」を、聖者の宇宙的な視点から意見をいただこうかなと思っておりました。といいますのは、ブルームハルトが「肉薄戦」を闘った人間の現実は、キリスト教会全体の歴史での戦いでもあったと思います。
少なくとも、ブルームハルトの戦いは、聖者の宇宙の一齣として、理解される必要があると思われます。

とりとめのない内容になってしまいましたの、無視してください。

竹下先生の本は、プロテスタント側からもアプローチしなくてはならない本だということを伝えたかったのですが…。

666グラ(愛犬の名称):2014/04/17(木) 11:54:08
「ユダ」を読ませていただきました
竹下先生

早速、「ユダ」を読ませていただきました。
時機に適った出版であったと、個人的には感じております。
私は、プロテスタントの所謂福音派に身を置く者ですが、「福音とは何か」という根本的な理解にゆらぎが生じた中に生きている者でもあります。

福音は、救いの歴史だけでは捉えきれないという反省が、教会を変え始めております。
私は、この教会の反省は、正しいものと理解しております。福音は救いだけではなく、救いを包含する、神の歴史全体を理解する必要があります。

ユダの両義性もまたそのように理解する必要があるように思われます。
森有正先生が、「アブラハムの生涯」という講演集で触れておりましたが、創世記15章12節、「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(新改訳聖書の訳ですが)アブラムへの祝福に先立つところの「暗黒の恐怖」は、何であったのでしょう。

ユダという表現では、日本での作品は、大下英治の「十三人のユダ」しか、私は知りません。三越百貨店を私物化した、岡田茂と竹久みちを題材にした作品です。この作品でも、「一人目のユダ」とか、「ユダは誰だ」という章もあります。ユダを裏切りの象徴として使用しておりますが、結局、公器である企業を私物化するという視点も「ユダ」かもしれません。

ユダを、歴史的に、文化的に俯瞰し、調理する、竹下先生の凄みには、相変わらず脱帽です。
大切にしたい、ご本であります。ありがとうございました。

667sekko:2014/04/18(金) 00:42:43
グラさま、ありがとうございます。
ご感想をいただいて嬉しいです。直接の知り合い以外からの最初の感想でした。

サイトの著作紹介のコメントもお読みください。

『十三人のユダ』のことは知りませんでした。

このタイトルの選び方とインパクトにはいろいろなものを感じさせられます。

今日、進化生物学者の書いた『「先送り」は生物学的に正しい』(宮竹貴久)という本を読んだのですが、とにかく生き残るためには生物は死んだふり、擬態、パラサイト、なんでも実践するというのを見て、「裏切り」も含めて、「十三人のユダ」のとった行動は、きっとそれぞれの生存戦略だったということなのだろう、と想像します。

アブラムの「暗黒の恐怖」についても考えさせられます。

ありがとうございました。

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668エトワール:2014/04/26(土) 07:08:29
天使
745年に第91代ローマ教皇ザカリアスは教会会議においてウリエル、ラグエルなどの天使を堕天使と認定し、ラグエルを「聖人の名を騙る悪魔」と非難したといわれています。民間において過熱していた天使信仰を危険視した教会がそれを沈静化するために行った政治的処分で、知名度の高かったウリエル、ラグエルなどの天使がその見せしめとなったというものですが、この年に公会議が開催された記録はなく、その真相は、邦訳されている文献では、あまりよく分かりません。ウリエル、ラグエルらの堕天使事件について、どのようにお考えでしょうか。

669sekko:2014/04/26(土) 23:49:19
エトワールさま
ミカエル、ガブリエル、ラファエルの3人以外の大天使は基本的には名前が啓示されていないということですね。ウリエルら4人はエノク書など旧約外典に出てくるわけで最初から要注意ではありました。

Adelbertという人がこれら外典の天使たちについて詳細に書き出したので、聖ボニファチウスが教皇ザカリアスに進言して745年にこの人を異端として破門しました。Uriel, Raguel, Tubuel, Inéas, Tubuas, Saloac, Simielへの祈りを勝手に作ったということで、これらの天使の集まりは悪魔の集まりだと言われたようです。

(Françoise Bouchard, "Les grands miracles de la dévotion", Ed. Résiac, 1996.)

"Dictionnaire portatif des Conciles" (Paris, Veuve Didot, 1767)によれば 745年10
月25日にローマで、7人の司教、17人Romeの司祭と聖職者が教皇のもとに集まって、Adelbert と Clement du Sacerdoceを異端として前者の著作を焚書したそうです。 正典に出てこない名前を勝手につけてはいけないということです。このことは789年のアーヘンの公会議でも確認されました。

でもその前に787年の第2ニカイア公会議で絵画や彫刻で天使を表現することが許可されたので、天使の図像そのものは多くなりました。その時に参考にされたのは、翼を備えたギリシャの勝利の女神ニケの姿だったりしています。

もっとも、アウグスティヌスが言ったように、天使とは神に仕える「機能」のことであり、その実態は「霊」であり、名前をつけて偶像化するのはまずいということです。

でもその後も、連祷に出てきたり棺に名が彫られたり、7人の大天使をまとめて守護を祈るのが流行ったり、イエズス会士がフィリピンにまで7人の名を広めて女子修道院の名になったり、4人の大天使の名も結局、復活継承されてきました。

人はきっと天使に祈ったり頼ったりするときに「名前」を呼ぶ必要があるのかもしれません。そしてその名前にはちゃんと仕様書や取扱説明書もついていてほしいのが人情なのかもしれませんね。

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670kei:2014/05/08(木) 02:12:04
「キリスト教の真実」について
竹下様
最近になり、ファンになった者です。
遅まきながらではありますが、「キリスト教の真実」という著書につき感想を述べたく存じます。
まず、大きな問題意識に満ちた、とても新書には収まらない労作と存じます。
第1章だけでさえも、一般の日本人にとっては、なかなか常識とはかけ離れたことかと。
拙は大筋において貴方の考え方に同意します。
本書は、いわゆる西側先進国と言われる諸国が、キリスト教の考え方を、これまでの歴史において、「普遍主義」に一般化、脱宗教化してきた過程であり、果たしてそれを非キリスト教世界にまで包摂したグローバル世界化できるのかが問われている、という趣旨、あるいは問題意識かと存じます。
今拙が考えているのは、なかなか困難なことかと。
さらに言えば、非キリスト教世界との接合の中で、キリスト教的な考え方までネグレクトされ、旧約的、あるいはローマ的な考え方が復活してきているのではないか、とも思われます。
貴方は第7章で、「十字架上のイエス」の形象が心の中に刻まれていることを述べておられます。
拙は、シリアという地域が非常に好きなので、シリア戦争に心を痛めてウォッチングしていましたが、政府、反政府、あるいはそれをとりまくイスラム諸国さえ、駆け引き的で、暴力に対しての絶対的嫌悪という言説はなかなか見られませんでした。
また悪いことに、さらにそれをとりまくアメリカ、フランス、イギリスについても、実に形式主義的であり、言葉とはうらはらに、国家主義的でとうてい和平を実現するとは思えぬものだと思っています。
さらに現在進行中のウクライナでもそのようなことが見られると思います。
貴方の他の著作を拝読いたしますと、十字架上のキリストは、権力者の側ではなく、民衆、フォークロアの中にこそ、よりビビッドに映しこまれていたように感じております。
権力者の側ではなく、民衆の中から十字架上のキリストを権威として、その理想を叫ぶ者がでてきたのではないのでしょうか。
双方の側にそのような共通の苦難の形象がないところではなかなか歯止めがかかりにくいことを感じております。
救いとしては、現在カトリックが生命力を取り返してきつつあり、平和主義の立場から強く働きかけているところだと思われます。
なかなか思ったように書けませんが、まずはここまで。
乱文深謝。

671sekko:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、

確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。

日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。

それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。

今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。

他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。

「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。

絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/page1.html

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672kei:2014/05/17(土) 14:38:35
ジャンヌ・ダルク炎上と復活
竹下様、「戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活」拝読いたしました。
ジャンヌ・ダルクにつきましては、実は講談社新書で貴著書に初めて接したのです。
ふとリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観たところ、裁判の理路整然としたジャンヌの論理に触れて、不思議に思い、いくつか読みすすんだものです。
これまでに貴著他、岩波新書、ペヌルー「ジャンヌ・ダルク」、集英社新書「英仏百年戦争」また物語としては映画バーグマン主演「ジャンヌ・ダーク」「火刑台のジャンヌダルク」劇「ひばり」を見ております。
本書は、3つのテーマで、ジャンヌ・ダルクをめぐる歴史的事象について詳らかに述べられています。それは終章に向かう巡礼のようでもありました。
終章において、ジャンヌ・ダルクと聖母マリアが比較されております。
お告げの2つのタイプと書かれていますが、ある意味同じことのように思えます。
ジャンヌ・ダルクの場合も受容であったでしょうし、彼女は自分を声の器と考えていたでしょう。そしてその受容は聖母マリアを心に留めたことでしょう。
また聖母マリアの場合も、拙は「Mary of Nazareth」の影響を受けておりますが、老シメオンに「剣で貫かれる」と予言されたように、その道は苦難であったでしょうし、最後までその言葉の通り自分で歩みぬかれたと今考えております。
「Mary of Nazareth」では、エジプトからの帰還、主イエスに親族と共におしかけたとき、受難のときにおいて、その言葉が試され、聖母ご自分でその都度足を踏み出したように描かれておりますが、拙は聖母マリアのこれまでの違和感がそれで解消されたと感じました。
ジャンヌ・ダルクの生涯を考える場合、受難も通して考えねばならないと思われます。
「フランスを救え」という声はランスではなく、ルーアンまでも含めて貫徹されていたのではないでしょうか?
ペヌルーの著書、「英仏百年戦争」共にジャンヌの処刑以降にノルマンディーでの反乱が起きていることが述べられています。「英仏百年戦争」などは、ジャンヌの戦闘の意義はあまり軍事的に評価されていませんが、死後にこそナショナリズムの「否定できない潮流をつくる」と面白いことが述べられています。
さらに帰天されてからは、今に至るまでフランスを救い続けていると考えることもできると存じます。
考えてみれば、ジャンヌは、諸勢力すべてに裏切られましたが、そのことでかえってどの勢力にも属さない「民衆の聖女」となり、どの勢力にとっても負い目を持ち、掲げねばならない存在になってしまったのかもしれないと思えます。
リュック・ベッソンの映画は「聖戦」という新たな薪を投げ込むこととなりました。
イラクからウクライナに至るまで、現代の「聖戦」は双方の側に双方の側のための殉教者を出しており、それは交わることがありません。
ジャンヌのようにすべての側に負い目をつくる殉教者がない限り終わることがないのでしょうか、イエス・キリストのように?
ともあれ、日本の中世内戦の天下統一は武将の上からの英雄は居ますが、ジャンヌのような下からの英雄はいません。西欧他国でもここまでの存在はないように思えます。それは単にプロパガンダを超えたものがあるのではないでしょうか?

673sekko:2014/05/18(日) 07:45:21
ジャンヌ・ダルクと聖母マリア
興味深いコメントをありがとうございます。

ジャンヌ・ダルクが圧倒的に意味があると思うのは、あの本にも書きましたように、異端審問と復権裁判によって徹底的にその肉声から生い立ちその他に至るまでの記録が残されて発掘されているところです。

それに比べて、大きな声では言いませんが、聖母がイエスを神殿に連れて行った時にシメオンが言った言葉など、誰が聞いていたのか、書き留めたのか、マリアが自分で言ったのか、「記録」の実証性からいうと、ジャンヌ・ダルクとは全く別の次元のことだと思ってしまいます。もちろんルカに出てくる聖母にまつわるいろいろな情景がその後のキリスト教の信仰や文化において大きな役割を果たしたことは確かなことだし看過できないことですが。

ジャンヌに対してすべての人が一種の「負い目」を持っているという見方はおもしろいですね。確かにその負い目はナザレのイエスへの負い目みたいなものと共通しているのでしょう。

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674kei:2014/05/22(木) 00:20:24
EUとジャンヌ
CNNでEU議会選挙のニュースがありましたが、ル・ペンさんがジャンヌの看板の前で演説していました。
ジャンヌは今反EUの旗のもとに居るのでしょうか?反論はどうなっているのでしょうか。ナショナリズムが曲がり角の時期にはジャンヌももっと普遍的な読み方をしていく必要があるのかもしれないと思います。
詳細な記録が明らかになり、ジャンヌの明晰で敬虔な人物像が明らかになったと思います。
ジャンヌは決して狂信的ではなかったと存じます(そして今度は傀儡論が出てきたようですが)
デリダが正義論の中で「あらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくともファントムとして、しかしながら自らの本質をなすファントムとして受け入れ、住まわせ続ける」と、まるでジャンヌのようなことを述べています。(法政大学出版局「法の力」)
ジャンヌは、まだ自分にもファントムとしてしか見えない正義を、自分の十字架を背負い、畏れおののきて、つくっていったのだと思えます。
そこが狂信的殉教戦士や現代の十字軍と決定的に違うところだと思います。
ジャンヌの名を借りる者は、ジャンヌの孤独な祈りと戦いを欺かないようにしてほしいものだと思います。
復活されたイエスは、信じないトマスに、傷の中に手を入れさせました。我々はどこまで詳細な記録が欲しいのでしょうか。イエスは「どんと来い」と言っているようですが。
ユダを書かれて、まだ読むに至っておりませんが、トマスも書いてほしいような気持ちです。

675sekko:2014/05/24(土) 23:00:30
Keiさま
もともと5月はジャンヌ・ダルクの祝日があり、聖母マリア月でもあり(だから母の日があります)、ル・ペンに取り込まれやすい時期なのですが、娘の代に変わってからもっと利用している感じがします。

ジャンヌが自分でも決断不可能なものをそれでも本質的なものとして抱えていたというのは興味深い視点ですね。

信念に基づいて意志や希望や観測、予測をいくら掲げても、根本なところにある「不可知」を不可知として容認しなくては人は道を見失うのかもしれません。

聖トマスについては『聖者の宇宙』(中公文庫)の第5章で触れたことがあります。どの絵を見てもどきどきするシーンです。

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676グラ(愛犬の名称):2014/07/31(木) 10:42:02
B16の著作から
竹下先生

ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの「ナザレのイエス」を読みました。
「チェルノブイリ」が引用されており、それは福島と重なります。
福島原発事故は人災という評価を政府事故調もしております。
まるで、日本にはキリストの教会がないとB16から指摘されたようで、ショックですが、受け止めなくてはならないようです。
ヨーロッパのキリスト「教界」は、日本の教会(新旧ともですが)に対して厳しい視線なのでしょうか。

参考までに、B16の本からその箇所を一部引用させていただきます。
「ナザレのイエス」 (春秋社 2008年)  P52  里野泰昭訳
誘惑の場面の短い記述(マルコ1:13)において、マルコ福音書はアダムとの対比を強調します。それは、人間の苦難のドラマを苦しみ抜くことにあります。イエスは『野獣とともにおられ、天使が仕えていた』。荒野は楽園の対極ですが、和解と救いの地となります。創造に対する反抗と死の力であり、人間存在に対する脅威の具体的な姿である野獣は、楽園におけるように人間の友となります。イザヤがメシアの時として告知したあの平和の状態が現実となるのです。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏す』(イザヤ11:6)。罪が超克されたところ、人間の神との調和が実現されたところでは、創造は和解の状態に戻り、引き裂かれた世界は再び平和の場所となるのです。パウロは被造物のうめきについて語り、『被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます』(ローマ8:19)と言っています。西ヨーロッパのベネディクト会修道院の周りに生まれた平和な村落は創造のオアシスであり、神の子たちによる和解の世界を先取りするものの一つの例といえるのではないでしょうか。それとは逆に、チェルノブイリは神の不在の暗闇に閉じ込められた創造の衝撃的な表現ということができましょう。(下線・強調文字は原文にはありません。)


「ナザレのイエス」は2008年に出版されましたから、福島原発事故を知りません。
創造のオアシスに対比されるチェルノブイリは、政治体制をも含めた皮肉も含んでいるかもしれませんが、チェルノブイリは福島のことです。
そこには、キリスト者もキリストにある教会もないと言われているのも同然のような気がします。

私たち、日本のクリスチャンはそのような時代と場所で生きていることになります。

「ナザレのイエス」三巻本は、B16がドイツ人でもあるせいか、プロテスタントの私にとっても良書でありました。B16がチェルノブイリに触れていることを、竹下先生に、ご紹介しておこうと思ったことと、信仰の世界から日本を見て、暗澹としている一人の信徒がいることをお伝えしただけです。

677sekko:2014/07/31(木) 20:33:20
グラさまへ
ありがとうございます。

そう、B16(ベネディクト16世)は教皇庁のエコロジー路線を前面に押し出した画期的な人です。

彼が選ばれた時? Habemus papam ecologistum ! ≫というべきだったという人もいるくらいです。

今回フランシスコ教皇が登場したことで先進国保守派の中でのカトリックの位置が鮮明になってきました。

カトリックもプロテスタント福音派も、先進国では保守ブルジョワジーが力を持っていて、そこでは「キリスト教=倫理(特に結婚、性、同性愛、避妊、中絶、安楽死)」という枠にはめようとしてきました。

カトリックの社会活動、キリスト教本来の持つ拝金主義の否定などは、多くの保守的な人にとって「不都合」だからです。「キリスト教=ピューリタン的で性道徳にうるさいやつ」という矮小化は非キリスト教徒ばかりか、社会の上層にいる多くのキリスト者にとっても都合のいい落としどころでした。

だからこそ、先進国ではない南米出身で底辺の悲惨さと社会の矛盾をよく知っているフランシスコが教皇になって現代世界の格差構造を糾弾し、棄民状態になっているさまざまな人の救済というキリスト教本来の正論を唱え始めると、保守陣営は激しく動揺しているのです。

レーガンらと組んで共産圏と戦ったヨハネ=パウロ2世はまあ都合よかった部分もあるとして、後は同性愛結婚反対とか中絶反対とか言っていればいいので、それは時代遅れだとか、司祭の小児性愛はどうする、など黙殺したり批判したりしやすい部分です。

保守派の人間もそういう道徳だけを言っていれば「倫理的でキリスト教的」だという満足感や優越感を得られるというわけです。

そういう困難な状況の中で、B16は、左派から揶揄される倫理路線、右派から嫌悪される社会活動路線の両方を迂回した「エコロジー」路線を前面に出したのです。

これはすばらしいことでした。左派にも右派にも受け入れられたからです。

地球の環境問題をここまで悪化させたのはエネルギーをはじめとした大資本の利権構造ですから、エコロジーを訴えることは社会の貧困の根本問題をたたくことで左派的にもOK。

そして持続可能エネルギーの開発などの新事業は新しい利権の獲得や事業拡大の可能性もあるので右派にもOK。
政治家たちのイメージ戦略的にもクリーンでポイントが上がります。

フランスの貴族のカトリック保守派で、B16の呼びかけに応えて急進的なエコロジー活動家になった人も少なくありません。無視できない影の影響力やネットワークを持つ彼らにとって、中絶や避妊がどうとかという問題以外の大きな使命感とそれを発揮する場を与えた効果は絶大です。

B16は必ずしも、キリスト教のないところでより大きい罪が繰り広げられているとは言っていません。

彼が、2011/6/9、駐ヴァティカン新任大使にあいさつしたメッセージをお読みください。

これは「フクシマ3ヶ月後」であり、当然フクシマが念頭にあります。大使たちは別にカトリック国から来たわけではありません。日本語の訳を一つ見つけたのでぜひ読んでください。

http://www.paparatzinger.org/Soc.Culture/9.6.2011.Udienza_nv.ambasciatori.pdf

残念ながらあまりこなれていない訳なので分かりにくいかもしれませんが、

「神から自然のよき管理を任された人間がテクノロジーに支配されその奴隷になることはできない」と言い、

神の似姿である個々の人間よりも金やテクノロジーや権力が上に置かれている状況が人の実存的迷いと生の意味の喪失を招いたこと、

超越的なものとの関係を欠いた人と物のヴィジョンは人から大地のルーツを奪い、深いところでアイデンティティも失わせること、

などを語っています。

そして、人間の尊厳は、信教の違いによって変わるものではないこと、正義や平和の希求をリスペクトすべきであると言っています。

さらに、どこの国でも、教皇のこの指針のもとで働くものは各国の諸問題を傾聴するはずであるからどうぞ活用してください、みたいなことも言っています。

つまり、無責任な原発事故を起こす国は神が不在の国と言っているのではなく、神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない、どこの国でもキリスト者はそれを自覚して協力しなければならないと言っているわけです。

ですから、「チェルノブイリ‐フクシマ‐神なき闇」のような悲観的な見方をする必要はないですよ。

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678モトカー:2014/07/31(木) 21:46:46
カトリック反宗教改革とユダヤ思想の関わり
栗本慎一郎先生の『ユダヤがイスラムを生んだ』(光文社カッパブックス)の中で、カトリックの反宗教改革時代に、ユダヤ教の思想がカトリックの教義に流入した可能性があると触れられています。
この点につき、竹下先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

以下、その第三章からの引用です。
「サンタ・テレサは、十六世紀にルターの宗教改革に対抗して起こったスペインの反宗教改革、つまりカトリックを内側から新しいものに変えていこうとする動きの中心人物であると考えられてきました。そういう人物の父親が、じつはマラーノ、隠れユダヤ教徒であったことが、スペインの歴史家によって一九四〇年代に明らかにされたんです。ということは、カトリックのなかの新しい考え方がユダヤ神秘主義と非常に強く結びついているということになります。」

途中略

「サンタ・テレサの特異性は、女性であるということ、しかもユダヤ人の改宗者というバックグラウンドをもっているということにあります。そういう二重のマージナリティをかいくぐりながら、けっしてユダヤ教に帰ることをせず、キリスト教の枠組みを使って、どうやって神との対話を実現していけるのか。」

さらに...

