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倉工ファン Part2
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倉工関連、その他プロ野球、時事ネタなどをご記入ください。
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☆ 夏季岡山県高校野球が開幕 代替大会
夏季岡山県高校野球大会は18日、58校が出場してマスカットスタジアムなど4球場で開幕した。
新型コロナウイルスの影響で中止となった第102回全国選手権岡山大会に代わる舞台。
甲子園にはつながらないものの、夏の岡山王者を目指す球児による熱戦がスタートした。
感染リスクを考慮し、全校そろっての開会式は取りやめ、同スタジアムで開始式を実施。
昨秋の県大会を制した創志の斉藤主将が優勝旗を返還し、倉商の原田主将が「これまで培ってきた技術と精神力の全てを発揮し、
生涯忘れられない最高の試合ができるよう最後の一球まで全力でプレーする」と選手宣誓した。
引き続き行われた第1試合「光南―興陽」は、相手守備の乱れに乗じて得点を重ねた光南が8―2で快勝し、初戦を突破した。
大会は高野連の感染防止対策ガイドラインに基づいて行われ、選手や関係者は試合2週間前からの行動歴を記録し、
球場入りする際に検温結果を報告する。 無観客試合だが、控え部員と保護者は入場可能。
試合は基本的に土曜、日曜、祝日に行われ、順調に進めば8月10日が決勝となる。
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☆ 県岐阜商 校内クラスターで代替大会辞退
保健体育を担当する男性教員4人、女子生徒3人の陽性が確認され、県にはクラスターが発生したと認定されている。
硬式野球部は24日の初戦に出場予定だった。 関係者によるとPCR検査を受けた部員に陽性はいなかったという。
県教育委員会はこの日、同校が29日まで臨時休校すると発表。 全部活動が禁止された。
硬式野球部は8月、甲子園で行われる交流試合の出場が決まっている。
鍛治舎監督は交流試合の出場について「高野連の判断になる。対戦相手のこともあるので簡単に欠場もできない」と説明。
「感染防止に努めてきたが、選手に説明の言葉が見つからない」とした。
高野連・小倉事務局長は交流試合への出場可否について「今後は当該校、岐阜県高野連と相談しながら
実行委員会の中で協議していきたい」と話した。 実行委員会は今月29日に行われる。
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☆ NPBと高野連が「プロ志望高校生合同練習会」開催を発表 甲子園と東京Dで実施
西日本会場となる8月29日と30日は甲子園、東日本会場となる9月5日と6日は東京ドームで実施される。
新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、第92回選抜高等学校野球大会と各都道府県の春季大会、
第102回全国高等学校野球選手権大会と地方大会が中止となった高校野球。
プロ入りを目指す高校3年生の進路活動の一環としてNPBと高野連が開催を決定した。
この合同練習会にはNPBのスカウト、関係者のほかに、視察機会の平等性を確保するため、大学、社会人、
独立リーグの関係者らも参加し、日本球界全体で現在の高校3年生をサポートするとしている。
参加資格は、高野連に登録する高校3年生の野球部員でプロ志望届および合同練習会参加届提出者となる。
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☆ 花火大会露店爆発で重傷の球児 最後の夏に思い込め「治療の恩返しに全力プレーする」
2013年に京都府福知山市の花火大会で3人が死亡し、55人が重軽傷を負った露店爆発事故で大やけどを負った野球少年が
高校球児として最後の夏を迎える。 今年の大会はすべて中止となったが、代わりとなる京都の独自大会で23日の初戦に挑む。
昨夏の京都大会で4強入りした京都共栄高の三木慶太投手(17)は
「やけどをしてお世話になった方々に、恩返しとなるプレーをしたい」と語る。
左腕の三木投手は緩急を付けた投球が武器。 同高では投手陣の一角で活躍する。
だが今季のチームはコロナの影響による長い休校期間を経て、6月に全体練習を再開したばかり。
「やっとみんなで野球ができて幸せ。当たり前のことが実は当たり前じゃないと、休みの期間に考えさせられた」と受け止める。
日常が突然奪われる経験は、7年前の夏にも味わった。
当時は下六人部小(福知山市)の5年生。 家族とともに由良川河川敷の花火大会に訪れた。
背後から「シュー」という音が聞こえてきたのを覚えている。 「何の音やろ」。
今思えば、ガソリンが携行缶から吹き出した音だった。振り返ろうとした瞬間、爆発が起きた。
懸命に逃げたが、炎に襲われた。 両腕、両脚など皮膚の4割で熱傷を負い、入院は半年間に及んだ。
同級生らに励まされてリハビリに努め、1年後には野球を再開した。大好きな野球を続けるため、地元の強豪に進んだ。
お世話になった看護師がグラウンドに訪れ、元気な姿を見て涙を流したこともあった。
報道で知った阪神のメッセンジャー投手からはユニホームや著書が贈られた。
体の痛々しい傷痕は消えないが、周囲の支えが野球を続ける原動力となっている。
ストレッチなど研究熱心で、後輩にも丁寧に指導する。
神前監督(64)は「三木の頑張りがチームにいい影響を与えている」と見守る。
これまで公式戦の登板はなく、最後の大会に懸ける。
初戦となる23日の綾部高戦に向け、「後悔のないように、最後まで全力でプレーする」と強い決意を示した。
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☆ 打者には勲章、投手には屈辱… 「敬遠」をめぐる深い物語 ①
アメリカで生まれた野球用語は当然ながら、すべて英語だったが、我が国に到来すると日本語に置き換えられた。
ヒット(Hit)は「安打」、ホームラン(Homerun)は、「本塁打」。そんな日本語訳でも傑作といえるのが「敬遠」だろう。
敬遠は、投手が打者との勝負を避けてわざと四球を与え歩かせることを言う。
英語ではIntentional base on ballsまたは Intentional walk、つまり「意図的な四球」だ。 略称は「IBB」。
実は日本でも公認野球規則では「故意四球」という。「敬遠」は俗語に過ぎないが、
強打者を「敬して遠ざける」というニュアンスは、この記録のシチュエーションを絶妙に表現している。
投手が、打棒を恐れて勝負を避けて歩かせられるのは、打者にとっては不本意だが、
反対に言えばそれだけ恐れられる打者になったということであり「敬遠」は、強打者の勲章ともいえる。
しかし「敬遠」は、強打者以外でも見られる。 次打者が投手の場合などに、前の打者が歩かされることも多いのだ。
投手はほとんどの場合9番を打つので、8番打者に敬遠が増える傾向がある。 8番は捕手が打つことが多い。
さして強打者ではなくても、敬遠が多い捕手がいるのだ。
NPBの通算敬遠数10傑と通算本塁打数
1王貞治427 敬遠(868本塁打)
2張本勲228 敬遠(504本塁打)
3長嶋茂雄205 敬遠(444本塁打)
4野村克也189 敬遠(657本塁打)
5門田博光182 敬遠(567本塁打)
6落合博満160 敬遠(510本塁打)
7谷繁元信158 敬遠(229本塁打)
8田淵幸一125 敬遠(474本塁打)
9江藤慎一118 敬遠(367本塁打)
10中村武志112 敬遠(137本塁打)
NPB史上最強打者といわれる王貞治が通算敬遠数でもダントツだ。
王は1974年、2度目の三冠王の年にシーズン最多の45敬遠を記録している。
以下にもNPB史上に残る長距離打者の名前がずらっと並ぶ。 しかしその中に、谷繁元信、中村武志という2人の捕手の名前がある。
谷繁が229本塁打、中村も137本塁打だから長打力はあったが、他の顔ぶれと比べると見劣りする。
谷繁、中村の2人は投手の前の8番を打つことも多く、敬遠が増えたのだ。
現役最多も広島の捕手、石原慶幸の50敬遠だ。石原は通算66本塁打だ。
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☆ 同上 ②
指名打者制を敷き、投手が打席に立たないパ・リーグでは、捕手の敬遠はそれほど多くない。
指名打者導入以降、パ・リーグで最も多くの試合に出場した捕手は、西武一筋で2379試合に出場した伊東だが24敬遠に過ぎない。
昔は打者顔負けの打棒をふるった投手がいた。 NPB最多の400勝を挙げた金田正一は、
投手としては最多の38本塁打を打っているが、通算で8敬遠を記録している。金田は並みの打者よりも恐れられていたのだ。
ここまで見てきたように「敬遠」は、長距離打者や、次打者が投手の際の捕手との対戦を避けるために選択される作戦だ。
しかし例外的に、外野手で、本塁打もそれほど多くないのに「敬遠」が多い選手がいた。
イチローはNPBで118本塁打を打っているが、本塁打王にはなっていない。
しかし、1995年から2000年まで6年連続でパ・リーグの最多敬遠を記録している。通算98敬遠は歴代13位タイだ。
これは通算536本塁打の山本浩二(94敬遠)よりも多い。
またMLBでもイチローは117本塁打だが、歴代28位の通算181敬遠。 2002年、2004年、2009年にアメリカン・リーグの
最多敬遠を記録している。 通算563本塁打のレジー・ジャクソン(164敬遠)よりも多い。
イチローと勝負をしても、本塁打を食らう可能性はそれほど高くないが、内野安打やポテンヒットも含め、
安打を許す確率が極めて高い。 日米ともに、ピンチでイチローと対戦するのは得策ではないという判断が働いたのだ。
これもイチローならではの勲章と言えよう。
高校野球では星稜の松井秀喜が、1992年の夏の甲子園の明徳戦で「5打席連続敬遠」を食らった。
いくら「強打者の勲章」とはいえ、これはやりすぎ、と全国で議論が巻き起こったのも記憶に新しい。
「敬遠」は、打者にとっては「勲章」だが、投手にとっては「勝負を避けた」ということで、不名誉な記録だといえる。
そもそも「敬遠」は、投手の判断で行うことはほとんどない。 ほとんどの場合は、ベンチの指示で選択する。
投手の中には、ベンチの指示に従わず、勝負をさせてくれと抵抗することがある。
1999年10月5日、神宮球場のヤクルト戦で、巨人の先発、上原浩治は7回裏、ペタジーニとの対戦で、
ベンチから「敬遠」の指示を受けてマウンドで涙を流した。当時、ペタジーニは巨人の松井と激しい本塁打争いをしていた。
巨人ベンチは、ペタジーニに本塁打を打たせないために勝負を避けたのだ。
こうしたタイトルがらみの「敬遠」もNPBではよく見られるが、上原はこの試合で新人としては1990年の巨人、斎藤以来の
20勝がかかっていた。 またペタジーニとは前の2打席を凡退に打ち取っていただけに勝負がしたかったのだ。
上原浩治の涙は、投手としてのプライドの現われだった。
上原はこの試合を9回2失点で完投して無事20勝を挙げたが、投手が「敬遠」に対してどんな思いを抱いているかを
端なくも世間に知らしめる結果となった。 ベンチから投手に「敬遠」の指示をするときは、やはり気を遣うのだ。
NPBでは、2018年からMLBの方式に倣って、ボールを投げることなく「敬遠」することができる「申告敬遠」の制度を導入した。
導入前の2017年の敬遠数は、両リーグ合わせて「90」だったが、2018年は「285」、2019年は「300」と激増している。
監督にしてみれば、投手に「歩かせろ」と指示することなく、審判に告げるだけで「敬遠」が成立する「申告敬遠」は、
気を使わなくて済むので心理的に楽なのだろう。
しかし、「申告敬遠」が導入された2018年以降、野球はまた一つ昔とは変わってしまったといえるかもしれない。
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☆ 中国の「南シナ海人工島」をトランプが爆撃破壊する可能性
中国が発生源と思われる新型コロナウイルスの蔓延などによって、アメリカ人の対中感情は、1979年の米中国交正常化以降、
最悪と言えるほど悪化している。
そうした国内世論を受けて、共和党のトランプ陣営と民主党のバイデン陣営は、どちらが対中強硬派かという争いをしている。
7月19日にABCニュースとワシントンポスト紙が発表した最新の世論調査によれば、バイデン候補支持が55% 、
トランプ大統領支持が40% で、その差は15% まで開いた。
トランプ大統領としては、差を縮めていかねばならないのに、逆に開く一方である。
こうした傾向が続けば、11月3日の投票日前の9月か10月頃、トランプ政権が「最後の賭け」に出る可能性がある。
それが、「中国と局地戦争を起こすこと」だ。
そもそも、この2年あまりで、米中は全面戦争の様相を呈してきた。 具体的には、貿易戦争、技術戦争、人権戦争、
通貨戦争、疫病戦争といったものだ。
こうした流れが続けば、いずれは局地的な武力戦争が避けられなくなる。
武力戦争の可能性がある場所は、南シナ海と東シナ海(台湾近海や尖閣諸島近海も含む)である。
なかでも、習近平政権になって造った南沙諸島の人工島は、中国の民間人はほとんどいないし、常設仲裁裁判所が「違法だ」
と判決を下している。 アメリカ軍が攻撃しても、人道的もしくは国際法的に責任を問われるリスクは少ないのだ。
また、ポンペオ国務長官も述べているように、中国本土から1000kmも離れているため、中国との全面戦争にもなりにくい。
それでいてアメリカ国内では、「悪の中国の建造物をぶち壊した」とアピールすれば、支持率を上げるだろう。
大統領選挙には直接関係ないが、東南アジアの一部の国々も、喝采するかもしれない。
ちなみにアメリカ軍は、いまから21年前の1999年5月7日、B-2爆撃機でベオグラードの駐ユーゴスラビア中国大使館を爆撃した
ことがある。この時は大使館員ら3人が死亡し、20人以上が負傷したが、それによって米中が全面戦争に発展することはなかった。
「緊急ニュースをお伝えします。 先ほどアメリカ軍が、南シナ海に中国が建造した人工島を攻撃し、破壊した模様です…」
ニュースが現実のものとならないよう、日本としても注視していく必要がある。
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☆ 中学最後の打席、死球が頭に 3年ぶりに公式戦の打席へ ①
埼玉県に近い東京都立高島高のグラウンド。 7月上旬、3年の橋本昇汰(18)は一塁の守備位置についていた。
内野からの送球を次々と受ける。 声を出し、仲間を鼓舞する。チームの主力選手だ。
2年ほど前までは、球拾いもできなかった。
2017年10月1日。
目覚めると、ぼんやりと病室の白い天井が見えた。枕元の医師や看護師から声をかけられた。記憶がなかった。
起き上がろうとした瞬間、左半身が動かないことに気付いた。
軟式野球の有望選手で中学3年だった橋本はこの日、東京選抜の一員として新潟での試合に出ていた。
「Kボール」という、軟式と硬式の中間のようなボールを使った大会だった。
「中学最後の打席だよ」。スタンドから母の恵(47)が声援を送った瞬間だった。左側頭部に死球を受け、意識を失った。
診断は脳振とう。 1日安静にしていれば治ると言われた。だが、何日たっても左半身が動かなかった。
握力はゼロ。 検査を繰り返しても脳や神経に異常はなく、原因は分からなかった。
新潟、そして転院した都内の病院での入院が続いた。
東北の甲子園常連校に野球留学する予定だった。 幼い頃から夏の甲子園での優勝が夢だった。
しかし今は、原因不明の半身不随。 病室の布団の中で恐怖に震えた。
看護師が毎朝、「大丈夫?」と聞きに来る。大丈夫じゃねえよ。叫びたい気持ちを抑え、「大丈夫です」と静かに答えた。
同級生らの見舞いも断り続けた。 誰とも会いたくなかった。
回復は突然だった。年明けのある朝。いつもと同じ医師の検診で、左手を動かそうとした時、プルプルと震えながら動いた。
「体の左側の筋肉にエネルギーが注入されていくような感覚」だった。
数日後、地元の高校の入試は病院から車いすで向かった。 左半身が少しずつ動くようになっていった。
1週間後の合格発表は杖をついて見に行った。退院。 やがて杖も必要なくなった。
元通りのプレーはできないかもしれない。 ただ、野球のそばにいたいと思い、硬式野球部に入部した。
久しぶりのグラウンドで、コロコロ転がる球に足がすくんだ。
教室で、同級生に「貸して」と頼んだ消しゴムを投げられると、全身が凍った。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)だった。 心のリハビリに取り組み、少しずつボールへの恐怖心を消していった。
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☆ 同上 ②
1年が過ぎた。 「代打、いくぞ」
昨年5月3日、母校のグラウンドでの練習試合で、監督から告げられた。あの事故から580日目の打席。突然の指名だった。
6―3の五回表、2死三塁。初球を振り抜いた。 差し込まれたが、右前に落ち、適時打となった。
バットの芯を外された硬球の衝撃が、両手に伝わった。 「野球をやっている」。ベンチに戻り、泣いた。
今春、都大会での「背番号3」が与えられた。真っ先に母に伝えた。「おめでとう」。電話の向こうで、母は号泣していた。
その春季大会はコロナ禍で消えた。 夏の選手権大会もなくなった。 代わりに東京の独自大会が決まった。
開幕2日前の今月16日。学校の柔道場にチーム全員が集まった。背番号の発表。監督の島修司(52)から名前を呼ばれ、
「3」と染められた布を再び受け取った。 縦横二十数センチ。「ただの布かもしれない。でもすごく重い」
25日に東東京大会の1回戦に臨む。あの日以来、3年ぶりに公式戦の打席に入る。
■ヘルメット着用義務、42回選手権大会から
高校野球では、1960年の第42回選手権大会から打者のヘルメット着用が義務づけられた。
数年後には走者も着用が義務化された。
95年には走者の安全を考え、これまでの片耳タイプから両耳にカバーのついたヘルメットとなった。
衝撃吸収性など安全性が保証された「SGマーク」の製品が使用されているが、事故の根絶には至っていない。
2018年11月には、練習試合で頭部に死球を受けた2年生部員が翌日に死亡する事故が起きた。
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☆ 元阪神、遠山監督「久しぶりに青春」初陣飾る/大阪 浪速9-1桃山学院(7回コールド) 花園中央公園野球場
プロで393試合に登板し、松井秀喜キラーの異名を取った浪速・遠山監督でも、高校野球の公式戦初采配初勝利は感慨深かった。
「久しぶりに青春じゃないけど、生徒たちとやれることが喜ばしい。初体験で気持ちいい。1勝はうれしい。
ワイワイ楽しくやりながら、僕らしいチームをつくってやろうと」。
ベンチの最前列中央で選手たちと並んで声を出し、時には熱くなり過ぎてベンチから飛び出しそうになるほど一緒に戦った。
9-1の快勝デビューに笑顔がはじけた。
知人に臨時コーチで誘われて昨年6月から指導を始め、11月から監督に就任した。
コロナの影響で2月末から6月中旬まで3カ月半活動停止。 選手たちとも会えなかった。
「今の3年生はなかなか野球ができなかった」と、就任初年度の3年生22人を思う気持ちは、特別強い。
大会前の練習試合は2敗1分け。「不安だった」と明かすが、この日は3番山本外野手(3年)が4打数4安打2打点の大当たり。
「投手寄りの右肩が打ちにいく時に浮いているぞ」。大会直前に授けたワンポイントアドバイスはばっちり。
山本も「プロの考えを教えてもらえる」と快音で応えた。
結野主将(3年)からウイニングボールを手渡された遠山監督は、「いらねえよ」と照れ笑いしながら受け取った。
ベンチ入りは20人。この日外れた2人は次戦でベンチに入れて戦う。「1試合でも多くやりたい」。
3年生との青春タイムはまだまだ終わらない。
◆遠山昭治: 1967年(昭42)7月21日生まれ、熊本県出身。
八代一(現秀岳館)から85年ドラフト1位で阪神入団。1年目に先発ローテ入りして8勝。90年オフに高橋慶彦との交換でロッテ移籍。
95年から野手転向。戦力外となった97年オフ、テストで中継ぎ投手として阪神へ。サイドスローに転向し、99年にカムバック賞。
02年限りで引退。通算393試合、16勝22敗5セーブ、防御率4・38。 05年から11年まで阪神2軍でコーチを務める。
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☆ 倉敷工の“ぽっちゃり左腕”福島 初戦で幕、岡山学芸館への雪辱ならず 最速146キロにスカウト注目
岡山県大会2回戦 倉敷工1―4岡山学芸館(2020年7月24日 倉敷マスカット)
時折、小雨が降る中のマウンド。最速147キロを誇る倉敷工の“ぽっちゃり左腕”福島の高校最後の夏は初戦で幕を閉じた。
「この一年、やり返すつもりでやってきたんですけど」
昨夏の準々決勝で逆転負けした岡山学芸館が相手。 昨年10月に受けた左肘の手術を乗り越え、
序盤から最速146キロを記録した快速球を武器に力勝負を挑んだが、1―1の同点で迎えた6回、疲れが見え始めたところで2安打を浴び、
味方の野選も絡んで3失点。 失意の中でマウンドを降りた。
雪辱の夏はあっけなく終わったが、バックネット裏にはプロ10球団のスカウトが傘の花を咲かせ、
西武、日本ハムは球団首脳陣が現地入りしてする熱の入れようだった。 球速は手術前よりもアップ。
各球団が故障の影響はないことを確認するには十分な投球だった。
「球に力があるし、テークバックが小さいから球の出どころが見えづらい。左の高校生では中四国ではNo・1ちゃうかな。
横幅がある割には動きもいいしね」とは阪神・山本宣史スカウト。
初戦敗退にも評価が下がることはない。4回には1メートル76、86キロとちょっと太めの体形ながら
素早くマウンドを駆け下りてバントを処理し、相手走者を二塁で刺す、俊敏さも見せた。
「上の世界でこれからも野球を続けていくことには変わりはないので。 上の世界というのはプロです」
福島 章太: 2002年(平14)10月24日生まれ。岡山県備前市出身の17歳。 6歳から軟式野球を始める。
備前中時代は硬式の瀬戸内ボーイズでプレー。 倉敷工高では1年秋に背番号1でベンチ入り。
その後、故障もあり、昨夏は背番号13だった。最速147キロ。変化球はカーブ、スライダーなど4種。50メートル走6秒3。
1メートル76、86キロ。左投げ左打ち。 好きな球団はなし。 目標は横浜の左腕・今永昇太。
いったん、気持ちを整理してプロ志望届を出す予定。 剛球左腕に涙はなかった。
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☆ スカウト注目の倉敷工・福島、六回途中4失点敗退 プロ入りへ「上の世界で頑張りたい」
倉敷工の最速147キロ左腕・福島章太投手が、岡山学芸館戦に先発し、5回2/3を4失点。
昨夏の準々決勝で敗れた相手にリベンジは果たせなかった。
初回、スクイズの処理をミスし先制点を与えたが、何度も146キロを計測するなど、持ち味の直球で押し、その後は無失点。
しかし同点の六回、スクイズで勝ち越され、続く打者に2点適時打を浴びて降板。
「負けてから学芸を倒すためだけに1年間やってきた。やり返すつもりだったが、
うまくいくことばかりではないんだな」と、悔しさをにじませた。 この日は9球団のスカウトが集結。
視察した西武の渡辺久信GMは「バランスが良くて、体幹もしっかりしている」と評した。
プロ志望届提出を明言した福島。「悔しさを忘れずに上の世界で頑張りたい」と、プロ入りの夢を語った。
146キロを連発したので十分にアピール出来たでしょう。
西武が指名するか? 球団社長の居郷氏は倉敷工出身だから、鶴の一声も期待できる。
渡辺GMが来たのも社長との繋がりを知っているに違いない。すでに鶴の一声があったのかも。
しかし、上位で指名しないと、他の球団が先に取ることも考えられる。
阪神の山本スカウトも中四国ではNo・1と評価が高い。個人的には甲子園でプロの雄姿を観たいが・・・。
福田公園野球場で色々と話をしてくれた少年が、プロで投げている姿を想像するとワクワクする。
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☆ 岡山学芸館、夏連覇へ難敵攻略 無死満塁で登板の久野、ピンチ脱し「抑えるつもりだった」
岡山学芸館が夏連覇へまた一歩前進した。
初回1死一、三塁で4番・溝上捕手(3年)がスクイズで先制点をもぎ取った。
同点で迎えた六回には、外間外野手(3年)のスクイズで勝ち越し、代打・赤木捕手(2年)の2点適時打で、
倉敷工の最速147キロ左腕・福島投手を攻略した。
守備では六回、安打、四球、失策で無死満塁とされると、先発の仲村投手(2年)に代わって、久野投手(2年)がマウンドへ。
「竜が我慢して投げてくれていたので、絶対ゼロに抑えるつもりだった」と、気迫の投球で三振、右飛、三振と点を与えなかった。
最大のピンチを抑えた久野は「チャレンジャーの気持ちで連覇を狙っていきたい」と、先輩たちと過ごす最後の夏へ気合を入れた。
六回の攻防は見応えがあった。 タダで貰ったチャンス、1死満塁で確実にスクイズを決めた学芸。
タダで貰った無死満塁のチャンス、無策で無得点の倉工。
昨年もそうだったが、監督の采配、勝負勘、勝負運が勝敗にハッキリと繋がった。
毎度で恐縮だが、あのユニは選手が小さく貧弱に見えるよね。 伝統の格好いいユニを変えて、何かいいことがあったかい。
倉工の監督をやりたい人が他にいないとは思わない。 元プロはどうですか? 他にも適任者がきっといるでしょう。
甲子園で数々の名勝負を演じた、伝統の格好いいユニで、古豪復活を目指してもらいたい。
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☆ 親元離れ、スマホなしの2年半 「僕は最後まで野球を」 ①
週末の夜8時ごろ。石見智翠館(島根)の片岡竜玖(17)は、校舎と寮の間にある電話ボックスに向かう。
手には2カ月に一度、両親から送られてくる105度数のテレホンカード。
4台並んだ公衆電話は、外との数少ない連絡手段だ。時に順番待ちになる。
横浜市の自宅にかけると、たいてい母の陽子(47)が出る。「けがの具合は」「練習はやってる」。いつもそんなやりとりだ。
野球部は携帯電話禁止。 校舎とグラウンド、寮が徒歩数十歩の圏内に並ぶ。外出は近くのコンビニくらいだ。
全員が寮生活を送る。 一日の始まりは朝6時。グラウンドでの朝礼で「1日の目標」を叫ぶ。
3年生42人のうち、片岡を含む38人が県外から来た。 当初悩んだのは言葉だった。
PL学園出身の監督、末光章朗(50)をはじめ、多くは関西出身。 部内では関西弁が飛び交う。
「だよね」と言ったら、「気持ち悪いねん」と突っかかられた。
「エセや」と言われながらも、関西弁を口にするうちに、仲間と打ち解けていった。
小学4年で野球を始めた。中学で熱中し、寮がある進学先を考えていたとき、知り合いから石見智翠館のことを聞いた。
同じチームの仲間との2家族で車に乗り込み、見学に行った。
交通の便から「東京から一番遠いまち」と言われることもある島根県江津市だ。
来てみると、練習のレベルの高さに目を見張った。 学校の周りには何もなかった。
「他のことを考えず野球に打ち込める」と思った。
「学校数が少ない島根なら甲子園に出場できる可能性が高い」という思いもあった。
高1の夏。先輩たちが県大会の決勝まで進んだ。2年の夏は甲子園に出て、代打でヒットを打った。
次は自分たちの代でここに戻ってくる。 具体的な目標になった。
寮の自室にはテレビもパソコンもない。携帯も持たず、コロナはどこか遠い話だった。
5月20日。グラウンドの一角で、末光から甲子園中止を伝えられた。 説明の途中から、末光の声が遠のいていった。
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☆ 同上 ②
中止発表から3日間、練習に身が入らなかった。 バットを振るとき、グラウンドを走るとき。
「何で今こんなことやっているんだろう」と思った。
「最後までやりたい」「1、2年生中心でやった方がいい」。3年生の中で意見が割れた。末光は3年生一人ひとりと面談した。
片岡にはこう言った。「この状態で頑張りきることが、支えてくれた人への恩返しになる。最後まで全うすることが次につながる」
片岡は「僕は最後までやります」と返した。「大学でも野球を続けよう。さぼったらそこで終わりだ」と思った。
3年生全員が続けることになった。
午後9時。 夕食後、体育館での点呼を終えると、数十歩先のグラウンドへ向かう。ティーバッティング、素振り、体幹トレーニング。
2年半続けてきた日課だ。集中しようと、仲間に話しかけられないようにグラウンドの隅に移動することもある。
練習帽のつばには「実力の差は努力の差」と書いた。
野球だけに打ち込めた2年半で、気付いたこともある。 洗濯機が使えず、気を抜くと散らかる部屋。
これまで両親に支えられてきたことを実感した。 今では、実家でも自分から動く。
迎えた18日の独自大会初戦は、両親は仕事の関係で来られなかった。 24日の次戦には来る予定だ。
2年半分の成長を見てほしいと思っている。
野球のために親元を離れて遠方の学校に進むことは「野球留学」と呼ばれる。
高野連の調査では、2006年の大会登録メンバーのうち、隣接都府県以外の遠隔地から来たのは1260人。
18年には1770人に増えた。 流出人数の上位はどちらの年も大阪、兵庫。
流入は多い順に06年は愛媛、東京、山形で、18年には島根、静岡、山口に変わった。
1980年前後から、私学を中心に地元出身選手が少数になる学校が出てきて、過剰な勧誘などが議論になった。
少子化の影響で、島根県は近年、地元以外から公立学校の生徒を募集している。
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☆ 甲子園はひとつの光、みんなを照らす あさのあつこさん ①
全国で独自大会が開かれる中、「バッテリー」「グラウンドの空」など野球を描いた作品がある
児童文学作家のあさのあつこさん(65)に、甲子園と高校球児への思いを聞いた。
若い人たちのスポーツには、プロとは違う、未熟だからこその魅力があります。
私は野球の経験がなく、運動も得意ではなかったけれど、異世界だからこそ魅せられました。
野球を小説の題材にしたのは、私たちの世代にとって身近だったから。
ポジションによって、同じ試合でも見える風景が違うような気がして、面白いなとも感じました。
特にピッチャーにひかれています。 1人だけ高いところに立って、キャッチャーと向かい合う。
そこに1人で立つというのがどういうことなのか、わからないからこそ描きたいなと。
「甲子園」は、ひとつの光だと思うんですよね。 誰もが行ける場所ではない。でも、行くか行かないかよりも、
甲子園を目指して野球をしている「今」や、3年間甲子園というのを合言葉にしてやってきた「今」を、
みんな照らしてくれる場所だろうなって。
今春、選抜高校野球が中止になって、甲子園に今までとは違う意味でスポットライトが当たりました。
他の大会も中止になる中で、野球だけ特別扱いするなという意見もあります。
でも1回戦からテレビで生中継され、世代を超えて人々の心を震わせる場所は、やっぱり特別だと思います。
私は2007年から、選抜高校野球の21世紀枠特別選考委員を務めています。 選ばれると地域が沸き立つ。
そのとどろきに生で触れて驚くと同時に、甲子園という場所のすごさに改めて気づきました。
春に続き夏の甲子園も中止になったときは、絶望感というか、すごい風景を見たなと思ったことを覚えています。
挑戦権すら与えてもらえなかった高校生がいることがやりきれなくて。 特に3年生の気持ちを考えたときに、
悲しいだろうな、悔しいだろうなって安易には口に出せない、わかったようなことはいえないと思いました。
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☆ 同上 ②
震災や豪雨の時も、大変な状況の人はたくさんいました。 ただ、周りから支え、球児を甲子園に送り出す道があった。
球児たちもランニングだけでもしよう、亡くなった人の思いを背負ってがんばろうと思考を積み重ねられた。
私もこういう状況でも野球ができる、やろうとする人がいることに力を感じました。
それが今回のコロナでは、どこかが壊れたわけでも流れたわけでもないのに、
誰も何もできない状況が世界的に広がって、無力感に襲われました。
泣きわめいたり怒りをぶつけたりできないとき、人は「諦めるしかないなら前に進むしかない」と平均的な言葉で
一律的な諦め方をする。そうするしかなかった十代のことを思うと心が痛みます。
そんな中、各県の独自大会開催が決まりました。諦めたままにしない、コロナへのささやかなあらがいだと思うんです。
球児たちは「支えてもらった人に感謝」と言いますよね。それを知っているのは良いことですが、
もう余計なことは考えずに、せっかく手に入れた野球ができるチャンスを精いっぱい生かして楽しんでほしい。
練習すらできない状況の中で、自分と野球について考えた人たちはこれまでいなかったのではないでしょうか。
目指してきた甲子園がなくなっても野球はある。
野球イコール甲子園だったのか、甲子園が抜け落ちた野球とは何なのか、俺にとって野球とは。
正しい答えがない中で、どう思考して、どんな答えを導き出したのかを大切にしてもらいたいと思います。
球児だけでなくこの特別な夏に十代を生きたみなさんには、何を奪われ、何を得たのか、音楽でも文章でも良いので、
自分たちの表現で残してほしいです。
自分にとって2020年の夏がどういうものだったのか刻み込んでおくことが、必ず後になって大きな糧になると思っています。
あさの・あつこ: 1954年生まれ。 小学校講師を経て91年に「ほたる館物語」で作家デビュー。
少年野球を題材にした「バッテリー」で野間児童文芸賞受賞。
甲子園に魅せられた中学球児の「グラウンドの空」、夏の甲子園を描いた「晩夏のプレイボール」など。
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☆ 守屋が26日実戦復帰 平田2軍監督「楽しみ」
右肩痛で2軍調整を続けている阪神守屋功輝投手が、26日のウエスタン・リーグ広島戦(甲子園)で実戦復帰する。
6月25日に出場選手登録を抹消され、7月2日に鳴尾浜でキャッチボールを再開。
経過は良好な様子で、平田2軍監督は「状態は上がってきているんで、実戦でどうかっていうところが楽しみ」と話した。
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☆ 中国はトランプ米大統領の再選を熱望している
今年11月、4年に1度の米大統領選挙が行われる。 中国は表向きでは、外国の内政不干渉原則を表明しているが、
内心ではトランプ氏の続投を熱望している。
彼の続投は、米国内と世界の分断を加速させ、米国のリーダーシップを危険にさらし、中国の覇権争奪に有利に働くからだ。
トランプ政権の下、史上最大規模を記録した対中貿易戦争、国家の力を動員してのファーウェイ制裁、
中国の国民に屈辱を与えるファーウェイ幹部の逮捕、コロナ問題・香港問題・台湾問題・新疆ウイグル族問題・
チベット問題をめぐる一連のチャイナバッシングは、一見すれば、中国を窮境に追い込んだように見える。
しかし同時に、中国国民の愛国心を喚起し、習近平政権の求心力を強め、結果的には共産党政権の基盤強化を助けた。
だから、中国ではトランプ氏を「川普(トランプ) 同志」と呼んでいる。
旧ソ連崩壊後、共産主義の世界的な退潮が見られた。中国でも、共産主義のイデオロギーで13億人をまとめることが難しくなり、
その代わりに、愛国主義が台頭している。
習近平政権にとって、トランプ大統領は、愛国主義教育の絶好の反面教師だ 。 トランプ政権は「米国第一」を掲げ、
環太平洋連携協定離脱、気候変動パリ協定離脱、イラン核合意離脱、中距離核戦力全廃条約破棄、世界保健機構脱退など、
一方的かつ恣意的な行動が相次ぎ、日本や欧州連合をはじめ、関係各国は翻弄された。
アフガンでの米兵らの戦争犯罪を捜査する国際刑事裁判所当局者に対し、制裁の発動を可能にするトランプ氏の大統領令は、
欧州関係国を困らせている。
トランプ氏による唐突なロシアG7招待が示したように、米国の独善外交は、同盟各国との亀裂を生んでいる。
米中貿易戦争は、世界の分断をもたらし、製造業のサプライチェーンに混乱を招き、日本を含む各国企業を困惑させている。
いずれも、米国の国際的地位に修復不能な禍根を残す可能性が高い。
トランプ氏が続投すれば、米国の独善外交が継続し、世界分断の加速、および、超大国米国の威信と指導力衰退の加速を招きかねない。
結果的には、覇権を狙う中国の影響力拡大につながる。 トランプ政権の下で、米国はかつてないほど、国内の分裂と分断が進んでいる。
新型コロナへの対応の失敗、および、白人警察の暴力による黒人死亡事件に対するトランプ氏の常軌を逸した言動は、
国内分断・分裂を一層加速させ、彼の大統領としての資質さえ、疑わしいものにしている。
まさに、マティス前国防長官が今年6月に米誌に寄せた声明の中で指摘したように、
「私の生涯において、トランプは国民を団結させようとせず、団結させるそぶりすら見せない初の大統領だ」。
特に、抗議デモに伴う暴動の鎮圧に、連邦軍投入も辞さないトランプ氏の姿勢には、マティス氏、パウエル元統合参謀本部議長ら、
元軍最高幹部が公然と反旗を掲げ、エスパー国防長官、制服組トップのミリ―米統合参謀本部議長ら、
軍指導部もトランプ氏と一線を画している。 実に深刻な事態だ。
トランプ氏が続投すれば、米国内の分裂・分断が継続し、超大国の凋落を加速させる。 一方で、習近平政権は喜ぶだろう。
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☆ 高校生、左腕事情 トップの高田琢登は盤石な投球 さらに急浮上した左腕2人も
ドラフト市場を握る高校生左腕。 7月から独自大会が開幕して立ち位置に大きな変動があった。
トップ 高田 琢登(静岡商)、トップ 松本 隆之介(横浜)、 急浮上 福島 章太(倉敷工)、急浮上 根本 悠楓(苫小牧中央)
プロ志望 辻垣 高良(学法福島)、プロ志望 下 慎之介(健大高崎)、プロ志望 榮 龍騰(津田学園)
トップの高田はここまでの3試合の13.1回を投げて、23奪三振の快投。わずか2失点と安定感も抜群。
変化球の精度も格段に向上し、速球、スライダーの単調なコンビネーションから脱したことが成長の要因となっている。
松本の登場は8月になりそうだが、最速152キロまで球速が伸びており、ストレートの威力そのものも大きくレベルアップ。
もともと強弱をつけるのがうまく、スライダー、チェンジアップの切れも良い左腕だったが、
圧力のあるボールを投げることができており、神奈川大会の投球内容次第ではナンバーワン左腕の評価をされていてもおかしくない。
また初戦敗退となった福島 章太(倉敷工)も最速146キロを計測。 10球団も詰めかけるほどで、注目度は大きく上がった。
また根本も最速145キロをマークし、評判は少しずつ上がっている。
また、プロ志望を表明している3名で、最も注目したいのが健大高崎の下。12日の作新学院戦での最速は140キロだったが、
何よりこの投手は質の良い真っすぐが投げられ、さらにスライダーの投げ分けも上手く、ただ速いだけの投手ではない。
完成度も非常に高く、群馬独自大会、交流試合で評価を高めることができるか注目したい。
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☆ 高校野球の美学、「主人公」が終えきること 重松清さん
全国で独自大会が開かれる中、「熱球」「アゲイン」など野球を描いた作品の多い作家の重松清さん(57)に、
甲子園への思いと球児へのメッセージを聞いた。
高校野球を初めて球場で見たのは母校の応援に行った高校1年生のとき。 同級生がクリーンアップで、
こういうやつがプロに行くんだろうなと感じた。 中学生の時は野球部で、高校野球もテレビでよく見ていた。
中高時代に山口県に住んでいた僕は、この線路をずーっとたどっていった先にあこがれの東京があると思っていた。
同じように甲子園も、自分がたどり着けるかどうかは別問題として、毎日の練習の延長線上のはるか先にある、と。
それを信じていられるのは幸せだよね。
今年はコロナで甲子園がなくなり、夢を見ることも目標にすることもできなくなってしまった。
確かに、甲子園という夢はすごく大事だと思う。でも夢が一つしかないのは不安定で、寂しい。
ある種の中央集権的な、究極の目標としての甲子園を残したままで良いから、早慶戦のような定期戦や、レギュラーを目指す、
ヒットを1本打つという別の物差しでの夢や目標があっても良いと思う。
高校野球は「最後の夏」というように、タイムリミットがあるのが魅力だけれど、
今回のような問題が起きるとそこで終わってしまう。 やっぱりしっかり終わらせてあげたいよね。
なんで野球が好きかって「プレーボール」で始まるでしょ。 プレー。試合は楽しいものなんだよ、絶対に。
ゲームセットも、何かを全うした感じがして良い。 断ち切られ感があるジ・エンドじゃない。
だからグラウンドに立たせてあげたいし、試合をさせてあげたい。試合の勝った負けた、打った抑えたを味わわせてあげたい。
いろんな締めくくり方がある中で、やっぱり「終わるための締めくくること」はやっておいた方が良いと思うんだよな。
その点、世間の後押しがある野球は恵まれている。
他の部活も隣の学校との試合や発表会など、何かやってきたことの締めくくりはさせてあげたい。
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☆ 同上 ②
僕のデビュー作「ビフォア・ラン」は部活引退から卒業までの話。 短編「終わりの後の始まりの前に」の主人公は、
最後の試合で自信を持ってボールだと見送った球をストライクと判定され、三振で高校3年の夏を終えた。
終わったけれども次を始められない中途半端な状態を描きたかった。
しっかりと終われなかった主人公たちに何か終わりの瞬間を与えたいというのが、僕の若い頃からの根っこにある。
親の都合で突然の転校が多かった。 修学旅行も行きたかったし、卒業式も出たかったという思いがあるのかもしれない。
でも、「しっかりと終わりきる」って意外と難しいよ、誰の人生の、どの場面でも。
現実の世界で僕たちがあまり上手に終われていないからこそ、高校野球の持っている終わりの美学にひかれるんだろうな。
独自大会の開催で、独自ルールもたくさんできた。 ベスト8まで、7イニング制、登録選手数を増やす、
タイブレークを導入するなど、期せずして都道府県に相当権限が移った。
忘れがちだった地元や地域みたいなものを改めて教えてもらったし、「ふるさとの高校野球は俺たちが作る」と
独自のリーグ戦を始めるなど、新しい機運を高めるチャンスになるかもしれない。
そうすれば、2020年の3年生が新しい歴史を始めた1期生になる。
もちろん独自大会というのは不本意な終わり方だと思う。 でも君らがやってきたことは絶対無駄ではないし、
野球はそれ自体が楽しい。 好きだからやってきたということを確認するための試合であってほしいな。
自分が悪いわけではないのに、思い通りにならない。 生きることはそういうことの連続。
その中でなんとか光を見つけるために、締めくくりの舞台が用意された。 じゃあ、ぜひ、それを思いきり楽しんでほしい。
普通通りに甲子園を目指した年とは、またひと味違う、大きなものをつかんでくれるはずだと信じてる。
しげまつ・きよし: 1963年生まれ。作家。早稲田大学文化構想学部教授。91年に「ビフォア・ラン」でデビュー。
99年「エイジ」で山本周五郎賞、01年「ビタミンF」で直木賞。
「卒業ホームラン」「赤ヘル1975」「どんまい」など野球を描いた作品も多い。
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☆ 元中日・山崎武司さん今年も100万円寄付 大震災時に楽天に所属 仙台市、宮城県に恩返しの思いは続く
中日、楽天などでプレーした山崎武司さん(51)が26日、宮城県のスポーツランドSUGOで開催された自動車レースの
「86/BRZレース」に出場。 今年も「東日本大震災みやぎこども育英募金」へ100万円を寄付することを明かし、
レース後のパドックで宮城県教育庁の安住浩志総務課長を招いて寄付金の目録贈呈式を行った。
レーシングチーム「TN滋賀」に加入した2015年から当地でレースに出場するたびに同募金に寄付しており、今年で6年連続6回目。
総額で600万円になる。 山崎さんが楽天に在籍していた2011年に東日本大震災が起き、被災地の惨状を目の当たりにした。
宮城県によると、震災で親を亡くした遺児は1104人にのぼる。「仙台や宮城県の街はどんどん復興していくが、時が過ぎても
子供たちの傷は癒えない。 現役時代から仙台市、宮城県に恩返しをしたいとの思いを抱いており、寄付を続けている」と話した。
今年も山崎さんだけでなく、TN滋賀を運営する滋賀トヨタ、ネッツトヨタ滋賀からもそれぞれ5万円が寄付された。
寄付金は震災遺児の大学までの就学資金や心のケアなどに充てられる。
山崎さんはこの日、「86/BRZレース」のクラブマンシリーズ・オープンクラスに出場し、5位入賞を果たした。
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☆ 阪神2軍 雨天中止 大雨でグラウンドは一瞬で水浸し
ウエスタン、阪神-広島 (26日、甲子園球場)
阪神2軍は12時15分頃に降り出した大雨により12時半に雨天中止が決定した。
スタメン発表が行われる中、前日に降った雨の影響もあり、グラウンドは一瞬で水たまりができた。
阪神の先発は2軍降格後、初先発となる中田の予定だった。
また、右肩関節炎からの復活を目指す守屋が実戦復帰。
右肘痛からの復活を期す才木も6月14日・プロ社会人交流戦以来の登板が予定されていたが、
28日・ソフトバンク戦(タマスタ筑後)以降へ持ち越しとなった。
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☆ 東邦 試合当日に出場辞退 一般生徒がコロナ感染
昨春の選抜高校野球大会で5度目の優勝を果たした東邦が26日、
愛知県刈谷市で予定されていた半田との代替大会4回戦の出場を辞退した。
野球部員以外の生徒に新型コロナウイルスの感染者が出たためで、不戦敗となった。
東邦は地元保健所からの要請で8月7日まで休校。野球部を含めた部活動も禁止された。
辞退は26日朝に決まり、試合会場に向かっていた選手らは同校のグラウンドに集合。
この夏から指揮を執っている山田祐輔監督らから説明を受けた。
野球部の小嶋裕人部長は「力もつけていた。有終の美を飾りたかった」と話した。
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☆ 一関学院が10年ぶりV 花巻東&盛岡大付2強の壁破り
都道府県高野連が独自に開催する代替大会は26日、岩手で決勝が行われ、一関学院が盛岡大付を4-1で下して優勝した。
各地で雨天中止が相次ぐ中、茨城は中止が続いた影響で、最長でもベスト8決定での終了が決まった。
勝利を決めると、一関学院ナインはマウンドに集まって飛び跳ねた。その先に甲子園はなくても、岩手を制した喜びは格別。
2010年以来、10年ぶりの頂点だ。
「攻守にわたって自分たちの形で最高の試合ができました」と佐藤颯弥主将。三回に坂本、奥谷の適時打などで3点を先制。
菊池、小綿の両投手が盛岡大付打線を1点に抑え、七回には佐々木春の中前適時打で駄目押しした。
代替大会では、秋田大会を制したノースアジア大明桜に続き、全国で2番目の優勝。
各県の代替大会を制した代表校計6校による独自の東北大会(8月9〜11日、宮城県)に出場する。
「本当にうれしい。選手たちがすごい試合をしてくれた」と高橋滋監督。
岩手の夏の優勝校は11年以降、花巻東と盛岡大付の2校だけで占められていた。2強の壁を、10年ぶりに打ち破った。
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☆ 甲子園初、完全試合した監督 「野球は難しい。だから…」
8月18日に60歳になる。 甲子園で史上初の完全試合を達成し、現在は群馬県立中央中等教育学校の監督を務める松本稔さんだ。
教員として高校野球を指導して約35年。 経験したことのない特別な夏は初戦敗退に終わったが、
「野球は難しい。 だから、おもしろいんですよね」と、いつもと同じ口調で語った。
松本監督率いる中央中等は26日、独自大会の1回戦で高崎と対戦。 好機にあと1本が出ず、1―3で敗れた。
高崎が部員45人なのに対し、中央は17人しかいない。
「それは言い訳にならない。 確かに思うようにいかないこともある。 そこにおもしろさがある」
新型コロナウイルスの影響による休校が解除されたのは6月1日。
当初は分散登校だったため、6月中旬まで全員そろって練習できなかった。「うちは集団より個を重視している。
生徒が自分の弱点を考え、それを克服する。 だから休校中も心配はしていなかった」
ただ、練習試合は7試合しかできなかった。 部員が少ないため、紅白戦もできない。
「いろんなことを詰め切れなかったという面はある。 そのあたりが今日の試合にも出た。 それはぼくの指導力不足です」
松本さんは1978年春の第50回選抜大会に前橋のエースとして出場。 1回戦の比叡山戦で、完全試合を達成した。
筑波大では主に外野手として活躍。 同大学院を修了後、85年に教員となった。
初任校の中央を87年夏の甲子園に導き、母校・前橋の監督としても2002年春に甲子園出場を果たした。
初任校に戻り、間もなく60歳を迎える。 今は中高一貫校になり、男子生徒は学年60人だけ。
1、2年生の新チームは7人しかいないから大会に出られないという。
「来春、中学3年生が5人入部してくれそうなので、秋は連合チームを組まないことにした」
再任用制度で指導を続ける可能性もあるが、「まだ決めていない」という。
「野球は難しい。 テクニックのスポーツだとぼくは思っている。 その難しさ、おもしろさを、
少年野球の指導者に伝える活動をしたいという夢もあるけど、生活しなければなりませんからね」と笑った。
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☆ 大腸がん克服の原口、「日本対がん協会」アンバサターに就任
2021年3月に開催予定の「東京マラソン2021」の「チャリティー寄付先団体」に選ばれた「日本対がん協会」は27日、
チャリティ・アンバサターの1人に、阪神・原口文仁捕手(28)が就任すると発表した。
原口は18年に大腸がんを患い、翌19年1月に手術を受けたが、3月には練習を再開。プロ野球選手として復帰し、
その後は自らの体験をもとに、がん患者やその家族を励ます活動を行っている。
原口は自身のツイッターで、「東京マラソン2021の日本対がん協会のアンバサターに就任させて頂くことになりました!
日本対がん協会は、がんで苦しみ悲しむ人をなくすための様々な活動をされており、僕も昨年インタビューをして頂きました。
がんを経験したプロ野球選手として今後も日本対がん協会の活動を応援します!」と投稿した。
このほか、17年に乳がんを発症した歌手の麻倉美紀、
乳がん検診の大切さを伝える活動をしているプロゴルファーの上原彩子らも就任する。
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☆ 甲子園優勝監督の“指導方針” 「人間性の豊かな子を育ててから」 名将・金城孝夫の“心を育てる野球”
子供たちの夏の甲子園の夢が絶たれた今、目指しているのは「心を育てる野球」です。
「甲子園が中止になったけど先生の方針は、チーム内競争でよりベストのメンバーを選んで戦いに行く。
甲子園が無くなったから、特別に3年生だけの大会にする、これ考えたこともありません」
甲子園という大きな目標を失った高校球児にこう話すのは、愛知黎明高校の金城孝夫監督、66歳。
沖縄尚学高校の監督として、甲子園優勝の経験もある名将。去年4月母校に戻った。
弥富市にある愛知黎明高校。 野球部では朝、掃除の時間を設けています。
野球以外のことでもしっかり細かいところに目を配りながら周りをみてやることで、野球にも生かしていけると思っている。
「そういうところに関して、掃除は大切だと思います」 さらに掃除の後は、図書室で読書や勉強の時間です。
「野球は感性のスポーツだから、感性を磨くために読書。
それがやっぱり、テストが近づくとテスト対策もしないといけないから、勉強会に置き換えているということですね」
金城監督は中京大学を卒業後、愛知黎明高校の前身、弥富高校で監督に就任し、20年にわたり指導。
あと一歩のところで甲子園出場を逃し続けていました。 「当時は夜11時、12時まで練習をしても勝てない…。
練習は嘘をつかないかもしれないけど、長時間練習すると練習をやる子供が嘘をつく、というか手抜きをする。
そうすると効果が上がらないということに気づいて、それだったら嘘をつかない、人間性の豊かな子を育ててから、
野球を教えたほうが早いんじゃないかなって」転機となったのは、故郷・沖縄での監督就任でした。
ここで今の指導の原点である「心を育てる野球」に重きを置いた指導に方針を切り替えました。
すると監督として初めてチームを甲子園へ。沖縄県勢初の優勝を果たし、これまで春夏あわせて6度、甲子園へ導いています。
65歳で引退しようと考えていた金城監督でしたが、ここ数年低迷したチームを立て直してほしいとOBから強い要請があり、
去年4月に監督に復帰しました。
メンバー選びにも強いこだわりがある。「選ばれたら責任を感じてそれをどう生かすか、外れたらその悔しさをバネにして
どう生かすか。 嫌な思い苦しい思いを経験することも、長い人生で大きくプラスに切り替えることができる。
全て、これからの人生に結びついてきますから」
数日後、メンバーから外れた3年生が下級生に交じってグランド周りの整備をしていました。その中の1人は…。
「全員のためにという気持ちをもって、環境を整えています。 この悔しさをバネにして、
社会に出てからもこういう場面があると思うので、その場面では勝てるように頑張っていきたいと思っています」。
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☆ 三浦春馬さん著書が重版決定 売上げ一部はラオスの小児病院へ寄付
出版社のワニブックスは27日、三浦春馬さんの著書「日本製」と
「日本製+Documentary PHOTO BOOK2019-2020」を重版すると発表した。
この本は今年4月5日に発売されたもので、月刊誌「プラスアクト」に掲載されたものを書籍化。
三浦さんが約4年をかけて全国47都道府県を訪れ、日本の文化、伝統、歴史、産業などを自ら取材した本だ。
同社は「この書籍を通じて1人でも多くの方に届けるべく、重版を決定いたしました」とし、
重版分は8月以降順次、書店に納入されるという。
売上げの一部は、認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」を通じて
ラオスのラオ・フレンズ小児病院に寄付される。
三浦さんが実際にラオスに足を運び続けていた支援活動を「微力ながら応援させていただきます」としている。
この本は三浦さんが亡くなった直後、フリマサイトなどで高値で取引されていたが、
ワニブックスでは22日に「三浦さんの思いが詰まったこの作品を皆様に適正にお届けすべく
手を尽くしてまいりますので、お待ち頂けますと幸いです」としていた。
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☆ 2軍守屋、復帰登板1回0封 「1日1日大切に」
ウエスタン・リーグ:ソフトバンク2-5阪神 (28日、タマスタ筑後)
右肩痛で2軍調整中の守屋功輝投手が実戦復帰した。 ソフトバンク戦に8回から3番手で登板。
先頭の田城に中前打を許し、1死二塁とされたが後続の柳町、野村を連続三振に仕留めて1回を無失点。
「狙って三振を取れたことは大きかった」。 最速も150キロを3度計測するなど上々の復帰登板を飾った。
「ベストな状態で(1軍に)行けるように1日1日大切に」と復活へ意気込んだ。
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☆ 「きっちり10万円」子ども食堂に相次ぐ寄付 匿名で米300キロも
「特別定額給付金」を使ったとみられる子ども食堂支援の動きが、北九州市でじわりと広がっている。
市役所や市内の食堂でつくる「子ども食堂ネットワーク北九州」には3月以降、18件計180万円の寄付があり、
別に10万円分の米も届いた。
コロナ禍で先行きが見えない中、食事も満足に取れない子どもたちに一人一人の善意が寄せられている。
「10万円分の米を注文したので取りに行って」。
5月下旬、匿名の電話を受けた市職員が指定された同市戸畑区の米店を訪ねると、米約300キロの代金が支払われていた。
米は困窮家庭などに食べ物を届ける「フードバンク北九州ライフアゲイン」に託された。
現金の寄付は、特に政府が給付金支給を決めた4月以降、きっちり10万円ずつの振り込みが相次いだ。
「学校の臨時休校で給食がなくなり、ご飯が食べられない子どもがいると報道で知った」
と電話口で支援の理由を話す人もいたという。
市によると、イベントが中止になった企業などからも子ども食堂向けに米の寄付が相次ぎ、
4〜6月だけで昨年1年間の2倍超、約3・5トンが集まった。
同市内の約30カ所の子ども食堂はコロナ禍で活動を休止していたが、5月中旬以降、順次活動を再開。
3カ所で食堂が新規開設された。 市は届いた支援金や食料などを各食堂に分配中で、
市子育て支援課の担当者は「米も資金も食堂の運営には欠かせない。 支援はとてもありがたい」と話している。
素晴らしい。天晴!!
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☆ 「甲子園ないけど伝説つくったぞ!」 倉吉東が25年ぶり優勝 9連敗中の鳥取城北破り歓喜!
鳥取大会決勝 倉吉東7-5鳥取城北(7月31日 コカ・コーラボトラーズスポーツパーク野球場)
倉吉東が甲子園交流試合に出場する鳥取城北に逆転勝ちし、1995年以来、25年ぶりの夏の大会優勝を飾った。
最後の打者を二飛に打ち取ると倉吉東のエース右腕・桑本(3年)は大きく両手を広げた。
昨秋の準決勝で7回コールド負けした鳥取城北相手に8安打を許しながらも128球で5失点完投。
1メートル70の大黒柱を中心に小さな輪ができたが、それもすぐに解けた。コロナ禍を象徴する優勝の瞬間だった。
「倉東(くらとう)で少しでも野球をやりたいと思ってくれる人が増えれば。それは見せられたと思います」。
倉工の伝統のユニホームに似た格好いいユニが眩しい。 伝統を大切に引き継いでいるとたまにはいいことがある。
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☆ 伝統校が32年ぶりの「夏の王者」 独自大会で見せた「新しい津久見」
31日、大分市の別大興産スタジアムで決勝があり、津久見が大分舞鶴を2-1で破って優勝した。
8回にスクイズで決勝点を挙げた。春夏各1度の甲子園優勝がある伝統校が「夏の大分王者」になったのは実に32年ぶり。
大分舞鶴は頂点にわずかに届かなかった。金メダルがカクテル光線でキラキラ輝いた。
九州で唯一春夏の甲子園を制している津久見が1点差の接戦を制した。
ヤクルトなどで活躍した川崎憲次郎を擁した1988年が最後だった昭和の伝統校が、令和の独自大会で復活した。
1-1で迎えた8回1死二、三塁。 3番柳生(3年)が2ボール1ストライクからスクイズで決勝点を奪った。
2012年に3校が統合して現在の津久見となったが、復活を願ってユニホームは変わらなかった。
地域も「野球のまち 津久見」を掲げて後押し。
新後援会も4年前に発足し、選手が暮らすシェアハウスを設立するなど強化を支えた。
「おじいちゃんたちが練習を見に来てくれて、温かい激励をしてくれます」。
全国的な強豪校として名前をとどろかせた昭和の時代を知らない柳生や選手たちも、地元の人々の熱い思いを感じている。
伝統のユニホームを変えず大正解。羨ましい限り。 伝統を大切に引き継いでいるとたまにはいいことがある。
おじいちゃんたちも不細工なユニでは見に行く気にもならんだろう。
倉工の伝統を無視する監督はまだやるのか? 吉報を待ち望んでいる。
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☆ 急性骨髄性白血病から復帰した仁川学院・槙原葵人
兵庫代替大会 2回戦 武庫荘総合9―2仁川学院 7回コールド (1日・ベイコム)
急性骨髄性白血病から復帰した仁川学院の槙原葵人(あおと)が「4番・遊撃」で先発。
5回無死一塁で中前安打を放つなど3打数1安打1盗塁で好守も見せたが、チームは7回コールド負けで初戦敗退した。
槙原は昨年9月に急性骨髄性白血病と診断され、2月19日に退院した。
「プレーできていることが幸せ。かみしめながらプレーした。負けたけど、持っている力は十分、出し切れた。
入院中もお見舞いに来てくれて支えてくれた。『ありがとう』と言いたい」と、仲間に感謝した。
入院中は「見たことがないぐらいの足の細さでショックが大きかった。野球があったから、
最後の夏の大会は出てやろうと思った」。
報徳学園や関西学院など阪神地区の高校のほか、オリックス・吉田や広島・小園からのビデオメッセージで励まされた。
辻元監督(45)は「グラウンドに立てていることが考えられないし、信じられない。うれしい」と、目を潤ませた。
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☆ 母を亡くした夏、マウンドから見た甲子園 “白山の奇跡”2年後のエピローグ
2年前、部員5人の状態からわずか5年で甲子園出場を果たした三重・白山高校。
当時“白山の奇跡”とも言われた歓喜の輪のなか、一人、亡き母への思いを胸に聖地のグラウンドに立つ選手がいた。
ボールボーイとして1年生で甲子園の土を踏んだ木村偲生(しゅい)内野手は、夏の大会が始まる直前の5月、
母子家庭で女手ひとつで育ててくれた母を病で失った。
野球好きの母がつけてくれた偲生という名前は、“首位打者”からとってつけられたもの。野球を始めたきっかけも母だった。
小学校から中学に上がるまでの間は、毎年のように母に連れられ甲子園を観戦。
高校入学時には「親を甲子園に連れて行く」とグラブに刺繍を入れた。
「心の中で母に、甲子園の土は踏めたよと報告しました。
当時は投手で、審判の方から『君、投手だったらマウンドからの景色を見ておいで』とロジンバックを渡された。
幼いころから何度も母に連れてきてもらった甲子園ですが、外側から見る景色と中から見る景色って全然違うんだな、
次は自分の力でこの場所に立ちたいと思った」
肩の怪我で投手としての道は絶たれたが、その後も甲子園へ戻ることだけを目標に必死に練習を積んできた。
そんななか訪れた突然の大会中止発表。 気持ちの整理は簡単ではなかった。
「あの場所でもう一度野球がしたかった。 この3年間には何の意味があったのだろう」。
自粛期間は寮から祖父母が住む実家に帰省したが、一人部屋にこもり、泣いた。
それでも、野球を諦めることはできなかった。
「学校がなかった時間、ずっと家で友達と野球したい、試合がしたいなとずっとそんなこと考えていて。
野球がしたくてたまらなくて。 やってなかったら今何やってたんやろって。 野球に出会えて良かった」。
自粛開けにグラウンドに戻ると、代替大会へ向け練習を再開。
「お母さんのために打ってこい」。東監督からそう送り出された3回戦では、適時打を放った。
卒業後は消防士への就職を目指す。「親が亡くなって、すごく悲しかった。その思いを他の人には味わってほしくない。
困っている人がいたら助けられるような、立派な消防士になりたい」。
“白山の奇跡”から2年。 果たせなかった約束を胸に、人生の次の一歩へ足を踏み出す。
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☆ ソフトバンクの長谷川がコロナ陽性 2日の西武戦は中止
ソフトバンクは1日、福岡市のペイペイドームで2日に予定されていた西武戦を中止すると発表した。
長谷川勇也外野手(35)が、新型コロナウイルスの検査で陽性と判定されたため。
6月のプロ野球開幕後に、選手から感染者が出るのは初めてで、公式戦の中止も初。
長谷川は2013年の首位打者。 開幕から1軍で出場していたが、けがで7月上旬から2軍施設で調整していた。
球団によると、1軍の選手らと直近の接触は確認されていない。
ただ2軍施設の利用や、隣接する寮からペイペイドームに通う選手を介した感染が否定できないと、
専門家のアドバイスを受けて試合中止を判断。 2日以降に1軍の全員がPCR検査を受ける予定という。
球団によると、長谷川は7月31日にのどの違和感と微熱があり、翌日にPCR検査。 1日に陽性と判定されたという。
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☆ 父も目指した甲子園、消えた夢に涙 前を向く近江マネ
甲子園のベンチで、スコアを書く。 それが、近江のマネジャー角田美空(みく)さん(3年)のあこがれだった。
夢の実現は、コロナ禍で突然、消えた。 実は、父・慶弘さん(43)にも、あと一歩で甲子園を逃した経験があった。
長浜(現長浜北)の3年生だった1994年。 選手権滋賀大会で決勝まで進んだが、近江に敗退し、準優勝。二塁手だった。
そんなこともあり、美空さんは小さい頃から高校野球が好きだった。 甲子園や県大会に何度も行った。
中でも近江に魅了された。 秋の県大会、1球ごとに三塁コーチが大声で指示を送る姿に感動した。
「プレーしていない人に目を奪われたのは初めて。 近江でマネジャーをやりたい」
しかし、両親に言い出しづらかった。近江は、かつて父が決勝で敗れた相手。「私立はお金もかかるし、公立高校かな」と考えていた。
両親は気付いていた。 中学3年の進路を話し合う三者面談で、母が、教師に自分の気持ちを代弁してくれた。
隠していたつもりだったので、驚いた。 父も「近江で甲子園に行って」と後押ししてくれた。
念願の近江に入学し、野球部のマネジャーに。 チームは2年連続で甲子園出場を果たした。
でもスコアラーとしてベンチ入りするのは3年生だけ。 過去2年はアルプス席から応援した。
強豪校を次々に破る快進撃や、ツーランスクイズでの信じられない敗退を目にした。
「甲子園は、特別なことが起こる球場」。 自分もベンチで経験したい…との思いを募らせていた。
そこへ、選手権大会は中止の知らせ。 「覚悟はできていた。絶対、泣かない」 そう思っていた。
「甲子園に連れて行ってやれずごめんな」。 3年生の選手からLINEが来ると、涙があふれた。「久しぶり」
登校再開初日、落ち込んでいると思っていた選手から、声をかけられた。 みんなの元気な姿を見て、前を向こうと思った。
下級生が明るく活動できるよう、以前にも増して笑顔を心がけている。「大変なのは3年生だけじゃない」と思う。
甲子園の夢は、下級生のマネジャー11人に託す。書きためた監督の指示のメモをみんなに渡し、学んだ全てを伝えている。
「コロナで可哀想な世代なんて誰にも言わせない。楽しんで、輝く姿を見せたい」 最後まで、笑顔で駆け抜けるつもりだ。
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☆ 観戦中止「ひどい」保護者が涙声 県高校野球、感染拡大で制限強化
沖縄県が緊急事態宣言を出したことを受け、県高校野球夏季大会は1日の準決勝から、観戦制限をより強化し、
保護者にも認めない形で実施された。 急きょの変更でもあり、保護者からは会場などでの対応に疑問の声が上がった。
保護者の男性は、入場できなくともせめて近くで応援の思いを送りたいと会場に向かった。
選手の球場入りを見送り、保護者同士で立ち話をしていたところで注意を受けたという。
「球場に近づかないで解散してすぐ帰ってくれと言われた。長年、子どもと野球に打ち込んできた集大成の大会。
球場の外にいただけで、こんな対応や仕打ちはひどい」と涙声だった。
無観客だった春の大会ではフェンス越しに観戦する人もおり、県高野連は今回、会場外にも担当者を置き、声掛けしている。
場内の様子が少しでも見える場所や選手の声が聞こえる場所に人が集まってしまう可能性もあるという。
高野連の中村理事長は「保護者や一般のファンで対応を変えるということはしていない。
密を避けるために『会場には入れないので、来ないでください』という対応をしている」と理解を求めた。
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☆ 右肩痛の守屋 「ちょっと落ちてしまっている」
右肩痛で2軍調整中の守屋功輝投手がペースダウンを明かした。
鳴尾浜で体を動かし「ちょっと落ちてしまっている」とコンディションが芳しくないと説明。
7月28日のウエスタン・リーグ、ソフトバンク戦(タマスタ筑後)で実戦復帰したが
「試合と練習は全然違う。 試合で投げてみないと分からないことが分かった。ちょっと怖さがある」と話した。
今後は再発防止を念頭に慎重に調整を進める。
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☆ 「生徒審判」 連日奮闘 コロナ禍、試合運営の要に
熱戦が続く今大会の塁審を見ると、二塁と三塁は高校球児だ。
新型コロナウイルスの感染対策で例年よりも会場数が多く、生徒審判が試合運営の要を担っている。
2日、明石商が七回コールドゲーム勝ちした3回戦。 小野の2年生前田さんは六回から三塁塁審に就いた。
「緊張感があった」。 公式戦初の大役に、暑さ以上に喉が渇いたという。
審判講習を受けたが、現場で分かる難しさも。 二塁塁審を務めた小野の小林さんは一塁走者がいる場面。
「視界で走ったのが見えたら構える」と、走者が動くたびに盗塁に備えたが、適切な体の向きを見つけるのに汗をかいた。
ほっともっとフィールド神戸では神港橘の生徒審判が公平に判定しつつ、選手目線で強豪の神戸国際大付を観察した。
二塁塁審の武居さんは外野手の連係に注目し「技術面はもちろん、野手同士の声かけが一番参考になった」という。
時に勝負を分けるジャッジ。 重責を担いながら、生徒審判は強豪校のプレーに目を凝らす。
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☆ 王貞治さんが高校球児にメッセージ 「挫折が強い気持ちにつながった。 常に自分にハングリーであれ」
高校球児たちは甲子園に出場することを夢に、毎日毎日苦しい練習に耐えてきたと思います。
特に今回の大会が最後だった3年生にとっては、本当に苦しい経験だったと思います。
この経験は今年の選手にしかわからないつらさでしょう。
だけど、起きてしまったことはどうしようもありません。
同じ野球の道を通ってきた者からすれば、これをバネにして自分の人生をより強いものにしてほしいと思っています。
今回の甲子園中止は、他の球児が経験できないような大きな試練です。僕もこんなことが起こるなんて想像もしたことがなかった。
でも、逆に言えば、これを乗り越えれば、すごいバネになるはずです。
甲子園があるときよりも一層、羽ばたく人も出てくると僕は信じています。
僕も最後の甲子園は地方大会の決勝で敗れて、出場できませんでした。
それまでに4回も甲子園に出ていたから、当然出ることができると僕もチームも過信していたから、
出場の夢が断たれたときはものすごいショックを受けた。 僕はしばらく立ち直ることができませんでした。
だけど、振り返ってみると、この時の挫折があったから、「今度こそ絶対に夢を実現するんだ」という強い気持ちにつながった。
甲子園には出たかったけれど、それがかえって、いい刺激になったんだと思います。
まだ17歳、18歳でしょうから、人生はこれから70年、80年とあります。
今回の経験を糧に、自分の人生に不屈の闘志で向かってもらいたいです人生はわからないものです。
僕は当初、高校を卒業したら早稲田大学に進学して野球をやるレールの上に乗っていた。
最後の夏の甲子園に行っていれば、大学に進学していたと思う。
だけど、甲子園に行けなかったことで、「本当にこの敷かれたレールの上を走っていていいのか」と考えるようになった。
プロ入りに気持ちが傾きました。 それがあったから、その後の僕の野球人生があるわけです。
大学野球であれば、すぐに結果だけを求められることはなかったでしょうが、いきなり大人の世界であるプロに
入ったわけですから、苦労しました。いろんな失敗をしながら、野球だけではなくて、さまざまな人生経験ができたと思っています。
高校時代に培った「勝つためにどうするか」というものの考え方は、卒業後も役に立ちましたね。
甲子園を目指していましたから、勝つためにいつも突き詰めて考えていました。
球児たちにとっても、高校野球で培ったものは人生の土台となるのは間違いありません。
どこの道を歩もうとも、絶対に役に立つ。 自信をもって、自分の道に進んでもらいたいですね。
3年生たちには卒業しても「自分にハングリーであれ」といいたいです。 自分に物足りなさを感じないといけない。
満足してしまって、それ以上頑張ろうとしなくなったらアウトです。
僕はプロ野球時代、3試合に1本、年間43本ホームランを打つことを目標にした。
これは自分の過去を振り返りながら「この数字を打てば自分の仕事をしたことになる」と決めた数字です。
本塁打王になろうがなるまいが、他人がどう評価しようが、関係ない。 自分としてよくやったと言える数字を設定しました。
こうした自分なりの目標を常に設定して野球をやってきました。
乗り越えられるか、乗り越えられないかは別にして、それをやらないと人間は成長できないと思っています。
3年生はこれからそれぞれの人生を歩んでいくと思います。 進んだ道によってその世界なり、自分なりに課題が出てくるでしょう。
そこでどういう方向に向かっていきたいか、自分なりの目標をしっかりと立てて、目の前の道を切り開いていってほしい。
今回の悔しさをバネにして、自分の信じた道を頑張ってください。 失敗を恐れず、これからもチャレンジし続けてほしいと思います。
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☆ 内田雅也が書く 野球ができる喜び 戦争に消えた3連覇への夏 ①
暑い夏の日だった。1941(昭和16)年7月15日、和歌山県海草郡宮村(今の和歌山市)の海草中(現向陽高)野球部は
10日から特別に校長許可を得て、校内の同窓会館で合宿中だった。
39年、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で左腕・嶋清一が全5試合完封の偉業で初優勝。
前年40年は真田重蔵を投打の柱に連覇を達成していた。 真田は4年生で健在だった。 3連覇に挑む夏に向かっていた。
合宿に優勝旗を持ち込み、一緒に眠った。 房をちぎってお守りとした。
夏の県予選を前に「全員で優勝旗を返しにいこう」が合言葉だった。その日は期末試験が終わり、練習にいっそう熱がこもっていた。
練習後の同窓会館。監督の長谷川信義が集合をかけた。重い口調で「夏の大会中止」を告げた。 真田は最前列で聞いていた。
「唇が震えていた」と真田の回想が山室寛之『戦争と野球』(中公新書)にある。
「それを見たら、私も急に悲しくなって…。中止が本当だとわかると、体が浮き上がるような妙な気分がした。みんなが泣いた」
当時、大会中止の発表はない。 主催の朝日新聞も報じていない。 12月の日米開戦前で敵性競技の野球排撃が強まっていた。
7月の関東軍特殊演習で満州に70万人もの兵力を派遣。
13日に不要不急の旅行や移動を禁止する文部省次官通達が発令され、大会は自動的に中止となった。防諜上、報道も規制された。
「不要不急」の移動制限とは、まるで今年の新型コロナウイルス禍での事態を思わせる。
42年夏、文部省主催で大会史には残らない全国大会、「幻の甲子園」があり、海草中も出場した。
だが真田は従来「20歳未満」だった年齢制限が「19歳以下」に変わり、出場できなかった。
秋の明治神宮大会には出場し3連覇を果たしている。12月3日、真田は主将として大阪朝日新聞社を訪れ、優勝旗を返還、
レプリカを受け取った。 カーキ色学生服にゲートル巻だった。
43年3月卒業後、プロ野球・朝日軍に入った。 勧誘は阪神と2球団。9人きょうだいの末っ子で朝日を選んだのは、
早く亡くなった父親の代わりを務めていた長兄、利一の判断と元スポニチ編集委員・小川卓の『職業野球の男たち』にある。
オーナー・田村駒治郎の肝いりで、甲子園の自邸「一楽荘」の離れに住まわせた。
長男・智之(68=大阪・堺市)が持っている数少ない戦前の父親の写真が目をひいた。
朝日軍入団当時で、撮影場所は今の甲子園警察署付近にあった野球塔だろう。 夏の大会前日には茶話会が開かれた。
歴代優勝校と選手名が刻まれた銘板がはめ込まれている。 真田は思い出の地でプロとしての一歩を記したのだ。
11月20日、和歌山市内で開かれた海草中全国優勝メンバーの出陣壮行会に6人が参加。
他5人は学生服、最年少の真田だけが背広で「武運長久」と書かれた日の丸をたすき掛けにして万歳で送られた。
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☆ 同上 ②
12月10日、海軍入隊。広島の大竹海兵団に配属され、嶋や同じく海草中先輩の古角俊郎と一緒になった。
嶋が出征前に結婚した妻・よしこに宛てた手紙にみんなで野球をやったとあった。
44年6月に移った横須賀の通信隊、9月に和歌山・由良町の紀伊防備隊でも真田は嶋と一緒だった。
真田は「休憩時間になると道端で昼寝したり野球もやりました。楽しかったです」と語っている。
戦時、死を覚悟しながら、やはり野球なのだ。
10月になり、真田に転属命令が来た。 特殊潜航艇の乗務だった。 水中を進んで敵艦に肉薄し魚雷を放つ。
体当たりの特攻兵器、人間魚雷「回天」とは異なるが、生還の確率は極めて低い。 石川県で訓練を受けた。
智之によると父親はあまり戦争の話をしなかった。 ただ「終戦があと数日遅ければ、この世にはいなかった」と聞いた。
45年8月15日は神戸で出撃に備えていた。
戦後、プロ野球に復帰し大活躍した。 2リーグ分立の50年には今もセ・リーグ記録の39勝をあげ松竹の優勝に貢献した。
晩年は阪神に移籍。 引退後はスポニチ評論家のかたわら明星高(大阪)監督として63年夏、全国優勝に導いた。
当時の本紙に手記を寄せ、友だちから「明星は弱いな」と言われた小学5年生の智之に向け、お父ちゃんはやったぞと記した。
智之は「子煩悩な父でした」と話し、家族で食事や旅行に行った思い出が残る。
90年に野球殿堂入りした際、海草中OB会から贈られた掛け軸「一期一会」を「気性に合う」と仏壇わきの壁に掛けていた。
先輩の嶋をはじめ、多くの球友を戦争で亡くした。 だからこそ、人との出会いを大切にしてきた人生だったのだろう。
真田 重蔵: 1923(大正12)年5月、和歌山市生まれ。 海草中(和歌山=現向陽高)で39年三塁手、
40年投手で夏の甲子園大会連覇。 43年朝日軍(後の太陽、松竹)入団。
出征後復帰し3年連続20勝、50年39勝(リーグ記録)をあげ沢村賞。
52年阪神移籍、56年引退。通算178勝、ノーヒットノーラン2度。57年スポニチ評論家。
明星高監督で63年夏、全国優勝。阪急、近鉄などでコーチ。90年野球殿堂入り。94年、71歳で他界。夫人と1男1女。
嶋 清一: 1920(大正9)年12月、和歌山市生まれ。海草中(和歌山=現向陽高)で春夏6度甲子園出場。
主戦左腕として39年夏、全5試合完封、準決勝・決勝連続ノーヒットノーランの偉業で優勝。
明大進学後の43年、学徒出陣で応召。 海軍に入隊。明大戦前最後の主将だった。
45年3月29日、海防艦に乗り、インドシナ半島沖を航行中、米軍の魚雷を受け沈没、24歳で戦死した。
出征前に結婚、子どもはいない。 2008年野球殿堂入り。
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☆ 内田雅也が書く 野球ができる喜び 特攻に散った野球人、最後の手紙
大阪・住之江にある大阪護国神社の一角に飛行服に身をまとった立像がある。「海軍大尉 粟井俊夫之碑」
神風特攻隊員として1945(昭和20)年4月16日、菊水三号作戦に参加、鹿児島・鹿屋から沖縄に向けて出撃し、
喜界島南東50カイリ(約93キロ)の海で散華した。 24歳だった。
大阪・天王寺商時代は捕手。 時に投手も務めた。 37年には夏の大阪予選で準決勝まで進出している。
39年春、立教大に進み、野球部に入った。 同期に戦後、阪急、西鉄で活躍した永利勇吉(62年、41歳で他界)、
1級上に阪急、近鉄などで監督を務める西本幸雄(2011年、91歳で他界)がいた。
資料によると、海軍・海兵団で試験の上、第14期飛行予備学生として44年2月、土浦海軍航空隊に入隊した。
さらに鹿児島・出水、茨城・筑波で飛行訓練を受けている。
45年2月10日、筑波隊に神風特別攻撃隊(特攻隊)編成の命が下った。120人から50人が選抜された。
4月に入ると、筑波隊は第一、第二…と順に前線基地の鹿屋に移動した。 俊夫は第三筑波隊だった。
俊夫が弟の賢文に宛てた手紙が残っている。 俊夫の遺品や写真はほとんど空襲で焼失してしまったが
「この手紙だけは父が大切に保管していた」。発信は4月4日。 筑波からか、鹿屋に移ってからか。
消印は読み取れない。 いずれにしても出撃間際である。
当時12歳の弟に賢文君、さらに賢坊(ぼ)んと普段通り呼びかけている。「ぼん」は大阪言葉で名前の下に付ける愛称だ。
3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲での避難と無事を喜び、ねぎらった上で賢坊んは大きくなったら
何になりますと問いかけ、兄さんは科学者かお医者様になって欲しいと望んでいる。
科学者になって立派な飛行機を造って欲しいですね。
兄さんは賢坊ん等が焼き出された、あの憎い米英を一氣に撃滅せんと一生懸命猛訓練に励んで居ります故、安心して下さい。
手紙に表現の自由はなかったと海軍飛行予備学生第14期会編『あヽ同期の桜 かえらざる青春の手記』のまえがきにある。
わずかに検閲の目をのがれて、秘かに遺家族にとどけられた。 出撃前の兄は特攻とは書いていない。
「では今日は此れ位にして又お便りします さようなら」と結んでいるが、もう次の手紙は届かなかった。
俊夫ら第三筑波隊は沖縄戦の菊水三号作戦に参加。 4月16日早朝、鹿屋を飛び立った。 同隊5機とも帰還しなかった。
筑波航空隊にはプロ野球・名古屋軍(現中日)の投手・石丸進一もいた。 佐賀商から41年入団。
42年17勝、43年はノーヒットノーランを含む20勝をあげた。
徴兵猶予のため日大夜間部にも籍を置いていたが学徒出陣で入隊。 特攻隊員となった。
第五筑波隊で45年5月14日、鹿屋から出撃。 出発前、親友の本田耕一(法大)と最後のキャッチボールを行った。
従弟・牛島秀彦の『消えた春』(河出文庫)。 同書を原作に映画『人間の翼』にもなった。
石丸は神風特攻隊員唯一のプロ野球選手。 他に陸軍特攻隊で戦死した朝日軍の渡辺静がいる。
◆特別攻撃隊(特攻隊): 爆弾を装着した航空機や潜水艇などで敵に体当たりするため編成された部隊。
太平洋戦争末期の1944(昭和19)年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で海軍の「神風特攻隊」が初めて出撃した。
人間魚雷「回天」、ボートに爆弾を積んだ「震洋」、爆弾を積み滑空して体当たりする「桜花」なども投入された。
特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると特攻による戦死者は6418人。
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☆ コロナ対策が支離滅裂の安倍政権 今こそ「落選運動」を
国民の間にかつてないほど政治へのフラストレーションが高まっている。
新型コロナの“第2波”が全国に広がる中、政府はGo Toキャンペーンで旅行を奨励しながら東京を除外したり、
巨費を投じてアベノマスクをまた配ると言ったそばから、批判が集まると取り消すなど、すべてが支離滅裂。
「いったい、政治家は何やっているのか」 政権への不信は頂点に近づき、各紙の7月世論調査では安倍内閣の不支持率が
朝日、読売ともに52%、毎日60%、日経50%と揃って半数を超えた。
それでも安倍首相は国会を閉じ、会見も開かずに人々の不安や疑問に“見ざる、聞かざる、言わざる”を決め込んでいる。
麻生副総理は感染拡大渦中に参加者1000人規模の盛大な政治資金パーティを開催してカネをごっそり集めた。
「下々が何を言おうが、政権はびくともしない」。どうせ国民には何もできないと舐めきっていることが態度から伝わってくる。
政権がコロナに苦しむ人々の声を無視し、政治を私するのは権力の暴走だ。それを止めるには国民が“武器”を取って立ち上がるしかない。
民主国家で国民に認められた最も強力な武器こそ、「落選運動」である。
憲法学者の上脇博之・神戸学院大学法科大学院教授が語る。
「落選運動とは問題のある政治家を当選させたくないという表現活動であり、憲法で保障されている表現の自由、
言論の自由に含まれる。 民主主義において権力の暴走に歯止めをかける方法として可能性を秘めている。
安倍内閣はお友達のためには何でもするが、国民が悲鳴をあげても助けてくれない。
多くの人が、お友達政治とはこういうことだったかと気づいた今こそ、落選運動という手段を有権者が繰り出すべきかもしれない」
8年間の安倍政治に審判を下す次の総選挙に向け、有権者が行動を起こす時ではないか。
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☆ 「映画館で甲子園を」 高校野球記録映画を公開 横浜隼人と花巻東に長期取材
新型コロナウイルスの影響で戦後初めて中止となった全国高校野球選手権大会。
「今年は映画館で甲子園を。」をテーマに、高校野球を題材とした記録映画2本の連続公開が決定した。
1本目は巨匠・市川崑監督が映画化した『第50回全国高校野球選手権 青春』を14日に、2本目は2018年の第100回記念大会出場を
目指す球児と指導者を追った『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』が21日に2週連続で公開される。
『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』は、「高校野球という日本独自の文化を海外に紹介したい」というニューヨークを
拠点にする女性映像作家・山崎エマ監督(31)と制作陣の願いから、日米国際共同制作作品として誕生。
アメリカの撮影クルーとともに、100回記念大会へ挑む激戦区・神奈川県の横浜隼人高校と、大谷翔平選手や菊池雄星選手を
輩出した花巻東高校の球児と指導者へ1年間にわたる長期取材を敢行した。
自称「昭和の頑固オヤジ」の横浜隼人・水谷監督は、勝つことだけでなくあいさつや掃除などを徹底して人間形成を重要視。
さらには、花巻東の佐々木監督の恩師でもある。 本作では、2人の監督の100回大会の年を追いながら、
純粋に青春のすべてをぶつける高校球児と教育の最前線に立つ指導者の葛藤と喜びを映し出す。
山崎監督は「甲子園のことを初めて知ったアメリカ人たちが『KOSHIEN』に興奮し語り合う様子に感銘を受けました。
そんな本作が、日本のみなさまにもお届けできる機会をいただき、感無量です」と公開に喜び。
「春と夏の甲子園が中止とされる特別な年に、高校野球が本来の姿を取り戻すまでの『繋ぎ』のひとつとして、
日本の風物詩を見つめ考える機会として、本作が役に立てばと願っています」と映画に込めた思いを語っている。
(東京・丸の内TOEIやアップリンク渋谷のほか、全国順次公開)
『第50回全国高校野球選手権 青春』では勿論、倉敷工が登場する。
いよいよ、第50回大会の開幕だ。 スタンドを埋めた大観衆。 割れるような拍手、大観衆が揺れ動く。
選手入場。 ああ、夢にまでみた甲子園。 大会旗の掲揚、国歌演奏。 舞上る数百羽の鳩。
一転して、解体された戦時中の甲子園球場。 戦死した野球人の面影。
第一球をワインドアップする投手。 享栄対倉敷工、かくして今大会四十七試合の熱戦の幕が切って落された。
「審判の右手が高々と上がりました・・・倉敷工業の小山投手 やや冷静に やや意気込んで 第一球を投げました・・・」
痛い肩と肘なれども気力を振り絞って投げる小山投手の勇姿ですね。
「バッターの中村君を呼んで監督が何か言っています・・・」 小沢さんも若い。
DVD化されている。(Amazonに在庫有り、3523円)
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☆ 金属バットが真っ二つ 球場騒然、今治西・越智の内角直球に打球と折れたバットが飛ぶ
「愛媛大会・準々決勝、松山聖陵10-1今治西(7回コールド)」(6日、西条)
金属バットがポッキリと折れた。 五回2死三塁、今治西の越智投手(3年)が投じたインコースのストレート。
松山聖陵の2番・鎌倉(3年)が振り抜くと、ライナー性の打球は一塁方向へ飛び、同時にバットも吹っ飛んだ。
すっぽ抜けたのではない。 鎌倉の手元にはグリップの一部が残っていた。 金属バットが折れた。
見たことのない光景に球場はざわついた。
折れたバットは試合用で、使い込まれたものではなく、使用して半年ほどだという。
バットを折られた鎌倉は「結構しっかりと捉えたと思ったので…」と、言葉を失った。
折れたバットは審判部が持ち帰り、メーカーへ調査を依頼するという。
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☆ 白血病と闘う平塚江南・井上主将 神奈川代替大会
県立平塚江南高校に白血病と闘うキャプテンがいた。前日5日に退院したばかりという井上颯大(3年)は最後の夏をグラウンドで終え、
「家族よりも長い時間を過ごした仲間と、もう一度プレーできたことがうれしい」と実感を込めた。
県立相模原弥栄高校との2回戦。 先攻めの初回に「1番・三塁」で先発起用された井上は、昨夏の神奈川大会以来、
約1年ぶりの公式戦出場だ。 「塁に出てみんなに感謝を伝えたい。そういう思いで打席に立った」。
細くなった腕でフルスイングしたが、バットが空を切る。 それでも粘って、最後は四球を選んだ。
全力で一塁に向かうと、体調面を考慮され、代走を送られた。ベンチに戻ると仲間が大きな拍手で出迎え、ハイタッチを交わす。
鈴木監督(25)に肩をポンとたたかれ「ありがとう。よく戻ってきたね」と優しく声をかけられ、左手で涙をぬぐった。
病気が分かったのは、新チームの主将になった直後の昨年8月中旬。練習試合後、自宅で容体が急変し緊急搬送された。
医師からは「急性リンパ性白血病」と告げられた。 髪の毛が抜け落ちる苦しい闘病生活に耐え、ことし3月に退院。
大会直前に肺炎を患って入院するアクシデントも乗り越え、最後の公式戦に間に合わせた。
試合は2─7で敗れたが、最後まで誰よりも明るくチームメートに接していた姿はキャプテンの立ち居振る舞いそのものだった。
「野球ができる日常のありがたさを知ることができた。先制点を取るのが僕たちの野球だったので、最後にそれができて良かった」
言い尽くせぬ達成感が大粒の涙となって、再びほおを伝った。
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☆ 「四十八願」ってなんて読む? 夏の甲子園に現れた“珍姓球児”たち
イチ押しの珍姓は、1973年に日大一の6番レフトとして春夏連続出場をはたした四十八願(よいなら)隆である。
14年に春夏連続出場した岩国の4番・二十八(つちや)智大も記憶に新しい。
沖縄県球児には珍姓さんが多い。 04年に中部商の一塁手として出場した阿波根(あはごん)直幸など。
かつて甲子園大会の審判も、西大立目(にしおおたちめ)、達摩(だるま)、郷司(ごうし)と個性的な名字が多かった。
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☆ 日本で学び 懸け橋役となる留学生野球部員たち
今夏限りでの休部が決まっている共生(岡山)には5人の台湾人留学生がいた。
01年に創部され、元ソフトバンク李杜軒、西武呉念庭らプロ野球選手も輩出。だが18年夏の大会後に森下監督(57)が
辞意を伝えたことを発端に、19年度からの部員募集を停止することになり、今年は3年生16人だけで戦った。
最後の夏は初戦に勝利したが、24日の2回戦で岡山工に1点差で惜敗し、歴史に幕を閉じた。
本来なら三塁を守るはずだった徐若斉(シュー・ローチー)内野手(3年)は3月に母親が死去したため帰国。
新型コロナウイルスの影響で再来日できず、残り4人が徐の思いも背負った。 彼らの両親も来日できず、
スタンドに来ることはできなかった。 3番打者として活躍した蘇翊(スー・イー)は19日の初戦後、
「試合に出られてよかった。スタンドには弟が来ていました」と日本語で話した。
弟のスー・ジン投手(1年)は、尾道(広島)に台湾から1人で留学した。
共生はなくなっても、受け皿となる学校があり、台湾の野球少年たちの夢の舞台への挑戦は続く。
15年夏に甲子園出場した大阪偕星学園には、高校球界史上初のドミニカ共和国からの留学生コンビがいる。
ダビット・バチスタ・モレノ外野手(2年)、ワーネル・マニュエル・リンコーン・デ・ラ・クルーズ投手(2年)の2人。
日本で野球を学びたいと18年11月に来日し、昨年6月に入学した。山本監督(52)は「2人ともドミニカ共和国で言うと普通か、
それよりも下くらいのレベル」と話す。 この夏、モレノはベンチ入りしたが代打で3球三振。リンコーンはベンチ外だった。
コロナ禍で寮が閉鎖になった時期は、徳島・鳴門市で社会人徳島アストロズなどを運営する鳴門プライベートジムの
室内練習場で個人練習を続けてきた。必死で練習する姿には、社会人の選手たちも驚いたという。
新チームになった現在、モレノは打撃フォームを改良し、苦手の変化球打ちに取り組んでレギュラー獲得を目指している。
投球フォームを固め、来日当初110キロ台だった球速が現在は140キロ台になったリンコーンも投手としての技術を磨く。
飛び抜けた才能がなくても、日本でチャレンジしようとやってくる。
プロになれずとも、彼らは3年間の野球部での生活を生かし、日本と各国、地域の懸け橋役になる。
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☆ 高校野球は生きるエネルギー 全身まひの男性からエール
僕にとって高校野球は「生きるエネルギー」です。 そこで、今までの感謝と恩返しの気持ちを込め、
応援メッセージと手紙をプレートにしました。 甲子園交流試合に参加する32校に今月初め、激励の手紙が届いた。
送り主は全身に運動神経のまひを抱えて生まれた26歳の男性だ。
神奈川県相模原市の保田(ほだ)健太さんが、パソコンを使って作成した。 新型コロナウイルスの感染拡大によって
春夏の甲子園大会が中止されたため、「全国の3年生の気持ちを想うと心が痛いです。皆さんには代表として思いっきり出し切って、
みんなに勇気と希望を与えられるような躍動感溢れる試合を期待しています」と手紙につづった。
保田さんは「相模原市シティセールスサポーター」として地域でボランティア活動をする傍ら、音読や腹筋運動など、
1週間に約30種類の機能訓練を続けている。 「訓練をしなければ指1本動かないからです。
それは真っ暗な太平洋を限りなく泳ぐような、とてつもない厳しさと苦しさがありました」と打ち明ける。
くじけそうになった時、「僕の心を熱く燃やしてくれたのは高校野球でした」という。母の初恵さんの影響で野球好きになり、
小学1年の時、テレビで甲子園を見た。 それ以来、地方大会や甲子園に出かけ、観戦数は1200試合を超えたそうだ。
「どんなに点差がついても、諦めなければ逆転の奇跡があり、想像もつかないドラマが待っている。感動で自然に涙があふれます」
渡辺・元横浜高監督(75)とも交流ができた。
渡辺さんは「保田さんは素晴らしい感性をお持ちで、私の方が勉強させていただいている」と言う。
今回の手紙も渡辺さんに相談し、32校に郵送した。 保田さん自身も甲子園交流試合をテレビで観戦するのを楽しみにしている。
手紙を読んだ磐城高の岩間主将は「保田さんをはじめ、色々な方々がそれぞれ頑張っている姿に、自分たちも刺激をもらっています。
感謝の思いをより強くもって、甲子園で精いっぱいプレーしたい」と決意を新たにしていた。
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☆ 米国は第3の原爆投下を計画していた ①
米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。
だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。
次の原爆投下は間近に迫っていた。
長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはトルーマン大統領の
脅しだったとする主張が根強くある。 しかし、それは決して単なる脅しではなかった。
第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。
そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。
1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前に大統領は沈痛な面持ちで、
第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。
戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。
米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。
核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、
それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。
日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。
1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという
淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。
もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。
米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。
東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。
ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。
直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。
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☆ 同上 ②
米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。
科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。
候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり、東京と長崎の間にあって、戦略的価値が高いこと」
との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、
小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。
同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。
京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。
同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、
爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。
6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。
5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。 また、京都もそのすぐ後にリストから外され、
空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。
スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。
マンハッタン計画の軍部責任者だったグローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると
繰り返し主張したが、最終的にスティムソンが大統領を説得し、リストから外された。
1945年7月、ポツダム会談に出席していた大統領と陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で
原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。
それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、
ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。
京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。
長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、大統領が閲覧した後、陸軍長官と陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。
ハンディ参謀総長代行からスパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。
「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ。
投下はレーダーではなく目視で行うこと。 同行するのは観測用航空機数機に限ること。
さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。
初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。 準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
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☆ 同上 ③
1回目の投下。
日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。
日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。
このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。
8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。
この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。
8時15分、原爆が投下された。 それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。
広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。 数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。
エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。
第2の攻撃。
ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。
ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。
日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、
見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。
8月8日に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた10日の天気は思わしくなかった。
そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、
時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて、別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。
目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。 ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか
視界が悪かった。 ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。
1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。
ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。
日本の大本営は8月9日、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、
長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。
しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。
ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。
日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。
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☆ 同上 ④
米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取った大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。
グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。
ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。
トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。 マーシャルはグローブスへ
「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。
広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。
これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、
別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。
当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して
「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。
トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。
いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、
新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。
最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、
それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。
受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。
米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。
トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。
8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、
次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。
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☆ 同上 ⑤
「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力を
かけるほうが重要であると考える」
同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。
8月13日、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。
グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された。
マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。
本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、
第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。
8月14日、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、
テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。
グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。
その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、
「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。
もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。
トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。
日本がなぜ考えを変えたのか。 原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。
それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。
第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。
原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。
さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。
もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。
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☆ 大分商 プロ注目右腕 川瀬 「すごい所」敗戦も聖地感動
甲子園高校野球交流試合:花咲徳栄3-1大分商 (10日)
プロ注目の最速148キロ右腕、大分商・川瀬堅斗主将(3年)は8回8安打3失点で敗れた。
1回1死満塁から押し出し死球で先制点を献上。続けて141キロを右前打され、さらに2点を失った。
2回以降は「流れをつくろうと、出せるものを出した」と踏ん張り、無失点。ただ最速は142キロにとどまり、
7四死球とコントロールに苦しみ149球を要した。
それでも甲子園は格別だった。 スタンドは原則無観客で保護者や控え部員のみ、鳴り物応援もなし。
感染拡大の影響で異例の夏となったが「どこの球場より、甲子園はすごい所と実感した」と言い、全力を出し尽くした。
試合前の開会式では、花咲徳栄の井上朋也主将(3年)と2人で選手宣誓した。
7月の九州豪雨被災地へ勇気を届ける思いも力に変えて腕を振り続けて完投した。
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☆ 逆転サヨナラ勝ちの明徳・馬淵監督 「七回までノーヒットは記憶にない」
高校野球交流試合、明徳義塾6-5鳥取城北」(10日)
明徳義塾が真骨頂の粘りを発揮し、九回に逆転サヨナラ勝ち。
八回無死までノーヒットに抑えられる苦しい展開だったが、接戦の末、鳥取城北を破った。
名将・馬淵監督は「七回までノーヒットというのは記憶ない。 2-1で勝ってるのは妙な感じで嫌だったが、
八、九回にチャンスがあると思っていた。 八回に2点を取ったのが大きかった」と振り返った。
1点を追う九回、四死球で2死一、二塁。 4番・新沢が右越えにサヨナラ打を放った。
3年生は勝利して、これがラストゲーム。 指揮官は「カウントを取りにくる甘い球を打てと言った。
今日のような試合のように思い通りにならないことはあるが、あきらめずにやればこういうゲームもある。
これを今後の人生にいかしてほしい」とうなずいた。
サヨナラ打の新沢は「気持ち良かったです。ヒットは出ていなかったが最後にチャンスが来ると信じていた。
最後はきっちり全員野球ができて良かった」と笑った。
鳥取城北は先発の松村が6回を無安打、2失点の力投。
1点を追う八回に打線が6安打を集中して5-2としたが、逃げ切れなかった。サヨナラ打を浴びた阪上は号泣した。
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☆ 夏の甲子園に阿久悠氏を想う 【白球つれづれ】
阿久さんがスポーツニッポン紙上で「甲子園の詩」を連載したのは1979年から2006年までの27年間。
数々の名曲を書き上げた稀代のヒットメーカーは、同時に無類の野球好きだった。中でも甲子園の球児たちをこよなく愛した。
大会期間中は朝から夕方までテレビの甲子園中継を見続けて創作に没頭した。その仕事ぶりを拝見する機会があったが、
阿久さんの特徴はその日の政治の動向から一般ニュースや天気らと共に各試合の模様を日記に書き記す。
こうした膨大なメモの中から球児への視点を見出す。言い換えれば甲子園や球児を通じて「時代」を抜き取ってみせるのだ。
桑田、清原のPL時代、松坂大輔の怪物性、斎藤佑樹と田中将大の死闘。甲子園を通じて時代の風や野球の本質を捉えているから、
その作品は幅広い支持を集めた。 今でも全国10校近くに「甲子園の詩」の記念碑が残されているのはその証である。
その阿久さんが初戦で興味を持ったとしたら大分商の川瀬投手だろう。 エースで主将。
選手宣誓の直後、開幕戦の初球を投じて失点を重ねる。 しかし2回以降は立ち直り大器の片鱗をのぞかせた。
そして最後は自らの打席でゲームセット。 素朴な風貌といい、大きなお尻に豊かな将来性を感じさせる若者だ。
阿久さんならコロナに九州を襲った豪雨被害、そして初めての交流戦にも躍動する球児たちをどう描写したのだろうか?
