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alpha-archive-07 - 小柳理正

15編集部:2014/04/27(日) 19:44:00
言葉 言語 翻訳
.

            ??言葉 言語 翻訳 2010




  言葉、言語、そして翻訳に触れる文章が多く見られます。
  歴史ひもときは文献に当たることが中心になりますから、氏にとって、まず
  言葉を正確に知ることが大前提になって当然です。
  ひもといていった持論(推論)を文字で残す作業もまた、「正確な表記」へと
  繋がります。
  日本語に訳された資料に対して敏感になるのも、当然の結果なのでしょう。





あかとき??2010/3/21

あかときは、明時という意味の上代語です。
その読みは平安時代以降、あかつき(曉)へと変化しました。

この言葉が出て来る有名な歌には、万葉集105番が有ります。
その作者の伊勢神宮の斎宮の大伯皇女(おおくのひめみこ)が、自分を尋ねてきた弟の大
津皇子が大和へ帰るのを、夜半から朝まで去りがてに見送り、朝露に濡れるまで立ってい
た、という情景を描いた、悲しくも美しい歌です。
 我が背子(せこ)を 大和へ遣ると さ夜ふけて
 ????????????????曉(あかとき)露に われ立ち濡れぬ
この場合の背子は、弟である大津皇子を指しています。

我が名の選択も、一つはこの歌が心の底に有った故だ、と思います。





甘露(アムリタ)
「肥と筑のお答え」より 2010/3/31 4/1

★軍荼利明王に関わる修行法は、どんなものだろうか:
 この明王の真言中には、アムリタ(甘露)と言う言葉があり、クンダリニーの力がサハ
スラーラに及んだときに起きる或る現象を暗示しています。

★アムリタ(甘露)と言う言葉:
 アムリタ(甘露)は、インドのヴェーダ聖典ではソーマと呼ばれ、イランのゾロアスタ
ー教ではハオマと呼ばれる精妙な飲み物です。
北欧神話の蜜酒、ギリシア神話のネクタルにも対応しています。
 法華経には[甘露の雨が降り注ぐ]と言う表現が有りますがいずれも、修行を重ねて得
られる大脳内部の特別な変容を指しているものでしょう。





「言葉」「文章」
「肥と筑第十二回 お答えを読んで」より??2010/4/2

私は、人が優しい心を持ち自分と異なる存在にも同情出来るのは、人が言葉を持ったこと
に有ると思います。
言葉は対象を抽象化する力があります。人はこの力を持つ事により他人と、或いは異種の
動物と、同じ思いを共有することが出来ます。
同じようなことが、例えばライオンとシマウマとの間に起こるとは考えられません。





龍とドラゴン
「肥と筑第十二回をよんで−その1へのお答え」より??2010/4/6

★龍についての東洋と西洋の違い
 実は、ヨーロッパのドラゴンとインドのナーガまた中国の龍とは、その成り立ちからし
て全く違います。
後者二つは、宗教的側面を本来的に持つか、あるいは宗教的側面を佛典の影響で付加され
て行った存在です。
ところが、ヨーロッパのドラゴンは、世俗的な存在に過ぎません。
 これは、例えばアーサー王やその父親のユーサー王の称号の由来を調べてみると、直ぐ
に解ることです。ですから、ヨーロッパのドラゴンを割り当てられたヨハネの黙示録の生
き物を竜(黙示録では、龍より古い字形の竜を用いています)と日本語訳したこと自体が、
致命的な間違いなのです。この訳語[竜]は、明治期にバイブルを日本語訳した誰かが割
り当てたのでしょうが、当人はその間違いに気がつかなかったのです。
 何故か。
 宗教の原典を翻訳した典型的な例として漢訳佛典を考えてみます。
中国にもたらされた梵語(一部はパーリ語)の佛典を漢語に訳する際に、その作業にはイ
ンド側でも中国側でも、当時の最高の知性を持つ人たちが当たっています。
それゆえ例えば、佛陀や菩薩・羅漢などのインド固有の概念で有り漢語中には対応概念が
欠けている言葉は無理に漢訳せず、そのまま音訳すると言う間違いのない方法を取ってい
るのです。
これに対して、ヨーロッパのドラゴンを竜と訳したことは、当時の訳者の致命的過誤だっ
たわけです。
ドラゴンは、ドラゴンと言う言葉のままに据え置き、無理に訳する べきでは無かったの
です。
 ある文化圏の文献を別の文化圏の言葉へと翻訳する作業を、読者に誤解を与えることな
く達成するのは、細心の注意を要することだと私は、考えます。
因みに、イスラムのクラーンは、アラビア語で記述されていますがこれを他言語に翻訳し
て教典とすることは、禁止されています。

