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人の言葉と一念三千

1太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:29:23
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65903
【人の言葉と一念三千】1/26 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時51分13秒

人間の生命とは不思議なもので〝同じ話や文章〟を読んでも、
その人によって受け取る感想や理解度、また筆者の意図する事とはまったく違う、

いわゆる「読み違い」などが起こる場合があります。
いったいなぜこんなことが起こるのでしょうか。

御書には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(御書一八九頁)とありますが、
仏法の要である一念三千論(生命論)を学ぶにあたって、その基礎ともなる

「十界論・十界互具論」をしっかり学び、命で体得している人なら

「人にはそれぞれ異なった個性や経験値などがあり、感情の起伏もさまざまである」ことは

容易に理解できるし、それが〝生命の姿である〟ということも当たり前に理解でき、
なにも不思議ではないと感じているでしょう。

では、仏法の極説中の極説である生命の本質を説いた「一念三千」とは何なのか。

この生命の理(ことわり)を解明していくことで、
すべての現象の本質が明らかになっていくのではないかと考えます。

しかし、生命を主体的にとらえ、そこから普遍の哲理を鋭く見出し、
壮大な生命哲学を分かりやすく説くことは至難です。

それに大聖人や天台が一生を費やして説いた生命の本質(一念三千)を、
わずか数枚分の文章で明らかにできるなどとは思いません。

だからここでは、皆さんが教学を研鑽する時に、少しでも思索の参考になるように、
なるべく平易な言葉を選び、生活に即して考察していきたいと思います。

2太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:32:57
http://6027.teacup.com/situation/bbs/65904

まず、冒頭に述べた

「なぜ〝同じ話や文章〟を読んでも、その人によって感想や理解度が違うのか」

を考えていきましょう。

日蓮大聖人は
「この経(法華経)の文字は一字一字、ことごとく
生きている仏(因行果徳を備えた仏)である。
しかしながら、我々凡夫は肉眼なので、ただ文字と見るのです。

たとえば餓鬼界の者はガンジス川の水を火と見、人間は水と見、天人は苦悩を癒す水と見る
・・・同じ水でも見る者の〝果報〟によって見方は別々である(通解)」(一〇二五頁)

と述べています。

そして

「これと同じように、この経の文字は盲目の者は見ることができず、
肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、
仏は一々の文字を金色の釈尊と見るのです」(同頁)

と訴え

「経にある即時仏身(※即身成仏)とは、このことを言っているのだ」(同頁)

と結論付けました。

どういうことかというと、

即身成仏とは〝一念の変革〟であり、人間革命という意味です。
人間革命とは何かというと、境涯革命のことです。

そして、同じ文字、同じ物を見てもそれぞれ見方が違うのは、その人の境涯によるのです。
物や文字をどのように見、どのように受け止めるかは、
見る者の〝果報〟によって別々です。

果報とは、過去の業因によってもたらされた現在の生命境涯のことです。

つまり、その人の果報は十界に現れ、

十如是にその全体が包み隠さず〝功徳〟となって現れるのです。

3太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:35:21
御書には

「功徳とは六根清浄の果報のことをいうのです。
(中抜)功徳とは即身成仏であり、また六根清浄のことです。

法華経の経文に説かれるように修行することが、
六根清浄であると心得ていきなさい(通解)」(七六二頁)とあります。

簡単に説明すると、

経文通りに仏道修行を貫けば、物事の本質(正は正、邪は邪)と
人の境涯が正確に判断できるようになり、

自在の大境涯を得ることができるということです。たとえば、

菩薩の境涯の人は、法眼が具わってきますから、経文を見れば
人々を救済する無量の法門であると見、仏の境涯の人は、仏眼が具わり経文を見て、

一々の文字を金色の釈尊・常住不変の生命の輝きをもつ仏であると見えるのです。

反対に、修羅の境涯は「諂曲なるは修羅」(二四一頁)ですから、心がひねくれ争いを好む生命です。

だから何を言っても聞く耳を持ちません。
正といえば邪、邪といえば正と天邪鬼(あまのじゃく)のようです。

それが修羅の境涯の特徴です。大聖人も

「邪見にとらわれた者は、このように尊い〝経〟を低い爾前権経と同等視して破る(通解)」(同頁)

といっています。つまり、

邪見にとらわれた者は我見と感情のみで対話し、仏法を破るということです。

そういう人にとって「経文を根本に・道理を正して」などという理屈は関係ないのです。

4太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:41:10
大聖人の立正安国論が、現代に至ってもなお、世界平和実現のための
指南書なのかというと、武器を用いず、経文を根本に道理を尽くし、

