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エトセトラ

38はじ銀:2016/01/05(火) 22:49:06
イイダさんのような疑問は寧ろこういうところだからこそ出せるものだと思います。所謂アカデミックな哲学の場ではなかなか出せないでしょう。そして十二分に哲学的だと思います。
僕は論理が担保するものは公共性であり、論理は正しさを担保するものではないと以前主張しました。正しさを「一般的には…である」というような所に求める場合に於いてのみ成立するとすれば、論理的=正しいは成立するでしょう。しかし、正しいものは論理的で無ければならないという風潮を僕はどうしても感じますが、それは論理を過大評価しすぎていると思います。単純に、論理的で無いから間違いというのはかなり限定された場合にのみにしか成立し得ないと思う。
「フォーマルな学問の論理」というのは多少難ありでも理路整然、とした論理を指しておられると思います。とすれば、個人特有の論理はそこからは外れるでしょう、何故なら「特有」であり、公共性が無いから。しかし、ただただそれだけのことであり、個人特有の論理は十二分に価値があると思います。
自分一人でしか成立していない考えというのも大切であたためておけば某かに昇華する。限られた人との間でしか成立しない考えもそれだけででも成立すれば十分に有意味に育まれると思う。
極端に言えば、哲学的思考なんて基本的にカルト的だと思います。固有の言葉を使ったり、一般的な言葉も特有の使い回しをしたり、見通しの悪い展開で話を進めたり。限られた人数ではそうなるし、ましてや個人の中でなら余計でしょう。しかし、そこに醍醐味がある。
そして、そういうものも出版となど、外に出す時には「フォーマルな装い」を求められる。そこには制約が、つまり「減圧」が施される。
僕は言語に対してかなりネガティブな印象を持っているのでこれぐらいに書きたくなりますね。それこそイイダさんのお好きなデリダなんて角度こそ違え、これぐらいに言葉や論理に対してネガティブになっている人だと勝手ながら思っています。


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