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yoshiko

3編集部:2014/04/12(土) 19:50:26
高柳増男君の死を悼む
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          高柳増男君の死を悼む 




 一昨年「喉の癌」を患って以来入退院を繰り返していた高柳君が今年五月初旬に亡くな
った。私も週に数回ほど見舞いに行ったが、彼は声が出なくなってからは私達が冗談やら、
茶化しやらを勝手にぶつけるのを大人しく、フンフンと聞くばかりになっていた。しかし
息を引取る数日前までは意識も目の輝きもいつもと変らず、本当にシリアスな状態なのか
と疑いたい程精神的には安定した状態で、彼は病気を治して仕事に戻ることを本気で考え
ていた。それでも苦痛などを私達に一度も訴えることがなかったけれど、肉体的にはダメ
ージが蓄積していたのだろう、私達にとっては突然といいたいほどの容態の急変があり、
長時間苦しむことも無く、あっという間にあの世に行ってしまった。

 思えば彼との出会いは四十五年前、高校一年生から始まった。真冬、彼の家の納屋の二
階の部屋に泊めさせられて寒さに凍えたり、朝には家の前を流れる川で顔を洗ったりした
ことが数度あった。そして時々は私の家に一週間ほど居着き、そこから高校へ通いもして
いた。だから、彼の身体的障害などはすっかり忘れさり、友情などといった美辞麗句に収
まらない付き合いで、時には思わずそのことをからかったりして彼の自尊心を傷つけるこ
とも度々あったと今私は反省している。

 彼の両手の指と足の指をなくした経緯を本人から聞いたのはいつだったか思い出せな
い。それはまだ戦時中のこと、縁側に寝せられている赤ん坊の彼の足先で敵機の落とした
焼夷弾が炸裂し彼の足指を吹っ飛ばしていった。そしてまたまた不幸なことに、数年後成
長した彼は家の畑のなかから不発の焼夷弾を見つけ、遊んでいるうちに暴発してこんどは
手の指を粉みじんに打ち砕いたという。

 振り返ってみるとアメリカ軍の本土空爆は終戦間際のものだと思っていたが、 すでに
昭和17年4月19日に中京・阪神地区に大規模な焼夷弾による空爆が始まっていた。そ
して終戦間際の昭和二十年になると制空権を奪われた日本全土の地方都市もその例に漏れ
ずいたるところで焼夷弾の雨が降っていた。

 佐賀県への空爆は昭和20年4月18日鳥栖が最初で、それから終戦まで10回続いた。
 第1回  4月18日 午前10:00〜 鳥栖
 第2回  7月16日 白昼
 第3回  7月21日

 第4回  7月28日 白昼
 第5回  8月1日 午後1:00〜
 第6回  8月5日 午後11:30〜6日午前1:00  東川副、諸富、川副、久保田
 第7回  8月9日
 第8回  8月11日 午前中    鳥栖
 第9回  8月12日
 第10回 8月14日
 昭和20年8月5日第6回の最大規模の空爆被害状況は
   死者 38名   被災者  2000人  被災住戸  500戸
   被災地 東川副 諸富 川副 久保田 等    (佐賀県警察史の資料による)

??また、焼夷弾の構造および着弾におけるその作動状況は次の通りである。
E46収束焼夷弾は、B29より投下され数秒経つと鉄バンドが解かれ、M69焼夷弾が
空中にばらまかれる。すると麻布製のリボン(約1メートル)が飛び出しM69が正確に
落下するよう揺れを防止する。
 屋根を突き破ったり着地すると5秒以内にまずTNT爆薬が炸裂、その中のマグネシュ
ームによりナパームに着火する。その燃焼する力で鋼鉄製の筒を吹っ飛ばし30メートル
四方に燃焼したナパームをまき散らす。

上記の資料によるり高柳増男氏が被災した状況を考察すると
  1. 高柳氏の被災したと思われるものは昼間の空爆で4月18日鳥栖、8月5日の深夜、
   8月11日鳥栖を除いた日のどれかと思われる。
 2. 彼の年齢と事件の起きた状況が違うという指摘がなされたが、「おくるみにくるま
   った」という友人の記憶による思いこみをしたことによるもので、乳児ではなくじ
   つは三歳になる前の高柳氏が縁側で寝せられていたものと推察される。
 3. 高柳氏がどうしてナパームの火による被災でなく外傷を受けたかは、ナパームに着
   火せず単に鋼鉄製の筒を吹っ飛ばしただけの不発弾だったと考えることもできる。
 4. この件に関して(焼夷弾による被災)はT氏およびK氏も聞いたと証言している。

 だが、ここで新たな証言をI氏よりもたらされたことが問題となる。被災説を信ずる私
たちには想像すらできなかったもので、それは出生にまつわる物語であったとI氏は言う。
??このことは「被災説」と「出生説」の両方とも彼が自らが告白したということが事実
であるとすれば、どちらかが真実でどちらかが虚偽であるか、或るいは両方とも彼の創作
によるものとも考えられる可能性が生じてくる。いま思い起こすとそのように彼は謎の多
い男であり、真実はなんであるか語らずに逝ってしまい、真相は闇の中である。

 しかし、兎も角彼はその障害にたいして心無い言葉や世間の目に臆することなく果敢に
立ち向かい、私達仲間のうちで一番の音痴だった彼が音楽業界で活躍したのは以外であり、
あまりに身近な付き合いだった故、彼の素晴らしい業績に鈍感だったことを葬儀の時に私
は感じたのだった。
 棺に納めた彼の思い出の品の中に45年前のハイキング仲間の写真があった。私の家を根
城にして屯(たむろ)していた「梁山泊」の仲間からまた一人旅立ってしまった。その写
真のメンバーのうち既に三人が欠けている。次に逝くのは俺だともう既に手を挙げている
御仁もいて補充も期待できるようだから、そのときまで「願わくばあの世で先に逝った徳
重雅啓君と石田信彦君とメンバー不足ではあるが三人で君の好きな麻雀でも興じていてく
れ」と祈っている。


斜光 8号 2003年7月14日


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