対話を通して「正は正・邪は邪」と為政者に訴えているからです。

立正安国論は末代の弟子たちに、その勢力と戦うために
道理を立て、対話という戦いの方途を示しているようにも見えます。

ましてや「教義論争や思想戦」において、弟子がもっとも心すべきは、
大聖人が示した「経文を根本とする」ということです。

これが出来ないならば

〝低い境涯で、単なる我見と感情で主張しているだけだ〟

と喝破されてもしかたがないと思う。

第二次宗門問題、勃発当時の青年部は、現場の会員が安心して学会活動できるように、
坊主や法華講から攻撃されないように、誰に賞賛されずとも、

懸命に教学を研鑽し、ひたすら坊主や
法華講と教義論争をして陰から会員を守ってきました。

法華講が「もうこの地域の会員宅を訪問するのは嫌だ」というくらい、徹底して
現場に駆けつけ、道理を立てて対論し、坊主や法華講から会員を守ってきたのです。

しかし、末端会員のほとんどは、そういう事実を知りません。
幹部も言わないし、言おうともしない。

彼らはライン役職を全うしながら同志を励まし、
題目を上げ抜いて仏道修行を貫き通してきました。

もし今の青年部の中に「教学があっても信心がなければ・・・」などという者がいたと
するならば、あまりにも信心がわかっていない証拠であると断言できます。

徹して教学の勉強もせず、仏敵との攻防戦もしない
中途半端な教学部員に、そんなことを言う資格はない。

5太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:44:33
確かに

「法門を理解しても信心がない者は絶対に成仏しない。
法門が理解できなくても信心のある者は成仏できる(趣意)」(一四四三頁)と、

御書にはあります。

しかし

「解らない人は法門の研鑽をしなくても解る人に任せればよい」などとは、

どこにも書いていない。また

「末代の凡夫は法門を少々心得てはいるけれども、
僧(法華経の行者)をあなどり、法門をないがしろにして悪道に堕ちる(趣意)」(同頁)

ともある。さらに

「今は仏はいない。
だから仏法を解悟(迷いから解き放たれて真実の道理を悟る)した
智慧(善知識)を仏として敬うべきである。

(中抜)後世を願う者は、名聞名利を捨てて、いかに身分が卑しい人であっても
法華経を説く僧がいたならば、生きた仏のごとくに敬いなさい。

これは我見ではなく、まさしく経文にある通りだ(趣意)」(一四四四頁)

と書いてある。また、法門が理解できなければ

「法華経を説く僧を解悟の智慧(善知識)とたのんで法門をたずねなさい(趣意)」(同頁)

とも書いてある。さらに

「何としてもこの経の心を知っている僧に近づき、
いよいよ法の道理を聴聞して信心の歩を運んでいきなさい(通解)」(一四四〇頁)と、

大聖人は言い切っています。要するに

〝教学を学ぼう〟とする求道心のない者は、信心していても悪道に堕ちるということです。

また

「法門を心得ている人のしるし(証拠)というのは、どんな行動をしている人かというと、
僧(法華経の行者)を敬い、経文を崇め、仏を供養している人(趣意)」(同頁)とあります。

青年世代の時は、まわりから〝きちがい〟と言われるぐらい教学の研鑽をしてください。

そうでなければ、後悔するし、悪を見破ることなど、到底できないと思います。

「信・行・学」の三つを実践しない信仰者が、いくら立派なことを主張しても、しょせん口だけです。

6太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:47:08
さて、話をもどします。

なぜ「低い境涯で、単なる我見と感情で主張しているだけだ」と言えるのか――。

十界互具論で言えば、菩薩界の中にも十界があるわけですから、
菩薩界基底の修羅ならば、当然、邪義に対しては痛烈な反論をします。

その場合
「本より私の語をもって是を難ずべからず。
経文を先として是をただすべきなり」(御書一二〇七頁)

との仰せのままに、経文を提示して痛烈に反論するでしょう。

これが〝人を救っていこう〟とする菩薩の境涯の対話です。
そしてこれが法華経の行者の仏道修行です。

六波羅蜜経に「常に我が心の師となって、
心を師としてはならない(通解)」(一〇二五頁)とある通りです。

経文を根本に主張する実践は、立派な仏道修行です。

だから御書を学んでいこう、池田先生の指導を学んでいこうとする一念が大切なのです。

対話、議論、往復書簡を行う場合に必要なことは、人間として同じ土俵に立ち、
誠実に相手の主張に耳を傾けていく、一念の〝姿勢と忍耐〟です。

たとえ全部は納得できなくても、互いに共鳴できる部分を
見つけ出そうと努力する――そこに人格の輝きがあると思うのです。

その先頭に立って、あらゆるイデオロギーを超えて、異文化圏の人間と対話をし、
弟子たちに「対話の手本」を示しているのが池田先生です。

そして、人間革命(一念の変革)運動を世界の民衆に推進し、

その法理を現代に展開してきたのが池田先生です。

7太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:48:47
仏法では、生命の本質を「一念」と説いています。

