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2018/4/22「死の意味 Meaning of Death」

1ウラサキ:2018/02/12(月) 03:30:37
昨年5月、京都大学でサディアス・メッツ教授(ヨハネスブルク大学)の Meaning in Life に関する講演を聴講した際、
質疑応答で聴講者の一人から「Meaning of Death というのも重要ではないか?」という質問がなされ、まさにその通りかと思いました。
他方、ハイデガー『存在と時間』読書会でも丁度「死の実存論的分析」の箇所が扱われ、
大森荘蔵や永井均も敢えて避けてきたように見える「死」の問題もそろそろ取り組むべき時期かと思い、提案させて頂きました。
哲学カフェ的な自由討論形式で、
「自分の死は世界の終わり?」
「もし、人が死ななかったら何が困る?」
「平均寿命、何歳まで伸びればいい?」
「良い自殺、悪い自殺」
「安楽死したい?」
「死刑って必要?」
 などの論点を想定していますが、勿論新たな問題提起も歓迎致します。

2横山:2018/03/18(日) 23:25:50
アンチナタリズムから引き続き「生」と「死」がテーマになるので、とても楽しみです。
ウラサキさんが示してくださっている論点の「私の死は世界の終わり?」に入るかも知れませんが、
僕が興味あるのは、
「私はどのような意味でなら死に得るのか、その「死」と『無』と『不在』、可能世界と実在世界と現前の世界などはどう関係するか」
です。

例えば、仮に僕が死んだあとに死後の世界があって意識が残ってたとして、そのような意識がある状態を「まだ生きてる」と呼ぶとするとするとして、そのような「まだ生きてる」でもないような本当の死が世界の中には在り得るとする捉え方はあるか?を考えたいです。
あるとする立場をとるとすれば、それと「実在」や「可能世界」や「現前の世界」とどう関係するのか?そのとき「不在」と「無」との関係はどうなるのか?
またもし、私の死が無いとする立場をとるのであれば、それらとの関係はどうなるのか?
など、僕はその辺りを少し考えてから来月の会に望みたいと思っています。
死の捉え方として、ムラタさんの言ってた「無」と「不在」の二つが考えられることももちろん思索してみたいと思います。

よろしくお願いします。

3ウラサキ:2018/03/19(月) 05:00:13
横山さん、

まさか「死後の世界」が実在するとは思って無いですよね?
反実仮定の思考実験よりも、現実にありそうなことに時間を割く方が実り多いかと思うのですがいかがでしょう?

4横山:2018/03/19(月) 05:27:47
ウラサキさん、

死後の世界に残るような自我意識なんてものも含めて一切の意識が無くなるような死を、考えたいと言いたかっただけで、死後の世界を検討したいと言う訳じゃないんです。それなら、よろしいでしょうか?

5横山:2018/03/19(月) 07:24:18
ある意味においては「私は死ねない」という言い方ができるだろうし、ある意味においては「私は死ねる」という言い方ができるだろうけど、それはそれぞれどういう意味かを考えたいってことです。

6横山:2018/03/19(月) 08:41:06
いや、別に僕が勝手に考えたいと思ってるだけですので、あまり気にしないでください。

7ムラタ:2018/03/19(月) 09:43:02
>>1
で挙げられている「自分の死は世界の終わり?」って大きな哲学的テーマを秘めていると思う。
世間的な常識では「自分が死んでも世界は終わらない。このまま続いていく」ですが
哲学を勉強した人ほど「自分の死はすなわち世界の終わり」と考えたがる傾向にあるように思う。

個人的な意見を述べさせてもらうと、僕も哲学を読んできた側の人間なので後者のいわんとすることはぜんぜん分からないでもない。けれど、世界をそんな自己完結的なシステムだとは考えたくはない。「自己の死=世界の終わり」と言い切ってしまうことに強い違和感を覚える。「自分が死んでも世界は終わらない」という素朴なこの感じを簡単に捨ててしまいたくない。私という世界をと通ずるフィルターがなくなっても世界そのものは普通に存続するという気がする。
もしこのテーマが取り上げられるのなら、この気持ちを少しでもうまく言語化され整理できる機会になればいいと思う。

8AD:2018/03/19(月) 10:40:13
自分の死:
以前、決して死ぬことができず永遠に生き続ける世界を描いた書き物(確か、主人公の乗る船が難破して流れ着いた島の住民が皆うつろな絶望的な表情をしているので訊いてみると、その島では死ぬことができず永遠に生き続けるとのことだった云々、というあらすじです。書籍?の詳細は忘れました。)に接し、安堵と同時に暗澹とした気分に。
また、個人的に賭け事をしない(興味もない)のですが、この問題に直面すると、決定的に重要なことなのではないかと最近思っています。
当日はこんなことでもよろしいでしょうか。

自分以外の(動物も?)死:
ベネターではないですが、死に行く過程でできるだけ苦痛のないように祈るばかりです。

9横山:2018/03/19(月) 16:09:05
ムラタさん、

>>7
僕も「私の死は世界の終わり」かと考えていたのですが、よく考えるとそれもおかしいように思うようになりました。

それというのは、「死が世界の終わり」だというときの「私の死」は、昨日の話でいうと「不在」でなくて「無」をイメージしてると思うんです。それが単なる「不在」としての死なら世界が無くなるわけがないからです。

しかしまた、それが「無」だとしたら、「世界が終わる」と言い切ってしまうのは変なことになりますよね。それは「在るのでも無いのでも、終わるのでも終わらないのでもない」はずのものだったからです。

どうでしょうか。

10はじ銀:2018/03/19(月) 20:05:53
先日のベネター会は途中からツイキャス参戦していましたが、大変白熱していて行けずに残念でした。

死について。
死は世界の終焉というのはよくわかる話ですが、僕的に少し考えてみて、死というのは僕と世界との関係性を変容させるものである、というのはありかなぁと思いました。
さしずめ今の僕の場合は、死は僕と世界を無関係にさせるものである。といえると思います。僕の死後の、この世界には何の興味もありませんし、特にそこに重大な関心を寄せることも今ところ無さそうです。存在論的な観点からだと世界が存続しているかどうか、無関係なので問うことも出来なくなりそうです。ということは、無関係というのは意味論的なところで言っていることになりますね。
世界という時は大方生ける者がある世界を言っていて、そこに死というものが何の影響も与えないというのは少し考えにくい。かといって、死の瞬間から無くなってしまうと言うのもまたおかしな話しで。
そうした時に死によって「関係性が無くなる」というのは割と的を射た表現ではないかなぁと思いました。死後の僕がどのような有り様であってもこの表現は変わらない。

11ウラサキ:2018/03/19(月) 21:56:04
「自分の死は世界の終わりか?」のリトマス試験紙の一つは、

「死んだ後、人類滅亡してOK?」かと。

因みに、私はYES!です。

12久保共生:2018/03/19(月) 22:25:28
横山さん

>「死が世界の終わり」だというときの「私の死」は、昨日の話でいうと「不在」でなくて「無」をイメージしてると思うんです。

私の死は私という主体の「無」を意味しますが、世界の「無」を意味するとは限らないのではないでしょうか。
私という視座は「無」に帰しますが、他者の視座はそのまま残るとは考えられないでしょうか。
僕としては、世界が「無」となるのは(つまり世界の存否を問うこと自体が無意味になるのは)、人類が滅亡したときだと思います。

13久保共生:2018/03/19(月) 22:30:00
ウラサキさん

>「自分の死は世界の終わりか?」のリトマス試験紙の一つは、「死んだ後、人類滅亡してOK?」かと。

「自分の死=世界の終わり」というのと、「自分が死んだあとは、他の人がどうなろうと知ったこっちゃない」というのとは、意味が違うと思うのですが。
僕としては、前者には同意しませんが、後者には同意します。

14ムラタ:2018/03/19(月) 22:44:26
>>11
ウラサキさん

「死んだ後、人類は絶滅してOKか?」という問に「yes 」と回答している時点で実は自身が死んだ後も世界が存続すると認めてると思うんです。
だって、その問は死んだ後も世界が存続するという前提がないと成立しないからです。
死んでその瞬間に世界がなくなるのなら後で人類が滅亡するなんてことはないですからね。
だからその問に「yes」とか「no」という有意味な回答を与えているということは、世界が死んだ後も存続すると暗に認めている。
真に死んだ後に世界がなくなると思っている人は「死んだ後、人類は絶滅してOKか?」という問に対して「死んだ後世界は終わるのでその問自体が無意味である」と答えるしか無いと思うんです。
だからその問はウラサキさんが考えるようにリトマス試験紙にはならないと思います。

