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日本キリシタン史

1カトリックの名無しさん:2015/08/10(月) 00:14:23
日本キリシタン史

2カトリックの名無しさん:2015/08/10(月) 00:15:08
鹿児島でのザビエルに対して、一番大きなショックは言うまでもなくそれは道を遮る日本語の壁であったと思う。本人は次のようにそれを述べている。「今、私たちは彼らの間に、彫像のように突っ立っているだけです。彼らは私たちについていろいろなことを語り、私たちはおし黙っているだけです。」

しかし、ここにもザビエルの答えがあった。「今、私たちは言葉を習うために幼子のようにならなければなりません。」すでに10年間いろいろの国を巡って、諸民族の全く異なる言語を語りながら活躍したザビエルは、日本語からの挑戦に応じて勉強し、通訳を介して進む。彼の側に謙遜で優れた通事になった*1イルマン・ジョアン・フェルナンデスがいた。鹿児島での禁教令は、彼らに勉強の時間も備えた。

1550年の夏、ザビエル一行は今まで案内者と通訳であった*2ヤジロウの世話に、鹿児島のわずかな信者をまかせて平戸に向かった。「そのときには私たちの一人が、日本語を話せるようになっていました。」とザビエルは説明している。

3カトリックの名無しさん:2015/08/10(月) 01:21:42
結城了悟(イエズス会司祭)「日本キリシタン物語」女子パウロ会

 ザビエルの宣教は鹿児島から始まったが、最古の教会は平戸である。鹿児島では早くに禁教令が出され、それにしたがって宣教師たちはもう一度入ることが難しくなったので、信者の最初の小さな共同体が次第に消えてしまった。逆にザビエルの2番目の宣教地であった平戸では、ザビエルの時から現在まで信仰が生き続けている。

 1550年の8月の終わりごろ、ザビエルは仲間と共に平戸に着いた。日本全国での宣教の計画の夢の実現を目指して内裏後奈良天皇の許可を得るために京都へ上る。ザビエルの他に *1コスメ・デ・トーレス神父、*2イルマン・ジョアン・フェルナンデス、鹿児島で洗礼を受けた*3 ベルナルドと他の3名の信徒であった。

 平戸の港には、ペライラ・デ・ミランダのナウ船が錨(いかり)をおろしていた。船長も乗組員たちもザビエルたちを大いに歓迎したので、大名松浦隆信道可も同じようにする方が良いだろうと考え、家来の一人木村という侍にザビエルたちの宿の手配を頼んだ。

 ザビエルは平戸には長く滞在しなかったが、1カ月間に木村とその家族に洗礼をさずけ、その影響が他の数人の人にも及んだ。その後ザビエルは計画を立て直し、自らフェルナンデスとベルナルドと共に都への旅を続け、トーレスは他の人と一緒に木村の家に平戸教会の最初の主任司祭として残った。

 ここでは恐らく疑問を抱く人がいるであろう。「どうしてそんなに短い時間で種をまき、実ることができるように育てたのであろうか。」 私は、その疑問に答えることを歴史にゆだねる。

 1600年、木村が洗礼を受けてから50年後に、長崎の被昇天の聖母教会でザビエルに宿をあたえた木村の孫 *注4 セバスチャン木村は、日本で最初の邦人司祭になり、1622年同じ長崎の西坂で殉教した。その3年前にもう一人の孫レオナルド木村は同じように殉教していて、他の2人の孫も殉教者となった。

 ザビエルは種をまき、トーレス神父は自分に任された信者をよく育て、1553年に新しい宣教師*6バルタサル・ガゴ神父は 籠手田(こてだ)家の当主籠手田左衛門に洗礼をさずけ、信仰がその家族の知行であった度島(たくしま)、生月、根獅子などに広がった。種まく人が少なく、彼らには日本語などの知識が不足していたが、種はイエスの御言葉でそれを受け入れた人々の心が純粋であった。

 ここで平戸を後にして、私たちはザビエルと共に旅を続ける。


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