本来であれば102回目を数える全国選手権大会が開催される予定だったこの日。
最も不幸な球児たちは、ある意味この甲子園で最も歴史に残る球児にもなった。
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☆ 新庄「感謝」 恩師迫田前監督にささげる1勝
甲子園高校野球交流試合:広島新庄4-2天理 (11日)
新庄ナインが、恩師に1勝をささげた。春夏通算6度の甲子園を経験した迫田守昭氏(74)が3月31日で監督を退任。
センバツが広島新庄での最後の舞台だったが、中止となり、甲子園の土を踏むことができなかった。
先発したエース左腕、秋田駿樹投手(3年)は6回5安打2失点の好投。
打者の内角を突き、低めに集めた投球で天理打線を抑えた。「今まで教えてくださった感謝の気持ちを持って投げました。
会ったらありがとうございましたと言いたいです」と話した。
広島新庄・秋山 U15日本代表の好左腕
七回からマウンドに上がった広島新庄のダブルエース秋山は、中学時代にU15日本代表に名を連ねた逸材。
福岡県久留米市出身だが、「高校で甲子園を目指して、そこからプロを目指せるように」と
サウスポーの育成に定評のある広島新庄に進んだ。
憧れは「真っ直ぐと変化球の投げ方がほとんど変わらない」という元巨人の杉内俊哉。
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☆ 創成館が3投手の完封リレー 21世紀枠の平田(島根)を下す
高校野球交流試合、創成館4-0平田 (11日)
創成館(長崎)が、タイプの違う3投手のリレーで、平田に完封勝ちした。
稙田監督は「この1試合に3年生はすべてをかけていたので、勝てて良かった。元々守りのチーム。
失策0で終わったことが、この子たちの集大成かなと。ナイスゲームでした」と嬉しそうに振り返った。
敗れた平田の植田監督は「全国の甲子園に行けなかった球児たちの思いを胸に、選手たちには自分たちの実力を
発揮するようにと送り出しましたが、良くやってくれたと思います」と涙ながらに話した。
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☆ 明豊・川崎監督「執念学んだ」 鍛治舎監督にリベンジ
高校野球交流試合:明豊4-2県岐阜商 (11日)
春夏通算10度の甲子園出場を誇る明豊(大分)が、4-2で県岐阜商に競り勝った。
川崎監督(38)は、鍛治舎監督(69)とは同監督が秀岳館を率いていた15年秋季九州大会2回戦で敗れて以来の対戦でリベンジ。
「秀岳館を倒さないと甲子園はないぐらい目標にしていた学校ですし、勝ちへの執念を鍛治舎さんから学んだ。
負けないように追いつけ追い越せというつもりでやっていた」と燃えていた。
鍛治舎監督も「今や九州を代表するチーム。川崎さんがいいチームを作られた」と認めた勝利だった。
九州の高校野球の発展に貢献したベテラン監督に恩返しした。
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☆ 話題の白スパイク なぜ、このタイミング?評判は? センバツ交流試合
テレビ中継を見て、気づいた人もいるだろう。白色のスパイクを使用する高校が登場したのだ。
これまで黒一色だった高校球児の足元が、白で涼しげに見える。なぜ、このタイミングで登場したのか。
選手や監督の評判は。白スパイクを履いたトップバッターは、10日の第2試合に登場した明徳だった。
従来、高野連はスパイクの色について、黒しか認めていなかった。 近年は夏の猛暑が続いている。
高野連は熱中症対策として、黒より温度が上がりにくいとされる白を認めた。今年3月から白を解禁したものの、
今春の選抜大会と今夏の選手権大会が中止となったため、甲子園でのお披露目は交流試合になった。
11日には「白白」対決も実現。 創成館と平田は、両チームとも白スパイクを履いてプレーした。
これまで登場した10校中半数の5校が白スパイクだ。
創成館の松尾遊撃手(3年)は「暑さが全然違います。足がつる人は少ないと思う」と話した。
平田の植田監督も「スポーツ店の人から靴の中の温度が10度ぐらい違うと言われた」と語り、軽くて涼しく感じるという。
暑さ軽減以外にも、創成館の稙田監督は「足が速く見えると思った」と白を使用した理由を明かす。
狙い通りか、平田との試合ではチームで4盗塁をマークし、白星を挙げた。
智弁和歌山や大阪桐蔭も独自大会で白スパイクを使用しており、交流試合でも使う予定という。
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☆ 御巣鷹登山 コロナ禍でも「心の距離はいらない」 つながり続けた35年間
1985年8月12日、日航ジャンボ機が墜落し520人が犠牲になった現場「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)。
この35年、慰霊登山を続けてきた遺族にとって、どんな場所なのか。
遺族でつくる「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(73)の慰霊登山に同行させてもらった。
7月25日朝、小雨が降る中、御巣鷹の尾根に向かう険しい山道を、美谷島さんは息を切らしながら、
一歩一歩、つえをついて登っていた。 今年は新型コロナウイルスの影響で分散登山日が設定され、この日が初日だった。
事故で亡くなった次男健さん(当時9歳)の銘標の前に着くと、美谷島さんはシャボン玉を飛ばし始めた。
銘標に寄り添って立つ石仏の膝の上にいくつものシャボン玉がふわりと積み重なっていく。
「不思議でしょ。 ずっと消えないの。 しばらく健ちゃんと遊んでくれるかな」
35年前の夏、25メートルのプールを泳ぎ切ったご褒美として、健さんに空の一人旅を贈った。
甲子園での高校野球の観戦を楽しみにしていたという。
「ここに来ると、『ママ、宿題やったの』って尋ねられているような気になります」。
宿題とは、犠牲になった520人の「声」を届けること。
事故の4カ月後に「8・12連絡会」を作り、事故の原因究明や公共交通の安全を訴えてきた。
「心の中に健はずっといる。 35年かかってすっと思えるようになった。 大切な人はどこにもいなくならないから」。
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☆ 中京大中京・高橋153キロ! 149球! 進路も注目
高校野球交流試合:中京大中京4-3智弁学園 (12日)
今秋ドラフト1位候補の中京大中京高橋宏斗投手が延長10回、149球を投げきり、チームをサヨナラ勝ちに導いた。
昨秋の新チーム結成から公式戦無敗のままで高校野球生活を終えた。
昨秋まで19勝、この夏の愛知県の独自大会で8勝、そしてこの日の勝利で28勝0敗だった。
今後の進路については「ここから考えていくが進学したい。プロ志望届を出す選択肢も自分の中にはまだある」と、
基本的には大学進学だが、高卒プロの道も選択肢のひとつとして考えていることを明かした。
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☆ 加藤学園が投手戦制す 佐々木監督は聖地初陣飾れず
高校野球交流試合:加藤学園3-1鹿児島城西 (12日)
鹿児島城西と加藤学園(静岡)ともに甲子園初陣。 鹿児島城西は相手を上回る9安打を放ちながら惜敗した。
ダイエー(現ソフトバンク)、西武などで活躍した佐々木誠監督は「負けましたけど非常に楽しめました」と振り返った。
4回2死二塁から7番・原田が中前打も、相手中堅手の本塁好返球に遭い、二塁走者・古市が生還を阻まれた。
佐々木監督は「前半、5回までに2点ぐらい取りたいなと思っていた。みんな調子良かったんで。
肥沼君の緩急をつけたすばらしい配球や、球のキレで、ちょっと打ちあぐねましたね」と素直にたたえた。
3点を追う9回には代打砂川の適時二塁打で1点を返した。 「よく頑張って最後、よく点を取ってくれた。
最後、3年生だけで1点取れたのは良かったと思います」とねぎらった。
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☆ 聖光学院が夏のみちのく王者! 仙台育英を投打に圧倒
高校野球代替大会 東北決勝 聖光学院8―0仙台育英(12日、石巻市民)
全国で唯一、地区大会が行われていた東北の王者が聖光学院に決まった。舘池投手が9回5安打完封で仙台育英を8―0で下した。
舘池は初回、先頭から連打で無死一、二塁のピンチを招くが、主軸を抑えて無失点で切り抜け波に乗った。
右サイドから打者の内角をえぐる強気の投球が光った。 エースの熱投に打線も応えた。
3回2死から一、三塁のチャンスをつくると、4番・畠中子龍一塁手が中前適時打で先制した。
5回には押し出しを含む3四死球に3長短打を絡めて6得点。さらに8回にも追加点を挙げ、8得点で昨秋の東北王者を押し切った。
東北6県が参加した夏の東北大会は1924年以来、96年ぶりの開催。 歴史的な一戦で聖光学院が頂点に輝いた。
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☆ 履正社が星稜に勝利、岩崎が1失点完投 高校野球交流試合:履正社10-1星稜 (15日)
昨夏甲子園決勝と同じ組み合わせは、昨夏と同じく履正社が勝利した。 序盤の大量リードが大きかった。
初回、敵失と内野ゴロの間に2点を先制。 2回には、小深田の2点適時中前打、関本の左前適時打など打者11人で6点を加えた。
先発の岩崎は3回の犠飛による1失点に抑え、関本も盗塁を3回刺すなどバッテリーが強力だった。
星稜は立ち上がりの守備が乱れ、打線もつながらなかった。
元阪神・関本賢太郎氏の長男で、勇輔捕手が4番・捕手でプレー。 打っては適時打を含む2安打1打点、
守りでも3つの盗塁を阻止するなど攻守でハツラツとしてプレーを見せた。 関本氏もバックネット裏から熱視線。
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☆ 星稜 林監督の長男・大陸が甲子園初出場 今日を境に親子へ「戻れる」
星稜・林和成監督(45)の長男の林大陸(りく)内野手(3年)が、途中出場で甲子園初出場。
試合開始時は三塁コーチャーを務めていた中、七回二死から代打で出場すると二ゴロに倒れたが、そのまま二塁の守備に入った。
九回はあと1人出れば2打席目が回ってきていたが、敗戦の瞬間をネクストで迎える結果に。それでも、仲間への感謝の思いを口にした。
「父に感謝を伝えたいです。仲間にも。迷惑をかけたので」 迷惑、と表現したのは監督との親子関係からのもの。
「どうしても仲間は時には林監督の文句も言いたかったと思いますけど、自分の目の前では言わなかったりとか気を遣って、
いい仲間だったのですごく迷惑をかけたなと」。 もちろん星稜に入部を決めた時から覚悟は決めていた。
「星稜への進学は『自分が行きたい道を進め』と言われていたのでそこは抵抗がなかったですけど、周りからも、
ネットとかでもいろいろ言われるという覚悟で来たので」。それでも、実際に入部してみれば、気持ちの部分で難しい部分はあった。
「心の少しのところで親と見てしまうところがあって。『なんでや』と思うこととかもあって。
林監督も『子』と見るところもあったと思うので。グラウンド内で私情を挟んでしまう難しさというか、親子を出さずにというか」。
林監督も試合後の取材で、林に関して「苦しいことが多かったですけど、よく3年間がんばったと思います。
あまり特別な感情は湧かなかったです。そこまでの過程で2人で苦労したので。彼は彼なりに背負うものがあったと思いますし、
嫌な思いの方があったと思いますし、最後に甲子園に立てたというところでは、おつかれさんと」と振り返っている。
周囲からの視線や思い。それを感じる側の、2人にしか分からないものがあった。
林は「確か小2か小3年の時です」と、林監督が初めて甲子園で指揮をとった時に、ベンチから父の背中を見た記憶が鮮明に
焼き付いているという。「なんてかっこいいんだと思いました」。星稜に憧れ、同じユニホームで過ごした3年がこれで終わる。
「今日を境に親子に戻れると思います」と林。自宅でも「林監督というのがあるので」といった関係もこれで終わり。
これから尊敬する父として背中を追っていく。
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☆ 国士舘エース中西 「喜びと感謝」 志願の9回127球 高校野球交流試合:国士舘4-3磐城 (15日)
国士舘(東京)が磐城(福島)との接戦を制した。
先発した中西健登投手(3年)は、2回に2点を失って先制を許すも、粘りの投球で9回9安打3失点と投げ抜いた。
「バックが助けてくれました」と仲間に感謝した。
8回終了後には永田監督(52)から「もういいだろう」と降板を示唆された。
それでも「ここまで行ったら最後まで行きたいなと思って。『行きます』と言いました」と志願。
最後の打者を空振り三振で締め、127球の熱投となった。
「小さい頃から夢見てた場所。 喜びと感謝の気持ちを持って投げました」と笑顔で振り返った。
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☆ 【小池啓之の高校野球見聞録】 長髪や白いスパイク… 時代の変化も変わって欲しくないひたむきプレー
南北海道は札幌第一、北北海道はクラークの優勝で今年度の夏季大会が終了した。
高校球児の最大目標である甲子園は新型コロナ禍で消滅しても、選手たちはベストのプレーを繰り広げた。
開催にあたって関係各位の努力も並々ならぬものがあった。 入場の際は検温を徹底、試合途中・終了時には審判の先生方が
ベンチ内を消毒し、主審もマスクを着用するなど、可能な限りの防護策を講じた。
入場を許可された保護者も応援や間隔に気をつけて見学していた。残念ながら、見学者のごく一部に使用禁止トイレの使用、
禁煙区域での喫煙なども見受けられたが、おおむね守られていた。
グラウンド内で例年と変わったことと言えば、長髪の選手や白いスパイクを履く選手が増えたことだ。 これも時代の変化か。
だが、昔から変えてはいけないものもあるはず。 選手には、ひたむきに白球を追い求め、純真で、泥臭いプレーを切望する。
南大会では、大きな出来事が2つあった。 一つは準決勝。 立命館慶祥が9回表に追いつき、更に攻撃中のところで日没となり、
結局8回日没コールドで敗れた。選手、監督は複雑な気持ちだったと思う。 もう一つが決勝での札幌国際情報・原田投手の投球数。
今年度のルールでは1週間で500球の球数制限があり、途中降板となった。 無念だったはずだ。
2003年の夏の甲子園1回戦。 駒大苫小牧が倉敷工相手に途中まで8―0と一方的にリードしていながら雨が強まって
ノーゲームとなり、翌日、仕切り直しの試合で負けた。
その試合に2年生で出場していた現・駒大苫小牧監督の佐々木先生は「翌年の大会でも忘れていませんでした。
全国優勝できたのも、あの悔しさがあったからです」と断言する。 立命館慶祥も札幌国際情報も、後輩たちが悔しさを忘れないはずだ。
最後に、ルールやマナーを守ることは人として格好いい。「誰も見ていなく、車も来ていない赤信号を静かに待っている大人」。
私は、そんな人間になりたいと思っている。
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☆ 倉敷商が12安打快勝、原田主将「幸せ者だと思う」 高校野球交流試合:倉敷商6-1仙台育英 (15日)
倉敷商が12安打6得点と打線がつながり、仙台育英に勝利した。主将の原田は「今までやってきたことが全部出せました」と胸を張った。
チームは打球を飛ばす力をつけるため、OBで元阪神監督の故星野仙一氏にちなみ、1日1001回のスイング練習。
「闘将というイメージ。梶山監督と同じように、1球に命を懸けたら勝てる、と言ってくれそうな先輩です」。
18年1月に星野氏が亡くなってから、倉敷商は初の甲子園出場。大先輩にも白星を届けた。
今年は新型コロナウイルスの感染拡大に翻弄されたが、原田は2年前にも苦難に直面。18年7月、原田の地元の倉敷市真備町が
西日本豪雨で甚大な被害を受けた。緊急警報で避難したが、自宅は2階まで浸水。
同校OBの父浩司さん(49)が、88年夏の甲子園出場で持ち帰った土も流されてしまった。野球をしていいのか。
自宅を心配する原田を励ましたのは、浩司さん。「すぐに練習して、ベンチに入れるように」。父の言葉で、原田は前を向いた。
被災後は倉敷商の近くに家族で住んでいたが、約1カ月前に真備町に戻った。地元の人々は口々に「頑張れよ」と応援してくれた。
「終わってみたらあっという間だった。いろいろあったけど、最後に甲子園でプレー出来て幸せ者だと思います」。
この日は5回に死球で出塁し、好機を広げて勝ち越しにつなげた。浩司さんが88年夏に挙げた「1勝」に並んだ。
「同じ1勝なので、超えたとは思わないですが、全力プレーで少しでも元気になってくれたと思う」。
この日、聖地の土は集められなかったが、プレーする姿が父へのプレゼントになったはずだ。
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☆ 同じ病抱える阪神・岩田からもらった勇気、仙台育英・松本が初の聖地
途中出場の松本京太郎外野手(3年)は特別な思いで立つ初の聖地だった。
「テレビで見てきた場所。夢の舞台だなと思った」。九回、唯一の打席は三邪飛。
それでも、やりきった高校野球に悔いはなかった。
背番号8の支えになったのは、猛虎の左腕だった。 松本は小学3年で「1型糖尿病」を発症。
その告知を受けた時、担当医師から教えてもらったのがプロ野球・阪神の岩田稔投手の存在だった。
同じ病気を抱えてプロで活躍する投手がいると知った野球少年には、憧れで目標になった。
2014年にはテレビ番組の企画で岩田と対面する機会にも恵まれ、さらに思いは強まった。
新型コロナウイルスの影響で一度はあきらめた甲子園には、サプライズが待っていた。
試合前日の14日、宿舎に入った松本に届いていたのは、サングラスと皮手、木製バットのプレゼント。
送り主は岩田だった。
しかも、岩田自身から電話が入り、「頑張れよ」とエールも受けた。初対面以降は交流がなかったため
「驚いたけどすごくうれしかった」と松本。 岩田がずっと気にかけてくれていたことがうれしかった。
卒業後は大学で野球を続ける。 毎食後と寝る前のインスリン注射が欠かせない毎日に「不便な部分はある」と言うが、
それ以上に熱い思いがある。
「岩田投手も活躍されているし、野球以外でも頑張っておられる方がいる。 自分もそういう立場の人間になりたい」。
自分が与えてもらった勇気をいつか誰かに与えたい。 思いは甲子園でさらに強くなった。
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☆ 「栄冠は君に輝く」に込められた作詞家の思い
作詞した加賀大介氏は16歳のとき、野球の試合でのケガがもとで右足を切断した。
文学に生きるなか、野球への思いを若者へのエールとともに歌詞に込めた。 大介氏は73年に58歳で他界。
妻の加賀道子氏(95)と長女の新川(あらかわ)淑恵氏(65)に話を聞いた。
かくしゃくとした声だった。 今年10月に96歳を迎える加賀道子は苦笑いしながら言う。
「私はカラオケが大好きで少し歌います。 いまはコロナで行けませんよね」。
曲は決まっている。 夫の大介が作詞した「栄冠は君に輝く」だ。 歌声は3番で力が入る。
夫の思いがもっとも伝わる箇所だ。 「最後の『健康』ね。大好きな歌詞ですね」と話した。
大介は草野球に熱中し、はだしで運動場を走り回る活発な少年だった。 だが16歳のとき、夢を奪われた。
試合中、足先のケガがもとで骨髄炎になった。 道子は夫から聞いた話を明かす。
「野球は早慶戦を欠かさずラジオで聞いていて。手術のときもラジオを入れてほしいと」。
実況を聞きながら右足の膝下を切断した。
グラウンドに立てなくなった大介は文学に打ち込んだ。 石川・能美市の自宅前に小学校がある。
道子は言う。 「時々、運動場に行って小学生が野球をしているのを見ていました」。
大介の心が躍ったのは、33歳の48年6月だ。 「夏の甲子園」大会歌の募集を知った。
「ものすごく野球が好きでね。文芸をやっていましたので『野球』という話で飛びついたんだろうと思います。
ただ『栄冠は君に輝く』の題目は、前々から温めていたものでした」。 一気に詞を書き上げたという。
道子は「自分も健康で野球をしていたのにできなくなった残念な気持ちが歌詞に十分、
出ているといつも思います」と言った。
父はいつも家にいた。 長女の新川淑恵は脳裏に焼きついている光景がある。
「家で高校野球やプロ野球をテレビで見ていて選手が盗塁したり、一生懸命、走りますよね。
父の背中を見ていると、すごく体が動くんです。 上半身が前後左右に動いて、指にも力が入っているんだなと」
厳しい父だった。「勉強しろ」が口癖だった。 「歌のことは一切、言いませんでした」。
周りから父が作詞したと伝え聞いても中学3年になるまで、どの曲か知らなかった。
69年の決勝を父とテレビで見た。 三沢と松山商の延長18回引き分け、翌日の再試合。ブラウン管にかじりついた。
閉会式で曲が流れ、歌詞が映る。「加賀大介」の文字を見た。「これなんやあ…」。気づけば、父は居間にいなかった。
あるとき、淑恵は父に冗談めかして言われた。 「運転免許取ったら甲子園に連れて行ってくれ」。
父は73年に58歳で病死して、かなわなかったが、淑恵はのちに道子と何度か甲子園に招かれた。
ある年は開会式直前、吹奏楽団のリハーサルをたまたま見た。 「歌声が、おなかの底にまで響くんです。
その歌を聞いたとき、父ってどこかで生きているんだなって」。 青空を見上げた。 感無量だった。
淑恵は小学校教師として生きた。 「歌は父のメッセージであり、生前のポリシーだと思うんです。
母はよく言いますが、勝者ではなく、スポーツの勝ち負けでもなく、父の人生を振り返っても、
自分の夢や努力してもかなわなかった人に対してのエールです。
正面から『頑張れ』ではなく、その人の肩を押してくれる歌です」と言う。
透明感や躍動感あふれる詞は大介がいまも発する熱だ。 コロナ禍で夏の甲子園中止。
72年前に生まれた歌は、晴れ舞台が消えた高校球児を励ましているようにも聞こえる。
道子は「70何年も前に作った歌だけど、いまも感じは新しい。私に残してくれた財産です」と感謝する。
うれしい言葉にも触れた。 甲子園の開会式で作曲した古関裕而と会ったときだ。 物腰柔らかい紳士に言われた。
「いい歌詞ですね。甲子園大会にぴったりの歌詞です」。
気鋭の作曲家もまた、明快なメロディーに若者へのメッセージを込めていた。
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☆ 「栄冠は君に輝く」に込められた作曲家の思い
おなじみの夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」は太平洋戦争終戦の3年後、1948年(昭23)に作られた。
作曲したのはマーチの名手として鳴らした作曲家の古関裕而氏だ。
甲子園のマウンドで曲想が湧き、戦後の閉塞感を破る願いを明るい旋律に込めた。正裕氏(74)に作曲の背景や思いを聞いた。
この夏、全国高校生の吹奏楽部やコーラス部が一堂に会した。「栄冠は君に輝く」を一斉に演奏する「#みんなで栄冠」を朝日新聞社が主催。
10日午前10時10分からリモート合奏した。公開中の動画では音色と歌声が美しく重なり、実に伸びやかだ。
誰でも参加でき、作曲した故・古関裕而の長男正裕も輪に加わった。
正裕は「今風にアレンジしたり、高校生がダンスすることもある。若い人が演奏してくれて、とてもうれしいです」と話す。
48年8月13日の甲子園開会式で初披露。 当時2歳だった正裕は父の背中を見て育った。
「隣が父の仕事部屋でした。 机に座って五線譜に鉛筆を走らせたり、たまに鼻歌を口ずさんでいたり。 でも作曲している時、
楽器も使わないから、どんな曲を作っているのか一切、分からなかった」。
父は「作るのではなく、生む。自然に湧いてくる」と話していた。 現地の空気に触れ、あふれ出る感性に委ねた。
終戦から3年。 裕而が作曲の打ち合わせで行った大阪は戦時中、約50回の空襲に遭い、まだ傷痕は深かった。
自伝に「大阪を終戦後初めて訪れ、戦災の跡も、所々に生々しく残る市街地を見ながら中之島の大阪朝日へ行った」と記した。
藤井寺球場で球児の予選を見たあと、向かったのは甲子園だった。 誰もいない静かな球場でマウンドに立ち、ぐるりと周りを見回した。
「ここにくり広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロディーが湧き、自然に形付けられてきた。
やはり球場に立ってよかった」 若人が一球一打に執念を燃やす。 光、希望、緑の葉…。 加賀大介の詞が胸に宿っていた。
しかも、戦争の荒廃から立ち上がろうとする人が無数にいた。 たちどころに旋律が湧き上がってきた。正裕は言う。
「戦後でまだ何もない貧しい時代でした。未来 を担う高校生たちのための曲という思いがあったでしょう。
戦前、戦中と区切りをつけて新しい時代のスタートです」。 父は運動が苦手だったが、五線譜の上では、音が力強く躍動していた。
正裕は7年前、父の楽曲を中心としたライブユニット「喜多三」を結成。 ライブのアンコールで合唱するのがこの曲だ。
「時代を超えて残る曲って極めてシンプルですよね。 テンポ、そして跳ねたようなリズムで、メロディーはキレイだし、
誰が聞いてもいい曲。皆さんに歌い継がれてエールを送り続けられればいいですね」。
戦後とともに時を刻んだ、明るく、爽快な音色だからこそ、ウイルスにおびえる今日、心がちょっと軽くなる。
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☆ 明石商・中森、2失点9K完投も反省忘れず 「課題が残る試合」 甲子園は「何回来てもいいところ」
高校野球交流試合 明石商3―2桐生第一(16日)
今秋ドラフト候補で最速151キロを誇る右腕・中森。 力強い直球に加え、緩急のある変化球を交ぜながら好投した。
3回には、この日の最速となる150キロをマーク。 終盤に2点を失ったが、9三振を奪い完投した。
明石商は六回2死二、三塁から井上が左前に2点打を放ち、先制に成功。 中森は三回に150キロをマークし、
八回2死一、三塁のピンチでは146キロの直球を内角に投げ込み、空振り三振を奪ってしのいだ。
中森は「完封を狙っていたけど、最後は勝ちにこだわるピッチングに切り替えた。
勝って終わるのが一番の目標だったのでうれしい」と喜んだ。進路については「これから考える」と明言しなかった。
「勝てたことは良かった」と安どしつつ「終盤にかけて体力が落ちてきた。デッドボールから失点しているので、
まだまだ課題が残る試合でした」と反省を語った。
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☆ 帯広農が甲子園初勝利! 「なつぞら」モデル校が歓喜の校歌
高校野球交流試合、帯広農4-1健大高崎 (16日)
21世紀枠で選ばれた帯広農(北海道)が、甲子園初勝利を飾った。昨秋関東大会覇者の高崎健康福祉大高崎を破り、歓喜の校歌を歌った。
二回に2死満塁から9番・谷口の2点打で先制。 三回には相手守備の乱れを誘い、1点を追加。
健大高崎のプロ注目143キロ左腕・下慎之介投手(3年)を打ち込み、下は4回3失点で降板した。
投げては井村、水上が緩急を駆使して相手打線を翻弄。 1失点でしのぎ、逃げ切った。
帯広農は昨秋北海道大会で4強。 冬はマイナス20度の極寒の中で部活動をしている。
2019年前期NHK連続テレビ小説「なつぞら」のヒロインが通った十勝農業高校のモデルとなった学校。
農業科学科、酪農化学科、食品科学科があり、それぞれ実習授業があるため部活動も制限されている。
地域のリーダーとなれる農業後継者を育てており、学校で育てている牛からしぼった牛乳と農場で取れる大豆などを
混ぜた通称「パワードリンク」で良質なたんぱく質を摂取し、英気を養っている。
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☆ 上宮太子・音野 骨肉腫、足不自由でもノックに魂
「いくぞ!」。ノックはいつも、威勢のいいその一声で始まった。今夏、上宮太子(大阪)・音野峻弥(たかや)は、
学生コーチとして歩んだ2年半の高校野球を全うした。
中1の春、右太ももに筋肉痛のような痛みが続き、ある時、急に立てなくなった。 骨に悪性の腫瘍ができる骨肉腫と診断された。
薬の影響で免疫力も低下し、野球から離れざるを得なかった。
骨肉腫にかかった組織を手術で除去し、6月から翌年2月まで長い入院生活…。 12歳で選手を断念せざるを得なかった。
だが大好きな野球から離れるほど、思いは募った。 裏方として支える決意で、甲子園出場経験のある上宮太子に進学した。
日野監督(52)に一生懸命な姿を買われて2年春からノッカーを任された。 右足が不自由なハンディを抱えつつ、
1球1球に意図を込めた。 足腰を鍛え、守備の感覚を研ぎ澄ますため、みんなのために。何百本、何千本と心を込めて打ち続けた。
集大成の1年はコロナ禍で大きく奪われた。3月上旬から3カ月間休校となり、部活動も休止。 昨秋はチーム内の不祥事で府大会を辞退。
新チームとして、初の公式戦になるはずだった春季府予選の中止に加え、夏の甲子園を目指す夢も閉ざされた。
「甲子園がないからといって、気が抜けることはありませんでした」。 大会ではサブノッカーを務めた。
「できるだけ野手が動いて打球を捕れるように」。 一球入魂で、仲間たちとの最後の夏を全力で支えた。
大阪の頂点を目指したが5回戦で大阪桐蔭に4-9で敗れ、高校野球が終わった。「大阪桐蔭や履正社を倒すことを意識してやってきた。
最後負けたけど、ここまでやってこられてよかった」。 持てる力は全て出し尽くした。 悔いのない、すがすがしい笑顔があった。
夢ができた。学生コーチの経験を通じ「指導者になりたい気持ちが強くなりました」。 大学での野球部入りを目標に、
ノックバットをペンに持ち替える。 「大学で野球を勉強して、目指せなかった甲子園を目指したいです」。
大病、そしてコロナ禍…。 何度苦難が訪れても、情熱は変わらない。 大好きな野球で、夢を追い続ける。
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☆ 【一瞬の夏】 帯広農・千葉俊輔 悔しくて、うれしい 出番なき背番6の夏
悔しい、そして物凄くうれしい。 どちらも本音だった。 ソーシャルディスタンスを保って歌った校歌。
帯広農の背番号6、千葉俊輔(3年)は感謝を込めて歌っていた。
「試合に出られなかったのは悔しいですけど、チームメートが頑張って、勝って終わってくれた。うれしいし、感謝しかない」
昨秋は「1番・遊撃」で打率・440。 投手としても3試合に投げ、今春センバツの21世紀枠選出に大きく貢献した。
そのセンバツが中止になり、夏の甲子園も。 「何のためにやってきたのか」と目標を見失った。 長い自粛期間。
仲間と「最後までやろう」と話し合い、全道制覇を新たな目標に掲げた。 そこに交流試合で甲子園という舞台も加わった。
ところが、千葉俊に悲運が襲う。 練習再開間もない7月上旬に左膝を負傷。紅白戦での走塁で一塁手と交錯した。左膝骨挫傷。
そのケガが治りかけた7月下旬に、バント練習中に右手薬指を骨折。 独自大会には出られなかった。
それでも、甲子園も背番号6でベンチ入り。 シートノックでは遊撃の位置で外野から返球を受けるだけだったが
「今まで感じたことのない雰囲気で、特別な場所だった」。
まだ思うように投げられない。 スイングも使えるのは左手だけの状態。 最後まで出番はなかった。
ただ、代わりに遊撃に入った佐伯柊ら2年生が活躍。 それが何より「うれしかった」と笑った。
悔しくて、うれしかった甲子園。 千葉俊がこの“一瞬の夏”を忘れることはない。
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☆ なつぞら出演の山田裕貴 「前向いて」 帯広農にエール
俳優山田裕貴(29)が16日、甲子園高校野球交流試合で高崎健康福祉大高崎に勝利した帯広農を祝福した。
昨年放送されたNHK連続テレビ小説「なつぞら」に登場した十勝農業高校のモデルとなったのが帯広農。
山田は同校に通う小畑雪次郎を演じた。
「帯広農業高校の皆さん、学校創立100周年の節目の甲子園初勝利おめでとうございます」と祝福。
「甲子園が開催されないと報を受けたとき、高校野球のファンとしてとても悲しくなりました。
その中での球児たちの悲しみは、もう計り知れないと、なんと声を掛けたらよいのか言葉をなくしました。
ですが、こうして原則無観客でも交流試合が開催されたこと、本当にうれしくなりました」と思いを明かした。
そして「いつもと違う甲子園の空気かもしれませんが放送を見て、球児の仲間たちにかける声がより響いているのを感じ、
より仲間たちを感じられたのかなとも思います。
その仲間たちと、支えてくださった皆様との勝利をかみしめて、前を向いて歩いてほしいです」。
さらに「夢の甲子園、高校野球さえ挫折した僕の夢の場でもある甲子園を躍動する球児たちをこれからも
応援していきたいと思います。 いつも感動をありがとう」と感謝した。
山田は小中学生の時は野球少年で、父は中日や広島で内野手として活躍した山田和利氏。
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☆ 鶴岡東の聖地1勝導く 仲良し山形県人の絆リレー 高校野球交流試合:鶴岡東5-3日本航空石川 (16日)
山形県人の絆リレーで今大会東北勢唯一の「聖地1勝」を挙げた。 41年ぶりのセンバツに選出された鶴岡東が、
日本航空石川との「県独自大会優勝校対決」を5-3で競り勝った。
先発した変則左腕の阿部駿介が7回7奪三振3失点(自責2)で試合を作り、エース右腕の太田陽都は2回無失点で締めた。
同郷の3年生2人が勝利のタスキをつないだ。 太田は甲子園で投げられたことは、今後の財産になりますと声を弾ませた。
先発阿部は、1年の冬から取り組んできた横手投げに、時折上手からの90キロ台カーブなどで打者を手玉に取った。
決め球のスライダーは左打者の膝元に集まり、効果は抜群。 7回3失点でラストゲームの大役を果たした。
山形県出身の2人。常日頃からの仲良しコンビだ。 今夏の県独自大会、東北大会の宿舎は同部屋で時間を共有。
野球の話は一切せず、日常的な会話を楽しんだ。
太田は「阿部じゃないと嫌ですね。 落ち着きというか、安心感があるんです」。 部員数は99人の大所帯。
7割近くが県外出身者で同郷の結束力は固い。
太田の兄海都さん(富士大4年)も同校OBで、16年は背番号1で甲子園に臨むも、右肘の故障で出場機会はなかった。
「試合前日に兄から『楽しんで来いよ』とメッセージをもらった。 兄の分まで楽しめました」。
「特別な夏」にかなった兄弟の夢。 確かな記憶を残して、高校野球に幕を下ろした。
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☆ 大阪桐蔭が東海大相模に競り勝つ 薮井主将が決勝打
高校野球交流試合: 大阪桐蔭4-2東海大相模」 (17日)
交流試合屈指の好カードは先発した両左腕が好投。 1点を争う大接戦。 軍配は大阪桐蔭に上がった。
大阪桐蔭は同点で迎えた八回、4番船曳、5番吉安の連打と犠打で1死二、三塁の好機。
途中出場の藪井は2ボールからのスクイズをファウルしたが、その後粘った末にフルカウントからの9球目を詰まりながら
左翼線に落とす勝ち越し2点適時打を放った。
大阪桐蔭の藤江は4回まで無安打、六回まで1安打、二塁も踏ませない好投だったが、
七回、四球と安打などで1死二、三塁のピンチを招き、逆転2点打を浴びた。 7回3安打2失点7奪三振。
東海大相模の石田は初回に先制を許したが、二回を3者三振に仕留めて波に乗った。七回は1死一、二塁のピンチに打球を
素手で止める気迫も見せ、この回を犠飛による1失点に防いで降板。 7回6安打2失点、8奪三振。
東海大相模の神里捕手は、7回1死二、三塁で、右前へ一時逆転となる2点適時打を放った。 兄にDeNA神里を持つ。
「ずっと小さい頃から目標にしていた場所だったので、兄からは、絶対に勝つ気持ちと同時に憧れの場所を楽しめ
と言われました」と兄の助言通りにプレー。 大阪桐蔭に全力で立ち向かった。
10年の甲子園決勝、興南戦を見て、憧れを持って沖縄から入学。 同じ舞台に立てたが、勝利を飾ることはできなかった。
「今日で終わったわけではないので、しっかり神奈川で優勝して神奈川県負けなしで終わりたいです」
と19日の神奈川県大会準々決勝に向け、気持ちを新たにしていた。
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☆ 東海大相模・門馬監督の次男・功 親子鷹で目指す1年後 「日本一を達成したい」
東海大相模は大阪桐蔭に競り負けた。八回には背番号13でベンチ入りした門馬監督(50)の次男・功(2年)が代打で出場。
1死走者なしの場面で遊ゴロに倒れた。
父である監督から「真っすぐを狙っていけ」と声をかけられて打席に立った。
その指示通り、2球目の直球を強振したが「体の開きが早かった」。 思い通りの打撃ができず「悔しい」と唇をかんだ。
幼いころから、父が着ている東海大相模のユニホームにあこがれていた。 4歳上の兄・大さんも同校OBで、
内野手としてプレーした3年夏の神奈川大会は決勝で横浜に敗れ、甲子園出場の夢はかなわなかった。
悔しがる兄の姿を見て「自分が借りを返したい」という思いが強くなり、功も東海大相模への進学を決意。
「父と一緒にやるのは難しい部分もあると覚悟していました」。
家では優しい父との関係は「監督」と「選手」に変わり、グラウンドで厳しい練習に取り組んできた。
2年生の門馬には、まだ甲子園出場のチャンスが残っている。
「自分たちがしっかりチームを引っ張って、来年、日本一を達成したい」。 真っすぐに前を向き、力強く誓った。
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☆ 尽誠学園が智弁和歌山に快勝! 元巨人の谷佳知氏のおい、福島武颯士は無安打
高校野球交流試合: 尽誠学園8―1智弁和歌山 (17日)
切れ目のない尽誠学園打線が、智弁和歌山に襲いかかった。
先制点を許した初回、すぐさま反撃を開始した。 2死三塁から仲村が右翼へ適時二塁打。同点に追いついた。
火が付いた打線の勢いは止まらなかった。 2回は5安打で5点を追加して勝ち越し。 4回にも2点を加えた。
投げてはエース左腕の村上が、2回以降は橘の好リードにも支えられて、調子を上げた。
「9番・左翼」で先発出場した福島武颯士(むさし)は元オリックス、巨人外野手の谷佳知氏(47)のおい。
尽誠学園OBの谷氏は福島の母・真由美さんの弟で、1989年夏の甲子園で4強入り。
兄・大揮さんも同校出身のため、福島も大阪から進学した。 叔父と同じ右の外野手。
昨秋も主に「9番・左翼」で公式戦7試合に出場。 打率3割3分3厘で、四国大会準優勝に貢献した。
この日、死球、三ゴロ、空振り三振、犠打で2打数無安打。ヒットは出なかったが、堅実な守備で、勝利に貢献した。
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☆ 脱毛症の球児、あのプロに救われた もう帽子はいらない
尽誠学園の左翼手、福島武颯士(むさし)君(3年)は頭髪がない。 全身の毛が抜ける脱毛症を患っている。
以前は帽子が手放せなかったが、今は「同じ病気で悩む全国の人に、甲子園で全力で走る僕の姿を見てほしい」と言う。
大阪府内の小学校に通い、小学4年で野球チームに入った。 病気が判明したのはその頃だ。
美容師が気づき、母に告げた。 間もなく毛髪がなくなり、外出時はいつも帽子をかぶった。 時に親に当たった。
中学1年の時、祖父に言われた。 「ヒチョリみたいな選手になればええやん」
森本稀哲(ひちょり)選手。 脱毛症を患いながら、日本ハムなどで活躍した。 俊足と広い守備範囲を誇り、
時にアニメのキャラに変装して観客を笑わせていた。
右打ちの外野手、足の速さ。 周りを盛り上げるキャラクターは違うが、自分に似ていると思った。
少し気持ちが楽になった。 尽誠学園に入学する前、同じ野球部に入ることになった仲間に、自身の病気のことをLINEで伝えた。
「全然大丈夫だよ」と返ってきた。 西村監督(41)からは「勇気を出して、帽子を取って練習に来い」と言われた。
徐々に、自分の見た目をコンプレックスだと思わなくなった。
グラウンドだけでなく普段の生活でも、帽子をかぶらずに過ごすようになった。
昨秋の新チームでレギュラーに。 県大会で優勝し、選抜大会が視野に入ってきた頃に思った。
「甲子園に行けば、全国の人がテレビで、こういう僕がプレーしている姿を見るんだ」
香川県の独自大会では、俊足を生かして内野安打を放ち、準決勝では人生初の満塁弾も放った。
西村監督は「あいつのプレーでチームが何度も活気づいた」と言う。 17日、夢の舞台に立った。
「僕は森本選手に力をもらった。 今度は僕が、同じ病気を持つ人の心が楽になるようなプレーをしたい」。
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☆ 智弁和歌山・高嶋名誉監督の孫が甲子園デビュー
智弁和歌山の高嶋仁名誉監督(74)の孫、高嶋奨哉内野手(2年)があこがれの甲子園デビューを果たした。
4回に代打で登場して中飛。 「いい感じでは打てました。 バットを内から出す意識でした。 結果を出したかった。
打てなくて悔しい」と振り返った。 先週は和歌山・紀の川市内の祖父の自宅で打撃の助言を受けたという。
素振りを見てもらい「バットを内から出す練習です」と明かした。 祖父の教えを実践したが、快音は響かなかった。
3歳の頃から甲子園の客席で同校を応援。 名将として鳴らした祖父に甲子園を「いろんなプレーが出る。
楽しくて怖いところだ。 そのためにもしっかり練習して、結果を出すのがいい選手」と教わってきた。
聖地で初めて味わう完敗で悔しさが募る。
「ヒットで出ることの難しさ、次の打者につなぐ意識の大切さを感じました。 絶対に戻ってきて、
自分たちの代で活躍することを考えます」。 父茂雄さん(44)も夏に2度甲子園に出場して安打も放った。
「3代甲子園」を達成しても、満足感はなかった。
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☆ 白樺学園が逆転負け、エース片山 「暑くてぼーっと」
高校野球交流試合:山梨学院8-3白樺学園 (17日)
白樺学園が逆転負けを喫した。 1回裏、2死満塁から6番宍倉(2年)が押し出しの四球を選び先制。
1-2とされた5回、先頭の1番川波(3年)が交流試合第3号となる中越えソロを放ち、同点に追い付いた。
さらに無死一、三塁のチャンスに4番片山(3年)が右飛を放ち、三塁走者の細谷(3年)が一度はタッチアップしかけたが、
傾きかけた夕日が目に入って打球をしっかり把握できず、離塁が早いとベンチからの指示を受けて戻ったが、
三塁でタッチアウトになった。 勝ち越しチャンスを逃すと6回に3点、7回に1点、8回に2点と山梨学院に畳み掛けられた。
最速148キロのプロ注目エース片山楽生(らいく)は、5回被安打4、4奪三振2失点で交代。 この日の最速は142キロだった。
「北海道とは比べものにならないぐらい暑かった。 暑くてぼーっとしたが、気持ちで投げた。
今後については、戻ってから監督や両親と話して考えたい。 今の時点では進学かプロ志望か五分五分です」と話した。
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☆ 白色スパイク解禁、球児に好評 表面温度20度低下とも
夏の甲子園で選手の足元が変わった。 交流試合に出場した32校のうち、14校が白色のスパイクを履いた。
これまでは規定で黒色に限られていたが、暑さを軽減する効果があるとされ、採り入れるチームが増えている。
6日、炎天下の甲子園。 帯広農の選手たちは、黒土の上を白のスパイクで駆け回った。
安打を放った村中滉貴(2年)は北北海道の独自大会前から履き始めたという。
「北海道でも黒スパイクは日差しがくると熱がこもるけど、白だと気にならない」
桐生第一、捕手の星野は「練習では黒を使っているけど、特に足の裏の暑さが違う」とお気に入りの様子だった。
白色スパイクは昨年5月、熱中症対策の一環として高野連が使用を認めた。
ルール改正のきっかけは国際大会だった。 高野連は、数年前から他国のチームが白色スパイクを使用していることに注目。
各地の指導者からも暑さ対策として許可を求める声があがっていた。 近年の酷暑もあり、議論が進んだ。
昨夏のU18ワールドカップに出場した日本代表も試験的に白色のものを使用。主将の坂下(奈良・智弁学園、近大)は
「黒だったら、汗をかいたら蒸れてしんどかったけど、白は全然大丈夫でした」。
「選手に聞くとね、今までより熱を感じないらしい」と明徳の馬淵監督。
ミズノの試験によると、気温32度で黒色のものと比較。 白色の方が内部温度は約10度、表面は約20度低かったという。
白のスパイクが主流になりそうだね。 倉工は? 効果があるなら早く真似たらいい。
それから、マウスピースをしてる選手が多かった。 歯の嚙み合わせが悪いと瞬発力が落ちる。
嚙み合わせの悪い選手は特に必要。 100回大会の金足農、吉田輝星もマウスピースをして投げていたね。
倉工の選手は? 投げる、打つ、走る・・・どれにも効果は絶大だ。
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☆ 今年はコロナ禍で中止だが… 夏の高校野球選手権大会が「世界の王貞治」を生んだ
都道府県予選を含めた夏の大会が球児のその後の将来を左右した例は数多くある。
プロ野球で歴代最多868本の本塁打を記録した王貞治氏(現・福岡ソフトバンクホークス会長)もその一人だ。
早実で1年生(1956年)の夏から4大会連続で甲子園に出場。 1957年春のセンバツ大会で優勝。
夏は寝屋川高戦でノーヒットノーランを達成した。 3年春のセンバツにも出場し、夏の甲子園大会に出場した後は、
大学に進学するつもりで両親も進学に賛成していた。
ところが、東京都大会の決勝で明治高に延長十一回裏、4点差をひっくり返されてまさかのサヨナラ負け。
「野球で何かをやり残した思い」が募り、進学から一転、プロに気持ちが傾いた。
もし、思惑通りに3年の夏も甲子園大会に出場し、進学していれば王氏は慶大に進学していた可能性があった。
慶大野球部は1956年の秋季リーグ戦で勝って以来、優勝から遠ざかっていた。
投打で活躍した甲子園のスター王貞治氏を何としても欲しかったのだ。
野球部OBによると、王入学に熱心だったのが山本英一郎氏(1919〜2006年)という。
慶大野球部のOBで、のちに社会人野球を統括する日本野球連盟会長となる。 アマ野球界のドンとして、
野球の国際化や五輪の正式種目採用に尽力。 1997年には野球殿堂入りしている。
早実からの進学であれば当然、早大が順当だが、山本氏には有力なパイプがあった。 王氏の兄、鉄城氏だ。
10歳年上の鉄城氏は慶大医学部卒。 その兄を通じて慶大進学を働きかけたというのである。
複数のプロ球団も獲得合戦に参戦。 進学か、プロか。 最後は親戚を交えた家族会議が開かれ、「巨人に行きたい」との
本人のひと言でプロ入りが決定。 1958年10月4日に巨人との正式契約に至った。
王少年は中学時代から成績もよく、勉強もできたそうだ。 慶大に進学していたら、あるいは野球とは別の道に進み、
「世界のホームラン王」も生まれなかったかもしれない。
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☆ バンビ15歳、決勝サヨナラHRに泣く 「人生の原点」
選手権大会で飛び出した1700本近い本塁打のうち、サヨナラ本塁打は22本に過ぎない。
そのうち決勝での、つまり優勝を決めた一発はただの1本だけ。
今から43年前、第59回大会(1977年)決勝で東洋大姫路の安井が右越えに運んだ。
打たれたのは、「バンビ」の愛称で女子高生の人気を一身に集めた東邦の1年生エース坂本佳一。当時まだ15歳だった。
坂本は2年前、第100回大会の始球式で甲子園のマウンドに立った。
スコアボードのスクリーンにサヨナラ本塁打の場面が映し出されるのを見て「あれが人生の原点」と言った。
故障もあり、甲子園に出場できたのはあの夏の一度きりだった。
「あれから全然活躍できずに突然野球をやめたので、今日は『坂本は元気にやっています』というつもりで投げました」
誰がつけたか「バンビ」というあだ名は「最初は弱っちくて嫌だった」と振り返ったが、その後、
1年生投手が活躍するたびに「バンビ2世」が誕生した。
坂本の球を受けていた捕手の大矢は昨年の決勝戦、履正社―星稜をNHKテレビの解説者としてバックネット裏で見守った。
優勝した履正社の岡田監督は、大矢が戦って敗れた東洋大姫路の当時1年生。
初めて夏の決勝を解説した大矢は「ご縁を感じました」と語る。
大矢にあの夏のことを聞いたのは3年前のことだ。 「一世を風靡した坂本とバッテリーを組んで決勝まで行き、
非常にいい思い出を作れて感謝している。負け方も劇的だったしね」。 大矢はそんな風に振り返っていた。
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☆ 2年前の2ランスクイズを胸に プロ目指す近江の主将
近江の土田龍空(りゅうく)(3年)には、忘れられない光景がある。 2年前の第100回全国高校野球選手権記念大会、
準々決勝の金足農戦。1点リードの九回、遊撃の定位置から見たスタンドの雰囲気に圧倒された。
「近江のアルプス席以外、みんな手拍子で相手を応援していた」
そして無死満塁。 「いま思い出しても鳥肌が立つ」という、あの2ランスクイズで敗れた。
1年生ながら球史に残る好ゲームの当事者となり、「逆境で力を発揮できる選手こそ強いのだと学びました」。
滋賀県米原市出身。 父、母、姉も近江高出身で、鮮やかなブルーのユニホームを着ることは自然な流れだった。
総合力の高い左打ちの遊撃手として、入学直後から活躍。 2年夏も甲子園を経験し、最上級生になると主将を任された。
5月20日、3度目の夏の甲子園への道は途絶えた。 その夜、SNS上に書き込んだ。
「とても悔しいです。でも落ち込んでる暇なんてありません。 さあ今です。みんなで元気出して立ち上がりましょう!」。
気落ちする仲間を励まし、プロ挑戦の覚悟を固めた。
多賀監督は「苦しい場面でも明るく仲間を引っ張れる。 切り替えが早い性格も、プロに向いている」。
滋賀の独自大会は、次のステージを見据えて木製バットで臨むことに。
高校通算30本塁打のうち、3本は木製バットで打ったものだ。 目標は、これまでもこれからも変わらない。
「日本一のショートになることです」。
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☆ 高校野球に多色化の波 白いスパイクに加えグローブも
「白いグローブ」は、厳密には白ではなく「ブロンド」と呼ばれるクリーム色。
高野連は白いグローブの使用を禁じているが、ブロンドは“ブラウン系の新色”として認可され、8月から販売が開始された。
交流試合でも大阪桐蔭の藤江など注目投手が数多く使用した。彼らの活躍はテレビ観戦した全国の球児たちの購買意欲も刺激した。
ミズノのブランドマーケティング部担当者が言う。
「甲子園で球児が白のスパイクを使用して問い合わせが増えています。当社実験でも熱中症対策に効果があるのがわかっていますし、
すでに練習では白のスパイクが多い。 これから公式戦でも普及していくと思います」。
グローブの“新色”についてもメーカーは「白いシューズに合わせて受け入れられるのではと期待している」(アシックス広報室)。
古くから甲子園は野球道具のブームを牽引してきた。
「1998年の松坂大輔、2006年の斎藤佑樹・田中将大はいち早く新デザインのグローブでマウンドに登り、
球児たちが“カッコいい!”と飛びついた。 白グローブや白スパイクもトレンドになっていくでしょう。
そもそも高野連は道具の“縛り”が多い。 グローブやユニフォームの色や形には細かい規定があるし、
今では当たり前のバッティング手袋も全面解禁は1998年から。 サングラス使用は現在でも試合前に主催者や審判の許可を得る必要がある。
しかし野球人口が年々減る中、球児の数やメーカーの売り上げを維持するため、徐々に緩和されていくのでは。
レインボーカラーのグローブやスパイクを甲子園で見る時代が来るかもしれない」。高校野球にも“多色化”の波が押し寄せている。
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☆ 甲子園なき夏、それぞれの終わり方
47都道府県で開催された高校野球の独自大会は、23日に埼玉と神奈川の決勝があり、全日程を終えた。
新型コロナウイルスの感染拡大で中止された選手権大会に代わり、全国で約3600試合が行われた。
4府県が7イニング制を採用し、7府県は決勝まで行わなかった。 各地の実情に応じて工夫を凝らし、
感染対策を講じながら独自大会は実施された。 それでも参加しなかったり、できなかったりしたチームもあった。
愛媛の松山東は8月開催の大会には参加せず、松山西、松山南、松山北との4校対抗戦(6月末)を3年生の引退試合とした。
露口主将は「3年生がやってきたことを一つの作品として形にしたい」という思いで試合に臨んだ。
奈良高専は7月下旬まで休校が続き、独自大会参加を辞退した。 そこで県高野連が8月13日に1試合限りのメモリアルゲームを用意した。
校内で感染者が出て試合直前に辞退した岐阜の瑞浪は、1回戦で対戦するはずだった中京と、後日に練習試合を組んだ。
岡本主将は「中京のおかげで高校野球に気持ち良くピリオドが打てた」と感謝した。
勝ち負けを超え、野球ができる喜びや感謝にあふれた夏となった。 野球史に詳しいノンフィクション作家の佐山和夫さんは、
1903(明治36)年に発行された第一高等学校の「野球部史」にある一節を思い出したという。
我が部は校友が元気の噴火山なり、対外試合はこれ鬱勃(うつぼつ)たる元気を爆発せしむる噴火口なり・・・
ベースボールを「野球」と日本語訳した中馬庚(かのえ)(1870〜1932)が書いたという。
「火山という例えの是非は別にして、実にうまいこと言うじゃないか。鹿児島出身の中馬らしい」と佐山さん。
日々の練習で技量やチームワークを磨き、その成果を試合で披露する。 部活動の原点はそこにある。
今年はため込んだエネルギーを発散する場が、ずっとなかった。
だからこそ、1試合、一球一打にかける球児の思いは、例年以上に強かったかもしれない。
優勝校が決まらなかった7地区。 ( )内の数字は、終了した時点で勝ち残った校数。
茨城(4)、栃木(8)、京都(8)、大阪(2)、兵庫(8)、福岡(4)、熊本(3)。
大阪は決勝まで行う予定だったが、雨で順延が続き、履正社と関大北陽が優勝扱いとなった。
東京は、東の優勝校の帝京と、西の優勝校の東海大菅生が「東京一」決定戦を行い、菅生がサヨナラで帝京を破った。
また、東北では優勝の6校が「夏の東北大会」を行い、聖光学院が、仙台育英を破った。 これも独自大会ならではだった。
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☆ ノーヒットノーラン達成!! 復活を果たした小川泰弘の高校最後の夏を振り返る
15日のDeNA戦で史上82人目となるノーヒットノーランを達成するなど、今シーズンは23日時点で9試合に先発し5勝を挙げ、
防御率3.43の好成績で開幕から唯一ローテーションを守るなど投手陣の柱としてチームを支えているヤクルトの小川 泰弘。
昨年は12敗を喫するなど不振に苦しんでいたが、今シーズンは見事に復活した小川の高校最後の夏を振り返りたい。
選抜高校野球に21世紀枠として出場すると、巧みな投球術を武器に、初戦の駒大岩見沢相手に見事2失点完投勝利を収め、
成章の甲子園初勝利を挙げると、2回戦では京都の平安に敗れはしたものの3失点完投で公立高校ながらも躍進を見せた。
そして春夏連続の甲子園を目指した東愛知大会では初戦の知立東との試合で延長までもつれる厳しい試合に何とか勝利すると
その後は勢いにのり、順調に勝ち進む。 小川も準々決勝の杜若との試合で1失点完投勝利を収めるなどチームに貢献していた。
しかし、迎えた決勝では大府戦に先発するも11安打を浴びるなど3失点を喫し、小川の高校最後の夏は終わった。
その後、進学した創価大ではエースとして活躍し、東京新大学リーグ通算で36勝を挙げ、
MVPにも5度選出されるなど輝かしい実績を残し、2012年のドラフトでヤクルトに2位指名を受け、プロ入りを果たした。
成章・2008年夏、東愛知大会: (2回戦) 5対4 知立東、 (3回戦) 9対1 武豊、 (4回戦) 5対1 碧南、
(準々決勝) 2対1 杜若、 (準決勝) 6対5 岡崎城西、 (決勝) 1対3 大府。
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☆ 守屋は次回登板へ慎重
右肩痛で2軍調整中の守屋功輝投手が、次回登板へ慎重な姿勢を見せた。
11日のウエスタン・リーグ、オリックス戦(オセアンBS)に登板して以来、実戦登板がない。
「試合で投げると状態が落ちてしまう。その状態で連投すると、良くならないのが目に見えているので、
根本を治していったほうが時間的にも早いと思う」。 まずは状態を万全にし、登板日を決めて行く。
また、フォーム固め中のドラフト1位西純、腰の張りがあった同3位及川も次戦登板は未定だ。
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☆ プロ志望高校生合同練習会 【8月29日、30日 甲子園】
参加予定選手77名。 (投手は下記の32名)
高田 竜星(遊学館)、加藤 優弥(金沢龍谷)、松村 力(敦賀気比)、上田 洸太朗(享栄)、西山 成哉(渥美農)
加藤 翼(帝京可児)、松山 心(松阪商)、榮 龍騰(津田学園)、千葉 葵(滋賀学園)、森本 修都(光泉カトリック)
内 星龍(履正社)、中野 礼音(東住吉総合)、松木平 優太(精華)、長宗我部 健太郎(北野)、新庄 涼基(大阪偕星学園)
吉村 樹(大阪産大附)、野島 勇太(神戸弘陵)、田島 雄剛(舞子)、福島 章太(倉敷工)、久保田 大斗(武田)
阿部 克哉(柳井商工)、平安山 陽(松山聖陵)、合田 明弘(松山城南)、片山 維(帝京第五)、堀田 智貴(生光学園)
山下 舜平大(福岡大大濠)、則次 叡之(ルーテル学院)、木村 駿太朗(大分舞鶴)、有馬 太玖登(都城東)、和田 颯斗(都城東)
興梠 奨英(延岡学園)、桑原 秀侍(神村学園)。
「プロ野球志望届」提出者が現在158人。 このうちドラフト指名されるのは投手中心に40人程度。
福島君は上位指名確実だろう。 張り切り過ぎて怪我をしないように注意してほしい。
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☆ 原田監督が伝える情熱的なチームづくりとは 平安高野球部の指導法が一冊に (1650円。ベースボール・マガジン社)
原田英彦監督(60)の指導法を紹介する本がこのほど、出版された。母校でもある同高の監督となって28年目。
甲子園に計18度出場し、全国制覇も果たした名将の情熱的なチームづくりが記されている。
タイトルは「龍谷大平安・原田英彦のセオリー 愛の力で勝つための法則75」。スポーツジャーナリストの田尻賢誉氏が著した。
今年5月で還暦を迎えた監督は「こういう年になって、次の世代のことも考えるようになった」と、経験を伝える意義を語る。
内容は練習の工夫や部員との接し方など多岐にわたる。 過度な筋力トレーニングは行わず、柔軟性や関節の可動域を
高めるメニューに力を入れる。 守備を重んじ、キャッチボールを基本中の基本と捉える。
平安高を経て進んだ日本新薬で会社員生活も経験し「他校の監督と違った観点が持てていると思う」と自己分析する。
思い出深いチームも取り上げている。 1997年夏の甲子園は川口知哉投手(元オリックス)を擁して準優勝。
2014年の選抜大会は高橋奎二投手(ヤクルト)らで頂点に立った。
2年前の第100回全国高校選手権で同高として春夏通算甲子園100勝を挙げた。
「あの年に100勝しなければ辞めるつもりで辞表を持ち歩いていた」と明かす。 高校生の気質の変化にも言及する。
「今の子は精神的な部分で成長が遅い。 自分で考えて行動できない」と野球を通して自立した人間になることを目標に掲げる。
監督自らが一番の平安ファンと公言。 小学生時代から憧れの存在だった。
会社員を辞め、低迷していたチームの監督を引き受けたのも母校への思いから。
「平安のためにという使命感はずっと欠けていない」。 ユニホームや応援曲までこだわり抜く。
愛情があるからこそ選手には厳しい言葉で奮起を促す。 一方で選手の努力が結実すると、涙を流して喜ぶ。
近年は生徒との年齢差が広がり、「子どもたちがかわいくなっている」とほほえむ。
今季の新型コロナウイルスの影響は大きく、ベテラン監督にも苦悩のシーズンとなった。
「今の社会でスポーツや芸術、音楽がないがしろにされている。こういう時こそ、スポーツの力が心に入ってくるはず」と訴える。
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☆ 福嶋一雄さん死去、89歳 甲子園の土を最初に持ち帰る
1948年の全国高校野球選手権大会に小倉高のエースとして出場し、5試合すべてを完封して2連覇を達成した福嶋一雄さんが27日、
十二指腸がんのため北九州市内の病院で死去した。 89歳だった。
静岡県浜松市生まれ。 47年の全国中等学校優勝野球大会で、旧制小倉中のエースとして独特な下手投げ投法を駆使し、
九州勢初の全国制覇を飾った。
学制改革後で高校選手権となった48年の大会では1回戦から決勝の桐蔭(和歌山)戦まで無失点で投げきり、
25回大会(39年)の嶋清一投手(和歌山・海草中)と並ぶ全5試合完封の大記録をうち立てた。
卒業後、早大の東京六大学リーグ優勝、八幡製鉄の都市対抗制覇などに貢献して、「福嶋行くところに優勝あり」と言われた。
現役引退後はテレビ、ラジオの解説を通じて、高校球児を見守り続けた。 2013年に野球殿堂入り。
小倉北高と校名が変更された49年は「3連覇なるかどうか」が注目の的だった。 予選前に右ひじを痛め、
甲子園に来てからも医者通いを続けた。 打線の援護で何とか準々決勝にこぎつけたが、初出場の倉敷工に惜敗した。
福嶋投手は試合後、三塁ベンチから一塁側の退場口に向かう途中、本塁ベースとバックネットを結ぶ中間あたりで
グラウンドの土をすくってポケットにしまい込んだ。
「もう、甲子園に来ることがないと思うと寂しさがこみあげ、とっさに手が土にいきましてねえ」
福嶋さんの自然な心情から生まれた行為は、いまも選手の間に受け継がれている。
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☆ プロ志望高校生合同練習会スタート (8月29日 甲子園)
NPBを希望進路とする高校生の合同練習会が甲子園球場でスタートした。 西日本エリアから77人が参加。
選手は自校ユニホームではなく、背番号と胸番号がついたシャツを着用。 それぞれグラウンドに入った。
77人が参加する今回はA班(40人)、B班(37人)に分かれて実施する。
午前11時40分からアップが始まり、午後からフリー打撃、シートノック、障害予防講習などを行うスケジュール。
第2日の30日はシートノックの後に、実戦形式のシート打撃を行う予定だ。
開門からNPBのスカウトも続々と球場入り。 ヤクルト・小川GM、西武・渡辺GMら編成幹部の姿が見られた。
関係者以外には非公開で行われる。
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☆ 高校生の合同練習会、突然の雷雨で中断 (8月30日 甲子園)
高野連と日本野球機構が主催する、「プロ志望高校生合同練習会」が30日、甲子園球場で第2日が行われた。
終盤まで順調に進行したが、午後3時15分すぎに甲子園球場上空を襲った突然の雷雨で、シート打撃が中断してしまった。
午前はBグループがシートノック、シート打撃を行っていた。午後に入って始まったAグループのシート打撃も6組のうち
5組目まで進行していたが、倉敷工・福島章太投手が京都外大西・山下航汰捕手に中前打を許したところで雨脚が強まり、
中断せざるを得ない状況となってしまった。
阪神園芸が大急ぎで本塁付近とマウンドをシートで覆ったが、あっという間にグラウンドには水たまりができ、球場周辺には雷鳴も響いた。
倉敷工・福島以降にも5人の投手が登板を控えており、打席に立つ予定だったにもかかわらずまだ立てていない選手も4人いた。
午後3時40分ごろには雨は弱まったが、悪天候の場合に想定されていた通り、残りメニューは室内練習場で行われることとなった。
☆ 倉敷工・福島章太=177-88、左左 (捕手は麗沢瑞浪・梶)
▽大阪桐蔭・西野・・・141キロ直球空振り三振。 ▽近江・土田・・・138キロ詰まって二ゴロ。
▽綾羽・伊藤・・・139キロ打って三ゴロ。 ▽光泉カトリック・森本・・・115キロ変化球空振り三振。
▽京都外大西・山下・・・木製バットで139キロ打って中前安打。
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☆ 守屋、休日返上トレ まだ実戦復帰の目途がたてられず「悔しい」
右肩痛のため2軍調整中の守屋が31日、鳴尾浜を訪れ、休日返上でトレーニングを行った。
室内でウエートなどを行ったがまだ実戦復帰の目途がたてられず「めちゃくちゃ悔しい気持ちはあります」と話した。
キャッチボールは再開しており「最後日本一になると監督もずっと言っているので、その力に絶対なりたいと思っている」
と復帰に向けて強い思いを口にした。
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☆ 広島カープ 田中広輔選手 クラスター発生の母校へマスク贈る
8月に新型コロナウイルスのクラスターが発生した厚木市立依知南小学校に、
田中広輔選手からマスク3250枚と除菌ジェル500ミリリットル入り40本が届けられた。
田中選手は同校の卒業生で、試合で横浜を訪れた際に母校のクラスターを知り寄付を思い立ったという。
同校は今月3日、全児童495人にマスクを5枚ずつ配った。
20代の男性教諭の感染が確認された8月5日を皮切りに、児童15人と教員5人の感染が次々と判明した。
「不安でいっぱいだったところに、田中選手から心配していただきとても感動した」と外村校長。
同31日、段ボール箱にいっぱい入ったマスクと除菌ジェルが学校に到着。
9月2日には、田中選手から球団の広報を通じて「まだまだコロナで大変だと思いますが、
今できることを一生懸命に取り組み、夢を持って頑張ってください!」との激励コメントも届いた。
同校は他の市立小中学校より遅れ、8月27日から2学期をスタート。
感染した児童、教員計20人はいずれも回復し、全員が登校している。
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☆ 甲子園の土を転売 フリマアプリなどで数多く出品
阪神と阪神甲子園球場が協力して、高野連加盟の野球部と軟式・硬式女子野球部の3年生全員に贈った
「甲子園の土」が入ったキーホルダーがフリーマーケットアプリなどに数多く出品されていることが分かった。
約5万個を製作して8月31日から対象校へ発送を開始。 球児のもとへ届き始めた状況でさっそく出品がされ、
すでに売り切れたものもあった。 値段は1500円〜1万円とさまざまだ。
新型コロナウイルスの影響で春のセンバツ、夏の第102回全国高校選手権大会が相次いで中止になり、
挑戦機会がなくなった3年生球児のため製作したもので、キーホルダーには「102」と大きく記されている。
6月16日に阪神の矢野監督やコーチ陣、選手らが練習前に一、三塁のファウルゾーンで土を集めていた。
「甲子園の土」は過去に球場生誕90周年の14年に夏の甲子園大会の入場者に配布したり、
同95周年の昨年は甲子園記念館の入場者に配布したりした。
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☆ モーリシャスで座礁 「社員17人」の小さな会社は莫大な賠償金を支払えるのか
貨物船『わかしお』が座礁して重油1000トンが流出した。
モーリシャス政府が損害賠償を求めているのが、岡山県笠岡市に本社がある長鋪(ながしき)汽船だ。
長鋪は江戸時代から150年続く同族企業で、長鋪慶明社長は地元ロータリークラブの会長も務めた。
所有するタンカーなど外航船11隻を、商船三井などの海運会社に貸し出している。
社員数は17人で、本社は老舗旅館のような佇まい。 長鋪社長は海沿いの500坪の土地に居を構えている。
モーリシャスは世界有数の生物多様性を誇り、サンゴ礁やマングローブの経済価値はかなり高い。
推定100万頭の海洋動物が死ぬなど漁業にも多大な影響が出た。
1989年のエクソンバルディーズ号のアラスカ沖での原油流出事故に匹敵すると考えられる。
この事故でタンカーの所有会社が地元住民らに支払った補償金は3億ドル(約320億円)以上。
また、97年に島根県沖で6000トン強の重油が流出したロシア船籍のタンカー事故の補償額は約261億円だった。
今回、モーリシャス政府は日本側にまず漁業支援費として約32億円を請求したと地元メディアが報じたが、
長舗汽船は莫大な賠償金を支払えるのだろうか。
「船を所有する会社は船主責任保険に必ず加入しています。国際的な海事法『バンカー条約』で責任の範囲は決まっており、
約10万トンのわかしおの場合、上限は約20億円。 また、過失や故意と判断されても、
油濁事故なら10億ドル(約1060億円)までカバーされるので、保険で支払える可能性が高い」。
ただ、環境法に詳しい高橋大祐弁護士が語る。
「単に従来の基準で賠償するだけでは、2010年にメキシコ湾原油流出事故を起こした英BP社のように国際社会から
厳しい批判を受けることに。 環境回復や被害者救済に向けて自主的に取り組むなど細やかな対応を行うべきでしょう」。
事故対応について、長鋪汽船の広報を請け負う危機管理会社は「補償も保険会社と共に誠意をもって対応していきます」と答えた。
モーリシャスの海が事故前の姿を取り戻すには、数十年かかるとみられている。
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☆ 秋の高知大会は有観客試合で開催へ 県民の声と経済的理由で
高知県高野連は5日、高知市内で秋季県大会(12日開幕、10月11日決勝)の組み合わせ抽選会を行い、
今大会を一般客を含む有観客試合として開催することを発表した。
一般客に対しては入場の際に検温のほか、追跡調査用の記入用紙を配布し、退場時の提出を求める予定。
また今後の感染状況によっては大会中止を含め検討するという。
高知県内の感染状況を考慮し、日本高野連の示すガイドラインに沿って有観客試合を決定した。
山崎理事長は「高校野球が見たいという県民の声に応えること。有観客での球場のあり方を考えていかなくてはならない」と、
決断の理由を説明。 県高野連の経済的な体力面も理由の一つとして挙げた。
10月には四国大会を開催する主幹県としての役割も待つ。「なんとか四国大会も有観客で行いたい」と山崎理事長。
「普通の形の大会開催」を目指して、コロナとの共生の道を探る。
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☆ 甲子園 来春3・19、夏8・9開幕 高野連が開催へ準備
春の第93回選抜は3月19日から、夏の第103回選手権大会は8月9日から開幕すると発表した。
新型コロナウイルスの収束が見通せず、今後の状況は不透明ながら準備を進めていく。
選抜大会は準々決勝と準決勝翌日の休養日2日間を含む、13日間で実施。
出場校は例年通り32校で、一般選考が28校、21世紀枠が3校、神宮大会枠が1校。
今後、出場校の選考委員会を1月29日に、組み合わせ抽選会を3月12日に行うとした。
また、選手権大会は東京五輪を考慮して、五輪閉幕の翌日から休養日2日を含めた16日間を予定している。
観客の有無などについては未定。 同連盟の小倉事務局長(62)は「世の中の状況を見ながら、
その都度検討すべき問題にスピード感を持って対応していきたい」とした。
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☆ 国宝「山鳥毛」華麗な刃文 報道関係者にお披露目 岡山・瀬戸内で10日から特別陳列
備前長船刀剣博物館で10日から特別陳列される国宝「太刀 無銘一文字 山鳥毛(さんちょうもう)」が9日、
報道関係者に公開された。 瀬戸内市が3月に購入後、一般公開するのは初めて。
山鳥毛は鎌倉時代中期の名刀で、備前刀を代表する流派の一つ「福岡一文字派」の最高傑作と評される。
市は購入に向け、2018年11月からふるさと納税による資金調達を開始。 延べ1万4千を超す個人・企業から寄付が集まり、
今年1月に目標の5億1300万円を達成した。 今春の公開を予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
同館2階に陳列された山鳥毛は、四方から鑑賞できる専用の展示ケースに収められている。
杉原賢治学芸員が報道陣にその魅力や由来などを解説。 白髭修一館長は「大勢の支援でようやく実現した里帰り。
名前の由来となった山鳥の羽毛を思わせる華麗な刃文や、力強い刀身を楽しんでもらえれば」と話した。
新型コロナ感染防止のため事前予約制とし、入館者数を1時間当たり40人程度に制限する。
同館ホームページで希望日時を選び、住所や電話番号を入力する。 市によると、既に9割が予約で埋まっている。
(山鳥毛は、戦国武将・上杉謙信の愛刀としても知られる。 刃長79・1センチ)
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☆ 元広島投手が大阪府警で交番勤務
広島の元投手、池ノ内亮介さん(31)が現在、大阪府警寝屋川署管轄の交番で巡査長として勤務している。
「困っている人を助け『市民、府民のため』というところがある。 野球もチームのため、ファンのために頑張る。
『のため』は似ている。できないことを補って助け合って、ひとつのことを成し遂げるのは遠からず似ている」と話す。
「事故もあれば落とし物届けとか、110番があればどこにでもかけつける。書類も書いたりする」と多忙な日々を過ごしている。
池ノ内さんは10年ドラフト育成2位で広島に入団、14年7月に中継ぎとして1軍初登板。
1回を無失点。 1軍での登板はその年の2試合だけで、15年に戦力外通告を受けた。
「一生懸命やっていたけどうまくいかないことも多かった。でもやっぱり充実した5年間だった」と振り返る。
16年にスポーツや語学などの技能を評価する大阪府警の採用枠「自己推薦方式」の試験を受験した。
「今までやってきた野球を評価してくれるのはありがたい。 無駄にならないのはうれしい気持ちがあった」。
警察官の仕事の中にも不得意なものはあるが「苦手が得意になったということもある。
難しいこともコツコツやっていけば成長できるんじゃないか」と考えている。
プロでの経験を生かして、第2の人生も進んでいく。
池ノ内亮介:1988年(昭63)11月22日、三重県生まれ。 中京高では外野手、中京学院大で投手に転向。
10年ドラフト育成2位で広島入団。 13年オフに支配下登録。 14年7月15日のDeNA戦で中継ぎで1軍初登板。
15年に戦力外を受けて引退。 右投げ右打ち。
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☆ 伝統のスレッドよりコピー 最速147キロ パワー型左腕 福島章太(倉敷工) 【高校生合同練習会】
名無しさん :2020/09/11(金) 19:05:28
福島の合同練習のピッチング YouTubeにあるな。
見てみっ 解説者 、コメント、絶賛!
名無しさん :2020/09/11(金) 23:22:44
その動画を見て・・・ 体型は大隣(ソフトバンク希望入団枠=実質ドラ1)
軸足の安定感は榎田(阪神ドラ1)の両左腕に似てると思う。
大隣は大学、榎田は大学・社会人を経てプロ入りしてるので、今あせる必要もないと思う。
解説・実況アナ・コメントがすべて好評というのもまんざらお世辞ではなかろう。
特にコメント欄なんて時に辛辣になるのが普通だから。
名無しさん :2020/09/12(土) 00:01:06
ちびデブの左腕なら巨人の戸根ともかぶる
高3引退時にボロボロだったレジェンド小山さんより、現時点でええ球を放りょうるわ
そういや小山さんもちびデブの左腕よな
やっぱり倉工では小山さん以来の左腕で間違いない
石井厚とは馬力がぜんぜん違う
情報をありがとう。 既に10万回近く視聴されているね。 福島君、解説者などの評価も上々ですよ。
素人目で見ても、体幹がしっかりしているのがよくわかる。 ドラフト2位か、3位だと思うが楽しみです。
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☆ コロナ禍の高校球児に迫る「甲子園のない夏」放送、ナレーションは安藤サクラ
高校球児たちに迫るドキュメンタリー「甲子園のない夏」。NHK BS1 2020年9月14日(月)21:00〜21:49
映画監督の森義隆と小説家の早見和真が、2008年の「ひゃくはち」以来のタッグを組んだ本作。
甲子園が中止となった2020年の夏を、高校球児たちがどのような思いで過ごしたのかが映し出される。
星稜と済美という、2018年に延長13回サヨナラ逆転満塁ホームランという劇的展開で勝負をつけた2校の、
現在の3年生に取材を行っている。
なお森と早見は元高校球児で、早見は神奈川・桐蔭学園の補欠部員として甲子園の土を踏んだ経験を持つ。
また作品のナレーションは、安藤サクラが担当した。
森義隆 コメント:
緊急事態宣言のなか、何を撮ろうかと悩んだとき、自分の根っこに立ち返りました。
カメラとペンを持った元高校球児のおじさん二人、真っ黒に日焼けしながら、高校球児たちを見つめ、問いかけ、
語らった、最高の4ヶ月でした。 僕と早見にとって「ひゃくはち」の続編と呼べる入魂の作品です。
早見和真 コメント:
最初から最後まで、彼らをうらやましいと思うことばかりでした。悲劇のヒーロー、時代の被害者は
きっとどこにも映っていません。 すべての大人が経験していない高3の夏を過ごした彼らが、
10年後、20年後の社会でどう立っているのか、本当に楽しみにしています。
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☆ 甲子園で衝撃の大ブレイク! 楽天・浅村栄斗(大阪桐蔭)
現在、リーグ2位の21本塁打を放ち、大阪桐蔭の一つ上の先輩・中田 翔と本塁打王争いを繰り広げる浅村 栄斗。
自身初の本塁打王のタイトルへ向け、開幕からノンストップで駆け抜けている。 浅村の高校時代を振り返る。
「北大阪大会」
1回戦 12対0 箕面自由、 2回戦 9対0 関西大倉、 3回戦 10対0 豊島、 4回戦 6対0 槻の木
準々決勝 7対1 大阪産大付、 準決勝 2対1 箕面東、 決勝 2対1 履正社
「選手権大会」
1回戦 16対2 日田林工、 2回戦 6対5 金沢、 3回戦 7対5 東邦、 準々決勝 7対4 報徳学園
準決勝 9対4 横浜、 決勝 17対0 常葉菊川
兄と同じ大阪桐蔭に入学した浅村は、2年夏から背番号14ながらもの二塁手のレギュラーを奪取。
中田翔らとともに戦った2007年の大阪大会大会では、決勝で金光大阪に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。
2008年夏の甲子園では6試合で29打数16安打を放ち、打率.522の成績を残した。
決勝・常葉菊川戦での最終打席でも本塁打を放った。
2008年のドラフト3位で西武に入団した浅村は3年目の2011年からレギュラーに定着し、
2013年と2018年には打点王に輝いた。
昨シーズンからは楽天に移籍し、今シーズンは初の本塁打王のタイトル獲得に向け、目下リーグトップを走る、
高校時代の先輩・中田 翔の背中を追う。
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☆ 楽天・黒川史陽内野手 “敵に塩を送った”男のバックグラウンド
黒川史陽(19歳)主砲の浅村をして「19歳とは思えない。 芯が一本、ドンとある」と言わしめた。
デビュー戦となった4日のオリックス戦に「7番・二塁」で先発出場すると二回、無死満塁の好機で迎えた初打席の
ファーストスイングで同点犠飛を右翼へ打ち上げた。 高卒新人の初打席初打点は楽天初。 一振りで球団史に名を刻んだ。
ボーイズリーグのジュニア日本代表「野茂ジャパン」に選出されると、ロサンゼルス遠征で主将を務めた。
進学先は智弁和歌山だが、一昨年の夏まで同校を率いた高嶋監督は、「なんでウチに来てくれたのかな。
あのレベルの子は大阪桐蔭とか履正社へ進学しますからね。 間違えちゃったのかな(笑い)」と、首をかしげる。
その背景にはこんなことがあった。 高校時代、大阪・上宮の主将として1993年センバツ制覇、
楽天・三木監督の2年先輩にあたる父の洋行さんが言う。
「息子はもともと早大か慶大で野球をしたいという憧れがあった。 関西の高校野球部で両大への進学者数が一番多いのが
智弁和歌山ということで『じゃあ一番近道でもある智弁にしたらどうか』ということで決まりました。
練習が厳しいことを知っていたので、中3の夏以降の半年間、ボクシングジムにも通わせて、10キロ増量させて送り出しました」
いざ入学すると7月までの間に9キロも体重が落ちるほど、練習は過酷なものだった。
しかし、両親は「弱音や愚痴を聞いたことがない」と口を揃えて言う。 迎えた夏では1年生ながらレギュラーを掴み甲子園へ出場。
翌年のセンバツでは準優勝に輝いた。
目標に「日本一」を掲げた5度目の甲子園となる最後の大舞台では、3回戦で奥川恭伸(ヤクルト)を擁する星稜と対戦し、
延長十四回の激戦の末に敗退。 自身は6打数無安打と辛酸をなめた。
この試合は、足のつった奥川に対し、黒川が自身も愛飲する熱中症対策のサプリメントを攻守交代時に渡したことで大きな注目を浴びた。
黒川は夢破れたその1カ月後、9月の茨城国体で星稜と再び対戦すると、奥川から2打数2安打を放ち、リベンジに成功。
ドラフト2位で楽天へ入団した。 かつての好敵手より一足早く一軍デビュー。 プロでの再戦が楽しみだ。
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☆ 阪神が21日以降の入場制限を約1万人に拡大へ
19日以降のプロスポーツなどイベントの入場制限が収容人員の上限50%に緩和されたことを受け、
阪神は12日、甲子園で開催する21日のDeNA戦以降の入場者制限の上限を引き上げることを決めた。
9月中の5試合は販売済みの5000席に加え、一、三塁側のアルプス席など未販売区画の席を追加して、1万人程度になる見込み。
10月以降は合計2万人程度の上限で発売することを検討している。
清水事業本部長は「政府や日本野球機構(NPB)の方針を元に、現在チケットの発売に向けて準備を進めています」と説明。
近日中に詳細を発表する。
この日、NPBの臨時実行委員会が開かれ、19日以降の上限を12球団それぞれの判断で引き上げることを決定した。
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☆ 伝統のスレッドよりコピー
名無しさん :2020/09/13(日) 11:47:29
今日の夜は白球の奇跡に福嶋登場。
情報をありがとう。 (白球のキセキ 瀬戸内海放送 20時56分〜21時)
「夢へ挑む 倉敷工・福島章太」
昨夏、岡山学芸館を相手に 鮮烈な投球を見せた倉敷工・福島章太投手。
この試合でプロを意識したという左腕。
急成長を後押ししたのは、 伝統校のマウンドを守るという責任感だった。
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☆ 父思いの新人・王貞治が大部屋のボスに毅然として申し出た 心を打たれるセリフ 【越智正典 ネット裏】
昭和34年2月1日、王貞治は卒業試験の関係で巨人の宮崎キャンプが始まったこの日に午前11時発寝台急行「高千穂」で東京を発った。
2月2日、午後2時過ぎ宮崎に着いた。27年入団の長野県辰野高の捕手山崎弘美が迎えに来ていた。
27時間の遠いひとり旅だったが 「列車のなかで知り合いになったオバアさんとずうーと話をしていました。
たのしかったですよ」。 王のキャンプイン第一声である。
そういえばお母さんの登美さん。「サダちゃんは近所のオセンベ屋さんのオバアちゃんが大好きで中学を卒業する迄、
泊りに行ってたんですよ」。
キャンプでは朝のうちにピッチング練習。そのあと日が暮れるまで先輩の打撃練習のマシーン係。油だらけになった。
4月11日、開幕第一戦。 一塁で7番。 国鉄の金田正一と対戦。 2三振1四球。
それから26打席0安打だったのはよく知られている。
「王は三振してベンチに帰ってくるときに決して下を向かないんだ。空を見上げているよ」同期入団の投手藤本健作。
27打席目に国鉄の村田元一からの初安打がホームラン。 が、また打てない。 引っ込められる。
巨人はロードに出て、4月30日夜、5月1日からの中日戦のため名古屋に入った。
王はテレビ塔の近くの宿に着くと、大部屋を仕切っている「野次将軍」 十時啓視に「先輩、お話があります」。
王は正座した。 「言ってみろ」。
「打てないのは自分が悪いんです。 ぶたれても蹴飛ばされても構いません。ですが『月給ドロボー』というのだけはやめて下さい。
わたしの父は中国から日本に来て正直に働いて来ました。 『ドロボー』といわれると父が悲しみます」。
「王、オレたちが悪かった。 オーイ、みんな、王がガンガン打てるように協力しようぜ」。
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☆ 王の極意と昭和の頑固親父たちの名セリフ 【越智正典 ネット裏】
昭和49年、王貞治は6月に阪神の田淵幸一に9本塁打の差をつけられていた。34歳。
が、夏の終わりに田淵を抜き、秋には2度目の三冠王を目の前にしていた。 王はこの日も打撃日記を書き続けていた。
「10月7日 ステップをして打つのではなく、打つためにステップをするのである」
「打撃とは投手の球の離れるところに全神経を集中してボールをよく見ること、否、見るのではなく凝視するのである」
通算本塁打868、本塁打王15回。
現役後、三塁コーチを務めた黒江透修はいう。 「ビールだって868本飲むのは大変だ! 王さんは凄い。
ホームランを打って三塁を回るとき、唇がブルブルふるえていることが何度もありましたよ」。
48年ドラフト1位で中日に入団した鈴木孝政は「打席に立った王さんの目の光りにやられました」というが
父親武男さんは王貞治が大好きである。
「私は若いときに三河島の精肉店に奉公してました。 八広で店を開いたばかりの王さんちに配達に行きました。
いつ行ってもご夫婦は働いていました。 いつねむるんだろうと思いました」
終戦後、九十九里の蓮沼村に帰り精肉店を始め、店は繁盛。 居間のテレビの前で王を応援していた。
口癖は可愛くてならないのに「孝政の親不孝め!」。
名古屋で一生懸命働き、栄転で千葉に帰って来ると思い込み、ジャガイモ畑を200坪宅地にして立派な家を建てた。
「コロッケがいくつ作れると思っているんだ!」。 日本にはガンコ親爺が多かった。
中日にもうひとり。40年金沢高校から入団した竹内洋は俊敏捕手。
フットワークが素晴らしかった。 翌春のキャンプからショートにコンバートされることになった。
スポーツ新聞で知った父親、大工の喜久治さんが金沢から押っ取り刀で、担当スカウト柴田の家に駆け付けて来た。
「大工だって一人前になるにはどんなにはやくても10年かかる。それがたったの1年で左官屋をやれ!
と言うんですか。 息子にもっと修行させてやってくれ!」。
私は平成元年7月4日、金沢でばったり竹内洋に会った。 名刺をもらった。「北陸中日新聞営業部販売部」
背広姿が凛々しく、よく似合っていた。うれしかった。
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☆ 「自分で頬をたたけ」 松山聖陵で監督が不適切指導 以前も…
松山聖陵の野球部で先月、監督が「自分の頬をたたけ」などと指示する不適切な指導をしていたことが
17日までに分かった。 不適切な指導をしていたのは、30代の男性監督。
高校によると先月、新チームになってからの練習中、部員4人に怠慢なプレーが見られたとして、「自分の頬を叩け」
「壁に頭をぶつけろ」などと指示、不適切な指導をした。 部員にけがはなく、現在も練習に参加している。
この不適切指導は、外部から情報提供を受けた県高野連からの要請で、学校が先月下旬に調査し分かった。
監督は就任後、春夏あわせて3度甲子園に導いていますが、去年2月にも部員に対する暴力行為などを理由に、
日本学生野球協会から2ヵ月の謹慎処分を受けている。
渡部正治校長は「冷静に慎重に指導してほしかった」としています。
監督は現在、グラウンドで指導しておらず、今月26日に開幕する秋の県大会はコーチが指揮を執る。
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☆ 若松勉を震わせた王の名言 「868しか打てなくで残念だよ」 【越智正典 ネット裏】
「王! ゆっくり廻れ!」。 王貞治がホームランを打って走り出すと、一塁コーチ、国松彰は叫んだ。
巨人の関西遠征の宿、ホテル竹園芦屋の元料理長梅田茂雄は「王貞治と書いて律儀と読む」というが、ホントにそうで、
どんなことにも一生懸命な王を国松はベース一周の短い時間だけでも休ませたかった。
きょうも山のようなサインボールと色紙が待っている。
国松はいう。 「走ってくる王の目には祈りがあります」。
国松は昭和9年京都生まれ。西京高校、同志社大学の左腕投手。 30年巨人入団。すぐに中南米遠征。
警察に“出頭”しないとパスポートを貰えない時代である。 キューバでは強豪「シュガーキング」に好投。
秋、巨人は日本選手権で南海を破った。若手選手が会費を出し合って祝賀会。指名された国松は同志社大学校歌を歌った。
巨人の宿ミナミの大野屋に戻ってくると、気を付けをしてまた校歌。 流行歌を知らないマジメ人間。
33年打者転向。二軍暮らし。 居残り多摩川で新人、32年センバツ準優勝、高知商出身の小松敏宏が投げて打たせた。
34年、王が入団。気が合った。 38年9月4日、川崎球場での大洋戦。7回一死満塁。国松は秋山登に向かって行った。
自打球を右足に当てて倒れた。 担架が運ばれてくる。
国松は叫んだ。「バットをくれ、たのむ。バットをくれ」。 脛骨骨折だった。
荒川博がヤクルトの監督になってから、王は後楽園球場の帰りに毎晩、王命名の「料亭国松」に寄った。国松の家である。
ビールとつまみ。たとえば笹かま。 その日の打席について語り合う。 激論になる。 遅くなる。
じゃあ、失礼しますと言ってから王は玄関でさっきの話だけど…と、また打撃論。 2時間に及ぶのも珍しくない。
結論が出ない。 王は必ず「あした見てくれ」。 帰宅してから庭でバットを振ったのはいう迄もない。
55年11月4日、王は現役のユニホームを脱いだ。
町田行彦(国鉄、巨人)に頼まれた。「若松勉がバッティングを教わりたいと言ってるんだ。会ってやってくれないか」。
青山の寿司店。 早く行って待ってなきゃーと、若松。 定刻に王がやって来た。
「ツトム、イッパイやろうよ。 868しか打てなくて残念だよ」。 若松は震えた。
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☆ 【ドラフト回顧・1973年】 “怪物”江川卓は阪急拒否、巨人は1位から3位が拒否
1973年、いよいよ“怪物”がドラフトの主役になる。
史上最速と言われたストレートを武器に、作新学院のエースとして旋風を起こした江川卓だ。
ただ、慶大進学を目指し、「100パーセント進学」と言い切り、会議では一番クジの大洋が山下大輔(慶大)を指名すると、
以後の球団も、そのまま江川を避けた。
しかし6番目の阪急が「あれほどの逸材を指名しないほうがおかしい」と強行指名も江川の意思は固く、交渉の余地はなかった。
異変が起こったのは巨人だった。小林秀一(愛知学院大)、黒坂幸夫(糸魚川商工)、中村裕二(住友金属)と1位から3位までが、
すべて入団拒否。 1位の小林はアンダースロー投手で大学選手権での早大戦完封で注目された。
のち「気持ちはぐらついたが、巨人には自分たちが指名したら入って当たり前というおごりがあった」と振り返る。
小林は川上哲治監督と同じ熊本出身。 直々の出馬もあったが、小林の気持ちは変わらなかった。
巨人のドラフト1位の入団拒否は、いまのところ唯一でもある。
1位勢では山下以外にも、南海が藤田学(南宇和)、近鉄が栗橋茂(駒大)、中日が藤波行雄(中大)、広島が木下富雄(駒大)、
阪神が佐野仙好(中大)らと大学出身選手を中心に渋い逸材が数多くいるのも特徴だ。
ただし、結果的にこのドラフトの出世頭は阪神のドラフト6位にいた。 習志野高の掛布雅之だ。テスト生扱いで
「とりあえず」の指名だったが、猛練習でのし上がり、のちには1位の佐野とサードのポジションを争い、自分のものとする。
この男がやがてミスタータイガースと呼ばれ、江川と球史に残る名勝負を演じていくのだから人生は分からない。
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☆ ボール直し球児の元へ 鳴門の障害者就労施設、傷んだ硬球2000個修理
徳島県鳴門市撫養町の障害者就労センター「たなごころ」が、県内の高校野球部で使い込まれて傷んだ硬球を修理し、
再び球児の元へ届けている。 これまでに県内8校の約2000球を直してグラウンドに送り出した。
高校側からは「球児の物を大切にする気持ちが養える」と歓迎されている。
たなごころは鳴門市のNPO法人「山の薬剤師たち」が運営。
徳島市の障害者施設で硬球の修理に携わった経験のある職員が発案し、高校野球部に呼び掛けて昨年2月から取り組み始めた。
センター利用者5人で作業を分担。 古くなった革をはぎ、綿糸を巻き直して規定の大きさにそろえ、新しい革を縫い合わせている。
針で指を刺してしまうといった苦労もあるが、球児に喜んでもらえる仕事とあって、意欲的に取り組み、1日8個ほどを仕上げている。
革の張り替えは1球300円、糸のほつれ修理は100円で請け負う。これまでに阿南光、鳴門、徳島商業、徳島北、板野、名西、川島、
生光の各高校からボールを預かって直した。 高校からは「部員に作業を見学させたい」との要望が寄せられている。
作業に当たる5人は、各校の試合結果をテレビや新聞でチェック。 石井町の二村香織さん(27)は「とてもやりがいがある。
球児が頑張っている姿を見るとうれしくなる」と言う。
施設の福池伊津子管理者は「社会のためになっていると実感できる。 今年はかなわなかったが、球児が甲子園で活躍する姿を
楽しみにしている」と話している。
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☆ 秋の岡山県高校野球 家族5人まで入場可
岡山県高野連は17日、倉敷市で秋の県高校野球大会(26日開幕)の運営委員会を開き、新型コロナウイルス感染対策として
夏季県大会に続き、観戦者の入場制限を行うことを決めた。 部員1人につき家族5人まで認め、一般客は観戦できない。
部員1人につき保護者2人までだったが、プロスポーツなどのイベントで入場者制限が緩和傾向にあることを踏まえ、
範囲を広げた。 入場者からは大人700円、中高生100円の「大会協力金」を徴収する。
来春のセンバツにつながる秋の県大会は26、27日、10月3、4、10、11日の6日間、マスカットスタジアムを主会場に行われ、
県内3地区の予選を勝ち抜いた20校がトーナメントで争う。
23日の組み合わせ抽選会は従来、出場校の責任教師と選手が参加していたが、感染リスクを抑えるため責任教師のみで行
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☆ 【ドラフト回顧・1977年】 クラウンが江川卓を強行指名!
リーグ連覇を飾った長嶋監督が、指折り待った1977年のドラフト。 狙うは、法大のエースとして47勝を挙げた江川卓。
作新学院時代から“怪物”の名をほしいままにした快速球右腕で、巨人とは相思相愛。
ドラフト前、後見人の船田元衆院議長と並んで「意中の球団以外は指名しないでほしい」という異例のお断り記者会見まで開いたほどだ。
しかも、この日の指名順抽選の結果、巨人が引いたのは2番。 1番は新参のクラウンライターで、経営難も伝えられていた。
断られるのが目に見えている江川の指名はないと思われた。
しかし、クラウンは降りなかった。 江川を敢然と指名。 ただ、交渉するも「九州は遠い」と拒否を貫き、社会人には進まず、
1年アメリカに留学し、翌年のドラフトを待つことにした。 来年になっても確実に巨人に入れる保証はどこにもなかったが…。
巨人は1位で早大の捕手・山倉和博を指名。 近鉄が金光興二、ロッテが袴田英利と、法大から1位指名は3人。
ほかにも阪神の2位に植松精一、巨人の6位に島本啓次郎と、法大勢は5人が指名された。
2位では甲子園を沸かせた2人の高校生右腕がいる。 智弁学園の山口哲治が近鉄、星稜の小松辰雄が中日から指名され入団。
山口は79年プレーオフ、小松は82年のリーグ優勝時、胴上げ投手になっている。
大洋の3位には東海大の遠藤一彦。 その後、79年入団の江川にライバル心を燃やし、最多勝も競った長身右腕だ。
捕手の豊作年でもあり、1位の山倉、袴田に加え、広島4位に達川光男(東洋大)、日本ハム6位に田村藤夫(関東一)、
のちの正捕手の名前がある。 大洋6位には俊足の外野手として鳴らした屋鋪要(三田学園)もいる。
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☆ 【ドラフト回顧・1978年】 「空白の1日」の後、巨人がドラフトボイコット、江川卓は阪神が1位指名
1978年のドラフトから11年続いてきた「指名順抽選方式」に代わり、新たに「入札方式」でスタートすることになった。
最大のドラマはドラフトの1日前の11月21日にあった。江川卓(作新学院高職員)が交渉期限がドラフト会議2日前までという、
ルールの盲点、いわゆる「空白の1日」を使って巨人と契約したのだ。
当然、セ・リーグは江川の支配下選手登録申請を却下。 怒った巨人は翌日のドラフト会議ボイコットした。
残る11球団で行われた会議では江川を南海、ロッテ、近鉄、阪神が1位で指名し、阪神が交渉権を引き当てた。
この問題はその後も二転三転し、最終的には金子コミッショナーの「強い要望」が出て、江川は一度阪神と契約した後、
春季キャンプ前に小林繁とのトレードで巨人入りを果たした。
1位は参入したばかりの西武が森繁和(住友金属)、ロッテが福間納(松下電器)とのちのリリーフのスペシャリスト2人を獲得。
ほかにもドラフトをボイコットした巨人が明大の鹿取義隆をドラフト外で獲得するなど、リリーフの当たり年ともいえる。
江川の法大時代の先輩でもある高代延博(東芝)を1位指名した日本ハムは2位で82年に20勝を挙げる工藤幹夫(本荘高)を
隠し玉的に獲得しているが、最大の隠し玉ヒット作は、ほぼ無名だったロッテの3位・落合博満(東芝府中)だ。
のち三冠王3回の怪物打者である。
2位で石嶺和彦(豊見城高)を獲得した阪急はドラフトが外で松永浩美(小倉工高中退)と、のちの中心打者2人を獲得した。
この年はボイコットした巨人だけでなく、新球団の西武もドラフト外での選手獲得に積極的に動いた。
特に松沼博久(東京ガス)、雅之(東洋大)兄弟をめぐる争奪戦は熾烈なものとなったが、予想に反し西武が勝利。
1球団4人ずつ、総指名数は48人のコンパクトなドラフトの予定も巨人のボイコットでさらに減り、
史上最少44人だけが指名され、ドラフト外では49人が入団した。
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☆ 「隠蔽は隠蔽を呼ぶ」 半沢直樹の言葉は、菅首相に響くか (西日本新聞)
一夜のうちに流れができ自民党5派閥が群がった。
新首相の誕生劇に、昭和の政界を牛耳った田中角栄元首相のあの言葉を思い出した方もいよう。「数は力」。
複数の人間が集まれば「組織」が生まれ、その「数」が多いほど組織の「力」は増す。
派閥に限らず国家、軍隊、省庁、組合、会社もしかり。構成員は同じ方向を目指すが、方向を誤れば組織は腐敗する。
そんな腐った組織に敢然と立ち向かうのが、作家池井戸潤さんが生み出したヒーロー「半沢直樹」である。
日曜夜のテレビドラマで「倍返しだ」の名ぜりふを聞けるのもあとわずか。
このドラマがなぜ人気なのか。俳優陣の歌舞伎のような迫真の演技やストーリー展開の妙味もあろうが、
堺雅人さん演じる半沢が発する言葉が一番の魅力では。 せりふはほぼ池井戸さんの原作を踏襲している。
秀逸だったのが部下に働く上での信念を問われた半沢のせりふ。
「正しいことを正しいと言えること。 組織の常識と世間の常識が一致していること。
ひたむきに誠実に働いた者がきちんと評価されること」。 そうした当たり前のことを実現するため半沢は闘う。
先日の放送ではこんなせりふも。 「隠蔽(いんぺい)は隠蔽を呼ぶ。その原因は組織の体質にある。
過去を正してこそ未来は正しく光る」。
安倍路線を継承した菅首相にぜひ耳を傾けてもらい、半沢が言う「世の中のためにする仕事」にまい進してほしい。
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☆ 河井案里は虚ろな目、女性秘書は突然号泣… 河井前法相「裁判の修羅場」
昨年の参院選をめぐる大規模買収事件で公職選挙法違反の罪に問われた前法相の河井克行被告(57)と妻の案里被告(46)。
2人は8月25日の初公判以降、東京地裁に連日出廷している。
逮捕当日(6月18日)発売号の「週刊文春」に案里氏の独白記を寄稿したライターの常井健一氏が法廷で見た。
腰縄と手錠につながれた現職の国会議員を一目見て、言葉を失った。2人とも肌に艶がなく、やせ細り、着ているスーツもぶかぶかだ。
9月4日午前10時に始まった第6回公判。 厳粛な空気が漂う大法廷に突然、乾いたヤジが響いた。
「なんで検察を見るんだ」 声の主は、克行氏。 目の前の証人席に座る案里氏の公設第一秘書(61)に向かって激高したのだ。
確かに、その女性は弁護人の質問に言葉を詰まらせ、時折よそ見をした。
だが、それを咎めた前法相の声には張りがなく、首相側近の凄みは消えていた。
裁判長は不規則発言を口頭で注意。 克行氏は弁護人に促され、「気を付けます。失礼しました」と謝った。
勾留が続く夫婦は、被告席に横一列で座る。 ただし、間には刑務官が2人おり、身を乗り出さないと顔を合わせられない。
夫が逆上した瞬間、案里氏は前を向いていた。
案里氏の頬は白いマスクで覆われ、顔色を窺うのは難しい。
顔を動かすたびに浮き出る首筋の骨は、私が逮捕前に3時間向き合った時よりも目立った。
開廷中、意欲的にメモを取る夫とは対照的に虚ろな目で遠くを見やり、しばし瞼を閉じる。
それを見て、彼女が私の取材で向精神薬の服用を認めたことを思い出した。
証人席の女性秘書は、前日にあった検察の尋問では急に号泣した。参院選の公示前から大量の印刷物を地元有力者に配り歩き、
無理を重ねた物量作戦を振り返りながら「どうにか案里さんを当選させたかった」と語り、悔恨を滲ませるように嗚咽した。
秘書は「名古屋巻き」の黒髪、長い付け睫毛といういで立ち。 体の線を強調したド派手な装いを封印し、
就活生のような黒スーツを纏う被告席の“主演女優”より目を引く。
検察官が読み上げた女性秘書の供述調書によると、広島県議だった案里氏の国政進出は「上昇志向が強いから驚かなかった」。
克行氏の不人気ぶりも明かし、法廷では克行氏の性格を「すごく心配性」と証言。
冒頭のヤジは、その本性に迫ったやりとりの直後に飛び出したものだ。
もう一人、私が着目した脇役は克行氏の弁護人、田代政弘氏。 前職の検察官時代、小沢一郎氏の元秘書が有罪になった陸山会事件を
担当したが、公判中に捜査報告書の虚偽記載が発覚。 書いた田代氏は職を辞した。
今回は政治家側に立つ田代氏だが、審理は検察側がリード。 既に出廷した選挙スタッフ2人は克行氏を陣営の仕切り役と認定。
1人は集票活動の詳細を克行氏に逐一報告していた訳を「強く叱責されるから」とこぼした。
また、検察の調書から、「夜明けのアライグマ作戦」や「クジラ作戦」などユニークな愛称の選挙戦術が存在し、
案里氏の肝いりは、「美女軍団練り歩き」だったことも判明。押収資料にあった「ぶ」という記号からは、
夫が妻を「ぶーちゃん」と呼ぶプライベートも赤裸々に明かされた。
審理は長くて1日6時間。 有力者や業者の実名が続々と出て悪漢小説(ピカレスク)を読むようだ。
毎回の閉廷時に2人の腰が縄で締められる瞬間、「細さ」に改めて驚く。
私が傍聴券の抽選に外れたのは2度だけ。今や傍聴人は少ない。 閑散とした大法廷は、長期政権のあっけない終焉を反映している。
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☆ 菅総理が直面する「安倍政権」負の遺産 河井夫妻問題、警察の暴走をどうするか
まずは「河井夫妻問題」。 河井夫妻の買収の「原資」は、昨夏、案里氏が広島選挙区から参院選に初出馬した際、
自民党本部から案里氏サイドに振り込まれた大金だったのではないかと囁かれている。 その額、実に1億5千万円。
そして、「河井夫妻に目をかけていたのは、他ならぬ菅さんです。
『案里さんはとにかくいいタマ』と公言し、彼女を全面バックアップしたんです。
付言すれば、案里さんは今や絶大な権力者である二階幹事長の派閥です。 1億5千万円という大金の支出が、
誰と誰の意向で行われたかは言わずもがなでしょう」。つまり、河井夫妻問題は「菅総理問題」と言い換えることも可能なのである。
次に菅政権下で懸念されるのは「警察の暴走」だ。 3年前、「週刊新潮」報道によって「安倍総理ベッタリ記者」こと
ジャーナリストの山口敬之氏に対する「準強姦逮捕状」が握り潰されていたことが明るみに出た。
そして、準強姦事件当時に警視庁の刑事部長を務めていた中村氏(現在は警察庁次長)は本誌の取材に対して、
「逮捕は必要ないと私が決裁した。捜査の中止については指揮として当然だと思います。自分として判断した覚えがあります」
と、認めたのだった。
つまり、菅官房長官の秘書官を務めた経験もある中村氏は被害女性である伊藤詩織さんの人権よりも、
時の総理の覚えめでたい記者を守る判断を下したわけだ。
さらに、「些細」なゲームセンターでの喧嘩を巡ってはこんなこともあった。被害者が安倍総理の元秘書の子息であったせいなのだろう。
「たかがケンカ」にも拘らず、その捜査には精鋭部隊である警視庁本庁の捜査1課が投入され、今度は逆に“加害者”が逮捕されたのだ。
巷に溢れた「小競り合い」で異例の強権逮捕。 これを「指示」したのも中村氏である疑惑を本誌は昨年報じている。
時の権力者に寄り添い捜査の指揮棒を振る中村氏、人呼んで「政府の番犬」。 そんな中村氏は、菅官房長官の秘書官も務め、
「ふたりは“切っても切れない”関係を築いていきました。 菅さんは中村さんを、『将来、間違いなく警察庁長官になる人物。
紹介しましょうか?』と、さまざまな場面で売り込んでいました」(菅氏を知るマスコミ関係者)
そして実際に、「来年、菅さんの威を借る中村さんが警察庁長官になるのは確実です」(警察庁担当記者)
こうして振り返ると、河井夫妻といい中村氏といい、菅総理の「人を見る目」が気になる・・・。
ついでに「森友学園」問題を担当して自殺した財務省近畿財務局の職員さんの問題。
まじめに働いてきた職員に改ざんを強いたおもな幹部は、軽い処分だけで責任を取らず、いずれも出世している。
これほど理不尽なことはありません。しかしながら、これも闇から闇に葬ってしまいそう。
せめて、遺族が損害賠償を求める裁判で、国と佐川氏に対し1億1千万円あまりの損害賠償が認められることを願う。
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☆ 秋の岡山県高校野球大会 2回戦 倉敷工 4-0 城東 (マスカットスタジアム 26日)
倉敷工は右腕水田が8奪三振、2安打完封。 落差のあるカーブが効果的に決まり、三塁を踏ませなかった。
打っては三回、城内、岡田の単打などで2死満塁とし、松本が走者一掃の中越え三塁打を放ち先制。
五回1死三塁は岡田の内野ゴロの間に加点した。
城東は左腕塚本が緩急を生かし粘投も打線が援護できず、唯一得点圏に進んだ四回は中軸が凡退した。
☆ 背番号10が完封・・・水田は111球をテンポ良く投げ込み、0を並べた。「丁寧にコースへ投げられた」と2安打完封に胸を張る。
直球は大半が120キロ台だが 「投手としてトータルの能力を発揮してくれた」と高田監督。
2四球と制球が安定し、切れの良いスライダー、チェンジアップを決め球に8三振を奪った。 効いたのが90キロ台のカーブ。
タイミングを外してカウントを稼ぎ、直球を速く見せた。
旧チームで絶対的な存在だったプロ注目の左腕福島が付けたエースナンバーを本格派の多田野と争い敗れた。
「悔しさを力に変えた。 後ろに(多田野)成龍がいると、思い切りいける」 と競争の効果を実感する。
秋はここ5年で4度目の8強。 ただ、その先には進めていない。
3点三塁打を放った松本は 「投手を全員で支える野球をすれば勝てる」。 二枚看板をそろえた古豪がそろそろ壁を破りそうだ。
センター宗岡 1安打、 ショート岡田 1安打1打点、 ファースト村中1安打、 キャッチャー松本 2安打3打点、 ライト福島1安打、
ピッチャー水田1安打、 セカンド城内 1安打。 (合計8安打、三振3、四球4、犠打3、盗塁2、失策0、残塁6、併殺0)。
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☆ エリート・安倍晋三が「庶民・菅義偉」にハメられ完敗した全内幕 ①
安倍の大叔父である佐藤栄作は長期政権の幕を閉じるにあたり、自分と同じ高級官僚出身の福田赳夫に継がせたいと考えていたが、
結局、叩き上げの田中角栄に権力を奪取された。 今回はその時と全く同じ構図となった。
安倍は、自分と同じ政治家三世の岸田文雄に後を継がせたいと考えながら、結局、叩き上げの菅に政権を簒奪された。
古代ローマ以来、まさに「歴史は繰り返す」のだ。
昨年4月、菅が新元号を発表し、「令和おじさん」として国民的人気を得た頃から、首相政務秘書官の今井尚哉ら安倍周辺は
「菅長官はすっかり舞い上がっている。 安倍首相の任期切れの前に自らへの禅譲を迫りかねない」と警戒し始めた。
新元号の発表自体、安倍が自ら行いたいと考えたのに対し、菅は平成の前例を盾に「自分が発表する」として譲らなかったという経緯があった。
「いつかは官邸の主に」との思いを25年近く胸に秘め続けていた菅。 それを本気で実行しようと考え始めたのは、
新元号「令和」の発表で国民的人気を獲得した昨春からだ、というのが関係者の一致した見方だ。
衣の下の鎧がはっきり見えたのが、令和発表の翌月に菅が敢行した訪米だった。 危機管理の要である官房長官が外遊すること自体、
極めて異例であるうえ、これまで外交・防衛分野には全く関心を示してこなかった菅が訪米して副大統領や国務長官と会談したのだ。
しかも、失敗と言われないよう「オール霞が関」に命じ、公式の日米首脳会談並みの約40人の分厚い体制でサポートさせたことが波紋を呼んだ。
菅は「ポスト安倍」のライバルである政調会長の岸田文雄と、その岸田を推す構えを示していた副総理の麻生太郎の力を
削ぐための工作にも余念がなかった。
昨夏の参院選では、岸田の地元である広島選挙区で、自民党2人目の候補として自らの側近である元法相・河井克行の妻・杏里の擁立を主導。
地元県連の猛反発を押し切って、創価学会やゼネコン等の票を河井に集中させ、岸田派長老である現職を落選させて岸田に大打撃を与えた。
「岸田潰し」の策略はそれだけではない。 岸田派の前会長で今も派閥に影響力を持つ元幹事長・古賀誠の政治資金集めに
協力するなどして古賀を取り込んだ。 古賀はテレビ番組などで「ポスト安倍は岸田でなくてもいい」「菅が望ましい」などと
繰り返し発言し、岸田は求心力を削がれた。
さらに遡れば、前回2018年の自民党総裁選の前には、最後まで立候補するかどうか迷っていた岸田に苛立っていた安倍に対し、
「岸田さんには立候補してもらったほうがいいのでは」と進言。 安倍と岸田の離反を促してもいた。
一方、昨春行われた麻生の地元の福岡県知事選では、麻生と不仲の現職知事を古賀と連携して裏で支援し、
麻生が擁立した自民党推薦の新人を大敗させて麻生に打撃を与えた。
「ポスト安倍」を巡る安倍と菅の思惑の違いが決定的になったのが、昨年9月の内閣改造・党役員人事だった。
岸田を次期首相に押し上げたい安倍は、幹事長を二階俊博から岸田に交代させるつもりだった。
これに対して菅は「二階さんを幹事長から外せば党内をまとめることはできない」と強く反対。
結局、安倍は、菅―二階連合の圧力に屈して「岸田幹事長」を断念した。 この一件を明確なきっかけとして、
安倍は菅と二階が一体であることを強く認識し、脅威と感じるようになった。
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同上 ②
昨年10月以降、安倍周辺の「菅脅威論」はしばらく影を潜める。 9月の内閣改造から程なくして、
菅が閣僚に押し込んだ菅原と河井に相次いで不祥事が発覚して引責辞任。それをきっかけに菅の求心力が衰えたからだった。
安倍自身が菅を本物の脅威と感じ始めたのは、今年の3月以降だ。
安倍が陣頭指揮を執った一連の新型コロナ対策が国民に不評だった上、「官邸の守護神」とも呼ばれた東京高検検事長の黒川弘務を
強引な定年延長で検事総長に就けようとして批判を受けたことが重なり、内閣支持率が急落した中でのことだった。
以前から菅を警戒していた政務秘書官の今井は、全国一斉休校や全世帯マスク配布など、
一連の新型コロナ対策を首相秘書官室の主導で行った。 菅は後から報告を受けるというケースが相次いだのだ。
このとき菅は「全国一斉休校はやりすぎだ」と珍しく周囲に不満を漏らしただけではない。
「一斉休校が決定したことを、首相が発表する当日の午後になってから聞かされた」と国会の場で明らかにした。
過去にも安倍と菅の意見が対立する局面は幾度もあったが、菅がその内情までも明かすことはなかった。
不満を強めていた菅は、内情を暴露することであからさまに安倍をけん制したのだ。 そして、大きな転機が4月中旬に訪れた。
新型コロナ対策として「一定額以上の減収世帯への30万円給付」を主導した政調会長の岸田に対し、
幹事長の二階が公明党を巻き込んで、閣議決定まで終わっていた予算案を撤回させるという前代未聞の荒業を見せつけた。
当初の案は、安倍が振り付けて「岸田主導」を演出したものだった。それが全面撤回を余儀なくされたことで、
岸田の面目が丸つぶれになっただけではない。安倍自身が当事者能力を失っていることを白日の下に晒すことになったのだ。
表面的には、公明党代表の山口那津男が安倍に強く迫って予算案を撤回させた形になったが、
二階が公明党に同調しなければ実現しなかったことは明らかだ。
菅は、創価学会で選挙対策を一手に担う副会長の佐藤浩と極めて親密な関係を築いている。この「事件」も、
当初案に学会員から強い不満が噴出していることを聞きつけた菅が、二階にその情報を吹き込んだことが発端だと考えれば合点がいく。
安倍を「菅支持」へと追い込む決定打が、「菅・二階連合が石破擁立」との「フェイク情報」だった。
安倍が「30万円給付」の閣議決定撤回に追い込まれた4月頃から、菅は親しい永田町関係者に、
「ポスト安倍の総裁選で、石破を担ぐことも有力な選択肢」との考えを示すようになる。
それに先立つ1月末には、菅が石破派会長代行の元農水相・山本有二とホテルで会食。その席で、山本から次の総裁選で石破を
支援するよう要請を受けた菅は「任期が終わるまでは安倍さんを支えます」と支援に含みを残す返事をした。
この会食の内容を報じる記事が朝日新聞に掲載されたのは、ひと月以上が経った3月半ばのことだった。
これをきっかけに「菅が石破を担ぐ」との噂が流れ始め、菅自身も親しい記者らにその可能性を自ら語るようになった。
これも、安倍の耳に入ることを前提に菅が意図的に漏らしていたのだ。
そもそも、安倍が石破を毛嫌いしていることを熟知していながら、石破側近の山本と秘密裏に会食していたのだ。
菅は当初から、山本との会談の事実が安倍に漏れ伝わることを前提にしていたのだろう。
「菅氏をあまり追い詰めると、秋の内閣改造で閣外に出て、二階幹事長と一緒に石破支援に回る恐れがある」。
この頃、周囲がこう安倍に進言すると、安倍は「分かっている。最近は菅ちゃんと話をする機会を増やしている」と応じた。
菅の思惑通り、菅と石破の接近情報は安倍の耳に入り、安倍は疑心暗鬼に陥っていた。
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同上 ③
6月に入ると「菅後継」に向けた安倍包囲網はほぼ完成する。
まずは二階だ。6月8日、石破から9月に予定している派閥の資金パーティーの講師を頼まれるとその場で快諾。
その上で石破を「さらに高みを目指して欲しい期待の星の一人だ」と持ち上げたのだ。
永田町に波紋が広がり、マスコミは「二階幹事長は石破氏を担ぐことも選択肢に入れている」などと書き立てた。
だが、これは二階一流の「見せ球」だった。 総裁選で菅が選出された直後、
二階側近は「幹事長には石破を担ぐ選択肢など初めからなかった」と記者団に打ち明けている。
一方、ほぼ同時期に菅は、自らの秘書官に「一度すべての役職から降りたほうがいいと思っている」
と秋の内閣改造を機に官房長官を退任する考えを漏らした。
その傍ら、閣外に出るべきだと勧める親しい永田町関係者には「私には安倍内閣を作った『製造物責任』があるからなあ」
と退任を迷っているかのような言葉も吐いている。
これらの言葉は報道されることはなかったが、安倍の耳には届き、「菅は二階と連携して本当に石破を担ぐのか」と
疑心暗鬼にさせる効果を十分すぎるほどもたらした。
この一連の情報戦は、二階と菅の見事な連係プレーだった。コロナ禍で多くの国民が苦しんでいる中、
菅は権力奪取に向けたゲームに精力を傾けていたのだ。
こうした中、安倍は6月だけで8回も麻生太郎と会談した。政権が窮地に追い込まれた時、安倍は必ず麻生に相談を持ち掛ける。
ともに首相経験者を祖父に持つ政界エリートとして、2人は深い信頼関係にある。
かつて森友・加計学園問題で安倍が窮地に立たされた際、「麻生氏は首相再登板を狙い、裏で安倍政権の足を引っ張っている」
との情報が側近たちから寄せられたが、安倍は「麻生さんは後ろから鉄砲を撃つようなマネは絶対にしない」と語り、
その信頼は全く揺るがなかった。
一連の会談の話題は、支持率低下で求心力が失われた政権の立て直しと「ポスト安倍」だった。
後者に関しては、2人とも岸田の支持率が全く上がらないことに苛立っていた。
この頃、各種世論調査の「次の首相にふさわしい政治家」で、石破支持がさらに増加。一方の岸田は、政調会長として
新型コロナ対策で脚光を浴びるはずが逆に深い傷を負い、支持は低迷したままで、石破に4倍もの差を付けられていた。
このまま岸田を担いで総裁選に臨んでも、菅・二階連合が石破を担ぐ動きを見せる中、安倍が実質的に掌握する細田派と麻生派の
両方から一定の造反者が出れば、石破に敗北するかもしれないとの現実が2人に重くのしかかっていた。
しかも派閥が空中分解すれば、2人とも今の役職を離れた途端に「過去の人」となる。
実際、細田派でも麻生派でも、岸田を担ぐことへの疑問の声は少なくなかった。
麻生と会談を重ねる安倍は、この時点ですでに「このままでは石破が本当に次期首相になりかねない」
「それを阻止するためには、菅という選択肢しかない」と本気で考え始めていた。だが麻生は「菅後継」には同意しなかった。
この7年余、消費税率引き上げや衆院選の時期などを巡り、菅と対立してきたからだけではない。
先述したように、菅は麻生の地元の福岡でも、裏で足を引っ張ってきたのだ。 容易に許せる相手ではなかった。
その麻生の望みは、党則を再び改正して安倍を来年以降も続投させることだった。 そのため、麻生は安倍に対し、
早期に解散・総選挙を行うことで局面打開を図るよう繰り返し進言し、安倍も「やれるときにはやる」と応じていた。
だが、衆院解散による巻き返しは「絵に描いた餅」だった。内閣支持率は不支持が支持を大きく上回ったままで反転材料はなく、
新型コロナも収束する見通しは立たない。
何より、安倍に解散するだけの気力が失われかけていた。 2人が何度会っても結論は出ないままだった。
一方、菅は早期解散を警戒していた。 既に風前の灯火となっていた「岸田首相」だったが、安倍が解散して単独過半数を
獲得すれば安倍の求心力が回復し、同時に岸田も復活する可能性が出てくるからだ。
それゆえ菅は、7月にTBSのCS番組の収録で今秋の解散の可能性について問われると
「新型コロナの問題がこのような状況では難しい」と明確に否定。 その後も同様の発言を繰り返した。
解散は首相の専権事項であり、官房長官といえども言及しないことが永田町の暗黙のルールだ。
今井ら安倍側近たちは「何様のつもりだ。菅は総理の解散権を縛るのか」と憤った。
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同上 ④
7月に入り、安倍の体調に異変が生じる。 持病の潰瘍性大腸炎の再発だった。
すでに菅・二階連合によって追い詰められていた安倍は、体力だけでなく気力をも喪失し、
最終的に「菅を後継にせざるを得ない」との考えを固めた。
内閣支持率に回復の兆しは見えず、解散総選挙のチャンスが巡ってくる見通しは立たなかった。
八方塞がりとなった安倍に、もはや選択肢は残されていなかった。
そもそも岸田の擁立構想は、かつて第1次政権の際、真っ先に退陣要求を安倍に突きつけ、
第2次政権発足後も安倍の政権運営にケチをつけ続けた石破の総裁就任を阻止するためのものだった。
それなのに、岸田を担いで石破に負ければ元も子もない。
それに石破政権が誕生すれば、「桜を見る会」をはじめとする政権のスキャンダルが蒸し返される恐れもある。
石破政権を何としても阻止するには、自分も菅に乗るしかない。 安倍は一人でそう決断した。
7月後半、安倍は官邸で菅とサシで向き合った。
「本当にやる気であれば応援します」と安倍が言うと、菅は「お願いします」と即答した。
政治エリートの安倍が、叩き上げの菅・二階連合に膝を屈した瞬間だった。
そもそも今回の政局は、いずれも祖父の代から国会議員という政界エリート家庭の出である「安倍・麻生・岸田」と、
地方議員からの叩き上げの「菅・二階・森山」の対決だった。
叩き上げの議員が減った今の政界で「政局偏差値」が突出して高い3人の「叩き上げ連合」に、
名家の出で人がいい3人が敗れるのは、必然だったのかもしれない。
菅政権は本人も驚く高支持率でスタートした。
だが、不本意ながら「菅支持」へと追い込まれた安倍や麻生に、本気で菅を支えようという気構えなどあろうはずがない。
岸田が石破を3倍以上も上回る議員票を獲得したのは、「菅支持」のはずの細田派や麻生派から20~30票が上積みされたからだ。
最も熱心に岸田票の上積みに心を砕いたのは、安倍の本心を汲んで動いた元首相の森喜朗だった。
総裁選の告示前、「総理の本心は岸田さんだと皆分かっています。 総理が岸田支援の『天の声』を出してくれれば、
岸田でまとめます」と安倍に迫った細田派の幹部に対し、安倍は「どのみち次の政権は短命になる。
岸田さんは『次の次』に温存しておく方がいい」と返した。
負け惜しみとも受け取れる言葉だが、安倍が菅を長く首相の座に留めたくはないという意思表示とも受け取れる。
かつて菅は自ら「私には国家観というものがない。しょせん地方議員上がりですから、安倍さんとは違いますよ」と周辺に語っていた。
安倍や麻生には、そもそもそうした男がこの国の舵取りを担うことへの嫌悪もあるのだろう。
権謀術数の限りを尽くして権力の座を得た菅の周囲には、怨嗟が渦を巻いていることは間違いない。
果たして菅は、それを乗り越えて本格政権を打ち立てることができるのか。 その答えが出るのは、それほど先の話ではない。
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☆ 菅義偉首相の父は「秋田のいちご王」 町会議員も務めた名士
森功氏(ノンフィクション作家、『総理の影 菅義偉の正体』著者)がレポートする。
「雪深い秋田の農家の長男として生まれ、地元で高校まで卒業いたしました。
卒業後、すぐに農家を継ぐことに抵抗を感じ、就職のために東京に出てきました」
この苦労人物語には、虚飾が混じっている。
さすがに気が引けたのか、近頃は上京の説明で「集団就職」というフレーズを使わなくなった。
菅自身は高校の卒業時に東京の段ボール工場の働き口を斡旋されたから「集団就職」だと言ってきた。
が、中学を卒業して大勢で就職列車に乗り込んで上京するそれとはだいぶ異なる。
地元の秋田県立湯沢高校に通っていた菅は、両親から2人の姉と同じく高校教師になることを薦められた。
小、中、高校と同じ学校に通った元湯沢市議会議長の由利昌司は話した。
「大将(菅のこと)は大学に行くわけでもなく、何もやることがなかったのでしょう。 毎日釣り三昧でした。
朝起きたら、川に釣りに行くと言いだし、私も誘われた。 で、親父さんは余計にカッカしてね。
『おまえみたいなのは、農家を継げばいいんだ』となって、大将は反発したのさ」
実は由利自身も大学受験に失敗し、菅と同じように家出同然で上京した口だという。
「私が勤めたのは東京のメリヤス問屋。 その1週間くらいあとに大将も上京したと聞きました」
由利はメリヤス問屋に2年半ほど勤めたのち、秋田に戻り、家業の鉄工所を継いだというが、
菅はそのまま東京にいて法政大学に入り直した。
つまるところ、この頃の菅は父親に反抗して家を飛び出した放蕩息子にすぎない。
公式サイトによれば本人はアルバイトを続け、これまたさまざまな職場で働き、
学費を稼ぎながら大学を卒業したと記しているが、その実、仕送りも受けている。
菅の実父和三郎は地元で知られた存在だった。 戦中、満州に渡り、国策会社の「南満州鉄道」に勤めたエリートだ。
戦後、満州から引き揚げると、いちご栽培で成功をおさめ、地元雄勝町の町会議員を務めた。
菅はそんな地元の名士の“お坊ちゃん”であり、父和三郎は義偉少年にとって煙たい存在だったに違いない。
息子の義偉が家出同然で上京したのは、そんな偉大な父親へのささやかな反抗だったのだろう。
それは、貧しい農村からの出発と本人が語る政治家への原点とは、明らかに異なる。
苦労人のアピールとは裏腹に、郷里や地方に対する思いを感じない。
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☆ 菅首相 二階氏の要望丸呑みで「大臣1人増」の奥の手
自民党では公約とは逆の「長老支配」が進んでいる。 党執行部は81歳の二階幹事長と75歳の森山国対委員長が仕切り、
新任の佐藤総務会長(68)、下村政調会長(66)、山口選対委員長(71)を合わせた執行部中枢メンバーの平均年齢は72.2歳だ。
閣僚では再任された麻生副総理兼財務相が80歳を迎え、平沢復興相は歴代最年長の75歳で初入閣した。
政治ジャーナリスト・野上氏は「菅一強」にはほど遠い政権の実情をこう指摘する。 菅首相は総裁選で圧勝したとはいえ、
無派閥で党内基盤が極めて弱い。 “総理にしてもらった恩人”である二階幹事長の意向には絶対逆らえない。
加えて、いまは渋々、菅氏を支持している麻生派が敵に回った途端に主流派体制が崩れて政権維持が危うくなるから、
麻生副総理の言うことも聞かざるを得ない。 新政権の組閣人事でも、菅氏は二階氏の要望を丸呑みした。
「菅総理は河野太郎氏を総務相に内定していたが、土壇場で二階氏が難色を示し、総務相には二階派の武田氏が横滑り。
河野氏は2度目の行革相に回らざるを得なかった」(菅側近議員)
実は菅内閣の大臣数(首相を除く)は20人で、安倍内閣時代の19人から1人増えた。
それも二階氏の要求を受け入れるためだった。「二階氏は平沢氏と、“隠し子疑惑”が報じられた坂本氏の2人をなんとしても
初入閣させるように要求し、大臣枠が足りなくなった。 そこで菅総理は大臣定員を1人増やすという奥の手で対応した」。
世論が大臣や議員の削減を求めている中、“菅行革”は初っ端から骨抜きになっている。
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☆ 自民党の定年廃止を巡る世代間抗争は長老組勝利 老害の楽園へ
麻生副総理(80)と二階幹事長(81)は“菅は逆らえない”と世襲を進める構えだ。
そんな菅氏の足元を見て、自民党長老組の「定年廃止論」が勢いづいている。
最長老の伊吹・元衆院議長(82)と二階氏、麻生氏の80代トリオをはじめ、
自民党には75歳以上の後期高齢者議員が衆参22人、70歳以上の議員は衆参70人にのぼる。
しかし、党の内規で、衆院の比例代表は73歳、参院の比例代表は70歳になると立候補することができないと定めている。
選挙区からの出馬に年齢制限はないものの、比例との重複立候補は認められていない。
今年6月、この「議員定年」の撤廃をめぐって世代間抗争が展開された。
衛藤・元衆院副議長(79)と平沢氏(75、現復興相)を先頭に長老組有志が
「政府が人生100年時代を唱える中で年齢により“差別”を行なうのはおかしい」と二階幹事長に定年制撤廃を直訴。
二階氏は待ってましたとばかりに「不退転の決意で定年制廃止をやる」と応じたのがきっかけだ。
この動きに党青年局の若手議員たちが猛反発し、若手の地方議員の意見をまとめて執行部に「定年制の維持」を申し入れた。
定年撤廃問題は6月の自民党総務会で結論を出す予定が組まれ、長老組と青年局が互いに署名活動を展開したが、
「コロナ対策を優先する」という名目で土壇場で対決は回避された。
この時、若手に頼みにされたのが菅氏だ。 自民党の「世代交代」を掲げる菅氏は定年廃止にも一貫して反対しており、
小林・党青年局長は、「菅義偉官房長官とは電話で話したが『絶対に撤廃はない』と言っていただいた」と語り、勝利宣言した。
9月の総裁選で若手議員から立候補者が出なかったのも、菅氏の掲げた「世代交代」が若手の支持を集めたからだ。
ところが、本当に勝利したのは長老組だった。 自民党ベテラン議員の1人が明かす。
「二階幹事長は、次の総選挙で定年を適用するかどうかは個別に判断すると約束した。
昨年の参院選では9人が定年に該当したが、そのうち7人が例外扱いで比例代表に公認された。
次の総選挙でもそのやり方を踏襲し、選挙が厳しい議員は73歳以上でも例外を適用して重複立候補を認めるという。
それで我々は手打ちした。 当然、菅さんも承知です」
菅氏は若手にも長老組にも“二股”をかけていたことになる。 こうして世襲反対の“庶民宰相”の下で、
自民党は高齢議員が議員定年後も当選を重ね、最後は「公職」を家族に受け継がせる“老害世襲の楽園”となっていく。
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☆ 秋の岡山県高校野球大会 準々決勝 倉敷工 2-0 玉野商工 (マスカットスタジアム 3日)
倉敷工が競り勝った。 五回2死から城内が四球と盗塁で二進すると、岡田が中前適時打を放ち先制。
九回は2死から難波の左中間二塁打、多田野の中前適時打で追加点を挙げた。
右腕水田は要所で変化球を効果的に使い、被安打7、1死球で2試合連続の完封。
玉野商工は七回1死一、二塁の併殺などが響き、力投した左腕長谷川を援護できなかった。
☆ 見せた足技 果敢な攻め 県内屈指の左腕攻略
足を使った果敢な攻めを機に岡山県内屈指の左腕、玉野商工の長谷川から2点を奪った。
「これしかないという形で取れた。 うまくいった」。 倉敷工の高田監督は狙い通りといった表情だ。
均衡を破ったのは五回だった。 四球で出塁した城内が盗塁のサインに合わせ「投手の動いた瞬間に反応できた」と
好スタートを切り、二盗。 続く岡田の中前打で生還した。
九回は二塁打の難波が三盗するとともに多田野が中前に運ぶランエンドヒットの形となり、悠々と追加点。
いずれの得点も2死無走者からで積極的に動いたことが奏功した。
球に切れのある長谷川は2回戦の西大寺戦で延長十三回を投げ21奪三振。
「まともにいったら打てない」(高田監督)と、機動力を駆使する構想を練った。 左腕を立てて、二盗、三盗を徹底的に練習。
「盗塁の動きを悟られないようリードできるようになった」と話す城内を含め、この日チームは何度も盗塁を仕掛けた。
けん制球を多く投げさせ、打者に集中しにくくさせたことも見逃せない。
これで準優勝した5年前以来となる4強入り。 次で勝てば中国大会行きが決まる。
「同じように足で仕掛けて好機をつくる。 自分たちの野球をやりきる」と難波。
伝統的に強打のイメージが濃い古豪だが、今年は新たな武器も得て上昇気流に乗っている。
ショート岡田 1安打1打点、 ファースト村中 1安打、 レフト福島 1安打、 サード難波 1安打、 ライト多田野 1安打1打点
水田 1安打。 (合計6安打、三振8、四球2、犠打3、盗塁3、失策2、残塁5、併殺2)
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☆ 新型コロナ、日本人や韓国人は重症化し難い (欧州研究所)
約6万年前の人間のゲノム(染色体にある遺伝子)に入ったネアンデルタール人の遺伝子を受け継いだ人は、
新型コロナに感染すると深刻な合併症が起こる危険が高いと、ヨーロッパの研究者らが明らかにした。 AFP通信の報道。
先月30日、ドイツのマックス・プランク人類学研究所とスウェーデンのカロリンスカ研究所が国際学術誌「ネイチャー」に
発表した論文によると、人間の遺伝子のうち3番目の染色体から新型コロナの症状を悪化させる遺伝子6個を発見した。
これらの遺伝子は現生人類が約6万年前のネアンデルタール人から受け継いだものだ。
これらの遺伝子を持った人が新型コロナに感染すると、人工呼吸装置を必要とする重症になる可能性が3倍も高かった。
ネアンデルタール人は絶滅した人類の一種で、ヨーロッパに居住したネアンデルタール人は約4万2000年前に絶滅した。
遺伝子が発見されるのは地域によって異なった。 バングラデシュ人の場合、63%に1個以上の遺伝子が発見された。
南アジア人では半分が、ヨーロッパ人の中では約16%がこの遺伝子を持っていた。
一方、韓国や日本を含め東アジア地域やアフリカではこの遺伝子はほとんど発見されなかった。
研究者らはこれまで、新型コロナに感染しても症状がそれぞれ異なる理由を分析し、高齢、男性、基礎疾患がある場合に
深刻な症状を引き起こすことを明らかにしている。
しかし、今回のように特定の地域と新型コロナウイルスを関連付ける研究発表は初めてだ。
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☆ 守屋 プロアマ交流戦で実戦復帰へ 右肩痛で調整
右肩痛で2軍調整中の守屋が6、7日のプロアマ交流戦(鳴尾浜)のいずれかで実戦復帰する。
鳴尾浜の残留練習で投内連係やダッシュなどを行った後、右肩の状態について「だいぶ上がってきました。
交流戦でいけたらいいなと思ってます」と明かした。
実戦は8月11日の2軍オリックス戦を最後に遠ざかっている。 6日はNTT西日本、7日はマツゲン簑島と対戦する。
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☆ 10・31 井上尚弥のファイトマネーは 「夢の100万ドル」
WBA&IBF世界バンタム級(53・5キロ以下)タイトルマッチ12回戦
王者・井上尚弥―ジェーソン・モロニー (10月31日=日本時間11月1日、米ネバダ州ラスベガス MGMグランド)
WBA&IBF世界バンタム級統一王者・井上尚弥(27)が所属する大橋ジムの大橋秀行会長(55)は5日、
井上のファイトマネーが100万ドル(約1億500万円)であることを明らかにした。
軽量級の試合で100万ドルは異例。さらに無観客試合ということを考慮すると、破格のファイトマネーということになる。
当初、4月25日に予定されていたWBO王者カシメロ(フィリピン)との統一戦で同様の金額が提示された。
だが、新型コロナウイルス感染拡大で延期となり、その後、相手が変更。
加えて無観客試合ということでファイトマネーも減額されるとの見方が強かったが、当初の予定どおりの金額に。
井上に対する期待の大きさの表れだ。大橋会長は「夢のある金額。いい試合をすれば上がっていくだろう。
子供たちに夢のある世界ということを見せられる」と話した。
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☆ 500万円で買った競走馬、獲得賞金1億円を超えて菊花賞へ
9月21日のGIIセントライト記念(中山競馬場)で悠々と逃げ切り勝ち。
通算獲得賞金を1億1368万円にしたバビットが話題を呼んでいる。
昨年の競りに出されたときの落札価格は500万円(税別。以下同)と異例の安さ。
同レースでの2着馬は1億6500万円で、同世代には5億8千万円の馬もいる。
浜田調教師が説明する。「オーナーと一緒に競り場に行ったところ、『この馬が欲しいから見てほしい』と頼まれました。
欠陥はあったんです。上アゴが出ている出っ歯なので、操縦性に影響が出ることがあります。でも、動きは悪くなかった。
なぜ気に入ったのか聞いたら、オーナーは『直感ですよ』と。厩舎に入った頃から前向きさが目立っていました」
この馬を売ったのはグランデファーム(北海道浦河町)。主に1歳の馬を購入し、1年間かけて育成し販売する育成牧場だ。
天皇賞馬ヒルノダムールなど4頭のGI馬が輩出している。
衣斐代表は、「800万円以上で売りたかったんです。 でも『500万円』の一声の後、全く続かなかった。
その頃、ソエ(前脚の骨膜炎)が出ていたので抑え気味に走らせたからかもしれません。
そういえば、この馬を競りで買ったときも、うちが最初に『150万円』と言ったら後が続きませんでした」
バビットの父ナカヤマフェスタは、世界最高峰レースの仏凱旋門賞で2着に入った名馬。
しかし、産駒は激しい気性が災いし活躍せず、重賞を勝ったのはガンコ1頭だけ。その血統が嫌われたのか。
「私は気にしませんでした。気性は環境で変わりますから。バビットも最初の頃は馬房に入るのを嫌がったりしましたが、
教えてあげたら素直になりました」(衣斐氏)
次走は初のGI挑戦。3冠レースの掉尾を飾る菊花賞(10月25日、京都競馬場)だ。本命は、無敗の2冠馬コントレイル。
浜田調教師は「小細工なしで逃げるだけ」と淡々と語るが、スポーツニッポンの小田哲也記者は
「コントレイルを負かせるとしたら、バビットしかいません。京都の直線は坂もなく、脚質的に合っています」。
500万円馬は逃げ切って、1着賞金1億2千万円を獲得するか。
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☆ 「E判定」から2浪して 東大野球部入部の夢かなえた 甲子園球児
東大に今年、12年ぶりとなる甲子園球児が2人入部し、注目を集めている。
そのうちの1人、別府洸太朗外野手(1年)は2017年夏の甲子園に出場した東筑高(福岡)のベンチ入りメンバーだ。
2浪して理科一類に合格。 コロナ禍で遅れたが、8月から練習に参加している。
甲子園経験者の東大野球部入りは08年入学の中村信博さん(高松高出身、現NHKアナウンサー)以来。
静岡高出身で18年選抜大会ベンチ入りの梅林浩大内野手(1年)と共に活躍が期待されている。
別府は8月1日から東大の練習に参加。 新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年生の合流が遅れ、
チーム練習に参加するのは東筑3年の2017年夏以来となった。
東大との出合いは、不完全燃焼の夏を終えた直後だった。毎年恒例の東大野球部の練習会に参加し
「六大学は甲子園に出た人たちと戦える。 東大はその中で勝つために全力でやっている感じがいいと思った」。
スター選手が集まる神宮でのプレーを目標に、第一志望を東大に設定した。
「判定は合格率20%以下のEです」という成績から一念発起。 2年の自宅浪人の末、理科一類の合格を勝ち取った。
東京六大学には、高校の1学年下でエースだった石田旭昇投手(法大)、
同学年で17年夏の福岡大会決勝を戦った福岡大大濠高出身の三浦銀二投手(法大)らがいる。
「受験勉強でだいぶ差が開いたけど、少しでも戻して対戦できたら」。
かつてのチームメートやライバルと相まみえる日を目指し、バットを振り込む。
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☆ 中京大中京・高橋がプロ志望届提出表明 一躍26日ドラフトの目玉
最速154キロ右腕・高橋宏斗投手(3年)が6日、同校で取材に応じ、プロ志望届を提出することを表明した。
希望していた慶大のAO入試で不合格となったことを受けて、方針転換した。 ドラフト1位指名されることは必至だ。
3週間を切ったドラフト会議の目玉へと躍り出た。「高校卒業後の進路としては大学進学と多くの方に話していましたが、
予定していた進路とは違う形でプロ志望届を提出することになりました。
小さい頃からずっと夢に見ていたプロ野球の世界に、自分が志望届を提出できることはうれしく思います」
AO入試で受験していたが、この日の午前11時頃に不合格の連絡が入った。
「結果が出た瞬間から、落ち込んでいても何も変わらないので次の目標に向かって前に進もうと思いました」
「憧れられるプロ野球選手になりたい。ストレートを前面的に生かした投球を持ち味にしてやっていきたい」と目を輝かせた。
12球団OKの姿勢。 どんな未来が待っているのか、目が離せない。
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☆ 「半沢直樹」に関西人のめり込んだ! 「総合視聴率」46・6% 18年4月の調査開始から歴代1位
先月27日に放送され平均世帯視聴率が34・7%(ビデオリサーチ調べ、関西地区)だったMBS系ドラマ「半沢直樹」の最終回が、
録画視聴率と合算した「総合視聴率」で46・6%を記録。2018年4月の調査開始以来歴代1位の数字をたたき出したことが6日、分かった。
総合視聴率は、リアルタイム視聴率(通常の視聴率)とタイムシフト視聴率(録画機器などで放送後7日以内、168時間以内に視聴)の合算。
近年の視聴環境の多様化に応じて関西では2年前に計測が始まり、注視される指標だ。
半沢の最終回タイムシフト視聴率は17・2%、リアルタイム視聴率は34・7%で、重複視聴を差し引いた総合視聴率は46・6%。
サッカーW杯「日本―コロンビア」の44・6%(18年6月2日)を抜いてトップに立った。
13年に放送された半沢前シリーズ最終回の平均世帯視聴率は、驚異の45・5%。今作は総合視聴率でこれを上回り、衰えぬ半沢人気を証明した。
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☆ 「伊藤詩織さん」が「TIME」の100人に選出 “逮捕もみ消し”は菅総理の側近で…
いくら闇に葬り去ろうとしても、世界は犯された罪を忘れない。 そう思わせる快挙である。
9月23日、米「TIME」誌は、2020年版の「世界で最も影響力のある100人」にジャーナリストの伊藤詩織さん(31)を選んだ。
発端となった事件の逮捕状がもみ消された当時、政権中枢にいた菅義偉総理たちの胸中は如何に。
日本から選出されたのは、詩織さんとテニスの大坂なおみ選手(22)の二人だけ。
世界の眼が、この事件に並々ならぬ関心を持っていることが窺えるのである。
2015年4月、詩織さんへの準強姦容疑で逮捕状が出ていた山口敬之元TBSワシントン支局長(54)。
時の政権と太いパイプを持ち、“総理ベッタリ記者”との異名を持つからか、
令状は、官邸に近い当時の中村警視庁刑事部長によって握りつぶされた。
結果的に刑事訴追を免れた山口氏を相手に、詩織さんは民事で係争中(一審は勝訴)だが、
SNS上で起きた自身への誹謗中傷に対しても、訴訟を起こし闘いを続けている。
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☆ 半沢直樹に「君はいずれ頭取になる男だ」と中野渡頭取… なぜ銀行は「社長」じゃないの?