>>9
ごめんなさい、ゆっくり考えてから回答させてください。
大した回答もできないかもしれませんが。

15夫 正彦:2018/03/19(月) 22:53:21
アメリカの鑑識員の本を読んでたら、首つりをしながらオナニーをする人がいてて、死ぬつもりはなかったのに
間違えて死んじゃったという人がいてるそうです。面白いのは、なぜかその場面を自撮り動画として撮影してた
そうで、鑑識員の”良い”教材になっているみたいです。

こんな風に、恥ずかしい死に方をしても構わないかどうかも死をどう考えるかの試金石になるかも。

例えば、女装して、肛門にネギを突っ込みながら死ねるかとか。

すいません、下品な話で。

16横山:2018/03/20(火) 01:03:51
久保さん、

>>12の話はなんとなく分かりますが、僕の話とはあまり関係ないようにも思います。
僕は「私の死が世界の終わり」であるときの「私の死」について、それは「無」だと考えられるのではないかという話をしました。
一方、久保さんの話は「私の死が世界の終わり」でないときの話ですよね。
ですから、それはどちらが正しいとか間違ってるとかいう話にはならなくて、単に違う話なのではないかと思われます。

17横山:2018/03/20(火) 01:29:58
それから、
「私の死が「無」でも世界が残ってる」とする場合、その記述は、世界把握の視点があっちいったりこっちいったりしてる文になってるんじゃないでしょうか?

つまり、「私の死が「無」だ」というときには「意識のないはずの私の視点において私の存在はナンセンスだ」という話であり、
一方、「世界がある」というときには「意識のある他者の視点において世界は有意味に存在する」という話ですよね。
でも、それって結局は「私の死」を考えようとしてるときの話のはずだから、実は「私」の世界把握の意識がありながら無いとするような矛盾する想定が隠されているのではないか、と疑われるのですが、

どうでしゃうか?

18ウラサキ:2018/03/20(火) 04:00:22
なるほど、私を含め殆どの人は、独我論者でなく、
何らかの形で自分の死後も、世界の存続を想定しているという事ですね。

その場合は「自分の死」は「無」ではなく、主体の「不在」と捉えた方が適切では?

19はじ銀:2018/03/20(火) 07:45:47
生前は世界に対して働きかけが出来て、且つ世界からも働きかけられる。
しかし、死後にこの世界に対して働きかけが出来なくなるが、しかし働きかけられ続けるように直感的に感じる。
もちろん、死者に対し働きかけなんて出来っこないのですが、でも生者の直感的な感覚ではそのように感じる。この双方向性の喪失が死への恐怖の一つの原因なのかなと思いました。
だから恥ずかしい死に方は出来るだけしたくないし、ハードディスクをレンチンして使用不能にしておきたいと思うし、残された人の為に生命保険を掛けておいたり。この死によって失われる双方向性をなんとか最小にしようとする。
「死」と漠然と言っていますが、そもそも何が失われるのか。この辺はもう少し明確にしておかないといけないポイントかもですね。

20はじ銀:2018/03/20(火) 07:51:36
>>19
しかし、死後にこの世界に対して働きかけが出来なくなるが、しかし働きかけられ続けるように直感的に感じる。
もちろん、死者に対し働きかけなんて出来っこないのですが、でも生者の直感的な感覚ではそのように感じる。この双方向性の喪失が死への恐怖の一つの原因なのかなと思いました。

これはシンプルに生者に自身が完全に喪失した状態というのは想定しにくいし、感覚的にも捉えにくい、というぐらいの意味です。

21夫 正彦:2018/03/20(火) 08:40:46
環境問題とかどうでしょうか。地球温暖化とか。

自分が死んだら”無”になるとか、死後の責任はない、とするなら、地球温暖化を防止する
という動きに対して、反対しないといけないですね。自分が生きている間にその問題に対して
使われるお金は、まったく無駄ですし。

その他の政治体制へのかかわりに関しても、自分が生存しているであろう期間の範囲でしか
考える必要はなく、また、生命保険とか遺産とかについても考えなくてもいい。

22ウラサキ:2018/03/20(火) 12:27:48
夫さん、

内心では「環境問題とか地球温暖化なんてどうでもよい」と思っていても、
それを口外すると、社会的に軋轢を生むので、適当に周りと話し合わせてる、
ってケースが多いのではないでしょうか?

ただ、生命保険や遺産(や葬式や墓)については、
昔と違って最近は割と不要論を公言する人が増えてきたと思います。

23横山:2018/03/20(火) 13:26:51
9での僕の「無」という言葉の使い方が荒っぽかったので、混乱の原因になったかとしれません。

僕の理解においての「無」では、「私の死は『無』」なんて全く何の意味もないので、「私の死が無であれば」などという話では、有意味な話が成立しにくいです。

僕は、「無」や「不在」というのは存在に対する捉え方を示すもので、人の認識に関係なくそのもの自体が「無」であるとか「不在」であるというものではないと考えています。

存在を表す世界記述な風を装いながら実は真理値を持たず世界像になり得ない擬命題によって示されているものが「無」だと考えているんです。
ウィト「論考」で、命題の真偽と世界とがフィットしてるかどうかを比較して、その像の意味を決定させ得るという言語システムがありましたが、その言語観ではもともと真理値がない文をunsinn(ナンセンス)としていました。ナンセンスな文は世界の像ではないので、世界記述としては何の意味も持ちません。そなような、存在に関する風でありながら実は何も語らない文が何も語らないものであることを示すのが「無」だと、僕は考えてます。

例えば、死者が自分で自分の死をどう捉えているか、なんて問いは、どうやってその真偽を確かめたら良いかが分かりませんので、真理値のある有意味な答えがあるわけありません。ですから、「『死者本人にとってのアクチュアルな死』が存在するか」という文はナンセンスで、「死者本人にとってのアクチュアルな死」は「無」だと考えます。

(ムラタさん、これは僕の勝手な「無」の解釈なので中島義道の「無」と違うようだったら指摘してくださいね。)

一方、存在の否定によって非存在が語られ、それが世界とフィットするかどうか真偽2値によって確かめられ得る命題は、その対象が存在しない状況が正しい世界記述であることを有意味に示します。これが「非在」に当たると思います。
「私の死のあとに人類が滅亡しても世界は残っている」という文は実際に世界と比較してその真偽を出すことはできないですが、将来その場になったときにどうやって確かめたら良いか確かめ方は分かります。
ですから、真偽不明ではありますがその意味では有意味な文だと言えます。
そのようなものとして、私の存在の否定を確かめ得るような非存在の意味での私の死を「非在」とすると、考えます。
なので、「私が死に人類が滅亡したあとでも世界そのものは在るようなものとしてとらえた場合の、私の死」は、「非在」になると思います。

つまり、この捉え方では、「私の死が『無』だ」というのは、「私の死に関する言明には真理値がない」を意味することになります

なので、その死を「無」だとしてしまうと、もはやそこから何一つ結論を出すことができなくなります。

こう考えて、
「私の死が『無』であれば、私の死は世界の終わりである」というのは、僕の理解では、「私の死に関する言明には真理値も意味もないのであれば、それは世界を意味する」を意味することになり、明らかに偽の命題になる、と思われます。


というわけなので、

そこから何らかの導出を始めるのであれば「私の死を『無』とするのであれば」は使わない方が良いように思われます。
どうでしょうか。

24横山:2018/03/20(火) 13:35:33
それで云うと、
「無」なんて、別に何の便利もない語のようにも思えますが、

「生まれてきてない子どもが感じている苦痛は、無である」

などという言い方をするときにはある程度は便利であるよう思えます。

25ムラタ:2018/03/20(火) 22:55:01
「無」と「不在」という言葉の使用について混乱が見られるようですね。
それはどこから視点の話なのかがわかりにくいためかと思われます。
僕としては(〜にとって)という言葉を明記すればこの手の混乱は避けられると思うのですが。

