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yoshiko
1
:
数字数え虫
:2014/04/25(金) 22:56:35
全体感想 1
.
???????????????????? 全体感想 2011-2012
「青春のあの日」が届いた 2011/5/17
佐高11期生が三十年後に思い出を綴った一冊。
戦後の自由な空気と旧制中学のばんから、佐賀の風土、
そんなものを感じました。 羨ましい。
体育祭の「仮装行列」と学園祭前夜の女人禁制「ファイアーストーム」。
触れていた方が結構いて、やはり奇天烈で、魂入れ込んだイベントだったのでしょう。
今でも続いているのでしょうか。 若いというだけで力になり、何かやっちゃうのです。
そのエネルギーと記憶は、確かに今を生きる11期生も形を変えて燃えているように思え
ます。
素直な表現 2011/12/15
「青春のあの日」の作品を時々拝読させていただくと、その素直なかきっぷりに驚きます。
すぐ結婚して家に入った女性はそれなりの表現、それがまたその人となりをよく表してい
て面白い。男性は社会でもまれたのか、それなりにき っちりとお書きになっています。
それでも面白い。それでもきっとみんなドキドキしながら、何度も書き直しをしたのだと
思います。そういう作品ばかりで す。
どうして面白いのか、心に響いたかを考えてみました。高校生時代の気持ちで30年後書
いたのかもしれないと。社会や家庭にもまれいろんな皺や歪みや毒や悲しみも持ったけれ
ど、あの時代の気持ちにもどり書くことが出来たのだと思います。活字上の出来不出来関
係なく心打つもの、クスリと素直に笑えるものに巡り会います。そして今、筆を握ったと
きからさらに20年の今、みなさんあの時、50年前、20年前が見事に繋がっているの
です。それなりにハツラツと生きた、生きているににちがいないと思いました。例え亡く
なられた方がいたとしても、この作品の中で生きています。今も生きています。
佐高ファイアーストーム 2012/5/14
「青春のあの日」を読んでいて多く出てくる言葉が「ファイアーストーム」と「楠」です。
α31号のテーマ「遊ぶ」とからめてあれこれ想像しています。
高校生、主に男子の問答無用、天下御免の大イベントだと思います。
先生たちも何処か楽しんで目をつむるのです。生徒もいい歳の叔父さん先生も“成績”も
“指導”も忘れ暴れたのでしょう。ほんものの「遊び」です。9月の佐高祭(文化・体育)
の前夜祭、女人禁制、そうは言っても、女子はお握りの差し入れ、どきどきぶりは男子と
一緒かと想像出来ます。
地元の会社から材木を調達し、先輩は「酒」を調達し、「大人前夜祭」です。
一種、「神事」です。他方、しらけ組男子もいたに違いありません。それはそれこれはこ
れ。しらけ組も記憶の中では「祭事」として残っているはずです。
今でも西高ではファイアーストームはやっているのでしょうか。意地でもやっていそうで
す。佐高魂です。なんでもかんでも禁止の現代、佐高のファイアーストームは憧れの祭事
に思えました。30年後の同窓会でもその企画(前夜祭)を入れるとは、やはり佐高11期
のパワーなのでしょう。
内田忠夫氏の黒田節はストームの「炎」だったに違いありません。
恩師たち 2012/5/23
先生のリストを見ていて、女性が少ないと思いました。やはり時代のせいなのでしょう
か。県立、しかも進学校には女性教師はなかなか採用されなかったのか、それとも高校女
子教師の人数そのものが少なかったのか、当時の教員資格や採用制度にも疎いので判りま
せん。女性の担任或いは副担任は女子クラスに見受けられました。
多感、多才な高校生(男女問わず)を相手にするのには大変な御苦労もあったかと思い
ます。それでも先生たちは皆新しい時代を担う青年を育て、そして自身も楽しむことも同
時にしておられたように思えます。
遠い昔、過ぎ去ったことではありますが、4組、江頭英子先生の姿はまるで女子高校生
のようなういういしさがあります。校内で荒くれ[佐賀んもん]に囲まれさぞや大変な時
間を過ごされたのではないかと、少し思いました。
2
:
数字数え虫
:2014/04/25(金) 23:45:59
寄稿文個別感想1
.