この一念とは、

唯心論的な「こころ」とか、唯識論的な「意識」といったものではありません。

むしろこの「こころ」とか「意識」は、生命の本質からいえば、
ほんの一部に過ぎず、当然、こころと意識も一念に含まれます。

仏法でいう一念とは、

生命の「実感・形態・性分・法則性・力用・所作(行動)・因果・環境」などの全体を包含し、
しかもそれらを内より統一している生命そのものの実在(不変の実体)を〝一念〟といっているのです。

この一念の変革を完璧に説いているのが日蓮仏法の「事の一念三千」です。

また、一念がどう展開されていくかは〝三千〟という体系でとらえることができます。
この〝三千の体系〟の基礎になっているのが「十界・十界互具・十如是・三世間」なのです。

つまり、三千という展開なくして、一念の実在はなく、
三千のあらゆる相もバラバラにあるのではなく、一つの実在のなかに融和している。

これが一念三千の法門です。

生命の実体は決して外に求めるべきものではなく、また試験管に向かって
生命を研究しても、その本質を解明できるものではないでしょう。

たとえそれで生命の外観は得られても、内に働き、
常に発動している生命そのものに迫ることはできないと思います。

仏法で説く生命論(一念三千)は、生命そのものは自分自身の中にあり、
その生命自体に「直観的・求心的」に迫って、一念の実在を見出し、

それをもっとも完全で、全体的な把握をしたものです。

十界、十界互具、十如是に関しては、もう皆さんはよく御存知だと思いますので、
今回は「三世間論」に的を絞って、その意義を考えていきたいと思います。

8太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:50:35
まず「十界・十界互具・十如是・三世間」を簡潔にいうと、
生命の一念(一心)は十種類の境涯をそなえています。

その一念の境涯は、瞬間、瞬間に変化し、各界にもそれぞれ十界を相互にそなえています。

観心本尊抄には

「無顧(むこ)の悪人もなお妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり」(二四一頁)とありますが、

人間が悪を重ねていけば地獄です。

そうであっても妻子を思いやり、幸せになってほしいと涙する心もあります。
これが悪の地獄界の人間のなかにも、菩薩界が互具している証拠です。

こうした十界の境涯の中に、十界が互具(百界)した生命には、
さらに十如是(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)という
十種類の普遍的側面をもっています。

如是とは万物の〝ありのままの姿〟という意味で、

生命の働き、作用というものは

「姿・形(相)」「心の働き・性分(性)」「根本の体(体)」

「内在する力(力)」「力が現実に働く(作)」「生命次元の因(因)」

「因の補助的因(縁)」「生命次元の結果(果)」

「生命次元の因果を因としてそれが姿、形にあらわれたもの(報)」

という普遍的側面が、必ず存在します。

そしてそれらは「すべてが一貫して等しい(本末究竟等)」と洞察し、
見事に論理化したのが〝十如是〟です。

この十如是という側面とともに、十界の生命が発現する時、
必ず具体的な個体(肉体・心)の住む「社会や環境」のうえにあらわれ、
そこにさまざまな区別というものが生まれます。

つまり、三世間では十界の生命の具体的な

「色法・心法」への現れや「活動・存在」の面を論じているのです。

9太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:52:19
三世間は「五陰世間・衆生世間・国土世間」の三つですが、
世間とは「差別」という意味です。

ただし、ここでいう差別は〝人種・身分〟などの
人間社会において作られた不合理な差別のことをいうのではなく

〝因縁・果報〟によって定まった生命自体の厳しい差別です。

なぜ三世間に因縁や果報の差別があるのかというと
〝十界・十界互具・十如是〟だけでは、まだ生命の一般論を論じただけに過ぎず、

一人ひとりの生命が「どのように〝違う〟のか」が、まだ明確になっていません。

その違いを「主体そのものや環境面」から解き明かしたのが、三世間論なのです。

では、一つ一つ見ていきましょう。

【五陰世間】

五陰世間とは個々の生命体の活動様式を分析したもので
「色・受・想・行・識」の五つです。

この五陰を「色法・心法」に分けると、色法は〝色〟、心法は〝受・想・行・識〟となります。

「色」とは生命活動の前提としての肉体。
「受」とは生命が外界の一切を受け入れて取り込む働き。
「想」とは受け入れたものを認識する働き。
「行」とはその認識に基づいて行動を起こそうとする働き。
「識」とは受・想・行という方程式にしたがって反応を起こす場合、

