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伊東静雄を偲ぶ

1morgen:2005/10/24(月) 17:16:21
自問自答する反響
山本先生のおっしゃるように「・・・・・さやうなら・・・・・」というのは、遠ざかっていく過去(または『哀歌』)が、「さよなら」という地上からの詩人の呼びかけに応えているような感じがします。あるいは、翳が「さよなら」と会釈をして、詩人が白雲に向かって「・・・・さやうなら・・・・・」と呼びかけているのでしょうか。

1634Morgen:2020/11/19(木) 23:11:35
『夕 映』
 先日、東北地方(秋田〜盛岡)を小旅行した折に、ホテルの7階の部屋に入ると窓一面に「岩手山麓の夕映え」の絶景が展開されており、急いでiphoneで撮ったのが添付の写真です。(雫石高倉)

 静雄詩「わが窓に届く夕映は ・・・・・・・・・」という「夕映」の詩句がありますが、この詩は次のように終わっています。

「ねがはくはこのわが行ひも
 あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
 仮令それが痛みからのものであっても
 また悔いと実りのない憧れからの
 たったひとりのものであったにしても 」

 前々からの疑問を思い出しました。(結論はありませんが・・・)

「このわが行ひ」とは夕映えの窓辺での詩作であり、詩人はそれが「祝祭」であってほしいと願っています。何のための詩作なのか?―「悔いと実りのない憧れ」というのは詩人の半生についての自省だと思います。
"<痛み>というのは「曠野の歌」にある「わが痛き夢よ休らはむ」の<痛み>と見てよいのかなー? それとも、これも戦時中の生き方に対する自省の言葉なのかな?" という疑問です。
やはり、詩を作ることを「痛き夢」として、生涯を通じて詩語の研鑽に勉めた生き方の表明なのだろうと理解したいと思います。
そのような詩作がどうして「祝祭」になるのか?という疑問もあります。ー「野の花」を捧げるようなもの?
むしろ、ミレーの「晩鐘」の絵のイメージ(祈りの姿)が浮かんできます。

そんな詮索は措くとして、東北の秋の野山を染める色は、独特の深みや複雑さがありほんとうにすばらしいですね。京都の寺社を彩る紅葉よりも、こちらのほうが本当の「日本の色」であるとも思いました。

コロナ禍も第3波に入り、日増しに感染者が増加しておりますが、自力で命を守る行動をするしかありません。私も、当分はまた巣籠生活に戻ります。
皆さまも、くれぐれもコロナ感染されませんようにご自愛ください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001786.jpg

http://(

1635伊東静雄顕彰委員会:2020/11/21(土) 19:35:03
第31回伊東静雄賞
 下記の作品が第31回伊東静雄賞に決定しました。

「ひまわりがさいている」 おおむらたかじ氏 78歳 男性(新潟市在住)

 贈呈式は、令和3年3月21日(日)諫早市で行います。応募総数964篇、募集に当たり、ご協力賜りました報道関係、各詩人団体その他関係先の皆様にお礼申し上げます。
ご応募いただきました皆様に厚くお礼申し上げます。ますますのご健筆を祈念いたします。
                              伊東静雄顕彰委員会

1636中路正恒:2020/11/29(日) 00:40:11
(無題)
伊東静雄が三島由紀夫のことを俗物と言ったのは正しい。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1637中路正恒:2020/11/29(日) 00:46:03
青木さん
青木さん、いい詩ですね。
「哀歌」が彼の心の底に残っている。それをわかっている詩ですね。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1638中路正恒:2020/11/29(日) 00:50:03
セガンティーニ
セガンティーニはドイツ語で書いたのですか?
ドイツ語なら私は読めるので読んでみたいとおもいます。

http://25237720.at.webry.info/201806/article_5.html

1639Morgen:2020/12/20(日) 01:03:36
「冬夜長」
年末寒波襲来により、関越自動車道に数千台の自動車が36時間も立ち往生になるなど、大変な年末を迎えています。皆様のご投稿が途絶えていますが、お変わりございませんでしょうか。
例年(平時)ですと、街も仕事場も、気ぜわしい師走ですが、私はパソコン画面を見つめながら在宅勤務(巣籠り)状態で年越しをする異常な状態になっています。
仕事関係はZOOM等で、顔を見ながら会話をしているので、何となくコミュニケーションしているような気になるのですが、実は10か月も逢っていないのですね。VRとは「まるでリアルであるように」という程の意味らしいのですが、DX(デジタルトランスフォーメーション)が時流となった昨今、超アナロゴな「良寛書墨集」などについ手が伸びて、ページをめくっています。「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」(五合庵時代)という良寛句を口ずさみながら公園の落葉清掃をすることもあります。毎回500リットル程の落葉を袋に入れて公園事務所の車で収集してもらいます。(汗だくになり良い運動です。)
良寛の「冬夜長」や「草庵雪夜作」などの詩には、晩年の良寛の心が込められていて、こちらも心打たれます。私も、一本の線香を焚いて、「草庵雪夜作」を臨書しながら、冬夜を過ごしました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001791.jpg

1640:Morgen:2021/01/05(火) 11:34:09
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

1641Morgen:2021/01/16(土) 21:43:01
「春の足音」でしょうか?
正月から早くも半月が過ぎました。その間に、4大都市圏では「緊急事態宣言」が発令されましたが、昼間の街中の往来や商店街の客数などには大きな減少は見られません。
Zoomによるリモート会議は、正月から3回あり、その内の一回は私が中心になって進行や報告をする会議でした。
終了後に、事務局がが「会議メモ」を作成し、メンバーに配信します。ところがその「会議メモ」には、実際に話したことと別の意味に摂られかねない文章が数か所も見つかりました。慌てて全文に修正をかけ再配信しました。おそらく私の話し方が下手で、表現が明瞭でなかったために生じた誤りでしょう。自分が話したことが聞き手にどう受け取られているかを知る機会は余りありませんから、貴重な機会とみて事務局にはお礼を言いました。次回からは、話す速さや言葉遣いを少し変えようと心の中で思います。

「一月いっとき、二月は逃げる、三月は去る」と昔から聞かされてきましたが、毎日〃、目の前の雑用を片付けていると、あっという間に桜の花が咲き出しそうな気がします。
家の前の公園では「河津桜」(今日アイフォンで撮影)が開花を初めており、メジロが数羽遊んでいます。「春の足音か」そんな感じもします。運動不足解消のために、毎日できるだけ重たいブーツを履いて、1万歩を目標に川沿いの道などを歩いていますが、平均8000歩位しか達成できていません。
皆さま、くれぐれも健康に留意され、明るい春をお迎えください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001793.jpg

1642Morgen:2021/02/10(水) 23:01:23
「庄野潤三静かなブーム」
 2月8日の読売新聞夕刊に「庄野潤三静かなブーム」という記事がありましたので紹介しておきます。
妻が「芥川賞の今村夏子さんの本は何冊も読んでいるけど、庄野潤三さんのお嬢さんだったの?」と訊くので笑いました。同姓同名の別人ですね。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001794.jpg

1643青木由弥子:2021/02/11(木) 08:04:42
おはようございます
庭の梅も満開になりました。
高校三年の娘の受験真っ最中です・・・

『詩と思想』2021年3月号では、永瀬清子を特集しました。最終ゲラを確認したところです(ドキドキ)

伊東静雄と同年生まれの詩人。井久保伊登子さんの圧倒的な(質量共に)永瀬清子の評伝を読み返しながら、この時代について考えています。

庄野潤三がブームとのこと・・・芥川賞作家の今村さん、私も庄野の娘さんかと思っていましたが・・・違うのですか?!文才が引き継がれたのかと勝手に思い込んでいました。

いま、詩友(というか畏友)と、庄野の『前途』と『春のいそぎ』をつきあわせながら、「久住の歌」や「うたげ」などを読み直しました。ズーム使用、文字起こしと整理をして、こちらももう一人の詩友(こちらも畏友)の個人誌に掲載して頂く予定です。

しばらく、こんな形で『春のいそぎ』の時代について考えていきたいと思っています。

1644伊東静雄顕彰委員会:2021/03/01(月) 10:08:53
菜の花忌・伊東静雄賞贈呈式中止のお知らせ
令和3年3月21日予定の第57回菜の花忌・第31回伊東静雄賞贈呈式及び記念講演はコロナウイルス感染防止のため中止いたします。

1645Morgen:2021/03/11(木) 01:58:26
「花」ー菜の花忌によせて
首都圏の緊急事態宣言延長の影響により、「第57回菜の花忌」が、コロナウィルス感染防止のために中止になり残念でした。
「菜の花忌」に因んで、何処かへ菜の花の写真を撮りに行こうかと思っていたのですが、未だ実行できていません。代わりに、伊東静雄が『舞踏』に投稿した「花」という口述作品のオリジナル(ガリ版)が手元にありますので、コピーして添付してみます。(少し見にくいですが「全集」にも記載されていますのでご参照下さい。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
病気になって色んな人が豪華な花を、次々にもってきてくれた。
それらの花を、美しいと思ふより、季節の移り変りが感ぜられて、自分の病気の長いのが思はれた。三十九度以上もの、熱のなかで、室咲きの繊細な華麗な花を、みていると、何だか非情な気がした。
ただ一度、となりの部屋で、(その部屋とは白いカーテンで仕切りがしてあるだけ) 椿の枝を、瓶にさしてゐて、その影が、夜ははっきりと、カーテンにうつった。そして、となりの患者が、
「ああ、蕾がひらいた」、
と、何度もいふのが聞こえた。あんな固い蕾が、冬の冷たい一鉢の水でひらいて、造りもののやうに部厚い濃色の花辨が咲きでるのを、想像して、何故だか、大へん不思議な気がして、一途に、その花がみたく、又、自分も椿の蕾を、花瓶にさしてみたくなった。・・・

