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1月の聖人

1カトリックの名無しさん:2015/01/01(木) 03:37:48
1月の聖人を掲載させて頂きます。

2カトリックの名無しさん:2015/01/01(木) 03:38:28

今日の聖人(1月1日)

神の母聖マリア

 聖母マリアは、神からのお告げによってイエス・キリストを懐胎した。


 5世紀に、コンスタンチノープルの司教ネストリウスが「キリストは、神性と人性という二つの異なる本質を持っている。そして聖マリアは人間キリストの母<クリストトコス>であるが、神の母<テオトコス>であるとはいえない」と唱え、教会を混乱させた。その解決のために、431年、エフェソ(現在のトルコ)公会議が開かれ、「キリストは、真の神、真の人間であり、両性は一致している」ことを再確認した。また「聖母マリアは、キリストの人性と神性における母であるので、神の母<テオトコス>と呼ばれる」ということを決定した。

 この日はクリスマス(12月25日)から数えて8日目であり、昔からみどり子イエスと聖母マリアの関係を祝う習慣があった。

 「神の母」という祭日は、エフェソ公会議から1500年祭にあたる1931年に、教皇ピオ11世によって制定された。

3カトリックの名無しさん:2015/01/02(金) 07:37:57
>>2
主のご割礼の祝日だよ

4カトリックの名無しさん:2015/01/03(土) 10:10:00
今日の聖人(1月3日)
イエスのみ名
幼きイエス

 「イエス」という名は、ヘブライ語の一般的な名前である「ヨシュア」にあたり、ギリシャ語化したものは「イエスス」である。、ヘブライ人にとって、名前は重要な意味を持ち、特にその人が果たすよう託された使命と結びついていた。マタイ福音書には、ヨセフの夢に天使が現れ、「イエス」と名付けるように告げられたことが記されており(マタイ 1.21)、「イエス」は「主は救い」という意味である。

 「イエスのみ名」に対する信心は初代教会の時代からあった。中世にクレルヴォーの聖ベルナルドは、著書『雅歌について』のなかで、「流れるその香油のようにあなたの名はかぐわしい(雅歌1.3)」という箇所をイエスのみ名と関連づけて、美しく説明した。こうして彼は、み名に対する信心の基礎を作り、多くの人びとに影響を与えた。

 アシジの聖フランシスコは、イエスのみ名に対する崇敬に熱心で、フランシスコ会においてさかんになった。シエナのベルナルディノは、苦しみに打ち勝つためにイエスのみ名を呼んで祈り、人びとにも薦め、病気がいやされるなどの奇跡が起こった。この信心はフランシスコ会やドミニコ会によってさかんになった。「み名の連願」はシエナのベルナルディノとフランシスコ会原始会則派の総長代理であった、カペストラノのヨハネによって作られたと言われている。

 1530年、クレメンス7世はフランシスコ会に、教会の祈りにおいて、「イエスのみ名の典礼」を唱える許可を与えた。2002年、ヨハネ・パウロ2世は任意の記念日として典礼暦に加えた。

5カトリックの名無しさん:2015/01/03(土) 13:34:08
>>3
それはオーソドックスでしょう。
カトリックじゃありません。

6カトリックの名無しさん:2015/01/07(水) 02:46:58
今日の聖人(1月7日)
聖ライムンド(ペニャフォル)司祭

1175年ごろ-1275年

 ライムンドは、スペインのカタロニア州ペニャフォルで生まれた。バルセロナで勉学を始め、イタリアのボローニャ大学で民法と教会法を学んだ。1220年に卒業し、同大学で教鞭を取ったが、2年後にドミニコ会に入会した。祈りと修行に励み、修練期を終えてからは、説教と宣教活動を熱心に行った。

 当時、スペインはイスラムの脅威にさらされており、ライムンドはキリスト教の擁護とイスラムの人びとの改宗に努めた。1230年に、教皇グリゴリオ9世はライムンドをローマに招き、教皇付司祭に任命し、教会法の権威者である彼に「グラティアーヌス教令集」を編纂させた。以後、それは教会法の最初の完成本として高く評価された。その後ライムンドはスペインに戻り、1238年にドミニコ会の総長に選ばれ、会の刷新に貢献し、会憲を整えた。2年後、総長職を退いてからは、ユダヤ教徒、イスラムへの宣教に身をささげた。
 ライムンドは教会法、教会学者の守護の聖人とされている。