「アンルブラードスとサンタ・テレサは、当時の反宗教改革的なスペインのカトリックの流れのなかで、非常に特異な位置を占めています。そこには改宗ユダヤという状況が流れ込んでいたからです。しかし、こうした系譜は、のちにはイエズス会やカルメル派というかたちで、スペインのカトリック布教活動のひとつの中心を築いていく流れにも影響を及ぼしてゆきます。実際サンタ・テレサは、カルメル修道会を改革して跣足カルメル会を興した中心人物でもありました。」

とあります。

これが真実であるならば、カトリックは最低3度は変質しているような気がします。

1.キリストの教えから、パウロの教え等のギリシャ哲学の影響
2.アウグスチヌス(=元マニ教徒)による古典的なカトリックの教義の定立
3.反宗教改革による、ユダヤ神秘主義の流入

1については、栗本先生の上に挙げた著作のほか、『イエスの王朝』(ジェイムズ・D・テイバー著、ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)というアメリカ人の書いた研究書、その他から、そう考えております。

いかがでしょうか?

679sekko:2014/07/31(木) 23:57:35
モトカーさまへ
まず、私のブログ記事からここへ来てくださった方に。

ブログに書いた当該記事はこの記事より二つ前のグラさんへの返事です。

以下モトカーさまへの返事です。

このような言説はあまり意味がないと思うのでスルーしてください。

陰謀論の一種のように、カトリックの有名聖女が実はユダヤ教の影響を受けていた、みたいな「面白いお話し」になっているのかもしれませんが、キリスト教はもともと旧約聖書を聖典にすることで「ユダヤ教」の影響を受けていますし、というより、もともとユダヤの聖典が成就したという形でキリスト教が成立しています。イスラムはその両者の影響を受けています。


アヴィラのテレサは私の好きな聖女で彼女について本格的な論考を書こうとアヴィラやトレドにも取材して準備していたのですが、クリスティ―ヴァに大作を書かれてしまったので仕切りなおそうと思ってそのままです。

テレサの父親は確かに改宗ユダヤ人の家庭に生まれて洗礼を受けた人で、その後ユダヤ教に戻って、さらに1500年(テレサの生まれる12年前)にカトリックに改宗しなおした人です。で、聖人伝や殉教者物語が好きで、幼い子供たちに読み聞かせていたらしく、テレサは大いに影響を受けてイスラムの地で殉教したがっていました。まだイベリア半島にイスラムの足跡が濃い時代です。

しかしそれよりずっと前、改宗しなかったユダヤ人がコンキスタドールで1492年にスペインから完全に追われた前後に、イベリア半島のユダヤ人コミュニティはルネサンスのカトリック世界に広がり、15世紀のルネサンス全盛期には、ユダヤのカバラに影響を受けたキリスト教カバラが生まれたり、プラトン主義、ヘルメス文書のグノーシス主義、魔術、錬金術などがハイブリッドな文化を形成していました。

まあそのような頽廃ぶりが16世紀の宗教改革の原因の一つになるわけです。

この辺の事情は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)で少し触れました。

ですから、聖女テレサの神秘主義はもとよりハイブリッドなものではありますが、それを知性でねじ伏せる「知的腕力」みたいなものに私は惹かれます。

来年キリスト教の解説みたいなものを新書で出す予定なので、モトカーさんの質問も念頭に置いて書いていきます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

680モトカー:2014/08/01(金) 21:05:38
ユダヤ
竹下先生...
ご丁寧にお返事をいただき、誠にありがとうございます。

わたくしは、キリスト教とユダヤ教の関連につきましては個人的に昔から興味があり、
いろいろと研究書を読んだり、欧米人の著作にも触れて参りました。
私は、キリスト教はユダヤ教をその起源としつつも、内容は正反対だと考えます。
それは、ひとことでいうと、
旧約聖書の神は、”正義の神”であるのに対し、新約の神は、”愛の神”という点です。

”正義”と”愛”とは人類の二大行動原理だと思いますが、
この2つはまったくの正反対の考え方・価値観であります。

したがって、キリスト教はユダヤ教をその淵源としながらも、
内容は180度違うものであると言えるのではないでしょうか?

旧約中心にユダヤの思想が、今年の5月のNHK教育番組の「100分de名著」で取り上げられていましたが、
その内容もふまえ、自分の考えを加味して申し上げますと、
旧約時代、ユダヤ人は迫害の中で、”正義”を追い求めました。
そして、ユダヤ人は自分たちが正義に反することをしているから(=堕落)、
神は救ってくれないんだ、と考えるのが主流でした。

しかし、イエスは、そうではないんだと主張したのです。
「神に対するまことの信仰があるならば、すでに救われているんだ」と。

律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのです。
というのがまさにそれを示す典型的な言葉です。律法=正義だと思うので。

もちろん、旧約にも”神の愛”は語られていますが、正義の傾向の方が強いです。
そして、”正義”の傾向が強いのには、ユダヤ人が古代エジプトにいたことと関係があるのではないか、
と思っています。

古代エジプトの神である「マアト」の思想です。
人は死後、マアトに心臓をはかりにかけられ、重さを調べられて裁かれるのだという...

一般論的にはユダヤ教の中におけるゾロアスター教思想に言及される場合も多いですが、
古代エジプトの、このマアトの思想と、イクナートンによる一神教を目指した宗教改革とに、
ユダヤ教の思想の核があり、それが長い時間をかけて徐々に形成されていったのがユダヤ教であり...

そのユダヤ教にコペルニクス的転回を加えたのがイエスだったのではないか。

これが私の考えです。

いかがでしょうか?

681sekko:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。

まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。

でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。

たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。

「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

これを読んで私は感動しました。

前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。

「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

の部分です。

今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。

イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。

ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。

兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。

互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。

ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。

今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。

聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。

考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。

裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。

http://setukotakeshita.com/

682モトカー:2014/08/02(土) 09:15:38
旧約聖書
再度のご丁寧なご返答をたまわり、誠にありがとうございます。

「旧約聖書」ですが、私は、加藤隆氏の著作「旧約聖書の誕生」の説が的を得ているのではないかと思っております。

氏はヨーロッパにも留学し、ヨーロッパ人に混じって議論も行った経験もある、ということですが、
みずからの知識とヨーロッパ人とのディスカッションの中から生れたこの考えが真相に近いのではないかと思います。

氏の言説は、「旧約聖書」とは、アケメネス朝ペルシャ帝国が、ユダヤ人に自治を許す代わりに命じて作らせた、
一種の「自治法典」である、というものです。

古代にしては寛容だった同帝国は各民族に自治を許したが、統治上の要請から(=秩序の維持)、
そして、自分たちで規律させるために、ルールブックを作らせた、という仮定です。

その際、ルールだけでなく、民族の自己紹介も記載させたのだそうです。

そしてユダヤ人たちは、帝国の支配者からの命を受け、様々な不文律や慣行、そして語り継がれてきた民族の伝説などを
急いで文書にとりまとめて提出しただろう、というのだそうです。

この仮定の下では、旧約聖書の中にあるさまざまな矛盾も説明できます。

また、アブラハムやヨセフにまつわる物語は、民族の神話であり、「古事記」的なものだと思います。

なので、アブラハムやヨセフ、モーゼのあたりは、信仰的な要素と民話的な要素とが入り混じっており、
未分化で未完成的な説話的なものではないだろうか?、と思うわけです。

”宗教”としてユダヤ教が発達しはじめたのは、北王朝がアッシリアに滅ぼされ、南王朝にも危機が迫ってきて、
預言者たちが活動し始めてからではないでしょうか?

それ以前は、宗教と呼べるほどのものではなかったと考えます。

モーゼ五書と預言者たちの書では、明らかに、傾向が違うと思うのです。

ただ、ユダヤ人たちは、比較的安定したエジプトの富裕で強大な諸王朝と、
変転きわまりないメソポタミアの諸帝国とのはざまで苦労して生きながらえ、
その中から、”民族の処世術”ともいうべきものを学び取っていたのは間違いなく、
それが、アブラハムの流浪の物語から、ヨセフの人生の物語のあたりに結実している、
ということは言えるようには思えます。

いかがでしょうか?

683sekko:2014/08/02(土) 16:37:34
モトカーさま
ありがとうございます。

ここは諸説に関する私の感想を書く場所ではないのでこれで打ち切らせてください。

もっと適切な掲示板が他にあると思います。

あるいは、すでになさっているかもしれませんが、モトカーさんが諸説をまとめたりご意見を発表なさったりするサイトやブログを作られたほうが、有益なコメントも得られるのではないでしょうか。

個人的には、「真相は…ではないか」系言説は、陰謀論も含めて、テーマによっては読むのはいいですが、参入したくはないのでよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

684kei:2014/08/31(日) 03:46:12
弱い父ヨセフ
父ヨセフと初めて出会ったといえるのは、ジョルジュ・ラトゥールの「大工ヨセフ」を見たときのことでした。
幼いイエスの蝋燭の灯火で大工仕事に励む父。しかしその目はイエスに向けられず、悲しみをさえ湛えている。
息子の厳しい運命を知りながらも、黙々と自分の出来ることで支えるしかない父。
何か普遍的な父の姿を見た思いでした。

現代日本において、父と家族の姿は悲惨なものです。
子供を養うには特に教育費に大金がかかります。さらに教育環境を整えるためにもまた金がかかります。
父は競争に勝たざるを得ず、また息子にこの厳しい世の中で生きるための(競争を生き抜くための)修行を早期に課せざるを得なくなります。
そしてそこから多くの罪が生まれます。

社会を見渡しましても、族長たる父は、旧約の族長の如く、自分の民を守るために、他の国と張り合っていかねばならない。自国の利益、論理を主張しあい、いっこうに和解が訪れません。

2000年も前に父ヨセフの姿が記されたことは驚くべきことのように思えます。
ケイシャ・キャッスル=ヒューズ主演映画「マリア」も、どちらかというとヨセフの苦労が印象的な映画でしたが、やはりアメリカらしく家長としての父の姿でした。それよりも「Mary of Nazareth」のヨセフのほうが好ましく思えます。
崩壊しつつある悲劇的な家族の姿は毎日のようにTVのドラマネタとなっています。しかし最後を感動的に終わらせようとも、それは感情的に肯定された姿でしかありません。
世界一有名な不思議な聖家族の姿、父ヨセフの姿をもっと描いてほしいものだと思うものです。

現実は、子殺しをしようとするようなノアが描かれているようですが。

685グラ(愛犬の名称):2014/08/07(木) 21:52:37
安全と安心
エコロジーとキリスト教という枠組みについては、新たな可能性を感じます。

福島原発事故を含む、「災後」の混乱は、多岐にわたってしまいました。生活の基本にある、食べることでも食品表示偽装があり、教育の分野でも陰惨な事件が佐世保で起きてしまい、理化学研究所という大組織も30歳の女性の自爆テロの状態です(小保方さんには頑張ってもらいたいですが、笹井氏の自殺によってスキャンダルになってしまいました)。

「災後」の混乱の要因は、安全と安心の枠組みの喪失にあります。そもそも、福島原発事故を防ぐことが出来なかったのは、科学的な知見による実証がなかったことでした。原子力の平和利用というイデオロギーを支えたのは「安全神話」でしたが、しかし実はこれは「安心」神話でしかありませんでした。安全と安心の混同がありました。

エコロジ−は、科学的な知見に基づく、安全でなくてはなりません。
竹下先生に教えていただいた、「神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない」は、安心の基準になります。安心の形は多様です。

下記の文書は、2012年4月から、食品衛生法において、一般食品の基準値が、従来の暫定基準値500ベクレル/?から100ベクレル/?に引き下げられた時、この安全と安心の基準を明確に区別して、私が報道機関向けに準備したものです。安全と安心をどう区分けしたか参考にしてください。NHKをはじめテレビ各局の取材に対応する基本的な考え方が明示されております。

「弊社としましては、お客様の水産物に対する安全性、特に放射能汚染の関心の高さとデータの信頼性の確保の観点から、基準値以下であることを挙証できる水産物を取り扱うことを基本原則としまして、取り組ませていただきました。
従いまして、放射性セシウムが基準値以下であることを挙証できるシステムの構築を通して、お客さまに安全な水産物を提供させていただくことで、生産地と消費者を繋がせていただこうと努力してまいりました。
この間、大学の教授および食品分析の専門機関、放射能測定機の製造メーカーの方々と、水産物の安全を挙証できる仕組み作りの話し合いを重ねてまいりました。
この結果、水産物の安全性を、お客さまが納得される安心に結び付けるシステムを構築することで、生産地と消費者を繋がせていただくことといたしました。
大学をはじめとする関係機関と、新たに準備いたします、お客さまが納得される安心システムにつきましては、お客さまの信頼を確保するとともに、生産地の復興の一助を図る目的を持っております。この安心システムは、製品認証スキームに準拠しております。」

固有名詞を普通名詞に変更しており、また差し障りがある表現は一部修正しておりますが、安全と安心の基準と運用を理解していただけると思います。

686sekko:2014/08/11(月) 07:29:53
グラさまへ
なるほど、安全性をみなが納得できる安心に結びつけるシステムに構築する、というのはよい表現ですね。

「安全なき安心」は神話になりかねないわけで、安心はいわゆる「備えあれば憂いなし」というベースに立つべきですね。逆にいくら安全を確保しても、それを安心に結びつけなければ「不安」が安全を脅かすことになるかもしれません。

いろいろ応用して考えられそうです。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

687sekko:2014/08/11(月) 07:37:08
keiさまへ
私もラトゥールのヨセフは好きです。ヨセフには何となく夜なべ仕事が似合うなあと思います。でも確かに映像化は難しいですね。

私が最近家族について書いた記事の一部を引用します。

>>>他のすべての人間の営みと同じように、家族は固定された状態ではない。「家族愛」という言葉はしばしば家族のメンバーをそれぞれ決まった役割に縛り付ける圧力として使われることもある。また共通の敵に対して無条件で結束するようなナショナリズムのひな型のエネルギー源として使われることもある。理性や意思を封印するために「愛」が情動で包み込まれることもあるのだ。聖家族の「両親」は単純な生物的家族愛でごまかせることができない複雑な関係を乗り切った。彼らが自分たちのエゴの外から来る声にいつも耳を傾けたからだ。


やはり個々の人間だけで運営していくには限界があり、視界を広げる必要がありそうです。

http://setukotakeshita.com/

688kei:2014/08/11(月) 10:59:11
スポーツとキリスト教
最近ふとしたことから下記記事を目にしました
(小生サッカードイツ代表ファンです)

教会とスポーツ、ちょっと意外な関係
http://toyokeizai.net/articles/-/44522

スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

これは「キリスト教の真実」の具体的事例といえそうです

シリーズ
「ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないか」
http://toyokeizai.net/category/deutschland_sport

689sekko:2014/08/12(火) 00:38:42
kei さま
なるほど、キリスト教が「価値OS」になっているという比喩はおもしろいですね。

ドイツ人というかゲルマン人の感じってスポーツをやらせたら強そうです。

第二次大戦中フランスがドイツに占領されていた時、ナチスの若い軍人たちがみなスポーツマンで、身体能力に優れていたのでフランス人女性がまいってしまったという話を聞いたことがあります。そのせいで後からコラボと言われてリンチされたりしましたが、占領軍におもねったというより本気で惹かれたのかもしれないと思ったことでした。

でも、当時のドイツ本国では、女性は教会、子供、キッチンの3Kに閉じ込められていたのだから、(キリスト教?)価値とスポーツは男性に限られていたのかと疑いたくなります…

まあ、フランスでも体育会系のいじめとかはあまり聞きません。

ドイツと同じく年齢序列がなく、学校自体も飛び級も落第があるために年齢差ができるので、クラス内で身体能力を競うのは無理だし。

やはりスポーツは学校外の公立や私立のスポーツ施設に外注です。日本は学校自体が同調圧力の強い閉鎖社会なので、そこでのクラブ活動も、いい方にも悪い方にも展開しそうです。

キリスト教とスポーツというとやはりパウロの言葉を思い出します。

「コリントの信徒への手紙一/ 09章 24−26

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」

ヨハネ=パウロ二世が山登りやスキー、水泳を熱心にやっていたことも思い出します。

カトリックのスポーツの守護聖人はドン・ボスコで、19世紀に貧しい子供たちの教育にスポーツを奨励して遵法精神とか連帯を学ばせました。

でも、私が、キリスト教の価値OSがスポーツに反映されているなと思う分野がひとつあって、非キリスト教文化圏出身の者として羨ましいような悔しいような気がします。

それは障害者スポーツです。

耳の不自由な人のスポーツ大会は1924年のパリではじめてThe Silent Gamesとして開催され、ヨーロッパ9ヶ国から145人の参加者があったそうです。4年ごとに開かれているそうで、耳の不自由な人はコミュニケーションのハンディが大きいので他の障害のあるアスリートと別枠になっていたそうです。

後、1988年からオリンピックのすぐ後で開かれるようになったパラリンピックの方は、第二次大戦の傷痍軍人のリハビリとして主に英米で始まった障害者スポーツが起源のようです。