頭取は雅楽に由来すると言われています。 雅楽には、管楽器、弦楽器、打楽器がありますが、
江戸時代にこれらの3楽器を演奏する人たちをまとめる立場にある人のことを音頭取り(おんどとり)と言いました。
この「おんどとり」が「頭取(とうどり)」と呼ばれるように。
転じて、一般に頭(かしら)に立つ人という意味で使われたそうです。
1869年(明治2年)に銀行の前身である為替会社ができたとき、出資者の代表が頭取と呼ばれ、
その3年後に制定された国立銀行条例に基づいて、銀行のトップの肩書として頭取を採用するようになりました。
現在、頭取は法的に定められた呼称ではないので、一般企業と同様に「社長」とする銀行もあります。
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☆ 守屋が実戦復帰し 0封 「まだまだ全然良くなる」 2軍練習試合: 阪神7-2マツゲン箕島 (7日、鳴尾浜)
守屋功輝投手が右肩痛から8月11日以来の実戦復帰を果たした。 2番手で8回に登板し、9球で3者凡退。
最速は146キロを計測し「良かったですね。普通に投げられたので。 まだまだ全然良くなるとは思うので、
これからどんどん上げていければ」と手応えは上々だった。
平田2軍監督も「社会人相手とはいえ良かった。いい球が来ていた」と話し、状態を見ながら来週も登板する見込みとなった。
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☆ 秋の岡山県高校野球大会 準決勝 倉敷工 5-9 関西 (マスカットスタジアム 10日)
水田投手のコントロールが珍しく悪かったね。 関西打線、勝てば中国大会のプレッシャーもあっただろうが、今日は不調日。
毎試合好投を期待するのは酷な話。 球が完全に上ずった6回の連続四球で交代でしょう。 本人も限界だったに違いない。
続投で3点を勝ち越され勝負あり。 投手出身らしいが、毎年のように先発投手起用や継投で疑問を覚える。
そして、いい形で勝ち続けているときは、先発メンバーを変えるべきではない。 負けるべくして負けた試合だった。
伝統のユニフォームでは、関西はお得意様で勝ち続けていたが、あのユニでは神通力も通用しないのだろう。
ユニを変えた途端に連勝は途切れ連敗だ。
明日の3位決定戦(学芸館)も非常に厳しいだろうが、選手たちには奇跡を期待している。
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☆ 第51回明治神宮野球大会、新型コロナの影響で開催中止 【神宮大会2020】
日本学生野球協会は9日、11月20日からの開催予定だった「第51回明治神宮野球大会」中止を決定したと発表した。
10月6日に開かれた本大会臨時実行委員会において、「未だ全国的に新型コロナウイルス感染症が広がる中、
特に感染者数が多い東京都への全国各地からの団体での移動、および大会期間中の長期に亘る宿泊に伴うリスク等を踏まえ、
開催時期や開催地等に関する運営方式の変更を含め、開催の可否について慎重に検討」したが、
「大会を開催することは困難である」との結論に至った。
明治神宮野球大会の中止は、昭和63年(1988年)の第19回大会が、昭和天皇ご不例のため中止になって以来2度目となる。
センバツで神宮大会の優勝校が所属する地区に与えられる「神宮枠」については、今後の臨時運営委員会で話し合われる予定。
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☆ “上級国民” 池袋暴走事故の裁判で 「車のせい」にされたトヨタが反論 「証拠がある」
池袋で横断歩道を渡っていた松永真菜さん(当時31)と長女の莉子さん(同3)の命を奪った自動車暴走事故から1年半。
その初公判が東京地裁で10月8日にあった。 悲惨な事故を引き起こしたキャリア官僚である、旧通産省工業技術院の元院長、
飯塚幸三被告(89)が何を語るのか、世間は注目した。
「アクセルペダルを踏み続けたことはありません。 車に何らかの異常が生じたために暴走したと思っています」と否認。
弁護人も「被告人に過失はない。 システムに何らかの突発的な異常が生じ加速し、事故に至った可能性がある。
過失運転致傷は成立しない」と、無罪を主張した。
これに対して検察側は「制御システムに異常を示す記録はない。 アクセルペダルを踏み込む記録を示すデータ、
プレーキペダルを踏んでいないことを示すデータがある」と主張した。
被告側から“悪者扱い”されたのが、トヨタ自動車の人気ハイブリッド車「プリウス」。
トヨタは初公判のやりとりについて「裁判で真実が明らかにされるということですので、その推移を見守っています。
証拠があると理解しています」(同社広報部)と応じた。
裁判は今後どう進むのか。被告が高齢なので「10年裁判」に持ち込み、真相をあいまいにしようとしているのではないか、
とまで指摘される。
「10年は長いことを象徴する言葉だが、そこまで長くなるとは思えない。検察側は主に、車の異常はなかったということと、
被告が踏み間違えたという立証をしていくことになるでしょう」(松尾慎祐弁護士)
困った爺さんだ。 爺さん自身が制御不能になっただけのこと。 何とか刑務所にぶち込んでもらいたい。
裁判が長引き、無罪にでもなったら被害者が浮かばれない。
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☆ 来年ドラフト候補の岡山学芸館・仲村竜、7回途中3失点 逆転負けで倉敷工との3位決定戦へ
準決勝 創志学園5―2岡山学芸館 (10日・倉敷マスカットスタジアム)
来年ドラフト候補の岡山学芸館・仲村竜投手(2年)が先発し、6回2/3で3失点した。
降板直後に逆転されたため「自分が7回に試合を壊した」と、肩を落とした。
この日は中日とDeNAのスカウトが最速145キロ右腕を視察した。
DeNAの吉見スカウトは「サイズ(184センチ、78キロ)があるし、真っすぐにキレがある。
変化球をストライクゾーンに投げられる器用さもある。 この日の最速は142キロだったけど、もっと出そう。
ひと冬越えれば楽しみ」と、期待を寄せていた。
中国大会(23日〜11月1日・島根)出場を懸けて、3位決定戦で倉敷工と対戦する。
仲村は「中国大会は出ないといけない。 切り替えてやっていきたい」と、前を向いた。
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☆ 秋の岡山県高校野球大会 3位決定戦 倉敷工 7-9 学芸館 (マスカットスタジアム 11日)
途中までは昨日と同様、善戦健闘したが投手交代が遅れ、追い上げ虚しく惜敗となった。
大量点に繋がった六回は内野手のエラーが痛かったね。 エラーに四球が重なると勝負にならない。
交代した多田野投手は四者連続の三振を奪うなど好投。 本日も恒例の思い切りのないの采配が致命傷となった。
学芸の監督が、エースが連打され一回の途中で交代させ試合を作ったのに比べ、本日の采配ミスも情けない。
打線は学芸館を上回る13安打を放ち十分に合格点だった。
特に毎試合、どんな投手にも見事に対応して安打する岡田選手のバットコントロールは素晴らしい。
他にも何人か、足も速く打てる選手がいるのは、来年に向けて楽しみではある。
指揮官はまだ辞めない? 元プロ野球選手の新監督はどう? やりたくて、うずうずしているのではないかと思う。
毎度で恐縮だが、伝統のユニフォームに新監督で一日でも早く出直してもらいたい。
現監督はスカウトに専念。 そうすれば甲子園が遥か彼方の遠い遠い所ではない筈だ。
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☆ 高知と明徳義塾の決勝は前代未聞の結末 日没コールド再試合 馬淵監督も初の経験
第73回秋季高知県決勝 明徳義塾1―1高知 延長12回日没コールド再試合 (10月11日 春野)
息詰まる投手戦は、前代未聞の結末となった。 明徳と高知の高知県大会決勝は、延長12回を戦い終えても決着がつかず、
大会規定により日没コールドで13日13時30分から同じ春野球場で、有観客での再試合が決定。
元々、タイブレークを採用せず延長15回までは行う予定だった。
高知先発の右腕・森木大智(2年)が初回の初球から2球続けて150キロを計測。
“3密”を避けながらスタンドに詰めかけた1649人の観衆を沸かせると、2回には自己最速タイの151キロを2球続けてたたき出した。
5回に1点を失ったが、170球を投げ抜き7安打12奪三振3四球で1失点完投。
対する明徳義塾先発の左腕・代木大和(2年)も一歩も引かない。2回以降は本塁を踏ませず、193球を投げ11安打を浴びながら、
森木と同じ12奪三振で1失点完投。
両選手は疲労困ぱいとなり、試合後には県高野連の「教育的配慮」により、取材対応もなしとなるほどの激戦だった。
森木は前日の準決勝・土佐塾戦では登板していないが、代木は前日の準決勝・高知中央戦でも87球を投じており、
1週間で500球の球数制限まで残り220球に迫っている。
両校はすでに四国大会出場を決めているが、県の頂点は譲れないという意地と意地がぶつかり合った。
社会人野球を含め監督歴34年の明徳義塾・馬淵監督(64)をもってしても再試合の経験は「ないない。初めて」という珍事だが
「素直にバットが出てるヤツの方がヒットを打てるのはようわかった」と森木攻略の糸口をつかんだ様子。
高知の浜口監督は「ナイターあれば… 決着つけたかった」と悔しそうだったが
「次も勝つつもりで全力でいきます」と一歩も引かない構えを見せた。
タイブレークを採用せず延長15回までは行う予定だったとは、さすがに高知県! 土佐のいごっそうだ。
岡山県も見習え! しかしナイター設備がないとは・・・。
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☆ 香川県大会決勝、親子監督対決 父の寒川が、長男の英明に勝って 10年ぶり4度目V
決勝 藤井学園寒川6―5英明 (11日、レクザムスタジアム)
父・智彦監督(63)が指揮する藤井学園寒川が、長男・純平監督(35)が指揮する英明に勝利し、
10年ぶり4度目の優勝を決めた。 親子監督対決は各地で例があるが、決勝でぶつかるのは珍しい。
父・智彦監督に軍配が上がった。 藤井学園寒川が5点をリードした9回。
長男が指揮する英明が1点差に迫る猛攻を見せたが万事休す。 最後は父の余裕が上回った。
4月に26年ぶりに同校の監督に復帰した指揮官は「四国大会にどうしても1位で行きたかった。
親子対決は意識はしてないよ。 生徒たちには関係ないからね」と貫禄たっぷりに優勝の味をかみ締めた。
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☆ 伝統のスレッドよりコピー
名無しさん :2020/10/11(日) 20:25:07
現ユニフォームはダサいね。伝統のユニフォームに戻してくれないかな。切なる願いです。
名無しさん :2020/10/11(日) 20:47:16
私は年配の者ですが、伝統のユニホーム?
初代は、胸の文字KURAKOで始まり、4回変わってるの知ってますか?
名無しさん :2020/10/11(日) 22:19:19
知ってますが、明治百年・センバツ40回・選手権50回を機に、大将が昭和43年春
白いアンダーと二本線のストッキングに変えて半世紀。
創部から75シーズンのうち50年以上続いたユニを伝統のユニと呼ぶのは、
極めて自然なことだと思います。
毎度、ユニフォーム批判はコピーさせてもらいます。
まさに切なる願いですよね! どこから見ても、誰が見ても伝統のユニフォームの勝ちだろう。
現状が良いと思う人の美的センスを疑う。 現状は選手が小さく見えて仕方ない。
たかがユニ、されどユニだ。 甲子園でまだ実績のない創志が変えるのとは次元が違う。
ユニを変えるなら、お前は辞めろ! そんなことを言える関係者がいないのも情けない。
もし言ってくれた人がいたなら、失礼しました。
以前にも沢山に同じようなユニ批判を書いているので本日はここまで。
創志のユニも以前の方が良いと思うが、選手には今風で好評なのかもしれない。
以前のユニだと見ただけで、勝てるような気がしなかったが、今のユニだとそんな感じはしない。
たぶん他のチームもそう感じている人が多いと思うが・・・。
それが多少は影響しているのか、優勝はしたけれど全て薄氷を履むが如しの勝利だったね。
土壇場で同点、逆転の連続で、今までに見たことのない優勝過程だった。
それ故に優勝は大したものだ。 指揮官に稀な勝負運、勝負勘が有ることを誰も否定できないだろう。
この人が倉工の指揮官だったら、非常にくじ運に恵まれた今大会を難なく中国大会へ導いたと思う。
高校野球は紙一重、プロと違い指揮官が持っているか、否かで勝敗はどちらへでも転ぶ。
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☆ 伝統のスレッドよりコピー
名無しさん :2020/10/12(月) 13:22:30 新聞おじさんって誰の事?
名無しさん :2020/10/12(月) 15:36:46
新聞おじさん
自称・津久見高から早稲田大。 高校球児の夏は鎮西に負けて終わった。
1980年頃か中藤クンがプロ注の時に倉敷に流れ着く。 平日も観戦している。
一日4試合観たこともある。 自称・新聞記者(スポーツ部)。 倉工には辛口だが実は倉工好きみたい。
倉商、光南、玉商なども応援している。 歯がなくなってコロナ以前からマスク着用。
名無しさん :2020/10/12(月) 15:42:30
団長 1975年頃か兼光さん、塚岡さんの頃から旗を振っている。
名無しさん :2020/10/12(月) 15:45:25
旗オヤジ2号 若い頃やんちゃしてたが団長に誘われて倉工の試合を観に行ってハマッタ。
なぜか新聞おじさんと同じ大分県出身。
名無しさん :2020/10/12(月) 15:49:49
デカ長 以前は署でも軟式野球してたらしい。 刑事課長まで務めて勲章もらった。
名無しさん :2020/10/12(月) 15:57:43
Kさん 1968年頃か小山さんの時からファンらしい。
1969年には松枝さん、1972年には山本さんの投球フォームを真似していたらしい。
名無しさん :2020/10/12(月) 16:07:34
Iさん 中原の爺ちゃんが「Iさんに説得されて孫は隣から倉工に変えた」と言っていた。
たぶん硬式野球部OB。
名無しさん :2020/10/12(月) 16:19:24
Sさん 人懐っこい笑顔が特徴だか、結構きびしいヤジも飛ばしていた。
「さっと構えて、サインやこ見んでええ」とか言っていた。 広島県出身。 病気で亡くなった。
名無しさん :2020/10/12(月) 16:22:42
Oさん 団長といつも来ていた。 この人も優しい笑顔だった。 ソフトクリームが好きだった。
本業は畳屋。 亡くなったと旗オヤジ2号が言っていた。
名無しさん :2020/10/12(月) 16:34:49
Mさん この人は息子も孫も三代で観に来ていた。この人だけは球場以外でバッタリ会ったことがある。
本名の一部などは消しましたが、素晴らしい情報をありがとうございます。
伝統のスレッドに時々登場する新聞おじさんが実在する人だとよくわかりました。
亡くなられた人もいるようですが、倉工を応援して頂いている全ての方々に感謝ですね。
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☆ 歴代最多374人 プロ野球志望届 締め切り
高野連と全日本大学野球連盟は12日、プロ志望届の受け付けを締め切った。
高校生と大学生を合わせた公示人数は374人。 歴代最多だった18年から一気に124人も増えた。
高校生は、歴代最多だった昨年から77人増の216人で、大学生も51人増の158人。
こちらも歴代最多だった18年の127人を大幅に上回った。
提出者は26日のドラフト会議での指名対象選手となる。
かなり増えたが、冷やかしもいるように思う。 300人ほどは落選。
福島君は26日が楽しみだね。 2位か、3位には入るだろう。
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☆ 明徳が再試合を制して3年ぶりV 高知の森木は登板せず
秋季高知県大会 決勝 明徳義塾6―0高知 (13日・高知県立春野)
11日に大会特別規定により、延長12回で1―1の日没コールドとなった再試合は、
明徳義塾が快勝し、3年ぶり20度目の優勝を飾った。
3日の準決勝、4日の決勝で計19回、280球を投げて1失点に抑えた、
来年ドラフト候補の代木大和(2年)が5安打10奪三振に抑えて完封した。
打線は3回に打者12人、5安打の猛攻で6点を奪った。
同じく来年ドラフト候補で高知の森木大智(2年)は、この日は登板せず。
明徳、高知、高知中央の3校が、秋季四国大会(24日〜11月1日・高知)に出場する。
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☆ 高校No.1投手が慶応不合格 プロ志望表明でドラフトに異変
中京大中京の高橋宏斗が慶応大学環境情報学部のAO入試に落ちた。
(AO入試とは高等学校における成績や小論文、面接などで人物を評価し、入学の可否を判断する選抜制度)
高橋といえば、昨秋の神宮大会優勝投手にして世代ナンバーワン評価の154キロ右腕。
ドラフト会議での競合は必至と目されていた。だが、早い段階から兄も通った慶応への進学が囁かれていた。
「江川卓以来の衝撃です」。第一報を受け、驚きと動揺のコメントを残したのはある強豪校の監督だ。
江川は、同年のドラフトで阪急から1位指名を受けたが拒否し、慶応の3学部を受験。
ところがいずれも不合格となり、法政大へと進路を改めた経緯がある。
当時はAO入試が慶応にはなかったため、高橋のケースと比較することはできない。
しかし、今回の件が「江川以上の衝撃」となったのは、一緒に受験した神奈川の超名門の遊撃手や、
東北を代表する左腕までもが、同じく不合格となったからだ。
前述の監督が続ける。「知る限り、慶応の野球部から声がかかった8人のうち6人が不合格となった。
他のふたりの合否は確認できていません」
9か月も前から受験の準備をしてきたという高橋にしてみれば、青天の霹靂だったに違いない。
高橋の決断によって、社会人ナンバーワンの即戦力投手・トヨタ自動車の栗林の指名が有力だった中日は、
やはり地元出身の“金の卵”に乗り換える可能性が大だ。
中日の動向次第で、栗林の一本釣りに動く別の球団が出てきてもおかしくない。
高橋の慶応不合格が、波瀾のドラフトの呼び水となりそうだ。
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☆ 松山聖陵監督の謹慎など7件処分 日本学生野球連盟
松山聖陵・・・不適切指導及び体罰と報告義務違反として、監督(39)を令和3年3月29日まで7カ月間の謹慎とした。
8月中旬にグラウンド上で怠慢と感じたプレーについて部員3人を指導。その際「自分で気合を入れておけ」
「壁に頭をぶつけておけ」と発言したり、部員自らの頬をたたくよう不適切指導を行った。
享栄(愛知)・・・部長(45)が、部内での暴力で3カ月の謹慎。
浜松修学舎(静岡)・・・副部長(25)が部内での暴力により、1カ月の謹慎。
部長(59)が副部長の暴力行為及び、審議小委員会で厳重注意とした別の不祥事について報告を怠ったとして3カ月の謹慎とした。
加計芸北(広島)・・・外部コーチ(25)が、部内での暴力と上司へ報告しなかったとして、4カ月の謹慎。
セクハラ行為が発覚したA県B校・・・監督を無期謹慎とし、被害者のプライバシーを考慮し、内容と学校名は発表されなかった。
内子(愛媛)・・・部長が部内での暴力と報告義務違反で4カ月の謹慎とした。
中部学院大・・・監督(51)が部内での暴力と報告義務違反で2カ月の謹慎とした。
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☆ 東海大野球部、複数部員が大麻使用… 無期限の活動停止
東海大は17日、硬式野球部の不祥事が判明したため、同部の無期限活動停止を決めたと発表した。
関係者によると、複数の部員による大麻の使用が発覚したという。午後に記者会見を開き、詳細を説明する。
同部は首都大学野球の1部リーグに所属、通算73度の優勝を誇る名門で、多くのプロ野球選手を輩出している。
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☆ 東海大野球部 複数部員が寮内で大麻使用 山田学長謝罪「信頼を裏切る行為」
17日、神奈川県内で会見し、硬式野球部を無期限活動停止処分にすると発表した。 複数の部員が大麻使用が発覚した。
山田清志学長は「寮内での大麻らしき薬物使用の疑いあり、調査の結果複数名の使用が判明した。 事態を重く受け止め、
硬式野球部を無期限の活動停止処分にした」と述べた。 今秋の首都大学リーグ戦の出場辞退を申し出て、受理された。
学長は「警察の捜査に協力し、大学としても調査して全容の解明に全力を注ぎたい」とした上で
「信頼を裏切る行為になりましたこと心よりお詫び申し上げます。 誠に遺憾で責任を痛感しております」と陳謝した。
「決して起こらぬよう全学生に啓蒙活動を実施したい」と述べた。 全学的に調査を進めていくという。
10月9日午後、大学あてに電話で通報があり、平塚警察署に相談。 野球部部長中心に学内調査を開始した。
個別ヒアリングの中で学生からの申し出があり、違法薬物の使用を認めたたという。
学生たちは大麻だと認識していたといい、16日に神奈川県警の家宅捜索が行われた。
プロ志望届提出選手については、今後の対応は変わらないとしている。
伊藤部長によるとこの日、安藤監督から部員に説明。 同監督は寮内で待機していおり「非常に申し訳ないと言っていた。
重く受け止めて、今後についても話していた」。
来春の入学が内定している新入生への対応について、伊藤部長は「誠意をもって説明してまいりたい。
具体的には安藤監督と相談して、行動していきたい」とした。
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☆ 大野が江夏以来 51年ぶりの36回連続無失点 (中日3-0阪神、14日ナゴヤドーム)
中日大野雄大投手が今季5度目の完封勝利で、9月15日広島戦の2回から36イニング連続無失点。
無失点イニングを36回以上続けたのは、13年田中(楽天=42回)以来で、左腕では69年江夏(阪神=41回)以来51年ぶり。
また、中日では56年大矢根(40回1/3)以来となり、55年杉下の31回2/3、61年権藤の33回といった記録を抜いた。
シーズン5完封は18年菅野(巨人=8完封)以来で、中日では01年野口以来19年ぶり。
ナゴヤドームでの完封は今季4度目で、同球場でシーズン4完封は前記野口に次いで2人目の最多タイ。
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☆ 阪神、2021年から女子硬式野球クラブを新設
阪神は17日、2021年から女子硬式野球クラブチームを新設することを発表した。
これに伴い第1次の入団選手セレクションを10月23日から11月3日までインターネットでの動画選考を行う。
これまで「TORACOプロジェクト」や「幼稚園・小学校訪問」等を通じ、女子と野球の接点を増やす活動を行っており、
新たに2021年シーズンより「阪神タイガース女子硬式野球クラブチーム」を設立し、「女子がプレーをすること」を
通じて野球振興活動に取り組んでいく。
活動期間は2月から11月で毎週末に1回程度、球団側で手配した会場(西宮市周辺)で全体練習を行い、
全日本女子野球連盟及び関西女子硬式野球連盟に登録し、ラッキートーナメント、全日本女子硬式野球選手権大会予選、
全日本女子硬式クラブ野球選手権大会予選などに参加する予定。
参加資格は18歳以上の女性、2021年シーズンに他の硬式野球チームや硬式野球部に所属していないこと、
週末のチーム活動や大会に優先的に参加できること(会社員や学生でも問題なし)。
女子硬式野球クラブチームについての詳細(監督等)は、入団選手決定後に改めて発表する(2021年1月中旬予定)。
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☆ 東海大野球部員、大麻使用… なぜ、大学運動部で不祥事が相次ぐのか
今年に入り相次ぐ大学運動部の不祥事を受けて、麻薬犯罪や芸能人の薬物使用に詳しい元麻薬取締官、広畑氏(63)に話を聞いた。
運動部員の場合、コロナ禍で、練習や試合ができないストレスが要因になったと考えられる。
リラックスできるほか痛みを和らげる効用があり、ケガを抱えた選手は効き目を実感できる。 首謀者がネットなどで手に入れて、
徐々に広まったのではないか。 先輩、後輩の断れない事情もあっただろう。
大麻はグラム単価5000円から1万円で取引されている。1グラムで5センチの巻き紙を3本吸えて、初めてでもすぐ高揚感を味わえる。
安価で手に入るので罪悪感も薄く大学生の使用者が増えている。
警察庁の調べでは2019年、大麻関連の摘発者は前年比743人増の4321人で6年連続増加。 年齢層別では20代が最多の1950人、
20歳未満は3番目に多い609人。 芸能人の「大麻は害がない」ような誤った発言も、拍車を掛けている。
常習者になれば、漢字が書けなくなるほど学習能力が落ち、幻覚が見え勤労意識も失う恐ろしい麻薬である。
★関東学院大 ラグビー部・・・07年12月、3年生部員2人が部の宿泊施設で大麻を栽培したとして逮捕。
同部員以外の12人が大麻吸引で書類送検された。 関東大学リーグ3連覇を目前に6カ月の対外試合自粛、
大学選手権も出場辞退。 春口監督が引責辞任した。
★日体大 陸上部・・・09年3月、大麻取締法違反の疑いで3年生部員の合宿所の部屋を家宅捜索。大麻を植えていた鉢、
吸引器具が見つかったが、現物がなかったため逮捕には至らず。 しかし吸引したことは認め、その後に退学処分。
★日大 ラグビー部・・・20年1月、東京都渋谷区の路上で大麻を所持したとして、部員1人を現行犯逮捕。
警察官が不審な様子に気づき、職務質問をして発覚した。
大学側は逮捕を受け、部の無期限活動停止を発表。 日大の公式サイト上で声明文を出した。
★近大 サッカー部・・・20年10月、2〜4年生部員5人が大麻を使用したと発表。 別の部員からコーチに
「大麻を使っている選手がいる」と連絡があり、全部員62人に事情を聴き、5人が名乗り出た。
開催中の1部リーグ戦を辞退。 問題発覚後、部は無期限活動休止。
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☆ 小さな牧場生まれの馬、0歳時は買い手なくても… 史上初の「無敗牝馬三冠」達成
北海道の小さな牧場から始まったシンデレラ物語が、歓喜の瞬間を迎えた。
18日、秋華賞(GI)で勝利を飾り、デビュー以来5戦全勝で史上初の無敗牝馬三冠に輝いたデアリングタクト(3歳)。
0歳時の競りでは買い手もつかなかった牝馬が打ち立てた金字塔に、生産地の牧場でも喜びがはじけた。
この日、北海道日高町の長谷川牧場では、牧場主の長谷川文雄さん(69)がテレビ中継でレースを観戦。
三冠が決まると長谷川さんは「こんな小さい牧場から生まれた馬が、よく三冠を取ってくれた」と涙をにじませた。
1948年開場の長谷川牧場がサラブレッドの生産を始めたのは約30年前。
2代目の長谷川さんと妻の律子さん(69)、母親とパート従業員の4人で営んできた牧場で、
毎朝4時に馬に「おはよう」と声をかけ、餌になる牧草が育つ土壌や、餌そのものの改良に取り組んだ。
しかし、昼夜分かたず働いても家族経営では限界がある。 GIレースで勝てる馬を作ることは「夢のまた夢」だった。
2017年の生産頭数はわずか5頭。 その中の小さな牝馬がデアリングタクトだった。
デアリングタクトの父はGIで2勝しているが、母はレースで1勝もしていない。
そのため長谷川さんらが0歳で売りに出した時は落札されなかった。「悔しさもあったけど、仕方ない思いも強かった」。
育成施設で馬の体を鍛え、翌年、1200万円で買われた。 同じ競りで落札された1歳馬の平均額は約4600万円。
1億円超の買い取り額も珍しくない世界では目立たない存在だった。
海外から血統に優れた繁殖牝馬を集める大手グループの生産馬が多くのビッグタイトルを手にする時代。
デアリングタクトは押され気味の中小の牧場が多い馬産地・日高にとっても希望の星だ。
長谷川さんは「日高も盛り上がるし、これからも大舞台で羽ばたいてほしい」と期待を膨らませた。
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☆ 巨人は9連敗中、ロッテと中日が強運… 12球団でドラフト“くじ引き”に強いのは? (過去10年)
① ロッテ 勝率.692(13戦9勝)、② 中日 勝率.625(8戦5勝)、③ 楽天 勝率.462(13戦6勝)、④ 西武 勝率.400(5戦2勝)、
⑤ 日本ハム 勝率.357(14戦5勝)、⑥ 広島 勝率.333(9戦3勝)、⑦ ヤクルト 勝率.308(13戦4勝)、⑦ 阪神 勝率.308(13戦4勝)、
⑨ ソフトバンク 勝率.250(12戦3勝)、⑨ DeNA 勝率.250(12戦3勝)、⑪ オリックス 勝率.100(10戦1勝)、⑫ 巨人 勝率.091(11戦1勝)
傑出して高いのはロッテと中日の2球団。 ロッテは13度競合して9度当たりクジを引き、中日は8回中5回で当たり。
両チームとも勝率は6割を超えている。 ロッテは2017年の外れ1位の安田尚憲から藤原恭大、佐々木朗希と3連勝中。
中日は根尾昂、石川昂弥と強打の野手2人を2年続けて引き当てている。
この2球団に続き楽天、西武、日本ハム、広島などが続き、オリックスは10度競合して、引き当てたのは2017年の田嶋大樹のみで勝率.100。
巨人に至っては引き当てたのは、2011年の外れ1位の松本竜也のみで勝率.091と最もくじ運に恵まれない結果となっている。
巨人は現在くじ引き9連敗中。 ソフトバンクも6連敗中だ。
この10年間で最も競合が多かったのは日本ハムで14回。 例年、その年の1番いい選手を指名するという指名方針を掲げており、
必然的に競合が多くなっているか。 阪神、ロッテ、楽天が13度となり、最も少ないのは西武の5回。一本釣りを狙う戦略が伺える。
外れ1位ではなく、純粋な1巡目指名だけを見てみると、最も強いのは中日。 過去10年で7度、競合して上述の根尾、石川だけでなく、
2011年の高橋周平、2016年の柳裕也と4度引き当て、勝率は.571。
ロッテは9度競合して安田、藤原、佐々木朗に加えて2011年の藤岡貴裕、2013年の石川歩と5人を当てている。
ドラフト戦略の行方を大きく左右する重複指名でのくじ引き。
果たして今年はどんなドラマが起こり、そして、どの球団が笑うことになるだろうか。
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☆ ドラフト目前、2019年ドラ1の今季を振り返る (セリーグ)
巨人・・・堀田賢慎投手(青森山田高)
外れ外れ1位で巨人から指名を受けた堀田。 しかし春先の4月に右肘のトミージョン手術を受け、今季の登板が絶望的に。
現在は来季以降の復活を目指し、リハビリに励んでいる。
阪神・・・西純矢投手(創志学園高)
外れ1位で阪神から指名を受けた西。 打者としての評価も高かったが、プロでは投手として勝負することとなった。
ファームでは4勝、防御率3.46をマークしており、今季中の1デビューにも含みを持たせている。
広島・・・森下暢仁投手(明治大)
即戦力として注目度は高かったが、広島に一本釣りされる形で入団した森下。 大卒では唯一の1位指名となった。
ここまで8勝、防御率2.21、リーグ3位の112奪三振と堂々たる成績を残しており、新人王の筆頭候補に名乗りを上げている。
ヤクルト・・・奥川恭伸(星稜高)
3球団競合の末、ヤクルトに入団した奥川。 ファームでは開幕投手を務め、1回無失点2奪三振のデビューを飾った。
以降はコンディション不良でノースロー調整を続けた時期もあり、ここまで5試合(9回2/3)と登板機会は少ないが、
防御率2.79と2軍では好投を続けている。
横浜・・・森敬斗(桐蔭学園高)
一本釣りされる形で入団した森。 走攻守揃った高卒遊撃手として大きな期待がかけられている。
ファームでは打率.201とプロの壁に苦しみながらも、主に遊撃として51試合に出場し、経験を積んでいる。
中日・・・石川昂弥(東邦高)
3球団競合の末、中日に入団した石川。 甲子園では、打者として3本塁打、優勝投手に輝くなど実績を残していたが、
プロでは打者として勝負することとなった。 ファームでは規定打席に到達し、打率.278、3本塁打をマーク。
7月12日には「7番・三塁」で一軍デビューを果たし、初打席で初安打も放った。
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☆ 同上 パリーグ
西武・・・宮川哲(東芝)
外れ1位競合の末、西武に入団した宮川。 即戦力のリリーフとして開幕一軍入りを果たした。
一時はリードした展開での登板を任されるなど、ここまで42試合に登板。
防御率4.06ながら、37回2/3を投げ、41奪三振と高い奪三振率をマークしている。
ロッテ・・・佐々木朗希(大船渡高)
4球団競合の末、ロッテに入団した佐々木朗。最速163キロを誇る右腕は、現時点で1、2軍ともに登板はなし。
吉井理人一軍投手コーチの指導の下、1軍への帯同を続けており、今季中のデビューが示唆されている。
日本ハム・・・河野竜生(JFE西日本)
外れ1位競合の末、日本ハムに入団した河野。 貴重な左の先発として開幕ローテーション入りを果たした。
7月19日にはプロ初勝利をマーク。 しかし、1軍で防御率5点台、2軍で4点台と本領発揮とはなっていない。
オリックス・・・宮城大弥(興南高)
外れ外れ1位でオリックスに入団した宮城。 ファームでは主に先発として5勝、防御率3.02の好成績を残し、
10月4日に1軍初登板を果たした。 ここまで2試合に先発登板。 初勝利はお預けとなっているが、
高卒らしからぬマウンドさばきで好投を見せている。
ソフトバンク・・・佐藤直樹(JR西日本)
外れ1位でソフトバンクに入団した佐藤。 開幕2軍スタートとなり、現時点で1軍出場はなし。
ファームでも49試合の出場で打率.223と打撃面で苦戦しているが、16盗塁をマークするなど持ち味の俊足で存在感を放っている。
楽天・・・小深田大翔(大阪ガス)
外れ1位で楽天に入団した小深田。 期待通り開幕1軍入りを果たした。 当初は途中出場が続いていたが、
7月からはスタメンの機会も増え、現在は遊撃のレギュラーに定着。
95試合の出場で打率.280、15盗塁をマークしており、新人王の筆頭候補に名を挙げている。
今季は広島、楽天、西武が当たりだったね。 高卒は先行投資、3〜4年後に戦力になっているか否か見ものだ。
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☆ 甲子園の名将2人が球児に伝え続けたこと 被爆から75年、選手とともに捧げた祈り ①
終戦から75年。
広島では今も、幼い頃に原爆を経験した80代の指導者2人がグラウンドに立ち、高校生や大学生に野球を教えている。
迫田穆成さん(81)と三原新二郎さん(80)。 60歳ほども離れた、戦争を知らない世代に平和の尊さを伝えながら。
「プロ野球で目標の外野手は誰や? 鈴木誠也か? 丸か?」。
原爆の日を目前にした8月の厳しい暑さの下、広島県竹原市のグラウンドに迫田さんの声が響いた。
広島商や如水館を何度も甲子園に導いた名将が昨年夏、県立竹原高の監督に就任した。
1945年8月6日、広島市西部の自宅で、妊娠中の母と、弟2人と共に被爆した。黒い雨が降る中、布団をかぶって逃げた。
市内中心部で勤労奉仕をしていた父や、作業していた姉は何とか助かったが、2歳の弟が翌日、亡くなった。
終戦から間もない小学1年の正月、年上の友人に誘われ、テニスボールで野球をした。
アウトが取れず、泣きながらプレーを続けたのが最初の思い出だ。 まだ貧しい時代。
家業の洋服店にある綿や生地でビー玉を包んでボールにし、布を合わせてグラブを作り、野球に夢中になった。
中学までに、元気だった同級生2人が相次いで死んだ。 原爆の影響だった。
「いつ病気になるか分からん」という不安が消えなくなった。
監督として2度、夏の甲子園準優勝を経験し、今は広島文化学園大で指導する三原さんも被爆者だ。
友人の家の玄関先で、いきなり目の前が真っ白になった。 爆風で飛ばされたが、よく覚えていない。
友人家族と逃げた橋の下で、裸の人が「水をくれ」とうめき、川に流されていくのを見た。
幸い自身の家族は全員無事。 自宅は傾いて、ふすまは閉まらなかったが住むことはできた。
そんな三原さんも小学校で野球と出合い、迫田さんと白球を追ったた仲だ。 2人とも県内の強豪校へ。
迫田さんは戦前、春夏の甲子園で4回優勝した広島商。 三原さんは春の甲子園で1回優勝した広陵に進んだ。
原爆投下から12年がたった1957年夏。 3年生の迫田さんは主将を務め、甲子園で全国制覇を果たした。
急行「安芸」で広島に凱旋すると、大勢の市民が出迎えてくれた。街中が歓喜に沸いた。復興が進む広島を元気づけた。
その年の7月、被爆の象徴である原爆ドームの向かいに、約5カ月の突貫工事で、球場が完成した。
プロ野球広島カープの新本拠地となった旧広島市民球場だった。
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☆ 同上 ②
「市民球団」カープがセ・リーグに参戦したのは50年。 資金難による解散危機がすぐに訪れ、成績も低迷した。
そんな中、当時の本拠地・広島総合球場に四斗だるが置かれ「たる募金」が始まった。
「10円札か何か、お金を入れたのを覚えている」と振り返る三原さん。
地元企業の寄付を集めて建設にこぎ着けた「新球場」は、復興の象徴的存在となった。
ナイター設備を備えたこの球場は、アマチュアにも広く門戸を開いた。
広陵の選手だった三原さんは、完成間もない球場の土を広島商との定期戦で踏んだ。
「総合球場とは全然違う。 試合できるのが、うれしかった」。
後身のマツダスタジアムにその座を譲るまで約半世紀にわたり、プロだけでなく高校、大学、社会人にも多用され、
広島野球界の「聖地」であり続けた。 迫田さんと三原さんはその後、ともに高校野球の指導者になった。
三原さんはまだ20代の青年監督として母校を率いた67年、夏の甲子園で40年ぶりに決勝に進んだ。
惜しくも習志野に敗れたが「古豪復活」を印象づけた。
迫田さんは73年、広島商監督として春の甲子園で「怪物」江川卓を擁する作新学院を破って大きな話題を呼び、準優勝。
同年夏には、自身の選手時代以来となる16年ぶりに夏の甲子園優勝を果たした。
高校野球の名将になった2人。 だが毎年、8月6日にはあの日の惨状が頭をよぎる。
迫田さんは甲子園に出場すると、広島の方角を向いて選手と目を閉じる。
「本当は静かに線香を上げたいけど、子どもにも教えないといかん」。 広島代表として犠牲者に祈りをささげてきた。
母校の監督を退いた後、福井や京都で高校球児を指導した三原さんも、練習前に選手たちと黙とう。
新学期最初の授業では自らの被爆体験を語ってきた。 「原爆の話をすると、みんな真剣に聞いてくれた」
被爆から75年。 迫田さんは言う。
「原爆が落ちたことは変えられない。 生かしてもらい、野球をさせてもらった。 そのことに感謝し続けている」。
さこだ・よしあき: 1939年生まれ。 母校広島商の監督として、73年春の甲子園で準優勝、夏の甲子園で優勝。
93年に如水館の前身三原工業高の監督に就任。 2019年春に退くまで、如水館を春夏計8度、甲子園出場に導いた。
教え子に達川光男・元広島カープ監督ら。
みはら・しんじろう: 1940年生まれ。 母校広陵の監督として、67年夏の甲子園準優勝。 福井工大福井の監督を経て、
京都西高(現京都外大西)の監督に。2005年夏、京都外大西を甲子園決勝に導いたが、田中将大を擁する駒大苫小牧に敗れた。
教え子に大野雄大投手(中日)ら。
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☆ 大野雄大が完封で64年ぶり球団新 45回連続無失点
中日1-0DeNA (22日、ナゴヤドーム)
大野が2試合連続完封で10勝目を挙げた。
連続イニング無失点を45まで伸ばし、球団記録の40回1/3を64年ぶりに更新した。
四回は2死からソトに右翼ポール際への大飛球を打たれたが、わずかにファウルとなって苦笑い。
八回は2死から代打梶谷に左前打を浴び、代打中井の左前打で一、三塁とされたが、代打楠本を空振り三振に仕留めた。
七回まで3安打を浴びたが、盗塁死と2併殺で1回を3人ずつの21人、残塁0で片づける安定した投球。
9回6安打無失点9三振、無四球投球。 初回のビシエドの犠飛による1点を守り切った。
プロ野球記録は58年の金田正一(国鉄)による64回1/3。
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☆ まるで映画… 細田学園の最速115キロ右腕が強豪校を封じた
秋季埼玉県大会の準々決勝、創部7年目で実績の乏しい細田学園が花咲徳栄を3―2で破る大番狂わせがあった。
先発投手に指名されたのは背番号18で控え外野手の飯吉陽来(いいよし・はるく)。
大金星の立役者は公式戦の登板経験がなく、直球の最速が115キロ。
右腕はある「工夫」で強打線に対して8回0/3を4安打2失点の好投を見せた。
直球が速いほど変化球も生きる。 だから皆、速球を求める。 持たざる者の彼は工夫した。
直球をあえて遅く投げ、変化球と球速差のない直球で花咲徳栄打線を翻弄。
「陽が差し込む一生であるように」と願いが込められた名のごとく。「北風」のように強く押すのではなく、
心地良い「太陽」のような緩いボールで、まんまとコートを脱がせたのだった。
陽の当たらない控えだった飯吉にとって激動の1日だった。
当日午前6時にグループLINEで初先発を知り、マウンドへの恐怖から、思わぬ好投へ。
初のインタビューを受け、翌日からヒーローとしての学校生活が始まった。まさに映画の題材になりそうな話だ。
「エイリアン」「ターミネーター」「ゴッドファーザー」…。 名作には続編にも傑作が多い。
来年のセンバツが懸かる関東大会(24日開幕)で、細田学園の下克上ストーリーの「パート2」が封切られる。
注目したが、関東大会は1回戦(25日)で1-8で東海大甲府に大敗した。
中国大会は岡山県の2校は初戦敗退、残り1校も2回戦で敗退。センバツ出場は絶望となる。
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☆ 【中国大会】 鳥取城北、米子東が32年ぶりの鳥取勢ダブルベスト4!
25日、第135回秋季中国地区高等学校野球大会は準々決勝4試合が行われた。
松江市営野球場では広島新庄(広島1位)と桜ケ丘(山口1位)が対戦。
終盤に試合が動く息詰まる熱戦を展開するも、3対2で広島新庄が勝利。
次戦の準決勝では、宇部鴻城(山口3位)に7対4で勝利した鳥取城北(鳥取2位)と対戦する。
県立浜山球場では、米子東(鳥取1位)が盈進(広島2位)と対戦。
1回戦で延長13回の死闘を演じた盈進は今回も延長戦に持ち込む熱戦を繰り広げるが、
延長11回、2点を加えた米子東に軍配が上がり、10対8でゲームセット。
勝った米子東は次戦、岡山学芸館(岡山3位)に5対1で勝利した下関国際(山口2位)と対戦することとなった。
準決勝は31日に県立浜山球場にて開催される予定。(下関国際ー米子東、 鳥取城北ー広島新庄)
天敵の岡山県勢と対戦せず、32年ぶりの奇跡。 まだセンバツ出場が確定ではない。
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☆ 仙台育英 「来年のドラ1候補」2年生が自主退学していた
10月20日、2年連続で秋季東北大会を制し、いち早く来春のセンバツを確実にした仙台育英。
そのマウンドに、主力投手であるAくん(17)の姿がなかったことが、波紋を呼んでいる。
「9月に開催された秋季宮城県大会から姿を見かけていない。
大会パンフレットには“背番号3”でAの名前が記載されていたが、白塗りで消されていた。
体調不良説などが飛び交っている」(スポーツ紙アマチュア担当)
Aくんは昨夏の甲子園で1年生ながら4試合に登板し、ベスト8進出に貢献。
「甲子園では150キロ近い速球を投げていた。
打撃でも非凡の才を持っていて、今夏の甲子園交流試合では5番・一塁で先発出場。
岩手県出身ということもあり、大谷翔平に続く“二刀流”として将来を嘱望されていました」
何があったのか。 仙台育英の監督を直撃すると、「お答えすることはございません」と言葉少なだった。
本人に話を聞いた。 「9月に退学しました」。 何からの事情で自主退学を選んだという。
「野球を辞めたのか」と問いかけると、「(次の学校は)まだ決まってないです。
(野球は続けるのかという質問に)そうですね」と、かみしめるように答えた。
過去のインタビューではプロ入りを希望していたが、もし転校したとして、彼はドラフトにかけられるのか。
「高野連の規定で転校した場合は公式戦に1年間出場できません。 甲子園への道は断たれましたが、
NPBの規則では本人がプロ志望届を提出すれば来秋のドラフトの対象にはなる」(前出・アマチュア担当)
実力は折り紙つき。 これがプロ入り後の糧になることを祈る。
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☆ 第一回ドラフト会議
今年もドラフト会議の日が来た。
米大リーグより約半年遅れでスタートした第1回は1965年11月17日、日比谷の日生会館で開催された。
巨人が1巡で甲府商の掘内恒夫、近鉄が2巡で育英の鈴木啓示と2人の殿堂入り選手が指名された。
ほかにも東京オリオンズ(ロッテ)2巡が銚子商・木樽正明、中日4巡に岡山東商・平松政次(入団拒否)、
阪神2巡に市立和歌山商・藤田平、阪急4巡に習志野・谷沢健一(拒否)、西鉄4巡には高知商・江本孟紀(拒否)ら豪華絢爛。
ベビーブームの1947年世代の選手たちが指名された。
いよいよだね。 福島君は西武か、阪神。 2位か3位と予想しておきます。
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☆ プロ野球ドラフト会議 倉敷工・福島章太投手を中日が4位指名
中日から4位指名を受けた倉敷工・福島は校長室のテレビで両親と歓喜の瞬間を迎えた。
「正直こんなに早く指名を受けられるとは思ってなかったので素直にうれしい」。
左投げ左打ち、176センチ、88キロの本格派左腕。 今年6月には自己最速の147キロをマークした。
独自大会を視察したスカウトたちは「スピードが出る投げ方」と将来性を評価。
球団は「本格派左腕 直球で勝負できる投手」と寸評した。
昨年10月に左肘を手術し、以降のトレーニングで球速は故障前の143キロから最速147キロまで上昇。
現在も高校卒業前の150キロ突破を目指し、肩甲骨回りの柔軟性を高める訓練を続けている。
倉敷工出身のプロ野球選手はホンダ鈴鹿から2014年にドラフト4位で阪神入りした守屋功輝投手(26)以来。
おめでとう!!! 予想は外れましたが、4位も今年の場合は高評価だと思います。
高校生の指名がセリーグ13人、パリーグ17人の狭き門。 高校生には厳しいドラフトになった。
高校生投手は9人指名で福島君より上の順位は3人しかいない。
高橋(中京大中京、中日が1位)、山下(福岡大大濠、オリックスが1位)、中森(明石商、ロッテが2位)。
3位がいないので、5本の指に入ったと言っても過言ではないだろう。
倉工から直は1975年のドラフト、兼光君(近鉄3位)以来の快挙だと思います。
ここからが勝負、大いに期待している。
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☆ 「やるからには開幕1軍」 福島章太投手が尊敬する竜の“エース” 「全てにおいて優れている」
自慢の直球で、竜の大黒柱へと登りつめる。 福島投手は出どころが見えずらいフォームから放たれる直球が魅力。
道しるべは日本を代表する2人の左腕だ。 中学時代から憧れ、参考にしてきたのが菊池雄星(現マリナーズ)。
「菊池選手のような、伸びのある力強い球が投げたい」。 指名された中日で真っ先に挙げたのは大野雄だ。
「どの球団を見ても、全てにおいて優れている」と、尊敬を口にした。
高校入学後に本格的に投手に転向し、今夏に最速の147キロをマークするなど伸びしろはまだ十分にある。
「どんなバッターに対しても向かっていく気持ちは強い。 やるからには開幕1軍を目指したい」。
武器とする直球のように力強く一歩を踏み出す。
生年月日 2002(平成14)年10月24日。 出身 岡山県備前市。 球歴 瀬戸内ボーイズ。
球種 カーブ、スライダー、カットボール、フォーク。 趣味 釣り。 好きな有名人 今田美桜。
好きな食べ物 チャーハン。
目標とする選手 マリナーズ・菊池雄星投手。 自分の性格 負けず嫌いで、何事にも勝ちにこだわる。
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☆ セ・リーグで最も「将来に適した指名」できた球団は中日
高校生ナンバーワンはおろか、将来性を含めれば今年の目玉の一人とも言える高橋宏斗(中京大中京)の単独指名に成功。
地元優先の路線には疑問が残るが、高橋はそういう事情も関係ないレベルの投手であり、この指名だけでかなりの高得点をつけられる。
更に2位の森博人(日本体育大)もリリーフであれば1年目から戦力となる可能性の高い実力者だ。
また下位指名ながら福島章太(倉敷工)、加藤翼(帝京大可児)の二人も将来性は申し分ない。投手に関しては満点がつけられるだろう。
野手も守備では高校生ナンバーワンショートの土田龍空(近江)を指名して若手の強化を図り、
手薄になってきた外野手でも三好大倫(JFE西日本)を獲得した。
できれば強打者タイプの野手がもう一人欲しかったところだが、全体的なバランスも良い指名だったと言えるだろう。
中日90点、 阪神80点、 広島75点、 巨人70点、 ヤクルト70点、 DeNA65点
(西尾典文)
1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。
主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている。
ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員。
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☆ 福島投手 「150キロ出してプロへ」
福島章太投手は、「150キロ出して高校を卒業する」と次の目標を語った。
「ようやく自分のスタートラインに立てたと思っています」
「自分が幼いころからずっと周りに何を言われてもぶれなかった夢でもあるので、
一歩一歩少しずつ踏みしめて頑張りたいと思ってます。
監督さんと約束して、150キロを出して高校生活を卒業するっていうのはかなえてから卒業したいと思ってます」
備前市出身の福島選手、新天地について聞かれると… Q.名古屋の印象は?
「めちゃくちゃ都会ってわけでもなくて、田舎ってわけでもなくて良い場所だと思ってます。行ったことはないです」。
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☆ 倉敷工・福島 「燃える男」継承だ! ドラフト4位指名の中日があいさつ
福島章太投手が30日、倉敷市の同校で松永編成部長、米村チーフスカウト、野本スカウトから指名あいさつを受けた。
倉敷から羽ばたいた竜の投手といえば『燃える男』と呼ばれた故星野仙一氏。
最速147キロ左腕も「いいバッターとかピンチのときは自分も燃える」と異名の継承を誓った。
運命のドラフトから4日。 当日は夢見心地だったが、いざ球団関係者が学校を訪れると自覚が芽生えた。
竜のレジェンドの故郷で、福島は高らかに誓った。
「YouTubeとか見ても、映像がたくさんあるわけではないんですけど、考え方であったりとか参考にするようにはしてます。
高校野球の現役の時は、倒れるなら前に倒れようと思っていた。 どんだけえらい(しんどい)メニューであったり、
くじけそうでも後ろに倒れるのはしたくなかったので、もがきながら前に、と思っていました」
星野氏はライバル校・倉敷商の出身だが、同じ市内で青春を過ごした大先輩。岡山県民としても畏敬の念を抱く。
1メートル80、80キロの本格派右腕だった星野氏に対し、福島は1メートル76、88キロとがっちりした体形で
パワー型の左腕と対照的だが、共通項は熱いハート。
「基本は冷静なんですけど、ピンチになれば声が出る。 自分でもなんて叫んでるかわからないですけど。
今、ジャイアンツが強いというのもあるので、自分も1軍で投げるときには巨人に勝ちたい」と、
異名だけでなく『打倒巨人』も受け継ぐつもりだ。
星野氏は巨人戦歴代5位の35勝。 福島がこれに近づけば近づくほど、竜の黄金時代は長く続くことになる。
担当の野本圭スカウトも「真っすぐで勝負できるピッチャー。 強気なメンタルも高く評価している」と太鼓判を押す。
ベンチプレス100キロ、スクワット200キロを超える文字通りの剛腕。 大投手への道をひた走る。
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☆ 福島章太、“燃える男”継承宣言 倉敷工で指名あいさつ 「夢は日本一のピッチャー」 (中日スポーツ)
中日からドラフト4位指名された倉敷工の福島章太投手(18)が30日、倉敷市内の同校で指名あいさつを受けた。
最速147キロ左腕は、地元の生んだ竜のレジェンドOB・星野仙一さんの代名詞「燃える男」の継承を宣言した。
星野さんの母校・倉敷商ではなく父・一生さんと同じ倉敷工を選んだ。
「商業も考えたんですけれど、父の存在があったので」と説明した。
家系を尊重し、ライバル関係にある「倉商」への進学は見送っても、
「岡山県人全員にとってのスーパースターです」という星野さんへの思い入れは強い。
18歳だから楽天監督時代の記憶が強くても、竜OBであることも熟知。
「いろいろある名言の中で『迷ったら前へ』が好きです」と話した。
負けず嫌いなのも本家と同じ。 「困ったときに変化球で逃げたくない。 真っすぐで勝負したい。
つらい練習でも後ろ向きにならず、前へ進むんだ、と思ってやってきました」と星野魂でプロ入りにつなげた。
倉敷工の中山隆幸監督とは、卒業式までに最速を更新して150キロをマークする約束も交わした。
今後は心身ともに充実させ、同市内にある星野仙一記念館へ足を運んでから入寮する計画。
「夢は日本一のピッチャーです」と明言した。
中日スポーツでは、まだ監督は名将中山さんのようだ。
177で3位がいないと記入したが、DeNAの3位に高校生投手(横浜高、松本)がいました。
よって福島君より上の順位に4人いたと訂正します。
YouTubeの再生回数が20万回を超えた。 中日ファンからも大いに注目されているのでしょう。
プロは厳しい世界だが、次から次へといい話題が来ることを楽しみにしている。
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☆ 広島、水本2軍監督が辞任 初のファーム日本一導く
広島は水本勝己2軍監督(52)の辞任を発表した。 球団側に辞任の意志を申し入れ、了承された。
今月8日から行われるみやざきフェニックス・リーグは、東出輝裕2軍打撃コーチが代行監督を務める。
水本2軍監督は倉敷市出身。 1986年夏、倉敷工の捕手で甲子園出場。
89年に松下電器(現パナソニック)から入団テストを受け、ドラフト外で入団した。
1軍出場なく、現役2年で引退。
92年からブルペン捕手となり、07年途中からはブルペンコーチ補佐となり、11年からの3軍統括コーチ、
13年からの2軍バッテリーコーチをへて、16年から2軍監督に就任した。
17年には91年以来26年ぶりのウエスタン・リーグ優勝を成し遂げ、初のファーム日本一となった。
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☆ 主将もエースも1年生… 若いチームが中国準V 選抜確実
1年生だらけのチームが躍動した。 秋季中国大会決勝が1日、島根県立浜山球場であり、
1年生主体の下関国際は広島新庄に2―3で競り負けて準優勝だったが、来春の選抜大会出場を有力にした。
2018年夏の甲子園で8強入りした下関国際。 今秋は部員41人中31人が1年生が占める。
ベンチ入り18人のうち、1年生が14人、2年生は4人しかいない。
先発メンバーには準決勝で先頭打者本塁打を放った1番・賀谷ら6人の1年生が名を連ねる。
そして、彼らをまとめる主将も1年生の山下だ。
「主将は一つのポジションだと思っている。学年の枠にとらわれず、全体を考えた時に彼に資質があると思った」
と坂原秀尚監督。 2年生捕手の守には4番も任せており、これ以上の負担は試合に影響すると考えた。
主将の山下は「自分たちはまだ体が細い。 この冬、しっかり体作りをしたい」。
一冬越して、選抜でどんな姿を見せてくれるか。 若いチームの伸びしろは、計り知れない。
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☆ 西武 平尾博司2軍打撃コーチと契約解除 選手私物を窃取
西武は1日、平尾博司2軍打撃コーチ(44)との契約を10月31日付で解除したと発表した。
球団に所属する2選手の私物を窃取し、そのうちの1選手から10月16日に球団へ盗難被害の申し入れがあった。
球団で調査した結果、同コーチが窃取を認めたという。
埼玉県出身の平尾コーチは大宮東時代に高校通算68本塁打を放ち、3年時の1993年センバツで準優勝。
同年ドラフト2位で阪神入りし、2001年途中に交換トレードで西武に移籍した。
12年限りで現役を引退し、球団職員に。 19年に2軍コーチに就任していた。
現役時代の通算成績は781試合に出場して打率・245、39本塁打、196打点。
西武では、コロナ禍で不要不急の外出を禁じていた4月に二軍の2選手が、ゴルフに向かう途中の高速道路で
89キロオーバーのスピード違反を犯していたことを8月になって発表。
先月、運転していた選手が懲役3月、執行猶予2年の判決を受けたばかりである。
必死に戦うチームに水を差すスキャンダルの連続。
山賊打線がウリのチームに本物の「賊」がいたんじゃシャレにならない。
これはびっくりぽん! 前代未聞の哀れな情けない話だね。
西武に移籍後、茶髪の長髪姿に「チャラ尾」の愛称がついていたが・・・。
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☆ 西武が戦力外通告 トラブル続きの相内、18年最多勝の多和田
相内は12年ドラフト2位で入団したが、トラブル続きで注目を集めた。今年は緊急事態宣言中の4月にゴルフ場へ外出。
同僚の佐藤が運転する自家用車に同乗し、法定速度を超える速度違反が発覚した。
この事実が発覚した8月以降は無期限対外試合出場禁止及びユニホーム着用禁止の処分を受けた。
12年ドラフト指名直後は入団前に仮免許運転違反。 14年には未成年の飲酒喫煙が発覚した。
成績は伸び悩み、プロ通算21登板で0勝7敗、防御率10・05だった。
多和田は15年ドラフト1位で入団し、18年に16勝で最多勝。
だが、自律神経失調症を患い、今季は春季キャンプに参加できず。7月30日に支配下選手契約を締結したが、
イースタン・リーグ5試合の登板に終わっていた。プロ通算29勝21敗、防御率4・17だった。
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☆ 中日 落合GM時代の13年ドラ1、鈴木翔太も… 7選手に戦力外通告
中日は3日、小熊凌祐、伊藤準規、阿知羅拓馬、鈴木翔太、石川駿、育成選手の浜田智博、大蔵彰人の7選手に
来季の契約を結ばないことを通達したと発表した。
鈴木翔太は13年ドラフトの外れ1位(楽天入りした松井裕樹の抽選に漏れ)。聖隷クリストファー高から入団した。
同年にGMとなった落合氏がその潜在能力に太鼓判を押していたが、成績は伸び悩んだ。 通算24試合登板。
17年には5勝を挙げて才能が開花しかけたが、18年は2試合の登板のみ。昨季と今季は1軍登板がなかった。
08年ドラフト2位の伊藤準も評価は高かった。 落合監督時代、本格派右腕としてルーキーイヤーから登板。
2年目にはプロ初勝利も飾った。 だが、3年目に4勝を挙げて以降は伸び悩み、通算7勝に終わった。
ともに背番号18を託され、期待値の大きかった右腕が、ついに非情な宣告を受けた。
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☆ 辞任の水本勝己2軍監督 「長い間ありがとうございました」 チームにあいさつ
「広島-巨人」(3日、マツダスタジアム)
2日に辞任を申し入れ、了承された水本勝己2軍監督がマツダスタジアムにあいさつに訪れた。
午前10時頃、スーツ姿でグラウンドに登場すると佐々岡監督と会話を交え、
首脳陣や選手らの前でお別れのあいさつを行った。「長い間ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
水本監督は16年から2軍監督に就き、17年にはウエスタン・リーグで26年ぶり9度目の優勝に導いた。
その後のファーム日本選手権でも巨人を下し、初のファーム日本一に輝いた。
今季のウエスタン・リーグ成績は30勝42敗4分けの4位だった。 後任監督は未定。
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☆ 【カープ】 戸田、藤井、平岡の3投手が戦力外
広島は4日、戸田隆矢投手(27)、藤井皓哉投手(24)、平岡敬人投手(25)の3選手と来季の契約を結ばないと発表した。
戸田とは、育成選手として再契約する方針。
戸田は2012年、鹿児島・樟南高からドラフト3位で入団した左腕。 通算95試合に登板し、11勝7敗1セーブ、防御率3・94。
19、20年の登板はなく、7月中旬に左肘の手術を受けていた。
藤井は15年におかやま山陽高からドラフト4位入団。 通算14試合に登板し、1勝0敗、防御率7・94。今季の登板はなかった。
平岡は中部学院大から18年にドラフト6位入団。 3年間で1軍登板はなかった。
支配下登録選手には70人枠があるから、当然のことながらドラフトで入ると首切りがある。
育成選手には制限がないから、戸田投手のように多少なりとも可能性があれば育成選手として再契約するが年俸は安い。
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☆ 阪神が5選手に戦力外通告 ドラ1入団の伊藤隼と横山、岡崎ら
阪神は4日、岡崎太一捕手(37)、伊藤隼太外野手(31)、高野圭佑投手(28)、横山雄哉投手(26)、
福永春吾投手(26)の5人に来季の戦力外を通告したことを発表した。
岡崎は2004年ドラフト自由獲得枠で入団。 伊藤は2011年ドラフト1位、横山も2014年ドラフト1位で入団。
将来の主力として期待された“ドラ1”が、そろってユニホームを脱ぐことになった。
今季限りで現役を引退する藤川と、戦力構想外を通達した福留、能見、上本の4人が退団する。
この日の5人合わせて現時点では9人がタテジマを脱ぐことになった。
今秋ドラフトでは支配下で8選手、育成で1選手の計9選手を指名した。
予定通りの首切り、高給取りが減りフロントはにっこりだろう。
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☆ 大崎4強 人口5000人 長崎の島から初甲子園確実
県立校の大崎が3-2で延岡学園を下して4強進出を決め、春夏通じて初の甲子園出場を確実にした。
清峰や佐世保実で甲子園出場実績を持つ清水監督(49)が18年4月に就任。
当時は部員5人で廃部寸前だったチームが、メキメキ力をつけて2年連続秋の長崎を制し、夢を引き寄せた。
4強入りを決めた福岡大大濠、明豊、宮崎商もセンバツ出場に大きく前進した。
全校生徒は118人。そのうち野球部員が47人と大半を占める。ほぼ全員が寮生活で、監督も苦楽を共にする。
一丸の大崎が、島を挙げて甲子園にやってくる。
大島: 長崎県西海市にある島。 大島大橋で西彼杵半島と結ばれている。 主な産業は造船業、漁業、農業。
「大島トマト」は高糖度のトマトとして知られる。 人口は今年9月末現在で4933人。
島からの甲子園: 外海離島からの甲子園出場は03年春の隠岐(島根・隠岐島)、06年春夏出場の八重山商工(石垣島)、
11年春の佐渡(新潟・佐渡島)、14年春の大島(鹿児島・奄美大島)の4校。
瀬戸内海の島からは春夏4度出場の洲本(兵庫・淡路島)、久賀の校名で2度出場した周防大島(山口・周防大島)、
16年春の小豆島(香川・小豆島)の3校。
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☆ 【ドラ番記者】 クイズです。 記者は10月30日、ドラフト4位指名された倉敷工・福島章太投手の…
クイズです。 記者は10月30日、ドラフト4位指名された倉敷工・福島章太投手の指名あいさつを取材しました。
予定されていたのは夕方。 時間があるな〜、ということでカメラマンと学校近くにある星野仙一記念館へ向かいました。
少年時代や明大時代のグラブ、指揮を執った中日、阪神、楽天のユニホームなどが所狭しと展示されていました。
ここで問題です。 1999年の優勝メンバーのバットが3本ありました。関川、福留、もう1本は誰のものでしょうか。
ヒントは、立浪和義さんではありません。
ちなみに「新聞を読む立浪」なんて説明書きの、アイドル写真のようなものまで置かれていました。
師弟の間柄を示すような特別扱いでした。
さあ、答えです。 燃える男に最も殴られた男。 そう、中村武志(現バッテリーコーチ)でした。
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☆ オリックス 前広島2軍監督の水本勝己氏を 1軍ヘッド格で招へい 中嶋新体制へ着々
オリックスの来季監督に、中嶋聡監督代行(51)が内部昇格することが5日、分かった。
シーズン終了後に正式要請する方向で検討しており、2年連続最下位からの逆襲へ新体制で再建に乗り出す。
中嶋監督代行は、西村前監督の事実上の解任に伴い8月21日の西武戦から指揮を執ってきた。
重苦しい状況下ながら采配を振るい、杉本や育成出身の大下、漆原ら若手を積極起用するなど球団は育成手腕を評価していた。
新監督誕生に伴い組閣も進む。
その右腕に、今季限りで広島2軍監督を辞任した水本勝己氏(52)を1軍ヘッド格で招へいする方向で検討していることが判明した。
2軍監督だった17年にウエスタン・リーグ優勝、ファーム日本一に導くなど広島のリーグ3連覇の土台づくりに尽力してきた。
新指揮官と同学年で同じ捕手出身、育成と勝利の両立を目指す方針も重なり適任と言えそうだ。
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☆ 相次ぐドラ1戦力外… 早くなっている判断のサイクル
ペナントレースの順位争いが佳境を迎える中で、各球団は来季に向けて着実に歩を進めている。
12球団合同トライアウトは、12月7日に非公開で行われる。
ドラフト1位の戦力外も相次いだ。 巨人藤岡、阪神伊藤隼、横山。 中日鈴木翔ら。
中堅どころが多く、世代交代とジャッジメントのサイクルは早くなっている。
データの活用などで力量を客観的に把握する手段が増え、巨人、ソフトバンクを中心に育成選手の戦力外も
サイクルが早まっている。 チームには血の循環、選手には早期にセカンドキャリアを踏み出せるメリットがある。
プロ野球界では11月2日から各球団が来季の契約を結ばない選手にその旨を通告する。
5日までの4日間で12球団が一度目の戦力外を発表し、支配下登録、育成選手合わせて計77選手に通告がなされた。
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☆ 守屋が1軍合流 5カ月ぶりの1軍昇格 (広島-阪神 7日、マツダスタジアム)
守屋功輝投手(26)が1軍に昇格した。 マツダスタジアムでの試合前練習に参加し、この日出場選手登録された。
今季は開幕1軍スタートも、右肩痛の影響で6月25日に出場選手登録を抹消。
2軍調整の日々が続き、ウエスタン・リーグでは9試合に登板して0勝1敗、防御率は2・16だった。
8日から開幕する「みやざきフェニックス・リーグ」にも参加予定だが、約5カ月ぶりに1軍昇格となった。
昨季はキャリアハイの57試合に登板。 防御率3・00の安定感で虎のブルペン陣を支えていた。
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☆ 苦難を乗り越え、困難を克服してきたバイデン氏の素顔 大好物はアイスクリーム
現職大統領を打ち破り、勝利宣言をしたジョー・バイデン氏。
日本では、オバマ政権の副大統領を務めたことで知られているが、その素顔はどのようなものなのか。
「アンクル・ジョー=ジョーおじさん」の愛称で親しまれるバイデン氏は、
1942年、ペンシルベニア州で中流階級の家庭に生まれ、隣のデラウェア州で育った。
子どもの頃から吃音に悩んでいたバイデン氏は、鏡を見ながら朗読する練習法で克服したことを明らかにしている。
地元の州立大学を卒業後は、弁護士資格を取得し、地元の郡議会議員を2年務めた後1972年、
27歳の若さでデラウエア州の上院議員に初当選した。
しかし、そのわずか1カ月後、妻と1歳の娘を交通事故で亡くしている。
残された2人の息子のために議員辞職をも考えたというバイデン氏だが、苦難を乗り越え、
1977年、現在の妻となるジルさんと再婚した。
36年にわたり、上院議員を勤め上げて、「民主党中道派の重鎮」「外交通」として不動の地位を築きあげた。
大物政治家のイメージの一方、レトロなサングラスを愛用し、大好物はアイスクリームという意外な一面もある。
2009年には、オバマ政権の副大統領に就任し、外交経験の浅いオバマ大統領を8年間支えた。
一方、プライベートで バイデン氏を再び悲劇が襲った。 2015年、大統領選への立候補を検討中に、
長男が脳腫瘍により46歳の若さで亡くなり、出馬を断念した。
その4年後となる去年、再び意を決して大統領選に立候補し、失言が多さや高齢への懸念は指摘されていたものの、
予備選挙で左派のサンダース上院議員らを打ち破りった。
就任時には78歳、アメリカ史上最高齢の大統領となるバイデン氏。
国を「分断」から「結束」の軌道に乗せることができるのか、手腕が注目される。
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☆ 部員に素手でノック受けさせ、3週間のけが 神奈川・藤嶺藤沢
神奈川県藤沢市の私立藤嶺藤沢高校で9月、男性監督(47)が練習中に1年の部員に素手でノックを受けさせ、
全治3週間のけがをさせたことが、同校への取材で判明した。
同校は「不適切な指導だった」として部員の父親に謝罪し、
監督を1カ月指導停止などの処分としたうえで、県高校野球連盟に報告した。
日本学生野球協会は高野連から処分案の上申を受け、17日にも処分を公表する方針。
同校によると、監督は9月26日のノック中、捕球ミスをした部員に対し、「グラブを外しなさい」と指示し、
ノックバットで計3球を打って素手の左手で捕球させた。
部員は翌27日の練習前、監督に手のひらが腫れたことを伝え、同28日に病院で3週間の挫傷と診断されたという。
監督は同校の調査に、素手でノックを受けさせたことについて
「手のひらで捕球する感覚をつかんでもらいたかった」と説明したという。
佐野校長は取材に「不適切な指導だった。 部員らには申し訳ないという気持ちだ」と話している。
同校は1985年、夏の甲子園に出場している。
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☆ 「お前はクビだ」 NY中心部はお祭り騒ぎ
米大統領選でバイデン前副大統領の当選確実の報が伝わると、ニューヨーク中心部では沿道で飛び上がったり、
手を振ったりして喜ぶ人たちの姿が見られた。 車からクラクションを鳴らす人たちもいた。
観光名所のタイムズスクエアには直後から大勢の人が集まった。
歌を歌い、踊って喜びを爆発させる若い女性らの姿もあり、お祭り騒ぎに。
トランプ大統領が過去に出演していたテレビ番組での決めぜりふ「お前はクビだ!」などとの声も上がった。
民主党の上院トップでニューヨーク州選出のチャック・シューマー上院議員も姿を見せ、
「米国の暗黒の時代は終わった」などとバイデン氏の当選を歓迎した。
近くに住む演劇制作者のトム・タンゴラさん(41)は「すばらしい気分だ。 国家的な悪夢がようやく終わった。
この4年間、世界の恥だった」と語った。
劇場関係者のトニー・スタントンさん(58)はカマラ・ハリス上院議員が初の女性副大統領に決まり、
「ホワイトハウスに女性が入るときがきた。 とても興奮している」と話した。
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☆ オバマ氏 「この上ない誇り」 大統領経験者ら、バイデン氏に祝意
オバマ前米大統領は7日、大統領選でバイデン前副大統領が勝利を確実にしたことを受けて声明を出し
「祝意を伝えることができるのは、この上ない誇りだ」と表明した。
その上で、バイデン氏が新型コロナウイルスなど難題への対応で
「すべての米国人の利益のために働いてくれるだろう」と指摘し、国民に支持を呼び掛けた。
バイデン氏は、オバマ政権の2期8年にわたり副大統領を務めた。 今も国民から根強い人気があるオバマ氏は、
バイデン氏の選挙広告に登場したほか、選挙戦終盤にバイデン氏の集会で応援演説を行うなど運動に協力した。
クリントン元大統領は7日、ツイッターで「民主主義が勝った。全員のために働き、
全員を一つにしてくれる次期大統領と次期副大統領を、われわれは手にした」と歓迎。 カーター元大統領も声明で、
バイデン氏への祝意を示すとともに「わが国に前向きな変化をもたらすことを期待する」と表明した。
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☆ アメリカ初の女性副大統領が誕生へ カマラ・ハリス氏
ハリス氏は、1964年10月20日、西部カリフォルニア州生まれの56歳。
母親はインドから、父親はジャマイカからアメリカに来た移民で、黒人でアジアにルーツを持っている。
両親が離婚した後、がん研究者で市民権活動家の母親シャマラ・ゴパラン・ハリス氏が、ハリス氏と妹のマヤさんを育てた。
ハリス氏は黒人だが、奴隷としてアフリカからアメリカに連れてこられた人たちに直接のルーツを持たないことから、
ハワイに留学していたケニア人の父を持つバラク・オバマ氏と重ねられることも多い。
ハリス氏は、ワシントンD.C.にあるハワード大学を1986年に卒業。
ハワード大学は、黒人のための高等教育機関として作られた「歴史的黒人大学」の一つだ。
その後、カリフォルニア大学ヘイスティングズ・ロー・スクールで法律の学位を取得した。
卒業後は検察官としてキャリアを積む。 2004〜2011年までサンフランシスコ地方検事を務め、
黒人としても女性としても初めてカリフォルニア州の司法長官に就任。2期にわたり全米人口最多の州の司法長官を歴任した。
2016年、上院議員に当選。 黒人のアメリカ人女性として連邦上院議員に選出されたのは史上2人目の快挙だった。
また、上院議員に当選した初のインド系アメリカ人でもある。
女性であり、黒人であり、アジアにルーツを持ち、移民の子でもあるハリス氏。
アメリカ社会の多様性を体現するかのような副大統領のこれからに期待がかかっている。
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☆ 土田龍空、 目標はメジャーリーガー “遊撃の大先輩” 井端弘和氏も激励「いいですね」
3位指名を受けた近江、土田龍空遊撃手(17)と、4位の倉敷工、福島章太投手(18)が8日、
CBCテレビのスポーツ番組「サンデードラゴンズ」に出演。
ともに1年目は1軍出場、プロとしての最終目標は日本一の遊撃手、投手を目標に掲げた。
土田はメジャーリーガーになりたいと即答し、ゲストの井端氏は「いいですね。そこを目標にプロでやってほしい」と激励。
守備には自信があり「ボールへの入り方や1本目の早さ、ポジショニングをしっかり意識しています」と話した。
理想のバッターは「広角にまっすぐの打球を打てる」という大谷翔平。 中日では同じ遊撃手の京田選手が憧れという。
対戦したい巨人の横川投手は、中学時代のボーイズの先輩。
一方の福島は高校入学後、急速が20キロ伸びて最速147キロとなった。
「投げるだけでなく、フィールディングも心掛けている。 1軍に上がって、備前市の野球人口が増えたら」。
菊池雄星にあこがれる岡山県備前市の出身の左腕。
井端氏は「出どころが見えにくい。 切れのいいストレートを磨いてほしい」と期待した。
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☆ CBCテレビ 「サンデードラゴンズ」(毎週日曜日午後12時54分から東海エリアで生放送)コラム
名古屋の印象について福島投手はこう話した。
「めちゃくちゃ都会ってわけでもなくて、田舎でもなくていいところだと思います」
そんな素直すぎるコメントがグッときたファンも少なくないだろう。
人柄だけでなく、投球スタイルも強い真っすぐを大事にしている。
そんな本人からセールスポイントについてはこう語られた。
「ストレートには自信があって、バッターがいい時ほどストレートに頼ります」
そして倉敷工の高田監督は福島投手の魅力についてこう語った。
「出所がわかりづらいところから角度のあるストレートが投げられる。
打者とのタイミングが取りにくいというところをスカウトにも評価してもらった」
6歳で野球を始め、中学までは主に野手として出場。 高校入学を機に監督の勧めで本格的に投手に転向した。
監督は最初の印象として「1年生の時にはまだ力はなかったが、胸郭と肩甲骨の使い方がうまかったので
伸びるんじゃないかなと思っていました」と感じて転向を勧めた。
チームメイトから負けず嫌いだと言われる福島投手。
高校2年生の春に左肘を疲労骨折したが、ライバルに差をつけられないよう必死にリハビリに励んだ。
監督も、ケガの懸念はあったが基礎体力トレーニングを欠かさずに続けてきたことで、
フィジカルが鍛えられ球威が上がっていったという。
球速は3年間で約20キロもアップし、今年の夏には自己最速147キロをマークした。
その姿は、同野球部に所属する弟の福島貫太さんも「憧れでもあり、目指している場所なので
自分もプロの世界に入って、お兄ちゃんと対戦できたり、越せたらいいなと思います」
そんな福島投手への10の質問からこちらも注目して欲しいものを抜粋。
Q. 理想とする選手がいる:
「中学生の時から、自分の中で菊池雄星投手が憧れだった。 実際甲子園に足を運んで見たときに、
力強いストレートっていうのが自分も見習わなければいけないなと思ったので」
Q. プロで対戦したい選手がいる:
「同じセ・リーグで、日本を代表するバッターとして鈴木誠也選手とは対戦してみたいなと思います」
Q. 自分が輝ける場所はマウンドだ:
「ピッチャーとして心がけていることは、ピッチャーは投げるだけじゃなく、
フィールディングの良さも大事だと思うので意識している」
Q. 性格的には優しいほうだ:
弟の貫太さんが直して欲しいところとしてあげるほどの優しさ。 色んなことを教えてくれるが、
優しすぎて俺がやるわってお手本をやってくれて結局自分のやることがなくなってしまう。
Q. 大好きな芸能人がいる:
「今田美桜さんが好きです。 方言も可愛いですし、すべてが可愛いです」
福島投手は菊池雄星投手のようなピッチャーを目指して、1年目から1軍出場を目標に掲げた。
そしてプロ入り後の抱負としてこう語る。
「自分が生まれ育った岡山県備前市の野球人口が減ってきているので、
一軍に上がってプレーを見てもらって野球人口が増えればと思う」と野球に対する愛と
大きなビジョンを持った目標を掲げた。
本人の発言から、おおらかで優しく、思わず応援したくなるような愛されキャラになる予感がする。
ケガと戦いながらも、より強くなることを志す姿勢や、監督に抜擢されグイグイと伸びるポテンシャルも魅力的に映る。
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☆ 大野 FAせず残留へ 「いい評価してもらった」 年俸3億円+出来高3年契約で大筋合意
中日の大野雄大投手(32)が、今季取得した国内FA権を行使せずに残留する意向を固めた。
年俸3億円プラス出来高払いの3年契約で大筋合意。
沢村賞候補のエース左腕は10年ぶりの優勝を目指し、2021年も竜の先頭に立つ。
シーズン最終戦を翌日に控えた10日、竜党が待ち望んでいた朗報が舞い込んだ。
巨人、阪神、オリックスが水面下で調査し、FA権を行使すれば大争奪戦が必至だった大野が残留を決断。
このオフ最大の懸案事項が早期決着した。
ベース部分の年俸は今季の1億3000万円から1億7000万円増へ大幅アップとなる。
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☆ バイデン氏勝利に1.4億円賭けた人物、まだ配当受け取れず 英賭けサイト
ロンドン(CNN Business) 米大統領選が終わっていない人物が1人いる。
次期大統領になるのはバイデン氏だと100万ポンド(約1億4000万円)を賭けた人物だ。
この人物は先月29日に世界最大級の賭けサイト「ベットフェア・エクスチェンジ」で巨額の賭けを行った。
今回の大統領選は同サイトで単一のイベントで過去最高の賭け金を集める状況となっている。
CNNを含むメディア各社はバイデン氏の当選確実を伝えた。
だが、この人物はまだ54万ポンド(約7500万円)の利益と元手の100万ポンドをまだ回収できていない。
ベットフェアの広報担当は9日、結果が公式に確認されれば決済が行われるとの方針を示した。
賭けは通常、メディアの当選確実の結果の宣言と候補者による敗北宣言を受けて決済される。
だが今年はトランプ大統領が敗北を認めず法廷闘争に臨む姿勢を示しており、公式な結果の確認が遅れそうだ。
バイデン氏への100万ポンドの賭け金は過去3番目に多い金額。 賭けた人物は匿名を希望しているという。
今回の選挙は5億6700万ポンド(約792億円)と過去最高額を集めた。
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☆ 藤川引退試合、守屋が押し出しで追加点献上 (阪神0-4巨人、10日、甲子園)
3番手の守屋功輝投手(26)が2死満塁から押し出し四球で追加点を献上した。
7回から登板し、2死一塁から連続四球で満塁。4番岡本と対戦し、フルカウントから高めに外れ、押し出し四球となった。
続く5番丸は二ゴロに仕留めたが、阪神打線は6回まで無安打と沈黙しており、投手陣への援護はいまだにない。
この日は藤川球児投手(40)の引退試合だが、1回表に適時失策絡みで3点を先制されると、
3回まで巨人先発畠に無安打投球を許した。 4、5回も2番手戸郷の前に無安打。
6回に近本が敵失で出塁したが、得点には結びつけられなかった。
5ヶ月ぶりに1軍昇格するも結果を残せず。
今年は肩痛に苦しみ、投球回数4、勝ち負けホールドなし。 防御率11・25。
かなりの年俸減となりそうだ。 来年は再び崖っぷちです。
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☆ ダルビッシュ、サイ・ヤング賞ならず 「また頑張ります」
サイ・ヤング賞(最優秀投手賞)が11日発表され、ナ・リーグの有力候補だったカブスのダルビッシュ有(34)は受賞を逃した。
1956年に創設された同賞で日本選手初の快挙とはならなかった。
新型コロナウイルスの感染拡大でレギュラーシーズンが60試合に短縮された今季、渡米9年目のダルビッシュは12試合の登板で
ナ・リーグトップの8勝(3敗)を挙げ、日本選手初の最多勝に輝いた。防御率はリーグ2位の2・01、93奪三振を記録していた。
ダルビッシュは自身の公式ツイッターに「サイ・ヤング投票は2位でした! 家族、応援してくださったファンの方々、
支えてくださったスタッフ、チームメイトのお陰です。来年のこの日もドキドキできるようにまた頑張ります」と投稿した。
ナ・リーグはレッズのトレバー・バウアー(29)、ア・リーグはインディアンスのシェーン・ビーバー(25)がそれぞれ選ばれた。
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☆ 鈴木誠也、5年連続打率3割&25本… 王・落合・小笠原に続く史上4人目
10日のヤクルト戦で打率を3割ジャストに乗せたため、この日は出場せずに全日程を終了。
5年連続の打率3割以上および25本塁打以上を確定させた。
王貞治、落合博満、小笠原道大に次ぐプロ野球史上4人目の記録に「うれしいですけどいろんな方々のサポートがあって
ここまでやれている。感謝しながらレベルアップできるように頑張りたい」。試合後のセレモニーでファンに優しく手を振った。
開幕当初は好調で、7月末時点で打率3割4分1厘の猛打を誇っていた。
だが、8、9月はいずれも月間打率2割6分台と調子に波があった。「いろいろ引き出しがはまらなかったということがあった」。
主砲としてシーズンを5位で終えたことにも責任を痛感して「他球団は力をつけてきて、僕たちがついていけてないという問題。
来年に生かしたい」ときっぱり。 早くも巻き返す準備はできている。
王さんは別格、凄すぎる。8年連続の打率3割以上および40本塁打以上。 19年連続の30本塁打以上。
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☆ 阿久悠が感じた 「投手」球児の魅力
「球児」とタイトルが付けられた詩がある。 作者は作詞家・阿久悠。
まだ無名の、高校2年生の、そして平安戦で敗戦投手となった藤川の姿に、阿久悠は何かを感じたのだ。
「球児」 球児という名前は 予感で命名したのだろうか それとも 予言の意図で付けたのだろうか
きみを見ていると そんなことすら考えてしまう 夢の結実の感じさえする
高知商・藤川球児投手 きみには 甲子園が 実に実によく似合う この日 甲子園は膨張する 青空もある
眩しい光もある 風物と化して満喫する 五万の客もいる いい時の いい気分の甲子園だ
その中で きみは投げる 大型左腕を向うにまわして 対等の力を見せる 少年のまっすぐさで投げこみ
動物の機敏さで反応する 体が投手なのだ 気持が投手なのだ
ふと すべての人が錯覚する スコアボードの一回表に 重たい4の字が入っていることを忘れ
0対0だと思いこんでいることに 今更のように驚く 緊張も快感も0対0だった
8回 6安打 10三振 1四球 失点5の敗戦投手 だが 人々は 既に 来年を待っている
「来年また来いよ」は 決してなぐさめの言葉ではない (甲子園の詩 97年8月16日より)
エンターテインメントの第一線で活躍した感性が「きみには甲子園が実に実によく似合う」と言わせ
「体が投手なのだ」「気持が投手なのだ」の言葉を選ばせた。
藤川球児という名の磁力が引き寄せた詩と言えるだろう。
その磁力で多くの出会いを作り、多くの感動を生んだ野球人生。
「いろいろなことを達成したり、一つにするっていうのは時間がかかる。
一つずつ、前向きにやっていけば10年かかるのか、20年かかるのかわからないけど、必ずいい方向に進む。
こういう生き方があるんだなと、その日暮らしじゃないんだなというところを、
ファンの人にも分かっていただけたんじゃないかな」。 藤川は、そう語った。 信念を持った歩みだった。
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☆ 21世紀枠 県推薦校に岡山工 秋季県大会で40年ぶり勝利
県高野連は13日、来春の第93回選抜高校野球大会の「21世紀枠」の県推薦校に岡山工(岡山市北区)を選出した。
今秋の県大会で40年ぶりの勝利を挙げて16強に進出したことや、積極的な地域貢献活動などが評価された。
地域との交流やゴミ拾いなどのボランティア活動、2018年の西日本豪雨時に連日、復興作業を手伝ったことも推薦理由。
推薦を受け、野球部長の中山隆幸教諭は「来年の創立120周年を前に喜ばしい。 身が引き締まる思い」と話した。
21世紀枠は12月11日に全国9地区の候補校が発表され、出場する3校は来年1月29日に選出される予定。
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☆ 甲子園めざして 変身・工夫 公立校率いる監督の指導法
秋季九州大会で、長崎の離島にある大崎が初優勝した。
3年前まで部員不足で廃部寸前だった野球部は、2018年春の清水監督(49)の就任を機に生まれ変わった。
1年半で県大会を制し、2年半で九州王者に。 背景には選手、監督自身の意識改革があった。
「西の果てから本気で日本一をめざすなら、2回くらい人間を変身させる必要があるんです」。
清水監督に指導方針を尋ねると、真剣な表情でそう返ってきた。
清水監督は清峰のコーチとして06年の選抜準優勝、後に部長も務めた。 佐世保実の監督として
12、13年夏の甲子園に出場したが、同年秋に発覚した部内暴力を学校へ虚偽報告したとして謹慎処分を受けた。
16年に処分が解け、「野球を通した町おこし」を託されて西海市職員として大崎に来た。
「誠実に野球と向き合おうと気持ちを新たにした」。 自戒も込めた「変身」だった。
清水監督の指導を希望する県内の生徒が集まり、今では全校生徒の約4割を占める部員47人ほぼ全員が寮生活を送る。
練習は厳しい。 退部したり、反抗したりする選手もいたが「徹底しないと勝てない」と妥協はなかった。
思いは伝わる。 準決勝の明豊戦で延長十二回にサヨナラ二塁打を放った乙内はチーム一の「やんちゃ坊主」。
素行が悪かったこともあり、力はあるのに背番号12で出ていた。
「悔しくて見返したくて、大会前は今までで一番バットを振った。 なにか変われた気がします」。
この秋、多くの個性的な監督に出会った。 兵庫県大会で準優勝した東播磨の福村監督(48)は走塁に力を入れる。
コロナ禍で休校中は盗塁の注意点をまとめた動画を作って選手に配信した。
練習ではスタートの姿勢やリードの足の運びなど細部まで指示が飛ぶ。 自身は学生時代走塁が不得意だった。
「だから苦手な選手の気持ちもわかる。 強豪校に勝つには真っ向勝負では厳しい」。
近畿大会は1回戦で惜敗したが、五回の先取点は1死二、三塁から遊ゴロの間に好走塁で奪った。
前進守備を敷かれたが、バットを振りだした時に走者がスタート。 高い技術が詰まっていた。
就任11年目でチームを初の東北大会準優勝に導いた柴田(宮城)の平塚監督(48)の指導も印象的だった。
ノックではわずかなミスも見逃さない。 ミスをした原因を追究し、選手が答えるまで次の1球は打たない。
「試合を想定して、根拠を持たせてプレーさせています」。東北大会1試合平均の失策は一つ以下。堅守が光った。
公立校で練習環境は限られるが、3人の日焼けした顔から熱意を込めた指導ぶりが伝わってきた。
一冬を越えてチームはどう進化するのか。 春が待ち遠しい。
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☆ 楽天 17年ドラ1 近藤に戦力外通告 3シーズン未勝利
岡山商大から、17年ドラフト1位で加入した右腕。 清宮、村上を抽選で外した後の1位指名だった。
150キロ超の速球が魅力も、今季は6試合の登板で防御率5・40。 通算17試合登板で0勝4敗。
近藤は現役続行を目指し、トライアウトを受験する考え。 「3年間で一度も勝利することができず、
1位で入団したにもかかわらず、チームに貢献できなくて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
これからも頑張っていきたいと思います。いつも温かい応援、ありがとうございました」などとコメントした。
☆ ヤクルト 一筋14年の上田 まさかの戦力外に絶句 涙目で「整理がついていなくて…」
岡山・関西から06年高校生ドラフト3位で入団。
ヤクルト一筋14年の上田は主に代走や守備固めでチームを支え、通算797試合に出場。
今季は53試合で打率・125ながら、5盗塁をマークしていた。
思いもよらなかった非情通告。 上田は絶句し、ショックを隠せなかった。
球団からはスタッフや職員としての打診はなかったという。 突然の通告で、今後については白紙。
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☆ 来春センバツは有観客で開催準備 2万人程度を想定
高野連が来春センバツは有観客で開催準備を進めることが14日、分かった。
8月の甲子園交流試合は、部員・指導者の保護者・家族限定で観戦を認めた。
今後の感染状況次第だが、来春は約半分の2万人程度を想定し、全席指定とみられる。
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☆ 秋季高校野球 全地区大会終了 来春センバツ出場候補校出そろう
◎は確実、○は有力、△は微妙。 数字は地区の代表枠。
北海道(1)・・・◎北海 △旭川実
東北(2)・・・ ◎仙台育英 ○柴田 △花巻東 △日大山形
関東・東京(6)・・・◎高崎健康福祉大高崎 ◎常総学院 ○専大松戸 ○東海大甲府
△東海大相模 △鎌倉学園 △木更津総合 △国学院栃木
◎東海大菅生・東京 △日大三・東京
東海(2)・・・◎中京大中京 ○県岐阜商 △岐阜第一 △三重
北信越(2)・・・◎敦賀気比 ○上田西 △関根学園 △星稜
近畿(6)・・・◎智弁学園 ◎大阪桐蔭 ○市和歌山 ○京都国際 △智弁和歌山
△神戸国際大付 △天理 △龍谷大平安
中国・四国(5)・・・◎広島新庄 ○下関国際 △鳥取城北 △米子東
◎明徳義塾 ○聖カタリナ △小松 △鳴門
九州(4)・・・◎大崎 ◎福岡大大濠 ○明豊 ○宮崎商
△延岡学園 △具志川商 △神村学園 △東明館
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☆ 「斎藤佑樹」現役続行… すぐ首になる「ドラ1」、不振でも生き残る「ドラ1」の分かれ目
なかなか戦力外とはならない選手、その代表格の一人が斎藤佑樹(日本ハム)と言えるだろう。
プロ入り後、最初の2年間で合計11勝をマークしたものの、その後は故障もあって低迷。
10年目の今年はプロ入り後初の一軍登板なしに終わり、過去5年間で見てもわずか1勝に終わっている。
北方悠誠(唐津商→2011年横浜1位):3年。 野村亮介(三菱日立パワーシステムズ横浜→2014年中日1位):3年。
竹下真吾(ヤマハ→2014年ヤクルト1位):3年。 近藤弘樹(岡山商科大→2018年楽天1位):3年。
甲斐拓哉(東海大三→2008年オリックス1位):4年。 蕭一傑(奈良産業大→2008年阪神1位):4年。
松本竜也(英明→2011年巨人1位):4年 ※野球賭博により契約解除。
柿田裕太(日本生命→2013年DeNA1位):4年。
藤原紘通(NTT西日本→2008年楽天1位):5年。 川上竜平(光星学院→2011年ヤクルト1位):5年。
古川秀一(日本文理大→2009年オリックス1位):6年。 武藤好貴(JR北海道→2011年楽天1位):6年。
横山雄哉(新日鉄住金鹿島→2014年阪神1位):6年。
次にアマチュア球界で最も影響力のある東京六大学出身で、同じ期間にドラフト1位で入団した選手の在籍年数。
松本啓二朗(早稲田大→2008年横浜1位):9年。 戸村健次(立教大→2009年楽天1位):10年。
二神一人(法政大→2009年阪神1位):7年。 大石達也(早稲田大→2010年西武1位):9年。
伊藤隼太(慶応大→2011年阪神1位):9年。
このように実力の世界とは言われながらも、それ以外の要素も絡んでいるのがプロ野球の不思議なところでもある。
学閥、人脈などといったところは少なからず一般社会とも共通している。
しかしながら、最後に生き残るのはやはり力のある選手であることは間違いない。
年々苦しい立場になる斎藤を救えるのも斎藤自身と言えるだろう。
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☆ セ・リーグ 6球団の「ドラ1」の今季
巨人 堀田賢慎 投手 1、2軍出場なし
阪神 西純矢 投手 11試合登板、4勝3敗、防御率4.00 ※2軍成績
中日 石川昂弥 内野手 14試合出場、打率.222、0本塁打、1打点、0盗塁
DeNA 森敬斗 内野手 8試合出場、打率.250、0本塁打、0打点、0盗塁
広島 森下暢仁 投手 18試合登板、10勝3敗、防御率1.91
ヤクルト 奥川恭伸 投手 1試合登板、0勝1敗、防御率22.50
ずば抜けた成績を残したのが広島の森下。 シーズン通して先発ローテを担い、大台の10勝に到達した。
防御率は堂々の1点台でリーグ2位で、勝率.769と124奪三振はいずれもリーグ3位。
高卒5人の中では、中日の石川昂が最多の14試合に出場。プロ初安打、初打点を放ち、来季につながる爪痕を残した。
DeNAの森もデビュー戦となった10月27日の巨人戦でプロ初打席初安打を放った。
甲子園のスターとして注目を浴びたヤクルトの奥川は、チームの今季最終戦となった今月10日の広島戦で初先発。
2回9安打5失点とプロの洗礼を浴びたものの、貴重な経験を積んだ。
一方で、1軍出場なしに終わったのは2選手。 阪神の西純は2軍戦でマウンドを重ね、来季への土台づくりに専念。
巨人の堀田は入団早々に右肘の不安が露見。 4月に右肘内側側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けた。
今月3日には自由契約となり、育成として再出発するとみられる。
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☆ パ・リーグ 6球団の「ドラ1」の今季
ソフトバンク 佐藤直樹(JR西日本) 1軍出場なし。
ロッテ 佐々木朗希(大船渡高) 1、2軍ともに登板なし。
西武 宮川哲(東芝) 49試合登板、2勝1敗15HP。 防御率3.83。
楽天 小深田大翔(大阪ガス) 112試合出場、109安打、3本塁打、打点31、盗塁17。
日本ハム 河野竜生(JFE西日本) 12試合登板、3勝5敗。 防御率5・07。
オリックス 宮城大弥(興南高) 3試合登板、1勝1敗。 防御率3.94。
楽天が大当たり、新人王最有力。 西武が当たり。 オリックスの高卒、宮城は天晴れ。
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☆ 中日 ドラ1の高橋宏斗 球団史上最高年俸で仮契約
名古屋市内のホテルで入団交渉に臨み、契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1600万円(金額は推定)で仮契約した。
昨年11月に新人選手の年俸の上限が引き上げられたことから球団史上、新人最高年俸となった。
仮契約後、記者会見に臨んだ高橋は「やっと中日ドラゴンズの一員として、スタートラインに立ったなと思いました」と笑顔。
「1日でも早く、中日ドラゴンズの戦力となれるように。中日の日本一に一番貢献できる投手になりたい」と意気込んだ。
さすがにドラ1は夢のある金額だね。 福島君の仮契約も近日だろう。 契約金4千万円、年俸5百万円位か。
中日の育成ドラフト1位、札幌学院大・近藤廉投手(22)は支度金200万円、年俸300万円(金額は推定)で仮契約。
阪神の育成ドラフト1位、九産大・岩田将貴投手(22)も支度金200万円、年俸300万円で仮契約(金額は推定)。
育成だと1位でもサラリーマンと変わらない。 早期に支配下登録を勝ち取らないと3年で首切り、厳しい世界です。
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☆ わずか3年以内で戦力外となったドラフト1位
野村亮介 2014年、中日1位 3試合登板、0勝0敗、防御率10.13
静清高から三菱日立パワーシステムズ横浜(現・三菱パワー)へて入団。150キロに迫る直球と落差のあるフォークを
武器にエースナンバー「20」を背負ったが、プロ1年目は中継ぎでの3試合登板で防御率10.13。
2年目以降は右肩痛などで1軍登板なく、2018年から打撃投手に。
竹下真吾 2014年、ヤクルト1位 1試合登板、0勝0敗、防御率13.50
九州共立大からヤマハをへて25歳になる年に入団。1年目は故障や不調により1軍登板なく、2年目のプロ初登板では
2回2/3で2本塁打4失点を喫した。 3年目は再び1軍マウンドに上がることなく、現役のユニホームを脱いだ。
柳田将利 2005年、ロッテ高校生1位 1軍出場なし
青森山田時代に春夏合わせて3度甲子園に出場した左腕。1、2年目と1軍登板の機会はなく、3年目には野手に転向。
しかし故障の影響もあり、結局プロの世界では1軍出場を果たせないままNPBの舞台を降りることになった。
加藤高康 1993年、ロッテ1位 12試合登板、2勝4敗、1完封、防御率3.89
東海大からNTT東北(現・東北マークス)をへて25歳になる年に入団。ルーキーイヤーには9試合に登板して
1完封を含む2勝を挙げたものの、2年目は故障に苦しみ、わずか2年でチームを去った。
その後、レッドソックスとマイナー契約を結ぶも、メジャー昇格は果たせずに現役引退した。
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☆ ロッテ 佐々木朗希、リハビリ用メニューで 「さびしき二軍 “ぼっち”生活」
佐々木投手(19)の1年めは登板ゼロで終了。
さらに、11月7日には井口監督(45)から、「みやざきフェニックス・リーグ」への派遣見送りも明言されてしまった。
「監督は『状態が上がっていない』と話すだけで、何がダメかの説明もない。本当のことがわからない」(専門誌記者)
佐々木はシーズン開幕から、二軍登録のまま一軍に同行させる、異例の方針が貫かれた。
その一方、2020年1月に入寮した埼玉県内の選手寮で生活してきた。 同僚の多くは近所の二軍球場で練習、
試合に励んでいるため「ひとりだけ浮いている」という状況が続いてきたのだ。
11月10日、数人の選手と練習をともにしたこの日も、佐々木は “ひとり” 歩いて、二軍球場入りをした。
練習での佐々木はキャッチボールどころか、グローブすら持たない。 下半身強化中心のメニューだ。
野球解説者の江本孟紀氏(73)は、現状をこう推測する。
「投球練習をしていないのであれば、どこか重大な “欠陥” があると勘繰られても仕方ないでしょう。
佐々木については、僕はとても中途半端な状態になっていると思う。もし『大事に育てているだけ』というのであれば、
ロッテも『3年後の一軍登板を目指す。今は強化のとき』と、対外的にアナウンスすればいいことです。
それに、鍛えるといっても、ロッテの場合は大事にしすぎて、鍛えてすらいない。
厳しく鍛えると故障すると思っているから。 『プロに入ったなら、故障を怖がるな』と言いたいよ」。
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☆ 倉敷工・福島が仮契約 備前市出身、山本由伸を目標に直球で勝負
中日ドラフト4位、倉敷工・福島章太投手(18)が19日、岡山市内のホテルで入団交渉を行い、
契約金3500万円、年俸550万円(金額は推定)で仮契約した。
福島は憧れの先輩の名前を口にした。 備前市出身で備前中の4年先輩のオリックス山本だ。
「山本さんは備前中の先輩。 あこがれの選手です。 少しずつ追いつけられたらと思います。
スピードもキレもある投手。 目標にしたい」
山本には小学生時代から憧れていた。
「僕が小学生のときに、野球大会で見ました。 その時から山本さんは抜けていました」。
山本はオリックスに入団すると高卒1年目で先発初勝利。
2年目はリリーフとしてリーグ2位の36ホールドポイントと飛躍した。
3年目からは先発に専念。19年最優秀防御率、今季は最多奪三振を奪取し、パ・リーグを代表する投手として君臨する。
「高校卒業するまで150キロ投げる目標があるので、入寮まで体を鍛えます。 1年目から活躍できるようにしたい」
中学の大先輩と同じドラフト4位入団。 最速147キロ左腕は、同じスタート地点から先輩の背中を追いかける。
「真っすぐには自信がある。スピード、キレを磨いて勝負していきたい。先発にはこだわりがある」と決意を新たにした。
同期の高橋が注目を集めるが、16年小笠原以来となる球団高卒新人勝利をライバルより先に挙げ「由伸ロード」を歩む。
中日、野本スカウト 「パワーもあるが、手先が器用。 右打者のクロスファイアは素晴らしい。
しっかり才能を伸ばせば、球界を代表する投手になれる」。
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☆ 福島章太投手 誓った『巨倒』 地元岡山のレジェンド星野仙一さんのように「燃える男」になる (中日スポーツ)
日本一の投手を目指す左腕は、ドラ1位指名の高橋宏斗投手(18)との共闘を宣言。『巨倒タッグ』の結成を口にした。
指名あいさつで、地元の生んだ竜のレジェンド星野仙一さんの代名詞「燃える男」の継承を誓った最速147キロ左腕。
ドラ1右腕・高橋が「巨人はすごく強いチームで常に中日とはライバル関係だと思う。 しっかり勝たなければ」
と話したことに注目。 打倒・巨人に共感した。
どう倒すのか。 福島は「今の実力ではかなわないと思いますが、逃げずに気迫を全面に出して勝負したい。
高橋宏斗と切磋琢磨したいです」。 坂本、岡本、丸のクリーンアップに真っ向勝負を挑む。
同じ左腕の大野雄が残留を決めたことを受け「機会があれば、自分からいろいろ質問してアドバイスを受けたい」
とどん欲な姿勢を見せる。 「こだわりがある」という先発で、1年目からの活躍を誓った。
右利きの人の言語機能は、反対側の左脳に。 左利きの人の言語機能は、70%が左脳にあり、15%は右脳に、
後の15%は両方に言語機能があると言われている。
そんな関係もあるのか、福島君はしっかりとした受け答えが出来ているように思う。色紙も左手で器用に書いていた。
昔は幼い頃に左利きを無理矢理に右に直す親がいたが、稀な才能を持って生まれてきた子かもしれず、勿体ない。
左利きで右脳が発達している人の中には、スポーツや芸術に秀でた人が多い。
1年目からの活躍は、さすがに無理があると思うが、どんな成長を見せてくれるか楽しみです。
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☆ 広島・水本二軍監督流出、河田コーチ復帰のプラスマイナス
佐々岡監督(53)就任1年目の広島は5位に沈み、2年連続Bクラスに終わった。
1990年代終盤から2010年代序盤まで続いた“暗黒時代”を思わせる雰囲気の中、球団は来季に向けて首脳陣人事を進めている。
一見、地味な指導者の入れ替えだが、カープの将来に大きな影響をもたらしそうだ。
まず、実に30年近くに渡り、裏方や指導者としてファームを牽引してきた水本勝己二軍監督(52)が今季限りで辞任。
来季はオリックスに移籍し、一軍で作戦を担当するヘッド格のコーチに就任する。
私もよく取材させてもらったこの“縁の下の力持ち”の流出は、大変大きな穴となるだろう。
上は選手時代の佐々岡監督から、下はまだ二軍暮らしの中村奨成(21)や小園海斗(20)に至るまで、
いまのカープに水本の薫陶を受けていない選手はひとりもいない、と言っていい。
一時代を築いた黒田博樹(45)や新井貴浩(43)、堂々たる主力に成長した鈴木誠也(26)や大瀬良大地(29)、
最近台頭してきた西川龍馬(25)や坂倉将吾(22)らも含めて、全員が何らかの形で水本の指導や助言を受けて成長したのだ。
そんな自分の指導の信条を、水本はかつてこう話してくれたことがある。
「選手のレベルは初めて見たときにある程度わかります。 最初から一軍に近い力を持っているのがA。
一人前になるのに何年か時間がかかりそうなのがB。 プロでやっていくのはしんどいなというのがC。
ただ、たとえ最初はCでも、何かきっかけをつかんだ途端、Aに大化けする選手がいる。
新井がそうですよ。 彼がドラフト6位(1998年)で駒大から入ってきたときには、
まさか2000安打も打つようになるなんて、誰も想像できませんでした」
だから、いかにしてそういう「きっかけ」を見つけさせてやるかが大切だ。 あの黒田にしてもしかり、と水本は言った。
「本当に自分に必要なものは何か、最初からわかっている選手はほとんどいません。
誰もが指導者にやらされる練習から始めるんです。 それが何かのきっかけから、自分からやる練習に変わる。
黒田もそこから大投手へと成長していきました」
二軍の試合や全体練習のないシーズンオフも、水本は練習場に通い、若手の練習ぶりを見つめていた。
一昔前なら指導者が強制的に練習させ、口を出せば手も出すのが当たり前だったが、いまではそうはいかない。
自主性が重んじられる最近は、誰がきっかけをつかみ、誰がまだつかんでないか、
遠くから見極めるのもファームの指導者の重要な仕事である。
そうした中、極めて稀にではあるが、最初から「やる練習」を実践している選手もいた。
しばらく前なら孤高の求道者と呼ばれた前田智徳(49)、最近では正捕手の座を虎視眈々と伺う坂倉だと、水本は指摘した。
この水本の観察眼は指導者になる前、長年の裏方生活で養われた。
現役時代は捕手で、佐々岡がドラフト1位指名を受けた1989年、ドラフト外で松下電器から広島に入団。
一度も一軍に昇格できず、2年後に解雇されると、二軍監督・三村敏之(のちに広島監督、故人)に勧められて
ブルペン捕手に転身する。
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☆ 同上
当時のカープは投手王国である。 水本は北別府学(63)や大野豊(65)に、時に怒鳴りつけられ、
時に可愛がられながら、主力投手の個性を把握し、気分良く投げてもらうことに腐心した。
「ミットがいい音を立てない」と北別府に叱られると、密かに打撃マシンの球を受けて、
ミットをはめた左手の指の関節が外れるまでキャッチングの練習を重ねた。
そんな水本の熱心さを買った三村は、彼がまだ裏方だったにもかかわらず、コーチ会議に出席させて指導者修行をさせる。
そして、2007年にブルペンコーチ補佐に抜擢され、11年に三軍統括コーチ、13年に二軍バッテリーコーチ、
16年に二軍監督へと昇格。
一軍が2連覇した17年、二軍を26年ぶりの優勝に導くと、ファーム日本選手権でも巨人をくだして球団初の日本一を達成した。
つまり、水本はファームの指導者の最高のお手本であり、表から裏まで知り尽くした生き字引のような存在だったのである。
これほどの人材の流出が、カープにとって痛くないわけがない。
一方で、一軍には心強い人物が参謀として復帰する。
外野守備走塁コーチ兼三塁コーチとして、2016、17年の2連覇に貢献した河田雄祐(52)だ。
18年から今年までコーチを務めたヤクルトを退団し、ヘッドコーチ格で3年ぶりに古巣に戻ることになった。
河田が在籍していた2年間、「逆転のカープ」と呼ばれたように、後半に引っ繰り返すのを勝ちパターンにしていた。
その最大の原動力となったのはもちろんリーグ一の打線だが、それとともに足を使って相手バッテリーを揺さぶり、
プレッシャーを与えていたことを見逃してはならない。
当時、河田はよくこう強調していた。
「僕が選手としてプレーしていた頃のカープのように、とにかく積極的に走る野球を取り戻したい。
何でもかんでもゴー! とは言わないが、ランナー三塁で内野ゴロだったら、少々際どいタイミングでも突っ込ませます。
カープは何をやってくるかわからないと、敵にそう思わせたいですからね」
河田がコーチに就任して25年ぶりに優勝した16年、チーム盗塁数が前年リーグ4位だった80個から、
リーグ1位で唯一の3ケタに乗せる118個へと飛躍的にアップ。 2連覇した17年も112個で2年連続リーグ1位をキープ。
あの2連覇は、河田が積極的な走塁を推進した成果でもあったのだ。
しかし、河田がヤクルトに去ると、チーム盗塁数も18年95個(リーグ1位)、19年81個(同3位)、20年64個(同4位)と
年を追って減少。 19年からは優勝争いに絡めず、2年連続Bクラスと低迷している。
河田は、いまのカープにとって得難いムードメーカーになるだろう。 彼がコーチを務めていたころのカープは、
試合前練習の時間から、若手にゲキを飛ばす声がグラウンドに響き渡っていた。
まだ4番に定着する前の鈴木、控えでくすぶっている野間(27)にノックしながら、「前へ出ろ、前へ!」
「怖がるな、怖がるな!」「後ろに逸らしてもいいから思い切って突っ込め!」と声を嗄らしていたものだ。
16年にはCS直前の決起集会でサザンの『涙のキッス』を熱唱し、鈴木と野間がバックダンサーをやったこともある。
選手と一緒にここまで盛り上がれるコーチはなかなかいない。
河田が戻ってくれば、調子を落としている野間も復活するのではないか。 3連覇中にレギュラーをつかみかけながら、
そこで壁にぶつかり、19年には緒方前監督(51)に行き過ぎた体罰も受けて低迷。
今季は70試合出場に終わり、後輩の台頭もあって尻に火がついている。
しかし、河田は以前から、野間の足の速さと外野の守備力を高く評価していた。 実際、こう話していたこともある。
「守備力だけなら 誠也よりも野間のほうが上ですよ。 足はプロに入ってから速くなったし、守備範囲も広い。
彼をセンターに固定できれば理想的なんですけどね」
佐々岡監督の同期生だった水本二軍監督が去ったあと、河田ヘッドコーチがどのようにカープを建て直していくのか。
地味なようでいて、なかなか興味深い見どころだ。
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☆ ソフトバンク記録的爆勝! 日本シリーズ10連勝で2勝0敗 巨人シリーズ7連敗
第2戦 巨人2-13ソフトバンク (22日、京セラドーム大阪)
4年連続の日本一を狙うソフトバンクが2連勝発進。 2018年第3戦から続く日本シリーズ連勝記録を更新し「10」とした。
巨人は日本シリーズでは球団ワーストとなる13失点で2連敗。 13年から続くシリーズでの連敗は7に伸びた。
普段からパワーピッチャーと対戦し、力勝負を繰り広げているパの野球が、力の差をまざまざと見せつけている。
打者はスイングの強さ、速さ。 投手は腕の振りの鋭さ…。 その差が両チームの、そして両リーグの差になっている。
ソフトバンク・栗原が第1戦の3安打4打点の活躍に続いて、この日も5打数4安打。
1試合4安打はシリーズタイ記録で、6年目の24歳が常勝軍団をけん引している。
日本シリーズの歴代最高打率は2005年のロッテ・今江の・667。 栗原は8打数7安打で打率・875。
「毎打席集中して打席に入れた」と歴史的な打棒を見せる24歳から目が離せない。
2019年 ソフトバンク 4勝0敗 巨人
2018年 ソフトバンク 4勝1敗1分 広島
2017年 ソフトバンク 4勝2敗 DeNA
2016年 日本ハム 4勝2敗 広島
2015年 ソフトバンク 4勝1敗 ヤクルト
2014年 ソフトバンク 4勝1敗 阪神
2013年 楽天 4勝3敗 巨人
2012年 巨人 4勝2敗 日本ハム
2011年 ソフトバンク 4勝3敗 中日
2010年 ロッテ 4勝2敗1分 中日
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☆ 今季の全試合に出場した選手は10人
セ・リーグ全試合出場選手
丸佳浩(巨人) 京田陽太(中日) 村上宗隆(ヤクルト) 近本光司(阪神)
パ・リーグ全試合出場選手
中村奨吾(ロッテ) 浅村栄斗(楽天) 鈴木大地(楽天) 外崎修汰(西武)
源田壮亮(西武) 吉田正尚(オリックス)
全試合継続中の中で最長なのが楽天の浅村。 西武時代の2016年に全143試合出場を果たすと、
そこから5年連続で全試合に出場している。
浅村はパワーとバットコントロール技術、さらには勝負強さを兼ね備えたNPB屈指の強打者だが、
それ以上に全試合出場を続ける頑丈さも大きな武器。
日本記録は衣笠祥雄の17年連続だが、どこまで迫れるか期待したい。
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☆ ジャパンカップ 「プラチナチケット」に5万人が応募
ジャパンC(29日・東京)当日のJRAホームページ「指定席ネット予約」が、22日午後6時に締め切られ、
4384の席数に対して5万587人の応募があった。
芝G1最多8勝の現役最強馬アーモンドアイ(牝5歳、美浦・国枝)、
史上3頭目の無敗牡馬クラシック三冠馬コントレイル(牡3歳、栗東・矢作)、
史上初の無敗牝馬三冠馬デアリングタクト(牝3歳、栗東・杉山晴)の3頭が激突する注目の一戦。
現地で観戦できる“プラチナチケット”の競争率は11・5倍だった。
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☆ 中日・大野が初の沢村賞
沢村賞選考委員会が23日、東京都内で行われ、中日の大野雄大投手(32)が初受賞した。
中日では2004年の川上憲伸以来、9人目(11度目)。
堀内選考委員長は「菅野も数字は拮抗しているが、ベストワンは大野という意見が大半を占めた」と説明した。
「完投や完封などいろいろ加味して、先発完投型の賞にふさわしいのは大野となった」と語った。
大野は防御率1・82、10完投、勝率6割4分7厘で選考基準7項目のうち3項目をクリア。
両リーグトップの148イニング3分の2を投げ、最優秀防御率と最多奪三振の2冠に輝いた。
菅野も防御率と勝率の2項目をクリア。 両リーグ最多の14勝を挙げたが、届かなかった。
沢村賞の選考基準は15勝、150奪三振、10完投、防御率2・50、200投球回、25試合登板、勝率6割の7項目。
今季はコロナ禍で120試合となり、堀内委員長は「各委員の中である程度基準を下げている」と理解を求めた。
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☆ ソフトバンクが王手! 九回2死までノーノーリレー 日本シリーズ11連勝
第3戦、ソフトバンク4-0巨人 (24日、ペイペイドーム)
史上初となる2年連続スイープでの4年連続11度目の日本一に王手をかけた。
先発のマット・ムーア投手(31)が7回無安打無得点の快投。
打線では中村晃外野手(31)が先制2ランを含む3打点で打線をけん引した。
3投手の完璧な継投で、わずか1安打に抑えての完封。 日本シリーズ11連勝を成し遂げて王手。
日替わりでヒーローが出現する。 第1戦は栗原が大暴れ。 第2戦はデスパイネがシリーズタイ記録の1試合6打点。
そして、この日は選手会長の中村晃だ。 3回に2死二塁から右越え先制弾。
「追い込まれていたので、何とか低めのボール球を振らないように我慢しながら、最後の最後で甘いボールがきた」。
7回には貴重な追加点となる右前適時打も放った。
巨人はノーヒットノーランを免れるのが精いっぱい。
打線は3試合で計10安打、計3得点に対し、22失点と投打で圧倒されている。
4試合で終わった日本シリーズの最少は計4得点(2005年の阪神)、計22安打(05年の阪神、19年の巨人)。
「セvsパ」の構図で見ても、重たい現実が横たわる。
日本シリーズで、DH制が導入された試合でセ・リーグの球団はこれで20連敗。
2013年の第6戦で巨人が楽天に勝って以来で、このまま4連敗となれば7年間勝利から遠ざかる。
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☆ 木内幸夫さん死去 89歳、肺がんで… 取手二、常総学院率いて甲子園3度V
茨城の取手二、常総学院の監督として春夏通算3度の甲子園優勝を果たした木内幸男さんが24日午後7時5分、
肺がんのため茨城県取手市の病院で死去した。89歳だった。名将は娘夫婦ら家族に見守られ、静かに天国へ旅立った。
「木内マジック」で甲子園を沸かせ、高校野球界に一時代を築いた木内さん。89歳を迎えた今年は体調が優れず、
食欲が落ちた9月に病院の検査で肺がんが見つかった。 医師からは治療を勧められたが、
木内さんは「やり残したことはない。もう十分だ」と言って一切の治療を拒否したという。
木内 幸男 1931年(昭6)7月12日生まれ、茨城県土浦市出身。
土浦一で外野手として活躍し、卒業後も指導を続け53年に監督就任。 57年に取手二へ。 84年夏に初の全国制覇。
同年秋に常総学院の監督に就任し、01年センバツで優勝。 03年夏の日本一を花道に一度勇退したが、07年に復帰。
11年夏を最後に現場を退いた。 甲子園に春7度、夏15度出場し通算40勝は歴代7位。
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☆ 史上初! 2年連続 4連勝でソフトバンク日本一 日本シリーズ12連勝
第4戦、ソフトバンク 4-1 巨人(25日、ペイペイドーム)
4年連続11度目(南海、ダイエー時代含む)の日本一を決めた。 2年連続4勝0敗での日本一決定は史上初。
4年連続日本一はパ・リーグ球団初。 シリーズの連勝記録を12に伸ばした。
本拠地でのシリーズは11年第7戦から16連勝で、工藤監督は本拠地12戦12勝となった。
またクライマックスシリーズを含めたポストシーズン連勝は16に伸びた。
初回に1点を失ったが、直後に柳田が逆転2ラン。 2回にも甲斐が2ランを放って優位に立った。
先発・和田が2回1失点で降板したものの、2番手・松本が2回2/3を投げるなど、救援陣が盤石リレー。
3点差のまま迎えた9回、森が1死一、二塁のピンチを招いたものの、逃げ切った。
今シリーズは第1戦では成長株・栗原の活躍で巨人のエース菅野を攻略。
第2戦で打線が爆発、第3戦では投手陣が9回2死まで被安打0の1安打完封リレーを見せた。
第4戦の初回に先制された以外はリードを許さず、終始巨人を圧倒した。
巨人は史上初、2年連続でスイープされた。 日本シリーズ9連敗。
完膚なきまでに叩きのめされ、球団史に刻まれる屈辱的な大惨敗となった。
日本シリーズ史上ワーストの打率・133、計16安打。 計4得点(ワーストタイ)。
球界の盟主の座は、巨人からソフトバンクへ。 そんな思いを強くした日本シリーズだった。
日本シリーズ表彰選手 最高殊勲選手 栗原。 優秀選手 ムーア、柳田、中村晃。 敢闘選手 戸郷。
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☆ 王会長がV4支えた日本一捕手を激賞 「甲斐に賞がなかったから残念だったよ」
4年連続の栄えある「日本一捕手」となったソフトバンク・甲斐拓也捕手(28)が〝最高の名誉〟を授かった。
歓喜の瞬間を見届けた王貞治球団会長(80)は、扇の要として投手陣を好リードした甲斐を大いにたたえた。
MVPの栗原、優秀選手の柳田、中村晃らを挙げた最後に、王会長は満を持してとばかりに影のヒーローの名を挙げた。
「甲斐もよくリードして、ホームランも2本打ったしね。甲斐に賞がなかったから残念だったよ」と踏み込むほどの激賞。
さらにスポットライトを当てるべく「彼も自信を持ってね。 褒められない捕手がやっと、なんかこの頃、
新聞で褒められるようになったから良かった。 捕手はどうしても褒められることないんだよね」と、
シーズンを通しての正妻の功績を認めた上で労いの言葉を送った。
常に一軍だけではなく育成選手にも熱い視線を飛ばし、チームを隅々まで把握して名もなき功労者をたたえてきた王会長。
本質を見抜く確かな目があるからこそ、チームは常勝軍団へと育った。
甲斐にとっては、どんな名誉な賞よりも価値ある賛辞だった。
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☆ 【日本一独占手記】 ソフトバンク・周東 「今の自分は想像以上。でも僕の代わりはいくらでもいる」
1番打者に定着した周東佑京内野手(24)、レギュラーシーズンでは50盗塁をマークして育成出身初の「盗塁王」に輝き、
13試合連続盗塁の世界記録も樹立。 飛躍した鷹のスピードスターが本紙に独占手記を寄せた。
ファンの皆さん温かいご声援ありがとうございました。 僕にとっては初めてのリーグ優勝からの日本一。
達成感と感慨深いものがあります。 日本シリーズでは結果が出ませんでした。
柳田さんに「全然打てないです…」と打ち明けると「おまえはシーズンでちゃんと結果を残して貢献してきたじゃないか。
だから大丈夫だ」と声を掛けていただきました。
先輩方が伸び伸びとプレーできる雰囲気をつくってくださっていることに感謝しています。こうやって1年間試合に出て、
いろんな経験をさせてもらえたのは首脳陣の方や先輩の方々、裏方さんや支えてくださる関係者の方々のおかげです。
育成入団から3年、今の自分は想像以上です。 大卒の育成選手は一年一年が勝負で猶予はない。
昨春に支配下昇格しましたが、安堵する余裕はありません。 なぜなら、下からの突き上げがあるからです。
僕の代わりはいくらでもいる。 その思いはきっとこれからも変わりません。
リーグ優勝の際、王球団会長に「今年は何といっても周東」と名前を出していただいたことを知り、大変光栄でした。
「育成選手の活躍が後輩の励みになる」という言葉を聞いたこともあります。
王会長はファームの拠点がある筑後にも足繁く視察に行かれます。王会長をはじめ球団フロントの方々の「目」が育成にも行き届く。
「常に見られているんだ」という意識は選手にとって何よりの緊張感であり、モチベーションです。
施設を含め素晴らしい環境を用意していただき、自分の努力次第で上に行ける。 ホークスに入ったからこそ、
今の僕があると断言できます。 きっと目をギラつかせた後輩たちが、これからもどんどん上がってくるんだろうと思います。
だから、僕はそれに負けるわけにはいかない。激しい競争と周囲から受ける強烈な刺激は、ホークスの強さの秘密だと思います。
今年、僕は「変わりたい」と強く思いました。 一軍出場が増えると同時に新たな壁にぶち当たる。
1つ上に行けば次の壁があります。 変わらなければ生きていけない。
周囲を見渡せば、最高峰のプロ野球。 手本はいくらでもあります。 引き出しを増やすことは自分の財産。
行動するのは自分次第です。 僕が理想とする選手の一人が日本ハム・西川遥輝選手。
9月の札幌遠征の2日目に西川選手に「どうしてそんなに塁に出られるんですか。どういう意識で打席に入ってるんですか」
と質問しました。 時間に余裕がなく、遥輝さんが「分かった。また時間がある時に来て」と言ってくださった。
それで早く聞きたくて、翌日の試合前に直撃しました。 シーズン中ですし、言える範囲内でアドバイスを
くださった遥輝さんには本当に感謝しています。 いろんな人の視点や考えを知ることは、レベルアップのために大切。
僕も他球団の選手に声を掛けられる機会が増えてきました。
野球界の発展、個々が切磋琢磨する上で、できる範囲の交流はいいことだと思います。
コーチ陣の指導、使ってくださる監督のおかげで、大きな舞台で素晴らしい経験をさせてもらっています。
自分の武器を生かして、これからもチームに欠かせない存在でありたいと思います。感謝を忘れず、初心を忘れず。
これからも常勝ホークスの一員として、1つでも多くの勝利に貢献していきたいと思っています。
しゅうとう・うきょう=1996年2月10日、群馬県太田市生まれ。
東農大二高から東農大北海道オホーツクを経て、17年の育成ドラフト2位で入団。 19年3月に支配下昇格。
同年にチームトップの25盗塁。 第2回プレミア12で日本代表に選出。
今季後半はレギュラーに定着して打率2割7分、1本塁打、27打点。50盗塁で育成出身初の盗塁王に輝いた。
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☆ ソフトバンク 4年連続日本一 王会長は20年越しのONシリーズリベンジ、雪辱の味は格別だっただろう
孫正義オーナー(63)王貞治球団会長(80)のツートップは、念願の球界新盟主の座獲得へ偉大な第一歩を印した。
王会長にとっては悲願だった、2000年のONシリーズのリベンジでもある。令和新時代に2年連続の4戦全勝で日本一。
辛口の球界OBたちまでがそろって「ソフトバンクは飛びぬけた存在。投打共に別格の戦力を持っている。どこも勝てないよ」
と絶賛する。 まさにV9巨人以来の常勝軍団だと認知したのだ。
そんな強大なチームを作り上げたのは、孫オーナーの全面支援を受けた王会長に他ならない。
世界を相手にビジネスを展開する親会社トップは、球団オーナーとして「球団のことはすべて王さんに任せる」と明言。
実際に有言実行している。
04年にダイエーから球団を買収し第一にやったことは、王監督(当時)に「取締役球団副会長」「ゼネラルマネジャー」
兼務の辞令を出したことだ。 口先だけでなく実際に球団の全権を任せた。
王監督は素直に喜んだ。名刺にも「王貞治」の横に「監督」「取締役球団副会長」「ゼネラルマネジャー」の3つの肩書が並んでいた。
名刺を持った監督は珍しい。 「貴重品として保存するので1枚下さい」とお願いすると、照れながら手渡してくれた。
「監督の他にフロントの重要ポスト2つでは大変なのでは…」と言うと、こう一蹴されてしまった。
「大丈夫だよ。 球団副会長といっても平取締役だし、代表取締役じゃないからね。
孫オーナーからは『球団のことはすべてお任せする。 必要なお金はいくらでも出すし、
球団で儲かったお金を本社があてにすることはないから、すべて球団で使ってください』と言われたよ」
日本球界では異例の「お金は出すが口は出さない」孫オーナーと、王会長の最強コンビ。
当初は「ソフトバンクは巨人に代わる金満球団」と揶揄された時期もあった。が、今やエース千賀を筆頭に育成選手が看板になっている。
甲子園の優勝投手なのに「いきなり投手失格。一度もプロで投げないうちに打者転向させられたんだから」と振り返る世界の王は、
4年かかって一本足打法を完成させた努力の人。 そんな王会長にふさわしい育成選手が主力の最強ホークスだ。
今回の日本一は、球史に残るONシリーズのリベンジでもある。 昨年は巨人にストレート勝ちで日本一も、
完全リベンジにはならなかった。というのも、ソフトバンクは2年連続でリーグ2位からCS制覇で日本シリーズに進出。
「今季はリーグ優勝をして、巨人と日本シリーズをやって勝ちたい」と高らかに宣言してきた。
終生のライバル、長嶋終身名誉監督に対するリベンジは、リーグ優勝同士の対決でないと意味がない。
あれから20年後の雪辱の味は格別だっただろう。
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☆ 阪神が育てる社会貢献の伝統 コロナで表彰見送りの「若林忠志賞」
本年度の阪神「若林忠志賞」の表彰が見送られた。 例年11月下旬、この時期に開かれる球団納会で発表、表彰となるが、
球団本部長・谷本は「諸事情を勘案して今年に限り、取りやめることとしました」と話した。
事情とは、新型コロナウイルスの影響である。すべての球団役職員、監督、コーチ、選手ら150人ほどが一堂に会する納会も中止となった。
同賞は2011年、継続的に社会貢献活動やファンサービス活動に取り組み、野球人として優れた見識を持つ選手を表彰する制度として創設された。
毎年1人を表彰、賞金(100万円)と活動資金(100万円)を贈っていた。いわば、チームにおける「グラウンド外のMVP」である。
球団創設時からのエースで監督も務めた若林忠志(故人)の功績をたたえたものだ。
若林は戦後、タイガース子供の会(今の公式ファンクラブKIDS)を自費で創設、恵まれない子どもたちや各種施設を慰問、慈善活動、
ファンサービス活動も熱心に行っていた。
表彰は見送ったが「該当者なし」ではない。 球団常務・清水は「逆に表彰に該当する選手は多くいました。
選手たちのなかで、社会貢献やファンサービスの意識が高まっています」と話した。
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☆ オリックス 水本氏、梵氏、入来氏がコーチ就任
オリックスは26日、水本勝己1軍ヘッドコーチ(52)、梵(そよぎ)英心1軍打撃コーチ(40)、
入来祐作2軍投手コーチ(48)の就任を発表した。 来年1月1日付で着任する。
水本ヘッドコーチは、倉敷工から社会人の松下電器を経て89年にドラフト外で広島入団。
91年で引退し、07年から広島のコーチに就任した。
16年から2軍監督を務め、17年にファーム日本一にチームを導いた。背番号は88に。
「ポテンシャルの高い選手は多い。とにかくチームを強くする。うまくなれるようにしたいです」と、熱く抱負を語った。
広島2軍監督は異例の出世だったが、オリックス1軍ヘッドコーチはさらに出世、年俸もかなりアップ。
本人の努力も無論だが、良い星の下に生まれたのだと思う。
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☆ 【おかやま山陽】 堤尚彦監督に聞く! 中学球児が高校で活躍するためにすべきこと
Q1:軟式球児と硬式球児の違いはありますか?