「三十九度以上もの、熱のなかで、室咲きの繊細な華麗な花を、みていると、なんだか非情な気がした。」というのは、見舞客の豪華な花に「思いやりのないつめたい」という気持ちさえしたと詩人は言っているのです。
そして、カーテンで仕切られた隣のベッドで、椿の蕾がひらき、「あんな固い蕾が、冬の冷たい一鉢の水でひらいて、造りもののやうに分厚い濃色の花辨が咲きでるのを、想像して、何故だか、大へん不思議な気がして、一途に、その花がみたく、また、自分も椿の蕾を、花瓶にさして見たくなった。」と、素朴な(藪)椿の花弁が咲き出るのを想像して羨んでいます。・・・

「花を、そんなに欲しがったのは、その時だけであった。そのころが、わたしの病気の一番危い時期であった。」(・・・その憂愁の深さの程に・・・)「自分も椿の蕾を、花瓶にさしてみたい」と、無性に、非常に強い欲望を感じたのは、「ああ、蕾がひらいた」という生命への感動や憧れでしょうか。(・・・明るくかし処を彩れ・・・)

「未だ生きているというしるしに、」口述した言葉が、ガリ版で文字にされ、「花」という一篇の詩ができた。―伊東静雄が、庄野潤三に語ったという次の言葉が思い起こされます。
「詩とは作者と対象との間に内部対外部といふ壁があってはいけないので、つまり言葉はそのまま思想であり情緒となってゐるやうな、さういふ独特な言葉を用ひなければいけない。一度さういふ働きを持った言葉を見つけると、次から次へと湧き出てくるのでせうねと云はれた」(庄野潤三「日記から」)

3月12日には、我がささやかな「菜の花忌」の布施として、盆栽の椿を室内に飾り、「ああ、蕾がひらいた」という瞬間を見てみたいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001797.jpg

1646Morgen:2021/03/24(水) 00:57:33
「百花発」されど「疫病退散の神」は何処?
皆様 お変わりございませんでしょうか。

椿(「玉之浦」)が一斉に開花しましたので、一部を路地の玄関先に飾りました。アイフォンで撮った写真を添付してみます。派手な肥後椿も一部開花しており、自然界は将に「百花発」の時候に入りました。

―良寛さんの漢詩「?庭百花発」―
?庭百花発 (間庭 百花 発<ひら>き)
餘香入此堂 (余香 此の堂に入る)
相對共無語 (相対して 共に語無く
春夜々將央 (春夜 夜将に央<なかば>ならんとす)

マスクをしたご近所の老人たちが、花の前でちょっと立ち止まり「相對共無語」・・・
時節柄「お茶でも如何」と誘うこともできません。

コロナ感染の勢いは、首都圏・近畿圏とも再拡大の傾向にあり、頼りになりそうな「疫病退散の神」は未だ目覚めてくれません。只管自守自命? 重々ご自愛下さい。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001798.jpg

1647Moregen:2021/04/19(月) 13:16:57
「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」
茨木市立図書館<富士正晴記念館>で、「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」が開催されています。
『舞踏』のバックナンバーを検索していて偶然見つけました。今から早速行ってきます。
 富士正治富宛書簡や、興味深いオリジナル書籍が展示されているようです。
 企画展の模様は、後日投稿します。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001799.jpg

https://www.lib.ibaraki.osaka.jp/?page_id=181

1648青木由弥子:2021/04/19(月) 13:25:53
みなさま、お気をつけて
コロナ感染がなかなか収まりません。大阪近辺、どうぞお気をつけください(東京も再びあぶなくなってきました)zoomが盛んになりました。私も何度か、研究会やら「お茶会」やら「飲み会」やら・・・(以下省略)
zoomの画像にしている版画は、詩集『しのばず』の表紙にも使わせていただいた謡口早苗さんに頂いた版画です。灯台。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001800M.jpg

1649Moregen:2021/04/20(火) 22:25:54
『春のいそぎ』表紙絵
青木様 お元気そうで何よりです。本当に、毎日Zoomや Slack という外国製アプリに頼りきりです。

 茨木市立図書館併設<富士正晴記念館>の、「「企画展 二人の詩人 富士正晴と伊東静雄展」に行ってまいりました。私の他に客はなく、観覧時間が長かったので図書館員が見回りに来ました。「展示品の入れ替えはあるのか?」尋ねましたが、年に三回という返事でした。
 展示目録 https://www.lib.ibaraki.osaka.jp/?page_id=181 にはありませんが、『春のいそぎ』表紙絵(原稿)は3つあったことがわかりました。?高村光太郎画(展示)? 富士正晴画、詩集?実際の『春のいそぎ』表紙です。富士正晴画は、前稿に載せた今回の「企画展」ポスターに使われています。
 静雄詩の生原稿も「七月二日・初蝉」「山村遊行」等がありましたが、後日清書して贈られたものかも知れません。(整い過ぎか?)
 収蔵品目録によると富士正晴宛伊東静雄、伊東花子書簡はそれぞれ百通近く(以上?)ありますが、展示されているのは一部だけです。(できれば全部読みたいですね。)ガラス越しのため読み難いのもあります。七月までには何回かは行けそうです笑顔の写真の展示してありました。(写真撮影禁止の為添付はできません)

 願わくは、同館の所蔵品をお貸しいただいて諫早市立図書館でも「企画展」が開かれないものかと思いました。

1650青木由弥子:2021/05/01(土) 17:00:18
表紙絵
Morgenさま

たいへん興味深いお話をありがとうございます。伊東静雄が・・・「せっかく」描いてもらった原画を拒否、したのか・・・諸事情で実現しなかったのか。高村光太郎のように詩壇のリーダーシップをとる、という位置からは意図的に距離を置いていたように見えます。小高根さんが、静雄はあまり『春のいそぎ』の表紙絵に満足していなかった、と書いていたような記憶がありますが、これは、現行の絵についてなのか、別の絵についての話だったのか・・・再読してみます。

1651Morgen:2021/05/01(土) 22:51:48
『春のいそぎ』表紙絵(続)
青木様

『春のいそぎ』表紙絵原画(候補)として、高村光太郎画と富士正晴画が<富士正晴記念館>に現存していることをとりあえず注記しておきたいと思います。
ちなみに、『伊東静雄研究』(富士正晴編)p136に次のような一節があります。

…第三詩集『春のいそぎ』は桑原武夫、下村寅太郎の力で弘文堂から出ることになってをり、その編集にいくらかわたしも関係した。その装釘はわたしがすることになってぬて原画もできてゐたが、弘文堂をわたしが出たために事はこぢれ、わたしの装釘ならば出さぬと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。…(富士正晴「伊東静雄のこと」)

高村光太郎画も富士正晴画も、「大東亜の春の設けの、せめては梅花一枝でありたいねがゐ」から、画中に色彩豊かな「梅の花」を描いています。実際の『春のいそぎ』表紙は、和紙カバーの見返しに「装幀者 須田國太郎氏」と記され、薄緑の「梅の小枝」が慎ましく描かれています。

1652Morgen:2021/05/04(火) 00:27:26
訂正
 前稿に少し誤りがありましたので訂正させていただきます。(スミマセン)

⇒(訂正後)その後、伊東静雄は桑原武夫のところへ私を連れて行った。
第三詩集『春のいそぎ』は桑原武夫・下村寅太郎の力で弘文堂から出ることになってをり、その編集にいくらかわたしも関係した。その装釘はわたしがすることになってゐて原画もできてゐたが、弘文堂をわたしが出たために事はこぢれ、わたしの装釘ならば出さぬといふことになったと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。その時の伊東静雄の態度には一寸幻滅を感じたが、わたしはすぐにそれを忘れた。(富士正晴「伊東静雄のこと」『伊東静雄研究』(富士正晴編)p136)
ー高村光太郎と富士正晴は、竹内勝太郎詩集『春の犠牲』の編集で協力した関係でした。

(以下PS)
ー伊東静雄が桑原武夫のところへ富士を連れて行った。」のはいつだったのか?
書簡や日記などを調べてみましたが、正確には解りません。(9月15日付け日記から?)

