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alpha-archive-07 - 小柳理正
14
:
編集部
:2014/04/26(土) 16:13:41
イスラーム
.
???????????????????? イスラーム 2010-2013
「肥と筑第十二回をよんで−その1へのお答え」より??2010/4/6
*注) ★評者
★龍についての東洋と西洋の違い:
実は、ヨーロッパのドラゴンとインドのナーガまた中国の龍とは、その成り立ちからして
全く違います。
後者二つは、宗教的側面を本来的に持つか、あるいは宗教的側面を佛典の影響で付加され
て行った存在です。
ところが、ヨーロッパのドラゴンは、世俗的な存在に過ぎません。(中略)
ヨーロッパのドラゴンを竜と訳したことは、当時の訳者の致命的過誤だったわけです。
ドラゴンは、ドラゴンと言う言葉のままに据え置き、無理に訳するべきでは無かったので
す。
ある文化圏の文献を別の文化圏の言葉へと翻訳する作業を、読者に誤解を与えることなく
達成するのは、細心の注意を要することだと私は、考えます。
因みに、イスラムのクラーンは、アラビア語で記述されていますがこれを他言語に翻訳し
て教典とすることは、禁止されています。
★ドラゴンはキリスト教(ヨハネの黙示録)では悪魔を指す言葉:
いわゆるキリスト教徒は、ドラゴンに限らず、異教の神や教祖を、全て悪魔的存在である
と決めつけている事は、ご存じですか。
一方、イスラームでは、ユダヤ教徒・キリスト教徒を、旧約のバイブルを共有する啓典の
民として、その領域内で保護していました。
ムスリムが、旧約の預言者やイェシュアを悪魔的存在とすることは全く有りません。
しかし、キリスト教徒はイスラームの預言者ムハンマドについて、どういう表現を加えて
いるのでしょうか。
これについては、例えばダンテの神曲の地獄篇第28歌を見れば、直ぐに解ります。
なお、ゲド戦記中のドラゴンは、全てが悪魔的な存在とはされて居らず、むしろケルト神
話でのドラゴンに近い存在だと思ったのは、私の僻目でしょうか。
「三点セット:評の2」より?? 2011/4/16
★オスマン帝国の軍楽メフテル
・トルコ行進曲
ヨーロッパの軍楽は、オスマン帝国の軍楽メフテルを見習って出来たものです。
当然、そのブラスバンドの起源もメフテルの楽器編成に有るのです。
モーツアルトやベートーベンの作曲に代表されるトルコ行進曲は、メフテルに刺激さ
れて作られた曲だそうです。
そもそもヨーロッパには、メフテルが用いている太鼓もシンバルも有りませんでした。
今でもヨーロッパで用いる高級なシンバルは、トルコ製が主だったと思います。
・周王朝とトルコ族
中国では、周王朝のころから、太鼓は攻撃の合図、銅鑼は退却の合図に用いられまし
たが周はトルコ族が建てた国なので、その太鼓と銅鑼がメフテルの太鼓とシンバルに
受け継がれていると考えると、彼らが持つ長い歴史を感じさせますね。
・メフテルの朗々たる歌声
イスラームの1日5回の礼拝時にモスクの尖塔から礼拝を呼びかける声(アザーン)
メフテルの声は、きっとこの朗々たるアザーンで鍛えられた声なのでしょうね。
いかにも男性的で、私は好きですね。
「三点セット:評の3」より?? 2011/4/17
・ラク
これも初めて聞く名前です。ラクは葡萄酒から作る蒸留酒と言うことなので、製法として
はブランデーと一緒ですね。
イスラームでは、飲酒は禁止の筈ですが、このタブーが解けたのはオスマン帝国時代の事
でしょうか。それともトルコ共和国に成ってからでしょうか。
いや、ハンガリーには牡牛の血(実は葡萄酒)伝説が残っているところを見ると、やっぱ
りオスマン帝国では禁酒だったんでしょうね。
「三点セット:評の5」より?? 2011/4/18
★TVカメラの受注とターンキー業務
トルコ共和国は、オスマン帝国の崩壊時に、イスラーム絶対主義と決別して政治は世俗の
指導者が取るという道を選んでいます。このとき殆どの制度文物を、西洋から導入しまし
た。この政策は、その後もずっと続いて来たはずです。
それにも拘わらず、トルコ国営放送局のTVカメラとして、著者の会社が製作したシステ
ム が採用され、しかもそれがターンキー業務を伴うものだったということは、この会社
の技術がヨーロッパの技術に較べ卓越していたことを如実に示しています。著者はこれに
ついては多くを語っていませんが、適当な機会を見つけてそのシステムの進歩性、それを
得るために要した数々の苦労話等について触れた作品を書いて貰いたいものです。
「肥と筑 第十九回評へのお答えの2」より?? 2011/12/6
*注) ★評者
★小説か論文かといった質問をして作者に不快な思いをさせた:
私が肥と筑の第一回を投稿した時に、同じ意見が他の人からも出ましたが、それで不快に
なったということは、全く有りません。そのような反応が出ることは、予想していました