軟式の選手は、学校の部活動で野球をしているので、学校と部活動の顔が同じ選手が多いです。
週に5日・6日の練習に慣れている気はしますが、瞬発的な体力がないように思えます。
硬式の選手は、学校と学校の部活動という感覚が薄い。 週に5日や6日の練習に慣れてない気がします。
身体はゴツいが、長くやる体力がありませんが、上でやろうという意識は高いです。
Q2:チームに軟式出身選手はどれくらいの割合でいますか? 7割が軟式の選手です。
Q3: 高校で伸びる選手の特徴は? 素直に心を開いている選手。 人に勝つより、昨日の自分に勝とうとする選手。
でもこれは指導者のエゴでしかなく、伸びないというのは指導者の引き出しの少なさと愛情不足だと思っています。
Q4: 中学時代に気を付けるべきことは?(食事、体作り、学校生活や私生活 etc)
大前提として野球を愛していることがあげられます。 次に早寝・早起きなど生活にリズムがある選手。
最近の食トレのように、間違って、食べ過ぎてブクブク太らないこと。
納豆やキムチ、ヨーグルトを食べて、腸を強くすること。 できれば、色々なスポーツをして、
何でも野球につながると思い、野球以外にも興味関心を持ってほしいです。
Q5: 中学生球児にメッセージをお願いします。
よく人間教育・人間力のために野球を教えるとか、教わるとか聞きますが、私にはよく分かりません。
なぜ、野球をやるのか… それは面白いからです。 だから49歳になっても、携わっています。
それぐらい面白いからです。 野球を愛せるくらい探求して下さい。
堤監督が中学選手を見る時のポイント
・目に飛び込んでくるか ・ユニフォームの着こなし ・顔、目つき ・三振やエラーした後の行動
・身体の大きさ ・スピード感 ・準備や片付けを率先してやるか ・声が出るか
野球が上手い下手に関わらず、“人間性”を重視しているおかやま山陽高校。
県内の中学野球関係者からも選手育成に定評があります。 監督以上に中学野球に詳しい小泉部長は
「自分ー野球=0のような選手になってはいけないですね。
野球がなくてもしっかり生きていける選手になることがまずは第一」だと話します。
斎藤コーチは中学時代からのウエイト練習に苦言を呈します。
「大事な成長過程の時に、器具を使って激しいウエイトはしない方がいい。 例えば足腰を鍛えたいなら、
友達をおんぶして坂道を走ってみるとか」。
器具を使わずいかに効率よく鍛えるかも大事なポイントかもしれません。
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☆ 鷹・周東の〝悲壮手記〟に虎衝撃! 矢野阪神3年目のテーマは「君の代わりなんて、ナンボでもいる」
意識を変えないことには本当にカヤの外…。4年連続日本一のソフトバンクを横目に、阪神は首脳陣が危機感を募らせている。
2年目を迎えた矢野監督(51)が日本一奪回を公言しながら、結果は巨人に7・5ゲーム差の2位。直接対決でも8勝16敗。
大惨敗した天敵が、2年連続で鷹軍団に〝スイープ〟されるなど、もはや実力差は簡単には計れない遠い存在になりつつある。
とくに衝撃的だったのは、本紙で掲載されたソフトバンク・周東佑京内野手(24)の独占手記。
「このチームに自分の代わりはいくらでもいる」との一文に、阪神二軍関係者らは感銘すら受けたという。
4年連続日本一達成チームの主力が口にしたのは、自らの居場所がいつ脅かされるか分からないという〝危機感〟。
周東だけでなく、和田投手(39)ら主要メンバーの主力勢も同様の発言をしていることに
「仮にも今年、ウチの一軍が日本一になって、これを言う選手がいるのかな?
これをウチのチームで身をもって経験してきている選手ってどれだけいるのかな?と」。
ソフトバンクのハイレベルなレギュラー争いの土壌を想像せずにはいられなかったからだ。
矢野監督は就任以降、自主性に主眼を置き、若虎たちに自力で地位をつかむことを促してきたが、
結果的にその流れがチーム成績に〝吉〟として反映された実証はない。
「3年、一軍でフルで出た選手って、今の一軍でもいないだろ? ある意味ではホークスの選手が言っていた
『代わりはいくらでも…』はウチでは全員に当てはまる」と、主力と言えども虎ナインは〝発展途上〟であることを
再認識させられるいい機会にもなったという。
「とくにファームにいる選手は考えないと。ある意味〝代えられる〟ポジションに一番近いことに変わりはないんだから」
日本一に近づくためには、まずは選手個々のメンタリティを変えていくしかない。
「君の代わりなんて、ナンボでもいるからね」。
首脳陣は封印していた叱咤激励の〝言葉のムチ〟を開放して、巨人の先にいるソフトバンクの背中を追いかけていく。
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☆ 〝絶対王者〟ソフトバンクに緩みなし! 工藤監督が、周東が、上林が口にする飽くなき向上心
14ゲーム差でパリーグを制し、4年連続で日本一に輝いたソフトバンク。
「日本シリーズ」では7・5ゲーム差をつけてセ・リーグを制した巨人を相手に、昨年に続いての4連勝だった。
まさに「鷹時代到来」を球界全体に、世間に、強く印象づけた。
センセーショナルな勝ちっぷりにセ・リーグを含めた他球団が圧倒的な「力の差」に危機感を覚えている。
その証拠に、他球団の首脳陣や選手の間からはソフトバンクを意識した発言が相次ぐ状況。
特にセ界では〝巨人のさらにその上に強大な敵がいる〟との認識がこれまで以上に広がり、球界内の「打倒ホークス」
「ソフトバンク包囲網」の構図は、より鮮明になっている。
すでに来季「日本一V5」に向けて始動している工藤監督(57)は、この状況をどう受け止めているのか。
指揮官は目を閉じ、背筋を伸ばすとこう言い切った。
「僕らは追われる立場というよりは、常にチャレンジしていかないといけないチーム。よりレベルアップできるように、
周りうんぬんよりも自分たちがレベルアップしていかないといけない立場だと思っています。
そのために来シーズンに向けた課題づくりをしっかりとやっていかないといけない」
日本一V4達成翌日には、午前中から一軍首脳陣と個別面談。
さらにその翌日にもトレーナーやコンディショニング担当らと面談した。選手個々のオフの課題をそれぞれ議論。
現有戦力の上積みに余念はない。追う立場のライバル以上の活発な動きで、V5に向けての下地作りを早くも本格化させている。
ナインも激しいチーム内競争を念頭に〝緩み〟を見せるどころか、気を引き締めている。
周東は「僕の代わりはいくらでもいる」と突き上げを覚悟し「それに負けるわけにはいかない」と守りに入る考えは一切ない。
また、レギュラー再奪取を誓う上林は「圧倒的な数字でしか黙らせることはできない。
そういう気持ちがなければ後退するだけだし、やめればいい」と、すでに猛練習を連日敢行している。
チームとしても個人としても、突き上げを食らえば食らうほど先んじようとするのが王球団会長が育んだ「常勝の魂」。
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☆ ソフトバンク・王球団会長の川上巨人流人事で“V9超え” 「オレくらいコーチを替える人はいないだろうな」
史上初の2年連続4連勝で巨人を下し、V9巨人以来の4年連続日本一を成し遂げたソフトバンク。
それなのに、王貞治球団会長(80)は秘蔵っ子の小久保裕紀氏(49)を来季ヘッドコーチに入閣させる。
ポスト工藤の布石と言われるが、実はV9川上巨人流の継承だ。
監督時代の王球団会長がコーチ陣人事に関し、こう自慢気に語ったことを思い出す。
「オレくらいコーチを替える監督はいないだろうな」と胸を張ったのだから、正直言って驚いた。
今回の小久保氏の入閣は、来季に向け改めて首脳陣、ナインの気の緩みを引き締めるための人事と思われるだろう。
ところが、監督時代からの王哲学を実行しただけなのだ。
しかも、不世出のスーパースターONコンビを中核にしたV9川上巨人流人事の継承でもある。
「川上さんは、頻繁に1、2軍のコーチ陣を入れ替えた。独自の川上流チーム活性術でコーチ陣はいつも緊張感を持っていた。
V9川上巨人の頭脳、作戦参謀と言われた牧野さんに対しても例外ではなかった」
V9時代を経験している巨人OBはこう語る。 機動力を生かしたメジャーリーグのドジャース戦法を取り入れるなど、
川上巨人のV9に多大な貢献をした牧野コーチだが、一度もナンバーツーの「ヘッドコーチ」の肩書はない。
牧野氏は「守備コーチ」か「守備・作戦コーチ」の肩書だけだ。 長嶋巨人誕生と同時に巨人を去った牧野氏は、
ある週刊誌上でV9巨人回顧談を掲載したが、その時の肩書が「前巨人軍ヘッドコーチ」だった。
「牧野さんはよほどヘッドコーチになりたかったんだろうな。 巨人OBでなく外様とはいえ、川上さんも罪作りだ」。
V9OBたちはこう同情したものだ。
そんなシビアなV9川上巨人のコーチ管理の流れをくんだ組閣を来季へ向けて王球団会長は進めている。
川上流継承でV9巨人超えを目指すのだから、これまたその結果に注目だ。
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☆ 馬力あふれる中日4位指名の大型左腕・福島章太(倉敷工)を徹底分析
この夏にかけて急浮上した左腕・福島章太。 最速147キロをマークする速球派として10球団が視察に訪れた。
数少ない左の速球投手として注目を浴びていた。
まず投球フォームを見ていくと、ノーワインドアップから始動する。
右足を挙げた時、左足の膝を適度に伸ばして、バランスよく立つ。 インステップ気味に踏み込む。
右腕のグラブを斜めに伸ばして開きを抑えていき、コンパクトなテークバックから投げ込む。
力強い腕の振りから繰り出す直球は敗れた試合で最速146キロを計測したようにおっと思わせる威力あるストレートだった。
両サイドへ適度に投げ分けができており、スライダーの切れ味も悪くない。
馬力あふれるストレートは威力抜群。 中日の環境でどこまで育つか楽しみな逸材だ。
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☆ 亡き親友と見た都市対抗… 中日・京田が遺族に伝えた想いと譲り受けたグラブを返す意味
三塁側スタンドに、背番号6のユニホームを着た家族を見つけた。 28日、都市対抗が開催されている東京ドーム。
中日の京田陽太内野手はゆっくり歩み寄り、距離をとって話しかけた。
特別な思いで過ごした2020年シーズンを終え、どうしても伝えたい思いがあった。
3か月遅れてプロ野球が開幕した6月19日。 前日届いたばかりのまっさらなグラブを手に、遊撃の定位置に立った。
これまで愛用していたものとは大きさも形状も違う。 「でも、不思議と怖さはなかったんです」。
ともに120試合を戦い抜いた商売道具には、自らの背番号「1」ではなく「6」と刺繍されていた。
今年4月、友を失った。青森山田高時代の2学年後輩だった中井諒さんが他界。骨のガンである骨肉腫が、23歳の未来を絶った。
桐蔭横浜大からNTT西日本へと進んだ遊撃手は、もちろんプロの舞台を目指していた。
「初めてショートで負けるかもって思った相手が、諒なんです」。 最大のライバルだった後輩が叶えられなかった夢を、
グラブを借りて一緒に背負う。 それが、せめてもの務めだと思った。
シーズンを終え、26日には秋季練習を打ち上げた。 都市対抗の日程表を見て、居ても立っても居られない。
「ちょうど行けるタイミングだなって」。 世の中の状況は気になったが、できる限りの感染防止策をして東京へ。
NTT西日本ナインを応援するためドームを訪れていた中井さんの両親に、頭を下げた。「1年間、諒に助けてもらいました」
今度は、京田が亡き友にエールを送る番だった。 その場で借り受けた中井さんのユニホームを着て、
スタンドからHonda鈴鹿との2回戦を見守った。 試合は7-2で勝利。 ベンチにも背番号6のユニホームは飾られていた。
「すごくチームの雰囲気がいいですね。 このまま勝ち上がりそうな気がします。 これも、諒の力ですかね」。
観客席へ一礼するナインに、立ち上がって拍手を送った。
少し離れた場所で、笑顔を見せる中井さんの両親。 わが子はグラウンドにいなくても、チームの勝利を心から喜んでいた。
その姿に、京田は堪えるのに必死だった。 自身も2児の父。親としての思いに、少しでも寄り添う。
「どんなに時間がたっても、つらい思いは消えないと思うんです。でも、こうして諒のユニホームを着てチームを応援することが、
また諒を思うことにつながるんですよね」
今季ともに戦ったグラブは、中井さんのもとへと戻すことにした。
「僕は諒の力を借りただけなんで、グラブが元気なうちに返そうかなって」
その代わり、来季用に新調するグラブに、思いを乗せる。 長女、長男の名前とともに「諒」の文字を刺繍する。
中井さんと同じ久保田スラッガー製で、年内には手元に届く。 またすぐ、新たなシーズンがやってくる。
「これからも一緒に戦いますよ」
ドームを出た京田に、秋の日差しが降り注ぐ。 2人の遊撃手を繋ぐグラブはきっと、頼もしいに違いない。
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☆ アーモンドアイがジャパンカップ優勝 コントレイル、デアリングタクト抑え
中央競馬の第40回ジャパンカップ(GⅠ)は29日、東京競馬場の芝2400メートルに15頭が出走して行われ、
単勝1番人気のアーモンドアイ(5歳牝馬、クリストフ・ルメール騎乗)が2分23秒0で2年ぶり2回目の優勝を果たし、
自らの最多記録を更新する芝GⅠ9勝目を挙げた。
無敗のクラシック3冠馬・コントレイル、無敗で牝馬3冠(桜花賞、オークス、秋華賞)を達成したデアリングタクトの
3歳勢との「3強対決」を制し、引退レースに花を添えた。 コントレイルは2着、デアリングタクトは3着だった。
優勝賞金3億円を獲得し、生涯獲得賞金は19億円を突破。キタサンブラック(18億7684万3000円)を抜いて歴代最高額となった。
払戻金 3連単 2-6-5 1340円 (1番人気)
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☆ 末恐ろしいソフトバンク 栗原でも周東でもなく… G党を驚かせた22歳の剛腕
「U-24」世代が熱い。
今シリーズの栗原の活躍は説明不要だろうし、育成ドラフト出身で初の盗塁王を獲得した周東、
そして鉄壁のセットアッパーとして君臨したモイネロ。 共通点は現在24歳であることだ。
これだけを見てもホークスの将来は明るいが、3人よりさらに下の世代にも逸材がそろっている。
今シリーズで印象に残ったのは第2戦。 石川の好投でもデスパイネの満塁弾でもない。
9点リードの8回に登板した22歳の杉山だ。
自己最速タイの157キロを計測した直球でガンガン攻める投球に球場からどよめきが上がった。
千賀に対する「やっぱり速いな」というリアクションではない。
「こんな生きのいい若手までいるのか」というG党の声が聞こえた気がした。
杉山だけではない。 投手陣でいえば23歳の泉、24歳の松本は今季ともに中継ぎとして安定した投球を続けた。
野手では23歳の川瀬が第2戦でシリーズ初安打を放った。
昨季大車輪の活躍を見せた甲斐野、高橋純は故障の影響で今季1軍の舞台に上がることはなかったが、
ともに24歳以下の世代。 V4を達成したホークスの未来に末恐ろしささえ感じる。
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☆ 長谷川勇也のヘッドスライディングに見たホークスと巨人、勝者のメンタリティの違い
第3戦の6回裏だったソフトバンクが2点リードのまま迎えた攻撃のイニング。 二死満塁。打順は7番の牧原。
シーズン終盤に調子を上げてきた左打者だが、工藤監督は動いた。 とっておきの代打、長谷川勇也の登場だ。
長谷川は2013年シーズンに198安打で最多安打、打率.341で首位打者に輝いた屈指の好打者である。
その翌年の終盤戦で本塁突入の際に右足首を痛めて以来、成績こそ落ちたものの、
ひと振りにかける集中力は健在のまさに"打撃職人"である。
決着は初球だった。 強烈な打球が一、二塁間へ飛ぶと、二塁手の吉川がダイビングキャッチ。
一方で長谷川は鬼の形相で一塁めがけて走った。
このシリーズで何度か送球ミスを犯した吉川だったが、この場面では一塁へ素早く正確なボールを送った。
長谷川は全力疾走の勢いのまま頭から突っ込んだ。
判定はアウト。 わずかの差で送球のほうが早かった。 沸き立つ巨人ベンチとG党たち。
ただ、まだ球場中の視線が集まっていた一塁ベースの少し先で、長谷川はしゃがみ込んだまま体を震わせて悔しがっていた。
その瞬間「ドスン」という音が聞こえた。 筆者はバックネット裏の最前列という良席で観戦していたのだが、
少なくとも長谷川までの距離は30m以上あったはずだ。 しかもスタンドはざわついていた。
それでも、長谷川が悔しさのあまり右手でグラウンドを叩きつけた音ははっきりと耳に届いた。
その姿に地元・福岡のソフトバンクファンは心打たれた。
7回表の攻撃が始まるところなので巨人の球団歌が流れだしたが、それをかき消すほどの大きな拍手がドームを包み込んだ。
この試合で唯一、巨人に流れがいきそうになった場面。それを食い止めたのが長谷川の気迫であり、ソフトバンクファンだった。
長谷川は前述したように走塁中にケガを負った選手である。 野球人生に狂いが生じたといっても過言ではない。
そんな選手が、そしてあれだけのベテランがひとつのプレーに全集中を注ぐ。 勝利を使命とし、勝つために何が必要なのか。
ソフトバンクはそれを全員が理解し、実行しているように見えた。 ソフトバンクに息づく勝利のメンタリティ。
南海、ダイエーと長かった低迷期を脱出した1999年以降のチームから代々継承されてきたものだ。
工藤監督は日本一決定後の記者会見でこのような話をしていた。
「ホークスは、王会長が強いチームにしたいという思いでつくられたチーム。それを秋山監督、そして私と受け継いできたつもりです」
ソフトバンクの強さの理由は、王イズムの浸透だ。 ただ、ふと思う。その源流は巨人だ。
V9というプロ野球史に燦然と輝くあの当時の巨人に息づいていた魂を、王会長はホークスに持ち込み、伝えたのだ。
だからこの両チームのメンタリティは同じはずだ。 しかし、今の巨人を見ていて、ソフトバンクと同じ魂は感じなかった。
これは想像にすぎないが、FA戦士をかき集めた時期に伝統の継承が薄まってしまったのではないだろうか。
本当の意味での「GIANTS PRIDE」をどこかに置き去りにしたままであるのなら、ソフトバンクの牙城を崩すのは容易なことではない。
来年はどんな顔合わせになるかわからないが、もっと胸熱くなる頂上決戦を期待したい。
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☆ 日本シリーズ 「4連勝で勝利」の歴史 ①
1959年 南海―巨人 総得点 南海22―12巨人
第1戦 南海○10-7●巨人 (勝)杉浦(敗)義原
第2戦 南海○6-3●巨人 (勝)杉浦(敗)藤田
第3戦 南海○3-2●巨人 (勝)杉浦(敗)義原
第4戦 南海○3-0●巨人 (勝)杉浦(敗)藤田
(MVP 杉浦忠) 最初のスイープも今年と同じホークス対ジャイアンツだった。
南海はここまで4回巨人と日本シリーズで対戦していたが、すべて敗退していた。
南海ナイン、鶴岡一人監督にとって「打倒巨人」は悲願だった。
南海は、エース杉浦忠が4試合すべてに登板し、圧巻の4戦全勝。
文句なしのMVPになった。 南海ホークスは御堂筋パレードで大阪市民と喜びを分かち合った。
1960年 大洋―阪神 総得点 大洋11―7大毎
第1戦 大洋○1-0●大毎 (勝)秋山(敗)中西
第2戦 大洋○3-2●大毎 (勝)島田源(敗)小野
第3戦 大洋○6-5●大毎 (勝)権藤(敗)中西
第4戦 大洋○1-0●大毎 (勝)秋山(敗)小野
(MVP 近藤昭仁) 2年連続で日本シリーズはスイープゲームに。 今度はセの大洋がやり返した。
前年最下位の大洋が新任の三原脩監督の「三原マジック」でセを制覇。その勢いのままにパの大毎オリオンズに完勝した。
すべて1点差の好勝負。総得点差はわずか4点だった。第4戦で決勝タイムリーを打った近藤昭仁がMVPに選ばれた。
しかし大洋は翌年、また最下位に戻るのだ。
1990年 西武―巨人 総得点 西武28―8巨人
第1戦 西武○5-0●巨人 (勝)渡辺久(敗)槙原
第2戦 西武○9-5●巨人 (勝)潮崎(敗)斎藤
第3戦 西武○7-0●巨人 (勝)渡辺智(敗)桑田
第4戦 西武○7-3●巨人 (勝)郭(敗)宮本
(MVP デストラーデ) 3回目のスイープは30年後。 西武は渡辺久信、渡辺智男が巨人を完封。
打ってはオレステス・デストラーデが16打数6安打2本塁打8打点、打率.375と活躍しMVPに選ばれた。
なお、第2戦の西武の先発は今年のソフトバンク監督の工藤公康、27歳。巨人の4番左翼は32歳の原辰徳だった。
2002年 巨人―西武 総得点 巨人29―9西武
第1戦 巨人○4-1●西武 (勝)上原(敗)松坂
第2戦 巨人○9-4●西武 (勝)桑田(敗)石井
第3戦 巨人○10-2●西武 (勝)工藤(敗)張
第4戦 巨人○6-2●西武 (勝)高橋尚(敗)松坂
(MVP 二岡智宏) 12年後に今度は巨人が西武に雪辱。
第1戦は同じ1998年ドラフト入団組の巨人、上原浩治と西武、松坂大輔の投げ合いになった。
工藤公康はこの年は巨人に所属し39歳だが第3戦に先発し8回自責点2で勝利投手に。
巨人の監督は新任の原辰徳だった。 MVPは19打数9安打1本塁打5打点、打率.474の二岡智宏だった。
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☆ 同上 ②
2005年 ロッテ―阪神 総得点 ロッテ33―4阪神
第1戦 ロッテ○10-1●阪神 (勝)清水(敗)井川
第2戦 ロッテ○10-0●阪神 (勝)渡辺俊(敗)安藤
第3戦 ロッテ○10-1●阪神 (勝)小林宏(敗)下柳
第4戦 ロッテ○3-2●阪神 (勝)セラフィニ(敗)杉山
(MVP 今江敏晃) ロッテはレギュラーシーズンは2位だったが、プレーオフでソフトバンクを破って進出。
そして阪神に大勝。 4試合制では最大の得失点差となる。 ロッテは阪神に一度もリードを許さず。
阪神のホームランは「0」。 これも日本シリーズでは唯一の記録。
MVPは15打数10安打1本塁打4打点、打率.667の今江敏晃だった。
2019年 ソフトバンク―巨人 総得点 ソフトバンク23―10巨人
第1戦 SB○7-2●巨人 (勝)千賀(敗)山口
第2戦 SB○6-3●巨人 (勝)高橋礼(敗)大竹
第3戦 SB○6-2●巨人 (勝)石川(敗)戸郷
第4戦 SB○4-3●巨人 (勝)和田(敗)菅野
(MVP グラシアル) レギュラーシーズン2位だったソフトバンクがCSで西武を破って令和最初の日本シリーズ進出。
巨人をスイープした。 菅野智之が腰痛のためCSでの登板を回避。日本シリーズも第4戦まで投げられなかった。
菅野は巨人3連敗の第4戦に先発したが、4回にグラシアルに3ランを打たれ敗戦投手となる。
MVPは16打数6安打3本塁打6打点、打率.375のグラシアル。
2020年 ソフトバンク―巨人 総得点 ソフトバンク26―4巨人
第1戦 SB○5-1●巨人 (勝)千賀(敗)菅野
第2戦 SB○13-2●巨人 (勝)石川(敗)今村
第3戦 SB○4-0●巨人 (勝)ムーア(敗)サンチェス
第4戦 SB○4-1●巨人 (勝)松本(敗)畠
(MVP 栗原陵矢) 新型コロナ禍でペナントレースは3ヵ月遅れ、公式戦の試合数も120試合に短縮。
巨人は社会人野球のため東京ドームが使えず京セラドーム大阪をホームグラウンドとした。
異例づくしのシリーズだったが、ソフトバンクが史上初の2年連続スイープ。巨人は屈辱の8連敗を喫した。
MVPは、14打数7安打1本塁打4打点、打率.500の栗原陵矢が選ばれた。
7回のスイープのうち5回はパ・リーグ球団が達成している。
最もスイープの回数が多いのは、ホークス(南海、ソフトバンク)の3回、スイープされた回数では巨人の4回が最多だ。
史上空前のV9を達成した巨人だが、昨今はパ・リーグに勝てない状況が続いている。
今年の巨人の完敗で、セ・パ両リーグの「野球の質」の違いが取りざたされている。
スイープが続けば、日本シリーズの存在意義さえ疑われることになろう。
巨人、そしてセ・リーグはドラスティックな改革に着手すべきではないか。
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☆ パ1位×セ2位、セ1位×パ2位の「たすきがけ形式」でクライマックスシリーズのさらなる活性化を
一案として、リーグの上位2チーム同士によるたすきがけフォーマットの可能性を考えたい。
今年を例に取れば、「ソフトバンク(パ優勝)対阪神(セ2位)」と「巨人(セ優勝)対ロッテ(パ2位)」の組み合わせでCSを戦い、
勝利したチームが日本シリーズに出場する、というものだ。
まず、各リーグのCS出場を2枠にすることで、勝利5割未満のチームが進出する可能性はほとんどなくなる。
ファーストS分の収益が減るとはいえ、CSの不平等感を最も強く感じさせるこの部分こそ、真っ先にメスを入れる必要があるだろう。
その条件を満たしたチームであれば、たとえシーズン2位でも日本一を争う力量と資格を備えていると考えたい。
仮にリーグ優勝チームが敗れたとしても「他リーグの2位より力がなかった」と折り合いがつけられる。
少なくとも、現行の制度のように、同リーグの順位が劣るチームに足元をすくわれるよりは、不条理感は薄れるのではないか。
このフォーマットでは、同一リーグの日本シリーズとなる可能性もあり、実現すれば70年にもわたって紡がれてきた日本シリーズの歴史、
さらに言えばセとパが歩んできた歴史は大きく変わることになる。
だが、それは同時にコンテンツの新たな魅力が開拓されることも意味する。
例えば、CSと頂上決戦の対戦カードが一新されることで“伝統の一戦”が日本一を懸けた舞台で開催されるかもしれない。
互いを知り尽くした相手とのマッチアップでは、シーズン中の戦いや相性がどれだけ反映されるのか、
あるいは個々の選手がどのように克服して臨むのか。 想定される対戦カードの幅が広がるというメリットもある。
メジャーリーグをはじめ、アメリカの4大スポーツはリーグチャンピオンを決めてから頂点を争うが、必ずしもそこに倣う必要はない。
NPB独自の文化を育むことにもつながる。 ここでは一案を述べたに過ぎないが、日本シリーズが終わった今こそさまざまなアイデアを
俎上に載せる絶好の機会であるように思う。
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☆ 「パはセより5年先を行っている」 ラミレス氏、両リーグの差を分析
今季までの5年間、DeNAで監督を務めたアレックス・ラミレス氏が、自身のユーチューブ公式チャンネルで
「パはセより5年先を行っている」などと両リーグの差について言及した。
パは「本当にパワーのぶつかり合い」とラミレス氏。 パの先発陣の70%が150キロ以上の球を投げ、
リリーフ陣にも球速150キロ以上の投手がいるため、パの打者は「スピードに慣れている。
日々、当たり前のように対戦し、打者も成長する環境にある」。
一方、「セの投手の60%は144〜147キロの球速で投球する」とし、交流戦でもパの打者に打たれることが多い傾向にあると指摘。
セの打者は150キロ以上の速球に慣れておらず、「メンタル的にもとても速く感じるため、対応が難しくなる」と話した。
ソフトバンクの強さについては「賢くゲームをコントロールし、肩が非常に強くてなかなか盗塁もできない」と評する甲斐捕手の
存在を挙げ、日本シリーズではパワー、スピード、投手力、経験値のいずれも「ソフトバンクに分があった」とした。
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☆ ソフトバンクはコロナ対策でも日本一だった! 週4回PCR検査
日本一となったソフトバンクはコロナ対策でも抜きん出ていた。
NPBから課された月1回のPCR検査とは別に、シーズン後半から行われていたのが、
実に週4回ペースで行われた球団独自のPCR検査だった。
「知らずに球団内で蔓延するのが一番危ない。感染者がいれば迅速に隔離しないといけない」(球団フロント)。
もちろん、日本シリーズ期間も遠征先に検査室を設置するなどして週4回行われた。
チーム内クラスターが発生してV逸したとしても、それを決して言い訳にはできない。
万が一にも見えない敵に足元をすくわれないためだった。
親会社が検査の事業を行っていることも大きかったが、選手は常に〝陰性確定〟の万全の状態でプレーできた。
絶対Vの意思の共有にもつながった。
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☆ 野村克也から甲斐拓也への手紙 「君はいい名前をしているな」 ホークスの歴史つなぐ超一流の名脇役
『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)には、甲斐への手紙も収められている。
そこにはテスト生から這い上がった自らと育成選手上がりの甲斐を重ね、母子家庭育ちという家庭環境にも共通項を見いだしている。
雑誌の対談などで顔を合わせたときに「野村さんの著書を読んで勉強させていただいています」と挨拶されたのも
すごく嬉しかったようだ。 その対談では2017年のDeNAとの日本シリーズが話題になり、
甲斐が「良かったことより後悔することの方が、ずっと印象に残っています」と打ち明けている。
本塁打を打たれた配球への後悔なのだが、野村氏はその反省する姿も気に入っている。「失敗と書いて成長と読む」。
野村語録でよく用いられる言葉を贈っている。祖父が孫を見るように、穏やかな顔で温かく包むようすが目に浮かぶではないか。
反省した2017年にV1。 18年は広島相手に甲斐キャノンが炸裂し、MVP。 19、20年と巨人に8連勝で4連覇。
野村氏から甲斐への「手紙」には、こう綴られている。
「キャッチャーは『女房役』であるがゆえ、『功は人に譲れ』というポジションなのだ。
あくまでも脇役。 主役になってはいけない。 手柄はすべて、ピッチャーに譲るんだ」
その上で「優勝チームに名捕手あり」「ソフトバンクに甲斐あり、なのだ。 そこは誇っていい」と伝えている。
そしてこんな一文で結ばれている。
「しかし、君はいい名前をしているな。 甲斐は『やり甲斐』『甲斐性』の甲斐。
ついでに言えば、『拓也』は少し『克也』に似ている」
拓也から天国の克也へ。 今年も勝ちました。 いい脇役であったと思います…。
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☆ 王イズムが築いた〝常勝ホークス〟 チーム内の競争が常態化
球団関係者は「王会長は本当に喜びの持続性が短い。勝って喜んでも一瞬で、すぐ『次が始まっている』と切り替えていく」と舌を巻く。
現在のV4チームに引き継がれているのが、この〝全員・王メンタル〟とも言える。
王球団会長自身がこう頼もしげに話していたことがある。 「うちのチームはその1年に勝っても、おごらずに『よし、やっていこう』
となれるんだよね。 僕自身も過ぎたことにはこだわらないタイプなんだけど。 人間そういう流れになっちゃうと案外ね。
流れを作ることには時間がかかったけど、こういう流れができてくると選手たちの気持ちも違うよね」
1年結果を残しても、翌年の立場が保障されない環境がチームにはある。 チーム内の競争が常態化。
ファームには下克上を目指して切磋琢磨する空気が根付いている。
この点も王会長が「ほかのチームに比べてファームの選手のやる気が違う。一軍の選手も下から突き上げられるから一服できない」
と胸を張るところだ。 チームに刷り込まれた一塁までの全力疾走や細かいプレーにおける凡事徹底は日本シリーズ中も光った。
そんな伝統を引き継いでいくためにも、次世代に向けた常勝化への作業も進んでいる。今季は〝王チルドレン〟の城島健司氏が
会長付特別アドバイザーとして球団入り。「この球団は王さんの考え方が根本にあると思っている。これを続けていかないといけない。
10年、20年、30年と続けていけるような手助けができれば」と話している。
決着後、王会長は「我々にはゴールがないんですよ。常に前へ前へ行くしかないんでね。次は2021年の戦いをどうするか」。
ナインを「大人」と表現して「彼らなりに2021年に向けて取り組んでくれると思う」とうなずいた。
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☆ 王会長 「パにとって良かった」 水島新司さんねぎらう
漫画「ドカベン」や「あぶさん」など野球マンガで知られる漫画家の水島新司さん(81)が引退することが1日、分かった。
所属事務所が同日発表した。「今日まで63年間頑張ってまいりましたが、本日をもって引退することに決めました。
これからの漫画界、野球界の発展を心よりお祈り申し上げます」とコメント。 引退の理由は明らかにしていない。
1958年デビュー。「ドカベン」「あぶさん」などで野球漫画の第一人者として活躍。
投球や打撃フォームのリアルさはファンを引きつけただけでなく、多くの漫画家が参考にした。
作品には実在のプロ野球選手が登場。 球界の信頼も厚かった。 出版関係者は「漫画家が引退宣言するのは異例。
野球に深く関わってきた人だから、選手のような引退宣言を選んだのかもしれない」と話した。
ソフトバンク王球団会長 よく応援していただいて、球場にも来られていましたね。 長い間、野球界に貢献してくださった。
特に南海とパ・リーグにとっては良かった。今のパ・リーグの隆盛というか、良くなったことをすごく喜んでくれていると思います。
今まで忙しすぎたでしょうから、少しのんびりしてください。
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☆ ソフトバンク 甲斐は日本シリーズ連覇 “陰の主役” 急成長の裏に「一通のファンレター」
MVPの栄誉は後輩の栗原に譲ったが、甲斐拓也(28)の尽力も忘れてはならない。
日本シリーズでは2本塁打を放つなどバットで活躍すると、
捕手としても4戦通してひとりで投手陣をリード、巨人打線を封じた。
中でも主力の坂本をシリーズ打率・214、岡本を同・077とシャットアウト。
坂本には昨年の日本シリーズでの内角攻めの効果が今回も生きていると知り、外角中心の配球。
岡本には執拗な内角攻めで打撃を崩させた。
今でこそリード面も高く評価される甲斐だが、かつてはそうではなかった。
ある球団OBは「盗塁阻止にこだわりすぎていた」と、こう話す。
「ちょうど『甲斐キャノン』ともてはやされていた時期ですね。 盗塁を刺したいあまり、一塁に走者がいると、
捕球した後に送球しやすいコースと球種ばかりを投手に要求しがちだった。
右打者なら外角の直球などです。 結果的にリードが単調になっていた」
そこから現在に至るまでは、本人の努力と研究もあったのだろう。 グラウンド外で苦い経験もしている。
前出のOBが言う。
「ソフトバンクも他球団と同じく、選手宛てのファンレターは球団職員がチェックしている。
中には誹謗中傷の類いもあるので、それを選手に見せないためです。
ただ、ハガキや封筒の数が多いとチェックもおざなりになる。 甲斐に届いてしまった手紙もそのひとつ。
筆跡や装丁などはどう見てもファンレターだったから、つい見落としてしまったようです。
手紙の内容は『ファンだからこそ言わせてもらいます』で始まり、リード面のダメ出し、批判のオンパレード。
さすがに甲斐もショックを受けたようです」。 一通のファンレターが甲斐の成長を促したというのだ。
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☆ 「上手くならないとやられる…」 鷹・柳田、日本一の歓喜の裏で感じる“危機感”
日本シリーズで打率.429、1本塁打、3打点を記録し、優秀選手賞を獲得したソフトバンクの柳田悠岐外野手。
試合後には日本一への達成感とともに、柳田らしい危機感も語った。
柳田は今季、最多安打のタイトルを獲得し、規格外の本塁打を何本もかっ飛ばしてきた。
4年連続日本一を決めたシリーズ第4戦では、先制された直後に逆転2ラン。
今年最後の打席となった8回裏には、右前打を放ち、個人的にも有終の美を飾った。
柳田は「いい1年になったかなと思います」と満ち足りた表情で今季を振り返る。
コロナ禍で12月直前のシーズン終了となったことに「疲れました」と本音を漏らしながらも
「チームみんなで喜べるのは幸せなこと。 リーグで優勝できて、その勢いでしっかり勝てたというのは
自信になりますし、達成感というのはすごいあります」と噛み締めた。
その一方で、来季の話になると「やっぱり、どんどんどんどん野球が上手くならないとやられると思うんで。
休んでまた始動する時から気持ちを入れ替えてやりたいなと思います」と語った。
柳田は、今シリーズが始まる前にも「イチからレギュラーを獲りにいきたい」と同じような危機感を口にしていた。
その背景には、昨年の故障経験がある。 4月の試合中に左膝裏を痛めて長期リハビリを強いられ、
8月にファームで実戦復帰した際には「治るかどうか分からない不安があった」と涙を流した。
改めて野球ができる喜びを実感したことで、それまでの実績をリセットし「上手くなりたい」という野球小僧の
原点に立ち返ることができたのだろう。
そして栗原陵矢がブレークしたことで、来季以降の外野のポジション争いはさらに激しさを増す。
上林誠知をはじめ、真砂勇介、佐藤直樹、柳町達らが虎視眈々とブレークチャンスを狙ってくるだろう。
もちろん、現状での“格の違い”は誰もが認めるところだ。
それでも柳田は「上手くならないとやられる」と本気で危機感を抱く。
対チームに関しても同様だ。王貞治会長が「来年は違った意味で強いジャイアンツが誕生すると思う。
そのジャイアンツをやっつけて勝つというのが我々の目標になる。 我々にはゴールはないんですよ」と語ったように、
チームとして頂点に立ち続けるために柳田は「野球が上手くなる」ことに貪欲であり続ける。
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☆ ソフトバンクの強さの神髄ここにあり! 王会長〝永久保存版スピーチ〟を全文公開 ①
ソフトバンク・王貞治球団会長(80)が2日、福岡市内で行われた球団納会で「鷹戦士の心構え」「常勝の真理」を
ナインに向けて異例の長さで熱く語りかけた。 〝永久保存版〟の王スピーチ。
直近10年で7度の日本一に輝いた強さの秘密が凝縮された球界必読の「王の教え」をノーカット公開する。
王会長 今年の優勝、(日本一)4連覇のことはもうはっきり言って過去のことになってしまって、
中には来季に向けてトレーニングを始めている人がいると思います。
いいことがあればあるほど『よし、もっとやるんだ』という気持ちになれる。
はっきり言って最下位になったらやる気なんかおきませんよ。
本当に勝てば勝つほど、素晴らしさを知れば知るほど『よし!またやろう』という気になるんでね。
ここにいるみなさんはそういう(勝てない)ことを経験していないから、今のように頑張れるのは当然だと、
そのように思えるいい時代に生きていると思います。
球団史には20年連続Bクラスの「暗黒時代」もあった。
「王監督」時代、負けグセが染みついた空気を一変させるエネルギーは相当なものだった。
ゆえに「今」をプレーする選手らに伝えたい思いがあった。
王会長 だからここであえて言いたいのは、レギュラーの人たちとか一軍にいた人たちは、
ほとんどそういったことはないと思いますが、特に若い人たちは、私は筑後に行って触れる機会が少ないのでこの場を借りて
話しておきたいのは、上手にしてくれるんじゃないんでね、監督、コーチは。自分が上手になるんだと、自分がね。
自分が監督、コーチの意見を聞きながら生かして、自分が上がっていくんだ、自力で上がっていくんだということね。
人が上げてくれるんじゃないんだと。
特に若い人が活躍してくれてこの何年間は育成上がりの人が活躍して、いいお手本になっている。
若い人たちも去年まで一緒にやっていた人が一軍で大活躍してテレビで騒がれて、そういったことを見たらそんな遠くないんだと、
もうちょっと頑張れば俺もいけるんだという、たぶん他の11球団の若い人にはない可能性を強く感じているんじゃないかと、
そのように思います。
だからこのオフ、他のチームの人以上に頑張れる。 そういう目標をしっかり立てて頑張ってほしいと思います。
最後はナイン全員に、今一度「プロ野球選手」である誇りを持って野球に向き合ってほしいと訴えかけた。
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☆ 同上 ②
王会長 せっかくこの世界に入ったんだから。 これだけの世界に入れなくて、
入りたくて入りたくて入れない人もたくさんいるわけですよ。
今日も都市対抗の野球をやっていた。 あの人たちも一生懸命同じ野球をやっている。
いつかは我々と同じ世界でやりたい思っていると思います。
そういうのを見て『負けるもんか』という新たな闘志を燃やしてやってほしいと思います。
我々プロは残念ながら余韻を楽しんでいる暇はない。 今年終わったらすぐ来年のこと、
今年よかった人はまた来年大変なんですよ。 今年と同じようないい成績が出せるだろうか。
今年抑えた相手の打者が自分をどれだけ研究してくるだろうか。
今年打った投手がどれだけ研究して自分に対して戦ってくるだろうかとか、そういう不安な気持ちはどんどん出てくる。
でもそれを取り除くためには自分を高めるしかない。
さっきも言ったけど、最下位のチームの人たちはどうやっていいかとか、なかなか自分の目標が立てにくい。
幸いホークスのみなさんはすぐ自分の目標は立てやすい。せっかくこの世界に入ったんだから、できなくてもいいけど、
とにかく自分の高い目標を立ててそれに向かって突き進むという人生を生きてほしい。
2021年もしんどい年だけど、最後にはやったと言える年になれるようにみんなで自分を高めましょう。
他の世界の自分の仲間たちの話を聞くと、ずいぶん人生楽しんでいるような感じがすると思う。
だけど、彼らはみんな(プロ野球選手のことが)うらやましいんだと。もっともっとうらやましがらせようじゃないか。
そういったところが我々の使命であり、この世界に入った以上、自分の意志では抜けられない。
前にいって自分を大きくしてどんどん振るいにかけられるんだけど、その振るいの穴は一年一年大きくなるからね。
だからその振るいから落ちないように自分を大きくするしかない。
この最後に、この堅苦しい話ばかりだけど、誰もやらないけど、これが「真理」ですよ。我々にとっては。
みなさんにやっぱりやらないといけないんだよ、というのを一つ伝えて私の締めの言葉にしたいと思います。
来年もここで、みんなでワーッと喜び合えるように、あしたから準備しましょう。1年間お疲れ様でした。
安住することのない鷹の競争社会。 そこに強さの理由がある。
熱い言葉で「常勝の真理」を説き、日本一5連覇を目指す鷹ナインの背中を力強く押した。
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☆ オリックス・ヘッドコーチ就任の水本勝己氏とは… 広島時代の苦労知るOB北別府氏語る
現役で1軍実績はないものの長年のブルペン捕手から指導者に転身。 2軍監督としてカープの3連覇を支えた。
同氏がブルペン捕手時代に現役、コーチだった北別府学氏に水本氏の人となりを語ってもらった。
社会人時代の実績はあまり知らなかったけれど、カープに入ってきてから1軍に上がることができなかった苦労はよく知っている。
そんな苦労人が、現役を引退してブルペンという違う形で私の現役時代やそしてコーチになってからは、
若手投手の球を受けて助けてくれた。
長い付き合いでオリックスのコーチ就任報道が出てから電話も入れた。 ウラオモテのない駆け引きをしない性格で、
どんな時にも大きな声で励まされたり助けられたりだった。 元気があり声を出してくれ、随分助けられた。
「シュート回転していますよ」「体が少し開いています」と指摘してくれた。
私も投げていてそうだったようにブルペン捕手のそんな言葉で調子の確認ができたものだ。
若い投手にはしっかりアドバイスを送っていた。
裏方に徹した人生だったが、途中からブルペンコーチ補佐、3軍統括コーチ、2軍バッテリーコーチそして2軍監督と指導者となった。
3連覇したときには2軍監督として苦労もあっただろうが、1、2軍のパイプ役としてチームを支えた。
2軍では伸び悩んでいる選手や育成段階の選手とどう接するかなど大変な重積だったと思う。
できあがった選手を伸ばすのは簡単だけど、伸び悩んでいる選手の殻を取り除き成長させなければならないのだから本当に難しい事。
ブルペン捕手としての経験が生かされたと思うし、懐が深く性格も柔らかいので選手との溝もなかったと思う。
今季も大盛、羽月、宇草の野手が1軍でプロ初安打を記録した。 球団の方針、選手の力もあるだろうが、
初球から打っていけという彼の教えがあったのかもしれない。 面倒見がよく責任感の強いいいスタッフだった。
コーチは自分でどうにもできないことがある。 教えた選手が結果を出さなければならない。
次の人生でカープで学んだことを生かしてもらえればと思う。 オリックスに行ってもあの性格だからチームになじむだろう。
電話でもアドバイスしたが、52歳とまだまだ若いのでブルペン捕手から2軍監督として指導した経験を他チームでも生かして
若手の育成に頑張ってほしい。 今後もプロ野球界に貢献する事を心から願って止まない。
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☆ オリックス 若手の甘さ 新任の水本、梵、入来コーチは変えられるか?
水本ヘッドと梵コーチは猛練習で知られる広島育ちで、巨人や日本ハムなどでプレーした入来コーチにも
常勝軍団であるソフトバンクでの三軍コーチ経験がある。
それだけに球団内では「若手の意識を変えてもらいたい。 ウチも強かったころは二軍の練習量もすごくて、
試合のための調整じゃなくて、午前中からキャンプのようなメニューをこなしていた。
いつからか練習量が減ってしまい、春季キャンプでも主力より若手が早く引き揚げたりしていた。
『オリックス野球クラブ』とはいっても、クラブ活動じゃないんだから。若い時に追い込まないで、いつ追い込むのか。
キャンプからガンガン鍛えてほしい」(フロント関係者)と新コーチに期待を寄せる。
中嶋監督は自主性を重んじて、効率的に練習させるタイプ。 その点についても「一軍レベルはそれでいいかもしれないけど、
若手は別。 そこをレベルアップできないから最下位になっている。 弱いんだからやらなきゃいけないし、
レギュラー争いに食い込むチャンスのあるチームなんだから」とみている。
「ポテンシャルの高い選手は多い。 どういうサポートができるか考えたい」(水本ヘッド)、
「早く選手の特徴を把握して整理したい」(梵コーチ)。
かつて広島OBの達川光男氏は現役時代に経験した春季キャンプでの練習の過酷さを「胃から汗が出る」と称した。
カープ魂注入で若手底上げとなるか注目だ。
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☆ 元甲子園球児が騎手に ばんえい競馬で栄冠目指す
ばんえい競馬(北海道帯広市)の新人騎手、金田利貴(かねた・りき)騎手(22)は、
15年夏の全国高校野球選手権大会に出場した元甲子園球児という異色の経歴を持つ。1日付で免許が交付され、
世界に1つだけの競馬で12日にもデビューする。 ばんばで栄冠を目指す元球児の意気込みを聞いた。
白球を追い続け、白樺学園3年時に甲子園で体感した情景を、今でもはっきりと覚えているという。
大会歌「栄冠は君に輝く」が奉唱されるスタジアム。 「歌詞の通りの光景が広がっていました。
あらためて、ここで生で見て、思いを込めた人たちが作られたのだなと感じました。
何度も耳にし、口ずさんでいる歌ですが、感動で鳥肌がたちました。貴重な経験をさせてもらいました」。
試合は下関商との1回戦では延長11回3-4でサヨナラ負けを喫した。 背番号は12。 出場機会はなく、
「悔しい思いが強い」と振り返る。 聖地での1勝はならなかったが、一生付き合える仲間という財産を手にした。
今でも当時のメンバーら同期24人の「LINEグループ」で刺激し合う。
その中には今年のドラフト4位でロッテ入りした河村説人投手(23、星槎道都大)もいる。
「進む道はそれぞれだけど、みんな負けず嫌い。誰かが何かで結果を出して盛り上がり、祝福はするけど、
次は俺たちだという気持ちが強くなります」。
札幌大に進学し、野球を続けたが18年9月に中退。調教師の父(48)のもとで厩務員となり、騎手への思いを強くした。
「うちには以前、インフィニティー(14年ばんえい記念馬、現種牡馬)というオープンがいて、
いつも子どもながらに格好いいと思っていました。 在学中もネットでレースを見ていて、
野球よりも馬への興味がどんどん強くなっていきました。 馬を扱ううちにレースでも乗りたいと思うようになりました」。
帯広の冬は氷点下20度を下回ることも珍しくない。「もう耐えて耐えて、我慢比べです」。
調教中には暴れた馬に引きずられ、レースに向かう際には体重1トンもの巨漢馬に腹部を蹴られ、救急搬送されたこともある。
「1分くらい息ができず、死んだと思いました(笑い)。 半年以上、蹄鉄の跡が消えませんでした。
でも馬を嫌いになりたくなかったので、すぐに病院から戻って仕事に復帰しました」。
野球で培った精神力と、筋肉のよろいに守られたのかもしれない。
野球少年だった06年。ばんえい競馬は存廃の危機に立たされていた。
「両親がいつも暗い顔をしていて、不安で毎日が怖かったことを覚えています。その中でも好きな野球をやらせてもらい、
両親と馬には感謝の気持ちしかない。 当時、存続に尽力してくださった皆さんに恩返しをする意味でも頑張っていきたい」。
5日に帯広競馬場で行われたお披露目イベントでは、自らがデザインした真新しい勝負服に身を包んで登場。
「スピード感をイメージしました。袖の部分は父が騎手時代のものを模しました」。「栄光に近道なし」と色紙にしたため、
ファンの前で決意を口にした。
泥くさく、愚直に勝利を追い求め、「どのレースでも乗った馬は、全部勝ちを狙っていけるジョッキーになりたい」。
グローブとバットを手綱に持ち替え“1頭入魂”の精神で栄冠を目指していく。
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☆ 【内田雅也が行く 猛虎の地】 江夏トレード通告5日前の笑顔 涙でタテジマと青春に別れ
江夏豊が女子高校生と一緒に笑顔でランニングしている。珍しい写真が本紙1面を飾ったのは1976(昭和51)年1月15日付だった。
当時、プロ野球選手1月恒例だった「始動」の光景である。オフシーズンの間、休んでいた選手が自主トレを始めるのが始動である。
オフも休まなくなった今では、この恒例行事もなくなった。
武庫川は江夏が暮らしていた西宮市若草町の自宅マンションから徒歩5分。 土手で体操をし、河川敷を走った。
同じくランニングしていた鳴尾高の女子生徒と出くわし、並んで走った。国道2号線、アーチが連なる形の武庫大橋が見える。
当時、江夏27歳。 阪神でプロ10年目を迎えようとしていた。 前年からトレードのうわさがたえなかった。
日本ハム・大杉勝男や南海(現ソフトバンク)・江本孟紀らが交換要員にあがっていた。
前年12月26日の契約更改交渉では金銭面の話は一切なかった。 移籍話の真偽を問う江夏に球団社長・長田睦夫は
「私の中にトレード構想はない」と繰り返した。
後に江夏が明かしたところによると、球団は放出を否定する一方で常務・鈴木が「他球団への呼びかけはするな」と命じ、
水面下でのトレード交渉を進めていた。
始動で汗を流せば、少しは心も晴れた。「阪神を愛している。入団当初は何にも考えず打倒ONだけ考えてやっていた。
あの頃が懐かしい。 もう一度あの気持ちに戻りたい」。 初心に帰っての再出発を誓った。
トレード通告は5日後、19日だった。 梅田の球団事務所に呼ばれた。
長田は「江夏がチームに溶け込もうとする姿勢が見られなかった。 江夏にもチームにもためになる」と言った。
移籍先は明らかにしなかった。
「応じるかどうか考えたい」と引退までよぎった江夏だが、後日、移籍先となる南海の監督兼捕手・野村克也と会い、
移籍を了承する。 野村は前年10月1日の広島戦(甲子園)で衣笠祥雄にフルカウントからわざとボール球を投げ、
空振りにとった投球術を見抜き、指摘した。 江夏の心に驚きと喜びがわき上がった。
ただ、26日の会見では「阪神は何も知らない僕を育ててくれた… 感謝している」と目を充血させ、涙声になった。
江夏から「阪神時代こそ青春だった」と聞いたのを思い出した。 青春時代に別れを告げ、新天地に向かったのだった。
あの武庫川で浮かべたのは阪神で最後の笑顔だった。 いま、河川敷では休日、多くの少年野球チームが練習をしている。
少年たちは武庫大橋を「メガネ橋」と愛称で呼んでいた。
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☆ 中日 ドラ4の147キロ左腕・福島章太が覚醒するまで
倉敷工・福島 章太、176センチ89キロの大きな体を目一杯使ったフォームからは147キロの速球に多彩な変化球が繰り出される。
中日の将来を背負う左腕にここまでの道のりを語っていただいた。
6歳のころから野球を始めた福島。 球界を代表する投手・山本 由伸(都城出身)も卒業生にいる備前中学へ進学すると、
部活動ではなくクラブチームの瀬戸内ボーイズへの入団を決意する。
現在プロで活躍する頓宮 裕真(岡山理大附出身)らを輩出する名門で、野手としてプレーする。
その後、いくつかのチームから誘いをもらいながらも「投手として育てたい」という高田監督の猛烈なアピールを受けて
福島は倉敷工への進学を決めた。
「中学でも投手は少しやっていましたが、やはり野手よりも楽しかったので、高校では投手一本で考えていました。
ですので、監督からのお誘いは決め手になりました」晴れて倉敷工の一員となると、最速142キロを計測する実力を評価され、
入学して1か月もすると、福島はAチームへ帯同するようになる。
本人も驚きの数字を出したことで経験を多く積むことが出来た一方で、福島の中では勘違いが生まれてしまったとのことだ。
「上半身主導のフォームが染み込んでいたのですが、スピードが出たことで、より速いボールを投げようと速度ばかりを
追い求めてしまいました。 その結果、上半身に負担をかけたフォームのまま投げ続けてしまいました」
先輩についていく形で、ひたすら走り込みをやっていたものの、上半身の力に頼ったピッチングをしていた福島。
それでも1年生の秋にはエースナンバーを背負い、先輩や指導者からも信頼される投手に成長する。
ただ大会は2回戦・玉野光南の前に敗戦。 結果を残せないまま冬を迎え、トレーニングに打ち込む日々。
この時も上半身を中心としたメニューを組み、下半身を疎かにしてしまったという福島。すると、転機は2度目の春に訪れた。
2年生となった福島はこの時に左ひじを疲労骨折する。 これまで上半身主導で投げ続けてきたことが怪我に繋がってしまった。
ここで初めて「投げるのは上半身だけではない」と言うことを実感したという。
それからはリハビリの日々。 回復を待ちながら下半身を重点的に強化。 体幹トレーニングにも力を入れるなど、
これまではランニング重視だったが、質にこだわるようになってきた。
「冬場にも下半身をやっていましたけど、筋力のバランスを見たら全然足りていませんでした。
その時は上半身をとにかく鍛えれば150キロに届くと思っていたので反省しています」
その後、2度目の夏は背番号13でベンチ入りするが、チームは準々決勝で岡山学芸館の前に敗戦。
ここから「学芸館を倒して甲子園に行く」ことを目標に定め、福島は新チームをスタートさせる。
そして秋は再びエースに返り咲き、春の選抜を目指す秋季大会に出場。 2回戦を打ち合いの末に勝利すると、
準々決勝で創志学園と対戦。 県内の強豪との対戦となったが、結果は2対4とベスト4進出とはならなかった。
甲子園出場へのチャンスは残り1回。 福島にとっての最後のチャンスとなる冬の練習だったが、
ここで福島は春に痛めた左肘の手術をすることを決意。 クリーニング手術で自分の骨を移植するというもので、
家族からは心配されたとのこと。
しかし、「怪我をする前より強くなって戻ってくる」という強い想いを持ち、家族から了承をもらい、無事に手術は成功。
再びリハビリ生活に入る。
「前から監督から『苦しいことを乗り越えないと、楽しいことばかりでは幸せは訪れない』という言葉をかけられていました。
自分はプロ野球選手になるという強い夢があったので、そのためにもリハビリから部屋に戻ったら左投手のトレーニングや
ストレッチの動画を見ていました」
リハビリ生活をプラスに変えようとしてきた福島。 2月ごろにはボールを投げられるようになり、3月には50メートルほどの
距離まで投げられるようになるなど、順調に回復してきた。 だが、新型コロナウイルスの感染拡大で春の大会は中止。
練習も自粛を余儀なくされ、自宅への帰宅も決まり、5月20日は甲子園中止が決まってしまった。
前編はここまで。 後編では最後の夏について、そしてプロでのビジョンについて聞きました。
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☆ 中日 ドラ4の147キロ左腕・福島章太のこだわり
5月20日に甲子園中止が決まり、チームメイトとともに甲子園の舞台に上がるチャンスを奪われた。
この出来事は福島にとっても大きな影響があった。
「3年間甲子園を目指してきたので、中止が決まった瞬間は何も考えることが出来ませんでした」
その時、福島の心を支えたのは周りの方々だったという。
「誰にも八つ当たりが出来ない中で、家族は引き続きプロ野球選手になる夢を応援してくれましたし、
1つ上の先輩からは『お前の目指す場所は甲子園だけじゃない』と連絡いただき力になりました。
チームとしての目標は無くなりましたが、自分にはプロ野球選手になる夢があったので、
それからは切り替えることが出来ました」
その後、各地で独自大会が開催されることが続々と決まり、岡山県も開催されることが決定。
仲間たちとの集大成の夏に向かって、福島は調整を続け、迎えた初戦は岡山学芸館。
奇しくも1年前の夏の大会で敗れた因縁の相手だ。
福島にとっては「学芸館を倒して甲子園」という言葉を胸に刻み、手術にリハビリなど乗り越えてきた。
そのリベンジとなることに楽しみも感じながらマウンドに上がるが、結果は1対4で惜敗。
この一戦を振り返り、「ベストにしようと調整はしましたが、
そこまで持っていくことが出来なかった準備不足だったと思います」と反省の一言。
悔しさを残したまま高校野球が終わったが、今年は違った。
8月にプロ野球合同練習会が開催されることが決まり、福島はそこに参加。2日間に分かれて開催され、
初日のブルペンではソフトバンクに指名された履正社・内 星龍とともにピッチング。
2日目には同期のスター選手たちを前にシート打撃に登板して結果を残した。
「甲子園に来た時は『仲間たちと一緒に来たかった』と思いましたが、レベルの高い投手から刺激をもらいました。
ただ出せる実力を発揮しながら楽しんでできました」
そして10月26日、福島は晴れて中日からドラフト4位指名を受けて夢であるプロ野球選手となった。
「5、6位と思っていたので、想像以上に高い評価をしてもらったと思います」と少し驚きの指名となった。
ドラフト後、周りからのメッセージを受けてプロになった実感がわいてきたという福島。
現在もグラウンドにきて練習するなど調整を続けているが、特に大事にしているのはキャッチボールだ。
「同じフォームで投げられるまで時間をかけてキャッチボールをしています。
絶対に上半身に負担のかからないフォームにしたいので、下半身主導のフォームで投げるように意識しています」
そこで大事になるのは2つ。 そのうちの1つが歩幅だ。 「自分は5.5歩です。 それで反足分だけインステップです。
どうしても小さいテイクバックなので、肘が上がり切るのが早くて、6歩だと連動性に欠けてしまうんです。
ボールに力をきちんと伝えるためにも5.5歩にしています。それで開きを抑えるために反足だけインステップにしています」
そして歩幅とともに福島が重要視するのが体重移動だった。
「軸足にきちんと体重を乗せたいのでノーワインドですが、体重移動の時は軸足に8割、
踏み出す足に2割くらいの割合で力を配分して、着地同時に地面をけるように前へ移動して体重移動をしています。
その動きに合わせて、上半身がついてくるようにして、下半身主導のフォームを作っています」
来年からは念願のプロ野球選手としての第一歩を踏み出す。
「全員が行ける世界ではないので、活躍するつもりです」と覚悟は十分できている。
そんな福島に倉敷工の3年間について語ってもらった。「後悔はありません。どんな時も一緒にできた仲間に感謝ですし、
ここで出会えた指導者の方々には自分の誇りなので後悔はないです」
大野(京都外大西出身)に小笠原 (東海大相模出身)など左腕から様々なことを学びたいとコメントしていた福島。
2度の怪我を乗り越えた男がプロの世界でどんな活躍を見せてくれるのだろうか。
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☆ 着替え、正座でテレビ越しに見守った母/星野氏編
プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。 第1弾は星野仙一氏(享年70)。
今回初めて本人が好んだ自室が明かされました。 リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。
ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。
父仙蔵の顔を知らず、母子家庭の女手で育てられた星野にとって、母敏子の存在は絶対だった。
姉の美和子は「母からは貧しいことはちっとも恥ずかしいことじゃないと教えられて過ごしました」という。
「当時の写真を見ているとはだしの子もいます。ご飯も麦ご飯で、それに塩かけて、白湯をかけて食べた。お弁当もおかずがなく、
麦ご飯に梅干しが1つあるだけでした。 でもちっとも苦にならなかったです。母が惜しみなく尽くす人でしたから」
後に幼稚園教諭に就いた美和子だが、音楽教育に必須のピアノがなかった。 すると敏子は自宅を売り払ってピアノを買い与えた。
「母は仙一にはどんぶりメシに山芋をすって、卵をポンと落として、きざみのりをかけてだしました。
当時は十分に卵なんて食べられない時代で、姉妹は1年に1、2回だったのですが、仙一には毎日、毎日だったんですよ」
美和子は公立幼稚園園長、新規採用教員指導員も務めた教育者で、親と子の養育に厳しい視点をもつ。
弟に注がれた母の愛情はプロ入り後の行動にも表れた。
「母に『これからナイターなのに着替えるの?』というと『仙一が戦ってるのにこんなかっこうでは応援できない』って。
だからわざわざ着替えて、テレビの前で正座して見るんです。
口数の少ない母で、仙一を叱ったことがないから、あんなふうになったんですよ(笑い)」
親分肌で人を引きつけた星野の才能はすでに高校時代に培われた。
「小さい頃からケンカが強かったけど弱い者いじめだけはしませんでした。
倉敷商は振り込みじゃないので月謝をもたせるんです。でも学校から2カ月も未払いだと催促の電話がきたと思ったら、
高校から帰る途中のお好み焼き屋に寄って仲間の全員におごってしまうんですよ。 結局、わたしが高校に支払いにいきました」
阪神監督としてリーグ優勝を決めたのは03年9月15日。 その2日前の13日に母敏子が天寿を全うした。91歳だった。
「星野の名前をだすと大変なことになると思ったので、わたしの名前(米谷)で一番小さな部屋を借りて家族葬にしたのです。
神宮、名古屋で負けた仙一は夜中に斎場にきました。 棺の前で1時間ぐらい座って泣いてましてね。
そして、わたしと妹がいる後ろを振り返って『姉さん、おふくろはきれいやな』と…」
星野はずっと泣きっ放しだった。 やっと斎場を去ろうとした時、次姉の須恵子がグイッと弟の二の腕をつかんだ。
「もう仙一はヨレヨレでした。 そして、わたしが声をだしたんです。『仙一っ、親が死んだぐらいでオタオタしなさんな!』と。
仙一はほんと悲しそうな顔で『姉さんら2人は強いなぁ』というから、わたしが『DNAは一緒よ!』と言い返したんです。
監督になってベンチを蹴ったり、扇風機を壊したりしたのは育ちですかね」
監督として「優しさ」と「厳しさ」を兼ね備えたルーツは生い立ちにあった。
最愛の母の亡きがらにしがみつき、心のなかで別れを告げた一夜明け、星野は甲子園の空に舞うのだった。
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☆ 初公開 “闘将”の野球人生凝縮した自室/星野氏編
その空間に入ると、今にも闘将がよみがえってきそうな気配がした。
星野仙一が逝って3年の歳月が流れようとしている。
その後“星野の部屋”が明らかにされるのは、これが最初で最後だ。
そこは“燃える男”の野球人生が凝縮していた。
大きな扉を開けてピアノの先にある焦げ茶色をした革のソファが指定席。
「ちょっと行ってくるわ」。 いつも食事を終えるとそう言って身を沈めた。
そこから左側の壁に明大監督の島岡吉郎と腕組みして言い合う興味深い写真が掛けられている。
倉敷商監督の矢吹がOBだった縁で明大進学。 当時の同大学でエースで主将は珍しかった。
母敏子の胎内にあった7カ月ごろに父仙蔵を亡くした。 島岡は「恩師」と敬い「オヤジ」と慕った存在。
付き人兼運転手で、スリッパをそろえ、ライターでタバコにさっと火をつける。
リーダーとしての処世術はこの時代が原点といえる。
プロ入り当時の監督は水原茂で、意外にも影響力が大きかったのは、ハワイ出身の日系2世、
巨人V10を阻止したウォーリー与那嶺だったという。
走塁技術、内外野の連係プレーなど近代野球の必要性を学んだ。
現役引退の際、中日オーナー加藤巳一郎から「地元で評論家をする必要はない。井の中の蛙だ。
東京で修行してこい」と勧められ、NHK、Number、日刊スポーツで解説、評論をする。
そのタイミングで出会ったのが、元巨人監督の川上哲治、藤田元司らだ。
全国紙大手の読売新聞が親会社だった名将川上は、中日新聞がバックの星野を受け入れる器を見せた。
中日監督に就く際、実績とふところの深さにあやかりたいと、川上と同じ背番号77をつけた。
部屋のソファから右斜めの壁には中日、阪神、楽天で優勝した星野が宙に舞っている。
監督1年目の1986年、ロッテから自身3度目の3冠王に輝いた落合博満を獲得し、中日牛島和彦、上川誠二、
平沼定晴、桑田茂を放出する1対4の世紀のトレードを成立させた。
39歳だった青年監督の挑戦。 世間を騒然とさせた当時、真夜中に電話を受けたある人は
「星野はびびっていた。 野球人生の大勝負だったんだろう。 興奮していたな」という。
阪神でも03年優勝の前年オフ、26人に及ぶ選手、スタッフの入れ替えを断行する。
粛正と大補強によってチームに息を吹き込んだ改革はトップの決断力がなければ結実しなかった。
コーチは「選手に嫌われてくれ」と引き締めた。 選手とのパイプ役として、参謀で腹心だった島野育夫は、
今もソファの隣で等身大パネルになってにらみを利かせる。
逆境に強い男。08年北京五輪はメダルなしで批判を一身に受けたが、13年楽天を率いて日本一を成し遂げる。
東日本大震災から2年後の奇跡はみちのくの希望の灯だった。
星野にリーダーの条件を尋ねたことがある。
「理論、ディスカッションで部下に負けてはいけない。 そして、リーダーに大事なのは『情』だ。
『愛情』『非情』『情熱』…。 あえてもう1つ言うと『恐怖感』だろうな」
たまにこの部屋でマイクを握った。 荒井由実の「卒業写真」だったかと思うと、高橋真梨子も歌唱した。
もうそのソファに主はいない。 そこに現れて座ったのは、1人の女性だった。
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☆ 病気の友をおぶって通学した日々/星野氏編
星野仙一氏はリーダーの条件は「情」であると語った。
本人が好んだ自室を訪ねると、その端緒を少年時代に知ることができた。
苦難のバックボーンの中、輪郭を現した「情」は太く、熱を帯びていた。
“星野の部屋”で向き合ったのは、長姉の(米谷)美和子だ。
焦げ茶色した革のソファに座ったその人は「なんだか落ち着きませんね」と
笑みを浮かべて最愛の弟、仙一を語りだした。
「母は四国などに行商に出ると1週間ぐらいは帰ってこなくなったんです。
今は子供3人を置いて家を空けるのは考えられませんが、そうしないと食べられなかったんだと思います。
でも母は仙くんとか、仙ちゃんとか言って、仙一には甘かった。叱られたことがなかったと思います」
1947年(昭22)1月22日に星野が生まれる前年10月、三菱重工水島の工場長だった父仙蔵が病死。
それまで社宅でそれなりの暮らしをしていたが生活は苦しくなった。
最後はもろぶた、トロ箱、げた箱まで売り食いしてつないだ。母敏子が行商に出るようになった。
7歳下の弟を育てたのが美和子だ。
「家に助産師さんが来られて母から生まれた時はうれしかったです。母の留守中は、わたしがおんぶをするのですが、
ピーピー泣くし、おしっこはするし、何度も蹴飛ばしたり、たたいたりしました。
それと母のお土産はいつも決まって1冊の絵本でした。
幼心にパンの1つでも欲しかったのですが、今振り返ると大切なことだったんだなと思います」
美和子が「仙一は正義感が強く、わたしと一緒で白黒はっきりした子です」と明かしたのは、
少年星野が通った大福田小時代でのことだ。筋肉が痩せていく病を患った同級生を毎日おんぶして小学校に通った。
「いつも早く家を出て行きましたね。定金君といって牛乳屋の息子さんで、仙一は勉強が終わってから野球をするので、
それが終わるまで近くにじっと座って待った。 高学年になると教室が2階に上がりますが、トイレは1階にしかない。
仙一は『我慢せんでええからいつでも言え』とおんぶして下りるんです。
おばちゃん(定金氏の母)に『みんなで代わる代わるやるから一緒に修学旅行に行こうや』と誘ってました。
プロ入りから星野君の姿をテレビで見るのが何よりの楽しみと話してたようですね」
美和子は短大卒業後、地元で私立の慈愛幼稚園に10年間就職した。 倉敷商から明大に進んだ星野に仕送りを続ける。
「当時のわたしのお給料は6000〜7000円ぐらいです。ピアノがちょっとできたので家庭教師もしました。
そこから送れるのは1000円ぐらいでしたが、仙一がとんでもないこと言うんです」
幼稚園の園長から前借りすることもあった仕送り金を受け取った星野はこう言った。
「姉さん、今のうちに俺に投資しとけ。そのうちにな、海の上にプール付きでガラス張りの家を建ててやるからな」
当時は大放言でも、海の上のプールとはいかないが、名監督までにのし上がった。
貧しくても星野は「夢」という言葉が大好きだった。
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☆ 「怖さ120%」でも強い母校、郷土愛/星野氏編
倉敷商元監督の長谷川登(69、同野球部OB会会長)と会ったのは、地元倉敷の郷土料理屋「浜吉」だった。
1973年(昭48)から33年間にわたって指導を続けながら母校を計7度の甲子園出場に導いた名監督だ。
星野が明大に在学した当時は東京6大学で春のリーグ戦を終えると、毎年母校に顔を出すのが恒例になっていた。
高校生だった長谷川が覚えているのは怖さの裏にあるこまやかな心遣いだった。
「田舎の高校なので、すべての練習を30球から40球のボールでこなしていました。
星野さんは大学の投球練習で使ったボールを汚いバッグにたくさん入れてくるんです。普通はそんなことしませんよ。
部長の角田さんから『星野が東京から持って帰ったボールじゃ』と言われて使うんです。
我々にとっては新球と同じなので驚きました」
星野からの毎度の“差し入れ”に長谷川ら部員は感動したのかと思ったら大違いだった。
「まったく感動なんかしなかったです。 だって怖さ120%でしたから(笑い)。
当時はそれ以外の感情の入る余地はありませんよ。 でもあんなことする人いませんよ。
母校愛、郷土愛の強い方だったなと思いますね」
長谷川が監督として初めて甲子園出場を果たしたのは79年、28歳の夏だった。
星野に報告すると電話口で一緒に泣いてくれたのだという。 2回戦で牛島-香川バッテリーの浪商と対戦。
ドカベン香川に右膝を地面に着いて左中間本塁打を打たれて敗退した。
また89年夏の甲子園で初のベスト8進出。 1回戦で強豪東邦を2-1で破ったが、
長谷川は翌日のスポーツ紙に掲載された中日監督だった星野のコメントに驚いた。
「正直勝てると思ってなかったんです。でも地元中日の監督なのに『愛知県の高校野球のレベルも上がったもんだな。
あの倉商に善戦したんだから』と言ってるんです。 こちらは大丈夫かなとヒヤヒヤしながらも笑いました」
星野は選手、コーチ、裏方の人たちや家族にも気を配った。
奥さんの誕生日を調べて感謝の言葉を添えたバースデーカードと花を届けるなどして心をつかんだ。
それはネックレス、腕時計、海産物であったりもした。
「勝ちにこだわる執念を感じたし、人をやる気にさせるうまさはさすがでした。
わたしもグラウンドでは厳しかったと思いますが、ユニホームを脱ぐと自分をさらけ出すようにしたんです」
長谷川も“星野流”をまねて3年生部員の誕生日にボールペンをプレゼントしてきた。
「別れ際には決まって『なんかあったら言ってこいよ』と言っていただきました。
親でも泣かなかったのに、星野さんが亡くなった後は1カ月ぐらい泣いてました」
“その気”にさせて統率する選手操縦術。 長谷川は「もうあんな人は出てこないでしょうね」ともらすのだった。
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☆ 「蟹の味 人の味」 教えには格別の味/星野氏編
北陸の冬はいてつく寒さだ。 食い道楽だった星野の愛した店が福井にある。 名店「寿し吉田」。
のれんをくぐると、大きないけすに日本海の王様、旬の越前ガニが泳いでいた。
1969年(昭44)5月5日、広島戦でプロ初勝利を挙げたのが、この地だった。
星野はプロ野球人生の出発点にできたなじみの店との“縁”を死ぬまで大切にした。
翌6日が新聞休刊日で、7日付の日刊スポーツに「さっそう神宮の心臓男」と見出しがついた。
試合前には「今日がぼくのプロ生活の勝敗を決めるでしょう」とコメント。
監督の水原茂に肩を抱かれた星野は涙を浮かべたという。
先代田畑清正から受け継いだ2代目秀雄(69)は「人の上に立つ人というのは、
こういう米びつの大きな方なんだろうと思いました」と長かった付き合いを振り返った。
作家司馬遼太郎も「街道をゆく 越前の諸道」に書き留めた老舗で各界の名士が集う。
秀雄は「お客さまのいやしにならないので写真、サインはお願いしないのが筋です」といった。
だが名物おかみの夫人通子(65)は1枚だけしまってあった写真を引っ張り出してきた。
亡くなる直前の殿堂入りを祝う会に招かれた際のツーショット写真だ。
また楽天監督を退任した後で送られた写真額の裏には筆書きでしたためられた。「蟹の味 人の味」。
通子は「今思えばきっと御礼の意味だったのかもしれませんね」ともらした。
中日、阪神、楽天を“星野流”で優勝に導いた。
「死ぬまで修行」という職人気質の秀雄は、鉄拳、信賞必罰といった人心掌握を自らの世界にだぶらせた。
「人によってはおだてて人を伸ばせというけど時間がかかります。
小さい店ではいきなり包丁持たないと仕事になりませんから。最初は細巻きだって、きちっとおさまらなかったり、
ひっくり返ったりします。
お客さまの前で叱られるのは恥ずかしいことだけど、説教されないと中途半端になります。
時には愛のムチは必要でしょうね」
01年オフ、中日から阪神監督に電撃就任する際に通子は手紙を送った。
「だいぶ迷っていたみたいなので、おせっかいでしたが 『人に必要とされるのは幸せよ』と書きました」。
ある年、星野が退場処分になった直後に店を訪れたときのことだ。
「わたしが『あんなに怒らんでいいんじゃないの?』と言うと 『あれはパフォーマンスだよ』とおっしゃった。
どうすればファンが喜ぶかを考えているんだなと感心したものです」。
殿堂入りパーティーの会場でファンに囲まれてサインをせがまれる田中将大が「ここは監督のお祝いの席ですから」
と断った光景に接した。 「えらいなと思いました」。 星野の教えには格別の味があった。
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☆ 福島章太 背番号64に決定 「大野投手のようにチームの戦力になれるように」
中日は11日、名古屋市内のホテルで新入団発表を行った。
最速147キロ左腕のドラフト4位・福島章太投手(18)、倉敷工高は背番号「64」に決定。
「責任感が湧いてきました。 右打者のインコースに入るストレートを評価してもらっているので、
大野選手のようにチームの戦力になれるように、早く若い背番号をもらえるように頑張りたい」と意気込んだ。
与田監督は「右に対するインコースのクロスの角度がいい。
本当に高校生かと思うくらい淡々とリズムよく投げて、安心して見られる」と太鼓判を押した。
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☆ 福島章太 ナゴヤドーム見学で気持ち新た 「早くあの舞台で投げたい」 寮から近いナゴヤ球場で猛練習だ
初めてナゴヤドームのグラウンドに立った福島投手(18、倉敷工)は「早くあの舞台で投げたい」と登板を心待ちにした。
投手有利といわれるナゴヤドームだが「そういうのは気にしない」と自身の持ち味を生かすことに専念する構え。
施設見学で印象に残ったのは寮と室内練習場がナゴヤ球場に近いこと。
「整った設備、場所で技術を高めたい」と猛練習で、まずは1軍初登板を狙う。
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☆ 表に出なかっただけ 実はデータ野球/星野氏編
星野氏の後援組織「夢の会」会長だったアシックス代表取締役会長CEOの尾山基氏(69)は、鉄拳で知られた星野野球を
「データ野球」と意外な見方をした。スポーツメーカーのトップは「浪花節だけではスポーツの一流の世界では勝てない。
勝ち続けるにはデータが必要だった」と分析した。
星野をバックアップした経済界トップの1人に、日本一のスポーツメーカー、アシックス代表取締役会長CEOの尾山がいる。
星野が他界する前年の17年11月28日に東京、12月1日は大阪で「野球殿堂入りを祝う会」が開催された。
いずれも発起人だった尾山は付き合いが深かった。
「パーティーの時、お尻が小さくなったし、会場からそっといなくなって、裏で休んでいると聞いた時、おかしいなと思っていました。
荼毘に付すとき、うちの上下白のジャージーに着替えて送り出されたとうかがいました。がっくりきました。つらいですよ」
星野との縁は創業者で義父の鬼塚喜八郎から受け継いだ。鬼塚は星野が阪神監督に就任した02年、吉本興業社長だった林裕章らと
後援会組織「夢の会」を立ち上げた。 尾山は09年に同会会長に就いた。
カリスマ経営者の鬼塚からは、星野について「普通の野球人じゃない。 深みと重みがある」と諭されていたという。
「とにかくさまざまな人脈でつながっていましたよね。だって日銀総裁の福井さん、三井住友銀行の西川さん、奥さんら歴代頭取と
さしで話すというし、昔でいう男芸者ではないですよね。
修羅場をくぐってるから右往左往しない、ドスが利いてる。 いろんな顔があったと思いますよ」
アシックスは戦後のまだ混乱期にあった1949年(昭24)に創業した。社員4人で起業した会社は、オイルショック、3社合併、
バブル崩壊、リーマン・ショック、海外市場の拡大、阪神淡路大震災といった数々の難局を乗り越え、
グローバルブランド企業で「世界のアシックス」に成長していく。
尾山は「逆境に強い男だったと思います」といった。「鉄拳」のイメージが強い星野野球だが、尾山の視点は意外だった。
「ぼくはデータ野球だったと思いますね。詳細は表に出なかっただけでしょう。浪花節だけではスポーツの一流の世界では勝てない。
気合だけでは勝てない。 また勝ち続けるにはデータが必須です」
アシックスがスポーツ工学研究所で取り組むデータ収集・分析に基づく商品開発は、アスリートの世界で高く評価されている。
石川県立金沢泉丘高校時代からバスケットボールを志してきた尾山は裏付けた。
「今ではバスケットボール、バレーボールもデータ管理をやってますが、野球も同じだと思いますね。
技術があってもデータがないと勝てません。 それが結果につながってモチベーションが上がっていくんです」
星野は喜怒哀楽をストレートに出すタイプのリーダーだった。尾山は「監督として頭の中にコンピューターがあったのは間違いないが、
それだけだと唯我独尊になるから、客観的データがいるんです」と持論を展開した。
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☆ 敏腕経営者うならせた03年V/星野氏編
アシックス代表取締役会長CEOの尾山氏(69)は、星野氏の組織づくりと自社のそれを重ね合わせて話を続けた。
星野は阪神を率いた03年に西の老舗球団を暗黒時代からV字回復させた。18年ぶりのセ・リーグ優勝。尾山は独自の分析をする。
「星野さんは奇跡を起こした。 長い間、優勝していなかったし、こちらは勝てると思っていませんでしたからね。
わたしは野村さんの“遺産”とうまくミックスしたんだと思います」三顧の礼を尽くして招聘した野村克也が3年連続最下位に低迷した。
後任に就いて再建を託されたのが、野村と同じ外様の星野だった。
「経営者にもありがちなのは前任者を否定して入っていくことなんです。でも星野さんは野村さんのチーム作りを受けて、
そこにいろんなものを足していったんだと思いました」
阪神1年目の02年は4位低迷。 するとそのオフ、26人に及ぶ選手、スタッフの入れ替えを断行した。
“星野流”の体質改善が翌03年のリーグ優勝の結果をもたらしたのだ。
尾山は「経営的にみるとすごいことですよ」という。 そして、1977年に伝説の創業者・鬼塚喜八郎がオニツカ株式会社と、
スポーツウエアが中心の株式会社ジィティオ、ニットウエアを手掛けたジェレンク株式会社の「3社合併」に踏み切った例を挙げた。
「鬼塚さんは旧3社の役員全員を平にして、新たに実力で昇進できるようにした。会社をうまく変えていって、組織を活性化していった。
星野さんの入れ替えも失敗すれば非難されただろうし、自信がなければできなかったでしょうね」
日本代表監督だった08年北京五輪でメダルなしに終わった。 日本野球の惨敗は批判を浴びた。
現地に赴いて星野ジャパンを視察した尾山は「体調が悪かったみたいで負けてしまいましたね」と振り返った。
90年代のアシックスはバブル崩壊後の景気後退で赤字を計上していた。 そのような状況にありながらも、
当時の尾山はウオーキング事業の責任者として同事業を収益の柱に育てた。 その後、欧州部門のトップとして現地に赴任後、
赤字に苦しんでいた同部門のさまざまな改革を強力に推進し、黒字化を達成するとともに成長軌道に乗せた。
02年には「オニツカタイガー」をファッションブランドとして復活させている。
「大きな壁を乗り越えてこなければリーダーは務まらないと思ってます。 難易度の高い大学を卒業し、MBAを取得し、
博士号を取ったからといって、いい経営者になれるかと言ったらそうではない。 大事なことは経験を積むことでしょうね。
失敗経験が成功戦略につながるんですよ」
北京で日の丸を背負って敗れた星野は、楽天で球団初のリーグ優勝、日本一で再び男になった。
殿堂入りを祝う会では「子供たちに野球のできる環境をつくりたい」と夢を語っていた。
アシックスは「侍ジャパン」のダイヤモンドパートナーになっている。尾山は「一般論でいうと少子化など厳しい面はありますが、
これからの子供は米国のように複数スポーツをやるべきかもしれませんね」と将来を見据える。
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☆ 「島岡御大」にたたき込まれた原点/星野氏編
星野にとって明大で同じ釜の飯を食った仲間の存在は特別だった。 団塊の世代で高度成長期を生き抜いた男たちは、
同級生で「二十歳の会」を結成。 一塁手の斉藤実喜雄は初めて星野と会った日を覚えていた。
「あれが星野かと思ったのは、当時の運動部はほとんど農学部で、生田キャンパスに試験を受けに行ったときです。
一番後ろに態度のでかいやつがいた。それが星野でした。 2人とも不合格で政経学部に入って4年まで一緒のクラスでした」
北海高の斉藤は1964年(昭39)、3度目の出場になった夏の甲子園大会の富山商戦で本塁打を記録。
東京・調布のつつじケ丘にあった明大の合宿所に入る新人は数人で、星野と斉藤は入寮を許された。
厳しい監督哲学は監督の島岡吉郎の教えに影響を受けた。「高田(繁)さんが4年だから、我々は3年だったと思いますが、
試合に負けた夜中にベルが鳴って集合がかかった。 グラウンドに出て各ポジションに座れと。
捕手のところで島岡も正座するから従わざるを得ない。 グラウンドの神様、申し訳ありませんと言って座り続けました」
最も印象に残っているのは68年4月27日、春のリーグ戦第3週初日の慶大戦。 5回表無死満塁。
慶応の9番田中を投ゴロに打ち取った星野は捕手に送球し、併殺狙いで一塁転送。 田中が一塁にフックスライディングし、
足をとられて転倒した斉藤がファーストミットで殴りつけた。 怒り狂った星野が田中をショートの方向まで追い回した。
「僕が殴った瞬間、星野はもうそこにいましたから。 走者がインコースに入って足を上げてスライディングしてくるなんて
あり得ないからカッとしたんでしょう。 星野は『バカヤロー』とかなんとか叫びながら田中を追い掛けた」
試合は5分間中断し、明大は1-2で敗戦。
島岡は「いい試合だったが負けては仕方がないよ。 もめたゲームはうちの選手がいけなかった」と語った。
「本来はタイムがかかってないから二塁走者は三塁を回ってホームに行っていいのに、あぜんとして棒立ちです。
だれかが『走れ、走れ』といって審判が気付いてタイムをかけた。 エースでキャプテンですね。
熱くなって、すぐ行動するのが熱血漢の星野なんですよ」島岡は2人を責めなかった。星野が正されたのは合宿所での態度だ。
「明治ではトイレ掃除は4年生がやるんです。 星野がそれをサボって、後輩にやらせたのが御大の耳に入ったんでしょうね。
たまたま仕上がりが良くなかった。 それで『今日の掃除当番はだれだ?』『私です』となった。
すると御大が星野にこうやってやるんだと、手で便器を洗うところを見せたんです」
監督、リーダーの本気さが選手に伝わって動く。 星野は「人間島岡」に教育の原点をたたき込まれた。
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☆ 怖い人間に対して人懐っこさがあった/星野氏編
今年1月、明大の同級生で作った「二十歳の会」のメンバーは、星野の墓前に手を合わせた。
「ちょっとすっきりしたかな」。遊撃手でコーチャーだった小菅隆夫(群馬・渋川高卒)は親友を懐かしんだ。
「眼光鋭く、何をやってもすごい。 でも僕はいっぱい遊んだり、宴会やったりとかのほうが思い出が多いです。
ケンカは同級生とはやらない。上とやる。 それにプロレスごっこが好きだったね。
仙ちゃんが一番強くて、あいつにかかると体をガタガタにされちゃうんですよ」
小菅が「懐に入るのがうまかった」と明かしたように、人の心をつかむのが巧みだった。
「御大(明大・島岡吉郎監督)も星野がかわいくてしょうがなかったんじゃないですかね。
俺なんか島岡さんの足音を聞いただけでびびった。 めんたまが血走ったような怒り方で怖いんです。
でも星野はさーっと入ってく。 怖い人間に対して人懐っこさがあったんでしょうね」
究極の“オヤジキラー”だった。 中日時代は、オーナー加藤巳一郎に、監督では中日水原茂、巨人川上哲治ら、
またトヨタ会長だった奧田碩、大京観光(現大京)創業者の横山修二ら、経済界のトップにもかわいがられた。
「あれだけの人脈ってなかなか作れませんよ。 人間としての基本的なものは御大に教わったと思います。
でもリーダーの資質を身に付けたのは世の中に出てからでしょうね」
会社経営に携わった小菅は楽天監督に就く際も相談を受けた。
政財界とのネットワークがリーダーとしての能力をさらに伸ばしたという。
同じ岡山出身で、自民党の大物として国政を先導した加藤六月は、大学時代から「オヤジ」と呼ぶ親密な間柄だった。
政界では安倍晋三ともつながったし、マスコミではフジサンケイグループ代表の日枝久らとも親交があった。
「選手、スタッフの人生相談、家の売却、女性問題、残務整理などアクシデントを解決するのは並の監督はできません。
監督だけでなく企業の経営者、政治家でも通用したでしょうね。 だってアンテナをいっぱい持ってた。
それにピンポイントが分かってて、それを間違わないんですよ」
星野の“別の顔”を知る小菅は軽井沢の別荘でコテを持って鉄板で焼きそばを作ってくれた背中が忘れられない。
「がんじゃないかなと思った」。 遊撃のポジションから見た気迫の後ろ姿を知るものとしては信じ難い現実だった。
別れ際に星野から言われた。 「バイバイ」。同期の桜。 「仙ちゃん、早すぎるよ…」。
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☆ リーダーが燃えれば部下も燃える/星野氏編
ネクシィーズグループ代表取締役社長兼グループ代表の近藤太香巳氏(53)は、星野仙一氏(享年70)と
07年10月に若いアスリートを支援する「ホシノドリームズプロジェクト(HDP)」を設立した。
19歳で起業し、ベンチャーの雄にのし上がった同氏は「リーダーが燃えれば、部下も燃える」と語った。
星野は野球人生の恩返しとして、ネクシィーズ近藤にスポーツを通じた社会貢献活動を持ち掛けた。
本気の若者を、本気で応援する人材育成プロジェクトを実施するため一般社団法人「ホシノドリームズプロジェクト」を設立。
星野がチェアマンで、近藤は企画・運営に携わった。
「監督と共感し合ったのは、マイナースポーツで好成績を上げてもスポンサーがつかない、金メダルをとっても遠征にも行けない。
そんな厳しい状況でも、実力は世界のトップレベルで戦える有能な選手や若者を応援しようというコンセプトです」
米国スポーツ組織などを体験する「スポーツビジネスインターンシップ」、団体・個人に資金、環境面で支援する「ドリームサポート」
の2つのプログラムに分かれる。 スポンサー企業を募って、国内外で活躍したスポーツ選手や、教育・スポーツビジネスに
精通した関係者をサポーターに招いた。
07年に星野と近藤は米大リーグ傘下でワシントン州にあったマイナーの1A球団を買収した。 2人が出会ったのはこの時期だ。
星野が「今の若者には修行、奉公がない」と出資したのも人材派遣と育成の一環だった。
大阪出身の近藤は高校を2度中退、19歳で営業拠点を高松に置き、50万円を元に「日本電機通信」を起業する。
携帯電話、衛星放送、インターネットをスピーディーに普及させた日本一の販売代理店と評価された。
34歳でナスダック・ジャパン(現ジャスダック)へ株式上場し、04年37歳で当時最年少創業社長として東証1部上場。
LED照明やウィズコロナ商材を扱うネクシィーズ・ゼロ事業、電子雑誌などのメディア事業を核とし、成長した。
「監督は、北京五輪で負けたときにものすごく落ち込んでました。
『野球なんかやりたくない。嫌いだ。もう2度とユニホームは着ない』と言ってたのに、楽天の監督になると言い出したのは驚きでした。
巨人に勝つのが一番のモチベーションだったんでしょうね。 実際に楽天は、東日本大震災の後でほんとに勝っていくわけです」
13年11月3日、日本シリーズ第7戦で巨人を3-0で下した。 9回は前の試合で160球を投じて敗れた田中将大を投入。
前夜、近藤は楽天オーナー三木谷浩史との食事後、帰り道に見つけた小さな神社に立ち寄って必勝祈願をしていた。
「あのタイミングでマー君をだして、『えーっ』と思いましたけど、マウンドからホームのほうに振り向いたときは“炎”がみえた。
もし負けたら監督がめちゃくちゃ責められるじゃないですか。 でもそれをやっちゃうところがあの人なんですよ」
近藤は「リーダーが燃えれば、部下も燃える。 僕は、監督の生きざまが大好きで、
以前に『お前みたいなやつが次世代の理想のリーダーだよ!』と言われたときは、本当にうれしかったですね」と話した。
