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「ら抜き言葉」・「れ足す言葉」について語るスレ

1名無しさん:2011/01/05(水) 03:22:50
現在の共通語では、可能の意味を表す形として、
五段動詞は「書ける」のような可能動詞形を使い、
一段動詞やカ変動詞は「見られる」「来られる」のような助動詞形を使うのが
「規範的」で「正しい」とされることが一般的です。

しかし、一段動詞やカ変動詞も五段動詞に類推して、
「見れる」「来れる」のような可能動詞形を使う人が増えています。
これを「ら抜き言葉」と呼び、「言葉の乱れ」として糾弾する人も多くいます。

しかし、全ての動詞で同じ派生規則を使えること、可能と自発・尊敬・受動を区別できることから、
合理的な言葉の変化・「進化」であると歓迎する人もいます。

さらに、五段動詞の場合に「書けれる」のような形を使う人も現れています。
これも「れ足す言葉」として糾弾の対象になることがあります。

このスレッドでは、「ら抜き言葉」「れ足す言葉」や、
それらに関わる可能形の色々について語りましょう。

2名無しさん:2011/01/23(日) 22:24:08
ら抜き言葉が一番最初に確認されたのは静岡県の方言集らしいな。100年くらい前からあるらしい。

「ら抜き言葉」の形が普通な方言は結構あるらしいけど、「れ足す言葉」の形が普通な方言はあるんだろうか?

3名無しさん:2011/01/24(月) 00:11:01
方言によっては、「見られる」と「見れる」で意味が違う場合もある。

例えば秋田では、能力可能と状況可能を区別する。

能力可能 - 能力不可能 / 状況可能 - 状況不可能 の順に示すと、

「カグ」(書く)の場合、「カゲル」 - 「カゲネァ」 / 「カグニエー」 - 「カガエネァ」
「ミル」(見る)の場合、「ミレル」 - 「ミレネァ」 / 「ミルニエー」 - 「ミラエネァ」
「クル」(来る)の場合、「コレル」 - 「コレネァ」 / 「クルニエー」 - 「コラエネァ」
「シル」(する)の場合、「シェル」 - 「シェネァ」 / 「シルニエー」 - 「サエネァ」

「見る」なら、能力不可能は「見れない」、状況不可能は「見られない」にあたる形を使っている。
自分の目に問題があるのなら「見れない」、自分の目に問題はないが見ることが禁止されているのなら「見られない」だ。

4名無しさん:2011/01/24(月) 23:39:53
>>2
静岡じゃあ「行けれる」とか「出せれねぁ」とかえいかん言ってるだよ

5名無しさん:2011/01/29(土) 11:58:26
「書ける」のような可能動詞は容認して、「見れる」「来れる」を容認しない理由は、
「たまたま自分が共通語を習得したときにそれが規範的だったから」以上の合理的な理由ってないよな?
「ら抜き言葉」を全部認めたほうが明らかに合理的で便利だし、どうせ規範で抑えつけても「ら抜き言葉」への動きは止まらないんだから、
変に悪あがきせずにさっさと認めたほうが混乱する時代が短くて済むと思うよ。

6名無しさん:2011/01/29(土) 20:50:07
文法上の規則は残念ながら明らかに便利という理由では正当化できないのだよ。
印欧語の文法性がその典型だ。文法性は名詞と形容詞の形態上の一致を要求するが
それが一致することによって何かあるかというと何もない。
ならば文法性はなくしてしまうほうが便利だと唱える人間がいるのか?
エスペラントはそれをやりはしたし、それに賛成する人も多いと思うが、
現状で文法性が存在する言語でそれを主張する人はいないと思うぞ。

7名無しさん:2011/01/29(土) 20:52:29
もうひとつ言えば、どうせ規範で抑えつけてもら抜き化への動きはとまらない、というのは事実かね?
言語変化を人為的にとめることはできないという、教科書で習った言語学のイデオロギー以上のものがあるのか?

