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沈黙
10
:
カトリックの名無しさん
:2017/01/09(月) 00:44:41
この場合、弱い人間としてえらびやすい方をえらんでもよいなら、そしてどうせキリストは弱いもののためにきたのだから、それをあてにして行動するなら、キリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。
こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、かれが生命をかけて、正義と愛と真理を守り通したからである。この三つの言葉が人類の心にその意義を全く失ってしまわない限り、"キりスト者の裏切り"はあるにしても、キリストは人類の指導者としてふみとどまる。
キリスト者ではない人々でも、人間である限り、生命を賭しても妥協できない一線のあることを知っている。われわれの生存本能は、いかに強くとも、それにまさる価値あるものの存在を知っている。パルティザン同志が戦っていたころ、マルキシストや、ファシストや、アナルキストや、愛国者の中にも、自分の信念を裏切るまいとして生命を投げうった人は多かった。かれらは、人間であったからこそ、この生命以上に、すべてを贈りて惜しくないものがあることを知っていた。
キリスト教の歴史は、拷問や十字架や責苦が、他のどれよりも多い。それは、葦のように弱い人間が一番拒否したい理想を、キリスト教がかかげていたからである。盲目的な、暴力的なものは、霊と精神とにはげしくぶつつかるのである。正義や真理の理想を宣言して生命をなげうった人々は、キリスト信者であろうとなかろうと、「神の子」であるに相違ない。
キリストの名によって自由を叫んだ日本キリシタンの殉教者は、日本における最初の「自由の雄叫び」であった。当時の封建的な扱いにならされていた女性たちさえも、そして子供たちも、「人間からは出ない力」をもって、迫害者に向かって「いえ」を言うことができた。こういう人々こそ、精神の自由という新時代を築いた人々である。みなが「弱い人間」であるがために暴力と権威に妥協していたら、暗黒時代の夜は明けなかったろう。
キリストは、「弱い人々」のために来た。それは真実である。そのためにキリストは、「神のあわれみ」をわれわれに教えた。しかしキリストは一度も、人間の弱さをあおったこどはない。むしろ「自分の生命を救いたいなら、それをすてよ」と教えたではないか。キリストにとって死は、「恐るべき最後」ではなくて、新しい生命へのかど出であり、それが、キリスト教の中心である「よみがえり」の意味となるのである。
サルトルの無神論的実存主義の結論が「すべてはナンセンス」であるということをここで皆考えてみてはどうであろうか。サルトルの考えでは、神もなく、来世もなく、すべては無意味な、その混沌の中で、人間は自分の力で自分を救わねばならないのである。人間のことを、この世だけで解決するのが、その思想の根本である。こう考えてくれば、たしかにふみ絵も、人間の作ったばかばかしいものであるから、それをふんでもかまうまい、無意味なことなのだから。
しかし、こうなれば、もうキリスト教ではなく他の宗教である。もうキリスト教はない。
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