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TK師との会話

1 TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

324 TK :2014/02/02(日) 09:31:20
ラピ。さんに、最初に出会ったころは聞く姿勢もないし、まだ、
ラピ。さんが激流の地獄に突き落とせかどうかも分からなかった。

実は激流の地獄に突き落とすには「聞く姿勢」は必要不可欠な要素の一つなのである。

4カ月が過ぎた頃、機は熟してきていた。

スッタニパータ
>(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、
>この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
>完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。
>四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、
>諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
>しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」


それまでの私は、他所で激流実践の内容を解説はしても、これは、
普通の者が実践できるものではないと思っている所もあって、
どこか全貌を明かせずに公開していた部分があった。

しかし、この時ばかりは、
この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
その実践内容の全貌で踏み切った。

このような判断が私の中に起きたのは、私が至ってから初めての出来事だった。

進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

それは一種のチャネリング、
低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

それと精度の劣ったスピリチュアルだ。

汚染の発生源となっていたのである。

それと激流でできた空っぽの中に、
今まで免疫のない種類の世俗の汚染が容易に入り込んでしまっていたと言う点だ。

私も、EO氏の書籍で、この手の魔境の実例がある事は知っていたが、
実はラピ。さんが至るまでラピ。さんがそれと同じものだと気が付かなかった。

本物が係わる事で抜け出せる、
それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

だからこそ、本物なのであるが。

独力でこの状態から抜け出すことは至難の業だ。

お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

ラピ。さんは残りのあと一歩は僅か一日で、
第2次実践で終了の際に持ち帰っていた独自の経典(至るための方法)をヒントに激流の彼岸に渡る事に成功した。

元々激流の実践は精神の極限状態を発生させる特殊性から、
その時その時にオリジナルな技法が出現する可能性が極めて高い。

ちなみに、悟るための手段は、悟りとは求めたら得られない、だから、
「悟りを求めず他者の幸せのために自分を捨てて」、
これが無限ループを交わすための悟りに至るための真っ当なスタンスという事になるのだが、
ある言い回しと似てるだろ、
つまり大乗から「救済」と言う上から目線の言葉一つを除くとこの悟りに至るためのスタンスに早変わりすると言うわけだ。

折角の悟りに至るためのポイントを掴んだこの工夫された方法も、
この「救済」と言うゴミのおかげで単なるガラクタに色あせてしまう。

このように大乗もその一環から考案されたものと言えなくもない特性を持っている。

小乗にしがみ付く者もいるだろう、しかし、時代の変遷による大乗の流れは必然、
なぜなら、
今の組織化した社会は在家環境で悟りに至るための「激流」を発生させる事が可能だからだ。

悟りに至るためには「求めたら絶対的に得られない」、
自分を捨てる手段として他者の存在を利用する(相対の原理による利他)、
これが悟るためには最も効果的な方法である。

現代の在家環境、
こんなに優れた悟りに至るための環境的な特色を活かさない手は無い事になる。

325 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:10
みなさま、こんにちは!@(*・ω・*)ポッ

TK師、いつもありがとうございます。

TK師にはじめてメールをしたのが昨年の1月14日でした。
そして私が至ったのが5月13日でした。

スッタニパータに書かれているように、偶然でしょうか?
どうなんだろう。
本当に4か月の出来事でした。


>本物が係わる事で抜け出せる、
>それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

>だからこそ、本物なのであるが。

まさしくそうだと思います。

私も至った今だから分かるのですが
私たちにないものがある人は
私たちにからしたら不自然なのでわかっちゃうんですね。

「おかしい」(例えば魔境である)と。

でもご本人はとっても真面目にそうであることを信じているので
指摘しても受け入れられないことが多々あります。

そしてそれはかつての私もそうでした。

はい、本当に聞く姿勢がなかったです、初めは。
師匠の言っていることのほうが変で
「この人、何言ってるんだろう?」というのが
初めのころの私の感想でした。(すみません(笑)

そして至り、掲示板を始めていろんな人と対話する中でそれは
「そういうことだったんだ」とわかりました。

師も言われているとおり、聞く姿勢は大切ですね。

私もそうでしたが
まだ至ってない時は師匠より自分のほうが正しいと思ってましたので
師から言われる言葉にかなり反抗していました。

でも、あまりにもそれが続くので
「まてよ?何かがおかしい。
私は何か違っているのではないか?」
という思いがよぎりました。

ここからやっと聞く姿勢ができてきました。

今まで私が正しいと思っていることを一度捨てて
師の言葉を信じてみよう、と決心しました。

実はTK師を「師匠」と呼び始めたのは実は
5月11日でした。(おそい!(笑)

この時、初めて「この方は師と呼べる人だ」と
私の中で確信しました。

私は一度も師を求めたことがありません。
そんな私が師と出会えるとは!

すごく不思議な気持ちになりました。

そして師との出会いに感謝しました。

そこから師の言葉のみを信じて進む決心をしました。
自分を信じることなく。

そして激流が起こったのをきっかけに
師すらも手放して一人で激流に勝手に飛び込みました。


>お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

懐かしいですね。ほんと何度も言われました。

そういわれるのが嫌で
「師と同じ状況になりたい!師の言っていることがわかるようになりたい!」
と思ったことを思い出します。


>心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

>本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

そうですね、そうだと思います。

ニセ物では無理でしょうね。
いろんな掲示板やブログを見ていたらわかるのですが
ニセ物では激流を起こすことはできないでしょうね。

ニセ物は激流を渡っていないので
人を激流に突き落とすことはできないでしょう。当たり前です。

ちなみに残りの一歩を踏ませるのは
至った誰もができるものではないかも、と思っています。

私は今はそれができるかどうか微妙です。
これからの流れに身を任せます。

でももし、そういう出会いがあったら
私も迷わず、激流に突き落とすかもしれませんが。


私は師匠のおかげで無事、至ることができました。

もし、本当にこの道を進みたいのなら
このチャンスを逃すべきではないと思います。

そしてどれだけ真剣であるかも大切なポイントになると思います。

326 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:51
ちなみに私がまだ至ってないスピ系をしていたころ、
実はその時に感じていたことを書きます。

スピ系によって人は「願望を持たされている」ようです。

本当は求めてもいないものを「持たなければ損だ」と願望を持ち、
そしてその願望を実現するために
スピ系で言われていることを実践し続けている。

私は実は別に特に願望がなかったのですが
(この頃、空っぽが成就できていたから
そうだったのかもしれませんが。)
スピ系を見ていると「お金」や「愛」などの願望を
「持たなければならない」という感じを受けました。

だからスピ系をしていた私は
何かしらの願望を「持っていなくてはならなかった」。

スピ系には「求めることが必要だ!求めなくてはならない!」
という思想があったのではないかと思います。

私はもともと興味のなかった「相対世界での願望」をある意味持たされ
それに向かって頑張っていました。

変な言い方ですが
無理やり願望を持っていました。願望なんてないのに。(笑)

酔っぱらって信じるって、
自分の判断すらも麻痺させてしまうのです。

持ちたくもない願望を持たされて
本当に酔っ払いのように、言われるがままに進んでしまう。
そして私はそれを「実践」としていました。

でもそれは決して激流を起こすものではなかった。
だからダメなんですね、成就の道を歩きたい人にとっては。

(酔っ払いがいいのなら
それはそれで自由だとは思いますが。
でも永遠に酔っ払いでしょうけど、そのままなら。)

