したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

竹内

35同人α編集部:2020/12/05(土) 07:27:12
願わくば
?????????????????????? 願わくば



 欠陥人間である。昔風の用語でいう片輪である。「片輪」は差別用語であり使用禁止の
言葉らしいが、自分のことを言うのは問題ないだろうと思う。内分泌を行う内臓の中に肝
臓というものがある。これはインシュリンという糖分をエネルギーとして取り込む作用を
する物質を分泌する臓器である。このインシュリンは生成作用が弱く、外部より補完しな
ければ生命の維持がおぼつかないということである。いわゆる糖尿病である。糖尿病は、
現代医学では完治させることは不可能であり対症療法のみである。これで悲観していても
先に進まない、現実に向き合っていくしかない。その対症療法としてインシュリン注射を
毎日行う羽目になった、三十代からである。
 インシュリンが不足すると食事よりとった糖分がうまく体内にエネルギーとして取り込
まれなくなり、血液中に残ったまま血管に付着したり腎臓に過大な負担をかけたり。何か
と生命維持に障害をもたらすとのことである。そのためインシュリン注射に加え、出来る
だけ糖分を消費するため運動を要請されている。運動といっても運動音痴の身であり運動
会では弱者であった小生に、何か様になる運動をするといってもせいぜい散歩ぐらいしか
ない。散歩は昼食後数時間行うことにしている。散歩中いろんなことが頭の中をよぎって
いく。そのなかでふと頭に浮かぶ言葉あるいは概念がある。
 その一つで、突然「願わくば…」という言葉あるいは単語が頭の中によぎった。はて?
どこかで聞いたと思ったが「……」がなかなか思い出せない。よくあることである。思い
出せないことに対応する方法はいろいろあるがふつうはあいうえお……順に単語を並べ
る。たとえば「あ」の後またアイウエオと続ける、あい、あう、あえ……と連想し、最後
「わ」つぎに「い」……といく、不思議なことにこれで頭の中にあるものが引きずり出さ
れてくることがある。それでもこれでうまくいくことは稀である。うまく思い出せない時
は、帰宅後すぐに忘れないうちにPCに向かい検索。なにしろPCの中には無限ではない
が多くの情報が詰まっている。昔は百科事典を調べていたがそれをはるかに凌駕する情報
が引き出せる。もっとも引き出すにはそのキーワードをうまく設定する必要があるが。と
もかく何とか「願わくば」についてたどり着いた。それは西行法帥の詠んだ歌である。
 「願はくは花の下にて春死なむ、その如月の望月の頃」この解釈は後ほどにするとして、
西行法師とくるとそれに始まる年寄りの連想は果てることがない。春の白昼夢をたどって
みる。

 西行といえば俗名は「佐藤義清」、平安末期の下級貴族にて北面の武士。左兵衛尉と
あり位階は不明であるが、官位相当制度より調べるとおそらく正七位というところであろ
う。これは当時の感覚でいうと下級貴族というところか、佐藤氏は藤原北家魚名流である
藤原秀郷(俵藤太)の子孫、奥州藤原氏、関東の小山氏、結城氏などと同族である。秀郷
流藤原氏といえば、歴史用語でいえば源平に代表される「軍事貴族」といわれる中のひと
つである。
 この軍事貴族とは、これは日本歴史を研究している学者の間においても色々解釈がある
ようであり私ごとき門外漢が口出すことではないが、この秀郷流藤原氏、平安木期になる
と同じ軍事貴族といわれる清和源氏、桓武平氏と比べるとあまり振るわず、どちらかとい
うと地方の武者という位置付けである。佐藤義清の佐藤氏、紀伊の国田中荘の預所に補任
された。この預所なるもの、平安時代半ばより出てくる名称であるが、開発領主が国家権
力による収奪から逃れるため摂関家などの上級貴族に寄進し、実質的には領主であるが名
目上上級貴族の下での管理者のような場合や、在京の領主より任命れた管理者等様々なケ
ースがあり、よくわからない。この佐藤義清という人、おそらく紀州という近国であり開
発領主ではなく管理者として補任されていたのだろうと思う。
 この佐藤義清の諱(いみな)は「サトウノリキヨ」と読む、「範清」とも書くとある。
