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竹内
30
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同人α編集部
:2015/10/18(日) 17:48:33
ジャンボ
.
ジャンボ
ジャンボとは、もともとは一九世紀末にヨーロッパ諸国にアフリカで捉えられ、ヨ
ーロッパの動物園で飼育された巨大なアフリカゾウにつけられた愛称が元である。そ
の起源はスワスリ語にあるらしい。スワスリ語の挨拶の「JANMB〇」と酋長を意
味する「JAMBE」がもとである、とwikipediaにある。現代の日常に普
及している言葉としては大変珍しい、アフリカに起源を有する単語であるらしい。
現代では、ジャンボとは「巨大な」という意味の接頭語として使用されている。も
とはアフリカより拉致された大きなアフリカ象が巨大であったことに由来している。
ディズニーのアニメ映画に「ダンボ」という大きな耳を有する象の物語があったよう
な記憶があるが、このダンボの親の名前がジャンボであったと思う。それほど有名に
なっていたのだろう。
現在日本においても「ジャンボ……」といった言葉がかなりあるようだ。要するに、
日常的に使用される日本語に取り込まれた言葉である。日本語の中にアフリカ起源の
単語が使われているのは非常に少ないのではないだろうか。日本で日常的にジャンボ
が使用されるようになったのはなんと言ってもあれ、すなわちボーイング七四七型旅
客機につけられたニックネーム「ジャンボジエット機」からではないかと思う。
さて、そのジャンボジエットについてこれから始めよう。
ボーイング七四七が正式な名称である。この飛行機、各種バリエーションがある。
−一〇〇、−二○○、−三〇〇、−四〇〇、SP、最近−八が開発された。この七四
七試作一号機は、一九六八年九月三十日にロールアウトしたとある。四十六年前であ
る。
このころ、すなわち一九六五年前後、エアーライナー各社はマクダネルダグラスD
C八、ボーイング七〇七が盛りを過ぎ、次世代長距離飛行対応機体は超音速になるで
あろうとの期待があったころである。そのころの大型旅客機の世界はボーイングとマ
クダネルダグラスはほぼ二社の米国勢のみであり、まだエアバス社は誕生していない。
両社ともに次世代超音速機とのつなぎとして、既存の機体よりやや大型の二百五十
人乗りくらいを検討していた。米国の両社とも航空各社の乗客定員増大の要求に対し
ストレッチ(長胴化)の手法を用いて対応していた。このストレッチとは、基本設計
を大幅に変更することなく、機体容量の増大が出来る利点がある。機体の主翼近傍の
両側付近の両端に、プラグと呼ばれる延長用胴体を追加するものである。
この処方であれば設計上容易であり、費用も少なくてすむという利点がある。これ
により七〇七、DC八ともに航空各社の要求に応えていった。とくにこのストレッチ
が上手く行ったのがDC八であり、最終的には乗客定員は二百五十名前後となった。
一方、ボーイング七〇七は若干胴体が大きくさらに主脚が短いことが災いし、DC八
ほどストレッチを行うことができなかった。これが、ジャンボジエッ卜誕生のひとつ
の要因となっている。
現在ダグラス航空機はまずマグダネルに吸収され、さらにはボーイング社に吸収さ
れているが、一九七〇年ではまだボーイングのライバルとして激しい開発競争を行っ
ていた。さて、ここでジャンボの登場であるが、先ほどストレッチのことを書いたが
ほかに米国空軍の大型輸送機開発計画がある。一九六三年空軍のCX一四計画が発表
され、それにボーイング、ダグラス、ロッキードの各社が対応。結局口ッキードが受
注し、C−五ギャラクシー輸送機となったわけであるが、落札出来なかったボーイン
グには膨大な設計資料が残った。
主力大型民間輸送機の分野でダグラスDC八におされ気味のボーイングでは、なん
とかこの分野での首位維持をはかることを模索。この時代、先に書いたように民間航
空各社の大勢は、次世代機は超音速機の時代との思惑があったようである。この情勢
の中で、ボーイングの時の社長はパンナムの会長の注文のコミットメントを取り付け、
他の役員の反対を抑え大型輸送機の開発を決定した。しかし先に書いたように、超音
速機登場までのつなぎに過ぎない機体にかけるのはリスキーであり、保険として貨物
輸送機への転換が容易に出来る考慮をした。元設計が軍用輸送機であり、床強度など
十分確保でき、さらに貨物の積み込みなどが考慮されていた。
もともとボーイングは軍用機、特に爆撃機であるが、これを基本に旅客機を作るこ
