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倉工ファン

1名無しさん:2017/08/17(木) 17:05:06
春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。
当然、招待試合などに招かれるケースも増える。

小山にとっては、これが不運。
痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」

こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。
小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。
小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。
このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。

しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。
中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。
『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。
2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。
エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。
延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。
この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。

倉敷工 武  津久見 太田 。
両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。
こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。
当然、倉工ファンも多くなって行く。

小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

2名無しさん:2017/08/17(木) 17:11:05
甲子園で22年間、名勝負を胸に審判勇退

2006年08月19日

日本高野連審判規則委員会の岡本良一委員(54)が、
今大会を最後に22年間務めた甲子園の審判を勇退する。
「支えてくれた多くの方や選手、審判として育ててもらった甲子園に感謝したい」と振り返る。


岡本さんは岡山・倉敷工2年だった68年、三塁手として春夏の甲子園に出場し、いずれもベスト4に進んだ。
明大、川崎重工(現在は休部)でもプレーし、都市対抗に出場するなど活躍した。
30歳で現役を退き、直後、「野球に恩返ししたい」と審判に転じた。

アンパイアとして甲子園の土を初めて踏んだのは84年、
第66回全国選手権。この大会はPL学園(大阪)の清原(現オリックス)らがアーチを量産。
計47本塁打は今年破られるまで1大会通算記録だった。
「僕自身、甲子園で清原君の本塁打をコールしたことがある。
すごい打者でした」と懐かしむ。

98年の第80回大会では、優勝した横浜(神奈川)の熱戦に立ち会った。
延長17回にわたったPL学園との準々決勝と、
エース松坂(現西武)が無安打無得点試合を達成した京都成章との決勝で球審を担当した。
「春はどこも打てなかった松坂君のボールを、夏のPLは鋭く打ち返していた。
高校生の成長の速さを感じた」と語る。

「審判は選手の応援団」と思ってきたという。
公正さを保ちつつ、好プレーはたたえ、消極的な打者には「これは打てる球だ」との気持ちを込めてストライクとコールしてきた。
18日、球審を務めた早稲田実(西東京)―日大山形の準々決勝でも、機敏な動きは健在だった。

勤務先の仕事が多忙になり、連盟の活動に思うように参加できなくなったのが勇退の理由だが、
後進育成には意欲を見せる。「若手の審判や、これから審判を目指す人には、まず野球を好きになって欲しい。
向上心もそこから生まれるはず」とエールを送る。

3名無しさん:2017/08/17(木) 17:15:35
木製バットの時代に、甲子園でHR打ったのは藤沢、妹尾、中村、武の4人だけ
3本打った藤沢は四番打者ではなくて、聞いた話じゃが、ランニングも含まれとるらしい

武のは高知にとどめを刺す3ランを放り込んだ一発じゃ
ワシも子供だったので詳細に覚えてないんじゃが〜
シュッとした長身の男前で「四番センター武」「四番センター武」は当時のワシの口癖じゃった

というのもな、武は頼りになるキーマンで4-0だった岡山決勝では全打点を叩きだしたから
ワシの中では「四番センター武」はスターじゃったんやな

4名無しさん:2017/08/17(木) 17:19:00
小山さんは昭和42,43年と連続4季の甲子園だが、4季不動のメンバーだったのは
ピッチャー小山、キャッチャー藤川、セカンド土倉、ライト山口くらいか
武さんは二年の時はレギュでなく、審判の岡本さんは学年が下かと

5名無しさん:2017/08/18(金) 06:41:00
「 昭和43年のチームが、史上最強のチームです。」と小山は、胸を張る。
俊足巧打の 土倉。 バントの名手 山口。 強肩捕手で主将の 藤川。

不動の4番で長打の主砲 武。 エース小山は、右打席でも左打席でも打てるスイッチヒッター。
広角打法の 中村。 意外性の男 富永。 2年生のレギュラー、チーム一の張り切り男岡本。
渋い打撃が魅力の 亀山。 さらに、野球を愛する心は誰にも負けず、また野球への探求心が旺盛な 角野。
この角野が、3塁コーチャーズボックスに立ち、ランナーをホームへと導くのだ。

そして、倉工のエースナンバー 1 をつけた 小山 の力投。
甲子園への視界は良好。 ライバルは、エースで4番の 奥江秀幸選手(大洋ホエールズ入団)のいる、岡山東商。
まさに、闘魂と百戦錬磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突になるのは、必至の予選である。
こうして、史上最強チームの夏が始まった。

第50回全国高校野球選手権大会 岡山県大会
第50回大会記念大会として、全国都道府県の代表校に、沖縄の代表を加えて48校が甲子園切符をつかむのだ。

2回戦   倉敷工 6 - 0 岡山日大

3回戦   倉敷工 4 - 1 理大附 

準々決勝  倉敷工 10 - 6 笠岡商

準決勝  倉敷工 2 - 0 倉敷商

決勝は、ライバル 岡山東商。岡山県の二大都市、岡山市の代表 岡山東商。
倉敷市の代表 倉敷工業。両校の戦いは、早慶戦の様な特別なものがあるのだ。
岡山県高校野球黄金時代の絶頂期である。

先攻を取った倉工は、一回表 4番 武 が2点タイムリーで先取点を上げる。勢いに乗る倉工は、五回にも 武 の2点タイムリーで4点。主砲 武 が4打点の大活躍で快勝。
投げては、エース小山が完封。倉敷は、市民の大歓声に包まれたのである。
そして、倉工ナインは小沢監督を胴上げして、喜びを爆発させたのだ。
甲子園2年連続6回め、前人未到の 4季連続甲子園出場を果たしたのである。

決勝  倉敷工  4 - 0  岡山東商

母に誓った、プロ野球選手。少年の日の夢。一抹の不安を抱えながら肩の痛みをこらえて投げ続ける 小山。
深紅の大優勝旗をつかみに、史上最強チームが聖地へと向かった。

6名無しさん:2017/08/18(金) 08:32:23
昭和43年の倉敷市。工業都市として、みぞうの発展を遂げ また 観光都市としても全国にその名を知られる。
水島コンビナートでは連日フル操業が続く。

こうした中、倉敷のシンボルとして、あるいはアイドルとしてその存在価値を高めて行く倉工野球部。 
「今度こそ、全国制覇を。」 と、倉敷市民は熱い期待を寄せるのだった。
特に、エース小山に寄せる熱い期待と信頼は絶大なものであったに違いない。

「倉工のファンは、熱狂的で特別なファンなんです。」と小山。「練習を終えて帰宅していると
( 小山、今帰っているんか。気をつけて帰れよ。) とかですね、
( おおい、小山がんばれよ。)とね。」 「毎日、たくさんの人が声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。」と、小山は言う。
小山は、今現在も感謝の心を持ち続けている。

全国制覇に向けて走る、倉工ナイン。当然、練習の厳しさも一日一日と増して行く。

グランドの周囲には、のどかな田園地帯が広がっていた。
田んぼからは、カエルの鳴き声が聞こえる。
ところが、その田んぼの中にボールが飛び込んで行く事があった。
すると部員たちは先を争う様に田んぼの中のボールを拾いに行くのだった。

当時は 「水をのんでは、いけない。」と言われていた時代。
ところが、部員たちは何と、田んぼの水を飲んでいたのである。
小山もその一人。「田んぼの中に、ボウフラがいましてね。
そのボウフラを手でかき分けて手で田んぼの水をすくって飲みました。
もしかしたら、一匹や二匹のボウフラを飲んだかも知れませんね。」と、苦笑いする小山。

田んぼで農作業をしていた、おばさんがその光景を見て「まあ、可哀想に。倉工の野球部は田んぼの水を飲んでいる。」と、
周囲に漏らしていたのも事実である。
その、おばさんが田んぼに農作業に出かける時、麦茶を用意してボールを拾いに来た部員に、そっと飲ませていた事もあるそうである。
そして、「倉工、頑張って。」と、一声。
倉敷に満ち溢れるエネルギーと、歩を合わせる快進撃を、いや 全国制覇を倉敷市民は期待していた。

7名無しさん:2017/08/18(金) 08:46:17
野球への探求心が、旺盛な角野。
その角野が、エース小山の投球について次の様に語る。

「小山の球は、回転が綺麗なんです。回転がいいからよく球が伸びるんです。
しかも、打者の手元でホップするんですね。そして、落差のある縦へのカーブがあるんです。
ですから、ホップするストレートの高さと、低めに決まるカーブ、高さと低さを武器にした投球が、持ち味なんです。」と熱く語る角野。

これに対して、エース小山は、「私の、手や指そして肘や肩が、硬式のボールに合っていたんでしょうかね。」と。
事実、エース小山の手の指は、短く太い。

第50回全国高校野球選手権大会

一回の守備につく倉工ナイン。エース小山が、甲子園のマウンドに上がる。
藤川が、捕手席に座る。残りの7人の侍は、小山のすぐ後ろで円陣を組む。
エース小山が、投球練習を開始しようとした時、掛け声と共に、各ポジションに走る7人の侍。

3回戦    倉敷工 9 - 2 高知  小山6勝め

主砲 武 のバットが火を噴いた。4回大会13号ホームランとなる、3ランを左中間スタンドに叩き込み、この回一挙8点を上げ、勝負を決める。

準々決勝  倉敷工 6 - 3 広陵  小山7勝め

この日、第4試合でナイターとなった。
広陵のエースは、( 小さな大投手 )の異名を持つ、左腕宇根洋介投手。
身長167㎝で、甲子園8勝している、宇根投手を、倉工打線は序盤で攻略した。
1回2回3回に、各1点。4回には2点を上げ、試合の主導権を握り、粘る広陵を振り切る。

甲子園に流れるアナウンス。
【勝ちました、倉敷工業高校の栄誉を称え、同校の校歌を斉唱し校旗の掲揚を行います。】
五万の観衆の歓声がとどろく、大甲子園のセンターポールに緑の校旗がはためく。
『水島灘の 沖ゆく白帆も・・・・』 大甲子園にこだまする勝利の賛歌。
いつ聞いても、どこで聞いても、そして歌っても「 いいなあ 」と感じる。

そして、8月21日 準決勝 静岡商 との対戦の朝が来た。

8名無しさん:2017/08/18(金) 09:00:25
最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける、エース小山の力投で、
倉工は春と同じく四強まで、勝ち進む。準決勝の相手は、同じ左腕の好投手 新浦 寿夫 投手を擁する静岡商。

しかし、小山の肩は 広陵戦 後、ぼろぼろに。
「歯ブラシを口まで、持ち上げられませんでした。しかも、顔を洗おうとしても、手が顔まで上げられなくて、顔を手に近づけて行って洗いました。」 
小山の肩は、悲鳴を上げているのだ。

宿舎から、甲子園までは徒歩で移動。途中ある高校のグランドで練習する事になった倉工ナイン。
小山は、「10メートル先の相手に、ボールが届きませんでした。」と言う。
母に誓った プロ野球選手。消え行く少年の日の夢。
小山は、絶望の中、球場入りしたのだった。

準決勝は、第2試合だったため待機をしていた。そこへ朝日新聞社の記者がやって来た。
「小山君、小山君。明日の決勝戦は、 興国 と 倉敷工業 に決まっているようなもんなんで、
興国 の丸山君と握手をしている写真を撮らして下さい。

今、撮っておかないと、明日の新聞に間に合わないんです。」
そう言われた小山は、「興国は、まだ試合中だし、うちはまだ試合をやっていないし、そんな事をしたら、監督さんに怒られます。」

そう言うと、記者は、「小沢監督には、了解をもらっているから、大丈夫です。」
小山は、記者に連れられて、まだ試合途中の 興国エース 丸山 朗 投手と握手を交わした。
こうして、迎えた準決勝、対 静岡商戦 だったのである。

絶望の小山は、グランドの中に入り、ある光景を見た瞬間、あれほどまで痛かった肩の痛みを忘れた、と言う。
小山が、見た光景とは何か?。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。

そして、アルプス席から聞こえて来る、大声援。「 小山!、小山!頑張れよ!。小山!。 」
大応援団と、大声援が小山の中に飛び込んで来て肩の痛みを忘れたと言う。
「 火事場の、馬鹿力です。 」と、小山は言うが、果たして本当にそれだけだったのだろうか?。

いや、もう一つある。小山を支えるもの。小山を支え続けて来たものがある。それは、倉工のエースナンバー1のユニホームであったはず。倉工エースの誇り。
決して本調子でなくても、あるいは序盤に打ち込まれても、投げ続けるのが本当のエース。
マウンドを守り続けるのが、倉工エースの宿命なのだ。
小山は、倉工エースの宿命を背負っている自覚を、持っていたのではなかろうか。

こうして、準決勝 対静岡商 との試合が始まった。
マウンドの小山のもとから、各ポジションに散るナイン。

9名無しさん:2017/08/18(金) 10:40:20
倉敷工は春に続いて、またしても決勝進出をはばまれた。
静岡商得意のバント戦法に苦杯をなめた。

静岡商は、二回一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。
俊足の松島は判断良く三進。寺門は2-1後のウエストボール気味の球を、投手前にスクイズ。
松島が楽にホームを踏んだ。
さらに、三回は、先頭の新浦四球に出たが、
青木の、投ゴロで二封された。青木はすかさず二盗。
ここで、佐藤は1-2から倉敷工の深い守備の裏をかいてドラックバント。
これが内野安打となって、一三塁。藤波は1-1から外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功をさせた。
倉工バッテリーはスクイズに来ると読んで、はずしたのだが、藤波の執念にしてやられた。

ここらあたりに高校野球でのバントの重要性をまざまざ見せつけられた。
肩が痛いと言う 小山 だったが、連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れも良かった。
それだけに、わずかのすきをついた静岡商のソツのない攻めは光った。

この追加点は、連日炎天下で力投を続け、気力だけで投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。
新浦は長身から快速球を投げこんで、当たっている倉工打線と真っ向から勝負して完封した。

倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。
終盤、得点にこそ結びつかなかったが、その粘りはたいしたものだった。

惜しまれるのは、七回。

この回、小山の四球。中村のライト線二塁打で、無死二三塁と攻め寄った。
ところがここで思いもよらぬ不運があった。
富永の打球は一二塁線を抜いたかと思われたが二塁手に横っ跳びに好捕されて、一塁でさされた。
しかも、三塁走者の小山はいったんホームに突っ込みかけたが、
コーチャーの静止があって三塁へ戻った。
その間、中村はすでに三塁へ。
小山は、追い出されるような格好で三本間で挟殺された。

まずい走塁ではあったが、ここは二塁手の好プレーをたたえるべきだろう。
結局、倉敷工は好機に一発が出ず惜敗したが、速球投手 新浦 に対してバットを短く持ったミート打法、

そして、小柄な小山投手の力投などが、強く印象に残った。

この、静岡商戦が、投手小山の実質的なラストゲームとなった。
歯をくいしばって投げ続けた高校夏の姿。小山と倉敷の熱い季節は終わった。
この日、倉敷が泣いた。

10名無しさん:2017/08/18(金) 10:54:01
甲子園から、宿舎まで徒歩で帰っていた。

その時、小沢監督が3塁コーチャーの角野に歩みよった。

「角野、あの時小山を3塁で止めたのは、なぜなんだ?」 と、語りかけた。
角野は 「ランナーが小山だったからです。」

すると「そうか。わかった。」と、小沢監督。
このシーンについて、角野は次の様に語ってくれた。

静岡商に、2 対 0 でリードされていて、回も終盤 ( 7回 )になった時、小山が出塁したんです。
次の中村の当たりは、ライト線2塁打コースとなって、小山が2塁ベースを踏んで、3塁まで来ますよね。
中村は2塁へ行きます。

ところが、ライトがもたついたんです。
それで、小山をホームに突入させるべきか、3塁で止めるべきか。
私が、迷いに迷ってしまいましてね。

でも、最終的には小山を3塁で止めたんです。
それはなぜかと言うと、ランナーが投手の小山だったからなんです。

これで、無死2、3塁となりました。続く富永の当たりは、一塁手と二塁手のド真ん中の当たりでした。
しかも、低いライナーだったんです。

二塁手がダイビングで打球に飛び込んで行って、しかもショートバウンドで捕って、一塁に投げて富永はアウトになりました。
ところが、中村が三塁まで走って来て、三塁ベースで、小山と鉢合わせになったんです。

それを見た一塁手が三塁に転送して、小山がホームと三塁との間で挟まれてタッチアウトになったんです。
私は、この時ものすごい責任を感じましてね。

あの時2,3塁になった時、3塁コーチャーとして、適切ないいアドバイスをしてやれなかった事で。
あの時、いいアドバイスをしておけば、あんな事にはならなかったと思うんです。
もしかしたら、同点にあるいは、逆転勝ちして、決勝に行けたかもしれないのに。
全ては、私の責任と思っていました。

ところが、徒歩で宿舎に帰っている時に、監督さんが、「角野、なぜ小山を三塁で止めたんだ?」と聞かれ
「ランナーが小山だったからです。」と答えたんです。

すると、監督さんは、「そうか、わかった」と言ってくれたんです。
私は、あの時監督さんの、「そうか、わかった。」のお言葉に、本当に救われる思いをしました。
と、熱く語る角野。小沢監督は、角野に大きな信頼を置いていたのである。

次に、小沢監督は、小山の所に歩みよっていった。

11名無しさん:2017/08/18(金) 11:11:56
甲子園から宿舎まで徒歩で帰っていた。小沢監督は、角野に続いて小山に歩みよった。

そして、小山の肩をポンポンと叩いた。「 小山、三年間ご苦労さん。
小山、おまえ三年間本当に良く頑張ったな。
今日も肩が痛いのに、良く投げてくれたよ。ナイスピッチングだったよ。」

恩師、小沢監督から初めて受ける ねぎらい と 感謝 の言葉だった。

母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。
その言葉に小山は、【 エースの喜びを知り完全燃焼の涙を流したという。】
ケレン味ない絶妙の投球と、強靭な精神力。

小沢監督に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた甲子園 97 イニング。
彼には、40年の岡山東商に四滴する栄光が求められた。
結局母校に、大優勝旗をもたらす事はできなかったが
小山が挙げた 甲子園での勝利数7 を抜く投手は県下に今だに現れていない。

「 黄金の左腕 」と、呼ぶのふさわしい、大エースだった。

心の豊かさ。それは夢を失わず、夢を持って生きる事。
決して本調子でなくても、序盤に打ち込れても、投げ続けるのがエース。
マウンドを守り続けるのがエース。人生も、またそうなるべきである。

黄金の左腕 小山 稔。
彼の青春には、運命のいたずらと、破綻の恐怖が付きまとった。

それでも、夢を見たのである。もしも、あの時繰り上げがなかったら、
その後の甲子園の結果は違っていたかも。
「 あの繰り上げ出場がなかったら、甲子園優勝はもとより、日本を代表する投手に、なっていただろう。 」と、小沢監督は言う。 
「 投手生命は、短ったけど、あの舞台であそこまで投げれて、満足です。」と、小山。

その後、小山は社会人野球の強豪 河合楽器に行くが、間もなく現役を断念。
倉工コーチを経て、野球用品関連の仕事をする。

事業のかたわら、少年たちを指導する、 野球道場 を主宰。
技術だけでなく、礼儀、道具の大切さ、そして野球を愛する心を、説いている。
黄金の左腕は、キズついても心は常に野球と共に。

「 いい仲間と、倉工のグランドでせい一杯やれました。野球としての悔いは全くありません。」
と、言い切る小山。そして、少年の日と同じ目の輝きを持ち続けている。
小山の夢は終わらない。

「 もう一度生まれ変わっても、野球をしたいですね。今度は、絶対にプロに行きます。高校はもちろん倉工でやります、」と、小山。
今でも、球場アナウンスが聞こえて来るようだ。

【 岡山県代表 倉敷工業高等学校 ピッチャーは 小山くん  小山くん 背番号1 】

12名無しさん:2017/08/19(土) 07:50:26
☆校歌誕生

五万の観衆の喚声がとどろく。センターポールに緑の校歌がはためく。
おりしもわき起こる校歌吹奏「水島灘の沖ゆく白帆も・・・」甲子園にこだまする勝利の讃歌。
聞く度に、いいなあ・・・と思う。

終戦の翌春、戦いつかれた若者もようやく立ち直り、学校も活気をとりもどした二十一年春、校長の直江虎正先生が校歌をと主唱。
これを受けてただちに始動。山陽新聞の金平東京支社長(故人、後の同社文化局長。機械科卒、雄彦君の父)に面談した。
東京で自由に動け、かつ新聞社というバックのある方が最適と考えたからだ。

多忙な氏も趣旨に賛同して快諾。天下の一流をと、まず西条八十先生が、早慶でゆくか、と「若き血に然ゆる者」の作曲者堀内敬三氏に曲をお願いしてくださる。
氏も音楽評論家として名声の高い人。これはえらいことになったと躍りあがった。
超一流の校歌誕生だと。この思いは今も変わっていない。

さて、今頃なら作者の現地視察となるわけだが、交通事情の極端に悪い頃。
そのかわりに学校の環境をくわしく知らせよということになり、
その報告によって生まれたのが「白帆が緑の屋根を仰ぐ」となったもので、これはレポータの責任。
小川もささやき草木も語る韻文の世界。散文的おとがめは無用。

また、作詞作曲料は、おそらく誰も簡単には信じてくださらぬ程の少額で、今も思い出しては両先生には、おわびしたい気持ちでいる。
これは、学校も戦後の備品整備や建物の修理復活の多大の経費のみこまれる際のこと、私たちの心配を察して、当時の経済緊急措置により入手困難な新円という制度により、
お支払いしたいという金平氏のお願いを、両先生が了承してくださったからで、さすがに大家は・・・と感銘を受けた。

それにしても、多忙な任務に追われながら、足代もなしに、最初の交渉から最後のお願いまで、東奔西走してくださった金平氏の霊前に、
今のわが倉工の隆盛を報告し、感謝の微意をささげたいと思う。

13名無しさん:2017/08/19(土) 11:05:21
倉敷工業高校の黄金時代である1950年代の代表的なOBは、安原達佳氏です。

1954年に読売ジャイアンツに入った安原達佳氏は、ルーキーイヤーから登板します。
高卒2年目に早くも先発に定着し、12勝。翌1956年も15勝します。

その後、調子を崩して、横手投げにして二桁勝利を2度。
さらに、それも調子を崩すと外野手に転向し、86試合に出場と野球センスの塊のような選手でした。
投手で56勝、安打もプロ通算120安打を放っています。

14名無しさん:2017/08/19(土) 11:22:48
1964年

高校球界の逸材として注目されていた倉敷工高三年菱川章外野手(18)は
二十一日、岡山市上石井の自宅で義父の芳三さん(43)小沢馨倉工監督、中日の柴田スカウトらが立ち会い、
中日ドラゴンズへ入団すると発表した。正式契約は二十五日名古屋の球団事務所で行う。

同選手は戦後初の混血児選手で、身長183㌢、体重86㌔、右投右打。
一年生の夏と三年生の春の二回甲子園に出場。打球の速さはプロ選手なみといわれた。
通算打率三割八分、ことしにはいって本塁打3本を打っている。
大型打者として早くからプロ野球各球団の注目を集めていた。

15名無しさん:2017/08/19(土) 11:27:11
菱川章

長打力を期待され、新人ながら34試合に出場、同年のジュニアオールスターにも選出される。
1971年には主に右翼手として102試合に出場し、13本塁打を放つも、打率が上がらずレギュラーには定着できなかった。

1972年オフに日拓ホームフライヤーズへ移籍し、1973年に引退した。

通算133安打、24本塁打。

16名無しさん:2017/08/19(土) 11:41:11
伝説の夏がある。

勝敗を超えて今でも語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡の大逆転劇となった、倉敷工業 対 報徳学園の試合は、今でも夏が来るたび話題に上がる。

36年の倉工は、岡山県の秋季大会と選抜大会を制しており、夏の大会も優勝候補の筆頭とされていた。
また、岡山県や中国地区の多くの関係者から、
「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、高い評価を受けていたのである。

エースは、34年の夏の甲子園、国体の大舞台を一年生で経験している、剛球左腕の森脇。
また、打撃陣では核となる不動の4番で、長距離打者の鎌田らがいて、破壊力は群を抜いていた大型チームであった。
この様な大型チームを作り上げたのは、のちに名将の名前を欲しいままにする、監督 小沢 馨。弱冠30歳の青年指揮官だった。

この様な、大型チームに突然のアクシデントが襲うとは、誰が予想できたであろうか。
それは、バント練習中に起こったのだ。

17名無しさん:2017/08/19(土) 14:30:13
「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、
多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。

「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。
例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。
それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。

小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。

と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。

「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。
それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。
松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。

外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。
もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。

小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。
監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。
どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。

しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。
つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。

18名無しさん:2017/08/19(土) 14:36:51
1年生で、34年の夏の甲子園、国体と大舞台を経験して来たエース森脇。
今、3年生になって最後の夏に掛ける思いは、相当強かったはず。
また、全選手から、その信頼と期待は絶大であったであろう。

外野手三宅は、「森脇の球は速いというものではなかった。ものすごいスピードボールを投げていた。
あの森脇の球は、打てるわけがない。打てるもんか。」と、力を込める。
それだけ森脇は左腕で素晴らしい投手であったのである。

ところが、事もあろうに県予選の直前に「右鎖骨骨折」というアクシデントに見舞われたのである。
全国屈指の好投手と言われたエースの突然の負傷。
しかも、県予選までに完治の可能性はない。
日数が足りないのである。

「これで、甲子園もおしまいか。」1年生から3年生まで、全選手に重苦しい空気が伝わった。
その時である。主将の松本が、全選手を集合させた。
そして、涙を流しながら、訴えたのだ。

「みんな、頼む。もしこの夏、森脇が投げられなかったら、ワシは生涯森脇に頭が上がらないんだ。
みんな頼む。甲子園、甲子園へ。」と涙で。
すると、選手の顔が上がり始めた。
そして、全員が前を向いた。

「そうだ。森脇を甲子園に連れて行ってやろう。森脇を甲子園に連れて行くんだ。そして、森脇と共に戦うんだ。」
全選手の心は一つに団結したのである。
三宅は、こう言う「松本の一声で、一致団結力が生まれた」と。

真に「意気と力の 溢るるところ」である。
こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こうと全員考えた。
2年生の永山は、控え投手ではあったが、三塁手。永山は、コントロールが良かったので、小沢は打撃投手をよくさせていた。

「永山、お前が投げろ。ただし、森脇の代わりで投げるのではなく、永山一個人として投げろ」と指示。
その永山は「県予選までは何日間かあったけど、投手としての経験としては浅かった。
しかし、小沢監督の指導もユニークで、速い球は投げるな。遅い球で勝負しろ。変化球は、こうして投げろ。
と色々アドバイスを受けた何日間でした。」

「スライダーの握り方を教えたが、器用だったんで、すぐ覚えた」と小沢。
こうして、急造投手、永山が誕生したのである。小沢は、投球術と、配球術を教えた。
ところが、永山は一日一日、急成長し始めたのだ。

「もしかしたら」小沢の期待も膨らんだ。
こうして、2年生捕手槌田との若きバッテリーで、困難に立ち向かう事になったのである。

そして、松本の思いも板野の思いも、岡田、国方、中村、土倉、白川も全員が、
「森脇を甲子園に連れて行くんだ」と言う強い思いを胸に、昭和36年の倉工の夏が始まろうとしていた。
新聞には、「痛いエース欠場。破壊力秘める大型打線」と出ていた。

19名無しさん:2017/08/19(土) 14:45:48
春夏合わせて、6回目の甲子園を目指す戦いが始まった。

その戦いは全部員が「森脇を甲子園に連れて行ってやろう、森脇を甲子園に連れて行くんだ。
森脇と甲子園で戦うんだ。」と言う、熱い思いの戦いでもあるのだ。
ところが、森脇本人はベンチに入りたくなかったと言う。

「倉敷球場なんかで、予選が始まりましたわね。病院から帰って来て、ベンチに入るのがいやだったですね。
ベンチに入りたくなかったですね。」と、森脇。

県予選の、一回戦は笠岡商業。この一回戦から延長戦に突入。
外野手の土倉は「あの、笠岡商業との試合は、もう負けるんじゃあないかと、と思いました。」と話す。

長く苦しい延長戦を制した倉工は、二回戦から打線が爆発。あっという間に東中国大会へと駆け上がった。
当時は、岡山県から2校、鳥取県から2校で、甲子園切符1校を決める仕組みになっていた。

岡山県からの代表校は、岡山東商。甲子園まであと2勝。
土倉はこう話す「中国大会に行ってからは、森脇を甲子園へという気持ちが一段と強くなった。」と。

しかし、どうしても越えなければならない山。
それは、強豪米子東。
この米子東を倒さないと甲子園に行けない事を、ナインは知っていた。
その米子東と最初にぶつかったのである。

昭和36年7月30日、鳥取県公設野球場。ナインは悲壮感を闘志に変えて戦った。打撃戦になった。
打撃戦なら倉工も負けていない。
倉工は3本のホームランを放った。

特に、森脇に「右鎖骨骨折」という大怪我をさせてしまったと、一人責任を背負っていた松本は狙っていた。
7回、快心の2塁打を打ち、猛打倉工の口火を切る。その大活躍は「神がかり的」と、称賛を浴びたのである。

永山と槌田の若きバッテリーは、米子東のスクイズを全て外した。
永山は「米子東の部長、監督は青ざめていた」と。
こうして、9対7で米子東の追撃を振り切ったのである。

ナイン全員の闘志あればこその勝利であった。
新聞には、「倉工3ホーマー」「松本 7回に殊勲打」と出た。

甲子園まであと1勝。
その夜の事。全員が寝ていると思っていたのに、誰か一人いない事に気がついた監督小沢。
宿舎中を探して、やっと見つけた背中。
宿舎の中庭で泣いている森脇だった。

「おまえ、こんな所で何をしているんだ」
「監督さん、今日ベンチいてたまりませんでした。明日倉敷に帰らせて下さい」
「この馬鹿たれが。おまえがベンチにいるから、みんな頑張っているんじゃないか。
明日、お前がいないで、なんで勝てるか」と言ってなだめて森脇を寝かせた夜だったのである。

森脇は、投げられない自分への苛立ち。
森脇は一人重圧と戦っていたのではないだろうか。

こうして迎えた決選の日。相手は、向井監督が率いる岡山東商。
朝起きたナインは、驚いた。そして反発したのだった。

20名無しさん:2017/08/19(土) 14:56:08
「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。
8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。
野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。
それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。
その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。

実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。
その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。
そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。
ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。

それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商

倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。
試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。

7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。
その時だ。小沢からサインが出た。

「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。
その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。
また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。
その秘策とは、Wスチールだったのである。

小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、
3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。
松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。

「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。

誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。

新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。
舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

21名無しさん:2017/08/19(土) 15:05:15
1961年夏、第43回大会、大会3日目第3試合。

倉敷工業 対 報徳学園の試合は、両チームともに壮絶な戦いになって行くのである。
それでも、松本は「森脇を、森脇をおねがいします。」と指揮官小沢に必死に懇願するのであった。

すると、指揮官は「では、打って来い。森脇が投げられる状況を、お前が作って来い。」と。
こうして試合は、0 対 0のまま延長戦に突入。ここで、3塁側倉工アルプス席を見てみよう。

学生服を着て、鉢巻きをして両足を大きく横に開き、膝を90度に曲げて、握りこぶしを作り、左右交互に突き出している男子リーダー。
女子生徒は、リズムに合わせて手拍子をして応援をしている。

こうして迎えた延長11回表倉工の攻撃。一死から2番中村が四球で出塁する。
3番槌田の当たりは平凡なショートゴロ。当然Wプレーのケースだったが、二塁に投げた球がそれて、ライト方面に転がった。
それを見た中村は、一気に三塁に行き、一死一塁三塁。ここで、3安打をしている鎌田が打席に入る。

報徳学園沢井監督は、敬遠を指示し、一死満塁策を取った。ここで、5番松本が打席に入る。
松本は、第一球をフルスイング。その瞬間甲子園がどっと沸いた。
打球は低いライナーでレフトの頭上を越えて、外野フェンス直撃の二塁打となり、中村と槌田が生還。倉工2点の先取点を上げる。

ここで小沢にとって、今でも脳裏に焼き付いて離れられないシーンが展開されるのである。

「二塁打を打った松本が、なんと二塁ベースの上に正座をして、両手を合わせて (監督さ〜ん) と呼びかけた松本の姿に私は、心が震えました。」と。
このシーンを、外野手の三宅は、ベンチから見ていて、鮮明に覚えていた。

「松本が、こうやって、こうして座って、(ワシが打ったんだから、文句はなかろうが)と言わんばかりのような感じだった。
そして頼むから森脇に代えてくれ。と言うような松本の姿でした。」と言う。

その後、ショートゴロをバックホームした球が高くなり、フィリダースチョイスとなり3点目が入る。
ここで左打席の白川が、スクイズを決めて4点目。さらに、永山が三遊間タイムリーで5点目。
倉工の勢いはさらに続き、Wスチールまで決めて、6点目が入ったのである。この延長11回表、倉工は一挙に6点。
日本中の誰もが「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。

森脇は、ベンチの横で岡田とキャッチボールをしている。

この試合を、甲子園の魔物が見ていた。

22名無しさん:2017/08/19(土) 15:17:58
日本中の誰もが、「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。
土倉は、「私の方から監督さんに言ってませんが、あと一回でいいんで、森脇を投げさせてほしい。
と思っていました。」と。

延長11回裏、報徳沢井監督は、先頭打者の4番奥野に代えて、試合に出た事のない平塚を代打に送った。
その平塚は、ボテボテの内野安打で出塁。一死後、6番藤田が死球で一塁二塁。
7番清井は、浅いライト前ヒットだったが、平塚が迷わず本塁に突入。
本塁上のクロスプレーは大きくうまく回り込んで、きわどく生還。6 対 1。
続く吉村のファーストゴロの間に2点め。
6 対 2。 倉工4点リード。 ランナー3塁。 しかし二死。

小沢は思った。「今まで、頑張って来たのは、全ては森脇のためなんだ。ここで使おう。」と。
こうして、エース森脇がマウンドへ。松本らナインの悲願は達成できたのだった。
一方、永山は三塁へ回った。永山は「やれやれ、これで自分の役目は終わった。」と、思ったのだった。

エース森脇、2ストライク1ボールと追い込んだ。
そして、渾身のストレートを投げ込んだ。
すると、主審の右手が上がりかけた。上がりかけた。
土倉は、「ライトから見ていると、ストライクか、ボールかがわかるので、その一球でベンチに帰りかけていました。」と。

ところが、主審の右手が下がった。「ボ ボール」 結局、この一球が、倉工にとって運命の一球になったのだった。
この運命の一球について、永山は「審判は、自信を持って、ジャッジコールをしていると思いますが捕手の槌田は 
(あの一球は、絶対にストライク) と、何年も何年も言い続けていました。」

森脇は、その7番高橋に四球。8番の貴田に、レフト前にタイムリーで3点め。
森脇にとってやっと、投球練習が出来るようにはなっていたが、甲子園でのマウンドは、明らかに酷だったのだ。

ここで、倉工ベンチは、森脇をベンチに帰し、永山に再登板を命じたが、レフト前ヒットで満塁に。
続く、内藤は、センター前ヒットで、二人のランナーが帰り、1点差となった。打順は一巡。

平塚は、センター前へヒット。二塁走者の東は本塁に突入できず、三塁で止まるが、
センターからの返球を、捕手の槌田が後逸。それを見た、東が帰って 6 対 6 の同点となった。

報徳の勢いを、倉工は誰も止められない。
12回裏、報徳は、藤田がレフトへ2塁打。
清井のサードゴロの間に、三進。ここで、倉工ベンチは、2人の打者に敬遠を指示し満塁策を取った。
続く、貴田は、ライトへ。わずかに土倉のグローブをかすめた。 
6 対 7 の信じられない試合の結果となった。

こうして、倉敷工業 対 報徳学園 の死闘は終止符を打ったのだった。
この死闘から、報徳学園は「逆転の報徳」の異名をとるようになる。
やはり、甲子園には魔物が潜んでいるのだろうか。

また、この試合は 「奇跡の大逆転」 として後世に受け継がれる事になって行くのであった。
新聞には、「倉工、継投に誤算」「報徳、ねばり勝つ」「大量の、先取点むなし」「選手に謝る、小沢監督」と出た。

宿舎に帰った小沢。ふすまを開けると、思わず息を飲んだ。

23名無しさん:2017/08/19(土) 15:28:36
新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。

森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。
しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、
「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」

永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。

宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。
そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。
小沢も正座をして手をついた。

「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。
倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。

わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。
君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。
活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。

一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。

この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。

全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。
どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

24名無しさん:2017/08/19(土) 17:19:07
槌田誠

倉敷工業高校2年時の1961年、投の二本柱である森脇敏正、永山勝利(東洋紡岩国)を擁し、
三番打者、捕手として夏の甲子園に出場。翌1962年も夏の甲子園に連続出場する。

卒業後は立教大学に進学。
四番打者として戦後2人目の三冠王を獲得した。
リーグ通算50試合出場、174打数54安打、打率.310、7本塁打、34打点。
ベストナイン2回。

同年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
1967年6月6日、大洋戦での初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。

しかし森昌彦が正捕手として君臨している巨人ではなかなか出番はなく、
同年は10月にわずか4試合先発マスクを被るにとどまる。

25名無しさん:2017/08/19(土) 17:31:27
槌田誠

立教大時代の昭和42年春、東京六大学史上2人目の三冠王に輝いた実績とは裏腹に、
プロ入り後は苦難の道を歩んでいたようだった。

「巨人は、なかなかひと休みさせてくれないなぁ」と森昌彦が冗談半分、
本音半分でもらしたのは昭和41年11月のドラフト会議当日だった。

なぜなら巨人は、「1位指名」と目されていた日本石油のエース、平松政次投手を蹴り、
その年の春季リーグ戦で三冠王に輝いた立教大の槌田誠捕手を指名したからである。

森は34年からレギュラーの座を獲得したが、打撃の弱さがあり、
首脳陣の全幅の信頼はもらえていなかった。

38年には慶応大から大橋勲を、40年には市立神港高から吉田孝司を、42年には槌田、
さらに中京商高から矢沢正を、45年には東京六大学の首位打者、早大・阿野鉱二を…。
毎年のように高校、大学の実力派捕手を補強し続けたのだから、森がぐちるのも無理はない。

だが森は、すべての刺客を蹴散らした。
川上哲治が昭和13年から21年間、王貞治が34年から21年間。
「巨人の一塁手はふたりで42年間」とよく言われるが、
どっこい、森だって激務といわれる捕手の座を15年間も独占していたのである。

このあおりをもろに受けてしまったひとりが槌田だった。
そんな槌田も、一度だけスポットライトを浴びたことがある。

ルーキーだった42年6月6日の大洋戦(川崎球場)。
9回表、そのシーズン初の完封負けを目前にして、3塁側巨人ベンチはまるで通夜のように静かだった。
川上監督はいつも通り後列の長いすに腰を掛け、小さく貧乏ゆすりを繰り返していた。

そのとき、突然大きなだみ声が響き渡った。
「行こうぜ、高倉さん。行こう! 行こう!」。
開幕から2軍生活で、3日前に1軍に上がってきたばかり。
まだ1本の安打すら打っていないルーキーが発した熱気。

ベンチ前列から体を乗り出すようにして、槌田がこの回の先頭打者、高倉に叫んでいた。
このひと声にベンチがよみがえった。誰もがいっせいに何かを叫び始めた。

敗色濃厚ではあるが、槌田のこの闘志が川上監督に「宮田の代打・槌田」を決心させた。
満塁。自身プロ入り3打席目の舞台はこうして巡ってきた。

急いでベンチ裏で素振りをしての打席。
大洋・森中力投手のストレートは、ライナーで左中間席に飛びこんで行った。

「まぐれですよ。でも、一本打ちたかった。学生時代から通じて満塁ホームランなんて初めて。しかも、代打でなんて…」

金田正一投手に「こら、負けたときはもっと悲しそうな顔をしろ!」と、冗談まじりでカミナリを落とされても、笑顔は消えなかった。

インタビューのあと、時計を見て槌田はあわてた。
「あっ、明日は東京とのイースタン戦があるんだ。川崎に間に合うかな?」

習慣で、2軍戦に出場するつもりだったようだ。
そばにいた高橋一三投手が教えてやった。「行かなくっていいんです。あしたは多摩川で練習ですよ」-。

“ほら吹きクレー”のニックネームで人気者になったが、レギュラーの座は遠く、52年にヤクルトへ移籍。
1年で現役を引退し、53年から2年間、日本ハムのバッテリーコーチ補佐を務めた。
平成11年、胃がんのため55歳の若さで鬼籍に。記憶に色濃い脇役だった。

26名無しさん:2017/08/19(土) 17:55:44
片岡新之助

倉敷工業高校2年生まで捕手で、3年生の時には投手を務める。
平松政次・松岡弘・森安敏明と並んで岡山四天王の一人として注目されるが、
捕手のリードに首を振って打たれたことから捕手の重要性に気付く。

クラレ岡山では都市対抗野球大会で毎年活躍、
ドラフト5位で西鉄ライオンズから指名を受け、
翌1970年のシーズンいっぱいクラレ岡山でプレーすることを条件に西鉄と合意し、
1971年はルーキーながら29試合に出場。
ジュニアオールスターにも選出される。

翌1972年は、ロッテオリオンズに移籍した村上公康に代ってレギュラー捕手となるが、
その後は宮寺勝利、楠城徹と併用された。

1975年オフ、加藤博一と共に鈴木照雄、五月女豊との交換トレードで阪神タイガースに移籍。
ここでは田淵幸一、若菜嘉晴らの控え捕手として重宝された。

特に1977年には、185打数で10本塁打(うち、満塁本塁打2本)を放つなど、存在感のある控え選手であった。
1980年オフ、笠間雄二との交換トレードで阪急ブレーブスへ移籍。阪急では中沢伸二らの控えとして活躍し、1986年オフに現役を引退した。

引退後は広島東洋カープの二軍バッテリーコーチ(1987年 - 1991年, 1994年 - 1998年, 2001年 - 2003年)、
一軍バッテリーコーチ(1992年 - 1993年, 1999年 - 2000年)を務め、西山秀二・石原慶幸を育てるなど捕手層を厚くした。
2004年から2005年にはJR九州硬式野球部のコーチを務め、2年連続で都市対抗に出場。

現在は生誕の地でもある広島で、MSH医療専門学校硬式野球部の監督を務めている。

27名無しさん:2017/08/19(土) 18:08:53
秋山重雄

倉敷工業高校では1964年の春の甲子園に出場。

高校卒業後は、立教大学へ進学。
1966年春季リーグでは槌田誠、小川亨らとともに、7年ぶりの優勝を果たす。
東京六大学リーグ通算66試合出場、248打数66安打、打率.266、4本塁打、23打点。
ベストナイン2回(二塁手)。

1968年ドラフト会議で近鉄バファローズから4位指名を受け、入団。
1969年7月には、新人ながら二塁手として先発起用され、同年のジュニアオールスターにも出場するが、
打撃面で伸び悩み二軍暮らしが長かった。

しかし1976年には主に二塁手として18試合に先発出場するなど、
内野のユーティリティプレイヤーとして活躍。
1977年限りで引退。

その後は一時期KBS京都の野球解説者をつとめ、西本幸雄監督最後の試合の解説も担当した。

28名無しさん:2017/08/20(日) 07:55:24
居郷肇

岡山市立瀬戸中学校入学と同時に、投手として本格的に野球を始める。

倉敷工業高時代も投手として活躍し、1974年の第46回選抜高等学校野球大会に出場。
磐城高・滝川高を降し準々決勝まで勝ち上がったが、池田高に1-2で敗れ、ベスト8で終わった。
同年夏も県予選を勝ち抜き、二塁手、四番打者として東中国大会決勝に進むが、玉島商に完封負け、甲子園出場を逸する。

高校卒業後、1975年に法政大学経営学部に入学し、野球部に入部する。
1年先輩に江川卓、佃正樹ら好投手がおり、また自身も肩を痛めて投手が出来なくなったため、内野手(三塁手、二塁手)に転向。
袴田英利は1年先輩。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。

1978年の大学4年時には主将に就任し、同年春季リーグの対立教大学1回戦で東京六大学野球史上初のサイクルヒットを達成。
リーグ戦通算42試合出場、155打数56安打、打率.361、5本塁打、22打点。
ベストナイン(二塁手)2回選出。

大学卒業後、社会人野球のプリンスホテルへ第1期生として入部する。
1980年には都市対抗にチーム初出場を果たし、1回戦で神戸製鋼と対戦。
居郷の適時打による1点をエース住友一哉が守り切り完封勝利。

しかし2回戦では新日本製鐵釜石に延長13回、リリーフの小林秀一(熊谷組から補強)が打ち込まれサヨナラ負け。
この試合でも適時打、本塁打を放ち活躍した。その後も赤坂プリンスホテルに勤務する傍ら、30歳までプレーを続けた。

現役引退後は、プリンスホテル社員として社業に専念。
系列の大箱根カントリー倶楽部総支配人などを務め、2009年6月にはプリンスホテル執行役員に就任。

2011年にプリンスホテル執行役員から3月16日付で、プロ野球埼玉西武ライオンズ球団代表取締役社長及び球団オーナー代行に就任、
野球界に復帰したが、球団社長就任以降は主力選手のFA流出阻止の失敗・獲得した外国人選手の不振などで目立った業績をほとんど残さず、
2014年以降は連続してBクラスに終わり、チームの低迷が顕著になっている。

29名無しさん:2017/08/20(日) 08:03:19
居郷肇

野球は、中学の軟式野球から本格的に始め、
ピッチャーとして、県大会初出場初優勝の大きな原動力になったと自負しています。

その後、岡山県の2強の一角、倉敷工業高校の監督に声をかけられて入学。
3年生の春には甲子園の選抜大会でベスト8まで進みました。
しかし肩をこわし、その後は内野手に転向しました。

法政大学野球部時代の思い出で強烈なのは、なんといっても寮生活です。
当時はまだ上下関係が厳しく、1年生の時は辛かったですね。
もっとも、その後の人生で何をやるにしても、あの時の経験に比べれば大したことはないと思えましたから、
あの経験があったからこそ、私の今の人生があるのだと思います。

江川卓選手などの力のある先輩たちが東京六大学野球で4連覇し、その卒業後に4年生、
そして主将になったので、初戦でリーグ史上初のサイクルヒットを打てたこともいい思い出になっています。
もっとも、史上初の5連覇はかないませんでしたが…。

卒業後は、プロから声がかからなければ社会人野球の東芝チームに行く予定でした。
ところが、次の年から野球チームを立ち上げるというプリンスホテルから、是非に、ということで誘われたのです。
優秀な選手を集めているし、自分たちが1期生なので怖い先輩もおらず(笑)、
のびのびプレーできるだろうという期待もあって、入団を決めました。

30名無しさん:2017/08/20(日) 08:25:33
室山皓之助

倉敷工業では、エース渡辺博文を擁し、1957年の春の甲子園に出場。
準決勝に進むが高知商の小松敏宏に抑えられ敗退。

卒業後は法政大学に進学。東京六大学リーグでは在学中に4度優勝。
1960年の春季リーグで首位打者を獲得した。
同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で同志社大を破り優勝。
リーグ通算68試合出場、232打数69安打、打率.297、2本塁打、26打点。ベストナイン3回。

1962年に阪神タイガースに入団。同年は開幕直後から右翼手、
七番打者として起用され33試合に先発出場するが、シーズン終了間近にアキレス腱を切断してしまう。

翌1963年は自己最多の81試合に出場し、三番打者としても先発を経験。しかし1964年は8試合の出場に終わる。
1965年には再びアキレス腱を切断し、1966年オフに引退し、後にフロント入りした。

31名無しさん:2017/08/20(日) 09:17:30
兼光保明

倉敷工業高校から1975年プロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名され入団。
6年目の1981年に1軍初出場し、この年は18試合に出場した。1983年に引退した。

引退後はフードビジネスの会社に就職し、その後独立。
2003年に大阪市平野区でパティスリー「Kenally」を開業した。


74年、75年と春の選抜に出場。
74年はベスト8。蔦監督の池田に延長12回、2-1で惜敗。

75年は伝説の開幕戦、中京と16-15。
二回戦では原辰徳の東海大相模に1-0で惜敗。

74年は居郷君が投げ兼光君はレフトだった。
兼光君に早く代えていたら勝てていたね。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばなかった。

肩をこわす前のこの春、夏と兼光君中心で戦っていたら優勝出来たのでは・・・。
小沢監督は大切に育てたかったのか?・・・。

74年、75年と夏は共に代表決定戦で惜敗した。
75年は小沢監督最後の甲子園采配。

この74年、75年の大型チームで全国優勝して欲しかったね。
その力は十分に有った。監督も自信が有った筈だ。

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33名無しさん:2017/08/20(日) 10:15:12
兼光保明

高校時代から野球部で活躍し、卒業後はドラフト指名を受けプロへ。
若い頃から自分の力で商売をして生きていくことに興味があり、引退後はすぐにその準備に取り掛かった。

「今までの人生に頼っていては新しい道は開けない。
そう考え、一から社会人としての経験を積むべくフードビジネスの会社に入社しました。」

10年間みっちり、会社組織についてのノウハウや店舗運営のスキルを習得。
退職後は同僚と共にケーキの卸・販売を手がける会社を運営。

機械化し、冷凍技術も発達した中でのケーキ作り。効率の良さは利益に直結していたが、
兼光さんの心には元来持っていた職人気質が顔を出し始めた。

「自分で考えた手作りの商品を売りたい。アナログでやりたい…そんな気持ちが加速してきたんです。」
3年後に独立。自ら企画したパティスリーを東大阪で立ち上げる。しかし今度は新たな思いが生まれてきた。

「自分は売上を上げるために徹底的に勉強してきた。
売れている店を見て多くのことを学んできた。が、果たしてそれはオリジナルなのだろうか? 」

そこそこ売れているのだからいいじゃないか…そんな自分の中の声を振り切り、
兼光さんはまた一からのスタートを決意した。「美味しいものを作るには手間をかけ、
本質から変えなければいけない。10年後まで設計図が描ける、本当に自分のやりたい店をやろう。」

商品以外でもお店の魅力を高めるため、テラス席を設けた外観を花で飾った。
自動扉ではなく、お客様が自ら扉を開けることで期待感が高まる。

そして目に飛び込んでくるショーケースには、綺麗なケーキよりも美味しさの想像を掻き立てるようなケーキを。
こうして2003年9月、「ケナリィー」が誕生した。


Kenally(ケナリィー)
電話:06-6701-0018
所在地:大阪市平野区平野南4-1-12
営業時間:10:00〜20:00(カフェのL.O.19:30)
定休日:無休
交通:地下鉄谷町線「平野駅」徒歩10分

34名無しさん:2017/08/20(日) 10:30:22
中藤義雄

岡山県立倉敷工業高等学校からプリンスホテルへ入社し、
1986年の都市対抗野球に出場。
同年、ドラフト4位で近鉄バファローズに入団。

内野ならどこでも守れる器用さと好打で即戦力と期待された。
1年目は怪我で出遅れたが、シーズン後半に1軍登録されると、そこそこの活躍を見せた。

2年目の1988年にはジュニアオールスターに選出されるなど、
2軍では活躍したが1軍に昇格することはなかった。

引退から3年後に少年野球塾を経営し、現在も野球塾を続け野球技術指導員の資格を取り、
地元で野球の指導にも力を入れている。

現在は高校野球監督を目指して教員免許取得のため通信制の大学に通っている。
と同時に通信制高校、 岡山高等学院にて講師として教育現場で働いている。

35名無しさん:2017/08/21(月) 09:51:10
小山稔

夢とロマンを持った少年。全力をかける大きな夢。
その夢とは、プロ野球選手になる事。そして、苦労を掛けた母への、感謝の親孝行の事である。
その少年とは、小山 稔。後に「黄金の左腕 小山 稔」と、異名をとる倉工のエース小山である。

(吉備中 出身) 昭和41年の春、小山は名門倉敷工業の門をくぐった。
その頃、倉敷市は工業都市として、また、観光都市として、急速な発展の最中でもあった。

実は、小山について、倉敷工業と岡山東商とが、激しい争奪戦を展開していたのである。
当時は、倉工と岡山東商とが、県高校野球の盟主として君臨。
その戦いは竜虎の戦いと言われたものでもあったのだ。

こうした中、小山を射止めたのは、「小沢監督の勧誘の言葉とお爺さんの、倉工への勧めがあったから。」と、小山は言う。

小沢監督から言われた言葉。
「私がここに来たのは、君が素晴らしい投手である事。そして、自分の力でエースを勝ち取って欲しい。
そのためには努力が必要だ。努力をする事で将来が見えてくるのだ。その努力を倉工でしてみないか。
私の前で。将来の事は、私にはわからん。そんな無責任な事は私には、言えない。
ただ言えるのは、抜群の野球センスを持っている事だ。」

それを聞いた、お爺さんは小沢監督に感銘を受け、倉工行きを勧めたのである。
一方、小山は「その頃、倉工は少し低迷をしていて。私が、倉工に行き甲子園に行ったり
活躍できたりしたら、関係者から喜んでもらえるのではないかと、思いました。」と言う。

こうして、「倉工 小山 稔」が誕生したのである。
小山が、一番最初に倉工を訪問したのは、中学生が高校への練習許可になった、
翌日の3月27日の事だった。

早速、練習着に着替えた小山。小沢監督から、「シートバッテイングに投げろ」と言われ、
しかも「小山、カーブは要らない。ストレートだけでいいから。」と。
小山は、初めて倉工のマウンドに上がった。

36名無しさん:2017/08/21(月) 10:01:24
昭和40年岡山東商 選抜優勝。

先を越された、小沢監督。岡山東商 選抜優勝のすぐ後の春の県大会では
「ここで、岡山東商をたたかいと、倉工の存在価値はない。今日が、我々の甲子園だ。」

と、悲壮感にも似た気持ちで臨み、準々決勝で 5 対 3でライバルを倒す。
この試合で2年生が大活躍。選抜の優勝投手 平松投手を攻略したのだ。
その2年生、いや新3年生の、強打者がずらりと、小山の前に立った。

シートバッティングと言えども真剣勝負。
小山にも、闘争心に火がついた。右足を上げ、腕を振った。すると、新3年生全員が驚いた。

「新3年生、全員に投げたんですけど、かすりもしませんでした。」と、小山。
ファールチップがやっとだったのである。新3年生が言った。
「おまえ、すげえなー。」 (選抜優勝投手の) 「平松より上じゃ。」

小山は、入学式の翌日に背番号14を、小沢監督からもらったのだ。
新1年生で早くもベンチ入りを果たしたのである。

41年春季県大会優勝。中国大会でも小山は、リリーフとして活躍。

工業に、商業に発展を重ねる倉敷市。
倉敷の名前を全国に轟かすための、一番の近道は
やはり、倉工が甲子園で活躍する事だろう。
その期待を全面的に受け、努力を積み重ねる小山だった。

左腕の速球派投手として、一年生ながらエースに成長して行く小山。

こうして、迎えた41年秋。県大会でこそ、決勝で津山商に負け準優勝。つづく、秋の中国大会。
当然、来年の選抜甲子園の重要参考資料である。

その秋の中国大会では、優勝候補と言われた、邇摩 (島根) 豊浦 (山口) と連続完封して決勝へ進出。
決勝では、尾道商 (広島)に対し、1 対 0 で9回までリード。3試合全て完封かと思われた。

ところが、9回ランナーをおいて倉工にエラーが連続して出て、 1 対 6 の逆転負け。
しかし、県大会準優勝、中国大会準優勝。2試合連続完封。
「来年の、選抜甲子園は、間違いない。」と、言われて来た。

37名無しさん:2017/08/21(月) 10:11:15
昭和41年 秋の県大会は、津山商に敗れて準優勝。
しかし、この決勝戦は 津山商にリードを許してはいたが、
日没のため試合を打ち切られ、準優勝となったものである。

(倉敷工 2 対 3 津山商 8回日没コールド 倉敷市営球場 )

つづく、秋の中国大会では、2試合連続完封。
決勝 尾道商 との対戦も9回まで 1 対 0のリードしていて、
ランナーを置いた所で、エラーが連続で出て、1 対 6 の逆転負け。
しかし、中国大会では津山商より、戦績は上だった。

県大会 中国大会共に準優勝した事で来年の選抜甲子園出場は、間違いないと言われた。
ナインの気持ちは、早くも選抜甲子園に向いていたのである。

選抜出場校の発表の日が来た。「多くの報道陣がグランドにきていました。40人ぐらいはいたかな。」と小山。
冬の日の夕暮れは早い。
気の早い報道陣から催促されてナインは小沢監督を胴上げして、感激の知らせを待った。

ところが、春の便りは 津山商に。
それを聞いた報道陣は、一斉に津山商へ向かったのだった。
「あっという間にいなくなりました。」と小山は言う。

小沢監督は、失意のナインに語り掛けた。
「決まった事は仕方ない。今さらどうにもならない。こうなったら、
グランドをいくら走ってもいいから、思いっきり涙を流せ。」と。

ナインは横4列に並んで、涙が枯れるまで何周も何周もグランドを走り続けた。
「あの時、泣いてない選手は誰もいませんでした。」と小山は言う。

小沢監督も、目頭を押さえてナインを見つめていた。失意のドン底の倉工ナイン。
しかし、この涙のランニングが結束を生み高める。「夏は、必ず甲子園に行くんだ。」と。

そして、ナインの絆も深いものに。
この日を境に、練習メニューは夏を見据えた形に変わったのである。
小山も、夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んだ。

昭和42年3月20日 朝6時すぎに目覚めた小山は、いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぐり込み新聞を広げた。

38名無しさん:2017/08/21(月) 10:20:08
昭和42年3月20日、朝6時すぎに目覚めた小山は、
いつも通り朝刊を手にもう一度布団にもぎり込み新聞を広げた。 

「津山商出場辞退」 衝撃的な見出しが寝ぼけまなこに飛び込んで来た。
目をこすりながら記事を読み進めると、「補欠校の倉敷工が繰り上げ出場か」と続く。

「本当に甲子園に」 喜びと驚きの中で失意にくれた2月始めの、選抜出場校発表の日が思いだされた。
それが、一転して甲子園出場が現実に。「夢のような気持だった。」と小山は言う。

登校した小山を待っていたのは、小沢監督からの呼び出しだった。
「小山、すまんが今日から投げ込みをしてくれ。」 
ここで、小沢監督の「すまんが」の意味は何であろうか。大会まで一週間を切っての話。

選抜出場校の発表以降、夏に向けて走り込み中心の練習に取り込んできていた。
ところが、急な投げ込み。それが原因で小山の左腕は、肘と肩に後々まで癒えない故障を抱えることになる。

4月1日、初戦の相手は、津久見(大分)。実践練習が不足していた選手たちだったが、小山の力投に打線も答え、
この選抜大会で初優勝を飾る強豪 津久見 相手に 2 対 3 と食い下がった。

「倉敷工は強い。夏が楽しみ」期待の声が高まって行くのだった。
倉敷の街は熱い期待に包まれる。

しかし、町の声援に、小山の肩が悲鳴を上げる。
昭和42年 夏。倉工ナインが地力でつかんだ甲子園。

倉敷工 4 - 0 秋田本庄   小山1勝め

小山は、2年生から全国の注目をあびた。
そして、「黄金の左腕 小山 稔」の異名までついたのだった。
甲子園常連校になった、倉敷工業。ここで、新しい伝統が生まれようとしていた。

39名無しさん:2017/08/21(月) 10:33:41
昭和42年選抜に、繰り上げ出場となった頃である。

音楽部の、木村義夫 と 木元大一はある同じ悩みを抱えていた。
それは、楽器が古すぎる事。

「中には、壊れているのもありました。」と木村。
そこで、木村と木元は校長室に向かった。

「せっかく甲子園に行くのに、こんな楽器では恥をかきます。
校長先生何とかして下さい。」と

小山俊雄校長に直訴したのだった。すると、小山校長は「よし、わかった。」と言って、
ポンと25万円を出して二人に渡した。25万円の大金をである。

当時の25万円と言うと、現在ではおそらく、150万円近くになるのではなかろうか。
早速、木村と木元の二人は、四国、高松市の日本楽器に買いに走った。
トランペット、サックス、トロンボーン等一式を買って帰ったのである。

そして、木村は思った。「ここまでしてくれたのだから、何か恩返しをしなければ。」と。

木村と木元は、「岡山県代表なのだから、岡山に関係ある曲で、しかも、倉工をPRできる曲を。」
と言う事で。こうして、生まれたのが 桃太郎 での応援だったのである。

早速、木元が桃太郎の曲をアレンジして、楽譜を部員に配った。
そして、昭和42年選抜で初披露となったのである。

しかも、練習も応援団との打ち合わせも十分に出来ずに、ほぼぶっつけ本番。
アルプス席ですぐに演奏した。
最初、倉工生は桃太郎の唄を歌っていたが、いつの間にか歓声が入るようになった。

「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)

それ以後桃太郎の応援は倉工名物となって、常に相手校を圧倒。
ある年の甲子園出場が決まった時、テレビ取材で応援団員が言った。

「甲子園では、ランナーが一人でも出たら、すぐに桃太郎をやります。」と。
しかし、時代の流れと共に現在では使われていないのが残念。

桃太郎の応援を望む、倉工オールドファンは多い。

木元大一は、現在海外でジャズを教えて活躍中。
25歳で、イギリスに渡ってトニーエバンス楽団に入団。
No.1のトランぺッターに。

日本、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス と、トランペット一本で生きて来た男。
管楽器なら、何でもござれ の、まれな才能も持ち合わせている。

現在は、スイスに定住。5か国が話せると言う。

40名無しさん:2017/08/21(月) 10:46:46
昭和42年、秋の新チームが結成された。

俊足巧打の土倉を切り込み隊長とし、バントの名手山口、長打の武、強肩の藤川。
それらの選手は、2年生からの出場メンバーで、持ち味に磨きをかけチーム力は着々と向上すると共に、
全国トップクラスに成長。
そこに、小山の力投が加わるのだ。

さらには、野球を愛する心は誰にも負けず、ただひたすらに白球を追いかける角野。
「角野の学力は抜群でした。」と小山。

「全選手が、技術力を高めるためにそれぞれに各方面で、努力をしていたと思います。
これは、絶対に断言できます。」と角野。

さらに「私は、野球が大好きだったんです。
キャッチボールも野球、ノックを受けても野球、
グランド整備も野球練習その物が野球だったんです。」と、
角野は熱い思いを語ってくれた。

名将 小沢監督がそんな角野を見逃すはずがない。
名将は、角野を3塁コーチャーに抜擢した。役者は揃った。
あとは大舞台に立つだけ。

勝負の時が来た。秋の中国大会。

倉工は順調に勝ち進み決勝に進出。
決勝の相手は、小山の好敵手、宇根投手の広陵。
3回まで、0 対 0 だったが、降雨のため中止。(広島市民球場)

翌日、会場を替えて再開され、当然投手戦になったが、軍配は広陵に上がった。

(倉敷工 0 - 1 広陵  呉二河球場)

秋の中国大会で準優勝した事で、来春の選抜出場は当確。
しかし、浮かれた選手は誰一人もいなかった。

昭和42年、倉敷 玉島 児島が合併。新しい倉敷市が生まれた。
倉敷は、工業都市として、観光都市として発展して行き、全国に名を知られる事になる。

そこに、選抜出場の期待がかかる倉敷工業。
倉敷市民は、熱い期待に包まれて行く。

ただ、一つの心配な事。
それは、母に誓ったプロ野球選手。
少年の日の夢。小山の肩だけが心配だった。

41名無しさん:2017/08/21(月) 10:55:25
昭和43年 春の選抜出場が決定した。地力でつかんだ3季連続の甲子園。
歓喜に湧く倉工ナイン。

工業都市として、観光都市として発展して行く倉敷市。
その中、倉工の選抜出場は何より。

まさに、倉敷市発展の象徴的な存在であったに違いない。

選抜が近くなったある日、小沢監督から新しいユニホームが配られた。
その新しいユニホームは従来の物とは違っていた。
従来は、アイボリーに濃紺の文字を基調としていて、帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングも濃紺だった。
(現在甲子園博物館に所蔵されている。)

しかし、今回のは純白を基調とした早稲田カラー。
帽子、アンダーシャツ、そしてストッキングは純白にエンジ色のライン2本。
胸には、従来と同じ「KURASHIKI」。

そして、小山には倉工のエースナンバー1が贈られた。
しかし、この新しいユニホームを配った時、小沢監督から替えた理由はげられなかった。
何日かして、次のような説明があったと小山は言う。

「濃紺を基調としたユニホームは、身体の大きい選手が揃った時には似合う。
しかし、君らのような身体の小さい選手ばかりでは、似合わない。
そこで、高校生らしく爽やかな色で早稲田カラーとした。
ここで、替えないと替えられる時はなかった。」と。

この純白のユニホームが、倉工の伝統の1ページを飾る事になる。選抜は2年連続6回目。
春夏合わせて11回目の甲子園出場。
白壁の町、倉敷から大応援団がアルプス席を埋め尽くすのだ。

そして、木村 義夫 と 木元 大一 が作った、名物応援として、
発展して行く ( 桃太郎 )を乗せた何十台もの応援バスが、聖地へと向かった。

42名無しさん:2017/08/21(月) 11:01:36
第40回選抜高等学校野球大会。

昭和43年3月28日から4月6日までの10日間開催。
中国地区からは、倉敷工 尾道商 広陵 防府商が出場した。

昨年の選抜において倉工が、繰り上げ出場。
夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、
小山の左腕は肘と肩に後々までいえない故障を抱えていた。

昔から甲子園には、魔物が潜んでいると言われているが、
その魔物は、「倉敷工業を甲子園に出場させてやるが、小山の肩をくれ。」と、言っているのだろうか。
こうした中、小山は歯を食いしばって投げつづける。

2回戦     倉敷工 3 - 0 清水市商   小山2勝め

準々決勝   倉敷工 4 - 0 銚子商    小山3勝め

今大会、優勝候補筆頭の銚子商を下す。

「肩が痛いのは、当然です。でも痛いながらのピッチングができました。」と小山。

「黄金の左腕 小山 稔」 2試合連続完封を達成する。

準決勝    倉敷工 1 - 3 尾道商

準決勝 ベスト4にて敗退。宿舎に帰った倉工ナイン。
小山は、小沢監督に呼ばれた。

「気力が足りない。今日の、ピッチングは何んだ。お前みたいな者は出て行け。」
すると、小山は下を向いたまま、宿舎を出た。出て見ると外は雨が降っていた。
小山は、宿舎の外で雨に打たれながら下を向いて立っていたのである。
すると、小山のもとに一人のOBが優しく語りかけて来た。