★ドラゴンはキリスト教(ヨハネの黙示録)では悪魔を指す言葉
 いわゆるキリスト教徒は、ドラゴンに限らず、異教の神や教祖を、全て悪魔的存在であ
ると決めつけている事は、ご存じですか。
 一方、イスラームでは、ユダヤ教徒・キリスト教徒を、旧約のバイブルを共有する啓典
の民として、その領域内で保護していました。
ムスリムが、旧約の預言者やイェシュアを悪魔的存在とすることは全く有りません。
しかし、キリスト教徒はイスラームの預言者ムハンマドについて、どういう表現を加えて
いるのでしょうか。
 これについては、例えばダンテの神曲の地獄篇第28歌を見れば、直ぐに解ります。
なお、ゲド戦記中のドラゴンは、全てが悪魔的な存在とはされて居らず、むしろケルト神
話でのドラゴンに近い存在だと思ったのは、私の僻目でしょうか。





スワ スハ スハウ ツクハ
「肥と筑第十二回の補足」より 2010/4/15

地名[筑]の東遷について、前回書き漏らした分の補足をします。
◆タタラ技術者の東遷:筑の国と周防・諏訪・筑波
周防・諏訪の古音が、筑波と近かったと言う前提の下に書きます。
その詳しい根拠は、肥と筑の第七回を見て下さい。

★諏訪(スハ:長野県)
 長野の南部は、諏訪郡(諏方郡)です。
所が、長野の中部には筑摩(チクマ)郡が有り、東部には佐久郡が有ります。その佐久郡
を流れているのは千曲(チクマ)川です。
その音は、筑後川の古名の筑間(チクマ)川と共通です。
 スハの[ハ:古音PA]・チクマの[マ:MA]・筑波の[BA]は、ともに唇音で、容易
に相互転換しますが、全て、空間・場所という意味を持っています。これら[PA・MA・BA]
は、漢語の[方]と同根の言葉かも知れません。なぜなら、漢語の[方]は、鬼方・龍方
・土方等のように、中央から遠く離れた少数民族の住む場所を指す場合に、使われていた
からです。

★周防(古音はスハウ:山口県東部)
 [防]は、もちろん上記の[方]に通じます。
周防には、冶金に強い出雲族の痕跡を示す地名が残っています。

先ず佐波郡
周防の国府、防府から佐波川を少し遡った徳地町(今は山口市内)
には、周防二宮の出雲神社が、有りました。
次に吉敷郡
防府の西には、阿知須町(今は山口市内)が有りました。アヂスは大国主命の子のアヂス
キ高彦の名前にも存在し、その意味は小型の鴨です。周知のように鴨族は、出雲族の分か
れです。
また鋳銭司村(今は山口市内)には、鋳銭司が有りました。これは古代の貨幣鋳造所です
が、周防の鋳銭司は全国の鋳銭司中最も長く貨幣の鋳造が行われ、平安時代の820年代か
ら950年にかけては、唯一の貨幣鋳造所だったそうです。

★筑波(ツクハ:茨城県)
 筑波山は、香取神宮・鹿島神宮が両側を固める利根川の下流から、霞ヶ浦に入り、さら
に西北に進んだ所にあります。その二つの峰の頂きには、イザナギ・イザナミの夫妻神が
まつられています。
 古事記神話によると、女神イザナミが亡くなったのは火神カグツチを生んだ際に、ホト
を焼かれて死んだからとされています。
ところが、谷有二氏の「日本山岳伝承の謎(未来社)」p218では、ホトとは[火処(ほと)]
つまりタタラ製鉄用の炉を指していると言いますが、このタタラ製鉄の最後では、毎回タ
タラ炉を壊して、鉄を取り出す必要が有ります。
 これから見て、火神カグツチの誕生によるイザナミの死というのは、正にタタラによる
製鉄の際に避けられないタタラ炉の破壊を指していると見ることが出来るのです。





