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1
:
3140
:2011/02/15(火) 21:25:04
*前掲示板閉鎖のため、こちらに移行させていただきました*とは(管理人)
命は尊い、これは私の基本理念です。
例えば、虫が家に迷い込んできても私は殺さずに逃がしいます。
それが例えゴキブリであっても、出来る限り逃がしています。
養鶏場の身動き出来ず、本来は太陽の下で生きる事が出来るはずの鶏が
太陽を浴びると失明してしまうという話を聞いて、悲しくなります。
だけど鶏肉も卵も食べますし、「残酷」だと言うつもりもありません。
ただ、食べ物を残さず、感謝は忘れずにする事を心がけています。
歩いてる最中、車の運転の最中、気がつかない内に多く小さな命を奪っています。
それが目に見えていれば当然回避しますし、したくてしている訳ではありません。
飼猫についてるノミも殺してしまいます、命は尊いと思っているのに。
人間に置き換えて見ると、殺人の報道を聞くと胸が痛みます。
どんな事があっても、殺人は良くない事だと認識しています。
だけど例えば、少女を9年間監禁し毎日レイプし続け家畜同然に扱った事件。
あの少女の父親が、犯人を殺してしまっても「仕方が無い」と思ってしまいます。
犯人の親は悲しむだろうし、更正の可能性も否定はしません。
何にも成らないのは承知していても、その様に思います。
バグダットの民間人による斬首処刑を見ていると、
何の躊躇も無く、作業的に、人の首を切っている様に見えました。
私は日本に生まれ、みさなんと同じような環境で育ってきています。
イラクに生まれ、テロを行わなければ成らない状況で育ったわけでは無いけど
私の物差では計りきれない感情や想いがあるんだろうと思います。
だから「こんな事をするのはマモトな人間じゃ無い」と思えないです。
実際、私がイラクに生まれ、戦争や民間人の無差別処刑などで
親や兄弟、恋人を失い、明日への希望が見えず、生きる事に希望が見えず、
必死で自分の国や環境を変えようと戦う事だけにしか希望が見出せなければ、
私も人を躊躇無く殺してしまう可能性だってあると思います。
命は尊い、これはイスラム教でも基督教でも仏教でも密教でも変わらないハズ。
米国でも英国でも独国でも、もちろん日本でも変わらないはず。
だけどどうして、命の重さに違いがあるのか。
どうして命の重さの認識が環境によって変わってしまうのか。
猫や小鳥が死ぬのは可哀相で、虫や鼠の死体は気持ち悪い。
これってオカシク無いでしょうか。
親類や知人友人が死ぬと悲しい。
まったく知らない人がニュースの中で死んでも気にも留めない。
殺人は良くない、だけど状況によってはと思ってしまう自分が居る。
同じ命なのにどうしてなんでしょうか。
2
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 21:25:57
3140さんはじめまして。
重い話題なので、安易に返答するのは問題なのだろうと思います。
様々な範囲や方向性での考えがあり得るのでしょう。
ただ、抽象的に捉えるなら、我々は客観的世界に生きているのではなく、
主観的な世界に生きているのではないかということはあるように思えます。
ですから、根本的に「同じ命」という客観的あるいは絶対的共通認識が
あり得るのかということは問題になるのではないかと思います。
言い換えれば、ある物事を同じものとして扱うこと自体の困難さも
あるのではないでしょうか。
おそらく、我々はもともと主観的世界に住んでおり、どこかで客観的世界の
存在に気付く(あるいはその存在を信じる)のではないでしょうか。
そして、このような世界観の中で日常を生きている人が
多いのではないかと思います。
しかし、我々が体験している世界の全ては主観において捉えられた
ことでしかないのではないか、という反省もあり得るでしょうし、
そのような世界観で生きることもあり得るということでしょう。
そして更に、それを自覚してもなお、客観的あるいは絶対的な何かを
何らかの形で肯定するという世界観もあるのだと思います。
もちろんこれ以外の世界観もあるでしょう。
つまり、自分がどのような世界観の中で生きようとするのかによって、
物事との係わり合い方は変わってくるのではないでしょうか。
また、もし命を「同じ命」として共通認識できたとしても、
命の重さという<価値>は、相対的にしかならざるを得ないようにも思えます。
それは、(HPの私の意見の「価値とは」でも書きましたが)価値というのは、
何らかの価値観という限定的な方向性で捉えなければ定まらないことのように思えま
す。
つまり、絶対的な価値というのはあり得ないのではないかと思うのですが
どうでしょうね。
ただ、そうはいっても実生活のある状況下で生・死に直面するときの
衝撃というのは非常に大きいですね。
実生活における物事にどう向き合って、どう対応するのか、
そういう具体的なことがまた難しいことなのだと思います。
ちょっと横道にそれますが、
>猫や小鳥が死ぬのは可哀相で、虫や鼠の死体は気持ち悪い。
これってオカシク無いでしょうか。
という文章がありましたが、これに関してちょっと思ったことを書いてみます。
かわいそうという感覚は、かわいいという感覚から来るのかなと
ちょっと思うのですがどうでしょうね。
かわいいという感覚は本来子供に対して向けられることで、
それはそのものを保護しようとする目的指向性ではないかと思うのですが。
そして、そのものが負の状況に陥るのを見てかわいそうという
感覚になるのではないかと。
それと、我々はより異なるものには共感や同情を感じにくいということは
あるのかもしれませんね。
例えば、虫や魚の死に関心を示しにくい傾向はあるように思えます。
(鼠に関してはこれとは別で、病原菌を運ぶ汚いものというような
先入観があるからなのかもしれませんね。)
返信が遅れて申し訳ありません。
ちょっとぼんやりした話になってしまったかもしれませんが、
一応思ったことを書いてみました。
またご意見お待ちしています。よろしくお願いします。
3
:
3140
:2011/02/15(火) 21:26:38
ご返信ありがとうございます。
主観、客観、で価値観は大きく変わる、確かにそうかも知れません。
完全な主観、又は完全な客観はありえないからこそ、考え込んでしまいます。
色々と参考になりました、本当にありがとう御座います。
可哀相という感覚、言い換えれば「慈悲・慈愛の心」とでも言うのでしょうか。
私の場合ですが決して「可愛い」から来ているのでは無いと思います。
見ず知らずの中年男性や中年女性が残念そうにしている様など
を見てもそう思える時があったりしますし・・・。
主観的に見て、「可哀相と思う対象=可愛いと思う対象」
では無い場合も多くて、こちらも考えてしまいます。
曖昧な自身の価値観の位置を、少し客観視して頂きたくて書き込みました。
丁寧にご返信頂いて本当にありがとうございましたです。
4
:
アル
:2011/02/15(火) 21:27:39
あなたのそのモノや人に対する命の大きさの違いがあるからじゃないの?
人は大きい存在。虫は小さい存在。違ってたらごめんね。。。。
5
:
???
:2011/02/15(火) 21:28:09
命に価値を求めるから差が出るのではないか?
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