ちなみにこのスピ系の実践では 何度も言われていますが
相対世界を卒業することはできません。

求め続けて
永遠に求め続けて。

一つがかなったら次の願望。

束の間の喜びを得るけども
それも束の間。

そして叶わない願望もあるけど
さらにポジティブシンキングで進んでいく。

スピ系をしている人ならわかると思いますが
そこでは永遠に続く幸せなんてないのです。

だから束の間の幸せが終わったらすぐに次に向かってがんばる。

自分の「幸せでない感情」にふたをして幸せだけを求めて
ひたすら奴隷のように歩き続けるのです。
(奴隷という例えは厳しいでしょうか?
でもある意味、願望の奴隷となっているのです。
私はそうだったかもしれません)


>それは一種のチャネリング、
>低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

この私の状態は、至った師匠からしたら、
酔っ払い以外のなにものでもなかったでしょうね。

そして、かつての私のブログから、
その私の状態について違和感を感じていた人もいたかもしれません。

今の私にならわかります。
スピ系の酔っ払い。

偽物の平安に酔いしれて
師匠の言葉に反抗していた私。

「私はこんなに楽しいのに、(この「楽しい」は曲者です(笑)
この人は何を言っているのだ。
この状態がおかしいわけがない」

これはその頃気づかなかった私の本音でした。

でも至った今の私からすると、
かつての師匠とのやり取りは
「あ〜。私ってバカやなぁ、、」としか言いようがないものでした。

でも師匠はそんな私にもちゃんと対応してくれました。

ちなみに至ってない時は
師匠がちゃんと対応していてくださっていたにもかかわらず、
私はそれに気づかず、まともに聞けてませんでした。

ちなみにこの掲示板でも
師匠はきちんと皆さんに対応してくださっています、実は。
(そうだとわからない人もいるでしょうか?いそうです(笑)


もし、かつての私と同じような状態の人がいるなら
ちょっと立ち止まってみてください。

そしてこの掲示板に書き込んでみてください。

私たちからして、どう見えるかがわかります。

私たちは書き込んでくださった人のエゴがまるわかりですので。

あと、「至った」人も募集しています。
対話してみませんか?
スレッド「悟りに至った方たちとの対話」でお持ちしていますよ!

@(*・ω・*)ポッ

327 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:07:29
>実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
>おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

この頃を思い出していました。

これから書くことは言葉に表すと
誤解を受けるかもしれませんが
例えを使いながら書いていきます。

だから「そうなんだ〜。ふぅ〜ん。」というくらいで読んでもらったら、と思います。

第2次の激流実践で「その頃の私にとっての限界」に至った後、
(実はまだまだ限界ではなかったのですが、その頃はそう思っていました。
まだ消滅したくなかったのかもしれない。)
私は人間に戻ることを決心し、
いろんな周りにいる人の様子から学びながら
人間に戻りました。

ま、この言い方も例えですが
実際、第2の実践で私は人間でなくなっていました。(笑)

普通ができなくなっていた。
普通がどういうことかわからなくなっていました。

でも第2の実践でぎりぎり(でもまだまだ)のところに行った後、
まだ残ってる意志で人間に戻る決意をしました。

戻る時は周りにいる人たちから学びました。

人の意識の場所はどのあたり、とか
人はどのように存在しているのかとか
人とはどういうものだとか
学びながら戻ってきました。

まっさらな赤ちゃんが人間を見て そこからある意味学び
人間になっていくのと同じような感じです。

その頃の私と 赤ちゃんの違っている点は
私は人間になる様子を「私」という意志のある状態で通ってきたということです。

この道も実は数年単位です。

激流を渡り終えたわけではなかったので
戻ってくる間中、激流の残骸があり とても大変でしたが。

でも意志を落としながらその意志が落ち着くところまで
戻ってきました。

意志を落としました。

ある意味、落としたのです。落ちたのです。

そして戻ってきた理由は覚えていますが
「まだ、私がやっていないことがあるからやってみたい」というものでした。

私は小さいころから実践づくしだったので
人として持つであろう願望があまりありませんでした。
(ちょっとはあったけど、実践優先でした)

それをきちんとしっかり味わってみたかった。

だから戻る決意をしました。

そして戻って来てそれまでやっていなかったことにいろいろ挑戦しましたが、
(前にも書いている通り、)
結局その願望を無理やり持って
それを叶えるためにスピ系で言われている
「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

ある意味、願望が叶ったときは幸せでした。
でもそれは相対的世界の幸せで
それに私は違和感を持っていました。

「絶対的幸せがいい!」って常に思っていました。

わたしが人間になって思ったことは
終わりのない願望を持ち続けるって
大変だなぁ、ってことでした。

もう、私はその世界からは卒業して
そこから解放されていますが、
「人」として生きることは大変なんだなぁって思いました。

328 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:10:05
>それを叶えるためにスピ系で言われている
>「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

「こうすればとい」は
正しくは「こうすればいい」です。

@(*・ω・*)ポッ

329 TK :2014/02/03(月) 18:41:08
ピッタリ4カ月とは、ゴロが良かったですね。

成道記念は5月13日、これも5月12日の翌日なので覚えやすい。

>進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
>激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実はここはポイントの一つで利点でもあり難点でもありの部分でした。

うまく行き僅か1日で渡れましたが、
中途半端であれ曲がりなりにも以前の実践で至れている部分が災いして、
下手すると激流が起こし難く先に進む推進力が発生させられ無い可能性が無きにしも非ずでした。

それが次の判断の理由の一つ。

>しかし、この時ばかりは、
>この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
>その実践内容の全貌で踏み切った。

とにかく推進力(激流)が得られなければ、停滞するしかありません。

いよいよとなれば、タパスと言う切り札が無いわけではありませんでしたが、
そのカードは切らずに済みました。

確かに第2次実践は良く頑張りました。

ただ者ではありません、しかし、激流の実践とはそういうものなのですから、
軽はずみな気構えで踏み込める領域では無いのです。

この中途半端な成就でフローを手に入れたのです。

ちなみに、体が動かせなくなった、これ、
エセ覚者にどういうものか回答してもらって本物判定の審査基準の一つにしたらどうですかね。

どうも、この世界、公的資格制度みたいなものが無いと、
でたらめがあちこち出回っていて、既に収拾がつかずの状況ですから。

この件についてなら、日常生活に影響が出る内容についてですし、
私はそういうものには関心が無いんだ、では済ませられません。

私の書き込みを削除しまくりながら、必死に逃げたあのエセ、
信者ゴロゴロひきつれて、みんなで一緒に地獄ツアーも良いかもしれませんが、
あんなデタラメが、世も末です。

末法の世と言いますから、善意なら許される、
むしろあれがでたらめと知っている我々の方が責任があるようなものですね。

我々は善意すらありません。


君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。

どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。

自分を捨てないイコール保身ですから。

ベクトルが違っていたのです。

確かに、私に出会ったばかりの君に、
人のためと言う言葉を最初にぶつけた時の反応は、
全く持って自分のため以外ほとんど関心ありません的な反応でしたからね。

それが至れない原因でした、最後の恐怖心の正体が「保身(自分を大事にしたい)」なのですから。

その結果、個人的な部分の空っぽだけが成就して、すなわち、
EO氏の言う所の魔境がその空っぽの中に入り込んだ訳です。

私は「自分を捨てて」、これを君に成就させたわけです。

激流の実践は強烈なインパクトがあり印象強いものではありますが、
最近私が重要視しているのはむしろ、
激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ラピ。さんにしろ、
激流に飛び込む以外に無いところまで追いつめられたわけですね。

ここに立った者は否が応でも激流に進みますが、
この飛び込み台に立ってもいない者はやはり激流の実践内容に手を出す資格が無い。

このあたりは私もEO氏と同様の結論です。

資格が無い者は、
本当の意味での激流は作り出せないで形だけを真似した精度を落した緩流で、
やっている気分だけの酔っ払いになっていました。

相手にするだけ無駄と言うだけに済まず、害を及ぼす事になる事が、
今までの実験でほぼ確実であることが掴めています。

しかし、私にとっては激流の実践だけが全てではありません、
光の存在から教えられたその前の第1次実践も充分に幸せで私にとっては価値のあるものでした。

それが善を拠り所とした理想の実現です。

スピ系の実践が理想ですは単なる酔っ払いですが、
地に足つけた人間としての生き方を精一杯生きぬくという事です。

330 ラピ。 :2014/02/03(月) 21:26:48
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

師匠と出会ったころ、
私は激流というものがどんなものだったのかを忘れており、
激流とは縁の遠い日々を送っていました。

師匠のおかげで激流を思い出せたのです。
激流が起こったのです。

師匠、ほんとうにお見事でした。

本物でなければ私に激流を起こすことはできなかったでしょう。


>君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
>君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
>その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

そうですね!
今思い出すと私は第2の実践は「捨てる」どころか
「どんな苦境にあっても自分を捨てない」
というスタンスでした!