「小山、中へ入れ。風邪をひくぞ。監督さんは ( 小山には夏があるんだ。夏に向けて頑張れ )と言ってるんだよ。
監督さんの愛のムチなんだよ。」と。すると、小山は自分の手を握りしめた。前を向いた。
そして、唇をかみ再び闘志がみなぎって来たのだった。

43名無しさん:2017/08/21(月) 11:25:34
栄冠は君に輝く。 全国高校野球選手権大会の唄。

「 雲は湧き 光あふれて・・・・ 」
1948年に発表された。1948年の学制の改定に伴い、
さらにこの時の大会が第1回大会から数えて30回めの節目の大会であった事から、
主催者の朝日新聞社が、新しい大会歌として、全国から詩の応募を募った。

応募総数5000以上の中から最優秀に選ばれたのが、
元高校球児の 加賀大介氏 が作詞したこの【 栄冠は君に輝く 】だった。

第50回全国高校野球選手権大会。

1968年8月9日から8月22日まで開催。
球史半世紀を祝う記念大会として開催された。
開会式に、皇太子夫妻を招いた。

45都道府県から各1校。北海道は南北から各1校。
さらに、米国の統治下にあった沖縄から、1校を加え、48校が甲子園に集った。

昭和43年8月9日。倉工ナインは、開会式直後のオープニングゲームに登場。
文部大臣の始球式の横に立つエース小山。そして、エース小山が投球練習を開始しようとした時、
マウンドの小山の元から、掛け声とともに、各ポジションに走るナイン。

1回戦  倉敷工  5 - 1  享栄   小山4勝め

倉工は9安打の中、二塁打2本、三塁打1本に盗塁4個を決めて、快勝。

2回戦  倉敷工  8 - 0  千葉商  小山5勝め

倉工は、初回4点、五回に3点。打っては16安打した。しかし、千葉商の左腕今井投手に、9三振を喫する

倉敷の商店街では、不思議な現象が起きた。
白壁の町は、倉工の試合時 商店街から、人影が消えたのだ。
町中は、テレビにクギづけ。勝利に湧く倉敷の町。

そして、最後の夏。肩の痛みこらえ投げ続ける、エース小山。
倉工ナインは、大優勝旗に向けて突き進む。


続きは7へ・・・後先になり失礼しました。

44名無しさん:2017/08/22(火) 06:50:09
「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)」

これ天満の頃までは、やっていたな
とはいえ、天満の頃とは平成元年
30年なんてアッと言う間ですね

45名無しさん:2017/08/22(火) 06:58:58
そうでしたか。
「 光陰矢の如し 」ですね。
又教えてください。

46名無しさん:2017/08/22(火) 08:30:20
小沢馨


戦争の爪痕が、色濃く残る昭和24年。

感激の初陣を果たしたチーム。倉敷工業野球部。

イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる白壁の町倉敷。
小さな町のチームが、大きく確かな第一歩を大甲子園へ。

昭和16年に創部された倉工野球部は、戦中廃部。
22年に、野球好きが集まって再結成された。

その中心となったのが、野球の申し子 小沢 馨。
小沢が、一人一人に、「 野球をやろう 」と、呼びかけたのが、切っ掛けだった。
そして、やっと9人揃ったところで校長室に行った。

すると、校長は 「 お金のかかる野球は、やらない。 」との返事。
それでも小沢ら、野球の申し子たちは、こずかいを出し合って、
ボールやバットを買って同好会的な形で、練習を行っていたという。

野球を愛する人が、自ら結成したチームだった。
そんな活動が認められて、昭和22年新しく野球部を作る事になったのである。

早速、野球部部長は 玉島商OBの 三宅 宅三氏に、監督をお願いした。
三宅は、六尺越えの、伝説の豪傑。

昭和21年第一回京都国体軟式野球大会 準優勝。
また、陸上競技 砲丸投げの選手でもあり、同大会で、第三位。
港町玉島に陸揚げされた、一個の白いボールが、数々のドラマを築いて行く事になる。

戦後、玉島商OBで結成された野球団、玉島モタエ倶楽部は、堂々の国体決勝進出。
京都国体。それは、死地から生還した当時の若者の、夢舞台でもあった。

玉島モタエ倶楽部野球団は、千年の古都に足跡を残す。
その中心選手 三宅 宅三。
新興 倉工は、三宅 宅三監督就任で甲子園を、目指すことになった。

47名無しさん:2017/08/22(火) 08:41:40
港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエ倶楽部。

港町玉島の、剛腕 左腕エース 大野 仁之助 と 盟友である、六尺越えの豪傑 三宅 宅三。
大野は、激戦地で散った亡き友の、思いを胸に投げ抜き、三宅は、五輪中止の無念を、国体にぶつけた。

倉敷から越境入学して、玉島商 で、青春を過ごした三宅は、砲丸投げで全国優勝。
明治大学を経て倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。
一方、大野は指導者として後輩たちと、甲子園を目指した。

そんな時だった。倉工が新しく野球部を作る事になったのである。
そして、三宅に運命の時が来た。野球部部長が、三宅の家を訪問。

「 三宅君、倉工が新しく野球部を作る事になったんで、時間と暇があるんだったら、
監督を引き受けてくれないか?。 」と、監督をお願いした。

すると、玉島商OBたちは、「 倉工の監督をするのだったら、
玉島商の監督をやれい 。」と、猛反発したという。
当時、玉島は玉島市であり、倉敷への対抗意識が、根強いものがあったようである。

その後、 玉島商OBたちは、三宅 宅三 倉工監督を容認。
三宅の監督就任で、正式に 部 に昇格。

小沢ら、野球の申し子たちは、躍り上がって大歓喜。
新興、倉工は三宅監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。

その、源流に戦前、最強の玉島商野球が存在していた。
三宅監督の就任で、 玉島商 仕込みの猛練習だった。

48名無しさん:2017/08/22(火) 08:51:02
新興、倉工は 三宅 宅三 監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。

倉工は、甲子園への第2関門となる東中国大会に進出。
この東中国大会とは、第30回大会から、第39回大会までは、島根 鳥取 岡山の3県を
対象としていたが、第41回大会からは 島根 が西中国大会に編成されたため、
鳥取 と 岡山 の2県で甲子園を争っていた。

また、記念大会を除いて23回行われたが、岡山県勢が14回、鳥取県勢が8回、
島根県勢が1回、甲子園に出場した。

昭和23年、倉工はこの東中国大会決勝に進出。
原動力は、制球力が抜群で、縦へのカーブ ドロップ が持ち味の エース小沢。
横山 妹尾 藤沢らの中軸打線は、長打が狙える大型打線。
しかし、決勝戦で 関西に敗れて涙を飲む。

1948年 ( 第30回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 3 - 6 関西

昭和24年、倉工に運命の時がやって来る。
昭和24年の決勝は、オープン間もない 倉敷市営球場において
倉敷工 と 倉敷商 と言う地元チーム同士で争われた。

倉敷工 小沢 倉敷商 鳥越 両エースの投げ合いとなった決勝。
まさに、市を二分しての決勝は、空前の人気を呼び、観衆はスタンドの外まで溢れ、
地鳴りのような歓声が響き渡ったという。

そして、倉工は2年連続で、東中国大会に進出。
東中国大会初優勝を飾り、夢の甲子園初出場を勝ち取る。

1949年 ( 第31回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 2 - 1 境

49名無しさん:2017/08/22(火) 09:03:14
第31回全国高等学校野球選手権大会。

1949年8月13日から、8月20日まで甲子園で開催された。

開会式での、入場行進における出場校選手の先導、女子生徒がこの大会から開始された。
主将で、エースの小沢は、次の様に語る。

「 甲子園は、最初から意識をしていたわけではなく、運良く行けたんです。
また、テレビはなく、絵もないし。ただあるのは、ラジオから聞こえて来る歓声だけで。
甲子園は、あの前に立っただけで、【 こんなに大きな建物かと 】びっくりして。

また、球場の中に入って練習の時に【 こんなに、大きなグランドかと 】また、びっくりして。
そして、開会式の時、【 こんなに、大勢の人かと 】また、びっくりして。
それで、試合になった時、大歓声で第一球はどこに投げたかわからない状況でした。」

その開会式で、他県の選手は、「 倉敷ってどこ? 九州? 東北?」

また、戦前の活躍予想は、出場23校中22位というありさま。

それでも、好投手 小沢 馨 の得意球ドロップ ( 縦のカーブ )は、小気味良く、
捕手 藤沢 新六 のミットに吸い込まれた。
打線も、尻上がりに調子を上げ、 熊谷 ( 埼玉 ) 高津 ( 大阪 )と連破。
準々決勝まで進んだ。

倉敷工 9 - 1 熊谷

倉敷工 5 - 3 高津

50名無しさん:2017/08/22(火) 09:20:09
実力以上の力を引き出す無欲。先を見て足元をすくわれる欲。

昭和24年夏、甲子園初出場を果たした倉工ほど、微妙な勝負のあやを体験したチームはない。

第31回全国高校野球選手権大会。8月17日 準々決勝。
夕暮れの迫る第4試合。

相手は、中京商 以来の3連覇を目指す小倉北。
春夏通算16勝を挙げた好投手 福島 一雄 を擁し、洗練された野球をするチーム。
知名度は、雲泥の差。高く分厚い壁。 小倉北 4年連続5回めの出場。

小倉北 ( 福岡 )   対   倉敷工 ( 東中国 )

「 私どもは、勝とうなんて全く思った事はなく、9分9厘とか一厘の望みだとか
世の中には、あるかも知れませんが、その一厘でさえ認められない、
10が10小倉の勝ち。と言う戦前の予想だったんです。 」と、小沢。

捕手の藤沢 新六 は「 勝てる。と言うのは全くなくて、一生懸命やるだけだなあ。
と、私は思っていました。 」と。
スタンドを埋めたファンも、倉工の勝利より善戦を期待していた。

倉工ナインも 「 勝てるわけない 」と荷物をまとめて宿舎を出発。
負けたら、道頓堀川あたりを観光して、帰るつもりだった。

だが、この開き直りが幸運を呼び込む。
「 キープ マイ ペース 」それだけを唱え続けた、エース小沢の過酷なマウンド。
そして、倉敷の少年たちが奇跡を、起こす。


小倉北  020 102 001 0

倉敷工  010 102 110 1  ( 延長10回 )


息詰まるシーソーゲーム。倉工の守備の乱れに乗じて、ダブルスチール、スクイズと、
多彩な攻めで、先手先手と責める 小倉北 に対して、
二回と六回に藤沢の、2ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉工 は、
九回ついに福島投手を、マウンドから引きずり下ろした。

延長10回、一死満塁から横山 のショートゴロの間に、決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

51名無しさん:2017/08/22(火) 09:30:49
第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝 第4試合

小倉北  020 102 001 0 6

倉敷工  010 102 110 1 7 ( 延長10回 )

「 何が何だかわからない内に、試合が終わったんです。終わってみたら、
勝っていたんです。 」と、小沢。そして、小沢は次の様に語る。

「 悪い事をした。と思いました。あの時ほど、悪い事をしたと思った事はないです。
小倉に、申し訳ない。 」 

試合終了後、ホームプレートを挟んで、お互いが挨拶をする時、
「 ありがとうございました 」が、「 どうもすみませんでした。 」の心境だったという。

夢破れてうなだれる、小倉北ナイン。試合後の挨拶を交わした後、
小倉北 福島 一雄 投手は、マウンドに戻って、センタースコアーボードを
仰ぎ見て、無意識のうちに、一握りの土をつかみ、尻ポケットに入れたのだった。

小沢は、「 何をやってるんだろう。 」と思ったという。
また、その光景を、ある大会役員が見ていた。

その後、福島は、狭い通路で人目を気にせず、肩を震わせ、泣きじゃくるのだった。

小沢は、この時福島に帽子を取り、「 すまなかった 」
と一言言って、その場を立ち去ったのだった。
勝った小沢の心を占めたのは、勝利の余韻でなく、相手福島の姿だった。

小沢はこの時初めて、【 常勝チームのエースとして、マウンドを守り続けた福島の、プライドと、
甲子園に掛ける夢の大きさを、知ったのである。 】 無欲であるがゆえ、小沢は詫び、
無欲であるがゆえ、小沢は勝った。

昭和24年8月18日、山陽新聞に、『 倉工殊勲の健棒小倉の三連覇を阻む 』と出た。

小倉北ナインは、この日のうちに、夜汽車で郷里、福岡へと帰って行った。

52名無しさん:2017/08/22(火) 10:32:25
無意識のうちにポケットへ・・・第31回夏の甲子園

「甲子園の土」を持ち帰っていたことは、北九州市の自宅に届いた手紙で知った。
小倉(福岡)が夏3連覇を逃した1949(昭和24)年の第31回大会。

準々決勝で倉敷工(岡山)に敗れたエース・福嶋一雄は「杯に1杯ほど」の
土をユニホームのズボンのポケットから見つけた。

大会副審判長からの速達には「君のポケットに大切なものが入っている」とあった。

第30回(48年)は史上2人目となる全5試合を完封して連覇した福嶋だが、
最上級生だったこの年は右肘を故障。最後は直球しか投げられずに敗れた。

「甲子園を去りがたい思いだった」。無意識のうちに足元の土を手にしていたのだという。

このエピソードから福嶋が「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」という説が生まれた。

ただ、本人は「土を拾ったことは覚えていないし、私が(持ち帰った)第1号かどうかということも知らない。
そのことについては肯定も否定もしませんよ」と穏やかに笑う。

53名無しさん:2017/08/22(火) 11:41:38
大会副審判長の長浜俊三から・・・「この甲子園で学んだものは、学校教育では学べないものだ。
君のポケットに入ったその土には、それがすべて詰まっている。
それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい」という速達が届く。

ポケットの中の土のことなどいっさい覚えていない福嶋は慌ててバッグの中に入れたままにしている汗まみれのユニフォームを取り出し、
新聞紙を広げ、ズボンの後ろポケットをひっくり返すと、ほんの一さじほどの甲子園の土が出てきた。
福嶋は母と相談し、玄関に置いてあるゴムの木の植木鉢に入れる。この甲子園の土はその後の福嶋の心の糧となり、福嶋を支えた。

土を持ち帰った球児は実は過去にも存在していたのだがこのエピソードが有名になり、
福嶋は「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」と言われるようになっている。

しかし福嶋は敗れた球児が甲子園の土を持ち帰るという行為を肯定的に考えてはおらず、
「おみやげではないのだから、それより甲子園を目指した努力を大切にして欲しい」と語っている。

54名無しさん:2017/08/23(水) 10:01:24
第68回倉工文化祭 2016年11月18、19日に盛大に開催。

一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。
おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。

おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。

同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開。
こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。

小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、
甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。
また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。

さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。

こうした中、昭和42、43年と4季連続甲子園出場した時の選手で、
角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。

角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

55名無しさん:2017/08/23(水) 10:15:30
故 小沢馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。
この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。

準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。
この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 
(甲子園の土) の始まりと言われている。

卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と
大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。

移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。

倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト4、3回が最高成績。
【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。

甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。
倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

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57名無しさん:2017/08/24(木) 12:53:53
第78回全国高校野球選手権大会

1回戦(阪神甲子園球場)

倉敷工 9-0 中越

投手
倉敷工:中原
中越:渋川→小柳→五十嵐→高木


倉敷工が投打とも安定した力をみせ、中越につけ入るスキを与えなかった。
2回、白神の適時二塁打で1点を先取し、5回にも福原の適時二塁打で加点。

6回には中原のスクイズ、西川の2点三塁打、福原の中前適時打で4点を加えた。
さらに8回、中越の三番手投手・五十嵐から3点を奪い、試合を一方的にした。

中原はコーナーをつく変化球を武器に、12奪三振、4安打で中越打線を完封した。
中越は四投手の継投で目先を変えようとしたが、倉敷工打線につかまった。

58名無しさん:2017/08/24(木) 13:07:13
女子マネージャーの甲子園ベンチ入り第1号 


96年第78回大会から女子マネージャーが記録員として
甲子園のベンチに入ることが正式に認められた。

その第1号が東筑の女子マネージャーだった三井由佳子さんだった。

この時の東筑は初戦で盛岡大付に2‐0で勝利し、三井さんは文字通り“勝利の女神”となった。
続く2回戦は倉敷工の前に3‐5で惜敗したが、三井さんの存在は大きな話題となった。

59名無しさん:2017/08/24(木) 16:35:30
第78回全国高校野球選手権大会

2回戦

倉敷工5-3東筑

投手
倉敷工:中原
東筑:石田

倉敷工は初回、2回、3回と1点ずつ小刻みに得点。
 
東筑は4回裏、内田の二塁打を含む4連続安打で2点、5回にも1点を取って同点とした。

倉敷工は8回、敵失で出塁した坪井を、福原が右三塁打でかえして勝ち越す。
福原も藤原二の犠飛でかえり、この回2点を勝ち越した。 

東筑は6回以降 中原のコーナーに決まる直球を打ちあぐねた。 
両チームとも攻撃ではヒット・エンド・ランを多用するなど機動力を生かし、
守備でも動きのいいプレーが目立つ好試合。

ただ、東筑は失策が3つあり、2つを得点に結びつけられたのが悔やまれた。


今年99回大会、久しぶりに出場の東筑のエースは石田。
6回出場で4回も石田姓とは奇遇。

初戦敗退となったが、今年のエース石田はまだ2年生、
100回大会でリベンジ新石田伝説を作れるか。

60名無しさん:2017/08/24(木) 17:40:26
第78回全国高校野球選手権大会

3回戦

倉敷工2-9鹿児島実


投手
鹿児島実:下窪、鍛冶屋
倉敷工:諏訪、中原、笹田


鹿児島実は序盤から攻守にはつらつとプレー。
甲子園3試合目にして、投打のかみ合ったセンバツ覇者の風格を見せつけた。

相手のミスをついてソツなく攻めた鹿児島実の圧勝だった。
2回に宮田の左中間二塁打で1点を先取した鹿児島実は3回、川田の二塁打と田上の犠飛であっさり加点。
4回は二塁打とバントで三進の下窪が二ゴロで本塁に突入、捕手の落球を誘い、
さらに岩切の安打で2死一、二塁から倉敷工の先発・諏訪が暴投。
二塁の鍛冶屋に続いて一塁走者の岩切までが本塁に走り込むと捕手からの送球を諏訪が落球、3点目を奪った。

さらに5回にも内野の乱れに乗じて無死満塁とし、下窪の右前2点適時打。
代わった中原から犠飛と内野ゴロで計4点をあげて突き放した。

倉敷工は4回、福原の適時打と9回2死後3連打して各1点をかえすのがやっと。
鹿児島実は6回から鍛冶屋を救援させる余裕で勝ち進んだ。


鹿児島実・久保克之監督:中原投手の外角の球を狙うように指示していたが、二番手投手が先に登板してくれて助かった。
下窪は三回から球が走っていた。


倉敷工・和泉利典監督:中原は肩慣らしさせた後、交代させるつもりだったがその時機を逸してしまった。
四、五回のエラーは起きるはずのないもの。これが甲子園なのかと思った。



監督の情けない采配で大敗となった。勝負が決してからエースに代えるとは何たる愚策。
コメントも実に情けない。恥ずかしいものであった。

バッテリー中心に素晴らしいメンバーだっただけに非常に悔やまれる試合である。
久保監督も中原投手先発なら負けていたかもと。
中原投手は倉工10年に一人、否20年に一人の好投手であった。

61名無しさん:2017/08/25(金) 11:32:15
倉敷工 7年ぶり夏の甲子園へ 

古豪復活 第85回全国高校野球選手権岡山大会は29日、
マスカットスタジアムで決勝を行い、倉敷工が10-7で倉敷を破って
7年ぶり9度目の甲子園出場を決めた。

倉敷工は5-5で迎えた六回一死満塁で萩原が2点適時打を打つなど、
この回一挙7点を奪い、2点差を逆転。エース陶山は13安打を浴びながらも
スライダーを駆使して力投し、逃げ切った。


陶山投手・・・「捕手の構えたコースにボールがいかず連打された。チームに申し訳ない」。
念願の優勝を果たしながらも、しきりと反省した。
一回、勝負球のスライダーを打たれて「弱気になってしまい」、甘いコースにボールが集まったという。
「絶対抑えられる」と自分に言い聞かせて投げてるうち、チームが逆転。
「気持ちを切り替えられ、何とか最後まで集中できた」という。


萩原捕手・・・活躍の裏に、けがからの復活劇があった。5月。走塁練習中に右手の甲を骨折。
高校最後の夏をフイにしかねないアクシデントに「目の前が真っ黒になった」。
だが、そこから必死の努力が続く。朝、晩は煮干しを欠かさず食べ、牛乳も飲めるだけ飲むなど
「骨にいいと聞くと何でもした」。ゴムボールを握ってリハビリに励んだ。その効果もあって1ヶ月で練習に復帰できた。
陶山も「治ってくれてホッとした。彼がいたからこそ自信を持って投げられた」と感謝の言葉を忘れない。

最後の打者が三振となると、一目散にマウンドに駆け出した。もみくちゃの輪の中でキャッチャーミットを高々と差し上げ、
勝利の喜びに酔った。「優勝は夢のよう。支えてくれた家族と監督、仲間に感謝したい」


熱戦の軌跡・・・11-0古城池、2-0大安寺、7-6岡山南、3-0関西、10-7倉敷。

倉工は苦戦になっても動じなかった。準々決勝の岡山南、決勝の倉敷戦はいずれも中盤以降に得点を重ね、
逆転勝ち。私は準決勝、関西戦での陶山君の快投を観て今年は行けると確信したのであった。

陶山君は好不調の波が大きく感じた。さて甲子園では?・・・。

62名無しさん:2017/08/26(土) 11:52:34
第85回全国高校野球選手権大会

8月8日

0-8駒大苫小牧  (4回裏二死一、三塁降雨ノーゲーム)

倉敷工:陶山ー萩原
駒大 :白石ー糸屋

駒大苫小牧は2回一死一、二塁から4連打を含む7長短打を倉敷工のエース陶山に浴びせ一挙7点。
3回にも敵失からノーヒットで1点追加。
倉敷工は駒大苫小牧のエース白石に4回まで1安打に封じられた。

だが、4回裏二死一、三塁の場面で中断。
25分後の12時20分に降雨ノーゲームとなった。


8日は台風10号の影響で、山陽自動車道が通行止め。
岡山を出発した応援団は、津山経由で、中国自動車道へ迂回して甲子園入り。
到着した時は降雨ノーゲームが決まっていた。

台風の影響が心配される中、試合を強行した大会運営本部に問題有り?。
応援団がいない中、大敗は可哀相と甲子園の魔物が再試合を命じたのであろう。

倉工は命拾いをした。
又一つドラマが生まれるか? 明日勝てばの話ではあるが・・・。

63名無しさん:2017/08/27(日) 11:50:21
第85回全国高校野球選手権大会

8月9日

倉敷工5-2駒大苫小牧

倉工:陶山ー萩原
駒大:白石ー糸屋


倉工が効果的に得点を重ねた。2回二死二塁から西野の中前打で先制。
3回に須田の二塁打などで2点を追加し、
1点差に詰め寄られた4回には松本の二塁打で再びリードを広げた。
エース陶山は4つのエラーに足を引っ張られたが2失点完投。6安打に抑えた。


前日とは見違えるような姿だった陶山君。得意のスライダーを低めに集め9奪三振。
飛球わずか「1」がその徹底ぶりを示した。

岡山県大会の直前から腰痛と戦ってきた。試合開始の30分前、痛み止めの錠剤2粒。
そして座薬を使用してのマウンドだった。2日で197球(この日は112球)を投げ抜いた。

試合終了後、生き返ったエースはホームプレートを挟み、
駒大苫小牧の石川に「いい試合ができて、ありがとう。きのうはごめん!」と言葉をかけた。

「申し訳ないと思っている。次からは駒大苫小牧の分まで頑張りたい」。
帽子のひさしの裏に書かれた「暴れたる!」の思いは36人分に増えた。


2日間がかりの奮闘は実ることはなかった駒大苫小牧。
「すべて自分の責任。選手の力を引き出してやることができなかった」
香田監督は悔しさをかみ殺した。
「あのまま続けても負けていた・・・」と話した言葉が痛々しい。
何が起こるか分からない。それが甲子園だ。

しかし、その後の努力を魔物はしっかりと観ていたのだろう。
翌年の第86回、そして第87回大会と連続優勝、88回大会の準優勝まで
駒大苫小牧フィーバーが続いた。



戦後の夏の甲子園・降雨ノーゲーム → 再試合


1949年 準決勝  岐阜3-2倉敷工(4回裏)→ 岐阜5-2

  57年 1回戦 坂出商4-1山形南(2回裏)→ 坂出商4-0

  65年 1回戦 岡山東3-1日大二(5回表)→ 日大二4-0

  70年 2回戦 江津工0-0東邦(1回表) → 東邦6-1

  82年 1回戦 八幡大4-2日大二(6回表)→ 日大二9-6

  93年 3回戦 鹿児島商工4-0常総学院(4回表)→ 常総1-0 

2003年 1回戦 駒大苫小牧8-0倉敷工(4回裏)→ 倉敷工5-2

64名無しさん:2017/08/28(月) 10:55:16
嬉しいニュースが飛び込んで来た!!


倉工コーチに旧近鉄元選手・中藤義雄さん(54)

  ☆教員資格得て復帰


倉工にOBで旧近鉄バファローズの元選手、中藤義雄さん(54)がコーチに就任した。
プロ野球経験者が教員資格を得て戻ってくる県内初のケース。

中藤さんは、かつて常勝チームとされた母校野球部在籍中は1番・遊撃手。
甲子園出場こそかなわなかったが、社会人の名門・プリンスホテル野球部(解散)を経て旧近鉄へ。

1年目の昭和62年は後半からの1軍登録で38打数10安打だったが、翌年から出場機会に恵まれず、
父親の病状悪化で家業(建設業)を継ぐために平成元年を最後に引退、倉敷市に帰郷した。

その後、会社倒産の苦境を乗り越え、バッティングセンターを地元に開業。
個別レッスンも好評で、約10人の甲子園球児も輩出した。

全国的に元プロの高校野球指導者が増え始める中、
自身にくすぶっていた「不完全燃焼の思い」が現場復帰を決断させ、49歳で通信制の星槎大(横浜市)に入学。
今春、教員免許を取得して卒業した。

中藤さんを助っ人に誘った同校の高田康隆監督(43)は「往事の“強打のクラコー”へ、
投手出身の私に及ばない部分を中藤先輩のプロ技術で補完できれば」と期待を寄せる。

中藤さんは「全国ではパワー野球が全盛期。そこに臆せぬようなチームづくりに役立ちたい」と情熱いっぱいで、
将来的には「どこかで指揮官(監督)を」との目標を胸に秘める。

65名無しさん:2017/09/02(土) 12:26:07
第85回全国高校野球選手権大会

8月16日

倉敷工4-3今治西

倉敷工:陶山ー萩原
今治西:豊嶋、山田ー相原


倉工は1点を追う四回、安打と四球で一死一、二塁とし、
須田が放った中前打が敵失を誘う間に2者が生還し、逆転。
なおも一死三塁から清水の中前打で1点を奪った。

六回には萩原の中越え適時二塁打で貴重な追加点を挙げ、リードを広げた。
打線はコンパクトな振りが徹底され、9安打を放った。

投げてはエース陶山が3失点(7安打)の完投。
緩急をうまく使いながら要所は打者の内角を突く強気の投球で抑え込んだ。

今治西は三回に先制。四、六回には1点ずつ加え、追いすがったが及ばなかった。

72年選抜(1-3倉敷工)のリベンジならず、
甲子園10勝目を逃した宇佐美監督は「陶山君に力負けです」と脱帽した。


須田一塁手・・・開幕前日のこと。大阪市内の宿舎に1通の手紙が届いた。
差出人は1996年、夏の甲子園で3回戦まで勝ち進んだ当時の主将・北条剛さん。
よく練習に訪れ、アドバイスしてくれる尊敬すべき先輩だ。

手紙には「倉工が甲子園に行くときには主将が打てないジンクスがあるんだ。
俺も7年前には打てなかった」とあった。
「皆、お前を信頼している。気にせず思い切っていけ」と、温かい言葉がつづられていた。
何度も何度も読み返し「勇気づけられ、スランプから抜け出す大きな足がかりになった」。

駒大苫小牧戦は2打数1安打。左越え適時二塁打で貴重な追加点を挙げ、復調の兆しが見えた。
そしてこの日は四回一死一、二塁で中前打し、敵失を誘って2者を生還させ逆転に導く。
八回は鮮やかな左中間二塁打でナインを鼓舞した。
「支えてくれるナインを信頼し、復調のヒントをくれた北条さんの好意にも報いたい」と決意を新たにした。

66名無しさん:2017/09/02(土) 15:51:32
今治西 義足の球児 涙の「終戦」


終わったんだ。一塁ベンチ前で倉敷工の校歌を聞き、曽我の目から涙があふれた。
「このメンバーで甲子園に来れたことが最高の思い出です」。
激しく、楽しく、そして短かった夏を惜しんだ。

義足の左足でプレーする曽我を、宇佐美監督は「自分の感覚では眼鏡をかけているようなもの」と表現した。
野球部入部の際、あいさつに訪れた御両親に「他の選手と同じようにさせますよ」と言った。
御両親は深くうなずいたという。

それから2年余り。夢の舞台で見せた姿は、全国の身障者の勇気となった。
学校に届いた手紙や電話は数え切れない。

取材攻勢にさらされた状況に「最初は嫌になったこともあった」と打ち明けたが
「こちらに来てからは気にならなくなった。成長できたと思います」と続けた。
稀有な経験はまた一つ、曽我をたくましくした。


5歳の時に農作業機械に左足を挟まれ、足首から先を失い義足になった。
「周囲の視線が気になって仕方がなかった」少年は、父から野球を教わり、
野球は自信を与えてくれた。

そして甲子園で、夢を実現することの喜びを知った。
「大学でも野球を続けます」。
さわやかな感動を残し、義足の三塁手はマンモス球場を去った。

67名無しさん:2017/09/03(日) 11:55:20
第85回全国高校野球選手権大会

8月20日

倉敷工0ー2光星学院(青森)

倉工:陶山-萩原
光星:桑鶴ー明戸


光星学院の桑鶴が4安打完封した。
内外角をいっぱいに使い、丁寧に打たせて取る投球で三塁を踏ませなかった。
打線は1回二死二塁から田中隆の右翼線二塁打で先制。
5回には小比類巻の二塁打と犠打などで二死三塁とし、有木の右前打で1点を追加した。

倉敷工は好機を3つの併殺や盗塁失敗でつぶし、力投の陶山を援護できなかった。


桑鶴投手は安定感抜群でしたね。
130キロ台前半のストレートを内外角コーナーに投げ分け、
切れのあるスライダーはコントロール抜群。
ほとんど高めに浮く事がなく、最後まで力は衰えませんでした。


倉工は8回に先頭の須田が外角変化球を上手く流し打つライト前ヒットで出塁、
続く清水に打たせるもファーストライナーの不運でダブルプレー、
9回にも代打明田の内安打、セカンドエラーで一死一、二塁のチャンスを作るも、
代打の平井がセカンドゴロ併殺打に倒れ試合終了。

陶山君はこの日も好投した。
降雨ノーゲームになった試合以外は持ち味を十分に発揮したと思います。
やはり日本一になるにはもう少し力強い打力が必要ですね。

68名無しさん:2017/09/09(土) 12:21:58
秋の中国高校野球大会 倉敷工 37年ぶり3度目の優勝☆

2008年11月2日  マスカットスタジアム

倉敷工4-1南陽工


倉工が好機を確実にものにして快勝。先制打が効いた。
一回、2安打などで二死一、二塁とし、日下が痛烈な中越え三塁打を放ち、2者生還。
主導権を握ると、三回は三木、六回は岡田の適時打で加点。
速球をコンパクトにたたき、好投手を攻略した。

今大会初登板の早藤は切れの良い変化球を軸に六回途中まで失策絡みの1点で切り抜け、
継投した山崎も力強く相手打線を抑えきった。

最後の打者を三振に取った主戦山崎にナインが駆け寄り、歓喜の輪が広がった。
「信じられない。雲の上にいるよう」。中山監督は声を詰まらせながら、あふれる喜びを表現した。

この試合の10安打を含め今大会はすべて二けた安打を達成。
強打が目を引くが、4試合で14犠打と堅実さも光った。
チーム打率:3割4分6厘。

守りは主戦山崎の踏ん張りが光った。
準決勝で十二回を投げ抜くなど全試合に登板し、防御率1・69(投球回数32)。
走者を背負っても、フォークなどの多彩な変化球で決定打を許さなかった。

決して前評判は高くなかった岡山4位校。
「試合ごとに選手が成長した」と中山監督は目を細める。
西部地区予選、県大会を通して延長戦など厳しい戦いを制し、試合運びに磨きをかけた。
これで来春の選抜出場をほぼ確実にした。



熱戦の軌跡・・・一回戦 4-1宇部鴻城(山口2位)。 準々決勝 12-5作陽(岡山1位)7回コールドゲーム。
     
        準決勝 2-1鳥取城北(鳥取1位)延長12回。 決勝 4-1南陽工業(山口3位)。        



「持ってる人」・・・

中山新監督になって初の中国大会だったが、この人は「持ってる人」だと思う。
岡山県開催の年でなければ県4位では出場すら出来なかったのだからね。
78回、85回夏の甲子園でも「持ってる人」が部長でベンチ入りしていた。

あの壮絶な選抜開幕戦16-15を観て熊本県?から憧れの倉工へ進学して来たらしいね。
この試合の話が好きで部員は何度も何度も聞かされたそうだ。

高校時代はベンチ入りもなくスタンド応援だったらしい。
足利工業大学時代は野球はせず、母校で教師になるべく資格を取った。
笠岡工から倉工へ。念願かなって倉工への赴任は嬉しかったと思うよ。

そして憧れの倉工で監督に就任、初の大きな大会で優勝を果たした。
インタビューで感涙に噎んでいたね。
私も目頭が熱くなったのを昨日のように思い出す。
監督で優勝するのは部長での優勝とはまた違う大きな感動があったに違いない。

この「持ってる人」が34年ぶりの選抜でまたしても開幕戦、
ドラマチックな試合を戦うことになる。

69名無しさん:2017/09/16(土) 12:05:47
第81回選抜高校野球大会

2009年3月21日  リニューアル甲子園のオープニングゲーム

倉敷工11-10金光大阪(延長12回)

倉工:山崎、早藤ー頼
金光:木場、藤本ー中島


初回、有川の2点適時打で先制した金光大阪は4回、石井が左翼へ大会1号本塁打を叩き込み4点目。
常にリードしたのは金光大阪だった。しかし倉工は、その裏二死二、三塁で三村が左越3ランして同点。

5回に金光大阪が2点を奪えば倉工は6回に1点、、8回に1点で追いつき6-6。2度目の同点。

9回金光大阪は二死二塁から、敵失と連続長短打で展開的にも決定的な3点を奪って9-6となる。
だがその裏一死から日下の四球を足場に内山、早藤、山形が3連続短長打して3度目の同点に追いつく驚異の粘りを見せた。

なおも一死三塁。山本が投前スクイズ。突っ込む三塁走者・山形、マウンドを降りて捕手・中島にトスする投手・木場。

クロスプレーで中島が山形にタッチした時、中島のミットから白球がこぼれ落ちた。だが球審・橘の判定はアウト。

中山監督の指示で山形が訴えたが「落としてない」という回答だ。

残念ながら審判の判定に対する疑義は多く、この時も大会本部には抗議の電話が殺到したことは後で分かる。
ここで判定が覆る事はなかった。

倉工は11回、一死三塁からのスクイズを読まれサヨナラ勝ちのチャンスを逃す。
12回に金光大阪は西村の右越え三塁打と有川の中犠飛で10点目。さすがにこれが決勝点だろうと思われた。

しかし今度もその裏、山本が遊ゴロ敵失で出塁、井上、三村、三木の3連打で4度目の同点。

なお二死一、三塁、「自分が決める」決意の日下の右前安打でサヨナラのホームを三村が踏んだ。
まさに超劇的な幕切れとなった。



中山監督:何度リードされても食らいついた選手たちの粘りはすごかった。失敗は多く出たが積極的プレーの結果。
     ただ、失点を重ねた投手陣の立て直しは急務だ。


横井監督:三度も追い付かれ、選手はしんどかったと思う。九回の3点でいけると感じたが、倉敷工が粘り強かった。
     予想以上にスイングが鋭く、バッテリーが押された。



34年ぶりの選抜で又しても開幕戦を引き当てた。
リニューアルされた甲子園に一番に招待してくれた甲子園の神様に感謝したいね。

本塁打の応酬あり、誤審あり、1試合最多11二塁打あり、そして大会史上初の「開幕戦延長逆転サヨナラ」ゲーム。
開会式の行進曲「キセキ」の余韻も残る開幕試合での劇勝はまさに「キセキ」だったと思う。

「持ってる人」は辛抱強いね。山崎君は金光大阪打線につかまっていたが9回まで引っ張った。
もう少し早く早藤君へ継投すべきではと思ったが、それも終わってみれば劇勝に繋がっていた。

34年前の小沢さんも辛抱強かった。兼光君が発熱で絶不調も塚岡君になかなか代えず、
大勝が辛勝となった。小沢さんがこの試合を観てどのように感じられたか興味深い。

土曜日、快晴、満員の開幕戦、相手は大阪、逆転サヨナラ勝ち。
もうこれ以上ないステージだったね。

70名無しさん:2017/09/17(日) 10:51:56
誤審・・・


落球したのになんでアウトなんだ?

リニューアル甲子園の幕開けは、いきなり大会本部に抗議電話が殺到する事態となった。

倉敷工ー金光大阪の9回裏、明らかに落球したタッチプレーがアウトと判定され、この時点でのサヨナラ勝ちが消された。

倉敷工が3点差を追い付いた後の一死三塁。投前へスクイズを仕掛けた。
投手が捕手にグラブトス。中島が突っ込んできた走者にタッチしようとした時、ボールはミットからこぼれた。

橘公政球審の判定はアウトだった。

中山監督の指示を受け山形が落球を訴えても受け入れられない。
「中山監督は球審から「落としてない」という回答があったので、分かりましたと言うことです」と言う。

NHKのセンターからのテレビカメラは落球をしっかりととらえていた。

捕手中島は「タッチしたけど、どのタイミングでミットから球が出たか分からない」と話した。

試合後、判定について桂等審判幹事が対応した。
「審判は「アウトが完了したあとの落球」と裁定した。落球を確認した上でアウトにしました」と説明した。

倉敷工への回答との食い違いを指摘されると「それは聞いてないので。ただ、言葉が足らなかったかもしれません」。
そして「場内に説明があってもよかった」。と付け加えた。

延長12回、倉敷工がサヨナラ勝ちして勝敗を変えることはなかったので抗議電話は収まったが、
新装された晴れ舞台にあっては欲しくない判定になってしまった。

71名無しさん:2017/09/17(日) 11:38:20
尾藤公の「わが麗しの甲子園」


開幕戦を制した倉敷工に、あきらめないことに加え、素晴らしい粘りを見せてもらった。
取られても取り返す勝利への執念に絶賛の拍手を送ります。

逆転サヨナラ勝ちへの隠れたヒーローは2番の井上君です。
1点を追う延長十二回一死、一塁で一塁側へのプッシュバントが鮮やかに決まり、内野安打になりました。

相手守備陣の位置を確認し、さらに打球の強弱を即座に判断することが必要な、勇気がいるバントです。
井上君の快打がチャンスを広げ歓喜の勝利へ導きました。

箕島が春夏連覇した昭和54年の選抜大会でプッシュバントを多用。
春の覇者になった懐かしさがよみがえるシーンでもありました。

先手先手を取った金光大阪に食らいつき、初戦を飾った倉敷工。
その精神的な自信と誇りを痛感させられた試合です。

                     (元箕島高校野球部監督)

「尾藤スマイル」懐かしいですね。

2011年3月6日 膀胱ガンにより68歳で死去されました。

72名無しさん:2017/09/23(土) 16:57:23
尾藤監督さんの箕島との対戦 (第44回選抜高校野球大会 1972年)


27校が参加、下記がサンデー毎日の選抜展望号のランキングでした。

95点(日大三、静岡商、箕島、倉敷工、高知商)

90点(銚子商、日大桜ヶ丘、PL、大鉄、市神港、今治西)

85点(東北、取手一、花園、鳥取工、松江商、高知、鹿児島実)

80点(苫小牧工、成章、松商学園、福井商、奈良工、戸畑商、諫早)

75点(専大北上、名護)


倉工も山本投手を擁し、優勝候補の一角でした。
一回戦は箕島を2-1、二回戦は今治西を3-1で倒しベスト8まで進出。
決勝は日大三ー日大桜ヶ丘、史上初の東京決戦でした。


箕島は下馬評が高く優勝を期待されていた強豪だったのですが、
初戦敗退という結果に終わった事と、夏の予選敗退で後援会などから監督批判が噴出、
不信任票はたった1票だったのですが、監督を一旦辞め、ボーリング場で勤務されました。

倉工戦は箕島野球部の歴史を語る上で大きな分岐点になった試合と言えるかも知れません。
尾藤さんも昔を懐かしみながら倉工ー金光大阪戦を観戦されたことでしょうね。

73名無しさん:2017/09/24(日) 10:26:17
第81回選抜高校野球大会

2009年3月27日  2回戦

倉敷工5-6中京大中京

倉工:山崎ー頼
中京:堂林ー柴田


中京大中京が逃げ切った。初回に四死球の走者が失策で帰り2点先制。
2回には河合の適時二塁打などで3点を加えた。6-1の6回に4長短打で1点差に詰め寄られた堂林は、
走者を背負いながらも変化球を低めに集め、好守にも助けられてしのいだ。
倉敷工は山崎が5回以降はテンポよく投げ無失点だっただけに、ミスが絡んだ序盤の失点が痛かった。


山崎は、初戦の金光大阪戦と同様、この日も立ち上がりから制球に苦しんだ。
「ストライクを取ろうという気持ちが強くなりすぎて、固くなってしまっていた」。
四死球を繰り返すなど2回までに49球を費やし、中京大中京に5点を奪われた。
「相手に狙い打たれているようだった。バントを絡められ、きつかった」と山崎。

そんなエースを立ち直らせたのが、声をかけ続けた選手たちだった。
守備陣は3回に併殺を、5回には三木がヒット性の打球に飛びつき走者を二封にし山崎をもり立てた。
中盤から山崎の制球は徐々に安定。5回以降は得点を与えなかった。

「いいところに変化球が決まりだし、直球も切れて、中盤からは打たれる気がしなかった」と頼は話した。
「守備からリズムをつくる」。倉工が理想とする展開が6回に訪れた。

先頭打者の井上が内野安打で出塁。4番の三木は遊撃手が打球を胸ではじく強襲安打。
さらに、日下の犠飛、山形の中越え二塁打、5回まで3安打だった打線が一気に爆発した。
山形に続いて、山崎の一打で、1点差に迫った。


強豪相手に粘り強さを発揮し、観衆に「キセキ」を見せてきた選手たちを、
中山監督は「選手たちを称えたい。すごいチーム。普段はおとなしいのに、不思議です。本当によく応えてくれた」と話した。


初回、2回の四死球と失策が痛かったですね。
自責点は僅かに1点の山崎君。中盤からは良かっただけに少し悔やまれます。

34年前の選抜開幕戦のリベンジを果たした中京大中京。夏の選手権大会は優勝しました。
強豪に後一歩の所まで迫った倉工の粘りは天晴れだったと思います。


甲子園から帰り、小沢さんに報告に行っています。
小沢さんは感慨無量だったでしょうね。

74名無しさん:2017/09/30(土) 16:50:17
観覧席 「興奮した伝統校の激闘」


「よっしゃ、走れ、回れ」・・・。
銀傘の下の記者席で、一岡山県民になって大声を出してしまった。

倉工が金光大阪に延長12回逆転サヨナラ勝ちした激戦を今後忘れることはないだろう。
11-10。これほど凄まじいゲームにはそうお目にかかれない。

倉工は、常にリードを許しながら三度同点に追い付き12回についに試合をひっくり返した。
驚くべきは選手たちの気持ちの強さだ。

「打たれたら打ち返せ、とみんなベンチで声かけ合った」と頼主将。

9回、3点差をつけられた時、さすがに記者席で敗戦原稿を思い描いたが、直後に3連打で同点。
ナインは全く諦めていなかった。

くしくも前回出場した34年前も開幕戦で、愛知の中京(現・中京大中京)に16-15と辛勝。
この時、遊撃手として出場した神土コーチが、今回の試合前に「もう、あんな試合は勘弁願いたい」と言っていたのを思い出す。
だがまたしても、当時を再現したかのような壮絶な打ち合い。野球の神様のいたずらか、と考えたくもなる。

倉工は金光大阪戦に続く中京大中京戦で破れはしたが、5点のビハインドを1点差まで追い上げた。
「うちは力がない。そう認識しているからこそ思い切りぶつかっていけた」と中山監督や選手は言っていた。

もちろん、無欲だけで結果は出ない。ひたむきな努力があればこそだろう。
大舞台で強烈なインパクトを残した伝統校に心から拍手を送りたい。

75名無しさん:2017/10/01(日) 17:32:09
倉敷工26年ぶり12度目の優勝☆


2012年5月4日 春の岡山県高校野球大会 決勝戦 マスカットスタジアム

倉工9-8関西

倉工:三知矢、太田ー浜松、平尾
関西:加藤、児山ー関


倉工が乱打戦を制した。2点を追う6回表一死一、二塁、甲斐、岡田の連続適時打で追い付くと二死後、
井上直、本行に連続長打が飛び出し一挙5点の猛攻。
7回の小倉の左越ソロ本塁打も効き、4回途中から救援登板した太田が粘り強くリードを守った。

9回裏二死二、三塁、一ゴロのベースカバーに走ったエース太田の右足が、
打者走者のヘッドスライディングよりわずかに早く一塁に達した。
倉工がしぶとく、四半世紀遠ざかっていた春の県王座についた。

「勝ち方がいちいち劇的」と中山監督も苦笑いするしかない。

前日の準決勝も逆転サヨナラのピンチをしのいで理大付に守り勝ち、
昨秋優勝の光南との準々決勝は4点差を後半ひっくり返した。

両軍合わせて29安打が飛び交い、点取りゲームとなった決勝も満点の粘り。
好守にミスもあったが、重要な局面でナインは集中力を発揮した。

県内最多の甲子園25勝を誇るが、2000年以降の全国大会出場は2回。

「中国大会でもっと勢いを付け、勝負の夏に優勝を再現する」と決勝のソロ本塁打を放った主将の小倉。
古豪復活に向け加速を誓う。


熱戦の軌跡・・・二回戦12-0朝日、 準々決勝9-6玉野光南、 準決勝2-0理大付、 決勝9-8関西。 


主将小倉君の本塁打は見事だったね。決勝での本塁打は随分と観てなかった気がする。
「持ってる」人が春の県王座も久しぶりに奪還した。

76名無しさん:2017/10/07(土) 16:30:40
春の中国高校野球大会 「頂点へ意欲」


中山監督が「不思議なしぶとさがある」というチームの土台は打線だ。
県大会は4戦でチーム打率3割3分9厘。

特に集中打は見事で、光南との準々決勝、決勝はともに中盤にビックイニングをつくり逆転した。
打率6割を残した4番の小倉は「全員が思い切り振り抜くことで勢いを生み出せている」と明かす。

投手陣にやや不安があるが、理大付との県大会準決勝は右横手の内山が4安打完封し2-0で守り勝った。
万全でなかったエース太田や右腕の三知矢が復調すれば、ロースコアでの勝負強さも増しそう。

「個々の能力は決して高くない」(中山監督)が一枚岩となって弱点を補い合う。
象徴的なのは指揮官が「2人で1人」と表現する捕手、左翼、右翼。

それぞれスタメンは打力のある浜松、甲斐、小銭が入り、後半に守備が堅実な平尾、瓜田、大橋と交代して逃げ切りを図る。
小銭は「交代に不満はない。得意の打撃で貢献することが役割」と言い切る。

主将も4人制を敷く。小倉と平尾、井上と山形で負担を分け合っている。
中国大会で主将の代表を務める小倉は「優勝し、夏への勢いを強めたい」と、1975年以来の春の中国制覇に向け気合十分だ。

主将4人制は以前からあったのかな?
「持ってる人」は選手の技量はもちろん、性格などもよく掌握していたようだね。

77名無しさん:2017/10/07(土) 17:20:17
春の中国高校野球大会  

2012年6月2日  米子市民球場

倉敷工5ー1倉吉総合産


倉工は5犠打を絡め、1点を積み重ねた。
4打席連続適時打を放った小倉の決定力が大きい。

井上、本行が2得点ずつと1、2番の役目をよく果たした。
エース太田はチェンジアップを有効に使い、8回を散発4安打、自責点0にまとめた。

倉工の4番小倉が全打席タイムリーの離れ業をやってのけた。
「神様が味方をしてくれた」とおどけるように、ややグリップを余して握るバットは、まるで魔法がかかったよう。

初回二死二塁は三遊間へ先制打。3回二死三塁ではレフト前へ。
5回一死二塁では左翼フェンス直撃の二塁打。7回一死二塁ではショートへ内野安打。

ことごとく得点圏で打席が回ってくる巡り合わせも含め「本当についている」と笑う。
県大会も6割と打ちまくり、チーム4人いる主将を代表し今大会のキャプテンを努める。

チーム全体を見渡せば13安打5得点は「物足りない」。
次戦はセンバツを経験している鳥取城北だけに「運だけでは勝てない」最後は真顔になる。
古豪の支柱は、決してうかれない。

小倉君のバットコントロールは素晴らしい。
天性のものもあるだろうが、バットを短く持って鋭く振り抜く、努力の賜物だね。

78名無しさん:2017/10/08(日) 14:32:31
春の中国高校野球大会

2012年6月3日  米子市民球場

倉敷工11-5鳥取城北


倉工が16安打で打ち勝った。初回、浜松、小倉の連続二塁打で先制。
三回は相手守備の乱れに乗じ、4短打にスクイズを絡め4点。

四回も小銭の2点本塁打などで4点を奪い優位に立った。
先発内山は5回無失点の好投。コールド勝ち目前の六回、リリーフが5点を失っただけに前半の大量点が効いた。
鳥取城北は西山、浜上の両右腕が試合をつくれなかった。


「すんなり終わらないところがうちらしい」。
最後は逃げ切る形となった中山監督は半ばあきれつつ、どこか楽しそうだ。

古豪が得意とする乱戦を制し37年ぶりの優勝へ王手をかけた。
6回までに挙げた10点の貯金が効いた。

前日4打席連続適時打の4番小倉が、又しても先制打を含む3本の適時打を放つこと自体、神懸かっているが、
攻撃がすべて良い方向へと転がっていく。

例えば3回一死一、三塁。小銭がスクイズを空振りするものも、
挟殺プレーの送球が浮く間に三走の本行が本塁をかすめ取った。

4回も小銭。エンドランを空振りした後、開き直った結果が、左中間への特大2ランだ。
県大会からミスをした選手が活躍する珍現象が度々起こる。

もう一人、象徴的なのが打撃不振で3番から下位に降格した楢原。
送りバントを失敗した次の2打席で、低めの変化球に食らい付き見事なスクイズを決めた。
8回には追い上げられるムードの中で貴重な適時打を放った。

失策と3つの四死球が絡み5失点した6回の守りに目をつむることはできないが、
何かを持っているこのチーム、このまま勢いに乗ってしまうのもいい。

79名無しさん:2017/10/08(日) 17:18:55
倉敷工 37年ぶり2度目の優勝☆  秋を含めると5度目の中国大会制覇☆

春の中国高校野球大会  2012年6月4日  米子市民球場

倉敷工7-3尾道


倉工が13安打と活発で、しぶとく二死から6得点した。
3回は井上、浜松の適時打で2点を先取。4回は二死から、四球を挟んで井上の2点三塁打など4連打で一挙4点を奪った。

右横手の内山は2併殺のほか、二塁封殺が三度と緩急でゴロを打たせ、粘り強く完投した。
尾道は先発の森実が打ち込まれた。打線は4回に4本の短打を集め反撃に出たが、その後は決定打を欠いた。


試合を終え球場を出る倉工ナインを、保護者やOB、ベンチを外れた部員たちの長い列が待っていた。
一人一人が歓喜のハイタッチを交わす。チーム全体が一枚岩となり、実に37年ぶりの栄冠をつかみ取った。

3年生で占めるベンチ入り18人の結束は格段に固い。
「よくまとまり、よく成長した」と中山監督。

一昨年の1年生大会で初戦をコールド負けした世代が大化けした。
成長の証しの打線は決勝でも火を噴いた。前日まで7適時打の小倉は沈黙したが前後の打者がカバー。

3安打3打点の井上は「全員が打撃への意識を高く持ち練習してきた。必ず誰かが打つ雰囲気がある」と打線の厚みに胸を張る。
守りでは背番号11の内山が「ピンチで粘れた」と3失点完投。

前日の5回無失点と合わせ主戦級の役割を果たした。背番号7の捕手浜松も難があった捕球でほぼノーミス。
これまで途中交代が多かったが、2日連続でフル出場し「生捕手に一歩、近付けた」。

個々のチームも逞しくなり1ヶ月後の全国選手権岡山大会は他校のマークも厳しくなるだろう。
主将の小倉は「息をつく暇はない。甲子園に行くためにもっとレベルアップする」。
春の収穫を胸に、ナインは勝負の夏へ向かう。


中国大会優勝☆・・・1963年秋、1971年秋、1975年春、2008年秋、2012年春、(合計5回)


中国大会準優勝・・・1957年秋、1958年秋、1961年春、1966年秋、1967年春、

           1973年秋、1974年秋、1986年春、(合計8回)


甲子園には行けなかったが良いチームだったね。
1年生大会で初戦コールド負けしたチームとは思えない。

中山監督の功績は大きい。随分と遠ざかっていた中国大会制覇を2回も観せて貰った。
選抜でも奇跡を観せて貰った。出来ればもっと長く監督を続けて欲しかったね。

80名無しさん:2017/10/14(土) 11:35:14
「第50回全国高校野球選手権大会  青春」 

1968年9月21日公開の長篇記録映画   総監督・市川崑


【ストーリー】

大鉄傘に風の音が鳴る冬の甲子園球場。
人影一つない風景、夏の烈日の下にエネルギーを爆発させる球児の姿が幻のようだ。

第一回全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に十校を迎えて村山朝日新聞社長の始球式で、熱戦の火蓋をきった。
優勝校京都二中。大正十三年、甲子園球場完成。昭和二十三年その名称は全国高等学校野球選手権大会と改められた。

数々の激闘、球児たちの青春の歴史は日本全国で力強く受継がれ、第五十回の記念大会を迎えた。

厳寒の北国。あかぎれの手がボールを握り、かじかんだ手がバットをつかむ。
雪の降り積もる校庭を掘り起して得たわずかな土の上での練習を行う。
厳しい北国のトレーニングだ。網走の雄大な流氷と並んで走る部員たち。

そしてスモッグに覆われた都会の高校では、いくつもの部にまじって、野球部もラッシュアワーのような校庭で練習を行っている。
春の到来。硬質の打球音が響いてきた。150人の部員のチーム。片腕でノックバットをふる男。
カッとまぶしい南国・沖縄。ジェット機の騒音の下、ここでも精魂をこめた猛練習が行なわれている。日本全国で、猛練習が行われている。

球児たちが夢に描く、夏の大甲子園。七月、各地一斉に地区予選が始まった。
地方の荒れたグラウンドは見物人もまばらだが球児たちの一球は甲子園と同じかけがえのない一球だ。

北は北海道から南は沖縄まで、四十八代表校が決った。
対戦相手を抽選する大阪フェスティバルホールは、組合せが決まる度ごとにどよめく。

いよいよ、第50回大会の開幕だ。スタンドを埋めた大観衆。割れるような拍手、大観衆が揺れ動く。
選手入場。ああ、夢にまでみた甲子園。大会旗の掲揚、国歌演奏。舞上る数百羽の鳩。

一転して、解体された戦時中の甲子園球場。戦死した野球人の面影。

第一球をワインドアップする投手。享栄対倉敷工、かくして今大会四十七試合の熱戦の幕が切って落された。



「審判の右手が高々と上がりました・・・倉敷工業の小山投手 やや冷静に やや意気込んで 第一球を投げました・・・」

痛い肩と肘なれども気力を振り絞って投げる小山投手の勇姿ですね。

「バッターの中村君を呼んで監督が何か言っています・・・」小沢さんも若い。

DVD化されていますのでご覧ください。

81名無しさん:2017/10/15(日) 10:05:14
水本勝己

倉敷市生まれ。 倉敷工から松下電器、現在は広島カープ2軍監督。


1986年夏、岡山大会の決勝・岡山南戦で倉工の主砲は右翼席に本塁打を放った。
18年ぶり7度目の甲子園出場に強打の捕手として貢献。

この年の3年生にはのちにプロ入りした選手が5人もいた。
理大付には86年度ドラフト2位でロッテに指名された森広二投手、関西には阪神からドラフト6位指名された真鍋投手。
共にプロでは大成できなかったが、真鍋は今もNPB審判員として活躍している。

そして岡山東商には社会人・川崎製鉄水島を経て経て89年度ドラフト2位で巨人に入団した吉原捕手、
倉工が決勝で破った岡山南には90年度のドラフト外でダイエー(現ソフトバンク)に入団した坊西捕手がいた。
水本、吉原、坊西の3人は、捕手三羽がらすとして岡山球界では有名な存在だった。

甲子園では初日の第3試合で後に巨人に入団する川辺忠義投手率いる秋田工に1-11で敗退。
卒業後は社会人野球の名門・松下電器(現パナソニック)に入社。
89年度ドラフト1位で西武に入団した潮崎投手とバッテリーを組んで3年連続で都市対抗野球に出場した。

プロ野球からの誘いはなかったがプロへの夢を諦められず、
倉工の先輩でもある当時広島のコーチを務めていた片岡新之介コーチを頼ってテストで広島に入団。
しかしアマ時代まで順風満帆だった野球人生もプロでは2軍でわずか39試合、2年の選手生活だった。

82名無しさん:2017/10/15(日) 10:50:46
水本勝己 

異例の抜擢・・・広島カープ2軍監督へ出世街道を歩いた理由


「言われた時はビックリしましたよ。僕にはトラウマがある。
選手時代に上でやったこともない人間が、こういうポストに就いていいのか…」

水本自身に1軍出場歴はなく、2軍でもわずか39試合に出たのみ。
2年で早々に現役を退き、ブルペン捕手として長くチームを支えてきた。

日本球界の慣例に従えば極めて異例の抜擢。
その裏には選手時代の実績にとらわれない、球団フロントの柔軟な姿勢があった。

「厳しさと優しさがあり、下積みの時代から選手を叱咤激励していた。人間としての幅も持っている」。
鈴木清明球団本部長は水本の起用理由をそう説明する。

よかれと思えば黒田博樹、新井貴浩らにも臆せず苦言を呈した。彼らの信頼は変わらず厚い。
07年にブルペンコーチ補佐の肩書きが付いて以降は、本人が望むと望まざるにかかわらず、
とんとん拍子で“出世街道”を歩んだ。

「プロ野球の世界に入って本当によかったと思います。現役時代はいろんな指導者に出会い、
考え方とかいろんなことを勉強させてもらった。プラスになることが多かった」

最も影響を受けたのは元監督の故三村敏之氏だった。
阪神・金本、広島・緒方両監督をはじめ、同氏を慕う指導者は少なくない。

三村氏に習って読書を欠かさず、最近では「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子著)を読んだという。

「三村さんは僕が1軍でやっていなくても、言わせる雰囲気を持ってくれていた。僕もそうありたい。
意見に感謝の気持ちを持って耳を傾けつつ、判断と決断をどう下すか。
それが僕の仕事なので、勉強しなくちゃいけない部分ですね」

勉強意欲、吸収意欲が旺盛で、人をいかに動かすかを考え、言葉遣い一つにも注意を払う。

名選手は名監督にあらず…とよく聞くが、実績のある選手が名指導者になるとは限らない。
人の痛みがわかる苦労人の挑戦にエールを送りたい。

83名無しさん:2017/10/15(日) 14:12:12
水本勝己

広島カープ初のファーム日本一☆


広島2軍は26日、1991年以来、26年ぶり9度目のウエスタン・リーグ優勝を決めた。
セリーグを制した1軍との同時優勝は同年以来、2度目。

この日はデーゲームの阪神戦(鳴尾浜)に勝ってM1とし、ナイターで2位・中日がソフトバンクに敗れてVが決定した。
水本勝己2軍監督(48)は「チーム全体のレベルが上がっての優勝。1軍と共に優勝できたのはとても嬉しく思う」と喜んだ。
10月7日に宮崎で行われるファーム日本選手権に出場する。


「ファーム日本選手権、巨人2-5広島」(7日、KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎)


ウエスタン・リーグ覇者の広島が5-2でイースタン・リーグ覇者の巨人に逆転勝ちし、初の日本一に輝いた。
兄貴(1軍)がシーズン中に幾度となく見せつけた終盤の逆転劇を、弟分もやってのけた。

2点を追う七回、堂林の左前打をきっかけに小窪、美間の連続適時打で同点に追いつき、
なおも一死一、二塁のチャンスにルーキー坂倉が勝ち越し3ランを右翼席に運んだ。

今季は高卒新人ながら2軍の正妻の座を奪い、打率はリーグ2位となる・298をマーク。
シーズン終盤には1軍出場も果たし、プロ初安打初打点をマークした。
ファーム日本一が懸かった大舞台でも非凡な才能、そして勝負強さをいかんなく発揮した。 

33年ぶりの日本一を目指す広島1軍にとっても大きな励みとなる2軍Vとなった。

84名無しさん:2017/11/25(土) 11:11:10
水本氏に敬意を払い広島カープ情報


37年ぶりのセリーグ連覇もCSで敗退。
セリーグ初の下克上で3位の横浜が日本シリーズへ。
ソフトバンクが4勝2敗で日本一に。

CS制度で仕方ないがセとパを大差で制した同士の日本シリーズを観たかったね。



広島のドラフト・・・6選手中高校生が4人に、大学生2人。
社会人はゼロで全員が将来性を見込んでの指名。

1位で地元・広陵高の中村奨成捕手を2球団の競合の末に獲得すると、
2位で熊本工の152キロ右腕・山口翔、3位のケムナ・ブラッド・誠(日本文理大)、
即戦力というよりは将来性を買っての指名。

以下、4位の永井敦士外野手(二松学舎大付高)、5位の遠藤淳志投手(霞ケ浦高)、
6位の平岡敬人投手(中部学院大)と、これでもかと素材型を並べた。

超高校級捕手と評判の中村も、出てくるまでに3、4年はかかる?
裏を返せば、来季も現有戦力で十分に戦えるということ。

確かにカープのレギュラー陣は若い。来季いきなり働けなくということは考えづらい。
今年のドラフトの狙いは明白。「その次の世代」を見据えた補強だ。

カープはこれまで主力のFA流出に泣いてきた歴史がある。
当時とは状況が激変したとは言え、備えておく必要がある。

今季、ファームでも26年ぶりに優勝を遂げた。
2年目の坂倉や、高橋昂也ら次世代を担う若手も育ってきている。
育成に定評のある広島は、育て上げて黄金時代を作る。

85名無しさん:2017/11/26(日) 11:12:04
水本氏に敬意を払い広島カープ2軍由宇(ゆう)練習場の話題


カープの2軍練習場は山口県岩国市由宇町にある。

選手寮や室内練習場などは広島県廿日市市に存在する。
だから練習や試合日、選手など関係者はここからバスで由宇まで移動する。

もともとカープは同じ広島県福山市内に2軍本拠地を持っていた。
しかし大野からの便や施設面などを考慮。

いくつかの候補地から選定し93年から現在の施設を使用するようになった。

その由宇練習場は広島から山陽道に乗れば車で約1時間弱、
電車でも在来線で約1時間(ただしJR由宇駅からバスなどのアクセスが悪いのだが…)。
立地条件としては恵まれている方である。

とはいえ、山に囲まれた町並みで駅前も含め、閑散とした印象は拭えない。
娯楽が多くない地方都市、2軍とはいえ、プロ球団が試合を行ってくれることは町にとって大きい。

カープのリクエストに応え、由宇町もできるだけのサポートを行っている。
ハード面で はフィールドやロッカーなど球場施設の改修。

そしてソフト面ではファンへの『おもてなし』である。
ネット裏高台には、かつてのビジターチームのロッカーが改修されたショップがある。

そこではカープ由宇協力会の方々が接客をしていた。

「地元名産の神代わかめを使用した『手抜きうどん』
(『さぬきうどん』に対抗したシャレ)などは名物になりつつあります。

16年に優勝した時も商店街など、いつもとは比べられないほど人が集まった。
今日も仕入れた弁当20個が完売ですよ(笑)」。
事務局長の出雲さんはのどかな話をしてくれた。

とはいえ、カープの2軍組織である。一番の目標はチーム強化であり、実際に結果につながる大事なセクション。
球界の流れに逆行しているような由宇練習場のように感じるのだが…。

実際にチームを扱う立場の水本2軍監督に聞いた。・・・続く。

86名無しさん:2017/11/26(日) 11:36:46
「まず練習するしかない環境というのが最も大事だと思う。

プロに入って来る選手は実力もあるし、身体の強さも持ち合わせている。
それを磨くことができるかにかかっている。体力はあるのだから、

多少のハードトレーニングをさせてもしっかりケアをすれば、壊れることはない。
それができるかどうか…。選手というのはプラスかマイナスしかないのだから」


水本監督はテスト生として89年のドラフト外で入団も2年で引退。
長期に渡りブルペン捕手をつとめ11年に3軍統括コーチに就任した。
そして14年オフに2軍監督代行、16年より2軍監督に就任した、いわば生粋の叩き上げだ。


「僕自身の現役が短かった。やっぱり悔しい部分もあるし、その後の裏方生活でもいろいろな選手を見て来た。
だからこそやりたいこと、言いたいこともある。『伸びるのに人間性も必要』と言われる。
必要ないと思うかもしれないですけど、僕の経験上、そういう選手はやっぱり伸びる」

一人の選手の名が挙がった。背番号10、岩本貴裕。

10年に1軍で2桁本塁打を放ち一時レギュラーを獲得しつつも、その後、数年は不調。
そして17年、完全復活を果し、大事なところで貴重な働きを見せている。

「行けると思ったけど、少し、調子に乗ったかな。だからその時にはいろいろと話させてもらった。
厳しいこともたくさん言った。本当に怒鳴り上げたりもしました。でも彼はもう一度、頑張ってくれた」

「鈴木誠也が欠場中の中、よくカバーしている。でもまだまだ、あんなものではない。
年齢だって31歳と油が乗り始める時期。技術的にも進歩できるし、彼も身体が強いから」


「最も大事なことは1軍が強くなること。
そのために多くの選手の才能を伸ばして戦力を作ることが我々の仕事です。

だから重要なことは、2軍でも当然のように戦えないといけない。
それはベテランでも高卒の若い選手でも変わらない。
まずは2軍で戦力として結果を残す。それも飛び抜けたくらいであって欲しい」

「だから戦えない選手は下でも使いません。今、現在、試合へ出て戦える選手を使って勝つ。
それが2軍でも重要だと思う。

緊迫した試合に勝つことによって技術や経験など、様々なことを覚えることもできる。
普段の練習はもちろんですが、加えて実戦。
これらにいかに真剣に取り組むかで選手の伸び方が大きく変わって来ると思う」

「よく故障明けの調整登板などがありますけど、ああいうのも基本はやりたくない。
チーム予算の中で保有可能な選手数があって、規則上ファーム組織も1つしかないから、それはしょうがない。
だから3軍の扱いなども他チームさんとカープは大きく異なって来る。

3軍でノンビリ育成している時間も余裕もない。
戦える選手ならばシーズン中でも契約する。使えるなら即、1軍に上げる。でもそうでなければ…。
もちろん球団の判断もありますが、そこはシビアな部分だと考えています」・・・続く。

87名無しさん:2017/11/26(日) 11:50:18
いろいろな選手が混在する組織の中、水本にはやるべきことがたくさんある。

「ファームには答えがない。でも1つ確かなのは、カープが強くなることが最も大事なこと。
ここ十何年やって来たことがようやく形になり始めている。ここで萎んでしまっては、少し前の低迷期に戻ってしまう。
強くなり始めてファンも増えている。順調に進み始めた今こそ、原点を忘れてはダメ」


選手にとって由宇練習場の存在位置というのは、絶好の場所なのかもしれない。
最新の機材や設備が揃った住居隣接の練習、生活環境。

いつも多くのファンが足を運び、サインや写真を求められる施設は『恵まれた環境』とも言える。
しかしプロとして重要なことは、1軍のフィールドで戦力になること。
その原点が由宇にあるのではないだろうか。言ってみれば真逆のような環境であるからこそだ。

平日昼間のデイゲームだが、500人ほどの観客が由宇には集まった。
決して多くはない数字ではあるが、この熱烈なファンたちもカープ躍進をサポートしている。

また芝生席に椅子やテントを持ち込み、思い思いに試合を楽しんでいる。
「今日は休みを取りました。遅めの夏休みです(笑)。ここはノンビリできる。

野外フェスみたいな感じで昼からビール飲みながら寝転んで試合見るのが楽しい。
今日は大瀬良大地もいるし、他にも良い選手は多いですよ」。

鈴木誠也や西川龍馬が這い上がって来る姿も見て来たのだろう。
そうすれば思い入れや感情移入も強くなり、より強く応援したくなる。その周囲の姿勢がさらに選手の後押しをする。

山口にある少し時代とかけ離れた由宇練習場。ここがカープ躍進の一端を担っている。

88名無しさん:2017/11/26(日) 12:12:14
広島カープ2軍関係者も優勝パレードへ参加


37年ぶりにセ・リーグ連覇を果たした広島の優勝パレードが25日、
広島・西区の平和大通りで行われた。

コースは西観音町電停東から鶴見橋西詰までの約3キロ。
昨年同様、天気にも恵まれ、沿道には30万人を超えるファンが集まった。

選手、関係者はオープンカー2台、オープンデッキバス6台に分乗。

緒方孝市監督、リーグMVPに輝いた丸佳浩外野手ら一軍メンバーだけではなく、
今年は球団史上初めてファーム選手権を制した二軍の関係者も加わった。

広島の優勝パレード実施は、初のリーグ制覇を飾った1975年、

そして25年ぶり優勝を果たした昨年に続き2年連続3度目。

沿道からは「連覇おめでとう!」
「来年こそ日本一!」などの声 が聞かれ、選手たちは笑顔で応答していた。

89名無しさん:2017/12/02(土) 15:02:05
11月17日、18日、第69回倉工祭


今回から、文化祭から倉工祭に、改称して盛大に開催された。

今年のテーマは「 記憶に残るような創造性あるものを 」。

一般公開となった、18日は朝早くから、他校の生徒さんら多くの方々が来校。
体育館では、ダンスやコーラス等。

中庭では、書道部による、書道パフォーマンスや、吹奏楽部の演奏など。
さらには、各教室、各部によるパフォーマンスなど、盛りだくさんの内容でした。

おいまつ会館では、今年もOB、教職員による写真や作品の展示がありました。
こうした中で、最も注目されたのは、倉工が開校された、昭和14年の写真パネルや、戦時下の倉工生。

また、甲子園初出場した時の写真パネルなど、多くの人が見入っていました。
そして、倉敷ケーブルテレビの取材もありました。

今後の課題として、展示される数が少なくなっているので、もっと多くの方の協力を、頂きたいものです。


がんばれ 倉工!   技術 スポーツ 美しい文化の倉工へ!