例えば
>>23の横山さんの書き込みについて

>「私の死が『無』であれば、私の死は世界の終わりである」というのは、僕の理解では、「私の死に関する言明には真理値も意味もないのであれば、それは世界【の終わり?ですよね】を意味する」を意味することになり、明らかに偽の命題になる、と思われます。

の最初の部分は
「(死んでしまった私にとって)私の死が『無』であれば、私の死は世界の終わりである」
と補足すると少しわかりやすくなると思います。

26横山:2018/03/20(火) 23:39:51
ムラタさん、
ありがとうございます。【の終わり】抜けてました。

>「私の死が『無』であれば、私の死は世界の終わりである」というのは、僕の理解では、「私の死に関する言明には真理値も意味もないのであれば、それは世界【の終わり】を意味する」を意味することになり、明らかに偽の命題になる、と思われます

確かに「にとって」があれば分かりやすいと思いますね。
ただし、それでもやはり「存在してないものとしてあるもの」と「ナンセンスになって存在を語れてないもの」の違いをいちいち確かめてもらうしか無いのかもしれないとも思います。

27横山:2018/03/21(水) 14:03:13
「自分の死後はどうでも良い」という感覚は、僕にはどうもよく分かりません。

前にも言いましたが、生とは希望や失望と向き合う冒険でしかあり得ないというのが僕の生の捉え方なのですが、
その捉え方をしてもやっぱり3分後の自分の存在も100年後の他人の存在も(多少の程度の差はあるにしても)同様に共感できる同様の希望や失望になるように、僕には思えます。

世界には、様々な意識主体が存在し、それぞれに某かの世界を開闢しているとすることもできるでしょう。
でも、その様々な開闢世界のなかで、現実に「この私」が世界を開闢している「アクチュアル」な世界はひとつしかありません。
「この私」ではない他者や過去や未来の「私」が開闢するその他の多くの開闢世界はすべて「バーチャル」な世界でしかないと言うこともできるでしょう。

それでも、この現在のアクチュアルな私が、実際に55年間を「現実」に生きていたと解釈するには、この55年間の過去の私が開闢してきたバーチャル世界のすべてが実際に「アクチュアル」な現実で「あった」と解釈しないと、僕はせっかく生きているこの生を真に豊かな質に充ちたものとすることができないと思います。
同様に、未来の私が開闢するバーチャル世界も、実際に「アクチュアル」な現実のものと「なる」と解釈しないわけにはいきません。

でも、よく考えてみると過去の私や未来の私が現在の私と魂によって繋がっている必然性なんてありません。おそらくは「現在の私」なんてものは私の身体的な神経回路の一瞬の発火に過ぎず、3秒後の神経回路の発火とは物理的な繋がりはあってもそれ以上の神秘的な繋がりがあるとは思えません。

しかし、僕は、上の世界モデルでもって、受け入れる必然性のなかった「過去の私」や「未来の私」の意識を積極的に受け入れることによって、自らの生を、自分で豊かにできるように思われるのです。

だったら、同様に、受け入れる必然性の無い「他者の私」の意識も積極的に受け入れることによって、さらに自らの生を豊かにすることができるようになるのは、明らかだと僕には思われます。

当然、自分の身体の死後の「他者の私」であっても変わらず、私の世界を豊かにしてくれるものだと思えます。


そう考えると、自分の身体の死後の世界を無関係なもののように解釈するのは、現在を粗末にしてしまうもったいない解釈だと、思われて仕方ないのです。

28ムラタ:2018/03/22(木) 11:36:42
>>27
横山さん

まだ前の問いに答えられていないのですが、ちょっと質問させてください。

横山さんのその考えは、例えば「今生きている横山さん」にとって「50年前の横山さん」と「横山さんでない他者」との関係性が同質であるということになるんですか?

でも僕としては、「今の横山さん」は「50年前の横山さん」との連続性を感じていて、「横山さんでない他者」とはちょっと違った関係性を感じられておられると勝手に思っているんですが。
そのあたりの整合性はどう考えておられるんですか?

29横山:2018/03/22(木) 17:25:50
ムラタさん、
50年前の横山の意識の記憶内容には今の僕にも思い出し得るものがありますし、物理的にも連続してると考えられますから、横山ではない他者の意識よりも格段に近親感がありますし、その意識内容も格段に多くのものをイメージできます。だから、それらは決して同等の重みを持つわけではないです。
でも、僕が今目の前にしているこの世界を豊かにし得るし実際に豊かにしているという点においては、50年前の横山の意識も他人の意識もありがたいことには代わりないと思えます。

30幸福論:2018/03/22(木) 22:21:49
主体は「肉体」で良いですよね
倫理的には肉体は「私」の所有物ですが存在論的には肉体の機能の一つが意識であり
意識の一つの機能が「私」です
「私」が主体であるとか、主体的に機能しているということは無いですよね
「私」は睡眠中すら現れることを休止します

「私」の連続性より肉体の連続性のほうが根源的でしょう

そうすると、私の肉体は時間のなかでしか存在できません
私の生まれるま絵にも、生まれた後に世界は意味を伴って存在しているわけです

一方、人間の根は肉体です、この肉体が滅びるならほかのことの重要性など
この肉体の表出物のひとつである「私」にとって物の数ではないでしょう

After me the deluge. 「わが死後には洪水よ来たらば来たれ;あとは野となれ山となれ」.

はどんな人間にとっても共通の感覚だと思いますね

31横山:2018/03/23(金) 08:02:00
幸福論さん、

主体が肉体だという捉え方はとてもユニークだと思いますが、そういう考え方も許されるだろうとも思います。

でも、肉体が豊かな精神生活を送るためには、肉体の内部に意識活動があることが論理的必須であるように僕には思われます。
また、肉体が豊かな精神生活を送るためには肉体の外部が必要であることも疑えないように僕には思われます。外部世界と内的意識の接触ややりとりによって生活は豊かにない得ると。
また、その外部との接触ややりとりは単なる現在的で直接的なものだけでなく、過去の記憶や想起とのやり取りや未来への想像や展望希望とのやり取りにおいても意識生活を豊かにし、引いては肉体としての主体を豊かにすることは疑えないように思われます。

そうだとしたら、未来世界と現在の肉体の無関係を問うて「あとは野となれ」と言えるのは、現在から決して想定できないような、物的想定の外部としての未来に関してのに許されることではないかと、僕には思われます。

32幸福論:2018/03/23(金) 08:31:33
横山さん

いま皆さんが話しているのは
「自分の死は世界の終わり?」というトピックについてかと思います

33横山:2018/03/23(金) 09:33:25
無関係だと思われたら読み捨ててください

34幸福論:2018/03/23(金) 20:17:06
精神活動は肉体の活動の結果としてのみ存立するものです
精神活動の機能の一つが「私」という自我意識です
精神や私が主体として世界の中に存在することは出来ないと思います

「私」が主体として機能していない、ということと「私」が統覚上の主語として認識されるという事は
別の事柄だと思われます

35幸福論:2018/03/24(土) 07:55:38
例えば、何か欲望が意識に生じたとしましょう
これは他者に対しては、この欲望の在処を示すために「私が」欲したというしかありませんが
欲望それ自体は身体からあるいは脳から生じるわけで、「私」という自我意識は
そこから何物も発しないが、常に意識に生じるものの最も近くにあるから「主体」であると
錯覚されるのだと思います
この錯覚は個体ごとに現れ、個体維持にとっては重要な機能なのだと思います

36横山:2018/03/24(土) 09:32:10
幸福論さん

主体を考えるためには、肉体や脳から意識が生じているとする前提をおくことが必須であると言われているように思われますが、そういうことですよね。
でも、本当にその前提は主体にとって本質的で必須なものなのでしょうか。
その前提のさらなる前にある主体論というものを作ることは不可能でしょうか。
僕にはある意味で十分可能に思われます。

37幸福論:2018/03/24(土) 09:53:43
意志や欲望を世界像の中で自覚し他から働きかけられ他に働きかけるような存在は
時間の中において、生きて認識する、つまり肉体と脳をもった存在に限られるということは
まず異論は出ないのではないかと思いますが