とは経験ずみであった。B−一七から三〇七をB−二九から三七七を開発したように。
また基本設計は軍用輸送機であるため高翼であったが、これを低翼化など、多々の軍
用輸送機から民間輸送機への変更がなされた。開発当時は、だれも大量輸送の時代が
来るとは予想もしていなかった。そのため、先に書いたように貨物輸送機に転換する
ための機能を残した形態となった。
たとえば機首、この部分が上に跳ね上がりそこから大型の荷物を積み下ろしする開
口とするため操縦席はこの上の二階に設けた。今も残る操縦席が少し上に突き出てい
る構造などがある。当初この部分をそのまま後部まで伸ばし全二階構造とする案があ
ったが、余りに容量が大きく、持て余すとの意見があり二階部分に少数の客席がつく
れるだけのものにした。
そのような開発時点での情勢であった。このなかでキックオフカスタマーとしてパ
ンナムは二十五機、オプションとして十機の発注をした。今パンナムという航空会社
はなくなっているが、当時は米国を代表する航空会社として世界的な影響力を有して
いた。この情勢で各国を代表し、パンナムと競合路線を有する航空各社、日本航空、
ルフトハンザ、BOAC、TWA、DLHなどより注文が続いた。計画発表の一九六
六年時点での受注総計は四十九機であった。初飛行(一九六八年)時点での受注は百
五十八機であり、受注はやや伸び悩んでいた。当初、この七四七機体の大きさに対し
エンジンの開発が追いつかず、当初の計画より性能が若干落ちてしまった。これも受
注の伸びに待ったをかけたようである。
さて当初はこのような大型機、各国を代表する航空会社でなければ大きさを持て余
すと思われ販売台数はそれほど伸びなかったのであるが、実際に運用してみると予想
外のこととなったようである。これから多少乱暴な議論も入るが、大略間違いないと
思う。
従来に比べほぼ倍の容量を有する機体である。同一の人員を運ぶとすると、その便
数を半分に減らせる。大型でエンジンの燃料消費が多いとはいえ、総合的にみると輸
送人員あたりの経費は少なくなる。これに伴い航空運賃が安くなって行く。さらにこ
の一九七O年代は世界的な好景気であり、また燃料が安くなったときである。航空旅
客の増大に伴い、国を代表する航空会社ばかりでなく、その他の航空各社もジャンボ
の導入に踏み切っていった。
これらのことが重なり、航空旅客はますます増大していった。それに伴い、ジャン
ボの導入も増大する。一九七〇年になるとエンジン性能も向上、出現当時の推力一九
八〇キログラムから二一OOキログラム超となって設計当初の計画をほぼ満たし、さ
らにエンジンは当初GEのみで選択の余地がなかったのであるが、P&W、RRなど
も選択範囲に入った。速度、航続距離、飛行高度など当初の設計仕様を満たし、遠距
離でも快適な旅行ができるようになっていく。
またこの大型機は旅行客の増大をもたらしたが、その起点、終点の空港においては
増大する人員に対する受け入れ処理施設の強化が必要であった。しかし、人員の増大
の割には便数の増大を伴わなかったので航空管制の問題は少なく、旅客の増大を阻害
することにはならなかった。けれども機数の増加に対し乗客の増加が追い付かない情
勢もあった。航空会社は空席があって便数を減らすわけにも行かず、なんとしても乗
客を乗せ空席を減少させるために団体割引制度、パック旅行による割安運賃などの導
入を行い空席の減少に努めた。このためますます航空機による輸送人員が増加増大し
ていった。
これらの複合的要素の絡み合った結果は、航空機による旅行の大衆化である。これ
以前の航空機による旅行は限られた人のためのものであったが、このジャンボ機によ
る旅客容量の増大はまさに革命的な結果を生んだ。単に飛行旅客の増大という面でな
く、地球規模での人の行き来が増大したととらえるべきであろう。しかも限られた人
ではなく、一般庶民が地球的規模で旅行を楽しむ時代となったのである。それまで他
人の経験の伝聞に過ぎなかった異文化の世界を、自分の体験として手触りできるよう
になった。
これはまさに文明論的革命である。およそその開発当時、次の超音速機時代のつな
ぎにしか過ぎないと考えられていたこのジャンボにより、思いがけないこととなって
いった。当初考えられていた超音速機は「コンコルド」として登場したが、まだ技術
的な成熟度が不足し航空会社の興味を引くことなく静かに退場していった。
このジャンボの成功を受けて、機体製作各社よりDC一〇、L−一〇一一 (トラ
イスター)さらには多少違う視点より開発されたエアバスの各機種が登場する。特に
現在ではジャンボを抜いて最大の大きさを誇るA三八〇など、続々登場してきた。ボ