90名無しさん:2017/12/02(土) 17:15:07
監督 小沢 馨物語


第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝

三年連続優勝を目指した小倉北。

「 キープ マイ ペース 」を唱えながら

終始冷静な、投球を続けたエース小沢の過酷なマウンド。
その小沢を援護した、捕手 藤沢新六の2本の左中間への、大ホームラン。

無欲であるがゆえ、小沢は詫びた。無欲であったがゆえ、倉工は勝ったのである。


迎えた準決勝。相手は、2年連続2回目出場の岐阜。

1対3とリードされた四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。
翌日再試合となった。

宿舎に帰った倉工ナインは、風呂の中で『 これなら勝てる。優勝できるかも 』
と、はしゃぎ立てた。欲が出た。無欲から欲にかわった。

再試合では、強振を続ける打線は空回り。
頼みのエース小沢は、連投の疲れで、ひじが上がらない。

球は走らず、2対5で敗れた。敗戦を決めた無情の雨。

【 あの時さえなかったら。今でも、雨の日には想い出す。 】と、小沢は言う。


 準決勝  岐阜 3-2 倉敷工  ( 4回降雨ノーゲーム )

      岐阜 5-2 倉敷工


昭和24年8月20日。倉敷駅前広場。

初出場で、ベスト4。感激を味わったのは、倉工ナインよりも、倉敷市民だった。

倉敷駅前広場に、集まった大群衆は、駅前だけでなく、沿道にも人があふれ
人々は、「 万歳! ばんざい! 」の連呼。空には、打ち上げ花火が上がり

ブラスバンドの演奏までが、加わった。急こしらえのステージに、立った倉工ナイン。
そして、主将の小沢が、挨拶をする事になった。

91名無しさん:2017/12/02(土) 17:50:13
小沢 馨物語


昭和24年8月20日

倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテルぐらいまでの沿道を埋め尽くした。

まさしく倉敷の夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。


「 主将の、私に挨拶をしろと言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。

それで【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を目指して、

皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんですよ 」。

小沢は、大群衆に、いや倉敷市民に約束した。


のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。
倉敷の名を全国に伝えたのは、倉工エースで主将の小沢。
倉敷市民から、大いなる期待が寄せられたのである。 

倉工卒業後 小沢 と 藤沢は、プロ野球阪神タイガースの入団テストに合格。
プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出しは、来なかった。

一年が経過した頃、社会人野球、日鉄二瀬から、誘いを受け、

阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って日鉄二瀬に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」と、藤沢。


移籍した直後の事。倉敷から、使者が小沢のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやってくれないか。

倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしいんだ。

就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業高校の、事務員。

仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長が言ってるから。 」

倉敷市長から、直々に監督を要請された小沢。


こうして、倉工小沢監督が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

92名無しさん:2017/12/10(日) 13:10:33
広島カープ 優勝旅行


37年ぶりにリーグ2連覇を果たした広島は1日夕方、

緒方監督やMVPに輝く丸ら選手17人、
家族、スタッフら計228人が優勝旅行先の米国ハワイ・ホノルルへ向け、
広島空港から日本航空のチャーター便で出発。

2軍の水本監督やコーチ陣は成田空港から出発し、現地で合流。
一行は7日に帰国した。


やはりプロは勝たねばなりませんね。
高校野球はそればかりではないのですが・・・。

93名無しさん:2017/12/10(日) 13:35:06
小沢 馨物語


昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回目の出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。

このチームは個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労しました。 」
こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将だった、大倉一秀。

この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。

「 今回のチームの、いつもと違う点は、どこですか? 」すると、

小沢監督は、「 今年は、センターラインが、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」
センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート、センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。
『 一度でいいから、優勝旗に手をかけてみたいですね。 』

この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督が【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。

【 優勝 】と言う言葉を使ったのは、何年ぶりであろうか。

昭和43年夏、大エース 小山投手 を擁した時、以来ではなかったか。

倉工久しぶりの、大型チーム。エースは剛腕 兼光保明。

防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って甲子園に、乗り込む倉工ナイン。

94名無しさん:2017/12/10(日) 15:31:35
小沢 馨物語


昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で中京、杉浦監督とバッタリ。
二人は談笑しながらもお互いの健闘を誓いあった。

そして、いよいよ抽選会が始まった。
主将大倉が引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。

しかも、相手は健闘を誓いあった名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。

そして、二回戦では原辰徳のいる東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。
一回戦から好カードだったからであろう。

剛腕エース兼光の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

開会式が終了して一塁側 倉敷工、三塁側 中京がベンチに入った。
外野のノックは、小山コーチ、内野は、小沢監督が行った。

ノックを終えた小山コーチは、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」その人物こそ、豊見城 沖縄水産を合計17回も
甲子園に導いた裁弘義監督だった。

この時、甲子園初出場。どんな名監督でも、最初から名監督ではない。
最初は、誰でも「 学ぶ 」事から始めるものである。

恐らく裁監督は小沢監督から、小山コーチを通じて何かを「 学び 」に来たのであろう。

そして、プレーボールのサイレンが、甲子園に鳴り響いた。

ところが、エースに異変が生じていた。剛腕エース兼光の異変。

「 甲子園入りする前から、兼光は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

95名無しさん:2017/12/17(日) 11:17:50
小沢 馨物語


昭和50年 第47回全国選抜高校野球大会。 開幕戦。

倉敷工 16-15 中京

球史に残る打撃戦になった。
大会1号を、9番レフトの野田が、大会2号を7番サード石原が、それぞれレフトスタンドに運んだ。

終わってみれば倉敷工15安打、二塁打5本、三塁打1本。
対する中京は、14安打、二塁打1本、三塁打2本だった。

剛球右腕 エース兼光は、中京戦に登板するも、高熱は下がらず、試合の記憶すら、定かでないという。

主将大倉は、「 兼光が高熱があるのは、知っていました。 」
守備の名手 神土は、「 兼光さん、よく打たれるなあ。それにしても中京は 、良く打つなあ、と思っていました。
それで、兼光さんが熱があるとは知りませんでした。 」と。

最大11点をリードするが、中京打線にノックアウトされ降板。
「 もうやけくそで、兼光をかえました 」と、小沢監督。チームは、何とか逃げ切った。

小山コーチは、次の様に語る。「 13対2の時、中京は逆に気軽になったのでは。
野球というのは、1点や2点差となったら、プレッシャーになるもの。 」

試合後、小沢監督は大会関係者に、『 ぶざまな試合をしてしまい、申し訳ございません。 』と、深く頭を下げたのだった。
この試合、同点にはなったが、逆転されなかったのが大きい。

二回戦は、東海大相模。三番 原辰徳 四番 津末英明を擁する打線は、全国一。
倉敷工 と 東海大相模。この試合が、事実上の決勝戦と言われたのだった。

東海大相模の監督は、「 あの程度の投手なら、うちの打線なら、楽に6点は取れる。 」と、笑みを浮かべた。


小沢さんはエースに拘る人だったですね。大変な高熱で登板させるのは無茶。
キャッチャーミットが二重三重に見えたそうだから。
塚岡君先発か、もっと早く交代させるべきだったね。
又しても奇跡の大逆転負けかと冷や冷やしたのを思い出す。


東海大相模の原貢監督・・・鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。ノンプロを経て、福岡県立三池工業野球部監督に就任。
無名校を初出場にして1965年夏優勝へと導き、三池工フィーバーを起こす。
その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大の創設者の招きで東海大相模監督に就任。
東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。
1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となる。
2014年に78歳で死去されています。


工業高校の優勝☆・・・1965年夏(第47大会)の三池工と1968年春(第40回大会)の大宮工のみ。

             倉敷工も優勝して然るべきだったが・・・。

96名無しさん:2017/12/17(日) 15:11:03
広島カープ 5泊7日のハワイV旅行


今年は選手やスタッフ、その家族ら228人が参加。
選手らは常夏の島で、どんな休暇を過ごしたのか?意外と知られていないので紹介したい。

ホノルルに到着した1日の夜は滞在先ホテルで、ウエルカムパーティーが開催された。
鈴木本部長のあいさつに始まり、緒方監督が乾杯の音頭を取り、連覇をお祝い。
ムードメーカー上本が飛び入りでハワイアンダンスを披露するなど大盛り上がりだった。

2日目はオーナー杯ゴルフが開催。強風に見舞われながらも選手たちはハッスル。
丸は「プロに入ってから暖かいところでゴルフするのは初体験。すごくやりやすかったです」と声を弾ませていた。

行事は2日目まで。3日目はテレビのロケ日が設けられているが基本的に自由行動だ。
4日目、5日目はそれぞれがプライベートの時間を楽しんだ。

安部、野間は報道陣の要望に応え、サーフィンに挑戦してくれた。安部は持ち前の身体能力を発揮。
見事な波乗りを見せ「楽しかった。かなり乗れましたね」と満足顔だった。

野村、薮田、中村祐はオアフ島のシンボル・ダイヤモンドヘッドへ登頂。
道中で小学生の時にバッテリーを組んでいた同級生と遭遇した野村は「びっくりです」と目を丸くし、
頂上では「景色がきれいで感動しました。パワーをもらいました」と絶景を目に焼き付けていた。

シーズン中、遠征が多い選手にとって優勝旅行は家族と過ごせる絶好の機会でもある。
緒方監督は家族で人気のパンケーキ店へ。新井も子どもたちとプールやショッピングを満喫し、
「楽しかった。家族サービスもできて良かったよ」と笑顔。
帰国の前夜は石原、会沢、小窪らの家族と夕食を楽しんだという。


今年はウエスタン・リーグを制したファーム関係者も参加。
水本2軍監督は「ありがたいことだよ」と感謝を口にしていた。

来年は球団史上初リーグ3連覇、そして悲願の日本一を目指すシーズン。
今年のような大差にはならないでしょう。 果たして・・・。

97名無しさん:2018/01/01(月) 12:27:08
鐵腕K:2018/01/01(月) 08:46:38

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

と言いたいところですが、一身上の都合により、当分の間、試合観戦ができなくなりました。
当分と言いましても、いつまでになるか今のところ判りません。
高校卒業までは倉敷市、その後は近畿地方や岡山県で生きてきました故、少なくとも公式戦の
ほとんどを見させてもらいました。

仕事と同程度に倉工野球を大事に思っていた私ですが、齢56歳にして、このまま朽ち果てるか
or もう一花咲かせるかと考えた時に、人生の最後を東京で勝負したいと思いました。
したがって、春からは仕事最優先、おいそれと帰って来られなくなります。

昭和43年7月の岡山東商戦(第50回記念大会)からファンになりまして、奇しくも丁度50代後輩に
あたる現2年生の創志学園戦(秋季県大会)が最後の観戦になりました。
最後の観戦では小山さんの近くに座ることができ、良い思い出になりました。
ユニのマイナーチェンジは残念ですが、幸いそれを見ることはありませんでした。
寧ろ潮時と思うことにしました。(ユニが変わってもファンであることは死ぬまで変わりませんが。)

昔と違い、このようなところで倉工野球の情報が読めるというのは非常に有難い時代です。
どこに行きましても、暇さえあれば当掲示板を読みに来ると思います。
時には思い出話を書き込むかもしれませんが、年寄りの独り言と読み流してください。

↑↑
明けましておめでとうございます。

Kさんのコメントを「倉工ファン」にコピーさせて貰いました。
どうぞお元気でお過ごしください。
ユニフォームの件は私も非常に残念に思っております。

時々こちらも覘いて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

98名無しさん:2018/01/27(土) 11:21:25
小沢 馨物語


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工 VS 東海大相模

この試合が、事実上の決勝戦といわれた。
東海大相模は、3番原 4番津末を中心とした打撃のチーム。
初戦を観戦した原監督は、「 あの程度の投手なら、楽に6点は取れる 」と、笑みを浮かべた。

一方、倉工はエース兼光が本調子でなく、
明るい材料といえば、下位打線が振れていることぐらい。
もはや、自負を失いかける小沢監督。

ところが、小沢監督の目の先に信じられない光景が展開されているのだ。
心身共に衰弱しているはずの兼光が、本領を発揮しているのである。

兼光の投じた球は、相手の背筋も凍る剛速球となって、 
捕手大本のミットに吸い込まれる。乾いたミットの音。『 バシー 』。

自らのプライド、監督チームメイトへの思いが、熱い魂となって、倒れそうな肉体を支える。
このエネルギーはどこから来たのだろうか。

【 それは、やっぱり小沢監督からもらったエネルギーでしょうね。 】と、兼光。
そして、【 この信頼は絶対守らないといけないと思いました。
善戦とかではなく、絶対に勝つという気で 】と。

5回裏 東海大相模の攻撃。ランナー一塁で村中が、左打席に入る。
打球はセンター大倉へ。大倉、懸命に背走するも、届かず。
その間、一塁ランナーは、ホームイン。打った村中は、三塁へ。

『 懸命に背走したんですけどね。グローブの先に打球が、触れたんですよ。
たぶん、誰も分からないと思いますね。 』
今でも、あの時の悔しさを忘れていない大倉。


記録はヒットだが、捕れていたね。グローブに入ったがポロリと落球。
この1点が重くのしかかった。
左腕村中は大した投手ではなかったが、この頃の倉工は左腕に滅法弱かったね。
縦の緩いカーブを打ちあぐねた。ここまで散発の5安打、9回表も二死ランナーなし。
追い込まれた倉工・・・。

99名無しさん:2018/01/27(土) 12:55:47
小沢 馨物語   涙の甲子園


昭和50年  第47回全国選抜高校野球大会。 二回戦。

倉敷工0-1東海大相模

試合は、東海大相模1点リードのまま、9回表、倉工の攻撃。
すでに、二死でランナーなし。ここまで散発5安打。
ここで、エースで4番の兼光が打席に入る。

一球入魂。打球は、センターの頭上を超えた。
大歓声の中、兼光は、二塁ベースを回ったところで、ふらついた。
フラフラになりながらも、三塁へヘッドスライディング。

「 セーフ 」。さらに、大きな大歓声が、沸き起こった。
小沢監督から貰った、エネルギー。死力のマウンド。
そして、全力を使い果たした、大三塁打。

次の打者が四球で出塁。盗塁を決めて二死2、3塁。一打逆転のチャンスを掴む。
そして主将大倉がバッターボックスに。

村中はコントロールを乱し、ノーストライクでスリーボール。
ここから2球は「待て」のサインが出たらしいが・・・。

勝負球の6球目、村中が投じた瞬間、捕手が中腰になった。
高めのボールかと思われたが判定は、ストライク。
がっくり、膝をつきグランドに崩れる最後の打者。

そこへ兼光が、歩みよった。肩をポンポンと叩き、抱き起した。

そして、何ごとかささやいた。
何と言ったのだろうか。「 それは、監督さんが、教えてくれた事です。 」と、兼光。

次の瞬間、小沢監督はこみ上げるものを、こらえきれなかったという。
小沢監督、甲子園での初めての涙・・・「 兼光に勝たせてやりたかったと・・・ 」。


小沢さんが甲子園で初めて流した涙・・・。
奇しくもこれが最後の甲子園采配となってしまった。
一度は大旗に手を掛けさせてあげたかったね。

チャンスは何度も有った・・・小沢さん初出場時のベスト4、昭和32年春のベスト4
昭和36年夏の不運、昭和42年43年の小山投手時代、昭和47年山本投手時代、
そして昭和49年50年の大型チームなど。

木製バットの昭和49年、兼光君中心で戦って欲しかったね。
選手11人の池田や夏の代表戦で格下の玉商に負ける筈はなかった。
この頃の兼光君の剛速球は外野には飛ばず、バックも素晴らしいメンバーが揃っていた。
小沢さんは勝負は3年時と考えていたのだろうが・・・。

翌年からは金属バットとなり、岡山県は群雄割拠の時代となって行った。
それにしても次の選抜が34年ぶりになるとは夢にも思わなかったね。

100名無しさん:2018/01/27(土) 16:10:07
星野仙一さんが1月4日に他界されました。
野球界に多大な功績を残された重鎮、そして郷土愛のとても強い方でしたね。
星野さんを偲びたいと思います。


「 追憶 その1 」


幼少の星野は運動会が大好きだった。徒競走に自信があったからではない。
お弁当の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。

「みんなが日の丸弁当の中で、オレはお重なんだ。それも3段重ねのな。
裕福じゃない。貧しい…まぁ、中の下くらいだったんだけど」。
身の丈を越えた豪華弁当には訳があった。

1947年(昭22)1月22日生まれ。3カ月前に父仙蔵が病死していた。
三菱重工水島の工場長を務めていた縁で母敏子が工場の寮母となり、姉2人とともに寮で育った。

仙蔵は優秀な技術者であると同時に、部下の気持ちをくみ取る優しさも備えていた。
仙蔵を特に慕っていた寮のコックがいた。
洋食のシェフあがりで腕が立ち、当時は珍しかったマヨネーズを、卵から自作したりしていた。

星野を「仙坊」と呼んでかわいがり、必ず「今日は何が食いたい?」と聞かれた。
「オムライス、チキンライスと言えば、何でも作ってくれた」。

三菱重工水島は社会人野球の名門で、このコックは野球が大好きだった。
「仙坊はうんと栄養をつけなくてはいけない。野球選手になったときのために」と、
肉料理を毎日出してくれた。

運動会となれば「仙坊のことだから。ガキ大将なんだから」とお重を渡された。
体が大きく気前のいい星野の周りには、自然に人が集まってきた。

「おい、食え」。かつお節や昆布のおにぎり。食べたこともないハイカラな洋食。
みんながおいしそうに食べる姿を見るのが好きだった。

小学4年のとき、姉が高校野球を見に連れて行ってくれた。大声で応援して思った。
「生意気なんだけどね。そこで夢を持った。まず高校で甲子園に行って、6大学に入って。
阪神が大好きだったから阪神に行って、コーチをやって。そんな想像をしたんだ」。
家に戻ると、敏子にはこう言われた。

「野球って面白いよ。チームプレーだから。きっと楽しいはずだよ」。
生活費を切り崩し、1000円のグラブを買ってくれた。
「悪ガキたち」を集めて本格的に野球を始めた。

打っても投げても上手で「『天才なんじゃないか』と思ったよ」。
水島中学に進むと「ボコ〜ンと鼻をへし折られた」。

それでも着実に力を付け、3年のころには県内で知られる存在になった。
大会になると、必ず1人の男が星野の投球を見に来るようになっていた。

3年の冬、黒縁の眼鏡をかけた短髪の紳士が寮にやってきた。

101名無しさん:2018/01/28(日) 10:10:33
「 追憶 その2 」


1961年(昭36年)の冬、星野家が暮らす三菱重工水島の寮に黒縁眼鏡の紳士が現れた。

「倉敷商野球部の、角田有三です」。母の敏子が家に招き、こたつを囲んだ。
数学の教師だという。水島中の星野が投げる試合を欠かさずに見に来ていたという。

おもむろに「星野君、君の力で倉商を甲子園に連れて行ってくれ」と言われた。
角田は選手としての経験はなかったが野球が大好きで、部の手伝いなどをしながら知識を蓄え、
部長に就任し、直接口説きに来たのだった。

星野の中で、倉敷商への進学は全く頭になかった。

「倉敷工業に行こうと思ってた。強豪だし、3年間で最低、2回は甲子園に行ける。それに家が三菱だし」。

当時の岡山は倉敷工、岡山東、関西が頭ひとつ抜けた強豪。

倉敷商は第2グループといったところで、しかも鳥取との2県で1代表を争う以上、
甲子園へ行くには遠回りの選択に思えた。

もの静かな印象の角田だったが、訴える口調に迫力があった。

102名無しさん:2018/01/28(日) 11:00:28
「 追憶 その3 」


角田は倉敷商を甲子園の常連にしようと誓い、
岡山県内で行われる中学の試合をつぶさにチェックしていた。

星野のスケール、何より周囲を引き込む雰囲気にほれ込んでいた。

「『来てくれ』と頼んだ訳じゃない。わざわざオレのために来て、こんなに熱心に口説いてくれた」。
敏子は「倉商に行きなさい」とだけ言った。

当時の倉敷商は、野球専用のグラウンドがなかった。1912年(明治45年)開校の公立校。
確実に甲子園を狙えるほどではない野球部を、特別扱いする空気もなかった。

「ハンドボールもやるわバレーボールもやるわ…危なくてしょうがなかった」。
グラウンドの周囲は、イグサと田んぼがどこまでも広がっていた。

請われて入ったとはいえ、いきなりエースになれるほど甘くはなかった。
2年上の背番号1に宮原勝之がいた。
巨人からドラフト指名を受けるも断り、法大から当時の本田技研に進んだ左腕。

「宮原さんの真っすぐとカーブを見て、ボコ〜ンと殴られた気がした。『上には上がおるなぁ』って」。
スタートラインは他の新入生と変わらなかった。

1年生の大事な仕事として、先輩の打ったファウルやホームランボールの捜索があった。
田んぼに入ったボールはすぐに分かるが、湿地帯に生い茂るイグサの中に入ると大変だった。
貴重な硬球を見つけられないと、ひどく怒られた。

大変なはずのボール探し。しかし星野はじめ1年生は「今度はオレの番だ」と競って茂みへ駆けた。

103名無しさん:2018/01/28(日) 12:50:20
「 追憶 その4 」


高校野球といえば…星野が真っ先に浮かんだことといえば「水を飲んではいけない」だった。

「『おなかの調子が悪いんです』とトイレに行ってがぶ飲みして。慌てて飲むからユニホームがぬれている。
戻ると『何でそこだけビショビショなんだ!』と怒られ、ボコボコに殴られる。水を飲むなんて、たるんでる。そんな時代さ」。

知恵を働かせた。イグサの茂みは深いから、ボール探しに入ってしまえばグラウンドからは見えない。
一升瓶の中に水を入れて、早朝のうちに隠しておいた。「魔法瓶なんて誰も持ってないからな。ストローを差して仕込んでおく」。

湿地帯のあちこちに、ストローの飛び出した一升瓶が埋まっていた。
先輩のファウルが飛ぶと「オレの番だ」と一升瓶を目指した。

瀬戸内の強い日差しにさらされた水は、練習のころにはすっかりお湯になっていた。
「お湯なら、まだいいんだ。我慢できなかった誰かが、オレの分まで飲んでしまっている時は最悪だ。

全部飲んで、みんな空っぽになっている…」。もう最後の手段しかない。
身をかがめて、イグサをのけて、泥水に目いっぱい顔を近づけ、思い切り息を吹いた。

「ボウフラがたくさん浮いてるんだよな。それをフワ〜ッと吹き飛ばして、一気に、飲む。
ボウフラって、いっぱい雑菌が付いてるはずなんだよな。それでも飲む。免疫ができて体が強くなる。
今の子なら絶対に体を壊すと思うよ」

水を飲めない。ケツバット。いいとは思わない。ただ、理不尽から“要領”を学んだことだけは間違いない。
「『今日はケツバットが来るぞ』と思ったら、あらかじめスライディングパンツを2枚はいて、タオルも入れて。

最小限のダメージで、どう逃げていくか。そういう厳しい中で、自然と要領を覚えていく」
当時、全国の球児が避けて通れなかったであろう道を、星野もまた、たくましく歩んでいた。

野球部の日々に慣れてきた1962年(昭37年)の6月6日、岡山東商との定期戦で実戦デビューを果たした。
7回を投げ被安打1、自責なし。硬球を握って3カ月も、連日200球の投げ込みで感覚をつかんでいた。
水島の「仙坊」は、どんどん存在感を増していった。

104名無しさん:2018/01/28(日) 13:26:58
「 追憶 その5 」


星野が倉敷商に入学して1年が過ぎようとしていた。
学校から2キロほど南に下ると、小高い山の頂上に足高神社がある。

明大出身の矢吹監督は、冬場になると神社の階段を10往復させるランニングを日課とした。
「階段の高さが一定じゃなくていびつで、リズムが取れない。

1回走れば息が上がるんだけど…監督が途中で待って、目を光らせているんだ。だから、サボれんのだ」。
厳しい練習をかわす“要領”を身に付けていたはずが、矢吹の目はごまかせなかった。

3年生の宮原が抜け、星野はエースの座を確保。
矢吹と「君の力で倉商を甲子園へ連れて行ってくれ」と星野を誘った部長の角田有三は、
厳しさの中に温かな視点をたたえた教育者だった。

星野が「(角田)有さん! 柿を取りに行こう」と言えば練習を中断し、みんなで柿の木に登って木陰でほおばった。
2人は人生の師になった。矢吹に「オレの出身だ。明治へ行け!」と言われ、素直に従った。

角田は4年前の5月、86歳で死去した。
「部長先生はノックもうまくないんだけど、野球を愛していた。悪く言う人が1人もいなかった。
本当にお世話になった。熱烈な阪神ファンで、オレが阪神に行ったときは大喜びしてくれた」。

亡くなる直前まで親交は続いたが、角田は最後まで“部長先生”を全うした。
入院先への見舞いは拒まれ続けた。星野が「窓の外からひと目だけでも」と食い下がっても、断られた。

「至誠剛健」を校訓とする倉敷商は、野球部員にも文武両道を求めた。
「県立高校だから、試験が厳しかった。40点以下の“赤点”を4つ以上取ったら、次の学期まで練習は禁止。
4番だろうがエースだろうが、とにかく40点以上取らなくてはいけなかった」。
星野は数学が大の苦手で、角田は数学の教師だった。

試験前は野球部員を集め、しばしば補習が開かれた。試験に出そうな問題の傾向を丁寧に教えてくれた。
「これで赤点を取ったら…もし数学で4つ目なんてことになったら…部長先生の責任になってしまう」。
一生懸命には聞いたが、星野にとって数学が鬼門の科目であるのには理由があった。

手が大きすぎた。「あまりに指が太くて、そろばんを正確にはじけないのだ。玉が1つ動いたのか、2つ動いたのか? 
とにかく、まったく計算が合わない」。
野球においては最高の武器でも、商業科では2年まで必修であるそろばんでは最大の弱点になった。

幸運にも、そろばん部の部長が前の席に座っていた。「そろばんを使ってなかったな。暗算で、スラスラッとな」。
そっと脇を空けて答案を見せてくれた。テストが返ってきた。
「うわ〜。47点。大丈夫だ」。星野が野球をできないなんて困る。クラスメートだけでなく、倉敷商の共通認識だった。

無事に2年生になった。「元気のいい時代だったよな」。
1963年(昭38年)。東京五輪を翌年に控えていた。

105名無しさん:2018/01/28(日) 14:50:54
「 追憶 その6 」


「野球一筋。あとは、まぁ…番長だったな」。高校時代を表現する星野の答えは単純だった。
2年生になり、倉敷商及び市内周辺をほぼ統治下に置いた。

野球部の仲間や同級生、後輩たちに「あの学校の○×にやられた」と言われたら「よしっ。オレが行く!」と必ずケンカをしに出向いた。
「警察にも何度か呼ばれたな。分かってるわけだ。『お、やってるな』ってな。彼らも仕事だから一応、調書は書かなくてはいけない」。

ただやみくもに、有り余るエネルギーを発散していたわけではなかった。ケンカをする際の3つの決め事だけは守った。
(1)弱い者いじめはしない (2)相手が何人だろうが1人で戦う (3)ならず者の思いに任せた暴力は、絶対許さない

重量挙げの部室を閉め切って、校内きっての不良と1対1の決闘に臨んだ。
窓の向こうにはたくさんのギャラリー…腕を組んだまま見守る教師もいた。

星野は不良をボコボコに殴って倒した。「おぉ、星野がやってくれた」と、窓の外からどよめきが起きた。
みんなが見ている前で土下座させ「もう弱い者いじめはしません」と言わせた。

母の敏子が警察に呼び出されたこともあった。「まぁ、迷惑を掛けたよな」。申し訳ないと思ったが、厳しくしかられた記憶はなかった。
女手ひとつで星野を育てた敏子は、なぜケンカをするのか何となく分かっていた。

息子は、いわゆるアウトローの不良にしか手を出さなかった。
「オレ、オヤジがいなかっただろ。当時はな、差別があったんだ。『ない、ない』と表向きには言っても、差別はあった。

いろんな事情があって当時は…半分近くはな。親がいなくて差別を受けた人 間は、ほとんどが、ぐれる。そういう姿を、うんと見てきたから」
同じ境遇の人間が差別を感じて傷つき、道を外れていく。黙って見逃すことは許せなかった。

力ずくでも気付かせたかった。卑屈になるな-。「野球一筋」と即答したのは、自分のルーツがあったからだ。
「野球しかなかったんだ。野球がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。
道を踏み外して、おふくろや部長の角田先生、みんなを裏切るわけにはいかない」。

高校に進んで間を置かず、敏子に珍しく強い口調で言われた言葉が今も忘れられない。
今の時代、これからの時代は、絶対に大学に進まなくてはダメ。卒業してすぐプロに行くのではなく、大学で勉強しなさい。

明大を出て中日に進んでから、敏子の言葉を痛感する。
入団してしばらくすると、1人の男性に見られていると気付いた。

目深にかぶったハンチング姿と鋭い眼光に特徴があり、何となく見覚えがあった。
気になる存在になりつつあったある日「広島でスカウトをしている木庭です」と言われた。
選手発掘に無類の能力を発揮し、スカウトという仕事を世に広めた木庭教だった。

僕は、高校時代の君を本当に取ろうと思った。
でもお母さんにお願いにいったら「どうしても大学に行かせたいので」と断ってきた。
話し方で君のことを 大事に思っていると分かったから、それでいいと思った。頑張って下さい。

阪神監督となった星野が甲子園で胴上げされた2日前の、03年9月13日。敏子は91歳で死去した。
晩年は時間をかけて倉敷市内の各所を回り「仙一が本当にお世話になりました」と頭を下げて回ったという。
番長でも道を踏み外すわけがなかった。進む道の先には、いつも先回りした母の足跡があった。

106名無しさん:2018/02/03(土) 09:50:08
「 追憶 その7 」


野球もケンカも腕っぷしが強い星野仙一の名前は、2年の秋にはすっかり県内に知れ渡っていた。
1963年(昭38年)の11月23日。倉敷商野球部の同級生2人と誘い合い、市内へ繰り出した。

星野が住む三菱重工水島の寮から学校までは、自転車で40分ほどかかる。
翌朝のあんパンをかけて、同方向の仲間とどちらが早く着くか毎日競争した。

「大きな野球道具を積んでな。車もいないから、競輪選手みたいに思いっきりこぐわけだ」。
足腰が鍛えられ、どんどん大きくなっていくのが分かった。

勤労感謝の日で学校は休み。いつもと違ってゆっくり自転車をこいだ。北風が冷たい日だった。
カゴにはいつもの野球道具ではなく、悪友が仕入れてきたライフル型のポンプ銃が入っていた。

当時の最新型で、人に向けたら危険な威力があった。動く何かを狙って撃ちたい。狩人の衝動に駆られた。
「スズメがいいんじゃないか」となり、探すことにした。

ライフル型の銃を持った大柄、丸刈り、学生服の3人が、キョロキョロしながら市内をはいかいしている。
ときたま、空や地面に向かって発射しているようにも見える。通報された。

「補導員が『学校には言わないから住所と名前を』と。正直に言ったら、ばらされて。警察に呼ばれてから、職員室で怒られた」。
部長の角田が、きまり悪そうに身をすくめている。「部長先生に悪いな」と思いながら、ストーブの前で何時間も立たされた。

「寒かったし、ちょうど良かったか。帰ろう」。翌日は、後に甲子園をかけて戦うことになる米子南との招待野球が控えていた。
自宅に戻ってテレビをつけた。アナウンサーが緊張していた。

「この記念すべき日に、誠に悲しい出来事をお送りしなくてはいけません。
アメリカ合衆国のケネディ大統領は11月22日、日本時間23日の午前4時頃、テキサス州ダラスで銃弾に撃たれ、死亡しました…」

そういえば市内では号外を配っていた。日本が衛星放送に成功した日に届いた重大ニュース。
「オレがポンプ銃を撃っていたのは偶然なんだけど…」。忘れられない出来事になった。

翌年にテレビがカラーになり、東京五輪が行われ、東海道新幹線が開通した。
星野が今でも大好きな、坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした。

「3年の時に 、学校で五輪観戦の募集があったの。サッカーかバレーボール。
東京に行ったことなかったから、おふくろに頼んで。でも、あまりにも多いから抽選になって、落選。

新幹線は大学受験で初めて乗った。あれ? 音もしないで走ってるってな」。
高度経済成長のど真ん中。「元気な時代。世の中『さぁ、やるぞ〜』っていう活気に満ちていた。

我々、団塊世代の前の方々が頑張ったから、今がある」。
おおらかな星野のルーツには、おおらかな時代背景も深い影響を与えている。

107名無しさん:2018/02/03(土) 10:40:37
「 追憶 その8」


「ホシが自転車で通った道を、たどってみようか」。
倉敷商でチームメートだった藤川當太(71歳)がハンドルを握り、倉敷市内から瀬戸内海へと向かった。

水島工業団地の真ん中に三菱自動車の工場がある。海を見ながら一服した。
「風景は当時と変わってないなぁ。工場の建屋もそのままだ」。海路の往来はせわしなく、煙突の煙がたなびいている。

「ホシの家は…三菱の寮はもうないね」。工場から徒歩10分、寮の跡地は病院になっていた。
「学校まではけっこう遠い。自転車なら40〜50分かかる。毎日こいでりゃ足腰も強くなる」。途中から細い道に入り、縫うように進んだ。

藤川と星野の出会いは中学のころだ。「なぜか試合中のホシと口論になった。 私はスタンドで観戦してたんだけど」。
入学式で「おう、よろしくな」と後ろから肩を組まれ意気投合、クラスも一緒で竹馬の友となった。

スズメを狙って警察に叱られたポンプ銃は「私が仕入れたの。当時の最新鋭よ」と笑った。
「野球部の結束は固かった。隣のクラスのヤツに殴られたと聞けば、ホシと突入。前と後ろに分かれて『誰だ』と探し出した。

でもホシは、弱い者いじめは絶対にしなかった」。口数が多い方ではないが、いつも星野の隣にいた。
甲子園に届かなかった3年夏の東中国大会決勝、米子南戦。藤川は前後までよく覚えていた。

普段と違う様子を心配し、夜の雑魚寝は星野の隣を確保した。
「暑い夜だったが、ホシは暑さというより、興奮して寝付けないようだった。
何度も寝返りを打って起き上がり、下の階に降りて、動き回ったりしていた」。

試合は2-3で敗れた。「1番左翼」でスタメンの藤川が回想した。
「逆転された4回は、ボテボテで三遊間を抜けるレフト前がよく飛んできた。
ホシはカッとなると、とことん打者に向かっていくクセがあった。

悪いことではないが、内角を狙われた。どん詰まりだからランナーが突っ込んできて、なかなかアウトにできなかった。
相手は変則ピッチャー。バントの打球が土の具合でファウルになったりして、崩せなかった」

宿舎の好日荘に戻り、藤川は出窓に腰掛け、畳の部屋に背を向けて泣いた。
晴れ晴れした様子の仲間もいたが「明るく振る舞っている気持ちが分からなかった」。星野は終始、沈んでいた。

「倉商の練習は厳しい。30〜40人いた部員がどんどん辞めていって、最後は1学年10人いるかいないか。
『やり切った』という気持ちがあった。あれだけ厳しい練習に自分は耐えた」。野球はすっぱりとやめた。
「当時は大学に進むという選択肢は非常に狭かった。倉商の同級生で大学でも野球を続けたのは、ホシと咲本だけですよ」。

108名無しさん:2018/02/03(土) 14:32:04
「 追憶 その9 」


咲本淳一は強打の一塁手として倉敷商の3番を打ち、4番星野とクリーンアップを組んだ。
半世紀以上前、セピア色の写真では、2人はいつも隣に写っている。同じ東京6大学の法大に進み、上京後も深い関係が続いた。

中学時代は県大会で入賞する水泳の好選手だった。周囲の勧めもあって倉商から野球部。
当時としては体がうんと大きく、カラリとした性格も相まってウマがあった。

「もちろん野球でも、こまごま具体的な思い出って、あるんですけど。やっぱりホシという人間。
彼との出会い、思い出がまず、頭に浮かぶんです」。1番を打った藤川當太とともに、いつも行動を共にしていた。

2年生のときだ。「彼が二、三塁間で挟まれましてね。二塁手に向かって跳び蹴りをしたんです。
相手が怒る…ホシも負けじと言い返す。試合後はたくさんの警官隊に囲まれて帰りました」。

とにかく負けず嫌いで「勝負の鬼というか、本人とは別の何者かが、ホシの中に棲んでいるのではないかと。ホント、思うんです」。
向こう気も強く、上下関係を強要する先輩にも立ち向かった。

「当時は先輩と言えば絶対ですけど。控えの先輩の理不尽なんかには『それは、どういうことですか』とハッキリ言ってましたね」。一本気が忘れられない。
咲本にはもう1つ、忘れられない星野の姿がある。学生服のズボンに、いつもピシッと入っていた縦1本の折り目。

「お母さんがやっていたんですよね。決して裕福ではなかったはずだけど、きれいな折り目が入っていて、当時からオシャレだった。
彼のお姉さんも、みんな大学に行っている。裏切れませんよね」。

阪神の監督になった星野に呼ばれ、咲本は甲子園球場に行った。「打席に立ってもいいかい」「もちろんだ」。
あと1歩届かなかった場所からグラウンドを見た。何げなく「やっぱり甲子園はすごいなぁ」と言った。

甲子園に屋根をつける議論が起きたとき、ラジオ番組に出演した星野は強い口調で言った。
「絶対にダメだ。オレの親友が打席に立って、涙を流して感動していた。甲子園のあの風景を変えてはいけない。夢なんだ」。
咲本は言った。「立場や肩書で人を判断しない。いつまでも付き合いを変えない。そんな男なんです」。

109名無しさん:2018/02/04(日) 09:38:02
「 追憶 その10 」


星野にとって倉敷商の3年間は別格だった。半世紀以上前のことでも、追憶のかなたには位置していない。
「野球人生で一番、思い出がある。だってホントの出発点だもん」。

高校野球が自分の根っこにある。出発点が挫折だったから、今でも夢を追い続けることができる。
「中学生から『君の力で甲子園に』と言われてコロッといってしまい、倉商に行って、決勝で番狂わせと言われる事柄があって、オレの人生がある。

甲子園に行けなかったのが、逆に良かったな」。当時の気持ちを丁寧に読み解いてみると、高校野球が星野仙一という人格を形成したのだと分かった。
みんなを甲子園に連れて行けなかったこと。みんなが行けると思っていた。そりゃ普通、試合をひっくり返されたら怒るよ。

だから、人生というのはさ…負けたら取り返しがつかない。返ってこないんだから。甲子園では挫折した。
次は神宮だ、神宮の次はプロだと。みんなには申し訳ないけど、夢がどんどん大きく膨らんだ。
打ち砕かれたことで、ものすごく、気持ちが次に向かっていった。

オレはね、高校生の当時から、妙に冷めている一面というか、もう1人の自分が、野球をしている自分を客観的に見ているところがあった。
オヤジのいない環境で育ったことも影響しているのではないか。それは今でも変わらない。

先輩たちの投げるボールを見て「今は、絶対にプロでは通用しない」と分かっていた。
もしあの時、コールドに近い形で甲子園に行っていたら、どうだっただろう。

勘違いして、てんぐになって「いきなりプロに行って、やれるんじゃないか」とか、バカな考えを起こしていたかも知れない。
夢があって、現実があって、でも夢に向かってまた、進んでいく。高校野球は、そうやってオレを大きくしてくれたんだ。

「みんな高校野球の卒業生だろ」。柔和な顔が急に変わった。
「アマチュアの指導者が、どれだけ苦労して1人の人間を育てているか。

でもプロはドラフト会議という名のもとで、お祭りみたいに騒いで1位、2位とか順位をつけて、おいしいところを取っていく」。
もっと野球界を1つに。「野球人口が減っている本当の危機感について、まだピンと来ていない人が多い。

口では『危機』といっても、どれだけやっているかは疑問だ。
実効性を伴わなければ意味がない」。本当の恩返しとは-。大胆な腹案がある。

110名無しさん:2018/02/04(日) 10:07:04
「 追憶 その11 」


野球殿堂入りした星野は、ハレの壇上で意外なスピーチをした。
自分のことは「大したことない」と言ってから「野球界はどうあるべきか、掘り下げて考えたい。

我々はアマの卒業生。底辺を広げる。これは大変なんだ」と訴えた。
きれい事だけでは進まない。「都内ではグラウンドを見つけることもひと苦労。
環境をつくってあげるためには財源、つまりお金が必要。

社会人野球に休部が続いている現状では、企業に出せと言っても、無理なんだ」。
つまり、お金を作る方法を考えなければならない。時間をかけ、リサーチを重ねて煮詰めてきた腹案を披露した。
後発のサッカーはクジをやっている。プロ野球もクジを導入するべきだ。

クジと言うと、すぐ「八百長」「賭博」となる。もってのほかだ。あってはならないことだ。
八百長のできないクジの方法は、いくらでもある・・・。

集まったお金は、プロ野球は一銭もいただかない。
運営費などを引き、スポーツ庁を通じてアマチュア球界の環境整備、強化費に使ってもらう。
大きな災害、震災のために、1年で数億円ずつプールしておくことも必ず。
細かいところまでルールを作って訴えていけば、実現する可能性が出てくる・・・。


2017年 星野氏は野球殿堂に入り、オールスター、しかもかつての本拠地ナゴヤドームでの表彰式で、ファンにあいさつ。
年末には殿堂入りを祝う会を東京と大阪で行い、多くの仲間、後輩、恩人たちへの別れをしっかり済ませ、
家族が見守る中で静かに息を引き取った。

超高齢下時代の中、「終活」という言葉が盛んに言われるようになったが、
さすが星野仙一、見事な人生の終い方だった。

「大体、人生は悲しみ、悔しさが7割、喜び、幸せが3割とよく言われるけど、俺はその逆で生きてきたからな。
これからも、そのつもり」。そう話したかと思えば、こうも言ったことがある。

05年に巨人から監督就任要請を受けたが、巨人OB連の猛反発もあって実現はしなかった。
数年後、「(要請は)野球人としてめちゃくちゃうれしかった。巨人のOBたちはかわいそうに…。この人たちはひがみの人生。

あんたたちがしっかりしないから、部外者の俺に声がかかったんちゃうの?
その時、俺は決意したんだ。他人からひがまれる人生を送ってやろうとな」――。


    ◇  ◇

111名無しさん:2018/02/04(日) 11:05:16
「 追憶 その12 」


星野さんは記者席から身を乗り出すように入場行進を見ていた。
「慣れ親しんだ甲子園なのに、この興奮ぶりは何なんだろう」

2005年8月6日、全国高校野球選手権の開会式。
甲子園観戦記のゲストとして、星野さんを招いた。

3年の夏、決勝で敗れた。
甲子園の開会式のテレビ中継が始まると、家の押し入れにこもって泣いた。

「あの中に、おれがいたはずなんだよ」と。
そんな話をしながら、星野 さんはグラウンドを見つめていた。

「どんな気持ちで歩いているんだろうな。うらやましいよ」
「そうですか? プロでは甲子園のマウンドで何度も投げて、監督として胴上げもされたのに」と聞くと、
「全然違うわ」としかられた。

「ここは高校球児のものなんだ。中日の選手として初めて入った時、芝生にスパイクで入ってもええんかなと思った」

球児の連投問題についても聞いた。阪神担当時代は夏になると「猛暑の中で球児を酷使して。
(主催者の)朝日がしっかりせないかん」などときつく言われていたので、批判をいただくのではと予想した。

またも意外な答えが返ってきた。「でも、ええ。青春かけてやってるんや! なあ、そうやろ!」。
そう言って、わたしの隣にい た記者の肩を強くたたいた。

松山商のエースとして1969年夏の甲子園で優勝し、明大の後輩でもある井上明記者だった。
星野さんの心は、甲子園を目指して投げていた球児に戻っていた。
そして、決勝の延長十八回引き分け再試合を連投した後輩への優しさがにじんでいた。

今夏は100回の記念大会。甲子園を愛した星野さんに、大会を見て、語ってもらいたかった。



星野さんの追悼シリーズは一応これにて終了。
まさに倉敷が生んだスーパースターだったですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。

112名無しさん:2018/02/18(日) 10:31:10
広島カープ2軍情報


「ちょっとかわいそうですよね。甲子園で記録を打ち立ててしまったものだから、
どうしても比較対象が清原和博さんや松井秀喜になってしまう。
でも私は、中村が清原さんや松井のような十数年にひとりの怪物だとは思っていません」

広島のルーキー・中村奨成のことをクールにそう評したのは、広島の水本二軍監督だ。

中村は昨年夏の甲子園で6塁打を放ち、清原の本塁打記録を32年ぶりに塗り替え、一躍注目を集めた。
本塁打だけでなく、打点や塁打数でも選手権の大会記録を更新。

高校球史のうえでも屈指の強打者として騒がれたのに加えて、強肩やスピード感溢れる守備も高く評価され、
超高校級捕手としてドラフトでは中日との競合の末、地元の広島が引き当てた。

岩国市でスタートした二軍キャンプ初日には千人を超すファンが押し寄せるなど、中村への注目度は高い。
二軍は第2クールから宮崎・日南入りし、練習内容も本格化。

中村は、「岩国ではできなかったことが、こっちでは長時間できる。ワクワクしながら練習できました。
やってやろうという気持ちです」と、疲れを感じさせない力強いコメントを残した。

そんな中村に鋭く目を光らせているのが、冒頭で紹介した水本監督だ。

「これだけ騒がれ、二軍でも多くのお客さんを集めた。勘違いしないように、彼をしっかりコントロールしてあげないと。
それに、清原さんや松井、田中将大は入団の段階で一軍レベルの体を備えていた。それに比べて中村は、まだまだ子供ですから」

中村のバッティングを見守った水本監督も、まだ木製バットへの対応に課題があると指摘する。

「高校日本代表にも選ばれていましたが、大会では正捕手ではありませんでしたよね。
やはり、他の選手よりも木製バットを扱いきれていなかったことと無関係ではないと思うんです。
ポイントの置き方、タイミングの取り方など、覚えなきゃいけないことは山ほどあります」


現在、広島のキャッチャーは1学年上の坂倉将吾が一軍で首脳陣に猛アピールを続けている。
中村の入団が坂倉に好影響をもたらしたのでは…という声も多く聞こえてくるが、水本監督はキッパリとこう否定する。

「坂倉は向上心が強く、1年目から誰よりも上手になりたいとの思いで鍛錬を続けてきました。
今の中村は、正直、坂倉の尻に火をつけるほどの存在ではありません。
いずれは高いレベルでポジションを争ってほしいと思いますが、今の段階では比ぶべくもないです」

現状、水本監督は中村について「いつ頃までに一軍へ」という見通しすら立っていないと言い切る。

「単純に振る力を比較しても、高卒1年目当時の丸佳浩や鈴木誠也、坂倉の方が上です。
でも肩や足のパフォーマンスは、過去に高卒でウチに入ってきた選手のなかでも明らかにトップクラス。
この点に関しては、評価が揺らぐことはありません。

ひとつ覚えればひとつ忘れる、ということを繰り返しながら成長していくのが高卒ルーキー。
だから根気強く、道を踏み外さないようにしっかりと導いていくしかないんですよ」

丸や鈴木ら、高卒ルーキーを猛練習で鍛え上げ、球界を代表する選手へと育て上げた広島だけに、
二軍で“中村フィーバー”が起きようが、チームは動じることはない。

水本監督の厳しい言葉のなかにも、伝統の育成に対する絶対的な自信を感じ取ることができる。
だからこそ、中村の将来に大きな期待を抱かざるを得ないのだ。

113名無しさん:2018/02/18(日) 11:50:29
高校野球地域ニュースから・・・


ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行を成功させた1961年、
甲子園で報徳学園が6点差をひっくり返す大逆転劇を演じた。「逆転の報徳」の異名が生まれた試合。

敗者となった倉敷工にも、またドラマがあった。
0―0で迎えた延長十一回表。倉敷工は主将・松本の適時二塁打などで一挙6点を奪い取った。

「やった、これで終わりだ!」 アルプス席を埋めた応援団の誰もが勝利を確信した。
1年生で野球部の控えだった国方は「早く次の試合が始められるように、と先輩のバットを片付け始めた」。

しかしここから、後に「奇跡」と呼ばれる逆転劇が始まった。
十一回裏。疲れの見える倉敷工の先発永山が、代打の平塚に安打を許す。
「地元代表として少なくとも1点は欲しかった。ただもう無我夢中でバットを振ったよ」と平塚。後続が続いて2点を返した。

倉敷工の小沢監督は永山に代え、背番号1の森脇をマウンドに送った。
県大会前に負傷し、約2カ月ぶりの公式戦での登板だったが、キレのある球で7番・高橋をカウント2―2に追い込んだ。

あと1球の場面。アウトコース低めに投げた球がミットに吸い込まれ、「バシッ」という音が響いた。
「ストライクだ!」。森脇は直感した。球審が腰を浮かし、右手を上げるかに見えた。

試合終了のあいさつに向かおうと、ベンチの選手たちが一斉に体を浮かした。だが、球審は短く一言。「ボール!」。
その1球について高橋は「実にいいボールだと思って全く手が出なかった。正直ホッとしましたね」。

一方の森脇は「今思えばあの一球で動揺してしまったのかな」。四球で高橋を歩かせ、安打で1点奪われた。
再び永山が登板したが、一度マウンドを降り、緊張の糸は切れていた。

「自分の役目は果たしたと思ってたから、もう完全に力が抜けてしもうた」
報徳に3点を許し、6―6の同点となった。「ウワァー!」。地鳴りのような歓声が球場を包む。

永山は止まらない汗を拭った。そして十二回裏。一死満塁から1点を奪われ、サヨナラ負け。
永山は「どえらいゲームにしてしもうたと思った」と語る。ただ、右翼手だった土倉はこう振り返る。

「あの試合は森脇のためにあったようなもんじゃ。森脇と甲子園に出られただけで、満足だったよ」
背番号1をめぐる物語は、あの年の7月上旬にさかのぼる。

県大会に向けた練習中、森脇が犠打で駆け出し、主将で一塁を守っていた松本がタッチするためグラブを伸ばした。
連日の練習で疲れていた森脇は、タッチの際に足がもつれて転倒。右鎖骨を複雑骨折した。

1年生からベンチ入りしていた森脇は、3年春から県内の公式戦で無敗。
「彼がいれば今年の夏の甲子園制覇も夢ではない」と監督の小沢も考えていた。

絶対的なエースを欠く危機的状況の中、小沢が抜擢したのが打撃投手だった2年生の永山だ。
仲間から「(球速は)トンボが止まるくらい」と冷やかされていたが制球力は抜群だった。

「球威がないから変化球で勝負しようと思った。授業中もボールを離さず、握り方を研究してたよ」と笑う永山。
県大会ではその変化球がさえ渡った。 県大会を突破して東中国大会に出場。

初戦は鳥取の強豪・米子東。「何としても森脇を甲子園に連れて行きたい」。
けがをさせた負い目を感じていた松本は、そうメンバーに告げたという。

森脇を甲子園へ――。一丸となったチームは9―7で米子東に打ち勝ち、決勝で岡山東商に快勝。甲子園出場を決めた。
森脇は練習を再開し、球威をほぼ取り戻した。

松本は監督の小沢に「森脇を甲子園で放らせてやってくれ」と頼み込んだ。それは選手全員の願いだった。
報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。

土倉は言う。「森脇が投げられると思ってなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあってずっと思ってた。
甲子園で彼が投げた時はうれしかったなあ」

森脇は74歳になった。約10年前に胃がんの手術をしたが、元気を取り戻し、妻の実家の畑で野菜や果物作りを楽しんでいる。
「つらい思いもしたけど今となってみればいい思い出です。もり立ててくれた仲間に感謝しています」
そう静かにほほえんだ。



(16〜23で詳細は記入しています)

114名無しさん:2018/02/24(土) 11:51:43
歴史的偉業は、無情の雨天コールドから始まった・・・駒大苫小牧


佐々木は初優勝の前年、03年夏も、2年生で甲子園の土を踏んでいる。
この年、センバツにも初出場していた駒苫にとって、春夏通じて4回目の甲子園。
だがそこまで、白星は一つもない。なんとか1勝を、が合言葉だった。

その一回戦、倉敷工に8対0と大量リード。
だが4回の攻撃途中、台風10号の影響で豪雨が襲い、結局降雨ノーゲームとなってしまう。

そして翌日の仕切り直しは2対5の敗退。8点という大量リードで、一度は見えかけた甲子園初勝利が、するりと逃げた。
この試合を甲子園のスタンドで見ていたのが、当時兵庫・宝塚ボーイズの田中将大である。

その田中が入学し、日本ハムが北海道に本拠地を移した04年夏。駒苫は、ふたたび甲子園にやってきた。

「一年前の敗戦はずっと重たいものがありました。勝たせてやれなくて悪かった、と選手たちに頭を下げた。
あの悔しさを晴らすために、甲子園に来たんです」(香田監督・当時)。

当時の佐々木主将も、こんなふうに語っている。
「去年の倉敷工戦は、代打で出て三振。悔しい思いをしていたので、あの負けから全国制覇を目指してやって来ました」

宿舎には、前年倉敷工戦で敗れた3年生部員全員の連名の手紙が届いていた。
そこには、ベンチ入り18人各自に、熱いメッセージがしたためてあった。

初戦(2回戦・対佐世保実)の前日、佐々木は長い時間をかけて全文を読み、ナインに聞かせている。
その、佐世保実戦。すかっと晴れた青空そのままに、駒苫は7対3で快勝した。

初出場から58年、ようやくたどり着いた甲子園1勝だった。

白星を手にしたとはいえ、次の3回戦の相手は日大三なのだ。01年夏には、当時の最高チーム打率で全国制覇している強豪で、
ようやく1回戦ボーイを脱却したばかりの駒苫とは、ちょっと格が違う。

この時点では過去85回の大会で優勝旗はいまだ白河の関さえ超えておらず、道勢優勝にはリアリティーが薄い。
当然、駒苫の注目度も、さほど高くはなかった。

ところがところが駒苫は、日大三に7対6と競り勝ってベスト8に進出。

さらにだれもが、“いくらなんでも無理だろう”と思った準々決勝でも、
涌井秀章を打ち込んでまたも“超ブランド”横浜を撃破。

準決勝で東海大甲府に勝つと、
決勝では春夏連覇を目ざした済美と13対10という壮絶な打撃戦で頂点に立ったのである。

チーム打率・448という新記録までおまけにつけた、北海道勢初めての全国優勝。
佐々木自身も、5試合で打率・421を記録している。その佐々木監督が、指揮官として挑む2度目の春。

夏は2回の全国制覇がある駒苫だが、春はまだ頂点に届いていない。
「僕たちの時代がそうだったように、規格外の練習をするしか勝つ方法はありません」
佐々木監督、力強く宣言した。


佐々木監督・2004年夏、北海道勢として駒苫が初めて優勝した時の、主将でショート。
駒苫は翌年夏も連覇し、3連覇に挑んだ06年夏も、決勝で敗れたとはいえ、
早稲田実と引き分け再試合を演じ、球史に名を刻んだ名チームだ。
佐々木が監督に就任したのは、駒澤大卒業後の09年8月。



規格外の練習とは?・・・どんな戦いをみせてくれるのか?楽しみですね。

(駒大苫小牧戦の詳細は62〜63に記入しています)

115名無しさん:2018/03/03(土) 14:00:16
JR西日本、「広島カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」


岡山駅〜博多駅間の新幹線各駅から新岩国駅までの往復新幹線指定席、
新岩国駅〜由宇練習場までの往復貸切バス、お弁当と飲物(ビールかお茶)がセットになった日帰りプラン。

広島県、岡山県、山口県内の日本旅行/日本旅行サービス、Tis博多/小倉、中洲川端支店の日本旅行商品取り扱い店舗で購入できる。

料金例:広島駅発着大人5500円、子供4200円、徳山駅発着大人5900円、子供4400円

※由宇練習場の入場は無料、1名から申し込み可能


「広島東洋カープ由宇練習場ウエスタン・リーグ日帰り応援プラン」設定試合

2018年3月29日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年4月22日12時30分:阪神タイガース戦

2018年5月18日12時30分:福岡ソフトバンクホークス戦

2018年6月2日12時30分:中日ドラゴンズ戦

2018年6月3日12時30分:中日ドラゴンズ戦

※試合日の10日前まで販売



(85〜87で広島2軍由宇練習場の話題を記入しています)

116名無しさん:2018/03/04(日) 13:10:07
3月1日付で母校・県岐阜商の監督に就任した鍛治舎巧氏(66歳)


岐阜県岐阜市内の同校で就任会見に臨んだ。

昨夏まで秀岳館を4季連続で甲子園へ導いた新指揮官は「全国の強豪と戦える基礎、基盤をつくりたい。
岐阜県のみならず、東海地区を高校野球界の中央にするという意気込み。カンフル剤になれれば」と決意を語った。

「野球人生の集大成。母校で、自分の後輩たちとやれるのは幸せです。お金は三の次、四の次ですよ」。

大学を含めて20数チームから届いたオファーを蹴って母校での指揮を決断した鍛治舎氏。最後の挑戦が始まった。


公立校なら収入はかなり減る・・・

社会人指導者という制度【注】があって、1400数十円の時給で、
1日(報酬が出るのが)2時間までの認定で(1週間に)5日間。1日2800円ぐらいで1週間に1万4000円。

4週間だから(1か月に)5万6000円で6万円弱。年間で70万円弱が報酬です。
秀岳館での報酬は月に50万円で年間600万円。そしてボーナスが70万円ぐらいあった。



お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。
何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

以前に記入した尾藤さんのお言葉に・・・
「その精神的な自信と誇りを痛感させられた試合です」
これが分からない者が指揮官では情けないと思う。

117名無しさん:2018/03/17(土) 17:31:06
校長室の硬球


槌田誠が、昭和49年倉敷で行われた、阪急とのオープン戦で放った、
3本のホームランの中の1個であります。

エースを負傷で欠きながらも、炎の闘志で、甲子園切符を掴んだ昭和36年夏。
対 報徳戦の捕手。延長11回裏、6-5に追いかけられた時だった。

センターからのバックホームを後ろに逸らしてしまい、6点目のランナーがホームを踏んだ。
「あの時、完全にキャッチしていれば、もしかしたら勝っていたかもしれない。」

『借りを作った。このまま終わってなるものか。』

昭和38年、立教大学に進学。ある日、小沢監督が立教大に立ち寄った時の事。

槌田がブルペンで、バケツをひっくり返し座って、先輩投手の球を受けていた。「ここへ投げろ。」と。
球は構えたミットを少し外れてしまった。すると、槌田は『取って来い』と。

野性味が溢れ、野武士的な槌田。先輩にも一切の妥協を許さぬ、野球の鬼。
昭和41年春。13試合、45打数、20安打。戦後、二人目の打撃三冠王。リーグ優勝。ベストナインと大活躍。

そして昭和41年、巨人ドラフト1位。
巨人V9のスタートの年だった。プロ初打席、満塁ホームランを含む、代打ホームラン通算4本。

槌田の打席は連敗阻止、完全試合阻止など、ここ一発で勝負強く、チームを救った。

昭和49年3月16日、ふるさと倉敷で阪急とのオープン戦、
3本のホームランの離れ技を演じた。1本は場外の彼方へ。

1本目は、報徳学園戦の負い目を振り払い、
2本目は、恵まれなかったプロ人生の悔しさを打ち払い、
3本目は、恩師、先輩、友人、そして、少年達に夢を与えるスイングだったのか。

公式記録にない3本の連続ホームラン。そのうちの1個が校長室に。


常勝チームに不可欠な男。名門巨人軍V9を支えた男。

灼熱の季節を力の限り生き抜いた野武士、槌田誠。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。

平成11年1月7日、胃がんのため他界。享年55歳。

「ジャイアンツ、選手の交代をお知らせします。9番、堀内に代わりまして、代打、槌田。背番号22。」



(槌田選手は24〜25で記入しています)

118名無しさん:2018/03/18(日) 11:32:36
廃部寸前の無名県立校がセンバツ出場


秋の九州大会で準優勝を果たした富島(宮崎)は、全国の高校野球ファンには馴染みのない学校。
地区代表として送り出す九州の人間にとっても“初耳”という人は多いのではないだろうか。
学校は「とみしま」と読む。宮崎県日向市にある実業系の県立高校。全校生徒は定時制を含め618人。

日向市からの甲子園は、1989年夏の日向高校以来だけに、
センバツ切符がかかった昨年秋の九州大会には市長も応援に駆けつけるなど、
地元は“富島フィーバー”に沸いた。

近隣には、延岡学園(2013年夏の甲子園準優勝)や聖心ウルスラ(昨年夏の代表校)、
青木宣親(ヤクルト)らが輩出した日向といった人気と実力を兼ね備えた強豪校が多く、
富島は常に劣勢を強いられる立場にあった。

チーム躍進のきっかけとなったのは、2013年に浜田登監督が就任したことだった。
2008年の夏に母校である宮崎商を率いて甲子園に出場し、
同年秋のドラフトでは左腕エースの赤川克紀がヤクルトからドラフト1位指名を受けるなど、
チーム強化と選手育成に定評がある名将だ。

