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献血供給事業団なんでもコーナーⅡ

115日下 一男:2009/04/04(土) 10:21:44
 この怪文書が事業団内部で問題になり、暫くしてから木村さんから城北支所で仕事をしていた私に電話連絡がありました。
 これに対して1993年5月5日付で木村さんに返事の手紙を書いています。次のようにです。
 この度の件について、木村さんより電話を頂くまで、どのようなことが事業団内部起こっていたのか、私には詳細な事は分りませんでした。ですからその後、何度も繰り返し考えてみたのですが、釈然としないものがあることも事実です。
 5月1日(土)に元理事長の竹内さんへ電話をしまして、ある程度の様子は理解できました。連休明けには初鹿野さんにも話を聞こうと思っております。
 私自身、ここ数年来事業団の職員の人達とは深い交際もありませんでしたし、知ることと言えば、書類上のものや、事務連絡的なものが大半です。また私の事務所となっている3階を訪れる人もほとんど無かったのです。ときたま部屋に来たのは藤野さえちゃんで何かを伝えたかったようですが、結局はさえちゃんが京都が好きらしく、その話をしてましたが部屋を出る時の後姿は寂しそうでした。手首には傷跡がありました。
 初鹿野さんのことについても、今ふりかえってみますと、仕事や家庭、そして木村さんや事業団に対する見方、考え方など、こころから話し合っていたような記憶がほとんどありません。
 以上のようなことから、木村さんの望まれる事柄が含まれているかどうか分りかねますが、記憶にあること、並びに私の思うことを記します。
 事業団創設以前からの仲間同士が何故このようなことになったのか、ただただ涙も枯れる思いです。大黒柱として、事業団の指針や理想、そして血液事業やそれに関する諸問題等に熱情を示された木村さん、そしてそのことをよく理解し、協力し合った青木部長が、現状のようなことになったのか、全くもって不思議なことですし、私にとって事業団にいなかった空白の時間が、より事態の把握を困難にしているようです。
 ただ竹内さんが話していた「青木君は職員採用の際、君達を全く違う評価をするので何か問題がある」と言ったことは忘れません。また、事業団に戻った時に木村さんが話した「日下君を事業団に戻す時に最も反対したのは青木だ」という言葉も忘れては居ません。
「初鹿野さんについて」
 城北の事務所で同室になったのは昭和62年の初めのように記憶しておりますが、それ以来数年間のつきあいになります。
 日血研のことに関しては、職務上なのか、秘密主義的な要素があまりにも多く、満足に理解出来てるものは皆無といってよいでしょう。
 当初からお客さんが相当数事務所に出入りし、又100人以上からの名刺も私自身所持しておりますが、その後、つながりがある人は少人数のようです。
 日血研の経理状況については、更に深いヴェールの奥で、神奈川県に出す書類も誰か(多分、松沢さん)に作成させていたようです。
 長い間共通の話題になったのは、センサーテクノスの島村先生の仕事の進み具合などで、それ以外の話題はあまりありません。
 通常、城北の事務所にくるのは午前10:30〜11:00で、午後からはほとんどおりませんでした。
 木村さんのことについては、20年来のつき合いということで、”彼の事情もあるので、協力しなければ”というのが日頃の口グセでした。私には、裏で何かしているようでそのようには感じませんでしたが。
 ただ昨年の秋頃からあまり事務所にも来なくなり、たまに来ても考え込んでいる様子でした。私の仕事もその頃から国会図書館で行うことが多かったので、最近ではほとんど対話もありませんでした。又最近まで電話の問い合わせに対しても、日血研の理事長は木村、事務局長は初鹿野と答えるが、私にとっては普通のことでした。
 私からみた初鹿野さんは、人づき合いは良いと思うし、少々義理堅いところがあるようです。ただ細心さに欠けるところもあるようなので時として困ることもありました。
「2」青木部長について
 事務官吏としての姿が頭に浮かびますので、是々非々の判断はなかなか示さないようです。逆に言えば煮え切らない。余りアクの強さがないので一般職員には受けが良いと思います。(時として学歴コンプレックスと感じるのですが)卒業大学に対する各職員に示す態度には、奇異と感じることもありました。
以上が木村さんに対する私の手紙の内容です。


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