消えそうになる「自分」を保つよう
意志を使っていましたから。

その通りです!!!!



>その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。
>どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。
>自分を捨てないイコール保身ですから。
>ベクトルが違っていたのです。


そうですね。
第2実践の時はとても怖かったです。
消えそうになる自分を保つのをがんばっていましたが
それは恐怖と隣り合わせでした。
怖い感情が常に付きまとっていました。
でも怖くてもあきらめず実践し続けました。
私、しつこいのです。(笑)

そしてかなり自分を追い込みましたが
そのままでは自分を捨てることができなかった故に
超えられない壁がありました。

だからその時は至り切ることができませんでした。

でも第4の実践は 師のおかげで
いつの間にかその壁を飛び越えていました。

うんと、壁そのものが消滅したのです。

ちなみに師匠からいただいた
私を変えた言葉の一つは「下から」でした。

この言葉はすごいと思います。



>最近私が重要視しているのはむしろ、
>激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ほんと、そうですね。
まずはそこからですね。

だから私の激流の話なんて
「へぇ〜。そうなんだ」くらいにしていただいて、
皆様はしっかりと「今の自分」を生きていただきたいと思います。

どうぞ、真実の自分でいてください。

@(*・ω・*)ポッ

331 TK :2014/02/03(月) 22:13:08
>ほんと、そうですね。
>まずはそこからですね。

この界隈誤認覚者も含めて、右も左も次のような人ばかり見るのです。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


こうのように酔いしれて、
そうだと信じ込んでいる人たちばかりを沢山目にするのです。

だいたい、このようなことしてて至れると思いますか。

本人は彼岸か彼岸の近くにでもいるつもりなのでしょうが、
彼岸に上がるまでは、激流の中です。

激流が一番彼岸に近いのです。

私は理想時代から激流の彼岸に至るまで最初から最後まで戦いを捨てませんでした。

これは腑抜けと言うのか酔っぱらっているだけですね、
このようなことをしてても永遠に彼岸には行けずに単なる頭がボケた人のままで寿命が終えるだけです。

これでは、死ぬまで酔っ払いと言われてもしかたありません。

だから、公的資格制度でも作ってもらいたいと思うのです。

なぜなら、至る前の人はこのような人たちに惑わされます。

至った我々から見たら、とてもではないが、まともではない、
夢遊病者か亡霊かと呼ぶしかありませんが。

332 ラピ。 :2014/02/04(火) 00:53:19
師匠、酔っ払いの模範的な記事を引用してくださいましたね。(笑)

かつての私、、、。

「あ〜あ、、、」です。

みなさん、こんな記事をかつて書いてごめんなさい。
ここで訂正させていただきます。

この記事は全く的を得ていません。


ちなみにこの記事、
誤認覚者と同じようなことを書いているなぁ、、、。

このレベルにとどまると、どうしようもなくなっちゃうよ。
そんな人のなんと多いこと、、、。

そして私にもその可能性があったのね、、、。
(-_-;)


>今まで 「私」と思っていたものが
>無くなってしまうのれす。
>そして 真実の私 に気づきます。

この文、とってもへんてこりんです。

誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
そう表現しているのをよく見ます。

私もそう表現していたんですね。

すみません。

これはまったくの間違いです。
そしてかつての私はそうだと思い込んでいただけなんですね。

単なる妄想にひたっているだけですね、これは。

333 TK :2014/02/04(火) 07:07:32
>誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
>そう表現しているのをよく見ます。
>
>私もそう表現していたんですね。

そうですね、ですから、私に出会うより先にこちらの人に出会ってしまうと、
同類同士で変に話が合う分、一緒に世の中変えましょうとか言う事になって、
今は無かった可能性があると思います。

始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ベースになっているのは覚者の文献だと思います。

だから一番ベストはそれは違うんだと言う、判定する人の存在が必要なのですね。

公的資格制度でもあれば、多くの人たちの混乱は起きなくて済みます。

メンタルの修得の尺度を計る資格は人類にとっては必要なものですが、
なぜこうも、軽く見られているのか、これこそ現代科学の遅れの部分です。

人材を採用する企業も、重要な人間判定要素の一つになりますね。

現代の人類の行き詰まりの突破口はここだと思います。

ただ何々宗の僧侶の資格とかは何の目安にもなりません。

家によくお経読みに来る坊さんも、単なるしきたり上の存在ですから、
読経してもらってお礼を言って、その方々の生活の糧であるお布施を渡して、
その後はこちらがお話を聞かせてあげて終了、このようなものですからね。

他のサイトでは、このような誤認による覚者に付き従うもの多数いました。

我々から見たらこの人たちは永遠にさまよい続ける亡者の群れです。

虚しいですね、この人たちに未来は無い、
本来は現象を裁きながら実践しなさいとか、
不快な事に感謝などする必要ありませんとか、
こちらを歩ませなければならない人たちなのですから。

334 TK :2014/02/04(火) 19:15:54
これ、本当にすごいですね。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


悟る前のラピ。さんの文を読んで、
悟ってなくても悟ったと言う想いこみだけでこれだけ紛らわしいものが書けるのです。

我々が見ればこんなガセ、
私の書込み削除しまくったあの人物と全く同じ完全100パーセント酔っ払いだと分かりますが、
残念ながら一般の方々には例のサイト同様見分けがつくはずがあまりせん。

しかも、言っている本人も自分が至った覚者だと信じているのです。

これ、何を勘違いしいるのかも私には手に取るように分かります、
私の前ではみんな丸裸ですね、
この人には「無」と言う対象となる意識がしっかりとあって、
それが至った状態だと思い込んでいるのです。

>今この瞬間に溶け込んでると

これがこの「溶け込んでいる」と言う表現の根拠なのです。

これは至った我々とは全く別物です。

本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

このように、至った覚者の状態などを書いた物を読むと、
自分もそれと同じだと勝手に錯覚して思い込んで、
酔っぱらいのエセの覚者が一丁出来上がりとなるわけです。

簡単に人間と言うのは誤認が起きますから、
至った覚者の状態を書いてあるものなどできるだけ読まない事です。

エセに従う信者たちもいい加減に目を覚ましたらいいのにと思うのですが。

私はこの者たちとそれにつき従う者たちを、
風車が怪物に見えるドンキホーテと従者のサンチョと呼ぶのです。

至ってしまえば楽々ですが、至る前の人たちにとっては、
このようなトンでも勘違いの人たちが沢山いるので、
手探りで断崖絶壁を歩いているようなものです。

恐ろしや恐ろしや。

はやく、公的な認定制度が出来ることを切に望みます。

剣禅一致、すなわち技術の修得とメンタルの修得、この二つが一致して、
本当のその者の能力の尺度なのです。

現代の科学は、技術の修得の部分しか解明できてない劣ったものですから、
早くもう一つの方にメスを入れることが出来なければ、
「フロー(ゾーン)」と言う現象も解明できないし、この先社会はもっと悪い方に行きます。

現代の状態は、これみんな劣った科学がもたらした醜態というものですよ。

情けない。

335 ラピ。 :2014/02/04(火) 21:19:22
みなさま、こんばんは!

