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第二バチカン公会議

1カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:33:30
第二バチカン公会議

2カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:33:40
カトリック教会と第二バチカン公会議


 今日教会で起こりつつあることをよく理解するためには、13・14世紀にまで、人間中心主義(humanism)とルネッサンスの時代へ戻り、プロテスタント宗教改革、自由放埒主義の時代を見、さらにこの自由放埒の精神がその王国を至る所に、人々の心に、社会に、拡張した経過を見、そして対にはマルクス主義革命とそれがこの世にもたらした不幸な結果を振り返らねばなりません。

1945年以降の教会

 しかし、今回私は第二次世界大戦後の教会の状況を見ることから始めたいと思います。この世界大戦では物質的だけでなく、霊的・道徳的に非常に大きな破壊を受けました。戦後にはやはり非常な復興期がありましたがそれは特に外的なものでした。教皇ピオ十二世の統治下においてすべてはうまく行っているかのように見えました。教会は栄え、プロテスタントの国では多くの回心がありました。しかし他の国々では何らかのよどみがあったと言わざるを得ません。召し出しの数の減少。聖職者の堕落。司祭そして司教様たちさえ、混乱しどうしてよいかわかりませんでした。この世界の問題に、技術と自然科学においてどんどん進歩するこの世の問題にどう対処してよいか分からなくなっていたのです。

 このような状況において、このような問題に対する真の解決とは言ったいなんだったのでしょうか。その真の解決策とは、巨大なそして非常に緊急の呼びかけをカトリック信者らに、カトリック司祭、聖職者らにすることでした。聖性の源に立ち戻れと。我らの主がその御血において確立されたいろいろな制度に立ち返り、それに新しい生命を与えよと。すなわち、主の確立されたカトリック家族、カトリックの婚姻、カトリック学校、カトリック国家、修道院、神学校、カトリック司祭職、等などに立ち返れと。霊魂において使徒精神を強化し、もしできることなら我らの主の聖福音を述べ伝えるにあたり、主のみ国を広めるためにマスメディアを使用することも考えられたのです。

 しかし、教会当局は非常にしばしば反対の方法を選んだのです。彼らは自分の使命や自分自身のアイデンティティーをさえ疑問視しだしたのです。自己批判や自分自身を問いただすことになり、教会の天主起源の構造やその本質さえも疑いだしたのです。そして完全に世俗化してしまったこの世のただ中において、教会はその立場を保持し得ないとさえ言い出すのです。「教会も変わらなければならない!」と。

3カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:35:24
陰鬱の予言者

 スイスの還俗化したイエズス会神父、ハンス・ウルス・ファン・バルタザー(Hans Urs van Balthasar)は1950年代始めにこう言いました。「カトリックの砦は解体撤去しなければならない。」

 ところで、このカトリックの砦とは一体なんなのでしょうか。それは、カトリック文化における社会組織のこと、全カトリック文明のことなのです。この中には家族、結婚、特にカトリック教育制度とカトリック国家が含まれています。バルタザーは、「カトリックの砦は解体撤去しなければならない。」と言いましたが、その意味は、これらのすべての制度が破壊されなければならない、と言う意味だったのです。ラッチンガー枢機卿は、1982年に出版された「神学的諸原理」と言う本の中にウルス・ファン・バルタザーの言葉に言及して「実にカトリックの砦を解体撤去することは義務であった」と言っているのです。

 現代の聖書解釈学はますますプロテスタントの神学者であるブルトマン(Bultman)によって特に影響を受けています。この人は、完全な理性全能主義者(rationalist)で懐疑主義者です。阻止で聖福音をすべての部分を否定している人です。この人の影響は司祭らの中で、特に神学校で勉強中の将来の司祭、司祭志願者たちの中まで及んでいるのです。

 ドイツのイエズス会の司祭であるカール・ラーナー(Karl Rahner)は匿名のキリスト者ということについて話始めた人です。この人によれば、だれもがキリスト者だということです。そのため彼の言葉によって、多くの人達が、従って誰もが多かれ少なかれ自動的に救われているのだと思うようになりました。