しそのような意見に対する私の考えは、その直ぐ後に説明した記憶があります。
★ユダヤ人は、他国で生存するため学問・芸術的職業・金融業のどれかを身につけた:
確かにそうだったでしょう。しかし、この記述中には少し誤解もあります。
正確には「ユダヤ人」は「ユダヤ教徒」と、「他国」は「キリスト教国」と書くべきです。
「ユダヤ教徒」は、キリスト教徒の偏見により特に中世ヨーロッパでは土地を所有できず、
生業も限られていました。その典型例がベニスの商人で描かれた金貸しシャイロックです。
一方、イスラーム諸国では、ユダヤ教徒(およびキリスト教徒)は、同じ啓典の民として
寛大な扱いを受けました。これは、イスラームとキリスト教との間の際だった差です。
皮肉な見方をすれば、キリスト教徒による差別が「ユダヤ教徒」の才能を開花させたとも
言えます。
「イスタンブール追憶によせて」より?? 2012/3/13
作者が、かつて仕事でトルコに幾度となく滞在した際の実地経験に基づくトルコの首都
のイスタンブール街中の詳しくかつ貴重な体験記として書かれており、非常に参考になっ
た。
この都市は、東西の架け橋、地政的にはオリエントとオクシデントの架け橋であり、文
化的にはイスラム圏とローマ・キリスト教圏との架け橋である。
この都市の特性を反映して、市内の代表的イスラム宮殿とモスクとは、近代トルコ建国の
父、ケマル・アタチュルクの英断により博物館に変えられている。そのため、じっくりと
時間をかけて見て回る事が出来そうだ。私に取って、時間と経済に余裕が有れば、是非と
も行って見たい場所の筆頭である。
クルアーンの翻訳について??2012/7/6
*注) ★評者
「心にあるよしなしごと」−評3(完)の文中、
★「イスラームでも(翻訳による布教という) 同じ努力がなされてきたのでしょう」:
とありますが、実はイスラームの経典クルアーンは、他の言語に翻訳して布教することが
禁止されているのです。(ただし、布教を目的としない翻訳はあり、日本語訳も存在しま
す。)つまり、イスラームでは、世界中何処に行ってもモスク内で用いられるクルアーン
の文章は共通であり、翻訳による誤解は生じないようになっています。
アラビア語には、非常に広い地域に渡る国・地方・民族それぞれに異なる方言アンミーヤ
が存在しますが、一方ではイスラーム圏共通の文章語フスハー(日本語では文語に当たる)
がこのクルアーンの文章を基礎として生まれました。
「肥と筑 第二十七回:評のお礼とお答えの2」より?? 2013/12/26
*注) ★評者
★西欧の大航海時代を境にアジア・アフリカ圏に白人世界が乗り込んできた:
その通りだと思います。しかし、当時の西欧の技術はイスラーム圏から来ているのです。
例えば、ヴァスコ・ダ・ガマの印度航路発見について考えて見ましょう。彼は、ポルトガ
ル王の命令により、1498年、アフリカ喜望峰回りのインド航路を発見したと言います
が、本当に彼がこの航路を発見したのでしょうか。
高校世界史では教わらなかったことですが、喜望峰回りのインド航路にはアラビア人の
水先案内人がいたと言います。
どうして、そう言えるのでしょうか。
??そもそも、西欧の大航海時代の後援者であるスペイン・ポルトガル両王国が占めるイベ
リア半島は、8世紀から15世紀にかけて非常に高度な文明を持つイスラーム系王国が存
在していましたし、その王国の覇権が衰えイベリア半島から撤退した後も、対岸のアフリ
カ北部はイスラーム圏に止まりました。当時のポルトガルやスペインが代表する西欧世界
は、武力では勝っても、文明的にはイスラーム圏の教えを仰ぐ立場に有りました。
それでは、当時の西欧世界はイスラーム圏からどんなことを教わったのでしょうか。
その端的な例が、喜望峰回りのインド航路だったと思います。
実は、西欧の大航海時代よりも70年ほども前から、アジアでは明の鄭和が指揮する大
航海が実行されていた記録が残っています。この鄭和は、巨大船団による七次に渡る大航
海で、東南アジア・インド・アラビア湾のホルムズ海峡・アラビア半島・東アフリカにま
でも到達していますが、鄭和自身はアラビア人の子孫であり、イスラーム教徒でした。
この鄭和船団が到達したマラッカやジャワの北部には、イスラーム教が浸透し始めていた
のですが、それはアラビアの商人がもたらしたものでした。外来の宗教が土地に浸透する
には、長い時間を要しますから、アラビア商人のマラッカやジャワの北部への進出は、鄭
和の航海よりも早くに起きていた筈です。
つまり、アラビア人は鄭和に先立ってインド洋を航海していたのです。これから見て、
鄭和船団の造船術と航海術は、同族・同宗教のアラビア人から伝えられたものでしょう。
当時のアラビアにおけるイスラーム文明は、それほど高い文明だったのです。
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