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真理の使徒
:2016/12/15(木) 20:52:23
「業の自壊作用の教言」
現象の世界は実相が展開する過程である。実相とは不動の世界ではない。時間と空間とを超越したところの不断にして大いなる働きである。実相の働きを時間と空間の上に表すということが、善業を積むということなのである。
しかし、現象で悪業を積めば、神の怒りを受ける、等と考えてはならない。神は悪を犯す人間を作っていないのである。
実相の人間は完全であるが、現象の人間な不完全である、と悟ることが真理を悟ることではない。時間と空間の制約を通して世界を見ると不完全なのは当たり前である。肉体の五官を通して世界を見ると不完全なのは当たり前である。不完全な心を以て世界を見ると不完全なのは当たり前である。
不完全に見るから不完全なのであって、不完全なものが存在するのではない。
だからと言って、不完全な自分の見方を悔いるものは、真に悟っていないものである。そのような不完全な五官も、不完全な心も現象の産物であって、実相にはないのである。
現象とは、神の子たる自己を表現するための舞台である。ならば、我々は慶んでそれを演ずればよい。神は完全であるから、無限の可能性を持っている。従って、神の子である我らも無限の可能性を持っているのであるから、自由に現象の舞台で演ずることができるのである。
自由に演じた結果、過ちを犯した、等と思ってはならない。我々が創作した舞台の上のキャラクターは過ちを犯しているかもしれないが、それは実相の世界の事ではない。吾々は神より完全なる自由を与えられ、且つ、絶対に過ちを犯さないことを保障されているのである。
しかし、我々は神の子であるから、自由の内にも神の導きを求めるのである。悪業を積むと業の自壊作用が顕われるのは、我々が神に導かれるための神の慈悲である。仮に迷いの自壊作用によって我々が滅んだとしても、実相の我々は滅んでいないのであるから、迷いの自壊作用を恐れてはならない。
迷いの自壊作用とは、観世音菩薩の教えである。人間は過ちを犯した後、その過ちが目に見える形で現れることによって、それを修正したいという欲求が湧いてくるのである。
善とは強制されて行うものではない。自由なる意思によって行うものである。悪業を積んで迷いが自壊するのは、人間が善なる方向へ向かうための神の慈悲である。
我々は悪業を恐れてはならない。善なる神の御光を当てると悪業は消滅する。業の自壊作用は我々が善なる神のみ光を受けるための神の慈悲なのである。
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