そこでふと思い出した。源平争乱期ポッと出てすぐ歴史の闇に消える志田義広という人が
いる。源為義の三男である。頼朝の叔父にあたる。この人通常は「よしひろ」と読むと信
じていた。何かの折この志田義広を調べたとき「義範」との表記もあるとあった。その時
はなぜ? とも思わなかったが、この「佐藤義清」を「サトウノリキヨ」と読むというこ
とでいうことで改めて考えると、実は「シダノリヒロ」と読むのが正解かと思った。当時
「義」を「ノリ」とも読んだのですかね。必ずしもそうは言えないところがある。たとえ
ば「九郎義経」これは「クロウヨシツネ」であり「ノリツネ」という読み方はない。
 志田義広の読み方をいろいろ調べても「ヨシヒロ」が正しいようです。義範の範をヒロ
と読むのは現代でも名前の読み方としてあることであり不思議ではない。 ということで
「義清」を「ノリキヨ」と読むのはこの西行法師の俗名のみなのか、正確には西行の出家
前の緯、佐藤義清のみなのか。佐藤義清、下級貴族とはいえ紀伊の国田中荘の預所であり
裕福であったといわれている。預所であり生活基盤は充分保証されており北面武士として
あるいは左兵衛尉として当時の武者の家のものとしてそれなりの地位を有していた佐藤義
治が、何故困難の多いと思われる仏教の僧侶として生きていくことを覚悟したのか。何故
出家したのか、いろいろ言われているがよくわからない。が、多くの説は失恋した、すな
わちさる高貴な女人に恋をし逢瀬を持ったが「あこぎ」と言われ失恋した、との説が多い
ようだ。
 これから先は想像あるいは妄想の領域というべきか、ともかく下級貴族である佐藤義清
か上級貴族のさる女人と逢瀬を持った、その時のことを仕草を含め「あこぎ」と評価され
た、これは豊かで繊細な詩人の魂を有する彼にとって堪えられない屈辱ではなかったのか。
あるいはいかに軍事貴族とはいえ、所詮上級の貴族から見たら下郎に過ぎないと思われた
に等しいと、彼の北面の武士としての生きがいあるいは誇りが内面から崩れ去ったのでは
なかろうか。佐藤義清か西行に変化するところである。
 出家するということ、現代に生きている我々にはなかなか理解しにくいところであるが
当時の人にとってはまさに今までの人生をすべて捨てて生きていくということ、全ての従
来のつながりを切断することであり、よほどのことがない限り下す決断ではないと思う。
事実、よく知られている西行は自身を「心なき身にも哀れは知られけり、鴫たつ沢の秋の
夕暮れ」と詠んでいる。ここに出家という存在がある。「心なき身」ということは、全て
の世俗の関係感覚を断絶したということであろう。とはいうものの西行という人、宗教人
というより歌人としての評価が高い。平安末期から鎌倉時代の初めに生き、死後編纂され
た最後の勅撰集『新古今和歌集』に九十四首人撰している。その歌風はいわゆる新古今風
に大きな影響を与えた。このあたりは詳しくなくいろんなところで書かれていることのつ
まみ食いである。
 老人の連想を続ける、ここでふと、ほぼ同じ時代に北面の武士であり横恋慕により出奔
挙句に出家した行動の人を思い出す。その名は「遠藤盛遠」出家後の名前は「文覚」、こ
の人、宗教人というより現代風にいえばフィクサーあるいはクリエーターといったほうが
適切であろう。出家後真言宗の僧侶として修業し神護寺に赴き、その興廃した様子に発奮
し当時の後自河法皇に強訴した。この強訴、いかにも荒っぽいやり方であり法王の方でい
ささか持て余し伊豆に配流となった。ここで伊豆に配流中の源頼朝を知る。通俗の物語で
は、頼朝にその父源義朝のものという髑髏(しゃれこうべ)を見せ平家追討をあおったと
の話もある。
 ともかくこの時の縁で頼朝と良好な関係を築き、頼朝が権力者となった暁にはその庇護
を受け神護寺、東寺、その他の寺院の再建を行った。特に神護寺では中興の祖といわれて
いる。頼朝死後その後ろ盾を失い、そのフィクサーたる源泉がなくなり政争に巻き込まれ
佐渡に配流され、赦免されるも今度は後鳥羽上皇に謀反を疑われ再度対馬に流刑、途中で
死す。まことに波乱に満ちた生涯であり行動の人であり快僧というべき人である。
 連想のついでにもう一人同じ文の付く僧侶、こちらはのちの評価は妖僧である。時代は
少しあとの鎌倉末期から室町初期というより南北朝時代である。「文観」という僧侶がい