7カトリックの名無しさん:2015/01/10(土) 04:02:43
今日の聖人(1月10日)
聖ウィルヘルモ大司教

?-1209年

 ウィルヘルモは、フランスの由緒ある貴族の家に生まれた。幼少のころから、司祭である伯父から教育を受け、信仰深く育てられた。青年期にすべてを捨てて司祭となり、教区の司牧に力を尽くした。

 その後、修道者の道を志すことを決意し、トラピスト修道会に入会した。彼の謙遜で信仰深い行いは共同体からも尊敬され、修道院長に選ばれた。ブルジュの大司教が亡くなったときには、その後任に選ばれた。司教になってからも、よりキリストに従った生き方をし、教区や聖職者を導いた。当時、フランスではアルビ派(カタリ派)の異端説が広まっていた。(この説によると、神には善と悪の神がおり、霊魂には善神が宿っているが、肉体には悪神が宿っている。だから自殺することで霊魂を解放することが善の行いであるというものであった。)ウィルヘルモはこのような異端説と闘い続け、正当な信仰に信徒たちを導いた。

8カトリックの名無しさん:2015/01/11(日) 06:36:45
今日の聖人(1月11日)
聖テオドシオ修道者

423年ごろ-529年

 テオドシオは、カパドキア(現在のトルコ中東部)のマリッソスに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。エルサレムへ巡礼したときにロンギノという徳高い修道者と出会い、彼の指導を受けた。その後、エルサレム近くの教会の主任司祭となり、彼の評判は広まった。多くの人びとが彼のもとに集まってきたため、テオドシオはユダの山にひきこもり、祈りと黙想の生活を始めた。彼を慕って多くの青年男女が集まり、ともに修道生活を始め、共同体は発展した。多くの国の修道士が集まったため、旅行者の宿舎、病院などを設立し、奉仕にあたった。493年に、テオドシオはパレスチナ地方の共住修道会全体の長に選ばれた。

 当時、キリストの神性だけを主張する単性論の異説が広まり、東ローマ皇帝もこの異説を支持していた。テオドシオは正当信仰の擁護のために、各地を巡回して人びとに説教したため、皇帝から国外追放された。皇帝の死後修道院に戻ったが、病に伏して亡くなり、彼が修行した洞窟に葬られた。

 彼は、パレスチナの修道生活の祖といわれている。

9カトリックの名無しさん:2015/01/13(火) 05:53:17
今日の聖人(1月13日)
聖ヒラリオ司教教会博士

315年ごろ-367年

 ヒラリオは、フランスのポアティエの貴族の家に生まれた。哲学と修辞学を学んでいたが、あるとき聖書を読んだことから回心し、キリスト教徒となった。359年にポアティエの司教が亡くなると、後継者としてヒラリオが任命された。

 当時は、アリウス派の異端が広まり、ローマ皇帝コンスタンチヌス2世の支持を得ていた。正当信仰の擁護を主張したヒラリオは、そのために小アジアに追放された。そこで東方の神学を学び、アリウス派の不合理を研究・分析し、明確にした。360年、フランスに戻ってからもアリウス派の異端と闘い、その生涯をささげた。ヒラリオは、説教や著書だけでなく、自らの生活をもって人びとを信仰に導いた。

 ヒラリオはギリシャ神学を西方に取り入れ体系化した人として、後の神学の模範とされている。彼は、アリウス派の異端と闘ったアタナシウスと並び、「西方のアタナシウス」とも呼ばれている。

10カトリックの名無しさん:2015/01/17(土) 02:10:50
今日の聖人(1月17日)
聖アントニオ修道院長

251年ごろ-356年

 アントニオは、エジプトの裕福な地主の家に生まれ、信仰深く育てられた。18歳で両親に先立たれた後、キリストの生活に倣おうと、遺産を貧しい人びとに与え、砂漠に行き隠遁生活を始めた。祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていた。彼は、孤独と禁欲の苦行のなかにあって、度々襲ってくる誘惑を常に克服していった。また多くの隠遁者を訪ね、彼らの長所に倣おうと努めた。アントニオの評判は広まり、人びとが指導を求めて集ってきたので、隠遁者の集落ができた。これはまだ組織化されていなかったが、キリスト教修道生活の基盤となり、隠遁者の集落から次の段階の共同生活をする修道院となる時代へと移ってゆく。