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☆ 人を育てる勇気と愛情すごくあった/星野氏編
人を育てる勇気、愛情を知った。ネクシィーズ近藤がもっとも熱っぽく星野の魅力を語ったのは、野球ではなかった。
人脈でも、ビジネスでもない。
それは星野が急逝する前年の17年12月、都内ホテルで同社の創業30周年イベントを開催したときの出来事だ。
「その日はご招待してなかったのに監督が『お前の晴れ舞台やから、いくぞ!』と来てくれたんです。
お祝いの言葉を述べているとき、ちょっとおかしいなと思った。
後で聞くと車椅子に乗らないといけないくらいの腰の痛みがあったようです。
でもそんな姿を見せられないと車椅子に乗らず10分間も祝辞を述べてくれました」
星野は選手に対して「叱る」「褒める」のタイミングを見極めた。 それでいて「常におれはお前のことを見てるよ」
と思わせながら選手の心をつかむ。 近藤は社員とのコミュニケーションを円滑にする目的で食事会を開き、
成績優秀者制度「N1グランプリ」や新卒説明会も自ら行っている。
「僕は優しい上司というのをあまり信じないんです。ほんとに優しい上司は、その人のことを思って叱ったりする人。
厳しい人って本気ですから。 でも時にグッとくる優しさを出す。 そこには心がないとできません。
リーダーというのは、怒っても嫌いにならんぞと思わせる。 監督はそういう人でした」
19歳で起業し、グループ従業員1000人のトップに立つ。
全国4300人以上の会員を有する経営者交流団体「パッションリーダーズ」代表として活動。
星野から「お前の会社は仲が良く、競い合い、支え合って、それでいて戦っている。いいチームを作ったな」
と言われたこともあった。
「今どきの若者はとか、時代だからとかいうのが大嫌い。 そういうことを言った時点で理想を失うと思うんです。
おれたちはプロだと意識を強く持ってほしい。 だから当社は新入社員と言わず野球と一緒でプロ1年目というし、
ボーナスでなく利益還元金といって渡すんです」
星野とタッグを組んだ「ホシノドリームズプロジェクト」で若手アスリートを支援してきたが、
星野チェアマンが不在になるとスポンサーが減少した。
近藤はネクシィーズプロジェクトの社会的責任として星野の意志を受け継ぎ、運営を継続している。
亡くなる前、近藤の携帯電話に普段は言われたことのない「ありがとう」とメールが入った。
「今のコロナ禍においても、感染者数が多くなってきたと連日メディアが報道するだけでは、
政治、経済、社会全体のスピードが落ち、進化しないし生き残れない。
企業には、発想も、ビジネスモデルも大事です。でも何が一番大事ですか? と聞かれたら、人なんです。
人を育てる勇気と愛情を持つ。星野さんにはそれがすごくあった。だって僕がこんなにもあの人のことが大好きだから」
その熱い言葉には、逆境を乗り越えてきた男の矜持があった。
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☆ あきらめちゃいけない かき氷の教え/星野氏編
楽天を球団初のリーグ優勝、日本一に導いた星野仙一氏(享年70)の「最後のマネジャー」になった楽天・松原健太郎氏
(42=営業本部営業第3部部長)もがん克服と闘ってきた。 あきらめない心、勝負に対する執念に闘将を見た。
杜の都、仙台は夕方になってしぐれた。 “最後のマネジャー”になった松原と会った。
「一緒にがん克服と闘ってきました。
最後のほうはおこがましいですが、一緒に病気と闘う仲間、チームだったと。 はい。そう思ってます」
前任者の河野亮(ロッテ打撃コーチ)、小池聡(楽天広報部長)から引き継いだのは14年(平26)のシーズン後だ。
15年にシニアアドバイザーから取締役副会長に就任。
翌16年に膵臓がんが発覚する。 当初の診断は膵炎だったが、病魔は進行していた。
松原はトップシークレットの中で、事実を知った数人のうちの1人だ。 仙台市内に出てチケット販売に回った後、
打ち上げの場に関係者から入った1本の電話。 その後のことは記憶にない。「たぶん、真っ青だったと思います」。
翌日以降もスケジュールを調整し、送迎運転手を務めた。 星野の口から打ち明けられることはなかった。
松原も説明を求めない。 互いの無言が、これから病気と闘っていく2人の固い契りだった。
「たまに『いててっ…』と言っても、ぼくにはどうしようもなく、見てるだけで…。 心中測りかねますよね。
つらかったです。 もともと痛いだの、かゆいだのと表情にださない人じゃないですか。
でも監督のときの迫力のあるイメージが強かったので、素というのか、より人間くさいところを見せてもらった気がします」
星野が抗がん剤治療をしている時期だった。 そばにいた松原は突然、かき氷を食べたいと言われた。
「なにか冷たいものを口の中に入れたいみたいでした。 カップのかき氷みたいなやつです。
なんとかというレモン味のかき氷が食べたい。 あれじゃなきゃダメだとおっしゃったんです」
松原は12月の都内を車で走り回った。 何軒もコンビニ、スーパーを回ったが冬季は在庫が少ない。
約2時間後、それらしきものを見つけて買って帰った。
星野 これじゃないんだ。
松原 でも監督、ありません。 半径20キロにある店を回ってもなかったんです。
星野 ないことはない。お前は探したんか? あれが食べたい。 なんとかレモンが食べたいんや。 もっと、さがせ。
松原は部屋を出て再び街を約2時間さまよった。 「あった、あった。 サクレのレモン味があった」。
それを見つけて持ち帰ったとき、時計の針は午前0時を回っていた。
「『監督、ありました』と言ったら、『なっ、あっただろ』といってニヤッと笑うんです。 そしてうまそうに食べた。
2つほど食べたんです」
ささやかなできごとが、松原にとっては大切な経験則になった。
「こんなちっちゃなことですが、わりとぼくの人生の教訓なんです。 あきらめなかったら絶対ある。
ちょっとやってダメだからと、あきらめちゃいけないという教えですよね」
あとで後悔しない生き方を、1つのかき氷が教えてくれた。
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☆ ノート2冊にびっしり “星野の考え”/星野氏編
星野氏の人心掌握術を間近で見てきたのは、楽天・松原健太郎氏(42=営業本部営業第3部部長)だ。
余命を知らされた最後のマネジャーは、約3年間仕えた“星野の考え”をメモに残していた。
松原は星野が亡くなるまで、球団に関する日程を調整し、身辺を支えた。
個人事務所の『オフィス1001』と情報共有し、1枚のスケジュール表の中で動いた星野のすべてを知った男だ。
「ぼくの親戚も膵臓がんで、ごそっと痩せて亡くなっていたので、正直、やばいなと思いました。
本人も腹の中ではそう思ったと思います。 でもあらゆる医療の最新技術で、なんとかなるんじゃないかと…。
ぼくが星野氏の関係者から聞いたのは『半年かも』『明日かも』『いつどうなるかわからない』という説明でした」
松原への取材はここでいったん止まった。 しばらく沈黙が続いた後で「しゃべっていいですか」と切り出された。
「昔話をすることが多くなりましたね。倉敷の小学校の同級生に会いたい、小さい頃に行ったあそこに行ってみたいとか。
今までたくさんやってきたから死んでもいいというんじゃなくて、やっぱり長く生きたい気持ちがすごく強かったと思います」
楽天の秋季キャンプでは松原の運転で倉敷市の水島地区を巡回した。「この用水路はもっと水があって泳いだんだけどな」。
少年時代をなつかしんだ。
シーズン終了が近くなると、星野のもとには引きも切らず電話が入った。
「各球団のコーチ、選手から、引退、退団などの連絡が頻繁にかかってくるのですが、これがものすごい数なんです。
次の就職先のお願いには『わかった』とか、『期待せず待っとけ』と言ってましたね。でも突き放しはしない。
来る人は絶対突き放さない。
自分を慕って、ちゃんと対応する人は絶対ほったらかしにしないし、頼られたら絶対やる。すごいと思いました」
「どんなに怪しい記事を書かれても、そういう媒体の記者からも好かれるってなかなかいませんよね」と少しだけ笑った。
マスコミは敵にあらずと、人対人で付き合った星野の処し方だ。
都内のかかりつけの病院とマンションの往復は、人と顔を合わせない裏動線を使った。
気力を振り絞る星野につく松原も、身を削る思いだったに違いない。
「『お前は湿布を貼るのだけはうまいな。 お前の湿布はしわができない』と言われました。 うれしかったです。
怖いお父さんみたいな感じでした」
松原は約3年間仕えたことをメモに残していた。
チーム編成をはじめ、慶弔供花の送り先、星野がもらす格言的な言葉までつづられた。
コーチ人事は「7対3の割合で、7が球団OB、3がOB以外が理想的」と指針を示すなど、
A4ノート2冊に“星野の考え”がびっしりと書き込まれた。
メモの日付は17年12月21日とある。星野が都内で知り合い4人とそば屋で会食した翌日、松原は羽田空港で見送っている。
「最後まで静養先のハワイに行きたいなと言ってましたね。ぎりぎりまで行く予定でしたから、残念だな、残念だなって。
たぶんできる治療は全部やったと思います。 『また来年な…』って言われたような気がします」
14日後、急逝。 すぐ駆けつけた松原は、徒歩で自宅周辺をパトロールした。
「マスコミにかぎつかれてないかと思ったんです」。 最後まで筋を通し、忠義を尽くした。
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☆ ナゴヤD、来年から「バンテリンドーム ナゴヤ」 97年の会場以来初でセ2球団目
中日が本拠地にしているナゴヤドームの命名権を興和が5年間取得することで合意したと発表した。
これにより、来年1月から名称が「バンテリンドーム ナゴヤ」に変更される。
略称表記は調整中で、正面の案内看板などに名称が掲示される。ナゴヤドームは「『バンテリンドーム ナゴヤ』は、
当地にある唯一のドーム球場のイメージにもあった素晴らしいものであると確信しております」と期待した。
ナゴヤドームは収容人数49427人で、両翼100メートル、中堅122メートル、外野フェンス高4.8メートル。
セ・リーグの球団の中でも最も広い。 1997年3月の会場以来、命名権を導入するのは初めて。
セ・リーグでは、広島の本拠地「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム 広島」に続き、命名権を導入したのは2球団目。
パ・リーグではソフトバンク、ロッテ、西武、楽天、オリックスの5球団の本拠地で命名権が導入されている。
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☆ 中日の「福」選手は2人増えて5人 福谷浩司「そこは特に…」 オフは米セレブ流行“タバタ式”トレ
先発本格転向イヤーで8勝(2敗)を挙げた中日・福谷浩司投手(29)が20日、ナゴヤ球場で自主トレした。
トレーニングルームにこもった右腕は、米国セレブで流行するトレーニング法「タバタ式」を取り入れたことを明かした。
タバタ式は立命大・田畑泉教授が提唱。米国で流行り、逆輸入した。サッカー元イングランド代表デービッド・ベッカムや、
俳優ヒュー・ジャックマンらも取り入れている。20秒の強度の強い運動と10秒の軽い運動を1ラウンドとして8ラウンド。
計3分50秒という短時間で大きな効果を得られる。
福谷の目的のひとつは筋持久力の向上。定期的に通う「みどりクリニック」(津市)で知識を得た。
11月に血中の酸素濃度を調べ、来年1月に再計測。トレーニングの効果を検証するという。
この日は、エアバイクを20秒こいで10秒休む繰り返し。心拍数を上げ、全力でこいだ。
「長いイニングを投げたいです」。今季14試合で92イニング。1試合当たり6・6イニングだった。
一方、大野は平均で7イニング以上投げた。完投勝利を来季の目標のひとつに挙げる福谷。新トレーニングで一皮むける。
来季、チームには名字に「福」の付く選手が5人となる。
福田、福谷、福、ここに14年ぶり竜復帰の福留、ドラフト4位・福島(倉敷工)が加わった。
福谷は「そこは、特にコメントはありません」とニヤリ。 「福ファイブ」の躍動がV奪回につながる。
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☆ 福島章太、中学の先輩山本由伸に追いつけ! 目指すは日本一の投手 【新時代の旗手2021】
福島は岡山県東部の備前市で育った。 左利きだと分かった母・明子さん(45)は、やや戸惑った。
人口約3万人の、のどかな風景が広がる街。「右利きに変えたほうがいいのかな」。
左利きへの抵抗が一瞬だけ頭をよぎり、夫の一生さん(43)に相談した。
「自然のままに、このまま育てよう」。 あるがままを優先した。
器用に育った。 左手でそろばんの玉を弾き、右手でペンを握る。
左手でも文字を書けるが、習字は止め、跳ねがあるから右手。 必要に応じて両手を使い分けた。
もしかしたら、サッカー少年になっていたかもしれない。
「大好き」(福島)という3歳上の兄・啓太さん(21)は幼少期、野球よりもサッカーを好んだ。
野球へといざなったのは野球アニメの「メジャー」。
野球を選んでほしい明子さんによる、リモコンを使ったちょっとした操作だった。
「倉敷工野球部出身の夫が社会人でも野球を続けていました。子どもには野球をやらせた方がいいのかな、
という気持ちがありました」。 アニメの影響も手伝い、啓太さんは野球を選んだ。
福島も弟・貫太さん(16)も自然と野球のボールを握った。
備前中では瀬戸内ボーイズに所属した。 「とにかく食べさせられました」と福島。 昼食は白米2合。
練習日でなくても白米をかき込んだ。 量は苦にならない。
父と同じ「倉工」へ進んでからは「何を食べるかを考えました」。
タンパク質や脂質、食材を考え176センチ、88キロの体をつくりあげた。
出身の備前中からは直近の5年間で3人が球界の門をたたいている。
2017年はオリックス・山本由伸、19年は同・頓宮裕真。 そして、福島。
頓宮のプロ入り時は激励会に出席した。 同じ投手の山本には憧れを抱く。
「山本由伸さんに少しずつ追いつけられたらと思います。 目指すのは日本一のピッチャーです」。
山本はルーキーイヤーに登板5試合で1勝1敗。 まずは、そこを目指す。
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☆ 常勝ホークス築いた王貞治監督の招聘 球団史上最大の任務は月イチの “サシ飯“
2020年のプロ野球はソフトバンクが圧倒的な強さを見せつけ日本シリーズ4連覇を飾った。
投打でスター選手を揃え12球団随一の育成力で“常勝軍団”を作り上げたが、福岡移転となった1988年は苦しいスタートだった。
当時、ダイエーの球団経営に携わり球団本部長、球団代表を務めた瀬戸山氏が福岡移転の真相、王監督誕生など当時を振り返る。
1994年、根本陸夫監督が指揮するダイエーは一時は首位争いを続けたが69勝60敗1分でリーグ4位とBクラスに終わる。
だが、このシーズン前には王貞治氏の招聘は着実に進んでいた。「近々、ワンちゃんに会う。 自分の次の監督だ。お前も来い」
1月に東京都内のフランス料理店で根本監督、瀬戸山氏、王氏の3人が顔を合わせた。
日本シリーズでプロ野球を盛り上げる王ホークス、長嶋巨人の“ON決戦”構想を実現させるためのものだった。
根本監督は「中内さんはワンちゃんのために福岡ドームを作った。 プロ野球界も人気に陰りが見える。
この流れを変えるには20世紀の間にON対決をやるしかない。 ワンちゃんのチームを作ってくれ。
何でも強力するし金はいくら使ってもいい。 来年でも何年か先でもいいから」と思いをぶつけた。
だが、突然の誘いに王氏は乗り気ではなかった。 「私は巨人、セ・リーグの野球しか知りません。 東京の人間なので…」。
根本監督はその場で答えを求めることはなく 「わかった、俺は2月からユニホームを着るからもう会えない。
いい答えがもらえるまでコイツが会いに行く。 なのでかならず月1回は会ってくれ」と瀬戸山氏を“交渉人”として送り出した。
そこから“世界の王”と月1回の会食が始まった。 食事はのどを通らず、緊張感に満ち溢れた空間。
瀬戸山氏のプレッシャーを感じ取っていた王氏は「大変な役割ですね」と逆に気遣うほどだった。
2、3、4月と会うが話合いは堂々巡り。だが、5月に「野球人なのでユニホームを着たくない訳ではない」と風向きが変わった。
「何を食べたか思い出せないぐらい緊張してました。
回数を重ねるうちにお酒の力も借りてある程度話せるようになりましたが相手は“世界の王”ですから。
球団としても絶対に失敗できない、とんでもないプレッシャーでした」
月1回、熱心に東京に通い続けていた瀬戸山は初めて手応えを感じた。
そして6月には「やっぱりユニホームは着たいものですね」と変わり、これで確信を得えると勝負に出た。
「次は中内を連れてきていいですか?」。 王氏の返事は「大丈夫です」だった。
7月には球団フロント総出で東京に出向き、王氏と最後の意思確認を行い「ダイエー・王貞治監督」が正式に決まった。
シーズンでBクラスに終わったが根本監督の顔は晴れ晴れとしていた。
「瀬戸山、来年からはワンちゃんが指揮を執る。 世話になったな」
打倒巨人、日本一を掲げ1995年から始まった王政権だが、当初は苦難の連続だった。
そして1996年には球史に残る「生卵事件」が起こってしまう。
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☆ 生卵事件やON対決での悔し涙… V4達成の王会長が“戦友”に送った1通のメール
王ダイエーの初陣となった1995年。 西武からFAで工藤公康、石毛宏典、そしてメジャーリーガーのケビン・ミッチェルを
獲得するなど大型補強で優勝候補に上げられたが借金18のリーグ5位に終わる。
1996年も開幕から最下位に低迷すると5月9日の近鉄戦(日生球場)ではとんでもない事件が起きる。
2-3で敗れた試合後に激怒したファンが王監督、選手らが乗ったバスを取り囲み生卵が投げつけられた。
今では考えられないが、当時はファンがグラウンドに降りてくるなど球場警備も手薄な時代だった。瀬戸山氏は当時を振り返る。
「絶対に王監督に危害がないように!と。 仮に卵が当たった写真をマスコミに撮られたりしたら生涯の汚点になる。
マネジャーとかには『ヘルメットを被ってでも守れ!』と、もう必死でした」
発煙筒、生卵、ゴミが次々に投げられる屈辱を味わった王監督。 宿舎に帰るバスの中で怒りを爆発させるかと思ったが、
チーム、ナインに口にした言葉は違った。
「情けない試合をするからこんなことが起きるんだ。 悔しかったら勝つしかないんだ」
王監督から常に巨人と比べられる日々を過ごしてきたナインの中には、この言葉を重く受け止めるものも少なくなかった。
瀬戸山氏は「バスの後ろに陣取っていたベテランの中には『何言ってんだよ』という顔もしていたが、
当時、3年目だった小久保は言葉を受け止めていた。 『監督の言うことは当然ですよ』と私の耳元で口にしていました」。
負け癖がついたチームの中で希望が見えた瞬間だった。 なかなか勝てない時期が続くが“王イズム”はしっかりと受け継がれる。
小久保裕紀、城島健司、松中信彦、井口資仁らが着実に成長すると1999年にリーグ優勝、
そして日本シリーズでは中日を破り悲願の日本一を達成。
翌2000年にはリーグ連覇、そして日本シリーズでは中内オーナーらが待ち望んだ巨人との「ON決戦」が実現した。
残念ながら根本氏は1999年にこの世を去り、念願だった「ON決戦」を見ることはできなかった。
二人三脚でホークスの下地を作った瀬戸山氏も「20世紀までに……と仰っていたが何とか間に合った。
その瞬間に根本さんが立ち会えなかったことが唯一の心残り」と振り返る。
同シリーズでは敵地で連勝スタートも4連敗で終戦。 日本一を逃した第6戦終了後、都内の宿舎ではユニホーム姿の王監督が
報道陣に対応した。 その後はごくわずかな人数だけでミーティングを行ったが、そこには涙する指揮官の姿があった。
「バーを貸し切ってミーティングをするつもりだった。もちろん、優勝を想定していたが負けてしまった。
選手、コーチ連中もいなくて部屋に返して、5人ぐらいで話をした。
王さんは放心状態で、少しすると子どものように悔し涙を流されていた。 それだけ悔しかったのでしょう」
昨年、そして今年と圧倒的な強さを見せ巨人を下し日本シリーズ4連覇を果たした。 2019年は「ON決戦」以来、
19年ぶりの巨人との日本シリーズで“借り”を返したかのように見えたが、瀬戸山氏は当時、王会長から届いたメールを振り返る。
「巨人に勝っての日本シリーズは気持ちが晴れました。
だが、今年はリーグ2位からの日本一。 来年は1位になって日本一になります 王貞治」
パ・リーグを制し、日本シリーズで巨人に勝つまで納得はできない。
瀬戸山氏は2000年に味わった悔しさはまだ晴れていない印象を受けたという。
そして今年は3年ぶりのリーグ優勝を果たし日本一となったが、その後に来たメールにまたも驚かされた。
「ありがとうございます。よい戦いができました。もっと強くなりたいです。選手の成長が楽しみです。まだ頑張ります。 王貞治」
圧倒的な強さを見せ日本シリーズ4連覇を果たしてもまだ、満足していない姿に「凄いですよね、王さんはまだ頑張ると仰った。
もっと強くなると……。 多分、巨人のV9を超えるV10まで頑張るということでしょう」。
瀬戸山氏も王会長が見据えるホークスの未来像には驚かされるばかりだった。
歩みを止めることないホークスはヘッドコーチに小久保氏を招聘。 瀬戸山氏と小久保氏には切っても切れない縁がある。
球界に激震が走った巨人への無償トレードにはナイン、ファンが涙したのだった。
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☆ 球界揺るがした小久保裕紀の無償トレード… 非情通告した身に残り続ける苦渋の思い
1993年のドラフト1位で入団した小久保裕紀は間違いなくホークスを変えた男だった。
中内オーナー、根本陸夫監督が熱望し獲得した将来の幹部候補について瀬戸山氏は「誰よりも練習する姿、
チームを引っ張るリーダーシップ、そして実力もこれ以上にない男」と目を細める。
プロ2年目の1995年には28本塁打を放ち本塁打王のタイトルを獲得。
その後も主軸としてチームに無くてはならない存在となったが、2003年に球界を揺るがす事件が起こった。
同年のオープン戦で本塁へ突入した際に右膝の靭帯を断裂するなど大ケガを負う。
球団からは当初、全額負担でアメリカでの手術を承諾したが「あの話はなかったことにしてくれ」と急転。
その他にも当時の球団社長に冷遇されるなどフロントに不信感を抱いた小久保は同年オフに退団することを決意する。
「手術の費用が出せない件も私が伝える役割だった。心苦しかった。納得できない部分は誰もが分かっていたが本人は
『選手会長として僕は見過ごすことはできない。もうこの球団ではできません』と。
その後、巨人の渡邉恒雄さんに話を持っていき巨人とのトレードが決まった。 こちらからお願いした立場、
誰かと交換してくれという訳にもいかなかった。 小久保も膝を断裂して来季活躍する補償はどこにもなかった」
小久保が不在の中、皮肉にもチームは阪神を破り日本一に輝く。
だが、その裏で“ミスターホークス”と呼ばれた男はチームを去ることを決断し、巨人との無償トレードが決まった。
「トレードの話を伝えるのも僕の役目だった。 これまで長い付き合いで小久保のこともよく知っている。
もう、私も辞める決意ができていた。 こんな状況はあまりにも酷かった。
だから『小久保、もう飲みに行こう』と誘い巨人へのトレード話を伝えました」
2人は福岡の飲食店で濃密な時間を過ごした。小久保はその翌日に記者会見を開き、巨人への無償トレードが発表された。
瀬戸山氏のホークス最後の仕事はチームの精神的支柱だった男へのトレード通達だった。
このトレードはチーム内でも波紋を呼び同年の優勝旅行をボイコット、ファンからの信頼も失うことになった。
それでも、紆余曲折を経て小久保は2006年オフにFA宣言でホークスに復帰。
2012年に引退すると、その後は侍ジャパンの監督に就任するなど球界を支え、来年からはヘッドコーチとして
復帰することになった。 「王イズムを受け継いだ小久保が指導者として戻ってきたことは本当に喜ばしいこと。
今シーズン終盤まで優勝争いを繰り広げたロッテには井口監督がいる。これからも球界を盛り上げていってもらいたい。
私はもうプロ野球に関わっていませんが陰ながら応援していきたい」
プロ野球界に足を踏み入れ、経営者としての立場としてもホークスが“常勝軍団”になる過程を歩んできた瀬戸山氏。
南海の買収、王貞治氏の招聘など大役を全うした男は、これからもホークスの成長を見守っていく。
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☆ 柳田悠岐は7年契約 6.1億円 金満球団でも「複数年多用」のなぜ
西の主砲が「ゴジラ」に並んだ。年俸変動制の7年契約1年目のソフトバンク・柳田悠岐(32)が契約更改を行い、
4000万円アップの6億1000万円でサイン。これは2002年の巨人・松井に並ぶ、歴代日本人野手最高タイの金額だ。
ここ数年はケガに悩まされていたが、今年は5年ぶりにシーズン通して一軍でプレー。
リーグ最多の146安打で、打率・342、29本塁打、86打点。シーズンMVPにも輝いた。
近年、ソフトバンクは支配下の選手と次々に複数年契約を結んでいる。
守護神の森は昨オフ、年俸4億6000万円の4年契約を結び、中村と今宮は来季が4年契約の3年目だ。
控え野手の明石も、先日の契約更改で2年契約を結んだ。
これらはFA流出を防ぐための策で、「この選手を現時点でFAで獲得するなら、どれくらいの条件か」という基準のもと、
複数年契約を結んでいるという。
とはいえ、そこは球界一の資金力を誇る球団だ。 他球団との争奪戦となっても、札束攻勢ではそうは負けない。
しかも、複数年契約はケガをした時のリスクもはらむ。 流出阻止にやっきになる理由があるのか。
ある球団OBは「カネじゃ動かない選手が増えてきた」と、こう話す。
「FAで争奪戦になるような選手は、それまでにかなりの額を稼いでいる。
そんな選手の多くは、カネよりも出場機会や希望するポジションなどを求めているケースが多い。
残留濃厚と高をくくっていたら、他球団に出場試合数の確約を提示され、『多少安くても、出番が保証されるなら』と、
そっちに転ぶ選手だって出てこないとも限らない。 今年からロッテに移籍した福田は実際、カネより出場機会を選んだ。
18年オフに西武から楽天にFA移籍した浅村も、提示額ならソフトバンクが一番だったのにフラれている」
お金じゃ買えない「価値」もあるということだ。
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☆ 【内田雅也が行く 猛虎の地】 ビッグカップルが構えた豪邸 絶頂期の藤本勝巳が送った新婚6人暮らし
阪神甲子園駅近くの老舗喫茶店で阪神のオールドファンの方から聞いた。 「昔、藤本勝巳と島倉千代子が結婚していたころ、
たまに島倉千代子が市場で買い物してるところを見かけたよ。 三番町にお屋敷があってね」
阪神の4番・藤本勝巳と人気歌手・島倉千代子の結婚は相当な話題となった。
ヤンキースのジョー・ディマジオと女優マリリン・モンローの結婚にもたとえられた。
結婚式・披露宴は1963(昭和38)年12月5日、大阪・中之島の新大阪ホテルで開かれた。 媒酌人は監督・藤本定義夫妻。
「ライバル・ナガシマ」の名で巨人・長嶋茂雄からも祝電が届いた。
藤本は無名の選手だった。 スカウト・青木一三が55年、高校ナンバーワン投手の新宮高・前岡勤也をマークしていた際、
和歌山県営向ノ芝球場で見かけたのが南部高の投手・一塁手の藤本だった。
契約金は前岡が当時史上最高の700万円、藤本は80万円だったと著書で明かしている。
ドラフト制があれば、相当下位だったろう。努力でスターへの階段を上ったのだ。 2年目57年途中から一塁の定位置を奪い、
58年は6番、59年開幕から4番を張りベストナインに選ばれた。 天覧試合では一時逆転の2ランを放った。
60年は本塁打王、打点王の2冠に輝いた。61年は初の3割、2度目のベストナイン。62年は2リーグ分立後初の優勝に貢献した。
優勝パレードでは藤本のオープンカーに4歳だった岡田彰布が乗った。 岡田の父・勇郎が後見人で、島倉を伴い、
大阪・玉造の自宅を訪問している。 岡田は今も島倉の歌をほとんど歌える。
藤本にとって絶頂期にあった62年オフ、10月25日に島倉との婚約を発表した。 無口な藤本は「知り合ってから約6年。
最初は居留守を使われたりしましたけど… 」と電話で口説いたなれそめを説明した。
島倉は61年、ファンが投げたテープが両目に当たり、失明の危機にあった。
「目が見えなくてもいいから… とプロポーズされ、心が決まりました」と話した。
冒頭の話にある豪邸は甲子園球場から北へ1・4キロ、西宮市甲子園三番町にあった。当時の新聞には地番まで記されている。
市場は甲子園四番町にあった市場だろうか。
老ファンは「家には6人ぐらい住んでいた」とも言った。 新婚で6人暮らしとは驚いた。
ジャーナリスト・田勢康弘が島倉を密着取材した『島倉千代子という人生』(新潮文庫)に藤本の母と妹、
島倉の付き人と運転手の6人が同居していたとある。 不思議な生活だった。 結婚から3年で別居、4年半で離婚が成立した。
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☆ 【内田雅也が行く 猛虎の地】 「仏のゴロー」の明日への「酒」 古き良き時代のヒーロー
酒豪で知られた遠井吾郎には数々の伝説が残っている。 とにかく毎晩飲んだ。朝まで飲んだ。
田淵幸一も川藤幸三もよく連れられた。 2人が言うには「飲んだら次の日は打てよ」が口癖だった。
「明日打つのか?」と問われ「打ちます」と答えると「じゃあ、行こう」。
一方「打てるかどうか分かりません」だと「帰れ」だった。
田淵は「明日また誘ってもらえるようにと励みになった」、川藤は「明日への酒だった」と言う。
翌日、球場で黙々とランニングする姿があった。 汗をかき、酒を抜いているのだった。
「あと5分」が1時間に、「もう1軒」が続いて朝になった。門限など関係なしである。
語り草の事件がある。 村山実が投手兼任で監督2年目と言うから1971(昭和46)年だ。
岡山でのオープン戦前夜だから3月15日、いや日付は16日になっていた。
田淵によると、遠井、山尾孝雄、藤田平の4人で食事し羽目を外した。
門限の夜10時はとうに過ぎ、真夜中に旅館に帰ると、4人分の荷物が玄関に置いてあった。
マネジャーに指示された監督の部屋に出向くと、村山は「おまえら、帰れ!」と相当なけんまくだった。
田淵らは平謝りだったが、遠井は「はい、はい」と本当に帰ってしまった。夜行列車に乗ったらしい。
マスコミには「歯の治療で帰った」とごまかした。
当時の新聞を見ると、遠井は翌17日は5番で3安打していた。 飲んだ後は打つ。さすがである。
藤本勝巳との一塁併用で62年の優勝に貢献した。 2度目優勝の64年は4番。 日本シリーズでも全試合で4番を務めた。
66年には長嶋茂雄と首位打者争いを演じた。
やさしく穏やかな性格で「仏のゴロー」と誰からも愛された。太った体で、江夏、田淵とともに「阪神相撲部屋」と呼ばれた。
引退後、大阪・北新地に開いたのがスナック「ゴロー」だった。 愛する酒と暮らす日々だった。
後に故郷・柳井に帰り、同名の店を続けた。 現役時代同様、酒の向こうに「明日」をみていたのかもしれない。
05年6月27日、肺がんで逝った。65歳だった。田淵は著書『タテジマ』(世界文化社)で本当の仏様になったと別れを惜しんだ。
柳井高野球部先輩の本紙元常務・田中は鎮魂の原稿でユニホームを忘れ、他人のユニホームで試合に出たこともあった。
朝まで深酒し、バスが出発したこともあったと懐かしんだ。
管理野球の現代ではまず絶対に現れないであろう、得難いヒーローであった。
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☆ 嫌われようと正論口にする信念あった/星野氏編
中日、阪神、楽天を優勝に導いた星野仙一氏が人を引きつけたのは、ぶれない信念だった。
明大後輩で、BCリーグ「信濃グランセローズ」の取締役会長・飯島泰臣氏(55=飯島建設代表取締役社長)が、
闘将の筋を通して行動に移す人間性に触れた。
明大の後輩で、プライベートの付き合いだった飯島は、星野を「先輩」と呼んできた。 その接点は鮮明に覚えている。
1987年(昭62)のドラフト直後、東京・調布のつつじケ丘の合宿所に1台のベンツが滑り込んだ。
「わーっ、星野仙一だって感じですよ。 明大では天の上の人ですからね。 おっかないし、怖かったです」
飯島は秋季リーグ戦後に主将に任命されていた。
監督1年目を終えた星野中日が“甲子園の星”だった沖縄水産・上原晃をドラフト3位で強行指名。
明大進学が決まっていたから横やりを入れた形で、明大監督の島岡吉郎に面会に訪れた。
「島岡氏に仕切りを入れに来たと思うんです。明治も上原はドラフト1位でしたから、すぐには行きがたかったんでしょうね。
なかなか部屋に入らずに合宿所の周りを回りだしたんですよ」 すると風呂場をのぞいた星野に呼びつけられた。
「当時の風呂場の椅子は木製で、先輩がそれをチェックして『お前っ、こんなヌルヌルしてたら勝てんぞ!』と叱られた。
そしてマネジャーに『今からオヤジ(島岡氏)の部屋に行く。
投げつけられてケガするものは片付けとけ』とニタッと笑って御大の部屋に入っていったのです」
飯島は出身地の長野市内で飯島建設の経営者として地場産業を支えている。 星野が軽井沢に保有した別荘建設に関わった。
BCリーグ「信濃グランセローズ」の取締役会長で野球界にも携わっている。
「10億円でも、100万円の事業でも、まぁいいやはない。 仕事の大小に差をつけない。
筋が通らないプロセスの間違いを見逃さない。だから先輩は、例えば玄関に上がる際、靴をそろえたりするのを絶対に見ている。
要は人が見ていないところでの所作をしっかりと見ていたと思う。 だから常に緊張もしました」
星野は部下に対する愛情と厳しさを使い分けながら人間関係の信義を重んじた。 飯島は「御大と生き写しですよ」という。
18歳年下の後輩をかわいがったし、飯島も先輩を慕った。「決断力」「迅速な行動」「筋を通す」。
星野は“この人のためなら…”と暗示をかける達人だった。
「長野出身の力士、清乃海の父親(山本修氏)がぼくの後輩で、星野さんと一緒にゴルフをした。
その場で元大関栃東の玉ノ井親方に『はよう清乃海を関取にせんと承知せんぞ!』と直接電話をしてしまう。
そして次の週には、福島県相馬市で合宿をしていた玉ノ井部屋の先代玉ノ井親方に連絡をし、大量の肉を運び込みながら、
清乃海を直接激励する。 これ分かります? 私の顔を先輩が立ててくれたんですよ」
飯島は「先輩を好きになってしまうって、なんだったんでしょうね」とつぶやいた。
「今の世の中って正論であっても嫌われると思ったら口にしない。でも先輩は自分が迎合することより、嫌われても、
そこで起きる葛藤をいとわなかった」。 星野という男のぶれない信念は人を育てた。
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☆ プロアマ「1つにならないと」/星野氏編
星野仙一氏は、プロアマ一体化を熱望していた。 飯島泰臣氏(55)は、野球界の将来像を打ち明けられていた。
明大の後輩だった飯島は軽井沢の別荘で、星野から楽天監督に就任した際のエピソードを聞いていた。
「先輩(星野氏)の話だと、三木谷オーナーとすっぽんを食べたらしいんです。
『どうしたんですか?』と聞いたら『どうしたって、お前はほんま勘の悪い男やな』とあきれられました」
11年に監督に就任し、13年に球団初のリーグ優勝、日本一に導いた。
「すっぽん料理の最初に出てくる生き血って、アルコールで割ってますよね。
先輩は下戸なのでそれを1杯飲んだだけでかなり酔って、ついには立てなくなった。
だから受けるしかなかったんや、といたずらに笑ってたのを思い出しますよ」
そんなジョークを交えながら語り合うほど、親密な間柄だった。
「飛行機のファーストクラスに座ろうとしたら、前の乗客がCAにクレームの最中。やっと終わったと思い着席。
するとその乗客が隣の席でアンケート用紙に先のクレームを書き出した。
『おい、また書くんか! 男らしくないやろ!』とぶち切れた。 どこまでも“星野仙一”なんです」
松商学園、明大と進んだ飯島は、戸田建設で修業を積んだ後、実家の飯島建設に入社し、15年3代目社長に就任。
「信濃グランセローズ」の立ち上げにも関わり、現在は球団の取締役会長を務めている。
飯島らが決めた球団設立の条件は4点。(1)ほぼ専有で使用可能な球場確保 (2)背骨になる企業の確保
(3)NPB球団で幹部級人材の招聘 (4)県内全市町村首長の後援会顧問就任
全てをクリアして“おらが球団”を地域に根付かせているところだ。 「NPBに行く夢をかなえさせたい。
でもそれと同じくらい立派な企業に就職してほしいとも思っています。
チーム強化に固執し、いたずらに選手を引っ張ってはいけない。
NPB、社会人を目指す一方で、あきらめさせることも必要です。 高卒5年、大卒2年が目安で、
上に行くことができないならリセットさせ、次の人生に導く。
そういう矜恃を持っていないと独立リーグ球団を運営する資格はないとも思ってます」
今年のドラフトでは、ヤクルトから赤羽由紘内野手(20)が育成2位で、松井聖捕手(25)が同3位で指名された。
また、DeNA佐野恵太の弟悠太外野手(24)が日立製作所入り。
飯島は独立リーグを“受け皿”と考えず、確固たる信念をもった球団であることを心掛ける。
「先輩は常に、野球界が1つにならないといけないと話していました。
NPBのコミッショナーは法曹界出身が多いが、ビジネスマンが理想的だと。
その下に、元プロとコンプライアンス専門の2人の副コミッショナーを配置した組織化を考えていた。
高校、大学、社会人、プロに、独立リーグも含め、野球界全体が串刺しの組織になって一緒に底上げを
しなきゃダメだと力説していましたね」
飯島は25歳のときに実父で、先々代社長の典男を脳出血で亡くした。
「父親を亡くしたときと同じくらいショックでした。いやもっとかも。
18歳も年下の後輩を粗末にしない。時には怖いオヤジで、面倒な兄貴。それでいて友達みたいに接してもくれる。
真剣に叱ってくれたし、約束と違うことをしたらしっかりとただしてくれた。 先行きの見えないコロナ禍で、
今だれと話してみたい? と問われたら、間違いなく星野仙一先輩と答えます。 もう1度、会いたい」
勝利を追求するだけでなく、球界の将来ビジョンも描くまれな存在が、星野だった。
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☆ 星野氏の遺言プロアマ一体で底辺拡大/星野氏編
星野仙一氏は、野球界への“遺言”として、プロ・アマ一体化による底辺拡大を切望した。
愛知・あま市にある七宝山・瑞円寺の永代供養塔には、闘将の直筆で「夢」と刻まれていた。
星野が最後に公の場に姿を現したのは、17年の「野球殿堂入りを祝う会」だった。
亡くなる約1カ月前の11月28日は東京、12月1日に大阪で開かれた壇上から夢を語っていた。
「全国の子供たちに、野球のできる環境をつくらないといけないという夢をもっています。
巨人がV9した時代の球界に戻さないといけない。 プロもアマもない。 野球界を考えれば底辺も拡大します」
今思えば闘病生活の真っただ中で、持てる力を振り絞ったに違いない。
まさかそれが野球界への最期のメッセージ、星野の“遺言”になるとは思わなかった。
星野が描いた“夢”の前に立った。
愛知県西部に位置するあま市の七宝山・瑞円寺。
文禄時代に建立された古刹にひっそり、星野の永代供養塔がまつられている。
初めてメディアが足を踏み入れることを許された石には、本人の字で「夢」と刻まれていた。
父の佐々木友学から星野との関わりを受け継いだ住職、第五世友肇(ゆうちょう、50)と向き合った。
「負けるものかと苦難に屈しない精神、根性をみました。病気を治すことはできないが、ひたすら医療の円満を祈った。
リーダーとして頂上に立つには、並大抵ではなかったでしょう。 他がどうであろうと信念を貫く人だったと思います」
監督として成功した指導術は、戦後日本の景気を支えた高度成長期の歩みとダブった。
厳しさを神髄とし、時代の変遷に合わせるかのように幅広くリーダーシップをとった。 星野は独特の言い回しをした。
「年功序列がいかんとはいわん。 この世は公平でありながら実は不平等なんだ。
その不公平を公平にするのも自分の努力。 よく鉄拳というけど、“痛み”とは体の痛みじゃない。
殴って強くなるならボクサーを連れてきますよ」
明大で「オヤジ」と呼んだ島岡吉郎と出会い、巨人キラーだった男は鉄拳野球で激しく采配を振った。
中日水原茂、巨人川上哲治らの名監督に学び、
名だたる企業人に「人集め」「人作り」「人を動かす」法則をたたき込まれた。
39歳で中日監督に就いたのは昭和時代で、バブル期の波乱を経た平成時代の阪神優勝が56歳、
楽天で指揮を執った時は還暦を超えていた。 時代の流れに沿った“星野流”のチームマネジメントで、人材を操った。
激しさだけでなく、常に是々非々で、信賞必罰のタイミングを見極める。
それができたのは、監督として熟し、人の心をつかみ、勝つための組織を束ねることができるリーダーだったからだ。
「これからはお世話になった野球界に恩返しをしないといけない」
しかし、力尽きた。 世界はコロナ禍で先が見えない事態に陥った。 リーダーとは…、が問われている。
野球界は「プロ・アマ一体化で底辺拡大」の夢を紡ぐ契機にすべきだ。
“星野の部屋”には一枚の色紙が残されていた。 「ありがとう 野球よ 友よ 星野仙一」。
日刊スポーツ大型連載「監督」 星野氏編 全16話 これにて終了です。
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☆ 【ドラ番記者】 倉敷工・福島のことを以前「器用」だと書いた (川本光憲)
ドラフト4位の倉敷工・福島のことを以前「器用」だと書いた。
母・明子さんから、左腕は左手でそろばんをはじき、右手で文字を書く、
というエピソードを教えてもらったからだ。 ならば、やってみよう。
記者はまず小学生時代に使っていたそろばんを倉庫から引っ張り出した。 玉は正常に動く。
親指と人さし指を使って足し算を…、やろうとすると、どうも親指付け根あたりが他の玉に当たる。
モヤモヤしていると手首もぶつかった。
「あー、もう」とイライラし始める。 脳が誤作動し、数字を書き間違えた。
右手で消しゴムを握るはずが、左手で消そうとした。 うまく消せずに紙はグチャグチャになった。
福島は右手と左手、どちらで消すのだろうか。 どちらか一方か、両手か。
新人選手は年明けに入寮する。 聞いてみようかな。
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☆ 古豪復活へ… 73歳挑戦中 阪神OB片岡新之介さん 広島・呉港の監督1年目に「勝ってなんぼ」
阪神などで捕手として活躍した片岡新之介さん(73)は、昨年12月から呉港の監督を務めている。
西鉄(現西武)、阪神、阪急(現オリックス)で現役16年、引退後は広島のコーチとして17年
そして社会人、専門学校の16年の指導を経て初めて高校野球の舞台に立っている。
これまでの経験を生かし古豪復活へのプロローグの1年を過ごした。
「高校野球の純粋さ、子どもたちの反応も変わってきた。
上手な子、下手な子はいるが、その子のレベルに合った精神的充実感をもたせるか」
監督1年目は夏の広島独自大会、秋の広島大会ともに準々決勝に進出、いずれも伝統校の広島商に敗れた。
周囲から評価もあるが、「負けたことは事実。 勝ってなんぼ」と、自らに厳しい言葉を投げかけた。
これは片岡さんのプロ人生にある。
小学生のころにあこがれた伝統校・倉敷工で硬式野球をはじめ大学、社会人野球を経てプロ入り。
3球団をわたり歩いたが規定打席には一度も届いていない。それでもプロで16年もユニホームを着続けた。
「常にチャレンジする気持ちがあった。 何か一つライバルに勝ちたいと思ってやってきた。
阪神時代は田淵さんがいたけど、守ることだけは勝てると。
2番手は常に1番を狙わないと、2番ならいつでもできると思っていたら下の者にすぐ抜かされる」
合理的な練習方法に加え時には雷を落とすこともある。この1年で収穫もあった。
ほとんどの3年生が「大好きな野球をやりたい」と次のステージでも野球を続けるという。
また、来年度入学の問い合わせが急増している。3月には関西遠征を組みセンバツ大会を観戦する予定でいる。
「言葉でいう甲子園じゃなく、血の騒ぐこともしないと。大先輩が築き上げたものを見せたいんだ」
甲子園から遠ざかっているものの、戦前は夏の選手権大会で全国制覇を果たすなど、春夏11度の甲子園出場を誇る。
「まずはみなさんから『ごこう』と読んでもらえるようにしないと。
『くれみなと』としか読まんから」。 古豪復活に野球人生をかける。
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☆ 謹賀新年
皆々様の御健康と御多幸を心よりお祈り申し上げます
元旦や おもへばさびし 秋の暮 (松尾芭蕉)
意味: にぎやかな大晦日と変わって閑静な元旦は、考えてみると、秋の暮と同様の寂しさです。
年玉を 並べて置くや 枕もと (正岡子規)
意味: 枕元には、弟子たちに渡すお年玉を並べて置きましたよ。
病気のため私は自由に動くこともできませんが、挨拶にきてくれる弟子たちに会うのが待ち遠しいことです。
去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの (高浜虚子)
意味: 古い年が去り、新しい年が始まると、去った年が遠い昔のように感じられることがあります。
しかし、実際は、時間はお正月のお祝いとは関係なく静かに過ぎていくだけであり、
一本の棒で貫かれたように一続きの時間なのです。
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☆【内田雅也の広角追球】 日はまた昇った 甲子園球場の初日の出
三塁側アルプススタンドと左翼スタンドの合間からのぞいた光がグラウンドを照らした。御来光である。
2021年1月1日、午前7時15分、甲子園球場に光が差し込んだ。
暗く紫色だった場内が少しずつ少しずつ、赤く、初茜に染まっていく。西の空には丸い居待ち月が浮かんでいた。
甲子園球場で初日の出を拝むようになって9年目になる。
2013年から毎年元旦に訪れているが、同じように見える陽光も、毎年どこか表情が異なっている。
もちろん、天候の違いはある。 御降の雨や雪にあったことはないが、晴れたり曇ったり、風が吹いたり、ないでいたり、
光の色や輝きの具合は微妙に異なっている。
いや、元旦の甲子園の表情の違いは、その時々の自身の心境の違いなのかもしれない。
昨年の正月には考えもしなかった疫病禍に見舞われ、生活は一変した。
新型コロナウイルスとの闘いながら迎えた新年である。まだまだ先の見えない世の中だが、希望を持って前を向きたい。
野球場に大観衆、そして大歓声が戻る日を辛抱強く待ちたい。
日はまた昇った。光は球場全体を覆った。 雲の間から青空が見えた。
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☆ 2011年の星野仙一さんからの年賀状に想う… コロナ禍の困難な年だからこそ、その生き様をかみしめたい
私が今でも宝ものとして手元に置く1枚の年賀状があります。 「自分らしく生きてこそ人生だ 杜の都で闘う」
2011年の元日に星野仙一さんから届いたものです。
その数カ月前、楽天からのオファーに「ここ数年、野球がまた恋しくなった。私は、やっぱり野球人なんだなと思う」と、
パ・リーグ最下位だった球団の監督に就任しました。
08年に日本代表監督として出場した北京五輪では、金メダルを期待されながら4位。
そのショックから野球界からいったん身を引いた星野さんは、周囲に「もう野球が嫌になった」とこぼすほど落ち込んでいました。
この賀状をいただいた時に「仙さんが闘いの場に戻ってきた」と再起を誓う言葉に興奮したことは、10年たった今でも覚えています。
中日スポーツのドラゴンズ担当記者だった時代から何度も怒鳴られましたが、助けられたことも多くありました。
例えばドラ番で横浜に遠征していた時のこと。親知らずが痛くてどうしようもなく、歯科で抜歯したことがありました。
それでも激痛は治まらず、出血も止まらない。
折しもその日は、ナイターの試合後に星野監督がドラ番記者たちを中華街に招待する食事会がありました。
食事にほとんど手を付けることができなかった私に、酔いがまわった当時のドラ番キャップが
「監督がせっかくごちそうしてくださっているのに、情けないやつだな」と言った瞬間です。
星野監督の怒声が店内に響き渡りました。
「○○(キャップの名前)、いいかげんにしろ! お前は部下の痛みが分からんのか!」キャップはうつむき、
食事会は静まり返ってしまいましたが、私は「監督、ありがとうございます」と心の中で何度も感謝していました。
今になってみれば監督との食事会という緊張と重圧の場で、キャップの気持ちも分からなくはない。
ただ、星野さんは助けを求めている人、特に弱者には自分が何とかしてやろうと、その人が最も欲している言葉を
全身から発していました。
時には鉄拳も辞さなかった厳しさの中でも「情の監督」と言われ、選手の心をわしづかみにしたのは、
このような気質があったからだと思います。
強い決意を込めた年賀状から2カ月余の3月11日、東北地方は大地震と津波に襲われ、多くの犠牲者を出しました。
明石市に滞在していた楽天の選手、スタッフに星野監督が真っ先に出した指令は「すぐに家族の安否を確認しろ」でした。
それからは家族と連絡を取れない選手らを励まし、このままチームが野球を続けていいのか悩み、
2週間延期して開幕してからは選手らと午前中はボランティア、夜は試合という日々を送りながら
「東北の人たちを元気づけたい」と優勝を目指しました。
その年は5位、翌年は勝率5割の4位、そして13年についに優勝、さらに巨人を倒して自身初の日本一に輝きます。
中日、阪神の監督時代を通じてどん底のチームを再起に導き、さまざまな苦難を乗り越えて「夢は抱いてこそかなう」を
身をもって示した星野さん。 コロナ禍で迎えた困難な年だからこそ、その生き様をかみしめたいと思うのです。
鈴木遍理: 東京中日スポーツ報道部長、東京新聞運動部長などを経て現東京中日スポーツ編集委員。
これまでドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、大リーグ、名古屋グランパス、ゴルフ、五輪などを担当。
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☆ 張本勲コラム 「王貞治の868本塁打は大記録だが、2390の四球数にすごみを感じる」
私がもっとも誇りに思っている記録は、通算3割、500本、300盗塁である(打率.319、504本塁打、319盗塁)。
なぜならこの記録は世界で2人しか達成していないからだ。もう一人はウィリー・メイズというメジャー・リーガー。
「史上最高のコンプリート・プレーヤー」と呼ばれた外野手で、まさにその表現がこの記録をよく表している。
ヒットもホームランも打ち、しかも走れる選手ということだ。
王貞治で真っ先に思い浮かぶのは通算868本塁打だ。 一本足打法で本塁打王のタイトルを15回も獲得。
日本が誇るホームランバッターだったことは読者の方もよくご存じだろう。
しかし、私が王の記録の中で868本塁打に匹敵するほどすごいと考えるのは2390という四球数だ。これももちろん日本記録。
しかも2位落合の1475に大差をつけての記録だ。ホームランバッターに必要なのはパワーではない。集中力と忍耐の2つだ。
本塁打を打てる一球をじっくりと待ち、打てないと判断すればストライクでも見送るときがある。
それは相手投手というよりも自分自身との戦いだ。打者ならバットを持っている以上、どうしても振りたいし、打ちたくなる。
そうした欲をこらえ、本塁打を打てる一球をじっと待ちながら2390という四球を選んだ王の集中力と忍耐は、
凄すさまじかったとしか言いようがない。
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☆ 「王イズム」定着 強さに甘んじない危機感
王球団会長は言う。 「選手たちにとって勝つということが特別じゃなくなった。 勝利に対する意識が高くなった」。
チームを見守る王会長の気持ちは年を重ねるごとに「確信」となってきている。
「ことさらこちらから、どうしろ、こうしろと言うことはなくなった。 自分たちでやれるようになってきたからね。
こうなればしめたもんですよ」。 試合に臨む準備、練習の取り組み、勝利への執念…。
監督時代から厳しく教え込んできた「王イズム」がまさに開花したと言っていい。
「チームがこういう風になるまでが大変なんだよ。いったん、たどり着いたら、あとは選手たちがやってくれるからね」。
先輩に引っ張られるように若手も奮起し、お互いが強烈なライバル心を燃やしながらチーム力を高める。
いわゆる好転のサイクルで円熟期に入ったといえる。とはいえ、「今」にあぐらをかくわけにもいかない。
巨人V9を超える「V10」をチーム目標に据え、孫オーナーは早くも「シリーズ5連覇」指令をチームに飛ばした。
野手陣の世代交代という課題も抱えながら新シーズンに挑まなければならない。
「育成」と「勝利」-。二律背反の命題は強いからこそ、厳しさも伴う。
千賀、甲斐、石川、周東、牧原、大竹ら育成選手出身者が1軍で活躍。
「育成のホークス」と球界では呼ばれているが、ファームからの突き上げはこれまで以上に望まれるところだ。
この好循環が足踏みすればV5すら絵に描いた餅になってしまう。そんな危機感の表れでもある。
OB小久保をヘッドコーチで呼び寄せ、さらなる野手強化へ1軍から3軍まで貫通した体制作りを目指している。
かつて巨人、西鉄などで監督を務め「球界の魔術師」と呼ばれた三原脩氏は言った。
「覇権を握ることは難しい。 覇権を持続することはさらに難しい。
しかし、1度失った覇権を奪回することは、さらにさらに難しい」。
強さに甘んじない「強烈な危機感」が今シーズンのホークスのキーワードとなる。
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☆ 【プロ野球大将】王会長が史上最高齢MVP 八十にして球愛なお盛ん
東スポ野球担当記者が独断で選ぶ「プロ野球大将2020」の発表です。
21回目を迎える同賞は本業での成績とは無関係に、本紙を通じていかに話題を振りまいたかが選考の決め手になります。
注目のMVPに輝いたのは、最高齢受賞となるソフトバンクの王貞治球団会長(80)。
4年連続日本一となった常勝ホークスの礎を築いた功績もさることながら、今年3月に本紙創刊60周年の特別インタビューで
熱く語っていただいたことへの感謝も込めての選出です。
野球に対する情熱は傘寿を迎えた今でも変わらない。世界中の誰よりもホームランが大好きで、勝負にときめき、勝利にこだわる。
新型コロナ禍にあっても可能な限り現場へと足を運び、必要とあれば選手にゲキも飛ばす。
自身が巨人での現役時代に成し遂げたV9以来となるソフトバンクの4年連続日本一は、1995年のダイエー監督就任から
脈々と流れ続ける「王の精神」が根底にある。 古巣を相手にした2年連続での4タテも集大成ではなく通過点でしかない。
その熱い思いは東スポ創刊60周年の特別インタビューでも垣間見えた。
「東スポは今のスポーツ紙の原型。 今は他の新聞が“東スポ化”している。東スポは他がやらないような方法でニュースを大胆に
取り上げたことでファン、読者にウケた」といった本紙スタッフが泣いて喜ぶような“お褒めの言葉”ばかりでなく、
プロ野球界のさらなる発展を視野に入れた“16球団構想”にまで話が及んだ。
人生をささげた野球に対する愛の深さには頭が下がるばかり。 まだまだ「世界の王」から学ばなければならないことは多い。
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☆ 栗山監督は10年目だけど… 球界には1試合も指揮を執らなかった“幻の監督”が二人もいた!
日本ハムの栗山監督が、2012年に就任して以来10年目となる2021年シーズンも引き続き指揮を執る。
日本ハムでは大沢啓二の8年連続を抜きすでに球団記録となっているが、
他球団を見ても10年連続は1981年から90年までオリックスを率いた上田利治以来で、近年では“異例の長期政権”だ。
史上最も長く同一球団を率いたのは、終戦直後の46年から68年まで実に「23年間」も南海(現ソフトバンク)の監督を
務めた鶴岡一人である。 現代では到底あり得ない。
23年間に積み上げた勝利は、1773勝を数え2位の三原の1687勝、3位の藤本の1657勝を抑え歴代1位。
しかも勝率.609は通算500勝以上の監督の中で唯一の6割台。
在任期間の長さだけではなく11回のリーグ優勝を記録した実績もナンバーワンの監督といえる。
「グラウンドには銭が落ちている。 銭が欲しけりゃ一生懸命練習しろ」との名言でも有名な鶴岡は「親分」の愛称が
知られるように豪気な性格ながら人が良く、選手の面倒見もいい人物だった。
「軍隊のやり方そのままの精神野球だった。 技術的なことを教えられたことは一度もない」と後年、
自身の監督解任をめぐって鶴岡との確執が噂された野村克也が自書で批判したこともあるなど、
その指導方法には賛否両論があったようだ。
そんな鶴岡が「1人の人間がいつまでもやっていては球団の発展は望めない」と自ら勇退を発表したのは
65年11月13日のことだった。後任にはヘッドコーチの蔭山和夫を指名。20年ぶりの監督交代が行われることとなった。
ところが、事態は思わぬ方向へと動く。 4日後の17日に蔭山が38歳の若さで急死してしまったのだ。
監督勇退を表明していた鶴岡の元にはサンケイ(現ヤクルト)、東京(現ロッテ)から監督就任のオファーが届いており、
鶴岡は18日に結論を出すことを両球団に伝えていたという。
しかし、蔭山の急死で話は白紙に戻り、最終的には鶴岡が勇退を撤回して南海に戻ることとなった。
こうして、正式に発表されていながら実際には指揮を執ることのなかった蔭山の「0日」が史上最短監督となっているが、
こうしたケースはもう1例ある。
76年、太平洋(現西武)はMLBのジャイアンツ、ドジャーズの監督として優勝3回、うちワールドシリーズ制覇1回、
通算2008勝をマークしたレオ・ドローチャーと契約した。 大物外国人監督の誕生が話題になったものの、
契約直後にドローチャーが病気で倒れ来日が不可能に。 ドローチャー監督は幻となってしまった。
実際に指揮を執った監督での最短記録の持ち主は75年のジョー・ルーツ(広島)だ。
闘争心を植えつけるために大胆なトレード、思い切ったコンバートなどさまざまな施策を敢行。
後に「赤ヘル軍団」と呼ばれるようになる赤い帽子をそれまでの紺に変えて採用したのもその1つだった。
つねに先頭に立って選手を鼓舞し続けていたルーツだったが、4月27日の阪神戦で審判の判定に激高して暴行、
退場処分になった際、退場を認めようとしなかったルーツを球団代表が説得するためにグラウンドに降りたことに対して
「グラウンドでは監督に全権があるという約束を破った」として辞意を表明。
球団の慰留にも耳を貸さず「15試合」で辞任した。
その後を引き継いだのは古葉竹識。 この年、広島が旋風を巻き起こし球団創設25年目で初優勝したのも、
わずか15試合とはいえルーツが種を蒔いたからこそであることは間違いない。その功績を忘れることはできないだろう。
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☆ ノーヒッター川尻氏 “快挙への7球”/あの猛虎は今
元阪神の60勝右腕、川尻哲郎氏(51)が今月初旬、東京・新橋で居酒屋「虎尻」(とらじり)を開店した。
暗黒時代を支えた元エースの代名詞は、プロ4年目の98年5月26日の中日戦(倉敷)で達成したノーヒットノーランだ。
「登板の前の日、結構、朝まで飲んでいて。
周りに『川尻さん、もう、そろそろ帰った方がいいんじゃないですか』と言われて」。
普段は登板前日、午前1時には外食を終える。 あの日は気づけば岡山の空が明るくなっていた。
まだプロ野球に自由奔放で豪快な気質が残っていた時代だ。 睡眠時間も逆算していたという。
だが、まさか、あんな1日になるとは想像もしていなかった。 中日相手に9回2死まで無安打無得点。
「あと1人」コールが響くなか、右打ちの神野純一を迎えた。 「6回くらいから打たれていない感じがあって。
意外と簡単に7、8回を抑えちゃった。 相手が緊張していたのか。 9回になって『狙いたいな』と。
神野は長打はないけど当てるのがうまい打者」と思い起こした。
初球の外角スライダーは大きく外れた。2球目の外角スライダーでファウル。
手に汗握る快挙目前でも、意外に落ち着いていた。
だが、ふと脳裏をよぎった。「東京ドームで、いつも上田二朗さんが9回2アウトから長嶋さんに打たれた映像を見ていた。
それが頭に浮かんで」。 巨人戦前の練習中、ビジョンで流れていた昔の映像だ。
73年7月1日の巨人戦。阪神先発の上田は「あと1人」でノーヒットノーランを逃していた。気を引き締めた。
3球目は137キロのシュートでファウル。「あと1球」になっても顔色は変わらない。
このスタイルで投げると決めたのはプロ1年目だ。 95年の横浜戦。逆転されても笑みが出た。
降板後、ベテランの木戸克彦にひどく叱られた。
「この試合で選手生命をかけているヤツもいる。そういう顔をするな」。 心に重しを置くようになった。
ふてぶてしく、神野と向き合った。4球目はスライダーを外角へ。神野は見逃した。きわどい球だ。球審の動きを待った。
だが、ボールと判定されても浮足立たない。 「この後だ。この後の球が甘くなってしまうケースがよくある。
これより甘くなると打たれる」。そう言い聞かせた。
ストライク欲しさにコントロールが微妙に狂うだけでも、命取りになる。スキを見せなかった。
5球目もファウルで粘られる。だが、勝負を急がない。実は1球ごと、右手で足元のロジンバッグを触っていた。
「普段はそんなに触らない。慎重になっていた証拠。『マウンドでの味方はロジンしかいない』ですから」。
高校時代、江夏豊の著書で触れた言葉だ。
「それからずっとそうしていて。ロジンを丁寧に扱うんです」。 孤独なマウンドでも動じない工夫がある。
心が試される局面は何度もやってくる。6球目。 ジャイロ回転で沈む球に、神野のバットは空を切ったかに見えた。
その瞬間、マスコットのトラッキーが喜び勇んで飛び出した。「これ、アウト?」。
だが、捕手矢野の下を抜けるファウルチップだった。 「これで打たれたらトラッキーも一生、言われるな」。
張り詰めた緊張の糸が切れてもおかしくない状況でも、客観的に見渡すゆとりがあった。 最後の球は決めていた。
矢野のサインに小さく首を振った。 日産自動車で横手投げに転向して、右打者に最も効果的な球だ。外角スライダー。
「自分の一番、悔いの残らない球を最後に選択して」。引っ掛けたゴロは遊撃今岡誠の正面へ。
アウトを見届け、矢野と笑顔で抱き合った。 神野への周到な7球は、マウンドに生きる姿そのものだった。
後日談がある。 あの試合の敵将は星野仙一だった。 7回、中日の先頭久慈照嘉の打球は、三塁前へのボテボテゴロ。
デーブ・ハンセンの送球はワンバウンドで際どいタイミングだった。 その瞬間、星野はベンチで言い放ったという。
「エラーじゃ。ヒットやない!」。 対戦相手ならノーヒットノーランの屈辱は避けたい。内野安打でも、一矢報いたい。
そんな望みより、投手だった星野の本能がにじみ出た。
この話を知人から伝え聞いた川尻さんは言う。「そうなんだって思ってね。 それはもう、うれしいですよね」。
あの試合があって、人の潔さにも触れられた。 経験や技術のすべてを注ぎ込んだ一戦は、人生につながる1日になった。
川尻氏の居酒屋「虎尻」・・・阪神戦を全試合中継予定。 港区新橋2の9の14三浦ビル2階。電話03・3591・3000。
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☆ 1月4日の命日に早川の活躍願う/星野さん回顧
ホームタウンとなる仙台の印象を、早大・早川隆久投手(4年)は「牛タン」と話した。
ドラフト会議で楽天から1位指名を受けた。 定番の質問を無難にこなしたが、本当に思ったことは別にあったという。
「真っ先に震災を思いました。 僕も被災したので。 ただ、僕なんかが言っていいのかとも思って」
千葉外房の横芝光町出身。実家が床上浸水し、避難場所の小学校で一夜を過ごしている。
だが、東北の甚大な被害と比べたら…。 言及するのはためらわれた。
約2週間後、球団の指名あいさつを受け、意を決した。 自らの体験に触れ、こう続けた。
「野球という形で勇気を与えられる選手になれれば」。
震災10年の節目で、そのような思いを持った選手が東北のチームに選ばれたことに運命を感じずにはいられない。
同時に「10年」の重さを感じる。 小学校卒業間近の少年を、4球団が競合する好投手に育てた。
今年は東北の皆さんはじめ、多くの人が、それぞれの尺度で「10年」を感じる年になるだろう。
私自身は10年前、人生で初めて東北に居を構え、かけがえのない縁に恵まれた。
勇退するまでの4シーズン、楽天星野監督を取材できたことが、野球記者の礎を固めてくれた。
新しい年を迎え、星野さんの残した言葉が思い出される。
「人生の中で、最も大きな困難、苦難を経験している。 でも弱音は絶対に吐かない。
困難、苦難は、乗り越えることができる人間にしか、降りかかってこない。 そう言い聞かせている」
2011年3月20日、震災から9日後。混乱の極致でも前を向いていた。コロナ禍の今、星野さんの言葉が染みる。
震災と同列には語れない。精神論で乗り越えられる状況でもない。それでも、星野さんの気構えは勇気を与えてくれる。
震災から10年。星野さんが亡くなってから3年。1月4日の命日に、早川投手の活躍と東北の復興・発展を願う。
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☆ 【虎のソナタ】1・4命日… 星野さんに今年こそV報告を!! 虎を変えた大恩人、死去から3年
阪神ファンなら「忘れてはいけない日」というのがある。1985年11月2日はタイガースが2リーグ分立後唯一、
日本一に輝いた日。 西武球場で監督吉田義男が宙に舞ったあの光景は忘れたくても忘れられない。
甲子園球場の誕生日でもある8月1日も忘れちゃいけない日の1つ。 そして、1月4日は…。
そう、闘将・星野仙一の命日だ。負け癖のついた虎の性根を叩き直し、勝つ喜びを教えてくれた仙さん。
18年ぶりのリーグ優勝に導いてくれた2003年シーズンは、虎党の誰にとっても最高の瞬間の連続だった。
そんな大恩人が逝去したのは3年前の1月4日。突然すぎた。
「僕は休みで自宅にいたら、夜に突然、信じられない連絡を会社から受けたんです。
星野さん宅の近くに住んでいたこともあって、すぐに向かって、インターホンを押したんですが、もちろん応答はなく。
信じられなくて、動揺して、真っ暗なご自宅の前でオロオロしていた気がします」
“あの日”の記憶を辿ったのは昨夜の当番デスク・堀啓介。03年シーズンは若きトラ番として快進撃の虎を取材。
仙さんが日本代表監督を務めた北京五輪も、担当記者として同行。楽しい思い出話が次々と出てきた。
「金本監督(当時)が開幕前に営まれたお別れの会で弔辞を読みながら号泣したのも忘れられません」
堀デスクの言うように、鉄人・金本の「オフには優勝報告を」と誓った涙にグッときた者も多かったのでは。
ただ、残念ながら優勝報告できないまま、月日は流れて。
ことしこそ-。 虎ナインは、タテジマの大恩人の命日である、きょうこの日に、改めて誓ってもらいたい。
たぶん、矢野監督は、言われなくても心に期していると思うけれど。
そのタイガースだが、さすがに正月三が日は大きな動きは少ない。
代わって、正月恒例のスポーツは花盛り。星野さんも大好きだったラグビーは歴史的な好ゲームが。
東福岡VS東海大大阪仰星戦は、語り継がれる死闘の末にドロー。抽選で準決勝進出チームが決まる無情の結末に。
こういうケース、高校野球なら延長十五回引き分け再試合になるんだろうけれど、それがないのがラグビーか。
箱根駅伝も劇的だった。最後の最後で駒大がどんでん返し。
サンスポのトラ番でこの劇的ドラマに大喜びしているヤツがいた。駒大出身の織原祥平だ。
「休みなので、部屋でベッドに寝転がって見ていたら、10区で大逆転。思わず起き上がって、正座してみましたよ。
僕は学生時代、『駒大スポーツ』という学生スポーツ新聞を作ってたんです。
毎年、お正月は作成した箱根駅伝特集号の新聞を出発地点の大手町や、中継地や、横浜駅周辺で配布していました。
僕の頃はなかなか勝てなくて悔しかったので、こんなうれしいことはないです」
母校ってのは、いつまでたっても応援したくなるもんです。
しかも、これだけ“筋書きのない”試合を次々と見せられると、野球も早く始まらないかなぁと思ってしまう。
春はまだ遠いんだけれど。
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☆ 田淵氏が明かす星野仙一さん秘話 入院中に同じ病院内でお見舞い 「弱い星野を見せなかった」
今でもよく夢を見るんだよ。2人でキャッチボールしてるんだ。「監督〜、全然、ボールがきてないよ〜って」。
東京六大学のときから親友でありライバルでもあったんだけど、阪神の監督とコーチになって以降は監督と呼び
“仙ちゃん”と呼ぶのをやめたのよ。
互いに、互いの人生のほとんどを見てきて、知っている。 “三重人格者”だったね。いろいろな顔を持っていた。
阪神監督就任時の久万オーナーにも、読売のナベツネさん(渡辺恒雄)にも気後れすることなく意見していた。
かと思えば18歳のルーキーにも目を見張らせていたし、選手の家族にも気配りしていた。すごい男だった。
最後まで「星野仙一」のままで、カッコつけていたね。亡くなる3日前の元日に電話で話したんだけど、普通だった。
いや普通を装っていたんだろうね。 親族以外には1年半も病のことを伏せていたのもそう。
私にすら「弱い星野」を見せなかった。17年夏に私が大動脈瘤の手術をした際に見舞い、励ましてくれたんだよ。
「なに情けない顔をしてんだよ!それしきのことで」って…。ええヤツだなあと思っていたら、後から聞いたんだけど
膵臓がんで先に同じ病院に入院していたっていうんだよ。
そんなこといっさい言わずに、ビシッと着替えて私のところにきて、また同じ病院内の自分の部屋に戻って
いったっていうんだから、まいったね、ホントに…。
天国から、今の矢野監督に言いたいことはおそろく「非情にならなアカンときは必ずある」ってことだろうね。
ベテラン選手や外国人選手に2軍降格を告げるとき、それ以上に戦力外を通告しないといけないとき。
どう伝えるか、どうフォローするかは大事だけど、チーム再建のためなら、それがプロ野球の監督の仕事だってことだよね。
きちんと畑を耕して、種をまいて、水をやって、育てる。当たり前のこの手順をきっちりとやってきたのが、星野監督だった。
畑を耕す部分は1999年からの野村克也さんの3年間だったかもしれないが、おだてながら水をやり、怒りながら育てた。
星野仙一みたいな、熱くて、愛情をもって選手を育て、根気よくチームをつくり上げる男が今の時代にも出てきてほしいね。
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☆ 筒井コーチ勝負の3年目 おじ星野氏が愛した店で決意
1月4日は星野仙一の命日だ。 18年のことなのであれから丸3年。時がたつのは早い。
「珈琲館 尾賀」(神戸市東灘区)のドアを開けた。 芦屋に住んだ阪神監督時代、足しげく通った店だ。
好んで食べたモーニングセットをお願いする。
そこに知った顔が訪れた。筒井壮。阪神の外野守備兼走塁コーチ、今季からは「分析担当」という肩書も加わった。
知らない人もいるかもしれないが筒井は星野の姉の息子、つまり、おいっ子だ。
昨年の同日、店に誘ってから1人でも訪れているという。
コロナ禍でもあり、普段とは違って遠慮で済ませたいところ。 しかし顔を合わせてしまえば星野の思い出話、
さらに野球の話になっていく。 少し疑問だった「分析担当コーチって?」と聞いてみた。
「あまり言えませんけれど。僕の立場から言えば、まあ盗塁面でしょうね」 言葉少ない筒井だが狙いは明確だ。
筒井は矢野燿大の2軍監督時代から2軍で一塁ベースコーチを務めた。相手投手のクセを研究、盗塁に生かした。
その結果が18年にファームでマークしたシーズン163盗塁というとんでもない数字だ。
その足攻もあってファーム日本一にも輝いている。 そして19年、1軍監督となった矢野とともに1軍へ。
「ファームと同じように頼む」という矢野の依頼を受け、シーズン100盗塁到達に貢献した。
この年、リーグで3桁到達は阪神だけ。大台に乗ったこと自体、闘将の下でリーグ優勝を果たした03年以来だった。
昨季はコロナ禍で試合数が120になった。それでもチーム盗塁数80個をマーク。これは巨人と並んでのリーグトップ。
それでも筒井には誇れるものがある。盗塁者数である。
「巨人は盗塁をした選手は16人。ウチは近本を筆頭に23人が走りました。サンズもボーアも盗塁してますから。
そういうところですね」。 矢野が理想にする全員野球はこの部分にもあるのだろう。油断すれば誰でも走ってくる。
そんないやらしさを武器にしたい。 「オジさんは選手が勝手に走ることは好きじゃなかったですね」。
星野の意思を受け継ぎ、盗塁、走塁、それに伴う分析担当と自身の責任を明確にする筒井にとっても勝負の3年目だ。
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☆ 【プロ野球秘話】 再建を託されて「怖いんですわ」と本音。 阪神監督の凄まじいプレッシャー ①
1985年に球団初の日本一に輝いた吉田義男率いる阪神は、87年に41勝83敗6分け。
勝率3割3分1厘で球団創設以来、ワーストの最下位に終わった。
この危機にタイガース再生を託されたのが、ミスタータイガース・村山実だった。 15年ぶりの監督復帰。
70年から3年間、監督を務めた村山にとって、火中の栗を拾う役目であることは百も承知の就任だった。
監督復帰が報道された87年10月14日の早朝。電話取材に応じた村山は、監督就任要請を受けたことを認めた後、
「受けるのか」と問われ、驚くべき言葉を吐いた。 「怖いんですわ」
プロ14年間で通算222勝(147敗)を挙げ、防御率2.09を誇る大エースが漏らした耳を疑う言葉だった。
芦屋市の自宅前で報道陣の取材に、同日午前7時に岡崎義人球団社長から電話で監督就任要請があったことを
認めた村山は「今のチーム状態を考えると、正直言って要請を受けるのが怖い気落ちです。
どのように再建すればいいのか…。 返事は24時間待ってほしい。
OBとしてタイガースには人一倍愛着があり、前向きに考えるのは当然です」と、ここでも揺れる思いを吐露している。
10月15日、岡崎球団社長と会談し受諾した村山だが、杞憂が現実のものとなる。
引き受けた87年のチームは、2年前に日本一に輝いた同じチームとは思えないほどの低迷ぶりだった。
序盤戦の8連敗を含め、8連敗が3度。6月には主軸の掛布雅之が腰痛でリタイア。
竹之内雅史コーチがチーム再建策を巡って吉田と対立し、遠征先の札幌から帰阪しそのまま退団する造反劇も
あり、浮上することなくシーズンを終えた。
そんなチームの立て直しは、相当の覚悟がなければ引き受けられない。
また、村山には野球人以外に、社員を抱えるスポーツ用品販売会社の経営者としての顔もあった。
永久欠番の「11番」を背負っての再登板には、すべてを投げうって愛する阪神の再建を引き受けるという
不退転の思いも込められていたのだろう。
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☆ 同上 ②
村山に苦難の道が待ち構えていた。 ヘッドコーチとして58年の阪神退団以来の復帰となった田宮謙次郎が5月初旬、
練習中に脚の肉離れで戦列を離れ、そのままフロント入りしてしまう。
さらに長男の病気で帰国したバースの来日のメドが立たず、6月下旬に契約解除に踏み切った。
掛布も7月中旬に腰痛のため戦列を離れ、9月に現役引退を発表することに。6月22日には3連敗で早くも30敗目を喫し、
腹心のヘッドコーチ、主力打者を欠き51勝77敗2分けで2年連続最下位に沈む。
この間、7月19日朝、球団代表の古谷真吾が宿泊先の東京都内のホテルで転落死。
6月10日付で球団本部長から球団代表に就任したばかり。
バース退団や掛布の現役引退騒動の処理など、心労による自死とされた。
古谷は村山が1970年、一度目の阪神監督に就任した時の球場長。
16年ぶりに「代表」と「監督」として一緒に仕事をすることになっただけに、
村山は「時間をふんだんに割いて2人でチーム再建を図ってきたのに」と落胆を隠さなかった。
翌89年は54勝75敗1分けで、順位を一つ上げたものの村山は5位でユニホームを脱ぐ。
シーズン途中の9月17日の甲子園でのヤクルト戦終了後、辞意を表明した村山の退陣の弁は
「もうみなさんに騒がれたくないので決めました。2年間は短かったかもしれないが、若手が使えるめどがついた。
どうか明日から静かにゲームをさせて下さい」という報道陣への訴えだった。
村山は9年後の1998年8月22日、直腸がんのため61歳の若さで急逝。
長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を許し球史に残る天覧試合など、野球ファンだけでなく記録にも記憶にも残る大エースだった。
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☆ 福島章太が思い出のグラブ持参 「壁に当たった時見る」 初心忘れず気持ち奮い立たせる
中日の新人9選手が7日、名古屋市内の選手寮「昇竜館」に入寮。
ドラフト4位の福島章太投手(倉敷工)は、高校1年冬に両親から買ってもらった思い出のグラブを持参した。
プロで使う予定はないが自室のテレビ横に置き、両親への感謝の思いはもちろん、
大会でなかなか勝てずに悔しい思いをした高校生活をいつでも思い出せるようにするという。
「壁に当たった時に見るようにしたい」と初心を忘れずプロ生活に臨む。
「2年の夏の大会で負けたときの写真も持ってきました。その試合は思い出がある。かばんの中に入れて持ち歩きます」
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☆ イーロン・マスク氏、世界一の富豪に アマゾンのベゾス氏抜く
米電気自動車大手テスラのイーロン・マスク最高経営責任者が7日、米アマゾンを率いるベゾス氏を抜き去って
世界一の富豪の座に就いた。
テスラの株価は同日午前に6%上昇。これによりマスク氏の保有株などの資産価値は100億ドル増加し、
資産総額が約1910億ドル(約19兆8500億円)となった。
一方のベゾス氏のアマゾン株は2%未満の上昇にとどまり、その資産総額は1870億ドル(約19兆4400億円)。
日本の富豪は下記
第1位はユニクロで知られるファーストリテイリング創業者の柳井正氏。 資産額は2兆3870億円。
1984年に父から会社を継ぐと、ユニクロの原点となる1号店を広島に開店。
カジュアル衣料分野で成功して店舗を全国に拡大し、フリースやヒートテックなど価格と品質を両立したオリジナル製品を
次々に市場に投入し、成功を不動のものにした。
第2位はソフトバンク創業者の孫正義氏。 資産額は2兆1940億円。
学生時代に開発した自動翻訳機をシャープに売り込んで1億円を稼ぎ、ソフトバンクを創業してからはヤフーの設立、
ブロードバンド事業の立ち上げ、携帯電話事業への参入など次々に事業領域を拡大していった孫氏。
名実ともに日本を代表する経営者の一人。
第3位はキーエンスの創業者である滝崎武光氏。 資産額は2兆1190億円。
企業向けのセンサーや情報機器を開発・販売するキーエンスは、社員の平均年収が2000万円を上回る超高年収企業として有名。
キーエンスを創業した滝崎氏は、一代で巨万の富を築きながらもメディアへの露出が極端に少ない人物として知られている。
日本長者番付2020(フォーブス)より。
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☆ 福島のグラブは 心“黄”一転の楽天・松井モデル
福島章太投手(18)=倉敷工高=は10日、ナゴヤ球場で行われた新人合同自主トレでキャッチボールなどで汗を流した。
「きのうの初練習が終わったときよりは緊張もほぐれて、少しずつこういう環境にも慣れていかないといけないな、と。
自分のコンディションを見ながら順調に調整できているかなと思います」
前日9日に受けた身体組成計測で筋肉量が昨夏から1キロほど落ちたことも分かったという。
今回の自主トレはウエートトレーニングなどを通して筋肉量を回復させながら、
けがをしない強い体作りをすることをテーマに置いている。
最速147キロ左腕は高校時代に赤色のグラブを使用していたが、プロ入りに合わせて黄色のものに新調。
鮮やかなカラーの楽天・松井モデルは、サイズ感も合う以外にも「硬い方が力が入りやすい」とこだわりもたっぷり。
新相棒を携えて、一歩ずつプロの階段を上がる。
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☆ 福島は“天才型” 約1%の左利きAB型、先輩の山本昌&岩瀬に「肩を並べられるように」
中日のドラフト4位左腕・福島(倉敷工)がレジェンドの系譜を継承に名乗りを上げた。
日本で約1%しかおらず、「天才型」が多いとされる左利きのAB型。
名球会入りしたOBの山本昌氏、岩瀬仁紀氏と同じで、
「すごい選手ばかりなので、自分も肩を並べられるように頑張りたい」と意気込んだ。
球界を見渡しても右投げ右打ちの巨人・坂本が元々は左利きのAB型。
他競技ではサッカー元日本代表の本田圭佑も同様で、名選手がずらり。
幼少期から周囲にうらやましがられたそうで「自分では天才型とは思っていないです。
努力型というか、練習を休むことなくやってきた結果だと思います」と謙遜した。
新人合同自主トレ2日目はキャッチボールやランニングなどで調整。
9日の身体計測では昨夏と比べて筋肉量が落ちていた。
「鍛えなおすべきところが分かった。 ウエートトレーニングで筋量を上げていきたい」
とまずはキャンプへ向けた体づくりを誓った。
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☆ 王貞治、世界新の翌日に二日酔いでサヨナラ弾 「狙わずに打ったホームランは初めて」
王が世紀のホームラン世界新記録通算756号(1977年9月3日対ヤクルト・後楽園球場)を放った夜だ。
取材を受けた後、六本木の能登料理屋で食事を取り、目黒区中根の王家に戻ったのは午前2時を過ぎていた。
そんな深夜にも700人近いファンが玄関前から近くの公園まで続きヒーローの凱旋を待ちわびていた。
拍手、歓声…。 どよめきの中、王は階段に立ち「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
月明りとテレビライトに映し出された顔は青ざめて見えた。
「上がっていきなよ」と家の中に通された。 1時過ぎまで待っていたという3人娘はもう寝ていた。
お祝いの花束で埋まる応接間には恭子夫人(故人)、その両親がシャンパンを用意して待っていた。
乾杯のあと王はシャツとパンツ一枚になり本格的に飲み始めた。 「もうこんな騒ぎ、こんないい日は二度と来ない。
最初で最後だぞ」と夫人に笑いかけた。
裸になった姿を見て「これで756号狂騒曲から解放されたな」と思ったが「最高の日はもう最後」の言葉がなぜか寂しく
「まだまだもっといい日がきますよ」と何の根拠も示さず無責任なことを口にしてしまった。
実際、それからの王は800号のときちょっとした騒ぎになったが、あまり派手な話題はなかった。
とくに、監督になってからはリーグ優勝1回だけで解任され、ダイエー監督になったときも始めのころは成績がパッとせず、
生卵を投げつけられる屈辱に耐えねばならないときもあった。
最高の日はなかなか来なかったが、2006年WBCの日本代表監督として世界一を獲得。「野球人生最高の日だ」と叫んだ。
756号よりもっといい日がきたのである。
さて、その夜は午前3時を回り、おいとまを告げた。 帰り際に王は「毎日欠かさず取材にきてくれて大変だったな。
ご苦労さまでした」と花束をくれた。 王家の祝宴はそのあと明け方まで続いたという。
翌日、球場入りした王は「今日ばかりは野球をやれる状態じゃないよ」と腫れぼったい目をこすりながら打撃練習もそこそこに
ロッカーにこもった。 しかし、試合が始まると自然に闘争心が芽生えるのか。
とくに、1-3とリードされた8回裏1死1、2塁のチャンスに王はリリーフのヤクルト・安田に三振を喫し心に火がついた。
9回裏、巨人・矢沢の2ランで同点とすると延長10回裏だ。
無死1、2塁で王は再び安田と対した。 その初球だ。 胸元に食い込んでくる左腕からのシュートをとらえる。
打球は右中間に伸びスタンドにとびこんだ。世紀のホームラン記録の次の757号は劇的なサヨナラ3ランとなったのである。
並みの選手なら野球人生最高の日となったかもしれないが、王は「今日は体がぴりっとしなかった。まさかホームランになるとは…。
全く反射的にバットが出た。 狙わずに打ったホームランは初めてだね」と連夜のヒーローにも淡々とインタビューに答えた。
寝不足だろうが、二日酔いだろうが、打席に立てばたちまち本塁打マシンに早変わりする。
一本足打法の世界のホームラン王はその後記録を868号まで伸ばして1980年に引退するのだが、最後の年も30ホーマー。
「まだ、やれるのに…」の声をよそに「自分の思っている打球が打てなくなった」ひっそりとバットを置いたのだった。
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☆ 福島 「走り込みには自信あり!」 ハードメニューも涼しげに完走
ドラフト4位の福島(倉敷工)が豊富なスタミナを披露した。
第2クール初日を迎えて「緊張もほぐれてきた」。 キャッチボール、ノックの後は50メートルの往復ダッシュを14本。
地面に倒れ込む選手もいたほどのハードなメニューだったが、176センチ、88キロと大柄な左腕は涼しげな表情で完走。
「高校時代走り込んだ時期があったので」と自信をのぞかせた。
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☆ 福島 先輩・福から学び “福”呼び寄せる!! 身長、体重もそっくり
福島章太投手(18)が20日、同じ左腕、同じがっちり体形、そして“福"つながりの福敬登投手(28)への弟子入り願望を明かした。
ナゴヤ球場のスタンドから見ると、自主トレで汗を流す2人はそっくりだ。
身長176センチ、88キロの福島に対し、福は180センチ、88キロ。 高卒左腕が憧れを抱くのは自然な流れだった。
「チームにとって必要不可欠な存在ですし、まねするところ、吸収しないといけないところがある」
初めて会った気はしなかった。 YouTubeで福の投球フォームを研究。
「直球の伸びが違う。 質の高い直球を求めるために、いろんなアドバイスをもらいたい」。
こちらも最速147キロの力強い速球が売りだが、福の球質と比べると大きな差が見える。少しでも近づくためのヒントがほしいのだ。
トレーニング中の福には近寄りがたかったが、あいさつをすると笑顔でニッコリ。
「初めは緊張感があった。でも、気さくな方だなと。機会があればもっと話したい」。 その人柄にも引き付けられている。
新人合同自主トレ第3クールを終え 「自分らしく動けている」と充実の表情。 福から学び、福を呼び寄せる。
福敬登: 市立神戸西からJR九州に入社。 同社の野球部に所属し小倉駅の駅員を務めていた。
5年目の2015年には速球が最速150キロを計測するようになった。 2015年のドラフト4位。
2020年、53試合に登板、5勝5敗25ホールド2セーブ、防御率3.55の成績をマークし最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。
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☆ 高野連、選抜は有観客で実施 入場料改定
消毒、備品の準備、警備費、販売システムなど感染症対策の経費がかかるため、
入場料は中央指定席が現行の2500円→3900円、外野指定席が現行の無料→700円など
入場料金が改定になる。 アルプス席は学校関係者のみとして一般発売はしない。
昨秋の明治神宮大会がコロナ禍で中止されたため従来の神宮大会枠を決められないことを受け、
21世紀枠を1枠増やしてこれまでの「3」から「4」にする。
3月19日から甲子園球場で13日間の開催。29日に選考委員会が開かれて出場32校が決まる。
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☆ 新宗教系のスポーツ名門校 宗教色薄い学校多いが幸福の科学は例外
箱根駅伝を盛り上げた創価大学、そして全国大学ラグビー選手権で初優勝を果たした天理大学は「宗教団体」を母体とする。
なぜ教団はスポーツ教育に力を入れるのか。 ノンフィクションライターの柳川悠二氏が裏側に迫った。
信仰とスポーツ活動が密接に結びついた学校といえば、PL学園だろう。
黄金期にあたる1980年代は全国に点在する教会のネットワークで有望中学生の情報を集め、大阪府の富田林でセレクションを実施。
入学した選手の学費などは、教団の寄付を惜しみなく投じて賄なっていた。
「神に依る野球」「PLの野球は世界平和に通ず」という理念のもと、プレー中は、打席に入る際や守備に就く際に、
ユニフォームの胸の辺りに隠れたアミュレットと呼ばれる御守りを握りしめ、祈りを捧げた。
PLは神道系の新宗教であるが、勝利を嘆願する神頼みではなく、「練習通りの力が出せますように」という願いを込めた
ルーティンのような所作であった。
あれほどの人気を集めたPLも、学園を運営する教団の信者数が激減し、あわせて学園の生徒数も大きく定員割れして硬式野球部に力を
注げる状況ではなくなった。 度重なる暴力事件などの不祥事もあり、野球部は2016年に事実上の廃部に。
剣道部も全国随一の強豪校として名高かったが、かつての勢いはない。
しかしながら、100年を超える高校野球の歴史を、新宗教系の学校が彩ってきたのは確かだ。
甲子園常連校では辯天宗を母体とする智弁学園(奈良)や智弁和歌山、そして天理や創価。
また、激戦区の大阪で夏1回の出場経験がある金光大阪(金光教)や東京の佼成学園(立正佼成会)も強豪である。
現在も名門であり続ける新宗教系の学校は、PLとは違って宗教色が薄いのが特色だ。
以前、智弁和歌山の前監督である高嶋氏に話を聞くと、自身も信者ではないと打ち明け、こう続けた。
「野球部だけやなく、ほとんどの生徒が信者ではありません。以前は、試合中に念珠をつけてプレーする選手もいましたが、
高野連から危険だということで禁止になった」
新宗教系学校のあり方が問われる時代に逆行するように、宗教色を隠さないのが幸福の科学を母体とする幸福の科学学園だ。
教団の総本山である那須精舎の敷地内に、生徒が集まっている。
野球帽には「RO」という大川隆法総裁のイニシャルが入り、試合後に歌う校歌『未来をこの手に』は仏陀の霊指導によって
大川総裁が作詞したもの。 曲も総裁が霊言によってモーツァルトを現世に呼び出して作曲したという。
野球部は甲子園出場経験がないが、同校のチアダンス部は国際大会でも活躍する。同教団のHPにはこう記されている。
2018年3月、中学チアダンス部は全国優勝、高校チアダンス部はアメリカで行われた世界大会で第3位を獲得しました。
バトントワリングに力を入れていたPL同様に、スポーツで活躍するだけでなく、応援に熱心なのも新宗教系学校の特徴かもしれない。
かつてPLでは学園野球部が教団の広告塔の役割を担った。 だが、平成、令和と時間が流れる中で、
宗教団体とスポーツの結びつきも少しずつ変化を遂げてきている。
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☆ 幻の「巨人星野監督」 オファーは3年総額40億円?