 

教会の改革

 教会当局は、教会の改革について語り始めましたが、このことは心と霊魂の改革のこと、本当の内的回心のことではありませんでした。この改革で意図していたことは、私たちの天主なる救い主、教会の創立者であるイエズスによって据えられた教会の構造そのものにおいて変化を加えること、すなわち、本当の革命を意図していたのです。

 教皇ヨハネ二十三世はそこで「現代化」(Aggiornamento)という合言葉を持ち出しました。そしてこう言うのです。「私たちは教会を現代化しなくてはならない。現代世界の新しい生活の条件に合わせなければならない。私たちを現代人に受け入れてもらうためだ。」と…。もちろん皆さんは現代人とはどのようなタイプの人かを知っています。現代人は無神論者で、どんな権威も法をも受け入れない人で、自由を好み、自己中心で自分勝手、官能によって生き、信仰や霊的能力を生かさない人、物質中心でそのことしか考えない人のことなのです。

 しかし教皇様は、教会はこの現代人に奉仕をする必要があると考えられ、陰鬱の預言者たちが言うことを指摘され彼らに賛同されないことを表明されたのです。「我々はもって積極的で楽観的な見解を持たねばならぬ。」そこで、彼は公会議を始めるにあたって1962年10月11日にこう説教されたのです。

 「毎日の私たちの司牧において、残念なことにこういう声をしばしば聞かねばならない。彼らは熱心に燃えてはいるが控えめと適度の感性をあまり持ち合わせていない。この現代において彼らは不正と荒廃しか見えない。彼らは私たちの時代は過去と比べて悪くなっていると言いつつ、彼らは、歴史から学ぶことなどないかのごとくふるまっている。しかし歴史は生活の教師である。彼らは以前の公会議の時代にはすべてがキリスト者の理想と生活にとって、また事故の宗教の自由にとって完全なる勝利であったかのごとくふるまっている。私たちはこの陰鬱の預言者たちに賛同してはならない。彼らは常にこの世の終わりがすぐそこであるかのように不吉なことばかり予言しているからだ。」

4カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:36:46
現代の誤謬

 「私たちはこの陰鬱の預言者たちに賛同してはならない。」と教皇ヨハネ二十三世は言われました。

 第二バチカン公会議以前の時代には、そして公会議の真っ最中には、二つの非常に大きな誤謬が氾濫していました。このことは既に前世紀のスペインの哲学者であったドノソ・コルテス(Donoso Cortes)と言う人によって指摘されています。コルテスはこう書いています。「一つの誤謬は天主に関するものであり、もう一つのは人間に関するものである」と。

 天主に関する第一の誤謬は、天主様は絶対ではないとすることです。それは天主様の絶対の主権、その御稜威、その変わることのない実体、天主がこの世界に現存したまうこと、また人間の歴史に、個人的また民族の生活において、お現れになったこと、等などを打ち捨てることを意味しています。この誤謬によると、天主様は哲学的・理神論的な存在であって、天主はこの世を創造したがその後は自分は身を引き雲の中に隠れてこの世をほったらかしにしてこの世界とは一切関係を持たないのだ、と言っています。

 第二の誤謬は人間に関するもので、第一の誤謬と同じく大変危険なものです。これによると、人間は原罪なくして生まれて来た、「無原罪」である、と言うのです。私たちの霊魂は傷をおわされず、悪に汚されずだめにされず、悪に染まらず、私たちはすべて善いのだと、そして人間は贖いなど必要としていないのだと言うのです。人間に必要なものは何かとしたらもしかしたら教育ぐらいだろう、と言うのです。しかしそのことは人間は主の十字架を必要としていないということを意味するのです。ですからこの贖いの必要のない人間にとってミサ聖祭の贖罪の性格などあってもなくてもよくどうでもよい不必要なものなのです。この誤謬によれば、人は改悛の必要もなく、自己否定の必要もなく、苦行する必要もなく、自分において古いアダムに死ぬ必要もなく、天主の聖寵など必要もないとするのです。そこでこれらの誤謬を信奉する人は、ルソーのあの有名な言葉にたどり着くのです。「我々は純粋な自然状態に戻りさえすればよいのだ。そうすればすべての問題は解決されそべては偉大となる」と。