ー10月25日、『春のいそぎ』見本一冊来る。たいへん気に入らぬ。(庄野さんに)どうですといふと、いいですよと答えるので、さうですか、貧乏たらしくじじむさいでせうと力を入れて、かざして見せると、ははと笑いながら「先生がさういふと、何だかほんとにさう見えますよ」と、こちらの例の力説をわらふ。(10月20日日記から)

ーなお同書奥付では、昭和18年9月10日 初版発行(2000部)となっていますが、伊東静雄が京都へ行き、弘文堂で『春のいそぎ』を受け取っ10月26日26日となっています。
 また同日、午後9時45分、蓮田善明を大阪駅で見送り、11月には富士正晴にも召集令状が来ます。「大本営発表で、損害の大きかったことが報じられ粛然たる思いで聞く。」等、戦局は次第に風雲急を告げていきます。時は敗戦まで残すところ1年10か月という戦争末期でした。

 大毎の井上靖へも寄贈。「伊東静雄氏との出会いは遅かった。戦争末期、たまたま新聞社へ贈られてきた詩集『春のいそぎ』を繙くに及んで、氏とは無縁ではなくなったのである。」(井上靖『作家点描』p186) 同氏は、江藤淳「伊東静雄の詩業について」を優れた伊東静雄論として褒めています。(『伊東静雄研究』p612〜627 昭和40年8月『現代詩手帖』では「崩壊からの創造」)

1653Morgen:2021/05/05(水) 15:49:00
余事かも知れませんが・・・
もう一度茨木市立図書館併設<富士正晴記念館>に行こうと思いながらまだ行けてません。
余事かも知れませんが、詩集『春の犠牲』出版事情について、富士正晴さんの文章がありましたので紹介します。(『竹内勝太郎全集』第1巻 p530「解題」)

 ・・・高村光太郎とはその以前、富士が大阪府庁から三月ほど東京に出張しておった時に知り合い、すでに高村光太郎は竹内勝太郎の詩すべてを読んでおり、また高く評価していたので、富士のたのみにより共同編集者として、詩の選択に協力もし、後記を書いた。この詩集はいわば、竹内勝太郎の全時代にわたる詩華集であり、「三人」連載の評論を末尾に加えた。余事かも知れぬが高村光太郎はこのときの弘文堂よりの謝礼全額を「三人」に寄付し、富士の何かお礼したいという申し出に対して、やっと竹内勝太郎使用のペンならいただくということで、竹内家に残っていた万年筆の軸に、竹内が黒部で墜落する途中、出っぱった岩につき当たったさい折れ残った万年筆のキャップの中にあったペンを差し込んだのを贈った。これは空襲で、高村光太郎の家とともに焼失した。

 詩集『春の犠牲』( 昭和16年1月 弘文堂書房刊 高村光太郎・富士正晴共同編集  題字及後記高村光太郎)は、さっそく東京の古書店に注文しましたので、2〜3日中には着くと思います。

もし、老梅の幹から出た数本の梅花小枝を描いた高村光太郎画が『春のいそぎ』表紙絵になっていたら伊東静雄の「貧乏くさい」「じじむさい」という評価は、少しは改善されたかどうか(?)は分かりません。そんなことを考えながら、もう一度茨木に行ってみます。

<前稿訂正漏れ>
わたしの装釘ならば出さぬといふことになったと伊東静雄から聞かされて、わたしは手を引いた引いた。→「引いた」削除。

1654Morgen:2021/05/20(木) 23:50:40
「茨木市長リコール」の思い出
最近報道されている愛知県知事リコールの不正署名に関連して思い出すことがあります。
「富士正晴記念館」のある茨木市は、1970年に開催された万国博覧会への最寄り駅として駅前開発が進められ、駅前ビル建設や都銀支店の進出などがありました。
ところが、当時の市長は建設業者と結託し、進出企業に固定資産税を免除するなどの利益供与をし、また公選法違反で起訴されるなど、茨木市は「政争の街」となっていました。
20歳代後半の私は、当時の府会議員と知り合いであったので豊中市から呼び寄せられて、「市長解職請求」の中心メンバーの一人として事務局に詰め、「受任者」の獲得や「署名簿」のチェックなどの手伝いをしました。その結果「万博の街の市長リコール成立」として全国的に報道されました。無効署名もありましたが、愛知県のような不正署名はなく署名数が有権者の過半数に達する堂々のリコール成立でありました。
私は、その後豊中市に戻りましたので、リコール成立後の市長選挙には関わっていません。(府会議員から市長候補について意見を聞かれたので、教育文化都市として発展するためには、富士正晴さんのような文化人市長ではどうかという意見を述べましたが、あんな「竹林の仙人」ではダメだと一蹴されました。その府会議員は市長選に立候補して僅か900票差で惜敗しました・・・半世紀も前の記憶が蘇りました。)
久しぶりに茨木市を訪れても、当時のことを語りあえる人はもう誰もいません。
閲覧したい資料が数点あるのですが、「富士正晴記念館」は、緊急事態宣言の延長により今も閉鎖されています。
私も、不要不急の外出を止め、河川敷ウォーキングで辛抱せざるを得ません。
皆様、くれぐれも用心されて、感染防止にお努めください。

1655Morgen:2021/06/01(火) 01:59:49
苛烈な文明批評?『苛烈な夢』
富士正晴さんのご住所が茨木市安威であることを知ったのは、「関西国民文化会議」を一時手伝っていた関係からだったと思います。(1965〜8年頃?〜「知識人・文化人のベトナム戦争反対声明」)
伊東静雄に関して、富士さんが当時書かれたものは『伊東静雄研究』(思潮社 1971年) 『ユリイカ 伊東静雄特集』(青土社 1971年) 『苛烈な夢』(社会思想社 1972年)などで読むことが出来ますが、その他にも旺盛な文筆活動をされていました。
富士さんは「毎日文化賞」や「大阪芸術文化賞」を受賞されるなど、有名人にもなっておられましたが、ご本人は市長選挙に立候補する気持など全然なく、私も、茨木在住文化人の例としてお名前を挙げたにすぎませんが、内心で市長選を狙っていた当府会議員にはショックな私の発言だったかもしれません。南無阿弥陀仏!)
それよりも、「中原論、立原論」に関して、伊東静雄が書簡(昭和14年10月5日、同22日、同27日)で力説していた論点は、その後どうなったのでしょうか?
「評論は立言である」「評論の目的は、世の俗人共の傷をあばいて怒らせること・・・苛烈な文明批評であってほしい。」(芸術は啓蒙も解説もできん)という伊東静雄の苛烈な言葉を、富士さんはどう受け止められたのか?
『現代詩読本 伊東静雄』の中で、富士さんは次のように述べています。
非常に親切な忠言であるが、おそらくわたしは承服しないで、自分勝手にやって行ったと思われる。認識することにかかっているような当時の私と、行為することにかかっている伊東静雄との間にはどうしても食いちがいがあったようだ。・・・・・わたしは、伊東静雄には悪いが、やはり、彼の詩の解説(解釈)をやりたい気が尚更に起る。しかしそれは解釈でも解説でもなく、寧ろ拈弄というべきことがらなのだ。『夏花』だけはすでにやっているが、その他の分を、彼の全部の詩についてやりたいと思う。それは彼のいう苛烈な文明批評にならぬかも知れぬし、立言という素晴らしいものにもならぬだろうけれど、何か必要なことである気もする。」(『現代詩読本』(思潮社 p207〜208)
林富士馬さんも『苛烈な夢』の中で次のように言及しておられます。
伊東さんの流儀であり、希望であるところの「個人生活を出来るだけくらまし」且つ、「苛烈な文明批評」で私の文章を綴れるであろうかという危惧である。
但し、以上、二つのことが、伊東さんにとって、欲張った、苛烈な夢であったことは確かである。
―同書で林さんが述べられている所謂「俗人」論は一読の価値ありですね。(同書p81)
「何という才ばしった俗人。自分にはよくわかる。自分の中の俗人に。」

1656morgen:2021/06/13(日) 13:56:07
「庭の蝉」(ふるめきごころ→ぜんしょうのおもひ)
皆様いかがお過ごしでしょうか。
「富士正晴記念館」企画展に関する投稿の中で、展示されている伊東静雄の生原稿について、誤って「七月二日・初蝉」と書きましたが、正しくは「七月七日付封書・庭の蝉」だと思います。(展示品目録には記載がありませんが、後で富士正晴宛書簡を見ていて勘違いに気づきました。同館はまだ休館中です。)

「一種前生のおもひと」が、「七月七日付封書・庭の蝉」では「古心(ふるめきごころ)と」になっています。伊東静雄の推敲の後を遺す資料だと思います。
因みに、「古心(ふるめきごころ)」は源氏物語由来で「昔の人の古めかしい心」の意だそうで、「一種前生のおもひ」は、「小泉八雲全集」や「法然上人伝」(佐藤春夫「掬水伝」)などに由来する「前生」だそうです。

昭和16年7月7日付書簡は、「お手紙ありがとう。小生もう学期試験。それが終わると淡路臨海学舎一週間、それでいよいよ休暇になります。昨日めずらしく詩出来ました。…」と、書かれていますので、「七月七日付封書・庭の蝉」の詩は7月6日にできたということになります。
「庭の蝉」は『コギト』昭和16年7月号記載となっています(未確認)が、『春のいそぎ』に収録された確定稿では、「一種前生のおもひと」になっています。

今年の「初蝉」も間もなくとは思いますが、アフターコロナがどう展開するのか、その中で自分はどう生きていくべきなのか?−誰もが確信の持てない危うい状態ではあります。
国際的にはSDGs等の高邁な目標が掲げられていますが、個人的な実感としては敗戦後の伊東静雄に倣って「身辺の事実」をしっかりと見据え、アフターコロナの不安な一歩を踏み出すほかないと思います。
私は、明日ワクチン接種に参ります(自衛隊の大規模接種会場)。
皆様どうぞくれぐれもご自愛ください。