TK師、いつもありがとございます!


>これ、本当にすごいですね。

訳すると
「これ、本当に妄想すごいですね。」
になりますかね。


>>今この瞬間に溶け込んでると

今の私たちの状態ではあり得ない状況ですねぇ。



>始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ほんとそうなんです。

師の言葉を早くからちゃんと聞いていたら
間違っていたことが早くわかっていたかもしれませんが
初めのころは大まじめにそうであると信じていたのです。

だからちゃんと話を聞けていませんでした。

でもどうにか
自分の信じていたものを捨てることができてよかったです。


私の昔のブログに賛同できる方は
スピ系による被害を受けています。

私の昔のブログは偽の情報です。

昔の記事を削除してしまってもいいのですが
参考になると思い今は残しています。

かつての私の記事のような話が
全く参考にならないということの
参考になると思っています。

それに、昔のラピ。と今のラピ。の違いが
記事を比べたらわかると思います。

えらい違いです。次元が違いますから。(笑)

でも、将来 記事を削除するかもしれませんが
そうでないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

336 TK :2014/02/04(火) 22:26:02
>本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

無想と想に非ずは全くの別物ですからこれが悟りだなどと、
この界隈はかなり滑稽な状態です。

それにつき従う信者の群れ、あれもかなり悲しい。

私は独学ですが、何でまあ信者と言う人たちは、そろいもそろってエセの後を追う、
ああも悲しい定めにいるのでしょう。

あの人たちから見ると、こちらがエセに見えているでしょうから、
現実とはそんなものですよ。

337 TK :2014/02/07(金) 18:24:23
袋小路に追い込まれた者には私は激流の門を開くだろう。

私は人と寄り添う事を求めているような者に、
ここで寄り添う相手になるつもりはない。

理由は簡単だ、精神世界のテーマで寄り添う相手になるなど、真っ平御免だからだ。

同士をもとめるなら、精神世界以外のテーマでの同士を求めるべきだ。

酔っ払いの烏合の衆というのが、それだからだ。

これが世の中一番最悪のごちゃ混ぜグループ。

私は理想で生きる事を説くが、それは精神世界以外で実行するという事だ。

これをやらずして精神(内面)世界をテーマにたむろする人間など真っ平御免だ。

だから、当たり障りのない適当な理由を付けて、
はいさようならをしたケースは今までもあったかもしれない。

人のぬくもりを求める者もいるだろう、しかし、それは精神世界以外で求める事だ。

人が仲良く寄り添って、そういう理想の実現は精神世界に求めるものでは無い。

それを卒業した者が、次の段階として精神世界の「孤立」に入る。

私など理想時代は、まず、
寝る時以外は家になど居る事はほとんど無く
常に誰かと活動をしていて一人で居る事はほとんどなかった。

その後の、激流の実践時代は、理想時代とは打って変わって孤立に入った。

だから、この界隈狂ってるんだ、
精神(内面)世界を寄合のテーマに傷を舐めてくれる友を求めたり、
その者は精神世界では無くて違う所でそれをやってくれ。

精神世界は、理想の実践段階とは打って変わって、
世からの孤立が本質的なスタンスだ。

スッタニパータ
> そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、
>完全な戒律を受けた。それからまもなく、
>このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、
>怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、
>無上の清らかな行いの究極
>──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが
>──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
>なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。



私はこのような中途半端な要素を少しでも感じた者に対しては、
まともに取り合わずに、
当たり障りのない適当な理由を付けてはいさようならとする事だろう。

心当たりの者がいたら、自らの内面を良く見てみろ、私の前では丸裸だ。

激流段階の者にとっては、
現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
他者を自分の実践対象として存分に利用し、
なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私やラピ。さんはその実践の成就者という事になる。

激流段階の者にとって、在家環境で日常生活のまま、孤立の立場の実践が可能なのだ。

338 ラピ。 :2014/02/07(金) 23:05:11
TK師、いつもありがとうございます。

>激流段階の者にとっては、
>現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
>他者を自分の実践対象として存分に利用し、
>なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
>このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私も似たような感じです。

例え家族がいても
私の実践の妨げにはなりませんでした。

妨げにしませんでした。

それが私のポリシーでした。

そして日常はちゃんと過ごしていました。


この掲示板に
もし、私自身の実践をそのまま書き込むなら
かなり厳しい内容になります。

実はここに私が書き込んだ内容はまだまだ甘いものです。

私がこれまでに書いた内容で逃げるくらいなら
まだまだですね。


私は自分が決めたことは決して曲げず
我が道を歩く人でした。

至る前、周りの人に
私の本性はばれていなかったかな、どうだろ。
本性の気配を感じても
たんなる気のせい、くらいに思われただけの程度かもしれません。

実践は自分自身のことであって
周りの人には関係なかったから
別に周りの人に厳しさを表現する必要はなかった。

自分に厳しくさえいればよかったから。

でもそうだったからこそ、表現していないつもりでも
微妙に気配は感じられたかもしれませんが。


至ってから かつての自分を思いだすと、
ほんと笑えるくらい真剣に
エゴ丸出しでエゴがとても強かった。

でもこんな自分でよかった。

こんな自分だからこそ しつこくあきらめることなく
自分の決めたことをやり遂げることができた。

みなさんはしっかり「自分」を生きて
「自分」を成長させてください。

まずはそこからのようです。

そこをしっかりやらないと扉は現れない。

@(*・ω・*)ポッ

339 TK :2014/02/08(土) 09:35:18
理想(物質)段階の実践と激流(内面)段階の実践では大きく異なる部分がある。

理想段階の実践では、同じ利他でも人への執着が根幹となる。

他者を大事にしたいとか、他者をいたわりたいとか、他者を守りたいとか、
このように、そのベースにあるのは人への執着となる。

これとは打って変わって、激流段階の実践では、
人に対する依存そのものを一切断ち切る実践段階に入る。

よって、釈迦の時代は先に進むために独り離れる実践が出てきたものであろう。

激流段階は妄想を駆使した実践となる。

美女を見たら汚らしいものだと思えとか、つまり、
このような妄想を駆使した特性が故に在家の人がいる環境でも、
人がいてもいない事に出来たりが可能となる。

例えば依存心を断ち切る実践の一つとしてラピ。さんの実践した下からとか、
激流の場合の利他とは、人を人と思わないのがベストと言える。

世俗感情は一切禁止だ。

一例としては全ては神である、この妄想を駆使する事で人への執着を断ち切る。

もともと我々の段階までくれば、
人が大勢いても誰もいない(何も無い無所有処)としか言いようが無いのだから、
人を人と認めない全てが神であると言う妄想も我々の所に至るための有効なプロセスと言える。


ヨーガ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

>バクティ・ヨーガ (Bhakti yoga)
>
>神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、
>その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、
>超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。
> 古典文学『マハーバーラタ』(Maha Bharata)にある有名なクルクシェートラの戦いで、
>クリシュナが勇者アルジュナに説いたとされる
>『バガヴァッド・ギーター』(The Bhagavad Gita=神の詩)は、
>バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っているため、
>ヴィシュヌ(ナラヤン)の転生として実在したとされるクリシュナが開祖とも言える。
>また、近代の大覚者ラーマクリシュナとシヴァーナンダ、
>現代のサッティヤーナンダは、
>現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いている。

(中略)

>新興宗教の中には、インド人の信頼できるグルの指導を受けずに、
>このヨーガを取り入れている団体が多いが、
>自らのエゴが消滅できていないことを理解できない団体運営者によって独自の解釈がされており、
>大変危険である。
>間違った「自称グル」(大抵そのグルのグルが誰であるか、
>公表できない)を師と仰ぐと、一生を棒に振ることにもなりかねないため、
>事前に十分調査をし、常に一般常識に照らし合わせることが重要とされる。


