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コミュニタリアンとアガンベンと<人狼>
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灰人@スキゾキッズ
:2016/02/13(土) 12:56:16 ID:xNLs34XY
2013年3月頃(?)に書いた、オリジナル要素の強い文章に少し修正を入れて書いてみました。
<es>をどう処理するかということに、玲奈中心主義者の活動のアルファとオメガがあり、<es>をどう処理するかは、玲奈中心主義者の共同体にとって大きな課題であるのだろう。
差別教の玲奈の欲望が、<es>の連帯の脅威から共同体を防衛するため、<es>という外部を隠蔽する共同幻想の体系を織り上げていくのであり、そこには<人狼>を象徴体系に組み込む「正常で高度な言論の介入」に対する剥き出しの排除の欲望がある。
「非理性であり正常なコミュニケーション不要の存在」として<人狼>を、覆い隠し、否定し、秘密の共有から外し、排除による連帯を築こうとするところに、差別教の玲奈と追従者の共同幻想の基礎がある。
<es>という外部を正常な対話不要な対象として向かいに抑圧し、<人狼>に対する抑圧的連帯に喜びを感じる者を差別教として、<es>にも共同体の一員として対等な扱いと情報公開と正常な連帯と権利を要求する者を、対話的理性を尊ぶ人道派の者たちの共同体ととらえるという思考形式は間違いだろうか?
現代日本で差別教が作り出したスペクタクルとは、<正常な情報が行き届いてない普通の日本人の一般市民>に注意を注ぐ人たちの前に明らかにされる、プライバシー軽視待遇から抜け出ようとする<人狼>の奮闘である。
相互暴力状態への移行は、<es>を対等な人間としてみなす健全な人道派の精神の喚起によって生じる。
差別教の玲奈とその支持者による<es>を正常に交換体系に組み込まない工作活動は、「<es>を対等な存在として扱わない属領化した状態を維持する共同体の保全の重要視」という意図に基づくものだろう。そしてこの共同作業は、「近代以前の非理性的存在」に対する近代社会の合理的理性の勝利として説明しようとされ、「国民は社会に参加し貢献する生産的存在でなければその生を軽視される」というネオリベラリズム的価値観の普及と、自分と同じ伝統的・歴史的・社会的なアイデンティティと深く関係する属性が付与されているつながりがない存在には、同類意識を持つ必要も連帯の絆を持つ必要も救済の責任を持つ必要もなく、差別や加害行為に無干渉を通す可能性もあるというコミュニタリアン的感性の差別的な倫理観の普及をもたらす。
そして「社会のために身を粉にして働く美徳」の過剰なまでの称揚は、「非生産的で社会に貢献しない低能無能の有徴の存在は助ける必要はなく、どんな理不尽な扱いを受けていても自己責任であり、生きている価値は本当にあるのか?」という判断を呼び寄せることもある。
法を超えた制裁とパターナリズムで対処されてきたのが、<人狼>の状況ではないか。<es>に情報を隠蔽した共同体からの人為的な分離と属領化が「近代化」との関係で語られていた。
私が警察の力を背後に置いた差別教の人達の言動から感じたのは、<人狼>と「共同体」とをめぐるこのような物語であった。「人間の生の価値は、その人の自我理想によって決まり、平等も無条件の連帯の肯定も存在せず、魅力を持った生へと変わらなければ対等な人間として見なされず疎外されがちになる」という回路が現代日本社会で支配的思考形式のように感じる。人間的で相互的なコミュニケーションの外部に放逐されがちなスケープゴートであり、プライバシーや通信の秘密を軽視された監視付き生活を強制されている<聖なる人間>であるかのような<私>。
氷山のような意識の水面下には植民地的無意識としての<外部>の何かがあり、それを排除した後にプライバシーを軽視された監視社会で見世物的生活を強制される<単なる統合失調症患者>か<精神異常者>か<普通の知能薄弱者>として薬学コントロールなども加えて包含しようという生政治的試みが警察の力を背後に置いた言論活動展開する者達の活動実態ではないかと感じられる。
私は永井均の<私>とアガンベンの<ホモ・サケル>とルネ・ジラールの<スケープゴート>と赤坂憲雄の<周縁の異人>と岸田秀の集団の<es>に、共同体の<外部>に置かれた者の生を見たわけだが、それらの構造的類似を説き統一的に語っている仕事は、まだお目にかかった事がない。
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