1657佐藤:2021/06/15(火) 22:48:49
小さい手帳から
 morgenさん、お久しぶりです。時折掲示板を見せていただいて折ります。
非常勤の立場ですが、古希を間近にしながら現在も私は伊東静雄と同じ仕事に就かせていただいています。こんな時期、伊東静雄を見倣い「身辺の事実」をしっかり見据えて生きることの大切さを改めて自覚しています。「小さい手帳から」の一節を載せていただきます。

「こんなとき野を眺めるひとは
 音楽のやうに明らかな
 静穏の美感に眼底をひたされつつ
 この情緒はなになのかを自身に問ふ
 わが肉体をつらぬいて激しく鳴響いた
 光のこれは終曲か
 それともやうやく深まる生の智恵の予感か
 めざめと眠りの
 どちらに誘ふものかを
 誰がをしへてくれることが出来るのだろう
 −そしてこの情緒が
 智的なひびきをなして
 あゝわが生涯のうたにつねに伴へばいい」

改めて伊東静雄の詩魂に触れ、励まされている今日この頃です。

1658Morgen:2021/06/16(水) 12:03:12
゛お久しぶりです。”
 佐藤さん お久しぶりです。
 お元気で、お仕事も続けておられるご様子、何よりです。
 私は間もなく傘寿を迎えますが、3月の健康診断では「異常値なし」のお墨付きを頂いたので、在宅でぼちぼち仕事もしています。今日も1時からZoomによるMTGです。ワクチン接種も一回済みました。
 そろそろ断・捨・離が必要だと感じ、昨日は会社の私物を整理してきました。
 これからは、「実現性の無い計画は諦め、不要なものは捨て、何事にも執着しない生き方」に憧れているのですが、これもまた実現性が低いと自嘲しています。

 時々は身辺のご様子でもご投稿ください。(静雄風に言えば「とぜんなか」)

 

1659Morgen:2021/07/02(金) 01:22:54
7月1日・初蝉
皆様お変わりございませんでしょうか。

朝起きると公園でクマゼミがないています。昨夜は強い雨が降り、朝から太陽が照ったので梅雨明けと勘違いしたのか? 今年は、梅雨入りが随分早かったので、蝉が勘違いをするのもムベなるかなです。

先日、会社の広報部3人からインタビューを受けました。
質問「80歳を過ぎても働こうと云う理由は何ですか?」
応え「?ポツンと十軒家″と言える程の、辺鄙な田舎の長男として生まれ、?足腰立つ間は働くのが当然だ″という風土に育ったからです。会社の仕事がなくなったら公園の雑草取りでもせっせとやります。」― 若い広報部員に理解できたかどうか(?)は疑問です。

昭和45年発行の『四季』(季刊7/8号)に、座談「伊東静雄(その人と作品)」が載っています。(井上靖、桶谷秀昭、小高根二郎、西垣脩、宮城賢) そのひとこまを紹介します。

小高根「伊東の生家の家業が豚の仲買であったこと。これが想像以上の深い暗黒部として、彼の精神構造の中にわだかまっていた」
・・・小高根さんは、繰り返し許しがたい「差別発言」をしています。(俗物の見本)
桶谷「・・・これはもういかんと思いました。(笑い)」

有名な文学評論家たちが初めて伊東静雄の詩を読んだのはいつ頃か?
―『我がひとに与ふる哀歌』や『夏花」は発行部数が少なく、読みたくても入手不可能だったようです。
『ユリイカ』(1971・10)の座談会(川村二郎、菅野昭正、大岡信)では、川村:昭和18年、菅野:終戦直後 大岡:戦後「現代詩集3巻本」・・・

このように、伊東静雄が、大勢の人に読まれるようになったのは、『反響』や「伊東静雄詩集』が出版された戦後からのようです。
しかも、著名な学者達が「伊東静雄論」を雑誌や単行本所収論文として発表しだしたのは昭和40年代になってからです。小高根『生涯・運命』(昭和40年)は、それらに少し先行したために、誰もが無視できなかったのでしょう。この本について、島尾さんは「よく読んだうえでその内容は全部忘れるべきだ」と言っています。(問題個所が多い)
「伊東静雄全詩の逐詩解説」を目指すと先人達が言ってから随分と年数が経ちますが、まだ実現していません。果たしてそんな本が今時売れるのだろうかという疑問すら湧いてきます。私達に出来るのは、この掲示板のようなデジタル空間で色々とおしゃべりをして、伊東静雄を偲ぶ蠟燭の火を絶やさないように努めることくらいだとも思います。
コロナ禍の梅雨時、くれぐれもご自愛いただきつつも、皆様のご投稿をお待ちしています。

1660青木由弥子:2021/07/03(土) 12:28:10
文学論の流行に乗るか反るか
皆さま

お元気ですか。
先月末に四季派学会があり、思潮社の現代詩文庫解説をされている藤井貞和さんの講演がありました。

四季派学会の 理事の方が、藤井さんも学生時代に受講した三好先生の教え子とのことで、そのような思出話から始まったのですが。

最初のエピソードが、高校三年生のとき、注文していた伊東静雄全集が届いたという報を受けて、卒業式を「すっぽかして」本屋に取りに走ったというお話でした!
(新潮社版の文庫で「戦争詩」削除に衝撃を受けた、という・・・そこに至る前段があるのですが、その件については以前、私的に伺ったことがありました。)

講演そのものは、全体を見渡しつつ「そのとき」の「自分と周辺」を間近に観て回るような、鳥が遠い空を旋回しながらポイントごとに舞い降りてくるような自在な視点で、とても触発されました。

高校時代の話から始まり、四季派学会の東さんの「四季派学会会報」の記事のことから三好さんのお話へと移り・・・60年代の状況の学問への影響⇒当時の学問潮流、ロラン・バルトの来日⇒テクスト論などの新潮流⇒その流行に「ノル」か「のらない」か⇒ポストモダンの時代にどう対処したか⇒吉本隆明は政治状況に参加していき、鮎川は距離を取って屹立していた⇒80年代、冷戦の状況が固定化するのではという不安の中で、鮎川は(予言とは言わないまでも)ポストモダンを批判して死んでいった⇒冷戦の崩壊、現代詩の「死」⇒それ以降も詩は書かれているが、まだ第三項は見いだされていない・・・というような流れの話でした。

聞きながら、いわゆる「わがひと」は静雄自身という読み解きは、テクスト論が流行していた時代でもあったということを考えたりしながら、詩人の生涯と知的経験や友人や時代との影響関係、詩人自身の特質といったものの階層・・・透かし絵のように重なるその積層をどのように読みほぐして行くか、というようなことを考えていました。

独り言のような報告ですが・・・

1661Morgen:2021/07/17(土) 13:31:58
「何か滑稽である。」
暑中お見舞い申し上げます。

 30度超えの猛暑を避けて、畳の上に寝ころがって現代教養文庫『苛烈な夢』を読んでいると、富士さんらしい文章に目が留まりました。(同書136頁)

桑原武夫がその詩集が出てから十余年後になって、はじめて「わがひとに与ふる哀歌」を判ったという風に、わたしも、その詩集が出てから三十七年もたって、「わがひとに与ふる哀歌」の頃の伊東静雄のある面に、つまり「イロニイ」とか「クセニエ」とかの言葉に引っかかっている面にようやく気づいた。何か滑稽である。

同書135頁には、「わがひとに与ふる哀歌」という詩集は、全く「コギト」という雑誌なしには生まれてこなかった詩で充満しているという感じである。」(昭和9年〜10年、田中克己、保田与重郎、中島栄次郎等に刺激され、彼らに勝ちたいという緊張と闘い。)と書かれています。そのころの詩人の姿を描写するものとして、説得力があります。

また、同書130頁に、大岡信の分析「抒情の行方―伊東静雄と三好達治」(1965・11『文学』<下記*注に要約しておきました>がありますが、熱い最中なので、興味のある方だけ読んでください。
詳細は、『伊東静雄研究』(富士正晴編)650頁〜670頁「抒情の行方―伊東静雄と三好達治」をご参照ください。
富士さんも、小高根二郎の「三好達治嫉妬的逆上説」は俗論であり、本質的な伊東静雄と三好達治との詩観の相違の違いによると結論付けています。

富士さんのように、?「イロニイ」とか「クセニエ」とかの言葉に引っかかっている面にようやく気づいた。何か滑稽である"と軽く言っていただけると、我々素人でも何となく判ったような気になるものですね。

茨木の「富士正晴記念館」が再開されたようなので再訪してみたいと思います。

<*注>
主題を表現するために言葉があった詩人(三好)と、すでに存在している主題を言葉によって可能な限り消去してゆき、その消去法から結果するはずの、言葉の充溢した空無のうちに、時空の日常的限定を脱したポエジーそのものの出現を期した詩人(伊東)との違い。

「わがひとに与ふる哀歌」に即して結論だけを私なりに要約すれば次のようになる。
 →「太陽の輝きを希って歩んでいく意志の純粋な指向性」だけが残り、「純粋な精神現象としての、詩とよばれる構造物になる」(・・・日本の伝統的な叙述法にさからった歌い方。萩原朔太郎『氷島』と認識上の共鳴点がある。)=ロマン派以後の西洋近代詩の歴史(荒唐無稽な課題・不条理の感覚を言語化する。)