 このことが教育において適用されると、教育において権威というものが否定されるのです。罰することもできなくなるのです。教師、あるいは教育者の仕事・使命・義務というものはその時、子供の中にあるよい素地を発展させるだけに過ぎなくなってしまうのです。そして悪い傾向や悪い情念を押さえるということが(そんなものはないのですから!)できなくなってしまうのです。

 このことが人間社会全体に適応されると、私たちは敵など存在しないのだと信じ、受け身主義へと自分をなびかせなければならなくなります。この世界には悪などないのだ!ただ単に政治的・外交的・心理的誤解だけがあり、それもいつかは忍耐のうちに解決されるのだ!と信じざるを得なくなります。こういう人々は一般的に、無限の技術進歩や、自然科学の進歩、心理学や他の人文学の進歩を夢想することになります。こうして彼らはすべての人の際限のない救いを夢見て、この地上の楽園をはかなく夢想するのです。

5カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:37:17
第二バチカン公会議

 このような全体的な状況とこの幻想の中で、第二バチカン公会議が生まれたのです。私はこの公会議を、もし全教会史最大のものでなかったとしても、今世紀最大の憂慮すべきものと表現したいと思っています。そしてそのまず最初から公会議は確実に3つの巨大な罪を犯しました。

 第一の罪は、この公会議がカトリックのいかなる真理をも本当に定義づけず、同時に真理に対立している誤謬を排斥しなかったことです。

 この公会議の第二の罪は、公会議があいまいな観念、あいまいでどうにも取れる声明・命題を採用したことです。そのため命題のいくつかは絶対的にそれぞれ矛盾しあっています。後でその例をいくつか出します。

 公会議の第三の大罪は、それが異端に非常に近いいくつかの教義を確立したことです。

 では、今からこの公会議の5つの公文書を取り、私が今しました弾劾が本当であることが、実に公文書自体の内において明らかにしてみたいと思います。

私たちはですから、

エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)

教会憲章(Lumen Gentium)

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(Nostra Aetate)

信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)

現代世界憲章(Gaudium et Spes)

を取り上げることにしましょう。

 この講和は皆さんにとって霊的・知的努力を大変要求するものだ、ということは私にもよく分かっているつもりです。この努力なくして異なる発展を理解することができません。しかしこれらの誤謬の根元を皆様に発表することがその為に必要だと考えています。なぜならこの誤謬の根源が、教会を公会議後のすべての乱用と衰退へと導いたからです。そして対には教会の完全なる破壊へと導いているからです。

6カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:39:29
1− エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)

 ではまず、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)に目を通しましょう。カトリック信者にとって、天主とイエズス・キリストとカトリック教会との間には分かち難く結ばれた一致があることは明らかです。実に、天主御父が御子を送り、御子は贖いのみ業のために人性を取り、この人となった天主御子が目に見える教会を創立し、自らはその教会の頭であられるのです。主は一つの教会を創造するのですが、我らの主は絶対で唯一であるため、我らの主は本当に天主、唯一の真の天主であるため、教会もやはりただひとつしかないのです。そしてこの教会の創立者かつ師である我らの主が絶対で唯一であるように、教会も絶対で唯一なのです。聖パウロはエフェゾ人への手紙の中でこう言っています。「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つで、すべてのものの父であり」(4:5)と。

 この教会は諸国の中の印なのです。教会は生ける天主の神殿なのであり、屠られた小羊の花嫁なのです。教会は天から地上に立ち降りた新しいエルサレムなのです。教会は本当にエンマヌエル、すなわち、天主我らとともにまします、なのです。そうです、人間性の中に天主の性がましますのです。教会は全く我らの主の神秘体、それゆえにこそ、教会は天主により立てられたもの、我らの主が天主であられ、主の言われることなさることすべてが天主のみ業であり、主の創立なさったものはすべて天主が創立なさったものなのです。