38横山:2018/03/24(土) 10:09:24
言われていることは分かりますよ。幸福論さんが問われている問い方は、それはそれでとても意味のあることで否定しません。
しかし、それだけが唯一の問い方だと言われると、それは違うと思います。
例えば、馬鹿げた話ですが、死後の世界での意識体験のようなおとぎ話的な「命」を哲学的に問うとこも、必ずしも無意味だとは限らないと思われます。

39幸福論:2018/03/24(土) 10:17:50
横山さん

そういう話は嫌いではありません
あるのかもしれないのかなと自身の体験もあり結構思っています
でも万人の共通認識ではないと思います

まず万人の共通認識、共通認識にすることが可能、な部分での議論が先かと思います

40幸福論:2018/03/24(土) 10:32:50
自身の体験といっても自分が臨死体験をしたということではありません

41横山:2018/03/24(土) 21:30:04
幸福論さんが言われるような、主体は肉体に由来するもののみに限定して考える、とする前提を受け入れるとしても、「後は野となれ」となることは必然にはならないと思います。

「私」が肉体そのものだとしても、他者の肉体にはそこに独立の他者の主体があることを認めないと、人間関係が面白くないし恋愛しても面白くないし損ですよね。それは、損だというだけではなく、合理的でもありますよね。
他者が存在することが私のこと肉体と物的にも関係するのは、当然の話だと思われるからです。
それは、その他者が私とは独立の存在だという規定ですから、私が眠っていたとしても、それとは独立に存在する意識体だと捉えるべきですよね。
つまり、私の意識とは独立に存在する他者の主体を認めることは、私という存在にとって得な話であり、合理的であり、必然的だってことです。

そしてもし、それを認めるなら、
私の死後に存在する他者を「想定すること」は、現在の私の肉体としての主体に物的に影響すると言えることになり、私の死後に存在する他者を想定することが私にとって、得な話であり合理的であると言えることになりそうです。
そしてそれは、私が死んだ後も他者が存在するものであることを私が想定することは、必然的なものだとすることでもあるように思われます。

そうであれば、他者の肉体は他者の主体だと認めるなら、「私の死後は野となれ」と言えるとは限らない、と言えることになると思われます。

42幸福論:2018/03/24(土) 22:41:07
横山さん

言いたかったのは
己の死後ももちろん世界は存在しますが
肉体の滅亡は己にとって数々の災いの中でも最も忌むべきことの一つであるということです

43幸福論:2018/03/24(土) 22:52:29
その災いの最中にあって己の経験しない未来の出来事に対する関心など全くなくなるかもしれません

44横山:2018/03/24(土) 23:13:52
幸福論さん、

自分の肉体がなくなることに強い関心があって、その後のことには興味がないという人が居ても良いと思いますし実際に居ると思います。
その点については、否定しません。
僕が否定したいのは、自分の死後にあまり興味がなく後は野となれと思うことが、「どんな人にも共通の感覚」だってことです。自分の死よりも子どもの生存に強い関心があり、自分の肉体の滅亡よりも子どもの将来的な生き方の方をより心配する、という人はずいぶんな割合で居てると思いますから。

45幸福論:2018/03/24(土) 23:23:19
多かれ少なかれ誰でもあるでしょう
全くない人などいないと思います
人間自分の中で相反する動機を平気で持ってるものですよ?

46横山:2018/03/25(日) 00:04:32
「後は野になれ」が「どんな人にも共通の感覚」だ、とされたのは、だれでもそのような感覚を「多少」はもってるってことであって、
自分の死後には人類が滅亡してもどーでも良いということが、必然的に誰もが共有する唯一の価値観だ、ということを言われたわけではないってことですね。

それなら、分かります。

47横山:2018/04/07(土) 19:12:15
ビーガンの話では動物の置かれた非人道的環境を考えるという点では理解できる部分や賛同できる部分もあったのですが、アンチナタリズムの話ではやはり、「生まれないことがなぜ苦痛の回避になり得るのか」という点において全く理解できなかったので、その主張に賛同できる部分は一つもないままでした。

でも、亡母が苦しみながら死んだときに僕は見ていてほっとしたのも事実です。「死」の意味を考える上で、不在と無と回避を考えてみたいと思ってます。

48はじ銀:2018/04/07(土) 20:56:58
アンチナタリズムにとっては回避、というのも違うのでしょうね。回避には主体が必要なので。(この辺はもう議論済んでいるかもですね)
しかし死は主体の存在する行為です。例会ではその社会的な側面ではなく、個人的な部分と、現象としての死を考えたいですね。

49ウラサキ:2018/04/08(日) 12:58:52
中島義道『「死」を哲学する』を読み、
その中の「第5日 不在と無」で解説されている内容を私なりに理解した所では、
「〜が無い」という特定の対象が無いことを「不在」、
認識主体である自分が死んで、全く何もなくなった状態を「無」と呼んでいるようでした。

ただ、こういう「無」の濫用はあまり好ましくないと個人的には思います。
中島氏自身も同書でヘーゲルや西田幾多郎の「無」の濫用を批判していましたので、
以て他山の石となすって感じです(^^;)

50幸福論:2018/04/08(日) 15:42:39
不在と無ですが
人間について言えば不在の数十年の延長が無ですから時間な違いがあるだけのように見えますね
量的な問題に期することができそうに思えます

51横山:2018/04/08(日) 17:40:13
僕の捉え方とウラサキさんや幸福論さんの「無」の捉え方は違ってるようです。例会では「無」という言葉の使い方には工夫が要りそうに思います。

52ウラサキ:2018/04/18(水) 04:07:06
中島義道『明るく死ぬための哲学』〈文藝春秋)を読んでいます。
第一章「古稀を迎えて」は例によって自分語りですが、
第二章「世界は実在しない」に入りやや本格的な哲学議論になりました。
ただ私の苦手な時間論からのアプローチです(_ _;)

53横山:2018/04/22(日) 08:57:48
非常に残念ですが風邪ひいて欠席します。
ツイキャスよろしくお願いします。
記録を残したいので、参加の人数とお名前を教えてください。

54ウラサキ:2018/04/22(日) 17:55:45
今日は初参加の方2名を含む13名の参加で、
且つ全参加者が積極的に発言するという大変活発な会になりました。

反省点としては横山さんが参加されなかったせいか、
当初考えていた「死」と「無」「不在」との関係をあまり深められず、
社会的現状分析に終始してしまった点かと。

やはり哲学的議論を深めるには参考図書を明示して、
予め基礎知識を共有してもっらておいた方が良かったのかも知れません。
次回以降への反省点としたいと思います。

あと、一回の発言が長くなりがちな方も居られるようですので、
何らかの形で発言時間を区切る工夫も必要かな、と思いました。

参加者は、夫さん、久保共生さん、久保史章さん、山内さん(初)、はじ銀さん、西さん、
御館さん、水谷さん、ADさん、JJさん、小川さん(初)、野口さん、ウラサキでした。

55横山:2018/04/22(日) 18:45:24
「死」こそ僕が哲学する意味なので、今日は是非とも行きたかったのですが風邪で行けず、とても残念でした。でもツイキャスで放送してもらえて、十分に議論をお聞きすることができました。
また、書き込みでスピンオフ会っぽいこともでき、それも面白かったです。ずいぶんと沢山の書き込みをしてしまって、夫さんには読み上げる分を選択するのも、読み上げるのも大変だったと思います。でもお陰で、ツイキャス参加のムラタさん、そふぃおさん、横山も含めて計16名での話し合いができた感じになりました。愉しく有意義な参加方法を提供していただき本当に感謝です。ありがとうございました。

ウラサキさん、せっかく、死を考える場を提供していただいたのに、参加できず申し訳ありませんでした。
せっかくですので、この掲示板で、「死」と「不在」「無」について僕の考えを書かせてもらいます。長文になりそうですが、よろしければご覧下さい。

56横山:2018/04/22(日) 18:50:20
さて、「死」については、色々と語りたいことがありますが、やはり、一番興味があるのは、「自分の死とは何か?」「今生きているこの生が終わるとはどういうことか?」です。
これについて、「死」が怖い僕は昔からずっと悩んできて、未だに明確な答えを見つけられていません。
でも、少しだけ自分なりの整理もできました。

