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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★17
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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★16
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わたしにとってはサトアキだかその信者だかがなんと言ってるかはどうでもいいんだが
まぐなはこれどう思うよ
774 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2015/10/08(木) 02:18:59
>保健の教科書に性的興奮を覚えながら「性関係は存在する」とか思ってる
これが逆にファロスの不思議なところでもあるんだよな
トゲウオなんかはそれが赤い布だと気付いてなかったりしよう
気付いてないでそれが生殖の対象だとしか思っていないで生殖活動をする
しかし人間は、保健の教科書の絵や文字が、あるいはアニメ絵が、実際の生殖対象ではないことに気付いているだろう?
なのに、自分の性的な習性が、実際の生殖対象ではないものに生殖しようとしていることに気付いていながら、「性関係は存在する」と思うのは、非論理的だろ
そういう非論理的な発想を信じこませているのがファロスと父という幻想だったりすんだな
自分が保健の教科書のただの絵や文字に対して性的興奮を覚えたことこそが、自分の性関係が幻想であることの証拠だってえ話は
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少しほそく
精神分析が、「欲望の不可能性」「性関係は存在しない」「死」という「言語で語られないことをやめないもの」を「証言すべき」だというのは、
具体的には、キリスト教徒のおがさーらによれば、神秘主義者の発言のことだったりする
ハスミンとかその仁木とやらが言ってるの「語りえないこを語ってはならない」とは、「神秘主義的発言はする必要はない」ってことになるわな
神秘主義的な発言してもいいんだよ
なぜそういう発言をしちゃいけないかって自分が思うか考えてみ
ぶっちゃけ「キチガイと思われたくないから」てえ自己防衛じゃねえの
キチガイと診断された精神疾患者ならそんな自己防衛しなくて済む
神秘主義的発言、トンデモ発言してもすでにキチガイと診断されているからなんてこたない
と精神疾患者が言う
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でまあ確かに神秘主義を否定するのが現代の科学という幻想なのかもしれんが
理系出身だから別に文系のやつから科学的じゃないと言われてもどーってこたない
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実際に精神分析を受けて陥るその状態は、昔の宗教者が神秘だと言うしかなかったものであるんじゃないかなー、とは今は思っている
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宗教でも爆発でも暴力でもない「長椅子に寝そべって思ったことをしゃべるだけ」でそういった神秘と呼ぶしかなかった状態に人はなれるとするのが
精神分析というトンデモ論だ
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で「トンデモなんかじゃなく自分は実際にその状態に陥った」と「証言」しているのが、おがさーらとか向井
立木あたりは口では「人間は欲望の不可能性から逃れることはできない」と言いながら、
それに確信というか楽観できてないんだな
ここが実際に精神分析を受けた人と受けたことのない人の違いだと思うんだよ
立木とかは精神分析を受けて自分がそのような状態になったことがないから、「人間の欲望の不可能性」の「証言」をできない
本を読んだだけの伝聞だから、それに確信というか楽観できないわけだ
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むしろ「言葉で表現できるものしか表現しない言葉」の方が「必要ない」んだわ
それは精神分析においては精神分析に対する抵抗だとなる
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裁判ドラマでさー、証人台に立たされることになった人が、弁護士から昔犯した犯罪とか追求されて「証人の発言に信頼性はない」とか言われるわけだが
そこでこんなこと言うんだな
「陪審のみなさんが私の証言を信頼できないもの無理のないことかもしれません。ここに立つ私は事実を証言するしかないんです」
とか言うんだな
他人にどう思われようが関係なく、それについて「証言」するしかない
精神分析の倫理はこのようなものである
「証言する必要なんてありません」なんて言うのは非倫理だとなる
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そして、ラカンが「精神分析は芸術だ」と言うとき、そのような「証言」こそが芸術の感動の本質だと言ってるわけだな
「欲望の不可能性」「性関係は存在しない」「死」という現実を「証言」することが、芸術の感動の本質だと
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前スレ>>969
いるよ……!