 したがって、教会はその生命、その生活において、その教えにおいて、その礼拝、その統治において、天主によって助けられているのです。ですから教会は、より良い社会世界を築くため、この世における進歩のため、より良い文化等などのためといえど、他宗教と身を交える使命をもらったことはありませんでした。教会の使命は主が昇天される直前に言われた言葉に表されています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしが命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ28:19、20)また、「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる。(マルコ16:15、16)

 ところが、エキュメニズムに関する教令(Unitatis Redintegratio)は、わたしたちに教会に対する全く別の理解をさせてしまっています。この教令は教会の使命とその他の宗教との関係について全く別の見解を示しています。まず、この教令は「それぞれの教会」について語っているのですが、実はその表現自体が大変異端に近いのです。

 もちろん公会議以前にでさえ既に、それぞれの教会、という概念は存在していました。それぞれの教会、と言ったときに何を意味していたかというと、司教様とその聖職者の回りの地方のそれぞれの教会、と言うことを意味していたに過ぎないのです。例えば、パリの教会、ウェストミンスターの教会、ケルンの教会、ローマの教会、東京の教会等など、信者たちに取り囲まれた司教とその聖職者の事だったのです。しかし、カトリック教会以外の諸団体に「それぞれの教会」と複数形で使い、適応したことは一度もありませんでした。

7カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:40:19
教会の外に救いなし

 他の宗教にしたがっている人でもある条件の下で救われ得る、ということは明らかなことです。どの条件の下かと言えば、彼らが打ち勝ちがたい誤謬のうちにいる場合です。もし彼らは自分の最善を尽くそうと努力しているなら天主様は助力の聖寵をお与えになるでしょう。もし彼らがこれらの聖寵に忠実でこれらの聖寵と共に働くなら、天主様は彼らに成聖の聖寵をついにはお与えになり、かくして彼らが救われるかも知れません。しかし彼らが救われるとしたら、それは常に個人としてです。たとえ彼らが他の諸宗教の中で救われるとしても、彼らは決して他の諸宗教によって救われるのではないのです。

 誤謬が真理の王国へと我々を導いてくれるのは不可能なのです。天主がこの地上に降臨され、托身され、我々のうちに現れ、一つの教会を創立し、それによって自分自身を継続させ、自分の身代わりである教会を立て田野です。これが彼の教会、彼の花嫁なのです。これらすべてをした天主が、自分の創立したのではない偽りの宗教によって誰かが救われ得るようにした、と言うのは不可能なことです。なぜなら主は自分のことについてこう言われたからです。「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを戸をらずに誰も父のもとには、行くことができない。」これはご自分の教会についても当てはめることができます。

 これらの偽りの宗教は天主によって創立されたのではなく、むしろ人間によって、そして非常にしばしば悪魔によって息吹を受けたものです。そうですからもしも万一、誰かがほかの宗教の一員としてあるいはほかの宗教に属していながらも救われ得るとしたら、この人は常に必ずカトリック教会によって、我らの主の十字架によって、主の犠牲とその祈りによって、救われるのです。ですからこの人はほかの宗教によって救われるのではなく、ほかの宗教にもかかわらず救われるのです。

 ですから、「キリストの霊(すなわち聖霊のこと)はこれらの教会と教団を『救いの手段として』使う」ということはほとんど異端的なのです。そして私はこの一文は公会議の文書の中で最悪のものの一つだと思っています。これは今日までの教会の教えに全く反しているからです。これは以前に教えられてきたこと、聖書の語ること、教会教父の教え、神学者や以前の公会議、以前の教皇たちがいつも言ってきたことに絶対的に反しているのです。完全に反対なのです。

