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トーキングスティックボード
4572
:
縹
:2014/09/23(火) 17:50:55 ID:oeUx5MQw
以下、書籍より抜粋させて戴きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、政府がいまなすべきことは、なにか。ここにおいて、参議兼内務卿として大久保利通の後継者となった伊藤博文は、「王政復古」の道を「天皇親政」に導いてゆこうとした侍補たちとは、明らかに別の道へと歩み出そうとしていた。
『伊藤と元田の対立』
伊藤博文の「教育議」の結論部分は、元田永孚ひいては天皇の主張するような儒学の「忠孝」の道徳を教育の第一義とすべきでなく、まずは西洋文明に匹敵する国家を支える「国民」を育成すべきである、というにあった。307頁
結局のところ、天皇はこの伊藤博文の「教育議」を受け入れた。
(中略)
『儒教的君主論と、立憲君主的な機関説』
教育令をめぐる伊藤と元田の対立は、大きくいえば、国家運営をめぐる内閣と侍補との思想的対立であった。参議兼内務卿として内閣の中枢にいる伊藤の考えでは、天皇は万機を総攬し、閣議に立ち会うけれど、国家運営は内閣が責任をもってこれをおこなう、というにあった。教育についても同様である、と。
しかし、佐々木高行や元田永孚らの復古主義的侍補は、教育は天皇制国家の基礎として「忠孝」の道徳を据えるべきた、と主張し、侍補が天皇政治を補佐するとしたのである。
なお、この教育をめぐる対立は、明治二十三年発布の教育勅語までひきつがれた。すなわち、伊藤博文の意を受けた伊藤毅(当時、法制局長官)と、元田永孚(当時、宮内省御用掛)らとの対立である。
(中略)
天皇はこの御巡幸で、民衆の貧窮を目の当たりにして衝撃をうけた。そこで、民の貧窮を救う儒教的君主の理想論から、不必要な省庁の出費を大幅に削ったのである。
これによって、すでに着手した工事を除き、省庁の建築や土木工事を不許可にした。地方官庁についても同様である。
この措置が侍補たちの干渉によっておこなわれたので、外国交際のために近代的首都の建設をすすめていた政府官僚、なかんずく伊藤博文が激怒した。
伊藤は、政府に対する侍補の干渉を中国の宦官の悪弊にたとえたのである。侍補たちは中国王朝の腐敗の原因であるとされた宦官にたとえられたことで、その怒りが沸騰した。
(中略)
政府内閣の国家運営に干渉する侍補を邪魔と考えた伊藤および閣僚は、宮中における天皇の輔導役として侍補の代わりに、大臣参議を据える決議をした。
そこで、天皇は内閣決議に従い、侍補制度を廃止せざるをえなくなったのである。
これによって儒教的な「天皇親政」論は影をひそめ、政府は立憲的な制度のもとでの天皇機関説へと一歩を踏み出していくことになった。
伊藤が定めた教育令は、しかし成功しなかった。
官僚行政の締めつけから解放された教育は、自由放任主義におちいり、教育水準がいちじるしく低下したからである。
このため明治十三年十二月末には、早くも教育令の改正が文部卿河野敏鎌のもとでおこなわれている。そこでは、修身が諸学科のトップに位置づけられることになった。
つまり、伊藤のいわゆる国際主義的「科学」から儒教的道徳への後退である。314頁
松本健一氏『明治天皇という人』より抜粋
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