(呪怨くんが膝かりかりしながら)
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ねるおー。ノシ
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またかといわれるだろうが、ビ子のツイッター久々に見た。
何か女として生きていると異性から狙われるという感覚をダイレクトに感じるものなのかと思ってしまう。
男だとそう言う風に感じる事はないからな。その代わり俺の場合だと同性から付け狙われるという妄想があるが、女がリアルで感じる恐怖に比べると大したレベルじゃないだろう。
そう考えると女には生まれなくて良かったなあ、とか感じてしまうものだ。ビリ子に絡んだ一人がこういう発言をするというのは批判されるべきなのかもしれんが。
実際ビ子はブログでも俺だけではなく、他の人からもそう言う事をされてきた、これは毎度の事なのだと強調していた。
余りにミニハンが批判していたので仁木の弁護書いて置くが、仁木は女として生まれてで嫌なことばかりだったとか、自分の作品を女が書いたという風に読まれる事に嫌悪感も示していたぞ。きもいとも。
自分は文章機械になりたいとか。
これはミニハンの言う精神分析的な意味でのヒステリーじゃねえの。
ttp://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-fe5d.html
ttp://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-53d2.html
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>仁木は女として生まれてで嫌なことばかりだったとか
読み返してみたが、これちょっとちがうな。
女として生まれて嫌なことは多かったが、女として生まれたことを嫌だと思わないか。
とするとちょっとヒステリーの定義とは違うな。
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>>13
前スレのサトアキさんの要約ブログの人と仁木稔は別の人だよな。
なんかややこしくなってるが。
でミニハンは要約の引用の人について仁木稔だと思って書いているのかなと思うが、どちらにせよ仁木のブログを読むべきと言っているわけではない。
トイレ行こう。
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>>15
おう、勘違いしてたそのとおり
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あと文中に立木って書いているのは立木康介のことな
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>>14
ヒステリーっぽいんじゃね
その一分だけならなんとも言えんが
ヒステリーってのは要するに精神分析用語のコンプレックスがセクシュアリティの根源的なところまで侵入している状態
嫌だと思いつつ嫌だと思わないというのは感情の複合であろう
その言葉はそれだけ考えれば「女に対するコンプレックス」だ
母が嫌いだけど嫌いなわけじゃない
父も嫌いだけど嫌いなわけじゃない
快感原則や行動療法とかの好子嫌子とかでわりきれない部分を言表しておるのだろう
逆に強迫症者はこういった言表ができない
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>>18
あ、それ俺はあるわ。嫌いだと思っていてもあれそうではなかったのかと思えてくるというか。
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ttp://sakura4987.exblog.jp/6660814
ところで最近三島全作品読破をしているのだが、この文章ってどうなんだろうな。
強い自己批判的なものがある気がする。三島はファルス的だといわれるが、それだと自分の今までやってきた事は正しいのだと無理にでも肯定しなくないか。
最後の戦後日本批判の箇所だけ取り上げられることが多いが、これは相当な自己否定の文章だ。
まあ死人の精神分析はしなくていいとミニハンは言うかもしれないが。
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>>20
小笠原なんかは三島もヒステリーの構造だと言ってる
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自己否定や自己肯定がポイントなわけじゃないけどな
自己っていうものは否定されたら否定されるもの、肯定されたら肯定されるものって前提がおかしいわけだな
なぜならラカンにおいては「自己(主体)は最初からずっと分裂している」である
同じ自己であっても、否定できる部分はあるし肯定できる部分があるものだ
結局なんての、自分で自分のことはわかっているっつうのがファロスだと思うぜ
そりゃファロスの精神構造は自分ってのはちんちんみたいなもんだからな
男は「俺は俺のちんちんのことについてはよくわかっている」と思うものだろう
一方で女は膣だからそうにもいかない
脱毛してるときはじめて小陰唇にできものができてた、とか気づく程度
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ファザコンもヒステリーではあるからな
ただしそういう状態のヒステリーであればそのファザコンは否定されなければならない
精神分析過程としては
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マザコンロリコンはもとよりファザコンも「欲望を妥協している」わけだよ
彼らは100人いれば100人欲望の根源である「性関係は存在しない」あるいは「死」に向かう傾向を見つけられない