「健常者」と同じ条件では戦えないアスリートのために試合を開催するという発想、これこそは、絶対に「体育会系」のいじめやしごきとは別の土壌から生まれたような気がします。

フランシスコ教皇が9月にローマでインター宗教サッカーを開催するという話はブログに書きました。

スポーツがナショナリズムや商業主義や弱者差別から守られて、本当の意味で「節制」して「賞を得る」ように人々の元気を引き出し力を養ってくれるといいなと思います。

http://setukotakeshita.com/

690kei:2014/08/12(火) 10:25:39
サッカー・性・宗教
スポーツ全体は知りませんが、ドイツでは、かのオリバー・カーンが21世紀になっても
「サッカーは男のスポーツだ」と豪語しておりました。

女子サッカーはノルウェーから始まり、ドイツもワールドカップ優勝2回の強豪国中の強豪国ですが、ドイツ女子ワールドカップでようやく認知されたような状況です。
サッカーはコンタクトスポーツのため、女性保護の観点から向いていないというのはドイツサッカー協会の面々が言っておりました。

最近になって女子サッカーと宗教の問題がメディアを賑わせました。
イラン女子のユニフォームのヒジャブが原因でワールドカップ予選を失格になったのです。
FIFAとしては、ヒジャブが相手との接触で首を絞めかねないという保護上の問題で、アジアAFCの努力で、ヒジャブがすぐとれるようにしてOKとなりました。
しかし、フランスの女性団体が、ユニバーサリズムに反し、サッカーに宗教的象徴を持ち込むものだとして反対しました。
ヨーロッパのUEFAは、ユニバーサリズムの観点からヒジャブ着用を認めておらず、フランスでムスリム女性の出場が取り消しになるという事件もありました。
ヒジャブはアジアでも厳格なイラン以外は着用は個人に任せられて、アジアカップに出たヨルダンはするものもしないものも居ました。
イランは、女性はサッカー場へ入るのも男性とサッカーを集団でTVで観るのも禁止。理由は男性はサッカーを観戦すると野蛮になり女性保護だということです。

性の問題も女子サッカーは提起しました。
ロンドン五輪の前にアメリカ代表のラピノーが同性愛をカミングアウトし、その後スポーツ選手の同性愛カミングアウトが続きました。
女子サッカーで同性愛が多いのは公然の秘密ですが、先進国スウェーデンでも中傷が隠然とあるようです。

ジャンヌ・ダルクでもお書きになっていますが、女性の男性化は罪の一部となっており、まだまだ諍いがあるようです。
マリア・マグダレーナの本を書いていただきたいのは、こうした「罪の女」の始めに、マリア・マグダレーナと新約の「罪の女たち」が居ると思うからです。
マリア・マグダレーナは娼婦の守護聖人となっています。
罪の中を生きる女たちにとってマリア・マグダレーナに象徴される罪の女たちが許されたことはどんなに生きる糧となったかと思います。
イブから始まる罪の女の系譜をぜひ書いていただきたいのです。

その中に同性愛をめぐる問題のヒントもあるような気がします。

PS.漫画ですが「修道士ファルコ」はご存知ですか?
著名な女性漫画家の青池保子さんが書いていますが、フランス修道院まで取材に行ったり本格的なものです。
貴女の著書とも整合性がとれていて、中世ドイツ風俗、教会の地位などとても楽しめます
http://www.aoikeyasuko.com/works/falco/

691愚者:2014/08/16(土) 16:06:37
地上の平和
sekko様
「私達は特定秘密保護法に賛成です。」と主張するカトリックのグループのサイトを見ました。正義と平和協議会や関係司教への非難と数人の記名がありました。彼等は憲法「改正」にも賛成だと推測できます。
カトリック教会には「政治を教会に持ち込んではならない」という不文律があるようです。政治の話をしたかったら教会の外でどうぞ、憲法9条の話は駄目、といった科白を私も耳にしました。つまり政府と同じ考えは「政治的」ではないが、それ以外はダメと言っているのです。以前教会関係の印刷物に「社会経験のない司祭には複雑な世の中の政治的な問題は理解できない。従って憲法や外交などに口を出すべきではない。」という意見が、投書だったか座談会だったか忘れましたが、記載されていました。
「現代世界憲章」、「地上の平和」の平和主義の教えに、つまり聖霊に司教は従っているのです。正平協や護憲活動を拒む人も「地上の平和」を読むべきです。生命、人権、尊厳、自然環境を守る必要条件である平和を外交や経済の次元で考えるのが誤りです。
長々と失礼しました。

692愚者:2014/08/16(土) 17:19:23
続き
sekko様
質問を書く前に字数が足りなくなってしまいました。
平和や護憲のことになると、高等教育を受けた人、柔軟な頭の人、勉強熱心な人、良識豊かな人、イデオロギーに無縁な人が、紋切り型の左右(政府-反政府)路線論争みたいな頑なさで固まってしまうのは何故なのか、ほんとうに不可解です。一種の倒錯ではないかとすら感じます。カトリック信者は一般人が懸念したり議論している問題に関わるべきではないという信念でもあるのでしょうか。
JP2世の、2度と戦争をしてはいけない、という言葉は誰でも知っていて共感するはずですが。保守政党の政策とカトリック信仰を同一するかのような無意識の混乱があるんでしょうか。
平和を実現する人々は幸いである、というときの平和は憲法の平和主義とは全く関係無いということなのでしょうか。

693森下克介:2014/08/16(土) 17:20:08
政教分離の件
前略;
「キリスト教の真実」を読んでいます。途中です。
152頁の、世俗の王たちの徳義を監視するのもまた、「天」ではなく、聖職者や教会権威でしかない。世俗の主権者には、聖職者のコントロールなしの権威を行使するための自由を必要とした。
結局、西洋近代はそのような「神」を世俗の主権者から切り離すことによって、世俗の自由と自立を獲得した。
と有りますが、「神」としては、「聖書」にある、「預言者」が伝える「神からの言葉」がすべてで、現実にはその仲介をする「聖職者」は神と同等でないとすると、一般の信者の皆さんは「本当に信ずべきものとしての「神の代理」の言葉を正しく聞けなくなるのではないでしょう
か?
ここでは、「「そのような神」とは、聖職者の言葉が正しくない」という意味であれば、信者も同じ、聖職者や教会権威を信ずるに値しないという事になる。と云うジレンマが生ずるのではないかと思いますが。いかがでしょうか?
文面がうまくできませんが、先生のご意見をお聞き出来たら大変うれしく思います。
よろしくお取り計らいください。
26−8−16
421−0216
焼津市相川408
森下克介
tel/fax??054-662-0057
Email??morikatsu@palette.plala.or.jp

694sekko:2014/08/16(土) 23:29:46
愚者さまへ
ええと、いろいろなテーマが複合しているので、簡単には答えられませんが、この掲示板の7/31付の私の答えをお読みになっていると仮定してその先を続けてみます。

今の時代は、エコロジーの角度から平和の問題、社会悪や不平等にまで切り込む路線が貴重で有効だと思います。

解放の神学もそうでしたが、カトリック的な社会活動が左派イデオロギーと重なる部分があって共闘したり利用されたりすることもあったわけですが、基本的にはキリスト教には右派も左派もなくて、福音的活動の実践が問われていると思います。

「現代世界憲章」などは普遍宗教と人間の関係の中で到達点の一つとしてまさに画期的なものだと思います。これをじっくり読めば、「聖霊に従う」ということの意味が分かると思うのです。

ただ、「ミッションスクール=お嬢様文化=勝ち組グループ」みたいなものと結びついた小教区みたいなところでは、勝ち組の立ち位置を揺るがせるような反体制的言辞が「政教分離」の名のもとに嫌われて排除されるというのはフランスでもいくらでもあります。

司祭が家族を持たないとか社会経験がないから云々というのはもちろん言いがかりで、そういう人が本気で考えてくれれば、自分状況に縛られずにはいられない人々と違って、クリアで建設的な提言が生まれるかと思います。

少なくとも近代以降に教皇の地位にまで上り詰めたような人々の回勅や説教は、私心なくして考え抜かれた貴重なものだという印象を持っています。

「時の政権」というのは国や時代によっていろいろあるわけですから、そのあり方が福音に反しているものであればキリスト者が従うことができないのは当然だと思います。

でもこれも難しい問題ですね。

たとえばクウェーカーとか絶対平和主義の宗派が、たとえ犠牲を伴ってでも、絶対兵役拒否をすべての信者に強制できるほどの力を発揮するのを見る時、確かに、同じ宗教的力で若者たちを聖戦の名で自爆テロに向かわせる宗派だってあるのだから、複雑な気分です。

どうせなら全員を「絶対兵役拒否」「完全非暴力主義」で「洗脳」すればこの世に戦争はなくなるだろうに…と思ったり、でも兵器産業があれば無人戦争が続くのか、とか、どんなに「洗脳」して戦争をなくしても、違法暴力行為に向かう人やそのために組織される団体などはなくならないだろうから、結局それを取り締まるために合法的暴力装置としての警察は必要だし、とか…。

聖職者が神と同等でないとして世俗の権力者がその力を排してきたという話はあくまでもヨーロッパの歴史の流れで、そこに至るまでには、政教癒着や権威主義の実態がいろいろあったわけです。

すごいと思うのは、カトリック教会が、その中で消滅することもなく、分派することもなく、その葛藤の反省をしながら自己批判も臆せず、福音の道へ絶えず戻ってきたということです。

これについて、9/10発売の『カトリック生活』10月号に「ジャンヌ・ダルクと神学」というテーマで書いたところなので、発売前ですが、関連箇所を少し引用すると、

『コンスタンツの公会議では、公会議によって代表される「戦う教会」はキリストから直接授けられた至高の権力を持ち、その権力は教皇を含むすべての人間の服従義務を前提とすると宣言された。
それは大分裂を解消するために必要なものだったが、単に教皇支持派と公会議主義者の争いという構図ではない。世界を「聖職者」と「非聖職者」に二分して、後者を前者に無条件で絶対服従する下層民となす差別的世界観が提示されたのだ。世俗の者にとっての「徳」とは「服従」であり、「服従」が「信仰」と同義だった。「教会学」が「教会全体主義」というイデオロギーと化したわけである。(・・・・)』

それが今は、

『教会の力とは「服従させる力」ではなく「福音の力」であり、聖性にいざなわれた神の民である地上の教会とは、謙虚な奉仕と愛を実践するものだとされるようになった。その帰結が二〇世紀後半の第二ヴァティカン公会議だ。教会への服従こそが「徳」であり「信仰」であるというイデオロギーの時代を越えて、信教の自由が謳われたのだ。ジャンヌ・ダルク裁判は、もっとも貴重で聖なる一人一人の人格(ペルソナ)を根本的に無化する試みだった。だからこそジャンヌの復権と列聖は、カトリック教会が天に向かって確かに歩を進めていく象徴になる。人は自由意志によって神の呼ぶ声に答えるのだ。』

となったわけです。

ひとりひとりが「神の代理」となるくらいの気持ちで心と耳を傾ける必要があるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

695sekko:2014/08/16(土) 23:34:16
すみません
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。

森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。

http://setukotakeshita.com/

696sekko:2014/08/17(日) 00:13:24
Keiさま
Keiさま

ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。

すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。

筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。

だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。

勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。

娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。

その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。

同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。

最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。

ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。

キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。

悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。

人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。

完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。

つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。

日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。

それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。

うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)

「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・

http://setukotakeshita.com/

697ふうこ:2014/08/20(水) 13:46:54
許しあうこと
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。

698kei:2014/08/20(水) 15:18:18
修道士ファルコ「辱めの儀式」
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。

さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。

いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。

http://fast-uploader.com/file/6964069546497/
http://fast-uploader.com/file/6964069605371/
http://fast-uploader.com/file/6964069660215/

699sekko:2014/08/21(木) 03:08:21
ふうこさま、keiさま
keiさまが

「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」

とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。

「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。

私がユダのコメント

http://setukotakeshita.com/page1.html

で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。

7/21の読売新聞のインタビューでも、

ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。

>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。

その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<

という感じです。

もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。

「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。

「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。

こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。

「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。

いずれにしても、人間の、

「目の前の不幸を何とかしてくれ」、

「目の前の脅威を取り払ってくれ」、

という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。

http://setukotakeshita.com/

700愚者:2014/09/08(月) 01:32:20
公会議
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。

701愚者:2014/09/08(月) 19:46:02
現代史のバチカン
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。

702sekko:2014/09/08(月) 23:51:09
愚者さま
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。

そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。

ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。

日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。

私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。

フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。

でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。

ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。

今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。

しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。

前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。

そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。

あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

703kei:2014/09/10(水) 22:11:20
ユダ
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。

最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。

しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?

最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。

自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)

罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)

今ユダはどこに居るのでしょうか?

704sekko:2014/09/11(木) 02:09:15
keiさまへ
教皇と正当防衛については前に少し書きました。

http://spinou.exblog.jp/22507342/

ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。

でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。

「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。

原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。

出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。

多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。

ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。

http://setukotakeshita.com/

705愚者:2014/09/13(土) 00:36:18
ナチスとバチカン
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。

http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html

教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。

706sekko:2014/09/13(土) 01:31:37
愚者さま
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。

順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。

カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。

でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。

宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。

同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。

『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。

すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。

カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。

『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。

http://setukotakeshita.com/

707今紫:2014/09/26(金) 22:07:23
改めて気になるバチカンへの落雷
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。

708sekko:2014/09/27(土) 18:04:19
今紫 さま
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。

BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。

1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。

あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。

前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。

でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。

あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。

フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。

この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。

http://setukotakeshita.com/

709愚者:2014/09/28(日) 21:17:48
不穏
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。

710sekko:2014/09/28(日) 23:53:44
愚者さま
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。

山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・

>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<

ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。

「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」

この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は

「ゆるす、忘れる、継続する」

なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。

時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。

これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。

http://setukotakeshita.com/

711愚者:2014/09/29(月) 02:41:46
sekko様
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。

712愚者:2014/09/29(月) 03:38:46
訂正
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。

713sekko:2014/09/29(月) 06:26:51
愚者さま
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。

http://spinou.exblog.jp/22257223/

このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。

新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。

愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。

10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。

11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。

http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html

今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。

http://setukotakeshita.com/

714今紫:2014/09/29(月) 19:44:09
大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルの祝日
竹下先生

先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。

陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。

本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。

715kei:2014/10/10(金) 14:45:14
プロファイラー、パルジファル
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。

ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。

どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。

ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。

716sekko:2014/10/11(土) 23:49:35
Keiさま
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。

私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)

ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。

私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。

そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。

反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。

http://setukotakeshita.com/

717愚者:2014/12/24(水) 00:22:19
クリスマスおめでとうございます。
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。

718sekko:2014/12/30(火) 08:03:07
愚者さま
ありがとうございます。

クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。

これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。

生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。

藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。

カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。

よいお年をお迎えください。

http://setukotakeshita.com/

719kei:2014/12/31(水) 13:47:37
JP2とF2
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね

ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。

「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。

720sekko:2015/01/01(木) 01:35:45
新年おめでとうございます
フランスはまだ大晦日ですが、これから忙しくなるので今のうちにご挨拶です。

keiさま、現教皇はフランシスコです。選出された時「フランチェスコ一世」と報道されたこともありましたが、正式には、次にフランシスコ二世が登場した時に、今の人がフランシスコ一世とよばれることになるそうです。

(ヨハネ・パウロ一世はなんだか最初から一世と呼ばれていたような印象なのですが、ひと月ほどで亡くなってすぐにJP2が誕生したからかもしれません)

「アラブの春」に関しては、軍事独裁政権がそれまでイスラム主義勢力を抑えていたのが打倒されたことで歯止めがなくなったこと、「民主主義」を求めていた人々はまとまった政党をつくるストラクチャーも余裕もなくて、結局イスラム主義政権が「民主的選挙」で選ばれてしまったというジレンマがあったと思います。

それを言うなら、フランシスコ教皇のアルゼンチンもずいぶん危うい道をたどってきました。フアン・ペロンの正義党がファシズムだったのかどうか、その運命を思うと感慨深いです。今も正義党は健在ですし。

ペロンも教皇と同じイタリア人ルーツがありました。今の教皇の人気もポピュリズム、ペロニズム(ペロニスマ)と評する人もいて、危うい部分もあるなあと案じられます。ともかく、世界中で平和や環境保護を望む人たちが教皇の人気をよい意味で最大限に利用して、特定の国や企業への利益誘導という流れを変えていってくれればなあと思います。

http://setukotakeshita.com/

721kei:2015/01/05(月) 17:43:54
イスラム国とナポレオン
確かCNNだったと思いますが、乳幼児死亡率などの改善は中国の効果が非常に大きいということを見た覚えがあります。

アラブの春からイスラム国への流れは、シリア情勢をウォッチングしていた過程から言うと、結局「民主主義派」が武装闘争になるときに、なんでもかんでも引き入れてしまい、特に欧米がアンタッチャブルのサウジ、カタールなどが、スンニ対シーアの観点から介入して、シリア国内のスンニ派高官などに働きかけ、政権転覆を狙ったときから宗派戦争化してしまいました。
イランとサウジどちらが先に介入したのかは論争の的ですが。
イスラム国の前のISISも、イラクのシーア派政権を牽制するために泳がされていたのはもう周知といってもいいと思いますが、
まさかここまで思い上がるとは、と攻撃にまわっていますが、それは甘すぎるというものです。

フランス革命もナポレオンが居なければあっさりと潰されていたかもしれません。
皇帝を名乗るなどと妙なことをしましたが、近代の思想に基づいた改革を行ったのは、希に見る「良い独裁者」といえるかもしれません。
ある意味ナポレオン帝国が短期で終了してしまったことが、ナポレオンの良い側面がその後に受け継がれたかもしれません。

マルクスもレーニンも革命と民主主義と独裁の関係を研究していますが、それを考えると共産主義独裁が残ってしまったロシアよりも、敗北したドイツやフランスのほうが社会主義の思想をうまく引き継げたのかもしれないとも思ってしまいます。

革命と啓蒙主義的普遍主義思想のイデオロギー化の失敗、そしてナポレオンによるカトリックとの和解と普遍主義、さらに宗教。

こんな感じで考えてゆけばナポレオンは今日的かもしれません。

722愚者:2015/01/13(火) 00:49:47
1/2
sekko様
去年の投稿の誤りを指摘して下さってありがとうございました。藤永先生は21年生まれと思い込んでいましたが、私の誤りで正しくは26年生まれの80代でした。
sekko様が他のところでも書かれたキリスト教の逆説は最も心を惹かれる事柄ですが、精神を調えて集中しないと質問するにしてもまとめることが難しいので(^O^)、後回しにします。
L'art de croire を読んでアメディとアメドの対比には心を打たれました。
今回の事件に関する日本の識者の反応では、「反テロリズムでは一致できるのに、なぜ反戦争で(ともに行進した首脳ら)は一致できないのか?」想田和弘
「Charlie Hebdoが命をかけて守った風刺精神が今向かうべきは、Je Suis Charlie の「熱狂」だ。」伊勢崎賢治
「シャルリ・エブドの風刺は下劣で差別的だが、(中略)マイノリティへの人権侵害を成しているとは言えない。無論テロに正当性を与えるものでもない。」「言えることは二つしかない。いかなる言論に対してもテロ行為は許されないということと、テロリストたちがムスリム社会を代表するかのような捉え方はとんでもない誤りであるということ。」中野晃一
などいまのところ共感できる意見が目につきます。イスラエルの首相が反テロリズムの行動に参加することへの疑問・批判も散見され、巧妙に忍び込んだ「偽善」にも気がついています。