 アントニオは、アレキサンドリアの司教アタナシオと親交があり、アリウス派の異端に対して正統信仰を擁護した。アタナシオが著わした『聖アントニオ伝』(357年ころ)は、修道生活の理念を西方に伝えたものとして重要であり、アントニオは「修道生活の父」といわれている。

11カトリックの名無しさん:2015/01/18(日) 00:46:33
今日の聖人(1月18日)
聖マルガリタ(ハンガリー)

1242/43年-1270年

 マルガリタは、ハンガリー国王ベラ4世の娘として生まれた。当時、ハンガリーは政情の危機に直面していたので、両親は幼いマルガリタをブタペストのドミニコ会の修道院に預けた。1254年に、彼女は修道女になることを望み、ボヘミア王からの結婚の申し出を始め、すべての縁談を断わって、神にささげることを誓った。

 祈りと苦行に励み、謙遜な態度を保ち、貧しい人びとへの寛大な愛を行なった彼女は、人びとから慕われた。マルガリタが王女のころ、彼女のもとで働いていた女性は、「王女でありながら、わたしたちより謙遜な方であった」とほめたたえた。

12カトリックの名無しさん:2015/01/19(月) 04:18:09

今日の聖人(1月20日)
聖セバスチアノ殉教者

3世紀末


 セバスチアノは、フランスのナルボンの貴族の家に生まれた。若いころにキリスト信徒となったが、その時代はローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が最も激しいときであった。そのため、彼は自ら信徒であることを隠し、ローマの軍隊に入った。皇帝の目にとまり、近衛兵となり将来も有望視されていたが、野心は抱かず、皇帝への忠誠と神のために働くことだけに力を注いだ。

 キリスト教徒への迫害が激しくなってくると、セバスチアノは信者仲間を励ますために訪問したり、援助を行った。しかし、ついにある者の密告によってセバスチアノがキリスト信者であることを知った皇帝は激怒し、弓で彼を射殺すよう命じた。セバスチアノはかろうじて一命を取りとめ、皇帝のキリスト教徒に対する残虐な迫害を公然と非難し、再び死刑に処せられ、殉教した。遺体が発見されると、アッピア街道そばに葬られ、のちに聖セバスチアノ教会が建てられた。

 彼は、中世には矢をあびる青年として美術などに描かれ、兵士・弓術家の保護者とされている。

13カトリックの名無しさん:2015/01/20(火) 05:00:19

今日の聖人(1月20日)
聖アグネスおとめ殉教者

3-4世紀初頭


 アグネスは、ローマの名門の家に生まれた。当時は、キリスト教迫害時代であったため、多くの信徒たちが信仰を守り殉教してゆく姿を見て、彼女も富や名声よりも神に身をささげたいと願うようになった。

 美しいアグネスには多くの縁談があったが、すべて断った。そのため、彼女がキリスト信者であることが分かると、すぐに訴えられた。そしてどんな拷問にあっても、決して信仰を捨てない彼女は、ついに死刑を言い渡された。彼女は「キリストはわたしの花婿です。最初に選んでくださったのはキリストですから、わたしはその方に従います」と言って亡くなった。

 後に彼女は有名になり、キリスト教を国教としたローマ皇帝コンスタンティヌスは、自分の娘に彼女の墓の前で洗礼を受けさせたといわれる。その後、墓の上には聖アグネス聖堂が建てられた。

 アグネスは、羊を抱いて描かれているが、ラテン語で「子羊」を意味する「アグヌス」と似ているためだといわれている。

14カトリックの名無しさん:2015/01/21(水) 06:12:53

今日の聖人(1月21日)
聖ビンセンチオ助祭殉教者

?-303/304年


 ビンセンチオは、スペインのサラゴサで助祭に任命され、宣教に力を尽くしていた。当時、ローマ帝国最後のキリスト教迫害はスペイン地方にも及び、激しくなっていた。ついに総督ダシアノにより、ビンセンチオは司教とともに捕えられ、信仰を捨てるように強要された。司教は追放され、ビンセンチオは拷問にかけられた末、殉教した。