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コンプレックスってのも精神分析の過程の一つとしてある
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ジュドー・アーシタ
ジュドー・コーシタ
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>>24
ただ「死」に向かうといえば多くの人が苦痛じゃねえの。苦痛なことを避けるのが人間だとも思えてしまう。
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その通り
フロイトもそう考えていたが、臨床上それだけで説明がつかないのが人間の心だということも彼は知っていた
ゆえに快感原則の綻びとしてのタナトスや涅槃原則を設定したわけだ
科学的な観点から言えば
快感となる刺激や痛みってどう違うのか
そもそも触感も痛みの肌の痛点で感じる、痛点とは圧力センサみたいなものでしかない
その圧力センサが一定値を超えなければ触感であり快感にもなりうるが、一定値を超えれば苦痛になる
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苦痛ってのも人間の認識の一つなわけだよ
色即是空の色である
とはいえ、苦という色は、色を色だと気づかせる作用がある
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苦痛というのがその人個人個人の認識のよるものなのだから
苦痛を避けるというのが自分から自分が避けようとすることと同じなんだな
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サトアキとかは人に苦痛を与え続けて悦ぶ人間はいる、
そういう人間にとって与え続ける人間は既に人間ではないし、苦痛を与え続けられる人間もまた人間ではなくなっている。
人間の顔を剥ぎ取られているみたいな表現をしていたが、詰まるところそれも一切空か。
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というか「性関係が存在しない」で>>27みたいな発想せず「死」で>>27みたいな発想をするのがマグナは男だなあ、と
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たとえば以前私さんが引用していた、ある作家のインタビュアーが、「ペニスが勃起すると自分が中から犯されるような感覚を覚える」と言ったのを覚えてるかい
このとき彼にとってペニスの勃起は苦痛なものであるわけだが
その苦痛を避けるにはペニスちょんぎるしかないわけだ
人間は煩悩から逃れたがるのが本願だが、なぜか人間は煩悩を生きたがる、って奴だ
快/不快というのも一つのいわば人間をコンピューターとした場合のOSにすぎんのだよ
OSは載せ替えることができるわけだ
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苦痛を避けるのが人間だというが、それを苦痛か否かの判定は、人それぞれ、相対的で流動するものなわけだな
普通の男ならペニスの勃起は苦痛とは反対の快感だったりするが、その男の人はペニスが勃起するのを苦痛に思っている
「存在しない」節で言えば、快感か苦痛か、快感ではないか苦痛ではないか、という判断する基準は存在しない、ということだ
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>>31
人間らしさとか人間の顔が空だからな
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>>31
というかその発想は、苦痛を与える側も受け取る側もそれが「苦痛」であるという認識は共通しているわけだな
苦痛も快感も人それぞれなわけだから、Aさんは「Bさんに苦痛を与える」と思ってやったことでも、Bさんは苦痛と思ってなかったりするわけだ
わたしが言っていることはそういうこと
まず「苦痛」や「快感」が人間同士のあいだで共有されることが幻想だというお話
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>>31
でなんだサトアキはそういう「人間ではない」人間が好きだったりするわけか
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人と人とはすれ違い続ける
これラカンの基本
「性関係は存在しない」ってのもそういうこと
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逆もあるだろうよ
Bさんは「Aさんから苦痛を与えられ続けている」と思っていても、AさんはBさんに苦痛を与えているつもりはなかったりする
つかBさんという存在すら知らなかったりする
これがエメだったりしようさ
エメは、ある女優から、自分の人生をパクるなどという苦痛を与えられていた、と思っていたわけだが
女優の方はエメなんて存在知っていても「おかしなファンだな」ぐらいだったりしようさ
エメは逮捕されてそうした妄想がなくなったわけだが、精神分析のカタルシスとはこういうものだ
エメはその「女優に人生をパクられている」という幻想が破壊されたわけだな
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その「カタルシスとは幻想だ」とした稔ちゃんだかがそう思っていたというのはわかったが
サトアキはカタルシスをどう考えてたりすんだろうな
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ストラテジーで語ってたんじゃね。まえ貼ったブログの人が要約してた奴だが。