1月22日は闘将・星野仙一さんの誕生日。 生前の星野さんから聞いた衝撃的な告白を記します。
「闘将・星野仙一」に巨人から監督就任のオファーが届いているという情報が駆け巡ったのは05年のことです。
堀内監督の2年間で3位、5位。 02年以来、優勝から遠ざかって巨人としては低迷期に入っていたとされる頃です。
巨人の渡辺オーナーが、当時阪神で「オーナー付シニアディレクター(SD)」というフロント職に就いていた星野さんに
チーム立て直しを目指して白羽の矢を立てたという構図でした。
最初に聞いたときは信じられない思いでした。 電話で直接聞いてみると「言えんなあ」とはぐらかす星野さん。
思わず記者という立場を忘れて「これまでの流れを考えれば巨人の監督になるのはさすがに勘弁してほしいですけどね」
と言ってしまいました。
すると星野さんは一瞬、真面目な声で「オレの人生やないか。ほっとけ!」と言ったのです。
これはかなりのレベルまで話が進んでいるのかな、とドキドキしたものです。
結果的にこの話は流れました。理由はいろいろあったでしょうが、私が耳にしたその1つは監督をやるからには
コーチなどの人事をすべて握りたい星野さんと巨人サイドの思惑が一致しなかったというものです。
とにかく「巨人星野監督」は幻に終わりました。
その後、星野さんは北京五輪監督、そして楽天監督に就任、その巨人を破って日本一に輝いています。
それだけではありません。楽天監督を勇退すると球団の取締役副会長という要職についたのでした。
あれは15年か16年だったでしょうか。 阪神との交流戦で仙台のスタジアムを訪れたときのことです。
スタジアム内に設けられていた「副会長」専用の部屋に通してもらい、お茶を飲んでいました。
そこで星野さんは思い出したようにこんなことを言ったのです。
「おまえ、ずっと前に巨人の監督どうこう聞いてきてたよなあ? 今やから言うてもええと思うけど、あのときな、
契約金10億円、年俸10億円の3年契約、併せて40億円でどうですか?っていう話やったわ」
正直、度肝を抜かれました。「そうなんですか。そらあ、ごっつかったですね…」としか返せませんでした。
今となっては真相はやぶの中ですが衝撃を受けたのは忘れられません。
1月22日は星野さんの誕生日。 生きていれば74歳になっていました。
健在なら、一体、何をして球界を驚かせていただろう。
そんなことを思うと、やっぱり少し早いお別れだったな、と感じるのです。 (日刊スポーツ・コム)
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☆ 甲子園V元球児に懲役5年 強盗致傷事件で千葉地裁
2019年4月に千葉県八街市内の住宅に強盗目的で押し入り夫婦にけがを負わせたとして、
強盗致傷などの罪に問われた20代男4人の裁判員裁判の判決公判が4日、千葉地裁で開かれた。
4人のうち17年に夏の甲子園で優勝した花咲徳栄の元主将、千丸剛被告(21)=東京都町田市=に対し、
坂田威一郎裁判長は懲役5年(求刑懲役6年)を言い渡した。
検察側は論告で、千丸被告について「金欲しさに犯行に参加した」と短絡的な側面を指摘。
他の被告と協力し、被害者の女性に粘着テープを巻き付けるなど積極性があったと非難した。
起訴状によると、4人は仲間と共謀し19年4月26日午後9時40分ごろ、当時50代の夫婦が住む八街市の住宅に
強盗目的で押し入り、夫の頭をバールで1回殴り、妻の顔に粘着テープを巻き付けるなどの暴行を加え、
2人にけがを負わせたなどとされる。
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☆ 花咲徳栄・元主将に懲役5年判決が下された背景
2月4日午後、強盗致傷などの容疑で逮捕された千丸剛被告(21)に対する判決が千葉地裁で下された。
千丸被告は甲子園で4割以上の打率を記録し、チームを牽引した。卒業後は駒澤大学野球部に入部。
だが、本人いわく「理不尽なシゴキ」を受けて1年生時に退部し、大学も中退した後は無職だった。
裁判開始の10分前に法廷に入った千丸被告は紺のスーツに白いシャツ。散髪したと思われ、スッキリした雰囲気を受ける。
これまでの裁判と同じように、他の犯行グループのメンバーから一人離れて弁護側の前に座ると、じっと前を見つめた。
「千丸剛、懲役5年」 裁判長が告げた瞬間、千丸被告の父親は下を向いた。
一方、着席した千丸被告は前を向いたまま、微動だにせず、表情も変わらなかった。
千丸被告側は、「友人から『人のいない家からお金を運ぶ仕事』と誘われ、強盗とは知らなかった」と主張し、
犯行におよぶ直前に計画を聞かされたと述べていた。
また、侵入した住宅内でも恐怖で身体が動かず、住人女性を押さえつけるような行為はしていないと法廷で証言。
千丸被告の弁護士は執行猶予つきの判決を求めていた。
「知らないうちに巻き込まれ、他のメンバーから脅されたことで、途中で抜けることもできなかったと言い張った。
ところが、それが逆効果だった。
裁判官に『犯した罪を過少に捉えて、十分に反省していない』という印象を与えてしまい、
千丸被告側の主張はことごとく退けられました」(全国紙担当記者)
犯行グループのリーダー格には懲役8年6ヵ月の判決が下された。
また、千丸被告以外の他の2人はそれぞれ懲役5年6ヵ月、6年だった。
「他のメンバーと比べても、千丸被告の罪の重さはそれほど変わりません。
検察側の求刑である懲役6年がほぼ認められた結果です。
千丸被告は初犯ですし、すでに500万円の弁償金を払い、花咲徳栄の野球部監督の紹介で仕事先も決まっていた。
しかし、強盗致傷は重罪。執行猶予がつくことはありえませんし、被害者の住人夫婦も実刑を望んでいました」(同前)
判決の後、地裁を出て駐車場に向かった千丸被告の両親は強張った表情で、集まったマスコミに声をかけられても、
立ち止まることはなかった。
野球以外の趣味はほとんどなく、チームメイトの誰もが認める圧倒的な練習量で野球部を優勝に導いた千丸被告。
罪を償って、再び真っ当な道を歩むことを願うばかりだ。
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☆ 祝 日本高野連表彰 育成功労賞 「諦めない野球」
高野連より昨年、前倉敷工監督の中山隆幸氏に「育成功労賞」が贈られた。
東岡山工、笠岡工、倉敷工、そして現在の岡山工の4校で野球部の指導者として35年。
長年、高校野球の発展に尽力した指導者に贈られるのが、この『育成功労賞』である。
ウエイトトレーニングやメンタルトレーニングを先駆的に採り入れた一方、理想とするのは、『最後まで諦めない野球』である。
『ええぞ』『振り切れよ』部員に熱く、盛んに声をかける。
消極的なプレーには雷を落とすが、思い切りの良い、ひたむきなプレーは、とことん褒める。
倉工在学時、理不尽なしきたりもあった。 入学時80人いた同期の部員は、最後には、14人に。
【指導者になり一所懸命の頑張りを、認めよう】 倉工在学時、指導者になる事を誓った。
東岡山工から、1984年に笠岡工に赴任。 笠岡工は全く実績のないチーム。 コールド負けも珍しくなかった。
中山氏は、他校と同じ練習をしては勝てないと、ウエイトトレーニングを導入。 手作りの器械だった。
当時としてはまだ珍しかった。 すると、スイングスピードが早まり、遠投も伸びた。
そして、6年目倉敷工を破って、県大会ベスト8入りを果たす。 手応えを感じた。 1994年(平成6年)母校倉敷工へ。
母校で甲子園の土を3度踏んだ。 今も語り継がれるのが、倉敷工を34年ぶりに選抜に導いた2009年春。
「倉工が甲子園に出場したチームの中では、一番弱いチームです」と、中山氏。
モットーである『プレーは大胆に』と『フルスイング』で、力を伸ばし、【諦めない野球】で、中国地区大会を勝ち上がった。
金光大阪との開幕試合。 「緊張感を力に替えろ」と、ナインの背中を押し続けた。
4度もリードされながらも追いつき、延長12回サヨナラの11対10で、ついに勝利をつかんだ。
サヨナラ打を打った選手は、入学時チームの中で一番線が細かった。
「まだ、できる」と、声をかけ続けた結果、精神的なもろさを克服。
ウエイトトレーニングで鍛えた筋力を生かし、勝負強い選手に成長。
勝負を決めたフルスイングに彼の成長を感じて、胸が詰まったという。
【勝ち負けも大事だが、人間育成こそが野球の目的】と、中山隆幸氏。
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☆ 捲土重来 平成8年の夏 ①
全国屈指のエースを負傷で欠き、それでも炎の闘志と団結力で勝ち抜いた昭和36年夏。
その夏を呼び起こすような激戦となったのが平成8年夏。 選抜ベスト4の岡山城東との決勝戦。
初回に1点を先取するも、2回に逆転され、3回を終って、1-3と劣勢。
5回に4-3と逆転、6回に4-6と再度逆転されたが、7回に同点に追いつく。
そして、延長12回表、二本の連続タイムリーで8-6。
序盤不調だったエース中原が、7回以降は完璧に押さえ10年ぶりの切符を手にした。
最後の選手を打ち取った瞬間、ナインはマウンドのエースへ走り、抱き合った。
監督和泉は、何度も何度も宙を舞い、ナインも、応援スタンドも泣いた。
倉工野球の、意気と誇りと苦闘の日々の団結はしっかりと息づいていた。 この平成8年夏を、振り返ってみる事にする。
物語は平成6年にさかのぼる。 平成6年4月、頼もしきOBが母校に凱旋した。
そのOBは、倉工在学中から大いなる夢を抱いていた。 その夢とは、「 教師になる事。 野球の指導者になる事 」。
足利工大へ進学し、野球部には入らず学業に専念。 野球、指導学を独学で学んだ。
その努力が実り、教員採用試験に一発で合格。 東岡山工、笠岡工を経て、母校に帰って来た。
OBの名は、中山隆幸。 倉工に転勤命令を受けた中山は、すぐに和泉に電話をした。
中山から報告を受けた和泉の第一声は、「 ほんまか 」だった。
【 コーチはいたんですが、外部コーチだったんですね。 ですから学校行事や授業と、練習の時間が合わなくて。
コーチがいない時は、私一人で指導してたんです。 それで、監督経験がある中山が来てくれる事を聞いて、
これで時間が合う仲間ができたと、すっごく喜びましたよ 】
苦労に苦労を重ねていた和泉にとって、何よりの吉報だったに違いない。
一方、中山は、【 倉工で、指導する事になり、プレッシャーがありました 】と言う。
【 中山が、うちに来たからには、必ず3年以内に甲子園に行きますよ 】と校長。
こうして、部長に中山、監督に和泉( 和泉が一学年先輩 )が誕生したのである。
そして、この二人のコンビで、倉工旋風を巻き起こす事になる。
しかし、和泉と中山らの在学中の倉工野球部は順風満帆ではなかった。
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☆ 同上 ②
【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に甲子園に行くんだ 】 小沢監督に憧れ、倉工の門を叩いた和泉。
倉工に行けば甲子園に行ける。 夢を追いかけた。 「 倉工の迫力ある打力、打撃に憧れましてね 」と、和泉。
しかし、小沢監督の背中を、追いかける時間は長くはなかった。 いや、短かすぎた。
和泉が、一年生の時(10月) 小沢監督が引退してしまったのだ。 選手たちは『 小沢監督の指導を受けたい 』
『 そんな、はずじゃあないのに 』と。 「 次は、誰が監督になるのか、心配でした 」と、和泉。
小沢監督の後任に当時、コーチだった脇田が監督に。 しかし、脇田監督も、和泉が二年生の、11月で退任してしまった。
和泉の苦労は、ここから始まる。 在学中に二人の指揮官を失った倉工野球部。
主将の和泉は小沢の所へ行っては、「 どんな、練習をしたらいいですか 」と、何回も足を運んだという。
冬場の鶴形山の階段はきつい。 部員の中には、「 監督もいないし、もう帰ろう 」と、言い出す者もいた。
手を抜く者もいた。 和泉は訴えた。
「 俺たちが、甲子園に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。 しっかり、走って足腰を鍛えよう 」
『 当時は、倉工のグランドで練習していても、サッカー部やラグビー部もいましてね。
それで、打撃練習は、一人ずつしか出来なかったんです 』と、和泉。 こうして、指揮官のいない月日は流れた。
監督がいない倉工野球部。 その期間は約5か月にも及んだ。
そうした中、和泉らが最終学年に差し掛かろうとした3月末やっと新監督が誕生。 OB吉田豊。
昭和47年選抜甲子園ベスト8時の内野手。 吉田は大東文化大卒業と同時に倉工に。
主将和泉はナインに訴えた。 「 今日は、新監督が来る日、ちゃんと大きな声で挨拶をしよう
練習も気合いを入れて、監督に気にいってもらえるようにしよう 」と。
そして、和泉は退部していた本来のエースを呼び戻す。 こうして、若き指揮官と共に夏の甲子園を目指す事になった。
その夏の予選は準々決勝で岡山南に敗退した。
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☆ 同上 ③
和泉は法政大に進学。 走力と打力には自信があったが、全国から集まった精鋭たちの前では甘くなかったようだ。
法大を卒業した和泉は、理大附の教壇に立ったが、すぐに倉工校長から「 和泉よ、倉工に帰って来い 」と言われ、
その後長く、倉工野球部の監督をする事になる。
しかし、なかなか思うようにはいかず、マスコミから厳しい言葉を受ける事もあったという。
こうして、時は過ぎ平成6年を迎えた。
監督経験もある頼もしきOB中山を野球部部長として迎え、和泉と中山のコンビが誕生したのである。
あくまでも、野球を通じて人としての心、人間性を重んじる中山の野球道。
一方、どんな投手でも、打ち崩せる打撃チームを理想とし、戦術面で時には緻密な作戦を用いた、
小沢野球を追求して行く監督和泉。
平成6年の一年生を見た和泉は、『 面白い奴が多いなあ 』と感じたという。
「 特に、北條なんか、中学のスポーツバッチテストが100点満点でしたからね。
いいのが、来たなと思いましたよ 」 こうして県一年生大会を前にして、中山の猛ノックが始まった。
「 一年生大会の時は、中山先生が良くノックをしてくれましてね。
試合の時は和泉先生が監督でした。 とにかく無我夢中で必死で頑張りました。
大会に入ると、試合が出来るという喜びがありましたね。 もう怖い物知らずでした 」
こう語るのは西川剛正。 現在は、倉工野球部コーチ。
この一年生大会は、一年生で退部するのを防ぐと共に一年生全員が、どこかで出場する事を趣旨としている。
A、Bの2ブロックに別れていて、各ブロックの優勝チームが、優秀校として表彰され、決勝戦は行わない。
平成6年県一年生大会で、倉工は優秀校となる。
8 - 1 作陽、 12 - 1 東岡山工、 14 - 1 玉野、 13 - 3 玉島商
暗く長いトンネルが続いていた倉工。 ここに来て、やっと出口が見つかりかけた平成6年。
この大会の主戦投手は中原俊博。 右打者に対し、インコースにナチュラルシュートがあり、
インコースに投げ切れる。 そして、アウトローに決まる、伸び切れのあるストレートが持ち味。
和泉監督は「 そこそこは出来るチームだなと感じました。 手応えを感じましたね 」
こうした中、部長、監督を補佐し支えて行く二人のOBコーチがいた。
藤原( 昭36年卒 )と、永山( 昭38年卒 )。 二人とも、甲子園と国体に出場経験を持つ。
藤原は主に守備コーチを担当。 永山は投手コーチを。
年齢差は大きいものの、コミュニケーションを大事に進めて行く両コーチ。
内野手の西川は、「 藤原さんと永山さんは、よく僕らの話を聞いて下さいました。
そして、理解してくれましたね 」 体制は出来上がった。
こうして、平成7年夏。 暗く長かったトンネルに光がさしてきた。
遠かった甲子園への道。 甲子園の、あの大歓声が聞こえて来るところまで来ていた。
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☆ 同上 ④
平成7年夏。
和泉と中山のコンビは、OBコーチ藤原と永山の助言を得て、近年にない大型チームを作りあげる。
県春季ベスト4、8校選抜優勝。
エース辻村に加え、球速140を超え、社会人野球注目の平がリリーフし、勝利の方程式が完成。
打線も4番平を中心に、上位下位何処からでも得点が取れる。 快進撃を続ける倉工。
倉工 6 - 2 津山、 倉工 6 - 4 和気閑谷、 倉工 9 - 8 倉商
準決勝は、この年選抜甲子園に出場し、エース吉年投手を擁する、最大の難敵関西。
吉年は全国的にも知られ、高校生離れした球威を誇る。
倉工としては、何としても打ち崩したいところ。 試合が始まった。
いきなり倉工打線が、吉年投手に襲いかかった。
平の左中間、フェンス直撃弾をはじめ、前半を終えて、6点のリード。
吉年投手を攻略し勝負ありかと思われたが、さすがに関西も意地がある。
倉工エース辻村に疲れが見え始めた後半、関西打線が爆発。
終わって見れば、6対7の逆転負けを喫したのだった。
『 関西の方が、より多くの経験を積んでいたと思います 』と、和泉。
『 準々決勝の倉商戦と、準決勝の関西戦は天国と地獄を味わったようで。
記憶に残る試合となりました 』と、中山。
倉工野球の意気と誇りと苦闘の日々はつづく。
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☆ 同上 ⑤
平成8年。 この年、県高野連発足50周年を記念して、朝日新聞社に於いて、優勝旗が新調された。
この新しい優勝旗を目指した戦いが始まる。
この年、春の選抜甲子園で4強入りした岡山城東は、春夏の連続出場を目指す。
また、夏の甲子園3年連続出場を狙う関西。
チームの横顔を紹介したい。 一番センター北條、二番セカンド西川、出塁率が高く走ってかき回す。
エース中原は、コントロールが良く、ストレートに威力がある。 捕手の福原は、強肩で長打力はチーム一。
サードの坪井はパワーヒッターで足も速い。 ショートの渡辺は、チーム一の努力家であり守備力は抜群。
レフトの藤原は、パワーヒッターで守備もいい。 ライトの白神はリストが柔らかく強肩巧打。 個性派揃いの倉工ナイン。
こうして、第78回全国高校野球選手権大会 岡山大会が開幕した。
倉敷工は第2シード。 初戦は、一回戦延長で勝利した笠岡工。
一回表、笠岡工の攻撃、倉敷工は、いきなり満塁のピンチに立ち、1点を献上。
だが、二回に1点、三回に2点を上げ逆転に成功。 終わって見れば5対1で勝利。
投げては、エース中原が10個の奪三振。 特に九回の、3者連続奪三振は圧巻。
3回戦は打倒倉工を目指し、金星を挙げたい玉島商だった。
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☆ 同上 ⑥
第78回全国高校野球選手権大会 岡山大会準々決勝
倉敷工 VS 玉島商 夏に強い 玉島商。 打倒倉工を目指して金星を上げたい玉島商。
倉敷工の勝利を決定付けたのは、超ファインプレーと自慢の倉工打線の中、下位打線の打棒だった。
5回、玉商の攻撃。 2本のヒットと四球で満塁とする。
ここで、左中間にヒットを打ち、2点を取り、3対1と玉商リード。
一方、倉工は7回タイムリー3ベースの7番白神を3塁に置いて、8番渡辺が、1,2塁間を破り、白神がホームへ帰る。
8回を終わって3対3の同点。 そして9回、大きなドラマが待っていた。
玉商、この回の先頭打者が、低いライナーで左中間を破る3塁打を打ち、無死3塁のピンチを迎える。
しかし、 エース中原、福原のバッテリーは、冷静だった。 次の打者を、ショートゴロに打ち取る。
ショート渡辺、がっちり捕球して、3塁ランナーを牽制して、1塁へ。
これで、一死3塁。 スクイズが考えられる場面となる。 倉工応援スタンドは、3塁ランナーの動きに注目している。
ボールカウント、2ボール1ストライク。 冷静なバッテリー。 中原は、右打者の外角やや高めに投げた。
3塁ランナーがホームに走る。 打者はバントの構え。
【 スクイズだ 】 しかし、スクイズバントは、セカンド方面への小フライとなった。
セカンド西川、猛ダッシュ、小フライをすくい上げ、3塁に転送、【 アウト 】
このプレーが、倉工の窮地を救う。 右打者の外角やや高めに投じた中原の投球術。
そして、セカンド西川ファインプレー。 ベンチで両手を叩き、大きな笑顔でナインを迎える和泉監督。
大盛り上がりの倉工応援スタンド。 この大盛り上がりが、倉工ナインの背中を押す。
ピンチを乗り越えた倉工。 9回裏、2死後に渡辺が3塁線を破る2塁打で出塁。
中原のレフト前ヒットでサヨナラ勝ち。
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☆ 同上 ⑦
第78回全国高校野球選手権大会 準決勝 倉敷工 VS 関西 前年と同じカードになった準決勝。
前年は、全国的に有名になったエース左腕、吉年投手を擁する関西。
その関西に対して一回に3点、二回に2点、三回に1点を取り、早々と 吉年投手を攻略したかに見えた。
だが、徐々に調子を取り戻して来る吉年投手。また、中軸打者に連続長打を打たれ、終わって見れば、6対7の逆転負け。
「 あの試合の悔しさは、いつまでも忘れられません。 」と、現コーチの西川剛正。
リベンジに燃えた倉敷工が勝利したのは、エースの力投と繋がる打線、集中打だった。
一回にタイムリーを打たれ、1点を献上したが、二回以後安定した投球を見せるエース中原俊博。
投手力に不安を抱える関西に、五回、倉工打線が襲いかかった。
4番福原が、左中間にタイムリー3ベースヒットで2点を勝ち越す。
6番高本も右中間に、タイムリー3ベースを打つ。 長短6本のヒットで、5点を取る。
エース中原は、初回の1点だけに押さえ、6対1で勝利を飾った。
主将の北條は「 初回に1点取られたんですが、いつでも追いつける。
今日は、たたみかける連打が出たので良かったです 」と、コメントした。
一方、西川は「 2年連続の準決勝、関西戦は先輩の分まで、絶対に負けるわけには行かなかったです 」
そこには、真っ赤に燃え上がる炎の闘志と力強い団結力がある。 投手はいい。守りもしっかりしている。
攻撃も全員が、3割を超える。 1、2番の北條、西川の俊足コンビが出ると、すぐに足でかき回す。
この1、2番コンビが、相手チームにとって、いやな存在となっている。そして、クリーンアップで点を取る。
また、下位打者には勝負強い打者がずらりと並ぶ。
こういうチームは、なかなか作れるものではなかろう。 平成8年の夏は熱かった。
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☆ 春風爽快 キセキの春 ①
第81回選抜に出場した倉敷工。 「強打の倉工」の活躍は、もう遠い記憶になっていた。
後に、監督となる小沢投手を擁して初出場した昭和24年の夏、ベスト4に進出。
その後、倉工全盛時代が続き、春夏合わせベスト4進出3回。 今回の選抜で19回目の甲子園出場である。
倉工は、地元の倉敷マスカット球場で開催された秋季中国大会を、37年ぶりに制覇し34年ぶりの選抜出場を決めたが、
その中国大会には、県大会4位での出場。
2回戦で、県大会覇者の作陽を大差で破って勢いに乗り、準決勝で鳥取城北、決勝で南陽工をそれぞれ下し、見事な優勝を飾った。
倉工は、粘り強さが身上の実戦的攻撃のチーム。 県大会から中国大会にかけ、試合ごとに進化を続けたフレッシュなチーム。
監督一年目の中山は、一試合一試合を「どんな事があっても諦めるな」「死ぬ気でやり切れ」という
精神面で負けない元気野球を目指し頂点に立った。 県大会4位のチームが、中国大会で優勝した記録はない。
指揮官は、普通のノックはやらない。
常にランナーとアウトカウントを置き、ギリギリでアウトを取れるかどうかのタイミングで放たれる。
プレッシャーの中での集中力が狙いであろう。
打撃では、「高め」と「外角」が中心。 指揮官は「思いっきり振り切れ」高めでも、ゴロを打つ技術の習得を目指していた。
「強打」と「多彩な攻撃力」が、倉工の身上である。 この81回選抜をさらに振り返ってみる事にする。
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☆ 同上 ②
想えば、全盛時代の昭和30年から40年代。小沢監督率いる倉工は、強打力で鳴るチームだったが、
「バント」「走塁」にも、絶妙の技があった。
連打で大量点を奪う一方、1点勝負の場面ではノーヒットでも点を取ってみせた。
ライバルの、岡山東商監督の向井正剛氏が、後日談で「小沢さんに負け、悔し涙を流した。
おかげで、多くの事を学んだ」と語っていたあの日が懐かしい。
今回はベスト8に進めず、残念ながら快進撃とは言えなかった。
強豪校相手に、一回戦は延長12回劇的な逆転サヨナラ勝ち。
二回戦は、前半の大量失点を激しく追撃したが、わずか1点差で惜敗。
中山監督率いる倉工の選抜は、1勝1敗に終わった。
しかし、その野球は決して『諦めない』『勝負を捨てない』ものだった。
秋の中国大会から続く、チームの進化が物語るものでもあった。
『ハラハラ』『ドキドキ』。 握りコブシが何度も硬くなった。
過去の栄光に満ちた「強打の倉工」は、「諦めない倉工」の名で見事に、今、伝統の復活を遂げた。
感動に満ちた甲子園ストーリーと言えよう。
甲子園大会では、大会役員が各チームに一人ずつ付き添う事になっている。試合終了後の事。
その大会役員を先頭に一列に並んでグランドを出る時だった。
「バックネット裏の大観衆が、総立ちで拍手喝采だったんですよ」と中山監督。
一方、ナインは、ある物を見つけたのだった。
ナインが見た物。それは、【倉工魂】や【侍倉工】の看板だった。
ナインは、足や身体が震えたという。
スタンドからは「また、来いよ」あるいは「すげえ試合を、また見せてくれよ」と。
「本当に嬉しかったです。感無量でした」と指揮官。 感動に満ちた甲子園ストーリーは、さらにつづく。
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☆ 同上 ③
第81回選抜、リニューアルされた甲子園の開会式直後で、異様な興奮が生き物の様に球場全体を覆う中で始まった。
両チームは、お互いに1回から激しく点を取り合うサバイバルな試合を展開。
積極果敢な攻めと粘り強い守りで、先行する金光大阪に倉工が喰らいつく。
「諦めるな。 どんな事があっても、諦めるな」ベンチの倉敷工中山隆幸監督のゲキが、聞こえて来るような熱戦。
その試合直後の事。 倉敷工業高校の事務室に1本の電話が入った。
電話の主は卒業生でもなく、倉工関係者でもなく、全く面識のない人からだった。その人はガン患者だった。
選抜での倉工の決して諦めない逆転劇を見て感動。 「病気と戦う勇気を貰った」という。
「どうか、中山監督をはじめ、選手の皆さんや関係者の皆様に、どうぞよろしくお伝え下さい」と、
丁寧な言葉を残して、電話を切ったという。
一方、中山監督にも、別のガン患者から同様なお礼の言葉が寄せられたのだった。
「思い切り振り切れ」
春の選抜で鮮やかなサヨナラを生んだ「あの一球」には、中山監督と球児たちの熱い信頼の物語が、
秘められていたのだ。 オフの長く地味な打撃練習が、春の光の中で鮮やかに花を咲かせたと言えよう。
にわか仕込みの甲子園戦法より、平素から培った自己能力の認識が重要なのだ。
倉工は、晴れの舞台センバツでその事を鮮明に見せた。
新化を続けた倉工が、ドキドキする感動のドラマをまた伝えてくれた。
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☆ 70年ぶりの近畿勢初戦激突も センバツ注目の「フリー抽選」
第93回選抜高校野球大会(3月19日開幕)の組み合わせ抽選(今月23日)の方法が発表となった。
新型コロナウイルスの感染防止のため、出場32校の主将をオンラインでつないで実施する。
注目すべきは同一地区でも1回戦から対戦する可能性がある「フリー抽選」方式を採用したことだ。
例年、近畿、関東・東京……など同一地区の出場校は準々決勝まで対戦しないよう、事前に振り分けていた。
今回は開会式も全32校そろって行わず、初日出場の6校だけで行う。 抽選方法も簡素化した格好だ。
フリー抽選は、夏の選手権大会で2007年から採用している(2校出場の北海道や東京は初戦対戦を回避)。
同地区の同士打ちを避けてきた選抜大会では70年ぶりとなる。
近畿勢同士に限らず、前年秋の地区大会の再戦もあるかもしれない。また新たなドラマが生まれる可能性もある。
なお、今大会も同一県アベック出場の宮城(仙台育英、柴田)、兵庫(神戸国際大付、東播磨)、
奈良(智弁学園、天理)は決勝まで対戦しないよう振り分けられる。
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☆ 【「麒麟がくる」コラム】 本能寺の変で明智光秀の天下取りはならず。 その悲劇的な最期を追う ①
結局、大河ドラマ「麒麟がくる」では、山崎の戦いは取り上げられることなく、
それどころか光秀が生き延びたかのように描かれていた。実際のところ、光秀はどのようにして最期を遂げたのだろうか。
備中高松城(岡山市北区)を出発した羽柴(豊臣)秀吉軍が山崎(京都府大山崎町)に着陣したのは、
天正10年(1582)6月13日の昼頃だった。 同地で、織田信孝は秀吉軍と合流している。
一方の光秀は下鳥羽(京都市伏見区)を出陣し、天王山と淀川に挟まれた交通の要衝地、山崎で秀吉を迎え撃つことを決定した。
すでに前日の6月12日の段階において、秀吉軍と光秀軍の小競り合いがあった模様である(『兼見卿記』)。
光秀が率いる軍勢は、近江衆などの援軍を加えても、約1万3千だったという(8千〜1万という説もある)。
一方の秀吉軍は約4万といわれていたので、光秀軍は数字の上では圧倒的に不利だった。
その後、信孝の号令により筒井順慶が出撃し、両軍の戦いは本格化した。
夜になると、光秀軍が秀吉軍を攻撃してきたため、これに対して反撃を行った。
摂津衆である高山右近、中川清秀、池田恒興は地元の地理にも詳しく、戦いは秀吉軍に有利に進んだ。
摂津衆が活躍したのは、秀吉軍が中国大返しにより、疲労困憊していたことも一因かもしれない。
こうして秀吉軍は、たちまち光秀軍を敗北へと追い込んだのである。
当時の記録によると、光秀軍が「即時に敗北」とあることから、短時間かつ秀吉軍の圧倒的な勝利であったと考えられる。
敗北した光秀軍は、勝竜寺城(京都府長岡京市)へ逃げ帰ったが、そこも羽柴方の軍勢に包囲されたので、即座に脱出した。
光秀が連れたお供の数は、数人から数十人という少なさだった。光秀軍の一部は京都に流れ込み、大きな混乱を招くことになる。
京都に流れ込んだ敗軍の中には、光秀の姿があったかもしれない。
大敗北を喫した光秀は、自らの居城がある近江国坂本城(滋賀県大津市)を目指し、とにかく逃亡するしか術がなかった。
光秀は坂本城で態勢を整え、再度秀吉との対決を期そうと考えたのだろうか。
しかし、勝竜寺城を脱出した光秀の逃走経路については、残念ながら良質な史料では判明しない。
光秀の最期は、一般的にどのように描かれているのだろうか。 同年6月14日、光秀ら落武者の一行は、
現在の伏見区小栗栖へと差し掛かると、ここで意外な結末が待っていた。
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☆ 同上 ②
その頃、農民たちは落武者の所持品や首級を狙い、落武者狩りを行っていた。
特に、首級を持参することは、恩賞を得ることができた。
案の定、光秀らは竹薮で落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げたのである。
光秀らの首は、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)に晒され、衆人の面前で辱めを受けた。
多くの見物人が集まったという。 次に、良質とされる史料によって、光秀の最期を確認しておこう。
『公卿補任』によると、6月14日に光秀が醍醐(京都市伏見区)の辺りに潜んでいるところを探し出されて斬首となり、
本能寺(京都市中京区)で首を晒されたと記す。
『言経卿記』はもっと具体的で、光秀が醍醐の辺りに潜んでいると、郷人が討ち取って、首を本能寺に献上したという。
また、光秀の家臣・斎藤利三は堅田(滋賀県大津市)に潜んでいるところを探し出され、
京都市中に乗り物で移動し、六条河原で斬られた。
なお、利三が車裂きにされたする説もあるが、それは誤りである。
7月2日、光秀と利三の首は、残酷にも胴体と接続させて、粟田口で磔にされたという。
そのほか3千余の首については、首塚を築いたと書かれている。『兼見卿記』の記述も具体的である。
光秀が一揆(土民)に討ち取られたのは醍醐で、京都所司代・村井貞勝の一門衆で家臣の村井清三が信孝のもとに首を持参した。
その後、光秀の首は本能寺に晒されたという。
利三の件は『言経卿記』と同じで、堅田(滋賀県大津市)で捕らえたのは、近江の土豪・猪飼半左衛門だった。
光秀と利三の首が晒されたこと、首塚が築かれたことは『言経卿記』と同じで、奉行を務めたのは桑原次右衛門と清三だった。
なお、光秀と利三の首塚は、粟田口の東の路次の北に築かれたと記している。
以上のとおり、一次史料の記述には一貫性があり、従うべきであろう。
その後、坂本城も炎上し、光秀の一族や家臣も非業の死を遂げたのである。
大河ドラマでは描かれなかったが、光秀の最期は実に悲惨だったのである。
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☆ 福島 ブルペンで48球 捕手座らせて初の投球練習 「楽しかったです」
ドラフト4位の最速147キロ左腕・福島(倉敷工)は、テンポよくブルペンで48球を投げた。
捕手を座らせて初の投球練習に「楽しかったです」と第一声。
「第3クールの最終日ということもあり、疲労も感じていましたが、
その中でバランス良く投げることができました」 と制球面でも手応えを感じていた。〈沖縄 読谷村〉
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☆ 選手が子なら親… キャンプでのスカウトの仕事は「見守り」 中日・野本スカウトが初めて“父親”になるまで
◇ 渋谷真コラム・龍の背に乗って「キャンプ編」
キャンプも折り返し。 何人かのスカウトが視察を終え、沖縄を離れる。 野本圭スカウトもその一人だ。
昨秋のドラフト会議終了後、彼に祝福のLINEメッセージを送るとすぐに返信があった。
「ご縁がありうれしく思います。 しっかりサポートしていきたいと思います」。
担当地区の中・四国から、4位の福島(倉敷工)と6位の三好を指名した。 スカウトは親、選手は子と言われる。
引退して2年。 野本さんは初めて親になった。
この2週間、福島のいる読谷と三好がいる北谷を忙しく往復する様子は、まさに父親だった。
評価急上昇の三好だが、スカウト会議では時期尚早論も出たようだ。 社会人で5年。
最初の3年間は投手で野手歴2年だからそれもわかる。 しかし、野本スカウトは熱弁で押し切った。
出会いは2019年初春。 就任ホヤホヤの新米スカウトは、JFE西日本の愛媛合宿に向かった。
お目当てはその年のドラフトで日本ハムに1位指名される河野だった。
「野手も見ていると、いかにも運動神経が良さそうな選手がいたんです。
何というか、雰囲気があったんですよね」
名前も知らなかった。 聞けば野手転向したばかりで、試合にも出ていないという。 普通はそこで忘れる。
昨シーズン、ようやく試合には出るようになったが、他球団はほとんどノーマークだった。
しかし、野本スカウトは追い続けた。
昨年だから6位で取れた。 今年なら3位、いや2位で消えていたかもしれない。
キャンプでのスカウトは、練習を手伝うわけではなく、ひたすら見守る。
チームの現状を知り、補強ポイントを把握する目的もあるが、わが子、特に新人はケアが必要だ。
「痛い」「つらい」「わからない」は言いづらい。
球界OBが来訪すれば紹介し、ちゃんと食事しているかと気をもむ。 やはり親なのだ。
同じ左投げ左打ちの外野手で、自身の入団時と同じ30番。
通算185安打と力を出し切れなかった自分のはるか上の世界を見てくれよ…。父はそう願い、次の子を探す旅に出た。
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☆ オリックスの水本勝己ヘッドには期待大。 ミズの明るさで現場を盛り上げてほしい!【川口和久のスクリューボール】
阪神を戦力外になった後、死に場所を求め、今季からオリックスで兼任コーチとして能見篤史がリスタートした。
阪神では若い選手にはじき出された形で先発からリリーフに回っていたが、オリックスは先発の頭数が足りていない。
能見にも十分チャンスはあるし、やってくれると思っている。
能見が先発で再生するためのキーマンが、今年からヘッドコーチになった水本勝己じゃないかな。
1990年にカープにドラフト外で入ったキャッチャーで、一軍経験はないが、ブルペンでは北別府学さん、大野豊さん、
そして俺とカープの黄金時代の投手の球をたっぷり受けている。
キャッチング技術もうまかったけど、あいつはピッチャーを乗せてくれるキャッチャーだった。
年齢はかなり下なのに「いつもより体が傾いていますよ」とか、積極的に、しかも的確なアドバイスもしてくれたしね。
俺たち投手陣は、みんな彼に感謝していた。
引退後はブルペンキャッチャーも長かったが、2007年途中からコーチ補佐になり、16年から二軍監督になった。
選手育成には定評があり、3連覇の陰の功労者とも言われる。
実は、俺のカープ時代、水本、いやミズは飲み仲間でもあった。
広島のヘッドになった河田雄祐と同じく、気配りができ、明るい男だ。
いつも場を盛り上げてくれ、あいつがいると笑いが絶えない。 水割りつくらせたら天才的でね。
「ミズ、水(ミズ)割りね」が定番だった(楽しく酔っていると、このくらいでも笑えるんです)。
カープの縁の下の力持ちとして引き出しを増やしていたミズが、どんなきっかけがあったかは知らないが、
今度は同学年の中嶋聡監督の右腕として、低迷オリックスの底上げに取り組むことになった。
あいつは中嶋監督や選手にも遠慮はしないと思う。意見をぶつけ合うことで、間違いなく、風通しがよくなるはずだ。
能見の再生にもきっと力になってくれると思うよ。すごく的確なアドバイスをしてくれるはずだから、能見だけじゃなく、
若い選手は遠慮なく、どんどんミズにぶつかっていってほしいな。
ミズ、お前の明るさで、元気がなかったオリックスが「水を得た魚(牛?)」のように、元気に浮上する姿を期待しているよ!
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☆ 名参謀入閣 オリックスに期待もV予想は… 緒方孝市 ①
広島3連覇監督・緒方氏(52=日刊スポーツ評論家)が同い年の指揮官を訪ねるキャンプ訪問最終回はオリックス中嶋監督(52)。
緒方カープを2軍監督として支え、中嶋監督の参謀となった水本ヘッドコーチ(52)も参加しての鼎談で緒方氏は「開幕ダッシュ」を期待した。
緒方氏(以下、緒方) テレビでキャンプ中継見るとリラックスしてやっている印象やね。
昨年、2軍監督からシーズン途中で監督になったときは真っ青な顔だったけど(笑い)。 今年は余裕ある?
中嶋監督(以下、中嶋) ないよ。監督になって最初に選手に「同じしんどいことだけど、明るくやれたら強くなる」と言った。
1軍の試合を見ていてベンチの雰囲気っていうか、どこで野球やっているんだろう? って思っていた。
失敗をこわがる、失敗したら(2軍に)落とされるとか。 そんなことばかり考えている感じで。
緒方 選手の本来の力を出し切れてないと。
中嶋 失敗してもいい、とは言わんけど。相手とは違うところと戦っている感じで。なんとか雰囲気を変えてあげたいと思ってた。
緒方 俺のスタートもそこから。コーチになったけど、15年間ずっとBクラスで自信がないわけ。勝てないから自信を持てない。
意識改革からスタートしたのが野村謙二郎監督時代、俺のコーチ時代だった。中嶋が言ったように「思い切って楽しくやろう」とね。
でも勝たないとあかん。 今年、どんな野球するんだろうと注目している。
中嶋 言われるのは「力は持っているのに出せない」ということ。 どうやったら出せるか。その後押しをしたい。
緒方 昨年のオリックスはAクラスに入ってもおかしくないんじゃないかと思っていた。
投手陣、特に若い投手の力はあると交流戦で感じていたからね。強豪ぞろいのパで投手力をしっかりしとかんと1年間、戦い抜けない。
中嶋 課題は「カウント負け」とかわしにいく投球。その変化球に意図があるのか。 その初球の入りに意図があるのか、と。
だから実戦練習でも(ストライクゾーンに)ゴムを引いてみようかと思っている。 ボールの高さ、コースとか意識して。
緒方 ストレートの使い方だね。俺の監督1年目、交流戦で日本ハムと対戦したときに中嶋から「いい先発陣そろってるやん」と言われて。
「中継ぎ、抑え、苦労しとるんよ」って言ったら 「投手で一番大事なのはアウトコース。
低めの真っすぐ、第1球目から投げられるかどうか」で先頭打者、そのイニングが決まるって。
その言葉は大きな財産になったし、投手コーチにも口を酸っぱくして「先頭バッターの入り方」と言ってきた。
2軍監督の水本にも言い続けてたよね?
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☆ 同上 ②
水本ヘッドコーチ(以下、水本) そうですね。
緒方 その水本が中嶋にお願いされて、オリックスに来たわけやけど。
中嶋 緒方サンが連れていけと(大笑い)。
水本 よお似とるよ。2人がね。よく似てる。広島の2軍監督からこっちに来て話していたら、この2人気が合うなって、
すごい分かる。 見た目、無愛想な顔なのも同じやな。
中嶋 俺はまだ社交的なところがある(笑い)。 緒方サンはない(笑い)。
水本 でも野球に対する考え方とかは本当に似てる。 その中でね、助けることができたらなと思う。
緒方 監督って経験したことがある人にしか分からない。 中嶋とはお互い18歳から、プロの世界に入って。
同じチームになることはなかったけど、同じ世界で過ごした「同級生」として頑張ってほしい。
水本がオリックスに行くと聞いてうれしかった。
俺が助けてもらったように中嶋を助けてくれるはず。 性格が暑苦しいから、うっとうしいけど(笑い)。
孤独になる監督としては、気兼ねなくなんでも言える、察してくれる存在は必要。
水本は適任だと思うし、それがチームの勝敗にも影響すると思う。順位予想でオリックス優勝にはしないけどな(笑い)。
中嶋 下の方でいいよ。でもパは本当に「力対力」。 だからAクラスが下の方にボコっていってもおかしくない。
緒方 経験から言えば大きな連敗をしなければ下に沈むことはない。 大きく連勝しろというわけじゃない。
5割の戦いを意識して、離されなかったら、選手、首脳陣のモチベーションも切れない。
中嶋 そこで投手力やな。優勝するところはベースがそこにある。ウチは、ここ何年かは最初に負けて上がりようがない。
最初に勝っておかないと、選手たちも今年もか…ってダメになる。
水本 緒方もそこは意識しとったよね。シーズン始まるときに。
緒方 理想は開幕ダッシュ。 正直、5割の戦いを4月いっぱいまで戦えればというのが本心だった。
中嶋 そこで突き放されないことと思うんでね。
緒方 今から中嶋の色を1滴ずつチームに注入していって、染めていかないとね。時間はかかる。
でも、1滴ずつキチッと落としていかないと。 期待してるんで頼みますよ。
水本勝己: 1968年(昭43)10月1日生まれ、52歳。 岡山県出身。倉敷工、松下電器を経て89年、ドラフト外で広島入団。
1軍出場のないまま、2年で現役引退。その後はブルペン捕手を長く務め、16年に2軍監督に就任した異色の経歴を持つ。
緒方監督時代の広島3連覇をファームから支えた。 今季、オリックスのヘッドコーチに就任。
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☆ 「野球小僧になろう」 現役時代に実績のないオリックスの水本勝己・新ヘッドコーチに期待される指導力 ①
25人の監督・コーチの首脳陣のうち、新任が8人とフレッシュな顔ぶれが揃った。
中嶋監督が最も信頼を寄せるのが、広島2軍監督から就任した水本勝己ヘッドコーチだろう。広島での現役生活はわずか2年。
1軍経験もないが、若手育成や選手の気持ちに沿ったきめの細かい指導力には定評のある参謀。
育てながら勝つという、今のオリックスには最適任者だ。
宮崎市の清武総合運動公園で、1、2軍合同で行われているオリックスの春季キャンプ。
広い敷地内で180センチ、102キロの巨漢、水本ヘッドコーチを探すのは大変だ。
A組の本球場にいたと思えばブルペンに姿を見せ、B組の第2球場、投内連係が行われているサブグラウンドと、
目まぐるしく移動を重ねる。「チームで一番、動いているのではないですか」と森川球団本部長がお墨付きを与えるほどだ。
倉敷工時代は強打の捕手として夏の甲子園に出場。 社会人野球の名門・松下電器(現パナソニック)を経て、
広島のテストに合格し1989年にドラフト外で入団した。 現役生活は2年。1軍での試合出場もない。
それでも、長いブルペン捕手生活から2軍バッテリーコーチを経て、2016年から2軍監督に就任した、たたき上げの野球人だ。
2年目の17年にはウエスタン・リーグで26年ぶりの優勝、初のファーム日本一に導いたほか、
1軍に人材を送り込むことで広島のリーグ3連覇を支えた。
静と動だ。本球場では本塁後方や三塁側、二遊間、一塁側へといつの間にか場所を変え、多角的な視点で静かに練習を見守る。
次の瞬間、動に転じる。選手への声掛けだ。紅白戦では三塁コーチャーの風岡尚幸・内野守備走塁コーチの後方から
「ここからだ。 粘っていこう」と、カウントを追い込まれた打者に声かけた。 タイミングも絶妙。
B組から一時的にA組に合流したT-岡田には、ウォーミングアップのダッシュを見て「T、いい動きだ」。
水本ヘッドは「意識して声掛けをしているわけではない」というが、声をかけられたベテランが発奮しないわけはない。
ブルペン捕手として経験を重ねてきた水本ヘッドの真骨頂は、若い投手陣への接し方だ。
シート打撃に一番手として登板した、高卒7年目の鈴木優。
首脳陣が見守る、それでなくても緊張するする場面で、審判の判定はボール。
すかさずあげた言葉は「ナイスボール」だった。 審判がゾーンで判断すれば「ボール」だが、ボールの質やコース、
高低などは自信を持っていいんだぞ、というマウンドの鈴木への激励。
「ほとんどの人が、審判がボールの判定だけで投球を判断してしまう。
そんな中で、ボールと言われても内容が良ければいいんだと言ってくれる、ヘッドの一声は心強かった」と鈴木は振り返る。
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☆ 同上 ②
観察力に驚いたというのは、3年目の荒西祐大だ。
キャンプイン初日、ブルペンで「腕が少し上がったな。 それでいいぞ」と声をかけられた。
入団当初のスリークオーターから横手投げに変わり、オフから再び腕を上げるフォームに取り組んで来た。
「以前のフォームも知っていたから、違いに気づいてくれたと思う。早くから映像などのデータを見て研究されていたのでは。
ヘッドがそこまで気にかけてくれていてくれるのはうれしい」と荒西。
そうした水本ヘッドの目配りや気配りに対し、中嶋監督は「2軍で監督同士として戦い、僕と野球観が同じ」と全幅の信頼を置く。
「野球小僧になろう。 楽しくやろう」。 練習の区切りなどに選手を集め、こう語りかける。
今は厳しい競争の世界に中にいるが、始めたころは野球が面白くて仕方がなかったのではなかったか。
その時の気持ちを思い出し、楽しく野球に向き合おうという呼びかけだ。
さらには、練習中のプレーに「頭を使って考えろ」と人差し指で自分の頭を指し、選手に合図を送る。
「なんとか、一人ひとりの意識を変えていかないといけない。現実は2年連続のドベ(最下位)だから、選手が自分たちで感じ、
変わるためにはどうしたらいいかを考えてほしい。そうすればチームは自然に強くなる。一度勝てば勝ち癖がつけば、強くなる。
そこまでいくのにどうするか。選手には1か月間、頭を使い勉強して悩んでほしい。それが体に出てくるようになれば」
これまで、おとなしい選手が多いと言われてきたオリックス。
いい内容の野球をしていても、「勝ち方を知らない」(安達了一)ため、勝ち切れず、おとなしくならざるを得なかった。
勝つ喜びを何度も味わうことで自信がつき、ミスも少なくなってチームが自然と明るく前向きになっていくというイメージなのだろう。
2年連続開幕投手を務めたエース・山岡泰輔は「これまでのオリックスに足りなかった部分だと思う。
野球を漠然とするのではなく、考えて、考えて一つ一つのプレーをしっかりとやろう、野球のことだけを考えることで、
そこから変えていこうということだと思う」と、水本ヘッドの理念を理解している。
1992年以降、自身が2軍監督に就任した2016年まで24年間、カープが優勝出来なかった時代を知る水本ヘッド。
遠回りでも、選手の意識改革が同じように24年間優勝から遠ざかり長期低迷するオリックスを変える大きな力になると信じている。
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☆ 同学年の緒方孝市氏に「似てる」 中嶋監督の手腕注目
<取材後記>
プロ野球人にとって「同学年」は親近感以上のものがあるようだ。
これまで阪神矢野監督、ヤクルト高津監督、そして中嶋監督に会ったときの緒方氏は柔和な表情だった。
「厳しいプロの世界で、曲がりなりにもここまでやってこれましたから。
特に中嶋監督とはともに高校からの入団だし」。 緒方氏はそう言った。
「2人は似てる」と水本ヘッドコーチが言うのを聞いて納得した。 90年代半ばのオリックス黄金時代に
よく話を聞いた中嶋監督と、広島での現役時代から指導者時代を通じて取材してきた緒方氏の雰囲気だ。
ともにぶっきらぼうでこわもて、口下手だったが1人で話を聞きにいって邪険にされたことはない。
向かってくる人間はしっかり相手にするタイプだった。
その性格で結果を残した緒方氏同様、中嶋監督も水本コーチに支えられ、低迷するチームを立て直せるかどうか。
ソフトバンク、楽天が圧倒しそうなパ・リーグで台風の目になれるか、注目だ。
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☆ 今春から決勝もタイブレーク 「引き分け再試合」消滅
高野連は19日、大阪市内で理事会を開き、主要大会の決勝でもタイブレークを導入することを決定した。
今春のセンバツや各都道府県大会から適用し、夏の甲子園大会なども同様となる。
タイブレークは試合の早期決着を目指して18年センバツから導入され、現場から「例外に」という意見が多かったことを受け、
これまで決勝のみ延長15回を終えて同点の場合、引き分け再試合(再試合ではタイブレークを適用)となっていた。
今回の決定を受け、甲子園の名勝負として語り継がれてきた69年夏の松山商-三沢、06年夏の早実-駒大苫小牧のような
決勝引き分け再試合は基本的になくなる。 ただ、降雨コールドなどによる再試合の可能性はある。
タイブレークは、延長12回を終えて同点の場合、13回から無死一、二塁で継続打順で行われる。
「1人の1週間の総投球数を500球以内」とする投球制限については、「投球制限検証ワーキンググループ」を発足する。
当面3年間実施した上で症例などを集める方針。効率的なデータ収集方法や分析方法を審議検討し、効果、対策を検討していく。
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☆ 仰天! 3連単2073万8890円 東京競馬史上 最高配当出た
20日の東京4Rでビッグな配当が飛び出した。 勝利したのは11番人気のハコダテブショウ。
2着に15番人気マイグレーション、3着には9番人気ユイノチャッキーが入り、
3連単は2073万8890円(3360通り中3257番人気。 的中4票)の超高配当。
これまでの最高は15年ヴィクトリアMの2070万5810円。
歴代5位の高配当。 歴代1位は2012年8月4日新潟5R(優勝馬ミナレット)の2983万2950円。
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☆ 元ヤクルト安田猛さん死去 「いつ死んでもいい」覚悟の母校指導 王氏の色紙宝に
プロ野球ヤクルトで活躍した安田猛さんが死去した。 73歳。福岡県出身。
福岡・小倉高から早稲田大、大昭和製紙を経て1972年にドラフト6位でヤクルトに入団。新人王や最優秀防御率に輝き、
81イニング連続無四死球のプロ野球記録も作った。左サイドスローからの独特のフォームで「ペンギン投法」と呼ばれた。
現役時代の安田さんは巨人戦で「王キラー」として鳴らした。
技巧派のイメージが強いが、実は「高校のころからうまかった」と話す大胆な内角攻めが真骨頂。
人気野球漫画「がんばれ!!タブチくん!!」の人気キャラクター「ヤスダ」のモデルになったとされる。
近年はがんと闘いながら、長く甲子園から遠ざかっている母校の指導にも当たっていた。
自身は1965年春の選抜大会にエースとして出場。
自宅のある東京から学校のある北九州市に通って「野球人生の最後に母校を甲子園に出したい」と夢を追った。
「いつ死んでもいい」と覚悟しての指導。
その一方で「僕は褒めて育てるタイプ」という方針で、孫のような選手たちにも慕われた。
ソフトバンク王貞治球団会長から贈られた激励の色紙が晩年の宝物。 グラウンドに全てをささげた「野球人」だった。
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☆ メジャー2球団のユニフォームが聖地出場?
今年のセンバツには対戦となれば話題となりそうな2校が出場する。
その2校は21世紀枠で出場を決めた八戸西と秋季四国大会準優勝で切符を掴んだ聖カタリナだ。
どちらも初出場というところが共通点だが、両校のユニフォームに注目したい。
八戸西は白地のピンストライプに左胸と帽子には八戸の「H」と西の「N」が重なった大きなロゴがあしらわれており、
まさにニューヨークヤンキース風のデザインとなっている。
聖カタリナは赤のストッキングが印象的で、胸元の校名表記の字体や首元からボタンに並行して入っている赤のラインまで
ボストンレッドソックスのユニフォームのデザインにそっくりだ。
高校野球ファンやベテラン記者の間でも「レッドソックスだ!」という声が上がっている。
ヤンキース風のデザインは静岡の常葉菊川も採用しており、甲子園に出場した際は注目を浴びた。
今大会ではメジャー球団にそっくりなユニフォームを着る2校が出場する。直接対決となれば話題を集めるだろう。
かつては2009年夏の甲子園に出場した阪神タイガース風の横浜隼人が甲子園を沸かせた。
今大会では夢のMLB対決が実現するかもしれない。
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☆ 安芸キャンプ訪問記 西武との練習試合 20日
守屋(15球)-長坂 【遠藤】二ゴロ 【熊谷】左越え二塁打 【奥山】見逃し三振 【板山】一ゴロ 【荒木】三直 【片山】中飛
熊谷に二塁打を打たれたものの、他は奥山選手の三振以外、初球か2球目を打たせて終わっています。
でも開口一番「全然でした」とため息の守屋投手。 どのへんが?「リリースのタイミングが合っていないですね」。
球自体は?「思ったよりいかなかったです」。
守屋投手にとって2018年以来3年ぶりの安芸キャンプ。 ここまでいかがですか?と聞いたら「もう疲れがヤバいです!」とのこと。
朝は練習が始まる前に毎日ひとりでネットスローをしていて、しかも「あす(休日)も来ますよ。僕に休みなんかないです。
毎日来ています。 一回も休んでません」と言います。
そのあと「だって僕…去年、何にもしてないんですよ」と。
なるほど、そういう意味なんですね。昨年は開幕直後に右肩を痛め、1軍登板は3試合のみでした。
「やることがいっぱいあるんです、僕は」。肩は問題なし?「大丈夫です!このキャンプでも最初から結構バンバン投げています」。
まだ寒い日もあるので無理はせず、でもしっかり結果が残せるよう祈っています。
終わりかけた時、また守屋投手の方から言葉を発しました。「ことしはしっかりやりますよ!」と。
昨年の契約更改で「ガッツリ下がった」と言っていた年俸を取り返してください。「はい。あれはもう前払いだと思っているので」。
ほお〜“前払いだと思っている”ってカッコいい表現ですね。
「そうですか?前払いを何倍かにして返してもらいます。それしか考えていないです。日本一になれば上がる。なりますよ!
矢野監督も言っていますから。 監督が言っている以上、やっぱり恩返ししないといけない。絶対に恩返ししますよ!」。
一気に述べて、かっこよく去っていきました。
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☆ プロレス中継誕生 秘話 局アナは誰もプロレスを知らなかった 【越智正典 ネット裏】
終戦から8年。 昭和28年2月1日、NHK東京テレビジョンが開局、本放送を始めた。
受信料は月200円、受信契約数は866(日本放送協会編、日本放送出版協会刊「放送五十年史」)。
放送はまだラジオの時代で、NHKが27年4月10日から始めた、「君の名は」が始まると銭湯の女湯がガラガラになった…
という話はよく知られている。
朝鮮戦争の特需がなくなったきびしい時代を超え、ラジオ局が続々と誕生し健闘する。
28年10月1日、ラジオ香川(西日本放送)、11月1日、ラジオ東北(秋田放送)…。
28年8月28日、民放テレビ第1号局日本テレビが開局した。あけて29年2月19日に「プロレスリング」の実況中継を決めた。
蔵前国技館で日本の柔道の木村政彦と相撲の力道山が、アメリカのベン・マイク、シャープ兄弟と3日間戦うのだという。
担当アナに3人が決まった。
「プロレスリング」。 3人とも聞いたことがない。
力道山が出ると聞いて、相撲が得意な江本三千年は相撲協会へ行ったがわからない。
佐土一正はレスリングというのだからと、母校中央大学のレスリング部を訪ねた。
中央大学のレスリング部は黄金時代だったが「プロレスリングですか? 知りませんねー」。
私は木村政彦が出ると聞いたとき、はじめ、昔見た日本柔道対メリケン拳闘ではないかと思ったが、待てよ、進駐軍の匂いがする。
横田基地の正門前へ行った。 旧立川陸軍飛行隊。 川上哲治は戦争中、戦闘機の火砲の整備中隊中隊長だった…。
古書店で米兵たちが読んでいたポケットブックを探したが「プロレスリング」の本はなかった。
占領軍ホテルだった日比谷交差点角の日活ホテルに廻って見たが地下売店にもなかった。神田神保町の古書店街を歩いた。ない。
ひょいと「ボクシングアンドレスリング」という書題が目に飛び込んで来た。
これもちがうだろうなと、立ち読みすると「ココナッツクライ」「ニードロップ」「ボディースラム」。どうやら技の名称らしい。
当日、私は見当をつけて「ココナッツクライ」などと喋った。 あとで表紙の写真が「グレート東郷」だったとわかった。
本番前日、力道山が正力松太郎日本テレビ会長に挨拶に来る。 3人で囲むと力道山が言った。
「放送局さん、ご苦労さんです。 あしたは『空手チョップ』と言って下さい」
「空手チョップってなんですか?」 「見ればわかりますよ」。
颯と帰って行く力道山は、横田基地のなかで猛練習をしていたのだ。 あとでわかった。
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☆ 実は公式試合球は「白球ではない」 縫い目の数は…意外と知らないボールの秘密 ①
プロ野球1試合で用意されるボールの数って知ってますか? 縫い目の数は?
プロ野球の世界で長く用具担当としてチームをサポートしてきた“裏方のプロ”に詳しく話を聞いてみました。
選手を支える“裏方”として、各球団に用具担当のスタッフがいる。
大野和哉さんは、1999年に巨人で現役引退後からブルペン捕手やチームマネージャー、用具担当、副寮長などを歴任。
裏方としてチームを支え、日本一にも貢献した。
東京ドームでは数々の名場面が残るが、すべては用具担当がまずは箱から真新しいボールを用意するところから始まる。
1試合で使うのは10ダース。120個の試合球を主催チームが準備する。まず、それらを審判室に持っていく。
「メーカーの方が審判団のところに行き、専用の砂(もみ砂)で揉み込むんです。新品のボールには、ろうが塗ってあって、
それを落とす効果と、革の滑りを取る効果ががあり、手に馴染みやすくなります。
なのでボールを『白球』と表現されますが、実は真っ白ではなかったりもするんです」
ホームランやファウルボールは観客にプレゼントされる。最近では3アウト目のボールをスタンドに投げ入れているため、
10ダースを用意しても、実際に試合後に残るのは3ダースほどという。
試合で使用せずに残った球は試合前練習で使うノック用のボールなどになる。
1軍で何度か使用されたボールは2軍などファームへ送られる。
シーズン終盤になると秋季、翌年の春季キャンプ用のボールとして、準備されるという。
ペナントレース以外でも特別な試合がある。例えば、オールスターでは縫い糸の色が変わる。
東京ドーム開催の時は赤と巨人のチームカラーのオレンジ、
地方球場の時もその土地のイメージにあった色の縫い糸が使用されたりもした。
「日本シリーズとか大きなイベントではボールにロゴが入ったりします。
縫い糸の話ですが、今のご時世だったら、医療従事者のために青の縫い糸を使用したり、
ピンクリボン運動啓蒙のためにはピンクにして試合をするのもいいのではないかと思います。
それをオークションにかけて、寄付金にするなど、そういう試みがあってもいいなといつも感じています」
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☆ 同上 ②
大野さんから“逆質問”を受けた。 「野球の硬式ボールの縫い目はいくつあると思いますか?」。
筆者は回答することができなかった。 正解は「煩悩の数ですよ」と教えていただいた。108個の縫い目がある。
ボールは2枚の革を引っ張り、きれいな球状を保ちながら縫っていきます。 現在の球の標準規格として、
一番しっくりくる縫い目の数が、たまたま人間の煩悩数と同じ108になっただけ、と聞いています(笑)」
バットやグラブ同様に、硬式ボールも丁寧に人間の手で作られる。 プロ野球の世界ではないが、
ボールを足で扱うような場面が育成世代の野球で見られることがあることに心を痛めている。
「野球経験者なら小さい頃とかに見たことがあるかもしれませんが、ボール集めで足を使ったり、ボールを蹴るという行為は、
やってほしくないですね。 もしも、少年たちがやっていたら大人は注意してほしいなと思います。
スパイクで蹴ったらボールが傷つきます。軟式だって同じです。 競技の中でボールがボロボロになるのは許せますが、
遊びや扱い方を間違えて、傷つける行為は、道具を扱う立場としては許せないですね」
道具に、そしてその作り手に敬意を払ってほしい。 プロ野球の世界でも道具に当たるようなことは御法度。
見つかれば、首脳陣やフロントから叱責される。
大野さんは野球少年少女には道具は大切に扱ってほしいと願う。
「ボールを蹴飛ばして集めたりするのはもうやめようね、と伝えたいです。 野球の神様が見ていますよ。
感謝の心を持って、取り組んでほしいと子供たちには伝えたいですね。 グラウンドを手配してくれている人がいる。
野球の道具を揃えてくれる人がいる。 もっと言えば、ボールなどの野球道具を作る職人さんがいる。
その人たちへのリスペクトも忘れないでもらいたいですね」 いつまでも感謝の思いを忘れずに、ボールを追いかけてほしい。
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☆ 田中将大、180万円のVIPファンクラブ14分で完売 担当者も衝撃「まさかのスピード」
楽天は球団公式ファンクラブ「TEAM EAGLES」の新コースとして、田中投手のファンクラブ「マー君クラブ」を設立。
25日に入会の受け付けを開始したが、10人限定で年会費180万円の「マー君クラブVIP」は入会受け付けから14分で完売した。
限定1000人で年会費1万8000万円コースも30分足らずで500人を突破した。
選手個人のファンクラブとしては初の試み。 球団担当者はVIPの180万円は正直勇気がいる値付けでした。
「『高い』という反応が多かったのも事実なので、多少の不安もありました。
180万円が安かったと思っていただけるようなサービスを提供してまいります」とコメントした。
「マー君クラブ」のVIPコースには直筆サイン入りプロモデルユニホームや、プロモデルキャップなどのグッズのほか、
50万円相当の「1-Day Premium VIP Ticket」の招待券など特典が含まれる。
年会費1万8000円のコースは販売中のグッズとはバージョン違いの「MyHEROタオル」や
田中が登板したホームゲーム勝利時に行う「マー君とオンラインわしほー集会」イベント参加権利などの特典がつく。
2種類のコースとも、田中自身のブランド「MTXIX(エムティーナインティーン)」のロゴを背番号18バージョンに
リメークした「エムティーエイティーン」のマー君クラブ限定コラボグッズが特典に含まれる。
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☆ 共産・小池氏 「官房機密費 1日 307万円使い続けた菅氏」
共産党の小池書記局長は毎日新聞政治プレミアに寄稿した。
内閣官房報償費(官房機密費)の「政策推進費」について、菅義偉首相が官房長官在任中の2822日間に
支出した総額は86億8000万円、
1日当たり平均307万円を使い続けていたとして
「全くチェックされずにこの金額が支出されているというのは許されない」と語った。
政策推進費の性格について小池氏は「帳簿も領収書もいらず、使い道を知っているのは官房長官ただ一人だ」と指摘。
「国家財政が厳しいなどと言っているさなかに、いつまで高額な使途不明金の支出を放置しておくのか」と強調する。
「国民が大変な思いをして納めた税金を、政治家がぬれ手であわで使い放題に使っているという疑念を生む制度は
やめなければならない」と語った。
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☆ 【内田雅也の追球】 「島守」に学ぶ 「生きろ」
那覇・奥武山公園内に建つ「島田叡氏顕彰碑」を訪ねた。 十数年、キャンプ取材の沖縄滞在中、何度も拝礼している。
平和で野球ができる、そして野球を見られる幸せをかみしめる。感染拡大で、かつての日常が恋しい今は余計である。
沖縄県民で島田叡(あきら)の名を知らない者はいない。「小学校で習うんです」と宿泊中のペンション・オーナーが話していた。
沖縄でキャンプを張るプロ野球やアマ野球、多くの野球人は知っておきたい。
島田叡(あきら)は戦中最後の沖縄県知事である。 「島守」(しまもり)と呼ばれた。
大阪府内政部長だった島田は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年1月31日、沖縄県知事として赴任する。
すでに前年10月10日に米軍の大空襲で那覇は壊滅的打撃を受け、行政はまひしていた。 当時の知事は官選。
辞令を受けた際、「オレは死にとうないから、誰かが行って死んでくれとはよう言わん」と、家族を残して沖縄の地に降り立った。
軍が捕虜になるより自決や玉砕というなか、住民に疎開を勧め、部下にも「生きろ」と説いた。10万人以上の命を救ったとされる。
終戦6年目の51年に県民の寄付で摩文仁の丘に島守の塔が建設されている。
島田を描いた映画が公開となる。 来月に『生きろ』、来年夏に『島守の塔』と相次ぐ。
島田は野球人だった。 神戸・須磨の出身。顕彰碑は島田の故郷を向き、「友愛グラウンド」は兵庫・沖縄の交流を意味する。
神戸二中(現兵庫高)、三高(現京大教養部)、帝大(現東大)で俊足好打の外野手だった。
「劣勢と知りつつも、知恵をしぼり、あくまで全力を傾け、ベストを尽くす。 これがスポーツ精神だ」と、
三高時代の旧友の言葉が顕彰碑に添えられた「球魂」の碑に刻まれている。
「生きろ」の精神か。 野球も人生も同じだ。 こんな世だから思う。 生きるのだ。
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☆ 長男問題、会見先送り… 「菅政権の終焉」がいよいよ現実味を帯びてきた
笑顔を見せても表情が歪んでいる。 熱心に話しても、モゴモゴと口ごもって聞こえる。 きっと不器用なのだ。
でも国民はいま、そんな陰気なオーラのリーダーを求めていない。 気分が滅入ってしまう。
官邸内の暗がりの中に、落ち武者のような菅総理の姿が、白く淡いライトを浴びて、ぼうっと浮き上がる。
「ニヤァ」 そして菅は、チラチラ左右に目を泳がせながら幽鬼のように笑う。
いや、笑ってはいないのかもしれないが、そう見える。 全国民が感じてしまう、菅という男の耐えがたい暗さ。
異様な姿を見かねたのか、ついに二階俊博幹事長が横から口を出し、叱咤激励したという。
「おい、街頭演説するような気持ちでしゃべれ!」
二階派議員の一人がこう語る。「最近、菅総理は会見時に、原稿が目の前に表示されるプロンプターを使用し始めた。
実は、二階さんが『それ、いいじゃないか。 早く買ってやれ』などと勧めて、使うようになったのです。
総理は記者が集まる前に密かに使い方を練習して、視線をどこに置くかなど、必死に研究している」
もともと菅は、プロンプターの使用には消極的だった。
プロンプターというと、かつて細川元総理が使っていたというイメージが強く、「キザったらしい」ということで、
菅の流儀に合わないことが理由の一つ。
もう一つの理由は、「天敵」の小池百合子東京都知事がやはりプロンプターを駆使しているため、
「あの女の真似はしたくない」という、菅の意地とプライドの問題だった。
だが、それら菅の個人的事情も、二階幹事長の鶴の一声によって吹き飛んだようだ。
菅はついにプロンプターを導入し、「明るい会見」に向けた第一歩をようやく踏み出したのだった。
ところが、いざ使ってみると、なぜか逆効果になってしまった。 自民党中堅議員がこう言って嘆息する。
「会見の時の総理の目線がおかしいでしょ。 使い慣れなくて自信がないのか、菅さんは会見の冒頭にプロンプターが
きちんと作動しているか、そちらを神経質にチラチラと見るんですよ。
そのため、キョロキョロ、オドオドと目線が左右する、いわゆる『キョドった』状態に見えてしまい、
不安感がさらに増した。 イメージは、むしろ前より悪化しているのではないか」
もうすぐ、季節は巡って春となる。 緊急事態宣言は延長され、東京などは3月7日まで続く可能性が高いが、
その頃には草木が芽吹き、花も咲き始め、人々は新しい春の訪れを寿いでいるに違いない。
なのに菅総理は、あまりにも暗い、暗すぎる。
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☆ 同上 ②
春の足音とともに、このコロナ禍を暖かい風が吹き飛ばしてくれるのではないか。
国民の誰もが願い、希望を抱いている中、菅が醸し出す陰々滅々としたオーラは、一体どうしたことなのか。
「菅さんは、いよいよ疲れ切っているんです」 そう話すのは、官邸内の様子に詳しい関係者の一人である。
「現在、通常国会が開幕中ですが、連日の予算委員会などでのやり取りで、菅さんは疲労困憊して、
官邸に戻るとしばらくソファでぐったりしている。
2月5日には、答弁書を執務室に忘れて答弁に詰まってしまい、事務方が慌てる一幕もありました。
その上、最近は執務室に入る際、周囲にいる人間をぎょろりと睨むような仕草をするようになった。
孤立感を深め、一人きりで執務室にこもる時間が増えています」
憔悴のためか、食も細くなっているという。
「総理は、昼になるとステーキ弁当など、精が付くものをよく注文して食べているのですが、以前は完食していたのに、
このところは残してしまうことが多いそうです。 近くで見ると一回り小さくなったようにも見える。
このままでは倒れるのではないか、という心配の声も上がっています」
暗い、陰気だ、顔を見ると滅入る。 そうした厳しい世論は、菅自身が百も承知している。
そのため、菅は菅なりに、必死で負のイメージを払拭しようとしてきた。 だが、うまくいかない。
二階派幹部の一人は、「菅総理は、実に涙ぐましい努力を続けている」として、こう語る。
「1月18日に行われた施政方針演説に、総理はすべてを懸けていた。
直前の週末、総理は議員宿舎の自室から一歩も外へ出ず、2日間引きこもって演説の練習をひたすら続けた。
緊急事態宣言の対象地域について、『福岡』を『静岡』と言ってしまったり、
菅総理と言えば言い間違いというイメージが定着している。施政方針演説では、そうした間違いが起きないよう、全身全霊を傾けた」
血のにじむような猛特訓の結果、いざ本番の施政方針演説は、以下のような顛末に至る。
施政方針参院で言い直す場面も。
参院本会議ではほぼ原稿通り読み上げたが、その後の参院本会議では、新型コロナウイルス感染症対策の緊急事態宣言をめぐり、
「徹底的な対策」というべきところを「限定的な対策」、35人学級について「小学校」と言うべきところを「小中学校」と口にし、
言い直す場面もあった。 努力は、まったく報われなかったのである。
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☆ 同上 ③
二階派幹部は、無念さを滲ませながら、こう続けた。
「新聞に出ているほかにも、『うしろめたい』を『うしろめいた』と言ったり、『機能を強化』を『気運を強化』などと、
数々の言い間違いを防げなかった。国民は、菅総理と一緒に難局を乗り越えていこうという気持ちにはならないだろう。残念だ」
春なのに、涙がこぼれます…。 それは菅の涙ではなく、泣きたいのは国民のほうだ。菅の心身を蝕むストレスの大きな要因が、
コロナ禍にあることは間違いない。 だが、それに輪をかけて、いまその身の回りでは問題が続出している。
その一つが、自身の長男が絡んだ醜聞だ。
「『週刊文春』が報じた、総理の長男・菅正剛氏が総務省の高級官僚を接待していた件は、直前まで総理に知らされなかった。
2月3日に何か政権批判の記事が出るらしいと秘書官から聞いて、『また夜の銀座か? 』などと、総理は愚痴っていましたが、
その直後、実は息子のスキャンダルだと知ると蒼ざめ、『みんな下がれ』と秘書官らを執務室から追い出し、
一人で閉じこもってしまった」(別の官邸関係者)
菅が総務大臣を務めた際、大臣秘書官を務めていた正剛氏は、その後、衛星放送などを運営する東北新社に「天下り」。
いわゆる「接待・宴会部長」的な役割を担っていたという。
「正剛氏は総務大臣秘書官時代、実務は事務方任せで、『あれではバカ息子じゃないか』と眉を顰められていた。
当時、菅さんは若手キャリア官僚を招いた勉強会を開いており、今回、接待を受けたとされる官僚たちは
その勉強会メンバーで、菅さんの大のお気に入り。
筆頭格で次期事務次官と言われた谷脇審議官は、総理の肝いりで進められた携帯電話料金引き下げの旗振り役でもある。
息子と子飼いの官僚が癒着したこの違法接待疑惑は、道義面以上に政策的な意味でも、総理のダメージが大きい」(政治部記者)
この件を国会で野党から追及された菅は、「(長男は)べちゅ、別人格ですから!」などと色をなして反論したが、
これも世論の反発以上に、与党内で不興を買ってしまったという。
自民党ベテラン議員がこう嘆息する。
「長男は関係ない、と否定せざるを得ないのは分かる。 だが、息子を『別人格』と言い放ち、
『会ってもいない』と切り離したところに、菅総理の暗さ、温かみの無さを感じた同僚議員も多い。
せめて、『コロナのせいで、会いたくても会えていないんです』くらいのことを言えば、多少は国民が受ける印象も変わっただろう。
だが菅総理には、そうした柔軟性や政治センスもない」
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☆ 同上 ④
自助などと言って、困窮する国民に自己責任を強いておきながら、息子には「コネ」で美味しい思いをさせていたのだ。
猛反省してもそれで済む問題ではないが、スキャンダル発覚後、菅が実施したのはまたも根暗な「犯人捜し」である。
「いまや唯一の側近となった和泉首相補佐官に命じて、総務省から誰が情報を漏らしたのか、裏切り者を特定しようとしている。
しかし、国交省出の和泉をいくら走らせても、総務省内での犯人捜しなどできっこない」(官邸関係者)
自分や息子の不始末を真摯に釈明するわけでもなく、人間不信に陥った菅は、ますます独り言や愚痴が増え、
一人で焦って迷走しているという。
「ワクチン接種の段取りが想定以上に難航しており、総理は焦燥感を強めています。
以前は一日に2〜3回、河野ワクチン担当相に電話をかけて『早くしろ』とせっついていましたが、
今は一日に5〜6回は電話している。
2月中旬以降、なんとか1万人分のワクチン接種が開始できそうですが、最初に打つ予定の医療従事者だけで約370万人おり、
まるで足りません。
一方、河野さんの裏で存在感が薄れた加藤官房長官に、菅さんは不満を抱いている。
加藤さんは『総理を支える立場なので、自分の気配を消すのが仕事だ』などと言っていましたが、
『だからと言って、本当に消えてどうする』と、やる気を見せない加藤さんに憤慨しているのです」(官邸スタッフ)
何をやっても、どう努力してもうまくいかない。 周りにいるのは面従腹背のバカばかり…。
菅の怒りとイラつきの矛先は、とうとう、政権の後ろ盾となっている二階にも向けられ始めた。
「4月に北海道、長野、広島で3つの国政選挙が行われるが、自民党は苦戦や不戦敗が見込まれている。
この件で頻繁に、二階から菅に電話がかかってくるが、最近は『かけなおす』と言って総理が電話に出ないことが増えたという。
秘書官らにも『二階さんからの電話でも、すぐに取り次がなくていい』と伝えているようだ。
選挙のことしか頭にない二階に、菅もさすがにうんざりしたのかもしれない」(自民党幹部)
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☆ 同上 ⑤
菅は最近、「俺は総理のガラじゃない」と、ポツリと漏らすことがあるという。 総理には向いていなかった。
菅自身が、それを痛感しているのだ。 今さらそんなことを自覚されても、国民からすればたまったものではない。
「この政権は、もはやリカバリーできないところに来てしまった。 菅政権はもう終わりだという雰囲気が強まっている。
しかし、すぐに菅降ろしにはならない。
コロナ禍、東京五輪と難題山積の中、いま総理が交代したら、秋の自民党総裁選、その後の衆院選までに、
次期政権も追い詰められてしまう可能性が高い。
たとえ支持率が1%になっても、菅総理には秋まで粘ってもらう。
その後、『選挙の顔』にクビをすげ替えるというのが、残された唯一の道だ」(細田派議員)
どうやら我々は、暗闇に浮かぶ菅の顔を、まだしばらく眺めて暮らさねばならない。 真の春は、はるか遠い。
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☆ たけし 菅首相長男の写真に 「クラブで麻薬で捕まったやつかと思った」
ビートたけし(74)が27日放送のTBS系「新・情報7days」に生出演し、菅首相の息子について言及した。
番組では、山田真貴子内閣広報官が菅義偉首相の長男・正剛氏から受けていた和牛ステーキや海鮮料理など
7万4000円の高額接待について特集。
週刊文春によって公開された正剛氏の写真を見たたけしは「クラブで麻薬で捕まったやつかと思った」と発言。
長髪でヒゲを生やした見た目からそのような発言に至ったのだろう。
たけしはすぐに「またそういうことを言ったらダメなのか」と自らの発言を振り返ったが、
ネットでは「みんなが思ってることを言ってくれてありがとう」や「ナイスコメント」などの声が上がった。
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☆ 日テレ初のプロレス中継は面白すぎてCMを出し忘れた 【越智正典 ネット裏】
日本テレビが初めてプロレスを放送する昭和29年2月19日、中継車が蔵前国技館に向かって
局を出発したのは昼の部の番組が終わってからである。 開局から6か月、放送は全日ではない。朝、昼、夜。
テレビカメラは二台しかなく、技術部員がヨイショ!と中継車に積み込んだ。
テレビカメラは大きく、重く、体力勝負。そこで、学生時代にラグビーをやっていた男たちが技術部に配属されていた。
夜の部が始まり、中継放送開始。 力道山、木村政彦対マイクとベンのシャープ兄弟。
不思議な「プロレスリング」が始まった。 すると、蔵前国技館桟敷中段に往時のフィフティーンたちが
造ってくれた放送席の横を「大変だあー、ケンカだあー 」。
営業部員近藤晃郎がリングに向かって突進して行った。 このケンカを止めなければならない。
仲裁するんだ。大ゲンカになりそうだ…。 それというのも、当時CMは、作っておいたフィルムを局から流していた。
このときは中継現場の生カメラで番組提供スポンサーの商品を映していたのである。
二台しかなかったカメラのうち一台は放送席うしろのマス席に。 もう一台はリングサイドに。
騒ぎが大きくなればCMを出せない。
このタッグマッチで街頭テレビはまだそれほど盛況ではなかった。日本テレビは開局10日前の28年8月18日に、
上野公園の西郷さんの銅像前や深川のお不動さんの境内など東京都内29か所、東京近郊13か所に街頭テレビを設置していた。
「皆さん、押さないで下さい。危ないです。 あっ!力道山、空手チョップ」「スリに気を付けて下さい。ご用心下さい」。
こうアナウンスするのはこのあとである。
長嶋茂雄も立教大学が試験で野球部練習休みの晩、新宿東口「山一證券」前広場にプロレスを見に来ていた。
長嶋はのちのプロレス担当アナ、倉持隆夫が「西部開拓者」と叫んだルー・テーズが大好きだった…。
力道山、木村政彦の奮戦が終わった晩、近藤は眠れなかった。 リングサイドに駆け付けたのはよかったが面白くて、
みとれてCMを映すのを忘れたのである。 翌朝、プロレス中継提供スポンサー「明治製菓」の京橋本社にあやまりに行った。
CMを出すのを忘れました。申し訳ありませんと、大きなからだをちいさく折ると、玄関に飛び出して来た宣伝部長が握手を求め
「コンちゃん、ありがとう、ありがとう、大成功だ。 CMが出なかったって、気が付かなかったよ」
余談。この三戦を運動部長の指揮でフィルム編集。ビデオはまだない。 浜町のスタジオでアフレコ。60巻も売れた。
買ってくれたのは市町村の教育委員会であった。
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☆ 59年オープン戦 高卒の王貞治は23戦で長嶋超え5発
1957年の選抜大会の優勝投手として高校球界のスターだった王。
当時としても破格の契約金1800万円、背番号1と巨人の期待は大きかった。
水原監督も「できたらオープン戦に投げさせて力を見極めたい」としていた。
しかし、球威、制球力ともベテラン投手に比べると見劣り。
中尾投手コーチが「投手としては大きな期待を望めない」と指揮官に報告した。
その一方でバッティングでは先輩に負けない飛距離が注目され「野手に転向するなら早いほうがいい」(中尾)
との進言もあって2月22日に野手転向が言い渡された。
本人は「投手として制球力を身につけてやっていこう」と思った矢先だったが、気分を入れ替えた。
その日は紅白戦が行われ、何と試合前のホームラン競争にも駆り出され右翼席に1本叩き込み、
早速座った紅組の「7番・右翼」で4打数2安打2打点してオープン戦の1軍帯同が決まった。
川上ヘッドコーチから「足腰のしっかりしているのと体の柔らかいのがいい」とお墨付きをもらうと、
2月28日、近鉄とのオープン戦初戦に「8番・右翼」で先発出場し、3打数2安打3打点。
3月11日阪急戦では前年の最高勝率投手・秋本から右中間に初アーチを放った。
勢いは止まらず本拠地・後楽園に初見参となった3月20日の南海戦ではサヨナラアーチ。
この時期、一塁に回っていた与那嶺が外野手復帰を進言したことで、やったことのない一塁にコンバートされた。
当初は心もとないミットさばきだったが、徐々に解消。
結局、オープン戦24試合中欠場は1試合だけで22試合に先発出場し、主砲の長嶋の4本を上回る5本塁打含む
76打数18安打の打率2割3分7厘。 一発の魅力も買われ開幕戦に「7番・一塁」で起用された。
なお、ドラフト制度以降の左右の高卒スラッガー、清原和博は41打数9安打、松井秀喜は53打数5安打と、
そろってプロ入り1年目のオープン戦で本塁打を打てず、開幕戦スタメンは逃している。
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☆ 中日ドラ4 福島が倉敷工高卒業 「恩返しできるよう活躍したい」
倉敷工の福島章太(18)が2日、倉敷市の同高を卒業した。
「あっという間の3年間。 いろいろな経験を積ませてもらい、内容の濃い時間だった」と笑顔で振り返った。
福島は、卒業式後に教室で卒業証書を受け取り、硬式野球部員とともに練習に明け暮れたグラウンドへ。
晴れやかな表情で同級生や後輩らと記念写真に納まった。
同高では1年生の秋から背番号1。甲子園出場経験はないが、球威十分の直球を武器にプロ入りを勝ち取った。
高田監督は「この3年間で精神的に大きくなってくれた。 戦う気持ちを前面に出す本格派投手になり、
ファンに夢を与えてほしい」と期待を込めた。
中日では2月末まで行われた沖縄での2軍キャンプに参加。
「一日一日気を抜くことなくアピールした。 シーズンに向けて状態を上げていく。
応援してもらった人たちに恩返しできるよう早く活躍したい」と思いを新たにしていた。
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☆ 安芸キャンプ (阪神ファーム)
守屋投手は今キャンプで3試合に登板しました。
最後の28日はいきなり二塁打を許すも後続を断って無失点。
「まあまあです。よくはないでしょう。 よくはなかったです。
3試合のうちなら春野(2月23日の西武戦)が一番よかったかなと思います」。
確かに、23日は1奪三振の三者凡退でしたね。
「ただ、春野の時は変化球が全然曲がらなかったり落ちなかったりしたので、それを言うと今回は、
まあ変化球でしっかり思った変化ができた球が多かったから、そこはよかったですけど。
でも真っすぐが今ひとつだったので」。
二塁打は真っすぐ? 「真っすぐです。 あれも高さが悪かった」
その部分が修正点に? 「そうですね。 まだ指にかかっているボールが少ないので。
確率をどんどん上げていかないと1軍ではちょっと厳しいというか、
しんどくなるんじゃないかなという感じですね」
キャンプを振り返って「日々の練習に後悔はないので、そこは充実したキャンプになったんですけど、
思ったより仕上がり具合が…って感じで。 まあ疲れもあると思う。
疲れが抜けてきてどうなのかというのもまだわからないですし。
これからどうしようというビジョンはあるので、そのビジョン通りいけるようにしていきます」
ビジョンとは? 「難しいですね、言うのは。 フォームでどう使ってとか、どういう意識をしてとか、
これができたら自分の思っているラインにボールを入れられるとか」。
なるほど、技術的なことですね。
素人の私にはここまでが限界かも。 ありがとうございました!
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☆ 甲子園のベンチ入り人数増はなぜ実現できない? 指導者は「18→20」熱望
近年、各地方大会、地区大会のベンチ入りは20人に増えたが、春夏の甲子園大会は18人のまま。
とくに夏は、厳しい地区大会を制し、歓喜に包まれた直後に2名がベンチを外れるという悲劇が、毎年繰り返されている。
もちろんセンバツに関しても、秋の地方大会、地区大会は20人で戦ったが、甲子園では2人減らされることになる。
昨年は、春夏とも中止となり、センバツに出場予定だったチーム1試合のみ戦うという「甲子園交流試合」が開催された。
イレギュラーな大会ではあったが、全国大会として初めて20人のベンチ入りが認められたのだ。
あるベテラン監督はあっさり「お金の問題でしょう」と言った。
「僕らはずっとそう思ってきたし、ほかの理由が思いつきません。 18を20にするのは、そんなに難しいことなんですかね」
今回のセンバツに出場する別の監督に聞くと、ベンチ入り選手に対しては、現地からの移動費と宿泊費の一部が
主催者から支給されるという。
「数年前に出場した時は、宿泊については確かひとり4000円くらいの補助が出ていたはずです。
ただ、チームが泊まっていたホテルは毎年県ごとに決まっていて、食事つきで1泊1万円以上。
だから、その時点で部費や寄付でまかなってきました。
主催者が18人分しか出せないというのなら、2人分はチームで出していいのでベンチ入りを20人にしてほしい。
ほとんどの指導者がそう思っているはずです」
現場から多くの要望がある限り、簡単にスルーできる問題ではないと思うし、明確な理由があるのならしっかり伝えるべきだろう。
18回が15回までとなった延長戦、タイブレークや球数制限の導入。健康面に配慮しながら、時代に沿ってルールが変更されてきた。
それだけにベンチ入り問題についても、主催者の勇気ある決断に期待したい。
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☆ 巨人・長嶋よりうまかった 阪神OB三宅秀史さん死去
阪神は5日、球団OBの三宅秀史さんが3日に心不全のため、三重県内の病院で死去したことを発表した。86歳。
岡山県出身。通夜、告別式は近親者のみで執り行われた。
1953年に三塁手として入団した三宅さんは牛若丸・吉田義男と黄金の三遊間を組んだ。
阪神のライバルである巨人は当時、ミスターこと長嶋茂雄が三塁を守り、遊撃の広岡達朗と三遊間を組んでいた。
当時の巨人・水原茂監督の言葉として、「うちの長嶋茂雄と三宅秀史とどっちがうまい?
そんなの三宅に決まっているじゃないか」と即答し、
川上哲治も「うちの長嶋と広岡の三遊間と阪神の2人と比べたらそりゃ、阪神のコンビだよ」と平然と言った。
吉田との三遊間に加え二塁の鎌田実とのトリオで「100万ドルの内野陣」と呼ばれる鉄壁の守備陣を形成した。
今は亡き鎌田は生前、「試合前のシートノックでファンを沸かせていたんだ」と胸を張った。
三宅さんは62年のシーズン中に試合前のキャッチボール中にボールを左目に受け記録は途絶えたが、
04年に金本知憲に破られるまで、700試合連続フルイニング出場のNPB記録を保持していた。
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☆ 内田雅也編集委員が三宅秀史さんを悼む
三宅秀史さんに、昨年オフの連載『猛虎の地』で取材依頼の手紙を送り、電話も応答がない。
いつも返事をくれる律義な方なので案じていた。吉田義男さんに聞くと「もうあかんかもしれん…」と覚悟していた。
連載で取り上げたかったのは大阪・梅田の安兵衛食堂。
岡山・南海高(現倉敷鷲羽高)3年の1952(昭和27)年12月、夜行列車で単身、大阪に来た。
球団事務所で契約し、30万円の札束を手にした。近くの食堂で独り昼食をとり、故郷へ帰った。プロ入り当時の心境を聞きたかった。
「長嶋以上」と称された三塁守備にパンチのきいた打撃で連続出場記録を作った。努力は相当だったろう。
安藤統男さんによると、スパイクは土踏まずの切れ込みのない「わらじ型」で「ねんざしないように」と独特の工夫を凝らしていた。
スマートで口調も柔らかだった。座右の銘を聞く2014年オフの企画で自宅のある三重県鈴鹿市を訪ねた際、色紙に書いたのは「熱球」。
内に秘めた情熱を知った。「丸い物は正直」と言った。
「何年間か、一生懸命遊んだボールに教わった。 人間は素直じゃないといかん」
連続出場が止まった左目の負傷。孫の肝臓を受けた生体肝移植。 悲劇に見舞われながら自分の心に素直に生きた生涯だった。
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☆ 磐城・田村 東北悲願を逃した唯一の失投 ①
1971年夏の甲子園は「小さな大投手」に沸いた。
磐城(福島)のエース田村は165センチ、62キロの小柄な体格ながら、正確無比の制球力で力投した。
初戦で当たった優勝候補の日大一に始まり静岡学園、郡山を3戦連続完封。
桐蔭学園との決勝戦では大会34イニング目に初失点し、0-1で敗れた。
東北初の深紅の優勝旗を逃した、悔やんでも悔やみきれない1球があった。
田村は、決勝戦で投げた「あの1球」の記憶が今でも、鮮明に残っている。
0-0の7回裏、右中間に長打を浴びて迎えた2死三塁のピンチ。 カウント1-2から投じた4球目。
内角を狙って投げた、落ちるシンカーが変化せずに甘く入った。
大会通じて唯一の失投を左中間にはじき返され、痛恨の決勝点を奪われた。
投げた瞬間、あっ、打たれるっと思った。 死球で当たってくれと。
点を取れるチャン スを2回も逃していたし、1点取られたら負けだなと思った。
中学は投手で、高校入学後は主に野手だった。
高2で出場した夏の甲子園では正捕手を任され、高3の5月から本格的に投手へ転向した。
投球練習で100球以上投げ込んだ後に、10球連続ストライク投球を課して制球力を磨いた。
球速は120キロ台ながら、生命線の外角低め直球はコースにズバズバ決まる。
甲子園4試合で四球は1度も出さず、内角を突いた2死球だけ。
準決勝までの3戦では打たれた18安打すべてが単打で、27回連続無失点に抑えていた。
その田村の針の穴をも通すコントロールが、なぜ微妙に狂ったのか。
田村 2球で簡単に追い込んで、3球目に投げたウエストが滑った。
ボールを交換してほしかったんだけど、あの頃 は審判が絶対だった。
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☆ 同上 ②
ボールを替えてくれって言えなくて、そのまま投げた4球目が縫い目に指がかからなかった。
ランナーがいたから、早く勝負したかったんだろうね。 もう1球遊ぶか、アウトコースぎりぎりに投げるか。
結果的に投げ急いじゃった。 前評判を覆しての準優勝だった。
主将田村が抽選会で引いた初戦のくじは優勝候補の日大一だった。
会場からは「かわいそうに」とため息が上がるほど。 それでも田村は動じるどころか、むしろ自信があった。
高3の5月から投げ始めた新球シンカーを、本番前には自在に操れるようになっていた。
浅く握るか深く握るかで、シュート気味に内角をえぐることも出来たし、落とす時は落とし幅までコントロールしていた。
決勝2日後には、地元いわきでパレードが行われた。 田村は日本代表合宿で参加出来なかったが、約20万人が参列した。
指導者に転身後は79年夏、82年夏には安積商を、85年夏には母校磐城を甲子園に導いた。
「小さな巨人」は選手としても、監督としても聖地の土を踏んだ。
田村 決勝戦は勝てない試合ではなかった。 優勝できなかったから、残念だというのはない。
決勝の前日には「優勝しちゃうとおかしくなっちゃうなぁ」とみんなと話していたぐらい。
後で聞くと桐蔭は「明日は絶対勝つぞ!」という感じだったそう。
勝負のこだわりみたいなのは、向こうの方が強かったね。でも自分たちもよく頑張った。
今思い出しても、青春ですね。
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☆ 91歳で退任 スズキ・鈴木修会長 「客の動線を見れば経営者の資質がわかる」
スズキの経営トップを40年以上務めてきた鈴木修会長(91)。
2月24日の会見で6月の株主総会をもって代表権を返上し、相談役に退くことを表明した。
修氏は2代目社長・俊三氏の長女と結婚し、スズキ入り。とんとん拍子で出世し、1978年に48歳の若さで社長に就任した。
83年には他社に先駆けてインドに進出。 5割のシェアを占める一大市場に育て上げた。
社長就任当時、約1700億円だった売上高は現在、約3.5兆円。世界で知られる大企業となった。
それでも「中小企業のオヤジ」を自認。販売店の家族構成まで知り尽くし、気軽に声を掛ける姿勢は変わらなかった。
親交の深い元議員は、酒席でのこんな言葉が印象に残っている。
「客の動線をよく見ておくように。 動線を見れば店が繁盛するか、経営者の資質が高いか低いか分かるから」。
自らは「勘ピューター」と謙遜するが、実際は細かな点まで目配りする精緻な経営だったことが窺える。
そんな鈴木氏にとって、長い間、悩みの種は「後継者」問題だった。
「スズキでは2代目、3代目、そして4代目の修氏まで代々鈴木家の娘婿が社長に就いてきた。
京都の商家のような事業承継だったのです」(スズキ関係者)
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☆ 同上 ②
修氏が会長に退いた2000年、初めて創業家以外から戸田昌男氏が社長に就任。だが体調を崩し、僅か3年で退任。
後任の津田紘氏も健康上の理由で、08年に退任してしまう。 この間、鈴木氏が後継者に見据えたのが、「娘婿」だった。
「元通産官僚の小野浩孝専務です。 ところが、07年に膵臓ガンで急逝。 52歳の若さだった。
当時の津田社長は葬儀で『修会長と2人で、あなたの“将来”を話し合った』と弔辞を読み上げました」。
結局、修氏が社長に復帰する。 15年に長男の俊宏氏に社長の座を譲り、自らは再び会長に就任したが、
「事実上、80代後半の修氏が経営を主導していました。スズキは16年10月、トヨタ自動車との提携を発表しましたが、
これも修氏が陰で動いたから。
豊田章一郎名誉会長に提携を持ち掛け、章男社長に繋いでもらったことで一気に実現したのです。
19年8月には資本提携にこぎつけましたが、その際、修氏は章男氏に『息子を頼みます』と頭を下げています」。
それでも寄る年波には勝てず、「最近は滑舌が悪くなっていた」という。
密かに引退の意思を固め、今回の会見での電撃発表となった。
自動車業界が激動期を迎える中、軽の盟主、スズキの「後継者」俊宏氏に課せられた役割は軽くない。
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☆ 「元祖怪物」 江川卓が凄すぎた… 「プロより球が速く見えた」驚異の高校時代 ①
1973年のセンバツで作新学院の江川卓がマークした60奪三振は、春の甲子園一大会あたりの最多奪三振記録である。
1回戦 北陽 19奪三振 2-0、 2回戦 小倉南10奪三振 8-0、 準々決勝 今治西20奪三振 3-0
準決勝 広島商11奪三振 1-2。
しかし、江川と3年間バッテリーを組んだ亀岡(旧姓・小倉)によると、「江川のストレートが一番速かったのは2年の秋」だという。
そこで調べてみると、高2の秋の栃木県予選、関東大会では圧巻の数字が並ぶ。
県予選は4試合に登板し、29回を投げ、6安打無失点45奪三振。奪三振率14.0。
関東大会では1回戦、東農大二相手に6回まで投げ13奪三振1安打無失点。準決勝は銚子商に対し、1安打20奪三振の完封勝ち。
決勝の横浜戦でも16三振を奪い、無四球完封勝ちを演じた。
江川擁する作新は、23戦全勝、140イニング連続無失点というとんでもない記録を引っさげて甲子園に乗り込んだのである。
関東大会3試合の中でも、“黒潮打線”の異名をとる銚子商戦相手の20奪三振は衝撃的だった。
「試合は銚子球場で行われたのですが、野球熱の高い銚子のファンが完全に黙り込んでしまいましたから…」
そう語るのは、江川より1学年下の土屋である。2年夏にはエースとして甲子園に出場し、準々決勝で作新を延長の末に撃破する。
雨の中で演じた江川の“サヨナラ押し出し四球”は今も語り草である。
「実は関東大会の準決勝、僕は途中から出場しているんです。ウチのヒットは8回に青野が記録したライト前の1本だけ。
あれも、もう少しでライトゴロになりそうな打球でした。
この時の江川さんのボールは速いなんてもんじゃなかった。ボールが浮き上がってくるように見えました。
江川さんより1学年下、つまり僕らの学年には横浜の永川(1975年ヤクルトドラフト1位)、土浦日大の工藤(75年阪神ドラフト2位)ら
速球派といわれた好投手が何人もいましたが、江川さんとはボールの質からして違っていた。
皆、速くても浮き上がってはこなかった。 いや、あんなボール、プロに入ってからも見たことはありません」
ちなみに土屋は1975年にドラフト1位で中日に入団。 中日で9年、ロッテで3年プレーしている。
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☆ 同上 ②
試合が始まるなり、銚子商の監督・斉藤一之は完全試合を覚悟したという。
2回二死から6番打者が四球を選んだ際には「ホッとした」と周囲に語っている。
再び土屋。 「ウチは黒潮打線と呼ばれるほどの強打線で、打力は関東でも1、2を争っていた。
そんな打線をもってしても、打球が前に飛ばない。
ファウルでもチップでも、ボールがバットに当たっただけで拍手が起きたんです。
こんな経験、後にも先にも、あの時だけですよ」
途中からマウンドに上がった土屋は、試合の終盤で一度だけバッターボックスに入った。
「ストレートも速かったけど、それ以上に驚いたのがカーブ。顔に向かって飛んできたように見えたボールが、
外角いっぱいに決まりました。僕は手も足も出ませんでした。
三振でしたが空振りだったか見逃しだったのかさえ覚えていない。江川さんは体も大きく、威圧感があった。
とても高校生には見えなかったですね」
甲子園での高校野球は通常、午前中から夕方にかけて行われる。
どんなに速いピッチャーでも、ナイトゲームで見るプロのピッチャーには見劣りする。
私の経験上、夜のプロより昼間の高校生の投げるボールの方が速く見えたのは、後にも先にも江川卓だけである。
彼こそ正真正銘の“怪物”だった。
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☆ 東京大空襲から76年 火の海の中… 4歳の王貞治少年が避難した約1キロの道のり
明日で東京大空襲から76年。 米軍の大量無差別爆撃で下町一帯が焼け野原と化し、約10万人が命を奪われた。
罹災者は100万人と言われる。 この惨禍を生き延びた1人が、王貞治さんだ。
生まれ育った墨田区で昨年から開かれている企画展で、当時4歳の王さんが母親に背負われて逃げた経路が紹介されている。
太平洋戦争末期、3月10日未明ごろに始まった下町じゅうたん爆撃。
1954年に刊行された「都政十年史」に「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し…」と記録されている惨禍で、
防火や避難に必死な人々の中に王さんの一家もいた。
向島区吾嬬町(現墨田区)で両親が中華料理店を営んでいた王さんは、母親に背負われて逃げたことを著書などで明かしている。
父と兄は防火作業のため自宅兼店舗付近に残り、母は王さんと姉を連れて逃げた。 もう1人いた姉は疎開中。
空襲自体については、空が赤々としていたことが記憶にあるという。
一緒に逃げた姉の証言を基に、王さんの避難経路を初めて公開したのが「すみだ郷土文化資料館」で開かれている企画展。
展示の一環として避難した人々の経路が示されており、王さんの避難経路も見られる。
経路図に町名や通りの名は示されていないが、区内東部からおおむね南下し、さらに東に向かって旧中川の付近で終わっている。
「平井橋のたもとだと思います」と語るのは、同館学芸員の石橋星志氏。 橋を渡ると江戸川区の平井になる。
「奥まで渡っておらず、川にも入らなかったと。 川で亡くなっている方を見たりしているということだったので、
橋の手前までと判断した」 家屋は焼失したものの、一家は無事だった。
旧中川には猛火を逃れようと多くの人が入り、3000人が犠牲になったとされる。
本紙記者が、王さんの「命の道のり」を実際に歩くと、歩行距離1キロ半あまり、約20分かかった。
火の海状態の中、息子を背負って娘の手を引いた母・登美さんの避難は想像を絶する過酷なものだったに違いない。
戦火を生き延びた王さんは1957年、早稲田実業でエース兼四番打者として春の甲子園を制した。
地元にとって戦後復興の象徴となる快挙。
野球に限らず「王さんのような可能性を持った人が、亡くなった方の中にもたくさんいたのでは」と石橋氏は犠牲者をしのんだ。
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☆ 今年の立正大の新入生24名がすごい!
東都一部の強豪・立正大が入学生を公開した。
【投手】 梅田 健太郎(横浜隼人)、小松崎 駿(石岡一)、園田 周(聖望学園)、庭野 夢叶(天理)、
山下 一馬(中央学院)、館 慎太朗(昭和一学園)。
【捕手】 加藤 陸久(相洋)、川西 拓海(日体大柏)、古谷 将也(成田)。
【内野手】 蔵田 亮太郎(聖望学園)、佐藤 文彰(立正大淞南)、ソウ・ユウチン(高知中央)、中田 隼哉(健大高崎)、
中谷 亮太(倉敷工)、増田 和希(大阪桐蔭)、丸山 駿也(広陵)、与谷 友希(沖縄尚学)、渡辺 翔大(昌平)。
【外野手】 飯山 志夢(中央学院)、上野 海斗(大阪桐蔭)、上島 寛大(聖隷クリストファー)、
高橋 翔太(聖望学園)、山田 大介(佐久長聖)、渡辺 凌矢(日大三)。
投打ともに人材がそろっており、今年は主力選手が多く入れ替わるため、早くからデビューする可能性がある。
中谷君も頑張れ!!