????????????寄稿文個別感想
注)表題/著者/横の#数字は、掲示板TOPにあるリンク先「青春のあの日」復刻版
に掲載されている該当作品の通し番号です。
『暗がりの青春』 牟田 元明 #39
題が目をひきつけます。高校時代、特段の部活もせず、もてもせず、そんな雰囲気の出だ
しから始まりますが、男女問わず、いつの時代もこんな若者は少なからず存在したと思い
ます。今であれば、部屋に立てこもり暗闇の中でゲーム、ネットサーフィンに興じた青春、
こちらはどうも不健康な印象があります。青春真っ只中の牟田さんがはまったもの、未来
への羽ばたきを自分にも感じさせてくれたもの、それが洋画だったのでしょう。「暗がり」
とは映画館のことでした。
青春の闇と映画館の暗さとを掛けたなかなか憎い題です。
「昼下がりの情事」ヘップバーン、「芽ばえ」ジャクリーヌササール、そして「大いなる-
西部」ジーン・シモンズ、キュートで清楚な〔女の子〕から〔肉感的女〕、終わりは両方
備える〔イイ女〕へと好みの女性像も変わっていったようです。高校時代に画像の中で疑
似恋愛、体験をしたのだと思います。自分と似たヤツはいるもので、そんな友人と映画を
見まくったのでしょう。
さてさて、疑似体験の成果はその後の「本番」ではどうだったのか、知りたくなってきま
した。
2012/2/11
『時は今、つれづれ思う』 江口 靖子(旧姓 東島) #16
新聞部に入っていたとのこと。出だしと終わりを読むと、「書く」に拘る人だと想像しま
した。お写真を見ると、童顔のお姉さん、当時からそして今でもそのお顔の下に様々な事
象についての好奇心が隠されているのかと思います。
そういう私も高校時代は新聞部でした。江口さんの「広告の勧誘、集金の為、くたくたに
なりながら元町界隈の商店街を歩き回った…」のくだりを拝読しつい当時を思い出しまし
た。物書きへの夢は、大手新聞社の新卒募集テスト中途で、これは無理だ、と会場を出た
こと、中央公論社では書類選考ですぐに落とされたこと。まあ情けないことばかり。
江口さん、きっと人には見せないけれど、大学ノートにたくさん書き綴ったものがあるか
もしれません。ジャーナリスト根性は家庭生活の中でも十分発揮してきたような気がしま
す。
2012/2/22
『佐賀者との縁(つながり)』 井上 雅人 #70
復刻をしていて、当時の友、師のお名前が出てくるので、人の繋がりがわかってなるほ
どなと思わされます。井上さんの作品にも沢山のお名前が出てきました。
同期からのたまたまたまの立て続きの電話と原稿催促の電話で題を決めたそうですが、そ
の縁は職場にも繫がっているようです。同窓の方が多くいて、さぞや心強く、ファイトも
湧いてきたと想像します。その繋がりを深めたのが佐高関東地区同期会だそうですが、そ
れも仲間のまか不思議な引き合いがあるのかもしれません。
「高校同期という葵の御紋」でさらに深まります。
佐賀者への郷愁を、老化現象、懐古趣味ではないかと、少し戸惑う箇所も理解できます。
自分はまだまだ若いのだぞ、そんな気持ちからかと思いますが、そこは自然体、次の一歩
を踏み出すためにも佐賀者、佐高時代を思い出していいのではないかと思います。
最後に大規模で内容が濃い30周年記念であったこと、そして幹事に礼の言葉を述べて
いましたが、幹事だけでなく、全11期生の不思議なエネルギーのたまもので、それこそ
エネルギーが強めた「縁」のなせる技なのかと思いました。
2012/2/25
『友は宝なり 出合いは賜物なり』 小宮 久美(旧姓 樋渡)#53
井上雅登氏の作品にあった立て続けの電話3人は、小宮さん、牟田さん、荘島さんでし
た。繋がり、ということで小宮さんの作品を開いてみました。(牟田さん済み)。
楠の青葉を吹きならし、から始まりますがこれは校歌ですね。楠が校庭にあった、ある
はずです(北、東は解りませんが)。遠くに天山が見える11期が入学したのが新築「北
校舎」。今の「西校」が当時の本校、それから「東」校舎これでよいのでしょうか。収容
しきれなかったのでしょう。
多く方々が授業の後のクラブ活動のため自転車をこいで西へ東へと移動したことを書か
れていますが、小宮さんも卓球練習の為、東へと駆けつけたのですね。運動部の方であれ
ば自転車をこぎ始めたときからストレッチです。文化部の方であれば体を鍛える時間だっ
たのかと思います。
同県人、ましてや同期生、利害関係がないからこそ、青春のあの時を共に過ごしたらか
らこそ、ホットできる同窓会、それに同感です。
