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二元論 (1.)

11とは(管理人):2021/07/17(土) 23:31:26
ご意見ありがとうございます。

自由・選択ということをどう考えるかというのは根本的な問題のように感じます。

例えば因果律を前提とした必然や確率があるとするからこそ、予測が可能となりその予測を基にして選択が可能となる部分もあるでしょうが、もし原因と結果の関係性が必然あるいは確率によってすべて決定されると考えるのであれば、自由や選択という能動性は否定されるのかもしれない。そして、もし能動性を否定するなら、生を語ることや責任を問うことは難しいようにも思えます。

もちろん、あくまで社会的問題としてなら、我々に自由意志(能動性)があることを前提とした上で、強制や義務からの自由があるかまた、権利を行使することへの自由があるかということのみが問題となるのかもしれませんが。

一般に自由というと「〜からの自由」と「〜への自由」、言い換えれば”可能”と”選択”を含むことのように捉えられているようにも思えますが、それをどのように解釈するのかということも難しい問題のようにも思えます。

これを、我々には能動性があるのかどうかという論点で考えようとするなら、自由とは”複数の可能性があることを前提として、選択によって対象や結果に対して有意義な影響を与えることができること”、言い換えれば「原因からの束縛を受けない」ことであるとともに「結果への束縛を与える」ことのように一般的には捉えられているのかなとも思います。ただ、このような解釈は主観と客観がごっちゃになっていてるのではないかなとも思えます。

これを、主観的に解釈しようとした場合、主観的には選択という行為は自覚し得ることかもしれませんので、自己の行為に対して責任を感じることは可能だと思います。
この場合は、主観的に複数の可能性があるとはどのようなことかということも問題となるようにも思えますが。

またこれを、いわゆる客観的に解釈しようとした場合、選択という行為をどのように客観的に明らかにできるのかということが問題となるようにも思えます。それは、可能性の中のどれかが行われたという結果のみではそれが選択か、あるいは偶然や確率かを区別できないのではないかと思えるからです。また、選択という行為が行われるには、いわゆる意志といわれるような「〜への自由」に向かう何らかの主観的志向性があることが前提とされているようにも思えます。

そして、もし選択という能動的行為を客観的に明らかにできないのであれば、他人の行為に対して責任を問う根拠は別のところに求めなければならないようにも思えます。このような意味に限っては、自分に自己責任を問うことはできても、他人に自己責任を問うことはできないのではないかとも思えます。もし、それでも他人に責任を問おうとするなら、その根拠は例えば、共感や合意あるいは強制など他のところに求めなければならないのではないかとも個人的には思えます。

ちなみに自由に関する個人的な考えは、HPの私の意見の「自由とは」である程度述べています。


ただ、苦悩について考えるという観点でいえば、感覚や感情あるいは目的意識などにおける精神的志向性(快不快・好き嫌い・固執・欲望・願望・意志など内容や表現は色々でしょうが)があり、それと結果(経験)とのギャップが苦悩を生み出すのかなとは思います。

そして、恐らく人は精神的平静を装うための自己防衛として、自分の志向性に目をそむけて自分をだましながら生きている場面も多いのではないかと思います。例えば、「あいつがこうしたから、自分もこうしてただけだ」とか「そんなつもりじゃなく、こういう正当な理由があってそうしたんだよ」とか「気が付かなかっただけで、気付いてればそうしたさ」とか、でも実際そうじゃないと自分でも薄々は気付きながらも、それが表意識に現れないように蓋をしようとして更に苦悩していることも多いのかなと。

そういった、実際の自分の志向性とは違った形で、色々なことを受け入れられずに拒絶するような価値観や態度が固定化されているということも確かにあるように思います。そういった意味では、自分の志向性に向き合ってみるというのも、それ自体は苦痛であっても、楽になれるひとつの方法なのかなとも思います。


長文失礼致しました。また、ご意見等ございましたらよろしくお願いいたします。


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