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第二バチカン公会議

8カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:42:20
宗教統一の集い

 一度、これらの宗教も何らかの意味がある、救いにとって重要な役割をもつと言うことが確立されると、後はカトリック信者もこれらの他の宗教と共に働くように、彼らとともに協力し、できれば彼らとともに祈るようにと招かれるわけです。これについては公会議が正確に述べています。

   「またそれら教団は…なお許された範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。」(4)

 そしてその少し先にはこう言います。

   「ある特別な状況、たとえば「教会一致のために」公の行われる祈りや諸教会合同の会議において、カトリック信者が別れた兄弟とともに祈ることは、許されるばかりでなく、むしろ望ましいことである。このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と別れた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。「私の名によって2・3人が集まっているところに、わたしもいる」(マタイ18・20)。(8)

 これらの祈りについて私たちは何というべきでしょうか。第一に、他の宗教の信者の個人の祈りは、その人たちの内的な心のもちかた次第で、天主様にとって嘉(よみ)されうるものになりうる、と言っておかなければなりません。しかし他の宗教の祈りは、他の宗教として、天主様に決して嘉されることがありえないのです。なぜなら唯一の天と地の仲介者がおられるからです。実に我らの主は“semper vivens ad interpellandum pro nobis”:主イエズス・キリストは常に生きご自分の教会のためその選ばれたもののためにとりなしておられる、と聖パウロは言っています。(ヘブライ7:25)

 ですから他の宗教の祈りは、他の宗教として、実りのないものなのです。他の宗教の祈りは効果がなく、したがって信者がこのような別の宗教の共同の祈りの集会に参加するのは有害なのです。なぜ有害かというと、この祈りは無駄でかつ多くの混乱をもたらすからです。実際にこのことを続けて行くことによって数知れない弊害が出てくるでしょう。そしてそのことは結局すべての宗教を同じレベルにおくことになるのです。

 今日ではカトリックがプロテスタントの会食に参加しプロテスタントがカトリックの御聖体拝領を受けにくると言うのはよく見かけることになってしまいました。諸宗教の集いでカトリックの司祭がパンに対して聖変化の言葉を唱え、プロテスタントの牧師がワインに対して変化の言葉を唱えるというのをよく耳にします。このようなことが今行われるようになってしまったとしたら、その責任は公会議のこれらの文章にあります。


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