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肉食忌避の問題について

4童子:2013/01/14(月) 13:20:39
 ※トップ画面では改行が変で読みにくいですが、『全部見る』だと普通に読めます。



           『肉食忌避』つづき

 生命は不死であり、現象界から生命は去っても霊界にその生命は天現するのであるから、自由意志で転出する場合には罪悪ではない。またそれが痛苦を伴わない場合には残虐ではない。


 ところが肉体の苦痛は、痛覚細胞があって、末梢神経の痛覚細胞の刺戟が大脳の痛覚中枢につたえられて脳細胞のエネルギーが心の痛みに変化して始めて感じられるところのものである。爪や髪の毛は生きていても痛覚細胞がないから痛みを感じない。


 “とかげ”の或る種類はその尾をもって捉えようとするとき、みずからその尾を自然に切断して逃れ去る。その尾は暫くは生きてもがくが如く跳ねているが、それは脳髄の痛覚細胞から切断されてしまっているから痛覚は無いのである。

 肉体のもがきは必ずしも本人の苦痛の表示でない事もある。首を突如として切られたる人間は、その胴体にある手足は暫くもがいているが、それは脳髄中枢から切断されているから痛みを感じていない。それでは切り離された方の頭首は痛んでいるかと云うと、瞬くうちに多量の出血が頚動脈から噴出するので、一定の圧血量を失った脳髄は知覚を失って痛みを感じない。

 結局苦痛と云うものは、肉体でショックを受けたのを知らせる極短時間か、痛むだろうと想像する人間〈又は生物〉の心の観念中にあるのみであると云える。死と見える現象そのものの中にはそれほどの苦痛はないのである。神は決して生き物にそれほどの実際の苦痛を与えてはいられないのである。


 それ故、残虐とは、相手に恐怖心を起さしめ、苦痛の観念を起さしめる行為に名づけられるのであって、“かまきり”の雌が雄をその交尾中に食ってしまっても雄を恐怖せしめず苦痛を感ぜしめなかったら残虐ではない。之に反して、相手を打ちも斬りも傷けもしないでも心に恐怖や苦痛を与えることは残虐であると云い得る。


 ここまで思索してくるとき吾々が植物の果実や菜根を食うのは悲惨であろうか。残虐であろうかと云うことになる。決してそうではないのである。

 植物はみずから翼なく、脚がなく、位置をかえる飛翔も歩行も出来ないので、動物にその運搬を以来するのである。“ただ”運搬して貰う訳には行かないので、その報酬を与えるために美味の果汁や果肉を備えて動物をひき寄せる。

 若し動物が果実を運搬してくれなかったり、間抜きをしてくれなかったりしたら、同じ狭い面積に、多数の種子や苗が重り合って、同類相互に殺し合って、種属の播殖が出来ないので、種子を適当にバラ播いて貰ったり、間抜きをしてもらったりする。その代りに美味の果汁果肉や、葉根等を動物に与えるのである。そのために、種子の熟した頃になると果実を鳥獣に目立つところの赤や黄や紫に色どって彼らの目を引くのである。
             
                      つづく


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