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トンチンカン信徒様専用版
6088
:
トンチンカン信徒
:2019/03/17(日) 10:41:23
>>6087
〜辻政信〜
1.3.関東軍への転出
二・二六事件後の1936年(昭和11年)4月に、片倉衷少佐の斡旋によって関東軍参謀部付となった。兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析している。満州国協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会、満蒙についての理念を石原から教示された。石原との出会いは辻にとって衝撃的だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まり、辻は石原のことを「導師」と呼び人生最大の尊敬を向けることになる。9月、植田謙吉大将(関東軍司令官)と板垣征四郎中将(関東軍参謀長)の名で、「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった。これに抗議して当時の満州国総務庁長・大達茂雄も辞任し、関東軍もパンフレットを必死に回収した騒動があった[12]。
1937年(昭和12年)5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった張作霖の葬儀を協和会の名で執り行っている。同年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして中華民国国軍と支那駐屯軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の参謀長・東條英機や高級参謀・片倉衷らに同調して戦線拡大を主張した。この際、作戦主任の池田純久中佐に対しては、自らが爆撃機に乗って中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いてお前の飛行機を撃ち落とすと話した為これを断念している。7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された北支那方面軍参謀となった。上下を問わず不良軍人狩りを実施し綱紀粛正に努め、兵士や平民から「今様水戸黄門」と評された。また、汪兆銘政権への秘密工作を実行した。しかし、上司である北支那方面軍高級参謀の下山琢磨大佐と以前トラブルを起こしていた経緯があり、11月に関東軍作戦参謀に転じた。1938年(昭和13年)3月に少佐に進級した。
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