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沈黙
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カトリックの名無しさん
:2017/01/09(月) 00:43:45
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』
◆3、弱い人々のために (バルバロ神父)
「正義のためにしいたげられた人は幸せ」
先日、カトリック新聞にのった遠藤周作氏の一文に関して、デルコル神父の抗議的な反論が本号にのるが、私もそれについて一言書き加えたい。
最近二、三ケ月の間に、カトリック雑誌あるいはカトリック新聞と称する紙面に、カトリック作家と称する人々の記事がのり、それに対して「カトリック生活」は今度で二度目の抗議をしてきている。それを私が喜んでしていると思われたら心外である。
われわれは、「カトリック生活」だけが、カトリックの信仰の純正を守っているというつもりもないし、また、風車に向かったドン・キホーテの役も、われわれとしてはやりたくない。
むしろ信仰の遺産を託され、キリストの民を牧する責任をもつ上にたつ人々が、われわれのこの小さい雑誌より先に、明確な方針をたてて声をきかせてくれてよいのではないか。そういう記事によって、迷わされ、苦しんでいる信者は数多いのである。私だけでなく、皆そのことをききもし、知りもしているだろう。
われわれがうけた信仰は、キリストの苦しみの中でまかれ、幾多の殉教者の血で証明され、無数の宣教師の労苦のうちにやしなわれてきた。こうして、多くの信者の中で実を結ぶべき貴重なものであるから、いずれにしろこの問題に軽卒な態度でのぞむことは許されないのである。
遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キりストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。
キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。
キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心を持っていた。したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。
私がもし、自分の感情や私自身の信仰や知識にもとずき、人間自身の弱さをそこにおりこんで話したら、おそらく遠藤氏よりもっとひどいことをいうかもしれない。だが、キりスト信者となって、キリストにすべてをかけているなら、いつもキリストの心をとらえ、キリストの目で物をながめる努力をするだろうし、それが信仰によって挑め、考えることにつながるのである。
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