仁木のそれは完全に佐藤譲りだと言ってもいいと思う。
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でエメのようなカタルシスは急激に起こったといえるわけだが
カタルシスが急激に起こると他害や自殺などといったアクティングアウトに出てしまうんだな
精神分析はセッションごとに主体にカタルシスの辺縁に立たせ、それを数年間も繰り返すことで、カタルシスという状態になっていく
おそろしく緩慢な他害あるいは自殺であるわけだ、精神分析とは
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>>41
そっちが仁木か(混乱)
つかそれ読んでないしどうでもいいや
まあなんだ小説とかも緩慢なカタルシスにしかならないのは仕方がないとは思うけどなー
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物語自体が幻想なんだから、幻想が破壊されるのがカタルシスと言われましても、ってのは気持ちはわからなくないが
こう、本一冊で、受取手に、精神分析のカタルシスである自我理想や理想自我の破壊、鏡像関係という幻想の破壊に導くのはそりゃ無理だわ
誰かに他害させたり自殺を引き起こす物語とかな
まあ物語で自殺した人とかもいるかもしれんが
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苦痛という幻想は、その幻想を壊す反応に導くわけだな
だから小笠原が言うように、苦痛や不安を回避してはならないし、それを軽視してもならないんだよ
定型の人たちがカタルシスに向かう過程が苦痛や不安だからな
ちなみに立木康介などの著作はほとんどが彼自身の去勢不安になるわけだが
哲学畑の人とかにはみっともないみたいに言われるんだが
去勢不安を赤裸々に著作で語ることで、彼は読者という分析家の前で分析主体になっているとは言える
去勢不安はいちおう精神分析のスタート地点
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立木康介の本とか非理論的で斜め上の連想したりすんだが
彼はその書籍が(分析を最後まで終わらせてない)分析主体の典型的なディスクールとしてわざとやってんのかな、と
わたしがブログでやってたみたいに
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であれだよ、フロイトは、臨床上、人間は快感原則や現実原則に相応しない機制がある、ということから、
タナトスなり涅槃原則なりって思弁を述べたわけだが
これ逆に言えばフロイトの患者みんながみんな快感原則や現実原則に相応しない機制を見せたということだろ
「苦痛なことを避けるのが人間だ」とフロイトも思っていたわけだが精神疾患の患者を見ていくうちに「全然そうじゃねえじゃんか」となったわけだな
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>>43
いやこれは俺の表現が拙かった済まん。
ブログのやつがちゃんと要約してたんで、佐藤のカタルシス論はわかるんじゃねと。
んで仁木もそれの影響を受けてると。
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>>48
うい
でなんだ
トラウマ(の代理物)に対する主体の状態が複合的な感情という意味でのコンプレックスであるわけだ
でペニス妬みなんかもコンプレックスであるわけだが、ペニス羨望と訳すとあれだが
あくまでも女はペニスを他者のものとして妬んでいる
自分の欲望が統合される性器たるクリトリスはいつまでたってもペニスにならない
つまり女のペニス妬みはコンプレックスでいたがっているわけだ
>>14みたいに直接的に複合的な感情を述べられるのはヒステリーじゃね、と
男も複合的な感情を述べる場合があるが、対象か、それに対する感情かのどちらかが明確になっているのな
そのどちらかが言葉にできるものとしてある
コンプレックスというのが複合的な感情であれば、それは「言葉で表現されるのをやめないもの」になろう
感情を表す言語とは喜怒哀楽とかだが、「喜であるけど、喜ではない」みたいな言い方だろ、>>14は
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でまあなんだカタルシス(により至った精神状態)っつうのは「言葉に代(理)表(現)されないことをやめないもの」であるので
言葉による芸術である小説においては、表現されないのをやめないものとなる
そのことを「言葉にする必要はない」つってるならまだわかるが
それを言葉にしてはいけないというのがむしろ抑圧なんだな
精神分析の倫理、Bien-direとは、「言葉に代表されないことをやめないもの」を言葉にすることである
それは分析家であっても分析主体でも同じである
精神分析という実際の場では分析家は分析主体に「言葉に代表されないことをやめないもの」を言葉にする場を与えようとするものだが
その場を離れて自身で著作を書く場合などにおいては、彼もBien-direする
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立木の著作にも言えることだがなんつのかな、人ってのは幼児的万能感みたいなものを無意識的にであれ信仰しているんじゃないかと思えることがある
まぐなの言う「苦痛なことを避けるのが人間だとも思えてしまう。」と言うところにおける「人間」という幻想がそうだったりしよう
完全な快感原則を持ち不快を避け快感を得るように生きるのが人間あるいは生命だと
「死」については、逆に考えてみるとよい
「死」がゆるぎなく不快なもので完全に避けるものであるのであれば、これだけ長い年月を「進化」してきた生物は、なぜいまだに殆どの種が「死ぬ」のだね?