る。後醍醐天皇に重用された。東寺一長者、天王寺別当など務める。この人、南朝方の人
でありその業績はその後の北朝系統の政権に抹殺されたところもあるようである、その中
で特に「真言宗立川流」を広めた妖僧との評価がある。この真言立川流とは真言宗の経典
のひとつである理趣経に基づくものである。立川流伝承では、性的儀式を伴っていたとい
う。そのため淫祠邪教ということで迫害され消滅した。そのための教義、様式など全く残
っていないためよくわかっていない。ただ理趣経は正当な密教経典であり、真言密教の根
本理念である「自性消浄」という理念に基づく経典である。ただ男女の性行為などを大胆
に肯定している。そのためいろいろ曲解される向きもあるとの恐れより、密教を日本に広
めた空海弘法大師はこの経典を封印、修業を積んだ僧のみ読経を許可したといわれている。
よくわからないところである。
 さて文観はこれくらいにして西行に戻ろう。西行に限らないがこれらの僧侶、一体どの
ようにして生活(生命維持)をしていたのだろうか。西行のように特定の寺院に所属する
ことなく気の向いたところに草庵を結びかつ日本国中を旅するという生活、どのようにし
て生命維持の基礎となる衣食を調達していたのだろう。西行の生きた時代、平安末期は源
平の合戦の時代であり、その間養和の飢饉というものがあり日本全国が不安定の時代であ
る。生きることが困難な時である。
 鴨長明による『方丈記』にこの飢饉時のすさんだ光景が言及されている。ときの権力に
連なる寺院に所属してない現代でいうと、自由業の彼らはいかにして生きていたのか、仏
教が一般民衆のレベルまで浸透するのはこの後のいわゆる鎌倉仏教である浄土真宗、日蓮
宗、禅宗(臨済、曹洞)などによる教化によるものであり、西行の生きた時代では僧侶は
聖なるもの犯してはならないなどという規範が一般民衆レベルで共有されていたか、極め
て疑わしい。また旅をするといっても宿泊施設など整備されているわけでもない、どのよ
うにして旅をしていたのだろう。
 日本において一般庶民の旅が可能になるのは、少なくとも江戸時代半ば以後である。僧
侶ということで、諸国の寺院のネットワークというものがありそれを利用したのか。とも
かく平安時代には旅をする人はいた。たとえば初期には在原業平、関東(武蔵の国)まで
旅をしている。この人、国司に任官した経歴はないので、もし関東まで旅をしたとすると
律令制による正規な手段は使用できなかったはずであるが、それでも平安初期までは律令
制による中央集権が生き残っており道路、駅などのインフラは生きていたと思う。少なく
とも何らかの方法でこれらを利用できたはずである。
 翻って西行の生きた平安末期、奈良時代に整備されたインフラが中央集権が壊滅した時
であり、駅伝制が機能していたとは思えないのである。少なくとも、平安末期日本を自由
に移動できたのは兵の集団のみである。源平両氏などに属する兵が、集団で当時知られて
いた日本を移動している。その移動の方法というかノウハウは少なくとも十世紀ごろから
の地方の反乱(正平・天慶の乱、平の忠常の乱、前九年、後三年の役)などに対処した兵
の棟梁の家系に遺伝子として伝承されていったはずである。
 そのような兵でもない僧侶はどのようにして宿泊をし食を収ったのか。寺院のネットワ
ークのようなものがありそれらを利用したのか。現在でこそ寺院は多数あり集落につき一
寺院はあると思われるが、これは鎌倉仏教の普及後、江戸時代の宗教政策によるものであ
り、平安末期にそのような数の寺院があると思えない。一口に歩ける距離を三〇キロくら
いとしてその範囲に一寺あったとは思えないのである。もしあったとしても、宿泊させ食
事を提供するという機能を有していたのであろうか。
 西行法師、現代では歌人として有名人であるが、同時代の地方にて西行ということで有
名人として通用したであろうか。気の向くままに旅をし歌を詠むとは歴史上のロマンであ
るが、少し現実的に考えると謎が多い。この西行法師、当時の奥州平泉まで二度旅してい
る。最初の旅は出家して二年後である。二度目は東大寺大仏及び大仏殿修復のための勧進
である。現代風に言うと奥州藤原氏への寄付依頼である。この二度目の旅の途中鎌倉に立