それらを動かす根本となる意識や知恵です。

一人ひとりの生命にこの五陰の〝違い〟を見ていくのが五陰世間です。

もっと簡単にいうと、人は皆、例外なく

「色・受・想・行・識」の五つの方程式に則って、行動や言動をしているということです。

10太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:53:23
【衆生世間】

衆生世間とは五陰(色法・心法)が和合(不二)した
「色心不二」の一個の生命体をいいます。

つまり、その生命の十界の〝違い〟を解き明かしているのが衆生世間です。

五陰が和合してできた衆生という生命体は、それ自体が他の衆生と違うのは明らかです。
もっと簡単にいうと、人それぞれ違っているのが当たり前で、

一人として自分と同じ考えや、行動や言動をするような
〝コピー人間〟などは存在しないということです。

この衆生世間で「依正不二(正報・依報)」の〝正報〟が完結し、

次の国土世間で〝依報〟が解き明かされます。


・・・つづく

11太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:57:31
さて、国土世間を説明する前に少し話題を変えます。

一般社会においても、何らかのものを体得しようと思えば、
それに伴う基礎体力や基本知識が必要です。

たとえば、スポーツならば、その競技に耐え得る最低限の
基礎体力と専門知識を持っていることが必要です。

また、職人の仕事なら職種の基本的知識と最低限の技術が必要不可欠です。
それらの基本ともいえる努力と勉強をせずして、何かを体得することは到底できません。

要するに、最低限度の〝努力と勉強〟が必要だということです。

それと同じように、世界最高峰の生命哲学を体得しようと思うならば、
ある程度の教学力(基礎教学)と、意味は分からなくても仏教用語を知らなければ、
何を言っているのか分からないと思う。

これを読んでいる人は多分、教学部員の方がほとんどだと思います。

しかし、もしまだ教学を習い始めたばかりの人がいるなら、
まずは基礎教学から勉強してください。

一念三千論を勉強するために最低限、必要な基礎教学は
「十界論、十界互具論、十如是論、色心不二論、依正不二論」の五つです。

これらを理解したうえで、三世間論を学べば、何を言っているのかも理解できると思います。

つまり、

三世間論を簡単にいえば「色心不二・依正不二」を、より精密に分析して解き明かしたものなのです。

12太ちゃん★:2017/03/14(火) 01:59:36
では、話を国土世間にもどしましょう。

【国土世間】

国土世間とは十界の衆生が住む「社会や環境」です。
一個の生命は、必ずどこかの国土(社会)のなかに現れます。

しかし、同じ国土(社会)、環境であっても、個々の生命との関係性に
おいては、その境涯にしたがって同じではありません。

このように国土(社会)の〝違い〟を解き明かしているのが国土世間です。

たとえば、家族四人(父・母・兄・弟)が一つの家に住んでいたとします。
父は仕事、母は在宅主婦で学会活動、兄は予備校生、弟は中学生――。
それぞれ個々の生命における関係性や、社会と関わる環境も違います。

父は家族を養うために、職場で少々嫌なことがあっても我慢して仕事をしています。
そして、父は職場がちょっとでも楽しい環境になるために、同僚と信頼関係を築き、
会社に貢献できるよう喜び勇んで努力している。

この父の境涯はまさに菩薩界といえます。

母は常に「忙しい、忙しい」と愚癡ばかり、そして朝から晩まで時間に追われ、
そのくせ美食を好んで、昼は毎日グルメの旅――まさに母の境涯は餓鬼界。

一方、兄は大学受験で予備校通い。
朝から晩まで勉強でS大に合格することだけに心が支配されて、
自分のことしか考えない。まさに兄の境涯は二乗界。

弟は学校へ行っても同級生から〝いじめ〟にあっている。まさに弟の境涯は地獄――。

このように家族四人が同じ家に住んでいても、個々の境涯の〝違い〟によって、
世の中の見え方も違うし、住む家も違って見えているのです。

父からすれば、家は仕事の疲れがとれる癒された場所、
母は火の家、兄は虚空、弟は孤独で冷たい家――というように、

同じ家に住んでいても「見え方・感じ方」はバラバラです。

このように、それぞれ置かれた社会の関係性や環境が違います。これが〝依報〟です。

13太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:01:19
一度、整理します。

十界の生命は、具体的には五陰(色心)の活動をもち、その五陰が和合(不二)して
一個の統一した生命体(衆生)として現れます。

そして、その生命体(衆生)は
個々に違いがあり、それぞれの衆生に住む国土があります。

これらの三世間を解き明かして、
初めて十界の生命の存在が明確になり、一念三千が成立するのです。

一念三千を構成する哲理は「十界・十界互具・十如是・三世間」ですが、

これらの関係性を簡単に説明すると、

大聖人は

「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」(一三五八頁)