今日の話の初めは「独我論」から始まりましたけど、僕はある意味では独我論を肯定しますが別の意味では否定します。
「本当は他者の意識がない」という独我論を否定します。
「私の知覚だけが世界であって、知覚されない外部はない」という独我論も否定します。
しかし、「すでに現れている現れの全てから合理的に構成され得る世界だけが世界の全てであり、その現れと独立で無関係なものは存在することも存在しないこともない」というものが独我論というのだとしたら、それは肯定します。
その現れから構成される世界の中には「私」という存在や「他者」という存在があり、「今」という時間や「過去」「未来」もあり得ると思っています。それを根底において支えているのがいわゆる無内包だと言えるかもしれないです。そういう意味でそれは「独我論」そのものではないですが「独我論っぽい世界モデル」と言えるかもしれません。

57ムラタ:2018/04/22(日) 19:00:07
>>56
横山さん

>「すでに現れている現れの全てから合理的に構成され得る世界だけが世界の全てであり、その現れと独立で無関係なものは存在することも存在しないこともない」というものが独我論というのだとしたら、それは肯定します。

ちょっと質問させてください。
これって、ヴィトゲンシュタインの論理空間のようなものを意味されているのですか?
それから、以前「無」のことを「ナンセンス」とおっしゃっておられましたが、それもやはりヴィトゲンシュタインが背景にあるんですか?

58横山:2018/04/22(日) 19:06:02
この、現象学的な世界モデルで「私の死」とは何かを考えてみます。

1つは、その世界の中に「想定」できるものとして存在する「私」なるものの死です。これを「リアルな私の死」と呼びたいと思います。
この「想定」とは起こり得る可能世界を想定し、現実に起こり起こった実在世界を想定するようなイメージです。その想定によって実在世界の内部に現実に存在することになる「リアルな私」は、過去にも現在にも未来にも想定され実在することができるようにになります。
この「リアルな私」は身体を持ち、その身体に対応した感覚を持ちます。それは当然、死ぬことも可能で、その身体は死体になり感覚を失います。その私が癌に苦しんで居たのなら、その身体はそのリアルな死によって、その苦しみの感覚を感じることはなくなります。感覚を感じる反応を失い、ある意味で苦しみから解放されます。なので、このレベルの話において「安楽死」というアイデアは十分に有効です。
なので、僕は安楽死を否定しません。
ふつうの日常会話で一般的に語られる「死」の多くは、この「リアルな死」のレベルの話だと思います。そのような「リアルな死」について語るのなら、安楽死は十分に語る意味がありますし、実際に僕ももっと安楽死は導入されるべきだと考えています。

ただし、それは、まさしく「リアルな私の死」なのですが、「他人事としての死」でしかないものかも知れないとも考えています。
「リアルな死」は実際にそれを感じる私にとっては、常に未来の出来事か他者の出来事であって、実際に現在や過去の出来事としながら私の死として現れることはあり得ないからです。

これが、いわゆる「不在」としての「死」だと僕は捉えています。

そこで、もう1つ「他人事でない私の死」というものを考えます。いわゆる「無」なのですが、「無」と言っちゃうと誤解されそうなので「無」はいったん忘れてください。

今考えている世界モデルにおいて、その内部に想定されるような「リアルな私」ではなくって、その想定を基礎づけるような、既にある「現れ」自体としての「私」を考えます。それを「アクチュアルな私」と呼ぶとします。「アクチュアルな私」は身体がなくっても存在することができます。身体がなくてもとにかく某かのすでに現れている「現れ」があればもうそこに「アクチュアルな私」があると言えちゃうことにします。そうすると、時間さえあれば空間がなくても「アクチュアルな私」は可能になるかもしれません。
僕が考えている、いわゆる「無」としての「死」は、これの喪失です。

59横山:2018/04/22(日) 19:07:47
でも ただし「アクチュアルな私」は、「アクチュアルな私」だけでは、自分が3分後に出来上がるカップ麺を現実に食べるという想定ができません。「アクチュアルな私」はそれだけでは身体を持てず生きることさえできないはずです。
そこでカップ麺を食べるために「リアルな私」の想定が必要になります。「リアルな私」と「アクチュアルな私」を重ねて世界を捉え直して、「リアルな私」が3分後に味わえるリアルな味を「アクチュアルな私」そのものが味わえるように「なる」ということにしてしまいます。
「私は3分経ったら、3分後の私に『なる』」っていう世界把握は誰にとっても自明の話なのですが、「アクチュアルな私」の「死」を問うためには、その自明なことまでを自明とはしないようなレベルへと掘り起こさないといけないのではないかと、僕は考えています。
私たちはそれを自明と思ってるのですが、その自明の根底で、「私は3分経ったら、3分後の私に『なる』」という想定をなしていて、その想定の上ではじめて、生を享受できるものになったと言えるのではないでしょうか。

そう考えると、私は「アクチュアルな私」でありながら「リアルな私」でもある、とすることによって、生きて行為するものとなり得ています。つまり、「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という、結構無茶な想定によって、私は生を享受できるようになった、と言えることになりそうです。

さて、それでは、その「アクチュアルな私」でありながら「リアルな私」の「死」とは、どう考えれば良いか。
「リアルな私の死」は問題なくあり得る話でしたから、問題は「アクチュアルな私の死」です。
それは、「すでに私が世界の開闢を失ってしまった後の私の喪失」ということですから、明らかに矛盾です。つまり、「アクチュアルな私の死」なんてものはあり得ないはずの概念です。

「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という、ある意味かなり無茶な論理飛躍を受け入れて、私は生を入手することができたのですが、それはその「生」に関するところだけがその射程であって、その「死」はもはや射程外だってことになるのではないでしょうか。なので、その、「『アクチュアルでありリアルでもある私』は3分経ったら、3分後の『アクチュアルでありリアルでもある私』に『なる』」という論理自体を受け入れることができなくなるはずです。

つまり、結論としては、至極あたりまえ当然のことですが、「アクチュアルな私の死」はあり得ない
となるはずです。

そのような「アクチュアルな死」を「無」と呼ぶならば「無」としての「私の死」など初めっからなかったのではないでしょうか。「無」としての「死」に達することなどあり得ないのじゃないでしょうか?
すべての「死」は所詮「リアルな死・他人事としての死」でしかないのじゃないでしょうか?

あるいは、そこでもまた無理して、「「死」とは「無」となることだ」と言えることにしてしまうと言うのならば、その「無」は何処にでもあるものになるはずです。正に今私は死に続けてるとも言えると思われます。

以上です。如何でしょうか。あまりに突飛な話かもしれません。これは例会に参加していても説明できなかったと思いますので、こうして読んでもらえる形で紹介できて逆に良かったかもしれません。
それでも、なかなか理解していただけないかもしれません。

やっぱり、あまりの長文になっちゃいました。ごめんなさい。

60横山:2018/04/22(日) 19:48:21
この話、実はまだ続きがあるのですが、あまりに面倒な話になって、皆さんの興味から離れてしまいそうなので、続きは僕のブログに書くことにします。もしよろしければそちらをご覧下さい

61ウラサキ:2018/04/22(日) 20:03:31
すみません、山内さんは(初)ではなく、西さんが(初)でした(^^;)

62横山:2018/04/22(日) 20:14:48
>>57
ムラタさん、
その通りです。全くウィトの「論考」において、肯定と否定によって構成される論理空間での像として組み立てられるものが、僕の考える「リアルな世界」です。
そして、「世界は私の世界」であり「私は私の世界」であるような「私」が、僕の考える「アクチュアルな世界の私」です。これは入不二永井の言う「無内包」に近いものでもあると思います。

63夫 正彦:2018/04/22(日) 20:18:40
ちょっと言い残したことを2,3。

死への恐怖は人間の本性に根差したものですから、考えることで、その恐怖を取り除けるならそうした方がいろいろな束縛から逃れて
いいのではないか、と考えました。そして、その考える手段を哲学が担うことができればと。

しかし、その恐怖を取り除いた果てにどのような地平が見えるのかが今一つよくわかりません。

理性的に考えれば、死というものは、普通、人が思うよりも軽いもののように思えます。一つの在り方として、人が選択してもいい。
もちろんその選択は理性によってなされなければなりませんが。

64ウラサキ:2018/04/22(日) 20:23:46
横山さん、
入不二永井の言う「無内包」というのは、
日常用語で言えば何にあたるのでしょうか?