723愚者:2015/01/13(火) 01:51:21
2/2
8日の新聞には「風刺は弱い立場の者から権力に向けるものであって、シャルリの表現は風刺ではなく差別だ。」という日本のムスリムの声が載っていました。トルコ研究とイスラム研究の内藤正典同志社大大学院教授は、欧州のムスリム差別の歴史の理解なしには(ムスリム側から見た歴史という意味らしいですが)、イスラミストによるテロやイスラム国出現の真の原因を解き明かすことはできない、との論を展開しているようです。
犯人が殺されて背景や動機の捜査が出来なくなったのでは?生きた犯人を逮捕することを重視しないのでしょうか?
非人道的な死刑制度がないとはいえ、現行犯として容疑者をためらいもなく射殺するフランスの警察は、犯罪を解明したくないのだろうか、裁判で死刑にできないから凶悪犯は裁判にかけずに殺してもいいといった深層心理でもあるのか?と疑問を感じました。
日本の警察は、犯罪の全容の解明に必要なので、生きている犯人や容疑者を逮捕するのが原則だときいたことがあります。冤罪や不都合な事実が次々出てきたけれど、この原則は人道的だと思います。
キリスト教の伝統と人権宣言の国フランスの警察の姿勢は意外でした。
教皇への忠誠についてですが、洗礼に際して使徒信条を自らの信条とするのを教皇に忠誠を誓うと言い表すのではないでしょうか。教皇様に臣従を誓って家来になる、わけではないですよね。

724kei:2015/01/13(火) 13:09:11
グローバル化と寛容
まず掲示板の趣旨から言って、複雑な一事件の警察の対応などへの質問は控えるべきかと考えます

内藤 正典氏はこのごろとみに過激化しておりますのでお気をつけください

それに比べて酒井 啓子氏は非常にバランスがとれていると思われますので、中東・イスラム問題については参考にしてよろしいかと思います
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/01/post-901.php

シャーリー・エブドの襲撃については、一連の問題が最悪の形で爆発して切り分けられないまま進行しているかと存知ます

ムハンマド肖像風刺で揶揄・批判の対象しているのは、結局イラン、サウジなどの宗教と政治権力が一体化している国家ではないかと思われます。

しかしムハンマド肖像問題は権力問題とはかかわりなく長い間の文化問題でもあり、権力を批判しているつもりが、ムスリム一般が侮辱されているよう受け取られているように思われます。

フランス国内のムスリムはどうかわかりませんが、イランなどが声高に批判してくるので、ますますお互い過激になり、今回のように犠牲になるのは国内のムスリム達ではないかと。
グローバル社会、ネット社会の難しさが如実に出ているように思います。

例えば私はドイツのBILDはよく見ますが、過激なことを書いていても「またアホやってる」とか大笑いできるのですが。
他国でそのことだけを取り上げて、それがその国の姿勢みたいに広められると慣れない人は憤慨するかもしれません。

サッカーでもテロまでは至りませんが、メディアが煽って暴力沙汰は頻繁にあります。
国内で多数派のことで他国を煽りあいして、その結果戦争になるのは繰り返されてきたことではないでしょうか?

ワールドカップでもドイツ代表が祝賀会でアルゼンチンをからかう悪ふざけパフォーマンスをやったところ、アルゼンチンメディアから「侮辱」と言われて、「そんなつもりはなかった」と謝りました。

グローバル的な節度は求められているとは思いますが、今のメディアの過激化は問題かと思います。

教皇フランシスコ2世が和解と寛容を求め、自らモスクで礼拝している態度はそれに比べてなんと立派かと思います。
今はトルコですが、イランにも行けるようになればいいかと思います。

国家などにはそれぞれ複雑な問題があり、ある程度長期的にみていかねばならないことですが、欧米は性急にすぎて、かえって自分たちに降りかかっているように思えます。

挑発ではなく相互理解の積み重ねが大事かと

725sekko:2015/01/14(水) 00:50:36
keiさま、ありがとうございます
確かに昨日の書き込みはこの質問箱に適していなかったと思うのでForum3に移動しました。この質問箱は、上に書いていますが、死生観などについて迷っていることや考えていることについてピンポイントで私ならどう考えるかを知りたいという人のために開いているものですので、みなさま、それ以外についてはできたらForum3の方に書き込んでください。

このサイトもこの掲示板も、前にボランティアでやっていたフランス語のレッスンをやめた時に、引き続き、何か役に立てればと思ってはじめたものです。その頃、困っていたことについて他の掲示板で相談してみたらとても親切に答えていただいたので、私も自分にできることを何かしたいと思ったのです。それには、他の人よりも分かるのはフランス語とフランスの暮らしかなあと思って、Forum1を作りました。

ひっそりやっていくのが基本方針なのでみなさまよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

726愚者:2015/01/25(日) 20:32:54
お詫び
投稿が掲示板にそぐわない内容で申し訳ありませんでした。
フォーラム3への投稿を何度か試みましたが、ハードの機能の限界が立ち塞がりました。
フランスの政教分離に関する著作には心から期待しております。釈迦に説法で恐縮ですが、日本人によるフランスの政教分離に関する研究書で一般人の関心にもある程度応える著作は、今のところ伊達聖伸「ライシテ、道徳、宗教学ーもうひとつの19世紀フランス宗教史」くらいではないでしょうか。この本は私たち一般人には分厚過ぎて堅すぎます。私たちに必要なのは政教分離の宗教史文化史的な、また人物が登場する読み物だと思います。これを書ける人はsekko様の他にいないのではないでしょうか。
板違いで申し訳ありませんが、板垣友三東大名誉教授の興味深いインタビューがIndependeot Web Journal(IWJ) のサイトやアカウントに公開されています。もし未読だったらご一読に値するかもしれません。お騒がせしました。お詫びまで。

727愚者:2015/01/25(日) 20:37:43
訂正
誤 板垣友三
正 板垣雄三
でした。

728sekko:2015/01/27(火) 07:56:57
愚者さま
Forum3 に入れないのですね。

無理なさらないでください。
私もIT弱者なので。(愚者さまの問題は別の者かもしれませんが…)

板垣先生のインタビュー拝見しています。

1/11の共和国デモにネタニヤフがぎりぎりになって来ることを決めたのは、選挙が近くて、対立党の外務大臣らが出席するのを知った後での自国向け政治的パフォーマンスのようです。それでオランドも慌ててアッバス議長を呼んだようです。

政治家たちの思惑ばかりが交錯していたにしろあれはあれでよかったかもしれません。ヨルダンの国王夫妻がいたのも印象的でした。

板垣先生がフランスはイスラムをからかうのは自由でユダヤ人をからかうのには厳しいダブル・スタンダードだと言っていましたが、それは違います。

ユダヤ人差別言辞についてはペタン時代のホロコースト加担という過去のせいで特別に厳しいというのは事実ですが、もう長い間、いわゆる「平均的フランス人」には反ユダヤ主義は見られなくて、イスラム差別も、極右だと思われるのが嫌、不寛容だ、共和国的でないと思われるのも嫌だという自主規制が働いているので事実上見られませんでした。

社会のアメリカ化と共同体主義が進み、ムスリムが共同体化していったので、パレスティナ情勢のこともあり、反ユダヤ人言動は一部のムスリムか極右、ネオナチなどが主体でした。

カトリック文化で育ったけれど冠婚葬祭以外に教会には行かないという普通のフランス人は、「宗教」などもう過去のものだと半分は思っているのです。それなのにキリスト教も含めてを執拗に揶揄し続けていたシャルリー・エブドなどは「無神論の活動家」であるわけです。

それなのにヴァルス首相などが「ライシテこそ共和国の最高宗教だ」みたいな感じのことを言うので、なんか変な具合になってきました。

しかも、日本もそうですが、非キリスト教文化圏の人たちはなぜか「フランス=欧米=キリスト教」と言う連想があるので、シャルリーのせいでパキスタンやニジェールなどで教会が焼き討ちされたりしたのは気の毒です。イラクやシリアのキリスト教に至ってはヨーロッパよりも昔からの伝統ある宗教なのにさらに気の毒だなあと思います。

フランスのライシテについてはフランス人自身、特に知識人たちが自己欺瞞しているので実態は伝わりません。私が解説すると感心されることがよくあります。機会があれば書きますね。

http://setukotakeshita.com/

729kei:2015/03/03(火) 23:18:25
教皇の言葉は命令か?
シャルリー・エブドの復刊号の表紙に教皇などがエブドを追っている画が載っているそうですね。
この雑誌にこだわるわけではありませんが、最近教皇が子供のお尻を叩いてもいいのか、という議論を起こした、というニュースがありました
http://vpoint.jp/world/eu/37080.html

私などは、非暴力のドグマに捕らわれて、ほぼ子供のお尻も叩いたことはありませんが、心のどこかで「それでいいのだろうか?」と思っていたところ、この答えは大変参考になったものです。
しかしそれでも教皇が体罰を容認したというような声が出てくるのですから、なかなか難しいものだと思います。
フランスやヨーロッパは我々と違い、教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか?
ウサギ発言についても、私はとても具体的でウィットに富んだ言葉だと思いますが。

残念ながら私は子供のお尻を叩く機会をもう失っておりますが、次に孫が出来るときには、威厳を損なわない形でお尻を叩く方法を考えてみたいと思っております。

730sekko:2015/03/05(木) 07:21:57
keiさまへ
子供への体罰ですが、フランスでもヨーロッパの他の国のように禁止の法律化が話題になっています。個人的には、すべてその家庭での親と子の普段の関係を抜きにしては考えられないし、子供のタイプや親の判断力にもよると思います。子供が小動物や自分よりも小さな子供に害を加えたりいじめたりするような行動をとった時に害のない体罰によって断固とした親の意志を見せるという場合、その親がその信念にふさわしい行動をしているならばありかなと思いますね。でもこんな法律が必要になるほど、今は子供の虐待の連鎖とかの問題があるのだとしたら深刻です。

私自身は子供を叩いたりしたことはありませんが、普段可愛がっている猫にだって、ひどく引っ掻かれた時に思わず叩いたことが何度かあります。たいていはこちらが悪いのだし、犬と違ってそれこそしつけにすらなりませんが、反射的に手が出ることがあるというのは体験しているので、他人を批判することはできません。

で、「教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか」、というご質問、フランスに関してはないです。まあ今の教皇は人気者なのでこういう話題も取り上げられますが、普通はたいていスルーされます。『シャルリー・エブド』の復刊号にも、教皇の「私の母を悪く言う者は…」云々が取り上げられて、「福音書を読んでくれ(右の頬を殴られたら左の頬を出せ)」とか書かれていましたが、それでも愛されキャラみたいな扱いです。

もう30年位前、フランスのカトリックしかないような田舎で年配の女性たちのやっていた「昇る星」とかいう信徒の集まりに出たことがあります。みなそれこそ第二ヴァティカン公会議以前の要理でやってきた人たちばかりでしたが、すごくリベラルでフランクでびっくりしたことがあります。
避妊について、ヴァティカンが避妊具を容認してないことについて「そんなことちゃんときいてる人なんてない、家庭をもったことのない人たちに言われたくない」ってみんな言っていました。
まあ、フランスは司教会議もリベラルですが。

もちろん原理主義的な人たちはいますが、そういう人たちって分派していく傾向にあるし、たいていは教皇よりも「過激」ですからね。

フランスは絶対王政の頃も、ガリア教会主義で教皇の勅令が出ても、国会の承認を得なければ適用されなかったので、ある種の禁令が野放しだった例があります。

でもいつの時代も庶民はプラグマティックだったという気がします。社会に別のクライシスの要因が顕在化した時には信仰を刷新する人や下手すると狂信者なども出てくるのかもしれませんが…。

http://setukotakeshita.com/

731ともこ:2015/04/12(日) 00:23:27
サルトル「存在と無」第三部「対他存在」
私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。

732sekko:2015/04/12(日) 00:30:31
ともこさん
残念ですが対応できません。図書館で当該図書の英語の解説書をさがせばいかがでしょう。ネットでも、日本語で助けを求めるよりは英語で検索すればレジュメや掲示板などあるのでは?

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733kei:2015/11/02(月) 07:43:57
神の計画
「フリーメイソン」楽しく読ませてもらいました。なかなか新教と旧教の対立は激しいものだと改めて思い、それを超えた普遍を求める志向について認識を新たにしました。しかし結局エリート主義結社だったなあと実感しました。グローバル時代とはいいながら、対立が深まるばかりで、新しい普遍がでてきてこないようですね。
ところでちょっと質問ですが、カトリック聖職者からも「神のご計画」という言葉をききます。
しかし人間の自由意志を重視しているのなら、個人のあれこれは個人(と守護天使)にかなりまかせておられるということになるのではないでしょうか?
カルヴァンの予定説との違いがよくわからなくなります。お教えいただければ幸いです。

PS.「ナポレオンと神」を心待ちにしています

734sekko:2015/11/03(火) 03:28:33
kei さま
「神のご計画」と人間の自由意志の関係ですが、神学的なことはカトリック系サイトの質問箱でお尋ねになれば答えてくれると思います。

エラスムスはトマス・アキナスを引いて、神の意思と人間の自由意志は別々に存在する、神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応するといいました。
その時にルターは、自由意志は神にしかなくて、人間に適用するのはナンセンスであり、人間のすべての行動は神の意思に添っているのだといってユダの例を出し、ユダの行動もすべて神のみ旨だと言いました。

ユダならまあ何とかこじつけられますが、もっと納得のいかない例もこの世にはたくさんありますよね。まあ、それは「この世」のことで「神のみ旨」なんて理解できないのだから不可知論になってしまいそうです。

でも、単純に言えば、神の計画はきっとあって、いろいろ人間に働きかけ続けているのだとは思いますよ。

でもそれに気づくか、アンテナをそちらに向けるか、気づいてもスルーするかなどの自由が人間にあるのでしょう。

でも、スルーされても拒否されても、気づかれなくても、神の方からはいつも情報を発信している(愛し続けている)わけで、いつしか人間の方が、自分の条件が変わった時(病気や老いや孤独その他)などに態度を変えて、今までの生き方を悔いたり、「神の計画」に参入するとか愛に応えるとか新しい関係性に入っていくことがいつまでも可能なのではないかと思います。放蕩息子の帰還みたいに。

「神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応する」ということは多分そういうことなのでしょう。

ちょっとハイゼンベルクの不確定原理みたいですが、電子を測定する時はじめて位置だの運動量だのが確定するので、神のみ旨を知りたいとか神のみ胸にゆだねるとか神の計画の役に立ちたいとか誰かが自由意志で決意した時にはじめてそれが見えてくる感じでしょうか。

そういうのを決意なしで自然体でやってしまっている人たちもたくさんいるのでうらやましいですが。

まずは、命を与えられて無事に生きていて信頼できる人がそばにいて、などの幸福に感謝、というところから始めたいです。

http://setukotakeshita.com/

735kei:2015/12/03(木) 17:15:11
聖母マリア
改めて「聖母マリア」を読んでいます。
この著作は貴女の著作を読んだ2作目(最初はジャンヌ・ダルク)で、そのころは不勉強でなんとも思っておりませんでしたが、その後いろいろ読むうちに、聖母マリア崇敬が異端であった時期があるのかなあ?と現在思っています。むしろ聖母マリア崇敬を抑えるためにマリアの従順さをクローズアップしたのではないかと思っています。
神が人間となり、母の胎内から生まれたのがわかっている以上、マリアの聖化は避けられなかったことかと思います。ローマ弾圧時代でも女子信徒は多く、ヨハネ福音書は女性に人気があったとの記述もあります。聖カタリナはマリアの勧めで、キリストと神秘の結婚をしたとされています。
現代は、メディアが英米優先なので、ピューリタン的男女平等が喧伝されておりますが、カトリックのいうように、母性については尊重されるべきものと思います。先進国での少子化の一端はそこにあるかとも思います。
拙の娘も結婚して、旦那の要望に従って専業主婦となりましたが、かえって自由に自分の好きなことをやれて、今和装の免状もとってサイドビジネスになりつつあります。こういう仕事の復帰もあるのか、と目をひらかされております。

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

736sekko:2015/12/04(金) 03:41:03
聖女の条件
『聖女の条件』(中央公論新社)の中で、ジャンヌ・ダルクの子とも聖母マリアの子ともさらに敷衍、展開しています。機会があればお読みください。

聖性と母性は都合よく結びつけられることが多いので私は警戒しています。

ただ、日本においては、専業主婦や母親になることで世間の圧力なしに実は自由を獲得する道が女性に開けている部分はあると思います。

でもそれは夫、父親の収入だけでやっていける恵まれたケースで、今はそれがだんだん難しくなっているのは心配です。

母性がリスペクトされるべきだというのはもちろんです。小さな命がこの世に生まれる、命を送り出す、というのは死の時と同じように、永遠とどうつながるかというすごいことだと感心します。

http://setukotakeshita.com/

737kei:2015/12/22(火) 04:02:45
クリスマス
ちょっと変な質問で申し訳ありません。日本でもクリスマスコンサートが教会で行われています
私も近隣の2,3に参加しました。
日本人は「教会」という定盤はほぼカトリックの大聖堂で、ヨーロッパ観光に行くとよく入るのに、ミサを体験してやろうという人はいないし、日本でもほぼ居ないと思います。わざわざクリスマス気分を味わうためにヨーロッパに出かける人もいます。せめてこんなときくらい来ればいいのにと思うのですが。
日本人にはカトリックは海外高級ブランド品のようなものなのでしょうか?中に居るとそんなこともないのですが、確かに感じなくはありません。聖フランチェスコの最初の教会のような貧しい者が集まる教会かというと疑問です。フィリピン人、ベトナム人などは平気で来てくれるわけですが。
アメリカ系では、大ホールに集まってゴスペル歌ってもりあがろうぜ、という教会が日本にも来ているようです。ポピュラーはポピュラーでしょうね。
慈しみの聖年が始まりました。貧者を招く教会というのは何なのかと考えるクリスマスです。

PS 貴女の著書でカトリックの面白さに気づき、(まあそれだけではありませんが)、入信しようという人が出ました、感謝申し上げます。

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738kei:2015/12/22(火) 04:28:33
奇跡
すみません、あと1つ。まとめて答えていただいて結構です。
マザー・テレサの奇跡が承認されました。著書でフランスでは奇跡は割と不思議なこととは思われていない、と書かれていたと思いますが、これは伝統でしょうか?
日本では神道、修験道系で奇跡は出てきますし、神社で○○頼みをしているのは奇跡を待っているようなのですが、いざ「奇跡」と言われると引くと思います。アメリカでは事故などで助かった場合定盤のように「神が助けてくれた」と言いますね。
癌になったと落ちこんでいる(苦しんではいない)人が奥さんの友達に居て、マザー・テレサの奇跡を言って、気晴らしにルルドにでも行ってみたら?と言いたいのですが、ルルドも日本人知りませんね。

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739sekko:2015/12/22(火) 08:27:13
kei さまへ
日本人のキリスト教感にはきっとミッション・スクールのイメージがあるのだと思います。前にもどこかで書きましたが、「日本にはカトリックお嬢カルチャーというものがあるんですよ」と教えてくれた方もいました。

それとは別に、今日のブログでも触れましたが、明治以降の知識人で、特にプロテスタントから無教会主義系で、キリスト教の精神を民主主義や人権などに結びつけて軍国主義や国家神道やらへの抵抗思想とした人たちの系譜もありますね。

