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永井均×入不二基義 「現実性について―私・今・現実―」

12メビウス@管理者:2012/08/31(金) 22:39:54
was a beeさん、こんばんは。
入不二氏の現実性概念は実存主義的な存在論であるような気がします。

>>5でリンクした公式サイトの公開論文にも、
>ニュートラルな(現実世界に対して外在的で無関与な)視点など、取りようがない。
と、現実性が一人称的な概念であることを伺わせています。
だから>>7で書いた受講者の質問に対して解答に困ったのだと思います。

でも「私の死によって現実性が消失する事態は想定しうる」というのは矛盾であるような気もします。
それなら「世界」の中に、それぞれ個別の現実性を有した人物たちがいるという、
様相ネットワークをイメージできますからね。

あと「現実― 現実性― φ」については、確かに永井氏の「開闢」概念に近いですね。
「φ」の意味については『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』のp90-91あたりが
わかりやすいです。そこではウィトゲンシュタイン独我論の「私」について書かれてるのですが、
シュリックやストローソンの無主体論とは対極的に、ウィトゲンシュタイン独我論の「私」は
決して対象化されないけれど無ではない、という主旨の解説の後、その「私」を表現するために、
>「φ」とは、「私」の類比運動の仮想の極点であり、まったくの「無主体」である。
と述べられています。
この考え方は永井氏が〈私〉の語りえなさを論じるときの「累進構造」と近いですね。
入不二氏からすると、累進構造の仮想の極点に「無」としての〈私〉があるという所でしょうか。


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