65横山:2018/04/22(日) 20:37:01
ウラサキさん、

どうでしょうか。日常用語にあるでしょうか?
無いかもしれません。
繰り返しになりますが、長い表記で説明せざるを得ないように思います。

「いわゆる現象学的な世界モデルで、その内部に想定されるような「リアルな私」ではなくって、その想定を基礎づけるような、既にある「現れ」自体としての「私」」
・・・が僕の考える「アクチュアルな世界の私」でしたが、


「いわゆる現象学的な世界モデルで、その内部に想定されるような「リアルな私」ではなくって、その想定を基礎づけるような、既にある「現れ」自体を「現れ」として根拠付けるような「私」」
・・・とでも言うようなものが僕の理解している「無内包」です。ちょっと違いますが、あんまり違わないと思います。

66横山:2018/04/22(日) 21:08:38
>>57
付け加え。
ですので、
その論理空間を形成する文についての意味で、
〈「不在」は「〜がある」の否定〉
〈「無」は真理値を持たないナンセンスunsinn 〉
として理解しています。

67ムラタ:2018/04/22(日) 21:26:44
>>66
横山さん

ありがとうございます。
横山さんが仰っておられる意味が完全に理解できました。

68はじ銀:2018/04/22(日) 22:12:32
本日はお疲れ様でした。
ここまで哲学感の無い例会も珍しかったのでは無いかと思います、「死」という非常に哲学的なテーマを扱いながら。
会の方ではあまり発言出来る感じでは無かったのと、行われている議論に全く興味が持てなかったのでツイキャスの方で主に発言していた回でした。

僕的には述べたかったがその機会が無かったこととして、
死の恐怖を克服することに哲学は関与出来るか。
この問いに対して、死というの「不気味なもの」性を克服するには死を知るしか無い。死の正体を暴くとでも言いましょうか。
しかし死、それも自分自身の死というのは想定の域を出ないことは自明です。他人の死も参考程度にしかならない。
すると考え、知ることによってしか克服出来ない今日のテーマの不気味なものは人間にとって克服出来るものではないのではないか。
そこでジョーカー的な万能のカード「宗教」というものが出てくるのでしょうけれど。

今日「あの世」の話も少し出てました。これも非常に興味深いテーマだったのですが残念です。
今居る自分が全く消えてしまうと言うのは人間の直感とかなり遠いものです。ですから何かしらの形で残ると考えた方が自然なのでしょう。だからあの世というものが想定されたのだと思います。
直感とかけ離れたものはいくら科学が説明しても「しっくり来ない」のが人間の性です。ある程度は理性で解決出来たとしても何かしら腑に落ちないところが残るでしょう。
寧ろ科学的知見が人口に膾炙すればするほどその限界を知られることになるので、逆にパワースポット巡りが流行ったり、御朱印集めるのが流行ったり、スピリチュアルに興味を持つ人が増えたりするのかなぁと思いました。

69横山:2018/04/22(日) 22:39:18
先程の続きをブログにまとめてみました。
よろしければご覧下さい
本当のアクチュアルな私の死が本当に無い訳と、さらにその外を想定しようとするとどうなるかを考えました
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-c744.html

70AD:2018/04/23(月) 18:43:05
自分自身の死を哲学的に?考えることは結構難しいことが分かりました。思考する出発点である自分自身がなくなるので、それは当然なのでしょうが。そして何も無い状態が未来永劫続くという恐怖だけが残ってしまうのかと。
それに耐えかねて、霊魂だとか、あの世だとか、宗教(的救済)とか、死後の自分自身の拠り所を考え出してそれにすがることになる?
そのほか今日思ったことは、心は物理的に還元できるとする心身一元論も、従来の考え方とは反対にこの拠り所探しのひとつではないかと。というのは、仮に心が物理的要素に還元できたとすると、その解明されたメカニズム?を逆方向に辿れば、死んだ人の心を復元できることに繋がるからです。
次回の例会ではまた心脳論がテーマだそうですが、違った観点から考えられそうで楽しみです。

71横山:2018/04/23(月) 22:07:23
「私」という現象は一瞬間の神経回路の発火に過ぎないという捉え方をすると、「現象学的生死観」も「唯物論的生死観」も一致するのではないかということを考えました。昨日の記事に付け加えました
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-c744.html

72はじ銀:2018/04/23(月) 22:18:22
>ADさん
ご発言こそ少ないですが、いつもADさんのご意見は観点が独創的で興味深く拝聴させて頂いております♪
確かに。唯脳論的な心身一元論も科学的な手法での「不気味なもの」からの防衛と見ることが出来ますし、それも仰るような形で死の克服に繋がる。

73ムラタ:2018/04/24(火) 00:19:57
横山さん

>「私」という物理現象はこの瞬間の神経回路の発火に過ぎないのだから、「私」と3分後の神経回路との間に神秘的な相関などはなく、3分後に発生した意識はある意味で他人でしかない、とも言える。


ここは横山さんがしばしば主張されていることですね。確かに僕らは世界の開闢点たるアクチュアルな「まさに今」を生き、言葉によってリアルな世界を作り上げて生きています。それはその通りだと思います。しかし私の一貫性というものは本当に破棄されるものなのでしょうか?僕はそこにやはり疑問を感じるんです。
僕は「私自体」を立ち上がらせたいと考えています。馬鹿にされるかもしれませんが、僕はカントのいっていた「物自体」を信じています。以前はそんなもの、と馬鹿にしていましたが、今は考えが変わりました。確かにそれは語り得ないものですが、語り得ないといってそれを「存在しない」などとは到底言う気になれないんです。
世界はわたしを触発します。これは横山さんの言うアクチュアルな場面に対応すると思います。そして触発してくる世界を、私は語ることによって、その世界の一端を捉えます。これが横山さんの言うリアルな場面だと思います。触発してきた世界自体は、語り得ないものです。語り得るものはすべてリアルな世界です。
僕は「語らせる世界」と「語られた世界」があると思っています。僕らが捉えることができるのは語られた世界だけです。非言語的な体験は語ることはできません、それが存在することは論証することができない。だってそれは語り得ないのだから。それは、ただ体験するしかない。しかし、それは語り得ないからといって、うち捨てられるべきものなんでしょうか?リアルな私は確かに作り上げられたものです。しかし、リアルな私を作り上げる過去から生きてきた「私自体」というものの存在を僕はどうしても切り捨てる気になれないんです。「リアルな私」は作り上げられたもの、横山さんはもっと強い言葉ででっち上げられたものだとおっしゃっていますが、それとは別に、リアルな私を作り上げる、つまり触発してくる過去から続くある習慣や記憶をもった「私自体」というものがあるだろうと思うんです。
したがって、未来のことはちょっと別の話になると思うのですが、少なくとも過去の僕と今の僕の一貫性というものを、僕は認めてもいいと思う。それは無根拠で論証できないものです。横山さんに言わせると意味不明なものでしかないかもしれません。しかしそれは原理的に語り得ないものだからといってその一貫性は破棄されるものではないと思うんです。
だから結論を言うと、私の一貫性はないものではなく、単に語りえないものだというのが僕の感じです。

74AD:2018/04/24(火) 11:55:29
>はじ銀さん
言わずもがなですが、私は心身一元論派ということではなく、むしろ苦し紛れのある種の救済的な拠り所としてこういう繋がりも考えられるのではないかと。
孔子曰くではないですが、死へ向かう心構えとしてならともかく、哲学的にはこの問題はあまりふさわしくないのかもしれませんが、私個人の関心事(変なこだわり)について書物を読んでいるだけでは分からない一方、皆さんの発言で気付かされることもあり、非常にありがたく思っています。

75横山:2018/04/24(火) 12:25:51
ムラタさん、ありがとうございます。
例会に不参加だった者どうしがこうして書き込みでもって例会のつづきを討論するというのも良い感じだと思います。

「私自体」をどういうものとして捉えるかというのは、ずいぶんと面白い観点だと思います。すごくていねいな捉え方をしないとすぐに溢れてしまいそうなとても危うい「何か」なように感じています。