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☆ ジャンボ尾崎がエースだった徳島・海南 初出場で進んだ決勝は終盤にドラマ
大会初となる初出場校同士の顔合わせとなった1964年の決勝。
6万人の大観衆が注目したのは、剛と柔の対照的なスタイルのエース対決だった。
長身からの快速球で打者をねじ伏せる徳島・海南の尾崎正司に対し、広島・尾道商の小川邦和は
右横手から抜群の制球力で凡打の山を築いていた。
ともに準決勝まで1人で投げ抜き、小川は4試合で2完封、3失点。
一方の尾崎も3完封で1失点と、ほぼ完璧な投球を披露。
後にプロゴルファーの「ジャンボ」尾崎将司として大成する身体能力の高さを示していた。
予想通りの投手戦。均衡を破ったのは尾道商だった。六回2死から好機を築き、4番田坂が左前適時打。
相手守備の乱れもあり、2点を先制した。小川の脳裏に「尾道市内をパレードしている姿が浮かんだ」という。
だが身長170センチのエースは限界に近かった。腰痛や疲労から制球が甘くなり、七、八回に各1失点。
九回はスクイズで勝ち越し点を奪われた。
それでも尾道商ナインは諦めていなかった。2死満塁と攻め立て、打席には小川。
フルカウントまで白熱した対決は一飛でピリオドが打たれた。
尾崎はプロ入りしたものの未勝利に終わり、プロゴルファーに転身。
小川は巨人、広島で通算248試合に登板し、29勝9セーブを挙げた。
尾道商は68年にも決勝に進み、埼玉・大宮工から2点を先制しながら3失点して逆転負け。
因縁めいた展開で再び頂点を逃している。
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☆ 完全試合まで2アウト 待っていた劇的展開 (1988年センバツ 3回戦 宇部商2―1中京)
甲子園は異様な熱気に包まれていた。 中京(現中京大中京)のエース木村龍治が九回1死まで、
宇部商を相手に一人の走者も許さない快投を続けていた。 大会10年ぶりの完全試合まで2アウト。
その後に起きる劇的な展開を、だれが予想できただろうか。
プロ注目の木村は序盤から内角に重い直球を決め、カーブの切れも抜群だった。
直球狙いを指示した宇部商の玉国監督も、予想以上の剛腕ぶりに「お手上げ状態だった」。
八回まで5者連続を含む8三振。 その裏に重い1点を先制された。
九回1死。26人目の打者西田が「完全試合をやられてたまるか」とカーブに食らい付き、一、二塁間を破った。
打たれた木村は苦笑い。 犠打で2死二塁となると、大きく深呼吸し、二塁にけん制球を投げた。
打席の新2年生坂本は、冷静にその所作を分析していた。「目標を失い、明らかに動揺している。絶対に打てる気がした」
木村の91球目は、真ん中高めの直球。
坂本が「この球を逃せば次はない」と強振すると、快音を残した打球は浜風に乗って左中間ラッキーゾーンへ。
高校初の本塁打が、起死回生の逆転弾となった。
翌日が誕生日だった玉国監督は、1日早いプレゼントに大喜び。
「完全試合を覚悟していたのに、まさか勝てるとは。 信じられなかった」と振り返る。
宿舎の夕食で、お祝いのタイの焼き物が出された。「坂本、おまえから箸を付けろ」と先輩部員たち。
規律正しい坂本もこの時ばかりは、「では遠慮せずに」と誇らしげだった。
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☆ 緊迫の投手戦! 菊池雄星vs.今村猛
花巻東・菊池雄星と清峰・今村猛による息詰まる投手戦が見られたのが、2009年のセンバツ決勝戦。
1回戦の鵡川戦で8回二死までパーフェクトの快投を演じた菊池は、2回戦でも今宮健太を擁する明豊を
2試合連続の完封で退けるなど、東北勢悲願の甲子園初Vをかけて決勝戦に臨んだ。
一方、今村も1〜2回戦を連続完封。
準決勝までの4試合で失点わずか1という安定ぶりで、同校の3年ぶり決勝進出の原動力となった。
152キロの菊池vs.148キロの今村。 左右の剛腕が激突した頂上決戦は、両者ともに譲らず6回まで0-0。
この時点で菊池は被安打4、今村も被安打2と内容もほぼ互角だった。
試合が動いたのは7回。 清峰は二死から8番・嶋崎が菊池からストレートの四球を選んだあと、直球を狙っていた橋本が、
甘く入ってきたところを見逃さずに中越えの二塁打。 虎の子の1点を挙げる。
今村の前に7回まで二塁も踏めなかった花巻東も、8回は二死一・三塁、9回には二死一・二塁と続けてチャンスをつくったが、
最後まであと1本が出ず、そのままゲームセット。
1-0で勝利の瞬間、今村はこれまでほとんどしたことがないガッツポーズを見せ、
「バックを信じて投げた。やっと終わったと思った」といささかも気の抜けなかった投手戦を振り返った。
一方、ひとつの四球が大きな悔いを残す結果を招いた菊池は「精一杯やりましたが… 悔しい。残念です」と涙にくれた。
この大会には倉工も出場、開幕戦で奇跡を演じた。もう12年経ったか、長く出口の見えないトンネルに入ってしまったね。
名将中山氏の転勤が痛かった。 彼が倉工に来なかったら、平成の3回の出場がなかったかもしれない。
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☆ センバツ、ブラバン生演奏は禁止 土を集める行為も禁止
高野連と毎日新聞社は、事前録音したブラスバンド演奏の音源使用を可能にすると発表した。
発表によると、10曲が上限。 提出された音源を球場のスピーカーで流す。
録音が間に合わない出場校には、甲子園での応援経験が豊富な尼崎高吹奏楽部の協力で、定番の10曲を準備する。
音楽を流さず、手拍子のみでの応援も可能としている。
1曲につき2〜2分半がめど。 打順かイニングごとに曲を指定してもらう。
選手が試合後に土を集める行為も禁止される。 選手には別の形で土を贈る方針。
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☆ 元日馬富士が優秀論文賞を受賞… 城西国際大大学院を修了 「相撲道に感謝」
元横綱・日馬富士のダワーニャム・ビャンバドルジ氏(36)が13日、城西国際大大学院修了に際し、
同大の千葉東金キャンパスで行われた卒業式に出席した。
「新モンゴル日馬富士学園創設プロジェクト-全身全霊で行う小中高一貫教育」が優秀論文賞を受賞した。
角帽にガウンという姿で式典に姿を見せたビャンバドルジ氏は「映画とかで見たことはあるけど、まさか自分が着てね。
ずっと着てみたかった。 帽子とか投げると思って準備していたんだけど」と冗談めかしながらも、
「横綱として新しい道を作れたことがうれしい」と喜びをかみしめた。
母国のモンゴルでは2018年9月から小中高一貫の私立学校「新モンゴル日馬富士学園」を開校し、理事長に就任。
修士論文執筆にあたり、学校の生徒や保護者、教職員ら約2000人にアンケートを実施した。
礼儀を重んじるなど、相撲で学んだことを取り入れた教育に対する感想などを聞いたという。日本語で約7万字に及ぶ論文。
担当の孫根志華(そね・しか)教授は「誰が見ても立派な実証研究として評価されています」と、たたえた。
城西国際大と日馬富士学園の交流に向け、両校が提携を結ぶことも決まった。
詳細はこれからだが、日馬富士学園の卒業生の受け入れや、城西国際大の教員らの交流も計画されているという。
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☆ 元広島の正田耕三氏 「目標は甲子園!」 京都成章のコーチとしてスタート
元プロ野球広島カープの内野手で、首位打者など3度のタイトルを獲得した正田耕三氏(59)が13日、
京都成章高校野球部のアドバイザーコーチとして京都市西京区のグラウンドで始動した。
今年2月、学生野球資格回復が認められ、念願の高校球児の指導が可能になった正田氏は
「一生懸命に練習する選手の手助けができれば。頭でしっかり理解し、前向きに取り組む練習方法を考えたい」と抱負を語った。
グラウンドには約80人の部員が整列。初顔合わせとなったナインに、「君たちが目指す甲子園という目的地へ向かって、
私自身も本気で取り組んでいこうと思っている」と真剣な眼差しで訴えた。
松井監督(56)は今回の正田氏の招請について、「プロでも社会人でも優勝を経験し、
オリンピックでも金メダルを取っておられる。 しかし、甲子園出場はなく高校の時だけ頂点に立っていない。
そこに共感を覚える。 甲子園への強い思いは選手たちも同じです」と力説し、同氏の手腕に期待を寄せた。
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☆ 「おりがみ」で思い出す世界の巨人 〝ジャイアンツ馬場〟の青春 【越智正典 ネット裏】
ひょいとテレビをつけたらBSテレビ東京の「孤独のグルメ」が始まろうとしていた。「新丸子」が映った。
渋谷から東急東横線で行くと「多摩川」の次の駅の町である。
東口に出ると、いまはマンションになっているが、往時の「巨人軍多摩川寮」。
昭和30年、新潟県三条実業から入団した馬場正平投手、“ジャイアンツ馬場”は淋しくなると新丸子の下の河原で
海は荒海、むこうは佐渡よと、歌っていた。
月二回の分割給料日に給料をもらうと練習が終わった夕方、
多摩川寮の裏の「松の湯」で少しのんびりしてから銭湯の隣のそばやの暖簾をくぐっていた。
「オバサーン、アンミツ二ッゥ!」 「あいよー」 彼女は心得ていてドンブリで、二ハイ出した。
昭和34年秋、整理になった。 ねじれ球がいけそうだったが、マウンドの投手守備がイマイチだった。
馬場が一軍に引き上げられて投げることが出来たのは入団3年目の32年である。
一軍登板成績は3試合、先発1、0勝1敗、投球回7、打者26、安打5、四球0、三振3、自責点1。
35年春、馬場は第二次明石キャンプで大洋のテストを受けた。 テスト生は風呂もしまい風呂。
床に石鹸を使ったあとがたまっていて滑ってころんだ。 2メートル、90キロ。
倒れたときガラス戸にぶつかり破片が突き刺さった。 38針も縫う大ケガだった。
「救急車のサイレンが鳴ったのには驚きました。 明石では滅多にないことです」
巨人の明石キャンプの宿「大手旅館」のご主人、横山茂雄さんは話す。
「翌日、大洋の宿、錦明館に新潟から馬場さんのおかあさんが杖をついてお見えになって
『ご厄介をおかけしました』と、玄関の床にオデコがつきそうになるほど、お辞儀をなさっていました」。
馬場がプロレスラーになるのはこの事故からである。 馬場は全日本プロレスの社長になる。
リングの帰りには現、永田町のザ・キャピトルホテル東急のレストラン「ORIGAMI」に寄って
冷たい紅茶を飲んでひと休みしていた。
首相の動静を伝える記事によると菅首相がときどき「おりがみ」に来るという。
そのたびに、馬場のマウンドを思い出している。
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☆ 【話の肖像画】 「世界の盗塁王」福本豊(73)返り討ち… 完璧やった王さん
昭和46年、パ・リーグを制した阪急(現・オリックス)は日本シリーズで巨人と対戦した。
阪急にとって42年から3年連続で苦杯をなめた相手だ。
阪急はこのシーズン、2年連続盗塁王の自身と加藤秀司内野手、山田久志投手の新戦力が加わり、
勝負は互角と思われていた。
第1戦は終盤に盗塁に成功したけど、ホリ(堀内恒夫)と森(昌彦、祇晶)さんのバッテリーにやられました。
2戦目は山田-米田哲也の継投と打線の活躍で1勝1敗に。迎えた第3戦、阪急は序盤の1点を山田が守ったまま、最終回を迎えた。
後楽園球場での第3戦はよう覚えてます。 10月15日、前々日の試合で勝ってるし、勝てたと思った試合やったんですけど。
ヤマが八回まで出した走者は2人だけ。 1-0でリードしていた九回裏でした。1死後、巨人は柴田さんが四球で出塁。
2死後に長嶋さんのゴロがショートの左を抜いてセンター前に転がった。 一瞬にしてピンチになった。
2死一、三塁で打席に王さん。 ヤマは果敢に勝負を挑んだけれど、直球を右翼スタンドへ、逆転サヨナラ3ランを運ばれた。
王さんは完璧やった。 打たれた瞬間、僕らは打球を目で追うだけでほとんど動けず、心の中で「あ〜っ」。
マウンドのヤマは動くことさえできんかった。 王さんや長嶋さんには、何か知らんけど雰囲気をつくられてしまう。
2人を当然、マークするんですけど、今度は後ろの打者にやられたりとかね。
この試合を勝ってたら、結果は変わっていたかもしれへんね。
その後も知らんうちに負けて終わってしもうたという感じやったね。 やっぱり巨人は強いと思いました。
初めて主力として戦った日本シリーズは、1勝4敗で巨人に返り討ちにされた。
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☆ 甲子園最多勝の高嶋仁氏が野球少年に語りかける “勝敗より大事なもの”
かつて甲子園を沸かせた闘将は笑顔で「みなさん、野球は楽しいですか?」と子供たちに問いかけた。
監督時代に歴代最多の甲子園春夏68勝、通算3度の優勝を成し遂げた智弁和歌山の高嶋名誉監督(74)が14日、
奈良県の葛城JFKグラウンドで、中学野球を目指す小学5、6年生らを対象に講演を行った。
2018年の監督勇退後、野球人口減少を食い止めるため各地で少年野球の臨時指導や講演を続けている。
この日も集まった子供らに「野球を好きになってください。 楽しまないとあかんよ」と言って聞かせた。
指導者や保護者にも「上に立つ人がどんな言葉をかけるかが大事。 言葉で選手を傷つけないこと。
人が人を動かすのは言葉です」と呼びかけた。
野球人口減少が懸念される中、高野連は「高校野球200年構想」と称し、次の100年へ向けた野球普及活動を行う。
日本野球機構もジュニアチームに力を入れる。
球界全体の課題に高嶋氏は「野球を始めてから、そのままやめずに続ければそれほど野球人口は減らないと思う」
と見解をみせる。 野球がつらくなったり、大きなケガをしたりして途中でやめる選手を作らないこと。
高校生、大学生になるまで野球を好きでいてほしい。
「それにはやはり、指導者の意識改革。 優しく丁寧に教えることです。 勝つことも大事だが、
少年野球の時期はもっと大事なものがある」と力を入れた。
「子供たちの目がギラギラしているのが印象的でしたね」。この輝きを大人になるまで野球に向けてもらいたい。
その思いで、75歳を迎える今年も野球の楽しさを伝え続ける。
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☆ 元近鉄の山口哲治氏が福井工大福井コーチ就任内定
近鉄、南海(現ソフトバンク)で活躍し、近鉄、楽天でコーチを務めた山口哲治氏(61)が、
4月から福井工大福井のコーチに就任することが14日までに内定した。
昨年12月で楽天を退団し、少年野球の「奈良葛城ボーイズ」の技術コーディネーターに就任していた。
同チーム出身で、大阪桐蔭時代に阪神藤浪らと12年甲子園春夏連覇を果たした白水健太氏(26)が
昨秋に福井工大福井監督に着任しており、山口氏は白水監督をサポートすることに。
智弁学園(奈良)時代に77年センバツ4強入りした山口氏が、指導者として甲子園帰還を目指す。
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☆ 阪神が甲子園レフト外周に新広場 「にぎわう場所に」
15日、甲子園球場のレフトスタンドの外周エリアに「スコアボード型モニュメント」を中心とした新たな広場を設置した。
また、大林組と命名権契約を行い、広場の正式名称は「OBAYASHI-SITE」 (略称「O-SITE」)に決定。
甲子園球場の担当者は「野球開催日には、フォトスポットや待ち合わせスポットとしてにぎわう場所になればと思います。
甲子園歴史館と合わせて、ゆっくりと球場の歴史に触れていただくのもおすすめです」とコメントした。
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☆ 高校野球の歴史に残るセンバツの名場面を集約した 「音でよみがえる甲子園」を朝日新聞ポッドキャストで配信開始
朝日新聞社は3月15日、自社が運営する音声コンテンツブランド「朝日新聞ポッドキャスト」で、
3月19日に開幕する第93回選抜高校野球大会に合わせ、「音でよみがえる甲子園」を配信開始した。
大会期間中は毎日配信。内容は高校球児達を取材してきた記者、甲子園に出場経験のある記者が出演し、
選手達の裏で何があったのかを迫っていく。
当時に全国制覇を果たしたチームの主将や、その後にプロ入りした選手も登場し、球児たちへ熱いメッセージを送るという。
また、高校野球の取材を担当するスポーツ部記者の山口裕起氏による「直前予想」も配信する。
朝日新聞デジタルでは、出演記者が書いた記事を読みながら番組音声を聴くことができるとのこと。
運動通信社のスポーツメディアで朝日新聞社と朝日放送テレビが共同展開する「バーチャル高校野球」でも配信するとしている。
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☆ 【内田雅也の追球】 甲子園球場をつくった人びと 新名所「O-SITE」誕生 97年前の汗と夢
「こんどおやじがでっかい野球場つくりまんねん」
甲陽中野球部員だった山野井萬(2006年、99歳で他界)は大正12年秋、1年後輩に洗面所で話しかけられた。
父親とは阪神電鉄専務の三崎省三だ。 当時は社長不在で実質ナンバーワンとして社業を取り仕切っていた。
「そりゃ、ええこっちゃなあ」と応じた。 04年、山野井から直接聞いた話である。
鳴尾球場で行われた全国中等学校優勝野球大会準決勝、観客がグラウンドにあふれ出し、試合が1時間中断した。
一塁手だった山野井は「えらい人でした。 一塁線まで人波が押し寄せてきましたから」と間近で経験していた。
高まる中等野球人気で、阪神電鉄が大球場建設を急ぐことになる事件だった。
もちろん、三崎が大球場建設を進めたのは確かだ。 若手技師、野田誠三に設計図作りを命じた。
ただ、とんちでいけば、つくったのは有名な“2人のセイゾウ”三崎でも野田でもない。
総工費100万円で施工を請け負った大林組の名もなき土木作業員たちである。
甲子(きのえね)の1924(大正13)年、3月11日に地鎮祭。 16日に起工。
きょう16日は97年前、甲子園球場建設の工事を始めた日なのだ。
そんな時機に合わせたのか、15日、左翼スタンド外周に「OBAYASHI―SITE」(通称O―SITE)が誕生した。
スコアボードを模したモニュメントは方向によって「甲子園」「大林組」と見え方が変わる。
花々が咲く小さな公園は新名所となるだろう。
命名権契約も交わし、大林組の名が甲子園に刻まれた。 当時、作業員たちが流した汗を思う。
夏の全国大会に間に合わせようと、昼夜兼行の突貫工事だった。 7月31日完成までわずか143日間。
大林組の試算によると、現在同様のものを造ろうとすれば、工費約40億円、完成には1年かかるとある。
山野井は「大林はようやりましたなあ」と話していた。 当時の甲陽中は建設現場のすぐ隣。
通学帰宅で毎日、作業を見ていた。 「カンテラさげて、夜もコンクリートミキサー回しとりました」
徹夜作業には昼間の何倍も日当が出た。 もちろん金もあったろう。
しかし「東洋一の大運動場」を夢見た作業員には希望があったはずだ。
甲子園球場は三崎が目指した「スポーツのメッカ」となった。
三崎や野田が描いた夢に、工事に携わった人びとも胸を膨らませていたのだろう。
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☆ 甲子園21度出場の小倉高、新監督が就任
福岡県で最多、春夏合わせて21度の甲子園出場を誇る小倉高の野球部新監督として1月25日に就任した
OBの土井崇正監督(51)が15日、初采配となる若松高との春の福岡大会初戦を前に名門復活への意気込みを語った。
土井監督は高校時代、内野手で2年秋に九州大会に出場。 福岡大に進み全日本大学野球選手権にも出場した。
西田前監督の就任時にコーチとなり2年間指導に携わってきた。
昨年8月に夏の甲子園2連覇時のエース福嶋一雄氏、今年2月にはプロで活躍した安田猛氏と、OBの訃報が続いた。
「偉大な先輩方がお亡くなりになり悲しいことが続いた。 春は頑張って県8強以上を狙いたい」と再建を誓った。
同校は1978年春以来、甲子園から遠ざかっている。
倉工にも、昔ご縁があった小倉高に新監督が就任した。
倉工も同様に、新監督で伝統のユニフォームに戻して、名門復活を目指してもらいたい。
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☆ 山陰の夢、一振りに散る 大会唯一のサヨナラ優勝弾 【1960年センバツ 決勝 米子東1―2高松商】
山陰勢の悲願は、一振りで打ち砕かれた。1960年、米子東はエース宮本洋二郎を軸に初の決勝に進み、高松商と対戦。
1―1の九回、高松商の山口富士雄の打球はライナーで左翼ラッキーゾーンへ飛び込んだ。
90回を超える選抜大会の決勝で、唯一のサヨナラ本塁打として大会史に刻まれている。
第1回大会優勝の古豪に対し、山陰勢として初めて2回戦を突破した米子東。実績の差を感じさせないほど、
堂々とした試合運びを見せた。 宮本は直球とシュートに落差の大きいカーブを交え、三回まで1安打無失点。
四回には自らの右翼線二塁打で先制点をもぎ取った。
その裏に清水賢の捕逸で同点とされたが、「いずれ味方打線がはね返してくれると思って、別に硬くもならなかった」。
六回無死満塁のピンチをしのぐと、七、八回はいずれも三者凡退に抑えた。
九回、先頭打者の山口を追い込んでから投じた5球目だった。「シュートのかけ損ないが高めにいってしまった」
という失投を振り抜かれた。 今大会の第1号本塁打となり、優勝の夢を打ち砕かれた。
山陰勢が決勝に進んだのは春夏通じてこの1回だけ。
米子東と高松商は激闘を演じたOBを通じて、近年は定期戦も開催している。
宮本は後に巨人、広島などで222試合に登板し、引退後は広島のスカウトやスコアラーなどを歴任。
自身の出場から46年後の選抜で4強入りしたPL学園の前田健太(現ツインズ)をスカウトしたことでも知られる。
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☆ 「タンス預金」 初の100兆円突破、前年比5・2%増… 高齢者中心に現金保管
日本銀行が17日発表した2020年10月〜12月の資金循環統計によると、昨年12月末時点で個人が保有する現金が、
初めて100兆円を突破した。 前年同期と比べ、5・2%増の101兆円と過去最高となった。
高齢者を中心に、自宅で現金を保管する「タンス預金」を増やす傾向が強まっている。
家計部門の「現金・預金」は4・8%増の1056兆円となった。 預金は4・8%増の955兆円だった。
株式なども含めた家計部門の金融資産残高は、2・9%増の1948兆円と、過去最高を更新した。
金融資産のうち、「現金・預金」が54・2%と半数以上を占めた。
株価の上昇を背景に、「株式等」は0・7%増の198兆円、「投資信託」は5・1%増の78兆円となった。
金融機関を除く民間企業の現金・預金は、16・6%増の311兆円と大幅に伸びた。
新型コロナウイルスの感染拡大で景気の先行きが読みにくくなっていることから、企業が手元資金を厚くしているとみられる。
一方、国債保有者の内訳では、日本銀行がトップで、全体の44・7%(545兆円)を保有している。
「保険・年金基金」は20・7%(252兆円)、民間銀行などの「預金取扱機関」は14・3%(175兆円)だった。
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☆ 【内田雅也の広角追球】 あれから1年、うれしいほど野球日和 2年ぶりに開幕するセンバツ
2年ぶりに大会が開かれる。 心が浮き立つ。 もう、甲子園球場前の桜は咲き始めている。
「山笑う」季節、背後に見える六甲の山脈が笑顔で迎えてくれる。1年前、「悲しい」と感じた好天が「うれしい」と思える。
昨年の「3・19」。ある大会関係者から届いたメールにあった。「高野連と毎日新聞社は球児たちに9イニングの借りがある。
そして、暖かい春の青空の下での入場行進と開会式の借りもある」
阿久悠『甲子園の詩』のきみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある そして 青空と太陽の貸しもあるになぞらえて悲しんでいた。
1988年夏、8回降雨コールドで敗れた高田(岩手)に捧げた詩である。
貸し借りで言えば、球児たちは貸しを取り戻す時である。ただ、昨年の球児たちはもういない。
「先輩たちの分も」などと力む必要はない。
周囲に感謝し、周囲に配慮し、「誰かのために」と奮闘する心は確かに大切だが、そんな重荷を背負う必要などない。
どうか、自分たちの野球を楽しんでほしい。 甲子園で野球ができる喜び、うれしさを出してくれれば、それでいい。
戦争中、あらゆる野球ができない年月があった。戦後、野球が再開された時、月刊ベースボールマガジンが発刊となった。
1946(昭和21)年4月21日発行、創刊号の「創刊のことば」に球を手にせずとも、心に球を持つ者は常に美しいとある。
戦中、思いを募らせた野球人の心を伝えている。
「学生野球の父」飛田穂洲の寄稿がある。 終戦後、故郷に近い茨城の涸沼(ひぬま)湖畔で書いたものだ。
飛田は野球に人生や社会生活を説いた過去を夢となってもよいとさて置き、青少年への懇望を記した。
諸君は明朗闊達なる気分の中に吸い込まれて、新しき活力を養うために、おのおの好めるスポーツの中に抱かれることである。
野球にこだわらず、青少年にスポーツを楽しめと書いている。
コロナ禍のなか、各種大会が再開される今の状況と似ている。 苦しい思いをしたのは何も野球ばかりではない。
スポーツ再開の先陣を切るように、センバツが始まる。 飛田が願ったような明朗闊達な姿を楽しみにしている。
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☆ 【記録で読むセンバツ】 古豪・北海は61年ぶり開幕戦勝利ならず
第93回センバツ高校野球大会 第1日 1回戦 神戸国際大付3×―2北海 延長10回 (19日・甲子園)
10年ぶり出場の北海は145キロ左腕・木村大成(3年)が力尽き、延長10回サヨナラ負け。
今回が全国最多となる春夏通算10度目の開幕戦だったが、60年春以来、60年ぶりの開幕勝利はならず。
通算成績は2勝8敗となった。
北海の開幕戦成績は以下のとおり。 北海の開幕戦成績は以下のとおり。
1920年夏 4●7長岡中、 24年夏 5○4静岡中(延長12回)、 25年夏 3●9東山中
32年夏 0●4明石中、 38年夏 1●3高崎商、 40年夏 2●3松江商(延長14回)
53年春 0●3伏見、 60年春 4○1那覇、 2015年夏 4●18鹿児島実
21年春 2●3神戸国際大付(延長10回) 【注】校名は当時。 40年夏の出場までは北海中
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☆ 仙台育英、明徳義塾との名門対決に1-0勝利 宣誓の島貫主将もヒットと躍動
第93回センバツ高校野球大会第1日 1回戦 仙台育英1-0明徳義塾 (19日・甲子園)
昨秋の東北王者と四国王者による名門対決は仙台育英が明徳義塾に勝利。
2投手が1安打の完封リレーを繰り広げ、東日本大震災から節目の10年、みちのくに白星をもたらした。
仙台育英は2回1死二塁、二塁走者の秋山がスタートを切ると、遠藤が左前にタイムリー。
持ち前の足を絡めた攻撃で先取点をもぎ取った。
先発の左腕・古川は3回まで無安打と上々の立ち上がり。4回には2死一、三塁となったところで須江監督は継投策を決断。
右腕・伊藤をマウンドに送り込んだ。 これが奏功して伊藤は代木を空振り三振斬り。見事にピンチを脱した。
伊藤はその後も快投を繰り広げ、明徳打線を無安打に封じた。
開会式で堂々の選手宣誓を披露した島貫主将も5回先頭では二塁内野安打を放ち、攻守にチームをけん引。
同校6年ぶりのセンバツ勝利に貢献した。
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☆ 【記録で読むセンバツ】 神戸国際大付が大会11度目の開幕戦サヨナラ勝ち
開幕戦でのサヨナラ勝ちは、19年に市和歌山が呉を延長11回3―2で下して以来、11度目。
なお、開幕戦の延長戦も19年の市和歌山―呉以来で、9度目。
開幕戦のサヨナラ勝ちは以下のとおり。
1924年※高松商7―6和歌山中 36年 岐阜商3―2広島商 38年※浪華商4―3横浜商
41年 岐阜商3―2福岡工 47年 京都一商3―2松本商 49年※芦屋7―6慶応二
81年※高松商3―2北海道日大 94年 神戸弘陵8―7滝川西(延長10回)
2009年※倉敷工11―10金光大阪(延長12回) 19年 市和歌山3―2呉(延長11回)
21年 神戸国際大付3―2北海(延長10回) 【注】※は逆転サヨナラ。校名は当時
延長戦での逆転サヨナラ勝ちは、甲子園でのドラマチックには事欠かない倉敷工のみ。
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☆ 健大高崎 公式戦初先発で完投勝利の高松将斗 「自分のペースで勝負できた」
第93回選抜高校野球大会 第1日 第3試合 1回戦 高崎健康福祉大高崎6―2下関国際 (19日 甲子園)
公式戦初先発となった3年生右腕・高松はキレのある直球にカーブとスライダーを交えた投球で8回までわずか1安打。
計3安打2失点と完投勝利を飾って見せた。
「きょうの投球は、自分のテンポ、自分のペースで勝負できたことが良かった」と話したが笑顔はなし。
「勝って嬉しいけれども、完封できない部分で悔しさがある。自分に甘さがある」と反省も忘れなかった。
次の試合に向けては「スライダーが高かったので、その分を修正して臨みたい」と前を見つめた。
下関国際は2年生レギュラー6人のチームで秋の関東王者に挑んだが、春初勝利はお預けとなった。
2番手・古賀康誠の強気の投球が奏功し、強打線相手に7回まで2失点。
しかし、力を注いできた守りが8回に崩れ、決定的な4点を奪われた。
下位から1番に昇格した片桐優介の適時二塁打などで9回に2点を返したが、計3安打と打線も振るわず。
古賀は「攻守ともレベルアップして夏こそ勝ちたい」と再起を誓った。
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☆ 天理が6年ぶり初戦突破 宮崎商に快勝 1メートル93のドラフト候補・達 1失点10K完投
第93回選抜高校野球大会 第2日 第1試合 1回戦 天理7-1宮崎商 (20日 甲子園)
天理は2回、背番号18の7番・木下和輔の右中間適時三塁打で先制。
なおも2死三塁とし、8番・達孝太が右前へ適時打を放って2点目を加えた。7回には9番・政所蒼太が左前へ2点適時打、
さらに1番・内山陽斗が右越え適時二塁打で続き、一挙4点で突き放した。
投げては今秋ドラフト候補で、1メートル93のエース右腕・達孝太が、最速146キロを軸に10奪三振の力投を見せた。
52年ぶり3度目のセンバツ出場で春初勝利を目指した宮崎商は中盤までエースの日高大空が粘りの投球。
打線は初回、2回とチャンスで無得点に倒れたが、8回に3番・中村碧人が意地の中越え適時三塁打。
チームとしてはセンバツで55年ぶりの得点を挙げるも及ばなかった。
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☆ 鳥取城北 逆転で悲願のセンバツ初勝利 エース広田が2失点完投
第93回選抜高校野球大会 第2日 第2試合 鳥取城北6-2三島南 (20日 甲子園)
2年連続3回目の出場でセンバツ初勝利を挙げた。
鳥取城北は1点を追う5回、1死一、二塁から2番・中木村の投前へのバント安打と敵失から2点を奪い逆転。
なおも1死三塁で3番・畑中の中前適時打で加点した。 9回にも1死二塁から1番・松田の右翼線適時三塁打、
中木村の左前適時三塁打、畑中の左犠飛で3点を加えて試合を決めた。
3年生右腕・広田は2回、6回に1点を失ったものの、粘り強い投球を見せ8安打2失点で完投勝利を飾って見せた。
三島南は2回裏、1死三塁から7番・富岡の左犠飛で先制。
逆転を許し2点を追う6回1死三塁に4番・小堂の中前適時打で1点を返したものの及ばず。
21世紀枠での初出場で全国1勝はならなかった。
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☆ 東海大相模 38年ぶり東海大系列対決を延長で制して初戦突破
第93回選抜高校野球大会 第2日 第3試合 東海大相模3ー1東海大甲府 (20日 甲子園)
両校にとっては甲子園初の系列校対決で、甲子園では1983年夏以来となる東海大系列校同士の対決を制した。
東海大相模は7回、2死二、三塁で東海大甲府の捕手・三浦の捕逸の間に生還して先制。
同点で迎えた延長11回には1死二塁から大塚の右前打で勝ち越し、なおも2死三塁から柴田の左翼線二塁打で加点した。
投げては3年生右腕・石川が8回を6安打1失点と好投。 9回からはエースの石田が完璧なリリーフを見せた。
東海大甲府は1点を追う8回、2死二、三塁から4番・久井の左前適時打で同点としたがそこまで。
先発したエース・若山の好投も実らず、90年の第62回大会以来31年ぶりの初戦突破はならなかった。
東海大の系列校同系列校同士の対戦は1983年夏の東海大一(現・東海大静岡翔洋)
―東海大二(現・東海大熊本星翔)以来で春は初めて。
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☆ 【記録で読むセンバツ】 52年ぶり出場の古豪・宮崎商は春初勝利ならず
今大会最長ブランクとなる52年ぶり3度目の出場の宮崎商は、193センチ・達を攻略できず、天理に1―7で敗退。
守備も4失策と乱れ、悲願の春初勝利はならなかった(夏は08年まで計5勝を記録)。
また、全国32都道府県目となる春夏通算70勝到達も、今夏以降に持ち越しとなった。
センバツのブランク出場の上位10校は以下の通り。
〈1〉82年 ※松山東(愛媛) 1933→2015 〈2〉72年 ※高松(香川) 1933→2005
〈3〉70年 県和歌山商(和歌山) 1937→2007 〈4〉69年 関大第一(大阪) 1929→1998
〈5〉68年 長野商(長野) 1932→2000 〈6〉63年 関西学院(兵庫) 1935→1998
〈7〉60年 ※大分上野丘(大分) 1949→2009 〈8〉59年 ※膳所(滋賀) 1959→2018
〈9〉57年 鳥取西(鳥取) 1933→1990 〈9〉57年 島田商(静岡) 1941→1998
〈18〉52年 宮崎商(宮崎) 1969→2021 【注】※は21世紀枠で出場。 校名はブランク出場時。
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☆ 仙台育英・古川&伊藤完封リレーが94年ぶり珍記録
仙台育英・伊藤樹投手が5回1/3を無安打の好救援。 珍しいチーム被安打1のスコア1-0完封リレーを演出した。
1-0完封リレーの被安打1は、春夏を通じ1927年夏の高松商しか記録していない。
高松商は延長12回1-0でサヨナラ勝ちした福岡中戦で、先発の井川が7回0/3を1安打、2番手水原が5回を無安打だった。
伊藤は19年夏の準々決勝(対星稜)で敗戦投手になっている。2年前の借りを返す甲子園初勝利だ。
1年夏の敗戦投手から、のちに大物になった選手は少なくない。
古くは56年王貞治(早実) 60年尾崎行雄(浪商) 78年愛甲猛(横浜) 81年渡辺久信(前橋工)らが記録。
04年前田健太(PL学園)07年菊池雄星(花巻東)は今や大リーガーになった。
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☆ 珍名も躍動する甲子園 天理・瀬がマルチ安打 出場校のレア名字あれこれ
全国に約340人しかいない珍しい名字を持つ天理・瀬(せ)千皓が複数安打で勝利に貢献した。
2回と7回の先頭で安打を放ち、いずれも得点に結びついた。
ダークホースと目される天理は、珍名の層も厚い。
エース達(たつ)孝太は約830人、捕手の政所(まどころ)蒼太は約930人とバッテリーの希少度も高い。
他校に目を向けると、漢字一文字の珍名も多く、東海大相模・求(もとめ)航太郎は約170人、
大崎・調(しらべ)祐李は約850人と、なかなかレベルが高い。
上田西・飛鳥井(あすかい)洸が約680人、東播磨・宇郷(うごう)瑠希が約310人、
智弁学園・垪和(はが)拓海が約440人、明豊・和才(わさい)蒼空が約570人と健闘する中、
堂々のチャンピオン?に輝いたのが八戸西・高間舘(たかまだて)好誠。
全国でわずか30人前後しかいない「超珍名」だ。
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☆ 大阪桐蔭のますます度を越す選手集めにモノ申す! (小倉清一郎)
優勝候補筆頭の大阪桐蔭は、最速150キロ左腕の松浦、同154キロ右腕の関戸、強打の主将・池田らを擁し、
3度目の春夏連覇を狙える戦力が整っている。
最近気になっているのは、大阪桐蔭の有望中学生の勧誘が、急速に全国各地に広がっていることだ。
今回のベンチ入りメンバー18人中、大阪府外の出身は13人。
松浦は北海道・旭川市、関戸は長崎県・佐世保市出身で明徳義塾中から大阪桐蔭の門を叩いている。
他にも関東出身の選手が何人か入っており、まるで全国選抜といえる構成だ。
昨年のドラフトで西武に指名された仲三河は栃木市出身で、強豪・小山ボーイズから大阪桐蔭に引っ張られ、
「ついにここまで手が伸びてきたか」と関東の強豪校は震えあがった。
地元の常連校に内定した中学3年生が、後になって大阪桐蔭に進路を変更するケースも頻出しているそうだ。
たとえ「後出し」でも「全国制覇」をしたい有望中学生の憧れになっているため、こういうことが起こるのだ。
これまでの野球留学は「甲子園に行きたい」という大都市圏の中学生が地方の強豪校に流れるケースが多く、
東京などの関東の中学生が、馴染みにくいといわれる関西の高校へ進学するケースはまれだった。
大阪桐蔭だけは別格ということだ。
関戸を引き抜かれた明徳義塾は18人中16人が県外出身なのは相変わらずとはいえ、
そろそろ規制のルールを作る時期がきているのではないか。
横浜で部長を務めている頃は、私が中学生を発掘、勧誘していた。
「横浜だって全国から集めていただろう」と指摘されるかもしれないが、実は「学校名が『横浜』だから、
地元の選手6、7割。 県外出身者は3、4割まで」という渡辺監督の考えと
「県を代表して出場する甲子園に、他県の出身者ばかりで出ても学校の宣伝にはならない」という学校側の
方針があり、厳守していたのだ。
私学には経営がある。入学者やベンチ入りメンバーの人数を制限するのではなく、「県外出身者はスタメン4人まで」
など試合に出る人数を制限するのはどうか。
(小倉清一郎/元横浜高校野球部部長)
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☆ 【昭和〜平成 スター列伝】 驚異の11打席連続出塁!! センバツ史上別格の怪物・藤王康晴
1983年の第55回大会に登場した愛知・享栄の藤王康晴はまさに別格だった。
1回戦の高砂南戦、初回一死一、二塁の第1打席でいきなり右越え3ラン。
その後は2打席連続の二塁打、左前打、四球と4打数4安打をマークし、12―3の勝利に貢献した。
続く2回戦の泉州戦でも四球、本塁打、左前適時打、本塁打と爆発し、5―1の勝利に貢献。
準々決勝の東海大一戦で姿を消したが、初回に内野安打を放ち、大会タイとなる8打数連続安打を記録。
次の打席で四球を選び、11打席連続出塁の大会記録をマークした。
夏の全国大会出場はかなわなかったが、プロ側の高い評価に変わりはなく、中日が1位指名。
左の長距離砲としての期待は大きく、“ミスター・ドラゴンズ”高木守道がつけていた背番号1を与えられた。
地元マスコミは連日、大騒ぎで早くもスター扱い。こんな状況に、幼少期からスパルタ教育を施してきたという父は
危機感を覚え「最初から一軍に上がらなくていい。
本当の実力がつくまで、じっくり二軍で育ててもらいたい」と球団に要望した。
これを受けて、就任1年目の山内監督も「王を超える打者に育てたい。藤王打法というものを身につけるまで、
1年ぐらいかけたい」と1年目は育成に費やすことを約束した。
しかし、夏場に一軍昇格。「時期尚早」との指摘もあったというが、34試合の出場で打率3割6分1厘、
2本塁打と実力の片鱗をのぞかせた。
その後は周囲にチヤホヤされ、本人も悪い意味でその気になってしまい、グラウンド外の話題が増えていった。
90年に日本ハムにトレードされ、92年に自由契約となりそのまま引退。
プロ野球はひと握りの天才が必死に努力して一流になれる世界だ。本当にもったいない選手だった。
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☆ 初出場の具志川商が甲子園初勝利 8得点と圧倒 八戸西との21世紀枠対決を制した
第93回選抜高校野球大会 第3日 第1試合 1回戦 具志川商8―3八戸西(22日・甲子園)
具志川商(沖縄)が八戸西(青森)との21世紀枠対決を制して、春夏通じて甲子園初出場で初白星を挙げた。
2回1死、比嘉の左前安打と知名の中前安打で二、三塁のチャンスを演出すると、上原が中前に2点タイムリー。
続く伊波も中前安打で続き、八戸西の守備の乱れにも乗じてこの回4点を先取した。
4回には1死一、三塁から大城がセーフティースクイズで加点。6回にも1死満塁から大城の左犠飛で突き放した。
八戸西は7回に2死走者なしから満塁のチャンスをつくると、桐山が鋭い打球をライト前へ。
2者が生還するタイムリーヒットとなった。9回も連打で得点し、意地を見せた。
ともに春夏甲子園初出場とフレッシュな戦い。 聖地からは温かい拍手が送られた。
なお2001年大会から設けられた21世紀枠同士が初戦で当たるのは、これが3度目。
13年大会1回戦の遠軽(北海道)3―0いわき海星(福島)、16年大会1回戦の釜石2―1小豆島と、
いずれも東北勢が絡んでいる。21世紀枠校の最高成績は01年の宜野座(沖縄)と09年の利府(宮城)の4強。
具志川商が初の聖地で、昨秋の九州大会で8強入りした実力をいかんなく発揮。まずは大きな第一歩を刻んだ。
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☆ 福岡大大濠「ドクターK」毛利が10奪三振完投 九州対決で秋の雪辱
第93回選抜高校野球大会 第3日 第2試合 1回戦 福岡大大濠2-1大崎 (22日、甲子園)
昨秋の九州大会決勝の再現となった試合で福岡大大濠が昨秋の雪辱を果たした。
福岡大大濠は2回に松尾の2点タイムリーで先制。
昨秋の公式戦で49イニングで63個の三振を奪った福岡大大濠の「ドクターK」毛利は左腕から右打者の内角をつく直球、
スライダーがさえた。 6回に3者連続三振を奪うなど4安打1失点、10奪三振で2点を守り切った。
大崎は7回にエース坂本のタイムリーで1点を返したが、あと一歩及ばなかった。
福岡大大濠は昨秋の九州大会では1-5で敗れたが毛利は登板していなかった。
坂本は6安打2失点(自責1)で完投。 夏に向けて大きな収穫を手にした113球だった。
長崎・西海市の北西部に浮かぶ大島から甲子園に初めてやって来た公立校の大崎。
少子高齢化の悩みを抱える島の“希望の星”として、熱い応援を受ける全員が長崎県内出身の選手だ。
大島は炭鉱の町として栄え、社会人チームもあったことから野球が盛んだった。
1962年夏の西九州大会では準優勝に輝いたが、70年に閉山すると人口が減り、
多い時は1000人を超えていた生徒数が、現在は114人。 人口約5000人の島民も熱烈な応援だった。
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☆ 両校計21四死球 大乱戦 明豊、東播磨に延長11回サヨナラゲーム
第93回センバツ高校野球大会 第3日 第3試合 1回戦 明豊10x―9東播磨 (22日・甲子園)
明豊(大分)が21世紀枠で出場の東播磨(兵庫)を延長11回、サヨナラで制して初戦突破した。
両校の投手陣はいずれも制球に苦しみ、塁上をにぎわす荒れた展開。
点の取り合いになったが、ともに一歩も引かず、9-9で延長に突入した。
明豊は11回、先頭の黒木が四球で出塁。米田が左前安打で一、三塁と好機を拡大し、山本が投手強襲の内野安打で無死満塁とした。
ここで痛恨の暴投。試合は決まった。
東播磨は9回表の土壇場で同点に追いついたが、あと一歩及ばず。惜しくも甲子園の初陣を飾ることはできなかった。
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☆ マー君と坂本は「特別な存在」 少年野球元監督が回顧 ①
野球少年がでっかくなって、再び最高峰の舞台で相まみえた。 楽天田中将大投手(32)が巨人とのオープン戦に先発。
小学生時代に兵庫・伊丹の「昆陽里(こやのさと)タイガース」でチームメートだった坂本勇人内野手(32)と対戦した。
第1打席は四球、第2打席は中飛。力のこもった攻防になった。 田中は7回を投げ1失点と完璧な内容で、
予定通り本拠地で行われる27日の日本ハム戦に向かう。 腰の状態が心配された坂本も、元気に15年目のシーズンを迎える。
「田中」と「勇人」。 8年ぶりに日本で対戦した2人は小学生時代「昆陽里タイガース」に所属し、こう呼ばれていた。
偶然にも同じユニホームへ袖を通した。 無邪気に白球とたわむれていた日々を経て、日本を代表する投打のスターになった。
当時「昆陽里」の監督を務めていた山崎理事長(75)は幼少期の2人を「特別な存在でしたわ」と振り返る。
同学年は15人ほど。 2人の個性は突出していた。
田中は何事にも地道に取り組む姿が目立った。 勉強の成績は優秀、字もきれいで丁寧。
朝9時の練習開始15分前にはグラウンドに姿を見せ、にぎわうチームメートをよそに黙々とウオーミングアップに励んだ。
居残り練習にも、決して弱音は吐かなかった。 小学6年のある日。 試合でミスをしたバント処理の反復練習のため、
捕手の防具をつけてグラウンドの隅に立った。
本塁前に転がった球を、マウンド近くにある16メートルほど先のネットの中心にあるロープに3球当てるまで投げ続ける練習。
2球目まではうまくいくが、3球目がなかなか当たらない。 むきになり、諦めない。 周囲は関係ない。
目的を達成するまで、何度も腕を振って乗り越えた。
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☆ 同上 ②
坂本は仲間を巻き込み、楽しみながら努力を重ねた。練習休日でもバットを持ってチームメート6、7人をグラウンドに引き連れ、
素振りに励んだ。 スイング時間は30分ほど。 残り時間は無邪気に遊ぶ姿も子どもらしかった。
投手として田中とバッテリーを組む6年生の初めまでは、遊撃が定位置。 軽快な足、グラブさばきにセンスがあふれた。
教えられなくとも、三遊間深くの打球を捕球するとノーステップで一塁手の4、5メートル先にたたきつけ、確実にアウトを奪った。
自ら考え、実行する能力にたけていた。
対照的な2人。 山崎理事長は懐かしそうに、鮮明に思い出す。 「田中くんは内に秘めて気持ちで向かっていく。
どんくさいところはあったけど、35年間監督をやって、5本の指に入る努力家やったね」。愚直に自分と向き合い、コツコツ伸びた。
坂本は「何でも1番にならないと気が治まらないタイプ。上に競争相手がおった方が伸びる。トップに立ったら抜かれんようにする」。
時には打撃練習で、自分よりも遠くへ飛ばす田中を意識し、成長への原動力としていた。
小学校卒業後から6年。 田中は北海道、坂本は青森の地から06年高校生ドラフト1巡目でプロの扉を開いた。
海の向こうで猛者としのぎを削り、8年ぶりに古巣へ戻った田中は「世界のマー君」に。
右打者では最年少で2000安打を達成し、名門の先頭を走り続ける坂本は「巨人のキャプテン」になった。
今年でプロ15年目。 チームの柱として後輩を引き上げる役割も求められる。
ルーツにある素晴らしき縁、漫画のようなサクセスストーリーに人々はひかれる。
プロでの対戦成績は通算18打数5安打、打率2割7分8厘、0本塁打。
2021年3月20日、東京ドーム。 伊丹から始まった2人のストーリーが、再びクロスし始めた。
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☆ 本塁打の出ないセンバツ… 9試合目まで0本 47年ぶり
今大会は9試合を消化し、本塁打がまだ出ていない。センバツで開幕9試合目までに1発は出ないのは、74年以来47年ぶり。
93年の9試合目を上回り、金属バット採用後(春は75年以降)は最も遅い1号になることが決まった。
74年の1号は開幕20試合目。豊田(日大三)が土屋(銚子商)からランニング本塁打を放ち、大会0本を阻止した。
74年より前は、60年の山口(高松商)が米子東との決勝で放った優勝決定サヨナラ弾(開幕22試合目)までさかのぼる。
今大会の1号はセンバツで令和初アーチ、2号は区切りの大会800号と連続でメモリアルになるが、今日あたり飛び出すか。
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☆ 市和歌山 サヨナラ勝ち 注目右腕・小園は130球4安打8奪三振完封
第93回選抜高校野球大会 第4日 第1試合 1回戦 市和歌山1―0県岐阜商(23日 甲子園)
0―0で迎えた9回、市和歌山は1死一、二塁から亀井がセンタ―前に運び、二塁ランナーが生還。試合を決めた。
投げては、ドラフト上位候補に挙がるエースの右腕・小園が最速147キロのストレートと多彩な変化球で130球の粘投。
4安打、8奪三振、6四球で県岐阜商の強力打線を完封した。
県岐阜商は6回以外すべての回で走者を出したが、好投手・小園の前にあと1本が出なかった。
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☆ 智弁学園、大阪桐蔭を撃破 大阪桐蔭は初のセンバツ初戦敗退
第93回選抜高校野球大会 第4日 第2試合 1回戦 智弁学園8―6大阪桐蔭 (23日 甲子園)
近畿大会決勝を戦った智弁学園と大阪桐蔭のV候補がいきなり激突。
智弁学園は、初回無死満塁から4番・山下の右犠飛で先制。なおも1死満塁から6番・植垣の左翼線3点適時二塁打で3点を加えた。
2点を返された6回には無死一、二塁から中前打と敵失で2点を加えると、さらに一死三塁の9番・西村の打席で暴投で加点。
1点を返された7回にも一死満塁から7番・森田の遊ゴロで再び1点を加えた。
先発したエース左腕・西村が8回を投げて終盤に6失点も、9回は小畠が抑えて逃げ切った。
17、18年に優勝し、選抜出場3大会連続優勝がかかっていた大阪桐蔭は、4点を追う6回2死満塁で6番・花田の遊撃への
ゴロが敵失を誘い2点を返した。
5点を追う7回にも2死二塁から2番・繁永晟の右前適時打で1点、8回にも1死、一、二塁から7番・藤原の右中間2点適時三塁打、
小谷の右前適時打で2点差としたがそこまで。
先発した今秋ドラフト候補の左腕・松浦が不安定な立ち上がりに4失点、5回から登板した右腕・関戸も6回に3点を失うなど、
2年連続12回目の出場で初の初戦敗退となった。
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☆ 広島新庄が延長12回サヨナラ勝ち 2投手による完封リレーで上田西を下す
第93回選抜高校野球大会 第4日 第3試合 1回戦 広島新庄1x―0上田西 (23日・甲子園)
昨秋の中国大会を制した広島新庄が、延長12回サヨナラ勝ちで息詰まる投手戦を制した。
昨秋の公式戦チーム打率4割8厘が出場校トップの上田西(長野)を花田―秋山の継投でシャットアウトした。
広島新庄・花田、上田西・山口と両先発の好投でスコアボードに0が並ぶ好ゲーム。
上田西は再三の好機を作るが、あと一本が出ない。 8回1死二塁も広島新庄の2番手・秋山に抑えられ、ホームが奪えない。
決着がついたのは12回、広島新庄は2死から瀬尾が中前安打。
続く4番・花田が右越えへの二塁打を放ち、瀬尾が一塁からホームインした。
今大会4日連続で延長試合を記録した。過去1989、2017年に3日連続で延長戦があったが、4日連続は史上初となった。
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☆ 元甲子園球児が給付金200万円詐取 神戸国際大付属高出身
新型コロナウイルスの影響を受けた個人事業主らを支援する国の「持続化給付金」をだまし取ったとして、
神戸地検姫路支部は23日までに、詐欺罪で龍谷大3年の男(21)を在宅起訴した。捜査関係者への取材で分かった。
被告は神戸国際大付属高校の出身で、2017年に野球部主将として春夏連続で甲子園に出場している。
起訴状によると、被告は2020年6月、兵庫県太子町の女(46)=詐欺罪で公判中=ら複数と共謀し、
被告が学習支援業を営む個人事業主であると偽って国に給付金を申請するなどし、計200万円を詐取したとされる。
たつの市出身の被告は神戸国際大付で内野手として活躍。
17年春の選抜高校野球に続き、同年夏の全国高校野球選手権にも出場し、3回戦まで進んだ。
龍谷大でも野球部に所属し、事件に関わったとされる20年度も関西六大学リーグに出場していた。
県警捜査2課とたつの署は今年1月中旬までに被告を詐欺容疑で書類送検。地検姫路支部が2月に在宅起訴した。
3月23日に神戸地裁姫路支部で初公判があり、被告は「間違いありません」と起訴内容を認めた。
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☆ 工事現場監督として 街づくりの第2の人生に 全力“登板”中 仲田幸司さん
83年ドラフト3位で入団し、阪神が日本一になった85年5月12日のヤクルト戦で初勝利を完封で飾った。
88、89、93年と3度の開幕投手を務めた。
89年7月の伝統の一戦では完封勝利で、11試合連続完投勝利中だった相手エース斎藤雅樹に土をつけた。
だが、その後は厳しい人生が待っていた。 「悔いがあるとすれば、あのFA。 阪神を出るんじゃなかった」。
95年オフのロッテへのFA移籍から暗転。97年限りで引退し野球解説、ラジオのパーソナリティーなどにチャレンジしたが、
露出は次第に減り、仕事も私生活もうまくいかない時期を経験した。
そんな時に声をかけてもらったのが掛布雅之。
「一度きりの人生。マジメに取り組め」とかつて自身のマネジャーで阪神OBの西浦が経営する建設会社を紹介された。
「中途半端なままでは、応援してくれる人、現場の人に迷惑をかける。もう逃げない」。仕事に打ち込むことを誓い、現在に至る。
応援しているのは掛布だけではない。 「マイク、元気か。メシを食おう」と昨年、連絡をくれたのが笑福亭鶴瓶だった。
仲田のノーコンぶりをトークのネタにした縁はあったが、会うのは久しぶり。
近況報告を笑顔で聞いた鶴瓶からは「マイクが関わった建物なんて危なくて入れんわ」と一流のジョークで、
日々の頑張りをねぎらわれた。「逃げずにやっていれば、誰かが見てくれる。だから、今できることを精いっぱいやるしかない」。
仲田は再び重機の動きに視線を走らせた。
仲田 幸司: 1964年(昭39)6月16日生まれ、沖縄県出身の56歳。 興南では2年夏から3季連続甲子園出場。
92年には自己最多の14勝をマークした。 95年オフにFAでロッテ移籍したが未勝利のまま97年に現役引退。
通算335試合登板で57勝99敗4セーブ。
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☆ 東海大菅生「令和1号」&「センバツ通算800号」の2本のメモリアル弾
第93回選抜高校野球大会 第5日 第1試合 東海大菅生4-3聖カタリナ学園 (24日、甲子園)
東海大菅生(東京)が2本のメモリアル弾で4度目の出場にしてセンバツ初勝利を挙げた。
二回、6番・鈴木悠平外野手(2年)が先頭で左翼ポール際に大会1号となる先制弾を放った。
開幕から13試合目での大会1号は金属バットが導入された1975年の第47回大会以降では最も遅い記録。
また令和1号となる記念の一発ともなった。
鈴木悠は「気持ち良かった。 昔から憧れていた場所で、まさかホームランが打てるなんて…。
今までの人生で一番うれしい」と満面の笑みを浮かべた昨秋の公式戦出場はなく、今大会では背番号「17」でベンチ入り。
ただ、中学通算32本塁打でパンチ力を秘めた選手だった。
続く三回1死一塁では3番・千田光一郎外野手(3年)が左翼席に2ラン。
これが選抜大会通算800号のメモリアルアーチとなり、「ベンチに戻ったら、エースの本田から
『おまえが800号だよ』と言われて、初めて知りました。
2ストライクと追い込まれていたので、コンパクトに鋭く振りぬこうと思っていたところに変化球が高めに浮いてきた。
打球の角度がすごくよかった」と振り返っていた。
聖カタリナ学園は3点を追う九回1死から7番・桜井が右前打で出塁。四球と9番・安達の左前打で満塁のチャンスを作ると、
暴投で桜井が生還。 さらに再び1死満塁とし、2番・田代の中犠飛で1点を追加したが、最後は2死満塁から
4番・川口が三ゴロに倒れ、万事休した。
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☆ DeNA・小池コーチの長男、東海大菅生・小池祐吏は1安打1打点デビュー
DeNA・小池外野守備走塁コーチを父に持つ、東海大菅生の小池祐吏(ゆうり、2年)は、「5番・三塁」でフル出場。
2点リードの8回に中犠飛で貴重な追加点を挙げるなど、3打数1安打1打点だった。
父は横浜高3年時の98年に、西武・松坂らとともに甲子園春夏連覇を達成。
球場に足を踏み入れた際には「ここでお父さんがやってたんだ、と思いました」。
この試合が始まるまで大会1号が出ていない状況で、前日には父との電話で「大会1号を打ってくる!」と力強く宣言。
「バリバリ狙ってたんですけど…」と頭をかいた。
8回の中犠飛はいい当たりだったものの、中堅手のグラブに収まった。「自分的にも打球はよかったんですけど、
パワーがなくて…。 ベンチに戻ってから『弱いな』『パワーないな』ってみんなに言われました」と苦笑いを浮かべた。
それでも、3回の第2打席では、左翼線に甲子園初安打をマーク。 チームも9回の猛追をしのいで逃げ切り勝ち。
4度目の出場でセンバツ初勝利を挙げた。 「ヒットも出たし、しっかり振っていけた。
切り替えて、次の試合ではホームランを打てるように調整していきます」と意気込んだ。
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☆ 京都国際が延長戦で聖地初勝利 聖地に韓国語校歌流れる
第93回選抜高校野球大会 第5日 第2試合 1回戦 京都国際5-4柴田(宮城)延長10回 (24日)
春夏通じて初の甲子園出場校同士の対戦。 京都国際が接戦を制して初陣を飾った。
延長十回、四球の走者を犠打で送って1死二塁の好機を作り、3番中川が右前へ勝ち越し適時打。
さらに辻井の適時二塁打で突き放した。
六回を終えて0-2、2安打無得点に抑えられていた劣勢をはね返した。
七回、1死満塁から武田の一打はライナーで中堅へ。打球は前に突っ込んだ中堅手の手前でワンバウンド。
捕球しきれずに、ボールは外野を転々、走者一掃の三塁打となり逆転。
柴田はその裏に反撃。2死一、三塁とし、打席には初回に先制の2点適時打を放った4番・菅野。
今度は左前適時打で3-3の同点としていた。
柴田は十回、無死から沼田が二塁打で出塁。1死後、代打佐藤の左前適時打で1点差。
さらに2死二、三塁と逆転サヨナラ機を作ったが後続が倒れた。相手を上回る14安打を放ちながら4得点。
先発の谷木は10回6安打5失点。 153球の熱投も報われなかった。
京都国際は韓国系学校が前身で、2回表の攻撃前には韓国語の校歌が甲子園に響き渡り、
テレビの中継映像ではハングルと日本語訳のテロップ付きで流された。
これで今大会開幕5日連続での延長試合を記録。過去に3日連続の延長戦はあったが、さらに“記録”は伸びた。
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☆ 「兄の分まで」 思いつないだバット、甲子園に快音響く
「一生懸命プレーした。 大舞台で頑張れました」。
敗れた柴田の三塁手、横山隼翔(はやと)(3年)は胸を張った。
2点を追う十回。 1点を返し、なお2死一、三塁で打席が回ってきた。
ゲームセットかと思いきや、目の前の打者が敵失で出て巡ってきた同点機。
それまで3安打していた2番打者は、おろしたての銀色のバットをぎゅっと握って、右打席に向かった。
そのバットとは「SSKのスカイビート」。 芯に当たれば、キーンと甲高い音がするのが特徴だ。
2月上旬、「これで甲子園に快音を響かせてくれ」と1学年上の兄航汰さんからもらったものだ。
兄はお年玉を取り崩し、スポーツ店の店員に少し値切ってもらってプレゼントしてくれた。
カウント2ボール、1ストライクから、快音は響いた。 だが、強い打球だったが遊撃手の守備範囲。
一塁へ全力で駆けたが最後の打者になった。「兄の分も頑張ろうと思って臨んだので悔しい」。 天を仰いだ。
その様子を、航汰さんは一塁側のアルプス席から両手を握りしめながら、見つめていた。
「ずっとドキドキしていた。素晴らしい試合で、隼翔がかっこよかった。感動をありがとう、と言いたい」。
目には涙が浮かんでいた。
10年前の3月11日。2人は石巻市の小学1、2年生だった。
学校から帰った直後、海から1・5キロ離れた自宅に津波が押し寄せてきた。
陸橋に駆け上がり、5年生の姉あみさんと、きょうだいで体を寄せ合って一夜を明かした。
翌12日は兄弟で地元の野球チームに初練習に行くはずだった。
家は全壊したが、がれきをかき分けると、居間に置いていた二つのグラブが見つかった。
避難所生活を送るなか、兄とのキャッチボールが気晴らしの時間だった。
数カ月後に練習が再開してからは、2人はずっと同じチーム。柴田では「兄弟で甲子園」をめざし、
航汰さんは2年秋から主将になり、同じ内野手の隼翔はその背中を追った。
だが、新型コロナウイルスの影響で昨年は春夏の甲子園が中止に。 航汰さんは挑戦すらできずに引退した。
「震災を経験して人を助けたいと思った」と、航汰さんは消防士をめざし4月から専門学校に通う。
弟に託した夢。2人をつなぐバットだが、実は、「本当に甲子園で使ってくれるか不安だった」と打ち明ける。
選抜大会直前の広島遠征で、隼翔は違うバットで本塁打を放っていたからだ。 前夜、電話した際に言った。
「無理に俺がやったバットを使わなくていいからな。 振りやすいバットを使えよ」
だが、隼翔は最初から決めていた。 「兄の分も頑張る」。心とバットにそう誓って、
162センチの体で力強く振り抜き、右に左に3安打を放った。 そして、恥ずかしがりながらも言った。
「兄に助けてもらって、打てたんだと思う」「兄弟」で臨んだ初めての春。 勝利にはあと一歩届かなかったが、
甲子園に響いた快音は、2人の心の中で、いつまでも色あせない。
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☆ 常総学院、選抜初のタイブレイク制し敦賀気比下す… 6年ぶり初戦突破
第93回選抜高校野球大会 第5日 第3試合 1回戦 常総学院9―5敦賀気比 (24日)
センバツ史上初となるタイブレークに突入した延長13回に4点を勝ち越し、9―5で競り勝った。
横浜(現DeNA)などで投手として活躍し、昨年7月に就任した島田直也監督(51)は甲子園初采配。
昨年11月に亡くなった恩師の木内幸男元監督(享年89)に白星をささげた。
天国の恩師も同じ考えだったはずだ。無死一、二塁から始まる延長13回のタイブレーク。
島田監督は打席へ向かう先頭の秋本に耳打ちした。
「バントはない。バントの構えで様子を見てバスターしろ」初球、2球目とバントの構え。
一塁手が猛チャージしてきた。そして3球目。バントの構えからバットを引いて、外角直球を強く叩いた。
バントシフトの裏をかいた一打は右前へ転がり、二塁から三輪拓未が決勝のホームへ。
「抜けてくれて素直にうれしかった。気持ちで勝てました」。先発で7回3失点のエースは、そう言って笑った。
タイブレークで表の攻撃。常識的な策は確実に走者を進める送りバントだ。でも、木内イズムを継承する島田監督は違った。
大会前にタイブレークの練習をしていなかったこともあり「ここまで来たら打って勝とう」と強攻策に出た。
それだけではない。ふがいない投球をした秋本に、バットで取り返させたことだ。
「期待以上の結果を出してくれた」と褒めた秋本の一打から打線はつながり、決定的な4得点。
選手の心を揺さぶって能力を引き出す。それこそ、木内野球の神髄だった。
名将の木内氏は昨年11月に他界。島田監督は最後に会ったときの写真を忍ばせて戦っていた。
8回にも4番・青木に送りバントさせ、続く秋本がタイムリー。9回のサヨナラのピンチは申告敬遠で満塁策を取って切り抜けた。
申告敬遠は春夏通じて甲子園初。甲子園初采配でも常識にとらわれなかった。
「思う通りに、思い切ってやれ」。昨年10月、末期の肺がんで声を出せない木内氏は教え子へのアドバイスを文書にした。
その長い文面の最初の行に書かれた教えを、島田監督は実践した。
「ミスが多かったのは怒られる。でも、チームで勝った試合には“よく頑張ったな”と言ってもらえると思う」
延長13回、3時間15分の死闘。 恩師へささぐ甲子園1勝は、確かに天国へ届けられた。
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☆ 記者席から見た『甲子園』 自分が投げていた阪神の本拠地とは全く違った… 【吉見一起さんセンバツ観戦記】
記者席から見た「甲子園」は、自分が投げていた阪神の本拠地とは全く違うグラウンドだった。
小さい頃、何度も通ったあの「甲子園」。鮮明に覚えているのが那覇商だ。小学生だった僕は、主将にサインをもらった。
その8年後、僕もセンバツに出場した。森岡良介がいる明徳義塾に本塁打を打たれ、スクイズをされて完敗したけど、
あの舞台に立てたことは一生の自慢だ。
当時と違うのは球数制限やタイブレーク制があること。加えて今大会は観客数や応援スタイルが制限される。
第1試合の東海大菅生の若林監督は、ドラゴンズの先輩。第3試合の常総学院の島田監督、天理の中村監督も元プロだ。
僕も学生野球の資格を回復した。母校と言わず、将来の夢がある子どもたちの引き出しを、一つでも開くサポートをしたいと思っている。
「どうすればコントロールがつきますか?」と聞かれることがある。僕がやっていた方法を教えたい。
18・44メートルではなく、13〜15メートルで投げてみる。平地でいい。捕手に座ってもらって、内外、変化球も投げてみる。
きっとストライクは取れるだろうし、感じるものが必ずあるはずだ。その感覚を体に染み込ませる。
忘れずに意識してほしいのは、右投手なら右脚でしっかりと立ち、踏み出した左脚でもしっかりと立つこと。
球数制限もある中、1人1球減らせられれば、1試合で30球は減る。高校生は野球の難しさもわかるし、伸びる時期。
楽しんで上達してもらいたい。
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☆ 阪神・佐藤輝の父・博信さん 大学時代の友・古賀さん偲ぶ 「やっぱり同じ人間なんだな」
1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんが24日午前9時9分、
がんのため川崎市内の自宅で亡くなった。53歳だった。葬儀・告別式は29日に執り行われる。時間や場所は非公表。
関係者によると、昨春に体調を崩して一時入院し、手術も受けたという。豪快な一本背負いを武器に大きな選手を投げ飛ばした
「平成の三四郎」の突然の訃報に、柔道界、スポーツ界は悲しみに暮れた。
日体大柔道部の同期で、阪神のドラフト1位・佐藤の父・博信さん(53)が故人をしのんだ。
突然の知らせを受け止めることはできなかった。 博信さんは「とにかくびっくりした。
嫁さんの朝の第一声が“古賀さんが亡くなった”って。 しばらく起き上がれなかったです。まあ、やっぱりね…。同級生やし、
いなくなると、やっぱりデカいですね、存在が」。最後に会ったのは2018年に兵庫県で開催された全国学生体重別だった。
高校時代から全国大会を制しスーパースターだった古賀さんと、「無名だった」と話す博信さんは日体大柔道部で出会った。
仙台育英高を経て東京に出てきた博信さんにとって、おぼろげだった五輪への夢を身近に感じさせてくれた存在だ。
もちろんその練習の姿は「えぐかった」と想像を絶するものだったが、畳を離れればその人間臭さにひかれた。
「柔道では全然歯が立たないですけど、日常生活で一緒に酒飲んでべろべろになったり、
ちょっとしたことで悩んでたりする姿を見るとね。 同じ釜の飯を食った人間からするとやっぱり同じ人間なんだなと。
自分らと変わらないんだなと。アホなことも言うし。 身近な人間が五輪に出ると、自分でも行けるんじゃないかと思えた」。
最終学年では古賀さんが主将、博信さんが副主将を務めた。 切磋琢磨する中で、博信さんも1988年にチェコ国際を制し、
90年には正力国際準優勝。卒業後の91年には講道館杯で優勝した。
五輪には届かなかったが“平成の三四郎”と過ごした日々は間違いなくかけがえのない時間だった。
卒業後も交流は続き、佐藤家の表札をデザインしたのは古賀さん。
20年、息子の輝明内野手が阪神からドラフト1位指名を受けた際もLINEで祝福メッセージが届いた。
酒を飲んでは博信さんを酔わせ、古賀さんは平気な顔をしていたという。「だいたい、あいつといたら間違いなく、べろべろになる。
飲ませ上手だから。いや強いんですよ、酒が。焼酎1升ぐらい平気だったね。九州人だからね」。その屈託のない笑顔をしのんだ。
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☆ 中京大中京 接戦制し11年ぶり初戦突破! 櫛田決勝ランニング本塁打! エース畔柳12K完封
第93回選抜高校野球大会 第6日 第1試合 1回戦 中京大中京2―0専大松戸 (25日)
中京大中京は2回1死一、三塁、4回1死二塁、塁と好機をつくったがあと一本が出なかった。
それでも両軍無得点で迎えた7回2死二塁から途中出場の櫛田(くしだ)が左翼へランニング本塁打して2点を勝ち越し。
プロ注目の最速151キロ右腕、畔柳(くろやなぎ)投手(3年)が被安打6、3連続を含む12奪三振の力投で完封。
専大松戸は2回に2死三塁、5回に1死二塁、6回には2死から連打で一、三塁と得点圏に走者を進めたが無得点。
サイド右腕・深沢は緩急をつけた球を内外角に投げ分け凡打の山を築いたが、終盤につかまった。
これで中京大中京は春通算56勝。2年前に優勝した同県のライバル、東邦に抜かれが、これで再び歴代1位タイに浮上した。
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☆ 決勝のランニング本塁打 中京大中京・櫛田は大会直前のメンバー変更でのベンチ入り
櫛田はチーム内の紅白戦や実戦形式の打撃練習で結果を出し、大会直前のメンバー変更でベンチ入り。6回の守備から右翼に入った。
迎えた7回の初打席。 これまで打線が苦しんでいた右横手投げの深沢の139キロ外角寄り直球を左前へ。
飛び込んだ左翼手のグラブの先を抜けた打球が左翼を転がる間に一気にホームイン。
力投していたエース・畔柳を援護し、打のヒーローになった。
これまで柵越えの本塁打は1本もなく、本塁打自体も中学時代のランニング本塁打以来。
母が作るうどんやパスタを食べて、入学後に体重を13キロも増やした努力家は「入学してからバットを振り続けてきた。
限られた1打席で結果を出したいと思っていた。素直にうれしい」と胸を張った。
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☆ 仙台育英 14安打13得点で8年ぶり8強! 甲子園50勝目 3番・八巻4打数4安打3得点で打線けん引
第93回選抜高校野球大会 第6日 第2試合 2回戦 仙台育英13―5神戸国際大付 (25日)
仙台育英が春夏通じて50勝目を挙げた。 初回2死二、三塁から秋山の二遊間への2点適時内野安打で先制。
2回無死二、三塁からは松田の遊ゴロ、木村の投前スクイズで2点を追加した。
3回は4安打で3点、4回は2安打で1点を加点。6回には5四球など相手投手の乱れで4点、7回は連続短長打で1点を加えた。
投げては背番号10の右腕・松田隆之介が6回3安打1失点と好投した。
神戸国際大付は阪上が2回途中4失点で降板。 代わった投手たちも失点を重ねた。
打線は5回1死一、三塁から山里宝の遊ゴロの間に1得点。 11点を追う7回に相手守備のミスから3得点、
8回に3連打で1得点したが、大量失点が響き敗れた。
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☆ 仙台育英・須江監督 「頂点まで駆け上がる」 初の優勝を目指してエース温存成功
先発した松田隆之介投手(3年)が6回を3安打に抑えて1失点。8三振を奪う好投を見せた。
新型コロナウイルス感染拡大による休部期間中、自宅では父・尚之さん(46)とのキャッチボール。
高校入学以降なかなか一緒にできなかったというが、久々に実現した親子の時間で「リラックスできるし、
自分の成長をわかってもらえる」と、野球の出来ない不安の中で、心と体を整えた。
松田の力投で、初戦に先発した古川翼投手(2年)と、エースの伊藤樹投手(3年)を温存することに成功。
須江監督(37)は「頂点まで駆け上がる。ここで古川と伊藤以外のピッチャーで勝ち上がることが重要だと思っていた」と、
春夏通じて初の優勝へ力強く語った。
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☆ 天理 13年ぶり8強 ドラフト候補の右腕・達が最速148キロ、2安打8K完封劇
第93回選抜高校野球大会 第6日 第3試合 2回戦 天理4-0高崎健康福祉大高崎 (25日)
天理は初回無死一、二塁から3番・内藤の左前適時打で先制。2回2死三塁には9番・政所の中前適時打で加点した。
4回2死一、二塁には4番・瀬の左中間2点適時二塁打で突き放した。
投げてはドラフト候補の右腕・達孝太が1メートル93の長身からから投げ下ろす最速148キロの直球を武器に、
2安打8三振の完封勝利。 初戦に続いて中4日での完投となった。
健大高崎は2回2死一、二塁、5回2死一、二塁、8回1死一、二塁と得点圏に走者を進めたが、得点はならず。
2年連続5回目の出場で、初めてベスト8入りを逃した。
勝利した天理は、28日に予定されている準々決勝・第1試合で、仙台育英と対戦予定。
エース伊藤樹を温存した仙台育英に対し、2試合続けて9回を投げきった達の疲労は懸念されるところだ。
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☆ 父はJ1優勝、子は甲子園適時打 気がつけば野球の道へ 天理・内藤大翔(やまと)一塁手
一回無死一、二塁の絶好機に、低めの直球を思い切り振り切った。
鋭く三遊間を抜ける先制適時打となり、一塁上で「ヨッシャー」とほえた。
追い込まれていたが、強気でいられたのはある言葉が脳裏にあったからだ。1回戦で3番を任されるも、4打数無安打。
試合後、父の就行さん(53)から「どんな結果やろうと思い切っていけ」と電話がかかってきた。
Jリーグ鹿島のDFとして1996年の優勝に貢献し、今季からJ3宮崎の監督を務める父の激励。
この日に向けてひたすらバットを振った。
身近なスポーツは0歳からボールに触れていたサッカーだったが、いつの間にか、小学1年で始めたソフトボールに夢中に。
「父も周りから『なんで野球をやっているの?』って聞かれているんじゃないか」と後ろめたい時もあった。
でも、昨夏の練習試合に足を運んでくれた父から「自分で選んだ道やったら、その道で一番を取れ」と言われ楽になった。
「もっとチームに貢献できるように、人一倍声を出して取り組みたい」。父の言葉を胸に突き進む。
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☆ 東海大相模 接戦制し3年ぶり8強! 求&石田完封リレー
第93回選抜高校野球大会 第7日 第1試合 2回戦 東海大相模1―0鳥取城北 (26日)
東海大相模は2回1死二塁から佐藤の三塁線を破る適時打で先制。
その後、4回、8回、9回に得点圏に走者を進めたものの、あと一本が出なかったが、
先発した2年生右腕・求が4回2安打無失点。5回からマウンドに上がったエース左腕・石田も無失点に抑えて接戦を制した。
鳥取城北は初回1死一、二塁、3回1死一、二塁、7回1死一、二塁、9回1死三塁と好機をつくったが無得点。
背番号11の右腕・山内は9回途中まで1失点と好投したが、打線の援護なく惜敗した。
阪神・平野2軍打撃コーチの甥である求は、最速140キロを計測したストレートとスライダー、カーブなどを巧みに投げ分け、
立ち上がりから安定した投球を披露。 得点圏に走者を背負った1、3回も落ち着いて後続を断ちきった。
5回に打席が回ってきたところで代打を送られ、プロ注目のエース左腕・石田が5回から登板した。
門馬監督(51)は「選手1人1人が粘り強く戦ってくれた」とナイン称えた。先発の求については「粘って4回までいってくれた。
これからまだまだだとは思いますが、大きな経験、財産にはなったと思う」と言い、エース・石田の5回からの継投には
「私自身が迷ってはいけないと、攻撃での先手ではなくて守りでも先手を打っていこうと迷いなく代えました」と振り返った。
山木監督(45)は山内の先発について「普通にいっても東海大相模相手には難しい。ただ8回まで行けると思っていなかった。
よく投げてくれた。特にフォークがよかった」と言い、「東海大相模とこういう試合ができたことは大きな自信につながる。
夏に十分につながる試合ができた」と話した。
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☆ 福岡大大濠 延長11回の激闘制し 4年ぶり8強! 松尾勝ち越し左越え本塁打
第93回選抜高校野球大会 第7日 第2試合 2回戦 福岡大大濠8―4具志川商 (26日)
福岡大大濠は初回2死二塁から川上の左前適時打で先制。同点に追いつかれた直後の2回1死三塁から松尾の中前適時打で勝ち越した。
1点を追った4回1死一塁からは吉田の左中間適時二塁打で同点。 6回1死三塁から代打・福沢の右犠飛で勝ち越し。
再び同点で迎えた延長11回無死から松尾の左越え本塁打で勝ち越し、さらに1死三塁から友納が右前適時打を放つなど3点を追加した。
投げてはエース左腕・毛利が延長10回途中まで粘りの投球で4失点。代わった2年生右腕・馬場がリードを守り切った。
具志川商は初回2死から新川が左中間へソロ本塁打し同点。1点を追う3回1死一塁から大城勢武太の左中間適時二塁打で追いつき、
続く島袋の左前適時打で勝ち越した。再び1点を追った6回2死満塁から比嘉の押し出し四球で同点。
先発した背番号6の右腕・粟国は2回4安打2失点、エース右腕・新川が3回からマウンドに上がったが、延長11回に決勝点を奪われた。
今大会7度目の延長戦で、1999年、2014年に並び、早くも1大会最多タイ記録となった。
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☆ 明豊、2年ぶりの8強 市和歌山に競り勝つ
第93回選抜高校野球大会 第7日 第3試合 2回戦 市和歌山1-2明豊 (26日)
大会屈指の好右腕で1回戦で県岐阜商を完封した市和歌山の小園健太はベンチスタート。
先発は右腕・米田天翼(つばさ)が起用された。
明豊は四回表、米田友が春夏通算2500本塁打となる先制ソロを放った。
六回に同点に追いつかれたが、七回2死三塁から代打の竹下(2年)が左前適時打を放ち勝ち越した。
プロ注目右腕の小園健太は1点ビハインドの五回から登板。六回裏に松川の適時打で同点に追い付いたが、
その直後に決勝点を許した。
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☆ 制服に着替えて帰れ・覚悟できとるんじゃろうな… 高校生自殺は「監督の叱責が原因」
岡山県立岡山操山高校(岡山市中区)で2012年7月、野球部マネジャーだった男子生徒(当時16歳)が自殺した問題で、
県などが設置した第三者委員会は26日、同校野球部の監督からの激しい叱責が自殺につながったとする報告書を公表した。
男子生徒は、11年に同校に入学し、野球部に入部。12年6月に退部したが、翌7月にマネジャーとして復帰した。
しかし復帰から3日後、岡山市内で死亡しているのが見つかった。
報告書によると、男子生徒は、野球部監督だった教諭から、選手だった頃、「おまえなんか、制服に着替えて帰れ」
などとどなられたり、マネジャー時代に「1回(野球部を)辞めたんじゃから、覚悟はできとるんじゃろうな」
などとしかりつけられたりした。
自殺直前にもグラウンドに残されて叱責を受けており、第三者委は「体罰」に該当すると認定。
こうした行為によって、生徒は自身の存在意義に対する無価値感や野球部内での孤立感を深め、自殺の原因となったと結論づけた。
この問題を巡っては、生徒の自殺直後に県教委が調査していたが、「教諭の指導と自殺の因果関係はわからない」と結論づけ、
遺族側が第三者委による原因究明を要望。18年8月から委員の弁護士や精神科医らが検証してきた。
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☆ 春に強い東海大相模、準々決勝は5戦全勝
東海大相模の1-0完封勝利は原辰徳(現巨人監督)が2年の75年春、倉敷工戦で村中秀人(現東海大甲府監督)が
完封して以来46年ぶり2度目。 今年の春もしぶとく8強入りした。
同校の春は圧倒的。 センバツ出場10度以上の学校で、現時点での通算勝率7割5分8厘(25勝8敗)は歴代2位。
トップの大阪桐蔭(7割6分5厘=26勝8敗)と1勝分しか違わない。
門馬監督は春通算8割1分(17勝4敗)と8割超え。 ここまでは大阪桐蔭・西谷監督(7割9分3厘=23勝6敗)を上回る。
筑川利希也(元ホンダ)らの00年、田中俊太(現DeNA)菅野剛士(現ロッテ)らの11年に次ぐ春3度目のVなるか。
春の準々決勝は5勝無敗と突破率10割。準々決勝の無傷連勝は東洋大姫路(4勝0敗)を上回り、すでに最多となっている。
46年前のセンバツは以前にも詳細に記入したが、倉工も優勝候補の一角だったね。
センターの落球で負けたけど、兼光君が原辰徳をきりきり舞いさせた。
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☆ 智弁学園5年ぶり8強 広島新庄の2枚看板攻略!逆転勝ち 奈良県勢ダブル8強は44年ぶり
第93回選抜高校野球大会 第8日 第1試合 2回戦 智弁学園5-2広島新庄 (27日)
優勝した16年以来、5年ぶりの8強に進出した。
奈良県勢は、77年(天理=8強、智弁学園=4強)以来44年ぶりのダブル8強入りとなった。
智弁は1点を追う3回、垪和の遊撃内野安打で同点に追いつくと、なおも一、三塁で前川が詰まりながらも
遊撃後方へしぶとく落として勝ち越し。
さらに、山下が右前適時打で続き、3連打で逆転に成功した。 4回に中陳が中犠飛で4点目を加えると、
6回にも岡島の左前適時打で5点目。着実に得点を重ねた。投げては背番号10の右腕・小畠が2失点で完投した。
広島新庄は2回2死二塁から、平田が左前適時打で先制。4点を追う8回には瀬尾の中前適時打で1点を返した。
投げては初戦に続いて先発した右腕・花田が3回に逆転を許し、4回から左腕・秋山が2番手で登板した。
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☆ 東海大菅生 9回劇的サヨナラで初の8強 代打・多井が決めた!
第93回選抜高校野球大会 第8日 第2試合 2回戦 東海大菅生5x-4京都国際 (27日)
東海大菅生(東京)が5-4で京都国際を逆転サヨナラで破り、6年ぶり4回目の出場で初のベスト8入りを果たした。
東海大菅生は2回無死一、三塁で7番・小山の遊ゴロで先制。 3回1死三塁には千田の二ゴロで加点した。
2点を追う9回に小池の三ゴロで1点を返し、なおも2死満塁で代打・多井が右翼線2点適時二塁打を放ち試合を決めた。
投げては6回から登板した2番手の3年生左腕・松永が3回無失点、9回はエース左腕の本田が奮闘を見せた。
京都国際は2点を追う5回2死満塁で中川が走者一掃の左翼線適時二塁打で逆転。
なおも2死二塁に森下の左前適時打で一挙4点奪いリードしたが、2点差を守れずサヨナラ負けを喫した。
代打サヨナラ打の多井は「代打はいきなり告げられました。追い込まれてからもしっかりと振りに行くことができました。
サヨナラヒットは生まれて初めて。 打った瞬間抜けたと思いました」と喜びを語った。
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☆ 中京大中京 15得点豪打で11年ぶり8強 選抜単独最多57勝目 6番・加藤が4安打4打点
第93回選抜高校野球大会 第8日 第3試合 2回戦 中京大中京15-5常総学院 (27日)
中京大中京は2回無死二塁に櫛田の左翼線適時二塁打で先制。
3回1死二、三塁には辻の中犠飛、なおも2死二塁に加藤の左翼線適時二塁打で加点した。
4回2死満塁には原の左翼線2点適時二塁打、加藤の走者一掃の右中間適時二塁打で一気に5点を奪った。
6回1死三塁にも桑垣の三ゴロでリードを広げた。8回無死一、三塁では暴投で1点、なおも2死一、二塁から盗塁と敵失で1点を加えた。
9回にも暴投、満田の中前適時打、杉浦の右前適時打、桑垣の左犠飛で4点を奪った。
投げては先発したエース右腕・畔柳亨丞(くろやなぎきょうすけ)が149キロ直球に変化球を交えて7回を7安打1失点と好投を見せた。
「1人の1週間の総投球数を500球以内」という制約の中、110球で降板した。
常総学院は8点を追う5回1死満塁に四球の押し出しで1点を返した。 8点を追う8回1死満塁で死球押し出し、
宮原の右犠飛、伊藤の左前適時打、三輪の右前適時打で4点を返したが及ばず。 6年ぶりの8強入りはならなかった。
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☆ 甲子園観客席から「ラガーさん」が姿を消した! 本人が語るその真相 ①
高校野球の聖地・甲子園球場から、ラガーシャツに黄色のキャップをかぶった“あの男性”の姿が消えている。
1999年から甲子園の8号門前に寝泊まりし、バックネット裏最前列の「A段73列」に陣取って、
常にテレビの生中継に映り込んでいた通称“ラガーさん”が、今年の選抜では見当たらないのだ。
正確にはバックネット裏の最前列が「ドリームシート」となり、近畿圏の少年野球チームが無料招待されるようになった
2016年春以来、既にテレビ画面からは消えていた。だが、それ以降もラガーさんは春と夏の甲子園に毎日訪れ、
三塁側の最前列に座って観戦。
球場の外では声を掛けてくる高校野球ファンと一緒に写真を撮ったり、女子高生のサインの求めに応じていたりしていた。
著書も3冊刊行し、あたかも甲子園に棲む高校野球伝道師のような立ち居振る舞いには賛否があったが、姿が消えたとなると、
それはそれで不在の理由が知りたくなってしまう。
そこで、ラガーさんこと善養寺隆一氏(54)に連絡を入れてみた。「えー、なになに、やっぱりオレのこと、気になってた?」
電話口でいきなりのハイテンション。 相変わらずの調子で思わず言葉に詰まるが、まずは事実の確認から。
「今回は甲子園に行っていませんよ。 だってさ、コロナで大変な時期に、観戦(感染?)してもまずいでしょ。
オレもこれまでいろいろ叩かれてきたからさ。 あんな格好で甲子園に行って、万が一、テレビに映ってしまったら、
また面白おかしくネットで書かれてしまうから」
ならば目立つ格好で観戦しなければいいのでは。
「いや、オレもあの格好にはプライドがあるから。黄色い帽子と、ラガーシャツ。あなたと違って、オレにも考えがあるの!」
8号門の前に集団で寝泊まりしていた時代は、ラガーさんら常連観戦者のグループ「8号門クラブ」によるバックネット裏の席の占有が、
甲子園の“私物化”だと批判が集まり、インターネット上では彼らを排除すべく署名活動も展開された。
そうした騒動の末に、バックネット裏の席が野球少年たちに解放されたという経緯がある。
今年の選抜は新型コロナウイルスの感染対策の一環として、観衆を1日1万人に限定。観戦チケットが全席指定となるだけでなく、
バックネット裏を含む「中央指定席」が2500円から3900円に、「1・3塁指定席」が2000円から3400円に、
これまで無料だった外野も700円と例年より割高となった。
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☆ 同上 ②
「大会12日間すべて中央指定席を購入すると、手数料もあわせて5万円ぐらいになってしまう。べらぼうに高くなったよね。
すべてがネットでの販売で、インターネットがつながらなければ取れるものも取れない。取れたとしても、毎日、違う席になる。
それに、もし雨天順延となったら、払い戻しをして、また新しいチケットを買う必要性も出てくる。やってらんないよ」
チケットのプレミア化と値上げも、ラガーさんの足が遠のいた要因なのだろうか。
「お金はあるよ。それなりにさ。自分でも言うのもなんだけど。オレ、他に趣味がないから。仕事は両親が経営していた印刷所を
今も細々とやっていますよ」
夏の選手権大会のチケットが全席指定となった100回大会(2018年)以降、ラガーさんが野宿をすることはなくなった。
「100回大会のときに、8号門のところで野宿していて、寝ている間にチケットを盗まれてしまった。 知ってるでしょ?
それ以来、甲子園の近くに民泊するようになりました。20年間休まず、春夏の甲子園にやってきて、いろんなことが起きながらも、
ブレーキをかけずに全試合を観戦してきた。 こうして一度、甲子園を外から見るってのもいいんじゃないかな」
選抜観戦を“辞退”したのは、新型コロナの感染拡大が最大の理由だった。
「これは人間のモラルの問題だね。人間として、コロナ禍に東京から行って、テレビにでも映ったらモラルを問われるでしょ。
野球観戦の引退はしないよ。ネットではさ、今年の甲子園にオレがいないことで、“ラガーさんが捕まった”みたいなことも書かれていた。
そんなわけないじゃない。誰かと勘違いしてんだろうね。この点はしっかり書いてほしいんだけど、野球観戦は止めたわけじゃない。
コロナさえ落ち着けば、今年の夏も足を運びますから。この点はしっかり書いてくださいね。頼みましたよ!」
「甲子園観戦をやめるわけじゃない」と繰り返し強調し、こちらに電話を切るタイミングをいっさい与えないラガーさんだった。
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☆ 天理・達が150キロ宣言 大会最速の畔柳に闘志
13年ぶりにセンバツ8強進出の天理は雨天中止となった28日、甲子園の室内練習場で練習を行った。
193センチの長身右腕エース、達孝太投手を擁して投打の歯車がかみ合って好調だ。
この日の仙台育英戦が29日に順延され、前回登板の25日高崎健大高崎戦で134球を投げて完封勝ちした達にとっては、
中2日が中3日に延びてコンディションを整えられそうだ。
中村監督(52)は「達は昨日の状態でも『大丈夫です』という話で今日、先発させる予定だった。
1日、順延になって恵みの雨になったのかなと思います」と話した。
主将の内山も「達自身もすごく成長している。すごく中京大中京の畔柳君を意識している。
昨日、149キロが出てすごく気にしていた。『自分を超えられた。自分が150キロを投げたい』と。すごく頼もしい。
本当に投げそうです」と明かした。27日に畔柳が149キロを計測するまで、25日に達がマークした148キロが最速だった。
27日は達の17歳の誕生日で、練習の最後のランニング前に「おめでとう」と声を掛けたという。
内山主将は「ちょっと照れている感じでした」と笑った。 好ムードで決戦へ。
仙台育英とは甲子園常連校同士の対決。 過去3戦は1勝2敗で、96年以来、25年ぶりの激突になる。
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☆ 仙台育英 “仮想・達”で準備OK、天理の193センチエース攻略で4強入りへ
仙台育英はこの日の第1試合で天理と対戦予定だったが、雨天中止を受けて甲子園の室内練習場で調整。
“仮想・達”で打撃練習を行い、本番に備えた。
1、2回戦といずれも2桁安打をマークして勝ち上がってきた強力打線が、好投手を迎え撃つ。
天理のエース・達投手は193センチの高身長から最速148キロの直球を投げ込む本格派右腕。
角度のある球に目を慣らすため、この日は身長185センチの中村投手に打撃投手を務めてもらうなど対策をとった。
さらに、マウンドから約2メートル手前の位置から投球してもらうことで、速球への対応も目指した。
練習を終え、須江監督は「今日の休養を経て状態のいい達くんを攻略して、チームとして強くなりたい」と闘志を燃やした。
島貫主将は「不安要素なく試合に臨むことができる。しっかりと冷静に自分たちの野球をしたい」と力を込めた。
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☆ 仙台育英・須江監督「失点をコントロールできなかった」 20年ぶり4強ならず
第93回選抜高校野球大会 第9日 第1試合 準々決勝 仙台育英3―10天理 (29日)
天理が97年以来24年ぶりの4強入りを決めた。 これでセンバツ30勝目。
仙台育英は2点を追う3回無死から八巻真也が右越えソロ、さらに1死二、三塁から島貫主将の中犠飛で同点に追いついた。
しかし、2回から登板したエース右腕・伊藤が4回に守備の乱れから4失点するなど6回途中まで投げ8失点(自責点4)と崩れた。
打線も3回以降は適時打が出ずに、準優勝した01年以来の4強入りはならず。
試合後、須江監督(37)は「得点を取るより失点をうまくコントロールしたい試合でしたが、それができませんでした。
天理の打者の対応力が上でした。伊藤が早めのリリーフで流れを変えたんだけれども、その伊藤を引っ張り過ぎてしまった。
野手にミスが出た時にどう立て直すか、これが夏への課題」と話した。
選手宣誓をした主将の島貫は、東日本大震災から10年の節目の大会で準々決勝敗退が決まり、
「東北の代表として優勝したかった。 たくさんの応援をいただいていたので悔しい」と声を落とした。
「夏に向かって仕切り直してやっていきたい」と前を向いた。
遊撃の渡辺は昨秋公式戦で6試合無失策の名手だが、悔しい3失策。
「対応できなかった自分のミスというか力のなさ」と肩を落とした。「自分のエラーで負けた。申し訳ない気持ち」と詫びた。
それでも2番手でマウンドにいたエース伊藤は「普段ミスしない旭がミスして、なんかあるんじゃないかと思った。
カバーできなかったのが本当に悔しい」と渡辺をかばった。
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☆ 仙台育英・八巻 天理・達から「低め狙って」聖地初アーチ 大会記録迫る9打席連続出塁
2点を追う3回無死、先頭の3番・八巻真也が右越えソロを放った。
高校通算7本目、聖地初アーチは大会屈指の好投手・達が投げ込んだ低めの直球をとらえた。
「残塁が多かったので、ノーアウトでもどんな形でも出られたらと。1人でも出たら変わるかなと思った」。
大会屈指の好投手・達に対しては「高めのボールが伸びてきてフライアウトになったりする。
低め狙って打席立った」と、低めの直球を狙い撃ち。
「しっかりとらえられたので、いくかなと思ったけど、切れるか微妙なところだったので入れ!と思いました。
高めのボールを見逃すのはチームとして徹底していたので、良かった。甲子園で打てたのはうれしかった」と振り返った。
2回戦の第1打席から9打席連続出塁。83年の藤王(享栄)が樹立した連続出塁11の記録にあと2と迫り、
「出塁は意識していた 全打席どんな形でも出塁できたら後ろに良い打者いるので役割果たせたと思う。
甲子園では良い投手がいて、かなり難しかったし、守備でもミスもあったけど、何があるかわからない。
丁寧に集中してやっていくことが大事だなと思った。3試合、いい形で打席に立てたので自信になりました」と話した。
しかし20年ぶりの4強はならず。 「攻撃は残塁がかなり多かった。 チャンスで決められるようにしたい。
一つ一つのミスをなくしていけるようにしたい」と悔しさをにじませつつも、夏に向けての収穫と課題を持って球場を後にした。
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☆ 東海大相模 3年ぶり4強進出 胃腸炎の主将欠き手負いも一丸 2桁安打猛攻 & 石田14K完封
第93回選抜高校野球大会 第9日 第2試合 準々決勝 東海大相模8-0福岡大大濠 (29日)
主将の大塚晏が急性胃腸炎のためベンチを外れた。 初回から3番・小島河、5番・百瀬の連続適時打で2点を先制。
2回には門馬監督の次男で、大塚に代わってゲームキャプテンを務めた門馬功が左越え2ランを放つなど一挙4点で突き放した。
投げてはエース石田隼都が3安打14奪三振で完封した。
福岡大大濠はエース毛利海大がベンチスタート。
序盤で主導権を渡す展開となり、2回途中から毛利が救援も流れを引き寄せられなかった。
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☆ 博多華丸が母校の福岡大大濠高校を熱烈応援 ジャンパー姿でセンバツ準々決勝観戦
お笑いコンビ「博多華丸・大吉」の博多華丸(50)が29日、ツイッターを更新。
母校である福岡大大濠高校がセンバツ高校野球大会の第2試合に登場したのに合わせ、同校のジャンパー姿を披露した。
華丸は「こっそり家で正装しました。応援してます!」とつづり、同校のチームカラーであるえんじ色のジャンパーを着用。
胸には「福大大濠」の文字が白色でプリントされている。マスクながら目をぎょろりと光らせ、気合十分の表情を見せた。
先輩の応援にフォロワーも大注目。「赤が似合うイケメンおじさん」「やっぱ、福大大濠がしっくりくる!
福岡大濠ってTVに表示されるの違和感あるんですよねー」などのツイートが相次いだ。
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☆ 甲子園球児支える阪神園芸の “神整備” 「思い出持ち帰って」
今回のセンバツでは、大会第3日の21日が降雨により中止となり順延されたが、この日も「試合の実施が決まれば、
1時間後には練習を始められるように準備していた」と話すのは、同社甲子園施設部長の金沢健児さん(53)だ。
運ぶ土の量や整備の順番、降水量や気温までこまめにチェックし、「体に染みついたもの」があると自信を見せる。
甲子園を知り尽くす金沢さんは「最もグラウンド状況が良いのは、実はセンバツが行われるこの時期」と明かす。
選手たちがプレーする上で最も重要なのは土の硬さだといい、それを左右するのが気温だ。
例年シーズンオフの1〜2月、土で固めた内野全面を25センチほど掘り起こし、固め直す大規模なメンテナンスを施す。
表面だけでなく内部まで「適度な硬さ」に仕上がるのが、最高気温15度を超えたあたりだからだ。
金沢さんは「球児たちが最初にできあがったばかりのグラウンドでプレーできる。
甲子園が初めての選手には分からないだろうが、春と夏でも感触の違いがある」と話す。
今大会は社員10人にアルバイトを加えた計約20人で日々の整備に臨む。1日に最大4試合を行う甲子園大会では
「どの試合も同じ」に仕上げるのが絶対条件。新型コロナウイルス感染症対策での試合後の消毒のため、
いつもより試合間隔が10分長いことで、金沢さんは「少しだけ余裕があるかな」と笑う。
整備だけでなく、選手たちへの「神対応」も光る。甲子園球児といえば、敗れたチームがグラウンドの土を集めて
持ち帰る姿が恒例だが、昨夏の甲子園交流試合から感染症防止の観点から控えるよう呼び掛けられ、
代わりに球場側が用意した土がチームに贈られる。
当初はネット上には「どうせ倉庫の土」などの声が上がったが、実際に阪神園芸が用意するのは、
全てグラウンドから集めてふるいにかけた「甲子園の土」だ。
金沢さんは「確かに土は倉庫のものと同じものだが、選手にとっては全く意味が違うはず。できることはしたい」と語る。
28日も悪天候で中止になったが、「春の嵐」が吹き荒れた後の翌日のグラウンドはいつもと変わらぬ
美しさを取り戻し、準々決勝の熱戦を迎えた。 「最高の条件でプレーして、良い思い出を持ち帰ってもらう。
そんな舞台を整えるのが私たちの仕事」と金沢さん。そんな信念のもと、日々やるべきことはこれからも変わらない。
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☆ 達、瀬、求… 活躍! 1文字名字の選手
天理はエースが「達(たつ)」、4番が「瀬(せ)」。東海大相模には「求(もとめ)」がいる。
敗れはしたが、目を引いたのは初出場の大崎(長崎)で4番・捕手の「調(しらべ)」。
ちなみに過去10年の優勝チームを見てみると、2013年の浦和学院には「贄(にえ)」、
14年の龍谷大平安は「常(つね)」、16年の智弁学園には「納(おさめ)」がいた。
さて、今回の優勝チームに1文字名字の選手は残るのか?
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☆ 甲子園で門馬家悲願の本塁打 監督の父と初めて喜び合う 東海大相模・門馬功左翼手(3年)
門馬家の思いを乗せた打球が左翼手を超えた。 二回1死二塁。2球目の真ん中への直球を思いっきり引っ張った。
速い弾道で左翼席に到達する2ラン。「打った瞬間、角度がよかったので入ったと思った」。こ
の回一挙4得点をあげる打線に火をつける、公式戦初本塁打だった。
ダイヤモンドを1周すると、一塁側ベンチ前で拍手する父親の門馬監督と右拳を合わせた。
打って喜び合うのは、高校生活で初めてだったという。「素直にうれしかった」と少しはにかんだような表情を見せた。
父の門馬監督、4学年上の兄の大(ひろ)さん、そして2学年上の姉の花さんも野球部の卒業生という「東海大相模一家」だ。
父が率いる相模が出場すれば応援に駆けつけ、「小さい頃からずっと見ていた」というあこがれの球場で、
さらに単打と三塁打も放って3安打2打点。 ともに甲子園でプレーできなかった父、兄の分まで暴れ回った。
主将の大塚が急性胃腸炎でベンチから外れたため、主将代行を務めた。「役割は特に意識していなかった」というが、
本塁打については「つないでくれたみんなのおかげ」。 殊勲を誇るより、まず仲間への感謝が口をついて出た。
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☆ 明豊が2度目の4強進出 11安打6点で智弁学園に打ち勝つ… 両校無失策の好ゲーム
第93回選抜高校野球大会 第9日 第3試合 準々決勝 明豊6-4智弁学園 (29日)
明豊は初回、先頭の幸修也が左翼ポール際へ先制ソロ。
17年センバツ決勝の藤原恭大(大阪桐蔭)以来となる1回表の先頭打者本塁打を放った。
3回には阿南の右前適時打、黒木の中越え適時二塁打でさらに2点を加えた。黒木は5回にも右前2点適時打を放ち、リードを広げた。
投げては先発の京本が4四死球と苦しみながらも踏ん張り3回無失点。 4回から2番手の太田が登板。
2点差まで詰め寄られたが、リードは許さず、7回から財原にリレーした。
守備も援護した。4点リードで迎えた6回には2点を返され、なおも2死一、三塁のピンチで智弁学園の山下が放った左翼への大飛球を、
明豊の左翼・阿南が背走しながら難しい体勢でキャッチ。 そのままフェンスに激突した。
阿南はしばらく起き上がれなかったが、ボールがおさまったグラブを掲げると場内からは万雷の拍手が送られた。
智弁学園は優勝した16年以来5年ぶり4強はならなかった。 4回まで再三の得点機を生かせず。
5回に5番・三垣が左前適時打で1点、6回に押し出し四球などで一時2点差。 8回にも1点を返して詰め寄ったが及ばなかった。
投げては先発の西村が先発も5回5失点と本来の実力を出し切れず。2番手・小畠にリレーした。
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☆ 中京大中京 24年ぶり4強 ドラフト候補・畔柳 疲労蓄積でも138球完封
第93回選抜高校野球大会 第9日 第4試合 準々決勝 中京大中京6-0東海大菅生 (29日)
4強が出そろい、明日30日の休養日を経て、31日に準決勝が行われる。
組み合わせは天理-東海大相模、明豊-中京大中京となった。
中京大中京は最速151キロのドラフト候補右腕・畔柳亨丞が5回まで無安打の好投。6回にポテン安打こそ許したが、
結局2安打に抑えて、25日の1回戦・専大松戸戦に続き今大会2度目の完封を果たした。
打線は、初回、東海大菅生先発・本田が立ち上がりが乱調な隙を逃さず3点を先制。2回にも遊ゴロの間に1点を加えた。
さらに5回には加藤の中前2点適時打で2点を追加した。
試合後、畔柳は「きょうは疲れがたまっていたが序盤に仲間が点を取ってくれて、感謝して投げることができた。
1、2回戦は力みで球が抜けていたが、きょうは良い疲労具合で力みが抜けた」と振り返った。
5回まで無安打投球が続いたが「ヒットはOKと思って投げた」。
9回には連続四球を出し「菅生は粘り強いチーム。力が入ってしまって四球になった」と反省も忘れなかった。
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☆ 中京大中京・畔柳が2度目の完封 準決勝の「リミット」は121球 「投げられるだけ投げ抜く」
歯を食いしばった。声も出した。中京大中京のエース畔柳亨丞は圧倒的な力で試合を締めくくりに入った。
「9回に相手に流れを持って来させないようにギアを上げた」。
3つの四球で2死満塁こそ招いたが、渾身の真っすぐで最後の打者を中飛に仕留めると、最高の笑顔に変わった。
先取点をもらった直後の初回にこの日の最速148キロを計測したが、以降は力の配分を考え緩急を意識した。
5回まで無安打投球。 球速は落としても安定感は最後まで失わなかった。
2度目完封に要した球数は138で1、2回戦と合わせ計379球。
出場32校最後の登場で、準決勝は25日の1回戦からちょうど7日目。「1週間500球以内」の球数制限を考えれば、
継投に入る手もあったが、高橋監督は信念を持って決断を下した。
「次戦とかでなく、今日の試合に勝利を収めるには何を最優先するか」といい相手を最後まで勢いづかせないことを選択。
「将来もあるので無理なら投げさせない。500球が高校生の基準になっている。その枠内なら投げる体力はある子」。
疲労を見極め能力を信じた。
準決勝で投球可能な球数は121。 指揮官が継投を明言する中、エースは「限られた球数の中になるが、
投げられるだけ投げ抜くつもりです」と決意を口にした。
66年以来の頂点に向け、訪れた試練。 畔柳は見えない相手とも戦う。
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☆ “飛びすぎる金属バット”の見直しで高校野球はどう変わる? 現場指導者の見方は…
「1週間500球以内の投球数制限」(試行期間3年)がスタートしたが、高校野球は次なる改革に向けて動きだしている。
金属バットの見直しで、反発力を低くすることで打球速度を抑える「低反発金属バット」の導入が検討されているのだ。
早ければ来春以降にも着手されるこの改革を現場はどう捉えているのか。
現場の多くの指導者たちも反発係数の低い金属バットの「導入は間近」との認識だ。
3年生野手22人の通算本塁打が実に240発を超える健大高崎打線を指導する赤堀佳敬コーチは「金属バットの反発係数が落ちる。
実際に導入されてみてどうなのかというのはありますが、最低限の打力と細かい野球をよりやっていかないといけない。
木製バットに近い野球、大学野球のような野球ですよね。そういうことも必要になってくる。 時代とともにモノが変わり、
野球も変わる。 勉強していかないといけないと思っています」と語る。
指導者たちは異口同音に、道具の変化によって高校野球が大きく変わるとの認識を示し、準備を進めている。
ソフトバンク・王貞治球団会長(80)は「今の金属バットは肉厚が薄いんだよね。 復元力が増してそれでよく飛ぶ。
それで、どうしても技術的にはプロに入る時に矯正しないといけないから遠回りするんだ。
金属バットから木製バットに対応するのが難しくなっているよね」。
超高校級と騒がれた金の卵たちがプロ入り後に苦戦する姿は枚挙にいとまがない。
木製使用のU18国際大会などでの苦戦も続いている。道具が変わり、アプローチが変わることで、球児たちの未来も変わっていく。
野球界全体としては変革への歩みに異論は少ない。 改革を進めながら、高校野球は変わる。
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☆ オコエと清宮 「元甲子園のスター」に迫る “リミット”
今年でプロ6年目の23歳・楽天のオコエ瑠偉外野手、プロ4年目の21歳・日本ハムの清宮幸太郎内野手。
オコエはもうとにかく後がない。 今年2月のキャンプは二軍スタートが決まっていたが、
2月2日に左手関節の手術を受けることが球団側から発表され、キャンプ全休。復帰時期も未だ不透明のままだ。
昨季はプロ入り後初の一軍出場なしで終わり、二軍の公式戦でも27試合の出場で打率2割6分9厘、0本塁打、
5打点、3盗塁とまるでパッとしない成績にとどまった。
昨年末の契約更改後、報道陣からオコエに対するコメントを求められた石井GM兼監督は「考えが甘い。
がんばってほしいというより、そろそろ出てこないと彼自身の野球人生が苦しくなる。ここが正念場。
自己評価が高過ぎる」とバッサリ切り捨てている。
清宮も断崖絶壁だ。「和製ベーブ・ルース」もプロでは未だ鳴かず飛ばず。
今年は高卒4年目で初めて春季キャンプを「完走」したが、オープン戦は打率1割6分7厘、0本塁打と大低迷。
これには栗山監督もさすがに厳しい決断を下さないわけにはいかず、開幕二軍スタートを言い渡した。
好材料が全くない。プロ3年目の昨季は批判の嵐を浴びながらも一度の登録抹消のみで一軍帯同をほぼ許され続けたが、
96試合に出場したにもかかわらず僅か7本塁打、22打点、そして打率に至っては1割9分と散々の成績に終わった。
栗山監督は開幕直前、報道陣に清宮の打撃がバラバラで一貫性がなくなっている点を指摘しながら嘆いていた。
清宮も、そしてオコエも“お試し期間”は終わりを告げている。
両者に共通して言えるのは、いくら「若手」とはいえ残された猶予は限りなく少ないということだ。
もうプロ選手として強い危機感を自覚し、一軍で結果を残さなければいけない時である。
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☆ 東海大相模 10年ぶり決勝進出! エース石田6連続含む15奪三振、3安打完封
第93回選抜高校野球大会 第10日 第1試合 準決勝 東海大相模2―0天理 (31日)
東海大相模は初回2死二塁から柴田の左前適時打で先制。 9回2死三塁からは相手暴投で1点を加点した。
投げてはエース左腕・石田隼都は、3回1死からの6連続を含む15三振を奪って3安打完封。
石田は前半直球中心にスライダーをまじえ、後半は要所にチェンジアップも使い、122球で投げ切った。
「しっかり投げ切れたのはよかった。 真っすぐのコントロールがよかった。
三振は、気分は乗るが、アウトに変わりはない。 明日(決勝)もいけると思う」
東海大相模は、2度目の優勝を飾った2011年以来の決勝進出。
天理は、今大会初先発の左腕・仲川が粘りの投球で8回7安打1失点と好投。 9回から南沢が登板した。
打線は1点を追う6回1死三塁の好機をつくるなどしたが石田を打ち崩せなかった。 達孝太は登板機会がなかった。
中村監督(52)は試合後、達が左脇腹を負傷していたことを明かし「肘、肩はなんの問題がない。
ちょっと違和感が、ということだった。脇腹のことで止めました。脇腹は怖い。これでよかったと思います」と説明した。
達は「仙台育成戦で痛めたんですけど、試合後になんだろうと考えたときに、バント処理のときに滑ってしまった時に、
可能性として。自分はやっぱりメジャーという目標があるので、この試合だけを考えて投げることが全然できたんですけど、
そこに行くために、いま故障しても意味がないので、そこは監督と相談して決めました」と話した。
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☆ 中京大中京のエース畔柳にアクシデントか 白衣のドクターがベンチへ 準決勝、明豊-中京大中京 (31日)
スタンドがどよめいた。1週間500球の球数制限のせいでもないだろう。
中京大中京の畔柳投手は準決勝で投げられるのは121球ということもあり、この日はベンチスタート。
5点を奪われた4回2死一塁からリリーフで出ると、打者7人を無安打5三振と完璧に抑えた。
これに応え、チームも5回に1点、6回にも2点を返したが、なおも2死二塁で打席が回ったところで代打を送られた。
この日の投球数は31球。 残り90球を残しての不可解な降板となった。
六回、2点ビハインドの場面での交代。 畔柳の打席の直前には白衣のドクターが三塁側ベンチに向かっていた。
ベンチでは苦悶の表情を浮かべており、何らかのアクシデントがあった可能性が高い。
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☆ 明豊、春夏通じて初の決勝進出 中京大中京降す
第93回選抜高校野球大会 第10日 第2試合 準決勝 明豊5―4中京大中京 (31日)
中京大中京は、球数制限の影響が懸念されるエース・畔柳の先発を回避し、背番号「10」を着けた柴田をマウンドへ。
明豊の先発マウンドには、同じく背番号「10」の左腕・太田。 両投手の好投で、3回までゼロ行進の展開となった。
試合が動いたのは4回、先頭の竹下が安打で出塁し、2つの四死球などで1死満塁とすると、塘原の犠飛で先制。
なおも一、二塁から太田、簑原、阿南の3連続適時打で、この回一挙5点を奪った。
ここで中京大中京は、畔柳をマウンドへ。得点圏に走者を背負った場面での登板だったが、これ以上の失点は阻止した。
反撃に転じたい中京大中京は5回、1死から満田が四球で出塁。盗塁で二塁に進むと、杉浦が右翼への適時打を放ち、1点を返した。
さらに6回、無死から安打と四球、犠打で二、三塁の走者を置くと、加藤の2点適時打が飛び出し、その差を2点に。
なおも2死二塁から、畔柳に代打を送るなど勝負に出たが、追加点はならなかった。
後がない中京大中京は9回裏、無死から加藤が二塁打でチャンスメイクを見せると、櫛田も安打で続いて一、三塁。
捕手からの牽制球で一塁走者が飛び出した間に1点を返したが、あと一歩及ばず。
大分県勢の決勝進出は1967年に優勝した津久見以来、54年ぶり2度目。
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☆ 中京大中京の畔柳は異変感じ 自己申告で降板 「ベンチに戻ったら右腕に力が入らなくてヤバイと思った」
試合後、高橋監督(41)は畔柳の交代について「身体に力が入らない、という状態だったと本人からの申告があった」と説明。
畔柳は「三者連続三振を取った後、ベンチに戻ったら右腕に力が入らくてヤバイと思った。途中降板してしまって申し訳ない」と話した。
3戦連続で先発し、「1週間で500球」の球数制限が残り121球に迫っていた畔柳は先発を回避。
代わって先発した3年生左腕・柴田が4回に5点を失うと、イニング途中から、畔柳がリリーフでマウンドに上がった。
6回まで31球を投げて、打者7人から5奪三振の快投。だが、6回の攻撃で打席が回ってきたところで代打が送られた。
その後、医師が中京大中京の三塁側ベンチに向かっていた。今大会で410球を投げたことになる畔柳は、試合後の整列には姿を見せた。
30日の休養日はチーム練習に参加せず、宿舎でマッサージを受けるなどして静養した。
同日夜のオンライン取材では「疲れはある」と打ち明けていた。
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☆ 「甲子園の魔物」に襲われた… センバツ「決勝戦」で起きた “まさかの結末” ①
これまでにも数々の名勝負が演じられてきた決勝戦だが、頂上対決ならではの独特の雰囲気のなか、
“甲子園の魔物”とも言うべき一瞬のエアポケットが明暗を分けた例も少なくない。そんなまさかの結末をもたらした試合とは…。
浅い左飛にもかかわらず、左翼手が肩を痛めていることを知っていた三塁走者が「一か八か」で本塁に突っ込み、
思いがけないサヨナラ劇となったのが、1980年の高知商vs帝京である。
“球道くん”の異名をとる高知商の本格派右腕・中西清起に対して、変化球で打たせて取る帝京の2年生右腕・伊東昭光。
剛vs柔対決となった試合は、初回からスコアボードに19個のゼロが並ぶ投手戦となった。
そして、0対0で迎えた延長10回裏、高知商は先頭の堀川がファウルで粘り、伊東の10球目を左翼線二塁打。
送りバントで1死三塁のサヨナラ機をつくる。
直後、帝京・前田監督は、レフト・江黒の守備に一抹の不安を感じ、守備要員にキャッチボールを命じていた。
前年秋に肩を痛めた江黒は、本塁までの直接返球は難しく、左飛が上がれば、サヨナラ犠飛になるリスクがあった。
だが、主将をベンチに引っ込める決心はつきかねた。
そんな葛藤の最中、瞬間風速15メートル以上の強風がレフトから本塁方向に吹いた。
「この向かい風なら、大きな飛球が上がることはない」。遊撃手が中継してバックホームする練習も積んでいた。
そう判断し、交代を思いとどまった。
一方、高知商・谷脇監督は、前日の準決勝、丸亀商戦を見て、「左翼手の投げ方がおかしい」と異変を察知していた。
当然、三塁走者・堀川も「浅くても突っ込もう」と心に決め、次打者・小島の打球がレフトの定位置より
4、5メートル右前に飛んだにもかかわらず、本塁を狙った。
遊撃手が外野の芝生付近まで下がって中継し、必死のバックホーム。タイミングはアウトにも見えたが、判定は「セーフ!」。
捕手のタッチを回り込んでかわしながら、左手を伸ばし、巧みに本塁ベースを掃いた堀川の“技”に軍配が上がった。
「肩が普通だったら、ノーカットで楽に刺せた」と江黒は悔やんだが、最重要局面では、「普通なら自重するケース」など
あり得ないことを痛感させられた試合でもあった。
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☆ 同上 ②
優勝まで「あと一人」からまさかの暗転劇に泣いたのが、89年の上宮である。
決勝の東邦戦は、1対1のまま延長戦に入り、10回、上宮は主将・元木大介(元巨人)の左前安打など3安打を集中。
敵失にも乗じて、2対1と勝ち越した。
その裏、東邦の攻撃も2死無走者。ところが、ここまでコースを丹念についていた2年生エース・宮田正直(元ダイエー)が
優勝を意識して「自分がどこにいるのか、何をしているのかわからなくなった」と突然制球を乱し、
ストレートの四球と内野安打で2死一、二塁のピンチを招く。
次打者・原浩高は、初球を迷わず振り抜き、詰まりながらも中前に同点タイムリー。さらに本塁送球の間に二塁を狙った。
だが、一塁走者の高木は二塁を回ったところで立ち止まっていたため、明らかに暴走。
これを見た上宮の捕手は、高木を挟殺しようと、サード・種田仁(元中日など)に送球したが、
ここから信じられないような連続ハプニングが起きる。 それは種田の二塁送球が、やや左にそれたことから始まった。
悪送球は右前に抜けたが、ライト・岩崎己がすぐさまバックアップに入り、通常なら、走者が二、三塁で止まるケースだった。
ところが、次の瞬間、ボールは芝生の切れ目でイレギュラーバウンドして跳ねると、岩崎の頭上を飛び越し、
右翼フェンス最深部まで転がっていった。 この間に高木が歓喜の表情で逆転サヨナラのホームを踏んだ。
あまりのショックに、ショートの元木をはじめ、上宮ナインはグラウンドにうずくまり、しばらく起き上がることができなかった。
「しめた!」と思った直後に待ち受けていた落とし穴。 幸運と不運は常に隣り合わせである。
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☆ 同上 ③
甲子園名物・浜風のいたずらが皮肉な結果をもたらしたのが、91年の広陵vs松商学園である。
5対5で迎えた9回裏、広陵は安打と四球で1死一、二塁、下松が右翼に大飛球を放った。
松商学園のライトは、7回途中に降板し、外野守備に不慣れなエース・上田佳範(元日本ハムなど)。
しかも、これが守備に就いて初めて飛んできた打球だった。前進守備を敷いていた上田は必死に背走したが、
追いつけそうにないと見るや、捕球をあきらめて、いったん足を止めた。
ところが、直後、打球は浜風にあおられ、右から左へと押し戻されてくるではないか。
そして、慌てて差し出すグラブのわずか左に落ち、サヨナラ打となった。「あきらめずに追っていれば……」。
上田が悔いを残したのは言うまでもない。
サヨナラの打球がライトに飛んだのは、広陵にとって幸運だったが、その一方で、松商学園にも一陣の風が
幸運をもたらすはずだった。 一瞬の判断が分けた明暗…。
「幸運の女神には前髪しかない」というレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を象徴するような幕切れだった。
最後の最後まで何が起きるかわからない決勝戦。今年もどんなドラマが見られるか、球児たちの熱い闘いに注目したい。
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☆ 「自分たちの野球」 「100か0か」 決勝 “東海大相模vs明豊” 両監督の思惑
東海大相模はエース左腕・石田隼都投手がここまで4試合に登板し26回を投げ無失点、43奪三振と絶好調。
他の投手陣も序盤で力を発揮しており、大会終盤で打線も復調し投打ともに充実した試合内容をみせている。
明豊は右の京本、左の太田、右サイドの財原と個性豊かな3投手の継投で4試合で1点差が3試合と接戦をモノにしてきた。
打線もチャンスをモノにする勝負強さがあり粘りの野球をみせたいところだ。
相手ではなく自分たちの野球ができるか。門馬監督は大会序盤から言い続けてきた言葉を決勝を前に改めて確認し
「間違いなく、決勝戦は自分たちの野球だと思う。相手を感じることよりも自分たちを感じて野球ができるか。
相手の情報は入れますが、まずは自分たちが地に足をつけて野球をやることだけしか考えていない」と言い切る。
「良さは伝統だと思う。縦じまのプライドに代表されるようにOB、先輩方が作り上げてきたことが脈々と繋がっている。
そして相模が好きであるということ。ここはどの学校にも負けないと思っている。縦じまの誇りを胸に思う存分戦ってほしい」
一方、チーム初の決勝戦に駒を進めた川崎監督は「少しでも怯むと力のある学校なので今の状況に満足すると
一気に前半からやられてしまう。優勝が100、負けは0ぐらいの覚悟でいかないと勝負にならない」と語る。
新チーム発足時には“史上最弱”だったナインは“史上最強”に向けチーム一丸となって頂点を狙う。
「色んな要素が絡まないと力だけでここまで来れない。運だったり勢いだったり周りの方々の応援だったり。
色んな要素が絡まないと簡単なことでない、だからこそ最後勝って終わりたい」
東海大相模は1番・門馬功から始まる強力打線で序盤から一気に勝負を決めたいところ。
明豊は防御率0.00を誇る難攻不落のエース左腕・石田をどうやって打ち崩すかがポイントになりそうだ。
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☆ 東海大相模・石田 15K完封 26イニング無失点 頂点へ 「勝たないと意味ない」
九回2死。最後の打者から15個目の三振を奪うと、石田は後ろを振り返って力強く左拳を握った。
今大会初先発で完封した準々決勝・福岡大大濠戦から中1日ながら直球、変化球ともにキレ味抜群。
「しっかり投げ切れた」とスコアボードに9つのゼロを並べた。
剛柔を巧みに使い分けた。序盤は右打者に直球で内角を突き、終盤にかけて外角のチェンジアップとの緩急でほんろう。
中学1年で最初に覚えた宝刀を“切り札”に残し、三振の山を築いた。
ここまで4試合で26イニングを投げて無失点で43奪三振。驚異的な数字でマウンドに君臨する。
細身ながら、下半身がたくましくなった。年末年始に栃木へ帰省すると、毎年恒例で祖母・文子さんらが餅をふるまってくれる。
寮にも余った分を持ち帰るようになった。 「食トレの意識もあって積極的に食べているんじゃないかな」
と母・友紀子さん(45)。家族の応援が力の源だ。
頂点まであと1勝と近づいてなお、エースは気を引き締める。「勝たないと意味がない」とキッパリ。
「1週間500球」の球数制限まで192球と余裕もある。 「しっかり投げられると思います」。
“ミスターゼロ”が2011年以来3度目の優勝へ導く。
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☆ 東海大相模が10年ぶり3度目の優勝 石田が今大会29回1/3を無失点で優勝投手に
第93回選抜高校野球大会 最終日 決勝 東海大相模3x―2明豊(1日)
東海大相模が明豊をサヨナラで下し、10年ぶり3度目の優勝を成し遂げた。
甲子園では春夏5度目のVとなり、横浜、東邦に並んで3位に浮上した。
決勝戦にふさわしい、両校の意地とプライドが激突する好勝負となった。明豊が初回2死三塁、黒木の左前適時打で
1点を先取すると、その裏には東海大相模が1死三塁から小島のスクイズで、すぐさま同点に追いついた。
4回には明豊が1死満塁から阿南の左犠飛で勝ち越し。
5回、東海大相模は2死二塁から求が左越えに同点二塁打を放ち、試合を振り出しに戻した。
試合が動いたのは9回裏だ。先頭の深谷が三塁へのセーフティーバントで出塁。犠打と申告敬遠、
四球で1死満塁とし、小島がサヨナラ打を放った。
エース石田は6回途中からリリーフ。 今大会29回1/3を無失点で投げ抜き、見事に優勝投手に輝いた。
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☆ 東海大相模・門馬監督&次男・功 センバツ初の父子鷹V、 門馬監督「粘り勝ち」
門馬敬治監督(51)は試合後「粘り勝ち」と話した。門馬監督と次男・功外野手はセンバツ初の“父子鷹V”を達成した。
これまで甲子園で父が監督、息子が選手のチームで優勝したのは1949年夏の湘南(佐々木久男監督・信也父子)と
2013年夏の前橋育英(荒井直樹監督、海斗父子)で、センバツ史上初の偉業となった。
東海大相模では、原貢監督と辰徳父子が春1度、夏3度の甲子園出場で最高成績は75年春の準優勝。
功は、決勝までの5試合すべてに1番・左翼でフル出場し、計21打数9安打、打率・429と活躍。
主将の大塚内野手が急性胃腸炎で戦列を離れた準々決勝の福岡大大濠戦以降、代理主将としてもチームをけん引した。
また、門馬監督は歴代4位タイの春夏通算4度目の優勝となり、史上17人目、歴代15位タイのの春夏通算30勝目となった。
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☆ 東海大相模・門馬 父子Vに「自分しか味わえないので素直にうれしい」
試合後、門馬は「今は本当にうれしい気持ち。それだけです」と言い、
父子での優勝は「自分しか味わえないので、素直にうれしい気持ちでいっぱいです。
父と握手はしました。普段は監督として、優勝して特別な感じはしました。試合の中では選手と監督。
終わってお父さんを日本一にしたんだなと」と話した。
そして、今大会を「途中から大塚がいなくなって。 いつもは主将がまとめてくれていた。
いない分、一人一人がカバーして、まとまりができた。瑠晏の分まで日本一取れたよと伝えたいですね。
試合前に“頼むよ”とあったので“必ず日本一獲る”とLINEで伝えました。
家族に自分だけの力ではない。お兄ちゃん、お母さん、お姉ちゃんにありがとうと言いたい」と振り返り、
「昨年は凄い選手が多くて、自分たちは石田を中心にして守りから。
自分たちのやり方でここまでやってこられたのは良かった」と話した。
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☆ 絶対忘れません… 被災地訪問望んだ門馬監督への感謝 ①
東海大相模のセンバツ優勝を喜ぶ監督が、宮城にいる。宮城農野球部の赤井澤(あかいざわ)監督だ。
赤井澤監督は、同校が東日本大震災で甚大な津波被害を受けた翌年の2012年8月、練習試合を通じて門馬監督と出会った。
その時の感謝を今も忘れずにいる。
「試合結果は1-21のボロ負けでした。でもあの日、門馬監督にしてもらったことは絶対に忘れません」。
震災10年。優勝した東海大相模の姿をテレビで見ながら、様々な思いがこみ上げている。
宮城には、JABA日本野球連盟が主催する「東北復興野球交流試合」という大会が8月にある。
被災地の野球復興を願い、社会人、大学、高校の県内外計90チーム以上が参加している交流試合だ。
東海大相模は2012年の第2回大会に参加。 2度目のセンバツ優勝を果たした翌年夏のことだ。
対戦した赤井澤監督は「大敗」から相模の強さを学んだと言う。
「相模さんは、ウチみたいなチームを相手にベストメンバーで戦ってくれたのですが、
選手たちは打っても怒られていたし、勝っても満足していなかった。 ベースを蹴る位置や、曲がり方。
ベースランニングひとつとっても、随所にこだわりが見えた。 意識の違いを感じました」。
当時の宮城農は仮設校舎での生活。津波でグラウンドも室内練習場も失った。空き地を手作りで改修して練習を行い、
翌年夏に県ベスト8入りを果たす。「あの時、相模は本気でぶつかってきてくれた。高いレベルの野球を見せてくれた。
そのことが選手たちの刺激になり、いい結果に繋げることができました」と感謝する。
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☆ 同上 ②
感謝したい思い出が、もうひとつある。 練習試合のあと門馬監督がとった行動だ。
「試合後すぐ神奈川に帰る予定だったはずですが、門馬監督が『宮城農の校舎をぜひ見せてください』と言ったのです。
ここから遠いですよ、帰りが遅くなりますよと言ったのですが『それでもいい』と。
そんなことを言ってくれたのは門馬監督が初めてでした。 うれしかった…」。
赤井澤監督は津波被害に遭った旧校舎とグラウンドを案内した。
門馬監督の両親が福島出身だという話を後から聞いたときは、急に親近感がわいたという。
2015年夏の甲子園優勝の時はメールのやり取りをした。 9年経った今も交流が続いている。
「震災から10年。節目の年に相模が優勝。なにか縁を感じます。優勝のお祝いに米を贈ろうかなと思っています。
生徒が栽培し、日本一おいしい米コンテストで日本一を獲った米を食べてもらいたいですね」。
門馬監督は優勝インタビューで「2年分の春、すべての高校野球がこの甲子園に戻ってきた」と言った。
震災、コロナ禍。 国難と言えるような大変な年に東海大相模は、強い。負けない。
ひたむきにプレーし優勝した選手たちの姿は、復興から立ち上がる宮城農だけでなく、多くの人に希望を与えたはずだ。
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☆ 中京大中京・畔柳 410球の意味問う 球数か日程か
大会序盤のワクワク感は日を追うごとにヒヤヒヤする思いに変わった。不安が的中した。3月31日の準決勝。
中京大中京のエース畔柳亨丞投手(3年)が次打者席にいない。 医者も小走りでベンチへと消えた。
この日は先発を回避し、4回途中から救援登板していた。だが、2回1/3で緊急降板。
畔柳が「肩を作っているときから肘が重くて力が入らなかった」。無理はない。1週間で1日おきに4試合目。
すでに初戦の25日から131球、110球、138球を重ねていた。
プロ野球を18年取材してきた感覚だが、そもそも1週間で4試合は多すぎる。
屈強なプロですら先発の中4日を極力避ける。 ましてや、成長途上の高校生だ。
あるプロ野球関係者は「1カ月で投げられるようになればいいけど…」と畔柳を心配していた。
継投を活用してきた東海大相模と明豊が決勝まで勝ち上がったのも、警鐘と受け止めたい。
今大会中、監督には球数に関する質問が殺到した。初めて「1週間500球以内」の球数制限を導入。
畔柳は残り121球を投げられるはずが31球で降板。基準は目安にすぎないだろう。監督は勝ちも選手の将来も背負う。
判断の是非を問い、責任を押しつけるのは酷だ。 球数よりも、過密日程解消の思いを強くする。
大会の運営経費や甲子園本拠の阪神の公式戦日程など、懸案は承知の上だが準決勝、決勝を毎週末に行うなど、
ゆとりのある日程が実現しないものか。 大会終盤の大一番こそ、快速球のワクワク感を味わいたい。
大会本部は「『日程により不公平感が生じる』といった指摘があることは承知している」とも説明。
「エース」を死語としないためにも畔柳が投げた410球の意味を問いたい。
お気持ちはわかるが、無理な提案だね。 飛ばない金属バットか、木製バットを早く導入すべし。
そうすれば昔のようにMax120キロの投手でも十分に活躍の場がある。
今大会には多々あった交代のタイミングを考えながら試合を見るのも面白い。
打者のレベルや分析力が上がっている現代では、1人の投手に最初から最後まで頼り切っての優勝は難しいとは思うが、
木製バットなら、奇跡の優勝投手が現れるかもしれない。
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☆ センバツ「投高打低」くっきり 好投手多く、実力発揮 大会総括
金属バットが導入された第47回大会(1975年)以降で最も遅い開幕13試合目で本塁打が飛び出し、
第75回大会(2003年)以来18年ぶりの1桁となる9本塁打だった。
打率も前回開催の2年前より1分8厘落ち、2割3分9厘と6大会ぶりの2割3分台となり、「投高打低」が浮き彫りになった。
要因の一つに好投手が多かったことが挙げられる。東海大相模の石田、天理の達、中京大中京の畔柳、市和歌山の小園らは
注目通りの力を発揮した。
準優勝の明豊は左腕・太田に加え、京本、財原の両右腕で3本柱を形成。トーナメントを勝ち上がるには改めて複数投手の必要性を
感じさせると同時に、準々決勝で左翼手・阿南が見せた好捕など全5試合無失策の堅守も躍進を支えた。
スケジュールを立てやすくするため組み合わせ抽選会を前倒しして2月に実施。試合日まで期間が空き、相手チームの戦力などを
十分に把握できたことで1回戦を中心に接戦が相次いだ。 常総学院―敦賀気比戦では大会初のタイブレークが実施されるなど
延長試合は大会最多に並ぶ7試合を数え、サヨナラは6試合、1点差も13試合に及んだ。
昨春に1週間500球以内の投球数制限が導入されて初めての大会だったが、達と畔柳は準々決勝までをほぼ一人で投げ抜いた。
準決勝では2人とも先発を回避。 達は左脇腹に違和感があり、救援した畔柳も右腕に力が入らなくなり降板した。
投球数制限以内でも投手の障害予防に関して検討していく重要性を実感した。
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☆ 稲盛和夫、王貞治、佐藤可士和ら 365人の名言が1日1話学べる一冊
稲盛和夫さん、王貞治さん、羽生善治さん……。
経営者やスポーツ選手など、各界の偉人たちの“熱い”話を、1日ひとり分読むというコンセプトの本書。
「なぜひとりずつ?」と思ったのですが、試しに毎晩読んでみると不思議なことに、その日抱いたモヤモヤや負の感情が
驚くほどスッとなくなっていきました。
偉業を成し遂げた方々の経験や知見が、私の小さな悩みなど吹き飛ばし、姿勢を正してくれるのです。
「修練と勇気、あとはゴミ」(黒柳徹子)、「世の中を幸せにしようという正しい目的があって、わくわく、楽しく、
一所懸命やってれば奇跡は起こる」(実業家・竹田和平)、
「運というのは、運をつかむために自らをコントロールしている人のもとにしか来ない」(花巻東野球部監督・佐々木洋)など、
心を奮い立たせる言葉がたくさん詰まっていて、まるで宝箱のよう。
同じ経営者の言葉は私の背中を押してくれるし、まったく違う分野の方は新しい視点や考え方を与えてくれます。
一気に読んで満足してしまうより、毎日少しずつ、じわじわと自分の内面をケアしてくれる、
日めくりカレンダーのように読んでいきたい1冊です。
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☆ 昭和39年 巨人納会 正座の王と恋バナの長嶋 【越智正典 ネット裏】
昭和39年の巨人の納会は凄かった。
王貞治は、このとき入団6年目で本塁打王3度、打点王2度。 特にこの39年は猛打。
東京五輪で開幕がはやかった3月20日、後楽園球場での国鉄1回戦で、金田正一から右翼場外弾。
5月3日の後楽園球場での阪神戦では4打席連続4本塁打。投手を注ぎ込む阪神の投手コーチ・杉下茂も立派だった。
送り出す投手に「逃げるな。勝負せい!」。
王はこの年、55本塁打をかっとばしている。私はこの納会で王が正座をした姿をいまも折々に思い出している。
11月26日、熱海静観荘。 この年、巨人は勝てなかった。阪神が優勝していたが、翌日はゴルフコンペが組まれていた。
この日、空はいまにも泣き出しそうで、珍しく、海も荒れ熱海海岸には白い波が砕け散っていた。
開宴前、川上哲治監督が宴会場の大広間にやって来た。席次を点検した。47年の納会で、目の負傷から再起し、登板33試合、
13勝2敗の菅原勝矢の席が下座なのを見付けると上座にと、仲居さんに言って変更した川上だが、
この日、王の席が下座寄りの中ほどであったのに川上はこれでよし!と変えなかった。
挨拶、乾杯、開宴。ほどなく下座のステージでバンド演奏が始まった。カーテンが開いて東海林太郎さんがマイクに向かった。
司会者は東海林太郎さんですと紹介しなかった。
この名歌手を言葉で飾って紹介するのはかえって失礼になると思ったようだ。 いい司会だった。
王貞治が正座をしたのはそのときである。名人への畏敬である。東海林太郎さんが直立不動の姿勢で「麦と兵隊」を歌い出した。
<徐州徐州と人馬は進む> <戦友よ来て見よ、あの雲を> 歌い終わると王は畳に手をついてステージに向かって一礼した。
王貞治24歳。 王は翌朝はやく、予約していた稲取の宿に向かった。 稲取ではバットを振らなかった。海釣り。
一念不動の境を求めているようだった。
長嶋茂雄もコンペに参加しなかった。 ペナントレースがはやく終わった秋、報知新聞の五輪臨時記者になったときに、
コンパニオンの西村亜希子さんとめぐり合って婚約していた。
27日朝、記者たちに「結婚してからゆっくり亜希子に恋をするよ」と言い残して、立教の友だちが用意してくれた
いすゞ自動車の箱根山荘に向かって行った。 箱根では、朝は目の前の金時山に駆けのぼり、夕方は仙石原を走った。
夜は暖炉に薪をくべ「星の王子さま」を読んでいた。 深夜、長嶋はバットを握りしめて屋外に出る。
が、スイングはしなかった。 満天に星。 バットの構えだけを繰り返し、たしかめていた。
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☆ 466の本
『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』 藤尾秀昭 監修 致知出版社 ¥2350
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☆ 水本ヘッド 勝利&育成求め 「積み重ね」の若手指導
じっと戦況を見つめ、ときにほほ笑む。 オリックス水本勝己ヘッドコーチ(52)は、若手の成長ぶりに目を細める。
広島で2軍監督などを歴任し昨オフにオリックスに加入。 同学年の中嶋監督を支えるポジションを任されている。
「第一印象はおとなしいチーム。 でも、キャンプに比べたら、ちょっとずつ変わろうとする姿が見えてきた。
去年の雰囲気はわからないけど、キャンプの序盤から比べるとね」とほおを上げる。
「強いチームになるには選手たちが自主的に考えて動かないといけない。その方向に持っていくのが、スタッフの仕事だから」。
選手に寄り添う指導をモットーにしている。
今季の開幕スタメンに高卒2年目の紅林、高卒3年目の太田が名を連ねるなど、若い選手が目立つ。
「素材は間違いない。 良い意味で『我』を通してほしい」と将来を見据え、期待を込める。
水本ヘッドが「ベニ! 」と愛称で呼ぶ紅林は、宮崎キャンプで猛アピールした。
ただ、オープン戦は16試合で打率1割7分6厘と調子を落とした。 「どんな選手でも絶対に『壁』を経験している。
ゲームで感じたことをどうするか。 この世界、練習した選手が勝つ」。
指導する選手の多くは20代前半。「時間がかかる。雰囲気を変えようとするのは浸透してきてる。それを手伝うだけ。
特効薬はない。 積み重ねるだけですよ」。 試合前練習では外野でキャッチボールやダッシュを行う投手陣、
内野でノックを受ける野手らに声をかけるシーンが目立つ。 「勝利&育成」を求めた、明るい声が今日も球場に響く。
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☆ 人の心をつくるスカウトの道 【越智正典 ネット裏】
2020年、日本一になったソフトバンクの球団会長王貞治が全幅の信頼を寄せている元二軍監督、小川一夫
(戸畑商業、内野手、1972年ドラフト5位で73年に南海に入団)の歩みはスカウトが担務で始まった。
小川一夫はいまも折々に恩師、故石川正二の娘さんの家を訪ねている。 手を合わせて感謝している。
石川正二は八幡製鉄と門司鉄道局の対抗試合、あのはなやかだった「製門戦」の門鉄の監督。
門鉄に採用した全国的にまったく無名の唐津中学の木塚忠助を鍛え、育てて、昭和23年南海へ送り出した。
木塚は7000円の契約金を貰うと駅前の闇市へ行って6000円で進駐軍のお古のグラブを買い、
自分に合うよう直して大阪へ発った。
「飛燕三尺、拝み取り、木塚忠助、サーカスプレー」
NHK名アナウンサー、志村正順が盗塁王4回の名ショートを活写する。ファンは沸いた。
石川正二が木塚を南海へ送り出したのは、南海の監督鶴岡一人と気が合ったからである。
鶴岡は九州の若者たちでチームを固めたかった。「尚武の気象」に惚れていた。
石川正二は男と男の絆から南海の「九州探題」になる。
富士高校、本州製紙、日本軽金属の投手、巨人時代にノーヒットノーランをやってのけた渡辺秀武は
広島で現役を終えカープのスカウトになると、石川正二に驚嘆した。
「石川さんは凄いや。いつも夏の大会でも甲子園球場に一番乗り。 抜きたいと思って朝6時に行ったら
もう開門を待っている列に並んでいた。 石川さんは甲子園球場の前で野宿しているのかなあ」
08年暮れ、品川駅前のホテルで東洋大学の優勝祝賀会があった。 小川一夫も招かれた。
07年春秋、08年春、東都の最高殊勲選手、07年日米大学野球選手権の殊勲投手大場翔太を指名している。
小川は来賓控室には入らなかった。 会場のずうーと奥の廊下の隅で1時間、じいーと開会を待っていた。
美しかった。謙虚である。
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☆ 王貞治は言う。「一晩寝たらガラッと分からなくなるほど、バッティングは微妙でもろいもの」だと (週刊べースボール)
『1972年9月25日号』。定価は100円。
王貞治が長いスランプになったのは前年1971年夏ごろからだった。 同年8年続いた打率3割が途切れ、.276に終わった。
本塁打王、打点王に輝くも30歳を越えたこともあり、年齢的限界、一本足打法はやめたほうがいい、などの声があった。
この72年もなかなか状態が上がらなかったが、8月中旬以降、成績が急上昇。再び3割、40本の“ノルマ”に向け、走り出した。
復調のきっかけの一つは寝坊だ。朝9時に起きていたのを11時にした。
「早く起きすぎるとろくなことがないんです。いろいろ雑用をやっちゃうし、考える時間というのが多すぎる。
野球選手というのは、もっと自由奔放さがあったほうがいいと思うんです。
理屈を考えだしたら、それはプレーヤーとして悲劇の始まりですね」
技術的に心掛けているのは「U字打法」という。「やってみた感じはバットを放り出す感じ、と言ったら分かりやすいかな。
要するにバットがボールをインパクトしてから、もう一つボールを押し出す、それから回る」とのことだ。
加えて強調したのは練習量。「長い、苦しいスランプだったけど、結局、その壁を破るきっかけとなったのは練習量でした。
僕が特訓をやったころ、世間では日本式の練習至上主義を笑い、休養が一番だと勧める声もあった。
確かにそれは理想に違いないけど、現場で苦しんでいるものの気持ちを考えていない。
スランプで落ち込んだ人間は弱いものですよ。何としても自分で納得いく結果を出すため、練習で何かつかもうとするしかない。
僕はそれがよかったと思う。 やれるだけやったことが僕には幸せだったと思う」
さらに現時点でスランプに苦しむ、先輩・長嶋茂雄に対しはこう語る。
「一言でいえば、自信をなくしています。 去年の僕もあんなふうに落ち込んだから、その気持ちがよく分かるんです。
あれだけの人でもバッティングが分からなくなるときがあるんですよ。
一晩寝たらガラッと分からなくなるほどバッティングは微妙でもろいものです。どんなに周りでガタガタ言ったって、
結局、頼りになるのは自分だけです。ミスターもきっと自分で切り開いて、自分で解決してみせると思っているでしょう」
少し先走るが、王はこの時期を境に円熟期に入っていく。
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☆ 不世出の天才投手は、なぜ野球を憎んだのか 太田俊明著 『沢村栄治 裏切られたエース』
その年の日本プロ野球で最も活躍した先発完投型投手に贈られる「沢村賞」。
同賞の由来となり、今も日本野球史に燦然と輝く沢村栄治だが、実は、彼の職業野球での全盛期は2年弱に過ぎない。
三度も徴兵された末に、1944年12月2日、27歳で東シナ海の藻屑と消えた伝説の投手の軌跡を、
自身も六大学野球で活躍した著者が丹念に描いた。
本書の帯紙に思わず目が留まった。
左足をピンと伸ばし、颯爽と振りかぶる沢村の隣に、センセーショナルなキャッチコピーが浮かぶ。
なぜ、ベーブ・ルースを三振に沈めた天才投手は、「私は野球を憎んでいます」と書き遺したのか?
