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真理について

2とは(管理人):2011/02/15(火) 20:44:51
kyouさん、はじめまして。
ご意見ありがとうございます。返事が遅れてすみません。

現象学、あるいは哲学について(それ以外もですけれども)あまりちゃんとした知識がある訳ではないので、的確な回答になるかどうか分かりませんが、

何を考えるにせよ何を根拠とするのか、あるいは何を自明とするのかというようなことが、まずは問題となるのだろうと思います。そのとき、もし絶対的なことがあり、それを捉えることができるのであれば、それを根拠とすればよいのでしょうし(もしそのようなことができたとすれば、世界は意味を失うことにもなるのでしょうが)、もしそのようなものがない、あるいはそのようなものを捉えることができないとするのであれば、何を根拠とすればよいのかということを考えなければならないということになるのではないかと思います。

このような意味で、「真理とは」ではあくまで絶対的な存在を真理として考えているということであり、そのようなものを一般的な方法で捉える(認識する)ことはできず、その存在・非存在は不明確であろうということを述べているつもりです。

そして現象学においては、そのような絶対的存在を捉えられないとした上で、どのように考えるのかということを、主観における何らかの普遍性を含んで語っているように思えます。

ただ、絶対的なものを否定するのであれば、何らかのものを感じているということ自体以上のことは、それぞれのものはどちらがよりどうかというような判断をせざるを得ないということになるのではないでしょうか。そしてその為には、その判断の何らかの方向性(例えば、意味とか)を決めてやる必要があるのではないかと思います。もちろんそのような方向性が決まっている(普遍的である)と考えることもできるでしょうが、方向性というのは既に相対性を含んでいると言えるのではないでしょうか。

つまり、絶対性を否定するのであれば、そこにどのような普遍的なもの(それを真理というのかどうかはともかく)を見出すにせよ、何らかの相対性を含んだ方向性(志向性)を前提とせざるを得ないのではないかと思えます。

その為、個人的には根拠を何らかの普遍性に求めるのではなく、もっと開き直って、方向性(志向性)としての意志というものに求めてしまってもよいのではないか、ということで書いているのが「答えとは」であると言えると思います。

そして、その答えがそれなりの客観性を示す理由として「答えとは」と「正しいとは」で、意志の共通性と答えの無矛盾性を考えています。また、絶対的存在との関係としては、意識及び意志の自明性を根拠としてそのようなものの存在が要請されるのではないか、ということを「(自由)意志とは」「生きているとは」及び、今後書く予定の「精神とは」「意志とは」などで書いてみようと思っているというところです。

今私が考えていることの流れは大体こんな感じなのですが、いかがでしょうか?
私の考えで書いた「真理とは」以降の総括という感じになってしまいましたが、kyouさんのご指摘への返答になっているでしょうか?

またご意見頂けると大変ありがたいです。


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