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和田越えの戦い

1とり:2015/07/10(金) 11:33:24
西南の役「和田越決戦場」
1877年8月15日
両軍の総師が初めて前戦で指揮する中、霧が晴れた午前8時ごろ戦闘は始まった。
http://seinan1877.zouri.jp/nobeoka/nobeoka.htm

8月15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第2旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第2旅団は危機に陥った。しかし、第4旅団の左翼が進出して別働第2旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、官軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。
可愛岳突囲[編集]
8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

明治10年8月15日、山県有朋中将ひきいる官軍三万五千と西郷隆盛率い
  る薩軍三千五百は、最後の戦いとなる和田越の決戦を迎えます。
http://www.miya-shoko.or.jp/kitagawa/kankou/saigo/saigo.html

 未明、薩軍3500余は、和田越を中心に友内山(無鹿)から長尾山にかけて陣を構えます。官軍は5万余の兵力と火器で取り囲み、方財付近には軍艦が大砲を向けていました。この日西郷は、鹿児島を出て以来初めて最前線で指揮をとります。西郷が和田越の頂上に姿を現すと、兵士たちから大きな歓声が沸きあがりました。山県はその様子を、南西約1.5㌔の樫山山頂から見ていました。
 午前7時ごろ決戦の火ぶたが切られ、薩兵は眼下の官兵に猛射をあびせます。官兵も反撃しますが、稲葉崎のぬかり田に足をとられるなど苦戦します。しかし、しだいに薩軍を圧倒していきます。西郷は弾雨に身をさらし、微動だにしなかったそうです。桐野や村田は敵正面に立つのを阻止しようと説得しますが、聞きをあびせます。官兵も反撃しますが、稲葉崎のぬかり田に足をとられるなど苦戦します。しかし、しだいに薩軍を圧倒していきます。西郷は弾雨に身をさらし、微動だにしなかったそうです。桐野や村田は敵正面に立つのを阻止しようと説得しますが、聞き入れられず、ついには数人がかりで山から下ろします。おそらく西郷は、和田越で果てるつもりだったのでしょう。
 激戦は約5時間に及び、両軍合わせて300人余(薩軍は100人余)の死傷者を出しました。山を下りた西郷は、ひとまず俵野(現延岡市北川町)の児玉熊四郎宅に落ち着きます。
 翌16日、西郷は児玉宅で解軍令を出し、携えてきた書類や陸軍大将の軍服を焼き捨て、連れてきた愛犬も放しています。軍の解散で薩兵の大半が投降しますが、この中に西郷が大島に流されていたとき(1859〜62)島妻・愛加那(あいがな)との間に生まれた菊次郎(当時17歳)がおり、負傷していた菊次郎は、官軍中将で西郷の実弟・従道(つぐみち=じゅうどう)に救われます。
 菊次郎は後に京都市長になり、従道は海軍大将・元帥までのぼりつめます。
http://wing.wainet.jp/index.php/component/content/article/44

2とり:2015/07/10(金) 11:49:08
8月15日。

3とり:2015/07/10(金) 14:01:55
8月16日、西郷は解軍の令を出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.8F.AF.E6.84.9B.E5.B2.B3.E7.AA.81.E5.9B.B2

県北和田越えでの最後の決戦に敗れた西郷は、手兵約300人を率いて、可愛岳を突破し、一路故山の鹿児島を目指して敗走する身となった。
http://nanjaroka.jp/siseki/s-saigou/

4とり:2015/07/10(金) 14:04:48
義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して

300

の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。

その結果、この時点で

300人

(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84

5とり:2015/07/11(土) 03:58:46
12月26日。


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