ーイングでは市場調査の結果A三八〇クラスの機体の需要は世界的に見て飽和状態で
あり、あえてA三八〇クラスを開発しても共倒れの可能性があるとの判断があり、こ
れに対抗する新規開発は行っていない。
さすがにジャンボは開発より四十年間進化を続けてきたが、どうしても新設計の機
体には対抗できない面も出てきた。ボーイングにおいても若干小さいが経済性に優る
七七七を開発、また航空各社は大型機より中型機でより経済性の優れた機体をという
要望が強く、これに応えた七八七を投入した。ボーイングは次世代機として、次は超
音速時代であるとの認識のもとで超音速機を検討中のようである。
最後に、このジャンボを開発政策したボーイングという航空機製作会社はシアトル
に本拠があることはご存知と思うが、シアトルにあることから何か連想できるだろう
か。ウィリアム・E・ボーイングという人が始めた会社であり、もとは木材、不動産
の業務を行っていた。航空機を手がけたのは第一次世界大戦中の一九一六年である。
海軍の軍人と共同で飛行機の製作を始めた。初めは複葉の木製機であった。
民間旅客機でボーイングが開発した画期的なものは二四七であろう。これは一九三
〇年代初めに登場したもので、全金属製双発低翼の現代旅客機の原点をなすものであ
った。ちなみに、この後ダグラスよりかの有名なDC三が発表されている。その後、
ボーイングのレシプロ旅客機は三〇七(ストラトライナー)、これは先に書いたが、B
−一七よりさらに第二次大戦後B−二九より発達した三七七(ストラトクルーザ)機
がある。またちょっと系列をはずれているが、豪華な内装客室を持った三一五クリフ
ハーがある。これは飛行艇である。
このレシプロエンジンの時代には、民間旅客機はダグラスとロッキードが卜ップを
走っておりボーイングは三番手であった。ボーイングがトップに出たのはジエット機
になってからである。七〇七の原型機は三六七一八〇と言い、ボーイングがジエット
輸送機の優位性をアピールするために行った自主開発機であるが、軍用輸送機と民間
旅客機の両方をにらみながらの開発であった。
これは最初に軍用として、KC‐こ二〇空中給油・輸送機として採用されている。
民間機としては七〇七となる。これ以降ボーイングは、民間機に全て七〇〇番代を使
用している。もっとも二四七、三〇ヒ、三ヒ七など、当初から七が入っだ型名ではあ
る。よほど七がお気に入りのようである。
最後であるがちょっと数字を並べてみよう。
表1 大型機(乗客二百名以上)
表2 小型機(乗客定員百〜二百名)
図1 七四七の生産数(年別生産数と累計)
?? 図1 747生産数
?????? 表1 大型機
??????
?????? 表2 小型機
??????
表1はいわゆる大型機ワイドボデーの機体である。七四七、七七七が一千機以上受
注していること、またエアバスの各機体もこんなに受注しているとは驚きである。ま
た小型機をみると驚きの数字である。特に七三七、A三二〇など一万機以上、世界の
空を飛び回っている。動力を有する飛行機がライト兄弟により初飛行したのは確か二
十世紀初めの一九〇三年である。それからほぼ一世紀、ライト兄弟の想像の範囲を大
きく凌駕していることだろう。また図1は七四七の年別生産数とその累計である。
ここに挙げている数字は、主として世界航空機年鑑の各号による。この数字は受注
数である。また一部M wikipediaよりの数字もある。こちらは生産数が示さ
れていた。図1の七四七生産数、これj wikipediaにより二〇一一年までで
ある。七四七の従来型は二〇〇九年に生産終了とある。図1と表1の七四七に対する
数字の違いは新型七四七−八の受注数であるとしてよかろう。
ちなみに日本航空は、一時期その発注数が世界最大で百十三機であったが、現在は
貨物機を除き全て退役している。
※参考としたもの
世界航空機年鑑 一九六九年以降 酸燈社
旅客機発達物語 石川潤一 グリーンアロー
ジエット旅客機 その系譜と変遷 原田哲夫?? 酣燈社
ボーイング旅客機?????????????????????????????? イカロス
名機一〇〇 別冊航空情報???????????????????? ?? 酣燈社
飛行機のスタイリング 佐貫亦男???? グリーンアロー
??????????????????????????(完)
斜光20号 2015
B747引退: ANA 2014年/ JAL 2009年
???? 画像出展:航空見聞録 (*編集部)
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