だが、浜田監督が就任した2013年春の段階で、野球部員はわずかに11人。
そのうち半数が野球未経験者だった。一時は部員数が5人まで落ち込んだ時期もあった。

「もはや野球部の体(てい)を成していない…恥ずかしい」と夏の開会式の時にバスから降りるのをためらう選手もいた。
当然のことながら初戦敗退が当たり前で、それだけに今回の快進撃への市民の反応は「よくもあの富島が…」と、
感心とも絶句ともつかないものだった。

「3年で九州大会、4年で甲子園に行きます」

富島着任の歓迎会でこう宣言した浜田監督に対して、当初、周りの反応は冷ややかなものだった。
部員数の減少により、廃部寸前だった野球部である。
いくら名将が来たとはいえ、それまで初戦敗退が当たり前のチームが急に変わるとは誰も想像していなかった。

それでも、実力のある公立校や実績のある監督に多大なリスペクトを寄せる県民性もあって、
浜田の着任と同時に地域の有力選手が続々と富島に入学した。

もともとこの地域はソフトボール出身者を中心に選手の質が高く、県内の強豪校に何人もの選手を送り込んでいる。
それだけにこの地域の有力選手が集まった富島は、瞬く間に力をつけていった。

浜田監督が就任してから1年半後には宮崎県の1年生大会で優勝。
これが富島野球部にとって県レベルで獲得した初のタイトルだった。

また、彼らが2年となった秋には県大会準優勝を果たし、創部以来初の九州大会に進出。
翌春には宮崎の頂点に立って九州大会に連続出場するなど、就任わずか3年で一躍、県内の強豪校へとのし上がった。

昨年の秋は宮崎大会で準優勝し、3度目の九州大会に進出。文徳(熊本)、長崎商を破り、
準決勝では昨年夏に甲子園を経験している石田を擁する東筑にも勝利した。
決勝は創成館に敗れたが、初回に奪われた5点のビハインドを1点差に詰め寄るなど、
持ち味は存分に発揮。文句なしのセンバツ当確となった。

ドラフト候補がいるわけではないし、180センチを超える選手は一人もいない。
それでも、浜田監督に鍛えられた選手たちが自分の仕事をきっちりとこなし、粘り強く戦い抜く。
初戦の相手は星稜(石川)に決まった。



どんな戦いをするのか注目したいと思います。
お金は三の次、四の次の「持ってる人」が倉工にも来て欲しい。

OBでなくて良い、名将でなくて良い。何処かにいないか?
甲子園16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

119名無しさん:2018/03/24(土) 10:55:28
富島(宮崎県)の監督


試合前、選手全員で球場の周りのごみ拾いをするのが富島の恒例行事だ。
浜田監督(50歳)は「動かないごみを拾えなければ動くボールは拾えない。
試合前にも普段通りごみ拾いをすることで、心のよりどころとして自信を持てるようになる」と意義を語る。

県立高の教員として都農、宮崎商野球部で監督などを務め、
甲子園でも指揮した経験から常に選手に伝えているのは「心の成長がなければ、技術の成長はない」という信念だ。

宮崎市出身。小学3年で野球を始め、宮崎商では内野、外野手として3年の夏に県大会ベスト8まで勝ち進んだ。
その後八幡大(現九州国際大)に進学し、野手や学生コーチを経験した。

高校野球の指導者を夢見て4年の時に教員採用試験を受けたが不合格となり、宮崎市内の企業に就職した。
4年後に再び採用試験に挑み合格。都農高商業科の教員となり、同時に野球の指導者としても一歩を踏み出した。
その後母校の宮崎商野球部副部長を経て、2003年に監督就任。08年夏にはチームを甲子園へと導き、2回戦に進出した。

野球部でも学校での指導でも、大切にしていることは「人づくり」。
都農で人権教育を担当した経験から「人を大切にすることを学んだ。だからこそ人づくりを重視してきた」と語る。

長年強豪を率いてきた浜田監督にとっても、13年の富島への異動はゼロからのスタートだった。
野球部監督に就任したが、3年生部員はおらず、2年生5人、1年生6人。

野球未経験者もおり「ボールを捕れない、バットに当たらない」状況から指導が始まった。
捕球やスイングの形を覚えるため、キャッチボールや素振りなどの基礎練習を繰り返した。
それでもすぐに結果は出ず、練習試合では30点以上の差をつけられたこともあった。

「選手たちは心が折れていたかもしれないが、そこで諦めたら社会に出ても苦しいことをすぐ諦めるようになる。やらないといけない」。
負け続けても練習に取り組んだ。翌年からは、「監督の元で野球がしたい」という新入生が入部するようになり、少しずつチームが活性化。

15年秋には九州大会に出場し、県内外に知られる存在になった。「日ごとに力をつけていく選手たちを見るのは楽しかった。
負けた悔しさをバネにして練習を重ねた結果が出た」と振り返る。

強豪校になってもグラウンドは他の部活と併用するなど練習環境は恵まれているとはいえないが、
監督は「公立校では併用が普通。効率良くやればいいだけ」と前向きにとらえる。
自身初となるセンバツの舞台。 相手は強豪だが好ゲームを期待したい。



羨ましいね。「持ってる人」が廃部寸前の富島には来た。何処かにいないか?
甲子園25勝中、16勝☆伝統のユニフォームで戦うべきだ。

そもそもユニフォームは選手の物。それに憧れて来る生徒も沢山いる。
親子孫、同じユニフォームで戦える。それだけでも長い人生の宝物になる。

随分と遠ざかっても甲子園に行けば全て初戦を勝利。8戦全勝。よほど魔物に愛されているのだろう。
岡山県で一番格好の良い高校生らしいユニフォームだと思う。

昭和61年の甲子園はユニフォームを変えたから罰が当たった。あれは監督が悪い。選手が可哀相だったね。
「持っていない人」が一日も早く去ってくれることを願っている。

120名無しさん:2018/03/26(月) 23:59:30
>>117
槌田選手の巨人での背番号は22ではなく、23でした。

121名無しさん:2018/03/27(火) 18:18:05
御指摘ありがとうございます。
背番号「22」は誤りで「23」でした。

槌田さんは縁の下の力持ちでしたね。森がいなかったら正捕手に・・・。
柴田、高田、末次がいなかったら外野手レギュラーに・・・。

ヤクルトでも背番号「23」。
広岡監督は開幕戦から1番右翼で起用したが・・・。もう全盛期を過ぎていたのでしょうね。

背番号「23」は、スワローズでは重要な背番号と云われていたそうです。
今年7年ぶりに日本球界復帰の青木が背番号「23」を。少し注目しています。

貴殿が初めて書き込んでくれた人です。
これからも色々と書き込んで頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

122名無しさん:2018/03/29(木) 18:23:06
京都府立乙訓(おとくに)高校


その都は、たった10年という短命がゆえに、幻の都と呼ばれた。
位置的に奈良と京都に挟まれながら、長きにわたって正確な位置さえも不明で、
時代的にも奈良時代と平安時代に挟まれて名前もついていない、まるでエアポケットのような都。それが長岡京である。

今から1234年前の西暦784年、桓武(かんむ)天皇によって遷都された長岡京は、さまざまな制度改革や仏教のしがらみを断ち切り、
蝦夷(えみし)の統治を目指すなど国家の立て直しを図ろうとしていた時期に建立された。
しかし、幾多の水害や疫病に悩まされたことから怨霊のせいではないかと恐れられ、未完成のまま捨てられた、悲劇の都である。

奈良時代と平安時代、平城京と平安京はよく知られ、奈良や京都を訪れる観光客は後を絶たないというのに、
長岡京の跡地を訪ねてみようという人は決して多くはない。京都市の南西、およそ10キロの地にある長岡京市。
タケノコの産地として知られ、美しい竹林は『竹取物語』の舞台になったという説もある。

光明寺のもみじ、楊谷寺(ようこくじ)のあじさい、長岡天満宮のきりしまつつじ、乙訓寺(おとくにでら)のぼたんなど、
四季折々の景観を楽しむこともできる。しかしJRの長岡京駅に降り立つと、観光の街を感じさせる風情はない。
周辺にはハイテク企業が進出しており、数分歩けば何の変哲もない住宅街が広がる。乙訓高校は、そういうところにある。
そして、乙訓の野球部は甲子園とはこれまでに春も夏も縁はなかった。

京都大会では鳥羽、立命館宇治、京都翔英を撃破し1位で突破、近畿大会では準々決勝で奈良の智辯学園を倒してベスト4、
長岡京のエリアから甲子園に出ること自体が初めての快挙だ。



センバツ高校野球   乙訓 7-2 おかやま山陽 ( 3月28日)


「公立の星」、乙訓が同点の6回に長短5安打を集中させ、4点を勝ち越した。
春夏通じ初出場の甲子園で1勝を挙げ、3回戦に進んだ。

山陽が1回裏、2死三塁で4番井元が左翼へ大会9号となる本塁打で2点を先取した。
乙訓の甲子園初得点は2回表。2死一塁から9番、投手富山が左越え二塁打を放ち、1点を返した。

山陽は2回1死満塁、3回2死二、三塁も後続なく、追加点を奪えない。
乙訓が5回、同点に追いつく。無死一、三塁で次打者の内野ゴロ併殺の間に三塁走者が生還。

続く6回、1死一塁から7番薪谷の三塁打、8番伊佐の中前打と連続適時打で2点。
さらに2死満塁から3番浅堀が中前へ2点打と、この回5安打で4点を奪った。

昨夏甲子園で初戦敗退も、ベンチ入りメンバー6人が残った山陽だったが、1勝が遠かった。


富島の初戦敗退は残念でしたが、乙訓は中々に力強い。「公立の星」は今後も期待できそうだね。

123名無しさん:2018/04/01(日) 11:16:00
おかやま山陽の監督


甲子園出場だけが高校野球の目的ではない。その過程に意味があれば、「その先」にも意義がある。
おかやま山陽の堤尚彦監督(46歳)は、甲子園出場のその先に「野球の普及」という目的を掲げる。
経歴は異色だ。都立千歳(現芦花)から東北福祉大に。大学3年生の時だった。

深夜にテレビのニュースを見ていると、日本人がジンバブエで野球指導を行っている映像が流れた。
教わっている子どもの楽しそうな姿。それを木によじ登って見ている人々。最後にある言葉がテレビに流れた。
「お金、道具、グラウンドが無いのが問題なんじゃない。自分の次に野球指導をやる人がいないのが問題だ」。

「自分が行きます」。すぐに放送していたテレビ局へ電話を。
電話をすると、それが「青年海外協力隊」だと教えてくれた。その秋の募集で合格し、すぐに派遣されることが決まった。
派遣先が書かれた封筒を開けると「ジンバブエ」の文字。運命だと感じた。ジンバブエには十分に野球道具は無かった。

現地の調理道具を削ってバットを作り、木の実をボールにした。
グラブは日本製のグラブをばらして8枚の型紙を作り、靴屋に頼んで作ってもらった。
ラインを引く白線代わりに水を使ったが、もちろんすぐに乾いて見えなくなった。

地道な指導と普及を重ねていくうちに、現地の学校の指導要領に「ベースボール」が組み込まれるまでになった。
道具不足などの環境、現地の子どもたちの姿を目の当たりにし「世界中に野球を普及したい」という考えが大きくなった。

帰国した後も、シドニー五輪を目指すガーナや、アテネ五輪を目指すインドネシアで指導を行った。
タイでアジア野球連盟のインストラクターとして、初心者向けの野球指導を行っている時に出会ったのが、
師と仰ぐ元慶大監督の前田祐吉氏(享年86歳)だった。

当時、不祥事が続いていた高校野球。「日本の高校野球は駄目ですねえ」と言う堤監督に前田氏は言った。
「みんなが来たくなるような強いチームを作ってから言え!」。

そんな時、野球部内で問題が起き監督が辞任したおかやま山陽が、新しい監督を探していると知人から知った。
世界に野球を広めたいという思い。ならば広めてくれる人を育てる側に回ろうと、監督に就任することを決めた。

06年におかやま山陽の監督に就任するも、甲子園は遠い場所だった。
07年から11年までは春季、秋季地区予選敗退が続き、県大会に行けたのは1度だけだった。
11年の夏の岡山大会でも1回戦敗退。この後も結果が出なかったら…。新チームが始まると、あることを始めた。

ジンバブエやガーナ、発展途上国に集めたグラブやボールを送る活動だった。
集めた中古の道具を送り、現地の子どもたちからお礼の手紙や写真が届く交流が始まった。

不思議なことに、そこから野球部としての結果も出始める。12年からは地区予選負けなし。
14年の春季大会では準決勝まで進んだ。
17年夏に悲願の甲子園初出場。そして今センバツで2季連続の甲子園出場となった。

迎えた28日の乙訓戦。序盤に先制するも2-7で敗れ、甲子園初勝利はお預けとなった。
試合後のお立ち台で「長く甲子園にいないと伝わらないですね。また1試合で負けて残念だ」と言ったが、確実に輪は広がっている。
活動を知った人がアルプススタンドまでグラブやボールを持参し、地元の少年野球クラブも中古の道具を寄付する。

甲子園出場が決まると、少年野球クラブから2ダースのボールの寄付が届いた。
甲子園で使ったこのボールは、甲子園の土を付けた状態で子どもたちに返すつもりだ。岡山から甲子園へ、甲子園から世界へ。
「野球普及」を目的にする限り、堤監督は甲子園を目指し続ける。



山陽は良い人に来てもらえたね。
倉工も公募して探すのも悪くない。しかし公立は安すぎる。年収70万円弱では苦しい。 
「公立の星」、乙訓も敗退。公立はベスト8進出すら厳しい時代ですね。

124名無しさん:2018/04/07(土) 12:15:54
第90回選抜高校野球大会   外人部隊(県外の中学卒) ベンチ入り人数


明秀日立(初)・・・16人。     日本航空(初)、松山聖陵(初)・・・15人。

日大三(20回)、慶應(9回)、明徳(18回)・・・14人。    大阪桐蔭(10回)、創成館(3回)・・・13人。

聖光学院(5回)、東海大相模(10回)・・・10人。        駒大苫小牧(4回)、国学院栃木(4回)・・・9人。

三重(13回)、下関国際(初)・・・8人。    中央学院(初)、近江(5回)、智弁和歌山(12回)、英明(2回)・・・7人。

高知(18回)・・・6人。   星稜(12回)、智弁学園(12回)・・・5人。   日大山形(4回)、瀬戸内(3回)・・・4人。

東邦(29回)、延岡学園(3回)・・・3人。     おかやま山陽(初)・・・2人。      静岡(17回)・・・1人。

花巻東(3回)、由利工(初)、富山商(6回)、彦根東(4回)、膳所(4回)、
乙訓(初)、東筑(3回)、伊万里(初)、富島(初)・・・0人。  



外人部隊のベンチ入りは18人中の3分の1=6人までにすべき。
「高校野球の父」、佐伯達夫さんが高野連会長の頃なら参加させないだろう。

上記からベスト8中の6校は失格、優勝は花巻東、準優勝は星稜が相応しい。
この大きな問題をタイブレーク制の導入なんかより先に考えられない今の高野連は嘆かわしい。
ブローカーが暗躍し大金が動く、高校野球が完全に商業化してしまった。


佐伯達夫(1967〜1980年 日本高等学校野球連盟会長)

野球殿堂には、生前の1965年に一度選出されたが、
「 球界最高の名誉である殿堂入りに選ばれたことには感謝しているが私自身、
広く日本の野球界にはそれほど貢献したとも考えていない。私が選ばれては先人に申し訳ない。
殿堂入りは生死にかかわらず功成り名を遂げた人のものだ 」と辞退した。
選出後に殿堂入りを辞退したのは佐伯氏のみである。死後に改めて選出された。

彼が「高校野球の父」と称されているのは、以下の二つの功績が挙げられる。

① 「選抜を消滅の危機から救った」
② 「高校競技で初めて体育連盟に依らずに地方予選から運営するシステムを確立した」

125名無しさん:2018/04/08(日) 12:18:03
甲子園  「3本のホームラン男 」 藤沢新六 (倉敷工)  


昭和24年夏、倉敷工が甲子園初出場を果たした時の正捕手。

第31回選手権大会は倉敷工、高津など初出場が7校。
最多出場は慶応が3年連続13回目。平安が11回目の出場。

この年より開会式の入場行進でプラカードを女子生徒が担当する事となった。

1回戦 対 熊谷( 埼玉 )戦 9-1と一蹴り。

この試合で藤沢は大会3号となるホームラン1本目を記録する。
【 1本目はランニングホームランだったんです。 】と藤沢。

2回戦は対 高津( 大阪 )戦 5-3で勝利。

8月17日、迎えた準々決勝。相手は中京商以来の3連覇を目指す小倉北。
春夏通算16勝を挙げた好投手 福島一雄投手を擁し、洗練された野球をするチーム。

知名度は雲泥の差で【 一生懸命やるしかないなあ。そんな、気持ちが強かったです。 】と、藤沢。
この試合で、二回と六回に藤沢の大会7、8号ホームランをはじめ、長打で追いすがる。
延長10回、一死満塁から横山の遊ゴロの間に決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

【 2本とも、左中間でした。思い切り振っただけでしたが何故かよく飛んで行きました。
二回のホームランは、審判に言われて気がついたんです。 】と、無欲の勝利を強調する。


8月18日付、山陽新聞に「 倉工殊勲の健棒 」 「 小倉の三連覇を阻む 」

「 藤沢ホーマー三本 」 「 甲子園大会に新記録 」と出た。

藤沢の通算3本塁打は昭和60年のPL学園、清原に破られるまで大会記録を保持していた。
木製バット使用によるホームラン3本は金属バットが続く限り、永遠に破られない大記録である。

準決勝、岐阜戦は2-5で敗れたが、 妹尾求が大会9号本塁打を記録。

倉敷工は甲子園で4本の本塁打を記録した事になる。
スラッガー藤沢は小沢と共に阪神タイガースに入団してプロの道を歩む事になった。

126名無しさん:2018/04/14(土) 15:35:00
甲子園勝率10割  三池工業  甲子園から遠ざかっている理由


1965年夏、炭鉱町として栄えてきた福岡県大牟田市は快挙に沸いた。
県立三池工業が甲子園初出場ながら優勝を飾った。
世界遺産・三池炭鉱宮原坑のガイドが当時の様子を話してくれた。

甲子園から戻ってきたナインは、小倉駅から大牟田までの約150キロをパレードし、炭鉱町に一時の灯を灯した。
しかし、三池炭鉱の廃鉱と共に、町の人口は減少の一途をたどり、野球部の甲子園出場は一度きり。
全国に2校しかない甲子園勝率10割(5勝0敗)の学校だ。

3年前に発足したOB会の会長が、優勝メンバーで捕手だった穴見である。
「とにかく原監督の情熱が甲子園に導いたことは間違いありません。当時は木製バットの時代ですが、
良質な木材を宮崎まで探しに行き、熊本の工場で作ってもらっていた。

甲子園に出場すると、暑さ対策として、ブドウ糖とビタミン剤の入った注射を宿舎近くの病院へ毎日打ちに行きました。
当時、そこまでしてくれる監督はいなかったでしょう。先見の明がある方でした」

母校が優勝以来、一度も甲子園に出場できていない理由については、「人材不足」と語った。
野球を愛し、選手に愛情を持って接する指導者がいなかった。

もう一度、甲子園に出てほしいというのは、原監督の願いでした。出場できるなら21世紀枠でもいい。
ただ、ボランティアをするなど、地域の理解を得られないと、高野連から21世紀枠に推薦してもらえません。

出場が叶わない理由のひとつが、生徒の8割以上が就職を希望し、就職内定率が毎年10割である点だ。
30歳の青年監督・次郎丸岳博が言う。

「少子化の影響で、企業が工業高校の人材を求めている。
大手企業に就職できますので、生徒にとっては恵まれた学校だと思います」
野球の能力に長けた選手は、プロをはじめ、大学や社会人など、可能な限り“上”でも野球を続けたいという意思を持つ。

そういった意味では、企業への就職に有利な工業高校は選手の選択肢から外れやすいのかもしれない。
さらに、少子化のあおりで、同校でも昨年まで1学年5クラスだったのが、現在は4クラスに。
野球部員は新3年生と新2年生で26人だ。

現実として、チームの目標は、ブロック予選を勝ち抜いて県大会に出ること。
53年前の凱旋パレードの際、選手が乗ったオープンカーに月桂樹の苗が投げ込まれた。
その月桂樹は今、同校の中庭に移植され、かつての炭鉱町に育った球児を見守っている。



一度だけでもパレードは羨ましいね。
福岡県は激戦区、好選手が揃わないと甲子園はかなり遠い。
倉工は「持ってる人」さえ来れば、それほど遠いとは思わない。三池工と比べれば恵まれている。

127名無しさん:2018/04/15(日) 10:51:06
JFE西日本  三木選手


社会人野球・JABA岡山大会  (4月14日 倉敷マスカットスタジアム)

予選Bブロック JFE西日本 5―1 ツネイシブルーパイレーツ

「1番・右翼」で先発したJFE西日本・三木大知外野手(26歳)が先制弾を含む2安打3打点の活躍を見せた。
「先発した新人の小倉のためにも早めに先制点が欲しかった。体がうまく反応した」。

3回の右越えソロは、直前に同じ内角直球を右翼ポール際へファウルしており、打ち直しの一打だった。
入社5年目で倉敷工、岡山商大と一貫して地元でプレーしてきたが、
あえて「そこは意識しないで自然体で臨めた」ことも好結果につながった。



2009年センバツ時の4番で二塁手でしたね。
あれから早9年か、月日の経つのは本当に早い。

あのまま中山さんがベンチに居てくれたなら、ここまでにまだ甲子園へ行けただろう。
不思議と「持ってる人」が居ると、何処からともなく素質の有る選手が集まり成長する。

78回、85回夏の甲子園でも「持ってる人」が部長でベンチ入りしていた。
私はこの時の監督が持っていたとは思っていない。

持ってる弁士は昔話が好きで語れる人だったよね。
昔話、伝統を馬鹿にする者は早く去ることだ。指揮官の資格は無い。

年齢の事を問題にする人がいるけれど、日本文理の大井監督は75歳まで続けた。
要するに「持ってる人」なら若輩、高齢など関係ない。

128名無しさん:2018/04/28(土) 10:52:06
「 部員不足に苦しんだ県立野球部、元プロ選手が異例の監督就任 」


プロ野球で活躍した佐賀市出身の永尾泰憲さん(67歳)が今春、佐賀県立太良高校の監督に就任した。
県高野連によると、元プロ野球選手が県内の野球部監督になったのは初めて。

さらに甲子園に出場したことがなく、近年は部員不足に苦しんだ県立高校での元プロ就任も異例だ。
永尾さんは4月から太良町の非常勤職員として勤めており、その傍らボランティアで指導するという。

内野手の永尾さんは県立佐賀西高校、社会人野球を経て、1972年にドラフト1位でヤクルトに入団。
トレードで近鉄、阪神と移った。79年の日本シリーズや、85年の阪神初の日本一を経験。
3球団全てでリーグ優勝を経験し、1千試合出場も果たした。

現役引退後は阪神のコーチ、スカウトなどを務め、学生野球資格を回復。
14年に母校・佐賀西のコーチ、今年1月からは太良のコーチになっていた。
監督就任にあたり、「スカウトだった目線から言えば、町にはいい素材の子が多い。
太良は一人ひとりを大事にする学校で、いいと思った」と話す。

90年夏の県大会で4強入り、91年春は優勝したが、2014年秋、15年春は部員不足となり連合チームで出場。
一昨年夏の初戦は部員の熱中症で試合が続けられなくなり、没収試合で敗戦した。
ただ、昨夏は12年ぶりの夏1勝を挙げており、永尾さんは「選手の個性を生かし、強いチームをつくりたい。
太良から甲子園を目指す」と意気込んでいる。



倉工も元プロ、中藤さんを迎えては?本心を聞きたいよね。公立の報酬は確かに安いが。
勿論「持ってる人」か否かは分からないが、お話を聞く限りでは良い人のように感じる。

春の県大会初戦で敗退。相変わらずの拙い采配、一冬を越え個々に成長の跡もあまり見えず。
今頃チャレンジャーを連呼して、伝統のユニフォームまで変えようとしている人をこのまま好き勝手にさせて良いの?

チャレンジャーになって40年、まさに群雄割拠の時代故に「持ってる人」が不可欠。
ここを読んでくれている人は少ないが、もし中山さんを御存知の方がいたら、このスレッドを教えてあげてください。

定年退職後、出来ればもう一度ユニに袖を通し昔話を聞かせてやって欲しい。
小沢さんが去りし後、甲子園5勝の全てにベンチ入りしていた「持ってる人」の昔話はとても貴重です。

129名無しさん:2018/04/29(日) 10:15:15
「 甲子園3本のホームラン男   藤沢新六   (倉敷工) 」


倉工バッテリー、小沢と藤沢。
二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロの道へと歩むことになった。

3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は早くも4番打者に抜擢された。背番号は39。
しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。
そうした時、社会人野球の強豪「 日鉄二瀬 」から声を掛けられたのだった。

「 今の給料の2倍やるから、うちに来ないか?と言われましてね。それで阪神タイガースを
1年で辞めて日鉄二瀬に小沢と二人で行ったんです 」と藤沢。

「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」。 移籍してすぐの事だった。
突然、小沢が言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。
それは倉敷市長から、小沢が倉工の監督を要請された為だったのである。

倉敷に帰った藤沢は倉紡倉敷で野球を続けていた。
社会人野球の最高峰の大会「 都市対抗 」に岡山鉄道管理局が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。

「 監督が私を4番打者として使ってくれたんですよ 」 「 都市対抗はベスト4が最高成績でした 」と胸を張る。
「 後楽園球場で行われる都市対抗は当時に於いても凄い応援合戦でしたよ 」と、熱く語る。
「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました 」。

その後、現役を退いても野球道を歩み続けた。野球の発展に尽くした藤沢。
岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。

確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。その目はいつも母校愛に満ち溢れ大きく輝いていた。



練習場の看板を下したの? 「 甲子園25勝 」 「 ベスト4が4回 」 「 ベスト8が2回 」
何で下す必要がある? 県下随一の伝統と実績を掲げて練習に取り組むのは有意義だ。

持っていない人は色々と焦りがある様だね。焦れば焦るほど結果は出ない。
ユニは変えるは、看板は下すは、そのうちに罰が当たる。もう既に当たっているのか。

先輩たちに嫌な悲しい思いをさせる人に幸運は訪れない。早く身を引いた方が良い。
もう少し続けたいなら、自らを律するのが一番。

ユニは変えず、看板は元に戻す、頭を丸め、滝に打たれてお祓いをして貰う。
これ位の事をすれば少しは風向きが変わるだろう。

白のユニには理由、伝統、実績が有る。看板にも理由、実績が有る。
これらを変えようとする人には何の実績も無い。世にも不思議な物語だ。

130名無しさん:2018/05/05(土) 11:02:34
「 夏の甲子園史上初の完全試合まであと1人・・・新谷 」


甲子園は100回大会を迎えるが、その中で一度も達成されていない記録のひとつが完全試合。
1982年夏、その完全試合に最も近づき後にプロでも活躍した新谷博(53歳)が、
あと1人に与えた“世紀の死球”とその後の激動の野球人生を振り返った。


「 毎回ベンチで『まだパーフェクトだぞ』というのは話してたけど、史上初というのは知らなかった。
知らなかったから良かったんです。仮に知ってたら、ビビってもっと前に四球を出してますよ 」

投手陣の揃う佐賀商で、入学当初は「 補欠にも入らなかった 」という新谷だが、2年時にある機会が巡ってくる。
投手2人が風邪で揃って練習を欠席。人数合わせで入ったノックでの動きが、たまたま見に来ていたOBの目に留まった。

「そこから監督に目をつけられて、鬼のようにしごかれた。
他の選手がアップしてるなか、1人だけ個人ノックを浴びせられて、1時間もたつともう立てない。

立てなくなったら今度は腹筋で、100回やるごとに角度をつけて、回数も増やしていく。
100回から始めて、200、300…。1600回になるころにようやく解放されて、そうするともう歩けない。
そこからようやく全員練習が始まって、終わったらまた腹背筋。毎日監督が来るまでトイレで震えてました」

3年の夏は圧倒的な強さで佐賀大会を制し、迎えた甲子園初戦の木造高校(青森)戦。
新谷は高校野球史に残る大記録に、あと一歩まで迫る。

「 絶対に打たれない自信があったから、大して興奮もしなかった。客席が騒がしいから『 何を騒いでんだろ。
ああ、次の試合が池田だから、池田が来たのか 』と思ったくらい 」

初回からノーヒット、無四死球を続け、迎えた27人目の打者。
完全試合達成まであと1人というところで、内角を攻めたボールは打者の右腕に当たってしまう。

次打者を打ち取り、結果的にはノーヒットノーラン。
“世紀の死球”に甲子園は大きなため息に包まれたが、悔しさを感じることはなかったという。

「 当てた瞬間は『 しまった 』というよりも、謝らないとという感じ。
当時は佐賀の田舎者だったから、甲子園に来ただけで満足しているところがあった。
あれだけ練習させられて監督のことも大嫌いだったから『 早く終わらないかな 』とばかり考えていた 」

その年のドラフトではヤクルトから2位指名を受けたものの、監督の一声で駒大へ。
この選択がその後の人生を大きく狂わせることになる。

「 高校からプロに入って成功するんだったら、大学から行ってもドラフトにかかるだろうと思っていた。
そしたら3年の終わりに怪我をしてしまって。そうなると高校の時のドラ2位が重荷でね。
当然ドラフトにもかからず、そのままイップスになっちゃった 」

卒業後は日本生命に進みプレーを続けたが、置きにいく球しか投げれない、力を入れるとあらぬ方向に飛んでいく…。
精神的にも追い詰められたイップスから復活したのは、些細な事がきっかけだったという。

「 ぎっくり腰をやっちゃって、10日ぐらい練習を休んだんです。
それが治った直後の練習で、アウトコースに1球目を投げたら、バッターが空振りした。
その瞬間ですね。『 野球ってこんな簡単やったんや 』と思い出したのは 」

完全復活を遂げると1年半後に西武に入団。高卒ドラフトからはすでに9年の歳月がたっていたが、
27歳でプロ入りすると主に先発として10年間で54勝を挙げた。

「 高校から入ってれば、記録的にはもっといいものを残せたかもしれない。通算勝利数とかね。
でも記録には興味がなかった。野球って相手がいるし、完全試合も勝利数も、たまたまの巡り合わせじゃないですか 」

引退後に女子野球の監督を引き受けたのも“たまたま”一番にオファーがあったから。
それから10年以上がたった今も、変わらぬ指導を続けている。



もう36年も経ちましたか、池田が深紅の大優勝旗を初めて徳島に持ち帰った夏。
それにしても体罰のような凄い練習によく耐えられたものだと思います。
人並み外れた体力、精神力がないと潰れていたでしょうね。この監督は・・・。

131名無しさん:2018/05/06(日) 11:18:03
大阪桐蔭  西谷監督の本業は「 指導よりスカウト 」


獲得したい中学生を『 ドラフト1位 』と呼んで熱心に勧誘する。
その強さは、全国から選りすぐった選手の活躍なくして語れない。

スーパー二刀流の根尾は岐阜出身。エースナンバーをつける柿木投手は佐賀出身。
ベンチ入りメンバー18人中、大阪出身は5名にとどまる。

気に入った選手を見つけたら、何度も通うのが西谷流。
大阪の元高校野球監督が、西谷監督と会った当時を述懐する。

「 かねてより、練習を見るよりもスカウト活動のほうが熱心で、練習を休む日も少なくなかった。
『 コーチまかせにしないで、もうちょっと練習に参加せえよ 』と、たしなめたほどです 」

根尾の獲得をめぐっては、ライバル校とスカウト合戦を繰り広げた。
慶應高校に進学するといわれていたが、そこから猛烈な巻き返し。
根尾の実家がある岐阜県内のホテルに連泊して、実家へ通い続けた。

入学後、投手にするか野手にさせるか、監督が現地まで赴き、直接見て判断する。
日本代表の投手でも、野手の方が可能性が広がると判断すれば、野手として勧誘する。
監督と選手の合言葉は100回記念大会に出場して「 史上初の2度目の春夏連覇 」だと云う。



せめて外人部隊のベンチ入りは3分の1までにしないと公立では勝負にならない。
今の高野連は観客が増え、儲かれば良いのでしょう。誰一人として問題提起の雰囲気すらなし。

他校としては「名スカウト」がデブ菌により歩行困難になるのを待つしかない?
130kg位は有りそう、重度の肥満、早急なダイエットが必要ですが・・・。

132名無しさん:2018/05/12(土) 10:21:15
雨中のサヨナラ四球、江川は言った「 最高の一球 」

1973年2回戦  作新学院 0―1 銚子商


午後1時24分に始まった作新学院―銚子商戦のスコアボードには、「0」が連なっていた。
選手が主役なら、時間の経過とともに強まっていった雨は、名脇役として試合を動かしていく。
雨が「 怪物 」と呼ばれた江川卓を翻弄しただけではなかった。 江川は第55回大会の目玉だった。

春の選抜大会で4強入り。 球が浮き上がるような豪速球で60個の三振を奪い、大会記録を塗り替えた。

夏の栃木大会は5試合を被安打2で勝ち上がった。 3試合はノーヒットノーランだ。

夏の甲子園に初めて出場する怪物の投球への注目度は普通ではなかった。
周囲の期待とは裏腹に、捕手の亀岡(旧姓小倉)は開幕前から不安を募らせていた。

「 甲子園入りしたときからボールが高めに浮き気味だった。
春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、夏を迎えていた 」

選抜大会以降、全国から招待試合に呼ばれた。九州、沖縄、北陸…。
週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻ることもあった。

もうひとつ、チームに影を落としていたのが、江川を擁するがゆえの周囲の過熱ぶりだった。
どんな試合でも、メディアは打った野手ではなく、江川を囲んだ。
チームメートは取材攻勢にさらされる江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するようになっていた。

栃木大会のチーム打率は2割4厘。「 打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった 」。
江川と野手の間に立っていた亀岡は振り返る。

落ち着かないまま迎えた全国大会で、柳川商との1回戦は延長十五回の末に2―1のサヨナラ勝ち。
2回戦の銚子商戦について、亀岡には「 最初から厳しいと思っていた 」という予感があった。
江川も「 あの試合が限界だった。僕も野手も本当に疲れていたから 」とのちに述懐している。

銚子商戦の劇的なサヨナラ負けの前に、江川の心を激しく揺さぶるピンチがあった。
十回裏、雨は激しくなっていた。二つの四球などで2死一、二塁。許した右前安打を右翼手がこぼす。
江川は「 終わった 」と思った。

捕手の亀岡はいちかばちかのプレーに出た。
走者の本塁ベース到達を遅らせるために、ライン際に本塁ベースから三塁側へ3歩離れた。
走者は足元に突っ込みタッチアウト。走者に雨で本塁が見えなかったのかは分からない。 

亀岡が思ったのは「 これで勝てる。流れは完全にこちらにある 」。
一方、江川の心境は「 えっ、まだやらなきゃいけないの 」だった。

十二回表、作新学院の攻撃は無得点。どしゃ降りの雨のなか、大会本部はこの回での打ち切りを検討していた。
亀岡自身は試合途中から、雨で滑って、江川に返球できなくなっていたという。滑り止めを借りに、何度もマウンドにいった。

「 もともと雨に弱いのに、あの状態で投げていたのは奇跡的だと思う 」
十二回裏、銚子商の攻撃は1死満塁でフルカウント。

マウンドに集めた野手に、江川は「 真っすぐを力いっぱい投げていいか 」と尋ねている。
「 お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、俺たちここまで来られたんだろ 」。
一塁手の鈴木秀男から返ってきた言葉だ。

「 あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。
それまではいがみあいとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない 」

その169球目を受けた亀岡がいまだに感じるのは、悔しさではなく、すがすがしさだ。
雨の中、怪物と作新学院は散った。押し出しの四球になった直球は雨で滑っているように見えるが、江川はこう振り返っている。

「 その時は滑ったという感覚はなかった。あの球は高校時代で最高の一球だった 」。



こんな裏話は知らなかったけれど、まさに高校時代の江川は怪物、凄い投手だった。
当時を知る人なら、今までで一番凄いと思った高校投手は?と聞かれれば大多数は江川と答えるでしょうね。

決勝は広商3ー2静岡、「 サヨナラスクイズ 」 、ドラマチックな幕切れだった。

133名無しさん:2018/05/12(土) 10:50:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」


舞台は人を変える 人を作る ある人は才能に気づき ある人は気弱を発見して狼狽する

しかし 大舞台は結果に責任を持たない 変えるだけである

甲子園ほど見事な大舞台を知らない


その夏 その日 その試合 その時 その一瞬 誰が主役であったか 

何が慄えを呼び 何が胸をえぐったか

人々よ 時間の経過とともに 薄れる宿命の 心の壁の小さな記憶を 色鮮やかに とどめてほしい

                                                

入場式から決勝戦まで、男はテレビの前を動かない。とすると、
ほんの数秒だけ見ることが出来る入道雲が1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝と段々に
季節の変ぼうを見せて行くことを知っている。

その入道雲の表情とともに大勢の少年たちの顔と、たくさんのドラマとを覚えこんでいる。
男とはそういう覚え方をするのである。

阿久悠さんは全試合をご覧になったそうです。
NHKがテレビ化。 ( 放送予定 2018年8月8日22時〜 )

134名無しさん:2018/05/13(日) 10:52:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1979年8月8日   第61回大会  開会式  「 孤独の行進 」


君の手の栄光のしるしは重たいか 君の背の感動の記憶は重たいか 目を上げれば空あくまで青く高く

あの日と同じ夏の雲が踊っているが 君の目はそれを見ようとしない 君はただひとり 君はただひとり


孤独の行進をつづける甲子園 暑い夏がなお熱く燃え 人みな青春のときめきに酔うとき

興奮にともすれば乱れる足音と 鎮めようとして鎮まらぬ鼓動と 荒々しくもれる息吹きを 背に感じながら 

君は 君は 乱れることもなく 高鳴ることもなく しかし 先頭に立って行進する 君はただひとり 君はただひとり


孤独の行進をつづける甲子園 青春は短く熱い夏祭 まして君の甲子園は 奇跡にいろどられた華やかな祭り

祭りのあとの孤独は ただひとりの行進に現れても 祭りが終わったわけじゃない 青春が去ったわけじゃない

君の手の栄光のしるしは重たいか 君の背の感動の記憶は重たいか 



青春という言葉が魅力的に思え、青春という不確実なものを具体的に見ようとする時、大抵青春という時代は去っている。
だから、ぼくらは、甲子園の入場行進に目をこらし、それが大いなる序曲であることを知ると涙ぐむ。

何でもない時に感動するのは、自らの青春が遠いことを知っている故かもしれない。
決して渦中に棲むことが出来ないと知った世代の感傷かもしれない。選手たちには感動はあっても感傷はないだろう。

久慈高校の選手の手と足がどうしても整わなかったり、宣誓をした中京高の小川主将が他校の列に戻って行ったり、
現代っ子にもこのセレモニーは、やはり大いなる序曲とよぶにたる興奮であるらしい。

さて、入場行進の先頭は、昨年の優勝校PL学園だったが、それは、渡辺主将ただひとりの孤独な行進だった。

135名無しさん:2018/05/13(日) 11:31:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1979年8月9日  一回戦  「 太陽を食った少年 」


甲子園は少年を見る楽しみだ 少年は大人の心の故郷であり だから 美しい方がいいし おおらかな方がいい

いつの間にか社会の荒波で削られ 程よく形を整えた大人には 緑したたる故郷との出会いを思わせる

少年との出会いが 何よりも嬉しい 生き生きと のびのびと 晴ればれと そんな言葉を日常から失ったから

そんな言葉で讃える少年との出会いが 何より嬉しい 君に逢えてよかった 君に逢えてよかった


太陽を丸かじりにした少年は コロナのような笑顔をふりまき アポロのように振舞う

なかばあきらめていた少年の姿を 目のあたりに見る時 人々は心の中にオアシスを見つけ

冬の日の太陽に出会った思いがする 君に逢えてよかった 君に逢えてよかった おおらかな君には 甲子園でもせま過ぎる



数多くの選手のほとんどに禁欲的な猛練習から来るかげりのようなものを感じる。
それは美しく見えないこともないし、尊いと思えないこともないが、やはり、かげりはかげりと見えるし、痛ましさもつきまとう。

そのかげりを抱いた少年が、白球を中にして戦うのであるから、その姿は悲壮美といってもいいものである。
但し、浪商のドカベンこと香川には、そのかげりを見ることがない。

どこまでも天衣無縫にふるまう風貌と雰囲気には、型にはめこまない少年の魅力があふれているし、
それは野球を超えている。笑顔も大きい。又、泣く時は涙も超弩級であろう。それも魅力に違いない。

136名無しさん:2018/05/13(日) 12:12:31
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月10日  一回戦  「 少年よ さらば 」


風燃える緑の原に 九人の兵士は走る あどけなさのこる笑顔を 興奮に少しあからめて

のしかかるアルプスの高さ ゆれ動く人波の嵐 こだまする叫びの中で 若い兵士は身構える

ときめきは男をつくる おののきは男をみがく 少年のおさなさは消えて ほれぼれとする男になる


少年よ さらば さらば 今ここで さらば さらば 初めての戦場に 夏の日がまぶしくきらめく

少年よ さらば さらば 戦いが終わるころ 夏の日が斜めに傾く 勝つ人の涙の熱さ 敗れる人の涙の重さ

手ばなしの涙の味が はじめての甲子園 がんばれよ がんばれよ 勝ちのこる甲子園 

また来いよ また来いよ 背をむける甲子園



初陣のときめきとおののきは、人間の顔から無駄な表情をとり除く。ときめきとおののきだけがキラキラと輝くのだ。
人間はいつでもあのような興奮とおそれの交錯した緊張の中に身を置きたいと思うが、そうも行かない。
だからこそ、少年たちの熱戦に心をときめかすのであろう。

さて、第三日目は、初出場が四校も登場した。安積商、久慈高、明石南高、桜井高である。
過熱の甲子園ブームの中での初出場は、あらゆる意味での重圧がかかる。戦う相手が多すぎる。

だからぼくは、技術や勝敗に関係なく、今日をさかいに男に変わって行く少年の表情ばかりを見ていた。

137名無しさん:2018/05/19(土) 10:17:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月11日  一回戦  「 故郷は緑なりき 」


故郷はと問われ 語るべき何物も持たない青年が 今誇らしく 甲子園の便りを指さし あれがぼくの故郷だとおしゃべりになる

故郷によくある名前の選手が ブラウン管にアップになれば 遠い日の友に思えて 思わず声をかける

陽に焼けた小柄の選手の 黒々とした瞳の奥に 砂糖きび畑とさんご礁の 故郷の景色がひろがる


打てよ 走れよ 投げよ 捕れよ 白い歯を見せて笑えよ 勝てよ 残れよ 故郷の友よ 輝く陽の中で歌えよ

青年の故郷は遠く 思い出すこともわずか 季節さえ忘れて生きる日々の中で 胸おどる甲子園の季節


友は行き 友は去り 都会ではいつもひとり 紅い花髪に飾る乙女も 今は夢の中だけ

友が来る夏の甲子園 友が呼ぶ夏の甲子園 目を細め見つめるテレビには 故郷が呼ぶ 手招きする

ああ故郷は緑なりき ああ故郷は緑なりき



ぼくが知っている沖縄出身の青年の夏休みは、夏の甲子園へ沖縄代表校を応援に行くことである。
例年そうであるようで、赤嶺が活躍した豊見城高校の時には、随分長い休みになったと話していた。
早く敗れれば夏休みは早く終わり、勝ちつづければ、それだけ長くなる。

青年はその間故郷を満喫し、また都会へ戻ってくる。甲子園にはそういう思いいれがある。
特に沖縄と甲子園のつながりには、何らかの感慨がついてまわる。今年も拍手が多い。

138名無しさん:2018/05/19(土) 11:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月12日  一回戦  「 勝利の女神 」


白球はグラブをはじき 追いすがるこの身を避けて 砂けむりたてて遠ざかる はるか緑の草の上へ

どよめきがあたりをつつみ 波乱にゆれ動く空気 ただひとりとり残されたこの身を 友の手がやさしく叩く


痛恨のエラーのかげで 入れかわる女神の位置を 痛い程心に感じ あふれ出る涙をぬぐう

何故にこのぼくが選ばれ 何故に晴れの日につまずく 泣くなと友がいう 打って返せとなぐさめる

唇を噛んでうなずくこの僕に 次の打席がまわる さあ 背を向けた白い女神よ このぼくの腕に戻れよ


雨の日も 風の日も 春 夏 秋 冬 君のために鍛えてきた 勝利の女神よ きけよ

このぼくの祈りを きけよ 汚れたままのユニホームは 君のための目じるしだ



試合であるから、大殊勲もあれば、大失策もある。大殊勲での勝負の結着は素直に拍手で讃えられるし、
敗れた方にもなぐさめようがある。しかし、大失策で全てが決まってしまったりすると、本人以上に胸が痛んでしまうのだ。

ヴィデオテープではその場面を再現できても、現実に、もう一度ということはあり得ない。
たった一球の処理をあやまったために、何もかもが崩壊してしまうのはあまりにもむごい。

しかし、それも仕方がないことである。過去にも何百人もの選手が、その場の、その役まわりに選ばれ、
そして、後の人生で女神を抱きしめるために立ち上がったのだ。

139名無しさん:2018/05/19(土) 12:21:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月13日   二回戦  「 ライバルへ 」


あの日 ぼくは 君に負けた 晴れの切符は君が握った 傾いた夏の日に長い影をひく

勝者の影は赤く燃え 敗者の影は青くゆれ 君は歌い 僕は泣いた 


手を出せば握り返す君の大きな手 がんばってくれと声をかければ 君はいつもより大きく見えて

まかしてくれと肩を叩いた ライバルはパレードの中を去って 紙吹雪舞う中でVの字を描く


梅雨があけ 勝者は甲子園 蝉時雨降る中を 敗者はグラウンドで あの日 ぼくは 君に負けた

晴れの切符は君が握った もしかしたら そのマウンドにぼくが立ち 白いボールを掌でこねながら

真夏を切り裂くサイレンを 待っていたかもしれない もしかしたら もしかしたら

しかし ぼくは 君に負けた 晴れのマウンドに君がいる



たまたま神奈川県決勝の横浜商、横浜高の一戦をテレビで見た。
宮城、愛甲という評判高い選手の対決で見応えがあったが、勝敗が決した瞬間の両者の姿は忘れられない。

愛甲は、どこまでも自らの矜持を捨てずに泣き、
宮城は、腹の底から湧き起こってくる歓喜に何度も跳躍した。実に印象的な光景だった。

甲子園には四十九校しか登場しない。しかし、参加した3170校のことも忘れないでおきたいと思う。
宮城、愛甲といったライバルは、どこの県、どこ地区にも存在したと思うし、それによって、甲子園をなお熱くしている。

140名無しさん:2018/05/20(日) 10:20:07
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月14日  二回戦  「 同じ高校生じゃないか 」


同じ高校生じゃないか 恐れることはない 獅子と兎ほどの差があるわけじゃなし 同じ高校生じゃないか

兎が獅子を食うことは不可能でも ぼくらが彼らを食うのは不可能じゃない

おそれを捨てることだ おびえをなくすことだ 彼らをまぶしく見ないことだ 同じ高校生じゃないか


一発で一点がとれないなら 三発打てばいい 歓呼でダイヤモンドは一周しなくても 熱い塊でかけ巡ればいい

うなりを上げる速球がないなら 一球も無駄に投げなければいい 華麗にふるまえなければ 堅実であればいい

一人の顔はクローズアップされないが 九人の集団が印象に残ればいい 同じ高校生じゃないか


恐れることはない 獅子と兎ほどの差があるわけじゃなし 同じ高校生じゃないか

勝利はぼくらに微笑まず 敗者となって甲子園を去るけれど 激闘の記憶は 青春の日を飾るにふさわしい

ぼくらは一度もおそれなかった ぼくらは一度もおそれなかった



一口に高校野球といっても、チームの印象は随分と違う。
野球の才能にあふれたスタープレーヤーをそろえた学校もあれば、クラブ活動そのものという学校もある。

すぐに野球は人生のすべてと決意している選手もあれば、青年の一時期を燃焼させるものととらえてる選手もある。
どちらがいいともいえない。どちらも高校野球である。高校野球を強調するあまり、才能を軽視することは許されない。

しかし、明らかに素質の違いが見受けられる学校が、健闘する姿が美しい。
その気持ちを詩にしている時、初陣の富士高校が、名門高知高に延長十五回サヨナラ負けを喫した。
あっぱれな健闘ぶりだった。

141名無しさん:2018/05/20(日) 11:12:06
「 甲子園の詩   ( 阿久悠 )  」

1979年8月15日  二回戦  「 八月十五日の青春 」


戦争を知らない子供たちから さらに十年が過ぎて あの八月十五日は 既に歴史の中の点になってしまった

今 若者は甲子園に集い 紺碧の下で しばしの黙禱を捧げる 四半世紀前 この日本が焦土と化し

多くの人々が死に そして 飢え 前途に希望もなく ただ呆然と歩みはじめた歴史を 若者は知らない


甲子園の大会にも暗雲がたちこめ 幻の大会を一回含み 時代の淵にうずもれたことを 若者は知らない

有名無名の球児たちが ボールを捨て バットを捨て 海に 野に 空に 若い命を散らせたことを 若者は知らない


そして 時ゆき 時過ぎて 1979年8月15日 八月十五日の青春は 灼熱の陽に飾られた平和の青春

のびやかな肢体で打ち出す球音は 青空にこだまする鐘の音 舞い踊る白球は 青空を乱舞する鳩の姿

若者よ 野球の出来る時代はいい 若者よ 野球の出来る時代はいい 



今年甲子園に集まっている選手たちは、昭和三十年代の後半に生まれた少年たちである。
従って、昭和二十年の八月十五日は遠い遠い歴史の中の一日と思うことも無理はない。

その日が来たからといって、特別な感慨を抱くなどということは勿論ないだろうが、
当然のように満喫している平和が、決して当然ではないということは知るべきだろう。

平和は常に綱渡りで、目を放すとたちまちに落下するものなのだ。
しかし平和はいい。日本人の体がのびやかに美しくなっただけでもいい。

142名無しさん:2018/05/26(土) 11:01:06
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月16日  二回戦  「 敗れても誇らしく 」 


敗れて悔いなしなんて 美しく着飾った慰めに過ぎない 敗れれば悔いはある 悔いはなくてもくやしさはある

善戦であればあるほど 熱戦であればあるほど 健闘であればあるほど 敗れて後の 悔いやくやしさは大きいものだ

そうでしょう もう少しで勝てそうだったのだから 一度は掌中にあった勝利が 翼がはえたようにとんで行った


それは疾風にさらわれた紙のように軽く 湿度を含んだ球場の空に消えた 力をそそいでも 声をからしても

ひきとめられない軽やかさで ふわりと舞い そして 遠い視界へ吸いこまれて行ったのだ

ぼくらはがんばった がんばったから勝ちたかった もう少しだった もう少しで勝利の歌が歌えたのだ


サイレンが鳴った 僕らの野球は終った 敗れた悔いは残るけれど ぼくらは誇らしく故郷へ帰る

そうでしょう 悔いと誇りは違うものだから 長く そして 短い ぼくらの甲子園は終った



明野高が敗れた。学校創設三年目にして甲子園出場を果たした話題の学校も姿を消し、
これで、今年の初出場校はすべて甲子園を去ったことになる。

明野高は、茨城県決勝の時から見ていたが、まさに町の奇跡という感じの代表決定で感動的だった。
人々が、極く身近なところでこのような興奮や、奇跡を願う気持ちを抱ける機会はめったにない。

明野町の人々が胸を熱くしてナインをみつめるのも当然であろう。
二回戦は敗れはしたが、確かに、明野という小さな町は動いたのだ。

143名無しさん:2018/05/26(土) 11:38:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月17日  三回戦  「 あと一人 」 


あと一人 あと一人 あと一人で勝利はぼくらのものになる あと一人 あと一人 あと一人で長い長い戦いが終わる

ボールよ お前にはわかるだろう 握りしめているこの指のおののきが 語りかけているこの唇のたかぶりが

出来るなら 今 ぼくは この時 ぼく自身がボールとなって あと一人の強敵に対したい


あと一人 あと一人 あと一人で勝利はぼくらのものになる あと一人 あと一人 あと一人で長い長い戦いが終わる

ボールよ お前にはわかるだろう こんなに一生懸命に 心をこめて投げるこのぼくが 負けるわけがない


あれほどに鍛えて来たこのぼくが 打たれるわけがない スコアボードは最終回を残すだけ 赤いランプが二つついて

塁上には誰もいない 総立ちの応援席は勝利を信じ ベンチはいつでもとび出せる体制だ ボールよ さあ行くぞ

ぼくの指の言葉をきいてくれ ボールよ さあ行くぞ あと一人に ぼくのものになってくれ あと一人 あと一人 あと一人で・・・



一夜明けても甲子園は、昨日の箕島ー星稜熱闘の余韻が残っているようだった。
そのためか、いささか気合ぬけした感じがしないでもない。

高知ー都城戦、浪商ー広島商戦共に好カードで、白熱の試合が期待されたが、
信じられない大差がついてしまった。

それにしても、今大会、箕島ー星稜戦をはじめとして、浪商ー上尾戦、高知ー富士戦等々
あと一人から試合の展開が変わるという劇的な場面が印象に残る。

劇的は片側から見れば悲劇的になる。劇的展開に至らず、劇的の時点をとめてしまいたい気持ちがする。

144名無しさん:2018/05/26(土) 12:18:01
「 甲子園の詩 ( 阿久悠 ) 」

1979年8月18日  三回戦  「 甲子園の砂 」 


うずくまり 無心に砂をかき集めて 十五人の少年は影になる 夏が傾き 秋がしのび寄る甲子園で 

十五の影は砂になる 少年達の青春が砂になっているから 甲子園の砂はなくならない 

言葉でいいつくせない思いが そこに残されているから


少年たちの人生で 確かに一つが終った 一つの終りと始まりの儀式に 少年たちは砂を持って行く

ある者は瓶に詰め話し相手とし ある者は皮袋に入れ母親にあずけ ある者は植木鉢で木を育て

ある者は青春の記念に愛する人に渡す ある者は母校のグランドにふりまき

そして ある者は帰りの船や汽車から 校歌を歌いながら捨てるかもしれない 


それでもいい 君らには永遠に甲子園の砂がある

あの日の砂はどこへ行った あの日の砂は胸の奥 暑さののこる砂の上に 流した涙忘れない


一つの青春が終るときを 激しく照らす夏の日は 体を焼いて胸を焼いて 涙も汗も焼きつくす 

あれから時は過ぎて行き あの日は遠くなったけど 心の隅でサラサラと いつでも響く砂の音



四十九校、昨年優勝のPL学園を入れて五十校が堂々の行進をしたのは、つい何日か前である。
それが、今日を終って、たったの八校が残るだけになってしまった。

四十一校の選手615名が、それぞれの思い出甲子園の砂をかき集め、球場を去って行ったのである。
それにしても、最も多感な時代に、多感の代表として砂を手にすることの出来る少年たちをうらやましく思う。
これからの人生を勇気づける記念碑を自らの手でうち建てたことになるのだから・・・。

しかし、形こそ違え誰にでも甲子園の砂はある筈である。
拍手と喝采こそなかったが、このぼくにも残された砂はある。

145名無しさん:2018/05/27(日) 10:20:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月16日の回想  「 最高試合 」


君らの熱闘の翌日から 甲子園の季節は秋になった 東南の海を駆ける台風が 思わず走りをとめてのぞくほど

試合は熱く長く激しく 翌日の空は 熱気をはらんでいるものの高く澄み もう秋だった


それにしても君らが示したあの力は 一体何だったのだろうか 奇跡とよぶのはたやすい だが 奇跡は一度であって

二度起これば奇跡ではない 言葉がない 言葉で示そうとするのがもどかしい 一言でいいつくす言葉の奇跡が

ぼくにはほしい 勝利は何度も背を向けた 背を向けた勝利を振り向かせた快音が 一度 そして 二度起こったのだ


誰が予測出来るだろう 祈ることはあっても 願うことはあっても 予測出来るはずがない ましてや 確信など誰にあろうか

熱く長い夏の夜 人々の胸に不可能がないことを教え 君らは勝った 球史にのこる名試合は 箕島・星稜

時は昭和五十四年八月十六日 君らの熱闘の翌日から 甲子園の季節は秋になった



若いというのはうらやましい。延長十八回の熱戦、おそらく精神も肉体も極限に達したであろうに、二日も休むと回復してしまう。
生きものの勢いというものを見せられたようで感動してしまうのだ。
生きものにとって若いという評価が何よりも勝るということを、知らされたようで、ぼくらはくやしくもある。

あの箕島が登場、そして勝った。その時、星稜の選手はどこで何をしているのだろうかと思った。
そして、まだ、脳裏に残っている名試合を賛歌として書き残したいと思った。
興奮に、三日目になってもなおさめない興奮に胸を熱くしながら、ぼくはこの詩に「最高試合」という題をつけたのだ。

146名無しさん:2018/05/27(日) 11:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月20日  準決勝  「 野生の子よ また逢おう 」


グラウンドを去るうしろ姿の 君は頭ひとつ大きい 心持ち背を丸めて 君は歩を運ぶ

グラウンドをわかせた野生の子よ 来年ここで また逢おう 君の雄姿が再び見られる日を

誰もが心から待っている その時 君は 今より大きく 今より力強く 今より荒々しくあってほしい


鋳型にはめられた大きい少年ではなく 野生のまま帰って来てほしい 野生の子よ 野生のままあれ

獣の本能と息づかいを失うな 軽やかな都会の風に染まるな 要領よく戦うことを覚えるな

追うも 逃げるも 襲うも 防ぐも 敏捷な本能の命ずるまま 懸命に吠えろ 駈けろ とびかかれ


野生の子よ うなりを上げる速球を投げろ つむじ風がまき起こり 地響きがする速球を投げこめ 

技巧に野生をそがれるな  牙をぬかれて微笑むな 大きい 大きい野生の子よ また逢おう 

さらに大きくなって帰って来てくれ  戦慄させる力を備えて帰って来てくれ



ぼくらは常に見果てぬ夢を見つづける。それは弱小チームが総力戦で強敵を打ち破る逆転の奇跡や、
信じられない力を発揮する驚異や、また、超人、英雄の待望や、さまざまな夢を見つづけている。

浪商香川や、横浜商宮城には、超人の超能力を思わず夢みてしまうのだ。
巨漢宮城に対しては、特に人並みはずれた力というものを期待して見た人が多いと思う。
そして、その意味では多少の落胆はあったかもしれない。

なにしろ、スーパーマンや、ヘラクレスの怪力を思い描いていたのだから。横浜商は甲子園を去る。
しかし、宮城にはまだ来年がある。その時こそ、力にあふれた投球を見せてほしい。
君なら出来る。もっと肉体を、もっと力を、もっと闘争本能を誇ってもいいのではないか。

147名無しさん:2018/05/27(日) 12:02:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1979年8月21日  決勝  「 謝夏祭 」


決勝戦は 華やかさでいろどられながらも どこか寂寥の影がつきまとう それは燃えに燃えた夏が 

今日を限りに去って行く 葬送の儀式でもあるからだ 山陰から雨雲が南下し 夜を思わせる黒雲におおわれて 


それでも甲子園は 命みじかい夏の狂宴に花と咲いた 頂点を目ざす球児は 息苦しい攻防に回を重さね 

栄光の門と悲嘆の門を 交互に幻想しながら 投げ そして 打った ホームランもあった エラーもあった 


灼熱の夏を 一気に奪い去るような雨が 今にも降り出しそうに見えながら 何物かが踏みとどまらせた

試合は終わった 勝者には余りある栄光が 敗者には敢闘の賛辞が与えられた 夏が終わった 本当に夏が終わった 


日本中の人々の胸の中から 熱い固まりが瞬時に消え 球場を去る人の テレビの前をはなれる人の 

肩にさびしげな秋が舞いおりた 幻覚に思えた季節が終わって 人々は日常のさめた檻に戻り また無口になってしまう



甲子園は箕島高校の春夏連覇という偉業で幕を閉じた。しかし、箕島の栄光にも、池田高校の敢闘にもふれたくない。
むしろ、ただひとつの勝者を決定しなければならない仕組を呪わしく思う程である。

とにかく、十四日間に集約した燃える夏が終わった。野球という形をかりた壮大な謝夏祭が終わったのだ。
夏が終われば季節が変わる。季節が変わればすべてが感傷の淵に沈む。球児たちよ。来年また熱くなろう。


1979年の出来事・・・米スリーマイル島原子力発電所事故。 サッチャー英首相、欧州初の女性元首。 
             朴韓国大統領暗殺。 東京サミット開催。 ソニーがウォークマン発売。


「 甲子園の詩 」は1979年から2006年の全国高校野球選手権大会の期間中、スポーツニッポン紙上に連載。
偉大なる阿久悠さんの凄い高校野球愛が伝わってきますね。 2007年8月1日、尿管癌のため逝去。
ラストとなった2006年の決勝まで書き込む予定。

148名無しさん:2018/05/27(日) 13:27:04
「 史上初の決勝引き分け  エースが泣くほどの緊張感 」

1969年 決勝   松山商 0―0 三沢  ( 延長18回 ) 


第51回大会(1969年)の決勝は、第100回を迎える大会史のなかでも屈指の名勝負だ。
主役の1人が、松山商のエース井上明。 明大を卒業後、朝日新聞社で長くスポーツ記者を務めた。
そんな井上が自賛するプレーが、4時間16分に及んだ戦いのなかにある。

「 この試合のなかで、自分で、『 あ、よくやったな 』と思うのがこのプレーなの 」
それは延長十五回裏、1死満塁とサヨナラ負けの大ピンチを背負っていた場面で出た。

相手9番にフルカウントからの6球目を打ち返された。体の右側を痛烈な打球が襲う。
井上はこの打球に飛びついた。かろうじてグラブに当て、打球は遊撃手の前へ。
本塁へ返球され、ぎりぎりでサヨナラの生還を阻んだ。

投球直後の投手による横っ跳びなど、なかなか見られるプレーではない。
まして、右投手は投げ終えた後、体が一塁側に流れるのが一般的だ。この打球が襲ったのは、その逆だ。

グラブに当たった打球が遊撃手の目の前へ転がった。
三塁走者のスタートが遅れた…幸運は重なったが、少なくともあのとき、
井上がダイビングキャッチを試みていなければ、この勝負は十五回で決着していた可能性が高い。

離れ業には、裏付けがある。「 投手というのは5人目の内野 」
自分の近くにきたら自分でアウトにする。それが近道 」。井上の持論だった。 

「 緊張状態のなかでも、あの打球に動けた。体に染みついていること、ボールに対する意欲、
そういうものを出せたのがあのプレーだった 」。
一時期、遊撃手に転向し、練習を積んでいたことも奏功した。

松山商は18回目の出場で当時、すでに全国制覇が3度。対する三沢は2回目の出場だった。
「 我々が三沢に負けるということは許されない。そういう気持ちがすごくあった 」と井上は明かす。

その三沢に土壇場に追い込まれていたのが十五回。中飛で3アウト目をとり、ベンチに戻った井上は泣く。
「 野球をやっていて怖いと思ったのは初めてだった。なんとか抑えて、
一色監督が『 よおーくやったよ 』と迎えてくれて、緊張がぐわっと緩んで、もう涙がでた 」。
それほどの緊張状態で戦っていた。

松山商は続く十六回の満塁のピンチも耐え、十八回、36個目のゼロがスコアボードに刻まれた。
ともに1人で投げ抜き、投球数は井上が232、太田が262だった。


翌日の再試合は選手層に勝る松山商が、左腕中村の好投もあり4―2で制した。
井上は1回3分の1を投げたのみで、試合終了の瞬間を右翼で迎えた。
「 2日やって、やっと終わった。うれし涙も全く出なかったし、あぁ、やっとこれで終わったな、と 」


「 3年生の時にああいう試合をして、その後も高校野球をずっと見られている。そんな人生、中々ないよね 」。
高校野球の引力圏から逃れられなかった36年の記者生活を、そんな風に振り返った。

(75年、朝日新聞社に入社。大阪本社運動部次長などを務め、2011年に定年)



15回裏もだけど、16回裏にも無死満塁でノースリーの大ピンチがあったような・・・。
とにかく延長からは三沢が押しに押して、松山商が懸命に凌いだ記憶がある。
松山商が執念で勝ち取った4度目の全国制覇でしたね。

149名無しさん:2018/06/02(土) 10:08:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月8日  一回戦  「 冷夏よ 燃えろ 」


地球の夏よ なぜ寒い 人の心よ なぜ寒い 冷夏よ 燃えろ 

ほら お前の大好きな球音が 肩すかしに合って 響きを忘れてしまうではないか 青空が欲しい 炎暑が欲しい

あの子たちの劇的なドラマを飾るには まぎれもない夏の 過酷なほどのまぶしさと暑さが欲しい 


また始まった またやって来た 何気なく ふるまいたい日常の中で 熱い心を発見する短い季節が 甲子園にやって来た 

冷夏よ 燃えろ せめて 球児たちの熱闘と 見守る人々の昂ぶりに似合うほどの いつものきらめきをとり戻せ

今日より明日 明日より明後日 一日一日と暑さとまぶしさを増し その二つが一つになって熱さとなり ほんものの夏になってくれ


ぼくらは それぞれの想いの中で 自らの心の中に眠る 熱狂 興奮 情熱 奇跡という きらびやかな死語との再会を願っているのだ 

1980年8月8日 午前10時 プレイボール けい浦高校本西投手第一球ストライク・・・



球場にまだ入場式の余韻が残っている間に、既にそこを去っていく学校がある。
大会第一試合の緊張についてはよく語られる。そして、当然のことに最後に残る学校についても語られる。
しかし、最初に去って行く学校については語られない。

他の学校の選手たちの体や脳裏に、まだ入場式の興奮が実感として渦巻いている時、
敗者の想いにひたらなければならないというのは、どういう想いだろうか。
初出場けい浦高校がそのたった一校に今年選ばれてしまった。
甲子園を一番最初に去っても、一番弱いわけではないのだ。それにしても、夏が欲しい。

150名無しさん:2018/06/02(土) 11:00:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月9日  一回戦  「 さもなくば一握の砂を 」


