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資料集

706アルゴラブ ◆gNfxxWHnBY:2011/10/01(土) 20:50:59
>>705

『 大 川 隆 法 の 本 心 』No.7

【高橋守】
彼は、前田、高橋が一番よく知っている。出版が素人だから、なめられたんだと思う。こんな連中なら騙して入れると。ずっと入れると思ったのに、意外に厳しい目で自分を見ていたんだなと分かったのが87年の12月。前田さんが悪い目で見ていた。僕も宗教的幹部になる人ではないと思っていた。

(前田:高橋守がもっと悪くなったのが、土田の影響)。

【土田】
土田は何の力があって、うちを破壊したのだろう。87年夏、 「筆を折る」ということをやたら言っていたが、それを聞かず、高橋を事務局長に入れたのを恨みに思っていたのかな。

(前田:会の組織に反発したのも、合議制で決まると思っていたから)

あれも原の紹介。

(前田:いや、手紙を出したんです)

癖が悪いのは、第一回の講演会の挨拶を頼んだら、個展の案内状を配ったこと。
五月研修のときも配った。その手ロがわかったのは、あとで、小金井のハバさんのところに行って、そこの月刊誌に自分の個展の予定を出していたから。実力では食っていけないので、宗教にくっついていた。 87年6月、松庵の事務所で、個展をやらせてくれと言ってきた。

(前田:原が、絵を一つ入れたらと言ったのを、自分の絵を全部飾られるものと思っていた)

たとえ絵を掛けていいと先生から言われても辞退するのが筋だ」と、あなた(前田)が言ったんじゃないか?絵を拒否されたので腹をたてた。 87年夏ごろ、 「筆を折る」と言ってきたが、事務局長をしたくて言って来た。僕は画家さんでは無理だと思って、断った。そのあと、 87年8月高橋さんが入った。前田さんが「高橋さんの方が癖がなくていいんじゃないですか」と言っていた。そのあたりで、土田は外れた。絵を売らしていただくんなら、一緒にやっていく、ということだった。
二回ぐらい挨拶してもらったが、あとは、さけた。最後は88年の2月、ルが入った。会議のとき、高橋守と暴れようとしていたが、高橋守は暴れなかった。その前に高橋守には、分断の手紙を僕が出しておいたから。あのとき、悪霊波動で、景色が見えないほど空間が歪んで見え、こんなにすごいのは僕も始めて経験した。あそこまで入られたのは、当会では第-号だった。うちに来て利権をかませて、その範囲内でやらせてもらえると思ったのが、うちが独立して、とられたから暴れている。
これはGLA系統の欠点だと思ったので、職員化を進めて、法の独立を守った。ほんの一年、世間的には許されるぐらいの誤差。言えるほどのことはしていない。いまだったら即刻首。外車に乗っていたから儲かったことは儲かった。

(前田:いやクラウンでした)




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