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倉工ファン Part2

995名無しさん:2021/07/03(土) 15:38:01
☆ 首位と5ゲーム差4位から劇的優勝… 当時の中日選手全員が「あの日が分岐点」 88年7月8日  (渋谷真コラム・龍の背に乗って)



先日「星野仙一命のドラゴンズファン」から、長文の手紙をいただいた。
延々とつづられていたのは、なぜ勝てないんだという憤りと、こうすれば勝てるという提言。僕への質問もあった。

もし今、星野監督が就任して、再建への意見を求められたら、あなたは何と答える? 
僕の考えを書くよりも、星野さんが何をしたのかを書こう。


1988年7月8日。宇野さん、彦野さん、立浪さん、鹿島さん…。当時の選手は、誰もがあの夏の日を覚えていた。
全員が「暑かった」と答え、そして「あの日が分岐点だった」と口をそろえた。

7日は札幌(円山)の巨人戦だった。9回2死から仁村徹の同点3ランが出たものの、延長11回サヨナラ負け。
6連敗で首位・巨人とは5ゲーム差の4位だった。4時間22分のロングゲームで、飛行機はキャンセルし、急きょ延泊。

星野監督はコーチ陣には「何とかせい!」と打開策を練らせ、選手には「今夜は帰ってくるな」と夜のススキノに追い立てた。


数時間後、島野育夫コーチが持ってきた案が「走らせます」だった。1、2軍の入れ替え、打順変更…。
そんな手は打ち尽くしていたのだ。翌朝、名古屋空港に降り立ったチームは、全員でナゴヤ球場に直行した。

当時の紙面には青空ミーティングに続き、ベースランニングが行われたとあるが、鹿島さんはそれだけではなかったと言う。


「ポールとポールの間をダッシュで10往復したんだ。全員でだよ。必死で走ってんのにコーチには怒鳴られたからね」。
炎天下で走った上に叱られる。何て理不尽。その怒りこそが欠けていたエネルギーだったのだ。

「プレー・ハード。何があっても練習だ。
答えは1カ月、2カ月後になるかもしれないが、練習が減ることはないし、方針も変わらない」

自らノックバットを振った星野監督は、選手にこう伝えた。翌日から12勝1敗。
劇的なV字回復でちょうど3カ月後、背番号77は宙に舞った。 さあ走れ。怒れ。そしてやり返せ!




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