今日 勝利の報せを送る さもなくば 一握の砂を いずれにせよ ぼくの青春のまぶしい記録として

汗を流し 砂にまみれ 時に血と汗までもまじえて ぼくはここにやって来た 


何ものにも変え難たい日々が 音たてて過ぎて行き ぼくを小さな戦士として 甲子園へ押しやった 

甲子園のマウンドに立つ 立つからには憎まれたい 今 この場に立って さわやかだの 無欲だのといわれたくない

やはり ぼくは勝ちに来た 勝ちに来た 友よ 今は 勝利の報せを送る さもなくば一握の砂を 


いずれにせよ ぼくの青春のまぶしい記録として 甲子園は大きい 故郷の山の偉容より更に大きく 

高いところでふくれ上って 空をせばめるぼくはこの山に勝てるだろうか

友よ・・・  一握の砂を持って帰る ぼくよりももっと饒舌な砂を持って



二日目を終り、既に七人の敗戦投手が記録されたことになる。
それぞれのチーム十五人の中で、ただ一人敗戦の名を冠せられる投手という立場の少年が、
そこで手にするものは何だろうかと思ってしまうのである。他の十四人と違うのであろうか。

やはり、今年も敗れたチームは甲子園の砂を持って帰る。
これはもうここ何十年かの一つの習慣となり儀式となった。それはいい。
しかし、どうせなら、饒舌な、その日の全てをかたりつくしてくれるような砂を持って帰ってほしいと思う。

君らには、ドキュメントを心に刻むという長い一日があった。
敗戦投手という言葉の意味をいつの日にかその砂は語るだろう。何げない記念品であってはならない。
大差で敗れ去った日高高校の甲子園の去りぎわを見ながらそう思った。

151名無しさん:2018/06/02(土) 13:50:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月10日  一回戦  「 サヨナラは時間を停めた 」


その瞬間で全てを終らせ 突然の決着を着けてしまった

たった何秒かの壁を境にして 勝者と敗者に別れていた ぼくは一生忘れないだろう 


あの一球が 指をはなれる瞬間のおののきと その願いをたちきる金属バットの響きと

曇天に舞い上がった白球と くるりと背中を向けた外野手と 絶叫しながらホームに躍りこんだ走者と

そして 何ともいえない空白の虚脱感と


サヨナラは 何気ない挨拶の言葉で 時に甘く再会を夢見させたりするが

ぼくらのサヨナラには 甲子園のサヨナラには再会はない

サヨナラは結末であり 頁をくり終えた本のように 二度と開かれない 


運命のようにその瞬間で時を停め その場からぼくらを追い払う サヨナラ サヨナラ サヨナラ サヨナラ 

ぼくも今 何かに対して サヨナラをいわなければならない サヨナラ甲子園 サヨナラ青春 

また逢えないサヨナラを どよめきの中でつぶやく



劇的であるということは、一方に対しては残酷なことである。
それは突然訪れるから劇的であって、サヨナラゲームなどは、まさにその典型である。
昨日の旭川大ー日向学院の逆転サヨナラも、旭川大から見れば劇的であるが、日向から見れば残酷な結末であった。

そして、今日習志野ー倉吉北の一戦でも、互角と思えた勢いが、一瞬にして光と影ほどに別れてしまう光景を見た。
高校野球に於るサヨナラは、如何にも意味が深か過ぎる。試合自体のサヨナラ決着ということだけではなく、
一人々々に残酷なサヨナラを投げつけるような気がしてならないのだ。

152名無しさん:2018/06/02(土) 16:27:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月11日  一回戦  「 おそれを知らない子供たち 」


おそれを知らない子供たちが 百戦錬磨をしのぎ そして勝った 魔物といわれる巨大な庭も

彼らにとっては 快適な楽園だったのだろうか まるで緑したたる草の丘を 裸になってとびはねる天使のように

歓喜のさまを見せながら のびのびと戦った


悪魔のように冷静に 天使のように闊達に おそれを知らない子供たちは ここで初めて獅子となり 孔雀となり 

巨鯨となった 若いから 未熟だからと 危ぶんだ大人たちは 自らの常識の修正にとまどいながら

しかし 興奮と歓喜が 才能を孵化させることを知り 夢見るような思いになる


若いことは自由なことであり 未熟なことは可能なことであり だから 魔物の庭も沈黙するかと納得する

悪魔のように冷静に 天使のように闊達に おそれを知らない子供たちは 百戦錬磨をしのぎ そして勝った

ゲームセットのコールの時 初めて おそれを知る子供の顔になり 少年という緊張の美しさを見せた



一回戦の好取組と思われた早実ー北陽の一戦は、予想外のワンサイド・ゲームになってしまった。
早実勝利の原動力となったのは、一年生投手の荒木の好投、一年生の小沢二塁手の再三の好守、
そして二年生の小山、高橋のホームランであった。

高校野球は、若さの象徴として見られているが、さらにその中にも、もっと若い層があることを今日知った。
早実の一年、二年組がそれで、彼らを見ていると、多くのものを背負って自滅するという甲子園パターンは考えられない。
嫉妬さえ感じるほどである。

153名無しさん:2018/06/03(日) 10:38:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月12日  一回戦  「 夏がもどって来た 」


いつもより少しひかえめながら 鉄塔の彼方の入道雲や 六甲の遠山を彩る青空に 夏がもどって来た

球場は白さを増し まぶしさを増し 熱さを増し 激しさを増し そして 好試合があった


君らの姿に普通の少年の上限を見た 生まれながらのスターや 生まれながらの偉材ではなく

体の底にしみついた野球への愛情を ていねいに磨き上げた心と 懸命に駈けることが 

夏の太陽をもしのぐという美しさを見た 


夏はもどって来てよかったという 冷夏のいましめを解いてよかったという 

群像が群像として熱くなれるのは 甲子園に夏があるからだ 

浜松商 岡山理大付 追いつ追われつ 四対三 はでやかでなくとも人を酔わせた好試合


試合が終わり ホームベースをはさんで対い合う時 もしも許されるなら 彼らが整列の列をくずし 

たがいの手を取り 肩を叩き あるいは遠くから微笑みを送り 後にして思えば友情とよべるような 

心の昂りを示し合う時間を 健闘の二チームに与えてあげたかった 夏がもどった日 小さな好試合があった



ホームベースを中にして、一声挨拶の声を発した後の数秒、
選手たちの表情や体に微妙な衝動が起きているのがわかる。
それは、おそらく、寸前まで戦っていた相手に対する友情の突然の認識であろうと思う。

しかし、今の高校野球は、それを見守るロマンティシズムに欠けている。
敗者はすぐに追い払われ、勝者も儀式への参加を強要される。
せめて握手を、せめて微笑を、せめて一言を、と思うのはぼくだけではあるまい。
心の中に衝き上げて来た思いこそ大切にしたい。
今日も、浜松商ー岡山理大付の好試合のあと、そんな思いを抱きながら健闘の少年たちを見つめていたのである。



この頃は、まだ試合終了後の握手などなかったようですね。 
阿久悠さんがお認めになったのですから、好試合だったのでしょう。
残念ながら、私の記憶には残っていない。阿久悠さんの詩を拝借すると・・・
時間の経過とともに 薄れる宿命の 心の壁の小さな記憶を 色鮮やかに とどめてなかった。

154名無しさん:2018/06/03(日) 12:16:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月13日  二回戦  「 時よとまれ 女神よとまれ 」


時は速い ぼくらが思うよりずっと速く もう半分後姿を見せて ゴールに駈けこもうとしている

時よとまれ 女神よとまれ 今一度ぼくらに姿を見せてくれ 


このままでは終らせない だってそうじゃないか このままでは悔いだけが残る 

晴れの舞台のきらめきの中で ぼくらはいつものぼくらであり得たか 体の隅々まで鍛え上げた自信も 

心の隅々まで鍛え上げた誇りも  まだ何も出ていない このままでは終らせない


だってそうじゃないか ぼくらはぼくらの全てを見せるために この舞台に立ったのだから 

女神よ急ぎ足で駈けこむな 微笑んでくれとはいわない せめて 立ちどまれ いや 立ちどまらせてみせる


時は速い もう九回だ 二死だ 点差は三点ある 陽がまぶしい 土は熱い スタンドは雲海のように揺れ

甲子園は噴火口だ さあ まだ ぼくらであり得るぞ 安打 二塁打 二塁打 同点! 女神は立ちどまった

ぼくらがひきとめた 此処へ来てよかった やって来てよかった



前橋工対鳴門の一戦は、この一瞬で終わりにしたいと思う。
三点差を九回二死から追い上げた気力と執念に拍手を送ればそれでいい。
たまりにたまったエネルギーが、僅かな亀裂を見つけて噴出する様に溢れ、前橋工は、この1/3回に全てを出しきった。

エネルギーの回転の輪と、勝運の回転の輪が、必ずしも同じ円周を回るとは限らない。
延長12回、前橋工は不運なサヨナラ負けを喫したが、それについては書くまいと思う。
体の中に残高がないほどに戦えた幸運の方を思うべきだ。
敗戦の悔いより、エネルギーを出し残した悔いの方がずっと大きいからだ。

155名無しさん:2018/06/03(日) 15:25:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月14日  二回戦  「 愛しの甲子園 」


愛甲 その名は 愛しの甲子園か 君は帰って来た 

二年前のあどけない紅顔を たくましい男の顔に変えて 君は帰って来た 


よりしなやかに よりしたたかに 勝つための本能を身に備えて やわらかく  しなりながら 君は投げる

剛であろうとするはやりは消え  冷静に呼吸を合せながら  一瞬の隙に襲いかかる獣のしなやかさを

二年の間に身につけた 愛くるしい目の森の子鹿は  時を経て  サバンナの獅子となり 人々の目を見はらせる


もはや 手をさしのべて 可愛いとささやくことを許さない 熱風吹き荒ぶ道を 悠々歩く王者の心の気負いさえ

あたりに感じさせる そして その気負いが 奥深く形に現われないから尚のことだ


しかし 君にはまだ余裕がある 追いつめられ懸崖に立たされた時 それでも尚 しなやかに したたかに 

こわばりを見せずにいられるか それを見てみたい その時 君の顔はまた変わるに違いない


紅顔から男へ 男から王者へ 磨かれて変貌する瞬間を見てみたい

愛甲 その名は 愛しの甲子園か 君は帰って来た



横浜高の愛甲投手を見て、猫科の動物の成長の驚愕といったものを感じた。
子供の時の愛らしさは、猫も虎も獅子も同じであるが、青年期から後は、近寄り難い程の威厳と凄味を備えて来る。
愛らしいと思えた要素の全てが、闘争本能の未熟部分であったことがわかるのだ。

三年間で、これ程顔の印象が変った選手も珍しい。
アイドルの殻を脱ぎ、ヒーローに変貌しようとしている愛甲投手を見つめていた。

そして、何故か、またぼくの目の前で、アッというような変貌をとげるような気がしていた。
それを期待したい。 鍛えられた少年が集う甲子園には、そういう楽しみもある。

156名無しさん:2018/06/09(土) 10:22:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月15日  二回戦  「 北の勇者たち 」


夢は大きい方がいい しかし 大それた夢は どこか空虚でもろく 力に欠ける 

大それた夢をふりかざして来ても 圧迫にはならない 

それより ひたむきな思いの結集というのが 実は一番破壊的で恐ろしい


北の勇者たちは ただ一戦に勝ちたい思いを爆発させ 奇跡の道を拓いた 

あの第一戦の決勝の砂けむりの中に  自らの手で切り拓いた道を見て 

第二戦でも同様に 苦境を一気に勝利につなげた


もしかしたら 君たちは  この甲子園で学んだのかもしれない 

不可能な怠け者の結論であることを 勝利に対して怠けない者には 可能の夢がきらめくことを 

そして それは 一つの誠意でもあることを 北の勇者たちは 遠来の客へのもてなしの言葉ではなく

ほんものの勇者として駈けめぐり 今 心から拍手を受ける 


そして 短い夏の故郷へ 熱い便りを送りつづけているのだ 逆転の奇跡は二度微笑んだ 

ひたむきな思いが二度通じた 三度目も 大それた夢になることなく 思いの結集であってほしい



高校野球では先制点が絶対で、逆転勝ちというのは少ない。その逆転を一戦、二戦と演じた旭川大高に注目したい。
監督は一戦にひきつづき、この日も「信じられません」と正直な思いを話していた。

圧倒的戦力を誇る学校が、その実力を見せつけながら勝ち進むのも見ものだが、甲子園へ来て何かを発見し、
それによって学び、思いもかけない力を発揮して行く学校も、それ以上に楽しみである。旭川大高にはそれを感じる。  
事例として夏はそれ程でもないが、春の選抜の優勝校にはこの型の学校が多いのである。

さて、今年もまた終戦記念日がやって来て、甲子園でも試合を中断して黙禱がささげられたが、
やはりまぶしい八月十五日だった。 この日が何であるのか、大人たちのメッセージが足りないような気もした。

157名無しさん:2018/06/09(土) 11:16:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月16日  二回戦  「 早過ぎた決勝戦 」


この日 甲子園に人があふれたという 熱狂的な人はその場を去らず 蔦のからまる球場をとり巻き

球音と歓声に胸をときめかせたという 思いがけなく早々にやって来た対決に 人々は我を忘れたのかもしれない

それは 早過ぎた決勝戦といえた 春の覇者が黒潮の町からやって来た  去年の覇者が蜜柑の里からやって来た


ともに 春夏と二年連続の 大きな野望と期待を背負い それでも 尚 それらに押しつぶされることなく勝って

堂々と甲子園の土を踏んだ そして 今日対決する 高知商には まだ肌寒い春の甲子園を 誰よりも熱くした鮮烈な記憶があり

箕島には 度重なる奇跡を起してみせた 昨夏の戦慄する記憶がある 縁はなくても ゆかりはなくても 故郷は違っても 

白球を愛する人間には それだけで興奮を誘われる 


試合開始を待たずして 人の興奮と緊張を伝える無声音が うなり声のように甲子園をつつみ 早過ぎた決勝戦に魅せられた

戦いが終り 意外な静けさが球場に満ち 春の覇者が普通の少年になって 去って行った

称える言葉と送る言葉は 多分同じものだろう



高校野球であるから、好カードという騒ぎ方は違っているのかもしれない。
しかし、そうはいっても、それぞれの学校に描いているイメージというものがあり、そのイメージの鮮烈な学校の対決となると、
建前はともかくとしてときめく。

箕島と高知商は、二回戦の抽せんの場で悲鳴に近いどよめきが起った程で、
早過ぎた決勝戦といういい方も間違いではないだろう。 試合は意外な大差となったが、これは力の差ではない。

サイレンが鳴りやまぬうちに第一球を叩いた児島の安打が、流れという魔ものを変えた気がする。
高知商に少々の気負いが感じられ、箕島にやわらかな心が感じられた。やわらかな心の強さを今年も箕島は知っている。

158名無しさん:2018/06/09(土) 15:02:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月17日  三回戦  「 さらば好投手 」


さらば 好投手 夏の風景の中の忘れもの 幻のようにあいまいで そのくせ 時として鮮明によみがえる雄姿

勝運に恵まれず敗れても 夏に躍った君たちの技と力と それに見とれた憧憬にも似た思いは

永く忘れないだろう さらば 好投手 また逢おう さらば 好投手 また逢おう


その日 その時 純白のユニホームの背に 背番号1を光らせ 大観衆を陶然とさせた歴史は 敗退の苦渋を超える

君たちは注目されたのだ 注目される人生の幸福を その日 その時 味わったのだ


のびやかな肉体は壮大な詩に勝り 磨かれた技は精緻な絵に勝り 動じない心は朗々の曲に勝る

君たちは その全てを出しつくし 充分に人を酔わせ満足させた しかし まだ上がある まだ果てしない上がある


もしも いつか 別の場所で 君を投手として見かけるなら この日描いた讃歌が 夏の日のまぼろしでなかったと

思わせてほしい さらば 好投手 甲子園が実に似合った大きな少年たちよ



好投手の思い出、という特別の感情が甲子園にはある。それは、観る人間の網膜の中で最も躍った少年ということであろうか。
大会経過や、学校に関する記憶は薄れても、好投手の名前とフォームだけは、遠い夏の日の懐かしい景色のように浮かんで来る
それに好投手というのはどこか不運で、学校そのものは敗退することが多い。

滝川が敗れ、実に力感あふれるピッチングをした石本という好投手が甲子園から姿を消すことになった。
松商学園の川村、田川の村田、鳴門の島田、高知商の中西、それに滝川の石本、大会一の速球投手、秋田商の高山。
既に姿を消した好投手たちに、さらばと語りかけ、何年か先の素晴らしい思い出としてよみがえることを期待したい。

159名無しさん:2018/06/10(日) 11:53:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月18日  三回戦  「 甲子園は大きな父だった 」


今 思えば 甲子園は 大きな父親だった 失われた家族の神話が 唯一残された 巨大な父親だった

決してやさしくはなかった 時には冷酷ですらあった 甘い思いや 淡い期待は 無残に打ち砕く非情さを持ち


そして いつも 前に立ちはだかる壁だった 幾度かそれに挑み その都度踏みにじられ

半ば傷ついた青春という形で 彼の甲子園はあった 春 夏 春 四季のめぐりの中で不動の甲子園は 

ただ一度も微笑むことなく 彼を見下し たった一つのやさしさといえば 常に拒むことなく 受け入れてくれることだった


そして 最後の夏が来た ようやくにして甲子園と話が出来た 巨大な胸にぶつかり 存在を示すことが出来た 

そう 今 思えば 甲子園は 彼にとって 大きな父親だった 素晴しい男をつくるための 妥協のない 巨大な父親だった



今大会で、数多くのスター選手とは別の意味で注目を集めたのは、東北の中条投手だった。
過去三回の甲子園は、勲章どころか大きな傷になるのではないかと、他人でも心配になるくらいの成績であったが、
見事にその汚名を返上したのだ。

けい浦、習志野と連続完封した中条には、春の大会での不安げな表情はかけらも見えなかった。
本人の努力もさることながら、彼に四度目のチャンスを与えた監督の姿勢と、
それを盛り上げた僚友にさわやかなものを感じるのである。

東北は、今日、浜松商の巧技にペースを乱され敗れはしたが、中条投手にとって甲子園は何であったかと考える時、
はじめて意味あるものであったという思いになり、ホッとしたのである。
君は、見事な父親に、男になったな、とほめられたのだ。

160名無しさん:2018/06/10(日) 13:01:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月19日  準々決勝  「 ふたたび吹けよ 熱い風 」


その昔 大きな拍手で迎えられた ただ登場するだけで 

人々はたっぷり思いをこめた拍手を 彼らの代表に送った


しかし 常に彼らの代表が手にしたものは 敢闘であり 殊勲ではなかった それが甲子園での歴史だった

甲子園の砂が劇的に見えたのも 彼らの代表が手にしたからだった そこにも たっぷりと思いをこめた拍手があった 

そして 時は流れ 日は移り 彼らの代表へのそういう思いの拍手は だんだん減って行った


人々の心が冷めたのではなく 人々の心が感傷的でなくなったのだ すばらしい甲子園の変身だ 

もはや 大きな拍手はない なぜなら 彼らは強かったからだ


敬意は脅威にも変り 時に 憎悪の目で見ることも 出来るようになった 

甲子園を誰よりも荒々しく駈け巡り 誰よりも奔放にふるまったのも君たちだ 

野性元年 まぎれもなく沖縄の新しい野球が 君たちから始まった ふたたび吹けよ 南の野性の風よふけ



勝つためのチームを形成するために鍛えられたチームというのはたくさんあった。
しかし、肉体そのものを鍛え野性をも研ぎすましたというチームが少ないのがさびしい。
よくいえば都会的で洗練されているということであろうが、どこかひ弱で、若さとか、
肉体に対する憧憬には至らない。

そんな中にあって、沖縄の興南にだけは、それらが感じられて楽しみだった。
そして、沖縄代表の学校が、遂に甲子園において、特別の招待客でなくなったことに、
何ともいえないさわやかさを感じたのだ。
興南は、ベスト4進出はならなかったが、「 ふたたび吹けよ 熱い風 」そういう期待を充分に抱かせた。



1990年と91年の夏、沖縄水産が2年連続準優勝。 99年と2008年には沖縄尚学が春を制覇。
そして、興南が2010年に春夏連覇。
沖縄県勢の偉業が、すでに阿久悠さんには見えていたようですね。

161名無しさん:2018/06/16(土) 10:25:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月20日  準決勝  「 逃げるなよ蜃気楼 」


雨煙の彼方に 栄光の蜃気楼が見えた それは今までの夢と違って もっと確かな存在として

ぼくらの前に浮かんだ 栄光まで後一つ やっと此処までやって来たのだ


祈りや願いの対象としてではなく 少くとも半分の確率のところまで ぼくらは駈けのぼって来た

いわば青春の総決算が 後一試合でつけられる その幸運を今つかんだのだ


幸運は吝嗇で 決して気前よくふるまってくれなかった 幸運に出会うためには 待つことは許されない

常に幸運より早く駈けて 巡り合いをつくらなければならないのだ 勝敗は気まぐれで

勝利の予感に対して いつもさからう 努力は怠惰で ぼくらの努力を見落とそうとする


青春の過酷で 時代とひきかえでなければ 充足をくれない それらの数多くのものとの闘いに

一つ一つ勝って 今ぼくらは後一歩というところに来た 雨煙の彼方に 栄光の蜃気楼が見えた

逃げるなよ蜃気楼 消えるなよ蜃気楼  雨が降っている 雨が降っている まだ闘う相手がきまらない



二桁の背番号にはドラマがある。野球というのはよく出来ていて、二桁になると一応補欠ということになる。
従って、この二桁の背番号の選手が重大な場面に登場して来ると、特別なことが持ち上がったような期待を感じる。
未知の力、いわば秘密兵器のようなドラマ性を感じさせるのだ。

天理が起用した小山投手がそれで、彼は期待に応えて力投し、危うくとんでもないヒーローの登場になるところだった。
雨中の一戦は、雨と泥濘が微妙に作用した試合であったが、横浜が地力にものをいわせて逆転した。
但し、第二試合が中止になったため、相手がまだきまらない。

162名無しさん:2018/06/16(土) 11:20:59
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月21日  準決勝  「 甲子園は燃えている 」


この日晴れるか この日燃えるか 甲子園の夏よ 最後の昂揚のために せいいっぱい晴れてくれ

せいいっぱい晴れてくれ  東から来た少年たちに 甲子園を独占されたからといって 西の空が暗く沈むことはあるまい

甲子園の夏よ ありあまる日ざしと熱で飾って この天晴れな少年たちの 偉大な舞台となってくれ 


1980年 夏の甲子園  決勝戦は 横浜高校と早稲田実業 3267校の頂点に立ち 歴史に刻まれるのは

横浜か 早実か 熱い顔合せが 大人たちをも含めてときめきを誘う 列島は早くも秋の気配を見せ 

どこか淋しげな色につつまれても ここだけには日がさして 熱風の渦が巻くだろう


人々は息をつめ 声をからして あるいは身をのり出して 少年たちの激突を見守るだろう

その時 誰もが少年たちと同じ若い獣になり グラウンドの詩人になっている


旗は一つ 栄光は一つ 勝者があれば 敗者がある だけどともに全てを出しきり 忘れものだけはしないで欲しい

甲子園は燃えている  甲子園は燃えている



決勝戦は横浜、早実という話題性にもこと欠かない両校の対決ということになった。
京浜対決ということで首都圏の熱狂はいうまでもないが、それだけではなく全国の人が注目するであろう魅力が、
この両校には備わっている。夏を一気に秋に変えてしまう甲子園の決勝戦としては、またとない対決かもしれない。

それにしても、早稲田実業に敗れた瀬田工業の健闘を称えたいと思う。
誰がここまでの奮闘を予測しただろうか。まさに「 ミラクル瀬田 」といっていい進出であった。
甲子園は、奇跡願望が集まるところである。そういった意味で最大のミラクルであったと思う。

163名無しさん:2018/06/16(土) 16:11:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1980年8月22日  決勝  「 いつか ある日 」


いつか ある日 時をこえて 君に出会うことがあったなら あの目の色のきらめきに 心がすくんだと打ち明けたい 

急ぎ足で過ぎる夏が 君の上でしばしとどまって 見つめるほどのはげしさに 体がふるえたと打ち明けたい


曇り空まで紅く染め そぼ降る小雨を乾かして 一つの夢をあらそった 日本の夏の甲子園 

さよなら さよなら 好敵手 君とつくった青春よ 心に深くやきついて 逢いたくなる日が来るだろう


いつか ある日 夏の中で 君の顔を思い出したなら 誇りに満ちた一日を 心の勲章に出来るだろう

ぼくは勝って 君は敗れ 長い長い熱い一日が 終ったあとの微笑みと 涙のきらめきは色あせない


今日はとばない赤とんぼ 入道雲さえ浮かばない 舞台は燃える想いだけ 日本の夏の甲子園

さよなら さよなら 好敵手 君とつくった青春よ 心に深くやきついて 逢いたくなる日が来るだろう



愛甲、荒木大、ともにマウンドを降り、川戸、芳賀が投げ合うという意外な展開となったが、それはそれで感動的だった。
スーパーヒーローのかげにかくれていた川戸と、一年生にマウンドをゆずっていた背番号1の芳賀に、
この最後の大舞台で機会が巡って来たという神のはからいに、むしろ胸が熱くなる。

チャンスというのは誠実で、公平で、しかも、粋なものだと知っただけでも、今日の一戦の意義は大きい。
冷夏は、ついに激しく燃えることなく、秋という感傷の季節にすべりこもうとしているが、
この十五日間甲子園はやはり熱かった。それにしても、このような一日を経験出来た少年たちは、何と幸福だろう。


1980年の出来事・・・レークプラシッド冬季五輪、 大平首相急死、 記録的冷夏、

           王貞治選手引退(最多本塁打記録868本)、 ジョン・レノン射殺

164名無しさん:2018/06/17(日) 10:15:03
「 元ソフトバンク捕手・田上氏が監督就任  母校の大産大付高 」


ベストナインにも輝いた田上秀則氏(38歳)が、2月1日付で野球部監督に就任した。

「 高校野球の指導をしたかった 」と現役引退後の2016年、学生野球の指導資格を回復。
05年の選抜大会以降、甲子園出場から遠ざかり、低迷する母校の再建へ、
OBの田上氏に白羽の矢が立った。

資格回復制度の導入後では、大阪府で初のNPB経験者の監督。
「 今すぐ甲子園というのはなかなか難しい。3年、4年、5年と、徐々に強くしていかないと 」。

中日を自由契約になりながら、ソフトバンクで正捕手をつかんだ苦労人。すぐに結果は出ない。
それでも努力を積み重ねれば、いつか、必ず報われることを、ホークスで体感してきた。
「 僕自身も日々、勉強です 」。


教員ではない田上監督は、練習が休養日の月曜日に学校へ出向く。 部員58人。
その一人一人の性格や実力を把握するために、部員が授業を受けている教室を視察する。
担任教諭にも普段の生活や授業での態度を確かめる。

「 人として成長させないといけない。プロだったら、野球がうまいだけでいける。
でも、彼らは高校生。ただうまいからメンバーにいるのじゃない。野球だけさせていたらいいんじゃない。
それを絶対に忘れてはいけない 」。
技術だけでなく、野球に取り組むための普段からの心構えも、伝えていこうとしている。



申し分ない新監督です。 プロのスタッフにも、なかなかいないような人。
蛇足ですが、本来なら球場内にいるべき時間帯に、盗撮で逮捕された阪神のスタッフとは雲泥の差。
情けないことこの上なし、捕まって良かった。年貢の納め時だったのでしょう。
こんな奴と比べては田上さんに失礼でしたね。

さて、大産大付は大阪桐蔭や、履正社など全国トップクラスの強豪がひしめく地区。
「 巨漢スカウト 」にひと泡吹かすようなチームを作ってほしいものです。

165名無しさん:2018/06/17(日) 11:25:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月8日  開会式  「 大いなる序曲 」


なぜと問うなかれ それぞれが それぞれの神話と再会するのに なぜが必要なわけがない

甲子園は鏡であり 人々は同じに見えて全く違う 心が汗をかく祭典を見ている


一億人の祭りに見える人は悲しく 一人の祭りが一億行われている と 思える人は豊かだ 

だから なぜと問うなかれ


今 大いなる序曲のたかぶりに まぎれもない夏の訪れを感じ そう たとえ その時寒くても

陽はかげりを見せていても この序曲が鳴り響けば 真っ赤な陽炎がゆらめき 

稲妻の虹がかけぬける暑い夏なのだ ぼくらは そう感じるスクリーンをもっている


少年たちの行進に 山脈とも波濤とも思えるスタンドは 白くゆらめいて 真夏の復活祭の幕は開かれた

これから二週間 いまわしい倦怠や 奢れる道化は姿をかくす それが日本の夏なのだ


グラウンドを踏みしめる獅子の子たちよ 遠い道のりを駆けて来た子供たちよ 

熱い視線と たえまないどよめきの中で きみたちは何を思う  栄冠は一つでも 誇りは一つではない 


たとえば もし きみたちがこれを感じるなら そう 甲子園の涙は目から流れない

甲子園の涙は すべてを出しきった体が 虚脱と同時に流してくれる という事を知ったなら 大いなる夏なのだ



ぎらつく太陽にはめぐまれず、第一試合からあいにくの雨になってしまった。
しかし、それが想いを薄めてしまうものでもない。
巡礼の歩みはとまらず、神話に向かって歩き続けているというのが実情だろう。

スターがいないといわれる大会ほど嬌声をうわまわるドラマが出現する。
そして、感動のドラマは、すべてを納得させ得る力を持っていると信じている。

166名無しさん:2018/06/23(土) 10:35:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月9日  一回戦  「 突然の主役 」


試合はときめく 一進一退ならなおさらのことだ 勝負はスリリングだ 決着の瞬間には非情な答を出す

一点一点が いたずら好きの女神のように 公平に入って行く そして 延長戦 それが試合で それが勝負だ

だが それだけではない 他のことにも心は惹かれる たとえば 一人の人間に 思いがけない好機が舞いこむ


そして 同時に 恐ろしいほどの試練を強いる瞬間を 魅せられたとしたなら ときめきも スリルも

人生にままある ドラマの縮図として 見たような気がする 好機は 晴れがましい主役への扉であり

同時に壁でもある 微笑と落胆の真中に 好機という使者は立っている


突然主役の座に立たされた少年には おそらく そのような想いはなかったであろう ただ一球を打ち 

ただ一球を捕るということ いや 幻想に近かった甲子園の主役の座に 純粋な身ぶるいと高揚を

何倍ものスピードで駆け巡る血液を 感じただけに違いない きみは ただ懸命に 日頃のきみであろうとしただけだろう


だから きみは 四番の責を果たし そして ウイニングボールまで手にした 

熱闘が進行する中で 人間と運命のかかわりに 胸おどらせることもあるのだ



福島商と浜田高の試合は、力量一杯の好ゲームであった。
技術や作戦や、また華やかさなどを語らなくて済む高校野球であったと思う。
この試合で、途中負傷退場した福島商の主砲高野に代わって四番を打った紺野の活躍に拍手を送りたい気持になったのである。

少々守備に不安を感じさせる場面はあったものの、二安打、うち一本は延長十回大量四点のきっかけをつくる投手強襲安打であり、
しかも、最後には、彼にウイニングボールを捕らせる粋なはからいは、女神に感謝の意を表したい。

甲子園が、選ばれた九人、いやベンチに入っている十五人だけではなく、
もっと、チャンスとめぐり会える機会が多かったらと、しみじみ思うのである。

167名無しさん:2018/06/23(土) 11:32:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月10日  一回戦  「 甲子園の一点 」


さあ みんな 甲子園に足跡を残そう 敗者でもいい

たしかに この日この時 みんなで踏みしめたという確信を しっかりと刻もう 


勝利は果てしなく遠い 奇跡を望むすべもない 高らかな校歌の響きも ひるがえる校旗も 

栄光のインタビューも  もはや まぼろしでも  一点を記すことは不可能じゃない 


大差を縮める何ほどにもならないが  勝利より大切な一点もある 

さあ みんな たとえ勝利は遠くても 一点だけは残そう ぼくらにはそれが出来る しなければならない


後輩たちが 未来へつづく後輩たちが 道標に勇気を得るような そんな一点を 甲子園に残そう

ひるむな  臆するな  たかが一点じゃないか 

そして ぼくらにとっては 大きい大きい一点じゃないか  さあ みんな  



勝利は勿論尊い。はれがましくもある。
しかし、高校野球の場合、それだけでなく一点を記すことの重要さということもあると思うのである。

そんなふうに思った場面があった。 報徳学園に9対0と大量リードを奪われた盛岡工が、
後半に入って、スクイズを試みた時である。

野球の常識からいえば、無意味な作戦であるかもしれないし、大量アヘッドに対する一点は大した価値もない。
それより走者をためてということだろうが、
でも、ぼくは、甲子園の一点が少年たちに何をもたらすかを考えた指導者の美技と感じたいのだ。

168名無しさん:2018/06/23(土) 15:56:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月11日  一回戦  「 若き獅子よ 」


去年のきみは稚かった 時には はにかみと見える笑や おびえと思える目の動きも 愛らしくうつった

去年の甲子園は若獅子を誕生させたサバンナだった 王の子の疾駆を 人々は目を細めて眺めた

そして きみは それらの熱い視線を受けながら 大胆だった


今年の春の甲子園は 試練に満ちていた きみの視界にひろがる虹は 無残にくずれ落ち 

日蝕の春に立ちすくんだ サバンナは 飢えの荒野にも見えただろう


そして今日 またまぶしく熱い夏の中で きみのサバンナは 青々と草に満ち 風わたり 

きみは 前にもましてしなやかに 前にもまして冷静に 前にもましてしたたかに その雄姿を走らせた 


そう 少年が青年に変る寸前の 好ましい稚さと 息をのむ成熟を同時に見せて きみは立っていた

今年の夏は 甲子園に風わたる おそらくは きみのために・・・



早熟の才能が大成寸前で脱落して行くさまを見るのは淋しい。
未来の大器の遅過ぎる開花を待ちつづけるより、もっと哀しい。

早過ぎた開花はどこかひ弱で、外気にふれたとたんに散り急ぐという例がいくらでもある。
甲子園というのは、そういう変態期の才能を見つめる楽しみがあり、同時に、おそれのようなものもある。

去年のアイドル荒木大輔が、早熟のひ弱さをいくつかの試練の後にふり払い、
1安打、10三振、完封を見せてくれたのは、他人をもホッとさせるものがあるのである。

169名無しさん:2018/06/24(日) 10:25:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月12日  一回戦  「 ネバーギブアップ 」


ネバーギブアップ あきらめてはいけない  ネバーギブアップ  終らせてはいけない

あの時 ぼくは 七百三十五名の選手を代表して 晴れがましく宣誓した 

たった一人の声が 五万人の球場を揺さぶり そして 静寂に誘いこんで行く一瞬を経験した 


名誉よりも 大事に立った戦慄と なし終えた興奮にふるえたものだ 

今 ぼくは  配色濃い九回表  二死から最後の打者として ボックスに立っている 

大会はぼくから始まっても  試合をぼくで終らせてはいけない ネバーギブアップ ネバーギブアップ


あの時 ぼくの目は 八月の空をつき刺していた ぼくの手はどよめきをつかみ ぼくの胸は五万人を受けとめていた

今 傾きかけた勝運に立ち向い ぼくの手は ぼくの目は そして ぼくの胸は あの時に勝る昂揚を示している

ネバーギブアップ あきらめてはいけない  ネバーギブアップ ぼくは死なない



鶴商学園の三浦主将に注目していた。
彼は今大会の選手宣誓に選ばれたが、これは稀に見る好宣誓だと思っていたからである。
選手宣誓につきまとう悲壮感がなく、力強さと明るさが同居してさわやかであった。

その三浦が、近江との一戦で、一点リードされた九回表、二死からの打者としてボックスに立った時、
巡り合せの面白さとでもいうものを感じたのである。まさにネバーギブアップ、
三浦はスリーベース・ヒットを放ち、最後の打者とはならなかった。

170名無しさん:2018/06/24(日) 11:30:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月13日  二回戦  「 火の玉キッド 」


久々の青空のところどころに  もしかして秋かと思わせるうろこ雲が  しかし 陽ざしは夏そのもので

汗にまみれた人々の顔をうつし出す 甲子園


さえざえとした空の色と 肌を灼く熱の混り合いは そのまま その時の球場の表情で

四万の観衆は胸に熱い息をため きみは あくまで冷静に 最後の一球の前に深く息を吸い

キャッチャーのサインに対し 大きく三度 小さく三度首をふり 七回目にうなずいて投げた


落ちるカーブ いやいや昔流に それはドロップといわせてほしい もっというなら 懸河のドロップ

ノーヒット・ノーラン達成  奪三振毎回の十六  きみは どこまでも少年の顔で

だから 記録に生臭い思惑はからまない


ただ ただ 少年小説を読む如く 火の玉小僧  いや 火の玉キッドがいいなどと 思ったりする 

鉄塔に金粉をまぶしたように  真昼の光がはね  一番短い影法師をグラウンドの土に置いて きみは跳ねた

夏の甲子園  二十回目のノーヒット・ノーラン



記録が生まれる時というのは、妙に淡々としているものらしい。
空気の流れまでが、力みをとり払うために平静をよそおう。

名古屋電気の工藤の快投は、大器とか、逸材とか、目玉といった評価とは違った、
少年名投手の感じがして好ましかった。

夏の大会二十回目、金属バット時代になって初の快挙である。
何かをなしとげたという瞬間を目撃するということは楽しい。

171名無しさん:2018/06/24(日) 12:27:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月14日  二回戦  「 祭が通り過ぎた 」


それは 夏の夜を 火と汗と雄叫びで染める 祭にも似て 原色の興奮と素朴な情熱と

息絶えることのない生命力が 終りのないクライマックスのように 果てしなくつづいた


熊谷商と下関商  両校合せて38安打 12対11のサヨナラ・ゲーム

大人たちよ これを野球のものさしで 計ってみる愚はやめよう しばし野球の眼鏡をはずして

少年たちを見てみよう きっとどこかで 我々が失ってしまった心の祭と 若さに涙するに違いない


そして あらためて 野球が好きになるに違いない 甲子園を めまぐるしく少年が駈けていた

一度も立ちどまることなく 一度もつくろうことなく  最も自然で 最も忘れやすい


そう いい顔ってやつで 本気でおののき 本気でよろこび たっぷりと汗を流して 熊谷商と下関商

両校合せて38安打 12対11のサヨナラ・ゲーム 今は 祭が通り過ぎた 少年たちの祭だった



名試合というのは過去にもある。緊迫の糸がぎりぎりまで張りつめて、クライマックスを迎えるという試合だ。
まだ記憶に新しい箕島ー星稜戦などがそうだ。しかし、今日の熊谷商・下関商はそれとも違う。
ぼくは、乱戦と呼びたくないし、猛試合とでもいおうか。が、これも少し違う。

野球の試合は1点のアヘッドで勝つ。その1点のために12点を要したもの凄さは祭としかいえない。
敗れた下関商にも同等の拍手を。そして、熊谷商には、予選の決勝から何かがついているような気がしてならない。

172名無しさん:2018/06/30(土) 10:00:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月15日  二回戦  「 大旗よ さらば 」


大旗よ さらば 今 お前はぼくらの手をはなれ 新しい勝者のもとへ旅立った 追うまい 見送るまい 

栄光は掌の感触だけではない 僕らの青春を染めあげた 歓喜と誇りで残されている 大旗よ さらば

晴れやかにそういおう 堂々の敗者として ぼくらは約束を果した 必ず お前を 全員で返しに来るという約束を 


たった一人の返還は 真夏の日の下で余りに悲しいから そして 未だ昨年のどよめきが残る土を

全員で踏みしめたいから 大旗に見つめられて ぼくらは一年を過した 


秋・冬・春・夏  時は流れても 大旗は色あせない 見つめられて 苦難と思える日々も 耐えて過した

それは 全員で返しに来たかったから そして ふたたびこの胸に抱き 前より勝る感慨で 持ち帰りたかったから

大旗よ さらば 晴れやかにそういおう 堂々の敗者として



昨年の優勝校の横浜が敗れた。二年連続というのはやはり難しい。
まして、すっかりチームカラーも一変した横浜であれば尚のことである。しかし、勝つことを公言し、
その通りに勝者となった昨年よりも、小粒ながら、全員が同じ大きさの粒である今年の方が好ましいと思う人も多いだろう。

多くの試練を強いられた後、さわやかで、きびきびした高校生らしいチームとして登場して来た横浜に賛辞を送りたいと思う。
それにしても、力投、豪打の報徳学園・金村からは、昨年の横浜を思い浮かべるほどである。

173名無しさん:2018/06/30(土) 11:25:03

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月16日  三回戦  「 大器よ 」


大器に夏は微笑まなかった まぶし過ぎる光が 敗者となった大器の背中を 強烈に照らすだけだった

みちのくに大旗への夢を抱き  胸をはってのりこんだ甲子園  堂々の投球は 一すじの道を拓いたかに見たが

夏は微笑まなかった  夏は微笑まなかった 大器よ泣くな 


マウンドの土を摑んだ君の掌は これから先 さらに大きなものを摑むに違いない 大器よ 泣くな

たとえ勝利と巡り合わなくても きみは見事に存在したのだ


そう 1981年の夏に存在した 道は平坦でないから道であり 門は閉ざされているから門であり

勝利は得にくいから 栄光をともなう きみは 今 それを知り 体の細胞の一つ一つに 神経のひだの一つ一つに

しみこませたことで大きくなった 大器よ また逢おう 


平静なきみの顔がくずれた瞬間  巨くを折り曲げてしまった瞬間  一番遅れて整列に加わった瞬間 

それらが また逢う日には きらめくハイライトになっているだろう  大器よまた逢おう  大器よまた逢おう



試合の明暗の分岐点がどこであったか気にならないまま勝敗が決してしまうこともある。
志度商と秋田経大付の十回裏、レフト線にさよならヒットが出た瞬間、マウンドの松本投手に夏の光がふりそそぎながら、
それはどこか稀薄な暗であったのが、この詩を急いで書かせた因である。
大器というものはどこか悲運に出来ているのであろうか。

174名無しさん:2018/06/30(土) 12:30:19

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月17日  三回戦  「 きみのために盃を上げよう 」


きみのために盃を上げよう 高々と 晴れやかに 勝利にまさる美酒を満たし きみのために盃を上げよう

新発田農フィフティーン 雪の子よ 土の子よ 緑の子よ 


きみらが運んで来た風は 人々の心に やすらぎと歓喜を与えた よろこぶことを知る少年の美点を

自然に 何より自然に示した 今年の雪は深かった 南に花がある頃 まだ雪に埋もれていた


遅過ぎた自然の微笑みは 炎暑の甲子園で花開いた 雪の子よ 土の子よ 緑の子よ 季節を知る子のやさしさよ 

勝ったぞ! そして また勝ったぞ! 甲子園の土を 晴れがましく三度も踏んだ

この歓びを大きな土産として 胸をはり 帰って行くがいい きみのために盃を上げよう


由縁のない人々も 好ましい少年の原点を見て 唇をゆるめ 手をうち 心地よく酔う盃を上げるだろう 

乾杯! 新発田農フィフティーン 真夏が少しとどまって きみらを見送る



今年の大会でうれしいのは、未熟ながらも、本格を志向する高校が多いことである。
勝つためのさまざまな無理が感じられた大会もあったが、今年は少ない。
ぼくも現実には見たこともないが、中等野球の面影が感じられたり、少年名投手というイメージがあったりで楽しいのだ。

中でも、大会を盛り上げているのは新発田農と志度商の敢闘であろう。
トーナメントの大会では優勝を称えるのは当然であるが、その他に、最もふさわしいチーム、という表彰があっていい気がする。
とすると、三回戦で大敗は喫したものの新発田農がそれにあてはまる。

175名無しさん:2018/06/30(土) 15:05:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月18日  三回戦  「 激 涙 」


昂ぶることをおさえながら 語ることは難しい ましてや ペンをとることは 熱投 猛打 激走

うねりに似た試合展開に 人々は我を忘れた 


もう秋かもしれない いや きっと秋になる きみらが列島にはりついた夏を 使いきってしまったから 

明日からは鰯雲が出るだろう 赤とんぼが舞うだろう


メスの切れ味を思わせる荒木 山刀の猛々しさを感じさせる金村  そして 敏捷な草原の獣たちと

豪胆な山の獣たちとの呼吸合せ 意外に静かな進展を見せて ドラマは クライマックスに雪崩れこむ


太陽は真上からわずかに傾き  しかし それは頭上といっていい

巨象を翻弄するピューマのように 技が力を制する瞬間を見た  そして それから わずか後

力の圧倒を息を呑んで見つめた 報徳学園・早稲田実業  きみらのどちらをも 去らせたくない


敗者を見送る運命の甲子園は 今たしかにそう思っているだろう ドラマは終った

熱く長い夏の午後のドラマは終った 激涙が流れた 激々と 涙々と



得点経過が劇的な配分で一進一退の形をとっていても好試合とは呼べない。
両者がそれぞれの形で力量を発揮して、初めて名試合が成立する。
その上に、まさかと思える展開が加われば、もう何もいうことはないだろう。

報徳学園と早稲田実業の一戦は、実力的に見て決勝戦と思える顔合せであり、
誰もがある種の昂揚のもとに注目したわけだが、それを何一つとして裏切らなかった。

勝った金村の晴れやかな笑顔。敗れた荒木の涙に光った顔。
どちらも青春のいい顔だとしみじみ思うのである。

176名無しさん:2018/07/01(日) 10:11:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月19日  準々決勝  「 先輩の夢 」


きみたちの先輩が 甲子園にやって来たのは この日本が まだ歴史の荒波にもまれていた頃

34年も前になる きみたちにとって それは遠い歴史の一頁で もちろん知るすべもないが

何か その時の情熱が 時を超えてよみがえった気がする 


実に 実に 甲子園に似つかわしい敢闘であり 純白のユニホームが 夏の日に見事に映えた

一人一人が能力の限りをつくす 誰をかばうでも 誰を頼るでもなく 一人一人が同等の大きさに育った

見事な環が ここまで来た因であろう


黄金色に染った瀬戸の海を 銀鱗を光らせて躍る魚のように ピチピチと キラキラと そして 群れの美しさを見せて 

きみたちの印象は目に鮮やかだ 34年前のきみたちの先輩は もうきみたちの父親の歳を超えているが

今 真白なスタンドに はるかで しかし 明確な 夢を描いたことだろう

1981年8月19日 志度商業 準々決勝で甲子園を去る



準々決勝あたりのなると、意外に緊迫が薄れることが多い。無欲の限界というのだろうか、
力つきて大差になることがよくある。しかし、志度商業は劣勢にありながらも、一つ一つのプレーがきわ立ち、
その印象が変ることがなかった。

白井投手の力投はもとより、死球退場の竹内の代役一年生の野崎の打席での粘り、
セカンド斎藤の最後まであきらめない姿勢の超美技、記録帳には只の三振であったりするのだろうが、
このチームを象徴するプレーで埋められていた。

177名無しさん:2018/07/01(日) 11:13:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月20日  準決勝  「 怪 童 」


その昔 いやいや ほんの少し前まで 怪童という言葉があった それは 技術の秀れた天才ではなく

どこか未完成で どこか粗野で ユーモラスな人間性を感じさせる少年に 与えられる最大の勲章だった


怪童は たとえば入道雲で 青空に湧き立つ雄々しさと 同時に微笑を誘うおおらかさと 雷鳴を秘めた力を持っている

だから 真夏に怪童はよく似合ったものだ 吹きぬける涼風もいいが 稲妻をともなう夕立もいい


怪童はどこへ行った と時代は嘆いていた あの大きな少年はどうしたのか と時代は恋しがる

甲子園の楽しみの一つは 入道雲のような怪童に 出会うことでもある しかし 怪童のいない夏がつづき

もはや死語になりそうだった 去りかけた夏がふり返り 正午には34度になった


準決勝戦 久々の怪童が 黒々とした顔をほころばせて 二塁の塁上で手を上げた 打球はセンターの頭上をこえた

大きな一発だった そして 怪童は その場で屈託なくしゃべりそうだった 



報徳学園の金村の活躍がめざましい。投げることももちろん、打つ時の方が何倍も魅力的である。
打席に立つことに無上のよろこびを感じているさまが、ありありとわかる。
筋肉の一つ一つが欣喜雀躍しているようだ。こんなに嬉しそうに打つ選手はめったにいるものではない。

鍛えられた好選手の評価も惜しむものではないが、このように、エネルギーがあふれ出ているという少年を見ることも好ましい。
少年とは元来、制御のきかないほどにエネルギッシュなもののはずだから。

178名無しさん:2018/07/01(日) 12:12:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1981年8月21日  決勝  「 この輝やける青春の日々を 」


青春の日を 輝やけるという言葉で飾れる 少年たちよ

容赦ない夏の光を 鮮明な記憶にとどめることが出来る少年たちよ 

そして 感涙にむせぶという 今では選ばれた人々だけに残された 昂りを味わった少年たちよ 


きみたちの夏はただの季節ではなく きみたちすべてに与えられた 大いなるメダルなのだ

勝者敗者にかかわりなく 735人の少年のすべてが まぶしく 

そして 重いメダルを 心にかけて 甲子園から去って行ったのだ 


人々の祭りは 青空の下の光の粒のような 透明なきらめきを見せて あるいは燃え 

あるいは叫び あるいは涙を流して 長くてみじかいにぎわいが終った 


人々が見たかったのは 人間という生物の 一番精気に満ちた 限りある一瞬ではなかったか 

それが何よりも美しいと知る人の 祈りの歌ではなかったか


1981年8月21日 12時29分 プレーボール 報徳学園 京都商業 14時7分 ゲームセット

2対0で報徳学園初優勝 この日 気温32度  雨は降らなかった



毎年のことであるが、結末がついてしまうと一種の虚脱状態になる。
はりつめていた糸が幻影であったかのように体の中から消えてしまっているのだ。 

突然に夏を暑く感じ、そのくせ気持ちの上では既に秋を呼びこんでいる。
おそらく、このような状態になるのは、ぼくだけではあるまい。

とにかく列島をまきこんだ壮大な夏の祭典は終わったのだ。
また、この壮大さに対して、あれこれの話が出るかもしれないが、
人間には、大いなる感傷も必要なのだということをいったおきたいのだ。



1981年の出来事・・・英皇太子結婚でダイアナ妃誕生、 沖縄でヤンバルクイナ発見

179名無しさん:2018/07/01(日) 13:05:13
守屋巧輝  ( 倉敷工 → ホンダ鈴鹿 → 2014年 阪神 ドラフト4位 ) 


「 十井麻由実のSMILE TIGERS 」


野球選手にとって数センチの変化って、とても大きい。
今季、大きく腕を下げようとしている4年目の守屋功輝投手(24歳)。
「 力んだら上がっちゃう 」とはいうものの、だんだんと自分の形になってきているようだ。

昨季は夏前にファームで調子が上がってきたが、ちょうど落ち始めた頃に1軍に昇格した。 巡ってきた登板機会は広島戦だった。
「 鈴木誠也、エルドレッド…日本を代表する強打者と対戦して、『 これ、抑えられたら自信になる。いいチャンスだ 』 って思ったけど、

モノにできなくて…。いろいろ考えているうちにシーズンも終わってしまった。すごくもったいない、悔しいシーズンだった 」
昨年6月25日の話だ。その後は1軍昇格のチャンスは得られなかった。

そんなとき、ヒントをくれたのが矢野2軍監督だった。(当時は作戦兼バッテリーコーチ)
実は1軍で打たれたときもマツダスタジアムのベンチで「 もっと腕下げたらどうや 」と言ってくれた。

そのときは「 今シーズンはこのフォームで頑張りたい 」と答えたものの、
「 結局、その後はパッとしなかった 」と悶々としているところに、秋季キャンプでまた下げることを提案された

さらに矢野監督からは動作解析の先生を紹介され、そこに何度も通って判明したのが、
「 下半身が横の使い方だから、上と合っていなかった 」という自身の体の特性だった。
矢野監督の見立てどおりだったのだ。 そこで腕をサイドに下げようと一大決心を固めた。


すると昨年12月、台湾でのウインターリーグに欠員が出て参加できることになり 「 実戦で試せる 」 と喜んで行った。
台湾では終盤には完全にサイドで投げていたが、やはりこれまでと違う筋肉を使うのか、肘が張りだしたという。
そこで腕の位置は考えず、まずは下半身に意識をおき、下半身主導のフォームで腕は自然についてくるように任せることにした。


その後、共通の知り合いの縁から1月、巨人の田原投手の自主トレに参加させてもらった。
サイドハンドの使い手である田原投手にはキャッチボールの相手をしてもらい、さまざまなアドバイスを授かった。
「 上半身に力が入りすぎって言われた。 やはり下半身主導が大事だなって、再確認した 」

そして、変化球も伝授された。 「 カーブとシンカーです。 田原さんのカーブはすごいブレーキがかかってなかなか来ないし、
シンカーは伸びながら落ちる。 握りや意識するところを教わった 」。
変化球でキャッチボールをしながら 「 今のいいよ 」「 ちょっと手首が寝てるよ 」 など、1球1球丁寧に見てくれたという。

さらに大きかったのは、帯同していた骨盤の専門家であるコーチに骨盤の使い方を教わったことだ。
「 それでだいぶよくなった。 投げ終わってビデオを見るとき、自分でチェックポントがわかりやすくなった。
骨盤のハマり方で良し悪しが変わる。 ちゃんとハマればゾーンにいくし、逆に悪くなっても修正の仕方がわかるようになった 」。


その試行錯誤の答えが11日の練習試合で出せた。 四国銀行戦で3回をパーフェクト。 しかも自分の思ったように体が使えた。
受けた小宮山捕手も 「 よかったよ。やろうとしていることを継続すべき 」 と言ってくれた。

実はそれまでブルペンではなかなか手応えが得られず 「 不安しかなかった 」ことを、
小宮山捕手も「 大丈夫か 」と心配してくれていたのだ。 それだけにこの好投を自分のことのように喜んでくれた。

さらに藤井バッテリーコーチも 「 上半身の力が抜けてて、よかったよ 」と褒めてくれた。
「 今それをテーマにやってるんです 」と胸を張って答えたが、「 今までいかに力んでたかってことですよね 」と思わず笑みがこぼれる。

田原投手直伝のカーブも1球だけ投げた。この時期なのでほとんどまっすぐだったが、スライダー4球とシンカーも1球試すことができた。
「 感覚がつかめていけば、勝負できると思う 」。 この日得られたさまざまな感覚は、今季への自信となった。

この自信を携え、今後もアピールを続ける。 矢野監督はじめ田原投手、関わってくれたすべての人に恩返しを誓う。
それはすなわち1軍で活躍するということにほかならない。



1軍では結果が出ないね。 もし、自由契約になったら、水本氏のいる広島カープへ行って再挑戦してみては?
カープの強力打線をバックにすれば、変身しそうな気もする。 一念発起するなら若いうち。
倉工に高価なバッティングマシーンを寄贈してくれた。 有り難いことです。

180名無しさん:2018/07/01(日) 15:15:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月7日  一回戦  「 佐世保工の初勝利 」


きみたちの甲子園初勝利は もしかして 長崎の人々に 希望という言葉を 思い出させたかもしれない

暗雲のきれ間に  わずかにのぞいた青空と そして  微笑むことをよみがえらせる太陽と

唇に歌を持つ幸福とを 与えたかもしれない  佐世保工ナイン いや フィフティーン 

きみたちの甲子園初勝利は ゲームの一勝というより 心をあたためる歌だ


自然は時に悪魔と化す 恵みの天使と同じ手で 人を踏みにじる 悪魔と化した時の自然は 原始と変らない

7月23日の集中豪雨は きみたちの故郷を引き裂いた そして その嵐が去った後 遅ればせながら夏がやって来た


きみたちは そのいたましい夏の序曲を背にして 甲子園へ向った筈だ 一人一人の思いの中に 何があったか知らない

しかし 今までのいつよりも 今年の一勝が価値あることは 感じていたに違いない

佐世保工高 きみたちの甲子園初勝利は 南々西の風2、5メートル 晴れ 気温32度1分の夏に さわやかに微笑んだ



もしかして、この詩のような思いで高校野球を見つめることは間違いなのかもしれない。
高校野球は高校野球として、甲子園の中の二時間のドラマとしてだけ興奮すべきなのかもしれない。

しかし、少年といえども社会に生きる人間である。 それぞれに劇的背景があり、それが二時間の中に集約され、
時に技術や人材を超えることだってあるだろう。  とにかく、遅い遅い夏がやって来た。

今年は特に夏への助走がなかった。 ジリジリとした日射しと、噴き出す汗を感じながら、甲子園を待つ気分でなかった。
今日からが夏で、多分、決勝戦の翌日には秋になるであろう。
短い夏であろうが、甲子園の上に、とびきり極上の夏を提供してくれることを、悪戯が過ぎた自然に頼みたい。


( 長崎集中豪雨は299人の命を奪った )

181名無しさん:2018/07/07(土) 10:30:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月8日  一回戦  「 完全という言葉 」


完全という言葉ほど 融通のきかないものはない  99.9に対する0.1でも 不完全にしてしまう

思えば完全というのは 人間臭くない言葉ですね  人の思いというのは もう少し寛容でやさしいものですから

ほとんど完全というものも 認めるものです それにしても 記録というものは 不思議な裏切りをするものですね


九回二死まで完全で あと一人で大記録という次の瞬間 女神が目をそらしたのでしょう 

女神自身が 緊張に耐えられなくなったのでしょう ストライク  ボール  ボール そして その日きみが投げた94球目 

女神のよそ見の間に ボールは代打者の躰をかすり  完全という言葉は一瞬に消えました

 
佐賀商業 新谷投手 その瞬間のきみの顔が 実に晴れやかにほころんだことが 印象的でした

おそらく 息をつめてみつめつづけた人々も 同じ笑みを浮かべたことでしょう それほど 完全という言葉は窮屈なものです


ぼくは その後乱れを見せずに投げたきみを 94球までのきみよりも その後の4球を高く評価します

ノーヒット・ノーラン 史上21回目 微笑むことを知り しかも 揺らがない少年に会えて 今日は幸福でした



高校野球での記録というものは、興奮すると同時に、少々気持に痛みも感じるものである。
早さ、高さ、遠さを競うものと違って、必ず相手の失意が成立条件になっているという野球の性質上、
こんな思いをするのであろう。

佐賀商、新谷投手の完全試合未達成を喜ぶわけでは決してないが、力と力の対決の結果でなく記録をこわしたことを考えると、
神の、考えに考えたあげくの結果としか思えないのだ。
堂々たるノーヒット・ノーランを、あと一人の失敗の結果と見ないで、拍手を送りたい。

182名無しさん:2018/07/07(土) 11:22:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月9日  一回戦  「 ふたたび勇敢な狼に 」

 
一つの学校の 一つの勝利が 記憶をよみがえらせた それは あいまいだが どこか強烈なものを秘めたものだ

31年前 きみたちの先輩は 甲子園の旋風だった 熱砂に渦を巻きながら 頂上までのぼろうとしていた


それは 当時 奇跡に思えた 深紅の大旗を争ったのは古豪だった 悠揚たる獅子に対する 勇敢な狼に思えた

結果は獅子が勝ち 狼の奇跡は夏の旋風で終った 31年前はもう歴史の中である 

もしかしたら それは 単なる語りぐさかもしれない 


何といっても 31年前の きみたちの父親の世代の青春の ピカピカの記憶に過ぎない

昭和26年 日本がようやく ヨコヨコと 歩き始めた頃だ

遠い 遠い だが しかし きみたちが今日一勝したことによって 単なる語りぐさではなくなった


31年前の青春と31年後の青春が 同じ色のピカピカであることを 知るに違いない

そして あれよあれよの再現を ふたたび勇敢な狼になる夢を ともに見るに違いない それは野球をはるかに超える



ぼくの記憶に間違いがなければ平安高の投手は清水といい、熊谷高は服部といったはずだ。
ぼくは十四歳で、当然のことながら、ラジオで聴いていた。 残念ながら天気の記憶まではない。

熊谷高の勝利を確認した瞬間、ふと現実をさておいて、そんな記憶の世界に思考がさかのぼった。
不思議なことである。しかし、もしかしたら、こういうことが甲子園の高校野球の絶大な魅力なのではないかと思うのである。

青春のバトンタッチといおうか、それが単なるノスタルジイの強制や、記憶の伝承ではなく、一つ勝つことによって、
遠くはなれた世代が共通の言葉を持つことが出来るのである。
熊谷高勝利の後、熊谷では、大人と少年少女の間に新たな言葉が生れたと思うのはロマンチック過ぎるだろうか。


( 昭和26年夏の決勝カード。熊谷高は準優勝だった )

183名無しさん:2018/07/07(土) 15:06:40
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月10日  一回戦  「 嵐になるかもしれない 」


久々に巨大な入道雲が 天までとどく勢いで夏を誇示する  雷鳴よ 今日は轟くな 稲妻よ 今日は光るな

甲子園は熱い熱い最中だ 熱狂の歓声に 長い影が陽炎になろうとしている


熱戦は 春日丘高校・丸子実業  そして まだ明るい午後五時  春日丘高校に勝利が微笑む

雨は降らなかった 春日丘高校 ただ者ではなかった  ただ者の姿をした曲者だった


平均170.3センチ 平均体重65キロ まさに平均の平均 そして 公立高校 しかし 激戦区を泳ぎまわった魚が

ただの小魚であるわけがない 知恵か 度胸か 早さか 鋭さか 何かがないと溺れてしまう


百五十二校が争う激流を  無傷で泳ぎきって来た魚を 小さいという理由で平凡と見たのは 不明だったかもしれない

凡に見せた非凡の片鱗を 今日チラリと見せた


嵐が去り 嵐が近づき そのわずかの間隙に 甲子園は晴れた 奇跡を呼びそうなチームが 長い影をおどらせながら

不敵に登場した 彼らが嵐になるかもしれない



天はまだ落ち着かない。今日も天気予報では、にわか雨か、雷雨の襲来を伝えていた。
しかし、今日の四日目は幸いなことに降らなかったが、こんなに天候を気にすることも珍しい。
ぼくは、ある意味では運命論者であるからひどく気になるのである。

ノーゲームの再試合などというものは、運命を思って混乱してしまう。運命は人間がつくり出した気の範囲にとどめて置きたい。
そういう意味では、今日の四試合でも微笑みかけた運命と決別する一瞬というのが、いくつか見られた。
しかし、そのことを書くのは残酷であるし、無為である。 
さて、春日丘高校に大して、人々が勝手に思い描いたイメージが、どちらかというと弱者であるので、この裏切りも面白い。

184名無しさん:2018/07/08(日) 10:16:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月11日  一回戦  「 激戦 ・ 再試合 」


たかが雨と雷に 運命をもてあそばれてはたまらない 鍛えぬき 勝ちぬき 晴れの舞台に駈け上って来たのに

微妙なほほえみや 不機嫌で 天と地ほどの差をつけられては たまらない たかが雨と雷とに


降雨ノーゲーム 再試合 それにしても きみたちはよく戦った 運命の作用なんてものが 入りこむ余地のない壮絶な試合で

二転 三転 抜き 並び 越し また並び さらに抜き 追い ひきはなす 全くもって 神様の少々の悪戯ぐらいでは

どうにもならないほど 激しく戦った 試合開始 午前8時 観衆30000人 晴れとはいえ 雲が流れ 今日も三十度にならない


夏を天に頼ることをやめ きみたちの気力に頼もうか 3-0  3-3  4-3  4-5  5-5  8-5  8-6  9-6

この点数の動きこそ激夏だろう 勝った日大二高  敗れた八幡大付高 再試合は2時間44分 長い長いマラソン・ゲームは

三回戦まで行ったことになる タラタラと流れる汗の中で 運命と戦った少年たちは ともに カッと笑った



壮絶な試合になってくれて、全くよかったと思っている。微妙な展開になって、微妙な分岐点が作用したら、つい、
あの雷は誰のために鳴り、あの雨は誰のために降ったのか、などと思ってしまう。

結果は、4対2で負けていた日大二高が勝って、雨に、雷に救われた印象があるが、試合の進行を見ていると、
全く無関係であることがわかる。それが、よかったと思うのである。

トーナメントの大会で、そういう悪戯で呆然とする少年を見るのが一番辛い。この活力戦が導火線の役目を果したのか、
これまで比較的小ぢんまりしたゲームが多かったこの大会が、この日は一挙に爆発、ホームランが相ついだ。
4.1メートルの風のせいか、それとも、何かの作用だろうか。

185名無しさん:2018/07/08(日) 11:31:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月12日  二回戦  「 秋田 ・ 敢闘 」


さらば 北の少年たちよ 来年の夏は 長く 暑いだろう とうとう きみたちにとって 今年の甲子園は

まばたきの夏になってしまった 照ることもなく 光ることもなく しかも 短かく無情だった 


北の少年たちは そのまばたきの夏に見送られながら 甲子園を去って行く 

夢からさめ さまざまな感触を思い出す頃は 秋の中だろう


南北北海道が去り  青森が去り  山形が去り  岩手が去り  宮城が去り  福島が去って 

きみたちは 北の切札だった  夏よ まだ行くな この胸でジリジリと灼けろ そのまま北へ持って帰る


大器といわれた投手が去り マウンドに立つ二年生は 自らがボールになるような 思いでゆっくりと投げる

四番バッターは 希望につなぐ快打をはなち  そして センターは 涙が出るほどの美技で ピンチを救う


そう 何故か涙が出るほどの 敢闘という言葉が 光の粒をさらにきらめかせ  さわやかな好試合であったが

敢闘は やはり 敗者のための言葉だった きみたちが甲子園を去った瞬間 日本列島は 北から秋に染って行く



手許に、出場校を書き込んだ県別地図を置き、去って行くごとに赤で塗りつぶしている。
秋田経大付高が敗れたことによって、列島の北は真っ赤になってしまった。
高校野球は地図なのかもしれない。奇妙な感傷を語りかけたりする。

スコアボードは無情で記録もまたそうである。厳然と記し、永久に残す。
しかし、数字で残せない、何故か涙が出るほどのプレーというものを、
見逃すまいと目をこらしていると、ぐったりと疲れる。
しかし、それが高校野球だと思い、詩だと思うと、疲れを云々していられないのだ。

186名無しさん:2018/07/08(日) 12:38:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月13日  二回戦  「 熱投 百七十六球 」