私が何度も繰り返しているが、
この実践法を初め激流段階の実践法はどれをとってもニセ者にこの指導をされたら、
妄想を駆使する部分が災いとして作用し、
単に頭がボケたことを平安と勘違いして「貴重な一生を無駄に生きる事が確定してしまう」ので、
くれぐも、ニセ者覚者には要注意すること。

このような危険と背中合わせの実践法を、
手当たり次第のごちゃ混ぜの精神世界知識の収集により、
まともな教相判釈もせずに取り扱えるものでは無いのだから、
自分が大事なら、ニセ者をニセ者と見ぬことだ。

(続きます)

340 TK :2014/02/08(土) 09:35:54
(続きです)

その一番の見抜き方は、
この者に付き従ってもいつまでも自らの中に「激流」が発生せず「緩流」しかおきない、
この状態の場合はその師はニセ者であると判断し速やかにはなれよ。

酔っ払いとして一生を棒に振る事になる。


さらに、これは物質としての実践、つまり、
「人への執着を拠り所とした理想段階の実践」を限界までやりぬいた者が進む道であり、
つまり、理想段階をやり抜いている者以外、ご法度という事だ。

私などは、激流の実践段階において、教会やキリスト教の集会に顔を出してみたが、
そこにはとても優しく親切で良い人たちしかいなかった。

ここに魅力を感じるかどうかだ、
人の温もりを欲している段階の者はここに引っかかる、
その者はこのような所に出入りしてはならない、
宗教色抜きにした理想段階の実践をもっとやらなければならない、実は私は、
それを精一杯やってこれ以上先に進めなくなったことによりここに参加したわけで、
その優しくて親切な人たちの集まりには、欠片も魅力を感じることは無かった、
このような者はもはや激流に進むしか手が無いのだ、
これが激流に進んで良い段階か悪い段階か否かの判定法だが、
私はこのような所には寄り道せず一人歩む事を選択した。

その時の私にはそのような親切で優しい人たちの集まりには、
全く欠片も魅力を感じなかった。

それをやり尽くしてこのようになった者以外は、
激流に踏み込んではならないものと心得ておけ。

人の温もりを求めて喜んでいる者たちに、
宗教や精神世界そのものがご法度なのだ、よく心得ておけ。

所がこの界隈、右見ても左見ても、
ニセ者とそれにつき従う酔っ払い集団しかいないのだ。

この界隈の狂った者と言うのは、世界を何とかするのだとか、
このように世界に執着するのは良いとして、不快な事にも全てに感謝せよとか、
そのための仲間とか、理想段階、激流段階ごちゃまぜの完全に狂っている。

このごちゃ混ぜの人たちは残念ながら、一生を無駄に終える人たちなのです。

同じ仏教は仏教でも正反対の実践が入り込むのですから、
仏教以外のどんな教えであっても、ただしい教相判釈は必要不可欠でありごちゃ混ぜは地獄行きです。

あなたは何でもかんでも手当たり次第取り入れてごちゃ混ぜをやっていませんか。

残念ながら公的資格制度はありませんが、エセでは無く、正しい師の元で学びましょう。

私はこのような話をする時には、今までに遭遇した現実の人物を題材に話をしています。

手当たり次第のごちゃ混ぜのエセ覚者がいたのです。

教相判釈に価値を認めていないようでした、と言うより、その者に出来るはずなどない。

だからこそ、その者から段階的な教相判釈の内容が飛び出すことは無い。

その捉え方は科学的な常識に照らしても欠点大ありですが。

まともな実践者に応じた段階的な教相判釈もなしに、何でもかんでも手あたりしだい精神世界知識を取り入れて、
それで害が無い訳が無いのです。

341 TK :2014/02/09(日) 13:17:37
私には経典知識は大して無い。

理由は簡単だ、経典学者(釈迦の語録研究家)になど成るつもりは無いからだ。

そもそも当たり前だが、
本家本元の釈迦は経典学者(釈迦の語録研究家)を育てたくて教えを説いたわけではない。

親の心子知らずと言って、思い違いをしている者もいるのかもしれない、
それを本末転倒と言う。

釈迦は100万の自分の言葉を暗記してくれる者より、
僅かの言葉を利用して至った者を輩出する事が本質だったはずだ。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」


私は私に足りないその何かわからないものを何とかしたかった、
だから膨大も無い釈迦の経典の中の極々一部だけしか利用しなかった。

あえて絞り合いに絞って、そうしたのだが、私にとってはそれで充分だった。

それでも、それがあると無いでは全く違っていた。

おかげでラピ。さんのように横道にそれることなく何倍も短期間で成就に至れた。

それよりも、100万の経典の文句を勉強して一つの解脱も得られない者の方が、
可哀そうだな。

これは自慢にはならない。

私は極々僅かな釈迦の言葉を手掛かりに至れた。

至った私にラピ。さんに、
釈迦の残した膨大も無い経典の中の極々一部で充分用が足りた。

1を聞けば10を悟ると言う。

100万を聞いても未だ1も悟れない者もいる。

才能のある無しは仕方がないとして、
至れない者にとって100万の経典文字の教えより1つの生の教えという事だ、これは真実だ。

もしラピ。さんが100万の経典を手に入れたとしても至れなかったかもしれない、
しかし、1つの生の教えは100万の経典を超える。

私を1つの生の教えとして利用できる者は、ラピ。さん同様に幸運と言えるのかもしれない。

正直経典だけではたとえ100万の経典を並べたとしても難しいだろうな。

私には武器として悪魔を見抜ける眼があったんだ。

342 TK :2014/02/11(火) 14:07:43
まず、釈迦は最高を表す言葉として、
「無」と言う言葉は使わないだろうと思います。

「非」あるいは「滅」です。


無我 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

>無我(むが、パーリ:anattā、サンスクリット:अनात्मन् anātman)は、
>仏教用語で、「我」に対する否定を表し、
>文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
>「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
>一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、
>どこにも我を見出すことはなく、
>必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、
>非我と無我は同じことを指しており、
>非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。


Wikipediaもかなりでたらめな説明です。

「非我」と「無我」と言う言葉がありますが、
これをごちゃ混ぜに同じ言葉として使い回している人がいます。

分かりもしないのに、無知なら無知ででたらめ言うより、
私知識があまり無いものでわかりませんの方が良いですね。

よくラピ。さんが我が有りませんと言いますが、改めて言えばこれが「無我」、
しかし、実はこれは釈迦の最高の境地ニルヴァーナではありません。

釈迦の最高の境地を表す言葉は「非我」なのです。

あるいは、「滅」でもいい。

どちらも、直接それを表す言葉では無く、
そこへのアプローチも含む間接的にそれを表す言葉だという事です。

非我と言うのは、
「ニルヴァーナは我ならざるもの」でも「ニルヴァーナは我ではない」でもありません。

これはでたらめ解釈です、嘘八百の大外れです。

Wikipediaというものはこのようなでたらめはっちょう、
結局信頼の出来ないもので、
この情報は参考以上に値するものにはなりえない価値のものです。

非我というのはニルヴァーナそのものを表す言葉ではありません。

確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。


ダンマパダ279
>「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
>ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


確かにそれは理論的には我が無い状態と言えそうですが、言えません。

我が無いと表現した段階でそれは、
我が無い「状態がある」と言っている事と同じになりますから。

それは、我で有るとも非ずともいかなる言葉に表す事も出来ない、これが真実です。

それは我に非ずでしたとか、それは無我でしたとか、
でたらめをさも正しい事のようにしてばら撒くのはやめてほしいですね。


ダンマパダ218
>ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、
>意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、
>(流れを上る者)とよばれる。