赴任地香港の朝の公園はどこもかしこも太極拳の小グループが見受けられました。
動きの中に静けさを感じたことを覚えています。「やさしく、楽しく、深く」太極拳を今
もお続けになられていたらいいな、と思います。
2012/2/26
『 私 の 仕 事 』 荘島 二郎 #56
井上雅登さんへの三人からの電話、牟田さん、小宮さんに続き、最後の方です。
高校時代の事を中心に書く方、同窓会について書く方、歩まれた仕事について書くもいま
す。荘島さんは仕事についての方でした。
総合研究所、総合技研、という場所は、なぜか、国のおかかえでもなく、大学の研究所
といった重苦しさもなく、民間企業だけれど一種独特の自由に追求する、実験する、そん
な空気を感じ、学生仲間でも人気があり、かつ入るのに難しい場所であったことを覚えて
います。
研究のおおまかな内訳についてはなるほどと思わされました。やはり時代を先行してい
るというか、築きあげていくというか。自分の無知ぶりも再確認しました。
荘島さんはその中でも「科学・技術分野」に所属されていたとのこと。その内容はまさし
く科学少年がワクワクするような世界です。
紹介してくれた例、「ヒューマンファクター」が及ぼす原発事故問題。福島事故を改め
て考えさせられました。大事な研究分野であり、かつ人の心に入り込む難しい分野だと、
侮れない分野だと思いました。しかもこれは20年前の文章なのです。
「社会への貢献」そんな自負心がお仕事を続けてこられた基盤にあったのかと思います。
色々な形で人類、そこまで拡大しなくとも、自分の生まれ故郷にもまた何か貢献したいと、
培ったご経験を活かされて今を過ごされているかと想像しました。
2012/2/28
『発刊の辞』 実行委員長 北島和光 #H01
拝読してみて、11回生のエネルギー、それをまとめていった方々の御努力それもまた1
1回生のエネルギ−なのだと思いました。3日間にも亘るイベント、
そして沢山のものが盛り込まれた記念誌、今時こんな高校同窓OBがいるのだろうかとさ
え考えます。
「青春の香りを奏でる1冊の本。皆様の心の宝物に加えて頂くならば幸いです」
という言葉で終わっています。青春のあの頃を懐かしく想い出す人も、忌々しく苦々しく
思う人も、過去のことなど陳腐だと言う人も、やはり”あの日々”は例え三年であれ、各
々の人生にとっておおきな宝で、そんな「あの日」を凝縮した記念誌もまた宝物になって
いるかと想像しています。あの日があって今があり、そしてまた未来へと続く、そう思い
ました。
2012/3/6
『ゴッホに会えた青春』 川本達也 (美術部)#18
このタイトルにまず目を惹かれました。逆算してもゴッホは既に死んでるはず。まさか
海をこえて彼の墓に行ったわけでもないはずです。読んでみたらなるほどの、この年代、
時代の特権的暴挙・快挙が書かれていました。
美術部黒板の落書き「ゴッホ展を見に京都へ行こう。費用は遠征費(学校負担)で」か
ら始まったようです。それを見た美術部上級生も同級も女子部員もみんな舞い上がった。
できる、必ずできると本気になったのです。そして落書きをした本人の美術部部長も舞い
上がる。それでも後の段取りは部長には重責だったようです。生徒会室にまっしぐら、ま
ず会長と談判、そして共に先生たちと長き日に亘る集団交渉です。生徒会長を巻き込むと
ころは、順番としては部長の実に適格な選択であり、その生徒会長もなかなかの役者、い
や人格でした。会長の「男泣き・号泣」を生みだしたエネルギーは何だったのか。全員の
熱意と弾みに違いありません。
後半にもう一つ驚くべきことが書かれていました。 勝ち取った引率予定の新任先生の
「めくら判」を懐に部員だけの9人一泊旅行です。先生達の許容力にも驚きました。まる
で青春映画のワン・シーンのようでした。
そう言えば、佐高OBの方には絵をたしなむ方、プロ・アマ問わず多くいるようです。そ
んなこともふと重ねて思い浮かべました。
2012/3/8
『 あ の 頃 』 古野太郎著 #26
仲間をゴッホに会わせに行くために号泣した男気溢れる生徒会長に会いたくなりまし
た。いましたいました、神宮球場にいました。二十歳近くの娘さんとともに。22年前の
球場です。
応援をする間に、過去の記憶が蘇り、まるでタイムスリップしたかのようになったよう
です。吉野さんにとって相手側応援団のリーダーの立ち振る舞いがキーとなったようです。
思い出したのは野球部、甲子園出場のための即席応援団のことでした。何と慶応の応援団