キリキリとふりしぼった 弓の弦のように あるいは 最高音の音色を立て はじけとぶ寸前の弦楽器のように

緊張と興奮が張りつめた そんな投手戦を見た 


思苦しさだけが支配する 0行進ではなく 三振の山を築くという まことに理解しやすい劇的要素を

主調として  ドラマは 静かだが 激しく 進行していった


北の巧者と 西の怪童が 死力をつくして投げ合えば  それだけで熱気が満ちて 地をはう指先から

躍り上って来る巧者の熱球と 真向にふりおろす 刃物のような怪童の熱球と


空は晴れ やっと夏が戻り 白い蒸気につつまれた甲子園で 黙々と しかし スリル満点に

終局へとなだれこむ 大逆転は 音高く奏でてはじけとんだ 弦の挽歌か それとも 讃歌か


巧者は百七十六球を投げ 射は常に限界の体力に左によろめき しかし 勝利投手 怪童は力まだあふれながら

呆然と天を仰ぎ  しかし 敗戦投手  もしも  きみたちにとどくなら 拍手を打ちつづけたであろう



カードが化けるということがある。さほどの期待を抱かずに見始めたにもかかわらず、ひきこまれてしまい、
そのカード自体がキラキラときらめいて見えることである。
宇部商と高岡商の試合がそうであった。地味に思われたにもかかわらず、終わってみれば大輪だった。

今大会最高の好試合といっていいかもしれない。 そういえば、今大会、何故か延長戦がなく、番狂わせがなく、
やや粘力にも、意外性にも欠けるうらみがあったが、この試合は満足した。

一時は、高岡商横森投手は、森田、藤村、平古場が持つ三振奪取19の大会記録に迫るかと思われたが、
それはならなかった。 化けてしまえるのが高校野球である。

187名無しさん:2018/07/08(日) 13:33:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月14日  二回戦  「 新 ・ 風林火山 」


自在なること 風の如し  呑みこむこと 林の如し  闘志みなぎること 火の如し  大胆なること 山の如し

あるいは 逆転すること 風の如し 惑わせること 林の如し 得点すること 火の如し  敗れざること 山の如し


真夏の甲子園を 炎熱の土のスパイクで蹴って 縦縞の風林火山が行く  それは さながら 風のように

林のように 火のように 山のように  野性の猛々しさと若者の冒険心と ロマンと紙一重の幻想とを

見るものに感じさせて 地鳴りをさせながら駈けて行く


台風の目になるな 台風になれ  虹色の台風というものも 男のロマンの中にはある 桁はずれということに

はにかむ必要がどこにあるだろう もっと もっと 桁はずれに 騎馬が天馬になるほどの 奇跡を信じて 走れ 走れ


真夏の甲子園を 熱風をバットで引き裂いて 縦縞の風林火山が行く  それは さながら 自由な風 騒然の林

情熱の火 マグマの秘めた山



甲子園に魅かれる理由はさまざまであるが、怪童に出会いたいという思いと、
奇跡が実現して行く過程に胸躍らせるというのが大きい。 ところが、怪童と奇跡はなかなか一致しないもので、
奇跡的に勝ち進んでいくチームというものは、勝つという印象より、負けないという印象の方が強い。

今大会でも、優勝候補といわれるチームは別として、
負けないタイプで最後まで行くのではないかという予感を抱かせるところが二、三ある。
しかし、勝つというタイプで、もしやと面白がらせてくれるのは東海大甲府である。
今大会では個人の怪童はいないが、チームの怪童といえるかもしれない。ただ一つのサヨナラ勝ちを演じた。

三回戦の抽せんでは、早稲田実業と対戦することになったが、
毎試合ホームランを打っている両チームがどういう試合をするか、高鳴りさえ覚える。

188名無しさん:2018/07/08(日) 16:00:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月15日  二回戦  「 二球目 」


きみのために 達磨に黒々とした目を入れよう 勝利の祈願はならなかったけれど

敢闘への敬意だって 立派な理由になるだろう 

東京農大二高 阿井投手  きみは その日 入道雲のように大きかった


サイレンが鳴って 二球目  それは 少しばかり ユーモラスな光景だった 

打者の一撃がきみの足を直撃  鍵型に方向を変えたボールは 三塁手のグラブにおさまって 

記録は三塁フライ その幕あけに  五万の観衆の頬はゆるんだ 

二球目 不運な予感など誰も感じなかった  なぜなら きみが あまりにも悠然としていたから


きみの素晴しさは 敢闘を悲壮に美しく見せなかったこと きみへの不運を 人々に忘れさせていたこと

きみの記録は敗戦投手でも きみは甲子園で大きかった 


モクモクと湧く雲のように 底知れぬものを感じさせた きみのために 達磨に黒々とした目を入れよう 

いや 既にきみ自身の達磨には 目が入っているに違いない 



終戦記念日である。正午、六十秒間サイレンが鳴り、全員が黙とうをささげる。打席で、守備位置で、
頭を垂れ、目を閉じ、動かない少年を見ていると、時間が静止したように思えた。
ザワザワとした時代の流れの不安の中で、野球に熱中出来る幸福を思って見たものである。
六十秒は長く重い。

さて、二回戦が今日で終わり、十六校にしぼられた。 三試合それぞれに関東の学校が登場したが、
いずれも、九州、四国に敗れた。九州の学校が強いのが今年の特長であるが、技術的なことは別にして、
一試合で流した汗が次の試合の時には、少年たちの艶出しになっている気がする。

黒々とピカピカと光って来る生命力が九州の少年たちに感じられる。 そんな印象の中で、
東農大二の阿井投手は、まだまだこの先汗をタラタラとかかせて光らせてみたいと思った大きな少年だった。

189名無しさん:2018/07/14(土) 10:06:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月16日  三回戦  「 目のあるボール 」


きれろ ラインをきれろ まっすぐに来るんじゃない ゆっくりと転がって来るボールは 願いをあざ笑うように

そして たっぷりと水気を含んだ土が まるでボールを抱きすくめたように 軌道のなくなったグラウンドを

コロコロと転がり サードベースにコトンと当った その時 ボールは生きものだった


雨が降っていた オレンジの雨だった その雨の中を法政二高は いきいきと動いていた

わずかにのぞく ストッキングのオレンジが 不思議に鮮やかに目に映えていた 

だから 煙る雨もオレンジだった  きれろ ラインをきれろ まっすぐに来るんじゃない 


運命のバントが転がったとき 雨は上っていた  瞬間 チカチカしていた オレンジが消え 

何故かその時から 東洋大姫路のユニホームが 泥でよごれるようになった 泥濘戦での汚れたユニホームは

果敢の勲章だった  果敢さを誘発したのは ラインの上を忠実に転がった 目のあるボールだった

21年ぶりの法政二高が 甲子園を去る日  雨がはげしく降り  途中から薄日がもれた 



ついこの間だと思っていた法政二高の優勝も22年前だときかされると驚く。
柴田投手の勇姿を知るどころか、後輩たちは誰も生まれていなかったのだから。

しかし、同じユニホームで登場して来ると、時代を超えてつながってしまう。 甲子園のファンというものは、
そういう風に忘却を知らない感傷を持ちつづけているのである。

史上最強といわれる往時には及ばなかったが、それでも今大会の活躍は、
そういう感傷的なファンをも喜ばせたのではないだろうか。
願わくば、この試合で、もっともっと泥の勲章をと思うのだが、それも見るもののわがままかもしれない。

190名無しさん:2018/07/14(土) 11:12:28
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月17日  三回戦  「 大旗ロード 」 


大旗が海を渡る夢は 今年は果たせなかったけれど それはもう近い 黄金色の蝶の群れが

きらめきながら海を渡るように 歓喜と興奮が南へ飛翔する日も 近いだろう


やがて沖縄の地に ハイビスカスよりもなお紅い 深紅の大旗が 誇らしく凱旋をする夢が

実現することだろう それが夢想でも幻想でもないくらい きみらは今や屈指の強豪なのだ


旋風を巻き起した先輩がいて 百メートル打線と恐れられた先輩もいて  そして 今年 きみらは

褐色の稲妻か 超特急で 大旗ロードを着々とつくっている きみらの奇跡の何マイルかは もうそこなのだ 


強くなれば拍手は少くなり しかし ズシリと重い拍手はふえて来る

やがて 手をうつことも忘れる強さで きみらは帰って来るだろう


うずくまり かき集める土は きっと大旗ロードにふりまかれ 歓喜の行進のスパイクの下になる

もはや そういう思いで きみらを見つめる

さらばKONAN  また来年の夏に 戦慄の対面をしようじゃないか 



興南にとっては、全く悪夢と思える1イニングであったに違いない。 仲田幸投手の許したヒットはたった二本、
それが、三つの四死球とからんで六回に集中、アッという間に4点をとられて逆転されたのは、
悪夢としかいいようがない。 相手の広島商にとっては、全くのワンチャンスであった。

この悪夢の1イニングによって、興南は野望を絶たれ甲子園を去ることになる。
今でも負けた気がしない、という監督談話はおそらく実感であろう。

昭和33年第40回記念大会に首里高校が初めて甲子園に出場、絶大な拍手を浴びてから、来年で25年。
もはや敢闘では飾る言葉にならないほど強くなった沖縄のチームが、大旗を手にする可能性は充分にある。
二年生が主軸の興南の来年は明るいといえよう。

191名無しさん:2018/07/14(土) 12:16:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月18日  準々決勝  「 最後の夏 」


少年の蒼白に見える顔が  もっと悲観的に  蛍光色に弱く光る瞬間を見た

どんよりと垂れこめた雲の下  少年の印象は  はかなく美しく最初から蛍光だった 

そして  何故かその周辺には音がなかった


少年が対するチームには  常に音が充満していた  気力のうめきや  筋肉の雄叫びや 

興奮の総毛立つ皮膚のはじけや  体内に収めきれない活力が  音になってあふれていた

少年を蛍光色に染めたものは  一体何だったのか  それは誰も知らない 


少年は五度も出場し すでに十六試合も戦い 冷徹に思い シャープに投げ 誰よりも光輝やく筈であった

そして 十九試合を投げぬいた時に 夏を終らせなければならなかった

少年を蛍光色に染めたものは 一体何だったのか  それは誰も知らない 


少年の最後の夏は  曇天の下で蛍光のように揺れた  長い一日だった 

少年は十七試合で  夏を終らせなければならなくなった  甲子園は少年をひき止めない

誰も必ず去って行く  この少年も去って行った  荒木大輔の夏は終った



事実上の決勝戦とも思われた早実・池田戦は、大仰にいえば戦慄するような結果で終わった。
五季連続出場、常に優勝候補に上げられながら果たせなかった大旗の夢を、
最後の夏に賭けた荒木大輔も、池田の猛打の前に砕け散ってしまった。

その凄まじいばかりの終幕は、むしろ、人気という怪物と懸命に戦いつづけた三年間との
決別の儀式とも思えるほどだった。

甲子園というのは、別れの魅力である。  どんな名選手も三年たてば去って行かなければならない。
そんな思いが常にたちこめている。  それをこの試合ほど具体的に感じたことはないのではないだろうか。
しかし別れはいやでも、送るというのはいいことである。 送ったのだ。

192名無しさん:2018/07/15(日) 10:35:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月19日  準決勝  「 やまびこ打線 」


あのやまびこをきいたら 快感を通りこして 恐怖すら感じる たえまなく 容赦なく 金属音はくもり空を駈けめぐり 

コンクリートの壁にこだまする 甲子園はしばしなすがままに わめきつづけた


きみは あのやまびこをきいたか 逞しい少年たちが 自信で打ち出す球音の 冴えざえとしたやまびこを

体に負けた と相手監督にいわせた少年たちは 何より精気に満ちている 生きものの精気を洗い流さずに

若い体にしみこませている  だから 少年たちの打ち出すボールは 誰のものより いきいきと転がり

誰のものより のびのびと飛翔する 金属音はバットの響きだけではなく 少年たちの活力の万歳だ


かつてのさわやかイレブンは 涙ぐましい健闘の時を超え 猛々しいまでに 自信にあふれたチームになって

甲子園に帰って来た 失われた野性の時代に 黒々とした顔と よく光る目と 時にこぼれる白い歯と

大胆にふるまえる度胸と 野性故に律する節度を心得て 少年たちは勝ちつづける



49校も、日を重ねて、ついに2校になってしまった。16校が8校になり、8校が4校になるこの期間は、
夏が急速に去って行く慌ただしさと、もの悲しさを感じさせて特別のものである。
帰って行った47校を呼び戻すことは出来ないし、傾きかけた季節を戻すことも出来ない。

さて、池田高と広島商だけが今甲子園に残っている。 久々に怪腕と呼びたい雰囲気を持った畠山投手と、
豪打を誇る池田と、軟投技巧の池本投手と、試合巧者が伝統の広島商とは、実に対照的な両校が残ったものである。
三回戦以後の三試合、実に43本のヒットの池田と、わずか15本のヒットの広島商が対戦するわけであるが、
この数字が全くあてにならないのが甲子園である。

193名無しさん:2018/07/15(日) 11:51:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1982年8月20日  決勝  「 猛烈な季節 」


列島は既に秋の色で 常に雨雲が覆い この甲子園でも 雨のない日はわずかに三日だった

ジリジリと照りつける 狂熱の日の下での若者の祭典は ついにただの一度も 夏の舞台に恵まれなかったが

しかし そうはいっても 猛烈な季節だった 猛烈な少年たちの 猛烈な活躍は 甲子園神話に幕をひいた


如何に勝つべきかの戦略や そのために身につける技術や そのために形づくるタイプは 過去の神話になってしまった

少年というものは猛烈なものなのだ ほとばしる生命力や 一瞬の燃焼力は誰よりも激しい


猛烈な少年たちは 選手である前に そういう摂理にそった少年だった 

一人一人がいきいきと 誰はばかることなく発散し 駈け巡った 


灰色のうすら寒い夏を 興奮で渦巻かせたのは この猛烈な少年たちだった 熱い魂があってよかった

そして すべてが終った時の 感傷の種類も どこか違っていた 明るい 明るい感傷だった



徳島県に初めて大旗が渡った。阿部牧郎さんの小説「ワシントンの陥ちた日」というのは大変素晴らしい作品で、
昭和17年の徳島商業の幻の優勝について書いてある。
この小説のことにふれる紙面はないが、池田高校の優勝でいくらかは幻でなくなったといえよう。

とにもかくにも、幻にならない時代を危いながらも保っていることを喜ばなければならない。
それにしても、池田高校の優勝は猛烈であったの一語につきる。

6試合総得点44点、ヒット総数85本、ホームラン総数7本でありながら、大型チームとか、
大型打線という評価とは少し意味合いが違っているように思う。
精気と活力と力と個性が基本になっていることが、強くなっても、なおさわやかな因となっている。



1982年の出来事・・・ホテルニュージャパン火災、 羽田沖に日航機墜落、 フォークランド紛争、 五百円硬貨発行、

              東北、上越新幹線開通、 長崎集中豪雨、 テレホンカード発売、 戸塚ヨットスクール事件

194名無しさん:2018/07/15(日) 13:05:17
「  夏の公立校アラカルト  」


☆ 優勝回数・・・ 私立58回に対し公立は39回。 松山商が優勝した96年に38回ずつで並んだが、
           以降21年間で公立Vは07年の佐賀北しかなく差がついた。
           96年松山商―熊本工は最後の公立同士の決勝。


☆ 出場校数・・・ 49代表となった78年以降、公立が最多だったのは79年の31校。
           箕島が池田との決勝公立対決を制し、春夏連覇を達成した。 元号が平成となった89年以降は公立劣勢。
           私立を上回ったのは94年しかない。 同年は公立の佐賀商が優勝。


☆ 商業高校・・・ 全大会に欠かさず出場。 広島商が制した88年は14校を数えたが、昨夏は初めて1校(高岡商)だけに。


☆ 公立王国・・・ 徳島は23度出場の徳島商をはじめ全出場校が公立。


☆ 私立の壁・・・ 神奈川、大阪の公立校は横浜商、渋谷が出場した90年を最後に夏の甲子園が遠い。



昨夏の甲子園大会は49代表中、公立校が8校にとどまった。
49代表制となった1978年以降の最少を更新し、勝ったのも2校、合計で3勝だけ。
これらも外人部隊が席巻するようになっては、仕方なしか。


このたびの西日本を中心とした豪雨により、被災された皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。
皆様の安全と、一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

195名無しさん:2018/07/15(日) 15:52:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月8日  一回戦  「 幕は上がった 」


幕は上がった 今年の夏はまともに勝負を挑んで来た 最大の讃辞を日光の照射にこめて

少年よ 心の中の一匹の牛のために戦うがいい その激情にふさわしい幕を上げよう


甲子園だ 夏の挑みを しっかりと受けとめた 少年たちがいた

横浜商業  鹿児島商業  いきなりのクライマックスは 夏も面食らっただろう

おそらく四十度に熱せられた土に それ以上の昂りが 余韻として残されている


四十九代表 七百三十五名のそれぞれの期待と 興奮と 歓喜と 緊張の足が

確かめ 踏みしめた戦場には 掃いても ならしても消し去れない 青春の心が居座っている

その中で全力を出しきることは難しい ましてや 劇的になど・・・


時間の流れの中でじゅうりんされ 呆然の間に終わることが多い  しかし その第一試合に於て

南の健児たちは 胴上げなしで乗りこんだ意気を見せ 


東の優勝候補は 意気に呑まれることなく Yの勲章を手に入れた 幕は上がった 

今年の夏は いつもより 更に雄々しい牛が 少年の胸にいると見た



何故か、このように暑さの中で高校野球を迎えるのは、久々という気がする。そのせいだろうか、
舞台は整い、待ちかねて幕が上がったという思いがしてならない。

無気力にスタートすると、全体に熱さが伝わるまでに時間がかかる。
しかし、初戦が激しさを見せてくれると、次もそれ以上の高揚を示すものである。

第一日の第一試合、第二試合の延長戦は、昭和39年以来のことだというが、
今や、魂の会わせ鏡となった感のある高校野球が、空騒ぎでない浪漫の一本道として、
光輝く予感がする。 一匹の雄々しい牛を欲しているのは、少年たちより、我々大人の方なのだから。

196名無しさん:2018/07/21(土) 10:01:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月9日  一回戦  「 大魚を逸したか 」 


大魚を逸したか いや そうではない 釣り落した勝利よりも もっと巨大なものを 甲子園から釣り上げた筈だ

慰めの言葉だと思わないでくれ 気休めなどと考えないでくれ 


今日を思えば勝利が価値を持ち 明日を思えば敗戦が意味を持つ さらに 五年 十年 三十年と過ぎた時 

きみたちが釣り落した大魚と 同時に釣り上げた見えない大魚の 本当の重さがわかるに違いない 

それでも勝ちたかったというだろう たとえ 敗戦に 光輝く価値を認めたとしても やはり勝ちたかったというだろう


掌の中にあり ただ指を曲げて 握ればいいだけになっていた 勝利の姿を見たきみたちに 今は言葉はない

しかし あえていわせてくれ 大魚は逸したか いや そうではない 


揚はきらめき  青空は映え 入道雲が氷壁の連なるアルプスに見え 草に陽炎がゆれ 土に逃げ水があり 

きみたちは敢闘した 多分 何年も後 同じように暑い夏の日に きみたちは 釣り上げたものを発見する



更に詩をつづけるなら・・・人と人の戦いでは、きみたちは圧倒した。少年と少年の戦いでは、きみたちは勝者だった。
ただ、西の強豪には魔が棲んでいた・・・と書くだろう。

吉田高校は勝っていた。どう考えても、負けにつながるプログラムは、この試合に限っていうなら、インプットされていない。
スクイズ失敗で、二死無走者、カウント2-3になり、しかもスクイズ出来なかったという動揺のある打者が、
同点の超大ホームランを打つなどとは、どんなコンピューターも予測出来ない答えである。

しかし、逆からいえば、箕島高校には、この不可能を打破する不思議な力が備わっている。
かつて「最高試合」という詩を書いた箕島ー星稜戦をまざまざと思い出し、また、奇跡という言葉を使わせられるのかと思った。

197名無しさん:2018/07/21(土) 11:17:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月10日  一回戦  「 チャンピオン 」 


球児の誰もが口をそろえて 目標はきみたちだという そして 甲子園で戦う相手を選べるのなら 池田とやりたいという

永遠に巡り合う機会がないであろう 弱小の高校の選手までもが 目を輝やかせ きみたちの名前を口にする


3567校の それぞれの15名の選手 5万3505名の球児たち さらに その倍数の 野球を愛する高校生が 池田と戦えたらと思っている

夏に勝ち 春に勝ち 頂点に立った少年たちは 史上初の三連覇をめざして また甲子園にやって来た


きみたちが登場すると スタンドは倍にふくれ上り どよめきが低い興奮でかけ巡る 人々はきみたちに 何を求めているのだろうか

ぼくはきみたちが好きだ  だから 勝つことに慣れないでくれ  勝ったら狂喜してくれ 危機にはおびえてくれ

目を輝やかせ 唇を結び 頬を紅潮させ  勝ったら 飛ぶように駈け 抱き合ってくれ それが三連覇の鍵だ



かつて、これ程までに注目された高校球児たちはいなかったであろう。高校野球にチャンピオンの宿命、双葉山や、ロッキー・マルシアノや、
ニューヨーク・ヤンキースや、ビヨルン・ボルグが背負った不敗の期待を感じるなどとはないことである。
史上初の夏・春・夏の三連覇の期待は、もはや、要求といっていい強さで支配してしまっている。

勝って欲しい、勝たなければならない、というのは何と重いことだろう。 しかし、何と幸福なことだろうともいえる。
重いか、幸福かは、誰のために戦うかできまって来る。池田ナイン、いや、フィフティーン、自身の歓喜のために偉業を引き寄せて欲しい。
余りある活力がほとばしる結果としての勝利を期待している。 笑え、叫べ。

198名無しさん:2018/07/21(土) 15:05:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月11日  一回戦  「 ボールよ走れ 」 


エースであるから 血マメのつぶれた指でボールを握り 懸命に投げつづける 

痛ましさを感じさせないように 動揺を誘わないように 平然をよそおいながら投げる ボールよ 走れ 

もはや 今のぼくには 力を発揮する術も 技を駆使する手だてもない

あるのは ただ ボールよ 走れ と祈ることだけだ


何ということだろう 晴れの甲子園にやって来たというのに 完全でない状態で 投げなければならないとは

学校は七十七年目の初出場で 悲願の達成に湧き返り しかも 対戦相手は 願ってもない強豪だ


おそれるものか 巨象だって倒れないわけではない 前脚を折りたたみ 地響きをたてることだってある

それを夢見ていた ボールよ 走れ うなりを上げて行ってくれ せめて百球だけ 百球だけ走ってくれ


巨象は倒せないか 七十七年目は飾れないだろうか エースであるから投げつづける 懸命に・・・ 

しかし 巨象は無傷で立っている



北陸高の竹内投手が、右手中指のマメをつぶし、おそらくは血染めのボールとしながら投げつづける姿を見て、
声をかけてあげたい。 出来れば、胸の内なる思いを代弁してあげたいという気持ちになった。

彼の姿から、悲壮さが感じられたら、そうは思わなかったであろう。 悲壮でなく、ひたむきさ、
真面目さであったから、そんな気になったのである。 悲壮感を賛美するつもりはさらさらない。

合理的にものを考えれば、明らかな負傷者に競技させることはない、ということになる。
しかし、人のドラマは合理では成立しない。 合理でいえば、負傷さえ不注意、不届きということになるのだが、
そうであっても思いはある。 代弁してもいいじゃないか。

199名無しさん:2018/07/22(日) 10:13:18
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月12日  一回戦  「 大器に贈る言葉 」


甲子園が大器に微笑むとは限らない 時に 過酷な仕打ち わざとらしい程の 冷淡さを示すことがある

大器が評判通りの大器として 喝采も栄光も未来までも 手に入れたというのは少い


大器であればこそ なお 好意という名の微笑は示さない それが甲子園なのだ 

甲子園は母にもなり 父にもなる きみには 多分 父の心で接したのだろう


しかし 厳格でやさしい父は 喝采と栄光はとり上げたけれど 未来に対しては文句なく 目を細めてくれた筈だ 

もう一本 あと一本 あるいは あと一球の選択で 局面は変わったかもしれない 

もう一本 あと一本 あるいは あと一球の選択で きみの手には 喝采と栄光も残されたかもしれない。


しかし 終ってみれば敗戦投手だった 甲子園の一番大きな贈り物は 試練とともに手渡した未来だ

母のぬくもりは示してくれなかったが 炎熱のもとで 父の大きな愛情に育まれた大器よ 

きみのたった一度の甲子園は 余りにも短く早く行き過ぎたが きみなら どこででも会える 何しろ未来を手にしたのだから 



騒がれた大器が、評判通りの活躍を示し、幸運にも恵まれるということは数少ない。
大抵は悲劇の、という語られ方をして、甲子園を去っていく。 創価高校の小野投手も、その例かもしれないが、
悲劇の、とはいいたくない。 個人の格闘技でない限り、当り前のことなのである。

小野投手は、久々に感じる、君臨するエースというタイプで、それはそれで楽しみにしていた。
しかし、野球は面白い。 五回に、この君臨エースが打者の時、長打の欲求を捨ててバントヒットを成功させてから、
その後のピッチングが目に見えてよくなった。 それだけでも収穫は大きいだろう。

200名無しさん:2018/07/22(日) 11:18:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月13日  二回戦  「 突然のヒーロー 」


でっかいことをやってしまったよ 二年生のヒーローは 後になってふるえるかもしれない 

周囲の興奮が鎮まり 一人になった時に初めて 掌から二の腕に伝導する 快いしびれに似た感触や 

楽器よりも美しく 弾よりも激しい 球音を思い出すだろう


そして それは おそらく  一生忘れないに違いない そうなのだ  きみは でっかいことをやってしまったのだ

ヒーローは突然誕生する 甲子園という奇跡づくりの名手は 晴れがましさの切符をちぎって

突然に手渡す 手渡しされたことを 気づかない人もいれば きみのように 二枚も使う人もいる


さぞかし 運命論者の甲子園も 満足したことだろう 乱戦の幕切れは 逆転サヨナラ・ホームラン

史上二人目 甲子園未勝利の暗雲は 一気に晴れ上り 歓喜の太陽を呼び戻した


一球は 勝者と敗者を瞬時に逆転させ その過酷な運命の仕組を 戦慄とともに見せつけた

逆転サヨナラ・ホームラン まさに でっかいことをやってしまったよ

この日 南の海を大型台風が ゆっくりと北上していたが 甲子園は青空だった



劇的なヒーローを讃えるというのは、一方で心が痛む。 スポットライトを浴びた宇部商浜口大作選手の対極に、
どうしても悲運の人を思ってしまう。 七回、ピンチでリリーフに立った山下投手の、
冷静な投球に心引かれていたから尚更である。

一球の魔性、冷酷さ、あるいは、劇的要素というものを感じないわけにはいかない。
とんでもない感傷かもしれないが。 さて、この試合に限らず、今大会はスクイズの失敗が多い。
どうやら、これは、監督と選手の間に、甲子園の野球に対するイメージの違いが生じて来た結果だと思うのだが、
どうだろうか。

201名無しさん:2018/07/22(日) 12:31:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月14日  二回戦  「 49番目 」


次々に校歌が流れ 校旗が真夏にひるがえり ヒーローが生まれ 敗者の涙が土を濡らし

熱狂のドラマが始まっているのに 戦う相手がきまらない 早くしてくれ 秋になってしまう 


49番目のチーム駒大岩見沢高校 ヒグマといわれる少年たちが 満を持して登場した日は

夏を一気に秋に変えるつもりの台風が ジワリと接近して来た日で 雲が湧き 時にちぎれて飛ぶ

青空は凄惨な色を見せ 東の風 9・1メートル 波乱を感じさせる舞台だった


ヒグマたちよ さあ 舞台は整った ヒグマたちよ ためこんだ闘志を吐き出してくれ 

相手にとって不足はない 奇跡の神話を 野性の雄叫びで覆そう 元気を出せば何でも出来る

落胆の色も 焦燥のかげりも まるで無いようだ 元気を出せば何でも出来る 


本領を発揮した九回には 奇跡の神話が少しだけ傾いた どうやら ヒグマたちは 今年の夏に間に合った 

49番目は33・3度の夏の中で 嵐の音楽までつけながら すこぶる元気だった



49番目というのがひどく気になる。相手がきまらない学校が一つだけあるということである。
特に不運ということでも、物理的に不利ということでもないが、やはり、たった一校だけ残っているというのは、
心理的には微妙に響くであろう。

去年の49番目はどこだろうと調べてみたら、石川の星稜高校で、遅れてひき当てた対戦校は早稲田実業で、
そのせいでもあるまいが10対1で大敗している。 興奮と緊張とある種の恐怖感も抱いてやって来ていながら、
それらを照らし合わせる標的を持たないというのはどうだろう。
仕方ないといえばそれまでだが、49番目から優勝校を出して安心したい気持ちさえする。

202名無しさん:2018/07/22(日) 15:03:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1983年8月15日  二回戦  「 逃げない清野 」


朝 胸さわぎがした 試合直前にもした もしかして 池田が倒れるのではないか しかし 

そんなロマンチックな胸さわぎは 滑稽な白日夢で 終わってみると 陶然とするような戦慄だけが残った

20安打12点  そして 4安打 完封 何という強さなのだ 


清野投手は逃げない 打たれても 打たれても 真向から投げこんでくる  顎から汗をしたたらせ

乾いた唇を噛み まるで 小型で勇気のある日本犬のようだ  おびえを見せない 救けを求めない

ワンサイド・ゲ-ムでありながら 悲惨さはない 勝負している 戦っている


逃げまどい 姑息に策を弄し それがまた墓穴になるという 乱戦ではない 

12対0でありながら 最後まで美しい緊張の糸はあった  多分 勝者も 彼の勇気を称えるだろう


雨が降って来た 小雨の粒を蹴ちらしながら 球は飛び 球音がほとんどきれまなく

甲子園を覆った雲にこだましつづけ  五万八千の観衆は息を呑んだ 

この猛烈な少年たちを ひきとめる者はいるのだろうか もはや 胸さわぎさえあてにならないのだ



強さに絶対というものはない。ましてや、団体競技ともなると、どこかに弱点が潜んでいるかもしれないし、
その弱点が思いがけない動きをするということもあり得る。 

池田高校にも絶対ということはない。とするのが常識であり、見識であろうが、
今日の池田を見る限りあるいは絶対ということもあるかもしれない、という気がして来るのである。

高鍋・清野投手はまさに乱打されたが決して悪くはなかった。
好投手が好投しながら20安打12点である。一体彼らは何者なのだろう。

203名無しさん:2018/07/22(日) 16:31:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月16日  二回戦  「 ロマンは明日に 」


あのしなやかな躰の あの逞しく張った腰の あの大きな手の 長い指の 

そして 赤胴色の太陽の子の キッと吊り上った眼の 黒々と対象を射る瞳の 

これこそ投手だという條件を 全てそろえた少年に 栄光だけがない


ひょろりと背の高い少年が 若さにまかせて速い球を投げ しかし若さ故に自滅し 涙を呑んだ時から 

一年たち 見違えるような逞しさを身につけ 一年たち  投球術にも熟練が加わり 

そういう未完から完成への道を うっとりとして見つめながら 

ぼくらは 沖縄の歴史に新しい一ページを 確実に飾る日を夢みていた


今年こそ大旗は海を渡るだろう 今年こそ大旗は海を渡るだろう 悪夢は二度くり返された 

まるで ヴィデオ・テープを見るように 去年と同じ相手に 同じように敗れてしまった


大望を托された仲田幸司から 興南高ナインから 熱い視線で見つめた沖縄から 栄光の二文字はかき消えた 

あの少年は去る  ロマンは明日に残された



去年、たった2安打におさえながら、その2安打を四球がらみの時に集中され、悪夢のように4点を失った興南が、
今年もまた、同じ相手に、ワン・チャンスの逆転ではないけれどムードとしては同じの、敗戦を喫してしまった。

興南にとっては、三年計画のラストチャンスであっただけに、無念の敗戦だと思う。
これで、大旗は遠くなったか、それはわからない。 仲田幸司以上の大器を擁して出て来ることも考えられる。

いずれにしても、代表校が優勝候補に数えられるレベルになっている。 体力が出来た、技術も磨いた。
あとは、野球とは、今どこにボールがあり、どんな意味を持っているか、というイメージであろう。

204名無しさん:2018/07/28(土) 11:11:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月17日  三回戦  「 チャンスをありがとう 」


希望とは決して諦めないこと そして 希望とは決して裏切らないもの 多分 きみたちは そう確信しただろう

また こうも思ったかもしれない 幸運は 数少ないチャンスに最大の誠意を尽して 初めて訪れるものだと


背番号12の控え選手に 突如巡って来たチャンスは もしかしたら 甲子園の 想い出づくりだったかもしれない

打席に立つことに意味のある 三年間野球をやったことを よかったと確認する そんな出番だったかもしれない


戦局は不利で 4点をリードされ もう甲子園で 打席は訪れない チャンスに対して誠意を その思いが反撃の口火となった

そして 思いがけなくチャンスは二度訪れた チームは絶望から希望へ 諦めない強さを示して同点になっていた


同点打は ダイビングするレフトのグラブに あと10センチの明暗を示して ヒットになっていた 誰かが 何かが

チャンスを二度くれたのだ 背番号12の控え選手は その好意に最大の誠意で応えた ライト線を破った

ダイヤモンドを一周し 本塁にヘッドスライディングする もう一人の殊勲者の姿が見えた やったぞ!



チャンスの神様は前髪で、来たと思う時につかまないと、行き過ぎてからは、毛のない後頭部はつかめない。
とは昔からいわれている言葉である。 しかし、これはチャンスの到来に気がつくつかないの問題ではなく、
その巡り合いが如何に貴重なものであるかということを、感じるかということであろう。

4-0を八回、九回で逆転した久留米商の重松選手、彼に二度巡って来たチャンスへの対し方を見ていると、
何故か心うたれるものがあった。 石貫の同点打の時の一つのドラマ、その余韻の中でのもう一つのドラマ、
全く甲子園は油断のならない脚本家である。

205名無しさん:2018/07/28(土) 12:20:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月18日  三回戦  「 巨大な好敵手よ 」


さあ 待っていてくれ 全てが整った いつ どこで出会っても たじろぐことはない 躰に力をみなぎらせ

心に闘争心をたぎらせ 目に敬意を 唇に微笑みを そして あふれる歓びで好敵手に会える

必ずやって来てくれ 必ず行く 巨大な好敵手よ もう胸を借りるなどといわない 


春にきみらと対した時 ぼくらは戦う相手でありながら どこか陶然としているところがあった

栄光の決勝戦だというのに 獅子の手強さと 岩の手応えに 動かし難いものを感じ

何て強いのだと讃えていた それ程きみらは圧倒的だった


しかし 今は違う 夏は違う もううっとりすることはない 対等に それ以上に 戦えることを誇りに思っている

最後の夏をきみらと一緒に終らせたい 甲子園が凍りつく投手戦でもいい 甲子園が沸騰する打撃戦でもいい


五十八年の夏といったら あれ と人が思い出すような 完全燃焼の最高試合をやりたい

そして きみらに会えたことを喜びたい ぼくらに会えたことを よかったと思わせたい さあ・・・



学法石川には気の毒だが、今日の横浜商の猛打を見て、これは池田高校への熱いラブレターだと思った。
それは同時に挑戦状でもある。 ラブレターを届ける相手を持った時代というのが一番幸福で、特に男は、
少年であれ、大人であれ常に誰か、敬意をはらえる誰かに対して、書きつづけるものなのだ。 

男の場合、大抵は敬意に満ちた挑戦状という形をとる。 19点という大量得点をあげた試合で、
勝者の方が緊張を保つのに苦心し、常に点差のない状況の戦法をとっていたのが印象に残った。
その姿こそ、ラブレターを出し得る力を備えたという自信ではないかと思う。
神はこの二枚を会わせてくれるだろうか。

206名無しさん:2018/07/28(土) 15:36:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月19日  準々決勝  「 価値ある敗戦投手 」


くずおれた膝を汚した泥は 夏の終止符だった 傾いた躰をささえながら ふり仰いだ空には

既に秋の色が漂い始めていた 何万球という球を投げた三年間が 一球で余韻もなく終ってしまった

熱戦はそこまでだった ダイヤモンドを一周する殊勲者が 無縁の風景に見えた


記録には 敗戦投手野中としか残らない 被安打14 失点3 準決勝進出ならずとしか残らない

マウンド上で如何に美しく 男としての魅力に満ちていたかは 数字の行間には記されない

ただ 他の試合 他の投手と変りなく 烙印のような 敗戦投手


出来るなら その四文字を この日を思い出させる言葉で 飾ってあげたい 胸が熱くなり 興奮にふるえ 

そして 女々しくない感傷に浸れるような・・・  その熱投を その敢闘を忘れない 


何年か先になって 記録を見て 敗戦投手の文字に出会っても 必ず 価値ある敗戦投手であったと

思い出すに違いない 敗れても大きく見える少年よ 静かで 熱くて 狂おしい 稀に見る熱戦だった 



今年ほど、一つの学校を対極に置いて、全てのドラマが見えて来るという大会は、いまだかつて無かったであろう。
池田高校と対戦しようが、全く組合わせの上では無縁で過ぎて行こうが、当事者も、ファンも、池田を重ねて考えてみる。
投手が快投すれば、これは池田に通じるかと思い、打線が爆発すれば、水野をもこのように打てるだろうかと考える。

池田を除く48校が、常に池田神話の中で戦いをすすめた。 考えれば、ものすごい学校が存在するものだということになる。
対戦前は可能性を語り、対戦後は絶望を語っている。 可能性は10%、絶望は100%である。
さて、野中投手の胸には何%でのこったのであろうか。

207名無しさん:2018/07/29(日) 10:16:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月20日  準決勝  「 やまびこが消えた日 」


まさか それは事件だった 池田が敗れた瞬間 超満員の観衆は 勝者への拍手を忘れ

まるで母国の敗戦の報を聴くように 重苦しい沈黙を漂わせた


雲の多い夏空に 麦わらのようなとんぼが飛び 季節は静かに移ろうとしていた たかが高校野球の

たかが一高校に対する  思い入れとしては度が過ぎる 

人々は この少年たちに 何を夢見 何を托していたのだろうか そして 今 何を失い 何に呆然としているのだろうか 


少年たちが かくまでに 人の心の中で築き上げて来た ロマンの大きさに 今 少年たちが敗者となった今

初めて気がつくのだ 甲子園にこだましつづけた山彦が 何かに吸いとられたように消えた日

気温は29.8度と真夏日をきった そして 池田が敗れた まさに それは事件だった 


人々よ呆然自失はおかしい 立ち上って拍手を 山彦にもまさる拍手を 甲子園にこだまし 

渦を巻き 虹を吐きながら上昇する風のように 惜しみない拍手を 少年たちが去って行く

背中に最後の夏の日を浴びて 少年たちが去って行く  普通の少年たちに戻るために



池田高校野球部というのは、思えば、常人の夢であったに違いない。
管理社会の中にあって、虹をつかむことも、雲にのることも、もはやあり得ないと、諦めていた男たちに、
一筋の光明を与え、その光明が天下をも照らし得ることを証明した。

高校野球の歴史の中で、圧倒的強さを示した学校は幾つもある。 名門といわれ、強豪といわれた。
しかし、池田は、それらとは少し違っている。 彼らは誰よりも強く、勝ちつづけたが、強豪校という思い方はしない。
いくら強くても、いくら勝っても、ロマンの旅人のような、素朴なサクセス・ストーリーが似合っていた。
二年もつづけて、いい夏をありがとう。

208名無しさん:2018/07/29(日) 11:25:19
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1983年8月21日  決勝  「 はじめは小石だった 」


何でもない小石が 一つ勝つことに光を放ち 最後には とうとう たった一つの宝石になってしまった

石が磨かれて光沢を帯びる過程を あるいは 生命の神秘を見せて さまざまに姿を変えて行く

動物たちの不思議を ぼくらは PL学園チームに見た


昨日が1なら 今日は2になっていた 今日が2なら 明日は4になる 初戦と最後では 10倍以上の力の差があった

みんな この甲子園で誕生した 思いきり羽根をのばして 殻を破った そして 高く高く翔上がった


未知数はあくまで未知数で ロマンは感じても 信じることは難しい

しかし 未知への期待が全ての扉を開いた そんな優勝だった 


二週間前 甲子園は49代表で埋めつくされ 太陽は燃え 土は焼け 狂おしい夏の祭りに蒸気を吐いていた

たった二週間前 興奮が躰じゅうを駈け巡り 列島は白く浮き上がっていた みんな去って行った

たった二つ残った学校が 影をひきながら行進し 本当にみんな去って行った アドバルーンが風を見ていた 



夏の高校野球は、準々決勝を頂点にして、急激にもの悲しくなる。 大会として、
いよいよ最後の栄光を手にするものは誰かという、クライマックスに入って行くのだが思いとしてはひどく悲しい。 
この感傷が、また魅力の一つでもあるのだろう。 正直いって、いま、躰の支えがなくなったような頼りなさを感じている。

今年の大会は暑かった。 台風が二つも襲来していながら、甲子園だけは避けた。
三日しか晴天のなかった去年と比べると、大変な違いである。 池田高校のV3はならなかった。
横浜商は春と同じスコアで決勝で敗れた。 沖縄へはまた海を渡らなかった。 そして、PLが勝った。



1983年の出来事・・・ 東京ディズニーランド開園、 任天堂ファミコン発売、 NHK連続テレビ小説「おしん」

               福本豊939盗塁で世界新記録、 大韓航空機撃墜事件、 三宅島大噴火、

               田中角栄元首相に実刑判決 (ロッキード事件)

209名無しさん:2018/07/29(日) 15:22:13
「 甲子園の詩 ( うた ) 」 はこうして生まれた   阿久さんとの37年  ( 小西良太郎 )



「 判った。そのスケジュールじゃ確かに無理だろうけど、一応本人にどうするか聞いてみてよ 」
阿久悠さんの秘書児島俊さん相手に、こちらはねばった。 あくる日の甲子園準決勝二試合の観戦記執筆をねだる僕。

その日のうちに渡す歌詞が六篇もあるから・・・ と断る彼女。 電話での押し問答に少し隙間が出来て、
阿久さんの答は 「 OK! 」 だった。 ほらね、これが二人のつき合いさ・・・ という得意顔で、僕は翌日の午後、
彼の仕事場へ出かけてテレビ観戦につき合った。


阿久さんが机に向かったのは、小一時間ほどだったろうか。 夕刻、手渡された原稿は、観戦記を超えて一篇のエッセイである。
球児たちの闘いに 「 男の原点 」 を見、時代とのかかわり方を語り、いろどりみたいに入道雲と赤トンボ・・・。


その真情と詩情は 「 君よ八月に熱くなれ 」 のタイトルで、1976年8月21日付けスポーツニッポン新聞の一面を飾った。
それから三年後、 「 あれはいってみれば総論だったでしょ。 その各論を一日一詩にして、期間中連載ってのはどう? 」

「 そうね、面白いかも知れない・・・ 」 月に何度も続けていた食事と雑談の中から 「 阿久悠の甲子園の詩 」 はこうして生まれた。
1979年の夏、連載はスタートした。


阿久さんは球児たちを 「 甲子園という聖地を目指した巡礼者 」 と捉えた。 彼らが青春を賭して戦う姿に 「 正しさ 」 「 美しさ 」
「 清らかさ 」 「 厳しさ 」 「 潔さ 」 を見、それらを限りなく 「 貴いもの 」 とした。 自立から生まれるそんな美点を、
日本人はいつからか見失っている・・・ そういう彼の思いは、おびただしい数のヒット曲や多くの著書にも共通している。


阿久さんの仕事ぶりは、僕らを仰天させた。 テレビの前に座って毎日四試合、一投一打を凝視する。
阿久式スコアブックに色鉛筆で、球児たちの動き、生まれるドラマとその背景が記録される。 ブラウン管から眼をはなさないために、
食事はいつも丼めし。 そんな難行苦行の果てに見つけた、その日一番の感動シーンを詩に書くのだ。


僕は当日の注目カード一試合を見て・・・と依頼した。 ところが野球は筋書のないドラマ、どこでいつ、
どんなクライマックスが生まれるか判らないからと、阿久さんは全試合をフォローする。 そこまでやらなくてもと思っても、
そこまでやらなくては気が済まない阿久さんの誠心誠意に、僕は脱帽するしかない。


「 原稿料は一日一篇分。 十五日間の拘束料は出ないだろうけどさ 」 と彼は笑った。
70年代以降、阿久さんは 「 怪物 」 の名をほしいままにするヒットメーカーだった。 人気者が軒なみ彼の作品を歌った。

そんな仕事を夏の十五日間、完全に中止して甲子園・・・である。 たかがしれた新聞社の原稿料を伝票に起こす都度、
「 彼のこの間の見込み損は億単位になるか!? 」 と、僕は肩をすくめたものだ。

210名無しさん:2018/07/29(日) 17:16:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月8日  開会式  「 もう一つの選手宣誓 」


ちょうど 今  九千キロはなれた海の彼方に オリンピアードの火が燃えている 視線を集め 耳をそば立たせ

涙腺を刺激し 心臓を高鳴らせ 人間の歓喜の祭典に 地球は傾いているぞ

 
そして 今日 もう一つの聖火が 日本の若者の未知なるエネルギーで 点火された 

炎なき炎が 夏という聖火台で 燃えつづける これで地球は真直になるぞ 選手宣誓は 甲子園から未来へと語った


若者が若者の言葉で思考し 若者の言葉で率直に述べた いたずらに蛮声に頼るのではなく しっかりとよく通る声で

しかし 狂気に至らずに 若者を証明した若者を讃えたい 若者の唇に 未来と云う言葉を咲かせた


選手宣誓は素晴らしい 参加校三千七百五校 十万の球児の中の選ばれた一人 

福井商業高校野球部主将 坪井久晃 きみは エドウィン・モーゼスを超えた



真夏日が二十数日つづいている。 熱帯夜も同様で、その寝苦しさをまぎらわせるために、
オリンピックの女子マラソンを見たりする。 ベノイトの完全独走で、面白くもないレースだと思っていたら、
最後の最後、アンデルセンの劇的完走があったりする。

政治がどうのこうのといっても、戦う瞬間には、介入しようのない人間の祭りである。それを見ればいい。
その時は人間ではなく国民になっているのだから。 高校野球もそうである。
我を忘れて、一番正直な、一番基本的な若者の顔を見せてほしいと思う。 

生きものの魅惑と、若さの純度を、形でなく生理で示してくれたなら、過熱という言葉は空しくなる筈である。
さあ始まったと、ぼくも宣誓する。

211名無しさん:2018/08/04(土) 10:05:24

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月9日  一回戦  「 凧 凧あがれ 」


風は浮力にもなれば 落下を強いる圧力にもなる 大凧は ガッと風を受けとめ

ギリギリと歯がみしながら耐え ついに 自らの浮力として 天空高く舞い上った 


凧 凧あがれ 天までとどけ  風 風やむな 嵐に変れ 風を我がものにした大凧は

自らのうなりに鼓舞されながら 高く 高く上る 見えなかったものが見えて来る

凧よ そこから何が見える


甲子園は遠州灘の砂丘になった 42度のグラウンドの熱は そこで 試練のつむじ風をつくった

浮くか 落ちるか 過酷な一瞬が地上の凧に訪れた 浮いたぞ 上れるぞ そう感じさせる瞬間が確にあった


0-7からの大逆転は 異常などよめきを巻き起し 絶望という言葉が 甲子園に存在しないと教えた

凧よ どうせそこまであがったら めったに見れないものを 見てみようじゃないか



逆転というのは過酷なもので、した方の興奮で語る分には楽しいが、当然のことに逆転された側がある。
そちら側に立ってしまうと、どのように熱っぽく肩を叩いても、感傷である。
甲子園の魅力の半分以上はこの感傷である。 青春とか、戦うとか、夏とか、有限のものには全て感傷がある。

春の大会に比べて、夏にその色が濃いのは、三年生が卒業するという有限の感傷があるからである。
勝者のみに有頂天になっていると、心ないしわざのように思われる。

それもわからないではないが、いっそ無邪気に称えてしまうこともいいのではないか。
めったにやれないことをやった若者には、その例外を認めてもいいのではないかと、手放しで凧々あがれである。

212名無しさん:2018/08/04(土) 11:31:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月10日  一回戦  「 標的はきまった 」


さあ 諸君 標的はきまったぞ きみらが汗を流し登る山が くっきりと全貌を現わし

過酷なまでに堂々と 高さと 美しさと 見事さを 誇って見せたぞ 


諸君は この山に ひるむか おびえるか それとも 闘志をたぎらせ あるいは 冷静に策を練り

いずれにしても いつかは登らなければならない 楽園をめざすには 必ずこの山を越えねばならない 


PL学園14-1享栄  清原4打数 4安打 2四死球 3ホームラン 桑田被安打3 奪三振11 失点1

全員安打 毎回安打 一試合4ホームラン 


ギラギラの夏の日の中に 優勝候補はいささかの緊張もなく まるで この場が最も心地よいと云うように

それぞれが最高を それぞれが最大を 嬉々として見せた それにしても 何と云う 完璧な船出だろう


さあ 諸君 高校生が同じ高校生を 標的にして恥じることはない すぐれた能力への敬意は 自らをも高める

しかし 諸君 決して始めから屈してはいけない



勝負ごとのロマンには、四冠を宿命づけられているカール・ルイスが、期待通りに栄光を手にして行く絶対のものを、
陶然として見つめるのもあれば、大番狂わせで、モロッコに歴史上初めての金メダルをもたらした、
女子四百メートルハードルの、ナワル・エル・ムータワキルのような意外のものもある。

果たして、今年の高校野球の筋書きは、どちらのロマンを描こうとしているのか、絶対のものか、意外のものか、
どう云う終幕のエクスタシーを与えてくれるのかと、思ってしまった。

それにしても、PL学園が今日示して見せた強さと完全さは、絶句しそうになりそうである。
ロマンの結末は、ぎりぎりまで二つあった方がいい。 日本のモロッコがあったっていい。

213名無しさん:2018/08/04(土) 12:38:20
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月11日  一回戦  「 入れかわったヒーロー 」


こんな残酷な幕切れを見たことがない その瞬間 二万三千人の観客は 何が起きたのか信じられない目をして

白球の行方を追い ヒーローを讃えることを忘れていた ダイヤモンドを一周するヒーローより

マウンドに立ちつくす悲劇の主人公に 多くの視線はそそがれたのだ 


劇的とは いつの場合も残酷だが それにしても 完璧なお膳立てで劇的を作るとは 残酷を通りこしている 

延長十回裏 法政一高初安打 その初安打がサヨナラ・ホームラン 人々が我に帰り 突然入れかわったヒーローに

喝采を送ったのは 何十秒後であったろうか 記録とは何なのだ 記録によって讃えられる栄光とは・・・


結局 境高 安部投手には 敗戦投手の烙印しか残さない  九回を投げ終え 無安打無得点 投球数百十六

四球一 奪三振九 残塁ゼロ 本来なら晴れやかにお立台に昇り 三年間で最高の投球だと語り 永遠の記録に残される


たった一球の失策を たった一球の好球に変えた末野は 何分の一秒かの ボールとバットの接触に

全てを入れかえる奇跡を見せた



そして詩はつづく。 ヒーローは二人いた。 そう記録に残したい、と。 
何気ない思いで見つめていた試合が、たとえば、この法政一高と境高戦も、単なる貧打線で、大して昂揚もしないでいたが、
いつの間にか、最後に至る伏線になっていることに気がつき、唖然としてしまうことがある。

思えば、小しゃくな伏線の張り方で、片や孤軍奮闘、援軍のないまま快投をつづける投手がいるかと思うと、
片側に直撃の打球を受け、手をしびれさせながら投げる投手がいる。

「 憎らしい程の 」と「 気の毒な程の 」とが、最後の最後で入れかわる。 しかも、十回二死までその状態を引っ張っておいて・・・
こう云う試合を見つめて、大人たちは、つい人生を思ってしまうのだ。

214名無しさん:2018/08/05(日) 10:11:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月12日  一回戦  「 好試合に喝采 」


世の中が 激とか 烈とか 猛の時代になり 好ましいなどと云うささやかな思いは 路傍の石のようになっていたが

なかなか なかなか捨てたものじゃない 好試合は どっこい生きていた


飾りけのない純白のユニホームは 銀粉をまきちらしたような夏の光に ただ一つ許された美しさで 人々は安堵する

何故か見たこともないのに かつての中等野球を想い 少年倶楽部のような感動を覚える 明石高校対北海高校


それ以上を求めることは理想でも それ以上を装うことは空虚である 装うことに誰もが慣れて そもそもを見失いつつあった時

突然原点に出会えたのは 誰かのメッセージの気がする もしかして これが高校野球ではなかったかと


日ざしの強さは影の黒さでわかる 乾いた砂に影がしみついている そして ユニホームの白 いつか見た光景ではないか

驚愕はなかったが満足はあった まさに久々に どちらにも勝たせたいと思う  小さくて偉大な好試合 

明石5-3北海  延長11回 勝っても 負けても きみたちはチャーミングだ



ホームランに慣れて来ると、ホームランの出ない試合で興奮することが難しくなる。
第一、今日まで、十八試合でホームランのない試合は、三分の一の六試合しかない。
かなりキッチリした試合でも、ホームランがないために、スリルに乏しい凡戦に思えたりする。

しかし、そうではないことが今日証明されたように思う。 「 らしい 」とか「 かくあるべき 」と云うつもりはさらさらないし、
それの強制は嫌悪するが、しかし、忘れていたいいものを発見することは嬉しいものである。
野球が変わったを云い訳にしないように、もう一度、それぞれの野球を見つめてみてはどうだろう。

215名無しさん:2018/08/05(日) 11:38:53
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月13日  二回戦  「 候補が敗れた日 」


瀬古が敗れ キャステラが敗れ イカンガーが敗れ 宗兄弟が敗れ サラザールが敗れた日

箕島が早々と甲子園を去った 八月十三日 今日は 候補が敗れる日かもしれない

そして 八月十三日を勝者の日としたのは カルロス・ロペスと取手二高だった


甲子園で数々の魔術を演じて見せ 幾度となく奇跡を呼び起し 神話になり 伝説になり

語りぐさになった逆転を 今日は 取手二高がやって見せた 


突然の雨も 水をさすのではなく 火にそそぐ油となるとは 如何にも魔術らしいではないか

しかし 魔術で勝ったのか いや そうではない 劣勢に耐えつづけた粘力が 壮大なワンチャンスを与えた

それに応えたエネルギーが 魔術に見えただけだ


エースは九回裏になって エースの美意識を発見した いい球と悪い球の他に 美しい球と美しくない球のあることを

エースは実感したようだ 逆転の魔術より 自然の才能開花の魔術の方が 見ていて嬉しい

八月十三日 候補が敗れた日 新たな候補が誕生した



強いと云われるチームが、真に強豪ぶりを発揮するとか、逸材と云われる選手が、真に怪童ぶりを示すには、
そのままの力競べでは駄目で、一皮むける必要がある。 

これが何より難しくて、筋力を鍛えても、二百球投げても、マシーンを打ちつづけても、一皮はむけない。
何故なら、時と、場と、相手と、状況が必要なもので、もし、運、不運と云うことを云うなら勝敗ではなく、
一皮むける機会に恵まれたかどうかを論じるべきであろう。

それは、試練とチャンスで、この一つしかない機会に化けられたチームなり、選手なりは、一皮むける。
取手二高と、そして、エースの石田投手は、そうなった気がする。九回裏には別人に見えたから。



取手二の茨城県勢初優勝が、阿久悠さんには見えた瞬間だったのでしょうか。
エースだった石田さんは、直腸癌のため、41歳の若さで天国に旅立っています。

216名無しさん:2018/08/05(日) 12:56:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月14日  二回戦  「 小さい勇者 」


百六十九センチ 五十五キロ なで肩の華奢な躰と 少年の面影を残す小造りの顔は その数字よりはるかに小さく見える 

まるで 猛々しい牡牛に対する闘牛士が 紅顔の少年であったというように 人々は不安にさえ思う

しかし やがて その不安が 思い過しであったことを知るのだ 


強打者のわずかな弱点に 針の穴を通すような神経を使う投手に 胸が痛くなるような感動を覚える

行ってくれ 思うところへ行ってくれ  一球一球に祈るようだ


ボール一つ狂っても 強打を浴びてしまう緊張の中で 明石・高橋投手は投げつづけた 

勝つとか 負けるとかを超越して 一球の成功を喜び  一球の失敗を痛ましく思い

そして ワンサイドでありながら弛緩せず 声援を送ったというのも珍しい


試合開始から終りまで その表情は全く変らない 気負いも おびえも 落胆もない 

表情を変えることによって ぎりぎりの緊張や  めいっぱいの勇気や考えぬいた知恵がくずれてしまう 

そう信じているかのようだった  巨大なものに立向う時の人の姿 そう 人の姿という大切なことを 敗戦投手は教えてくれた 



PLの強打線に立ち向かう明石高橋投手のストライク・ゾーンは、葉書き程の大きさしかなかったに違いない。
残念ながら球威のない彼は、その葉書きの大きさに命中させるしか活路はない。
ぼくは、一人の投手が、一球を投げるのに、これ程考え、これ程祈り、冷静に投げようとした姿を見たことがない。

それは、野球というより、射撃か、アーチェリーかを息を詰めて見ているような感じで、
彼が設定したであろう標的をボールが通ると、ホッとしていた。 それにしても、その標的を少しでも外すと、
確実に打ち込んで来るPL学園の強打は恐るべきもので、これだけ凄いと敵役にされてしまいそうだ。

217名無しさん:2018/08/11(土) 10:07:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月15日  二回戦  「 無傷の甲子園 」


ブルーライト・ヨコハマを 甲子園で聴くのも妙なものだが その昔 アメリカだって セントルイス・ブルースを

マーチにして行進したのだから 妙ともいいきれない 


あの昭和46年を想い出すために さん然と輝く栄光の記憶を よみがえらせるために

歩いても 歩いてもは マーチになる 甲子園七連勝 桐蔭学園


小粒は非力ということではない それどころか 堂々の技と したたかな知恵と 心も細胞までもフリーにして

たとえば弾力のある壁のように 相手の力を吸収する


気を合せ 気を外し 気を呑み 凡にして非凡な集団の野球は しなやかな武道を思わせる

まことに平凡に見える ゴツゴツしたところがない 当たり前のことを 当たり前のように

律儀に積み重ねながら いつの間にか 当たり前でない結果を出している


昭和46年 初出場初優勝 その年 ブルーライト・ヨコハマ ヒット 

昭和59年 あとでマーチにする曲は何か? 8月15日 正午 黙とう 60秒間 時間が静止した



桐蔭学園の関川浩一選手が、今大会の選手中、一番若いということである。
昭和44年4月1日生まれというから、生まれた時既に戦後は四半世紀を過ぎようとしていたわけだ。
当然のことに時は流れ、過去は遠くなる。 忘却も激しいし、今いったように忘却ですらない世代もいる。

戦争を語ることに気をとられ過ぎ、いつの間にか疲れてしまったが、平和はどこから来たか、
という話し方では語っておいた方がいいだろう。 黙とうの光景を見つめながら、そして、その後、
昭和42年、43年、44年生まれという若者を見つめながら、そう思う。

さて、まことに唐突だが、今日の桐蔭学園の試合を見て、筋書きの変更を感じないだろうか?
これは予感だが・・・。

218名無しさん:2018/08/11(土) 11:26:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月16日  二回戦  「 夏の日に桜散る 」


老監督は前屈みにならない 背筋をのばし 端然と ベンチの前にいる 

甲子園出場が嬉しいと語った時は 稚気にも似た含羞を見せていたが 今は 夏という季節と 

子供という活力を同時に見ながら 一徹さと 冷哲さと そして 時に 詩人のような顔を見せる 


日大一高 高橋理監督 六十一才  子供たち 十六才  十七才  十八才

日大一高 夏の日に 桜咲くか散るか 二回戦 スタンドはスクールカラーの 時ならぬ桜のあざやか色

揺れ どよめき 時折しずまる 老監督の目差しを受けて エースは力投する 


四十数才の年令の差も 白球を中に置き 魂を燃焼させることを語り合えば 全てが埋まる 

だからエースは再三の危機をしのぎ 汗にまみれて投げつづける


入道雲が湧き立つ コバルトブルーの空が秋を拒む  だが 秋は影に棲みついている 勝利は逃げた 

伏兵の一振りが決勝点になった  老監督はベンチの前に立ち 帽子を脱ぎ 両手を膝に置き一礼する

その時 初めて 六十一才のように思えた  しかし 多分 胸のうちは 来年また来ますであっただろう



今日は、人そのものが気になる日であった。 試合経過の中の働きに応じた評価や讃辞ではなく、
人間そのものの個性とか、人格とか、魅惑と云ったものである。 日大一高の高橋監督のことは何も知らない。
六十一才で、やがて六十二才になる今大会の最年長監督であると云うことぐらいである。

第三試合になって、急に眩しくなり、その強烈な光の中で老監督の姿を見たら、
何か日本の美意識を持ちつづけている人のように思えて来た。 それで詩にした。 フィクションである。

甲子園の高校野球の魅力は、多分に、フィクションを思い描ける人物に出会うことにあるのではないかと思う。
沖縄水産城間投手の、猟師を思わせる風貌、部厚い胸板、事実素もぐりが得意だと云う話などをきくと、嬉しくなる。



この頃は、61歳で老監督だったようですね。 今なら70歳過ぎというところでしょうか。
智弁和歌山の監督は72歳、興南の監督は68歳、創志の監督は65歳、まだ元気でやれそう。
群馬県の利根商、豊田監督は、今年82歳で監督を退くそうです。 この夏、試合前のシートノックもやった。

219名無しさん:2018/08/11(土) 12:52:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月17日  三回戦  「 竜二への鎮魂歌 」


田口竜二投手 きみにとっての甲子園は 何だったのだろうか それは記録が語るように

悲運の証明に過ぎなかったのだろうか  思いがけない陥穽が 常にきみの栄光をはばみはしたが

しかし 悲運の投手という呼び名は きみ自身が固辞してほしい  


いや 甲子園は ぼくの荒野であり 大洋であり 峻険な山でしたと 負け惜しみでなく語ってほしい

荒野の渇きに 大洋の怒号に 山の神秘に勝てなかったのだと 謙虚に思ってほしい

その時 きっと 甲子園は勲章になるだろう


真夏日が暦にさからって照りつける日 五万の大観衆の吐息と いくぶんかのはげましの拍手の中で

きみの甲子園はたしかに終った  蟻の一穴が大洪水を招く教訓も  平常心が如何に難事であるかも

力とは何かも 挑むとは何かも 甲子園の砂よりも多くのものを 少々手荒く覚えさせられた


そして きみは去る その背中に これだけはいいたい いつか万全の姿のきみを見たいと・・・

きみはまだ ぼくたちに 完璧という姿を見せていない それを見せつける責任が きみにはある 



田口竜二投手は、いつの間にか、打倒PL学園の切札にさせられてしまった。
PLが強さを発揮すればするだけ、人々の期待は、この大型の左腕投手にそそがれるのである。
もしかして、田口なら、あの強打を封じられるかもしれない、と人々は勝手に思うのである。

それは、ある意味では大器といわれる人の宿命で、常に多くの夢やら、希望やら、
中には身勝手な願いまでを背負わせようとする。 地元の期待だけでも大変なのに、
全国の野球ファンの祈りまで背負わされてはたまらない。

春の雪辱という意識も逆作用して、都城のチームごと自滅した。 大器に望みたい。
この大器に欠けるものがあるとするなら鋭さだろう。

悲運を切り裂く刃物のような肉体をつくり上げてほしいと思う。

220名無しさん:2018/08/11(土) 15:12:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月18日  三回戦  「 モロッコの金メダル 」


粘り強く あくまでも粘り強く 耐えて 耐えて 耐えぬき  そして いつか活路を見出す

1点ぐらいと思えば5点になる  もう駄目かと思えば全てが崩れる


一勝したら充分だと甘えたら 相手の蹂りんにまかせて恥をかく 精神の揺らぎをぎりぎりで保ち

念力で いや 恐るべき念力で 危機を切り抜けつづけた 新潟南高校 


それは あたかも 野球の一回の危機など 日本海の風雪に比べたら 何のことはないといわんばかりに

黙々と しかし 烈々と 投げ 守った 危機は何度あったか 毎回が危機でありながら 崖っぷちで力を発揮する


冷徹さも 闘争心も その時になって底力を見せる 決して諦めないこと これですよといわんばかりに

決して諦めないこと 普通のことですよといわんばかりに エースが耐えて 投げぬき 


代打の主将が追撃の火をつけ 超美技のレフトが そのラッキーを攻撃に持ち込み あの巨大な 

まことに華やかな エースの一発を誘い出した どうやら モロッコの金メダルは きみたちであるらしい



金メダルのない国へ、最初の一個をもたらす時のロマンは何ともときめく。
モロッコの金メダルでは、何のことかはわからないかもしれないが、今度のオリンピックで、
そのロマンがあったということである。 女性が初の金メダルをモロッコにもたらした。 

新潟県勢がベスト8に進出するのは、昭和になって初めてだということで、これはもう、この時点で快挙である。
そういうところに、ふっと怪童が誕生したり、勝利の奇跡が起こったりすることが、ロマンである。

PL学園が、本命の重圧にもめげず、更に力をつけて見事にそそり立っている今大会。
残るは、モロッコの金メダル的学校の敢闘を称えることで、それが、今日の新潟南の勝利で見つかった。
ロマンチストも野球を見るのである。

221名無しさん:2018/08/12(日) 10:20:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月19日  準々決勝  「 古豪の復活 」


この名前を こんなにいきいきと聴いたのは 何年ぶりだろう この名前は かつて 高校野球そのものであったのだ

大観衆は通路まで埋めつくし コバルトの空を背にして膨れ上る どよめきがピタリと止まり

静寂とさえいえる空気に包まれたのは 緊張という心地よい息苦しさを きみたちが与えたからだ


息詰るとは まさにこのことで 投手戦とは まさにこのことだ PL学園 松山商業 準々決勝第三試合 

気温三十四度七分 快晴 いつもより二倍も三倍も時間をかけ 燃え上る闘争心と はやる気持ちを懸命に鎮めながら

しかし 焦らすでもなく 逃げるでもなく あくまでも大胆に勝負を挑む気迫で 二年生左腕は投げ込む あくまでも勝つ気で


王者が弓なりになり あと半歩で土俵を割る それこそ噛みしめる歯の音や 握りしめる掌の音が聴こえるような

試合には敗れたが 古豪の復活の太陽と 新時代の風を同時に見た 松山商業 この名が今新しく響き始めた 



あの太田幸司の三沢高校を破って優勝して以来といっても、あのが、思い浮かばない世代になっている。
たかが十五年前のことなのだが、歴史的事実も何かで反復継続しない限り、なかなか人々の記憶にはとどまらない。

