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312太ちゃん:2016/05/09(月) 00:07:49 ID:97mo8iBA
こんばんは♪

なかなか勇気あるコメントです。
他の宗教の話は特にリアルではしずらいもの(笑)。

まだ教義部分は初心者状態だから確定できないのだけど、どうやら日蓮仏法とキリスト教の違いは「具体的方便」の部分で、最終的に求めてる部分は同じなんじゃないかなって。
最終的に求めてる部分に、人々をどうやって至らせるか、その部分で違いがあるかな〜と。

キリスト教は仏法でいう「方便」を駆使して結果的に幸福状態へ導く方法のようだな〜と。
たぶんキリスト自身は言わないだけで、人の心には神のような一念をちゃんと持ち合わせているのを知っていたんじゃないかな?ってね。
それを言ったところで信じられない・実感が涌かないのが普通であるのをちゃんとわかってるのだろうけど、それで「知ってるのと同等の結果」になるよう、仏法でいう「方便」という方法を用いてたのだろうなって。
時代の違いから、そのぐらいでも良かった時代だったのでしょうね。

翻って仏法、というか日蓮仏法では、本質的には単刀直入に問題の部分へ切り込む方法というか。
キリスト教と日蓮仏法はいわば内科的な方法か外科的な方法か、そういう違いがあるように感じられるね。
方便をクスリのように用いて、結果的に知ってるのと同等の状態へ導くのがキリスト教の方法というか。
そうではなく、末法のいわば重病すぎた現代ではそれでは「手ぬるい」からか、外科手術的に問題に切り込む術を以って根本的に解決していく本質だものなぁ。

日蓮仏法的には、娼婦マリアの見たイエスは、イエスそのものではなく、娼婦マリア自身の心に存在してる神性(日蓮仏法でいう仏性)を、イエスを通して自分の仏性を見たのだろうね。
こういう感じで「視覚からの縁」というのも大事なんですね。
そのために日蓮仏法では文字曼荼羅の『御本尊様』があるんですね。
御本尊様を書写してる時には、おそらく観る人が感謝と歓喜になるよう、自分自身が感謝と歓喜の中で「書写」されたのでしょう。
さらに、お題目という声の響きからの「縁」の、視覚と声の響きという二つのルートからの「縁」でもって、末法に生きる我々でも感謝・歓喜で勤行・唱題の自行が成立させられて、その心境のまま日々の幸福にしていけるんですね。


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