でもその人たちは、神の摂理の予定調和などに疑問を感じて、いわゆる信者になる人は少数でした。

日本では、いわゆる貧しい人を救う、共同体から疎外された人を救う、という点では、新興宗教のネットワークが活躍したと思います。困難な状況にある人のところに出かけて行って支援と勧誘をセットにしたことが多かったのですね。

教会の方は、扉を開けて待っているだけで、すでに信者である人の共同体のケアという内向きのものが多かったのではないでしょうか。

貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人、母子家庭などのところに積極的に出向いて寄り添うタイプの活動をし続けてきたのは各種の修道会というイメージでしょうか。でも彼ら彼女らは、それこそマザー・テレサと同じで徹底して奉仕するだけで新宗教やカルトのような勧誘など絶対しませんから目立たないし、「海外ブランド」のようなカトリックとは別物と意識されるのでしょう。

日本にいる外国人がカトリックのコミュニティを通して助け合いやネットワークづくりをするのはうらやましいですね。
彼らの方がある意味では割り切っていると思うし、「困った時の神頼み」式の信仰や帰属意識の強さというものはすごいなあと思います。

ミッションスクール間の国際的なつながりも羨ましい感じです。(私には縁がないものばかりです。)

今の教皇の言っているのは、貧者を招くというより、動く元気もなく傷ついている人のところに積極的に出て行って野戦病院のように助けよう、ということですから、活動修道会の精神と近いですね。カトリックでなくても他のNGOとも協力しあう開かれた奉仕が目指されているのでしょう。

マザー・テレサの列福の奇跡は腹部ガンの30歳の女性で、今回はその13年後の2008年に35歳の男性で複数の悪性脳腫瘍があり、手術室で昏睡し、手術開始予定から30分後に外科医が来たら座って治っていて、「私はここで何をしているのか」と聞いたというやつです。腫瘍はすべて消えていました。奥さんがマザーテレサに助けてくださいと祈ったとか。前の奇跡は患部に不思議のメダイをあてていた、という話でした。

今回は9/5に、「現代の医学では説明不可能」という結論が出て、12/5にそれの奇跡としての神学的整合性が認められたという話で、列聖が来年の9/4ということですね。
マザーテレサのようなビッグネームなら祈る人も多いでしょうから、公式認定されない奇跡の治癒もきっとたくさんあると思います。

日本でも尊者認定されて奇跡を待っている蟻の町のマリアだとか調布のチマッティ神父とかいますし、取次ぎの祈りの文も紹介されていますから、祈っていれば治らないでも気持ちが楽になるかもしれません。
メダイでも他のお守りでも、奇跡でも「神の手」の外科医とかでも、苦しんでいる人が楽になったり治ったりするのは歓迎です。

カトリックでいうと、65歳以上の人は病気でなくとも病者の秘跡を受けられるというので、65歳になるのが楽しみです。
まあそんなことを言っているのは今のところ深刻な病気がないからかもしれませんが、生きている限りは何らかの形で人の役に立てるように、避けられる痛みや病気を軽減してくれる良心的なツールはいくらあってもいいなあと思います。

ルルドも、長崎の「ルルド」にはちゃんと水も湧いているそうです(というか昔から健康にいい水の湧く所に洞窟のレプリカを作った?)から長崎もありかなあと思います。東京カテドラルのルルドもいい感じだけれど水はないです。

不思議のメダイは、贈る人に信仰があれば「信者でなくとも効く」というスタンスですから、差し上げやすいのではないでしょうか。病気を患われているお知り合いの方のためにどうか祈ってあげてください。

http://setukotakeshita.com/

740kei:2015/12/24(木) 00:23:12
父の慈しみの御顔
詳しいご回答ありがとうございます。拙も聖年にちなみ、とにかく募金箱に必ず入れるという戒律を建て実行しているところです。クリスマスコンサートもアフガンやカンボジアへのチャリティでした。
しかし翻って我が国を見ますと、失業率は低く、皆確かに食べてはいけるでしょうが、ワーキングプアーで心のほうがパンクしているようです。カトリックの美しい典礼で心を休めてほしいのですが、ちょっと声をかけると、「クリスチャンです」と言われ、聞いてみればキリスト教系?新興宗教でした。ますますそれにのめりこんでまわりが見えなくなっていくようです。
フランスと同じようなものを感じます。オウムのようにテロをしろと言われればやってしまうような感じです。既存システムからの疎外感は、「自分たち(だけ)が正しい」と言われるとすぐ反応してしまうようです。歴史的にもルネサンスのフィレンツェの閉塞感からサヴォナローラの原理主義が一時期支配しました。日本のプロテンスントでも何やら終末論をほのめかすところもあります、アメリカ映画の「レフト・ビハインド」が教会に(多分映画会社?)が貼ってあってびっくりしました。アメリカはこういう映画は、宗教層の観客動員が見込まれるため、制作されているようです。
教皇のご提起は時期を得たものですが、若干の無力感も覚えます。父の慈しみの御顔とはどういう顔なんだろうか?といつも考えています

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

741アップル:2016/03/04(金) 17:07:07
心霊主義について
節子先生、こんにちは。
数年前にたしかキリスト教福音派について質問させていただいたものです。

その時のハンドルネームは忘れてしまったのですが。

福音派教会は日本在住の日系ブラジル人の間にまだまだ存在していますが、
数年前のあの熱狂ぶりから比べると、今は少し落ち着いているような印象です。

かわりに最近増えてきているのが、espritismo のグループです。
調べてみるとブラジル本国では確かに信望する人が多いようです。


彼らのバイブルは、アラン カルデックの書物です。
ブラジルで、サッカー選手にアラン カルデックという選手がいるくらい
多くの人が名前を知っています。


現代のフランスではどうなんでしょう?
アラン カルデック及びスピリチスムのフランスでの位置づけ
を知りたいのですが。よろしくお願いします。




私が知りたいのは、アラン カルデックの国フランスでは

742sekko:2016/03/05(土) 07:55:42
アップルさま
そうですか。

ブラジルではカルデックの本が3千万部も売れているらしいですね。

フランスでは、確かにペール・ラシェーズのお墓はいつも花がいっぱいですごいなあと思いますが、まあオカルトの位置づけですね。

カルデックも、もとは子供たちを迷信から啓蒙しようという合理主義の教育者でしたから、アメリカ由来の「霊との交信」に本格的にはまってからも、霊名(?)を使い分けて、スピリティスムも「科学」の言葉で語ろうとしていました。

だから、一応、宗教とは違う、というスタンスで、無神論のイデオロギー陣営ともキリスト教陣営とも直接衝突しないで、文化人を含むかなりの人の「オカルト趣味」として一時はかなり浸透していたようです。

今はオカルトのon of them という感じでしょうか。

ブラジルのようにカトリック、先住民インディオの土着宗教、17世紀から奴隷として連れて来られたアフリカ人の土着宗教の三つの心性が混然としている所だからこそスピリティスムがその三つをつなぐけれど既成宗教とは直接バッティングしない形で自然にシンクレティズムを形成したのでしょうね。

スピリティスムが新宗教の形をとるとベトナムのカオダイ教のような分かりやすいシンクレティズムとなります。宗教でなく「科学だ」とか「実在する超常現象だ」という形で信奉者を獲得するビジネスになる場合もありますね。

日本では土着のシャーマニズムの伝統や先祖との交流みたいなものが心性として残っているので、カタカナのスピリチュアリスムはそれらとフュージョンすることはなく、カタカナのオカルト、カタカナのスピリチュアリスムとして別枠で存在するのかもしれません。

カルデックはブルターニュの名で、前世がドルイッド教であるとしてキリスト教以前のガリアの土着宗教と結びつけることで正統性みたいなものを担保しているわけですが、そしてお墓もドルメン型ですが、ブラジルではそんなことどうでもいいような気がします。

でも、亡くなった人との魂の交流そのものは古今東西よくある話で、別にわざわざ科学だと言わなくとも、そして詐欺や騙りもあるでしょうが、「宗教」とか「霊性」とかとは別枠で考えればいいのでは、思います。

今、あるジャーナリストが、父親の棺に4つのものを入れて埋葬し、有名な霊媒4人に父親にコンタクトしてそれが何か伝えてもらうというテストをレポートした本を読んでいます。おもしろいですよ。

結局は、病気や治療や治癒と同じで、現象は似ていても、その原因も経過もケース・バイ・ケースとしか言いようがなく、教義や教祖をたてるのは罠か誘惑か誤りか矮小化なのでしょうかね…

http://setukotakeshita.com/

743アップル:2016/03/05(土) 11:19:48
(無題)
お返事ありがとうございます。

フランスでは、なんというかやっぱり予想通りオカルト扱いなんですね。

節子先生がおっしゃるように、もともとブラジルには文化的に親和性があったということで、
独自に発展していったのでしょうね。

日本在住日系人たちが集まるスピリティスムのグループに属する人から
耳にするのは、輪廻転生についての講義を受けたり、
espirita という指導者が無料で人々の悩みを聞いて
アドバイスしたり、病気の人にはspiritual surgeryを施すというような
ことです。

ブラジルではシコ シャビエルという霊媒(故人)が今でもとても
尊敬を受けています。

日本人の私としてはなんだか胡散臭く感じてしまうのですが
ブラジル人たちは「シコ シャビエルは
お金を取らずに人の役に立った人」と讃えます。

福音派の動きが落ち着いてきたのは、彼らの教会のマーケティング戦略
に嫌気がさした人が増えて離れたからだと思います。

節子先生が読んでおられる本はフランスのジャーナリストが書いた本ですか?

私の勝手なイメージでは霊媒による話などは
フランス人にとっては完全にゲテモノ扱いなんじゃないかと思っていました。
でもそうでもないのでしょうか。感心のある人がいるのはいるのですね。

744sekko:2016/03/05(土) 18:48:53
アップルさま
その本について、ブログにリンクをはっておきました。

http://spinou.exblog.jp/25374556/

いろいろ考えさせられます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

745アップル:2016/03/07(月) 10:15:36
sekko先生
ブログのリンクありがとうございました。

とても興味深く拝読しました。sekko先生のこうしたテーマへのスタンスが
理解できたことがよかったです。

 Le test: Une expérience...のアマゾンの紹介文を読んで、フランスでも
人間はどこでも同じなんだ(死者がどうしているのかを知りたい、死後の生があるのか知りたいという気持ちを持っている)とほっとしました。

死後の生、今日ではそれは理性に基づいた仮説なんだ、という文章は
フランスらしいというか。

またブラジルではどうなのか、ただ遠巻きに眺めているだけでなく私なりに
調べてみたいと思います。ありがとうございました。

746スイス鉄道のように:2016/04/30(土) 23:00:41
縄文に感じて?
こんにちは。
いつもL'art de croireの記事を拝見させていただいております。
出雲に行かれておられるんですね...
そこは、縄文文化が色濃く残る地だと言われておりますね。

そして、”縄文”というと、日本人の遺伝子の4割は縄文系だそうです。
最近読んだ本(『DNAでたどる日本人10万年の旅』崎谷満著)で知りました。
科学的な証明の裏付けがある内容でした。

さらに興味深いことには、古代エジプト人やユダヤ人と縄文人は近縁だそう。
すなわち、ハム=セム語族の先祖の一部は、ペルシアから南インドへ行きドラビダ人になり、
さらに一部は、東南アジアから中国を北上し、朝鮮半島経由で日本に来たらしいとのこと。
しかし、分岐は3万年前だそうです。

しかしそう見ると、南インドのドラビダ系の言語と日本語の関係を研究した大野晋氏の『日本語とタミル語』は一定の根拠をもちますし、
ヘブライ語と日本語は同祖というトンデモ本や日ユ同祖論なども意外と空想でもないように思えてきます。

竹下様はカトリックでおられ、古代ユダヤ文化にもある程度通暁しておられるので、
縄文と中近東の比較をし、どう感じられるかご意見を聞いてみたいような気がします...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

747Sekko:2016/05/03(火) 20:50:42
「スイス鉄道のように」さま
そうですね。『キリスト教の謎』でも触れましたが、ローラシア大陸や古代の超大陸のことを考えても、北アフリカから中近東と日本の古代とが関係があるというのは不思議ではないと思っています。

ただ、それらが経由してきたはずの中国では、秦の始皇帝の焚書以来、神話的なものの記録が極端に少ないそうで、各種の技術伝搬はともかく、メンタリティはどこかで断絶してしまった部分があるのかなあと、中国民間信仰の専門家である友人と最近話していて思いました。

ユダヤ教にはメソポタミアよりも古代ペルシャ文化の影響の方が決定的だったかもしれないと思っています。それとエジプトからの移民が合流したかのような部分もあるようですが、いろいろな研究や異説が進行中です。

http://www.setukotakeshita.com/

748スイス鉄道のように:2016/05/15(日) 14:09:14
聖霊降臨について
こんにちは。
聖霊降臨の主日、おめでとうございます。
L'art de croireで聖書の聖霊降臨についてお書きになられておられますが、
私の理解(といいますか、今まで読んだ文献,神父様の講義や説教からの理解)では以下の通りです。

まず、基本的に、旧約と新約は「合わせ鏡」...
対(つい)になっています。少なくてもキリスト教では。
よって、新約の聖霊降臨もまた、対になった記述のひとつ。
すなわち、旧約のバベルの塔の物語によって散らされた人々は、
新約の聖霊降臨によって、”集められた”のだと。
その証拠に、教会のことをギリシア語で「エクレシア」と言いますが、意味は「集められたもの」だそうです。

このように考えると、イエスキリストも、この世にやり残したことがあったのだとも言えます。
キリストは、新約では、旧約の完成として語られています。
律法の完成、乙女から生まれる救世主の物語の成就、動物を犠牲にする祭儀の自らの身による置換、などなど。
旧約の信仰の限界や行き詰まりを打開し、瑕疵を癒やし、完治させる者として描かれている...

しかし、ただひとつ、天に昇る前にやり残したことがあった...
それが、傲慢によって全地に散らされた人々に対する『救い』です。
この瑕疵に気づいたパウロら初期教会時代の神学者たちは、この瑕疵を治癒させる記述を盛り込んだ...
それが、新約の聖霊降臨の記載...
こう考えれば、つじつまがあいます。

旧約は父なる神が働く時代、キリスト生誕から昇天までが子なる神が働く時代。
そして、キリスト昇天後から現在までは聖霊が働く時代。(ヨハネ福音書14章)
つまりキリストはすでに昇天してしまって、この世にはいないので、
「聖霊の働き」を聖霊降臨の記載に描かざるを得なかった、ということだと思います。

http://likeswissrailway.seesaa.net/

749sekko:2016/05/15(日) 17:32:09
「スイス鉄道のように 」さま
ありがとうございます。

聖霊降臨の意味、「スイス鉄道のように 」さまのご理解でよろしいかと思います。

私が今回ブログに書いたのは、別に解説とか解釈とかではなく、今まで、「聖霊降臨」って不思議だなあ、と思いつつ教科書的にスルーしていたのが、最近フランスのカトリック雑誌で「…ように」の表現に注目しているものを見つけて、なるほど、と感心したことを分かちあうためでした。

標準的な解説や公式見解をさがしていらっしゃる方は、別の形で検索できると思うので、想定していませんでした。だから聖霊降臨と自由という取り合わせに違和感を感じた方があるとしたら申し訳ありません。

それよりも、こんな話題にこんなにまじめなリアクションをする方ってどんな人だろう、と思って「スイス鉄道のように 」さまのブログを拝見して驚きました。

この投稿をくださったこと、また私のブログを読んでくださっている(あるいは偶然に今回だけ?)ことと、プロフィールとのギャップが新鮮でした。

私は何でも好奇心をそそられる性分なので、「スイス鉄道のように 」さまのブログにリンクされていた他の方のブログもあれこれ読んでしまいました。

絶対に自分ではたどりつけなかったようなブログであり分野です。

聖霊降臨祭にぴったりの体験ができて感謝しています。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

750宮野:2016/07/16(土) 19:27:25
LGBT+ カトリック・ジャパン
ご無沙汰しております.お知らせをしたくて,書かせていただきました.
昨秋から,LGBT+ カトリック・ジャパンという信徒団体を私ともう一人の発起人で始めています.
両名ともLGBT+ではなくて,所謂ALLY (協働者)です.
LGBT+とALLYで7/17から毎月ミサを始めます.

数名の司教様や神学者,司祭にお会いして,少しずつ足固めを始めています.
どうぞ,よろしくお願いします.

フェイスブック:LGBT カトリック・ジャパン https://www.facebook.com/lgbtcj
ブログ:http://lgbtcj.blogspot.jp/

751sekko:2016/07/18(月) 18:30:40
宮野さま
ご連絡ありがとうございます。
有意義な活動のイニシアティヴをとられていることもありがとうございます。

パリでは、私が前にBlogでも書いたマレー地区のSaint-Merry教会で月一度、LGBTの他、すべての人にOKのミサがあります。

ダビデとヨナタンhttp://www.davidetjonathan.com/

というパリ市公認のアソシエーションが主導で、もとはゲイの人が中心で、キリスト教同性愛者運動の一環としてもう何十年もミサがあります。ミサ、祈り、分かち合いなどがあります。もとはまだ同性愛が刑法上の罪として残っていた1971年に始まり、1981年の社会党政権の誕生と共に1983年に今の形の公認NPOとなりました。旧約に由来する「ダビデとヨナタン」はグループの刊行物のタイトルでした。

私は男女の同性愛者といっしょに25年も演奏活動をしているので、彼らと日本に行くたびに、日本のコミュニティと連絡を取りたかったのですが、敷居が高くてかないませんでした。

フランス人二人を連れて新宿二丁目に行く勇気はないので、三丁目で、ネラン神父の「エポペ」だとか、最近は歌川たいじさんの「タックスノット」などに行きましたが、全員タバコの煙に弱いこともあって長居はできませんでした。カトリック教会で演奏したり愛徳姉妹会に泊めていただいたりしましたが、いつもなんの差別も受けませんでした。

性的傾向はグラデーションであり、ほとんどのケースは生物学的要因(ホルモン)で決まってしまうので本人には選択の余地がなく、それを「賜物」として受容できなければ他の心身の「障碍」も受容できないものとなってしまいます。

いわゆる「マジョリティ」の人たちよりももっと切実に超越的なものを必要としていらっしゃる方々のために何かお役に立てることがあれば声をかけてください。

http://setukotakeshita.com/

752宮野:2016/07/20(水) 21:44:41
ご返事に感謝
ご返事くださって,こころから感謝します.
フランスの事情も知らず,伺えただけでもとてもありがたいです.

7/17のミサは,20名ほどで分かち合いました.感謝です.
これから毎月,少しずつ心の扉を開きあっていければと願っています.

これから信友になっていきたいと,互いに握手した方で,例えば,
幼児洗礼で,マスールの厳格教育により自己否定感が強くて,30年ぶりにミサにあずかった方,
LGBT+は病気といわれた友人信徒が自殺したため,正教信徒からカトリックに転会勉強中の方,
LGBT+を理由にカトリックへの転会を拒否され,受けられるはずの聖体拝領も拒否された方,
トランスジェンダーを告白せずに受洗した罪悪感を司祭に解放してもらった方,
男性で受洗して性転換後,戸籍変更もできたので,教会籍を女性に変えたかったが,それはローマの判断が必要で,問合せができないため,断られている事例
誕生時から染色体のせいで両性を生きていて,父なる神という表現に今も身が切られると感じる方,
等,様々あります.これからもっと分かち合われると思います.
本当にイエスは,根源的で全てなんですね.
イエスに会いに皆さん来てくださいました.