「中国神秘数字」より?? 2010/4/15

★二と三
 中国では、いわゆる参天両地に通ずる世界観ですね。
言語の世界では、単数と複数の他に、双数を持つ言語が過去に有り現在にも、一部そのよ
うな言語が残っています。このような場合、その言語での複数は、3以上を指すことにな
ります。
 つまり、1・2および3以上の、3つの数のグループが有ります。
現在も双数が有る言語の代表例としては、アラビア語、スロヴェニア語、ケルト語系のス
コットランドのゲール語・ウェールズ語・ブリトン語等が、知られています。
 過去に双数を有した言語には、古代インド語(梵語)・古代ペルシア語・古典ギリシア
語・古代スラブ語などが有ったそうです。
梵語の教科書を最初に見たとき、この双数についての記述が有ったので、習得しようとす
る意欲が直ちに失せたのを憶えています。
記憶力の有る若い時に頑張っておくべきだったなあと、今更ながら後悔しています。

★八と発
 中国では、八は発に通じて大変めでたい数字なので、自動車のナンバーの8888番は、
高値で取引されるとか。
 発財は、たしか金持ちに成ることでしたね。
日本の自動車メーカー[ダイハツ]は、大阪発動機に由来しますが略して[大発]なので、
非常にめでたい名前と言うことでした。





理科系で、言葉に興味を持つ人
「藤原正彦の著書」より?? 2010/4/20

この人の著書は、我が家の本棚に3册有ります。
(3册、ちゃんと読んだのかい? そ、それは、余り追求しないで。)
買った順から言うと
  1.古風堂々数学者:講談社
  2.祖国とは国語:新潮文庫
  3.国家の品格:新潮新書
です。
改めて、3.の著者紹介を見ると昭和18年と私と同年生まれだから
きっと同学年で、教養学部時代は、どこかで逢っていたんでしょうね。

ちなみに、ロボット工学の糸川英夫博士にも
「えっ!糸川英夫が万葉集にいどむ」:同文書院という著書があり
理科系で、言葉に興味を持つ人は、それほど珍しくも無いみたいです。





『言葉集め星創り五拾番』より参拾壱番 天の川を飲んだ:合評??より 2010/5/28

★言葉集め
著者は、人には推し量れぬ量の読書中から、無作為にこれらの言葉を集めてきたのであろ
うか。それとも、有る意図を持って過去の読書の中から選択したのであろうか。
回が変わる度に、その基準が微妙に変わってきていると思う。

★星創り
「星」とは、文章を創る際の核を意味しているのであろう。
著者は、この核を創るため、アナグラムや誤変換、さらに通常は一緒に成りがたい反対概
念の合体などを試みているように見える。

★思考と脈絡
 人が自分の思考を人に伝えようとする際、その考えを言葉の連なりにより、脈絡を持た
せて表現する。
 佛教では、これを語業(ごごう)あるいは口業(くごう)と言う。
この場合、これらの連なる言葉は、その人固有の記憶の海中、言い換えれば深層意識中か
ら選ばれるが一種の霊感によって言葉がわき出てくる場合は、とうぜん選ばれる範囲が当
人固有の範囲より広くなる。
この言葉の海の中から、当人のふるいを通して選ばれた物だけが表面意識に浮かび出てく
るわけだが、それでは、この選択過程はどのようになされるのか。

この過程を、唯識的に説くと
1.外界の刺激を五感(及び第六感)が受け、これに見合う複数の意識が候補としてわき
出てくる。このように刺激を受けて自分の周りにわき出た心の働きを、依他起性(えたき
しょう)という。

2.この複数の意識に対して、過去の自分の経験や好悪の感情によって心の中に埋め込ま
れた先入観のふるいが適用され、当人がその場で最も適当と思った選択がなされ、表面意
識の言葉に変わる。
このように外界の刺激を自分なりに解釈して自分の言葉によって表面意識で解釈しようと
する心の働きを偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)という。
通常この表面意識の解釈は、前後の脈絡がつくような形で行われる。

★著者の作の難解さ
今なぜ、唯識などを持ち出してきたのか。
それは、著者の今までの作品の難解さは
  記憶の海中の言葉の群れ
  刺激に依ってわき起こる依他起性の意識を表わす複数の意識の断片
という二種類が大部分を占めていて、表面意識による脈絡有る解釈が困難なためである。