たとえばもぐらなどは目という器官が必要ないゆえ目が退化したわけだが、「死」が生命が完全に避けるものであれば、「死」という機能が退化していてもおかしくない
「死」が退化してほとんど機能していない生物なんてほとんどいないだろ(一部粘菌などは「死」という機能として定められる性質がなかったりするが)
どういう風に話をもっていくとつまりエロスタナトス論にすべてを還元するもの罠であるから「死」についてはここまでにしておく
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でマグナの言う「苦痛なことを避けるのが人間だとも思えてしまう。」ところの「人間」っていうのが、幼児的万能感って奴じゃね、と思う
幼児的万能感というのは完全な快感原則がありそれに基づき不快をさけ快感を得て生きる(人間の)精神状態だ
まあわたしもブログでよく幼児的万能感について語っていたから人のこと言えないが、
立木康介も、「心理学化する現代」というのを、倒錯だとして、幼児的万能感に支配された社会だという論旨をしている
ここなんだよ
わたし自身勘違いしていたんだが、というかいまだに「えーそれでええの」と思う部分がなくもないが
ラカン派では、「幼児的万能感は存在しない」んだ
これはどういうことかというとだな
そもそも幼児的万能感という考え方はフロイトが提唱したもので、なのでほとんどの精神分析学派がそういった精神状態を存在をあるとして語っている
ラカン派と近いとされているクライン派などでもそうだ
クライン派の影響が色濃い発達心理学の分野などでは「母子カプセル」なんて単語があるが、このときの子が幼児的万能感の状態にあるとする概念なわけだな
しかし、ラカンは、一度も幼児的万能感や母子カプセルやそういったことを意味する単語を述べたことがないのだ
しいて言うならば、フロイトが幼児的万能感なる考え方を設定したとき、それを可能にするのが「欲動を統合した性器」であるファロスだとしていた
部分的な欲動、つまり体の一部一部が勝手に機能している状態から、それらがペニスにおいて統合されることによって、完全な快感原則が成立すると
このときフロイトが想定しているペニス=ファロスを、記号化しよう
その頭文字を小文字にした(ここはラカン理論による、小文字は視覚的なものを意味するゆえ)φとする
しかし、ラカンは自身の理論体系において、一度もφという記号をもちいていない
それどころか、いちいちわざわざそれにマイナスをつけた-φという記号を用いる
これは、φなど存在せず、臨床から発見できるのはそれと正反対的な-φでしかない、という意味である
これは>>47で言う
>「苦痛なことを避けるのが人間だ」とフロイトも思っていたわけだが精神疾患の患者を見ていくうちに「全然そうじゃねえじゃんか」となったわけだな
ということである
φや幼児的万能感というのは仮説にすぎず、臨床上そういうものは発見できない、というのがフロイトとラカンの一致するところだ
(まあここがラカンが「フロイトの大義」つったところであろうが)
まあ要するにマグナの「苦痛なことを避けるのが人間だとも思えてしまう。」ってのは仮説にすぎず実証されてねえだろ、って話なわけである
人の心を臨床してきたフロイトがそれが実証されていないことを認め(だから彼は快感原則の綻びであるタナトスを提唱した)、ラカンはその仮説を自説から破棄したわけだ
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つまり、ラカンは幼児的万能感という仮説を(フロイトはそれを理論体系から破棄するまでには至らなかったが)、臨床上実証されていないゆえ理論体系から破棄したわけだな
ゆえに、ラカン理論においては、「幼児的万能感は存在しない」
これは「完全な快感原則に基いて不快を避け快感を得るという言動を取る状態は存在しない」ということである
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でまあなんだ、立木はそういう「心理学化する社会」ってのを、サカキバラの事件や「人体の不思議展」やなんかのパレードでおしゃぶりを口にしたロック野郎とかと
連想させて「幼児的万能感にひたる現代」としてそれを批判しているが
立木のこの連想が乱暴であるのは言うまでもない
しかしわたしは立木の「露出せよ、と現代社会は言う」という著作は、立木が自身の去勢不安を赤裸々に綴った著作だと思うのだな
批判的な意味もあるが完全にそういうわけでもない
なぜなら去勢不安とはペニス妬みと動揺に精神分析のスタート地点であるからだ
立木は彼自身の連想を提示して、それらに対する自身の不快感を訴えているのは、彼が自身の去勢不安を述べているということになるわけだが
その著作を読んで、具体的に「心理学化する社会」や「人体の不思議展」に批判しないまでも、他の読者に自身の去勢不安に気付かせるのが目的だとも思える
つまり読者を精神分析のスタート地点に立たせるのが目的で、そこで彼が自身を不快不安にさせる連想している事柄は方便にすぎないと
もちろん彼自身は認めないかもしれないが
なぜならその著作で彼自身が述べているが、立木康介は精神分析を数年間という長期できちんと受けたことがないからである
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立木康介は、ラカン派でありながら、ラカンが存在しないとして理論体系に組み込んでない幼児的万能感という概念を根拠に「現代のある種の傾向」を批判しているんだな
ここがつっこみどころである
精神分析家は、幼児的万能感など空論にすぎず存在しないことをしっている
たしかにおしゃぶりを口に加えたロック野郎なんかは「母子カプセル」に対する固着を換喩的に読み取れるが、はたしてそうか
そのロック野郎を精神分析すれば、「快感原則の破綻」が見えるだろう
-φが臨床できるであろう
サカキバラなどもそうであろう、とわたしは考えている
そして立木はその著作で、その「現代のある種の傾向」とは別物として「抑圧」された神経症を設定し、自分はそうであるとする