「私」の一貫性ということについて、時間空間内での物的な存在としての同一性は、複数の時間での存在においてもそれらが互いに同一だとすることはできると僕も思います。また、そこで発生する意識についてもその内容の一貫性連続性などから、ある意識発生と別の意識発生について「aがbに変化した」というようにその間に何らかの同一性があるものとして語ることも可能だと思います。
さらに、そこで発生した意識自身に元々、そのような連続的な意識発生にまるで魂のようなものがあると捉えてしまう「傾向性」があるというのも確かなことだと思われます。

だから、事実認識として我々が継続的連続的な意識発生を貫く某かの同一なるものが「ある」とすることは間違いではないと思いますし、僕もそれをあるとして語ることも多いと思います。

しかし、その「同一なるもの」がアクチュアルな意識発生そのもの自体かというと、疑問があります。その「同一なるもの」は単に連続性から想定されたり、連続性を元に私の傾向性によって想定されたりしたものでしかないように思われます。

でも、僕が「『本当のアクチュアルな私の死』」でもって失われるもの」などとして考えようとしたものは、そのような想定でもって構成されるものではなく、構成される前から存在する「魂」みたいなもので、そういうものは「無い」とすべきじゃないかと考えたのです。

どうでしょうか。ムラタさんの考えと違うでしょうか?

76横山:2018/04/24(火) 14:44:28
ADさん、
僕はもうずっと一元論のイメージしかもててなかったので、「一元論を考えると救済になる」と言われて初めて、逆に二元論を考えるとかなり厳しい矛盾を抱え込まざるを得なくなり不安に落ちることになることに気づきました。

77ムラタ:2018/04/24(火) 21:04:03
>>75
死に関する横山さんの説明は全面的に同意できるので、これといって僕は意見がありません。
死の議論とはあまり関係のない話で意見してしまって、申し訳ないです。

>その「同一なるもの」がアクチュアルな意識発生そのもの自体かというと、疑問があります。その「同一なるもの」は単に連続性から想定されたり、連続性を元に私の傾向性によって想定されたりしたものでしかないように思われます。

上の文章を読むに、もしかすると「物自体」と「作り上げられたリアルな物」が混同されているのではないかという懸念があります。
僕の使用する物自体はカントのいう物自体のことで、それは私を触発して現象をつくりださせる、認識不可能な(語ることのできない)存在のことです。だからそれはリアルな作り上げられたものではありません。分かっているのに指摘してしまっていたらごめんなさい。
僕は僕がリアルな世界をつくりあげたとしても、いや作り上げなくても、それとは独立に世界は存在するという平凡な実感を保持したいわけです。観念論的傾向を持っている人からは相当馬鹿にされそうですが。
横山さんは物自体は語られないがゆえに存在しないと主張されますか?

78ムラタ:2018/04/24(火) 21:30:51
>>75
つまり私の一貫性とはリアルな、語られた、言語的な一貫性ではなく、語られない非言語的な私の一貫性ということです。
あまりに説明不足なので分かっていただけないのも仕方ないかもしれません。
つっかかったみたいで申し訳ないです。
ここは僕にとってかなり重要なポイントだったので。
このことについてまた時間があればどこかに書きたいと思います。
だれもまともに読んでくれないかもしれませんが・・・

79ムラタ:2018/04/24(火) 21:56:21
>>78
訂正です
【誤】つまり私の一貫性とはリアルな、語られた、言語的な一貫性ではなく、語られない非言語的な私の一貫性ということです。
【正】つまりリアルな、語られた、言語的な私の一貫性とは別に、語られない非言語的な私の一貫性があるのではないかということです。

80横山:2018/04/24(火) 22:12:51
>>77
ムラタさんの問題意識があまり掴めてないですし、気になる論点も幾つかあるのですが、お答えできる範囲で回答します。的外れだったらごめんなさい。

僕はまあまあの親ウィトゲンシュタイ派でして、「論考」が「像は現実に到達する」と言ったのを結構に信頼しています。すべての言葉が世界そのものにすでに到達してるってことはあり得ないですが、可能性としてはあらゆる世界の事態は言語で語ろうとすることが可能であり、可能でしかあり得ないと信じています。

ここで「語り得る・語り得ない」という言い方がまたややこしいことに、いわゆる内的感覚や心情の質そのものを「語り得ない」ものとして表現したりすることがあり、この言い方が便利なので、僕も「いわゆる語り得ないもの」などという表現も使ったりもしますが、厳密にいうなら、「真に語り得る可能性の無いもの」は原理的にナンセンスでしかないものだと考えています。有ると言えないだけじゃなく、無いとも言えない。

正に語り得ないのだから、そんなものが「本当はある」などと言いたい気がしたとしたら、その「本当」なんてものは「あることにします」という〈宣言〉であったりトートロジーであったりするものでしかないとも思っています。
(でも、これはかなり広く「言語」や「語る」の意味を取っています。「語り得る」の射程をあらゆる判断可能なものと捉えています。)

一方、僕はカントが「物自体には到達できない」と言ったのを、そのようなかなり広い意味で、判断する可能性の無いものとして考えたと解釈しています。

ですので、僕は、その意味において、「物自体」はナンセンスと捉えざるを得ないと考えています。

81ムラタ:2018/04/24(火) 23:00:50
>>80
質問に答えて頂いてありがとうございます。

横山さんのように、僕も物自体はその存在が論証不可能なものであり、語り得ないナンセンスなものであると思っています。それはもう認識を超越している。
それでも僕がそれを否定し得ないのは僕が触発されるのなら僕を触発した物の存在をどうしても認めざるをえないからなんですね。僕の知覚の成立させる物の存在です。
もうこれはあまり理屈ではないですし、このスレッドの内容ともあまり関係がないので、このへんでやめておきます。

82横山:2018/04/24(火) 23:37:14
>>81
デカルトとかヘーゲルとか、その語り得ない向こう側と矛盾を越えて繋げてしまおうという感じの哲学は、全く理解できなかったのですが、
最近ベルクソンを読むようになってからは、それら「向こう側」を認めるの哲学もそれほど遠いものを見てるわけではなくて、二元論哲学と一元論哲学も、例えば0.999…=1を認めるか否かみたく、僅かに無限小の違いしかないのではないかと思えるようになって来ました。
それでも、二元論や「向こう側」を認めることは、まだできてませんけれども。

その辺りの話もとても興味ありますので、また機会があれば話し合いたいと思います。

83横山:2018/04/25(水) 14:36:38
>>79>「つまりリアルな、語られた、言語的な私の一貫性とは別に、語られない非言語的な私の一貫性があるのではないかということです」

今、僕が読んでいるドゥルーズ「ベルクソンにおける差異の概念」に似た話がありました。
「潜在的なものには何らかのの堅固さが要る。自分の差異化を可能にさせ、そうした諸対象を生産するに相応しい客観的な堅固さが要るのである」(ベルクソンにおける差異の概念・前田英樹訳)この「潜在的なもの」というのは、一般的によく言われる「語り得ないもの」をも含めた世界を構成するために、直観から得られる世界のポテンシャリティみたいなものです。ですから、ここでドゥルーズは、「語り得るもの」だけではなく「いわゆる語り得ないもの」までを貫く「堅固さ」があると言ってます。また「堅固さ」は、平井啓之訳では「恒常性・安定性・濃度〔核〕」と訳されてるものですが、もとは「consistance」という語で、僕の仏辞書では「一貫性」という意味が最初に載っている語です。
なので、これはムラタさんが仰っていることにかなり近いことを言ってるようにも見えます。

ただし、ドゥルーズベルクソンの潜在性は結局「語り得るもの」と一致するものですらしいので、全然違うものなのかもしれません。

それでも、ムラタさんとドゥルーズベルクソンとの共通点が興味深いなぁと思ってメモしました。

84ムラタ:2018/04/25(水) 15:28:27
>>83
ドゥルーズのことは全く無知で彼がほんとうのところ何を考えていたか僕の知るところではありませんが、彼に限らず物自体(のようなもの)を認める立場はべつに珍しいものではないと思います。大体、哲学を離れると常識は物自体(のようなもの)を普通に平凡な実感として受け入れているようですから。
現象がすべての出発点だとする哲学的考えを僕はどうも受け入れがたいんですね。
現象が出発点でなく、現象を生み出させたもの、触発させたものがあるだろう、と。そしてそれはまったくの無秩序な、カオスなものではありえない。それがもともとある統一体をもっているからこそ「そう」ある統一体を作り上げるのだ、と。そう思っているんです。

85久保共生:2018/04/28(土) 19:52:05
ムラタさん

>現象が出発点でなく、現象を生み出させたもの、触発させたものがあるだろう、と。そしてそれはまったくの無秩序な、カオスなものではありえない。

われわれが知覚し、経験している世界の背後に、決して認識できない真実在としての世界がある、という感じの主張ですか?