しかし、伊東静雄はこの詩的世界(息苦しい稀薄の曠野)に長く留まることはできなかった。(稀に根付きかけた極めて西欧的な詩の概念〜伝統的な抒情詩の居心地良い歌いぶりへ)

1662morgen:2021/08/11(水) 03:56:26
「・・・この烈しき夏の陽光の中に生きむ。」
「八月の石にすがりて」という静雄詩句から、夏休みに多良岳山麓の川(高来町)で泳いだ少年の頃を思い出します。山の水は、しばらく浸かっていると唇が真っ青になるくらい冷たく、皆で「八月の石にすがりて」時々身体を温めました。

・・・・・
われも亦、

雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。

⇒「・・・然し只前進する自分を―はてはどうならうと―信ずるよりほかに生き方のないことはニイチェの時代と同じなのでありませう。」(昭和11年4月13日付池田勉宛)

 通天閣の階下の空洞を覗き込みながら、「われも亦、青みし狼の目を、しばし夢」みつつ、立ちあがって生きていこうという詩人のポジティブな姿が目に浮かびます。
(TVでオリンピック実況放送を聴きながらの短信。)

烈しき2021年夏の陽光の下、皆〃様くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

1663Morgen:2021/08/03(火) 10:28:52
「序」〜「あとがき」
富士正晴『桂春団治』(唱和42年11月 河出書房)の「あとがき」と「序にかえて」が非常に面白かったので(少し長いですが)紹介してみます。

「あとがき」(富士正晴)から
昭和36年、講談社の『20世紀を動かした人々』という前週の第8巻「大衆芸術家の肖像」の中の一つ「桂春団治」が思いがけぬことに私の担当となった。・・・全然と言っていいほど、桂春団治について無知なのに、桑原武夫氏は春団治のことは私が知っているから教えてあげますと押さえつけ、貝塚茂樹氏はにこにこして「いや、春団治は君にかぎるんや」と合点のいかぬことを言った。→「ゴリガン」(強引)説

「序にかえて」(桑原武夫)から
「・・・こんな話をいくつかし、また家にあるレコードを聞いてもらううちに富士君は仕事にとりかかる。すると春団治に取りつかれたようになり、講談社の短い仕事がすんでも縁が切れない。そして4年、ここに見られる大作が生まれた。・・・明治・大正・昭和三代の上方落語史は、今後この本なしには研究しえないことになった。」

桑原武夫氏は、「共同研究」により大きな業績を残した学者ですが、大手出版各社とも強い人脈があり、筑摩書房「近代日本詩人選18」の『伊東静雄』を書くように杉本秀太郎氏に勧めるなど、多くの人材を育てました。→「愛情説」

「序」に書かれていることを要約すると、杉本氏は、その方法として当時流行の「テキスト論」に拠り、『我が人に与ふる哀歌』の28篇の詩を、「私」と「半身」との対話劇として構成しつつ、逐一、配列順に註解するという仕事に挑戦された。

「あとがき」では以下のように言っておられます。
『哀歌』の全篇を「私」「半身」というふたりの擬作者に割り振ることが「意識の暗黒部との必死な格闘」の実情を明かす確かな一つの方法である。おびただしい伊東静雄論が「トマトの連作」のように小粒化していくことに義憤を感じた試みであり、これが端緒となって、伊東静雄の詩に対するあらたな読みが次々にあらわれるようなことになれば、トマトの連作はやむかも知れない。

本書については、例えば長野隆『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』(思潮社 1999年8月)―付 杉本秀太郎「伊東静雄について」―ほか幾つかの批評がなされていますが、杉本氏からの応答は見つかりません。(「桑原武夫が書けというから書いた。」という呟きのみ)
また、内容からみても杉本氏の『伊東静雄』を「注釈書」として読むには無理があり、静雄詩解釈の「通説」や「有力説」からも外れているというのが大方の見方のようであります。

本稿の当初の表題は?桑原武夫氏は「ゴリガン」(強引)であったか?″としましたがおそれ多いので訂正しました。
当時の桑原氏、杉本氏、富士氏などの所謂「新・京都学派」とも称される関西文化人達が、京都のバーやお茶屋にたむろして、また各個人宅に泊まるなどして、濃密で温かい交友関係や師弟関係を醸成していたのは、今から見ると羨ましいかぎりと言えます。
盆も近づき、みなさま「あっちでも」和やかにおやりなのでしょうか?
(もし伊東静雄が桑原氏<1904年5月10日 - 1988年4月10日>同様に80歳代まで生きぬいていたら、そんな京都の濃密な人脈の中で大事にされたかもしれませんね。)
茨木市の「富士正晴記念館」は、緊急事態宣言下でも開館されるようです。

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1664Morgen:2021/09/05(日) 05:16:46
総合詩誌『PO』182号(特集 抒情詩)
竹林館の総合詩誌『PO』182号(特集 抒情詩)に、この掲示板でお馴染みの青木由弥子さん執筆の「伊東静雄――戦時中の抒情を考える」が掲載されています。
なかなかの力の入った論考なので、皆様のご一読をお薦めします。(800円 楽天ブック、Amazonで注文可)

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参考(抜粋による概要)
・昭和十年の秋に刊行された伊東静雄の第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』に対する評価は、硬質、孤高、凛冽な抒情・・・など、冷たく光を跳ね返す氷壁や刃の切っ先のような美を想起させる。(伊東静雄の登場が人々に与えた期待を代弁する評として、今も朔太郎の評価は鮮明に息づいている。)
・・・・・・・・・・・・・・・・
・しかし伊東静雄の全作品を読み通してみると静雄の抒情の質はもっと懐が深い。
一人で冷たい岩礁の中に立って飛沫を浴びているような〈厳しさ〉、世相を皮肉なまなざしと観察眼でとらえた〈鋭さ〉、嵐の中を耐えて海洋を渡って来た燕に寄せる讃嘆や炎天に灼かれて死んでいく蝶、台風の中で潰えていく薔薇を見つめる〈激しさ〉と同時に、名も知れぬ野花を照らし、無心に遊ぶ幼子たちを包み込む夕刻の光を乞う〈優しさ〉、薄闇の中に最初の星が輝き始める瞬間、あるいは夜の水の面に蛍の光が映りこむ様子などをとらえる〈繊細さ〉、蝋燭の火に目を凝らしたり、街灯の照らし出す市井の人々をそっと見つめる〈静けさ〉というように、動から静まで穏やかな広がりを見せる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・一人の詩人の人生の中で?世界との向き合い方?、詩作についての考え方や態度は変化していく。激情から沈静までの幅があるというのも、ことさら不思議なことではない。しかし伊東静雄の評価史を参照しつつ、そこに私自身が感じる伊東静雄の豊かさを重ねていくときに感じる違和感――特に第一詩集に強く表れる?硬質、孤高、凛冽な抒情?、第二詩集に強くみられる?パセティックな抒情?が、あまりにも高く評価され過ぎてはいないか。
対照的に伊東静雄が素地のように持つ穏やかな抒情――第三、第四詩集に至るにつれて音韻や響きの洗練と共に深みを増していく滋味が、過小評価されているのではないかという疑問を考えるために、特に中期から後期にかけての、日常の中から掬い上げられた穏やかさや静けさを読み直してみたいのだ。
また、中期から後期にかけての?平穏、沈静な抒情?を考えていくとき、避けられない問いとして「戦争詩」問題が浮上してくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・こうした時代に、いわゆる家庭詩――家族愛、幼子や野花、小鳥といった弱きものの姿に焦点を合わせていく姿勢を、どのように受け止めたらよいのだろう。壮大な虚無と向き合うような初期作品を評価する視点からは退行に見えるかもしれないが、戦時下の?非常時?に柔弱なもの、ささやかなものへ向かう志向が強まっていった静雄の文学的軌跡を追う時、迫ってくる暗鬱の中にあっても文学者としての目に見えにくい、だがしぶとい抵抗の跡を刻もうとしていたことが見えてくるような気がする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 第一詩集であらゆるものが死滅した湖面を照らし出す壮烈な太陽を激しく乞い願い、同時に拒絶した伊東静雄が、(「百千の」で)哀しみを甘く熟れさせる太陽に感謝を捧げている。
開戦前夜の伊東静雄の、切なる祈りである。

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1665青木:2021/09/18(土) 21:34:40
ありがとうございます
みなさま

お元気ですか。Morgen さん、丁寧なご紹介をありがとうございます。
充実した特集に参加させていただき感謝です。中でもぜひ、山田兼士さんの論考をお勧めします。

平日は午後仕事なので、詩に関わることは午前中か夜間になるのですが、図書館などは土日にしか行けないので(しかもコロナで予約が必要だったり閉館中だったり)いろいろ大変です。

春に、全集未収録の伊東静雄の散文を見つけました。分量的に数ページにわたるものなので、誰かがすでに報告しているのではと思って思いつく「関係各所」に照会したり、過去論文を総当たりで調べたりしているところです。存在を知っている方はいらっしゃいましたが、学会誌などでは未報告なようなので、四季派学会論集誌上でご紹介できるよう準備を進めているところです。