その言葉は、1937年シーズンの開幕を翌日に控えた夜、栄治が父・賢二に宛てた手紙の中に記されていた。
34年の日米野球では17歳で全日本入りし、ベーブ・ルースから三振を奪うなど大リーグ選抜相手に1失点完投。
巨人軍でも3度のノーヒット・ノーランを達成し、後に「球聖」とまで謳われる沢村。
その沢村が、一体どんな経緯で野球に憎悪を抱くに至ったのか。その理由を知ろうと著者は膨大な資料に当たり、関係者を訪ねる。
六大学野球が全盛の時代にあって、職業野球(プロ野球)は誕生当初、世間の蔑視にさらされていた。
栄治も慶応大学への進学を熱望し、入学の内諾も得ていた。ところが、栄治を筆頭に7人の子どもを抱える沢村家の家計は苦しく、
栄治は中学(京都商業)を中退して職業野球に身を投じざるを得なかった。
先発、そして抑えと馬車馬のように投げまくり、給料の大半を家族に仕送りして弟たちの進学の面倒を見続けた。
ところが、いくら稼いでも親族らが無軌道に膨らませる借金に拘束され、学業に戻る夢はかなわない。
そして二度にわたる出征。戦場での手榴弾投げで肩を壊した沢村を待っていたのは、巨人軍からの非情なる解雇通告だった。
三度目の入営の日、見送りにやって来た父親に、栄治は何かに憑かれたように話し続けたという。
「お父さん、やっぱり俺は道をまちがっていたんだ。 職業野球の世界は、俺にとっては過酷でありすぎた。
一介のサラリーマンでもいい。 もっと堅実な方向へ進むべきだった」。
日本プロ野球史上最高の捕手と称される故・野村克也は、自著『私のプロ野球80年史』の冒頭で、
「沢村栄治なかりせば、私もいない」と記した。
今日の日本プロ野球の繁栄は、沢村をはじめ太平洋戦争で散った選手たちの犠牲の上に成り立っているのだ。
球春たけなわの季節、沢村ら先人たちの努力と奮闘に思いを馳せながら、プロ野球を楽しみたい。
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☆ 大型ルーキーぞろいの1959年組。 それはプロ野球史の転換期でもあった 【張本勲の喝!!】 ①
私は「1959年組」。もう60年以上も前のことだが、この年のルーキーたちは自分で言うのも何だが実力派ぞろいだった。
今回は彼らの話をしよう。
1959年は昭和34年。大阪の浪商高から東映に入団した私は六番・レフトで開幕スタメンを勝ち取り、
この年、打率.275の13本塁打に57打点でパ・リーグの新人王に輝いた。
セ・リーグの新人王になったのが、中大から大洋に入った桑田武さんだった。 今の時代では考えられないが、
桑田さんは1年目にして開幕四番に座ると31本塁打を放って本塁打王に輝いた。
その年のオフには両リーグ新人王対談といった企画で、私も川崎市にある桑田さんのご自宅に足を運んだことがある。
大きな体で気持ちの優しい人だった。 いつだったか、オールスターゲームで長嶋茂雄さんをショートに追いやって
サードを守ったときには驚いたが、それほどの実力者だったということだ。
2年目には3割をクリアしてチームの初優勝にも大きく貢献。 昔の大洋ファンにとっては忘れられない選手だろう。
同じセで、桑田さんに負けず劣らずの活躍をしたルーキーが村山実さんだ。
関大から阪神に入り、1年目から54試合に登板して18勝をマーク。桑田さんが本塁打王なら、村山さんは沢村賞に最優秀防御率だ。
295回1/3を投げて1.19、奪三振は294。桑田さんとセの新人王を激しく争ったのも当然の成績だった。
「ザトペック投法」で知られ、長嶋さんとの対決は多くのプロ野球ファンを魅了した。
桑田さんは大洋を出て巨人、ヤクルトに移籍したが、村山さんは生涯阪神を貫き、監督も経験している。
この年、セにはまだすごいルーキーがいた。 中日の江藤慎一さんだ。
江藤さんは強肩強打の捕手として熊本の日鉄二瀬という社会人野球からプロの世界に飛び込み、1年目から打率.281、15本塁打、
84打点の好成績を残した。本塁打数は桑田さんに及ばないものの、打率は上回り、打点は同じ。
同期の打者として桑田さんへのライバル意識は相当なものだったに違いない。
それにしてもプロで何年も飯を食べているベテラン選手たちに交じり、1年目からこれほどの成績を残せたのはなぜだろう。
力があったのはもちろんだが、私は生活がかかっていたからだと思う。
今のような裕福な時代ではない。 成績を挙げて少しでも稼ぎたいし、挙げないと稼げなかったからだと考える。
プロで活躍し、名を残し、大金を手にすることを選手の誰もが夢見ていた時代でもあった。今の選手にそれがないとは言わないが、
一軍に上がれなくても、故障でシーズンを棒に振っても、ある程度の収入は保証される。そこが大きな違いだと思う。
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☆ 同上 ②
1959年組で忘れてならない選手と言えば、早実から巨人に入った王貞治だ。
王は甲子園の選抜優勝投手だったが、球団からは投手よりも打者としての力を買われての入団だった。
やがて私と巨人の三、四番を組むことになるとは、このとき誰も想像できなかったと思うが、同じ高卒ルーキーの左打者でもあり、
その後の活躍を含め、私が1959年組の中で最も意識し、影響を受けた選手だったと言える。
高卒の同期と言えば、江藤さんと同じ中日に入団した板東英二もそうだった。板東もまた徳島商のエースとして甲子園に出場した。
小さな体ではあったがバネがあり、いい投手だった。引退後は芸能界で大成功したが、確かに当時から口が達者だったことを覚えている。
のちについたあだ名が「十姉妹(ジュウシマツ)」。背番号が14だったときもあったからぴったりだったし、どこか憎めない同期だった。
中日で言えば河村保彦も同じ年の同期だった。
書いていて気づいたが、セばかりだ。パの1959年組となれば、のちに阪急のエースとなった下手投げの足立光宏や
3年目の62年に最多勝、63年に最優秀防御率のタイトルを獲得した近鉄の久保征弘がいる。足立も久保も私と同じ1940年生まれだ。
思えば、この時期は選手の新旧交代の時期、プロ野球史の転換期だったかもしれない。
前年の58年には立大から長嶋さんが巨人に、杉浦忠さんが南海に入団。長嶋さんは本塁打王に打点王の2冠、
杉浦さんは新人ながら開幕投手を務めて27勝をマークし、ともに新人王のタイトルを獲得している。
早大からは森徹さんが中日に入って開幕四番に座り、のちに天秤棒打法で知られる明大の近藤和彦さんは大洋に入団した。
2年続きでルーキー豊作の一方で、58年には川上哲治さん、藤村富美男さん、西沢道夫さん、59年には青田昇さん、
大下弘さんといった、これまでプロ野球界を支えてきたスタープレーヤーが次々とユニフォームを脱いでいった。
新旧交代は世の常だが、この2年でプロ野球を代表する選手の顔ぶれが変わったのは否めないだろう。
当時はそんなことなど思いもせず、自分のことで精いっぱいだったが、私もその転換期の中にいたのかもしれない。
そんなことを思い出しながら、今年のルーキーたちを見ている。
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☆ 【内田雅也の追球】 雨を「言い訳」にしなかった阪神・西勇輝 甲子園のマウンドはべとつく米国産黒土
阪神6ー2巨人(7回降雨コールド)(2021年4月6日 甲子園)
甲子園球場の黒土は岡山県日本原、大分県豊後大野市三重町などの土を混ぜている。
ただし、マウンドに限り、一昨年から米国産の黒土を入れている。 輸入している商品名は「ブラックスティック」。
多くの大リーグ球場で使用されている。
投手の間で大リーグのように硬いマウンドへの要望が高まり、導入した。 投球時も土がほとんど掘れず、
下半身から指先へ力が伝わりやすい。 いわゆる地面反力を利用しやすい利点がある。
2019年2月のキャンプ地、沖縄・宜野座で見せてもらい、足で踏ませてもらい、さわらせてもらった。
ブルペンのマウンドはカチカチで、さわれば粘りけがあった。
投手たちには好評なのだが、阪神園芸・金沢健児によると「散水や雨天の時、水にぬれるとべちゃべちゃする」。
粘土質のため、べとつくのだ。大リーグでは、このブラックスティックに加え「コンディショナー」と呼ばれる粒状の赤土を
かぶせて整える。 甲子園では黒い島根県産の商品名「ヒートサンド」をまぶしている。
今季初の公式戦は雨の中行われた。試合前、午後5時ごろから降り始め、6時のプレーボールからは結構激しく降った。
マウンドは相当べとついた。 投手にはやっかいで、ボールはすべり、足もとが緩んだ。
阪神が巨人先発アンヘル・サンチェスをKOした打撃は見事だったが、多分に相手投手自滅の側面があった。
3回裏。雨にぬれ、サンチェスの集中力は切れていた。 死球と3長短打で降板に追い込んだ。
この点、阪神先発の西勇輝は集中力を切らさなかった。 ボール交換で新球をもらうと、両手でよくボールをこねた。
ステップする左足の勢いや幅を調節していたのではないだろうか。 技巧にたけた西ならば、地面反力が弱くなろうとも、
制球と配球で整えられるわけだ。 監督・矢野が感心した「引き出し」の一つである。
試合成立まで「あと1死」の5回表2死一塁、西は自らタイムをかけ、マウンドに砂を入れた。 決して焦らなかった。
明治期、国内最強を誇った旧制一高の投手、守山恒太郎(野球殿堂入り)は「ノー・コンディション」が口癖だったと
同僚の君島一郎が『日本野球創世記』(ベースボール・マガジン社)に記している。
コンディションがこうだ、ああだというような自己弁護を許さぬ、つまり「言い訳無用」の意味ととる。
こうした姿勢は近年、日本人大リーガーの野茂英雄、松井秀喜、上原浩治…らからよく耳にした。
つまり天候など自分でコントロールできないことは気にしないという強い姿勢である。
メンタルトレーナー、白石豊は著書『心を鍛える言葉』(日本放送出版協会)に記している。
物事には自分でコントロールできることと、できないことがあります。たとえば、天気、気温、観衆、審判、交通機関の乱れ
といったことは、自分でコントロールできません。 しかし、それに対する自分の反応はコントロールできるはずです。
自らに厳しい、西の心が垣間見える。 7回裏終了後、審判が降雨コールドを宣した時、まだ集中力を切らさずにいた。
本当に試合終了で勝ったとわかると、驚いたように喜んだ。 笑顔が雨に光っていた。
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☆ 「TVで見ていた人の隣で…」 大野雄大をガン見する福島章太 【中日・小林広報の必撮ワンポイント】
先日のナゴヤ球場の練習。ドラフト4位の福島投手がキャッチボール中の大野雄大投手をチラチラ横目で見ていました。
福島投手に聞いてみると「チラチラどころじゃなくてずっと見ています。
テレビで見ていた人の隣でキャッチボールをして不思議な感じです。 慣れないですね」と明かしてくれました。
初々しくて良いですね。 いつか1軍で競演するときが来るのを楽しみにしたいと思います。
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☆ 法大・三浦銀二が「ノーヒット・ワンラン」 東京6大学62年ぶりの珍記録
東京6大学野球:法大2-1慶大 (10日、神宮)
ドラフト候補の三浦銀二投手(4年=福岡大大濠)が東京6大学では62年ぶり3度目という珍しい「ノーヒット・ワンラン」を達成した。
慶大相手に7回まで無安打無失点。7回裏に味方が2点を勝ち越し。
8回表に先頭打者を四球で出塁させるとその後1死三塁から内野ゴロの間に1点を失った。
9回も2四球を与え同点のピンチとなったが無安打に抑え1失点完投勝利を挙げた。
東京6大学では過去無安打無得点は24人(25度)が達成しているが、「ノーヒットワンラン」は河合貞雄(慶大=53年秋)と
石川洋三(立大=59年秋)の2人しかいない。
プロ野球でもノーヒットに抑えながら得点を許したのは、継投を含め4度しかない珍記録。
39年5月6日阪急戦の宮口美吉―平野正太郎(南海)、同年8月3日金鯱戦の亀田忠(イーグルス)、
59年5月21日巨人戦の村山実(神)、64年5月13日南海戦の牧野伸―山本重政(近鉄)が記録。
うち、39年の南海だけが敗れ、対する阪急は史上唯一の無安打勝利(スコア2―1)となっている。
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☆ 星野仙一がマウンドで明かした一夜… 御大・島岡吉郎の人間力に学んだ男たち 【越智正典 ネット裏】
選手獲得自由競争時代、巨人の沢田幸夫はスカウト仲間から「台風の沢ちゃん」と呼ばれていた。
こういう日こそチャンスだと強風豪雨の最中に目指す選手の家を訪れるからである。
沢田幸夫は明治高校、明治大学、監督“御大”島岡吉郎に見込まれてマネジャー。 島岡の躾、教育は厳しい。
しかし、それは選手への愛切そのものであった。 昭和44年卒業の故星野仙一はいつも回想していた。
「大事な早明戦に負けて合宿に戻ったその晩、殴られるかな…と思っていたら、パンツ一枚で、
となりのグラウンドのマウンドで正座でした。 雨が降り出しました。 雨がやみ、空が少し明るくなったとき、
ひょいとベンチ前を見ると、御大が正座していました。 東京に出て来て初めて泣きました。
御大がいっしょに夜明かしをしてくれたんです」。
星野は岡山県水島、三菱重工の技師長だった父親正田仙蔵さんの顔を知らない(星野は母方の姓)。
おかあさんのおなかのなかで7か月のときに亡くなった。 島岡の正座は星野が初めて知る父親の味であった。
千葉敬愛高の捕手、昭和34年入学の村山忠三郎は「暮れに正月休みでみんなが田舎に帰るときの御大の訓示が忘れられません。
500円でいい。100円でもいい。おふくろに土産を買っていけ。なんでもいい。おやじさんはフスマのかげで泣いとるぞ」。
村山は卒業後、マツダの自動車の販売会社に就職。連続同社販売台数ナンバーワンになる。村山は島岡に「人間力」を学んだ。
沢田は昭和30年卒業後、マネジャーで大洋ホエールズに入団。 36年巨人に迎えられてスカウトに。
この時点で巨人には正式なスカウトは沢村栄治のキャッチャー内堀保しかいなかった。 いや、もうひとりいた。
35年秋巨人監督に就任した川上哲治が兼ヘッドスカウトになっていた。川上はここからチームづくりを始めようとしていた。
沢田は目指す選手の家を訪れたとき、料亭から取り寄せたようなご馳走が出ると、帰り道に反省していた。
「ダメだ。まだ努力が足りない」が、味噌汁とその家の漬物のごはんが出ると喜んだ。
「家族同様にしてくれた。心を開いてくれたんだ」 「台風の沢ちゃん」は「ツケモノの沢ちゃん」になる。
沢田は法政二高の柴田勲を取る。 勝負の相手は鶴岡一人南海ホークス監督だった。
四日市商業高、中日、高橋、近鉄、35年に南海に移籍の投手、伊藤四郎が驚嘆する。
「南海に来て親分(鶴岡)に頭が下がりました。 遠征に出ても、朝はやく起きて選手を探しに行くんです」
沢田は横浜の名園三渓園で毎日、何時間も鶴岡が柴田家を辞去するのを待っていた。
40年、沢田は第一回のドラフトで甲府商業の投手堀内恒夫を指名する。堀内にまっしぐらであった。
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☆ 「山田久志」の人生を変えた「王貞治の一打」 「打たれた瞬間、腰が抜けた」 (小林信也) ①
王貞治に初めて会った時、私は訊ねた。
「オールスターと日本シリーズを合わせて910本のホームランを打った中で最も印象深い一本は?」
二十数年前、NHKの「スポーツ100万倍」という番組の収録前。
プロデューサーが、「一本なんて、無理ですよねえ」、助け舟を出した。 しかし、王はその声を制してすぐ言った。
「ありますよ」 あの一本に違いない、私は悪い予感に胸をえぐられた。 王の言葉は続いた。
「昭和46年の日本シリーズ第3戦、阪急の山田投手から打った逆転サヨナラ3ランホームランです」
長嶋ファンにとってずっと心に刺さっていたあの一撃の意味を、王自身も認識していた…。
NからOへ、主役交代を意味する象徴的な出来事だった。
そして令和2年12月、私は山田久志に訊ねた。 「野球人生で大きな転機を挙げるとすれば?」
山田も即座に答えた。「昭和46年の日本シリーズ第3戦、王さんに打たれたホームランです。
腰が抜けるってああいうんでしょうね。 打たれた後、ヒザに全然力が入らない。 立とうにも立てなかった」
マウンドにうずくまったまま、王が本塁で揉みくちゃにされる光景をぼんやりと覚えている。
「どうやってベンチに帰ったのか覚えていません。後で映像を見ると西本監督が迎えに来てくれている。まったく記憶がない」
阪急ナインはみな茫然としていた。 一人だけセンターの福本豊がマウンドに駆け寄り、山田に声をかけた。
「ヤマ、帰ろ」。 福本もそれしか言えなかった。
長嶋ファンにとっては、2死一塁からチャンスをつないだ長嶋の中前打が“嫌な予感”の前触れだった。
「長嶋打った、ショート……、あ、いや、抜けました、センター前ヒットです!」
ラジオの実況はそんなふうだった。 最初は凡打を思わせ、突然、明るく転じた。
「望みをつないだ長嶋に拳を握りしめる一方で、長嶋ファンは4番王が主役になるだろう未来を予感し、複雑な冷気におののいた…。
「長嶋さんのあのセンター前ヒットも、多くの人の人生を変えた一打でした」 山田が感慨深げに言った。
「抜けるような当たりじゃなかった。 普通ならショートゴロです。 阪本さんがゴロをさばいて、そのまま二塁を踏めば終わる、
打ち取った瞬間、マウンドで私はそう思いました」。
ところが名手・阪本敏三が、いるはずの位置にいなかった。捕手・岡村のカーブのサインを見て三遊間寄りに重心を傾けたのだ。
カーブなら強振した長嶋の打球が三遊間に来るはず。ところが、天才・長嶋は泳がされながら山田のカーブを素直に弾き返した
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☆ 同上 ②
そして王の一打が生まれる。 「阪本さんはあれでトレードに出されました。 岡村さんも一緒にです」
山田もまた昇りかけた日本一への階段から転落した。
「あの試合に勝ったら翌日も先発の予定でした。第2戦に勝った後、西本監督から言われていたのです。
あとは全部お前で行くぞと」
一戦必勝の短期決戦、“巨人は山田を打てない”とわかれば、徹底して山田で行く、そういう時代だった。
王に打たれて山田は「変わった」と言う。
「野球に対する姿勢があの一本でね。 その後はとにかく練習をやった、走ったし、鍛えたし」
それまで32勝だった山田が、それから17年間で252もの白星を重ねた。
高校野球の投手だった私は、山田久志に特別な思い入れがある。高1の夏、アンダースローに転向した。
「週刊ベースボール」に載っていた山田と足立光宏の連続写真を切りぬいて、
それを手本にシャドーピッチングを繰り返した。
足立はすぐ沈み込むオーソドックスなアンダーハンド。
高く足を上げ、一度伸びあがってから沈む山田のフォームは画期的だった。
リズミカルで力感があり、真似をすると格段の爽快感があった。
だが、いくら真似をしても、山田のような跳ね上がるスピードボールは投げられなかった。
高校生には見抜けない大切な核心があった。
山田は腕こそ下から出していたが、「手首は立てていた」というのだ。それは、想像もできなかった。
「入団した阪急に足立さんがいたことが大きかった」 山田がしみじみと言う。
「1年目はうまくいかなくて0勝。 2年目も10勝したけど17敗、散々だった。
西本監督が“ヤマ、お前ずっと足立を見ておけよ。 そうすれば間違いない”って。
自主トレーニングにも何年か一緒について行きました。 練習から食事まで全部教わった。
でも、シンカーだけは教えてもらえなかった。 自分で開発してこそ本物になると言われてね」
数年後、試行錯誤の末に落差の大きい“山田シンカー”を生み出した。
「下からフォークボールを投げられないか、ずいぶん練習したのですが、どこに行くかわからない。
それで指の間隔をフォークより少し狭くしたらストーンと落ちた。
私のシンカーは、本当は“スプリット”なんです」。
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☆ 広島・野村が四回途中5失点でKO 連続先発登板“日本新” 勝利で飾れず
広島-巨人、3回戦、11日、広島・野村祐輔投手(31)が今季3度目の先発マウンドに上がった。
デビューから通算188試合の先発となり、1998年から2004年まで広島とロッテに在籍し、
通算74勝を挙げたネイサン・ミンチーの187試合を抜き、プロ野球新記録を樹立した。
3回1/3を8安打5失点。3四死球と自慢の制球力も影を潜め、節目の登板を白星で飾ることは出できなかった。
母方の実家のある福岡県北九州市で出生。 倉敷市立連島南小学校1年生の時に軟式野球を始め、6年生の時に県大会準優勝。
倉敷市立連島南中学校時代は地元の硬式少年野球チーム・倉敷ビガーズに入り、主に2番手投手として活躍。西日本大会で優勝する。
広陵から明治大学。 2011年、広島ドラフト1位。 通算77勝55敗(2020年まで)。
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☆ 祝 競泳五輪リレー代表に増田葵 倉敷出身、岡山勢女子57年ぶりの代表入り
日本水泳連盟は11日、競泳の東京五輪代表で未定だった女子800メートルリレーのメンバーを発表し、
倉敷市出身の増田葵(24)=菅公学生服=が初選出された。
競泳の岡山勢女子では1964年東京五輪に出場した木原光知子以来57年ぶりの代表入り。
増田は代表選考会、日本選手権の200メートル自由形で自己ベストの1分58秒86を出して3位に入った。
上位4人の合計タイムがリレーの派遣標準記録に届かないなど即時の代表決定には至らなかったが、
選考委員会の協議によって同選手権の4位までの選出が決まった。
倉敷工高、近大を経て社会人3年目の増田は、高校時代からインターハイ、国体などで表彰台に立ち、
岡山女子のエースとして活躍してきた。(増田さんは倉工ファッション技術科を平成27年3月に卒業)
岡山勢では男子400メートル個人メドレーで岡山市出身の井狩裕貴(イトマン近大)も代表を決めている。
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☆ 明徳義塾・馬淵史郎監督も喜びのコメント! 松山英樹(同校OB) マスターズ日本人初制覇!
日本時間4月12日(月)早朝から最終日が行われていたゴルフメジャー大会の1つ・マスターズで松山 英樹が
通算10アンダーで日本人初優勝の快挙を達成。
彼の出身校・明徳義塾のスポーツ局局長を務める野球部・馬淵監督も独占電話取材で喜びのコメントを寄せた。
「俺もTVで生中継を見ていたよ。最後はプレッシャーもあったと思うけど素晴らかったね」とまずは快挙を
手放しで喜んだ馬淵監督は、続いて松山選手の人となりにも言及。
「高校時代から人間的にも素晴らしかったし、日本に帰ってきた時も必ず明徳義塾に顔を出してくれる。
なにを話したかって? いや『世界の松山』だから、たいしたことは話してないよ」
と独特の話術も交えながら彼の隠れたエピソードにも触れた。
奇しくも9月、侍ジャパンU-18代表監督として馬淵監督が乗り込む「2021 WBSC U-18ワールドカップ」の
開催予定地もジョージア州に隣接するアメリカ・フロリダ州。
「励みにしたいね」と、名将は教え子が成し遂げた快挙を前に「世界一獲得」への誓いを新たにしていた。
マスターズにはこれまで33人の日本人選手が出場し、のべ132度目の挑戦で初めてグリーンジャケットを手にした。
初出場は1936年の第3回大会、陳清水(当時台湾籍)と戸田藤一郎で、それぞれ20位と29位だった。
初めてトップ10入りしたのは1973年、尾崎将司の8位。2001年の伊沢利光、09年の片山晋呉が4位が最高だった。
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☆ 仙台で2度の始球式… 星野仙一さんとの縁を忘れなかった松山英樹
4年前の1月16日、野球殿堂入りが決まった直後の星野仙一さんと食事をした。報道リリースは同日の午後5時。
同時に絶え間なくメールが届いた。右手ですしをつまみながら、左手で携帯をチェックしていると
「お、松山からだ」とつぶやき、手が止まった。
東北福祉大出身の松山英樹とは、監督就任をきっかけに縁ができた。メッセージをじっと見つめ、携帯を閉じて言った。
「松山は、バッグに『がんばろう 東北』のステッカーを貼ってプレーしている。うれしいよな。
こっちからお願いしたわけじゃないのに、自分で考えて、そういうことをしている。
立ち位置と、スポーツが持つ力を理解している。そんな若者がいて、自然にできることが、うれしいじゃないか」
大学2年の松山は、同年のマスターズに初出場。27位でローアマを獲得し、帰国後すぐ、牛乳配達の手伝いなど身の回りでできる
ボランティア活動を始めた。 「復興を成し遂げるには、若者の力が必要不可欠」と考えた球団のお願いを快諾し、
楽天が仙台で初めて行った4月29日の試合で始球式を務め、縁ができた。
星野さんは、夢を追い、人を思う青年を尊敬し、いつも応援していた。 18年の1月に膵臓がんで死去した3カ月後、
松山は故人の誘いを守る形で「がんばろう 東北デー」と銘打たれたゲームで2度目の始球式に登場。
背番号「77」のユニホームで、115キロのストレートを力強く投げ込んだ。
マスターズを制すまでにかかった10年の歳月と、東北への思いを問われた。松山は「早いのか遅いのか分かりませんが、
背中を押してくれた人たちにいい報告ができたのは、良かったと思います」と言った。
少し見開いた目と、少し動いた口元に、かみしめた万感を垣間見た。
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☆ 振らない“振り逃げ”、どういうこと? まさかの珍プレーに「初めて見た」 ソフトバンク 2ー0 楽天(11日・楽天生命パーク)
6回のソフトバンクの攻撃だった。 楽天の早川隆久投手は今宮に対し、2ストライクからの3球目で140キロの真っ直ぐを投じて
見逃し三振に仕留めた。だが、このボールを捕手の太田がキャッチできずにポロリ。ボールは今宮の足元をコロコロと転がった。
今宮はここで何かを思い出したように一塁へと走り出した。 太田はボールを見失い、その場でキョロキョロ。
マウンド上の早川は慌てて三塁線を転がるボールを拾い、一塁へと送球し、今宮をアウトにした。
公認野球規則では、第3ストライクが宣告されたとき、捕手が投球を完全捕球できていなければ、一塁への進塁を試みることができる、
と定められている。 「振り逃げ」とは言われるものの、第3ストライクが空振りである必要はない。
打者が空振りした場合の「振り逃げ」は頻繁に見られるが、見逃し三振での“振らず逃げ”はなかなかお目にはかかれない。
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☆ ホーム踏み忘れで同点がアウトに… 珍プレーに東洋大、杉本監督 「集中力欠いた」
東都大学野球春季リーグ戦、立正大5-3東洋大」(12日、神宮球場)
珍しいプレーが勝敗を左右した。1点を追う東洋大は二回2死一塁で宮本が右翼への二塁打を放ち一走・小口がホームイン。
だが、プレー再開後に、立正大側が本塁の踏み忘れをアピール。
球審から東洋大ベンチへ向けてアウトが宣告され、無得点で攻守交代となった。
立正大・坂田監督はベンチ内から一塁走者がホームベースを踏んでいないのではとの声が上がっていたことを明かし、
「チームのファインプレーかな」と称えた。
いったんは逆転された中、相手のミスにつけ込んで逆転勝ち。開幕からの連敗を4で止め、今季初勝利を手にした。
一方の東洋大・杉本監督は「集中力の欠いた感じかなというゲーム展開だった」と振り返った。
三回に主将・佐々木のリーグ戦初本塁打となる3ランが飛び出しながら、3失策が失点に響く悪循環。手痛い1敗となった。
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☆ ワクチン2回接種の女性が感染、国内初か… 厚労省「接種後も感染対策を」
金沢市の石川県立中央病院に勤務する派遣社員の女性が、新型コロナウイルスのワクチンを2回接種した後、
ウイルスへの感染が確認されたことがわかった。
県などによると、女性は3月13日と4月3日に医療従事者向けの優先接種を受けた。
その後、感染者の濃厚接触者として検査を受け、10日に陽性と確認された。症状はないという。
2回の接種を終えた人の感染が国内で確認されたのは初めてとみられ、厚生労働省の担当者は
「接種で感染のリスクを低くできるが、ゼロになるわけではない。
接種後も引き続き、感染防止対策をしてほしい」としている。
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☆ 家事や介護に1日4時間 中高生の5%がヤングケアラー
大人の代わりに家事や介護といった家族の世話を担う子ども「ヤングケアラー」が、中学・高校生でおよそ20人に1人いることが、
厚生労働省が12日に発表した初の全国調査で明らかになった。
世話に割く時間は1日平均4時間に及び、当事者からは学校生活や将来への影響を心配する声も出ている。
調査は全国の公立中学の2年生と公立高校(全日制など)の2年生を対象に昨年12月以降に実施し、1万3777人から回答があった。
世話している家族がいると答えたのは中学2年で5・7%、高校2年(全日制)で4・1%。文部科学省の統計にあてはめると、
中学2年で約5万5千人、高校2年(全日制)で約4万2千人がヤングケアラーという計算になる。
世話の相手はきょうだいの割合が最も高く、中学2年は61・8%、高校2年で44・3%。父母は中学2年で23・5%、高校2年で29・6%だった。
世話の内容は、中学2年で相手が父母の場合、「食事の準備や掃除、洗濯など家事」(73・3%)が最も多かった。
相手がきょうだいの場合、「見守り」(68%)が最多で「家事」は37・6%、「きょうだいの世話や保育所への送迎など」も34%いた。
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☆ 【4月14日の話】 ライオンズ黄金期を支えた西武球場が完成… 当時の前衛的なアイデアとは ①
1979年4月14日、埼玉県所沢市に西武球場が開場した。
西武球場の歴史は、プロ野球・埼玉西武ライオンズの歴史そのものである。
西武ライオンズの前身である「クラウンライターライオンズ」は、福岡県を拠点に活動していた。
しかし、チームの低迷と経営難により、当時の運営会社はチームを手放すことを決意。
そこで白羽の矢が立ったのが、社会人野球チームの設立など、球界参入に積極的だった
「西武鉄道グループ」の一角、「国土計画」だった。
買収により「西武ライオンズ」として再出発を果たしたチームの本拠地は、当時、改築中だった西武園球場に決まった。
1979年、工事終了後に名前を「西武球場」と変え、ここから西武ライオンズの歴史が始まる。
当時、西武球場の設計アドバイザーを務めたアマ野球指導者の石山建一さんが本誌の取材に応じてくれた。
「西武鉄道は、西武園球場を貸し球場にする予定だったんです。
でも、貸し球場といっても、自分のチームを持ってないとお客さんが入らないじゃないですか。
それで急遽、クラウンライターライオンズを買って、西武ライオンズを作ったわけですよ」
西武球場をつくるにあたり、お客さんにとってなにが快適かを考えたという。
「改築前の西武園球場は、センターの位置にホームベースがあったんです。
ぼくは向きを逆にしちゃおうと考えたんですね。
そうすると、内野スタンドからユネスコ村(当時所沢市にあった遊園地)とか秩父の山が見えて、
景色がよくなるんです」(石山さん)
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☆ 同上 ②
当時、非常に前衛的なアイデアだったのが、ネット裏のラウンジだ。
「これから、もっと多くの人たちが野球を観るようになると考えていました。
なので、食事しながら観戦できたほうがいいと思ったんです。それで出来たのが、ネット裏のラウンジです。
あの頃はどの球場にもラウンジなんてなかったんです。昼間は西武園でゴルフして、夜は奧さんと一緒に球場に来て、
食事しながらナイターを観る。そんなラウンジを作ったんですね」
当時の西武球場の魅力が伺える、こんなエピソードも。
「アメリカのオールスターチームが日米野球で来日したとき、『ワンダフルな球場だ!』
『アメリカにもこんな綺麗な球場はない』と大リーガーの選手が言っていて、嬉しかったです」(石山さん)
西武ライオンズは、1982年に初のリーグ優勝を果たすと、黄金期に突入。
1986年から、清原和博、石毛宏典、伊東勤ら強力な打撃陣に加え、工藤公康、渡辺久信、東尾修ら
盤石の投手陣のもと、9シーズンで8度のリーグ優勝と6度の日本一を達成。
常勝軍団の活躍とともに、西武球場は進化を遂げていく。
1997年には、「環境共生型球場」をコンセプトに西武球場のドーム化に着手。
2017年に「メットライフドーム」と名前が変わった。
2021年3月、およそ3年かかった改修工事が完了。
子供たちが楽しめる遊戯施設、選手と近い距離で試合を楽しめるプレミアムエキサイトシート、
12球団最多となる1000種類以上の「球場グルメ」を味わえるフードコーナーなどができ、
多くの人々に愛される球場に進化した。
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☆ 「監督は人見知りの元ローソン店長」 センバツ準優勝に導いた39歳のスゴい観察眼 ①
センバツ高校野球で準優勝した大分の明豊。 監督の川崎絢平さんは異色の経歴を持つ。
スポーツライターの清水岳志氏は「大卒後、スーパー店員やコンビニ店長をして人間観察力や人材を活かす能力を磨いた。
その力が今大会で存分に発揮された」という。
和歌山県に生まれ、地元の生石ボーイズ(中学)時代、チームメートが入学を希望する智辯和歌山の練習に参加した。
その付き添いで自分も参加したら、高嶋監督(当時)に見初められる。 守備が抜群に上手かったそうだ。
高1の夏はいきなりベンチ入りし、チームは全国制覇する。高2、3時も主力選手として甲子園に連続出場を果たす。
順風満帆の野球人生だったのだが…。智辯和歌山から立命館大に進んだ後、社会人野球の名門チームに入社が決まりかけていたが、
受け入れ側の都合で、話がなくなった。 ここがひとつのターニングポイントになる。
結局、和歌山のスーパーチェーン「マツゲン」に入社し、地元クラブチーム箕島球友会でプレーを続ける。
このスーパーでの経験が後の指導者人生の礎になる。
店舗では野菜担当。 市場に行って買いつけたり、マイクを握ってお買い得品をアピールしたりした。
陳列をする際、客の動線を研究し、どうやったら目に留めてもらえるかなども研究したという。
周りを見て空気を察して状況を見極めるということにつながった。
その後、同県海南市の実家に戻って、親が経営していたコンビニのローソンの店長を務めることになる。
この転職も人の上に立つための素養を磨く助けになる。
店長として何より苦労したのが「アルバイトの管理」だ。 突然、休むバイトの処遇をどうするか。
頭ごなしに叱責しては関係が気まずくなる。 気持ちよく働いてもらい信頼関係を構築するための努力を惜しまなかった。
今どきの若者との距離感のとり方やコミュニケーション術を学んだのだ。
店長を務めながら、中学生のコーチをしていると、智辯和歌山のコーチを頼まれる。
母校の恩師、高嶋監督が「中学生を見てるなら、うちでやってみいひんか」と手を差し伸べる。
そこで3年間、のちにプロへ進む岡田俊哉(現中日)、西川遥輝(現日本ハム)らを育てた。
コーチを終えてからコンビニに戻り、深夜業務もザラだったそうだ。
さらに3年後、家庭の事情もあり大分に転居。 地元シニアのコーチをしていると、
2011年、明豊で指導をしないかとの打診があり、部長を経て2012年秋、監督に就任した。
こうした野球だけではないキャリアは甲子園監督としては極めてユニークだが、店員や店長として磨いた人間観察力は
高校生たちをマネジメントするのに大いに役立った。
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☆ 同上 ②
今大会で打順変更や代打の采配などが的中したのも、この鋭く深い観察眼ゆえだ。
野球部監督には上から目線の指導者が多いが、川崎は硬軟織り交ぜる。
例えば、かつて同校で起きた「カードゲーム」事件がいい例だ。
ある晩、野球部寮の消灯時間をすぎても部屋でカードゲームの「UNO」をやっている選手たちがいた。
翌日、川崎はその部員らに告げる。 「だったら、今日の練習はUNOだな」 該当選手にマウンド上でUNOをさせたのだ。
大分在住で九州の高校野球を取材するスポーツライターの加来慶祐氏はたまたまその場面を目撃していた。
「監督は、好きなだけやれ、と。確か4人だったと思います。2時間ぐらいはやらせていました。
他の部員はマウンドを避けて狭い範囲で練習をしていました。
監督は、自分勝手にルールを破れば、周りにどれだけ迷惑がかかるか、ということをわからせたかったのでしょう。
この一件以来、チームに規律とまとまりができました」
川崎が教え子の選手を観察する場はグラウンドだけではない。それは、野球部寮だ。中でも川崎が重視するのが、寮長。
寮長に求めるのは、まじめで落ち着いてコツコツと努力するタイプだ。
現在の寮長は、今回のセンバツ初戦の東播磨戦で4番を打った米田友。 米田は秋まではレギュラーではなく、
背番号15の控え選手だったが、冬の間に鍛え、スタメンを勝ち取った。 市和歌山戦では貴重な先制ホームランを打った。
2019年の寮長も秋の新チームではサードコーチを任され、夏には背番号5をもらうまでに成長する選手だった。
地味な練習を積み上げた人間は最後にレギュラーを勝ち取る。
監督は努力を見届けて、チームの核としての技術能力、精神的な強さを評価するのだ。
監督は自らをこう分析している。 「人見知りでガツガツしていない、地道にコツコツと努力する」
きっと寮長にも、自分と同じようなタイプを知らずしらずのうちに求めているのかもしれない。
そうしたチーム内リーダーの存在もあり、明豊は他チーム以上の一体感がある。といっても部活や体育会的なノリではない。
実は、上下関係が緩い。チーム内で上級生から下級生へのいわゆる使い走りは厳禁だ。
「自分のことは自分でやる」が徹底されている。忘れた帽子は自分で部室に取りに戻る。飲みたいジュースは自分で買う。
訪問者は監督自らユニフォームを洗濯しているシーンに出くわすことが多々あるそうだ。
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☆ 同上 ③
明豊は、今回の準優勝により九州で揺ぎない地位を築いたと言えるだろう。
優秀な選手が九州だけではなく、最近は北海道からも来るようになったという。
在九州の新聞記者はこう言う。「ナンバーワンのタレントぞろいになってます。
福大大濠、創成館、神村学園辺りが積極的に選手勧誘をしますが、その学校が有力選手を訪ねても、
明豊に行きたい、と断られることが増えている」
甲子園の常連校になったこと。 川崎監督の人柄に触れたい高校生が増えているのだ。
明豊は昨秋の九州大会ベスト4。 そこからセンバツ決勝戦まで駆け上がった。
「東海大相模にしてもそうですが、秋から成長率の高かった学校が最後まで残った」と前出の記者は言う。
自分たちの立ち位置を把握し、足りない部分を的確に埋めることができる。
だからこそ、地力をつけてこられたのだ。
2017年夏の甲子園で2勝、2019年春に3勝、そして今回4勝して準優勝。
川崎監督の決勝戦後の会見で印象深かった言葉があった。
「階段は一つひとつしか上がれないんだなと。 まだ、優勝には早いと言われているのだと思います」
そして言葉をつづけた。
「あと、一つの階段を登るため、夏へ特別なことはしない。同じことの精度を上げること。継続して積み上げたい」
コツコツと重ねていく。 川崎監督の生き方そのものが、実証される日は近いはずだ。
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☆ スポーツアナならでは! 元プロ野球選手の評伝 「無名の開幕投手」が持つ魅力
昨年末に刊行された「無名の開幕投手 高橋ユニオンズエース・滝良彦の軌跡」(桜山社、税別2400円)は、
1950年代に活躍した元プロ野球選手の生涯を名古屋・中京テレビ放送のアナウンサー佐藤啓さん(58)が
綿密な取材でたどった異色のノンフィクションだ。
佐藤さんの母校・南山大学出身で唯一のプロ野球選手が滝良彦さんだが、その名はほとんど知られていない。
佐藤さんが雑誌で存在を知り、中日ドラゴンズや母校の関係者をたどって探し当てる過程から、滝さんが亡くなるまでの交流と、
死後の綿密な取材が一冊にまとめられている。
滝さんは1952年に毎日オリオンズに入団した技巧派右腕だった。
1954年に高橋ユニオンズで球団初年度の開幕投手を務めるなど、エースとして活躍。
高橋ユニオンズはわずか3年間だけ存続したパ・リーグの球団で、滝さんはこの間31勝を挙げたという。
佐藤さんによる滝さんの評伝は、自身の出身大学で唯一のプロ野球選手というだけでなく、プロ野球取材歴30年の
スポーツアナウンサーらしい人間的関心に満ちている。 戦後のプロ野球動乱期は、豪快なレジェンドたちがひしめいていた。
その中で、高橋ユニオンズの同僚だった佐々木信也氏が紹介文で「穏やかすぎるいい人でした」とつづっている滝さんは、
異質であったのだろう。 そんな心優しく堅実な人柄に佐藤さんが惹かれていることがよくわかる。
著者と取材対象者の“縁”が、同書の読みどころでもある。
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☆ 最新ルーキー事情 虎視眈々とNEXTブレークを狙う男たち (中日)
残念ながら開幕一軍入りを果たしたルーキーはゼロ。
可能性があったのは春季キャンプから唯一、一軍に参加していたドラフト6位の社会人ルーキー三好大倫だったが、
最後に息切れとなった。
日体大からドラフト2位で入団した森博人も即戦力として期待されていたが、開幕は二軍スタート。
すでに3試合に登板し、今後の活躍によっては一軍昇格もありそうだ。
注目のドライチルーキー高橋宏斗も二軍でプロデビュー。
3月27日の阪神戦(ナゴヤ)では1回も持たずに4安打3失点のホロ苦いマウンドとなり、
2度目の登板となった4月3日のソフトバンク戦(タマスタ筑後)も2回3安打2失点だった。
ドラフト4位の福島章太、5位の加藤翼は高卒投手。 登板機会は少し先になりそうだ。
3位の土田龍空は開幕からショートのポジションで躍動している。打撃向上がカギとなりそう。
特筆すべきは育成1位の近藤廉。対外試合での好投が続き、開幕からわずか5日後にして支配下登録を勝ち取った。
もしかすると今年のルーキーで一軍一番乗りは、この近藤になるかもしれない。
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☆ 消えた甲子園、球児を記録 早見和真さん、済美高に密着
松山市在住の小説家・早見和真さん(43)が、ノンフィクション「あの夏の正解」を刊行した。
昨夏、新型コロナウイルスの感染拡大で全国高校野球選手権大会が中止になり、
夢舞台の喪失と向き合うことになった高校球児たちに、3カ月間密着。
元球児の早見さんが自身の姿も重ねながら、球児たちの本音に迫った。「俺だったらやめるよなって思ったんですよ」
甲子園の中止が発表された昨年5月。早見さんは、甲子園出場経験のある強豪校、済美と星稜の野球部に取材を始めた。
甲子園に続かない高校野球に、やる意味はあるのか。最後の夏に自分で折り合いをつけた、その先の答えを見たいと思った。
この取材の前、早見さんもコロナ禍でスランプに陥っていた。別の連載の仕事を後回しにして、グラウンドに通うこと3カ月。
甲子園のない夏に、それぞれ野球の「楽しさ」を見いだす球児たちの姿を見た。
「最初は『早く終わんないかな』とさえ言っていた彼らが変わっていくさまを、誰よりも近くで見させてもらった。
いい3カ月だったよなって、これから10年は思い続けそう」
同時に、「何でもいいから文章を書きたい」という自分の原点の気持ちを思いだした取材でもあったという。
「何よりも大切なものを失った生徒が、どう生きたかの記録を残せた」。 新潮社刊。税込み1540円。
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☆ 親子で大の燕党、名前は古田から… ドラ1候補・廣畑敦也
「三菱自動車倉敷オーシャンズの廣畑敦也ってピッチャーを知っていますか?」
ここ数カ月で、同業ライターから立て続けにそんな質問を投げかけられた。 さらに決まって、こんな言葉が続く。
「廣畑投手の弟の名前は《臣吾》で、本人は《敦也》。 もちろん、古田敦也と高津臣吾です。
名づけ親のお父さんも、そして本人も大のヤクルトファンなんです。 さらに、伊藤智仁が大好きで、
長谷川さんの本も何冊も読んでいるそうですよ!」 彼を取材したライターからの言葉だった。
普段、ほとんどアマチュア野球を見ないため、「廣畑敦也」という投手のことは何も知らなかった。
すぐにネット検索をすると、次から次へと彼の情報が出てくる。昨年の都市対抗で大活躍をして、若獅子賞に輝いたこと。
今春のJABA東京スポニチ大会でも盤石のクローザーとして活躍し、チームは優勝、本人は大会MVPを獲得したこと。
今秋のドラフト1位候補であること。 さらに、伊藤智仁を尊敬し、大のヤクルトファンであること…。
「物心ついた頃から、オヤジには“お前は伊藤智仁みたいなピッチャーになれ”と言われてきました。
そこで、中学でピッチャーを始めたときに、YouTubeで伊藤さんのピッチングを見たらものすごい球を投げてました。
とんでもないスライダーで、バッターがみんな腰を引いているのが印象的でしたね」
岡山の玉野光南を経て、帝京大学に進学後も憧れの人のことは常に頭にあった。
「大学入学時に、4年間の計画を立てました。 最終目標は伊藤さんの最高球速153キロを超える154キロのストレート、
140キロのスライダーを投げることでした。結果的に大学に入学して故障をしたこともあって、社会人になってから達成しました」
現在クローザーを務める廣畑は「抑えは最初から全力投球できるのが楽しい」と語る。
そんな彼に「もし今のヤクルトに自分がいたら、どんな起用法が理想か?」と質問を続けてみた。
「7回は清水さん、8回は僕、そして9回は石山さん。そんな継投が理想ですね。石山さんは縦に落ちる変化球がすごいので、
その前のイニングで僕がストレートでガンガン抑えるパワーピッチングを見せたいですね」
物心ついたときから青木宣親の大ファンだったという廣畑。 今年の秋には間違いなくドラフト指名されるだろう。
それが、どのチームになるのかはわからない。 本人はもちろん、「12球団どこでもOK」の姿勢を打ち出している。
緊張の瞬間は今年10月11日。 はたして、野球の神様はどんな運命を用意しているのだろうか?
どの球団に入団しても、彼のことは応援したい。でも、願わくばそれが、白地に赤い縦じまのユニフォームであることを、
僕は心から願っているのだ。
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☆ 川筋もんのよかスカウト・柴田崎雄の流儀 【越智正典 ネット裏】
巨人のスカウト沢田幸夫にとっても思い出多いプロ野球第一回新人選択会議は、昭和40年11月17日東京日比谷の日生会館で開催された。
発議は西亦次郎西鉄代表だが、西はずぅーと思い悩んでいた。 西鉄は赤字続き、お客さんに来てもらえる、
いちばんいいサービスは優勝することだが、勝つと選手の年俸が高騰する…。
そんな折に、アメリカのプロ米式蹴球が戦力均等化の完全ウエーバーを実施しているのを知った。
これだと、岡野阪急代表(のちにパ・リーグ会長)に相談。 岡野は温厚、滅多に選手を整理しない。成長を待っている。
34年八幡浜高校から阪急に入団した矢野清の場合もそうで、開花したのは10年目の43年で27本塁打。44年に3サヨナラ弾。
12球団の話し合いがやっとまとまった。 が、決まったのはなんと。クジ引きドラフトだった。
はじめにクジを引く順番を決めるクジ引き、それから本番のクジ引き。
中日の柴田スカウトが怒った。 「これはどげんことか、探せば藁葺き屋根の家にきっといい選手がいる」
スカウト自由競争時代、夏の甲子園大会が終わると秋祭りの季節である。
柴田は手土産に赤い鼻緒の駒下駄とゆかたを持って選手の家を訪れる。
「戦争が終わってからご苦労をなさったでしょうね。
食べたいものも食べず、着たいものも着ないで息子さんを育てたのでしょうね。これ、お祭りの日に着て下さい」。
おかあさんを泣かせた。
柴田の出張先の定宿は岡山では「圓」。 33年秋、探し当てた日鉄二瀬の江藤慎一と契約するときは、
球団事務所ではなく、名古屋駅前の「八千代旅館」。 千代に八千代にいつまでもご縁が続きますようにというのだった。
柴田は飯塚の食堂「福長」の大将に頼んでいた。
「二瀬の江藤が来たらステーキを食べさせて下さい。 でも牛肉だと予算オーバー。スミマセン、クジラで頼みます。
ツケはわたしに回して下さい」
席についた江藤が叫んだ。 「手がふるえて字が書けません。 柴田さん、代わりに書いて下さい」
江藤とは、あの「闘将」首位打者3回、46年はロッテで、セ・パ両リーグで打撃王。
出場試合2084、安打2057、本塁打367。
契約金は500万円。 日鉄二瀬のときは監督濃人の温情で臨時雇いで月給7000円。
炭坑住宅の家々に米俵をかついで配達するのが仕事だった。
当時、大学、社会人選手の契約金は1000万円が相場だったが江藤は1/2。 純な思いに心打たれた柴田は祈った。
「自分の手で幸せを沢山つかんでくれ」。
38年正月、キャンプに行く前に練習しようと九州出身の選手たちにせがまれ、名勝中津に集まった。
朝はランニング。 一夕、新人、八女高校から入団の捕手木田優のおかあさんがガメ煮を作ってわざわざ差し入れに。
母一人子ひとり行商人宿を営んで息子を育てて来た。
柴田は感謝し、ビールで乾杯。 おかあさんと炭坑ぶしを踊った。 宿は湧いた。
柴田崎雄、飯塚商業、戦中の大洋(金鯱と翼の合併球団)、巨人、捕手。 男がウリの川筋のよかスカウトである。
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☆ 現在では更新不可能なアンタッチャブルな記録も!? 意外と知らない個人連続記録とは? ①
2021年4月11日に行われた広島対巨人戦で、広島のプロ10年目・野村祐輔が先発。
これでデビューからの連続先発登板が188試合目となり、ネイサン・ミンチーの187試合連続という日本記録を更新した。
「デビューからの連続先発」はあまり知られていない記録のため、「そうだったのか」と驚いたファンも多いだろう。
今回は、「意外と知られていない個人連続記録」を紹介する。
完投数が減った現在ではまず更新不可能なのが、「連続完投勝利」だ。日本記録は巨人で活躍した斎藤雅樹が残した11試合。
ちなみに、現役の菅野智之は2015年に9度の完投勝利を収めたが、3連続が最高。
11試合連続がいかに卓越した記録なのかが分かるだろう。
「連続無失点記録」は、歴代最多の400勝を挙げた大投手・金田正一が1958年に残した64回1/3連続無失点がNPB記録。
とんでもない記録だが、連続完封勝利記録では1リーグ時代に巨人で活躍した藤本英雄の6試合連続が最多。
2リーグ制以降では小山正明がマークした5試合連続が最多となる。金田も64回1/3連続無失点中の4試合連続は記録している。
先発で起用され続けた「連続先発記録」は何試合なのかご存じだろうか? NPB記録はなんと311試合。
南海や阪神でプレーした山内新一が達成した記録だ。 山内は巨人から南海に移籍した1973年に本格的に先発で起用されると、
ここから引退する1985年まで13年間にわたり先発で投げ続けた。
山内に続く数字を残しているのが現在DeNA監督を務める三浦大輔。2002年から2016年まで294試合にわたり先発で投げ続けた。
また、現役ではヤクルトの石川雅規が最多で現在291試合連続で先発登板を続けている。
山内が残した歴代最多記録の更新に期待がかかる。
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☆ 同上 ②
投手記録で面白いのが「連続リリーフ勝利」だ。試合の展開次第で中継ぎや抑え投手に勝利が記録されることがあるが、
元ダイエーの篠原貴行は、1999年にリリーフながら14連勝を記録した。
これは無失点試合を挟んでの連続記録ではあるが、それでも14連勝は圧巻。 先発のエースでも難しい数字だ。
狙ってもできるものではないため、そうそう更新されることはないだろう。
また、登板イニングの少ない中継ぎや抑えであっても、「負け」が記録されることは珍しくない。
そんな中、とにかく負けなかったのが近鉄や日本ハム、阪神でプレーした柴田佳主也。
なんと235試合連続で負けることなく投げ抜いた。
打撃記録は衣笠祥雄の2215試合連続出場や、金本知憲の1492試合連続フルイニング出場、イチローの216打席連続無三振など
アンタッチャブルな連続記録が多数ある。
そんな中で意外と知られていないのが「二塁打」や「三塁打」の連続試合記録だ。
二塁打の場合は、2009年に日本ハムの金子誠が残した7試合連続がNPB記録。三塁打は長嶋茂雄の「4試合連続」が歴代トップだ。
そもそも三塁打自体がシーズンを通して10本出れば優秀といえるものだけに、4試合連続はそう超えられるものではない。
「連続盗塁成功記録」は、ヤクルトの山田哲人が持つ33試合連続がシーズン最多記録。
では、「同じチーム相手に連続して盗塁を成功し続けた場合の日本記録」はご存じだろうか?
この記録は近鉄の藤瀬史朗が、阪急相手に記録した33回連続が日本記録。
藤瀬は通算117盗塁のうち105は代走でのものと、まさに代走のスペシャリストだった選手だ。
広島との日本シリーズでは、第7戦の9回に快足を生かして二盗、三盗を記録。これが「江夏の21球」につながった。
野村がデビューからの連続先発記録を更新したということで、今回は投手記録を中心にピックアップしてみた。
「連続リリーフ勝利」や「連続登板機会敗戦なし」は、知らなかったという野球ファンもいるのではないだろうか。
今年は再び143試合に戻り、昨年以上の激闘が期待される。果たして珍しい連続記録は生まれるのか、選手のプレーに注目したい。
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☆ ヤクルト・高津監督 2戦で4死球に「故意ではないと思うけど」「気分よくない」 球審が「警告試合」を宣告
「阪神10-7ヤクルト」(18日、甲子園)
47年ぶりの阪神戦開幕5連敗に加え、試合内容がヤクルト・高津監督の怒りを増幅させた。この2戦で受けた4死球。
「故意ではないと思うんだけど」と前置きした上で、「あんまり多いと、やっぱり気分はよくないね」と珍しく語気を強めた。
七回だ。岩貞の直球が村上の右手首付近を直撃。 八回には塩見が加治屋の速球を左腕に受けた。
直後の守りで、今度は梅野が大山に死球を与えると、球審が「警告試合」を宣告。 球場は不穏な空気に包まれた。
17日の対戦では、藤浪から山田と塩見が死球を受けていた。後味の悪い敗戦に加え、内川が上半身の張りを訴えて欠場。
19日にも登録抹消となる見込みだ。
「先発を打ち崩さないと勝機は見えない」と指揮官。 次カードの広島戦でまずは連敗を止めたい。
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☆ 「本塁打欠乏症」深刻… 中日でささやかれる “仰天練習プラン”
中日の貧打がシャレにならないレベルになってきた。18日の広島戦もわずか5安打で2―4の逆転負け。
借金5は今季ワーストタイで、チーム打率2割2分、49得点はともにリーグ最低。
特に深刻なのは20試合を消化してチーム本塁打がたった3本という現実だ。
チーム本塁打リーグトップの阪神は18本で、最下位DeNAでも14本を記録している。
中日の長打力不足は数字に表れており、11試合を行った本拠地バンテリンドームでは木下拓が
11日のヤクルト戦で放った1本しかアーチが出ていない。これではスタンドのファンも意気消沈だ。
試合前のフリー打撃でも柵越えを連発する迫力あるスイングを見せる選手がほとんどいない。
本塁打を打つ感触すら忘れてしまったのではないかとの心配から、
あるOBは「景気づけに、金属バットで打撃練習をやればいいじゃん」と仰天プランまで口にする。
こんな冗談のような話が出てくるのも本塁打欠乏症の深刻さを物語っている。
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☆ 「世界に一つのグローブ」間もなく誕生… 障害者野球の選手の思いに応え、高校球児がアイデア結集 【岡山発】
岡山・和気町の高校球児が、障害者野球の選手のために専用のグローブの開発に取り組んでいる。
同じ白球を追いかける仲間たちとの絆で、世界でただ1つのグローブを作る。
「岡山桃太郎」箕輪遥介さん:
前よりも軽くてめっちゃいいです。前使ってたグローブがだいぶ重くて使いづらかったので、自分のために作ってくれてありがたい
目を輝かせるのは、この春から高校生になった箕輪遥介さん。
障害があっても野球を楽しみ、自分ができる精一杯のプレーをする「障害者野球」。
箕輪さんは3年ほど前、岡山県の障害者野球チーム「岡山桃太郎」に入団し、レギュラーを目指して日々、練習に励んでいる。
箕輪さんは生まれつき末梢神経の障害があり、一般的なグローブでは力が入らず、ボールをうまく受け取ることができない。
箕輪さん専用の世界でたった1つのグローブは、まもなく完成する。
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☆ 大エースが涙の抗議 村山実はいつも命がけだった… 安藤統男氏語る 「蘇る伝統の一戦」 ①
巨人・阪神の伝統の一戦があと5試合で通算2000試合を迎える。
関係者が思い出を語る連載の第2弾は、スポーツ報知評論家の安藤統男氏。
1962年に入団した阪神で主将も務め、82〜84年は監督として指揮した。
故・村山実氏の「涙の抗議」など、打倒・巨人に燃えた猛虎を回想した。
「優勝できなくても巨人には絶対勝て」。82年に阪神監督に就任した時、オーナーからはっきり言われた。
それほど、阪神は打倒・巨人に執念を燃やしてきた。
私が知る限り、その思いをもっとも体現していたのが村山実さんだ。63年の世に言う「涙の抗議」。
セカンドを守っていた私は、猛ダッシュで審判に向かっていく村山さんをぼうぜんと見ていた。
何を言っているかまでは分からなかったが、その抗議の激しさに驚いた。毎日続く試合のうちの1試合。
大の大人が、しかも大エースが、たった1球で泣くなんて…。この人のジャイアンツへの対抗心は半端じゃない。
プロ2年目の私は「伝統の一戦」の歴史や重みを知らされた。
慶大時代に早慶戦を戦ったが、早稲田は「好敵手」だった。
卒業時、誘ってくれた巨人・川上監督に「光栄ですが、強い巨人を倒したいんです」と断らせてもらった。
阪神にとって巨人は「好敵手」だと思っていた。だが、阪神に入って身にしみたのが、巨人は「敵」ということだった。
普段の村山さんは気性が激しいこともなく、面倒見のいい人だった。ほかのカードでは打たせてとるような投球もしていた。
だが、巨人戦になると人が変わったように、体全体を使って全身全霊で投げていた。
68年にはバッキーがワンちゃん(王貞治)への死球まがいの投球を巡って荒川コーチと乱闘した。
バッキーのような外国人でも、巨人戦は特別なんだと、肌で感じていたのだろう。
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☆ 同上 ②
監督時代も選手には巨人戦に勝てとハッパをかけた。
1年目のオープン戦(3月22日、甲子園)で一塁判定を巡って、塁審に抗議し、退場になった。
オープン戦で監督が退場処分を受けたのは史上初だったらしい。
だけど、オープン戦から、選手に伝えたかったのだ。巨人戦には燃えなきゃいけないんだ、と。
監督3年間は3、4、4位だったが、最後の年は巨人に勝ち越すことができた。
ただ、困ったのは、巨人戦の次のカード。選手が燃え尽き症候群みたいになって、ふぬけのような状態なんだ(笑い)。
近年の阪神は巨人に負け越し続き。「敵」への意識が薄れてきているようで、さびしく感じる。伝統の継承を願っている。
※1963年8月11日のダブルヘッダー第2試合(後楽園)。 阪神は0―1の7回、代打・安藤が同点打。
その裏、1死二、三塁でリリーフした村山が池沢にカウント2―2から直球を投げ込んだが、国友球審はボールの判定。
激高した村山は一目散に走って「ワシは命がけで投げてるんや。あんたも命がけで判定してくれ」と抗議した。
混乱の中で球審の手が村山のあごを一撃。退場処分を受けた村山は悔し涙を流し続けた。
対戦打者0での退場は異例。 試合は延長10回、吉田の勝ち越し打で安藤が生還した。
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☆ 王貞治が7試合連続弾 週刊ベースボール『1972年10月9日号』 定価は120円。
巨人・王貞治が再び金字塔を打ち立てた。 1972年9月11日、広島戦(後楽園)を皮切りとした7試合連続本塁打だ。
過去の記録は5試合。 70年に王自身も一度あったが、6試合が一つの鬼門となっていた。
しかし今回は19日、甲子園の阪神戦で山本和行から6試合目の日本記録、20日、同カードでは村山実から42号を放ち、
大記録を達成した(8試合連続はならず)。
6試合目の前、王はこう話している。 「別に何がなんでもという気負ったものはないよ。
でも今は調子がいいから気楽に打席に立てているね。あまりないチャンスだから思い切ってやろうとは思っているけどね」
6、7試合はいずれも初回。 「自分でも驚くほど簡単に出るなあ。10回、12回も挑戦して5試合連続が出なかったときのほうが
意識してたね。 とにかく第1打席で出るんだから、意識してないうちに出てるということだよね」
相手の村山については、 「今年は7の0と抑えられていたんだけどね。 フォークが真ん中だったね。
かえって村山さんのほうが意識過剰になっていたんじゃないの」と話していた。
その村山が20日の先発マウンドに立った際、場内のファンは総立ちで拍手を送った。この日の登板は事実上の予告先発。
この3試合が終わると、甲子園での巨人戦は、あと2試合だけ。
多くのファンは現役村山のカウントダウンとして球場に足を運んだ。ただ、試合後の金田正泰監督代行の言葉は冷たい。
「私は完投させるつもりだったのですが、本人は5回の一死満塁で王に打順が回ってきたとき、
交代させてくれと言ってきたんですよ。 もう自信がなかったんでしょう」
熱血漢・村山の楽屋裏を今さらさなくてもいいのでは、とも思う。
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☆ 各球団の本塁打王を複数回獲得した日本人選手 ※2リーグ制以降(前身球団含む)
巨:王 貞治(15回)、松井秀喜(3回)、長嶋茂雄(2回)
ソ:野村克也(9回)、門田博光(3回)、松中信彦(2回)
西:中村剛也(6回)、中西太(5回)、山川穂高(2回)
広:山本浩二(4回)、江藤智(2回)
De:青田 昇(3回)、村田修一(2回)
ロ:落合博満(3回)、山内一弘(2回)
オ:長池徳二(3回)
阪:掛布雅之(3回)
中:落合博満(2回)
日:大杉勝男(2回)
ヤ:不在
楽:不在
ヤクルトは本塁打の出やすい神宮球場を本拠地としていながら、本塁打王を複数回獲得するような
日本人の大砲はいなかったというのは、少し意外かもしれない。
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☆ 阪神8連勝 & 甲子園勝率8割の裏で… コロナ恨めし早くも損失10億円
阪神の勢いが止まらない。20日の巨人戦でクリーンアップに5本塁打が飛び出すなど、ド派手に8連勝。
今季16勝4敗とし、2位巨人に4ゲーム差をつける快進撃を見せている。
2005年以来、16年ぶりのリーグ優勝を狙う上で絶好のスタートを切ったわけだが、舞台裏では嘆き節も聞こえてくる。
コロナ禍による損失がじわりじわりと球団を蝕み始めているからだ。
阪神はここまで本拠地で10試合を開催(甲子園7、京セラ3)。観客動員の上限を1万人としており、
合計の観客数は8万4433人にとどまる。
「これだけのロケットスタートを決めた今季なら、少なくとも1試合平均で4万人は入っていたはず。
チケット代の平均を3000円とすると入場料収入は12億円ですが、今季は約5分の1の2億5000万円程度。
早くも10億円弱が消えた計算になります」。
昨年もコロナ禍で大幅な収入減となったが、今年も損失は避けられそうにない。
「段階的に動員数を増やす計画があったが、大阪、兵庫、京都は感染者が急増。
緊急事態宣言の発令を要請することを決めた大阪の知事は、隣接する兵庫、京都との共同要請もありうるとしている。
緊急事態宣言が復活すれば、観客上限は5000人。 吉村知事はスポーツイベントの中止にも言及した。
いずれにしろ、好調阪神にとっては大打撃です」。
千載一遇の稼ぎ時に涙をのまざるを得ないなんて、コロナを恨むしかない…。
兵庫県は4月21日、対策本部会議を開き、国に対し『緊急事態宣言』の発令を要請することを正式に決定した。
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☆ 東スポが社員100人リストラ “入社2年目で年収1200万円” 高給で知られた会社が危機の理由
宇宙人や人面魚の存在を暴くなど、独自の“笑撃”スクープを飛ばし続けてきた「東京スポーツ」が今、笑えない事態に直面している。
「3月末に希望退職者を募集するという社内メールが届き、『ついにウチもか』と暗いムードが漂っています」(50代記者)
希望退職者の対象は45〜59歳の160人。社員約350人のうち100人、全体の3分の1近くをリストラするという。
4月7日に東京・江東区の東スポ本社近くで行われた説明会には約100人が出席。経営陣4人、弁護士2人が従業員に向き合った。
終了後は人材斡旋会社による再就職の説明。再建案は一切、示されなかったという。実は東スポは紙媒体全盛時代、
期末の臨時を含め年に4回もボーナスが支給されるほど高給で有名だった。
「90年代中頃は、入社2年目の年収が1200万円。それがピークで、今はその半分ぐらい。
19年5月の決算では純利益が約20億円の赤字、総資産は約65億円しかなく、会社側から『あと2〜3年で潰れる』と告げられました」
と明かすのは40代後半の記者だ。
「“紙神話”に頼りすぎていたんです。 76年から代表取締役を務める太刀川恒夫会長(84)の方針もあり、
デジタルシフトが遅れたのが決定的な経営ミス。 昨年6月からやっとネット記事に力を入れ始め、
デジタル部門の売上が3倍以上伸びたので、経営幹部は手柄顔をしていますが、焼け石に水ですよ。
一方、デジタル部門に若手を配置したことで、40歳を境とする世代間対立も起きています」(同前)
加えて自社ビルではないため、賃料の負担も大きい。
「景気の良かった頃にゴルフ場を買ったり、マンション投資をしていましたが、今は手放しました」(同前)
コロナ禍も追い打ちに。 前出の50代記者が続ける。
「競馬面は昔から充実していてファンも多いが、JRAの場外馬券売り場がコロナでしばらく閉じたことで、部数がガクッと落ちました」
説明会で提示された金銭的補償は、通常の退職金+1年分の給料だった。
「募集締め切りは5月14日、退職期日は6月末ですが、50歳でトータル2000万円出るかどうか。お先真っ暗ですよ」(前出・出席者)
東スポに事実関係を問うと、「回答を控えさせていただきます」(法務広報室)。
“飛ばしの東スポ”の勢いは失わないで欲しい。
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☆ 西本幸雄監督、“悲運”の幕開け? “バカヤロー解散”ならぬ 「バカヤロー!」解任 【プロ野球はみだし録】
阪急(現在のオリックス)と近鉄を初のリーグ優勝に導いた西本幸雄監督。
3チームでパ・リーグ制覇8度も、ついに日本一には届かなかった “悲運の名将”だ。
初めてリーグ優勝を経験したのは1960年で、大毎(現在のロッテ)の監督に就任して1年目。
いきなりリーグ優勝に導いて手腕を発揮したが、同時に“悲運”の始まりでもあった。しかも、プロ野球の歴史でも類を見ない屈辱的な形で。
かつて社会か何かの授業で、衆議院の“バカヤロー解散”なるものを習った気がするが、
首相の吉田茂がつぶやいた「バカヤロー」の一言で政治の流れが変わってしまったのだから、独り言でも言葉には気をつけねばなるまい。
一方、プロ野球で“バカヤロー解任”というべき事件が勃発したのが、この60年だ。 “バカヤロー解散”から7年後のことだが、
発言の主が追いつめられた解散劇とは対照的に、プロ野球では「バカヤロー!」と言われたほうが退任に追い込まれている。
それが西本監督だった。 発言の主は名物オーナーとして名を残す永田雅一だ。
初めてセ・リーグを制した大洋(現在のDeNA)と日本シリーズで激突した大毎だったが、第1戦から3連敗。
第2戦ではスクイズの失敗で西本監督の手腕が批判され、第3戦に敗れた後、永田オーナーと西本監督は電話で口論になる。
売り言葉に買い言葉、という面もあっただろう。 永田オーナーは「バカヤロー!」と言って電話をガチャ。
大毎は第4戦でもスクイズの失敗があり、すべて1点差の4連敗で敗退した。 西本監督は辞任。解任されたとする資料も残る。
いずれにしても優勝監督が1年で退任するのは異常事態だった。とはいえ、その手腕までが球界から否定されたわけではなかった。
評論家に転じた西本を1年でコーチとして招聘したのが阪急で、それも1年で西本は監督に就任する。
阪急が初めてパ・リーグの頂点に輝くのは西本監督の就任5年目となる67年。 黄金時代の幕開けだった。
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☆ 野球を知り尽くした打者の“裏技?” 「打撃妨害」の奥深い世界 ①
相当の野球通でも「打撃妨害」について語ることができる人は少ないのではないか。
打撃成績の中で、最も地味な記録と言っても良いだろう。
「打撃妨害」は、打者の打撃を守備側が妨害したと審判が判断したときに宣せられる。
打者は一塁に歩き、打席はカウントされるが打数はつかない。当該する野手には「失策」がつく。
ただし「出塁率」の計算をするときは「出塁」とはみなされない。
ほとんどの場合は、打撃の動作を開始した打者のバットに捕手のミットが触れた際に記録されるが、
打者が打つ前に捕手など野手が本塁上やその前で投球を捕球した際にも「打撃妨害」が宣告される。
NPBが発行する「オフィシャル・ベースボール・ガイド」では、打撃妨害は「打数」の横に▲で表示される。
非常に珍しい記録であり、昨年はロッテの藤岡裕大が1つ記録しただけだ。いわばアクシデントであって、
打者の意志とは関係ない数字のはずなのだが、なぜか「打撃妨害」は、特定の選手が記録することが多いのだ。
NPBの通算打撃妨害数10傑。試合数は通算。*は左打者、+は両打。
21 中利夫*(1955-72 中日1877試合)
15 与那嶺要*(1951-62 巨人、中日1219試合)
11 三宅宅三(1950-57 毎日723試合)
11 小玉明利(1954-69 近鉄、阪神1946試合)
10 青田昇(1942-59巨人、阪急、大洋1709試合)
10 山内一弘(1952-70毎日、阪神、広島2235試合)
10 張本勲*(1959-80 日本ハム、巨人、ロッテ2752試合)
9 岡本伊三美(1950-63南海1289試合)
9 高橋慶彦+(1976-92広島、ロッテ、阪神1722試合)
8 長谷川善三(1941-54南海、大阪、西鉄、毎日、高橋927試合)
8 小林晋哉*(1978-87阪急710試合)
8 栗原健太(2002-13広島1026試合)
球史に名を残す名選手揃いだ。このうち与那嶺、青田、山内、張本は野球殿堂入りしている。
この顔ぶれに共通しているのは、三振が少なくバットコントロールが巧みな打者が多いことか。
史上1位の21もの打撃妨害を記録した中利夫は左打者。駿足巧打の名外野手。高木守道との1、2番は名コンビと謳われた。
首位打者1回、盗塁王1回。18年の現役生活だったが12シーズンで打撃妨害を記録した。
2位の与那嶺要も首位打者3回、最多安打3回の左打者。ハワイ出身の日系アメリカ人で、
川上哲治の最大のライバルと言われた。 巨人に在籍した10年間で15回の打撃妨害を記録している。
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☆ 同上 ②
シーズン最多の6回も打撃妨害を記録したのが、1960年の小玉明利。近鉄の名三塁手として活躍した右打者。
首位打者はとっていないが、打率ベストテンに9回も名前を出している。通算1877安打は近鉄最多。
1960年は、近鉄はチームとしては最下位に沈んだが、小玉は打率.301で5位に入り、キャリアハイの20本塁打を記録している。
もし6つの妨害出塁がなければ、打率は.298になり3割を割っていたことになる。
青田昇は「じゃじゃ馬」と言われた強打者。本塁打王5回、打点王2回、首位打者1回。
阪急時代の1946年には史上2位の5回の打撃妨害を記録している。
山内一弘は本塁打王2回、打点王4回、首位打者1回、毎日オリオンズ時代はパ最強打者の座を西鉄の中西太と争った。
一時期はNPBの最多安打、本塁打の記録を持っていた。
張本勲は言わずと知れたNPB最多の3085安打を打った史上最高の安打製造機。
日本ハム時代の1973年には4つの打撃妨害を記録している。
最近の選手では、広島の強打者として活躍した栗原健太がいる。彼も3割2回、打率ベストテン入り3回という
アベレージヒッターだったが、2009年8月29日の横浜戦では「2打席連続打撃妨害」という恐らく史上唯一の記録を残している。
こうしてみると長く試合に出続けている強打者であれば、数回程度の打撃妨害はあってもおかしくないように思えるが、そうではない。
史上最多の11970打席に立った野村克也、これに次ぐ11866打席の王貞治らは1度も記録していない。
打撃妨害が多い打者はぎりぎりまで引き付けてボールを叩くことが多いので、捕手のミットに接触することが多いという説がある。
しかし投球を引き付けて打つのは、好打者の一般的な特徴であって、これも珍しいものではない。
疑念が浮かぶのは「わざとミットに当てているのではないか?」ということだ。そうであれば「打撃妨害」ではなく
反対に捕手の守備を妨害したとして「守備妨害」になり打者にはアウトが宣せられる。
だから打者は絶対に「わざとだ」とは言わないだろうが、虚実皮膜、曰く言い難い判断の結果として「打撃妨害」という記録が
生まれているのだろう。実は打者が自分の打撃妨害について語ったレアな記録がある。
巨人、ヤンキースなどの強打者として大活躍した松井秀喜は、NPBでは1999年と2000年に打撃妨害を1回ずつ記録しているが、
MLBに移籍してからも打撃妨害を10回記録している。2010年、エンゼルス時代には4回も打撃妨害を記録しているが、
2011年のアスレチックス時代にも記録、「捕手のミットがバットに当たって打撃妨害となったが、僕の得意技ですから」と語っている。
要するに打撃妨害は「野球を熟知した打者」の「奥の手」だということが言えよう。
決して野球少年にはお勧めできない「裏技」ではあるが、これもプロ野球の「味」の内ではないだろうか。
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☆ 日本長者番付、孫正義が首位奪還 上位50人の資産総額は48%増加
フォーブスは4月22日、2021年板「日本長者番付」を発表した。
新型コロナウイルスのパンデミックが続く中でも、日本の富豪上位50人の資産は合計で2490億ドル(約27兆円)となり、
昨年の1680億ドルから48%増加した。
また、今回の番付では50位の富豪の保有資産が11億5000万ドルとなり、初めて10億ドルを超えた。
昨年の50位の資産額は8億1000万ドルだった。
以下、今年の日本長者番付トップ10の顔ぶれを紹介する。
1位 孫 正義(ソフトバンクグループ)/444億ドル
2位 柳井 正(ファーストリテイリング)/420億ドル
3位 滝崎武光(キーエンス)/258億ドル
4位 佐治信忠(サントリーホールディングス)/97億ドル
5位 永守重信(日本電産)/90億ドル
6位 高原豪久(ユニ・チャーム)/80億ドル
7位 三木谷浩史(楽天)/75億ドル
8位 似鳥昭雄(ニトリ)/52億ドル
9位 重田康光(光通信)/51億ドル
10位 毒島秀行(三共)/44億ドル
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☆ 大谷1号、100号を見た男が感じた “打てそうな雰囲気” (日刊スポーツ)
エンゼルス大谷翔平投手(26)が21日(日本時間22日)、登板翌日弾で節目を飾った。
3回の第2打席、右中間へ日米通算100号となる今季5号ソロを放った。
本紙メジャー担当記者は、13年7月10日の楽天戦で放った日本1号とこの日の日米通算100号を、
ともに現地で目撃した世界でもまれな存在。 9年の歳月を経て大谷に感じたものとは?
Kスタ宮城(当時)のバックネット裏記者席で、打者大谷を初めて見た。そして、プロ1号を放った。
打った瞬間に本塁打と思わせた右翼への弾道は、今でも記憶に刻まれている。
まさか8年後、米国で通算100号を再び肉眼で目撃するとは、思ってもみなかった。
8年前の記憶をたどると、大谷は「いい構えだな」と思った。身長は高かったが、パワーがありそうな体格ではなかった。
「打てるのかな」。そんな印象だった。 5年後、メジャー1年目から大谷を取材する縁に恵まれた。
今では日々、エンゼルスタジアムで打席に立つ姿を見ると「打てそうだな」と思う。
体格が大きくなったことはもちろんだが、打席で強打者の雰囲気が漂っている。
かつて大谷は、打席での構えを大事にする上で最も意識していることについてこう言った。
「打てそうな雰囲気を持って、打席に立てるかどうか」。 8年前は正直、感じられなかった。だが今は違う。
大谷が求める雰囲気は、外からでも確実に見てとれるようになった。
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☆ 【4月24日の話】 目黒競馬場で第1回日本ダービー開催… 払戻金は39円
1932年4月24日、いまはなき東京・目黒競馬場で、第1回日本ダービーが開催された。当日はどのような様子だったのか。
目黒区役所の担当者に聞いた。
「あいにくの雨模様のなか開催され、1位を取ったのは下総三里塚産のワカタカ号でした。
単勝式払戻金は39円と記録が残っています。 当時の馬券は1枚20円で、1レースにつき1人1枚しか買えませんでした。
平均給与が60〜70円の時代ですから、なかなかぜいたくな遊びですね。
観客のなかには、何人かでお金を出し合って1枚の馬券を購入し、馬券を持っている人に逃げられないよう、
互いにたもとをしっかり握りあって歩く姿も見かけられたそうです。
また、入場券は1等席が5円、2等席が2円となっていて、1等席には羽織・袴または洋服を着用しなければ入場できませんでした。
そのため、競馬場の近くには貸衣装屋もあったそうです」
1907年に開設された目黒競馬場は、出走馬をファンに見せる引馬場も併設し、当時としては目新しい設備を揃えていた。
レースは人気があったが、それだけに一攫千金を狙う人々が多く押しかけ、風紀の乱れも。
「1908年、政府によって馬券が禁止されたことから、各地の競技場は閑散としてしまいました。
その年も競馬自体は開催されましたが、政府補助による賞金を各馬が競うという内容で、
お金を賭けられない観客としてはおもしろくない。4日間の開催で、目黒競馬場の入場者は500人に満たないものでした。
なんとか状況を打開しようと、目黒競馬場は勝ち馬の的中者にデパートの商品券を贈呈する余興を始めます。
これにより、たちまち1万2000人以上の観客が集まるようになりました」
その後、馬券の効果を見直した政府が、馬券発売を認める「競馬法」を制定する。目黒競馬場は再び活気を取り戻し、
盛り上がりのなかで第1回日本ダービーが開催されたのだ。
目黒区の宅地化が進んだことから、現在は府中市へ移転し、東京競馬場となった。
目黒通りには、「元競馬場前」というバス停が今も残されている。
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☆ プロ野球で珍プレー ロッテの投手に「15秒」ルールを適用
ZOZOマリンスタジアムで23日に実施されたロッテ、ソフトバンク戦で珍しいプレーが飛び出した。
七回表2死、ハーマンがソフトバンクの甲斐に対し、カウント1ボール2ストライクとしたところで、
投球間隔が規定の15秒を超えたため、ペナルティーでボールが宣告された。
「15秒」ルールは、2009年にプロ野球に導入されたが、実際に適用されるのは珍しい。
公認野球規則では、投手は「塁に走者がいないとき、投手はボールを受けた後12秒以内に打者に投球しなければならない。
投手が違反して試合を長引かせた場合には、球審はボールを宣告する」と定めている。
パ・リーグはアグリーメントでこれを「15秒」と規定し直している。
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☆ 球場に美声響かせ40年以上 網膜症でも「やればできる」
「自信ができると、人間は変われる」。 マスカットスタジアムで21日にあった社会人野球のJABA岡山大会決勝。
場内アナウンスを担当した岡田麻里さん(61)は、この道40年以上のベテランだ。 球場に響く伸びやかな美声。
だが、その視界は「グレー一色」で、白球の行方も追えない。 くじけそうになった時もあるが、マイクに向かい続ける。
父の雅之さん(87)が岡山東高(現岡山東商)野球部OBで、幼いころから野球が身近にあった。
小学6年だった1971年の夏。全国高校野球選手権で4強入りした岡山東商のライト投手(元阪急)の雄姿にひかれた。
「東商のマネジャーになる」と、心を決めた。
しかし、進学すると「女子マネ、お断り」の時代。ソフトボールに打ち込んだ後、岡山商大で念願の野球部マネジャーとなった。
中国地区大学野球連盟の運営に携わる中で、場内放送も担当。「最初は失敗もあった」と笑う。
選手の出身高校の沼南(しょうなん)(広島県福山市)を「ぬまみなみ」と読んでしまった。
その後は選手名や校名の読みなどは事前に確認。自前の放送マニュアルも作った。
手際のよさが評判となり、社会人野球にもかかわるように。
卒業後、父が経営する理髪器具卸売会社に就職した後も連盟の仕事を続け、専務理事に就いて20年以上になる。
思い出深いのは95年、倉敷市で開催されたアトランタ五輪の野球アジア地区予選。
中国、韓国、台湾などの選手名の読み方、発音は、岡山商科大の留学生に学んだ。
松中信彦、井口忠仁、福留孝介ら後にプロ野球や米大リーグで活躍する選手を擁した日本は、代表の座をつかむ。
岡田さんは、マスカットスタジアムでの決勝アナウンスを担当。「日本が勝った瞬間、放送していて涙がこぼれた」
その目に不調を覚えたのは、2013年の冬。 取引先の理髪店の店頭にあるはずの3色のサインポールが見えない。
糖尿病からくる網膜症と診断された。 見える世界は「灰色」に変わり、字も読みづらくなった。
「もう、アナウンスはできない」と悲嘆した。しかし、培ってきた経験があった。五感を研ぎ澄ませば、選手交代の気配も感じる。
「やれば、できる」。 周囲の助けも借りながら、メンバー表を大きな紙にマジックで書き直し、マイクの前に置く。
「1番、センター…」。 これが、生きがいだ。
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☆ 阪神・藤浪抹消へ 甲子園に姿見せず 守屋が合流
守屋功輝投手(27)が24日、甲子園の1軍本隊に合流した。このまま出場選手登録される見込み。
守屋は今季ウエスタン・リーグで6試合6回1/3を投げ、防御率0・00。
3連投の馬場、2日続けて投げている小野など負担が増えているブルペン陣を支える働きが期待される。
なお、前日のDeNA戦で7四死球を与えるなど4回0/3を4失点だった藤浪晋太郎投手(27)は
甲子園に姿を見せておらず、出場選手登録を抹消される見込みとなった。
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☆ 奇跡の同点で延長17回の死闘… 球史に残る“伝説の延長戦” 3試合を振り返る
球史に残る“伝説の延長戦”を振り返りたい。 67年4月30日の阪神vs広島(甲子園)である。
阪神・村山実、広島・池田英俊の両先発がともに譲らず、延長10回を終わって0対0。その後、投手戦は11回に急展開を見せる。
まず、広島が1死から4番・山本一義の中前安打でチャンスをつくり、寺岡孝の左中間二塁打でついに均衡を破る。
その裏、阪神は簡単に2死を取られ、追い詰められたが、「こんなときに何とかする打者」と藤本監督が村山の代打に送り出した
“ヒゲ辻”こと辻佳紀が、左翼ラッキーゾーンに起死回生の同点ソロ。
「あと一人」で完封勝利を逃した池田は、マウンドの土を投げて悔しがった。その後、両チームともリリーフ陣が踏ん張り、
ゼロ行進が続くが、17回に広島がビッグイニングをつくる。左肘の炎症を押して13回から投げつづけていた阪神の3番手・権藤正利に
山本一の2ランなど4長短打を浴びせ、5対1と勝ち越し。誰もが「勝負あった!」と思った。
ところが、その裏、阪神も粘りに粘る。先頭の代打・辻恭彦が安打で出ると、2死二塁から藤井栄治のタイムリーで、まず1点。
さらに安打と連続四球で押し出しの1点を追加したあと、なおも満塁で、“ラッキーボーイ”辻佳紀が、
広島の3番手・三好幸雄に1-2と追い込まれながらも、中前に同点2点タイムリー。
「2ストライクを取られても、オレはヒットを打てると思っていた」という自信が驚異の同点劇を呼び込んだ。
かくして、延長17回の死闘は5対5の引き分けでゲームセット。
藤本監督は「えらい長い試合やった。こんな長丁場は記憶にない。何時間? 4時間45分? そうやろ」と負け試合を
引き分けまで持っていったことに安堵した様子だった。
一方、目前の勝利を逃した広島・長谷川監督は「負けたときよりも疲れたようだ」と足取りも重く、帰りのバスに乗り込んだ。
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☆ 同上 ②
この4時間45分を1時間以上も上回る“スーパー打撃戦”となったのが、93年5月20日のヤクルトvs広島(神宮)だ。
先発・荒木大輔が3回途中でKOされ、2対5とリードを許したヤクルトだったが、3回に池山隆寛の逆転満塁弾と
3ランの1イニング2本塁打など、打者14人の猛攻で一挙11得点。 13対5と逆に大差をつけた。
だが、広島も負けていない。4回に4番・江藤智の二塁打で2点を返すと、5、6、7回にも1点ずつ小刻みに得点を重ね、
4点差まで追い上げる。これに対し、4回以降わずか1得点だったヤクルトも、7回に荒井幸雄、ハウエルの一発攻勢で
2点を追加して16対10。 試合を決めたかに思われた。
ところが8回、広島は前田智徳の左前2点タイムリーなど、四球を挟む6連打で5点をとって、怒涛の猛反撃。
さらに2死後、山崎隆造の右前タイムリーで、ついに同点となった。
しかし、ここから試合は一転して佐々岡真司と山田勉の投手戦となり、広島は9回以降3安打、ヤクルトも9回から13回まで
2安打と沈黙する。 そして14回、3四球で2死満塁としたヤクルトは、ハドラーが中前に弾き返し、
ようやく17対16で5時間46分の大激戦に終止符を打った。
試合後、一人で8打点を叩き出した池山は、3回の2本塁打について「まるで昨日のことだよ」と振り返ったが、
実は試合が終わったのは「午前0時6分」。 本当に昨日の出来事になっていた。
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☆ 同上 ③
史上初の3投手継投による延長戦でのノーヒットノーランが達成されたのが、06年4月15日のソフトバンクvs日本ハムだ。
日本ハムのルーキー左腕・八木智哉は、初回に先頭の大村直之を四球で歩かせるなど、計4四球を許しながらも、
適度にボールが散らばったことが幸いし、140キロ未満の直球にスクリューボールやスライダーで緩急をつけて、
ソフトバンクの強力打線を翻弄。 延長10回まで無安打無失点に抑えた。
だが、味方打線も決定打を欠き、初回からゼロ行進。150球投げた八木は10回限りで無念の降板となったが、
2番手・武田久も11回を三者凡退に打ち取り、ノーヒットノーランは継続する。
試合が動いたのは12回。日本ハムは1死一、三塁でルーキー・川島慶三が遊ゴロに倒れるも、執念のヘッドスライディングで
間一髪セーフ。 併殺崩れの間に三塁走者・小笠原道大が生還し、虎の子の1点を挙げた。
その裏、守護神・マイケル中村が2四球を許したものの、最後の打者・井出竜也を三振に打ち取り、3投手継投による
ノーヒットノーランの快挙で1対0の勝利。 お立ち台に上がった八木は「勝ち投手で終わりたかったんですが。
残念だけど、チームが勝って良かった」と晴れやかな表情だった。
ヒルマン監督も「交代は迷ったが、代え時と思い決断した。八木は言葉に表せないピッチング。あとの2人もよくやってくれた」
と3投手の頑張りをたたえた。ちなみに、同年、日本ハムは62年の東映時代以来、44年ぶりの日本一に輝いている。
もし、これらの3試合がいずれも9回打ち切り引き分けだったら、興趣を削がれていたのも事実だ。
来年こそは、コロナが終息して再び延長戦が見られる日を心待ちにしたい。
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☆ 第1回ドラフトで巨人が堀内恒夫を指名した舞台裏 【越智正典 ネット裏】
プロ野球第1回新人選択会議はクジ引きドラフトだったが、終わると各球団の戸惑い、不安が映し出されていた。
近鉄は電電九州の投手、19歳の田端謙二郎をいまでいう1位指名したが、育英高校の左腕鈴木啓示を2位に回していた。
他球団の第1次選択選手とぶつかるのを避けたのである。銚子商業の木樽正明も、東京(ロッテ)は2位にしていた。
「台風の沢ちゃん」「ツケモノの沢ちゃん」。巨人のスカウト、沢田幸夫は迷いも不安もなく、
まっしぐらに甲府商業の投手堀内恒夫を1位にあげて突き進んだ。
巨人というと、選手ではなくても万事がゴージャスだと思われがちだが、そうではない。
沢田は物価が安い東京・江戸川区小岩のアパートの一室を借りて住んでいた。家賃は月6000円。
同じアパートに若き日の北島三郎が部屋を借りていた。北島三郎は、昼間は音楽学校に通って猛勉強。
夜は渋谷で流し。3曲100円。 青春の志の二人は意気投合、固く友情に結ばれる。
沢田はどうして堀内だったのか。堀内は甲子園球児にはちがいなかったが、出場したのは1年生のときのことで、
その昭和38年は第45回大会の記念大会で48校が出場している。
大会会場は甲子園球場と西宮球場。スカウトの目はそうはとどかない。
このとき、甲府商業のエースは大石勝彦(大洋)。堀内は補欠で投手兼外野手。
2回戦で宮崎商業と対戦した0対1の5回二死走者一塁でマウンドへ。2打者に連続デッドボールをぶつけて満塁。
ベンチが目をつぶったときにショートゴロに打ち取った。そんなわけで、全国的には無名選手と言ってよかった。
堀内は2年生になる。勝てば甲子園へ行ける西関東大会(山梨と埼玉)に進んだが、決勝で0対1熊谷商工。
3年の夏も熊谷商工が甲子園へ。 堀内は西関東大会の1回戦で熊谷商工の捕手橋本に本塁打を打たれて負けた。
沢田は当時、時間を作って中学生の野球を見に行っていた。それは画期的な調査だった。
リトルリーグのチームは日本にはまだない。
武蔵野市の少年たちが主体の「西東京」が世界大会で優勝するのは42年のことである。もちろん、リトルシニアもまだない。
沢田は、今度は高校野球、高校野球…と40年の早春、甲府を訪れていた。
堀内恒夫にとってそれは天運といってもいいのかも知れない。
家は甲府市朝気町の堀内製糸所。おかいこさんである。キレイな絹糸を作る仕事は一年じゅう忙しい。
沢田幸夫が甲府商業の校庭のすぐそばで「オヤ!」と、立ち止まらなかったら、堀内はひょっとすると
おとうさんが粒粒辛苦、育てて来た堀内製糸所の後継ぎ、二代目になっていたかもしれない。
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☆ 170センチ未満の剛速球投手 「山口高志」 プロ入りを拒否し、一度社会人になった理由とは(小林信也) ①
「小さな剛速球投手」山口高志は1975年、プロ野球界に衝撃的に登場した。
セ・パの人気格差が大きかったこの時代、山口が全国的な注目を浴びたのは秋の日本シリーズだった。
セ・リーグを初めて制した広島カープと、6度目のシリーズ出場を果たした阪急ブレーブスの対決。
第1戦と4戦が延長引き分けとなるシリーズを制したのは阪急だった。中でも、5試合に登板し、
広島打線の前に立ちはだかった山口の剛速球にみな度肝を抜かれた。
公称172センチ、「実際には169・9センチ」。
肩幅や腰回りはがっちりしているが、プロ野球の投手の中で山口はとびきり小柄だった。
それでいて滅法速い。高めに伸び上がる快速球を空振りする広島の打者たちの姿ばかりが印象に刻まれた。
山口はシリーズ1勝2セーブ、胴上げ投手になり、新人ながら最優秀選手に選ばれた。
実働4年で47勝、8年で50勝。その数字以上の衝撃を山口は球史に残した。
誰もが知る存在になったのは25歳を迎えてからだが、山口は高校時代から頭角を現していた。
神戸市立神港高2年春の兵庫県大会で、育英と東洋大姫路を相手に2試合連続ノーヒットノーランを記録している。
3年の時には春夏とも甲子園に出場。高校時代からすでに山口はその存在を知らしめ、光を放っていた。
ところが、プロ野球から指名はなかった。憧れの東京六大学から誘われることもなく、地元の関西大学に進学する。
関大では、7度のリーグ優勝、大学選手権と神宮大会の優勝に貢献。通算46勝、年間最多記録の18勝、連続完封6、
通算完封19など数々の記録を塗り替えた。しかし、山口はドラフト前に「プロ入り拒否」を宣言。松下電器への入社を選んだ。
「自信がなかったからやね」
アドバイザリースタッフとしてほぼ毎日ユニフォーム姿で指導にあたる関大の野球場を訪ねると、そう言って笑った。
現役時代と変わらない、精悍な眼差し。
背が低かったからですか? 訊くと山口は「そう」とうなずいた。
「自分のボールが速いとは思っていなかった。 プロでやれる自信もなかった」
それでも社会人2年目でプロ入りを決意したのはなぜだったのか?
「仕事か野球か、このままでは中途半端になると思い始めたんです」
世界の松下の環境は恵まれすぎていた。午前中だけ人事部の仕事をし、午後から練習。大会前になれば合宿に出かけ、
仕事を免除された。将来に不安も感じ、会社の仲間たちに申し訳ない気がした。どちらも中途半端になるのではないか。
そんな葛藤から、プロ野球での勝負を決めた。
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☆ 同上 ②
阪急の1位指名を受けて入団。 春先のキャンプで早くも自信が揺らいだ。
「ブルペンに入ると、山田久志さん、足立光宏さん、みんな変化球が凄かった。プロ野球で生き抜くには変化球だ、
投球術が大事なんだ、そう感じたんです。 私はストレートとカーブしか投げられませんでした」
強烈な焦り、劣等感に山口は苛まれた。
「スライダー、シュート、フォーク、いろいろ試しました。でも、変化球を多めに練習しすぎたせいか、真っすぐの走りが悪くなって」
リリーフで出た初登板で打たれ、2試合目の近鉄戦ではカーブを土井正博にホームランされた。
すっかり自信を失い、道に迷い始めた時、チームの先輩・福本豊から思いがけない話を聞かされた。
打たれた相手の土井と福本は大鉄高の先輩後輩。 そんな関係で言葉を交わした時、土井が言ったという。
「高志のボールの中ではストレートが一番打ちにくい」 それを聞いて、山口はハッと胸を衝かれた。
「それが私の、覚醒の時でした…」 初めて、速球に自信を与えられた瞬間だった。
「そのことが、4月22日の南海戦の先発初勝利につながったのです」
剛球と豪快なフォームの源泉は「腹背筋の強さ」だと山口が振り返る。
「高校の監督に『腹背筋やって死んだヤツはおらん』言われてね」
冬場になると、電車で約20分の海岸に行って砂浜を走り、砂の上で「V字腹筋」を延々と繰り返した。
山口の投球フォームを見返すと、豪快なアーム式の右腕以上に、右腕が後方から前に振り出される瞬間の「腰の抜け」、
一瞬で上体が前方に切り替わる鋭さに驚嘆させられる。肩への負担は感じられない。理に適った投げ方ではないか。
指導者として、投手の可能性を見る時、どこに注目しますか? 訊くと山口はすぐに教えてくれた。
「腕が長く見えるか、腕を長く使えるか、だね」 それはまさに、山口高志の投法そのものだ。
阪神の投手コーチ時代、藤川球児を指導したことでも知られる。
「球児と僕、ひとつ共通点がある。ストレートの握りね。誰に聞いても人差し指と中指の間を少し開けるんだけど、
球児と僕は2本の指をピッタリくっつける」 それが、勢いよくホップし伸び上がる快速球の秘密なのだろうか。
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☆ 母に、祖父に、父に届け。 中日の育成・松木平優太が“珍しい名前”を世界に轟かせる日
「世界中に松木平という珍しい名前を知らせたいです」
去年12月の入団会見で、育成ドラフト3位指名の松木平優太は力強く誓った。
私は会見場にいたが、コロナ禍で取材制限があり、言葉の真意を本人に聞くことはできなかった。
「メジャー志向でもあるんですか」と、私が彼を担当した山本将道スカウトに尋ねたところ、「いや、そうじゃないんです。
結局、言えずじまいでした」と表情を曇らせた。 山本スカウトは「松木平は身寄りがないんです。
どのみち分かることですから、この場で全て喋ろうと、昨日打ち合わせをしたんですが、質問がなかったですね」と打ち明け、
「彼には両親がいない子供たちの希望の星になって欲しいです」と話した。
先日、松木平に直接、話を聞くことができた。2003年2月24日。松木平はインドネシア人の父と日本人の母の間に生まれた。
1つ年上の姉がいる。 2歳の時、両親は離婚した。その後は大阪市内の母の実家で祖父母と5人暮らしをしていた。
「父とは公園で遊んだ記憶くらいしかないです。 物心がついた時にはいませんでした。今も連絡は取れていません」
野球との出会いは小学校1年生の時だった。
「最初はソフトボールでした。 近所に住む親戚のおじさんとキャッチボールをしたのがきっかけです」
翌年、悲劇が訪れる。 「今でも鮮明に覚えています。 病室で医者が『息を引き取りました』と言ったんです。
いつも一緒に遊んでくれて、大好きだった母が亡くなりました。 僕は涙が止まらず、姉は横で泣き崩れていました」
肝臓がんだった。 亡くなる3年前から入退院を繰り返していたという。
「救急車が苦手でした。 音がすると、また母が連れて行かれるんじゃないかと。だから、救急車の音が近付くと、
いつも布団を被っていました」 母との死別を小さな体で受け止めようとしたが、無理だった。
「元気が出ず、黙々と生活を送るだけでした。 あの頃はずっと暗かったです」
一瞬だけ笑顔になれる時があった。それは夢で母に出会えた時だ。
「いつも通り、台所で僕と姉に料理を作ってくれて、そのまま食卓で喋りながら食べるんです。
でも、目が覚めると、『あれ、いないや』って。 夢に母が出てきた時はずっと寝ていたかったです」
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☆ 同上 ②
幼い姉弟を祖父母が懸命に支えた。
「お陰で少しずつ立ち直れました。祖父は野球好きで、一緒にキャッチボールやランニングをしてくれました。
毎晩、ナイターを見るのも楽しみでした。
祖母は僕がソフトボールの練習が終わって帰宅する頃にいつも温かいご飯を作ってくれていました」
祖父母の愛に加え、松木平を悲しみの底から救ったのはチームメイトだった。
「最初は母の死を言えなかったんです。でも、コーチがうまく伝えてくれて、みんなが励ましてくれるようになりました。
同級生のキャプテンのお母さんは僕の弁当まで作ってくれました。祖母に負担をかけないようにと。
あの時、仲間がいなかったら、1人で全部を抱え込んでいたと思います」
中学では大阪・港ボーイズに入団した。
「プロ野球選手になろうなんて全然。 ポジションはショートとライト、たまにピッチャー。
とにかくガリガリで、写真を見返すと、やばいくらい細いです」と笑う。
強豪校からの勧誘はなく、高校は同じボーイズで憧れの先輩が進学した精華高校へ。松木平は内野手として活躍し、
2年夏には背番号5をもらった。 甲子園を目指す大阪府大会初戦の2日前、それは突然だった。
「夜、姉がアルバイトから帰ってきて、寝ていた僕を起こしたんです。
『じいじのチャリがない。おかしい。探しに行こう』と。 祖父は家の近所をサイクリングするのが日課でした。
でも、その日は夜になっても帰って来なかったんです。 警察に捜索願も出しましたが、見つかりませんでした」
翌朝、通学路の様子が異様だった。「川の周りにレスキュー隊がいたんです。 まさかと思いながら、高校へ行きました。
すると、『祖父が転落死した』と連絡があったんです。
あまりにもショックで、早退しました。 祖母が泣いたのを初めて見ました。胸が痛かったです」
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☆ 同上 ③
松木平は悲しみに耐え、一心不乱に白球を追いかけた。 新チームになると、エースナンバーを背負った。
「コロナで自粛中に体を大きくしようと決心したんです。 祖母に無理を言って、ご飯もおかずの量も増やしてもらいました。
それで体重もアップして、ガリガリではなくなりました。球速も上がりました」
3年夏、「過去で一番良かった」と振り返る履正社高校との練習試合は圧巻だった。 この好投がスカウトの目に留まり、
中日とオリックスから調査書が届いた。 遠かったプロの世界が一気に近付いた。
「これまで僕の試合を家族は1度も見たことがありません。母と祖父は亡くなり、姉は看護師を目指して勉強とアルバイトで目一杯。
祖母も高3の夏に体調を崩したので、観戦は控えていました。でも、プロで活躍すれば、祖母や姉、天国の母と祖父にも見てもらえる。
そして、世界のどこかにいる父にも伝わるはずです」
入団会見の言葉の意味が分かった。 「この世に苦しい思いをしている人はたくさんいると思います。
今は両親がいなくても、過去にいたから、僕がいる。 だから、両親に感謝の気持ちを持って、生き続けて、
今していることを一生懸命すれば、きっと幸せは訪れると思います」
松木平のプロ野球人生は始まったばかりだ。 キャンプでブルペンに6回入ったが、球数は50球まで。
帰名後に打撃投手を3回こなし、今月中旬に初めてシート打撃に登板。実戦デビューは5月下旬の予定だ。
「今は全選手の中で最下位。 ここから徐々に実力をつけていきたいです」と前を向く。
祖父に言いたいことを聞いた。 「今、一緒にテレビで見ていた世界にいます。 早く試合で投げられるように頑張ります」
母に言いたいことを聞いた。 「あれからたくさんの人に支えてもらって、プロ野球選手になれました。
投げる日までゆっくりしておいて。 僕を産んでくれてありがとう」 松木平という名前が世界に轟く日を待っている。
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☆ 春の岡山県高校野球 2回戦 倉敷工 10&