PL、箕島、早実、池田といえば恐れを抱くが、古豪という名前だけで、相手にプレッシャーはかけられなくなっているのである。
そうなるのに、十五年という時間は充分で、別に人々の記憶がいい加減なわけではない。

松山商は見事に復活した。 いや誕生か。
古豪ということで復活は果たせないが、復活した後には歴史は大きな価値を付ける力がある。
これから先は、また、人にプレッシャーを与えるだろう。

222名無しさん:2018/08/12(日) 11:35:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月20日  準決勝  「 大地の草の詩 」


大地のぬくもりを足裏で知る子は 大地に愛され 育まれる草だ 草は生命の歓びを知り 草は生命の厳しさを知る

草よ 根をはれ 雨が来るぞ 草よ 実をつけろ 風が吹くぞ 緑を語る季節を過ぎて 枯れても死なない草のいのちよ


土と話が出来れば 誰とでも言葉が交せる 掌のぬくもり 指先の凍てつき 土の香の豊かさ すべてが言葉になる

自然を相手にすれば 何とまあ饒舌に生きられることか 大地の草よ 青々とした草よ


夏という季節の中で 草の生命を誇った金足農高よ  きみらの短い夏は おそらく誰よりも熱く 明るく 

そう 草が実をたわわにつけることもあると みんなに教えた 

草の強さを思い知れと 今更いうこともない 草の心を それぞれが 噛みしめて帰ればいいだろう


甲子園には猛暑が居残る しかし 北国ではもうどこかに 秋の気配があるかもしれない

きみらが胸をはって帰ると やがて黄金の季節が訪れる  また 大地とたっぷり話をしてくれ



準々決勝という馬鹿騒ぎが終ると、突然、もう四校しか残っていないのだと気がつき、感傷を覚える。
それは、甲子園で蝉が鳴いたり、赤とんぼが舞ったりする秋の序曲と一致しているせいかもしれない。

王者を決するクライマックスに向っていながら、興奮よりは淋しさが大きく支配するのが夏の高校野球なのだろう。
金足農の健闘は天晴れとしかいいようがない。 しかし、敗れた彼らを送るのに感傷はなく、珍しくときめきがあった。

参加することに意義があるといったオリンピックでさえ、今や、負けることに価値は見い出せなくなっている。
しかし、甲子園には、まだ、敗れても価値ありというのが残っているのである。

223名無しさん:2018/08/12(日) 13:15:15
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1984年8月21日  決勝  「 最後の楽園 」


女は脱皮し 姿を変え 少女から母までその時々の顔を造る 男には脱皮はなく 姿も変えず

ただ年輪という深味を加えるだけで 少年も 青年も ひきずって生きている


大人と見えても 彼方へ石を投げることを試みた少年が そのまま居残っている だから夏に夢中になる

それは 稚気のなせる他愛なさではなく 自らの少年時代との会話なのだ 


三百六十五日のうち たった十四日間だけ 男は少年時代の自分と出会うことを 神から許される

甲子園という舞台と 高校野球という祭を通して 男たちが夢見る最後の楽園なのだ


決勝の日に嵐が列島をかすめ 暗雲がたちこめたり 豪雨が土をはね返したり かと思うと弱々しい陽ざしを

秋の色合いで見せたり いずれにしても 楽園はこの日限りで消えてしまう


壮絶な決勝戦を おそらくは球史に残る熱闘を 男は 時を惜しむ気持で見つめる そして 劇的に試合が決した時

もう 話しかける少年は 男の胸からいなくなっていた  あぁ 勝者取手二高が 笑いながら行進している 



テレビ画面に映し出された甲子園は、灰色の雨が幕となっている光景で、一気に猛暑の熱を奪い去るようであった。
昨日までと違うギラつきのない空を確認しただけで、もうぼくは落ち着きをなくし、胸を痛くしていた。
既に、大人に立ち戻らなければならなくなっている思いに捉われたのだ。

いつも思うことだが、決勝戦はあまり好きではない。 勝者があり、敗者があり、そして決勝戦の敗者というのは、
他の日の敗者と違って、どこへも埋もれないし、拭い去ってくれる何ものもない。

さて、絶対のPL学園が敗れ、彼らもまた少年であることを証明した。
取出二高の勝利は、三年生のしたたかさが二年生を打ち砕いたといえるかもしれない。
利根川を渡りかけ、一旦引き返した大旗は最後に急ぎ足で渡った。



1984年の出来事・・・サラエボ冬季五輪、 植村直己・下山中に行方不明に、 グリコ・森永事件

             NHKが衛星放送の試験放送開始、 新札発行(一万円、五千円、千円札)

224名無しさん:2018/08/18(土) 10:12:18
「 甲子園の詩 」  1984年 あとがきより  ( 阿久悠 )



「 甲子園の詩 」と云うタイトルは、高校野球の詩と云う意味でもある。 それは、ことわるまでもない。
誰もが自然にイメージしてくれる。 それ程、高校野球と甲子園は不可欠のものなのである。

しかし、高校野球と甲子園が結びつかなかった年がある。
戦後、復活第一回の全国中等学校野球大会は、昭和二十一年八月十五日から二十一日までの一週間、
西宮球場で行われた。 甲子園球場は、占領軍に接収されていて使用不能だったのである。
ぼくは、その時代に野球に出会った。


さて、何故高校野球が好きなのかと云われても、答に窮する。 余りに多くの要素があり過ぎるからである。
天才の存在も、鈍才のサクセスも、ゲームの進展の妙も、入道雲も、赤とんぼも、カチワリ氷も、敗者の砂も、
そして、甲子園を存在させている時代も、甲子園を存在させない歴史も、全く同じ重量でもって胸を叩くのである。


胸を叩きつづけるから、毎年見るし、毎試合詩を感じるのである。 それは、どっちが勝ったとか、負けたとかは関係ない。
ぼくの問題なのである。 スポーツを競技者の側から書いたものは沢山ある。 傑作もある。
しかし、スポーツを見る側から書いたものはない。


ぼくは、一球の行方が見る側の胸をどう云う叩き方をするか聞きたいと思っている。 そして、全試合、
一球も目をそらさずに見つづけ、一日一詩を書き、六年が過ぎた。

スポーツニッポン新聞に連載を始めたのは、同紙の小西良太郎運動部長との友情からである。
一つの詩を作者の思い入れとともに扱ってくれるなどと云うことはめったにない。
末尾ではあるが、感謝の気持を託したいと思うのである。

225名無しさん:2018/08/18(土) 11:23:23
金足農、次勝てば34年前の再来  「 KKコンビ 」のPL追い詰めた昭和59年準決勝 



第100回全国高校野球選手権大会で17日、横浜を逆転で破って準々決勝に進んだ金足農。
18日の準々決勝で近江を破れば、「 甲子園有数の名勝負 」と呼ばれる34年前のPL学園との準決勝以来となる。


昭和59年の甲子園。 初出場を果たした金足農は1回戦で強豪・広島商に6-3でまさかの勝利。
別府商を5-3、唐津商を6-4で破り、準々決勝で新潟南に6-0と快勝。
「 雑草軍団 」 「 金農(かなのう)旋風 」と呼ばれた。

準決勝で、2年生だった桑田、,清原を擁するPL学園を八回表まで2-1とリードした。
だが、その裏に清原を四球で出し、桑田に逆転2点本塁打を浴びて敗れた。


エースだった水沢さんは、かつて産経新聞の取材に「 清原を歩かせるつもりはなかった。
彼の持つオーラで制球が乱れたのだと思う 」 「 桑田への球は甘かった。一球の恐ろしさを思い知った 」と振り返った。



この時の詩が「222」、 準決勝 「 大地の草の詩 」。
金足農では、この詩を石に刻んで記念碑としています。

さて、本日の近江も強敵、ドラフト1位候補の吉田投手の疲労が心配。
秋田大会で43回、甲子園3試合で27回(475球)、計70回を一人で投げ続けている。

226名無しさん:2018/08/18(土) 12:26:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月8日  一回戦  「 幕あけ 」


あかあかと燃える人の心の祭が 夏の云う姿を借りて 日本列島に満ちあふれる

祭は 故郷へ帰ることであり 今一度 青春を思うことであり 肉体の活力と純な精神に

大いなる憧憬を抱くことである 生きると活きるが同じ意味を持つ 何とすばらしいことか


夏は過激な昂ぶりをひそめて 噴出を待つ火山のように 劇的な少年の 劇的な幕あけを

静かに待っていた 今年の夏を 期待に満ちた気分にさせたのは 北国の少年たちだった


開会式のどよめきが残る中 サイレンの響きが尾をひく中 激しさを伝える一打が快音を発し

ああ!夏だ・・・と思わせる  それは まさに 台風8号の曇り空を引き裂き 光を呼び戻す役目を果たした


そして 緊迫の接戦を決したのも また 劇的なホームランであった 旭川竜谷高校 

みじかい夏を知る少年たちは 誰よりも 夏に燃えるかもしれない



とうとう始まった。 連続二十日を超える真夏日も、この祭のための序曲であったと考えるのは、
少々はしゃぎ過ぎであろうか。 年々昂揚の度合を増して行く夏の高校野球であるが、
それは、単に野球の試合と言うことを超えて、人々をさまざまに旅させる役目を持っていると思う。

過去へ、可能性へ、情熱へ、奇跡へ、十四日間、人々は、どのコースの旅を選ぶのであろうか。
わが心のうちなる甲子園は、同時に、空とぶ円盤でもあるのだ。 

とにかく、夏は、旭川竜谷の岡田選手の一発で一気に始まった。 この試合、何故か、勝負が決するとするなら、
岡田選手か、大社の板垣選手のホームランになるはずだと、予感がしていたのである。

227名無しさん:2018/08/19(日) 10:12:14
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月9日  一回戦  「 サヨナラの瞬間 」


突然のENDマークには 感傷ですまされない痛みが伴う サドンデスには 倍する歓喜と倍する残酷さがある

サヨナラの瞬間には いつも二重の思いが駈け巡る これ程に鮮やかに 光と影を描き出すものがあろうか


そこで終ってしまう瞬間に 何が凝縮されるのだろう おそらく 快音の響きの消え残る何秒かに

勝者は勝者として 敗者は敗者として それぞれに信じられないコマ数を 頭の中に巡らせるに違いない


いや 勝者は空かもしれない 敗者こそ多くの人生を見る 少年には重過ぎる程の人生を見る 想像してみるがいい

白球が消え去った彼方から もう拒みようのないENDマークが 迫って来る時の 悔いを そして 戦慄を 怖れを


ドラマチックであればある程 光が鮮やかであればある程 影の部分に思いが走る

それにしても サヨナラ・ゲームとは 誰が名付けたのだろうか 



常に劇的に、劇的に、ドラマチックにと願っていながら、実は、それを怖れているようなところがある。
劇的の昂揚と歓喜だけをみつめているわけにはいかないのである。

どうしても、突然の敗者の方に目が行き、心が捉われてしまう。 高校野球独持の、見る側の心情で、
これはプロにはない。 そして、そう言う心情が高校野球人気を支えていると思う。

東農大二高と智弁学園の一戦は、東農大二高の鮮やかなサヨナラ勝ちであった。
左中間を抜けて行く一つの白球が、運命を決する力を持っているのだと思いながら、ぼくは見つめていた。
実に天晴れな勝利である。 しかし、多くに人の目には、左中間の白い線の残像しか見えていないかもしれない。



昨日、金足農は見事な逆転サヨナラで、34年ぶりに準決勝進出。
無死満塁からの2ランスクイズは凄い、球史に残る試合をまた演じましたね。
8強入りした第77回大会、一回戦の倉吉東戦でも九回に2ランスクイズを決めています。

無死満塁からサインを出した監督の勇気、三塁手前に絶妙なバントを決めた選手、果敢に走りこんだ二塁走者、
そして何より吉田投手のピンチでの踏ん張り、8回と9回の攻守は見応え満点でした。
吉田投手が左股関節を痛めているので、準決勝は厳しいと思いますが、奇跡を期待したいと思います。

228名無しさん:2018/08/19(日) 11:25:25
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月10日  一回戦  「 九回裏 」


さあ あと一回と思ったかもしれない さあ あと三人と思ったかもしれない 九回の味方の一発は

幻想を確実に変えるだけの力があった 初出場 初勝利の瞬間を 思い描いたとしても無理はない


確かにリードをして 勝利の切符の一点を手にして そして あと一回 あと三人になっているのだ

しかし 九回裏と言う一回は 八回までの一回と まるで異る様相をしていた これは言うなら 時間の砂漠だ


時があるようで刻みがない 果てがあるようで見えない 曖昧な無重力がそこにあった

勝者になるためには この砂漠を迷わずに 歩ききらなければならない

あと一回の果てしなさ あと三人の何と言う無限 少年よ これが現実なのだ


鹿児島商工6-5北陸大谷  九回裏  同点ホームラン サヨナラヒット 勝者への大いなる讃辞 

それにも勝る 初陣北陸大谷への拍手 



初出場北陸大谷の清水投手の第一球は、デッドボールであった。
こんな場合、カッと、逆上と言う気分になるものであろうか、それとも、胸のつかえがスッとおりるような、
むしろ、楽な気持になるものであろうか。 そんなことを、あれこれ考えることから、この試合の観戦は始まった。

それにしても、後半八回、九回になって、このように急激な展開の試合になるとは思ってもみなかった。
ホームランが三本もとび出し、その一本一本が大いなる意味を持って、勝敗の行方を転々とさせた。

相変わらず甲子園は、いや、例年にもまして、次から次へと、少年たちに試練を提出する。
男を磨く機会が全くなくなった今の社会で、甲子園は唯一の場であり、師であるかもしれない。

229名無しさん:2018/08/19(日) 12:35:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月11日  一回戦  「 怪童の條件 」


少年は少年にしか持ち得ない 活力をあふれさせてほしい それは たとえば 

地球の中心に直結しているような 途方もないエネルギーと 果てしない大きさを感じさせることだ


ぼくらは 心のどこかで そう言う少年に出会いたい祈りを持ち 甲子園を見つめる 

そして 大きく勢いのある少年のことを 怪童と呼んだりする 


怪童と言う言葉を口にし あれこれと思い描くだけで 細胞にたっぷりと 酸素が行き渡る感じがする

怪童の條件は 心と言う存在が露出しない 分厚い胸板と 大地の木を思わせる


よく張った腰と太腿と そして 童顔を持つことだ そう どこかで うねりのような 雲のような

曖昧な風のようでもあってほしい 計り難いと言うことも必要だ

高知商 中山裕章投手 黒潮の音がする きみは そんな 怪童の條件に当てはまる



中山投手は、きっと、発表されている体格サイズより、ずっと大きいに違いない。もし、
あの数字に間違いがないとすると、大したものである。 これ程大きく見えると言うことは、非凡の証拠でもある。

野球評論家ではないから、技術よりも存在そのものを見る。 存在によって生じる風のようなものを見る。
これは楽しみの一つでもある。 評論家ではないが、ファンであるから、いろいろとイメージを重ねて見る。

マウンド上のこの少年は、角度によっては、尾崎に見えたり、江夏に見えたり、阪神の中西に見えたりする。
もしかしたら、この先、もっと違う顔がダブって来るかもしれないし、逆に、
たった一つの顔が確立して来るかもしれない。 楽しみである。

230名無しさん:2018/08/19(日) 13:53:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月12日  一回戦  「 雨の中に消ゆ 」


のぞましい灼熱の太陽は 分厚い雨雲のかげで出番を失う ジリジリと照りつける狂騒曲はなく

波乱含みの雨が 動悸と同調する 濡れた土が鈍く光る 銀色に見えるダイヤモンドは 何故か静か過ぎる

北東の風一・五メートル  雨  気温二十五・二度  湿度九十一% これが 神様がくれた戦いの舞台だった


そして あれ程降りつづいた雨が いくぶん小降りになった頃 優勝候補は敗者になっていた

紗幕の彼方の幻想劇のように 戦いは終わっていた 大旗の夢は一瞬に消えたのだ 宇部商8-3銚子商


きみたちの夏は あまりにも早く終わってしまった しかし あの 泥濘の中の果敢なスライディング

全身を墨のように黒くした敢闘や 九回裏二死後 あくまで 最後の打者になることを嫌った 


左中間二塁打に 人の心をうつものを残したきみたちは きっと何かを見つけるだろう

今は日蝕の夏と思えても 自らが示した誠意や闘志は きみたち自身の夏を呼び戻す



ぼくは、自分の小説の中で、主人公に「夢って、汗のようなものですね」と言わせたことがある。
優勝候補と言われた銚子商が、田上投手の力投と、佐藤、福島、二本のホームランの前に宇部商に敗れた瞬間、
いわば、夢が砕けた時に、何故かその言葉を思い出した。

それは、必ずしも、適当とは言えない連想だが、フッと頭にうかんだ。 銚子商の前評判は高かった。
ぼくなども、PL学園は頂点に考えるとしても、次は、高知商、銚子商、
それに、沖縄水産を加えて黒潮ラインを候補と考えていた程である。

夢の無情さを知る。 確認し得ない夢と言うものの存在の恐さを知らされる。
何故夢を抱いたかの材料は確かなのに、夢とイコールにならないのだから。

231名無しさん:2018/08/25(土) 10:15:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月13日  二回戦  「 力尽きても 」

 
投手の視線の先に 神がいると思う 何を投げようかと思案した後 ふと投手が上げる視線の彼方に

何かを答える神がいると見える 見ていてくれ かもしれない 俺をたすけてくれ かもしれない

それ程 投手は孤独なのだ


微笑み うなずき つぶやき 首を曲げ 肩を動かし それは あたかも 充ちあふれた楽しさに

躍るように見えるかもしれないが 孤独との斗いなのだ 陽のあたるマウンドは きらめきに満ちていても

おののきが去るわけではない だから 視線を上げる


東海大工 長縄投手は 見えない誰かと饒舌に語りながら 夏が戻った甲子園で投げつづけた

それは ボクサーの姿に似ていた おそらくは その一球で その一打で 力尽きたに違いない


思わず膝をついたボクサーが 一瞬の後悔と それにもまして感じる 一瞬さわやかな敗北感

それを 感じたに違いない きみの視線は 二度と神を求めなかったし 微笑むことも 躍ることもなかった



投手が、一瞬上げる視線が気になっていた。 勿論、バックネット裏の上方のスコアボードで、
ボールカウントを確認しているのだが、それだけではないように思えるのである。

最も信頼出来る人がそこにいて、うなずきあっている、そんな風に見える顔を投手はするのである。
東海大工の長縄投手は、一球一球に表情を変え一球一球に反応を示し、その心のうちを読みとろうと、
ついついそう云う見方をしてしまった。

七回、押し出し四球の後、スクイズを空振りさせた一球は、そこで力尽きるものをせきとめるものであったが、
九回、強打の上島と対した時には、既に、その魂と力のこもった一球とはならなかった。
シーソーゲームが、終ってみれば、四点の大差になっていたのも、その一球によるものである。



第100回大会は、金足農のお陰で盛り上がった。 次々と私学の強豪を倒した姿は痛快。
5-1鹿児島実。 6-3大垣日大。 5-4横浜。 3-2近江。 2-1日大三。
県立が、一つ勝つのも難しい時代に、私学の強豪に五つ勝った。 よって優勝したのは、金足農と言っていいでしょう。

78回大会の松山商 → 89回大会の佐賀北 → 100回大会の金足農。
次に県立が決勝へ行くのは、早くて111回大会か? もう少し早く見たいものです。

232名無しさん:2018/08/25(土) 12:12:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月14日  二回戦  「 このままでは終らせない 」


このままでは終らせない このままで終れば 身を灼き 汗を絞り 眩暈を起しながら刻んだ時間が

泡沫になってしまう 青春が確固とした青春であるために きみらの選択に悔いを残さないために

このままで終らせてはならない たとえ 勝敗の帰趨は決していても 自らの内なる甲子園はこれからだ


さあ どうだ 君の甲子園は傷ついていないか 理想を失い傾いていないか 夢を忘れて立ちつくしていないか

他の誰のものでもない きみら自身の甲子園を 心の中で辛くさせてはならない

高校生活最後の一回を 悔いなく戦えば甲子園は光る そして永遠に消えない


強豪の容赦のない攻撃は さながら真夏の嵐のように 吹き荒れ 渦巻き 同じ高校生が と言う思いを

粉々に打ち砕き 観客も最後にはただ呆然の 白い壁になっていた

しかし きみらの甲子園は 九回に見事によみがえった もうそれは 消えることがない 

東海大山形7-29PL学園  九回 青春の証明の5点 



陸上競技や水泳の記録なら、手放しでその記録を称讃し、喜ぶことができる。 しかし、野球の記録と言うのは、
それを達成させてしまった相手があるわけで、その心情を思うと複雑である。

それにしても、七日目にして、ようやく、その姿を現わしたPL学園は絶対の本命と言う予想を、
あらためて実証するようなもの凄さで多くの記録を書きかえてしまった。

32安打、毎回得点、29点。 両校併せて41安打も、36得点も新記録である。
得点差新24と言う記録も必至・・・八回を終って27点差あったから・・・と思われていたが、
これは、東海大山形の脅威の反撃で記録にならなかった。 
成らなかった記録に、何故か救われた思いがするのは野球特有、高校野球特有のことであろう。



第100回大会、16日間、阿久悠さんは、どんな詩を感じられたのでしょうか。
逆転サヨナラ2ランスクイズ、輝星、鉄腕、のけ反る、881球、雑草軍団、逆転サヨナラ満塁ホームラン、
吠える、ガッツポーズ、うつ伏せ、いごっそう、74歳と72歳の監督、侍ポーズ、タイブレーク、
103年ぶり、ミラクル、祝100回、連覇、100万人突破、平成最後の夏、虹がかかった。

金足農に偏りすぎるも、この中に、詩になるタイトルが一つあったのでは?
そうだね、タイトルは違うけれど、内容にはあるよ、とおっしゃりそう。
それにしても、閉会式で虹がかかったのは、神の素晴しい演出だったと思います。

233名無しさん:2018/08/25(土) 15:15:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月15日  二回戦  「 北へ 」


今 みちのくは夏のさかりで 光が満ち 青葉はきらめき 風は緑に染まる 人々は唇をなめらかにして 

大旗が北上するロマンを 語っていることだろう  もし きみたちが 最初のロマンの戦士となるなら 

傾く季節を元に戻し 今しばらく明るさを 北の空にとどめるだろう


少年の快挙ほど 人に活力を与えるものはない 少年の理想ほど ときめきを誘うものはない 

理想も快挙も 蜃気楼ではない きみたちが 日常培い そして 胸の中に 蛍光灯に光らせた自信がもたらす 

夏ざかりの北国で 唇をなめらかにしている人々は それを見ていたに違いない


はるかに遠い道が 今は近くに見えて来た 踏み出した爪先の彼方に 何が存在するかもわかって来た

さあ 走ろう 東北高校 さあ走ろう みちのくの健児たち この先の道はけわしくても 見えない道ではない

ロマンは 可能と不可能の 間に存在するのだ



八月十五日、終戦記念日、正午に、戦没者の霊を慰めるための黙とうがあった。 
グラウンドには、沖縄水産と旭川竜谷の選手たちがいた。

「 唯一の陸上戦を経験した県の選手が、この時間にグラウンドにいるのも、何かの縁でしょう 」
と言った沖縄水産の栽監督の談話が伝えられたが、印象的であった。

黙とうの意味を心を、心をつくして語ってやりたい。 この素晴しい夏の祭典を永遠につづかせるためにも、と思う。
今なら、ぼくらが、まだ肉声で語れるのだ。

さて、その後の試合で、東北に大旗が行くロマンを幻想した。
それを口に出来る程の実力校になって来たと言うこともあるが、そればかりではない幸運の味方を強く感じた。
東北に大旗をと言う願いは、東北に新幹線をと言うくらいに強いに違いない。



東北勢はこれまで春3回、夏8回、決勝に進出しているが、優勝旗が“白河の関”を越えてはいない。
仙台育英、花巻東、聖光学院、光星、東北、盛岡大付、、、そんなに遠くない気もしますが・・・。
金足農の大活躍は、東北地区の高校に大いなる刺激になったことでしょう。

234名無しさん:2018/08/26(日) 10:16:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月16日  二回戦  「 たった一球 」


九十七球の投球のうち 思い通りにならなかったのは たった一球だけだった ほかはみな 心をのせ

力をのせ 思いが一条の道となって 生きたボールを運んでいた 静かだが 気魄があると

猛々しくはないが 鋭くはあると 満足していた


九十七球の投球のうち 思い通りにならなかったのは たった一球だけだった そのたった一球が

敗戦につながるものとなった 快音を残してセンターの頭上を越え 走者は踊り上ってホームへ駈け込んだ


指先をはなれた瞬間に どのような思いを抱こうが 決して やり直すことが出来ないのが 野球なのだ

弦を放れた矢を 追いかけることは出来ない 快投も 好投も 熱投も そのたった一球で 敗戦投手と言う記録に隠れた

延岡商 花田投手  久留米商 秋吉投手 稀に見る投手戦も 九回二死後の一球で 勝と敗にわかれた



らしいとは何ぞやと問われるかもしれないが、久留米商と延岡商の一戦は、高校野球らしいと満足を感じる試合であった。
金属バット以前の高校野球の、好ましいと思える要素を全て盛り込んだ好試合であったと思う。

一点を取ることの困難さが原点にあるのが、その頃の野球の特徴で、それはそれで、静かではあるが緊迫感が満ちるものである。
小粒で、豪快なスリルには欠けるが、キリッと引きしまって、さながら、甲子園の真珠と言える試合である。

今日一日は投手が目立った。 珍しくホームランが一本も出ていない。 花田投手、秋吉投手の投げ合いの後、
これは同じ好投でも、また一味違う豪快な高知商中山投手が、六者連続三振などでうならせた。

235名無しさん:2018/08/26(日) 11:27:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月17日  三回戦  「 1フィート 」


幸運と不運はわずか1フィートの差だ 勝利と敗戦もそうだろう 1フィート右か左かで 運命は決してしまう

両手をひろげた捕手の足許へ 熱戦に終止符をうつ走者が 渇いた砂とともに滑り込んだ


終った 負けた ふとふり仰ぐと青空があり キラキラときらめく光の中に 秋が流れているのがわかった

もう夏は戻らない 報われなかった百八十七球が 夏の彼方に消えて行く感傷が どよめきの中にあった


マウンドを降りるスパイクの爪先を 見つめることはなく ただ一瞬の青空を 瞳にうつして歩いた

川之江高校 松下投手 延長十一回を一人で投げぬき しかし サヨナラの歓喜を遠く見つめる 敗戦投手だった


すべてが1フィートの差だった 同点にされた一打も また 勝越をねらって 自らホームをついた時も

1フィートの味方がなかった しかし 熱投に悔いはない 思い通りに投げたのだから



体の中にわき起こって来る興奮や歓喜を、素直に表現すると言うのも気持ちのいいものだが、逆に、黙々と何かを
押し殺しながら、表情を変えることなく投げつづけると言うのも、うたれるものである。

川之江高校の松下投手は後者で、かなりの波乱に見舞われながら、動揺を表すことなく、百八十七球を投げつづけた。
変わりがあるとしたら、十一回で、これは明らかに呼吸の早くなっているさまがわかった。

口の中に渇きがあるようで、唇の動きや、ちょっとのぞく舌の動きで、そうと察せられ、やはり、疲労が極に達していたのだろう。
ただし、これは生理的なもので、感情が顔に表れたと言うことではない。 表情を変えない松下投手が、敗戦の決まった瞬間
天を仰いだが、それが最初の表情の動きだった。


( 延長11回、川之江2-3高知商、高知商のサヨナラ勝ち )

236名無しさん:2018/08/26(日) 12:37:25
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月18日  三回戦  「 泣くな 一年生 」 


肩の力をぬけ 力みを取り払え 頭を空っぽにして 何も考えるな ただ このミットを目がけて

しなやかに投げろ 此処がどこなのか 今が何なのか 背負った責任が何かなんて 一さい忘れて投げ込め


ストライクが入れば打たれない 思いきりよく 無心に あどけない程無心に投げてくれ よしよし よし その球だ

甲子園が唸るぞ お前の熱球に唸っているぞ 背番号11の一年生が 甲子園の重圧に耐えながら挑む


深呼吸をし 腕をひろげ 呑み込もうと襲いかかる圧力を 逆に呑もうと健気に振舞う 負けてたまるか 負けてたまるか

展開はクライマックスを迎え 一年生に全てが託される 


このまま投げきれば 甲子園に勝てる それと同時に 運命の舞台裏には 残酷と思える劇的さも用意されていた

負けてたまるか 負けてたまるか  九回裏  同点 一死満塁  あぁ 劇的な幕切れはワイルドピッチ 

だが 泣くな一年生 沖縄水産 上原晃投手 きみの非凡さは誰もが見た 



結果は、ワイルドピッチのサヨナラ負けと言う、残酷なことになってしまったが、ぼくらの心の中に、
今大会で最も印象に残る投手の一人となった。 その才能は非凡であり、今から来年の夏を夢想することが出来る程である。

甲子園は、決して甘い笑顔だけは見せてくれないが、その仕打ちの中に、来年を約するものがあったように思う。
七回のピンチ、そして、九回最後の場面と、こんなにも、祈るような気持で、躰を固くして見ていたことはない。

本当に、来年、彼が、この経験をどう活かして帰って来るか、ときめくものを感じる程である。
ベスト8が出そろった。 あと三日になってしまった。


( 沖縄水産5-6鹿児島商工、鹿児島商工の逆転サヨナラ勝ち )

237名無しさん:2018/09/01(土) 10:15:24
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月19日  準々決勝  「 ワッショイ 」  


君たちは ワッショイがよく似合った 人の歓喜が噴出する時の雄叫び 人にエネルギーを伝達する時の

おさえきれない昂揚の声 ワッショイ ワッショイ それにも増して若さの誇らしさ 闘争心の揺るぎなさ

ワッショイ ワッショイと 君たちは夏に躍った


少年の汚名は その肉体や精神に 精気を感じないと言われることで 君たちは その汚名を見事にそそいだ

少年は かく元気だと 甲子園の土の上で実証した 君たちは 常に躍るようにあった 

ワッショイ ワッショイと 駆け巡っていた


激闘は最後に死闘になった 声にならないワッショイは 叫びつづけ 念じつづけ 最後には涸れるほどだった

蒸気を吐く土の上で 終りの一滴まで汗を流し 気力の欠片も残さずに戦った 完全燃焼と言う言葉の意味を

その時 知ったに違いない さらば 関東一高 君たちは 実に 実に 甲子園の夏がよく似合った



完全燃焼と言う言葉は、口にすることは簡単だが、なかなかそういう機会には出会わない。
仮に出会ったとしても、そう出来るとは限らない。 何かを仕残してしまうものだ。
しかし、東海大甲府ー関東一高のこの試合に関して言えばどちらも完全燃焼をj実感できたのではないかと思う。

大阪では午後二時一分に、三十八度一分を観測した。 甲子園がそれだけあったかどうかわからないが、
猛暑であったことは確かである。 まさに熱戦であった。

それにしても関東一高、惜しくも勝利の女神には見放されたが、その敢闘ぶり、元気ぶり、小さな165センチの
エース木島投手を中心にした集団の活力は、魅力があった。 甲子園を餌にして大きく強くなっていったように思う。


( 東海大甲府8-7関東一 )

238名無しさん:2018/09/01(土) 11:16:18
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月20日  準決勝  「 ミラクル甲西 」 


甲子園には石ころがない だから プレイが楽でいい そんな気楽さが 奇跡につながったのかもしれない

この最高の晴舞台で 思いきり躍動することが嬉しいと 素直に歓ぶ心が 無心と言う 得難い宝物になったのかもしれない

自分が自分であるために 虚飾を捨てる嫌気さが 勝利を呼んだのかもしれない 


やれば出来ると言う言葉が 空念仏でないことを証明した 甲西高校ナイン 猛暑の中のさわやかな風のように

陽炎の彼方の夢幻の夏景色のように 人々の心に夢を与えた ミラクル甲西 だから 甲子園は見逃せない


きみたちが一つ勝つごとに それを我がものとして喜んだ球児が 何万人いたことだろうか 甲子園は遠いものだと

勝つことは困難なことだと はるかに遠い夢としている球児たちに 希望を与えたに違いない


そして きみたち自身 猛烈な夏の 猛烈な甲子園で 身をもって証明した青春は 一万ページの本を超える

多分 来年の春 初めての卒業式は 誇りに満ちた明るいものになるだろう



県岐阜商を破り、久留米商を延長で逆転し、東北に逆転サヨナラ勝ちし、甲西高校はとうとう準決勝にまで進出して来た。
この健斗を誰が予測し得ただろうか。 まさに、ミラクル、奇跡と呼ぶにふさわしい戦いぶりで、今大会の陰の主役となった。

学校創立三年目で代表になっただけでも快事であるのが、甲子園で三つも勝ったのである。 
学校に、素晴しい伝統の芽を植え、大いなる自信と誇りを生徒に与えたに違いない。 

準決勝戦、しかし、対戦したPL学園の壁は実に厚かった。 奇跡もそこまでで、もしやも、まさかも起きなかった。 
桑田投手から打った西岡選手のホームランが、更に一つの語りぐさを加えたのが、大きな土産ではあったが・・・。 


( 甲西2-15PL学園 )

239名無しさん:2018/09/01(土) 12:26:16
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1985年8月21日  決勝  「 蜃気楼 」 


いつもなら 今日を限りに去る夏が 今年はまだ列島にとどまっている 

入道雲や 赤とんぼや アドバルーンの揺らぎに 秋を見ることが出来ない いつもなら 感傷に胸塞がれ

行き場のない思いに立ちつくすのに 今年は カッと照ったまま クライマックスのままで停止した


緊迫の決勝戦は 情緒や感傷に委ねることなく 真に互角の攻防で回を重ね 力が押し 力が押し返して

二転三転 死闘はサヨナラ試合で決した


雲はあった しかし 甲子園の中天だけ ポッカリと青空がのぞき そこから夏が降りそそいでいた

去り行く者たちへの歌は 何故か聴こえて来なかった 試合の充実が 季節を超え 思いを超えたのだろう


だが やがて PL学園の優勝を称え 宇部商の健闘に手を叩き  一服の煙草に時を追う時 間違いなく 

祭の終りの耐え難い感傷と 青春に対する痛ましい憧憬が 襲って来るに違いない

あぁ この14日間は 蜃気楼であったかと



人は誰も、心の中に多くの石を持っている。 そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。
しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけているのである。

高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。
今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。 たとえ、敗者であってもだ。

大会は、PL学園の優勝で幕を閉じた。
頂点の風圧に耐えながら、それに屈することなく優勝したと言うのは見事としか言いようがない。
彼らは時の勢いを超えるものを持っていたと思う。 


( 宇部商3-4PL学園、PLのサヨナラ勝ち )


1985年の出来事・・・公社民営化でNTT、JT発足、 日本人エイズ患者第一号、 プラザ合意 

               8月12日、日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落 (520名死亡)

240名無しさん:2018/09/01(土) 12:51:34
高野連は甲子園常連校の“越境入学”を許すな!  ( 広岡 達朗 )



私は「 高校野球はこれでいいのか? 」と心配している。

今年は56校のうち48校が私立高校で、公立は8校だけ。
56出場校のうち、昨年に続く連続出場は優勝した花咲徳栄や準優勝だった広陵など18校。
聖光学院は12年連続、作新学院は8年連続である。
初出場は6校あるが、このうち公立は県立の白山と市立の明石商だけだった。


甲子園代表校の私立化がエスカレートする一方、夏の地方予選に出場した大会参加校は、
この3年間だけを見ても2016年が3874校、2017年が3839校で、今大会は3781校に減っている。
さらに高野連によると、全国の硬式野球部員数も15万3184人で、4年連続の減少だという。

これは少子化を反映して高校数や野球部数が減っているのと、
生徒がサッカーなど、野球以外の他競技に流れるケースが増えているからだ。

こうした社会情勢のなかで私立の甲子園常連校が増えているのは、
全国の優秀な野球少年が各地の私立強豪校や、遠方の野球名門校に集まっていることを意味している。


そしてこれらの野球名門校は、通学できない生徒のために大規模な寄宿舎を設置しているのだが、
問題はこの野球合宿所での生活である。 たとえば私が知っている東京の私立強豪校でも、
野球部員は午前中の授業に出席するだけで、午後から日没までは野球漬けだ。


いうまでもなく、野球の練習で心身を鍛えるのも大事だが、高校の3年間は野球だけでなく、
将来の社会人として、しっかり基礎教育を身につける時期である。
プロ野球で不祥事が絶えないのも、高校時代のいびつな球児教育と無縁ではないだろう。


たしかに現代の教育制度では、私立高校に学区の制限はない。 しかし都道府県の代表を誇りとする甲子園大会で、
私立高校だけ日本中どこから入学してもいいのはおかしいだろう。

甲子園球場が高校野球の聖地なら、高野連は100回のお祭りに浮かれるより、
足元を見つめ直して“越境入学”による野球留学の禁止を検討したらどうか。



さすがに広岡氏。 高野連の中に、この問題を提起する人が出て来てほしいもの。
佐伯達夫さんの嘆きが、天国から聞こえて来るようです。


広岡達朗:1932年、広島県呉市生まれ。早稲田大学卒業。 1954年に巨人に入団、
打率.314で新人王とベストナインに輝いた。 引退後は評論家活動を経て、広島とヤクルトでコーチを務め、
監督としてヤクルトと西武で日本一を達成。 1992年に野球殿堂入り。

241名無しさん:2018/09/01(土) 15:15:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月8日  一回戦  「 北のジャンボが幕をあけた 」


さあ まばたきを忘れて 一瞬の夏に心を感光させよう 眩しさに満ちたものはそれだけで早い

虚ろな瞬間をつくってしまうと 劇的な場面とは出会えない 夏はふり返らない 

少年のドラマもリピートしない その時をとらえることこそ 夏に出会ったという証明なのだ


時が流れ 人の心は変り だけど 甲子園は まるで それ自体が季節ように 列島のド真中に存在する

さあ クタクタになろう ときめこう ふるえよう 動きを忘れた心にカンフルを 冷えた感情に汗を

ちょっと愚かになっていいじゃないか


心憎いプロデューサーの甲子園は さまざまな個性を 陽光の中に立たせる あり余る才にきらめく少年を

才を越えた奇跡を演じる少年を 幸運と不運の綱渡りに ぎりぎりの粘りをみせて 神の指示に勝つ少年を


そして 今日は 北のジャンボがマウンドに躍り あたかも 大いなる夏の予感のように 熱いドラマの幕をあけた

秋田工 川辺投手 百九十二センチ 九十二キロ ギイーッと開く 季節の音がした



この「甲子園の詩」も八年目である。 最初の年、ぼくをたかぶらせた少年たちは、香川であり、牛島であり、
石井であり、嶋田であり、彼らはもうプロのいっぱしの選手である。

八年の間の、高校球児の心の変化といったものを見落とせない。 
選手宣誓に定型を破ろうとする試みをなされたのは一昨年からで、福井商坪井主将は、甲子園から未来へと語り、
昨年は、銚子商の今津主将が、ぼくたちは仲間たちの代表としてやって来ました、と平易に話した。

今年の米子東の石川主将は、明日にむかってはばたく高校生として、という言葉は使っているものの、
定型の見直しが感じられた。 この変化も、甲子園をどう感じるかという興味においてなかなか興味深い。
とにもかくにも、暑い夏、そして、熱い夏、北のジャンボが最初の火をつけた。

242名無しさん:2018/09/02(日) 10:21:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月9日  一回戦  「 風か 砂か 」


風のように生きたいと誰もが思う 砂のように生きたいと思わない 主役は嵐 猛々しく 

己の意志で来り 去る 砂の上を気ままに過ぎて 命の足跡をそこに記す 生きるなら風のように

何かを変えたいと男は思う  風か 砂か 風か 砂か


しかし 風が去った時 吹き上げられ 運ばれ 小さな粒に分散していた砂が いつの間にか山を築き

前よりも高く 前よりも美しく  朝日に光っていることがある


宇都宮工業高校 きみたちの勝利は まさに この朝日に光った砂を思わせた 

打ちのめされたとみえて立ち上り 押しきられたとみえて踏みとどまり 打たれ強く耐えたあとに

そそり立つ山を築いた  風か 砂か 風か 砂か


唸りを上げて過ぎるのも勇気なら 砕けることもなく復活するのは更に勇気 派手やかさにはほど遠い

地味で着実な勝利に 大きな教訓を見た気がする



27年ぶりの宇都宮工と、25年ぶりの桐蔭、ともに過去に実績を持つ古豪同士の対戦は、地味ながら、
妙に心に残る試合であったと言える。 

桐蔭から言えば、毎回の好機を勝利につなげ得なかった拙攻と言えるかもしれないが、
それよりも、全てがピンチであった一戦を耐えぬいた宇都宮工の粘りを評価した方がいいように思える。

ボクシングで言うなら、乱打に揺らぎながら、たった2回のチャンスに大いなるポイントを稼いだようなものである。
執念と言う言葉は、どこか暗く辛さがつきまとうが、打たれ強くしのいだ執念が攻撃にのりうつり、
必ずしも立派な当りでないものまでヒットにしてしまった。

かっこよく打ち、かっこよく勝つのも素晴しいが、諦めずに勝利を呼び込むと言うことも、実は、
なかなかにかっこいいことなのだと言いたいのである。 この執念は暗くない。


( 桐蔭2-3宇都宮工 )

243名無しさん:2018/09/02(日) 11:22:23
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月10日  一回戦  「 ヒーロー交代 」


昼過ぎから風が出た 青空に雲を飛ばし 旗をちぎった 時折 グラウンドを 空の影が気配のように走った

そして 二時間後 神話が一つの結末を見せ 頬の紅いヒーローたちが残った 明野高校7-2池田高校

確実に これで 一ページがめくられたことになる


五万六千の大観衆も それ以外の 耳をそば立て 目をこらす人たちも 池田が演じつづけた甲子園神話を

最後の最後まで信じていた このまま去る筈がない このままで終る筈がない 

いつか それは 残酷なほどに劇的に 不可能を可能にするドラマを 描くに違いない


この神話を信じない人がいたとするなら それは 明野高ナイン きみらは見事なリアリストで 幻想に怯えることもなく

一個のボールを通して知る 力と力を感じていた筈だ ヒーローが躍り出る瞬間は 上手に去るかつてのヒーローが必要で 

きみらは 今 堂々と選ばれて歴史に踏み出した


三日目に波乱があった。 池田高校が完敗したのだ。 池田は、歴史のみが語る名門校ではなく、春の選抜大会優勝校、
現役の強豪であっただけに驚かされた。 しかし、明野の、実に堂々たる戦いぶりを見ていると、一時代の終わり、
いや、一時代の幕あけかなと言う感じもする。 

予選で、高校野球そのものであったPL学園が敗退し、そのPLを完封した泉州が浦和学院の豪打に打ち砕ける前段があってみると、
尚更その感を強くする。 池田高校、PL時代、思えば、この連載を始めてからは、ほとんどその中にあったが、
どうやら、今年の大会を契機にして、新しい時代の旗手たる学校が登場しそうで、大変に興味深い。

それにしても、素朴に、元気に、明るく、力強く、金属音を響かせて打ち勝った明野高校に、
かつての池田イメージを感じたのも不思議な符合である。

244名無しさん:2018/09/02(日) 12:56:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月11日  一回戦  「 十一年目の校歌 」


一試合の中で天国と地獄を見た いや 地獄が先に訪れ そこからはい上って天国を味わった

乱調でマウンドを譲った時 誰が 彼の中に 最後に笑う男を予測しただろう


屈辱の降板の十数分 再び呼び戻されプレートを踏んだ時 5点が入っていたのだから

更に 痛い一撃を受け 烙印は烙印のまま胸にあり 影法師だけが長く まるで敗走の道をたどるように

はかなげに揺れていたが しかし どうやら 魂の中の不死鳥は その黙々と耐えて投げるあたりから

はばたきの仕度をしていたらしい


地獄を一転して天国に変えたのは 自らのバットだった 九回裏 それはあまりにも楽々とした一振りで

激情とは無縁のようであったが ガックリと膝を折った 相手の好投手の姿に 価値の大きさを知る

東海大四高 大村投手 彼の味わった長い一日は 最後の最後 初めて聴く母校の校歌で飾られた



面白い試合の日と言うのがあるらしい。 名門対決とか、顔合わせの妙ではなく、試合そのものが
予測もつかない展開を見せるということで、つまり、野球が面白い日だ。
この東海大四高ー尽誠学園戦の前の試合、鹿児島商高と松商学園の一戦も、これが野球だという
スリリングな要素をすべて盛り込んで、堪能させた。

サスペンス映画の名手が、何分に一回かはドキリとさせる、と知恵を絞ったくらいの充実度で、こうなると、
運も不運も要素に組み込まれて一層劇的になる。 重盗あり、隠し球あり、最後に二死満塁の設定まであった。
それにひきつづいての逆転サヨナラ試合である。

こうなると、選手の顔や名前になじみがあるとかないとかはどうでもよくなる。
14安打と12安打、傷だらけの乱打戦に見えて、緊迫感を失わなかったのは、双方とも、
勝利に対するひたむきな祈りがあったのだろうと、これまた喝采に値する。



( 尽誠学園6-7東海大四、東海大四の逆転サヨナラ勝ち )

245名無しさん:2018/09/02(日) 15:18:18
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月12日  二回戦  「 さらば 旋風児 」


誰もがきみたちを待っていた 春の旋風児が夏の嵐となり 今度は そびえ立つ入道雲に挑む姿を

心待ちにしていたのだ もしかしたら 春の土を巻き上げたつむじ風は 竜巻になっているかもしれない

それは 一度は見てみたい大人の夢だ 


そして きみたちは帰って来た あの素朴で初々しい しかし どこかしたたかな少年が 

充分に期待に応える風格を備えて 入道雲を見上げていたのだ だが 戦況は不利に進んだ

春の旋風児も 夏の中では陽炎のようにさえ思えた


夢は夢か 少年は少年か 春は春か 無欲は無欲か 勝ち負けは誰も問わない この甲子園で何かを証明出来たか 

それだけを問う 後悔と無念を持ち帰らぬように 汗の最後の一滴にすることを試る


それが美しいと思った瞬間 きみたちは 見事に旋風児を証明したのだ 敗れはしたが 新湊高校

きみたちは夏もまた自分たちであり得た 心に竜巻が起きた筈だ



春、選抜大会における新湊高校の印象は強い。初出場でベスト4。もっと上位の学校があったにもかかわらず、
今年の春は、新湊のためにあったとさえ思えるのである。 それは、専門家になり過ぎず、かと言って、
のびのびと言う美名のもとに緊張を欠かず、高校生が高校生としてなし得る限界の中での、
一生懸命さが心を打ったのだ。 原点を感じた人も多くいた筈である。

その新湊が、優勝候補の一つにあげられている天理と対戦した。 
天理の強打は、ホームランを打った中村を筆頭に評判以上のもので、春の小さな奇跡を圧倒しつづけ、
8-0、おそらくはこのままで終るだろうと思えた。 

しかし、8点の大差をつけながら、何が天理を動揺に誘ったのかわからない。
それこそ、人の戦いそのもので、どうしても一矢を報いようとする見えない執念が、
エネルギーとなって立ちこめていたのだろう。


( 新湊が九回に4点を取って、天理8-4新湊 )

246名無しさん:2018/09/08(土) 10:12:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月13日  二回戦  「 一点の壁 」


過酷な試練を与えた甲子園よ 少年を谷底につき落す 獅子の愛を見せた甲子園よ

誇りを奪い 夢を砕き 心を傷つけ それでも 手をさしのべなかった甲子園よ

汗と涙の中ではいずりまわり やっと己の力を示して見せた少年に 少しばかり微笑んだ甲子園よ


しかし 敗者には あまりにも高く 大きく とりすがることも許さなかった甲子園よ

一年前の八月十四日 この日の記憶は あなたへの限りない憧憬と あなたへの限りない憎しみを生んだ


憎しみは愛に近く たとえば 父を見上げる幼児の目のように 懸命に何かを証明したがる

あの日 見つめるだけで 慰めの言葉も発しなかった甲子園よ 

いつか あなたを動揺させ 驚愕させ 狼狽させ 遠い旅から戻った子を迎える父のように 満足の涙を流させてみせる


東海大山形高校 大敗の日から一年目 一点の壁は厚く またも敗れはしたが 憧憬と憎悪の甲子園は

確実にふり向いた そして 何かをささやいた



他の学校は、甲子園へ何かを探しにやって来る。 しかし、東海大山形だけは、何かを返しにやって来ると思われてならない。
まず、その背負わされた重い荷物を、甲子園につき返さなければ、そして、受取らせなければ、ことが始まらない。

如何に記録的大敗であったとは言え、負けは負け、一つの負けに変りないのだと言ってしまえばそれまでのことだが、
やはり、そうは行かないだろう。 この一年、相当に重いものがあったのではないかと思う。

甲子園の一勝が、全てをプラスにしてしまう最高の良薬であったのだが、残念ながら、今年は、
一点の壁という新たな試練を与えられて敗れてしまった。 だが、もう、何も背負うことはない。
もう次からは、のびのびと、甲子園に目にもの見せてやればいいのだ。


( 京都商1-0東海大山形 )

247名無しさん:2018/09/08(土) 11:56:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月14日  二回戦  「 ジンクスに勝つ 」


待つということは戦うより難しい 待ちながら平常でありつづけ 待ちながら昂ぶらせるのは 躰の中に

理不尽な虫を飼っているようなものだ 勇んで乗り込んできた甲子園は 触ることの出来ない蜃気楼で

ただ 待つことを 待つ運命を与えた


大会が佳境に入り 列島の夏は燃えているのに 相手を待たない勇士たちは その炎の中に入れない

激闘を見 熱闘を聴き ライバルに熱い視線を送り 早や去る友に複雑な思いを抱き すると もはや

闘志は時に重い荷物に変る 己に勝つ 己に勝つ ただ一枚の不運を ただ一校の選ばれたものと思う


49番目は勝てない 49番目は勝てない 拓大紅陵高校 遅い遅い初勝利 きみらは 運命に勝ち

疎外感に勝ち 時間に勝ち 自分に勝ち ジンクスに勝った 49番目は縁起がいい 49場目は縁起がいい



毎年思うことだが、49代表のうち一校だけ、相手が決まらずに取り残されるというのは、
抽せんの方法として仕方がないことではあろうが、罪なものである。 運命のいたずらと言いたくもなる。 

更に、この場合、実に過酷な現実まで加わって来るのだから、ついてないで済まされないものもある。
49番目は勝てないというジンクスが存在するのも無理からぬことで、ぼくも、毎年、
どういう言葉で励ますべきだろうかと考えたりするのである。

肉体の調整や緊張の維持は、非情にメンタルでナーバスなもので、目標が定まっていると何とか組立が出来る。
しかし、闘志などというものは一旦空転するとどうにもならないだろう。
だが、拓大紅陵はこのジンクスを破った。 もし、優勝でもしたら、来年から49番目は、選ばれた一つになる。


( 拓大紅陵4-0岩国商 )

248名無しさん:2018/09/08(土) 15:25:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月15日  二回戦  「 天国から 」


男の夢というものは 一生賭けてコツコツと作り上げ 不器用に 頑固に 粘土のように こねて こねて 

それが出来上るのと生命とは まるで競争のようなもので めったなことに 生命が勝つことはない

しかし 胸の差か鼻の差で負けた夢は 生命が消えたところで 崩れるものじゃなく たとえ 俺がいなくても

見事に完成するものだよ


まあ そうは云っても 生命と駆けっこをやらなくて済む時に 夢ってやつが固まればいいのだけど

そうは行かないものでね 大抵はギリギリのところで どっちが早いかって勝負だ


云いかえれば そこまで行って何が夢かわかるので そうしてみれば お前たちは 土壇場で見つけた本物で

もうちょっとで最高傑作に出来たな


この前はポンポン打ったから 今日はガッチリした野球を見せてやれ 楽しくな しめっぽいのはいけないよ

しばらく俺のことは忘れて 優勝したら来てくれ 傑作だぞ お前たちは



高校野球の名物監督野本喜一郎さんが亡くなられた。 お会いしたこともない方だが、
男の夢とはこう云うものではないかなと思い、浦和学院勝利の日に詩にしてみた。
多分、氏は、現在の浦和学院チームを、夢の最高傑作と信じていたのではないだろうか。

初出場校に対する甲子園の壁は厚く、10チームが敗退し、浦和学院のみが勝ち進んでいる。
傑作でありつづけてほしい。 豪打で勝ち、完封で勝ち、いい形をとっているように思える。

さて、八月十五日、四十一回目の終戦記念日、正午にサイレンが鳴り、永遠の平和を祈って一分間の黙とうを捧げた。
ある者は頭を垂れ、ある者は顔を上向け、選手たちは一番短い影を足許に落として・・・
儀式でなく、真の心の祈りでありたい。


( 浦和学院4-0宇都宮工 )



春は平成25年に優勝していますが、夏は、この大会のベスト4が最高。
野本監督は病気の為、夏の大会前に辞任。それでも埼玉大会で初優勝を果たしたが、
甲子園開会式の当日、甲子園で初めてプレーをする選手達の姿を見ることなく、64歳の生涯を閉じた。

249名無しさん:2018/09/09(日) 15:11:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月16日  二回戦  「 静かに そして 激しく 」


激しさが 火のような形をとるとは限らない 吹き荒れる嵐や 岩を砕く流れや 絶叫の渦の中で演じられる

過激な興奮とは限らない 激しさは 激しさ故に 時に 静寂と同じ形をとることがある


同じ力で押し合えば停って見え 同じ高さで支えれば 水はどちらへも流れない だからと云っても それは

静寂とは根本的に違う 対等に力を出し合うことは 手を振り上げ叩き伏すよりも 余程激しい 激しいことなのだ


全く久々に 観客に沈黙を強いる試合を見た 饒舌を忘れ 目をこらす 時々不規則な呼吸を思い出すのは

静かさをよそおったエネルギー 針穴一つで噴出するに違いない 表面化の力を感じるからだ


広島工1-0熊本工  乱れ飛ぶ白球もいい 駆け巡るヒーローもいい 奇跡の大逆転は更にいい しかし

鍛え上げられた力と力が がっぷりと組み合い 静かさに至るような戦いの原点もいい 両校に拍手を



選手宣誓に定型の見直しを感じたように、高校野球にも、原点の見直しと云ったものを感じるのである。
金属バット、筋力トレーニング、池田高校で、全く新しい神話を生んだ高校野球も、今年を見る限り、
全校が右へならえではなく、かつての甲子園戦法を見直ししているようなところが何校か見受けられた。

土浦日大に勝った松山商がそうであり、この広島工、熊本工がそうであると、ぼくには思える。
やってみなければわからない攻撃ではなく、結果の計算の成り立つ攻撃を忠実にやると云うことである。

見る側から云っても、これはうれしいことで、高校野球が空砲ばかりの花火大会になってしまったのでは味気ない。
いろんな信念や個性が混り合ってこそ、面白さも生まれようと云うものである。

250名無しさん:2018/09/09(日) 16:12:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月17日  三回戦  「 石ころの詩 」


風は ただの風ではなく 石ころは ただの石ころではなく とびっきりのからっ風が 

男になれ 男になれ 一冬かけて磨きあげた光る石ころだ 

奢ればかげり 眠れば砕け 夢見ることを知る魂と 悔いのない誇りに チカリと光る石ころだ


指を凍らせ 頬を赤らめ 耳をひきちぎる風に耐えながら 黙々と石ころでありつづけ

降りそそぐ夏の陽の中で 光ることだけを考えた少年たちよ 石から花咲くことはないけれど

石から虹を吐くことはないけれど 石ころは とにかく 心に近い


前橋商ナイン フィフティーン 五十七年ぶりの熱い期待の中で 君たちは期待を超え

半世紀の夢を実現し さらに 好ましい印象まで残した


打ち砕かれても恥じることはない 敗れて去るも うつ向くことはない 夏の陽炎が見送る中を

踏みしめて 踏みしめて帰るがいい やがて 早足で季節が変れば また からっ風が磨きにやって来る



群馬大会決勝戦の、最後の最後の場面をたまたまテレビで見ていた。  
逆転につながる大飛球がライトを襲い、九分九厘まで甲子園への夢が消えたと思われた瞬間、
ライト中塚だったと思うが、超美技が生まれ、夢が実現したのである。

言わば、崖っぷちからはい上ったような彼らの、甲子園を注目したいとその時から思っていたが、
一戦の浜田商、二戦の東海大四と、二試合でわずか八本のヒットで勝ちぬいて来た粘りは、
充分に注目に価した。 妙なもので、夢をつないだ一瞬を目撃したことで、縁のようなものを感じているのである。

取り立てて語るところを持たずに強いと言うのが高校野球の好チームで、その中に立派に入る。 しかし、
この日、前橋商、拓大紅陵、秋田工と敗れ、関東以北の学校では、浦和学院を残すのみになったのは淋しい。


( 前橋商3-11鹿児島商 )

251名無しさん:2018/09/09(日) 17:18:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月18日  三回戦  「 未完の楽しみ 」


誰もがアッと言った あの 去年の夏 さよなら暴投で号泣した一年生が 一まわりも 二まわりも大きくなり

しかし きかん気の童顔だけは面影にとどめて 今度は満々の自信でやって来た


泣けるということは くやしさの何たるかを知ることであり 胸の中で 腹の中で 男の魂がつき上げることだ

つき上げられる度に泣き 泣く度に一皮むけて行き 涙を絞りきったところで 去年のあのシーンが彼方に消えた


上原晃の二度目の夏は 勇気を手にして戻って来た 獅子の王子のようだ

黒々と光る瞳が まばたきもせず一点を見つめるのは 少年らしい美学があって 逃げたり かわしたりを拒む


たとえば 一番速い球を 一番真中に投げ込んで それを空振りさせたいと 捕手のサインに首を振る

稚気満々 男の子 それもいい  未完のままで勝てる大器の 末おそろしさにニンマリする 

もう二度と泣くことはないだろう ブンブン投げろ



忘れ難い少年というのを甲子園はつくってくれる。 去年の大会は、ほんの一瞬、まばたきの間に登場して、
まばたきの間に去って行った。 沖縄水産の一年生投手上原晃であった。
それも突然のヒーローという役どころではない。 サヨナラ負けになるワイルド・ピッチを投げてしまったリリーフ投手なのだ。

忘れ難さは、しかし、可哀想にという感傷だけではなく、その悲劇のさ中に、楽しみを抱かせていたのだから、
この黒々とした顔の、黒々とした瞳の、柔軟そうな躰の少年が、余程印象的であったのだろう。

そして、その印象は、感傷の彼方に消え去ることなく、見事に成長して帰って来、より楽しみを感じさせたのだから、
大したものである。 少年の変り行くさま、化けるさまをじっと追えるのも甲子園の妙味だ。


( 沖縄水産14-0京都商 )

252名無しさん:2018/09/15(土) 10:11:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月19日  準々決勝  「 古豪あたらしく 」


怪童もいなければ 天才もいない 大器もいなければ 逸材もいない 目を見はる幸運児も

特別のツキ男もいない 一人一人が一人一人の役を果しながら 巨大な歯車をまわす


圧倒するプレッシャーはなくても 気のぬけないプレッシャーはかけられる 

あたりまえのことを あたりまえにやって来るということは きっと恐いことなのだ


戦慄をさそう一発の快打より 誰もがミスしないことの方が 相手に与えるダメージは大きいと 

彼らはそれを知っている それを知り得たことが勲章で 裸の千本ノックも 今光る 


新しいということは 時に流れにそって動くことではなく 今 何かを見つけることで たとえ それが

古びた定説であっても 信念を持って選べば新しい


古豪と云われる松山商業が 誰よりもみずみずしいのは 15から18までの少年が

努力でなし得ることを発見したからだ 怪童もいなければ 天才もいない 大器もいなければ 逸材もいない

しかし 怪童を超え 天才を超え 大器を超え 逸材を超え 彼らは強い



古豪が用いる甲子園戦法が、ひどく新鮮に、目新しく思えるのも、時代の流れが、
いつの間にか常識を変えていたのだろう。 四年前、池田高校が広島商を打ち砕いた時、
甲子園戦法は過去のものになったが、どうやら復活して来たようである。

多分、あらためて、甲子園における戦略を研究する監督もふえるだろう。
もうあり得ないと云っていたことが、松山商によって、充分あり得る、やはり一番確率の高い戦法と証明したからだ。

それに、豪打をイメージするあまり、大ざっぱな野球になりかけていて、緻密さや妙味に欠けていたから、
よけい新鮮に見えるだろう。 時代の演出とはそういうものである。
それにしても、沖縄水産の上原投手、またもサヨナラ負け、あと一年の試練だとぼくは云いたい。


( 沖縄水産3-4松山商、サヨナラ勝ち )

253名無しさん:2018/09/15(土) 11:31:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月20日  準決勝  「 爆発したぞ 」


春には負けた 敗れて仰ぎ見る桜島は 巨大に過ぎた 力の半分も出せなかった自分たちは

その前では小さく悲しげだった 勝つか 負けるかと思う前に 自分が自分であり得るか

躰の中にためたエネルギーを 最後の一滴まで燃やしつくせるか それが問題だと桜島は言う


勝ちたいの 残りたいのと言う前に 今度甲子園へ出たなら 爆発して来いと煙を噴き上げる 

どうだ 見てくれ 誰も春の顔はしていない それぞれが 心を絞り 躰を絞り 可能性まで絞り

もう一滴も余すことなく出しつくす いい顔してるだろう 爆発したぞ 何度も 何度も爆発したぞ


大旗は持って帰れなかったが 青空の下で堂々と 砂塵の中で撥剌と 完全爆発 完全燃焼

その満ちたりた男の顔が 今度の土産だよ 爆発したぞ 何度も 何度も爆発したぞ

甲子園に負けなかったぞ 今度は大旗だぞ



中日を過ぎたあたりからの早さというのは特別の感情である。季節の変り目と重なるせいか、
毎日毎日惜別の詩を歌う心持ちになって、切ないものである。

前半に覚えなかった感傷が入り込んで来るのもその頃からである。
残暑はいくらきびしくても残暑で、盛りのにぎわいは出し得ない。 

今日で、七百三十五人の選手のうち、七百五人が甲子園を去ったことになる。
明日の決勝戦という最大のヤマ場を待ち望みながら、去った人への思いが支配するのも、
準々決勝、準決勝あたりの不思議な気持である。

さて、今大会で、鹿児島商は、なかなかに印象に残る好チームであった。初戦の松商学園との試合は、
面白さという意味では屈指であったし、この日の天理戦、絶望的と思えた6点リードを、
一時は1点差まで追いつめた粘りは、付焼刃や幸運だけでない。日常貯えた活力を感じさせた。


( 天理8-6鹿児島商 )

254名無しさん:2018/09/15(土) 12:56:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1986年8月21日  決勝  「 いいドラマをありがとう 」


雨もなく 嵐もなく ただ照りつけて彼らを見守った夏よ 雲を湧かせ 陽炎を立て

土に落した涙を気化した夏よ 殊勲を見 失敗を見 勝者を眺め 敗者を眺めた夏よ


もう去っていい 行進の先頭には夏があるが 一番最後の選手の背を秋が押している

ここで秋と入れかわるがいい 今年もまた いいドラマをありがとう


ほんの数十分前まで 死闘が展開されたグラウンドが 穏やかな表情を見せている

少年たちに極限を迫り 激しさを求めた土が ただの土になって乾いている

ドームのような青空が銀箔を落し 透明にぬけている


勝った天理高フィフティーンよ 敗れた松山商フィフティーンよ 

身も心もくずおれる直前の極限で しかし きみらは 最高の試合をした 

土や 風や 空が 示して見せる穏やかさは そのことに対する満足だ 


本橋投手の百二十七球目 最後の一球になお心を残した好試合は 去り行く夏の誇りになる

夏よ そして 両校よ いいドラマをありがとう 



新たな出発を迎えた高校野球は、この大会でどこが勝つかによって、次の時代の野球が決定すると思われた。
そして、天理高、松山商が勝ち残り、ともに手を携えてという形で新時代の扉を開いたと云えよう。
これで、確実に、新しい高校野球が始まる。

十四日間、全試合、極端に云うと一球も目をそらさずに見ていると、ずいぶんといろんなことが勉強出来る。
人生というものに関わって考えることも出来る。

野球は、10本のうち3本打てば名人で、2本ならヘボになる。この1本の真中あたりに大多数がいるのだと云うこと。
また、野球は、9人のうち何人が野球を知っているか、つまり、X/9の分子の大きい方が勝つのであって、
力ではないと云うこと。 そんなことを考えながら、ぼくも、10本のうちの3本になろうと秋に向う。


( 天理3-2松山商 )


1986年の出来事・・・スペースシャトル・チャレンジャー打ち上げ後に爆発、 三原山噴火で伊豆大島全島避難

             ソ連チェルノブイリ原発事故

255名無しさん:2018/09/16(日) 10:16:26
☆ サラリーマンから高校野球の監督に転身した48歳 



今春、富士(東東京)の指揮官に就任した綿引監督(48歳)は損保業界で22年間のサラリーマン生活を経て、
44歳で東京都の教員採用試験に合格した“オールドルーキー監督”だ。

日立一(茨城)では1985年夏の甲子園で1年生ながら決勝打を放つ活躍を見せた男は、
なぜ今、都立進学校の硬式野球部でノックバットを握ることになったのか。
初めて迎える夏の大会を前に、その生きざまに迫った。


大手損保会社に入社後は、主に企業営業を担当。 22年間の勤務を経て、課長職まで務めた。
長男の野球チームを手伝うたびに、野球熱が高まってきた。 これからの人生について思った。

「 当時44歳。定年が65歳と考えると、あと20年ある。じゃあチャレンジしようと。
教員採用試験について調べると、東京には年齢制限がないんです。都立高はまだ、甲子園で勝ったことがない。
勝って、歴史に名を刻みたいと。そのためにも、本気で教員を目指そうと思ったんです 」