との経文を引いてその意義を述べています。

つまり、実相――生命は架空の世界にあるのでもなければ、
特別な姿であるのでもなく、必ず諸法――森羅万象として現れる。

そして森羅万象は、必ず「相・性・体」の三如是を体とし
「力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」の七如是の働きを備えています。

さらにこの十如是を備えた生命は、必ず十界に収まり、
十界の生命は必ず環境をもった主体として現れます。

だから「十界・十界互具・十如是・三世間」は、決して十界も
十界互具も十如是も三世間も〝ある〟というような並列的な存在ではなく、

一界が十界をもち、十界おのおのが十如是をもち、
しかも厳然と三世間の相を備えている――という、奥行きのある体系なのです。

この立体的な〝生命の実体〟を完璧に解き明かしたのが「一念三千論」です。

14太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:02:51
この一念三千という法理は、天台が「法華経の哲理」に基づいて体系づけたものです。

先にも述べましたが、

一念とは生命それ自体のことで、
一念の「一」とは決して数量的な「一つ」という意味ではありません。

中道法性といって、肉体も精神も、因果も有情も非情も、すべてを包含した
生命の全体を「一」といい、その生命を「一念」といったのです。

天台はその一念を

「十界・十界互具(百界)・十如是(百界千如)・三世間(三千世間)」

という範ちゅうで説きました。

天台はこの一念三千を把握するために

「単に〝言葉〟だけではなく、自身の生命に宇宙大の自我を実感することが必要である」

と考え、自身の生命を「内観」することを力説しました。

これが観念観法ということです。
つまり、法華経を根本として自身の生命を深く思索することが、
天台における仏道修行の要諦だったのです。

だから天台教学は哲学的な思考や考えが中心であり、これによって悟る
一念三千の法門も、しょせんは理論の範囲だけでした。

これを天台の「理の一念三千」といいます。

しかし、この理の一念三千の法門では、瞑想家や評論家にとっては
良いかもしれませんが、万人の力強い実践の哲理とはなりません。

大聖人は末法の世において

「法華経が〝全民衆救済〟を本義としている以上、
これ(観念観法)に踏みとどまることは仏法者としては許されない」

と認識し、また自覚していたのではないでしょうか。

15太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:04:11
大聖人は天台の一念三千論そのものは「法華経」に本来、説かれたものであり、
天台がそれを法華経から拾い出したと解説しています。

そして、この一念三千は

〝万人成仏の原理〟であるとの認識から、それを「仏種」と表現しました。

さらに大聖人は、天台が一念と表現した実体(仏種)こそが、
宇宙生命の根源である「南無妙法蓮華経」と悟り、

この〝悟り〟をそのまま「本尊」として一幅の曼荼羅に図顕します。

ここに至り、天台の打ち立てた〝一念三千〟を、

大聖人はより本源的に説かれるとともに、それを〝信仰の対象(本尊)〟として
具現化し、万人成仏の方途(実践法)を確立したのです。

この大聖人独自の解釈を「事の一念三千」といいます。

生活の中に生きず、時代にも、文明の中にも生きない宗教は「死の宗教」です。

宗教は単なる形式ではないのです。

天台が力説した「内観(観念観法)」は、大聖人の仏法においては「信心」になります。

16太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:06:24
御書に

「この御本尊、全く余所に求る事なかれ、ただ我れら衆生の〝法華経を持ちて
南無妙法蓮華経と唱うる〟胸中の肉団におはしますなり」(一二四四頁)

とあります。

御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える修行の中に、
自身の生命に宇宙大の大生命(仏界)を涌現していけるのです。