自分が批判するものではないものだ、という論法で、彼は抑圧している神経症たる自分を自己肯定しているわけだな
これがな、彼が幼児的万能感という存在しないものを理屈に組み込んだゆえの過ちだと思うんだな
彼が依拠するのは幼児的万能感を抑圧するのが神経症だと陸なわけだが(これはフロイトひいてはラカン以外の精神分析学はでいえば正しい、そういう理論体系である)
ラカン派であるなら、「幼児的万能感は存在しない」として理屈を組み立てるべきであろう
そうできなかったところが、立木が精神分析を終わりまでしていない証拠であるとわたしは考える
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でまあラカンの享楽っていうのは他の心理学でいう幼児的万能感だと考えるのは、単純に照応していけばそうなるわけだな
わたしもそう考えていた
が、ラカンの言う享楽は、幼児的万能感と呼べるものでもない
これは立木自身がよくわかっているだろう、その著作では他の心理学とラカン理論を組み合わせた大雑把な理屈として述べているだけで
ラカンの言う享楽は、快感原則の綻びでもあるから
精神病者が、自身の精神病症状、幻覚を生き続けることなどを享楽と言う
記憶にも見られるだろ、彼は自身の組織という幻想は現実だと思っている
これがラカンの言う享楽(による症状)なわけだが、単純な幼児的万能感ではなかろう
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まあこういうわたしが記憶の幻想を「万能感じゃね」とか言ってたわけだが
彼はそれを最後まで認めてなかったろ
そこでのわたしは立木とおんなじだったわけだな
ラカン派でありながら幼児的万能感の存在を依拠して解釈していた
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理解できたかね
まぐなが「苦痛なことを避けるのが人間だ」と思う場合の「人間」なるものは仮説にできずそれを否定する証拠が(これまでわたしが散々述べてきたように)あるわけだ
まぐな自身、自分は「いつでもどんな場合でも苦痛なことを避ける」人間だと思うかい?
たぶん思わないだろ
他の人間もそうなんだよ
「いつでもどんな場合でも苦痛なことを避ける」わけではないのが人間
人間が「いつでもどんな場合でも死を避ける」のであれば戦争も起きないし自殺者なんて一人もいなかろうよ
もっと言えば、生物においてもそれを適用するなら、生物界においても「死という機能が退化した」=「死なない」種がたくさんいるはずだが、ほとんどの種は「死ぬ」だろ
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まあなんだ某男性とかにも「幼児的万能感」って単語を頻用していたが
なんつんだろな、幼児的万能感ってものは存在しないのであれ、精神分析のスタート地点にすら立てない人間が現代において多々いるのは間違いないとは思うが
わたしは現代以外の時代を生きてないから他の時代はわからんが
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余談であるが
>自分が批判するものではないものだ、という論法で、彼は抑圧している神経症たる自分を自己肯定しているわけだな
こういう読み取りが可能なのが、「対象あるいはそれに対する自身の反応」を言葉として完全に定義できる強迫症
ヒステリーとかはそれこそ「女は嫌いだが嫌いじゃない」とか「こういうのが女であるが、そうじゃないのが女でもある」とか言うわけだ
そんな言い方されたら上記のような読み取りはできんだろ
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なんだっけ、ブログにも書いたが
おばちゃんがなんかのインタビューされて「うんうんそういうのが女よ」とか言ってたその二の口で「そうじゃないのが女なのよ」とか言ってたが
これを見てわたしはヒステリーなるものがどういうものかを発見できたと言えよう
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現代社会は倒錯ですらないんだよ
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小笠原は「aが何も隠喩しない」と言っていたが、この言い方はラカン理論における「精神分析できない現代人」(ラカンの言葉なら「精神分析できない日本人」)を考えるのに問題はなかろう
立木のようにそれを幼児的万能感を共通項にしていたらラカン理論とは別物になる
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倒錯であるのは、まあ理屈として理解できなくはないがなー
立木もそういう現代社会を倒錯としつつも、実際の倒錯とくらべて「現代社会という倒錯」は違うとしてたが
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わたしは別にサカキバラという少年がその幼児的万能感を原因としてあのような事件を起こしたとは思わないし
人体の不思議展が幼児的万能感を原因としているとも思わないし
パレードでおしゃぶりをくわえたロックな格好をした青年が幼児的万能感に固着しているとは断定しないが
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でまあ幼児的万能感っていうのはマイナスのとれた小文字のファロスφであるならば
立木のその著は幼児的万能感に対して自身の不快感不安を述べたものであるので、立木が自身のペニス妬みを赤裸々に述べたものだとも言える
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まあなんか立木の著作の話になったが
まぐなの「人間は死などという苦痛を避けるものである」という仮説は、
精神分析が仮説として提示し(かつラカンは実証されなかった仮説として破棄し)た幼児的万能感の話である、というのはわかったかね