「ことばで説き得ないもの」これは実に良い表現、
だから資格が無い人が話したらウソがばら撒かれることになる、
さしずめWikipediaはその典型的な見本という事です。

(続きます)

343 TK :2014/02/11(火) 14:08:18
(続きです)

昔はある資格以上のものが結集を執り行った、当たり前ですね。

究極とは分からないものなのです。

分からないものに対して我が有るとか無いとか非ずとか、どちらも外れです、
分からないものはただ分からない、それだけです。

全ては我ならざるものである、すなわちそれは無我である。 ×

全ては我ならざるものである、その先は分かりません。 〇

これは一見するととてもナンセンスな表現なのですが、なぜなら、
分からないものが釈迦の究極の発見なのかと、これが無限ループの一つですから、
ここに引っかかると釈迦のように七転八倒することになります。

ボディー達磨は無限ループを交わす手段で「不立文字」と言う言い回しを使いましたね。

不立文字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97

>不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、
>文字や言葉による教義の伝達のほかに、
>体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。


何かを見つけようと言うベクトルではいつまでたっても辿り着くことが出来ません。

ですから、
探究者は見つけようとするベクトルを捨てなければ決して辿り着く事はありません。

なお、「非我」と言う言葉が存在する以上ここから明らかになる事は、
恐らく釈迦は最初にニルヴァーナを発見した時は「我」があったという事です。

右往左往していたのですから当たり前ですが、
「我」の推進力を利用して涅槃入りしたと思われます。

そこから、「非我」と言う言葉が生まれたはずです。

例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

釈迦はさらに、
ニルヴァーナを発見した後に滅想受定がそれよりも劣るものとして釈迦に発見された。

さらにそれよりも劣るものとして「無我」(常住)におちついた。

順序から行けばこのようになるものと思われますね。

これは、実は私のプロセスと同じですから、私も釈迦をテキストとした関係で、
意図せずにこのプロセスを辿りました。

ですから、「非」あるいは「滅」と「無」は別物ですから、
混同して使い回す事の無いようにして下さい。

例えばニルヴァーナとは異なりますが、滅想、非想、無想の順ですね。

無は表現した段階で「無い状態がある」と表現している言葉ですから、
釈迦の世界では最高より下の次元を表す言葉として使われていると思います。

つまり、最高の境地は状態を表す言葉で表す事は出来ない、
同時に至るまでのプロセスも表すような間接的表現として「非」あるいは「滅」と言う言葉で表されるのが適切です。

波梨経
>「スナカッタよ、無想有情の創造説がある。
> 彼らは、無想定を修めて、無想に陥っている。
> 無に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」
>
> 「徳が尽きた者は、無想天から落ちて行き、
> 天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
> 彼らは、苦しみを覚え、出家して無を思い出す。」


間違った解釈をさも本当ですみたいにやられている人は、
多くの人たちからニルヴァーナへのアプローチを閉ざしてしまう行為に繋がります。

話は変わりますが、私も久々に風邪をひいたようです。

土曜日、頭痛、喉痛し、日曜日 症状同じく 
月曜日 頭痛軽減し午前中で頭痛終了、午後カラオケしてたら何と声が出ない。
火曜日完璧声出ない、鼻が詰まる、痰が出る。

私は子供の頃から、病気の時も普通に動く習慣があるのです。

たまに風邪も良いですね、メンタルのメンテに活用できる、
体は病気になっても心は病気にはならないってね。

表面に苦痛を表す事無く人にそれを悟られることなくです。

しかし、声が出ないのは仕方ないですね。

風邪は楽しい。

習慣とは恐ろしいもの、染みついている。

344 ラピ。 :2014/02/11(火) 22:13:28
みなさま、こんばんは!

TK師、
よくなりますように。

声は出るようになりましたか?

はい、そうですよね。
やはり、至る前の習慣って至っても残っていますよね。


私も今の自分の状態をうまく言葉では表せず、
言葉になりません。
言葉に表そうとするならやはり「否定形」を使えば
なんとなく表せると思います。

「私がありません」
と言う「私」も消滅している、という感じです。


>確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
>最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。

はい。
言葉に表そうと思っても表せません。
何の言葉でも表せない。

いったい、なんなんだ、これは?

という状態です。


師匠が紹介されていたWikipediaにこう書かれていますね。

>「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではないと観察し、
>これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

この文、適切に表せていませんね。
「あらゆるものが我ではない」と観察できるということは
あらゆるものが存在していますから
「あらゆるものが我ではない」と観察する時点で
違いますね。

あと、智慧によって理解することはできません。
そもそも理解することではないからです。

この文はもっともらしく書かれていますが
これらを鵜呑みにしてしまうとちょっと違う方向に行ってしまいそうですね。



>例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
>この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

はい。「非在」ですね。

師匠、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

345 TK :2014/04/26(土) 09:07:47 ID:drNPBZVQ0
私はラピ。さんに出会ってしばらくは精神世界の人的だったと思う。

しかし、その前は精神世界の人的ではなかったし今もまたそのようになりつつある。

メンタルを出来上がらせたおかげで、
人と比べて劣等感を感じなければならないレベルの能力ではなくなった。

大まかに言えば「瞬間」というものを確実にものに出来たと言う点だ。

瞬間的な対応、瞬間的な反応、瞬間的な察し、あるがままの情報。

メンタルを改造した、そこから私の人生はまた新たなスタートを切っている。

もちろん精神世界などという、そのような辛気臭そうな気持ち悪そうなものは、
はいさようならのカラッとした人生だ。

釈迦もイエスもそのようなものはもう一切私には用が無い。

そのようなものを必要とした私にとっては幼児期に当たるような時代も過去にはあった。

精神世界など、
そんなつまらないものにいつまでもしがみついているちんけでバカな者達。

悟りに至るための実践は、カルマの先取りをする仕組みには出来ているが、
それでも悟ったからと言っても果たさなければならないカルマは残る。

阿羅漢となったアングリマーラやモッガラーナもカルマを背負っていたし、
私の想起できた前世と今の環境を照らしてみてもそれは分かる。


目連 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3

>舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、
>なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、
>「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、
>況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。
>来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。


悟って物事を処理できる能力は上がっても、
それがストレートに自らの境遇に反映してこない部分がある、
まるで環境の方が必死に変わるまいと頑張って抵抗しているようだ、
だからこそ人生は面白い。

まるでアングリマーラのようだ。

その部分は、メンタルのメンテ素材としてフィードバックし利用できるわけだが、
かと言って以前に味わった種類の苦悩がそこで発生することは無い。

そのような苦悩を発生する原理の生き方はしていないからだ。


央掘摩経より
>アングリマーラは、独り静かに精進をして、
> 梵行の究極の目的である、阿羅漢に到達した。
> 彼は、もはや、生まれ変わらないことを知った。
>
>ある日のこと、彼が、托鉢に回っていると、
> 昔の彼を知る人が、彼に石を投げ付けて来た。
> 彼の頭は血が流れて、彼の衣は裂けてしまった。
>
>それを見た、仏陀は、彼に、このように言った。
>
> 「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
> 以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
> 地獄で味わう苦悩を、現世で味わった過ぎない。」


さて、私は精神世界的な内容からは再び離脱する。

人生というものは自らの能力で切り開いていくと言うのが私の理論だ、
精神世界系の辛気臭い話はうざくて、そういう連中をかまうのも真っ平ごめんだ。

世の中の落ちこぼれの者たちはどうぞどうぞそのまま落ちこぼれていて下さい、
嫌になるまで、どうぞご自由に、
落ちこぼれる事の自由の権利はあなたたちに与えられた特権的自由だ。

そもそも精神世界のその「精神」と言う中核が無いこちらにしてみれば、
精神世界?何妄想こいているんだの世界です、
そのような与太話に私がお付き合いするつもりはありません。

落ちこぼれる事の自由を私はあなたたちに認める、
自由の女神がいてよかったですね。

精神世界、気持ち悪い。

一人の人物を輩出できたのは確かだが、
やがてそのうち私同様に変わっていくのかもしれない。

346 ラピ。 :2014/04/26(土) 11:56:55 ID:DaF3LKxc0
みなさまこんにちは!