この言葉を一心に信じることです。
信ずるとは、対境(御本尊)に一直線に迫っていくことだと思う。

長い人生には、悲しすぎて眠れない夜もある。
まわりに人はたくさんいるのに、誰からも相手にされず、
孤独にさいなまれ、気が狂いそうになる時もある。

悩みに押しつぶされて、顔を上げることも、胸を張ることもできない日々もきっとある。

そういう〝為す術〟を失った救い難い凡夫に、大聖人は

「あなたは仏なのですよ、何をくよくよしているのです。顔を上げて、胸を張って生きなさい」

と力強く語りかけ、再起を信じてじっと待ってくれている――。

心の奥底からそう実感した時、歓喜に胸が打ち震え、そこから初めて蘇生の人生が始まるのです。

破産したから信心がないのではありません。
病気をしたから信心がないのでもありません。
悩みが解決しないから信心がないのでもない――。

人生の真実はそんな単純なものではないのです。

悩んでいいのです。むしろ悩みがない方が不思議なのです。

そんな時こそ「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」(一一九〇頁)
と腹を決めて、御本尊にぶつかっていけばいい。

信心とは、御本尊という偉大な対境に「境智冥合してみせる」という一念の姿勢と実践自体にあると思う。

信心のない者は御本尊に向かって題目を唱えません。

ともあれ、天台が体系づけた一念三千は、

大聖人によって民衆救済の哲理と昇華し〝人間革命の原理〟として、その実体が与えられました。


・・・つづく

17太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:09:07
一度、整理します。

法華経の方便品第二で「十如是」という法理が説かれ、
さらにこの方便品から人記品第九の間に「十界互具」が説かれます。

そして寿量品第十六にいたって「三世間」が明らかになり、最後の
〝国土世間が説かれて完結〟するという、多次元の議論が「一念三千の法門」です。

そして、自らの悟りのうえから一念三千を体系化し、
理論付けたのが天台(理の一念三千)です。

しかしいくら「一念三千の法理がある」と言われても〝それだけのこと〟であり、

観念論の域はでません。

そこで大聖人が第三の法門を打ち立て〝事の一念三千〟の当体たる
南無妙法蓮華経を一幅の漫荼羅として図顕し、根本法の当体とされました。

漫荼羅とは〝功徳聚〟とも表現され、人が根本として
尊敬する当体で、それを「本尊」と名づけます。

要するに、私たち(生命)の一念は変化、変化の連続です。
しかし、この御本尊に「南無妙法蓮華経」を唱える一念となった時、
はじめて〝仏界〟という尊極の生命がわが一念に始動します。

そこにのみ〝全生命・全英知を凝結した人間の最大価値の行動がある〟ということなのです。

18太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:10:21
では、この〝一念の変革〟は、いったいどこに現れてくるのでしょうか。

それを最後に考えていきたいと思います。

まず、結論から先にいえば冒頭にも述べましたが、一念の変革は果報(境涯)に現れ、
仏法でいう即身成仏とは、人間革命(境涯革命)のことを指しているのです。

そして、御本尊の偉大な功徳を享受するには、先に挙げた

「功徳とは即身成仏であり、また六根清浄のことです。法華経の
〝経文に説かれるように修行すること〟が六根清浄であると心得ていきなさい(通解)」(御書七六二頁)

という実践の修行が必要なのです。

これを「法華経身読(※法華経を身で読む)」ともいいます。

池田先生は

「六根清浄とは、現代的には人間革命です。
法師とは『法を師とする人』『師となって法を弘める人』ということです。
その法師の功徳が六根清浄です。

生命が浄化され、強化される。〝生命の偉大化〟です(趣意)」(池田大作全集三十一巻・法華経の智慧)

と述べています。

さらに、

この即身成仏(六根清浄)した生命が〝具体的にどう変わるか〟については
「法華経の智慧」の中で池田先生が詳細に記しています。

まだ読んでいない方のために、その概略(趣意)を紹介していきたいと思います。

19太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:11:41
六根清浄とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに功徳が現れ、
それらが清く浄化され、強化していくということです。

一つ一つ具体的に見ていきましょう。

眼の功徳――

法華経に「三千大千世界の内外の一切を見、その中の一切衆生を見て、
彼らの業の因縁や果報の因果を見てすべてを知るだろう(趣意)」(法華経五二八頁)

とあります。

ここに〝三千大千世界〟とありますが、これはどれほどの広さかというと、
仏法でいう「世界」は地球や火星、土星や木星などを含む〝太陽系惑星群〟のことで、

それが千個集まったものが「小世界」。
その小世界がさらに千個集まったものを「中世界」。
さらにその中世界が千個集まったものを「大世界」。

つまり千を三乗(三種の区別)した数の世界がこの宇宙には
あるというのが、三千大千世界の広さであり、仏法の宇宙観です。

皆さん、想像できますか?