ち寄り源頼朝に会っている。「……鴫たつ沢……」の句はこの時相模の大磯あたりで読ん
だ歌である。
 一度目は全く目的もわかっていない。ただ奥州藤原氏は秀郷流藤原氏として西行の佐藤
氏と同族である。おそらくここで奥州藤原氏と良好な関係を結んだであろう。そのため二
度目の東大寺修復勧進が成功したのもこの時の関係が効いたのかも。ともかく旅について
は謎が大きい。ここで西行ということで大昔に購入し積読になっていた本を思い出した。
それは辻邦生氏による『西行花伝』という小説である。この本、かつて西行法師に関心が
あった時期に購入したのであるが、内容がちょっと小生には重く感じ、ほったらかしにな
っていたものである。ここ数週間、この文章を書き始めてあらためて読み出した。まだ読
了したわけではないからこの小説がすべて真実であるという保証はないが、辻邦夫氏、そ
れなりに資料を調査されていることであろうから、これに照らし私がいままで書いてきた
内容が間違いと思うところもあり、ここで訂正しておく。
 まず紀州田中荘預所について、田中荘義清の数代前佐藤氏が開拓した荘園(領地)であ
り。それを徳大寺家(精華家)へ寄進した物とある。歴史上いうところの開発領主であり
実質の領主である。これは平安中期よりのいわゆる兵の典型的な在り方である。鎌倉幕府
を支えた御家人はほとんどこのパターンである。また出家したあとも完全にこれらの世俗
と切れておらずそれなりの関係があったようで。そこから生活の糧を支援されていたと思
われる。私の西行への想いはこの『西行花伝』に託したい。そこで佐藤義清という人、弓
馬術、蹴鞠などいわゆる武芸に秀でた人であったようである。ここに佐藤義清/西行を解
く鍵があるように思う。
 平安末期、もはや律令制は実質崩壊していたが、その建て前のみは存続しその匂いに浸
っていた時。騎射すなわち馬術、弓などは仕草の伝承にすぎずとても実戦の用をなすもの
ではない。このころ台頭してきた武家の荒々しい生命力に太刀打ちできるものではない。
往時の北面の武士の武力はせいぜい都の公家の飾りにすぎず、のちに鎌倉幕府を盛り立て
た武者に太刀打ちできるものではない。事実、北面などの都の武者が当時の合戦などで活
躍した話を聞いたことがない。たとえば以仁王の乱というものがある、ここで以仁王に与
力した源頼政(典型的都武者)は関東の足利(藤姓)忠綱になすすべもなく敗北している。
 いろいろ評価はあるようであるが平安末期に京武者であった佐藤義清、西行へと変身す
るもその根っこはやはり佐藤義清である。滅びゆくものの儚さあるいは愛着を体現した人
であったようである。『西行花伝』をまだ読了したわけではないが、辻邦生という小説家
に共鳴するところか多い。そのなかで『背教者ユリアヌス』というものがある。ここで彼
はコンスタンティヌスによりそれまで抑圧されたキリスト教が一挙に権力側となり正義を
独占したときに、それに連なる人々の正義を独占したと信じる人間の振舞いをつづった。
 また『安土往還記』というものがある。これは中世的権威を破壊し新たな世界を切り開
いた信長の清々しさへの共感である。これらに大変感動した覚えがある。では『西行花伝』
で何を言わんとしたのか、まだ読み終えていないが、おそらく滅びゆくものへの共感・儚
さではなかろうか。何となくここまではわかったような気もするが私が本当に知りたいの
は、西行という僧侶、一体どのようにして生活していたのかいわゆる形而下のことである。
このようなことについては全く不明なことが多い。
 さて西行という人、西方極楽浄土を希求して付けた名前であり、その死は願い通り一一
九○年如月二十六日(旧暦)(釈迦涅槃の日)人寂した。
 最後の連想であるが「東行」と号した人がいることを思い出した。西行にかけた号であ
ると思うが、その心は東の方江戸幕府を食らいたいとの思いである。その人の俗名は「高
杉晋作」、幕末長州の志士にして風雲児である。維新成立前にその望みがかなうまえに病
死した。


         
              西行法師。菊池容斎『前賢故実』より。
          




新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板