TK師、書き込みありがとうございます。

おかげさまで私は至ることができ
大変穏やかに過ごしています。

本当にTK師のおかげです。

私は日常、表面上はいろいろな表現をしているように見えるかもしれませんが
何も起こっておりません。

だから苦悩しようがない。

いわゆる苦悩のシステムが消滅した、ということです。


これからのラピ。ですが はい、変わっていくでしょう。

変わるものがなく、変わっていくように見えるだけですが。

だから、これからラピ。が表現していく時に
それまでのラピ。を知っている方は違和感を感じるかもしれませんね。


思い出すのですが
私が初めて師にメールをしたとき
精神世界の人間である私への返事は大変そっけなかったです。(笑)

懐かしいです。

結局、自分が経験したから言うのですが
精神世界論にいては至れません。

精神世界の話なんて
まったく邪魔になるだけ。

頭でっかちでわかったふりをして生きていくのも自由ですが
それどまりになってしまう。

頭でっかちで満足してその気になっている人をたくさん見かけます。
(それで幸せだというのなら、それも自由ですが)

そうなるくらいなら精神世界論は必要ないと私もそう感じております。

あきらめなければ道は必ず開けます。

私がそうであったように。

347 TK :2014/04/27(日) 09:52:38 ID:drNPBZVQ0
大企業のような大組織になればなるほどに、
どこまで行っても上が居て下が居ての世界だ。

特定の人物からほとんど誤解のような理由から、
一方的に敵外視されそれをあかるさまな態度に現わされ、
それが業務の支障の一つになっているような事もある。

自分が誰しもに誇れるレベルの能力差を身に付けたところで、
それでも目に見える評価をしない上の立場の者の存在。

突然自分の前に業務遂行の障害となって立ちはだかる人物が出現したりもする。

アングリマーラやモッガラーナのように、悟っても、人から敵意の目を向けられる、
これが自らの宿したカルマというものだ。

確かにやられるだけの事を過去に自分もやったのだから、
その意味では甘んじてやりすごすべきものだ。

それでもスローペースではあるが環境は確実に変わっているし、
変わらざる得ない状況と言えるものだろう。

敵意を向けるものに敵意で返さない、
立ちはだかる障害と思われるものも甘んじてやりすごす、
時に孤立に追いやられたりもしたがその時は独り居を楽しむ。

それでも、悟っていれば堂々として居れるし、
人に誇れる能力差もありエネルギーにも満ちている。

私は悟っていなかったらこのような環境で、
カルマと苦悩の堂々巡りの泥沼のような日々を繰り返していたことだろう。

やはり、悟りは快適だ。

実は、これらは悟る前の実践段階で現れる種類の障害では無い、
これは悟った後に現れる種類の障害だ。

だからこそ、ここから先は身に付けた能力差で臨み解決していく必要がある。

まるでドラマの主人公のようだ。

楽しいものだ。

根底にあるものは「ゆとり」だ。

傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。

大いに結構、腕の見せ所というものだ。

だからこそ人生は面白いゲームだ。

348 ラピ。 :2014/04/27(日) 22:36:41 ID:KL1N1kb.0
私も至った後、とても快適に過ごしております。

悟る前は何かが私を邪魔しているようで
何をしてもそれを感じており
何をするのにもそれに打ち勝つ意志が必要だった。

言い方を変えれば、がんばることが必要だった。
「嫌だなぁ」と言う声を無視し続ける必要があった。
行動の前に「意志」が必要だった。

しかしそれが消滅したおかげで
邪魔するものがなくなりすごく楽です。

いわゆる「ありのまま」という状態です。

ただし、このありのまま
「私はありのままだ」という意味ではありません。

「私はありのままだ」と言うそれが消滅した状態です。


悟る前までは私は「私らしさ」というこだわりがあまりにも強かったため
あるパターンにはまっていました。

我(=エゴ)が強かったため(ほんと、ほんと強かったです)
なんでも自分の中で意志を通しすぎるところがありました。
(でも、そのおかげで実践をとことんできたのですが)

そしてそれによる出来事の影響下にばっちりおりました。

でもその頃はそれが当たり前だと思っていて、なにも見えておりませんでした。
はい、見えていませんでした。

しかし今は「見るものがなくて 見えてしまう」ので
今までのことがどういうことだったのかわかってしまうのです。

悟ってもそれまでのパターンが残っているので
悟る前のパターンで出来事が起こり
それによってそのパターンがどういうものなのかが見えてしまいます。

空っぽですからパターンがありのままに見えてしまうんですね。
からくりが見えてしまうのです。

カルマの名残があることはある意味、とてもありがたいことです。

名残がないならないで、それでもいいのですけどね。
どっちにしろ問題はありません。

こんなふうに過ごせるなんて 激流突入時には想像もできなかった。
(ちなみに正しく言えば想像する暇もなかったのですが)

なんだかおもしろいですね。

349 魔王 :2014/05/29(木) 08:24:57 ID:001mTVu60
>では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。



TKはなかなかの癖があるタイプとみた。

350 魔王 :2014/05/29(木) 08:26:27 ID:001mTVu60
>根底にあるものは「ゆとり」だ。
傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。
大いに結構、腕の見せ所というものだ。
だからこそ人生は面白いゲームだ。



神の遊戯的風貌のある人だなあ。

351 :2014/06/01(日) 15:51:45 ID:2OB2rbPY0
悟りは、言葉であらわせない。
「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。
では、われわれは悟れないかというとそうではない。
言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。
それです。

352 嵐山 :2014/06/01(日) 17:37:26 ID:njdwPOGQ0
いえいえ 悟りとは 梵我一如 である

353 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:35:54 ID:o9R.myHw0
某さん

書き込みありがとうございます。

なるほどです。

>「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。

そうですね。そしてその真実といわれるものすらない状態がさとりです。

>言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。

のそのさらなるものがない状態がさとりです。

354 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:37:27 ID:o9R.myHw0
嵐山さん

魔王さんのお友達ですか?

「梵我一如」って言葉、
私にとっては聞きなれない言葉です。

355 嵐山 :2014/06/02(月) 00:22:09 ID:njdwPOGQ0
ブラフマン とか アートマンとか 聞いた事ないですか?

356 ラピ。 :2014/06/02(月) 07:45:40 ID:srMrMveM0
嵐山さん

梵我一如、ブラフマン、アートマン
これらの言葉、検索してしまうレベルです。

「梵我一如」検索してもよくわからなかった、、、、。

もともと言葉にできないことですから
そういう言葉を知らなくても今に至れたのかな。

357 嵐山 :2014/06/02(月) 08:22:46 ID:njdwPOGQ0
ヒンドゥ的考え方で インドの三大天の一人 ブラフマー って神様がおります

この神様宇宙を想像した神様らしいのですが この神さまと同じものが

あらゆる物体に宿っている それがアートマンです

ブラフマー=アートマン これがヒンドゥの悟りらしいのですが

ちなみに ブラフマーは仏教の梵天様の事です

仏教でいう悟りは違いますのであしからず

358 嵐山 :2014/06/02(月) 08:33:31 ID:njdwPOGQ0
悟りについて で 書き込めばよかったですね
あちらに 移動します

359 ラピ。 :2014/06/02(月) 12:40:20 ID:TYoEs5Ls0
嵐山さん

>>357

わかりやすく教えていただきありがとうございます。

なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。

>>358

ありがとございます。
そちらでもよろしくです!
@(*・ω・*)ポッ

360 riri :2014/06/02(月) 19:55:53 ID:33MxHT3s0
何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

>梵我一如
私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>真実といわれるものすらない状態。言葉を発しない、言葉の元となる想念さえも
>ない沈黙のそのさらなるものがない状態。
とありましたが、これを読んで私のイメージに浮かんだのは死人でした・・
少なくとも、この現実社会で生きているリアルな人間に繋がるイメージは持てませんでした

思うのですが、私達一般人にとって、言葉で伝えるということはとても大切なことだと思います。
それがあるから人類は古代から現在まで発展することができたのではないでしょうか。
どう言葉にすればいいか分からないことや理解していない人に対してどうすれば分かりやすく
伝えることができるんだろうといったことは、一般人が一般社会の中で生きていくために避けては
通れないことだと思うんです。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

361 嵐山 :2014/06/02(月) 20:17:40 ID:njdwPOGQ0
仏教的に言うと「仏性があるか」 と書けばよいのでしょうか?