8カトリックの名無しさん:2014/10/28(火) 04:42:20
宗教統一の集い

 一度、これらの宗教も何らかの意味がある、救いにとって重要な役割をもつと言うことが確立されると、後はカトリック信者もこれらの他の宗教と共に働くように、彼らとともに協力し、できれば彼らとともに祈るようにと招かれるわけです。これについては公会議が正確に述べています。

   「またそれら教団は…なお許された範囲内で、心を一つにして祈るために集まる。」(4)

 そしてその少し先にはこう言います。

   「ある特別な状況、たとえば「教会一致のために」公の行われる祈りや諸教会合同の会議において、カトリック信者が別れた兄弟とともに祈ることは、許されるばかりでなく、むしろ望ましいことである。このような共同の祈りは、確かに一致の恵みを求めるための効果的な手段であり、カトリック信者と別れた兄弟とを今でも結び合わせているきずなを正しく表現するものである。「私の名によって2・3人が集まっているところに、わたしもいる」(マタイ18・20)。(8)

 これらの祈りについて私たちは何というべきでしょうか。第一に、他の宗教の信者の個人の祈りは、その人たちの内的な心のもちかた次第で、天主様にとって嘉(よみ)されうるものになりうる、と言っておかなければなりません。しかし他の宗教の祈りは、他の宗教として、天主様に決して嘉されることがありえないのです。なぜなら唯一の天と地の仲介者がおられるからです。実に我らの主は“semper vivens ad interpellandum pro nobis”:主イエズス・キリストは常に生きご自分の教会のためその選ばれたもののためにとりなしておられる、と聖パウロは言っています。(ヘブライ7:25)

 ですから他の宗教の祈りは、他の宗教として、実りのないものなのです。他の宗教の祈りは効果がなく、したがって信者がこのような別の宗教の共同の祈りの集会に参加するのは有害なのです。なぜ有害かというと、この祈りは無駄でかつ多くの混乱をもたらすからです。実際にこのことを続けて行くことによって数知れない弊害が出てくるでしょう。そしてそのことは結局すべての宗教を同じレベルにおくことになるのです。

 今日ではカトリックがプロテスタントの会食に参加しプロテスタントがカトリックの御聖体拝領を受けにくると言うのはよく見かけることになってしまいました。諸宗教の集いでカトリックの司祭がパンに対して聖変化の言葉を唱え、プロテスタントの牧師がワインに対して変化の言葉を唱えるというのをよく耳にします。このようなことが今行われるようになってしまったとしたら、その責任は公会議のこれらの文章にあります。

9カトリックの名無しさん:2014/11/12(水) 11:00:20
>はい、カトリック信者なら教会の教えに従うべきだと思います。違いますか?

教会の教えに従っていますよ。
今のカトリック教会も、信者に宣教をしなさい、と呼びかけています。
だから、俺は宣教をしただけです。信者が教会の教えに従うと、いけないのでしょうかね。

『第二バチカン公会議公文書全集』、pp.221-222

教会の使命は、キリストに対する信仰とキリストの恵みによって得られる人々の救いを目指すものである。したがって、教会とその全構成員の使徒職は、まず言葉と行いとを以ってキリストの福音を世に告げ、キリストの恩恵を与えることにある。〜信徒も「真理の協力者となるために」(3ヨハネ8)重大な役割を果たすべきである。特にこの点で信徒の使徒職と司牧の役職とが助け合わねばならない。

信徒には福音の宣教と聖化の使徒職を行う機会が無数にある。〜真の信徒は、言葉を以ってキリストを告げ知らせる機会を捜し求めるものである。それは、あるいは信じない者を信仰へ導き、あるいは信徒を教え固めていっそう熱心な信仰へと駆り立てるもので、「キリストの愛が我々に強く迫っている」(2コリント5・14)。全信徒の心に「もしも私が福音を宣べ伝えないなら、それは私にとって災いなことだ」(1コリント9・16)という使徒パウロの言葉が、響かねばならない。

現代は、種々の新しい問題が起こり、また大きな誤りが広まって、宗教、道徳は勿論、人間社会を根底から覆そうとしている。

10カトリックの名無しさん:2024/05/13(月) 11:22:12


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