20太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:13:07
法師の境涯から見れば、

三千大千世界(宇宙)の内外(山や林や川や海、地獄から有頂天)
それ自体が〝大生命そのものである〟と見たのです。

そして、すべての衆生を見て、
その過去世から未来世まで見抜けるようになる、ということです。

しかし池田先生は、決してそれらは神秘的な超能力や
千里眼とかではなく「洞察力」と解釈しました。

御書には

「一をもつて万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり」(二九五頁)

とあります。

一つの現象を見て万般を察していくというのが、法師の境涯です。

池田先生は

「幸福への道を見いだすのが〝眼の功徳〟なのです。自分だけでなく、
相手が何を求めているのか。どうしてあげれば開けるのか。

名医のように見のがさない。戸田先生も本当に鋭かった。
歩き方や、ドアの開け方ひとつで、その人の悩み、状態を見抜かれたものです」

と述べています。

これが眼の功徳です。

21太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:14:41
耳の功徳――

法華経に「三千大千世界の内外の一切の声を聞き、十界の衆生の声を聞いて、
その生命の境涯を聞き分けられる。その耳は敏感であるゆえに、
すべてを聞き分けて理解することができる(趣意)」(法華経五二九頁)

とあります。天台は医師の段階について

「上級の医師は声を聴き、中級の医師は色を相し、下級の医師は脈を診る」(摩訶止観)

とあります。

つまり、優れた医師は脈を調べ、顔や体の様子を観察しなくても、
声を聴くだけで病気がわかるという意味です。

池田先生は

「声には、その人の境涯、状況がはっきり表れる。
温かい声、冷たい声、弱々しい声、張りのある声、深みのある声、
薄っぺらな声、福徳のある声、誠実な声、二心のある声。
聞く人が聞けば、ごまかしようがない。

ある意味で話の〝中身〟以上に〝声〟がその人を表している」

と述べられ、御書の

「師曠(しこう)が耳・離婁(りろう)が眼のやうに聞見(ききみ)させ給へ」(一四四八頁)

を引いて「情報戦」と解釈しました。

さらに、時代の動向をも「声」によって察知していく力が、耳の功徳です。


・・・つづく(午後に投稿)

22太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:16:21
鼻の功徳――

法華経に「三千大千世界の内外の一切の香りを聞き、十界の衆生の香りを聞いて、
生命の品格を分別できる(趣意)」(法華経五三四頁〜)

とあります。池田先生は

「その人には、その人ならではの香りがある。
香水とか体臭とかではなくて〝心の香り〟〝生命の香り〟がある。

一心不乱に勉強し、努力し、向上している人には〝努力の香り〟がある。
〝鍛錬の香り〟が若木の香気のように、かんばしく匂ってくる。

反対に、堕落した安逸な生活をしていれば、何となく全身から、
いやな腐臭(ふしゅう)のようなものがこぼれてくる。恐ろしいものです」

と述べられました。

一般世間でも「鼻がよく聞く人だなぁ」と表現することがありますが、
人には大なり小なり「オーラ」というものがあります。

〝この人は雰囲気の良い人だなぁ〟
〝あの人は怖い雰囲気があるから嫌ッ!〟

というように、何かしらのムードや香りが漂っているものです。

これらを瞬時に分別する境涯、これが鼻の功徳です。

23太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:17:33
舌の功徳――

法華経に「もろもろの苦渋物を食べても皆おいしく食べることができ、
深く清らかで美しい声をもって大衆に法を説くでしょう。
もろもろの因縁や譬喩をもって大衆に法を説くでしょう。

聞く人たちは皆、歓喜してさまざまな供養をする(趣意)」(法華経五四二頁〜)

とあります。舌の功徳には二種類あり、

一つは「何を食べても、おいしく感じられること」。
二つめは「法を説く、その人の声を聞いて、皆が歓喜すること」です。

池田先生は

「健康で生命がはずんでいる人は、質素な食事であっても、おいしい。
憂いに沈んでいれば、最高のごちそうでも〝砂を噛んでいる〟ようになる。

もちろん〝だから料理がへたでもいい〟ということではないが、
境涯というものは不思議なものです」

と述べました。これが舌の功徳です。

24太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:18:48
身の功徳――

法華経に「その身が極めて清浄であることは、清らかな瑠璃(るり)のようであり、
衆生が皆、その身を見ることを喜ぶものとなる(趣意)」(法華経五四六頁)