と、何でも理屈付けて解釈しようとするのは、私の悪い癖かも知れない。
でも、表面意識で統合されていない夢の中は、多数の意識の断片が脈絡無く出てくること
が結構あるし、何だか、この作品の場合と似ていると思いませんか。





「三つの願い 幻の続編その1:合評の2」より?? 2010/6/29

★自分の文章の記録
 先に読書対象の本と、これに見合う読解力を願った主人公は、読書により絶望の淵から
立ち上がる。
 次に願ったのは、自分の文章を過去の全言語で記録するためのコンピュータとレコーダ
ーであった。
 著者は、口に出した言葉の威力やこれに基づく安心感を重要視している。
そう、人にとっては、言葉が重要なのだ。

★蓄積した文章
 仙人のようなバード・ブレインは、人類の歴史、宗教、生活、習慣、伝統など全部飲み込んだ状態にまでいたる。言葉の力により彼は生き返る。
時々大きな声で、万葉集・シェイクスピアを唄う。
つまり、時が来たら飲み込んだ知識の一部を出力するのだ。

★人類の知識の総まとめ
 究極的に、バード・ブレインは、物理的肉体を持たず、人類のあらゆる知識を飲み込み、これを蓄積し、さらに時に応じて、その一部を出力する機能をもつ精神的存在へと、変身する。
 著者が意図したか否かに関わらず、ここで述べられたこの精神的存在は、唯識で言うアーラヤ識の考えと実に見事に対応しており、驚くばかりである。





意志の伝達方法:合評 より 2010/7/29

★ヘレン・ケラー
 著者は、前書き中に、ヘレン・ケラーとサリヴァンを取り上げている。。
サリヴァンが、視覚と聴覚に障害を負った少女ヘレンの世界を開いた最初の手段は何か。
それは触覚を用いて言葉の入り口へと誘い、少女の心の中に、豊かで広い世界を伝えるこ
とだった。
 言葉は、人の意志を伝達すると共に、人の想像の世界を広げ、維持し、次代へ伝える働
きを持っている。

★石川九楊
 著者に刺激されて、辞典の横で長い間積ん読状態(といっても縦置きだけど)だった「書
字ノススメ」を開いて見た。奥付から見て、この本は七年以上眠っていたことになる。
(買ってきたら、直ぐに読めよ)
 書家である筆者が、筆触という切り口から広げた色々な話題の中に、白川静博士の業績
についてのつぎの面白い意見を見つけた。
 白川博士の学説は、数万片の甲骨文資料の一字ずつを書き写す作業を通じて、互いの僅
かな差を分別する事によって生まれた、というのである。
確かに、サリヴァンによるヘレン・ケラーの人格蘇生の場面においても、触覚がその糸口
と成っていたし生物の感覚は、先ず触覚から始まるという。
 私の場合、写経の筆触は、触覚の洗練に役立って居るであろうか。
と思うのは、矢っ張り不謹慎ですよね。





登場人物の命名
「無限回廊 第一回:合評の1」??より 2010/9/17

合評とは言えないけれど、最初に、登場人物のこれからに関して勝手に思いつくままに書
こう。
★ザイン
第23号[てふの夢]の正篇・続篇に登場したザイン。
彼は、Aladdinのランプの魔法の精の兄弟分見たいで、面白そうだ。
第24号[むげん]の今回は、出番が無くその行方がちょっと気になる。
第25号で、もう一度登場して欲しい。

★バードとエヴァ
エヴァの出身は、ヴェトナムだとか。
それならば、二人の前身として、後漢に抗して戦ったヴェトナムの英雄、詩索(ティ・サ
ック)=バード、徴側(チュン・チャック)=エヴァという夫婦に、ピッタリ嵌りそうだ。
それにしても、詩索とは、さすがに凄い名前である。

★サカエ・ル・カミノ
試みに、この名前の区切り方をちょっと変えて、サカ・エル・カミノとしてみよう。
すると、サカ(日本語)もエル(アラム語)もカミ(東アジア共通)も全て、神を指す
言葉と成る。神様の言葉、言葉の神様なのだ。