それで,新宿界隈のこと:
日本キリスト教団新宿コミュニティー教会中村吉基牧師は,新宿5丁目で教会をなさっています.
http://sccmission.net/index.html
東京レインボーパレード2016で,ブースが隣同士でお話もできました.
新宿界隈は詳しいと思います.今度お会いしますので,禁煙の店等いろいろ伺ってみます.

中村牧師は,元カトリック神学生で上智界隈の修道会系出版社勤務経験もあり,代表の神父様とも旧知の仲のようです.
その神父様とも私達はお会いして,LGBT+ 信徒とのわかち合いのため,今度私達のミサの司式をして下さることになりました.
将来は出版企画を種々考えていきます.ぜひそのときは,ご指導をお願いします.

共同発起人の小笠原は仏語TOBを普段から読んでいる精神分析家なので,理論面からもいろいろ考えています.
ホアン・マシア神父にお会いし,私達と協働して下さるとお約束もいただいて,司教団の皆様への献身もして,協働できるように努めたいと願っています.

753sekko:2016/07/20(水) 22:50:27
宮野さま
17日の最初のミサ、実りがあったようでよかったですね。

私は10月から11月にかけて日本なので、もしそちらのミサの日付けがフリーであればぜひ参加したいです。

新宿にそんな教会があるとは知りませんでした。ホームページも興味深く拝見しました。

「ヨーロッパの死者の書」はデジタル版が筑摩書房からもうすぐ出る予定です。

またお気軽にご連絡ください。

http://setukotakeshita.com/

754宮野:2016/07/21(木) 00:08:15
ごミサの予定
本当にありがとうございます.感謝いたします.

10/9or16のいずれかの予定,11/27は確定です.
午後1時30分からミサ その後分かち合いを5時頃までします.
毎月司祭が代わり,多くの方々と関わりが増えるようにと務めています.
場所は,都内の交通至便地です.
場所と司式司祭は未公表なので,別途ご連絡します.
8月からは東京教区ニュースに毎月ミサ案内が掲載され,LGBT+という文字が初めて出ます.

あの素晴らしいコンサートを今年もなさるのですか?

「ヨーロッパ死者の書」は広汎に広まるのが当然必然の書です!
発刊記念対談をしてくださればと...
養老孟司「身体巡礼」(新潮社)と「ヨーロッパ死者の書」の精神潮流の接点
大津秀一「死ぬときに後悔すること25」と「ヨーロッパ死者の書」の知恵
とか.

755スイス鉄道のように:2016/07/27(水) 19:50:32
われわれが為すべきこと
こんにちは。
L'art de croire、いつも拝読しております。
わたくしの今の考えをまとめてみました。

私たちカトリックには、”死”は終わりではなく始まりです。
理由は2つ。

1.
イエス・キリストの十字架における死がなければ、カトリック教会は発足しなかった。
イエスが官憲に捕まった時、弟子たちや取り巻きは蜘蛛の子を散らすように皆逃げました。
ペテロなんか少し遅れて捕まったわけですが、イエスと面通しをされ、「そんな人知らない」と3度言い張って難を逃れました。
もっとも、あとで涙を流しましたが...
結局、イエスの死と復活によってカトリックは始まったのです。
もしイエスが終身刑にでもなっていたら、カトリック教会は今存在していません。

2.
カトリックではミサで信仰宣言をしますが、
「私たちは聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの復活、永遠の命を信じます」と唱えます。
つまり、将来のいつか、正しい人は神様によって生き返らせてもらえるのです。
それが教義ですよね。
特に、理不尽な死に方をした人は必ず将来生き返ると考えます。
なので、今回の事件の被害者のジャック・アメル神父は、必ず将来生き返ります(復活します)。

よって、死は悲しむべきものですが(なぜなら死を悲しむのは自然だから。自然=神の創造したもの、だから)、それで終わりではありません。
次へつながるものです。

今回の事件によって、「信仰の炎」が心の中で燃え上がるような想いがしております。
愛と赦しといつくしみによる生き方をせよ、そして広めよ、一刻も早く、おまえの身の回りからすぐにでも始めよ、ぐずぐずするな、ぼうっと見ている場合ではない、傍観者になるな、日々の生活のすべての局面で積極的に行動せよ、福音にのっとった生き方によって、ということかな、と...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

756sekko:2016/07/27(水) 22:55:41
「スイス鉄道のように」様へ
「スイス鉄道のように」様がそのようにお考えになれることが、今回のテロでカトリックの司祭が犠牲になったことの大きな意味の一つだと思います。

フラ・アンジェリコの言葉に

「世界の闇は一つの影に過ぎない。その後ろに、我々の手の届くところに、喜びがある。この闇の中には、我々に見えることが出来さえすれば、素晴らしさ、言い表せない喜びがある。そしてそれが見えるためには、見ようとするだけでいいのだ」

というのがあります。

死からの復活だけではなく、今ここで呑み込まれた闇からの復活でもあります。

「死」を前にしても「光」の方を見る、ということですよね。

普段はそういうことが理屈としては分かっていても、こういう事件がそういうことをリアルな実践として教えてくれるのは「恵み」なのだと思います。

アメル神父が将来復活するかどうかよりも、今、この世での使命をより広げて新たな使命を遂行し続けているんだなあと思います。

罪のない子供や若者たちがテロの犠牲になるのももちろん不当で悲しいことですが、それだけにリアクションが「怒り」や絶望や恐怖や報復に向きがちです。

アメル神父が犠牲になってくれたからこそ見えてくるもの、言葉にされる赦し、意識される友愛の必要性、などを感じて、感謝の念すら覚えているところです。

http://setukotakeshita.com/

757宮野:2016/07/28(木) 11:09:08
人生は死んでからが本番...
フラ・アンジェリコ氏の言葉に,感謝.

皆様におすすめして,ほとんどの方から「読んで良かった」と言われる自慢の本があります.

?竹下節子先生著「ヨーロッパ死者の書」ちくま新書 ISBN-13: 978-4480056429

私はカトリック国の人々の死生観には,幾つもの入り口があるという深さを初めて知りました.

「戒名という別の名前になるのを嫌悪していて,どうしたら良いか?」と尋ねられたので,この本を紹介しました.入信に至るのはこれからですが.

私は,興味関心(信仰的・霊的・知的)が揺さぶられて,心が動きます.そして,「死を受容して,人間的になる,大人になる」という感じ方になりました.皆様,是非ご一読を! または,再読を!

以下駄文ですが.

私が霊操でいただいたイメージでは,「神の意思で受精し,霊魂と肉体があらわれ,帰天した霊魂は神を賛美して神のために働き続ける」です.

私の両親は帰天していますが,身近にいるようで,嬉しいです.

親しい宣教師は,「死は劇場の幕が上がり,言いようもない素晴らしいドラマが始まる時」と言いました.

難聴の知人に「死は隣の部屋に行くようなもの.でも,私の場合は違うの.今度は目が見えて,耳が聞こえるの」(ヘレン・ケラー)と話したら,嬉し泣きしていました.

熱心な知人は,「私達は今,復活した体を生きている霊気というイメージ」と言い,驚きました.

まとまりがなく,すみません.

758sekko:2016/07/28(木) 17:47:51
宮野さま
ありがとうございます。

キリスト教の死後の世界の考え方で私が一番ぴったりだなあと思ったのは、「二人の胎児の会話」です。ドン・ボスコ新書の『生き方をインスパイアする25の話』にある「おなかの中の対話」で紹介しました。

これをもっと広めたいなあと思っています。

『カトリック生活』11月号にはスターティングについて書く予定です。

http://setukotakeshita.com/

759宮野:2016/07/28(木) 22:06:16
感謝
ご返事に心から感謝します.

サプリ2巻目は,本当に間が悪くて,友人に貸したままになっています.
アマゾンで再注文しました.
多分あのエピソードだと思います!
「スターティング」も待ち遠しいです.

私は最近,Suscipe(霊操234番)を観想する生活が望みになってきています.
生かされて生きているという感じがします.

8月初旬に巡礼風の旅をします.
ローマ:聖イグナチオ・デ・ロヨラへの巡礼
パレ・ル・モニアル:イエスの聖心への巡礼
「観光は?」と言われますが,
「それより,祈れば御国観光ができるし,ガイドは三位一体の御交なんですよ」というと,信徒さんからも呆れられています...

760宮野:2016/08/02(火) 17:01:48
ごミサの予定-変更
三位一体の御交に感謝
竹下先生へ
LGBT+ カトリック・ジャパンのミサ10月日程が変わりました.
晴佐久昌英神父様が司式をして下さいます.

10/23(日)午後2時:集い 午後4時ミサ 司式司祭:晴佐久昌英神父様
場所:都内交通至便地

1/27(日)午後1時30分ミサ その後集い
場所:都内交通至便地

761sekko:2016/08/17(水) 20:32:51
訂正
おしらせ

今発売中の『カトリック生活』9月号(ドンボスコ社)の私の記事に日付の点でミスがあったのをここで訂正します。

実は年号についての単純ミスはよくやるので申し訳ありません。

「私の言いたかったこと」が伝わるかどうかに注意を集中しているので、今の時代、誰でも簡単にチェックできるから訂正してもらえるだろうという甘えがありました。

訂正は次の部分です。

これは私がベースにした批判記事自体に単純ミスがあったものです。

マザー・テレサを批判する人たちの書いたものを紹介する部分で、

「ノーベル賞受賞の折には、ボスニアで組織的にレイプされた女性をめぐる質問に答えて、中絶は平和の最大の破壊者で、母による直接の殺人は直接戦争であると唱えた。
一九九六年のアイルランドの国民投票の折には離婚と再婚の禁止を憲法に加えることを提唱した。」

という部分です。

まず、1979年に「中絶は平和の最大の破壊者」とコメントしてすでに中絶合法化の陣営に批判されていました。次に1994年にカイロで行われた人口問題の国際会議の際の記者会見で、ボスニアのことを尋ねられて「母親による直接殺人」という答え方をしたのです。

それを混同していた批判記事の年代の矛盾にすぐ気づきませんでした。

次に、アイルランドの国民投票は1995年11月でした。そのすぐあと、1996年になって、ダイアナ妃の離婚問題についてインタビューを受けて肯定的に語ったので矛盾しているとまたすぐ批判されたのです。

マザー・テレサが時として激しい批判を受けたのは、それだけ彼女の言葉がメディアにそして政治にまで大きな力を持っていたことの裏返しであり、だからこそ、彼女に対する評価の両義性の意味が何であったのかを、列聖を機会にさぐろうとしたのが私の記事の意図でした。

聖人の列に加えられるという時点で、もう「生前の業績」を超えた次元に参入するのであり、その力が今も大きな実りをもたらし続けているというカトリック教会の列聖システムならではの連帯のパワーを書きたかったのです。

日本にはそもそもキリスト教的な縛りがないので中絶や離婚に関するキリスト教の言説の持つ力とそれに対抗する力のせめぎあいがありません。

でもそれはキリスト教文化圏にとって大問題なので、マザー・テレサのそれに関する言説への批判も厳しいのです。

もちろんカトリック教会全体への批判もたくさんあります。

イスラム過激派への批判よりずっと執拗で激烈です。

聖人の条件となる「奇跡」認定に対しても「蒙昧」批判はいくらでもあります。

私はそういうやり取り自体がどういう文脈で起こっているのかを分析するのが好きです。
奇跡も列聖システムも聖人たちも彼らに祈る人たちもみんな好きです。

私がこの記事で「批判」を紹介したことで誤解を受けるのではないかというお知らせをいただいたので、年代に関するミスの訂正だけここでお知らせすることにしました。

他の「批判」などの内容や証言については、いろんな人がいろんな「目撃」談を長い年月にわたって残しているので、どれが唯一の事実であるかというのは少なくとも私にはわかりません。

でも、マザー・テレサが残して継承された「愛の真実」については疑いをもっていません。

それが私の伝えたかったことでした。

ご理解をお願いします。

http://setukotakeshita.com/

762スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 12:45:31
人権、表現の自由、説明責任...
竹下様、お久しぶりでございます。
お聞き及びかどうかわかりませんが、数日前、日本のアイドルグループがナチス風の衣装をコンサートで使用したとして、
海外のメディアまで報道する騒ぎとなっております。

例えば、以下のニュースなどご参考に。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000035-mai-int
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20161031-00063914/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000001-jij_afp-ent

結局、ひとことの反論も、説明責任も果たさず、
このアイドルグループの日本の責任者は、謝罪とこのコンサートのテレビ番組への放映を取りやめました。
↓↓↓
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6219483

私自身、ナチスを決して肯定するものではありませんが、
しかし、「表現の自由」という問題もございます。

反論も説明もせず、海外の批判に無条件にこうべを垂れるのはいかがなものかとも思います。

竹下様はいかがお思いになられますでしょうか?
およろしければ、ご見解をたまわりますれば幸甚に存じます。

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763スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 17:41:00
追伸です...
先ほどの投稿に追伸でございます。
イスラエル大使館がこの件に気づき、関与してきました。
(在日イスラエル大使館のTwitterにコメントしています)
単なるアイドルグループの問題ではなく、結構、おおごとになって参りました...

https://twitter.com/IsraelinJapan/status/793994601312976896

http://likeswissrailway.seesaa.net/

764sekko:2016/11/03(木) 23:02:36
「スイス鉄道のように」さま
うーん、フランスの新聞にも取り上げられていました。

これは表現の自由の問題というより危機管理の問題のような気がします。


ユダヤ人のロビー活動力というのは半端ではないですから、しかも、20年前と違って今のようにSNSが発達していてyoutubeも流れる時代に、危機管理の意識がなさすぎるのでは、と思いました。

私の見た記事ではみな「オリンピックを控えた日本で」ということが付け足されていました。

しかも、カリカチュアやコミックの中の表現などではなく、広く動画が流れるようなもので、未成年の女の子たちにグループでそういう恰好をさせるリスクをとったというのはやはりプロデューサーの責任だと思います。
私が親ならプロデューサーに抗議していたかもしれません。

イギリスの王子のコスプレのスキャンダルもありましたよね。今回はそれよりもパブリックな形ですし。

クール・ジャパンとかでこの種のカルチャーも積極的に売っているわけですから、やはり識別力が大切かと思います。

765スイス鉄道のように:2016/11/03(木) 23:21:45
ありがとうございました
ご返信、どうもありがとうございました。
そうですか。
今回のアイドルグループのプロデューサーが東京オリンピック委員会の理事の一人でもあるという事実から、そういう報道になってしまうんですね...

http://likeswissrailway.seesaa.net/

766スイス鉄道のように:2016/11/21(月) 09:03:33
二人セゾン...
こんにちは。
先日、ナチス風の衣装で問題になったアイドルグループの新曲のプロモーションが始まり、
そのプロモーション用ビデオ(PV)が日本時間の17日に公開されました。
15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスしているのですが、
一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さなどが見ていて感じられます。
とてもステキなPVに仕上がっています...
シーンは小春日和的でもあり、これからの寒い季節にも心が温まるような作品でもあります。
また、アイドルらしからぬ哲学的な歌詞にもなっております。
曲名は、「二人セゾン」...
およろしければ、ぜひ一度ご覧ください。
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw

http://likeswissrailway.seesaa.net/

767sekko:2016/11/21(月) 18:38:45
「スイス鉄道のように」様へ
PVはフランスで視聴できないということでした。

でも検索して少し曲を聴き、歌詞など読みました。

あまりコメントできなくてすみません。

私はこの種の集団アイドルグループのコンセプト自体に賛成でないので。
男女ともそうですが、特に女の子たちのは。

みんな可愛いですし、おっしゃるように

「15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスして」、
「一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さ」

を見せてくれるのは多くの人にとって恵みですが、そんな素晴らしいことが商品化されていることに賛成できません。

似たような輝き、若さ、純真さ、清楚さを持った少女たちを集めてパーツにすることによって生じるひずみも想像できて。

もし私にこの年代の娘や孫娘がいたら、そしてこういうキャリアに夢を抱いていたら、私は絶対反対すると思うし、なぜ反対するのかを本人にじっくり話すこともできます。

いつかこういうことについて書く機会があるかと思います。
今回はこれで。

http://setukotakeshita.com/

768ナカハラ:2017/12/11(月) 16:45:30
フリーメイソンの実態に関するご質問。
サイゾーさんの本年9月号で竹下先生のお名前を拝見してのご連絡です。

ご著書も手配済みです。

サイゾー系の以下の記事に関して、信憑性も含めた竹下先生のご見解をお聞かせいただけると有難いです。

>フリーメイソンは1日4億円以上寄付している!? フリーメイソンで製薬会社の社長が語る「メイソンの真実」!

http://tocana.jp/2015/09/post_7299_entry.html

お忙しいところ誠に恐縮ですが、勝手では御座いますが宜しくお願い申し上げます。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

769sekko:2017/12/11(月) 18:29:30
ナカハラさま
該当記事と同じtocanaのサイトで、前にフランスのフリーメイスンについて私のインタビュー記事が載っています。私の名でサイト内検索をしてお読みください。

該当記事の方は、イギリス、アメリカと、アングロサクソン国のFMについて語っていらっしゃいます。

アングロサクソン系のFMは巨大な慈善親睦団体なので、多額の寄付があるというのは想像できますが、額のことなどは私にはわかりません。アメリカならあり得るかなあ、とも思います。
でも、堂々と寄付できるルートはいくらでもあるのですから、FMを通した匿名で大口の寄付をする人は、FM内での何らかのリターンがあるのでは、とも思います。

またアングロサクソン系のFMはクラブ文化、ロビー文化の伝統の上に成っています。
内部で根回しをしたり利益交換をするのも「文化」です。

でも、国際的に会員同士の便宜を受けられるという意味では、アングロサクソン系FMの別の形であるロータリークラブなどでも同じです。

FMは自分で身分を公表することはできますが、他の会員の名を公表することは禁じられているので、ある会員が外で言っていることの真偽を確認したり訂正したりすることは外部の者にも内部の者にも困難です。ましてやFMを名乗る多くの組織が混在しているので、一般論は言えません。

お役に立てなくてごめんなさい。

私のブログの「フリーメイスン」のカテゴリーにも少し書いています。
選書メチエの中に書いた範囲の歴史などは信用していただいてOKです。

http://www.setukotakeshita.com/

770ナカハラ:2017/12/11(月) 21:10:21
竹下先生宛
ご丁寧なお返事に感謝申し上げます。

有難う御座います。

m(_ _)m

https://twitter.com/dotcom07

771水蓮:2017/12/31(日) 00:04:06
ご教示ください
カトリック信者(一般人)のブログに以下のことが書いてあります。友人が「これって本当?」と確認してきたのですが、私の認識とあまりに違っていて頭の中は???です。

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/494302a021b693f8f78f9e2f747aaa01

http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/6f10be8c4a88291e68e106146e3b11a8

疑問点1)「カトリックのクリスチャンは、お相手がカトリックの洗礼を受けなければ、離婚歴のある方との結婚は教会法の法律上、することが出来ないのです。」とありますが、私の理解では、カトリック信者は、離婚歴のある人とは、その人の宗教とは無関係に、教会法上では「結婚」することはできず、たとえ法律的に結婚しても「罪のうちに生きている」ことになるので、聖体拝領はいずれにしてもできなくなる、なのですが・・・?