上村さんが6月に研究会会報でご紹介してくださった伊東静雄晩年の書簡についても、より広く知っていただきたいので、同じ稿で再報告をしようと思っています。

台風の被害などは大丈夫でしょうか。東京も明日はなんとか天気が回復しそうなので、神奈川近代文学館に調査に行ってきます。

1666齊藤 勝康:2021/09/26(日) 21:11:53
小野十三郎賞特別賞
お久しぶりです。朝日新聞の記事で青木さんが受賞されたこと知りました。おめでとうございます。いつもなら大阪文学学校の主催の行事に出席するところですがコロナで今年も駄目なのが残念です。

1667Morgen:2021/09/27(月) 00:33:42
おめでとうございます
青木さん おめでとうございます。
齊藤さん お知らせありがとうございます。朝日新聞(9/24)に記事が見つかりりました。

私は、毎日神崎川畔や淀川畔などをウォーキングしていますが、満開の彼岸花群が見られます。(写真添付)萩の花も満開で、川面に垂れて咲いています。

ますます快適になっていく時節のなかで、どうぞお元気でお過ごしください。

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1668Morgen:2021/10/01(金) 23:18:10
「自然に 充分自然に」
今日からいよいよ「カミナヅキ」となり、皆様お変わりございませんでしょうか。

盆栽が春の陽気と勘違いして新芽を吹き、「十月桜」のように花を咲かせ始めているのもあります。先日は、ヒサカキの盆栽の上に、大きなオニヤンマが留まっていて、よく見ると、オニヤンマは瀕死の状態で、ここを死に場所と決めて留まっていたようです。

「自然に? 充分自然に?」
・・・・・・・・・・・
そ處に小鳥はら?々と仰けにね轉んだ
(『コギト』昭和11年1月号 静雄詩「自然に 充分自然に」から)

小高根二郎のさんの「生涯・運命」P324には、「この詩の悲劇性は。小鳥の死にあるのではなく、子供のあてはずれにあるのである。」と書かれていますが。果たしてそうでしょうか?この詩が創られた時の状況を考えてみると、少し違うのでは?と思います。

昭和10年11月23日には、今や伝説となっている『わがひとに與ふる哀歌』出版記念祝賀会が新宿で催され、『コギト』昭和11年1月号は『わがひとに與ふる哀歌』記念特集号として出されています。
普通であれば、まずその出版記念祝賀会出席者(20数名)やコギト執筆者(8名)に対する挨拶をするのが順当なところで、ここで「少年の悲劇」等を書いている場合ではありません。

鈴木亨さんは次のように書いておられます。

「自然に 充分自然に」の詩は。西垣の説く如くそうした執筆者たちへの、挨拶のつもりのものであろうが、同時に先夜の会合に集まった面々へのそれでもあったに違いない。・・・かれの当時の詩を読むと、かれがしばしば<自死>の思いに駆られているさまが窺える。彼はここで、身近な先輩・友人たちにすら、自分の詩が必ずしも正当に理解されないことに身もだえしながら、おのれの異端を宣告し、死所を求めている。
かれはしかし、ここではもはや観念に殉じようとはせず、自若とした自然死を希求する。そしてかかる志向が<日本回帰>を伴いつつ、『夏花』以下の新しい詩風への進展をもたらすのである。(『現代詩鑑賞』桜楓社 168頁)

『わがひとに與ふる哀歌』出版記念祝賀会について、佐藤佐喜雄さんが『日本浪漫派』の中で、とても興味深いことを書いておられたのを思い出しました。(ネタ元は保田氏?)

私は、何ヵ月か前に、伊東静雄の詩集「わがひとに與ふる哀歌」の出版記念会が催され、その時上京した伊東が、すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加え、ために会場が混乱の様相を呈したという話を聞かされていた。(『日本浪漫派』潮新書 73頁)

出版記念会の出席者への挨拶すべきところを、「自分の詩が必ずしも正当に理解されないことに身もだえしながら」、?すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加えた“86年前の宴会場の様子が如実に想像できて、痛快な思いがします。

まだまだ30度Cの暑さが残る昨今ではありますが、宣言解除とともに一日も早く街の活気が戻り、人々の笑顔が蘇ることを祈らずにはいられません。
写真は、神崎川畔に咲いていた萩の花です。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001820.jpg

1669青木由弥子:2021/10/02(土) 03:05:32
ありがとうございます
皆さま

齋藤さん、記事を載せてくださりありがとうございます。
現代詩を考える上で重要な小野十三郎を記念する賞、伊東静雄にもゆかりの深い詩人ということもあり、強く背中を押して頂いたような気がします。

戦時中に「軍神につづけ」という総題のもとに新聞に寄稿された詩(伊東静雄の述懐もその一篇でした)のアンソロジーが刊行されていて、その中に小野十三郎の詩も入っているのですが、これが読み方によっては戦争批判ともいえるような内容で驚いたことがあります。気になって当時の新聞の縮刷版を調べてみたのですが・・・アンソロジーに収録されている他の作家の作品は見つかったのに、小野十三郎のものだけがなぜか見つかりません。提出はされたけれど、期日に間に合わなかった(意図的に間に合わないように出した)から、新聞には載らなかったのか。あるいは、新聞という大きなメディアに載せるには、内容的にふさわしくないと判断されて、見送られたのか。(しかし、アンソロジーに載せるならば構わないということで収録されたのか。)小野十三郎の研究者でもある詩人にお尋ねしたことがあるのですが、いまだにわかりません。気になるところです。

Morgenさん、いつもありがとうございます。
十月桜・・・遅かったでしょうかとつぶやかねばなりませぬ・・・言い訳めきますが、齋藤さんとMorgenさんがお祝いのメッセージを寄せてくださった後に、皆さまにご挨拶を申し上げた、はずだったのですが・・・投稿されていないようです。写真と共にアップしようとしたのが、うまくいかなかった、のか・・・改めまして、と申しますか、後れ馳せながら、御礼申し上げます。

「自然に、充分自然に」不思議な、しかし強く印象に残る作品ですよね。「砂の花」もそうかもしれませんが、生きていること、生きているようにみえること、死んでいること、死んでいるようにみえること・・・を考えさせられます。

Morgenさんが当時の状況が浮かび上がるように整理してくださっているので、その背景の前にこの詩を置き直すと、放り投げられてしまった息も絶え絶えの小鳥が、まるで伊東自身、あるいは詩集そのもの、のようにも見えてくるような感じがあります。

『夏花』の中で昭和11年の作というと「八月の石にすがりて」ですが、その前の昭和10年の11月発表の「夏の嘆き」を見ても・・・その後の「水中花」で、堪えかねて思わず投げ打ってしまう、何もかも放り出してしまいたくなるというようなところまで追い込まれていくジレンマを抱えているというのか、悶えている感じがあります。

生と死の層、わかってもらえない(あまりにも予想外の方向で「理解」されてしまう)誤読されているような感覚の層、日中戦争に落ち込んでいく時代の層、それぞれの地層ならぬ詩層で見ていくと、その都度、なるほど、という読み方が出てくる。そうした多層的に読める作品のひとつなのだと、改めて思います。

1670Morgen:2021/10/02(土) 15:03:02
訂正と補足
青木さん
早速のコメントありがとうございます。

「自然に 充分自然に」の引用に間違いがありましたので訂正させていただきます。正しくは次の通りです

「自然に 充分自然に」
・・・・・・・・・・
自然に? 左様 充分自然に!
・・・・・・・・・・・
そ處(こ)に小鳥はらく々と仰けにね轉んだ

『コギト』から『夏花』への転載に際して、踠く(もがく)、瀕死(ひんし)、礫(小石)にルビが付けられ、最後が「そこ小鳥は・・・・」と、ひらがなに直されています。

「作品年譜」からみると、『哀歌』に収録されている詩篇の一番遅いのは、昭和10年8月号『コギト』に「漂泊」が発表されているのが最後で、「拒絶」は同12月号に掲載されていますが、「またも夏の来れるさまを見たり」という詩句から見て、同年夏に作られたのではないかと思われます。

伊東静雄は、『哀歌』の編集をしながら、内心では従来の詩作の方向に疑問を感じるところがあり、11月23日の出版記念会の時点ではその疑念が強くなっていたのではないだろうかというような憶測も沸いてきます。(証拠不十分ですが・・・)
『哀歌』を編集しながら、詩人本人は、現在の通説的『哀歌』評とは異なる詩風を模索していたという仮説を考えてみるのは面白いですね。「拒絶」や「自然に 充分自然に」をその兆候として挙げてみるというのは如何でしょうか?(朔太郎や保田氏は失望するでしょうが。)

 佐藤佐喜雄さんの「すべてのスピーチに対して、ことごとく反駁を加え、ために会場が混乱の様相を呈したという話を聞かされていた。」と書かれているその内容の一部でも記録されていればと思うのですが、まだ見つかりません。じっくりと探します。

―遅かったでしょうか
―いや、これからだよ

1671Morgen:2021/10/05(火) 02:24:19
訂正(2)
 先の投稿で伊藤佐喜雄『日本浪漫派』(潮新書 73頁)とすべきところを、佐藤佐喜雄と誤記していましたので訂正します。何回も訂正してすみません。
 なお、11月23日の出版記念会の場所は、きくや萬碧楼新宿支店であり、本店が宇治にある「関西料理」の店でした。(諌早市立中央図書館蔵の酒井百合子宛案内状が証拠)
 新宿の三越裏でその場所を探し、何枚も写真を撮りましたが、確定できていません。