 後に聖アウグスチヌスも、説教の中でビンセンチオを敬っている。彼の崇敬は、スペイン、北アフリカ、フランスにまで広がった。彼はポルトガルの保護の聖人であり、ぶどう栽培の守護の聖人とされている。

15カトリックの名無しさん:2015/01/26(月) 06:11:43
今日の聖人(1月26日)
聖テモテ/聖テトス司教

1世紀

 2人は聖パウロの弟子であり、協力者であった。
 テモテは、リストラ(現在のトルコ)でギリシャ人の父とユダヤ人の母の間に生まれ、信仰深く育てられた。パウロの第2回宣教旅行に従い、マケドニアに行き、その地方の教会のために力を尽くした(1テサロニケ3.2、ローマ16.21 参照)。またパウロの第3回宣教旅行のときにもパウロを支え、フィリピ、コリント、エフェソで働いた(使徒言行録17.14、1テサロニケ3章)。その後、テモテはエフェソ教会の初代司教となって活躍し、ローマ皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害下に殉教したと伝えられる。

 テトスは、アンチオキア(現在のシリア)から、パウロとバルナバとともに、エルサレムの公会議に出席した(ガラテヤ2.1-10 参照)。彼は、パウロからコリント教会に派遣され、当時分裂問題が起きていた教会の和解に努めた。彼は、温和な人柄で、パウロがテトスによってどれだけ慰められたかは、コリント教会への手紙で述べられている。その後、テトスはクレタ島の司教となり、ダルマチア(現在のユーゴスラビア)に派遣され、パウロの殉教後はクレタ島で最後まで宣教活動をしたといわれている。

 2人ともパウロから個人的に手紙を受け取っており、その書簡のなかにはパウロの弟子に対する愛が表われている。

16カトリックの名無しさん:2015/01/27(火) 06:51:09
今日の聖人(1月27日) 
聖アンジェラ・メリチ

1474年-1540年

 アンジェラは、北イタリアの信仰深い家庭に生まれた。幼いころから、祈りと黙想に熱心に励んだ。聖フランシスコの第3会に入り、普通の生活をしながら内面的には修道者のような生き方を続けた。彼女は、ブレシア市の子どもたちの信仰教育の低さを痛切に感じ、同志を集めて彼らを教育する会の計画を立てた。彼女の活動は多くの人びとに影響を与え、貴族や神学者の霊的支えともなった。

 1535年に子女の信仰および道徳生活の教育を目的とする会を創立した。アンジェラは会の保護者として、ドイツのケルンで有名であった聖ウルスラを選び、その会を 「ウルスラ会」 とした。そのころまでの女子修道会は観想生活が主だったが、アンジェラが考えた会は、外に出るという革命的なものであり、女子教育のための最初の修道会となった。

 彼女の死後、会はミラノ司教 カロロ・ボロメオによって正式に組織化され、アンジェラ会とウルスラ会に分かれた。聖ウルスラ修道会は1936年に来日し、仙台市、東京などで、学校教育や福祉活動などを行ない、社会に貢献している。

17カトリックの名無しさん:2015/01/30(金) 06:53:06
今日の聖人(1月30日)
聖バルドヒルド

?-680年ごろ

 バルドヒルドは、イギリスに生まれたが、641年に海賊に捕えられ、奴隷としてフランク王国の宮廷に売られた。

 彼女は非常に美しく才知ある女性であったので、国王クローヴィス2世に望まれて王妃となった。3人の子どもに恵まれ、国王が亡くなって後、657年に長男が即位すると、彼女が摂政を行った。貧しい人びとのために病院を建て、奴隷制度を廃止し、多くの修道院に寄進するなど、人びとのために尽くした。665年に、反対派の貴族によって修道院に幽閉され、そこで亡くなった。修道院では、謙遜に神の望みを行ない、院長に仕えた。


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