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トーキングスティックボード

3428:2014/05/05(月) 21:21:51 ID:oeUx5MQw

 今日は、5月5日で、本住吉神社のお祭りでした。
その近所の、弓弦羽神社も同時にお祭りです。
何台ものだんじりが町内を巡ります。
http://www.sakaerukai.com/hyogo/seichi/sumiyosi/Sumi_jin.htm
(栄える会さん勝手にリンクさせて戴いてすみません)

丁度、藤と卯の花の季節にあたり、
どちらも住吉大神様のお好きなお花です。

住吉大社の奥に、卯の花苑があり、13種の卯の花の中を散策する事が出来ます。
以下は、住吉大社のHPから。

「当社の創立記念日が神功皇后摂政11年辛卯歳(かのとうのとし)卯月(うのづき)上卯日(かみのうのひ)であることから、毎年5月初めの卯の日に卯之葉神事というお祭りを行っております。
卯の花玉串を捧げ、舞楽の奉納等、盛大に行われます。」
http://www.sumiyoshitaisha.net/topic?id=2



 本住吉神社が元で、そこから住吉大社へ移転し、それから、明石へも大神様は移られたという言い伝えがあるようです。

「大阪の住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』によれば、

住吉大神より「播磨国に渡り住みたい。藤の枝の流れ着く所に祀れ」との託宣があり、
藤の枝を海に浮かべると、魚住に流れ着いた。

そこで、雄略天皇8年(464年)に当地に住吉大神を勧請したのが当社の創建と伝える。正応5年(1292年)に現在地に遷座した。」


「神功天皇が播磨灘で暴風雨にあった際、当地に滞在し、住吉大神に平穏を祈願したところ風雨はたちどころに納まり、つつがなきを得たと伝承されることにちなんでいる。

その際に皇后の衣を松の枝に掛け干していたところ風になびき錦のように美しく見えたことから「錦ヶ浦」と呼ばれるようになった。

神功天皇が摂津の国の国住吉に鎮祭した住吉大明神が「吾が居住(す)はむと欲(ほ)りする処は、播磨の国に渡り住わむ」とお告げを出した。

そのため、大藤を切り、海に浮かべ神意を伺うと「この藤の枝の流れ着く所に我を鎮祀れ」とのご託宣した。藤は当地の魚次浜んじ流れ着いた(住吉神社神代記)。
これにより雄略天皇の464年4月初卯日にこの地に勧請し祀ったのがこの住吉神社である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%B8%82)

この魚住の住吉神社も、今日5月5日が、卯の日祭であったようです。
http://www.sumiyoshijinjya.com/卯の花まつり/


 また、『播磨国風土記』にも、住吉大神様が、「船から藤の枝を流して、流れ着いた所に祀れ」と仰られて、その流れ着いた場所が、明石の藤江という所だったとあるそうです。


 この二つの場所は、とても近くて、藤と、卯の花も関係して、住吉大神様の息づかいが感ぜられるようです。



 生長の家も、藤棚の家から、発祥しました。
生長の家誌は、このように、歴史的流れの上での誕生だったのですね。
本当に住吉大神様のお始めになられた運動だったのですね。


 そして、この藤江と魚住という場所の中間点に、明石原人の人骨の発見された場所があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BA%BA

 雅春先生は、琵琶湖の近くで日本民族の誕生があったのではないかと仰っておられましたが、
私もそれが正しいに違いないと思っています。
このように、住吉大神様にご縁の深い土地に、古代人の骨の伝説が残っているのも、偶然ではないのかも知れません。


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