8名無しさん:2011/01/29(土) 21:47:56
五段動詞では「書ける」は可能、「書かれる」は受動・尊敬・自発を表すように機能が明確に分化している。
可能を「書かれる」のような形で表すと、古風だと思われるか下手をすると変な言い方だと笑われるほどだ。

一段動詞と変格動詞では、規範的には「見られる」「来られる」で可能・受動・尊敬・自発を全て表すとされているが、
実際の口語では五段動詞に類推して、「見れる」「来れる」が可能、「見られる」「来られる」が受動・尊敬・自発になっている。
規範を気にしない教養の低い階層でも、「見れる」「来れる」を可能以外に用いることは決して無い。明確に文法機能が分かれている。

無理に「見られる」「食べられる」「来られる」などで抑えつけようとしても抵抗があるのは、「見れる」「食べれる」「来れる」を一旦受け入れてしまうと、
「規範的」な形のほうに紛らわしさを感じるから。五段動詞で言い分けられる形が一段・変格動詞で言い分けられないのはいかにも不便だ。

かつては「ご覧になる」「召し上がる」「いらっしゃる」など、尊敬の形は特別な尊敬動詞で表すことが多かったが、
社会構造の変化によって敬語の平易化が進み、「見られる」「食べられる」「来られる」などで表そうとする傾向が増している。
これにより「見られる」などの語形の機能負担量が増えており、可能の意味を「見れる」などの形に分担させようとする動きがますます増えるだろう。

この「ら抜き言葉」の形はラ行五段動詞への類推による形だ。「切る」が「切れる」になるように「着る」も「着れる」になる。
このようなラ行五段への類推の流れは非常に多くの方言で起きているし、歴史的にも五段動詞へ近づく流れで変化してきた。

例えば「見れ」「食べれ」のような命令形は北日本の日本海側、九州東部などで広く見られるし、「見らん」「食べらん」は九州で一般的だ。
「見らせる」「食べらせる」のような使役形は全国的に見られる。このように、方言で多く見られる現象は、それが日本語の変化の流れとして自然だということ。

今は規範の力で辛うじて押しとどめられているが、それが無ければもう「見れる」「来れる」は定着していただろう。

9名無しさん:2011/01/29(土) 23:53:57
>>8
いわゆる「ら抜き」は、そんなに「小さな話」ではないと思うが。であるが故に重大な文法問題と直感的に理解されている。
「れる、られる」は「る、らる」の時代から、その本質は「自発(動詞が自然発生的に生じること)」であって、
尊敬(動作主の意思を消す)、可能(未だ動作主の意思が無い)、受動(動作主の能動ではない)は全部この下位概念となる。
もちろん「せる、させる」の「使役(動詞をだれかの意思で行わせること)」と対をなす概念で、
「れる、られる」の本質は、形態素としては、-ar-となる。このうち-r-は-s-との対としての意味を持っているが、
もう一つのポイントは、その前の-a-だ。この-a-こそが「れる、られる」の形態素の本質的要素であり「ら抜き」と深い関係を持つ。
「れる」と「られる」の選択は、-a-を必ず生じさせるためのものであって、その意味では-a-こそが「れる、られる」の本質とも言える。
ところが、可能動詞には、-a-が無い。代わりに-e-があって、五段なのに-a-を排除していると言える。
この-er-こそが、可能動詞の形態素の鍵であって、その本質は、-a-と対立する-e-にある。
これは何を指しているのかというと、「『可能概念』の『自発ファミリー』からの離脱・対立だ。
これは、概念そのものの「鞍替え」という極めて大きな事態であって、少なくとも1300年以上の歴史を持つ日本語史に特筆すべきこと。
-er-が「得る」と関連しているとする説もあるように、
日本語における可能概念が、従来の「出来る(でてくる)」から「得る(獲得する)」に
大きく変化しているということではないか?西欧の印欧語の可能助動詞の影響かもしれない。