362 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:52:13 ID:fhZcLxbQ0
>>360 riri さん

>何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

ようこそいらっしゃいました。
ちなみにごくごく一般人は、さとりなんて興味持ちませんよ。

現実の私の周りにさとりに興味を持つ人はほとんどいません。
普通に生活しています。

>>梵我一如
>私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
>私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>感じなのかもしれないなと・・

そう想像している時点で実は離れてしまっています。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
>ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

riri さんが「わかる」というとき
それは「想像できる」ということです。

梵我一如がわかりやすいとのことですが
それがわかった、というのはriri さんの理解の範囲内でのことです。

でももし、自分の想像以上の世界があるとき
それを想像できたり
わかったりすることができるでしょうか?

想像できる時点で想像内のものになりますので。
想像以上のことは想像できないはずです。

私がriri さんにさとりの定義を伝えてriri さんが納得したのなら
その納得したさとりはもうさとりではありません。

さとりは納得したりわかったりするものではないからです。

私がriri さんにどんなに伝えても
(今までもこの掲示板で何度も、そしてこの最近も伝えているんですが、、、。)
riri さんは勝手に自分で解釈してしまうでしょう。

「わからない」ことがさとりへの道です。
「わかった」といった時点でそうではなくなってしまう。

この答えもたぶん、riri さんは納得しないでしょうね。

riri さんは何を求めているのでしょうか?
悟ることを求めているのですか?
それとも知識として求めているか、興味本位?

riri さんが私の言葉から死人を想像したように
今のriri さんにはさとりの境地はあっていません。

まずは精一杯生きることをお勧めします。
死ぬことではなく生きることです。(これも例えの言葉ですよ)

さとる必要なんてないんです。

まずはしっかりと自分を生きた人が
そうせざる得ない状態になって初めて
さとりの道が開かれます。

わたしがそうであったように。

363 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:56:30 ID:fhZcLxbQ0
>>361

嵐山さん

私は仏教はちょっとわかります。

TK師にいろいろ教えていただいたから。

「激流」って言葉知っていますか?
(私はTK師から聞くまで知らなかった、、、)
まさしく私はその言葉のとおり
激流を渡って彼岸にわたりました。

この「激流を渡って彼岸にわたる」という言葉
釈迦はうまく表現してるなぁなんて思います。

>「仏性があるか」

なんもないんです。
ほんとうになんも。

364 riri :2014/06/02(月) 22:01:41 ID:33MxHT3s0
ラピさん、ご回答ありがとうございました。

365 riri :2014/06/02(月) 22:50:58 ID:33MxHT3s0
質問させてください。

ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

366 ラピ。 :2014/06/03(火) 00:09:53 ID:ZDDtW07.0
ririさん

ご質問ありがとございます。
@(*・ω・*)ポッ

>ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
>増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

さとれば苦悩から解放されます。
とても楽に生きていけます。
そういう人が増える、ということですね。

>たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

まず、さとりは理解できないものです。
たださとってしまえばそれがどんな状態かわかります。

だからさとればいい。

ではどうしたらさとれるか。

ここです。

さとりの道は決して楽なものではありません。

釈迦の言う「激流」がさとる前に必要なのは私も経験しています。

激流とは言葉のとおり激流で
一瞬でも気を抜いたら流されてしまう。


>変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
>現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
>思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

誰でも簡単に普通にさとれる時がくるか?ということですかね。

それはないでしょうね。

さとりそのものが簡単ではないからです。

さとりはどんなことも極めて、さらにそれを超えることとも言えるかもしれません。
なんでも極めるためには努力が必要ですよね。

そしてその努力すらも越えることです。

さとりが何かによってもたらされることはありません。

「もたらされる」ということ自体が
さとりから離れてしまっているからです。

だから「自分」が実践するしかないです、どんな時も。

367 嵐山 :2014/06/03(火) 12:04:34 ID:njdwPOGQ0
ラピさん 彼岸などに渡れませんよ 激流など妄想です
仏がなければ仏教ではありません

368 ラピ。 :2014/06/03(火) 12:35:12 ID:4w9Dm3860
>>367 嵐山さん

彼岸も激流も例えの言葉であり、
もちろん彼岸なんてありません。

しかし激流は別の表現ができます。

私にとっては「葛藤」というものでした。

私が決めたこと実践するに当たって
その実践を「したくないな」と思うことがあったとき
その「したくない」思いも無視して実践する。

ここでかなり葛藤が生まれます。

「したくないよ〜」と言う自分に
「いや、やれ!」と命令して実践し続けるんです。

嫌がる自分を無視して実践し続けたら
なんと実践そのものが消えてしまいました。

嫌になるもの、そのものが消滅してしまったのでした。

なんじゃこりゃ?です。

>仏がなければ仏教ではありません

そうなんですね。
嵐山さんの言う仏ってなんですか?

369 嵐山 :2014/06/03(火) 19:15:04 ID:njdwPOGQ0
涅槃を彼岸と取り違えてないでしょうか?
ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
物質世界 六識では認識出来ない事もございます それが理解できるようになりましたら
仏様のお話をしましょう

370 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:16:27 ID:4w9Dm3860
>>273 あやふやさん

>低俗高尚さまざまに心に起こる願望を
>行動に移しあらわし続ける生き方というのは
>悟りに何か役立ちますか?

あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのあやふやさんの生き方は
スピリチュアル系から得たものですか?


>最近は自分が何を求めているのか全然わからないが
>ちょっと病気をしちゃったので病気に対処して動いてるだけのことが多い
>最近ようやく体を動かしやすくなってきたので今日は数時間歩けたのでとてもうれしい

少しずつ、よくなってきてよかったですね。

371 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:22:06 ID:4w9Dm3860
>>嵐山さん

私はそういう話はわかりません。

ちなみに「嵐山さんの言う仏ってなんですか?」という私の言葉は
私にそれを教えてほしい、という意味ではないんです。

372 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:53:42 ID:4w9Dm3860
>>369 嵐山さん

言葉が足りませんでした。

私がわからないところは
>ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
です。

そうなのかな。

彼岸と涅槃の違いはわかります。

373 あやふや :2014/07/01(火) 06:35:12 ID:ZDoFNhv60
このスレに書き込んどいて忘れていました
すいません
>>370
> >>273 あやふやさん
> あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
> 何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのとおりのようですね
結構自分にがっかりしました
>
> そのあやふやさんの生き方は
> スピリチュアル系から得たものですか?

少しこのスレをよんだところ
スピリチュアル系からというか
自分が現実でしたいことを精神的なものと
混ぜごぜにしていたかなと思います

> 少しずつ、よくなってきてよかったですね。
ありがとう
病気のおかげで何もかも変わってしまったようです
結構ありがたいです


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