疑問点2)「(離婚歴のある人と)籍を入れるとなると、まずカトリックの結婚講座を必ず受けなければなりません。そして相手の方が洗礼を受けるならば、教会法に基づき、教会で結婚することが出来ます。・・・…彼が洗礼を受けないと、あなた自身がご聖体拝領をすることが出来なくなりますよ」とありますが、私の認識では、離婚歴のある人とは、たとえどんな条件でも教会で(秘蹟として)結婚することはできないはず、なんですが・・・?それとも、離婚経験者がキリスト教徒でなかった場合は、受洗によって以前の結婚が無効になる、なんてことがあるのでしょうか?

疑問点3)それとも、日本だけ特例が認められているのでしょうか?このブログをしている女性はご自分の教会の司祭から、このような説明を受けたということなのですが・・・。

すみません。年末に変な質問で・・・。このブロガーにきいてみたらいいものの、以前にどこの誰とも知らない人のブログに、内容について「本当ですか?」的なコメントをした後、とても不愉快な経験をしたことがあり、それ以来、特定不可能な一般人のブログなどへのコメントは一切しないことにしています。

急いでおりませんので、お手すきのときにでもお返事いただけましたらうれしいです。私も調べてみようとは思っておりますが、竹下先生なら既にご存知かと考えたため…。

772sekko:2017/12/31(日) 02:22:37
水蓮さま
私に確実な返事はできません。

まず、フランスでOKのことでも、日本でダメと言われたことはいろいろあります。
たとえば、65歳以上なら差し迫った病気がなくても病者の塗油を受けることができるはずなので日本で頼んだら、「病気じゃないのにもちろんダメ」と言われました。

他にも、少し前(といっても30年くらい前?)までのフランスの田舎では第ニヴァティカン公会議前の感覚のままの老司祭さんもいて、冠婚葬祭はけっこう自分ルールでやっていました。それで別に不都合もなくみなやっていたような…。

で、フランスの大都市圏でここ数年の間に結婚や離婚をしてきた人を見てきた限りでは、教会で結婚式を挙げていない限りは、法律婚をしていても離婚していても、事実婚を違った相手と繰り返しても、それは、教会的には「未婚」ですから、問題にされたのを聞いたことはありません。

教会レベルで「初婚」でさえあれば、相手が未信者であっても、洗礼を受けている人の方はもちろん聖体拝領もOKです。

ただ、教会法にも、担当の教区司祭の采配によって、どちらかが教会での結婚に「ふさわしくない」と判断されれば、司祭は結婚式を断ることができる、とありますから、法律婚で離婚に至った事情なども判断に関係してくるかもしれません。
法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。

もともと七つの秘跡のうち、結婚の秘跡だけは、司祭から授けられるものではなく、自由な男女の神の前の誓いによって成立します。

16世紀に、教会の許可するしかるべき司祭の立ち合いが必要となって、細かい規定ができましたが、1983年の教会法にもいろいろな例外があって、時と場合によっては立ち合いが司祭でなくともよいし、立ち合いがいなくともよいとあります。

つまり、愛し合い永遠の絆を神の前で誓い合う男女がいるところでは、神に祝福される結婚の秘跡が成立し得るわけで、結婚への意志と愛が、最終的にさまざまな規則に優先するというわけで、なかなかすてきですね。

そこにはカトリックの教義に対する知識やら合意すら条件にはなっていません。

で、そうして結ばれた「結婚」は二人だけではなく、聖霊とも永遠に結びついているわけです。

こういう「両性の愛と信頼」至上主義というのは、社会的動物としての人間の習慣にとってはあまりにもラディカルですが、それを「神」のもとに聖霊によって成り立たせるのはまさに「秘跡」だなあと思います。

「結婚講座」についてもいろいろ規定はありますが、実際はケースバイケースですね。どちらもカトリック信者であっても、原則としては複数回、時には別の婚約者カップルもいっしょに司祭との一時間くらいの講座、というか、お話を聞いて、秘跡としての結婚がどういう意味を持つのかを理解しているかを確認されます。

これは子供に洗礼を受けさせる前も同じです。

事実婚のカップルが生まれた子供に洗礼を受けさせるのも、親たちの少なくとも一方が洗礼を受けていて、二人が望み、子供にカトリックの教育を受けさせる意志があるなら問題はありません。法律的にもカトリック的にも「未婚」の両親であっても支障はありません。

そんなことが支障になっていたら、今のフランス人の親で子供に洗礼を受けさせる人などいなくなってしまいます。

一番厄介なのは、やはり、信者同が教会で挙式したのにその後法律上の離婚をすることで、教会的には離婚はできないので、秘跡の無効を認めてもらう道しかないので大変です。

実際は、次の相手とは事実婚のままであればスルーされますが、その偽善に耐えられない人や、法律的に再婚したいけれどそれでは聖体拝領できなくなるのがつらいという人もいます。

まあ、だから、いろいろな面倒を避けるために、最初から法律婚も教会婚もしないで、洗礼を受けた子供と一緒に成長儀礼としてのセレモニーをこなしていく人もたくさんいます。

以上フランスの場合ですから、日本のことは知りませんが、日本では細かいことを言っていたら誰も教会で結婚する人がいないので、未信者同士でも、それなりの手続き(結婚講座4回とか)を踏めば、カテドラルでだって、結婚式を司式してもらえるようですね。

原則初婚、というのも、法律婚のことで、日本は紙一枚の届けですからフランスとはちがいますね。

フランスの法律婚はもともとカトリック教会での結婚に対抗してできたものですから、市長が市役所ホールで男女に誓わせる公のセレモニーという位置づけで、その証明なしには教会婚ができないという法律もフランス独特です。

今の教皇になってから冠婚葬祭に関する規定のいろいろなニュアンスが、まず、「いつくしみの神」という視点にシフトしていっています。

「恵み」というのは何なのかとまず考えたいですね。

2018年が水蓮さまにとって恵み多い年でありますように。

http://www.setukotakeshita.com/

773水蓮:2018/01/01(月) 01:30:54
(無題)
竹下先生、詳しい御即答をありがとうございます。

そういえば、ある小教区では不可能だったことが、隣の小教区では可能であった、といった話をメディアで読むことがありますが、この件もそうなのかもしれません・・・。

>>>法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。>>>
やはり、このあたりでしょうか・・・。

他にもこの関連で書きたいこともありますが、個人的なことになりますので、また、いつかどこかで何かの機会がありましたら・・・。

竹下先生にとっても2018年が素晴らしい一年となりますように。平安。

774水蓮:2018/01/04(木) 20:23:15
あけましておめでとうございます
先日(昨年!)の私からの質問に関連して、ブログ記事でお取り上げになり、「こんなこと気にする日本人なんているのかな」とお書きになっていますが、私の印象では、かなりいます!・・・です。

まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。

というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)

ところで、竹下先生の結婚における聖霊の位置づけと日本の昔の結婚における仲人の位置づけとのパラレルにはおもわずうなづきました。これは(大半の)日本人にとっての「神」は「世間様」だ、という見方と符号するような・・・。今日の平均的日本人の「神」は何なのでしょうね。「自分自身」?「お金」? 友人の中に、最近の日本人にとっての「神」は「日本」そのものになりつつあると言う人がいます。

775sekko:2018/01/05(金) 01:35:27
水蓮さま
そうなんですか。

>>>まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。
というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)<<<<

私が、宗教帰属の意識の希薄な平均的日本人として生まれ育ってきた時は、そんなこと気にしていませんでした。アテネ・フランセの神父さんとか以外、カトリックだと分かる人とのつきあいもなかったし。ヘンリー八世がらみで「カトリックは離婚できない」というのは知っていましたが、実生活でそれを気にするようなシチュエーションもなかったです。

やはり、日本ではマイナーな宗教だから、それに帰属しているということは好奇心で見られるのかもしれませんね。

フランスではパリやパリ近郊では、帰属と実際がかなり乖離しているからあまり問題になりませんよね。地方では、フランドルの小さな村のことはよく知っているのですが、何世紀も前からカトリックしかないところで、教会も冠婚葬祭受け持ちの氏神様みたいで、村の人はとにかく全員代々カトリックですから、町内会みたいで、避妊だろうが離婚だろうが人それぞれで気にしてない、という感じですね。
都市の一部ブルジョワ階級のアイデンティティとしての保守カトリックは健在ですが、それも建前的な部分が多いし。

今の時代、「拝金主義」という偶像崇拝がはびこっているのはどこも同じですね。

その拝金主義のグローバリズムという弱肉強食に対して、民族主義と聖性を結びつけて自由や平等を規制したり、妙な純血主義やよそ者排除に向かったりなどの共同体ファーストもありますが、どちらも同じ病の裏表のような気がします。

どんな神さまによるプレッシャーも、それを適用するのは生身の人間なので、やはり、誰をも排除しない社会を実現するために何を大切にすべきかを一人一人がちゃんと考えて行かなければと思います。

http://www.setukotakeshita.com/

776ヴィオラ:2018/01/16(火) 06:22:21
北欧の福音ルター派
はじめまして。
竹下さんのご著書は、何冊か読んだことがあるのですが、とても面白いブログをたくさん書いていらっしゃることを最近になって知り、質問したくなってしまいました。
私は、福音ルター派の北欧に長年居住しています。北欧にいると、ヨーロッパ内の東西南北区分に気づきます。東にはオーソドックスなロシア正教、西にはキリスト教、北はプロテスタント、南はカトリックという大まかな区分です。プロテスタントとカトリックは「近代」と「伝統」として感じられていて、合理的な北欧と奇跡などを信じて非合理・迷信の南欧(フランスが入ることもあります)、男女平等の北欧と女性の地位の低い南欧という見方とあいまって、北欧が一番進んでいるという意識につながっています。
南の方のカトリック教会に行くと、告解室があり、悩める人と牧師が向き合って話をしている場面を見かけることがあります。北欧のキリスト教では、人は心の中で神と1対1で対峙し、神と対話するので、大きな違いがあります。細長い十字一本を壁に掛けただけの教会もあり、原理主義的でもあります。フランスから見た地政図というか、北欧の福音ルター派はどのように見えますか。私は信仰がなく、キリスト教についてよく知っているというわけでもなく、深い質問ではないのですが、お返事いただけたら嬉しいです。

777sekko:2018/01/16(火) 08:07:14
ヴィオラさま
ご愛読ありがとうございます。

スウェーデンですか?

今の季節、日が短くて寒そうですが、今年がより良い年になりますように。

うーん、私にとっては、北欧系プロテスタントって、為政者の宗教を国教にした棲み分けの国のまま21世紀って、アナクロニックな気がします。ノルウェーはさすがに2012年にルター派を国教から外したと思いますが。イギリスだって、カトリックは国王になれないという法律は今も生きていますし、カトリックは公務員になれない、のは一九世紀まで続いていましたし。

フランスはすごく世俗的な国で、カトリック文化圏といっても、日本の仏教みたいなユルイ感じです。「告解」に行く人なんてマイナーだし、「告解」でも、私がブログ

http://spinou.exblog.jp/25470580/

で書いたことがあるように、悩んでる人なんて超少ないのでは、と思いますが…。

プロテスタントのみなさんが心の中で神と対話しているのかどうかはわかりませんが、それも、カトリックの人だって、人それぞれだと想像します。

ただ、宗教って、「教え」の側面、「信」の側面、「わざ」の側面があると思うし、生・老・病・死などの実存的な危機を前にする人は、非合理、迷信、奇跡などを必要とする心性は普遍的だと思うので、ちゃんとした宗教にそういう受け皿があった方が、変なカルトや怪しい霊媒などに頼ってしまうよりはリスクが少ないような気がします。

あまりお答えになっていないかもしれませんが、そうですね、今のフランスから見たら、イギリスや北欧の国教会システムって、国別に分かれている正教会と同じで、政教分離してないなあ、という感じですね。今はどうか確認していませんが、スウェーデンでは行政の一部が教会税を通しての住民登録という形で国教会に委託されています。もちろん信教の自由は保障されていますが、非国教徒でも行政事務の経費分は免除になっていませんでした。

今ちょうど政教分離について書いていたところなので。

スウェーデンのおもしろい話題があれば教えてください。

http://www.setukotakeshita.com/

778ヴィオラ:2018/01/18(木) 03:53:01
ありがとうございます
早速のお返事、ありがとうございます!
フィンランド在住です。最近、少し寒くなってきました。

北欧系プロテスタントは、アナクロな感じなのですね。面白いです。政教分離していないというのも同感です。フィンランドでは大統領以下、大聖堂でミサに出て、その年の議会が始まるし。教区に所属していると、教会税あります。教会から抜ければ、払う必要はありませんが。政治と宗教のみならず、大学と宗教も繋がっています。秋の新学期始まりには、学長などが大聖堂のミサに出ます。あと数年に1度、博士号取得者が正装して大聖堂に行進、ミサに出た後、舞踏会という慣習もあります。

北欧の人は、自分たちは世俗化していて近代的、イスラムやその他が宗教的と大体思っているのですが、実は様々な面でキリスト教は深く浸透していると思います。自分の人生を語る時も、特に女性は 犠牲・苦難を経てより大きな意味づけへというような、イエス・キリストの人生を下敷きにしたような語りをよく耳にします。

ただフィンランド人は、すごく自然が好きなのですが、その「自然」という考えには、どこか「キリスト教以前」とか「異教」というニュアンスがあり、キリスト教的ではないものに対する憧憬があると思います。

竹下さんは、フリーメーソンに興味をお持ちですよね。少し違うのですが、私は騎士団(と修道院)に興味があります。騎士団は、その名前もやや奇妙なものが多いのですが(靴の紐、黄金の皮、クマの殺害者とか)、勲章には細部に渡って非常に細かい意味づけがされていて、フェティッシュです。騎士団は過去のものではなく、今も健在です。ヨーロッパでは国家元首かその任命する人物がグランドマスターで、フランス、フィンランド共に、それは大統領です。現在の騎士団は勲章と国旗によって、誇り、感謝、悲しみ、追悼、慰め等の感情を表現します。近代の国民国家は、その基底に軍事と宗教を持っているようなのですが、こうした制度が国民国家の重要なシンボルとして使われていることをどう思われますか。

779sekko:2018/01/18(木) 06:55:05
ヴィオラさま
フィンランドでしたか。議会も大学も国教のストラクチャーを共有しているのですね。

そんなところで、たとえばムスリムが政治や学問の第一線に加わるのは微妙でしょうね。
スウェーデンなどと違って移民の受け入れも少ないような。

私は北欧のような金髪碧眼っぽい国でアラブ系の人や黒人とか目立ち過ぎるのにどうやって混ざっていけるのだろう、ゲットー化しない方が難しいのでは、と不思議です。フランスは特にパリや大都市は人種の混交が多いので、何人でも目立たないですが。

アジア人に対してはどうですか? 人種差別とか文化差別を感じますか?

私の甥(英仏ハーフ)が、2年前タイのダイビングクラブで知り合ったインストラクターの女性がフィンランド人でした。彼女は今甥の息子をフィンランドで育てています。甥はフランスに来るように言っているのですが、フィンランドではシングルで子育てをするのは簡単なのだそうです。

ああ、騎士団の話でしたね、

フリーメイスンと同様、玉石混交というか、19世紀に、過去のもの、修道士の騎士団、十字軍由来や14世紀の騎士団の名を使って民間で再興したものがたくさんあります。

軍事と宗教がセットになって互いを正当化してきたような歴史は事実ですが、例えばフランスの騎士団とおっしゃっているのはレジオンドヌールですか?

その手のものは要するに個人の業績に国が権威付けをするもので、ある意味持ちつ持たれつというか…。フランスでは最近サウジアラビアのプリンスにも勲章を授けたりしたということが批判されていましたが、完全に政治的、外交的なものですね。

この手の「騎士団」の特徴は、フリーメイスンと同じく内部にヒエラルキー、位階がはっきりと分かれていることです。中世の騎士団には内部の位階はありませんでした。

神殿騎士団のことはずっと調べているのでいつかは書こうと思っていますが、オカルトや陰謀説をインスパイアするようなのでなかなか切り口が難しいですね。

今は知りませんが、少なくとも20 世紀の例では、フランスの国家勲章って、くれるという通知は来るのですが、事前に勲章を用意して購入するのは本人なんですよ。もらえるものだと思って手ぶらで行ったらもらえなかったので、持っている人に借りた、という例もあります。つけてもらえるという儀式が重要なんですね。アンチックショップでもいくらでも売ってますし。

ただし、国家勲章をもらった人の娘や孫娘だけが入れる中高一貫校があって、制服もある全寮制というフランスらしくない場所なのですが、これも、女性限定というのも含めてなんだかなあ、と思います。フィンランドもそうですが、「共和国」っていっても、「?」なものはいくらでも残っていますね。

http://www.setukotakeshita.com/

780ヴィオラ:2018/01/19(金) 05:42:44
(無題)
お返事、ありがとうございます。

フィンランドは宗教に関してはアナクロのようですが、政治に関しては民主主義や人権、法の支配の原則などはしっかりしていると思います。
ソマリ出身の国会議員は少なくとも数人いて、アフガニスタン出身の国会議員(女性)もいました。市民権はなくても、永住権があれば地方議会の選挙権・被選挙権があるので、地方のレベルではもっと色々です。学問も出身国による差別というのは、ほぼないだろうと思います。

移民受け入れは、スウェーデンに比べればずっと少ないです。でも、今後人口減少が進めば、増やしていくでしょうね。まあ、スウェーデンは北の植民地帝国だったし、巨富の蓄積があるお金持ち国です。

金髪碧眼の中で、違いが目立つということはありますね。アフリカ系で、道を歩いていて「国に帰れ」とか言われ、嫌な思いをしている人達はいると思います 。でも、最近は減少しているらしいのですが、アフリカ、アジアなどからの養子も普通にあります。今はどこもそうなのでしょうが、極右の政治家はいるし、ネオナチのようなグループもあります。2015 年の「難民危機」では、受け入れ反対と賛成が拮抗していた感じです。賛成論は、困っている人達は助けようというキリスト教的な主張でした。

私は、幸か不幸か人種差別はほぼ感じたことがないのです。日本人に対しては好意的というのは、あると思います。まあ、そういうのもちょっと問題で、だから日本人で良かったとかは全然思いませんが。

少し前の竹下さんのブログで、お葬式に行く前、バッハの無伴奏5番サラバンドを弾いたとあるのを見て、もう10年以上も前のことですが、父のお葬式から帰ってヘンデルの組曲11番のサラバンドを弾いていたことを思い出しました。父とは親しくはなかったのですが、胸がとても苦しくて、なぜかあの曲を弾かなくてはならない気持ちでした。弾きながら泣きました。竹下さんは、ギターを弾かれるんですよね。私はピアノです。

竹下さんのブログ、これからも読んでいきたいと思います。また、何か質問させていただくかもしれません。その時は、どうぞよろしく!