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またラカンはフロイトが述べた「部分欲動が性器に統合される」という意味での「統合」も認めていない
「主体はつねに分裂している」である
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部分欲動が統合される性器というのがフロイトが設定したファロスって意味なわけだな
またそうやって統合された性器的リビドーが現実原則によって抑圧される、という理屈なわけだな、前半期のフロイトは
統合されないならファロスもないし、抑圧もないんだよ
だからわたしはこういう言い方をする
「抑圧も、抑圧されるものも幻想なんだよ」と
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で性器的リビドーになる前の前性器的リビドーってのが部分欲動の状態なわけだが
小笠原はきっぱりと「分析家になることすなわち精神分析を終わりまで行うこととは、前性器的リビドーの様態となることである」と言っておる
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とはいえ多くの人が性器的リビドーとされる精神様態であるのは事実で
まぐなの言で言えば「死という苦痛を避けるのが人間」ってのがほとんどであるのも事実
それはなぜか、と言われたら
「たまたまそうなってる」としか答えられない
これは宇宙物理学で言う、「なぜ地球は今のような軌道になったのか」という問いに対して、他の多様な恒星系の研究も進んだ現在では、
「たまたま今の軌道になった、としか言えない」というのと同じ
地球の今の軌道とか、地球一個分内側にあっても外側にあっても、そのときにおける地球の気温をはじめとする環境におい生物はほとんど生きられないって計算になるんだね
まあなんかいまは極限生物とかって議論もあるけど
これが地球外生命体の論拠にもなっているのがおもしろい
エウロパとかは地球と似てて生命が存在する可能性がもっとも高い星だと言われているが
そこで仮に生物がいたとしても、地球上においては極限生物と言われる生物であろうよ
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あとタイタンだっけか、メタンの海
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ちなみにガンダムとかではコロニー落としで地球の軌道半径がほんのすこーし短くなった(公転周期が0.1秒ずれた)とか設定になってて
それで気候変動で人口が半分になったとかって設定なわけだが
これとか楽観的な予測にすぎないという意見が専門家からはあったりする
アニメを物理で検証するスレなつい
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なぜ快感原則や幼児的万能感と呼ばれるような傾向があるのか、は、地球の軌道と同じく「たまたまそうなってる」としか言えない
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あるって書いちゃったけど、「そのような仮説が生まれるのか」ってにしておこう
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ちなみにいまはNASAですら火星に生物がいた可能性を公的に認めている(今現在において火星に生物はいないと推測する立場ではあるが)
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まあ幼児的万能感なり母子カプセルなりってのはあくまで仮説であるわけだが、仮説を立てて研究するというやり方は否定しないんだな
いくらラカンやフロイトが「臨床上実証されなかった」と言ってても
だけどそのときは少なくとも精神分析、特にラカン派の理論ではない理論を援用すなければならない
認知科学とかならいんじゃね
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ちなみに最近ガンダムづいているのはこないだMSイグルーを見て(当然無料動画です)うわおもすれーと思ったからである
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「いつでもどんな場合でも苦痛なことを避ける」ってのは「お月様にはうさぎがいる」と同じような命題にすぎんのだよ
今現在月にうさぎがいるのは発見されていないから、今の科学は「お月様にうさぎはいる」という要件を取り入れて学説を組んでないわけだ
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まあなんだアポロ計画みたいなのがまたはじまって宇宙飛行士がうさぎを抱いて月に着陸したらどうかわからんがな
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気圧差でうさぎ破裂したりすんのかな
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極限環境生物、か
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ちなみに月にうさぎがいるってのは月の模様がうさぎが杵をついているように見えるということから来たそうだが
わたしはその話を聞いてから月の模様を見て「あ、こういう風に見てるのか」とわかったタチである
それまではそう見えなんだ
小学生だか幼稚園だかのころ月が出てる絵を書いて月の模様とか書き込んで先生から条件付きで褒められたことがあるんだが
全然うさぎが杵ついている形とか思わなくて書いてたしな
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あれだ、心霊写真とかでマルとかつけてもらって「あ、こういう風にして顔になるのか」とか気づく感じ