★グレイ
それで、これからのグレイはどうなるの。
それについては、まだ何にも具体案が決まっていないのだ。





弥生人の使っていた言葉
「肥と筑 第十四回感想その1へのお答え」 より??2010/9/30

Q2.このころの言葉は何語を話していたのかな?
A2 弥生人の言葉についての質問ですね。
語順は今の日本語と同じで助詞を持ち、トルコ語と同じような8母音とその間の母音調和
現象を持つ大和言葉、端的には万葉集や古事記の言葉に近いヤマト言葉だったと思います。
なお、大陸では地方ごとに異なる特徴を持つ原始漢語がその地方の共通語として通用した
他に、漢族以外の少数民族は、民族特有の言語を話すという最低でもバイリンガル以上の
多言語を話す能力を持っていた筈です。これは、現在でも言えることです。





フェニキア文字
「肥と筑十四回 合評3へのお答え」より?? 2010/10/2

★フェニキア文字とタロットカード
この二つを結びつけるのは、突飛に見えるかも知れませんが、実はそうではありません。
ヨーロッパの文字も宗教も、その大元はエジプト・メソポタミアに起こったアラム文明に
発していることは、歴史を見れば直ぐに解ることです。
ただ、TAROTカード一枚一枚の意味は、明らかにインド宗教に多くを負っています。
それは、このカードを自在に操ったジプシーが、インドのカシュミール地方の言語を話す
民族である事からも、推定出来ます。





言葉の定義
「趣味と道楽の狭間で (狭間シリーズ1):合評」より  2010/10/14

この作品は狭間シリーズ中の最初に置かれているが、言葉の定義について取り上げたものと見た。

★言葉による定義
 言葉は、人が見る具体的な物に名前を与える事に始まり、後にその対象は抽象的な事に
 まで及んだ。しかし、作者が指摘しているように、大抵の言葉は多義的、すなわち複数
 の意味を含むものである。定義とは、これら多義的な言葉を幾つか結合して、対象をよ
 り狭い範囲に限定することである。

★言葉による連想
 一方連想は、有る事象を元に、これと部分的に意味を共有する別の事象を呼び起こすこ
 とである。大方の連想は、多義的な言葉を核にして、外へ向かって広げて行くものだが
 人の思考範囲を広げるこの作業は、自分ではそれとは気づかないままに、意味の拡張を
 伴っている。

★言語間における定義の差
 この作品中、日本語の趣味と道楽という言葉が、英語という言語中で、如何なる意味の
 広がりを持つのかという具体例が挙げられているが、その広がりを見ると日本語では、
 意味の重なりが大きいように見える[趣味・道楽]という二つの言葉でさえ、その意味
 は英語に置き換える事により[審美眼・不品行]という二つの肯定的・否定的な言葉に
 まで拡大してしまうのである。

★翻訳に潜む危険
 私自身は、翻訳は有ればそれなりに便利な物だとは思う。しかし、誰が翻訳しようとも、
 その結果は当人の連想の篩を通過したものに過ぎない。上記の例でも解るように、原文
 と翻訳文の間には、作者と翻訳者の好みや癖による乖離が必ず存在する。つまり翻訳文
 の意味は、翻訳者次第で原文の意味と大きく乖離していく可能性に注意する必要が有る。
★定義と連想の何れが重要視されるか:分野の差
 法律・自然科学論文等の記述は、その言語内で解釈が広がらないように厳しく定義され
 る。これに対し、詩歌・文学では読む人の性向によって解釈が広がるような連想表現が
 好んで取られる。だからこそ、理系の翻訳は限られた術語を習得すれば比較的容易に出
 来るが詩歌・文学の解釈は、専門家に取っても難しいのである。

★鵜呑みにしないで
 ここまで書いては来たが、所詮はこの評も私の連想による、この作品の解釈に過ぎない。
 作者も読者も、またそれぞれの考えをお持ちであろう。





松籟・松風と天籟・地籟・人籟
「肥と筑 第十五回:合評のお礼」 より2010/12/13

★松籟・松風と天籟・地籟・人籟
私が推測するに、これらの言葉は、皆、禅宗の悟りの境地と関係があると思います。
天籟・地籟・人籟は、道家が用いる[荘子]の内篇中の斉物論に出てくる言葉ですが、
密教やヨーガでも、人体内の音を表わすのに、人籟という言葉とかかわる表現が有ります。D




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