 当日の模様について、出席者による記録を探していますが、適当なものがまだ見つかりません。

1672Morgen:2021/10/10(日) 23:38:13
「小鳥」〜「狼の目」
緊急事態宣言が解除されたので、久しぶりに「秋の音楽会〜ドヴォルザーク交響曲〜」を聴きにフェスティバルホールへ行ってきました。
ドヴォルザーク交響曲第8番と第9番を続けてリレー演奏する特別企画で、ファンファーレやホルンが、アフターコロナの幕開けを喚起しているようにも聞こえました。

青木さんのご投稿で、「当時の背景や出版記念会の中に詩人を置いてみると、放り投げられてしまった息も絶え〃の小鳥が、まるで伊東自身、あるいは詩集そのもの、のようにも見えてくる」というコメントがありましたが、同感です。

更に「八月の石にすがりて」(『文藝懇話会』昭和11年9月号)のラスト部分にある
・・・・・・・・・
われも亦、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を
しばし夢みむ。

この「青みし狼の目」も伊東自身の目の比喩ではないかとも云われます。

「万物よわれに関わることなかれ」と「拒絶」宣言をしてから、約2年間経っています。
「拒絶」は「逃避」であると気づいたのが「八月の石にすがりて」であり、『哀歌』時代の「痛き夢」の詩風に戻ったのではないかという評価がされているところです。

田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』(89~118頁)の「幻の詩集『(拒絶)』*計画と構想の挫折」に、その過程が詳しく述べられていますので、是非ともご参照ください。

散文『夏花』では、?『詩集夏花』が「哀歌』とはまた別趣味なところがあるとするなら作者自身のこの茫漠・脱落の気持ちのせいであらう″と書かれています。
『哀歌』刊行に伴い、激しい過労や緊張の後の茫漠・脱落感というネガティブな気持ちに陥ったが、約2年間の逡巡を経て、伊東静雄本来のポジティブな生き方に回帰し、更に2年半後『詩集夏花』刊行となった。このように整理してみました。
「只前進する自分を信ずるより外生き方はないのではあります。」(昭和11年4月13日付池田勉宛書簡)という信念が、そのスプリングボードになったそうであります。

これからの世の中も、SDGSや「新しい資本主義」の標語でも、どんな形でもよいから、一日も早く活気を取り戻して欲しいものですね。

1673伊東静雄研究会:2021/11/04(木) 09:51:00
諫早三部作  
浦野興治著「諫早少年記」「諫早思春記」「夏休み物語ー昭和篇」の三作をまとめた「諫早三部作」が出版されました。著者の故郷−諫早を舞台に方言を駆使した短編小説の数々をお楽しみください。  発行レック研究所 定価3000円+税

1674伊東静雄顕彰委員 会:2021/11/26(金) 09:47:47
第32回伊東静雄賞
令和3年度第32回伊東静雄賞は、国内外から1146篇の応募があり選考の結果下記の通リ決定しました。

伊東静雄賞 大賞 該当作品なし

伊東静雄賞 奨励賞 2篇
       「庭の蜻蛉」増田耕三氏 高知県在住
       「礼」   関根裕治氏 埼玉県在住

奨励賞作品は、令和4年4月発刊の「諫早文化」誌に選評と共に掲載いたします。又佳作者48名のご氏名も掲載いたします。詩をご希望の方は(一部1300円送料込み)、「諫早文化17号」と記して下記あてお申し込みください。

〒854−0014 諫早市東小路町10−25 伊東静雄顕彰委員会 (?0957−22−1103)

1675Morgen:2021/11/30(火) 00:04:07
市川森一顕彰碑完成ニュース
市川森一没後早くも10年を迎え、顕彰碑完成ニュースが各方面で報道されています。
NHKの地域ニュース(動画)がWEB上にありましたので、コピペして見ます。(保護されているのでうまく開くかどうか分かりませんが)

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20211129/movie/5030013409_20211129132625.html?movie=false

1676Morgen:2021/12/28(火) 01:55:23
よいお年をお迎えください。
 本年も数日を残すのみとなりましたが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。

 大阪では、堂島北ビルの放火殺人事件という大惨事が起きました。歩道の片隅に設えられた場所では、花や飲み物を供えに来られる人が絶えません。慰めの言葉をかけるのさえ憚られるような悲しいスポットです。

 供花の向こうでは、25人の犠牲者たちが「野の仏」となって「助けて!」と通行人に拝んでいるような幻の姿を想像します。
 このような放火殺人に対しては、国民の生命を守るべき国の施策や刑法の規定は役に立たず、犠牲者の命を救うことが出来ませんでした。

 先の見えない、不安に満ちた年の瀬ではありますが、どうか皆さまお元気で新しい年をお迎えください。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001828.jpg

1677Morgen:2022/01/12(水) 01:53:18
「山中無暦日」(さんちゅうれきじつなし)<『唐詩選』>
皆様、寒さの中、如何お過ごしでしょうか?

『よくわかる茶席の禅語』(有馬頼底 主婦の友社)に、次のような一文がありました。

・・・・・私たちは、人間が勝手に作った暦によって動かされています。しかし、山中深くに住む人(山中人)にとっては暦など必要もなく、あるのはただ「人間的な時間」だけです。さらに一歩を進めて、この山を人間本来の本分と考えれば、「山中人」とは、人間本来のあり方をみごとに体得した人であります。・・・・・・

 私は、コロナ禍の影響もあり、昨年の正月以来旅行もせず、今年の正月も自宅に籠りきりで、まるで暦を無視した「山中人」に似てはいないか?・・・などと自分を慰めています。

実は、『よくわかる茶席の禅語』の著者有馬頼底氏は、この本の書き出しを諫早の天祐寺(禅宗)と慶巌寺(浄土宗)の飾りつけの比較から始めています。

 つまり、慶巌寺(浄土宗)は、西方浄土がいかに素晴らしいところかということがよくわかるように、これでもかというような絢爛豪華な荘厳が施されているのに対して、天祐寺(禅宗)は、どちらかと言えばみすぼらしいとも言えるような必要最小限の飾りつけです。

有馬氏は、茶席の禅語を説明するためにこの本を書かれているので、「本来無一物」、「無一物中無尽蔵」の境地を説かれ、外観や他人の眼にとらわれることなく、物の真髄を見きわめ、人間にとって何がほんとうに必要なのかを考え、そして人間の尊厳とは何かを考える。それが実は「無の境地」なのですと仰っています。

これはまさに至言であると考えますので、私も「無駄なもの、余計なものを取り払って、必要最低限のもので生きていこう。」などと殊勝なことを心中で念じています。

 当面、厳しい寒さが続く日々ではありますが、皆様お身体大事にお過ごしください。

1678Morgen:2022/01/26(水) 23:06:05
「鎌倉時代の始まりは・・・?」
「良いお年を・・・」と挨拶を交わしてから早一か月。NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」―The 13 Lords of the Shogunも今度の日曜日(30日)で、第4回目になります。

 ―鎌倉幕府の成立は1192年なのか1185年? それとも・・・?―

「鎌倉幕府の成立は、1180年10月初旬である」と本郷和人教授が言われる1180年後半の場面が今度の日曜日にあります。(ただし脚本家三谷幸喜氏と本郷氏の関連は不明です。)
 歴史上は、The 13 Lords of the Shogun―「13人の合議制」がスタートしたのは第2代将軍頼家の時代ですが、これは「頼家の実権を制限し、13人が話し合って処置する」という狙いをもったものであり ”THE 13 Lords”とは少し違うニュアンスです。
またthe Shogunも、(頼家や主人公の北条義時ではなく)頼朝であり、「頼朝とその仲間たち」に近いものと「鎌倉殿と13人」を解釈しています。

 *参照「鎌倉幕府の成立」は、1180年10月初旬であるという説。(本郷和人『北条氏の時代』文春新書 2021/11)「武士たちが頼朝を主人と認め、南関東が頼朝の支配に服した時。頼朝が政権の拠点を鎌倉に定めた時」=1180年に鎌倉幕府が成立したという説です。(同『暴力と武力の日本中世史』朝日文庫 2020/12)
鎌倉時代が、1180年に始まったのであれば1333年に足利尊氏の倒幕軍参加により陥落するまで、153年も続いた長期政権です。
日本の中世は、11世紀後半〜16世紀後半の500年と言われますが、運慶・快慶の彫刻に象徴されるような躍動の鎌倉時代があったのだということになります。

 しかし、鎌倉幕府は、武士が一気に全国制覇した単独政権ではなく、京都朝廷との二重政権状態が約40年間も続き、双方の権力の変動は地方の状況にも大きな影響を及ぼしたであろうことが、「関東下知状」(省級年8月30日付)などからも知られます。
―高来東西両郷の二分、同時に仁和寺を本家に頂く寺社領荘園(「御室御年貢」を負担)でもあったという混合権力の状況に、島原や諫早の先祖達は戸惑ったと思います。
 *参照(筧雅博「続・関東御領考」 『中世の人と政治』吉川弘文館)