の方が西高まで指導に来てくださったといいます。先生の中に慶応出身の方でもいたので
しょうか。いずれにせよ学年、学校を問わず同じ応援団として指導しにくる、これもまた
実に頼もしい。敵と同じ振りで娘の横で無心に応援しているあの時の生徒会長さんと変わ
らないのだと思いました。
神宮には学生の頃、クラブの仲間とおにぎりをたくさんもって行きました。卒業してか
らは、ずっと後になって一回だけ読売ジャイアンツファーンだった母をつれてヤクルト戦
を神宮まで見にいったこと、これだけです。この時はおにぎりではなくデパ地下でお弁当
を入手しました。
応援団の心意気、これには同僚、同窓で元体育会系クラブのリーダーをしていた人が亡
くなったとき、三色旗が棺をおおい、使っていた用具が横に置かれ、そして仲間、応援団
の仲間、が整列して起立していたことが思いだされました。
色んなことを思い出させていただきました。不思議と爽やかな気持ちにもなれました。
2012/3/15
「甲子園よ今一度」 八谷 公男 #01
はつらつとした選手宣誓を見せてくれた石巻工は残念ながら1回戦で負けてしまいました
が、その試合っぷりも同じくはつらつと、最後まで粘り強さがありました。
古野さんの神宮早慶戦観戦、佐高甲子園出場の際、慶大応援部の指導も受けたことを思い
出しながらあの頃に自然と気持ちも体も戻っていく、そんなお話を読んだ後、野球部の方
を探しましたら、いました。リストNo.1 背番号はなんばんだったのだろうかと、つい
想像しました。
今から53年前?佐高野球部員として、当時29年振りの甲子園出場を果たし、 翌年は
善戦したものの鹿島高に敗れ代表にはなれなかったこと等、文中に公立高校の名前がたく
さんあがってきますが、当時は全国的にそんな傾向にあったのでしょうか。近年の甲子園
の顔ぶれは私立高校がずらり、優勝となればますます野球有名私立高校ばかりが目立ちま
す。私立校は練習体制が整っており、授業、試験などについても融通がきき、もちろん用
具も設備環境も公立と比べ潤っていると思われます。当時は今ほど私立校とのハンディは
なかったかと想像しますが、著者が書いているように、佐高野球部は、居眠りも内職も見
逃してくれるおおらかな校風が、練習する時間を作ってくれ、応援してくれる廻りの仲間
たちの力もあって、ハンディキャップをはねのけたのでしょう。
それから数十年後、兄弟校?佐賀北校が奇蹟の夏の優勝を果たし、佐高(西)のみなさん
はさぞや狂喜したことかと思います。連綿と続く佐高球児魂がむくむくと花開いた優勝だ
ったのだと思います。球児にとって甲子園がどれだけあこがれの場所、そしてとりまく人
にとっても、自分達の夢をかける場所なのではないでしょうか。
野球狂になった分だけ、その思い出が以後の生き方に少なからずの影響を与えているよう
な気がしました。野球だけでは無く、当時没頭したいろんな狂です。
2012/3/24
「青春の汗の臭い」 本告 尚幹 #8
今回の「肥と筑」に櫛田宮、及びその宮司の家系として、本告姓と牟田姓が登場しました。
本告家は建長元年(西暦1249)年、鎌倉幕府から正式の命を受け櫛田宮の宮司に補任
されたという家系ですが、元寇の頃からは武家へと変容し、宮司職はその分家の牟田家に
譲ったそうです。「青春のあの日」の#39の牟田元明さんは、偶然にも、この櫛田宮の
宮司職を受け継いだ牟田家の方でした。
同じく櫛田宮からの連想で、#8の本告尚幹さんを思い出しました。本告姓は昔から続く
由緒正しい姓氏であり、何処にでも有る苗字ではありませんから、この方もまた、櫛田宮
にまつわる方だと思います。その勢いでもう一度「青春のあの日」を開いてみました。
どうやら剣道を幼い頃から嗜まわれていたようです。剣術と神社との関係はよくわかりま
せんが、本告氏が武家の方向へ進んだのなら、剣術とは繋がりがあるのかもしれません。
在校中には華々しい活躍はなかったようですが、やはり熱を入れた分何らかの形でその後
の生き方に影響したのでしょう。練習後のうどんに饅頭、その景色はよく想像できます。
大学周辺と同程度とまではいわなくとも、高校の周辺にはそれなりの食べ物屋があるもの
です。2年の時に3人の女子が剣道部が始まって以来の初入部、部室が綺麗になったと書
いてある箇所では思わずニヤリ。想像ですが、嬉しい一方、やはり女子は不要だ、その両
方の気持ちを持った男子部員もいたのかもしれません。これは差別の問題とは異なります。
ホテルマン、櫛田宮に関係あろうとなかろうと今の時代は自由です。 映画少年であった