とあります。池田先生は身の功徳を

「磨き抜かれた生命の輝き」と表現しました。

確かに「太陽」のように輝いた人がいると、
周囲まで明るくなるし、その場の雰囲気が変わります。

これは〝誰もが見たがるような気品ある姿や存在になっていける〟ということだと思います。

身の功徳のもう一つの特徴は、清浄な身であるがゆえに
〝磨き抜かれた鏡に一切が映るように、十界のあらゆるものが、

その身に映じる〟ということです。池田先生は

「ぱっと会っただけで、生命の傾向性がわかるということです。
自分が妙法に生ききっていれば、相手の生命が明鏡に映すようにわかってくる。

それは〝慈悲〟があるからです。決して、威張って
〝自分は人を見抜く力がある〟などと言っては絶対にならない。

お互いに凡夫です。また御本仏の家族であり、悪人は見抜かなければいけないが、
同志はどこまでも励まし合い、守り合っていくのです」

と述べました。これが身の功徳です。

25太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:20:32
意の功徳――

法華経に「この人の精神は清浄で鋭敏であり、にごったところがない。
この優れた精神の働きをもって、上中下のさまざまな教えを知り、

経文の一偈一句を聞いただけで〝無量無辺の義〟がわかるようになる。
また次第に〝法(経文)〟の通りに、一か月、四か月、さらに一年でも自在に法を説いていける。

また全ての現象の姿を知り、法理にしたがって順序を知り、
名前と言葉も理解していて、自分が認識した通りに説くことができる。

この人の説くことは全て先に現れた仏の教えである。
この人はあらゆる衆生に喜ばれ、愛され、尊敬される(趣意)」(法華経五四九頁)

とあります。池田先生は

「話す内容が全部、宇宙の真理に、きちっとかなっている。頭だってよくなっていく。
生々世々、大学者、大智慧者にもなっていく」

と述べ、六根清浄とは

「全身これ広宣流布の武器たれ」と結論しました。

以上が、六根清浄の功徳です。

26太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:22:19
仏法における〝一念の変革〟は、じつにこの六根清浄(即身成仏)にあるのです。

皆さん、どうですか――そういう人間に変わりたいと思いませんか?

「仕事が大成功して儲かった」
「病気が治った」
「家庭不和が解決した」

等々、確かにこれも立派な功徳であり人生哲学です。

しかし、これらは〝相対的幸福〟であって〝絶対的幸福〟ではありません。

たとえば、仕事が成功して儲かったから〝幸福〟ならば、
仕事が失敗したら〝不幸〟ということになります。

また、病気が治ったら幸福で、治らなかったら不幸というのでは、
長い目で見た場合、非常に不安定な幸福といえます。

人は必ず老いていき、いつかは死を向かえるのです。

もちろん仕事は成功した方がうれしいし、病気は治った方がいいに決まっています。

しかし本当の功徳や仏法で説く幸福観は、
またいつ変わるか分からないような相対的幸福が〝根本〟ではなく、

何があってもあきらめない、生きていること自体が幸福であるという
〝絶対的な不動の境涯革命〟が根本なのです。

その境涯革命の大功徳が六根清浄です。

日蓮大聖人や創価三代の師匠は、その〝絶対的幸福境涯〟を
体得する方途を繰り返し弟子に教えています。

その指導を最後に記して終わります。

日蓮大聖人曰く

深く信心を発して、日夜・朝暮にまた懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、
ただ〝南無妙法蓮華経〟と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり――(御書三八四頁)。

池田先生曰く

前進しきった人が、必ず勝つ。題目を唱えきった人が、必ず最後は勝つのです――(池田大作全集三十一巻)


弟子曰く――これ皆、真実なり。



― おわり ―

27太ちゃん★:2017/03/14(火) 02:32:09
http://6027.teacup.com/situation/bbs/66093
御礼 ! 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月13日(月)19時28分37秒

一人のSGIさん

>教材として使わせていただいてもよろしいでしょうか。


フラフラさん

>早速座談会で使わせていただきます。



長いのに読んで頂いて、ありがとうございます。

この際ですから、はっきり ! キッパリ! 言うときます。笑

グリグリの「論考シリーズ」を

どう使おうが、

教材として使おうが、

自分の論として使おうが、

好きに使用してください。貼り付けも当然、OKです。


グリグリが望む事は、

日蓮大聖人の偉大な思想と、それを完璧に応用展開した池田先生の思想を

一人でも多くの人に知ってもらうことです。

そのためならば、ドンドン盗んで 自分の論としてさらに思索を重ね
池田先生に代わって、不幸に泣く人たちに伝えていってください。

それが、グリグリの一番の願いです。


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