86ムラタ:2018/04/29(日) 03:24:50
>久保君

真実在という表現は語弊があるのではないかと思います。
真実在というのは、あたかも神のごとき視点を設定してあるものの「本当の」客観的姿や性質が実在するというようなことを示唆する表現かと思うんです。しかし、そんな「本当の」姿や性質というものは誰にも確かめようがないですよね。「本当の」ものなんていうのは形而上学的な存在であり、単なるおとぎ話にすぎないものだと思います。「本当の」世界の存在なんて誰にも言うことはできない。これは横山さんがブログでされている実在論批判ですが、僕はこの批判は正当なものだと思っています。
僕が語っている実在はそれとは異なる意味の実在です。上のように批判された実在というのは、われわれの知覚以前にあるものが初めから真なる本当の客観的意味を担っているものの実在に対する批判なんだと思うんです。
僕が語る物自体とか触発する実在というのは、そんな形而上学的な存在を語っているわけではないつもりなんです。じゃあそれはどういうものなのかというと、先ほどの意味を初めから担っている実在に対して、意味を与えられる以前の実在なんです。意味を与えられる以前の野生の実在です。ナンセンスな実在と言ってもいい。こんな実在がどれだか意味不明なものとして響くかは百も承知です。しかし僕はその実在をどうしても否定できないんですね。すべての存在はわたしの今ある「これ」の開闢から発生しているとは到底僕には思えない。それはすべての存在ではなく、それどころかナンセンスな実在という広大な海にぽつんと浮かぶちっぽけな島にすぎないというイメージを払拭できないんです。僕のこのイメージはつまり、僕が全く関与しないものごとが実際に世界に実在している(それがどういうものか知るよしもないが)という平凡な実感を言い換えたものです。

87ムラタ:2018/04/29(日) 03:54:36
よく考えると横山さんと僕とで「世界」の語義が異なっているだけかもしれないと思いはじめました。しかしそれも僕の誤解で、違うかもしれません。

>久保君

「わたしを触発する実在と触発しない実在の相違」とか、「語らせる過去(過去自体)と語られた過去」などいろいろこの実在について語りたいことがあるので、また我々のブログ『対話空間』に投稿しようと思います。
あんまりここで語ると迷惑だし、僕自身、もうちょっとゆっくりと明確な言葉で整理して語りたい。

88横山:2018/04/29(日) 08:36:10
ムラタさん、
僕の反実在論観はもっと言うと、ダメットのものにかなり親いものです。
それは排中律否定に繋がる世界モデルなので、理解されにくかったり批判されたりすることも多いですが、僕には筋が通っているように見えてます。
これも僕のブログで紹介してますので、もしよろしければご覧下さい。
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/2-b5f4.html

89久保共生:2018/04/29(日) 20:10:29
ムラタさん

私によって意味を付与される以前に、いわば本体としての世界があるということでしょうか?
つまり、私は意味というラベルを貼ることでしか世界を認識できないけれども、「ラベルを貼る」という行為が可能になるためには、ラベルを貼るための何かしら本体のようなものが存在しなければならない、という感じですか?

90ムラタ:2018/04/29(日) 21:41:25
久保君

そんな感じだと思います。
つまり言ってしまえば野矢茂樹が『語りえぬものを語る』で展開している「語りえぬもの」なんですが。

91ムラタ:2018/04/30(月) 01:18:31
>>88
横山さん

ありがとうございます。
実は横山さんのブログをこの頃じっくり読ませて頂いています。
分量が多くパソコン等で読むと疲れるので紙に印刷して。

92横山:2018/04/30(月) 19:00:32
>>91
ムラタさん、ありがとうございます。
読んでいただけることを何より嬉しく思います。下らないものも多いでしょうが、その辺りは目をつむってください。

93ムラタ:2018/06/03(日) 20:48:40
横山さん

もうこの書き込みを読まれていないかもしれませんが・・・
僕は野矢茂樹しか知らなかったのですが、特にここ5年10年ぐらい前から世界的に新たに実在論を見直す潮流があるようですね。ブログを読むとどうも横山さんはそのことを知っておられるようですが。
本屋でたまたまマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』という本(これは今年になって日本語に翻訳されて出版されたものです)を手にして、「これ野矢茂樹が言ってる実在論と相当似てないか?」と衝撃を受けました。
そして調べるとメイヤスーなどその他いろいろな人たちも古い実在論に対して、新しい実在論を打ち立てようとしているようです。

上で挙げたマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』という本は(タイトルはかなりいかがわしくどうにかならんかと思うのですが)専門家に向けて書かれたものというよりは一般向きに書かれたもので、説明に具体例も多く、新たな実在論を理解するのに読みやすくとてもいいテキストだと思いました。
僭越かもしれませんが、ちょっと紹介させていただきます。

僕はこの新しい実在論は、まったく正当な主張のように思います。

94横山:2018/06/03(日) 21:50:40
ムラタさん

僕もその新しい実在論を読んで理解しようとしてるところです。
話題のガブリエルが京大に講演に来るっていうので、申し込んで本も読みました。でも僕はガブリエルにはあまり食指が動きませんでした。
排中律を棄てる可能性の全くない論理を思考の基盤としていて、「分からないけど在るのかも」という所の思索があまり深められてないように思えてしまい、僕にはその面白味が分からなかったです。
もっとちゃんと読み込んだらその面白味も分かるのでしょうが、今のところは「排中律を棄てないのならそれぁ、そーゆー実在論になるわなぁ。そんなん当たり前やん。それのどこが面白いの?」みたいな感想しか持ててません。
で、当の京大の講演も行こうかどうしようか迷ってるところです。

でも、それの流れで読んだメイヤスーは面白くって仕方ないという感じにはまってしまいました。
ウィトやハイデガーの、神視点完全排除の世界把握の可能性についてとても丁寧に検討します。排中律の否定ま射程にいれて考察し、必然性と偶然性や無限と有限という視点から「物自体」が有意味に存在する可能性を探り、それが可能だという結論に達します。
語り口は明確に実在論で反ウィト反ダメットなのですが、その思索の姿勢はウィトやダメット反実在論をとても尊重したものなのも好感が持てます。
マクタガートやベルクソンの名など一言も出てきてませんが、その、実在論の可能性を反実在論側から確かめようとする思索は、マクタガートパラドクスやベルクソン二元論に関する思索に通じるものがあると思えてならず、その点でも非常に興味深く感じています。

95ムラタ:2018/06/03(日) 23:12:13
横山さん

もうご存知でしたか、それは失礼しました。

野矢茂樹氏も「物自体」の正当性の根拠について、深い理論的考察はないと思います。
一応、カントの触発の概念から身体的記憶とかいって、少しは考証はありますが。
僕はそれだけで満足していました。
メイヤスーの『有限性の後で』が何年か前に売れたのは知っていましたが、概要を読んでも理解出来ないし、翻訳者についてもこの人大丈夫か、著者も翻訳者も話題先行型のひとじゃないかと、なんだか眉唾もの扱いしていましたが、「物自体」とか「外部」についてそういった考証が深められているのなら、読む価値があると思いました。

教えていただいてありがとうございます。

96横山:2018/06/03(日) 23:37:20
ムラタさん、
いえいえ新しい本や思索の情報を頂けるのはありがたいです。ガブリエルもメイヤスーを読んだ視点で、もう一度読み直したらその面白さが分かるかもしれないという気になりました。
ありがとうございました。

97ウラサキ:2018/06/04(月) 07:30:35
ムラタさん、横山さん、

そろそろ新しいスレッド立てた方が宜しいのでは?

98横山:2018/06/04(月) 18:02:23
そーですね


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