10名無しさん:2011/01/30(日) 16:36:11
かつては「可能・自発・尊敬・受動」は全て「動作主の意志によらず自然にその動作が生じること」だったのだろうけど、
上で指摘されているように、現在では「可能」は上のような「意志によらない」という捉え方がそぐわなくなってきている。

かつては、kaku に対して kakareru、miru に対して mirareruであって、
仮名にとらわれず形態素を抽出するなら、可能形は kak-ar-eru、mi-r-ar-eruのように分析することができた。
ここで -r- というのは母音連続を防ぐための介在子音。

しかし、五段動詞では、kaku に対して kakeru、すなわち kak-eru が用いられるようになった。
こうなると、五段動詞と同じように mi-r-eru を用いるのも自然な流れとなる。

ただ、五段動詞の可能形は一部の動詞では中世後期から現れ、近世後期にはその地位をほぼ確立したのに対して、
一段・変格動詞の可能形はその出現が近代初期まで遅れ、未だに定着しきっていないのはなぜなのかが問題。

11名無しさん:2011/02/01(火) 13:50:26
青空文庫で、文学作品の中の「ら抜き言葉」の用例を探すことができる。

「見れる」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E8%A6%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「見れない」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E8%A6%8B%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「見れた」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E8%A6%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「見れれば」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E8%A6%8B%E3%82%8C%E3%82%8C%E3%81%B0%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「見れて」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E8%A6%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=

「来れる」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E6%9D%A5%E3%82%8C%E3%82%8B%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「来れない」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E6%9D%A5%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「来れた」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E6%9D%A5%E3%82%8C%E3%81%9F%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「来れなかった」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E6%9D%A5%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=

「寝れる」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E5%AF%9D%E3%82%8C%E3%82%8B%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=
「寝れない」
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&safe=off&biw=1280&bih=848&q=%22%E5%AF%9D%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%22%E3%80%80site%3Awww.aozora.gr.jp&aq=f&aqi=&aql=&oq=

秋田出身の小林多喜二がよく出てくるなど、興味深い傾向がある。

12名無しさん:2011/02/18(金) 12:57:25
「ら抜き言葉」というより、「ar抜き言葉」だよな。

kak-ar-eru → kak-eru なんだから、mir-ar-eru → mir-eru となっても不思議じゃない。

13名無しさん:2011/02/21(月) 00:27:03
>>7
例えば二段動詞の一段化やナ変の五段化も、教養のある人に言葉の乱れと糾弾され、
教養のある層では保守的な形が使われる状態がかなり長く続いたが、
結局変化に抗することはできず、古い形は消滅してしまった。

一段化・五段化や「ラ抜き」は、1000年単位の流れとして続く、活用の種類の統合の一部。
さらにラ抜きは、可能が自発・尊敬・受動の仲間から外れるという、
これまた数百年単位で続く流れの一貫でもある。
これに反する動きは相当不自然で、押しとどめるのは無理だろう。
言語変化の初期ならまだ規範で抑えることも可能だが、既にかなり進行している。
新しい形のほうが規則的・機能的・合理的であり、古い形に戻る理由がない。
新しい形の欠点は「新しい」ということだけ。

14名無しさん:2011/02/21(月) 18:19:45
むしろ、これだけ自然な変化がなぜ遅々として進まないかが問題だろう。
規範意識以外に何か「ら抜き」の進行を押しとどめる要因がありそうだ。

15名無しさん:2011/02/21(月) 23:23:40
そんなに「遅々として進まない」状態か?
世代によって明らかに「ら抜き」の使用頻度に差があると思うが。

16名無しさん:2011/02/22(火) 00:17:27
というか、なぜ五段動詞と一段・変格動詞の間で、
可能形の発生・発達に数世紀もの時間差が生じたんだ?
「ら抜き」が糾弾されるのも、明治期に東京で確立していなかったからだろう。

17名無しさん:2011/05/22(日) 10:32:56
「ら抜き言葉」と「れ足す言葉」の他に「さ付き言葉」というものがあるらしい。


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