牟田さんも自由のおかげ、“あの日”の佐高には、この自由の空気がみなぎっていたよう
に思えました。
2012/3/23
「いろいろゴメンナサイ」 古賀健詔 #7
神崎・櫛田宮をめぐり、牟田 本告姓と続きましたが、筑後川下流域にみられる古賀姓に
も立ち寄らねばと、この印象に残った「ゴメンナサイ」を思い出しました。
“粒ぞろいの美少年揃い”だった柔道部での逸話が満載です。“文化的教養地区”にあっ
たという道場、さぞや文化的かと思いきや。
ファイアーストームでやっと背負い投げ?をし柔道部員たるアイデンティティーを初めて
認識したようです。その後も実に文化的です。握り飯泥棒の話はもちろんですが、腹ぺこ
青年たちの栄城会館の一室での鍋焼きと飲酒ときました。「いもんこば呼んでこい」この
“いもんこ”は生活指導教官か校長の渾名なのでしょうか。先生たちもこの日だけは目を
つぶり、自分も若返りいっしょに楽しんだに違いありません。羨ましい限りの風景です。
そう言えば「柔道」が中学校での武道必修科目に入ったとかで、事故を防ぐべく、柔道を
嗜んだことのない先生が秘かに柔道を習っているそうです。中には柔道経験のある校長、
道場の先生までくりだして、秘かにではなくなりふり構わず、じっくりと教師指導をして
いるそうです。
入部当時は受身の練習ばかりさせられた、と書いてありましたが、必須科目に向けての校
長も道場の先生も受身に重点を置いていました。 ある日突然、民主党国会議員になった
“やわらちゃん”は知っていますが柔道はよく知りません。剣道や弓道でもいいのでは?
と思いましたが、用具や場所の問題があったのでしょう。柔道は身ひとつです。
古賀さんも柔道が必修科目になり、昔とったキネヅカがさぞやむずむずされているのでは
ないか、そんな想像をついしてしまいました。
2012/3/28
新米教師時代のこと 嘉村和人 #A-03 #T-02
お会いしたことも、声を聞いたことも、うわさを聞いたことも無い人です。
記念集に二つの作品を寄稿されているので、その復刻作業を通じその当時のういういしさ、
そして30年後のお姿に会うことができました。
約50年前、なりたて先生のようですから、高3悪ガキとさして変わらぬ年齢でさぞや御
苦労なされたかと想像するのと同時に、引きずっていた青春をそのまま味わっていたのか
とも思います。若さムンムン、しかも美人揃いの女生徒たちに、どきどきしたこともあっ
たでしょう。
「AKB48」どころか「SGB500」の威力を想像します。
出席日数200×平均授業時間3×30年=18000時間
このあたりいかにも数字に拘る方のようで、さらに何年かが追加されたのでしょう。
佐賀高、佐賀西高、神崎高、佐賀西高、厳木高、小城高と地元佐賀の高校教師一筋できて
こられたようです。渾名、結婚、バイク初体験、そして30分ではあるけれど忘れられな
いものだったと言う、記念同窓会での模擬授業、そんなことあんなことに触れていますが、
出会いが「若い教師」であっただけに、11期ともに歩いた時代の記憶が強いのではない
でしょうか。こんな先生の模擬授業、一度受けてみたいと思いました。
2012/4/7
「釈先生の手」 石崎康隆 #28
同窓会への足取りは人によってそれぞれ異なるようです。関心がなかったり、仕事その
他で出向くことについ躊躇したり、いろいろです。それでも青春の一番まっさかりのあの
時代を忘れることなく、いつもどこか出発点になっている、財産になっている、そんな気
がしました。
職員室で自分の成績を転記し、ついでに他の生徒のも覗くという大技、若さならではの
ものです。今の時代はクラッキングでしょうが、仲間との職員室を訪れる[忍者]はクラッ
カーには味わえない現実味、醍醐味があります。
[忍者]のことを記憶の奥に残しながらも、担任の釈先生が飛行機墜落事故にも打ち勝っ
た生徒だということをきちんと知っていてくれて、その上で中国へ立つ前に、教え子の顔
をみつけ“君と握手をしておけば飛行機事故に遭っても大丈夫だろう”となったのでしょ
う。その時の先生の笑顔と大きな手のひら、おおらかさ、ユーモア、これもまた青春時代
のあの時が貴重な財産であることの一こまです。そして先生にとっても生徒は財産のはず
です。
先生の画像を先ほどサイトで拝見し、なるほどと釈先生のお人柄をまた想像しました。
2012/5/23
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