「蔓延防止等重点措置」下の不安な時代ではありますが、長引く巣籠生活の中で、日頃軽く見てきた日本中世のリアルな姿など、「新しい発見」に出会えば、それもまたよかろうとも思います。

 蛇足ではありますが、NHK朝ドラ『カムカムエヴリバデイ』に、私の孫(春11歳)が子役で出していただくそうです。役柄は、いよいよ結婚したジョーとるいの息子役(桃太郎)で、放映は2月10日から約一か月間と聞いています。「オダギリジョーさんも深津絵里さんもとても丁寧で優しくて、撮影は非常に楽しかった。」という孫の感想でした。よかったら見て下さい。

1679Morgen:2022/01/26(水) 23:35:58
訂正
「関東下知状」(省級年8月30日付)は、承久三年八月三十日付に訂正します。

*承久の乱後、高来東西両郷は、平家没官領として鎌倉幕府の支配下に入ったが、東郷と西郷は二分され、高来西郷は武蔵稲毛本庄と交換され、「前大僧正御坊」が領主となった。また、高来東西両郷は「御室御年貢」を進済すべく定められていたので、仁和寺を本家にいただく寺社領荘園でもあった。参照:『中世の人と政治』255頁〜310頁「続・関東御領考」

1680Morgen:2022/03/21(月) 00:07:51
第58回「菜の花忌」ご盛会を!
 桜開花が報じられる時節になりましたが、皆様お変わりございませんでしょうか。
 今年は「第58回菜の花忌」が開催されるようで、ご盛会をお祈りいたします。

まだコロナ禍が終息したわけではありませんが、一方では、ロシア軍のウクライナ侵攻による残虐な都市破壊と痛ましい大量殺人という大変な出来事が、連日、テレビの画面や新聞で報じられています。狂人としか見えないプーチンの戦争犯罪行為によって、ウクライナ人のみならず世界中の人々が恐怖と怒りに震えあがっています。(「平和共存」や「人類の進歩と調和」などという過去のスローガンはいまや虚妄の幻想と化したのでしょうか?!)

1月26日に投稿しましたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、約2か月かけて「1180年」の出来事が演じられました。同年12月12日、大倉御所が完成し「これより佐殿は鎌倉殿、ご一同は、その家人、御家人であります。」と、関東に独自政権(鎌倉幕府)がスタートした瞬間の模様が、今日の番組で演じられました。
現在の歴史教科書は1185年説でありますが、これで1180年説の方へ一歩前進するのかどうか?(テレビドラマとは云え、日本の歴史を学び直すキッカケを頂きました。脚本の三谷幸喜さんに感謝!)

朝ドラの「カムカム・・・」の方も、小学生時代の大月桃太郎役に10歳の孫を登用頂き、貴重な経験の機会を与えて頂きまして、ありがとうございました。
身内ながら、なかなか落ち着いて、活舌も爽やかに、京都弁のニュアンスもにじませて演じているのを観て、子供の成長は早いものだと驚きました。本人は、元々は三谷幸喜ファンでコメディ風童話などを創る方に興味を持っていたようですが、いまは役を演じる方に変わったようです。役作りや演じ方など、オダギリジョーさんや他の出演者が丁寧に教えてくださったようで、大感謝!!
また何かに出演するときいていますので、よろしくお願いします。

1681Morgen:2022/04/12(火) 01:04:40
「PEACE ON EARTH」(地球の平和)
「第58回菜の花忌」が開催された旨の新聞報道があり、安心しました。

??痛々しい焼け跡の長崎の街が広がる映像、1966年7月長崎駅に到着した特急「西九州」に独り居残り、フルートを手に、長崎の音を作ろうと模索するコルトレーン、原爆公園で祈りと瞑想に耽り、フルートで献奏する姿、スクリーンには長崎とコルトレーンにまつわる実写映像が次々に流されていく(長崎は彼にとって特別な意味を持っていました。)
コルトレーンは、17日間に9都市で17公演を行う強行スケジュールをこなし、その翌年(1967年)には、40歳という若さで病死するという悲しい出来事がありました。

 バックには、ジョン・コルトレーン・クインテットが日本各地で演奏した「PEACE ON EARTH」が流れました。(映画『CHASING TRANE』の一場面から)

 痛々しい焼け跡の長崎の街が拡がる映像は、連日ロシアの爆撃で無残に破壊されているウクライナの街を連想させ、私には、コルトレーンの「PEACE ON EARTH」がウクライナの街に流れているようにも感じました。

 余り映画を見ることの無い私ですが、先日、家内に誘われて、十三のセブンシアター(第七芸術劇場)で映画『ひまわり』の再演を観た折に、コルトレーンドキュメント映画『CHASING TRANE』のポスターがあるのを見つけ今日独りで観てきましたが、その感想です。

 昔(1970年代〜?)、ジャズレコード収集に凝った時代があり、小遣いをためて無理して真空管アンプやアルテックのスピーカーを買って聴いていました。(今はほとんど聴きませんが2階の部屋でそれらが大きな場所を占めていて家内には邪魔者扱いを受けています。)

 初期のコルトレーンは、アルトサックスで美しいバラ―ド曲を吹いていたのですが、後期には彼独自のフリージャズに転じ、馬の嘶きのような演奏を長々と続けるようになっていました。(それは1960年代後半期のジャズ界の流れでもあったのですが・・・)
 初期の美しさバラードメロディーや、コルトレーン独特の音に魅了されることはなくなり、まるで密教僧が延々と祈祷を続けている場面に居合わせたようにも感じました。
そうなるともうジャズ音楽視聴に浸るというよりも、聴衆もコルトレーンと一緒に熱心に祈るほかないのだと感じました。
(後日、フェスティバルの公演の際、ジョン・コルトレーン・クインテットの一員・ドラムのエルヴィン・ジョーンも「あの長さには閉口した」と苦笑していました。

 十三の雑居ビルの5階にある小さな映画館「セブンシアター」(第七芸術劇場)は、映画ファンには知られているようですが、今日も観客は少なく、しかも老人ばかりで少し寂しい気もしました。わたしは、ポスターを見て次の鑑賞予定も決めてきました。また今日の映画のサウンドトラックCDも買ってきましたので、ゆっくりと聞き直したいと思っています。

 ロシアのウクライナ侵略戦争が一刻も早く終結することを祈りつつ、コルトレーンの「PEACE ON EARTH」を聴きたいと思います。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001833.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6806.sizuo1906/0001833_2.jpg

1682Morgen:2022/06/03(金) 01:45:06
掲示板の存続如何について
 早くも夏が巡ってきましたが、皆様、お元気でお過ごしでしょうか。

 「新しい冷戦時代」(Cold War ?)の深刻化という現在の情勢の下、自らの生き方についても、見直しや新しい心構えが必要になってきているのではないかと私は痛感しています。


 GMOから以下のようなメールが来ています。(当掲示板も、何もしなければ7月いっぱいで終了となります。goo blogへの引越しなど形を変えて存続させるご希望があれば対応が必要です。)

(以下GMOメール)

これまでteacup.をご利用いただいた皆様には、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
teacup.の終了に伴い、ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解、ご了承いただきますよう、お願い申し上げます。

teacup.のサービス終了に伴い、AutoPageブログでは無料版でもご利用いただけるようエクスポート機能を開放しております。
また、goo blogならインポートツールを使って簡単にお引越しができます。お引越しできるデータは、記事のタイトル・本文・画像・コメント・絵文字(※1)・カテゴリー名が対象です。
goo blog
goo blogへのお引越し方法について(以下省略)

AutoPageブログのデータ保存や、お引越しをご検討されている方は、お早めにご利用ください。

1683青木由弥子:2022/06/03(金) 08:29:50
四季派学会論集
皆さま、お元気でしょうか。

掲示板の「引っ越し」が必要なのですね・・・
私も前に使っていたブログの使い勝手が悪く、別のブログを開設したのですが、まとめてデータ移行出来るという「エクスポート」機能がうまく使いこなせず・・・必要なものだけ、コピペで移したり(自分の整理用なので)パソコンの元データのみを残したりしています・・・

話は変わりますが、Facebookに下記の告知をアップしました。以前、研究会会報に「序文」については載せていただきましたが、考察などを加えたものです。

『四季派学会論集』26集、刊行です。
『定本 伊東静雄全集』未収録散文一篇 および 新発見書簡二通 翻刻と解題 ・・・を寄稿しています。

伊東静雄の全集逸文は、詩集の序文なのになぜか国文学随想となっている興味深いもので、伊東の日本浪曼派との距離感というのか、微妙な位相の相違も見えてくる(かもしれない)文章。「なかぞらのいずこより」という詩の戦後の改訂にも関わってくる内容です。
(これだけの長さが、未だに学会などで紹介されていないというのも驚きです。)

手紙も、伊東の入院中にしたためられた少し長めの2通。当時の状況や想いを知ることの出来る貴重な資料です。

巻頭は藤井貞和さんの講演録「近代詩と戦後詩」(もちろん、伊東静雄についても言及されています!)
もうひとつの巻頭講演録は、萩原朔美さんの「中也の風と朔太郎の白」。
論考は桑原旅人さんの「萩原朔太郎と辻邦生の「思索=詩作」」

充実した論集に資料紹介稿を載せていただき、感謝です。




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