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ラカン派の常套文句として「つねにすでに」ってのがあるがわたしは「最初からいままでずっと」とか言い換えているが
何かもっとすっきりした言い方ねえかなあと思う
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性関係は、最初からいままでずっと、存在しない
とかな
でフロイトは性関係の最初として乳児が母の乳を吸うイメージを設定し、その状態が他の心理学の言う幼児的万能感なわけだが
ラカン理論が「幼児的万能感は存在しない」とするのは、「性関係は、最初から、存在しない」ってことなわけだな
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今日のぐぐる麻原彰晃かと思った
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>>81
うさぎパーン(´・_・`)
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>>58
「苦痛なことを避けるのが人間だとも思えてしまう」、だがまあ俺はそうではないけどな、というニュアンスは含んでいるな。
だがミニハンも「合意の快楽を喜ぶのが大概の神経症とかいう」表現使わなかったか。確かそんないい方だったと思うが。
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勿論苦痛なことを全部引き受けるでもないが……。
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>>89
うんそう
合意の快楽ってものがあるとするならば、その根拠は幼児的万能感である
わたしもブログで「幼児的万能感、φがないとするのはどうだろう」という主旨の文章を書いたことがある
しかし、合意そのものが存在しないとすればどうだろう
そもそも合意というのが、幼児的万能感という幻想あるいは快感原則という仮説を元になり得る幻想ではないか、となる
そこまで徹底しきれてないわたしのある部分もあるな
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でそれはわたしのペニス妬みだとわたしは解釈している
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でもまあ確かに「幼児的万能感を大人になっても引きずっている」と表現せざるを得ない主体もときどきはいるからな
例のyomaくんがそういうタイプ
もう一人精神分析をやっている人がいたが、その人と「彼は倒錯か、精神病か」という議論をしたことがある
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幼児的万能感とかいうが、それは良く言えば「前向きな人」だったりするからな
人間が「前向き」において「前」とするのは欲望が成立することが前にあるわけだ
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記号まとめ
Φ(大文字のファロス) → 父と表裏一体の幻想、父とこの幻想によって抑圧が成立する。抑圧されることに対する不安が他の心理学が言う去勢不安。
-φ(小文字のマイナスのファロス) → ラカンがΦのシニフィエと定義するもの。ペニス妬みやハンス少年の恐怖症が当たる。小笠原はこれを去勢不安とする。
φ(小文字のマイナスの取れたファロス) → ラカンが記号化しなかったもの。幼児的万能感とほぼ同義。多くの人間が「抑圧されるもの」として考えるのはこれ。
φbarre(取り消し線を引っ張ったファロス) → 小笠原固有の記号だが、「性関係は存在しない」「死」などというタナトスを示す記号。
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で誰だっけアセの相棒のネカマ
あの人とか女は症状として-φつまりヒステリーであることが多いが
彼女なんかはφだったわけだよ
彼女は赤ん坊の要求を母親は感じ取ってそれを与えるという考え方をしていたが
彼女がそう考えることが彼女自身の幼児的万能感を根拠にしているわけだな
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普通、性同一性障害だとかゲイだとかはヒステリーの構造を有するものだが
ネカマや女装癖などは女の格好をしてφをだだ漏れさせるわけだな
ヒステリーあるいは女ってのは幼児的万能感に対して妬むのだよ
わたしが彼女をそれをあげつらったのも、わたしのペニス妬みだったであろう
そしてわたしはこういった煩悩に対する嗅覚は鋭い
彼女の煩悩は男がするような煩悩だった、と言える
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つかアスペたちの方がもっと敏感だと思うけどな、煩悩に対する感度は
わたしは精神分析理論というデータでアップグレードしてるから細かく分析できるが
現代のレーダーっていうのもレーダー探知した信号をどう情報処理するかがレーダーの精度を挙げたりしている
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レーダー探知そのものの精度は変わってないんだけど、探知された信号のノイズ除去したりして内部の情報処理で精度を高めるんだな
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ペニス妬みの方が簡単な話ではあるんだよ(治療が簡単という意味ではなく)
お前が妬んでいるペニスは幻想にすぎず存在しないんだよ、って話だから
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