781sacra 桜:2018/03/06(火) 09:26:17
ゆるしの秘跡
ご返答くださりありがとうございます。
質問をした背景はまず、ゆるしの秘跡が現代のカトリックを生きる上で核心となっていると考えるところがあり、この視点から見えてくるものを探しているからでした。

リンクをつけてくださいましたご記事は掲載時に読んでいました。ブログ記事のおかげでこの二作の感動的な映画を知ることができて有難いと思いました。東京のニコライ堂の記事もおもしろく読みました。「マックス・ジャコブの回心」の一連の記事は圧巻です。たしかに私達が生きている時代の少し前にはすごい人々が沢山おられて、遺してくれた書物や作品等は そこから大きな刺激を得られる資料でもあります。先生がご著書や論文を通していろいろ教えてくださることに感謝しています。また、自分でも少し調べてみたい破門の危機を通過された聖書神学者のことなどもありますが、いずれまた質問したく思います。

今回のことは、もっとごく普通の市井の信者の場合のゆるしの秘跡を巡る思考についてことでした。とりたてていうような劇的な回心があったわけでもなく、大抵は温厚で協調性のある、神学に特に深入りする必要は感じられないけれども、それなりにそこそこ教養もあるタイプの一般信者の場合です。もう少し質問をふくらませるか、具体化させることができるか、考えてみます。

それにしても、先生のお尋ねになられたことも神父さまのお答えもどちらもすごいです。そしてそのことをストレートに書いてくださったことも。どうもありがとうございます。

あと、「再教育」という語で表したかったのは、パリの或いは地方の大都市のカトリック学院などで随時開催されている一般にも開かれているセミナー、半日から一日または泊り込みの黙想会や研修会、都市内にある修道院(托鉢修道会等)で定期的に行われている講義など、結構活発なことをご存知だと思います。

また少し日をおいて質問いたしたく、重ねてありがとうございました。

782sekko:2018/03/06(火) 19:18:42
sacra 桜 さま
なるほど、そういうことだったのですね。

フランスにお住いなのだと思いますが、そして、ゆるしの秘跡が核心ということも共感しますが、私の感じるのは、カトリックにはゆるしの秘跡が核心、キリスト教には「赦し」が核心ということかもしれません。ゆるしの秘跡を受ける以前に自分が多くのこと、多くの人に対する「赦し」を全然できていないと思うので。

フランスの司祭さんの話は、https://spinou.exblog.jp/25470580/ に書きました。

その前にも https://spinou.exblog.jp/25452617/ にも書いています。

この19区の司祭は、聖体を授ける時も、告解の時も、わくわく楽しそうで、人間と神さまが大好きって感じでいいですね。司祭と差し出ゆっくりお話をするのにわざわざ約束をとったりするのは敷居が高いですが、告解の時にいろいろお話できるのは気に入っています。

去年は日本で東京カテドラルの枝の主日のミサに出たので、ミサの前に告解したのですが、うーん、ブログには書きませんでした。メンタリティが違い過ぎて。

フランスの私と同世代か少し上の人は、1970年以前にカテキズムを受けた人ばかりで、この人たちは、まさに、68年で教会からも信仰からも離れた後で、リタイアしてからすごく積極的にいろんなカトリックの講座に参加している人が多いです。パリではプロテスタントの講座もカトリックの人が結構います。
この世代の人は、告解というと、罪悪感、許してもらわないと地獄に堕ちるよ的な上から目線メンタリティの司祭を前にしてトラウマになった人がけっこういるのですが、私が「祝福だけしてもらったら?」とかいうと、結局半世紀ぶりに免償してもらってすっきりしたりしているようです。

パリのアンスティテュ・カトリックで神学部長を2011年から二期6年つとめたドミニコ会のチィエリー=マリー・クロー師は、私が2011年に東日本大震災のチャリティコンサートを開いた時にも来てくれたすてきな人ですが、仏教の講座を持っていて、最初に知り合ったのもヴァンセンヌのパゴダでした。彼から神学部のカリキュラムをもらっていたので周りのリタイア組に配りました。

sacra桜さまのおかげで、今年もちゃんと復活祭しなくちゃ、とスケジュール立てはじめました。ありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/

783sacra 桜:2018/03/07(水) 08:02:23
ゆるしの秘跡
ご教示くださりありがとうございます。

質問に至った理由のひとつに、この四旬節に上映の「ラパリシオン」(2月26日の紹介記事ありがとうございます)と「ラ プリエール」によせてふと思ったことがありました。両作品の制作は確かに誠実です。ただ、そのあとのこと、その先で学ばなければならない事柄についても触れ得る作品を今後は期待したいのです。神秘を感じること、回心の方向に導かれてゆくこと、愛の存在に気づくこと、でも実人生ではそこから先を生きてゆくのでは? そこで「再教育」というか、むしろ「生涯教育」というかたちのコミットメントのことがでてくるのではないかと。そして救済のコンテクストがカトリックであれば、生涯にわたって年一度は「ゆるしの秘跡」を受ける義務があり、程度の差こそあれ真摯に取り組むことになります。

仰るとおりです。フランスの地方都市ですが、通っています教区教会のごミサに与る方々を拝見しても、68年世代の方にはそういうケースが少なくないのではと思います。リタイアされた後はいろいろ考えたりする時間がとれることも、さらに離婚や病気・介護などのファクターが加わる時には尚の事。またその子供や孫の世代の人達に、カトリックに新たに入信されるケースも多いようです。そして新たに獲得された熱心さを継続するためにも教育の継続が必要であり、そこに「ゆるしの秘跡」の理解の大事さがあると。

「和解」というターム。神さまとの和解、教会との和解。その意義は頭では理解できるのですが。アルフレッド・ロワジーの ? Jésus annonçait le royaume, et c’est l’Église qui est venue ? がよぎるわけではありませんが、後者のほうが前者より難しいと思ってしまうところに私は自分の弱さをみてしまいます。

アルジャントゥーユのレポートでは、これは司祭さまとの秘跡というよりおしゃべり枠の対話だったと思っていました。ところで告解はこちらで仏語でなさる方を好まれますか?

既にご存じかもしれませんが、京都大学リポジトリに告解を対象にフィールドワーク調査を試みた珍しい論文があったので、題名とURLを :
? 主体化をめぐる複数の回路とトランスカルチュレイション : マルタにおける告解の事例から ?
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/177240

ご返答くださり本当にありがとうございました。

784sekko:2018/03/07(水) 19:19:07
sacra 桜さまへ
京大の論文、さっそく読みました。

告解が司祭対平信徒とあるのが少し気になりました。司祭も告解をするのですから、マルタのようなコミュニティで司祭同士が告解している内容の方に好奇心があります。それとも内輪同士ではなんだから別の教区から告解司祭にきてもらっているのかしら。

私も一度はフィールドワークを考えて、同じ罪を告解したらだれがどうこたえるのかを比較しようかともしましたが、やはり、向こうに一方的に秘守義務があるのではフェアでないので、もっぱら質問ばかりしています。フランス人司祭は話好きだし考えを言語化するのがうまいですから充実しています。

日本のことはよく知らないのです。しかもマイノリティ独特のメンタリティに同調圧力も加わって、フランス頭で関わると??なことばかりです。

なかよしの宣教師さんや神父さんとは話がはずみますが、突き抜けて自由なのはシスターたちだなあといつも思っています。

密室のフィールドワークというのはもうずっと、霊能者とか占い師を対象に日本でもフランスでもやっていますが、日本ではあまり質問すると嫌がられます。自分は自分の話をするためにいるんじゃない、と言って。
私は時間をお金で買っているのだから取材であることも隠さないのですが。
でも、本当に霊感のありそうな人?からは、「あなたは自分のこと何にも考えていませんね」と見抜かれます。

私は告解司祭とか、占い師とか、心理療法士とか、「罪の精査や来し方行く末など自分のことばかり考えてやってくる人々」と一対一である程度の責任をもって対応する人たちが、相手との「関係性」をどう捕らえているのかに興味があるのです。

だから、聖霊が働くかどうかとは別に人間性の豊かでない相手だとがっかりします。

「和解」についても、個人的にはほとんど気になりません。

私にとって、和解というのはある程度対等な関係にあるからこそ対立している相手との間に赦したり譲ったり赦されたり譲られたりして構築していくもので、「神」とか「教会」など自分より大きいものとの関係ではないからだと思います。

神も教会も一方的に赦しいつくしんでくれるという信頼があり過ぎるのかもしれませんが。
向こうからも信頼されているという気もするのでそれに応えたいです。

論文にあった「善きカトリック信者」の言葉ではないので、聞き流してください。

http://www.setukotakeshita.com/

785sacra 桜:2018/03/08(木) 01:04:48
ゆるしの秘跡
ご返事ありがとうございます。

通常行い難い調査をまとめた稀な論文でしょうか。
でもここでいう「善きカトリック信者」というのは、論文を離れればむしろアブない域に入るところもあるのでは。

共感してしまうは、
>>> 小さい頃は良かった。 [...] でも(大人になった)今はね。 <<<
>>> イヤだから告解に行かない <<<
という胸中が述べられているところでした。
このあたりを追求すると卑近な事柄からやがて形而上の内省にまでいたるから、だから「ゆるしの秘跡」の意味があるのかと。
絶対的に赦されていることを最高の恵みとして受けとめる、それなのに、いやそれだからこそ。と、このあたりに「ゆるしの秘跡」の奇跡が存在するのかもしれないと、ごく普通の信者にとっても。。。そして多分ここでは告解司祭さんと信者とキリストさまの三者で小さな奇跡が実現されるのかなあと。(聖職者の方々も様々な悩みをかかえていらっしゃると思います。ご自身の告解義務の頻度も高いでしょうし。ただ、信者の前にそれをみせる必要は普通ならばないほうがいいと考えます。)

数回にわたって よいご意見とご教示をいただきました。心からお礼申し上げます。先生のご助言のおかげで、からまっていた糸玉がほぐれたような気がします。四旬節後半ですが、さわやかな気持ちで過ごしたいと思います。どうもありがとうございました。

どうぞ、よい四旬節を。

786沖島いちろう:2018/08/25(土) 15:16:16
宗教のじかん
で教えを聞いて努力は正しいかいのりもする

787哲学に興味があります:2018/09/13(木) 12:02:22
カントについて
私は編入を考えています。編入を考えるにあたって、生きるとは何かについて大学の講義で考えました。
そのことを契機に生きることについて考えてきました。
生きている時間は無限ではない。死は誰しも避けることができない。限りある命ならただ生きるのではなく、善く生きたいと私は考えました。このことをなぜ哲学的に研究したいのかと言われても、はっきりと理由が言えるわけではありません。ただ言えることは、編入学を志したきっかけとして、私がこのままの未熟な状態では社会には出れないと感じました。今までの私は、言われるがままに流されて生きてきました。だからこそ、自分に意見があったとしても根拠を考えることができず、説得力のない意見しか述べれませんでした。だからこそ自分を好きになるために自分を形成したい。物事の根本を考えた根のある意見を述べられるよう、哲学を勉強したいと考えました。私の入りたい大学に編入した先輩の多くがカントを選んでいたため、私もカントから研究をしていきました。善く生きるとは何かについてカントも考えています。カントの平和論について、人はそもそも邪悪で放っておけば戦争をしてしまうという意見にとても共感しました。戦争だけではない、他のことにも置き換えて考えることができると考えたからです。平和について真の平和を考えていくのであれば、人間は邪悪ではあるが理性を持っているために、道徳について考えることができる。道徳があって真の平和に導き出せると思います。編入後はカントの考える道徳について、原文から解釈することで理解していくとともに、カントが生きていた時代の近代の近代哲学史を研究したいと考えています。近代史を研究する理由として、カントが平和について考える契機は歴との関係、ロマン主義、戦争が関係していると考えました。カントの考えを深く理解、総括的に理解するために、近代史の研究もして生きたいと考えました。しかし、幸福について、他の哲学者、例えばラッセルも考えていました。カントに絞った理由、根拠は何かと言われたら先輩がとなってしまいます。私の考えが浅はかなことは承知です。でもどういう考え方、カントを選ぶ根拠を考えれば考えるほどわからなくなってしまいまhした。どうかアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

788マルヤ:2018/10/02(火) 10:42:31
文献についての質問です。
初めまして。
大学3年生で卒論をイエスの父ヨセフについて書こうと考えております。
竹下先生の『〈弱い父〉ヨセフ』を読ませていただきました。ヨセフについて、信仰の起りから現在の家族の形への影響など幅広く書かれておりとても勉強になりました。
今回、こちらに投稿させていただいたのは題名の通り、『〈弱い父〉ヨセフ』の参考文献を教えていただきたいと思ったためです。主要参考文献は、本に載っており、その他の文献は公式サイトで、とのことでしたが、サイトにアクセスできませんでした。ブログや新公式サイトも探してみたのですが見当たりませんでした。もしそちらに載っているようでしたら教えていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

789Sekko:2018/10/02(火) 18:19:05
マルヤさま
ごめんなさい、確かに、他の参考文献はサイトでにあるような書き方をしていますね。

聖ヨセフはカトリックではビッグネームですから私の本の後にもたくさんの論文などが出ています。

google.frではこういうものが最初に出てきます。よくまとまっています。

http://voiemystique.free.fr/saint_joseph_04.htm
https://questions.aleteia.org/articles/135/qui-est-vraiment-saint-joseph/

英語なら、saint joseph theologyで検索するといろいろあります。

日本語では検索したことがありませんが、神学研究があると思います。

ドン・ボスコ社から出ている月刊の「カトリック生活」の今年の3月号は聖ヨセフの特集で、私もフランスの聖ヨセフ崇敬について書いています。バックナンバーを購入できると思います。

プロテスタント雑誌の「信徒の友」の今年の12月号には家族の形を考えるためのヨセフ論を依頼されて書いているところです。

今はネットで多くの情報を得ることができる時代で、取捨選択、そして自分が何を言いたいのか、をよく考えて、卒論以降の生き方につなげるようなものをぜひお書きください。

http://www.setukotakeshita.com/

790マルヤ:2018/10/02(火) 18:45:39
ありがとうございます。
参考文献に関する質問へのご返信ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
また何かありましたら質問させていただくことがあるかもしれません。よろしくお願いいたします。

791清眞人:2018/10/30(火) 09:11:47
献本先
清眞人と申します。先日、藤原書店から『フロムと神秘主義』を出版しました。同書で竹下さんの『キリスト教の謎』を取り上げさせてもらいました。第?部につけた補注13と第?部第五章360〜361頁の箇所です。同書を献本させていただきたいので、送り先をご連絡くださいませんか?藤原書店にご連絡ください。

792グラ:2018/11/07(水) 10:55:38
新刊を拝読させていただきました
ご無沙汰しております。
「神と金と革命がつくった世界史」を読ませていただきました。
一度の通読では理解不十分なのは、私の力量の無さだと感じております。

アメリカの中間選挙はどちらが勝利しても分断が解消することはありません。
世界規模で、分断や格差が拡大しているのは、この竹下先生の本を読むと、合点がいきました。
原理的に、偶像崇拝化による「帝国主義化」しているグループのガチンコ勝負の観があるのだと思いました。
超克とは、目を覚ますことなのでしょうが、「気違いに刃物」の現状では、冷たい水をどのように用意できるかということかもしれません。
偶像崇拝のメカニズムも学びたくなりました。
新刊の出版を感謝します。

793Sekko:2018/11/08(木) 01:47:54
グラさま
ありがとうございます。

この本はサイトのコメントにも書いたように、私の拠って立つ普遍主義というものの実現がいかに危ういものかを過去に学ぶために考察したものです。

特定の民族、特定の文化、特定の宗教の優位を担保するような偽の普遍的思考とは違い、脱共同体の地平を視野に入れて、1930年代のムニエの人格主義(他紙のブログの修道経済のところで少し触れました)のような新しい社会的な紐帯を、たとえミクロなレベルでも実践しなくては、と思っています。

http://www.setukotakeshita.com/

794若生敏由:2021/03/02(火) 11:30:57
「神の愛と試練」について
「神の愛と試練」に学ぶところがたくさんありました。
 イエスの荒野での試練をエデンの園の禁断の実の話と結びつけた説明は、とても説得的です。

 自由を神とのかかわりで考えることは、けっして無益ではないのでしょう。対立や矛盾の根源を受けとめたり、特定の方向への誘惑を調整できる力がなければ、自由は人間どうしで共有し合う価値を備えられないでしょうから。

「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。人間どうしが自由であるためには、人間につきまとう不完全さや不可知を失念せずに、与えられている生と世界の現実に向き合い、何が可能かを考えつづけることが問われるのだろう、とおもいました。

「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。

 それにしても、その箇所が三位一体のベースとなるところだという指摘は、信仰のない者を新境地に立たせるはたらきになりました。ほとんど繰り返しでしかありませんが、人間が求める自由に広がりのある秩序が備わるかどうかは、イニシエーションのような試練を経ることが条件になる、と捉え直せそうです。

795Sekko:2021/03/03(水) 04:07:48
若生敏由 さま
コメントありがとうございます。


>>>「神は全てを与える。全体性以外は」という言葉は、だれのものなのでしょうか。<<<

特定の引用ではありません。Dieu donne tout sauf la totalité.というものですが、あらためて考えると意味は二つあります。

ひとつは、親が子供に「ここにあるものはなんでも好きなように遊んでもいいよ、でも、電気のコンセントには触っちゃいけないよ、危ないから」というように、神は「ここにあるものは何でも食べてもいいよ、でも、あの木の実は食べちゃいけないよ、死ぬ体になるから」と、子を思っての自由の制限。それは、制限を設けることで自由というものを探り獲得し選択することを教えるという「教育的?」意味。「‥以外は全部」という言い回しです。

もう一つは、逆で、神のくれる「全て」は「無限」であり、その「無限」は、人間が実存世界、現象世界では理解できないし到達もできないものです。「全体性」というのは人間の想像できる範囲での「全体」を網羅したもので、そのような有限の全体性は、神から来るものではなく人間が自分の都合のよいように他の人間に押し付ける逸脱にもなるという感じです。(そのまた逆で、全てを与えるけれど、無限を含む全体性は与えられない、とも読めますが、無限というのは「含まれない」ので無理かも。)

ともかく、この世にある限り、「全て」を得ることはできないし、やはり超越的感性にインスパイアされた理念みたいなものに拠って、たえず生き方を更新していくことを促されているのかなあと思います。

>>>「聖霊がイエスを荒野に追いやった」というマルコの一節について。
 ご存じかもしれませんが、田川健三が自身の訳著で興味深いことを記しています。興味深いというのは、本人が若い頃に出した『マルコ福音書・上巻』(1971)での注解を、『訳と註』(2008)では、不正確だったと率直に認めて、「この箇所は霊が何ほどか強引にイエスを荒野にほうり出した、という意味」であると記していたことです。学者であっても、通念や通説との的確な距離を保ち、確信を提示するのはやさしくはないのだなと感じました。<<<


それは知りませんでした。田川健三さんの『批判的主体の形成』は、学生運動が挫折した後で大学に入った私のそれこそバイブル的な本でした。誠実に生きるというのはこういうことかと思いました。その後『イエスという男』は読んで、いろいろな気づきを得ました。
今回、若生さまのコメントを読んで懐かしくなり、田川さんをググったら、「神を信じないクリスチャン」だと自称なさっているとか。

「神を信じる」というのは? credere Deum ?, ? credere Deo ? ,??? credere in Deum ?と三つあって(アウグスチヌスからトマス)、「神の存在を信じる」、「神の権威を真実だと受け入れる」、「愛によって形作られた信仰」だというのを当てはめると、私は田川さんと逆で「神を信じる不可知論者」かなあと思います。

神が存在するなら、神は私が信じるとか信じないとか問題にするとは思えないし、科学とか知性とかが「不可知」領域を減らしてくれるとも思えません。でも神が存在するなら神に信頼してもらえるように生きたいものです。『無神論』(中央公論新社)の最終章で書いたことと基本的には変わっていません。嘘をつかない(少なくともごまかしや偽善のための意図的な嘘は)、という基本姿勢は田川さんから学んだものだと今でも思います。

いろいろ考えさせていただいてありがとうございました。

http://www.setukotakeshita.com/


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