保健体育教諭の採用試験には陸上、水泳、球技、武道、ダンス、器械運動と6種類の実技があった。
44歳のオッサンには、いささかハードな試験でもあった。

「 1600人が受けて、合格するのは100人。1500人が落ちるんです。多くの受験者は体育大を卒業した20代。
私は健康診断でも 『 太りすぎ 』 とされていた頃で、これまでもダイエットを試みたんですが、全く体重が落ちなかった。
でも 『 甲子園に行くんだ 』 というモチベーションを掲げた途端、17キロも落ちたんですよ。
食生活も塩分と油を抑えて。それで何とかパスした感じです 」


45歳の春。念願の教員になった。 月収は半分になったが、新たな目標へ活力がみなぎった。
最初の配属先は高校ではなく荒川四中。 3年間、バスケ部や軟式野球部の顧問に全力投球した。
そして4月、東大合格者を輩出することでも知られる富士へと赴任した。
部員は3年生1人、2年生8人、1年生9人。女子マネジャー2人も含めて計20人。野球未経験者もいる。

チームのモットーは柔道家・嘉納治五郎の「 精力善用 自他共栄 」。
野球を通じて心身を鍛え、助け合いながら目標へと近づき、よき社会人を目指すというもの。
一般企業で社会の荒波にもまれたからこそ、若者たちに教えられることがある。
初めての夏。 1年生監督の挑戦が始まった。


第100回大会、初采配は9-3で新宿高校に勝利。 次の紅葉川高校には0-10で敗退。
頂上への道が険しいのはあたりまえだが、オールドルーキー監督は、都立の弱小チームで確かに一つ勝った。


100回大会の外人部隊を調べると、県内100%は・・・公立の金足農、高岡商、明石商、丸亀城西。 
私立の旭川大、花巻東、作新、中越、愛知産大、東海大星翔、興南。

残りの45校は外人部隊頼み。 花咲徳栄、大垣日大、八戸光星、藤蔭が16名が外人。鳥取城北が15名。
大阪桐蔭は13名。 益田東は全員外人部隊・・・大阪から15名、京都、兵庫、福岡から各1名。

合計1008名のベンチ入りで、島根県人はゼロ。 青森、大分などの少人数参加県も非常に多い。
この現状を、高野連のボンクラ達は、何も感じないのだろうか。
そして、広岡達朗さんのお言葉「240」へ。

256名無しさん:2018/09/16(日) 11:31:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月8日  一回戦  「 初陣の花 」


記録として残る数字は空しい 汗の匂いがない 昂ぶりの脈搏が聴こえない 7対2の試合を

波乱の熱闘として伝える術がない どちらが圧し どちらが耐え 戦慄はどちらにあったか 数字は語らない


辛うじて展開の妙は読みとれても 大観衆に沈黙を強いる緊張が 甲子園を覆ったことを 7対2の記録は物語らない

年経れば ただ乾いた数字としてのみ残る 初陣 中央高校 詩を書く男はそれを口惜しがる

ドラマに満ちた7対2であったことを どうしても記したいと願う 人々よ 今 感動の詩人になれ


その夏 その日 その試合 そして その時 その瞬間 誰が主役であったか 何が慄えを呼び 何が胸をえぐったか

時間の経過とともに薄れる宿命の 心の襞の小さな記憶を 色鮮やかに あらん限りの饒舌でとどめてほしい


人々よ 少年のドラマはこのようにして 永遠のものにしたいじゃないか 負けて悔いなしと云いたくない

負けて悔いあり 大いに価値ありと称えたい 今日 みんなが詩人になった



組合せ抽選会で、PL学園を相手に引き当てた学校の表情がいつも面白い。 悲鳴に思える声が上がり、
落胆のどよめきになり、しかし、それで終るかというとそうではなく、何ともいえぬ昂揚が満ちて来るのである。

それは、まさに、現在の高校野球の実情を物語っている。 甲子園が彼らにとって宇宙であるなら、
PL学園もそれと同様の、征服を試る価値を持った宇宙であるといえる。 だから、ぶつかる不運と、
引き当てた意欲を同時に感じるのだ。

今年、PL学園と対したのは初陣の中央高校で、そこに見られた中央高校の一種のときめきは、
引き当てた意欲をありありと感じさせるもので、心をうった。


( 8回表までは、2-2の際どい試合 )

257名無しさん:2018/09/16(日) 13:17:22
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月9日  一回戦  「 手の中から 」


その瞬間 勝利も栄光も歓喜も 充ちあふれる満足感までもが 掌の中にあった 

皮の厚みを貫いてズシリとした感触が 晴れがましく躰中を走った 

あとは ゆっくりと落着いて 一塁へ投げるだけでいい 


一秒後の暗転を 誰が予測しただろう 頂上から奈落へ 得意から絶望へ運命の切り換えが

わずか一秒で行われるとは 女神の悪戯としたら度が過ぎる 女神の他所見としたら罪深い


一秒後 ゲームセットの筈のボールは 転々として 敗戦の門を開いた 何が起るかわからない甲子園

しかし それは 不穏の中でのこと 全てが停止した中で 運命だけがはしゃぐのは珍しい


徳山高校 温品投手 きみは選ばれて 稀有の試練を与えられたとしか云えない 青春の記憶の中で 

痛恨といえる一秒であったが こんなに重く こんなに激しく こんなに残酷な一秒は 誰も持ち得ない


いつか この一秒は 無限のような価値を持って きみの人生に戻って来るだろう

薄ぐもり 微風 甲子園に波乱の気配はなかった



ツキという云い方をするなら、むしろ、徳山高の方にあった。 それなら、そのまま幸運を与えつづければいいのに、
直後にソッポを向くのだから、甲子園というところは恐い。 毎年毎年、この恐さは感じる。

試合後の徳山高の監督の談話として 「野球の原点はキャッチボールにあることを、あらためて教えられた」という
言葉が伝えられた。 これに納得し、ホッとした。

運命の神でも、甲子園の魔物でもなく、技術の不足に因を求めたところが素晴しい。 
確かに、技術や力を超えたものが存在することは否定出来ない。 しかし、運命の神や、
甲子園の魔物を黙らせる唯一の手段が、キャッチボールの原点にあることも、また事実であろうと感銘する。


( 東海大山形2-1徳山。 1-0とリードしていたが、9回二死3塁で、投ゴロ悪送球から東海大が逆転 )

258名無しさん:2018/09/16(日) 15:13:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月10日  一回戦  「 夏の壁 」


今年こそはと決意を示す 今年こそはと予感を覚える 決意と予感の距離が 空しいほど遠い年もあり

希望と呼べる近さの年もある そして 今年は 八戸工大一高 決意と予感はほぼ同じところにあった


偶然が重なるとジンクスになり ジンクスを繰り返すと 高い壁になって行った 時うつり 人変わりながら

青森の球児たちは 年々高くなる壁の前で立ちすくんだ 神話は遠くなり 彼らの夏は またたきの間で終りつづけた


迷走の梅雨が昨日あけた 夏の壁に挑む青森の球児たちに それは いいしらせだった

池田5-4八戸工大一 サヨナラ負け 今年も また 彼らは一瞬で去った

しかし 語るべき多くのものを持って 彼らは甲子園を去った 


青森の球児たちよ もうきみらを縛るものは何もない 偶然は偶然であり ジンクスは安易な意味付けであり

こだわる必要は何もない それより 今日示してみせた八戸工大一の 力の実証を信じるがいい

彼らは 大きなメッセージを持って帰る



話はそれるが、近藤真一投手が、プロ入り初登板でノーヒット・ノーランの快挙を演じた。 
去年の今頃、彼は、この甲子園の熱い土の上にいたのだ。 その時、才能の卵であった。 それを考えると、
甲子園を見つめる目が急に眩しく感じられる。 一年で孵化する才能の卵が転っているかもしれないのだ。

さて、青森勢の悲願ともいうべき初戦突破が今年も果たせなかった。しかし、去年までと違うものを今年は感じる。
八戸工大一は堂々たる好チームで、悲壮な思いや同情を拒絶する強いものがあった。

大仰に云えば、呪縛から解き放たれたように思える。
太田幸司から十八年、そろそろ新しい神話が誕生する頃だという予感がする。

259名無しさん:2018/09/22(土) 10:01:24
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月11日  一回戦  「 宇宙という名の少年 」


大舞台は人を変える 人を作る 潜在能力や潜在意識を 残酷なほどに拡大して見せる

ある人は才能に気づき ある人は気弱を発見して狼狽する しかし 大舞台は結果に責任を持たない

変えるだけである 甲子園ほど見事な大舞台を知らない


この大舞台に似合う少年がいた 彼にとって甲子園は大きさの象徴で 自らも不思議に大きくなる

不安が闘争心になり 怯えが冷静さになる 


多分 探るような視線も射るように変り 眉も唇も凜としているに違いない

もしかしたら それは 甲子園の大きさを遥かに超えた 彼の名前によるかもしれない


彼の名前は宇宙という 時に勝ち 状況に勝ち 舞台に勝ち 機会に勝ち 

それを細胞の一つ一つに息づかせる知と可能性と それらがほとばしる不思議さが好きだ


とりまくあらゆる宇宙を 自分に取り込める若さが好きだ それを見事に示して見せた 

宇宙という名の少年の 更なる宇宙は またひろがったに違いない



帝京高、芝草宇宙投手は、春のセンバツ大会の好投の印象が強い。(優勝のPL学園に準々決勝2-3で敗退)
だから、当然好投手としての評価が高いのだと思っていたら、春も、どちらかというと予想外の好投であったらしい。

しかし、この春の甲子園での活躍を機に、大いに評判上るかと思われたが、どうもそうではない。
エースに不安ありといったようなことが書かれていたりした。

事実、チラと見た東東京での予選も、印象とは全く別人のような投球をしていた。
故障もあって、3イニング以上は投げていないと云う。 そして、今日、甲子園で見る芝草は、
またまた別人で、春の快投の姿で、驚かされたわけである。

名前がいいとか、ひろがる宇宙とか、ほとんど野球と無関係の言葉を使いたくなるのも、
驚きのせいである。 甲子園は不思議である。


( 帝京6-1明石 )


芝草宇宙・・・日本ハム、通算46勝56敗。 今年2月より帝京高コーチ。

260名無しさん:2018/09/22(土) 11:05:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月12日  二回戦  「 無名の熱闘 (熱い試合) 」


リードして ひっくり返され 追いついて ひっくり返され また追いついて めまぐるしく めまぐるしく

そして 試合は突然に 終りがないように動きを停めた


青空と入道雲と熱風と 時折 頭を空白にする陽炎と いちばん暑い時間の試合 高岡商5-4長崎商 

人々は もうどこまでもつき合う気持で この試合に酔った


夢を託す天才の活躍や 心をかき立てるスターの出現や 強豪の如何にも強豪らしい圧倒や 

奇跡をくり返す新鋭も それはそれでいい それはそれで心ときめく しかし 無名の少年たちの真摯な闘いに 

いつの間にか同化して行き どちらが敵でも 味方でもなく 奮闘に涙ぐむのも 甲子園の醍醐味だ


顔馴染みのない北と南の少年に 一喜一憂を教えられ 胸のあちこちが痛くなる 猛暑の午後の夢だ

勝つことで得たものと 敗れることで得たものと 秤にかけて重さを比べれば やがて同じ目盛になる

勝った高岡商 敗れた長崎商 今年の夏はいい夏だった

 

どちらの立場で書くべきか、しばらく迷った。
九回二死から、劇的に決勝点を得た高岡商の立場になって歓喜を語るべきか、
残念ながら甲子園を去って行く長崎商に、健闘を称える言葉を書くべきか。
しかし、迷った末、どちらの立場もとらないことにした。

両者はクタクタになっていた。 疲れてクタクタになっているのとは印象が違っていて、
もう全てを出しきったという感じだった。
そこまで感じさせる試合で、どちらの立場は、余り意味のないことに思えた。

無名の少年たちの一戦は、ひき込まれて行くまで時間がかかったが、入り込んでしまうと大変だった。
それにしても、今大会、一点差の試合が多く、静かな緊迫に満ちて面白い。

261名無しさん:2018/09/23(日) 10:16:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月13日  二回戦  「 長い一本道 」


それこそ ほんのまばたきの間の決断と 更に短い時間の中での伝達で 監督と選手は 大きな

勇気ある賭けに出た いささかの迷いも いささかの疑問も許されない


出すものと受けるものが 信頼という名の電波を通わせて それは決し それは行われた

もしも 一息呑む思いが存在したら 賭けは失敗に終っただろう 


佐賀工高 野田選手 決勝のホームスチール 劇的な一瞬は 劇的と知られることのよって無になる 

静かに しかし 大胆に 石灰の石を舞い上らせながら 真直ぐに走った


塁間は同じ距離であって 同じ距離でない 一塁までよりも 二塁までが長く 三塁まではその倍にもなり

本塁を望むとなると 遥かと思えるほど遠くなる 


野球のドラマは 左まわりに進行し 最後の直線は人生にも似た 起伏と波乱と試練になる

勇気と決断と幸運とに恵まれた ほんの何人かが駆けぬける

賭けはなされた ホームベースへ正面から一直線 右足の踵が 賭けの成功を確認した



三塁ベースの周辺、それから、三本間のライン上、そして本塁ベースの直前には、
小説よりも豊かなドラマがあり、人生訓より鋭い教訓が満ちている。 
ダイヤモンドの三辺はゲームでも最後の一辺は人生になる。 全く違う二つがつながって野球なのである。

佐賀工野田選手のホームスチールは、実にスリルを含んだ野球の醍醐味であったが、もう一つ、
その前の試合、北嵯峨と秋田経大付のゲームセットの一球前も、何とも意味深いものであった。

二、三塁で三塁ゴロ。ボールは奇妙にバウンドして三塁手後逸、一瞬同点かと思われたが、
ボールはグラブにも触れず、ファウルとなった。 グラブに触れないのも、方向を変えたボールも、
ゲームの域を超えている。


( 佐賀工2-1東海大甲府 )



昨日、光南戦を観戦したが、相変わらずの勝負弱さであった。
指揮官については、「127」〜「129」のあたりに書き込んだ通りで、私の考えは不変。
可哀想だが、勝負運は持って生まれたものがあるからね。
「持ってる指揮官」の登場を心待ちにしている。

262名無しさん:2018/09/23(日) 11:31:24
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月14日  二回戦  「 一瞬の夏 」


夏は一瞬に過ぎ去った 怪物の証明はならなかった 花道はあまりにも短か過ぎ 大きな姿のシルエットを

残像としてとどめただけだった 夏という季節に敗者復活はない 恵まれた素質の大器にも 心を磨く高校生にも

同じ條件しか与えられない 敗れれば去る 去れば それで終る


どんなに君に好意を示し 怪物の証明を渇望しても それぞれの夏は それぞれの終りを冷酷に宣する

走り過ぎる季節との 一瞬の交錯の中で 巨大なる 逆光の像を描いたきみは やはり夢を託するに値する

大物なのだろう 浦和学院 鈴木健三塁手 


人々は ここで 証明される快挙を諦らめ 未来への希望と幻想とに 心を切り換える 

大きな高校生が 大きな男として証明する日を ときめきながら幻想する


甲子園は去る人の闘いで だから 熱狂の底に感傷がある 大物も去る 普通も去る 敗者も去る 勝者も去る

たとえ 優勝しても 終る人 去る人に変りはない



人間とは勝手なもので連日の接戦の好試合に満足しながら、これが高校野球の面白さだと礼讃しながら、
同時に、怪物、怪童、天才も心待ちにしている。 

懸命の美しさに陶然と酔いながら、それらを軽々とクリアする、もの凄い子供の、存在も期待している。
いや、考えてみれば、それは勝手ではなく、両者が混り合ってこその甲子園なのだろう。

82本の本塁打の鈴木健選手には、ぼくのみならず、大勢の男たちが、どえらいことを、期待していたに違いない。
何しろ、世の中、罵られるどえらいことはあっても拍手の来るどえらいことはなくなっている。
しかし、彼は、不完全燃焼のまま、まず第一幕を去って行った。


( 尽誠学園5-2浦和学院 )


鈴木健・・・西武、ヤクルト。プロ通算19年、189本塁打、1446安打。

263名無しさん:2018/09/23(日) 12:52:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月15日  二回戦  「 巧者と猛者 」


来た! 捕手の視界の片隅に 動き出す走者が入った はずせ! 捕手の躰が半ば本能で右に傾く

しかし 投球に入った投手には 既に修正する時間がなかった スクイズ 決勝点 中京2-1池田

巧者が猛者を その巧みさで破った一瞬だった


頂点で青空はつきぬけ 入道雲が手を伸ばす 完璧な夏の姿に甲子園は燃える

早朝から人々は昂揚し 五万五千人の祭を作った 


たがいに名のある巧者と猛者は 誇りと栄光を賭けて闘い それは 熱さや猛々しさより

もっと過酷な緊張を強いる 静かな一戦となった 人々は いつの間にか 今日 この時点で

どちらかが去って行くことを惜しみ 早過ぎる対決の 組合せを呪ったりした


猛者はとうとう 猛者であり得なかった 巧者は土壇場で 目覚めたように巧者を発揮し

そして 勝った 空高く 平和の朝の 子らの汗 終戦記念日



ジュンジュンが面白いと云う。 つまり、大会中で、準々決勝戦が一番充実し、組合せも面白いということである。
そういう云い方をするなら、今年は、毎日が、ジュンジュンで、十五日などは、
これ以上ない豪華で妙味のある組合せだった。 だから、早朝から超満員になる。

中京ー池田戦は、二回戦ではもったいない顔合せである。 壮絶な打撃戦になるかと思ったが、全く逆であった。
九回裏、中京は好機で、打率のない木村に代打を送らなかった。しかし、結果はそれがよく、
スクイズを成功させて同点、木村は十回も好投することになる。

英断には、動く英断と、動かない英断があることを教えられた。 これは、かなり勇気のあることに思える。
さて、今年も、八月十五日が過ぎた。 確かに野球があり、熱狂する人がいた。
それも一つの平和の姿であった。


( 池田1-2中京、延長10回サヨナラ勝ち )

264名無しさん:2018/09/23(日) 15:57:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月16日  二回戦  「 生れたてのヒーロー 」


ヒーローは アッと云う間に誕生する 長い時間をかけて殻を脱ぐのではなく パチンと弾ける

そして 飛び出す ヒーローは日常の人ではなく 神との二人三脚であるから そういう形をとる

アッと云うのも無理はない 


生れたてのヒーローは 青空と同じ色のユニホームを着て 染まるのか 溶けるのか

光り輝やく甲子園に躍る 素質には恵まれているものの まだ若い二年生だと そんな目で見つめていた人々に

ただごとでないものを感じさせる どうやら 一年早く飛び出したらしい


横浜商 古沢直樹 二年生 百八十二センチ 七十五キロ 二試合連続完封 二試合連続本塁打

そして この日 昨年の覇者を封じ 一発で野望を砕いた


濃い眉の下の鋭い目 稚さをそぎ落した頬 細いと見るか しなやかと見るか 鞭のようにしなる躰

凄味にはまだ至らないが 少年とは呼べない 神の人選に間違いはなかった 自覚しなかったヒーローが

これ以後自覚を強いられる しかし 気にすることはない このままの勢いで化けてくれ



明暗ともに投手の日であった。横浜商の古沢投手は、かくの如き印象を与えてヒーローとなった。
無理矢理ではなく、スッとなってしまうのが今風である。 第一試合で、帝京の芝草宇宙投手が、
大会史上二十一回目のノーヒット・ノーランを達成した。

芝草に関しては、ぼくの予感を自慢させてほしい。 四日目に、この、甲子園の詩で
「宇宙という名の少年の、更なる宇宙は、またひろがったに違いない」と書いている。

そしてもう一人、沖縄水産の上原晃投手は、予想外の大敗を喫し、最後の夏も早々に去ることになった。
「泣くな一年生」から、「未完の楽しみ」と、二年つづけて詩を贈って来たが、今年は、
無言を最大の詩として、見送りたいと思う。 いつか、また・・・。


( 横浜商1-0天理 )


沖縄水産、上原投手・・・

完成度の高い速球に「沖縄の星」として注目を集め、阪神がドラフト1位で指名すると噂されるも、
明大への進学を希望。 しかし、中日が3位で強行指名し、星野監督の説得もあり中日への入団を決意する。
ルーキーの上原は、ウエスタン・リーグ最優秀防御率及び最多勝率を記録した。

一軍に抜擢された後は、抑えの郭源治に繋ぐ前のリリーフを任せられ、8月7日にはプロ初勝利を挙げる。
同年は24試合に登板、防御率2.35と堂々の成績を残し、日本シリーズでも登板。

翌年から先発に転向するが実績は残せず、1991年にセットアッパーに戻って8勝をあげる。
しかし指先の血行障害で手術を余儀なくされ、その後は登板機会も少なく、1996年には中日を自由契約になる。
広島、ヤクルトと球団を転々とするが一軍登板はなく、1988年限りで引退。 現在は整体師を務める。


古沢投手・・・社会人野球(日本石油)、プロ入りぜず。

265名無しさん:2018/09/23(日) 17:16:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月17日  三回戦  「 青春三部作 」


大河ドラマの三部作を この夏 きみたちは 見事に完結させた 充分に歓喜に満ちた

そして 明日への希望にあふれた 晴ればれとしたENDマークを 自らの手によって出したのだ


思えば この三年間 東海大山形の甲子園は さながら 激動の魂の放浪を描く 青春のドラマに似て

次から次へと重い枷を与え 夢という言葉の甘い思いを 粉々に打ち砕きつづけた


しかし きみたちは 三年目の今年 暗雲を払い 一条の光を見つけ キラキラとあふれさせたのだ

一昨年の記録的な大敗は 屈辱と同時に立ち上る意地を教えた

昨年の一点の壁は ほんものの口惜しさを教えた 


第一部は激流  第二部は厳冬だった  そして 第三部 きみたちは 黎明と名付け得る試合をした

夜が明けた 過酷なだけであった甲子園が 初めて きみたちのために 運命の駒を動かした

努力と敢闘への好意に思えた 訪れた時と去る時と きみらは違う顔をしている



三部作は、東海大山形にとって意味あるものであると同時に、見つづけるぼくにとってもそうであった。
個人を追って見ることもあるし、学校を気にすることもある。
個人の場合は三年間で一つの解決を見せて行くが、学校の場合は、ひきついで行く。

一昨年、PL学園に29-7の大敗を喫した選手と、今年の選手とは全く違っているのだが、
それでも何かが残され、残されたものを背負ってやって来なければならない。
それが高校野球の独持のものであろう。

しかし、東海大山形は、見事にそれらをふり払い、幸運にも恵まれたが、甲子園で二勝した。
二回戦の大勝は、重荷を降ろした歓喜の躍動にも見えた。 残念乍ら、三回戦で惜敗したが、
迎える言葉は、拍手であろう。


( 北嵯峨3-2東海大山形 )

266名無しさん:2018/09/29(土) 10:03:32
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月18日  三回戦  「 キャプテン 」


ヒーローという言葉は ケバケバし過ぎる 殊勲者でいい その方が如何にも地道に しかし しっかりと

勝利に貢献した感じがする たった一点を競う接戦の その一点を叩き出したのは キャプテンだった

帝京高 捕手 八番打者 木村亨 やはり 殊勲者の方が似合う


試合は動かない 一進一退もミリの単位 実力伯仲の好敵手が ただ荒い息だけを吐きながら 

押し合う姿になる 走者はにぎわっても二塁は遠く 三塁は更に 本塁はかすむ遠さ 静かな緊迫の連続

それは それで ヒーローが誕生する舞台が さりげなく整ったことでもある


そして ヒーローが いや 殊勲者が快打を放った 甲子園ノーヒットの八番打者に 監督は勝負を託した

それは 多分 信頼というエネルギーとともに 渡された賭けに違いない


キャプテンはたった一本のヒットで キャプテンを証明した ヒーローという言葉は ケバケバしい

殊勲者でいい 曇天の甲子園に いい光がさした瞬間だった



そう云えば、殊勲者とか、貢献者という言葉を忘れていたなと思う。 それだけ野球がケバケバしくなり、
カキーンという金属音に心を奪われがちだが、鈍い音の快打の意味深さにも感動しなければならないだろう。

片や、ノーヒット・ノーランの芝草、片や、二試合連続完封、二試合連続ホームランの古沢と、
甲子園で花開いたヒーローたちを擁し、しかも、京浜対決という煽りも効果的で、壮絶な試合になると思われた。

しかし、試合は静かに推移し、花に勝る実のある殊勲者の一打で試合が決した。 そうなのだ。
あの芝草のノーヒット・ノーラン、彼のボールを黙々と受けつづけ、記録のアシストをしたのも木村捕手である。


( 帝京1-0横浜商 )

267名無しさん:2018/09/29(土) 11:17:28
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月19日  準々決勝  「 怪物になった 」


一つ勝って 爪が尖り 二つ勝って 牙がとび出し 三つ勝って 鬣がさか立ち 

四つ勝って 翼が生え とうとう天空を翔ける 轟々の羽音の怪物になった

風を起こし 砂を巻き上げ 流れを逆流させる勢いだ


夏の日の眩しさを翼に飾り 自信と誇りに目を光らせ 虹の尾を引いて 見たこともない怪物が

甲子園を舞う もう弱いとも 普通だとも 力が無いとも云えない 

 
この自信と粘りと 更に 更に 圧する勢いの どこが弱いと云える 

あの信じる力と集中する念力に 弾き出された球の速さを見 どこか非力と云える 


しかし 弱いも 平凡も 非力も 誰の見間違いでもなく 一週間前までは

確かにその通りだったと思うと 少年の奇跡 人間の可能性に嬉しくなる


不可能に屈しない 逆境に諦らめない 好機を裏切らない 負の意識を持たない

一日の試合で これだけのことを証明して 常総学院は怪物になった



三千九百校の頂点に立つために、三千八百九十九校に勝たなければならないと思うと、気持が萎える。
絶望する。しかし、十二勝すれば、たった十二勝てば、三千九百校の中の一位になれるのだと云われると、
可能性がありそうな気がする。

三千八百九十九回戦う気になるか、十二回でいいと思うかは、ちょっとした発想の展開で、これは人生にも通じる。
勝ちつづけ、化けつづける常総学院を見ていると、これに近いものを感じる。 

遠く感じない、重く感じない、たったこれだけのことが、こんなにも重要なことに通じるという認識があるように思えてならない。
それはともかくとして、今大会の常総学院は驚くばかりである。
土壇場で代打に出た甲子園初打席の益田の殊勲打などは、まさに、好機を裏切らない、であった。


( 中京4-7常総学院 ) 4点を先取されたが、初出場の常総学院が逆転。

268名無しさん:2018/09/29(土) 12:25:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月20日  準決勝  「 去り行く夏とともに 」


ほれぼれとして見つめた好投手に 去り行く夏とともに別れを云いたい それは きみに

微笑みそこねた女神の 少しばかりのざんげでもある 東亜学園 川島投手


クルリと勝利が背を向けた瞬間 頬先で光っていた汗の玉が 凍りついて見えた

さて きみは 甲子園が不似合いなくらいに 大人の投手の技を見せた 


きみが投げると 不思議な静けさがあった 豪球でありながら荒々しくなく 

速球でありながら猛々しくなく ひとときも自己を見失うことなく 完璧に投げた

心と躰のバランスが きみほどに見事な投手は この夏いなかった 


その瞬間まで 頬先からしたたり落ちる汗は キラリと光りながら生きていた

サインをのぞき込む時の 激情を静かなエネルギーに変える その表情が好きだ


一喜一憂の愚かしさを どこかで知ったに違いない

無邪気な気合の空しさも 感じたに違いない 堂々の大人の投手であった

敗戦投手に ほれぼれと 夏傾いた季節とともに ほれぼれと さよならを



こんなことってあるんだな、起り得るんだな、と思わせるのが甲子園である。
毎年それを感じていながら、しかし、絶対に予測の立たない、こんなこと、が次々と起きる。

だから、ぼくらは、自分の生活や人生の何かを重ね合せながら、いわば、
縁もない少年たちの野球に熱中している。 どこが勝った負けたより、生きることや、
戦うことについてまわる微妙な明暗に気を奪われる。

一つの失投や、一つのエラーの、スコアブックをはみ出した部分を考えると、
かなり重いものも大分たまる。 かと云って、辛いかというと決してそうではなく、
めったに感じない驚きもある。 常総学院は、あの箕島に似て来た。


( 東亜学園1-2常総学院、延長10回サヨナラ勝ち )


東亜学園、川島投手・・・

理想的なフォームで、34イニング連続無四球という抜群の制球力で完成された投手といわれた。
阪神、近鉄、広島の3球団からの1位指名を受け、広島が交渉権を獲得し入団。

高卒新人ながら即戦力として期待され、ルーキーイヤーから一軍登板を果たしたが、
伸び悩み、ピッチングフォームの変更による肘の故障にも見舞われ、大成することはなかった。
2007年からは東京都の一橋整骨院で院長を務めている。

269名無しさん:2018/09/29(土) 15:06:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1987年8月21日  決勝  「 夏燃えて 」


栄冠を手にした少年が行進する 惜しくも敗れ 大旗の代りに 敢闘という言葉を手にした少年が

さわやかに後につづく 一番晴れがましい行進が 熱狂に至らず胸ふさがれるのは やはり季節のせいか


七百三十五人の開会式が 閉会式では三十人になる この場にいない七百五人の 満足と無念をついつい想う

むしろ それを想う そうなのだ 夏は瞬時にして想い出に変り 行進が終った土の上には 青春の記憶だけが残る


最後の夏の最後のイニングだけ 大器の証明をしてみせた 沖縄水産の上原投手 エースの不調に

思いがけない登板の機を得  黙々と好投した佐賀工の和田投手 みんなで甲子園をと

代打に起用された延岡工の控え選手たち カラカラと音立ててシーンがまわる


生々しい筈の記憶が どこか遠い過去に思えるが 鮮やかさに変りはない 行進の後にまだまだ

それぞれのドラマを演じた 少年の夢と現実がつづく それを幻想している間に 甲子園は秋になった

春夏連覇 PL学園おめでとう 青い青い空です



やはりPL学園は強かった。 全国球児たちの絶対の目標にされながら、なお勝ちつづけ、
桑田・清原時代にもなしえなかった春夏連覇を達成したのだから、ほんものの強さである。

今年のPL学園が強さの割りにさわやかだったのは、受けて立つという気負いや自意識がなく、
挑戦者の姿を貫いたところにあると思う。 PL元年、真のチームづくりによる勝利ではなかったかと思う。
もし、受けて立つ意識があったら、あの常総学院の勢いに敗れたに違いない。

今年の夏は短かかった。 毎日毎日面白さが発見出来た。 青春の注射をしつづけ、昂揚の限りをつくしたが、
それは、ぼく一人ではない筈である。 今、胸の中にはたっぷりと熱いものが残されている。


( PL学園5-2常総学院 )



1987年の出来事・・・国鉄分割民営化、 大韓航空機爆破事件、 ブラックマンデー 世界同時株安、

              後楽園球場最後の公式戦、 安田火災がゴッホ「ひまわり」53億円で落札

270名無しさん:2018/09/30(日) 10:32:28
☆ 50年前、第50回夏の甲子園の記憶  ( 「Number Ex」増田  ) ①



100回目の全国高校野球選手権大会が終わった。
決勝戦の日、私は大阪にいた。

生家が経営していたものの、店をたたんで廃屋同然になったレストランがある。
その店を取り壊すのに立ち会うためだ。  ギラつく太陽の下、重機がモルタル壁をぶち破る。
鉄筋がひしゃげた。 もうもうと舞う粉塵に作業員がホースで水をぶっかける。

50年前の昭和43年、レストランはオープンした。 その年、夏の甲子園は50回記念大会。
全国2485校から48校が勝ち上がっている。 アメリカ統治下の沖縄から来た興南高の姿もあった。


感慨にひたっていると、ケータイのニュース速報が大阪桐蔭の優勝を知らせた。
「オーサカトーイン? なんぞ、それ」  「東京のやつらが『大阪は遠いん』とかいうてけつかんのやろ」
「違うがな、北大阪の代表校や」  「アホ、大阪は興國やないけ」

無残な残骸となったレストランから、当時の客たちの声がきこえてくるようで、思わず私はあたりを見回してしまった。
1968年の夏、興國高校は初出場ながらアッパレ初優勝をとげてみせた。


当時の私は小学2年生、やっぱりメッチャ暑かったこの夏を、昨日のことのように覚えている。
レストランは東大阪市にあった。

近鉄大阪線と奈良線が分岐する布施駅が最寄り駅。
中河内の東端で、大阪市生野区と平野区の境界線が複雑に入り組んだエリアだ。
やたら零細工場が多く、町の風景を決定づけている。 油で汚れた菜っ葉服のオッサンたちが、今となれば妙に懐かしい。

こんな町の店なのだから、レストランといっても高級フレンチ、ワインセラーとはほど遠い。
食堂に喫茶店と居酒屋をぶちこんだような店だった。
夏来たりなば、窓にでかでかと「クーラー完備」「大型カラーテレビ」「甲子園放送中」の手描きのポスターが貼られていた。

「ようようハンディが決まったで」 秀やんがノートをかざす。 

あちこちのテーブルに散っていたオッサンどもが、わいわいと集まってくる。
組み合わせ抽選が決まった日を機に、店の話題は高校野球一色になった。


「優勝候補はどこや」 「倉敷工に広陵、海星ちゅうとこやろ」

「ふん、西にばっかり賭けても儲けは少ない。わいは日大一に張るで」
「あほんだら、大阪のモンが東京の学校やと。間違うても、そないなこというたらあかん」

大阪人にとって東京というのは、今以上に何につけ目障りな存在だった。
「もう締め切るで。早よしてや早よ」


こう、わめく秀やんは40がらみの旋盤工で、若い頃はミナミ界隈でブイブイいわせてたらしい。
高校野球が始まると、昔取った杵柄、胴元の手先として大活躍する。

「根性なしは1回戦を指くわえてみとれ。 そん代わり2回戦からハンディが厳しなんど」
「ちょっと待ったらんかい。掛け率の計算がややこしい。ソロバンもってきて」

とはいえ、彼らが損得だけで高校野球を観ていたのかといえば、それはまったく違う。
やっぱり、高校野球は独特の魅力に満ち、強烈な磁力を放っていた。 ②へつづく。

271名無しさん:2018/09/30(日) 10:58:15
☆ 50年前、第50回夏の甲子園の記憶  ( 「Number Ex」増田  ) ②



あの頃は野球留学なんて、あまりいわれていなかった。 選手は地元出身のヒーロー。
おまけに、近所の兄ちゃんということさえあった。 おのずと親近感がわき、応援のボルテージも高まってくる。

しばしば起こる大逆転劇は、筋書なしのスリリングさを生む。一戦必勝のトーナメント戦だからこそ、散ったチームに光があたる。
「ようがんばった、負けて悔いなしや」 オッサンは敗者に己を重ねているのか。  夏の甲子園は明日のスターの宝庫でもある。
「この選手、阪神に引っぱったらどないや」


朝日新聞、NHKら大メディアあげて「清く正しく美しい高校野球」と謳う戦略も功を奏した。
もっとも、大阪の球児にはヤンチャなのが多かった。 でも、そんな連中が必死のパッチでプレーする。
あまつさえ泣きだすのだから、こっちもジ〜ンとしてしまう。

「えらいこっちゃ、また興國が勝ちよった」

肝心の第50回全国高校野球選手権大会は大阪代表が金沢桜丘、飯塚商、星林、三重と撃破していく。
準決勝では、人気ナンバー1だった沖縄の興南を14-0の大差をつけ圧勝してみせた。
「決勝の相手は静岡商かい」


興國の投手はアンダースローの丸山朗。 コーナーのギリギリに投げ込む制球力には、ため息がでる。
ここまで完封4試合で1点差が1試合と完璧だった。 圧倒的に投のチームだが、準決勝では打棒が大爆発している。
秀やんはノートをみつめてつぶやく。  「これでオッズの潮目がかわったの」

勝ちを重ねるにつれ、大阪代表校の評判は高まる。 レストランにたむろするオッサンどもが浮足だってきた。
それどころか、近所の商店街でも「コーコク」「オーサカ」「ユーショー」と声高にいいかわされ、
今や大阪中に響きわたる大合唱になっているのだ。 「こうなったら、マジで応援せなあかんで」


「坊(ぼん)、大きなっても、おっちゃんらみたいなことしたらあかんねで」
50年前、小博奕にうつつを抜かしていたオッサンは、私の頭を撫でながら自嘲気味にいったものだ。
「たかがタバコ銭やゆうて賭け事してるけど、このカネを貯金したらけっこうな額や」

してみれば、彼らにも“違法行為”に手を染めているという自覚はあったはず。
そのくせ、昼休みになれば、工場の隅でオイチョカブやらチンチロリンに興じているのだから始末が悪い。

おまけに、広場と呼ばれる空き地では、しばしば闘鶏が行われ、血煙をあげる河内軍鶏の勝敗にもカネが行き来していた。
オッサンはペロリ、舌を出すのだった。  「へへへ。庶民のささやかな手慰み……」


郷愁をまぶした昔話に酔い、彼らを擁護するつもりはない。
ただ、半世紀前の布施界隈で、高校野球をめぐりあれやこれやがあった。そのことを摘記していく。

「大阪代表の興國はどないやねん」  「ここに書いたある」  秀やんはノートを示す。
鉛筆書きの汚い字で、なにやら細かい数字が並んでいる。

「1回戦、金沢桜丘相手にハンディ5かいな」  「興國の前評判、そないにようないねん」
興國は春の選抜大会にも出場したが、初戦で仙台育英に8-9と打ち負けていた。 ③へつづく。

272名無しさん:2018/09/30(日) 11:20:30
☆ 50年前、第50回夏の甲子園の記憶  ( 「Number Ex」増田  ) ③



「ナンギなこっちゃのう」  「けど、勝ったらぼろくそ儲かるがな」  「よっしゃ。郷土の代表に千円張っとくわ」
「伊藤博文とはケチくさい。 大阪代表を意気に感じとるなら聖徳太子いっとけ」

「聖徳太子ちゅうたら五千円のほうか」  「アホ、万札に決まっとるやないけ」
「きつい、それ。岩倉具視でもええくらいや」  オッサンどもはオバハン以上にかしましい。
「ほな、今日はこのへんで」

秀やんは集まった札束(ほとんどが千円札)の角をトントンとあわせ、ラクダ色の腹巻にすっくりしまいこむ。
「安心せい、お支払いは現金決済や」


対戦する静岡商は強敵だ。1年生エースの新浦壽夫は大会屈指の好投手で完封3試合、
1失点完投2試合と力投を続けてきた。ぶ厚い黒縁メガネがキャラを決定づけている。

「わいは静岡商を応援する」  「さよか。けど、やっぱり興國やで」
「明日は正々堂々と戦おうやないか」  そこにいた皆が、瓶ビールを傾け健闘を誓いあうのであった。


50年前の8月22日、木曜、この日も大阪は暑かった。

興國、静商とも勝てば初優勝だ。  甲子園の熱戦はNHKと朝日放送がテレビ中継する。
同じ試合を2局も同時に流しやがって。 おまけに大阪は東京より1局少ない。

テレビっ子だった私は大いに不満だったのだが、この日は黙ってテレビの前に座った。
しかも、私のみならずガキども、いやお子様たちにとっても、甲子園大会は思い入れが強かったはず。
春から伝説のスポ根アニメ『巨人の星』が放映されていたからだ。

♪重いコンダラ、試練の道を♪ 68年の夏休み、アニメでは星飛雄馬が青雲高校野球部で甲子園出場を目指していた。
ちびっこは虚構と現実をごちゃまぜにして、自分が甲子園のマウンドにあがったり、
ホームランをかっ飛ばすシーンをオーバーラップさせていた。


本家の決勝戦は、予想通り胸苦しくなるほどの投手戦となった。 命運を分けたのは5回裏だ。
興國の丸山が内野安打で出塁。 次のピッチャーゴロの処理を新浦が誤り、丸山は2塁にすべりこむ。
打順がトップにかえってセンターへヒット! 興國が1点を先取した。

この時、工場の旋盤やフライスが止まり、町中にウオーッと、どよめきがこだましたのを鮮明に覚えている。
果たして、興國高校は虎の子の1点を守り抜き、大阪に5年ぶりの深紅の大優勝旗をもたらせてくれた。

「ほれみい。興國が優勝したやろ」   「おのれは東京代表に張っとったやないか」
この夜、レストランは常連客による祝勝会とあいなった。

「死のロードで甲子園を留守にしてた阪神、知らん間に首位の巨人に詰め寄っとる」
「プロ野球も大阪が優勝じゃい」  「再来年は万国博覧会、景気ようなんで」
同じような光景が、大阪のあちこちでみられたことだろう。


静岡商の新浦は同年9月、電撃的に高校を中退しプロ入りする。 長嶋巨人のエースから韓国野球へ。
日本球界に復帰し大洋、ダイエー、ヤクルトと渡り歩く波乱の野球人生を送った。 昨年まで母校のコーチを務めていた。
興國高の丸山は早大に進んだが、プロ野球選手にはならなかった。今は運送会社の社長さんらしい。

レストランは跡形もなく更地になった。  町の様相だって激変している。
工場は消え、マンションや建売住宅が並ぶ。 首からタオルをぶら下げたオッサンはもちろん、
白いランニングシャツに短パン、膝小僧に赤チンを塗って走り回る子どもの姿もない。

私だって大阪を離れて34年になる。 もう、二度と故郷で暮らすことはあるまい。
「変わらんのは、この暑さだけやな」 時間を確かめた。 布施駅から新大阪駅まで30分ほど。
夜遅くならぬうちに、東京へ帰ることができる。



この頃は、大っぴらに、大なり小なり賭けをやってて、お咎めもなかった。古き良き時代です。
財布に岩倉具視が入っていると、リッチな気分だったのを覚えている。
倉敷も、いよいよ大優勝旗だと盛り上がった夏でした。

273名無しさん:2018/09/30(日) 12:51:31
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月8日  一回戦  「 これが本物 」


自信という言葉ほど 曖昧で捉え難いものはない あるかと問われれば あると答えるが

しかし どの部分にどんな形で存在しているのか 答えられる人はない 

常に幻想かと気遣いながら 確信に至る道を歩こうとする 


もしかして 本人が語れる自信というものは 誰にも永久に訪れないかもしれない

だが それは 本人の心の葛藤であって 外から見ると たっぷりと自信にあふれて見える

ということがある それが人を圧する


宇都宮学園のナインの動きに それぞれの意識を超えた自信が いきいきと表われているのを 見てとった

大会第一日 第二試合 宇都宮学園対近大付高は 興奮の日々を重ねたあとの ベスト4の戦いにも思え

ある種の風格さえ備えた 好試合であった


五分五分の力が 五分五分の力ゆえに 動きのない試合に見せたが 実は 激斗と云えるものをひそめていた

そして 一発のホームラン 踏ん張ったリリーフの好投 外貌淡々 内面烈々 それが自信の形かと思えた



春には、いくぶん元気のいいチームに思えた。波に乗ったと感じた。それが、夏に見る宇都宮学園は、
説明し難い心のエネルギーを得てやって来たと、そんなふうに見えた。

春のベスト4の自信かも知れないし、その他に何か、少年を充実させることがあったのかもしれない。
理由を知ることは出来ないが、この夏を満喫しそうな、そんな予感を覚えさせるチームになっていた。

心と細胞に熱を与えてくれる二週間になるであろう。
短いながら、情熱の旅人の水先案内をつとめてくれるに違いない。
十年目を迎えた連載に新たな昂揚を覚えている。


( 宇都宮学園2-1近大付 )

274名無しさん:2018/09/30(日) 15:06:47
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月9日  一回戦  「 雲のオマージュ(讃辞) 」


健闘も 敢闘も美しい 熱闘も 奮闘も もちろん 素晴しい 60の能力の少年が

瞬間120の力を出してしまう そんな奇跡も 甲子園ならではの魔術で 感動もし 興奮もする

しかし 緊迫した美や ぎりぎりの力や 涙ぐましさだけで 甲子園があるのではない


時に 嵐のように吹きぬける天才や 雲のように 高さも 底辺の広さも 奥行きもわからない

巨大な少年の出現に 頬をゆるめることも また 大いなる楽しみなのだ


この日 その雲を見た 雲のような巨大な少年の一撃は 一本はバックスクリーンへ 一本はライト中段へ

のどかな風貌とは無縁の 鋭い打球を叩き込んだ 


4打席 3打数 3安打 1四球 2本塁打 5打点 福岡第一高 山之内健一 九州のバース 

しかし まだ実力はわからない それは この成績への不安ではなく 持っている力の限界が計れない

という意味である 雲よ どこまでも どこまでも 壮大な未知であってくれ



勝ちつづけるチームには、はっきりとした役割を持った四人が必要である。
好投手と、超高校級の重量打者と、野球博士と云われるタイプの守備と攻撃のキイと、それに、
突然のラッキーボーイである。

PL学園も、池田も、天理も、かつて強豪と呼ばれたチームは全て、この四人を備えていた。
そして、この日圧勝した福岡第一が、この條件を満たしていた。

好投手前田、超高校級重量打者山之内、野球博士は鮮やかなグラブトスの併殺を見せた山口、
ラッキーボーイは、途中出場で三安打の田村である。 そんなことを考えながら、二日目から、
そのような予測は早過ぎると、次なる試合に入って行ったのである。


( 福岡第一7-4法政二 )



山之内健一・・・ダイエーで1年のみ、一軍では7試合出場、安打なし。

前田幸長・・・ロッテ、中日、巨人でプレー、通算78勝110敗。

275名無しさん:2018/09/30(日) 16:37:30

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月10日  一回戦  「 コールドゲーム 」


まるで波がひいた瞬間の 渚の砂のように 鈍く銀色に光るグラウンド マウンドは既に泥濘で

投手のスパイクは足首まで埋まる 一投一投にポケットのロージンにふれ 雨滴のしみこんだ白球に

意志を伝えながら いや 願いをこめながら投手は投げる


雨 甲子園は激しい雨 悲願の晴舞台は イメージに描いた カッと照る太陽や 灼ける土や

のしかかる入道雲や 幻覚を誘う陽炎ではなく ただひたすら 自らとの戦いを強いる激しい雨

黙々と耐え 胸の中に炎をかき立てるしかない


初陣高田高の 夢にまで見た甲子園は ユニホームを重くする雨と 足にからみつく泥と 白く煙るスコアボードと

そして あと一回を残した無念と 挫けなかった心の自負と でも やっぱり 甲子園はそこにあったという思いと

多くのものをしみこませて終った 

高田高の諸君 きみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある そして 青空と太陽の貸しもある



せっかくの甲子園だから、いい条件で力を試させてやりたかったと誰もが思う。
条件はともかく、九回は戦わせてやりたかったとも思う。 初陣の高田高は、八回降雨コールドゲームで
滝川第二に敗れたわけだが、もしかしたら9対3という勝敗より、九回出来なかったことに心残りを感じるかもしれない。

とはいえ、あれ以上の続行は不可能であっただろうと思う。 勝負の場合、誰にも公平にと、すべての人が気をつかい、
同じ条件に至るようにとルールまで作るのだが、それでも、完全に同じ条件は作れないことがよくわかる。

教育的と言うなら、これほど教育的なケースワークはない。 人が生きるのは常に全天候対応ということで、
悪意がなくても、有利不利はつきまとうものなのである。


( 滝川第二9-3高田、8回裏二死 降雨コールド、56年ぶりの出来事 )

276名無しさん:2018/10/06(土) 10:11:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月11日  一回戦  「 誰も傷つかない 」


やはり甲子園は 晴れた日の光と熱が似合う 舞台が整えば 少年には 舞台を超える力がある

光と熱を 太陽や土から奪うこともできるのだ 


東海大甲府・金沢 それにしても きみたちは 何という凄い試合をやったのだ もしかしたら これで

夏が終ってしまうのではないかと おそれるほどの 最興奮試合であった


戦術も 戦略も 甲子園が何であるかも 充分に心得た両校が 互いの力を認めつつ しかし

おそれることなく 多分に昂揚を示しながら 激しく組み合った一戦は あらゆる劇的要素を盛り込んで

波乱含みに展開した 


球運に翻弄されるのではなく 球運を力と気合で引張り合う そんな緊張がグラウンドに満ち

わずか二時間の間に 人生の戦いを凝縮した 


試練と充足を与え プレイボール時とは比較にならない 大きな少年たちを作っていた 勝者があり

敗者があっても 傷ついた人は誰もいない 全員が 自慢出来る想い出を残した 理想的な試合であった



少年は、充実した状況と、緊迫した時間と昂揚する立場を与えると、太陽を浴びた夏草のように、
二時間で成長し、姿が変わる。 高校野球を陶然と見るのは、母校がどうの、野球がどうのを超えて、
こんな奇跡が存在するからである。

はっきりと、プレイボールとゲームセットの間に、キュッと伸びることがある。それをこの試合で見た気がする。
多分、何にもかえ難い、素晴らしい二時間あまりであったのだろうと思う。

点にならなかったのは、攻めのミスではなく相手に超美技が出たからである。
点を奪われたのは、守りのミスではなく、相手の力がこちらの全力を超えたからである。
ヒーローの蔭の悲劇の人のいないこの試合を手放しで称える。


( 金沢3-4東海大甲府、サヨナラ勝ち )

277名無しさん:2018/10/06(土) 11:38:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月12日  一回戦  「 普通であること 」


普通の人が 確実に普通のことをやり 普通に徹することで 特別をしのぐ結果になることを

きみらは 鮮やかに証明してみせた 怪物もいない 大器もいない 怪童も 天才も ましてや 

野球の鬼も見当らない 


普通の体格の 普通の技の 普通の少年たちが 華やかさを捨てて地味に 大きさを捨てて確実に

幻想を捨てて確実に そう 出来ることを出来るように 臆することなく素直に出して

晴舞台での華やかな一勝を得た 


初出場 浦和市立 記録を見ても恐いものは何もない 49代表の最低定打率  メンバーを見ても

身ぶるいすることもない 普通の高校生の 平均体格が並んでいる しかし ただの普通で

強豪ひしめく激戦区を 勝ち上って来る筈がないのだ 


何故負けないのか 何故勝つのか もしかしたら 何故という種明しを 甲子園の場で きみら

浦和市立はしつづけるのかもしれない



ふと、仕事のヒントを得たような気がする。 浦和市立の圧勝の姿を見てである。
とにかく、浦和市立は打てないという評判であった。 それが、15安打も打って勝った。
人の信頼を得るということは、相手の期待を見事に裏切ることである。

期待の範囲内におさまることではなく、期待の枠外へ振ることである。 
この程度とか、こっちの方向と思われていることを完璧に裏切ってみせることが、
相手への最高の誠意であるとも云える。この程度のところでご期待に応えても仕方がない。

そういう意味では、浦和市立は大変な裏切りで、最低打率の貧打線という評判を、
15安打の猛打線に書きかえたのである。 まだ天気が不安である。関東では地震もあった。
大会は、波乱の裏切りを示しながら、進みそうである。


( 浦和市立5-2佐賀商 )

278名無しさん:2018/10/06(土) 12:55:33
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月14日  二回戦  「 限りなく・・・そして更なる拍手を 」


延長戦になり 本塁は果てしなく遠くなった 何度もその前まで行きながら その都度遠くなる気がした

本塁を駆けぬける幻想さえ 浮かばなくなってしまった十四回  


突然 勝利の門は目の前にあった 白球は右中間にあり 三塁ベースをまわった時 相手の外野手は

既に返球を諦らめていた 浜松商 サヨナラ 


五万五千人のスタンドの熱と 三十一・四度の厚さと 五十九%の湿度の息苦しさが歓喜と

悲鳴をカクテルして 爆発した  多分 勝った浜松商ナインにも 敗れた池田高校のナインにも

体内に残されたものは 何もなかったであろう

完全燃焼が単なる言葉ではなく 真に体内の酸素を燃やしつくした そんな感じのする熱戦であった


この試合を語る時 技がどうの 作戦がどうのは 全く無意味な感想で 驚異的な粘りを見せた両校ナインに

限りない拍手を送ることが 好ゲームに接した人間の 最小の敬意の表現であろう

二百球を超え あるいは 二百球に近く ともに一人で投げた両校投手に 更なる拍手を送りたい



池田高の圧勝になるかと思われた。その流れを断ち切ったのは、四回の、浜松商のレフト西尾のファインプレーである。
同姓の池田西尾の左中間のライナーを、躰を地面と平行にしてジャンプ、地上数十センチのところでキャッチして、
躰は何メートルが緑の芝生の上を滑った。

こういう美技は、一点の追加を防いだというだけではなく、時の勢いの流れを変える力を持っている。
それと、五回、同点になるきっかけとなった山田の三塁前バントヒット。
これも、やっと方向を変える意志を見せた勝運の流れを、決定づけたものと云える。そして、勝った。 

それにしても、凄い試合をやったもので、浜松商・岡本投手、池田高・桜間投手には、
握力で計り得ぬ力の存在することを、知らされた思いがする。


( 池田2-3浜松商、延長14回サヨナラ勝ち )

279名無しさん:2018/10/07(日) 10:11:32
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月15日  二回戦  「 大魚の夢 」


善戦も 健闘も 讃辞の一つではあろうが やはり どこか空しい 

とり落した大魚が 再び水面に跳ね上って姿を見せた時 倍の美しさと 大きさに見えるように

幻の甲子園一勝も 善戦健闘が事実であるだけに 悔しさは増すであろう


ただの悔やしさではなく 充分に誇りに満ちたものであっても 去ることはない

きらきらと鱗を光らせた 勝利という名の大魚は 最後の最後 するりと体をかわしてしまったのだ


初陣 上田東高 対する相手は 夏の出場二十一回 優勝五回の 古豪広島商 

相手にとって不足はない どうせやるなら名門がいいと 全力でぶつかって 緊迫の熱戦をくりひろげた 

そして 勝利と同じ価値の敗戦 という評価を得たが やはり 同じではない


今年の夏の甲子園はもうないのだから 上田東高の諸君 大魚は益々大きく美しく思えるだろう

しかし ぼくらは違う 人の記憶は記録を超えることがあり 記録では敗者でも

記憶ではすがすがしい勇者として そう きみらこそ光る大魚だと 鮮やかに残るのだ 



前日の浜松商と池田の十四回の熱戦の余韻が残っていたのかもしれない。
あのように激しくはないが、静かな緊張に満ちた延長十回戦であった。

新鋭と古豪とは云っても、人が入れかわって行くわけだから、その時点では全く同等の筈なのだが、
そうでもないらしい。 受けつがれた無形の財産が、名前も大きくし、新鋭校を圧する気を放つのである。

その中でも、最大のビックネームである広島商に対した上田東は、アヘッドにも気後れすることなく、
二度までも逆転して、古豪を慌てさせた。そののびのびとした戦いぶりは、実に甲子園がよく似合う姿と動きで、
敗れはしたが印象に残るものであった。


( 上田東3-4広島商、延長10回サヨナラ勝ち )

280名無しさん:2018/10/07(日) 11:27:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月16日  二回戦  「 泥の勲章 」


ミラクルを超えるミラクルだと 誰もが思った それほどに八幡商ははつらつと 宇部商を圧し

甲子園を圧し 甲子園を魅了した 二塁打を放ち 猛然とセカンドへスライディングした

田中の顔半分が泥で汚れ しかし それは 闘志を称える勲章に思えた


田中はその勲章をぶら下げたまま スクイズ失敗を 得点につなげる好走を見せた

それが幕あけのファンファーレで 八幡商は全員が よく走り よく守り ミラクルの名を奪う勢いだった


執念があるとかないとか 闘志あふれるとか欠けるとか それは考えてみると 手首から先一つ

時には指の関節一つの差で ホームベースの端に触れたり 落下するボールをすくい上げたり

つまり もうここまでと思った後の 闘志と執念で伸びる数センチ数ミリは 大変な結果の差となって現われる


八幡商ナインは 一つでも先の塁へ 一センチでも前への意をみなぎらせ 真の闘志や執念を知る姿を見せた

そして そのまま 勝利へつき進むと思われたが ミラクルの名は奪えなかった

だが 泥の勲章は ピカピカに光り輝いている



宇部商の粘り強さ、そして、ミラクルを実現してみせる潜在パワーには驚かされる。
ミラクルは幸運や偶然ではなく、蓄積された力の噴出であり、この一点に集中出来る精神力であり、
好結果を思い描くことの出来るイマジネーションによるものである。

多分、信じる力、集める力、吐き出す力、そういったトレーニングが日常の中に組み込まれているのであろう。
春につづいて、またも、甲子園の奇跡、宇部商は誰もが称賛するであろうから、ぼくは、
八幡商の闘志と執念と、動くことに対する歓喜といった野球に目をやり、称えたいと思う。
あの守備、あの走塁と一つ一つ並べて数えたいくらいの気持である。


( 宇部商6-4八幡商 )

281名無しさん:2018/10/07(日) 12:52:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月17日  二回戦  「 心のこり 」


とうとう校歌を 聴くことが出来なかった 甲子園で勝利をあげながら 降雨コールドゲームのため 

セレモニーは 主将同志の握手だけで終った 敗れたチームの無念さに比べれば セレモニーのない無念さは軽かった


次の試合で勝ち 二勝分の感激と感動を味わえばいいと そう思ったかもしれない 滝川第二高校

一回戦の雨中の圧勝も 降りしきる豪雨と それに対する処置の慌しさの中で 歓喜も中くらいだった


校歌が流れ それに和し 校旗を目で追いながら涙を流す  称えるとか称えないとか 愛するとか愛さないとか

そんな思いを超えた熱い感傷が ある時代のある時間に 共通の感傷を刻みこむ だから その一瞬は

重々しいよりは甘ずっぱい 甘ずっぱいから値打ちがある


滝川第二高は 歌われなかった校歌 揚がらなかった校旗の心のこりを 取り払おうとこの日戦ったが 東海大甲府に敗れた

「ただいまから 滝川第二高等学校の栄誉を称え 同校の校歌を斉唱し 校旗の掲揚を行います」

いつの日か ほんの近い未来に その声は響くであろう



東海大甲府の都築が、五回に放った2ランホームランが、シーソーゲームのような一戦にケリをつけ、
それは同時に、滝川第二の、セレモニーのやり直しの夢を砕くものになった。かと云って、勝った東海大甲府や、
打った都築を敵役にしようというのではない。 これは、あくまで、感傷である。

そして、夏の高校野球には、力や、技や、勝負の機敏や、熱戦の興奮といった要素の他に、人それぞれが感じる感傷も、
大きな魅力の一つになっているのである。 さて、甲子園にようやく明るさが戻って来たようである。
近年なかったくらい雨にたたられたが、そろそろカッと照るだろう。 感傷も乾いていた方が甲子園らしい。


( 東海大甲府5-3滝川二 )

282名無しさん:2018/10/07(日) 16:57:32
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月18日  三回戦  「 一点の壁の向うに 」


他から見るとささやかで ほんの小さな目的に見えても それが最大で 

そこから全てが始まるということが よくあるものだ 一試合に 二十九点も取った学校もあるのに

江の川高にとっては 甲子園で一点を取ることが 小さくて大きい希望であった


誰のスパイクが踏んでもいい あの五角形のホームベースに 一点の刻印を記せば そこから先は

ささやかでない目的と希望を抱く そして 江の川高は あれ程遠く 薄情だったホームベースを

もう十五回も踏んでいるのだ


一点を念じる思いが いつの間にか 一勝のスケールにひろがり さらに さらに 

もう心を縛るものは何もなく 目的という小窓から 希望という未来を見つめている


いま 甲子園で自信に満ち かつての優勝校に逆転を許しながら 挫けることも 諦めることもなく

再度逆転する底力の持ち主にとって 一点の悲願は既に遠く 一球一球 一戦一戦を重ねる度に

自らの力を運を知り 新しい神話を作るだろう



江の川高は、一度自らが手放した球運を、ふたたび呼び戻して勝利を得た。 二点をリードして、
流れを作っていた七回、江の川の攻撃は3球で終った。 遊ゴロ、遊飛、中飛である。

これは、と案じていると、その裏、天理は無死満塁と攻め、後藤の走者一掃の二塁打で三点を奪った。
予感が当ったことに球運の恐さを感じ、試合はこのままかと思った。

逆転された次の回も第一打者が1球でアウト、実に4球で四死という状態であったが、
次打者谷繁の三遊間安打は強烈で、球運を呼び戻すきっかけとなった。 試合の流れが、
何によって変ったかと見るのがぼくの仕事であるが、このように流れが戻って来る例は珍しい。
力を感じる。


( 江の川6-3天理 )


江の川は過去二回の夏、いずれも初戦無得点敗退だった。

谷繁・・・大洋(横浜)、中日で通算27年、229本塁打、2108安打。

283名無しさん:2018/10/13(土) 10:05:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月19日  三回戦  「 劇的すぎる大逆転 」


もしも こんな状況で 自分が指名されたらどうだろう 絶好のチャンスだと武者ぶるいするか それとも

責任の重さに当惑し 過剰な意欲で硬直してしまうだろうか あるのは 功名のはやりか 失敗の戦慄か

いずれにしろ 突然のチャンスは 楽天と絶望の二重鏡で どちらの自分の姿を映せるか

人生のある瞬間さえ思い浮かぶ


一点をリードされた最終回 状況は 敗戦 同点 逆転の 三つのカードが用意され 

この一打席によってどれかが決まる そこでの指名が 重くない筈がない

宇部商 代打宮内洋 一年生 バックスクリーン直撃 逆転スリーラン・ホームラン


もしもとか 仮にとか 自分が直面した難事での 決意やら度胸やらと重ねながら 

大人たちが緊張するのを嘲笑うように まだほんの少年である筈の巨砲は 歓喜と悲鳴の渦の中を

悠然とダイヤモンドを一周した


あまりにも劇的で 劇的であり過ぎるために 他愛なくさえ見える 一瞬の逆転劇であった

甲子園にどよめきが流れた どよめきは 代打逆転を夢みる人々が吐き出す 若い心と肉体への

嫉妬と憧憬に違いない



一年生とは云っても、宇部商の宮内洋は、一メートル七十七センチ・九十三キロの堂々たる躰、
あの九州のバースに匹敵する。 しかも、先の八幡商戦では、これも代打で出て、
同点のきっかけとなる右線二塁打をはなっている。

普通の一年生の少年をイメージすると大分違って来るが、しかし、経験の少い一年生であることに違いはない。
それが、二度までも、ぎりぎりの土壇場で、大いなる重圧を背に打席に立ち、天晴れな結果を出したのだから、
驚きという他はない。

若い故の無心なのか、無心を作るための集中心が既に養われているのか、屈託多い、
無心になり難い大人としては、全く羨やましいかぎりである。
衝撃の甲子園登場の新たな重圧に屈することなく大成してほしい。


( 宇部商4-2東海大甲府 )


宮内洋・・・

史上初となる「代打逆転スリーラン」を放ち、この年はベスト8。
3年の夏もソロホームランを放つなどして3回戦まで進出。
卒業後、7年間住友金属でプレーし、97年に横浜5位指名され、念願のプロ入り。

二軍では主軸として好成績を挙げるが一軍では活躍することが出来ず、2001年引退。
一軍出場試合数は16試合で1安打だった。

284名無しさん:2018/10/13(土) 11:15:38
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月20日  準々決勝  「 スパイクの紐 」


二塁ベースを少しはずしたところで 上地が スパイクの紐を結びなおす

緊迫の空気が満ちる中での エア・ポケットのような真空の風景 九回裏 二死二塁 

同点に追いついた後の 勝ち越しを期待するランナー


本塁を駈けぬける祈りと執念が その小さな影に集約する そして 上間の一撃が右線へ 

魂を持った生きもののように 飛んで行った時 紐をしめなおした上地のスパイクは

本塁を歓喜で踏んだ 沖縄水産 サヨナラ勝ち 小さい風景から数分後だった


前夜試合が終ったのが十九時八分 この日試合開始が八時五十八分 激戦の十三時間五十分後に

もう新たな気持で グラウンドに立った 不利だとか 疲れているとか云うより 興奮の余韻の中で

勝利の昂揚が冷めない間に 戦う方がいい 多分そういう思いで きみたちは奮闘したに違いない


淡々と進む展開の中で 最後の最後に 心と技と力の全てを集めて 考えられる限りの

きみたちの一番いい野球をやり 非願への階段を 自力で駈け上った



沖田幸司がいた時の興南高校、そして、上原晃を擁した昨年までの沖縄水産、数年にわたってぼくは、
もしやという期待を抱いて、いや、もしやよりはもう少し強い希望を持って、沖縄県代表の優勝を予想していた。
しかし、正直云って、今年は、それ程強烈に感じていたわけではない。

圧倒的な力のスーパースターがいないせいかもしれないし、誰かに夢を託すという相手が存在しなかったせいかもしれない。
今年の沖縄水産のチームは、ぼんやりと見ていると強くないが、じっと見ていると強さが発見出来るチームである。
他所見をふり向かせる迫力はないが、見つめていると感心させられるチームである。


( 浜松商1-2沖縄水産、逆転サヨナラ勝ち )

285名無しさん:2018/10/13(土) 12:27:21
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月21日  準決勝  「 あと一日をのこして 」


一試合勝つごとに きみらは きみら自身の力に驚きながら 信じられないを連発していた

それぞれの肉体の奥深く それぞれの精神の核心に これ程に強いものが潜んでいたとは

今の今まで知らなかったと 勝者は驚嘆の目を見開き 時に 照れもした


青春が 自己の発見の最初の一人旅であるなら きみらは 何という実りの多い 発見の旅をしたことだろう

甲子園という やさしさと酷薄さを併せ持った海原で 人を呑む波もあれば 人を運ぶ波をあると知り

そして その真只中を泳いだ時 気負いや 力みや 晴れがましさを求める気持より 自分でありつづけることが

能力の発見の近道だと きっと実感したに違いない


浦和市立高 きみらの活躍は甲子園を沸かせ あれよあれよと云う間に勝ち進んだが 奇跡のかけらもない

勝っても 勝っても きみら自身でありつづけたことに 大いなる価値を認める 


ようやくにして 夏が戻って来た十三日目 きみらは晴れやかな笑顔で 甲子園を去った

あと一日を残したことに悔いはない



五日目に浦和市立が佐賀商に勝った後、ぼくは、「普通であること」という詩を書いた。
その結びに、何故負けないのか 何故勝つのか もしかしたら 何故という種明しを 甲子園の場で 
きみら 浦和市立はしつづけるのかもしれないと、こういう予感と興味を並べたのだが、まさに、
その通りの大会になったと思う。

まさに、浦和市立が提出し、浦和市立が種明かしして行く、何故こそが、
今年の高校野球そのものであったと云っても過言ではないだろう。

さわやかと、ムードで片付けられたらそれまでだが、さわやかを超えた何故を解き明かせば、
高校野球の役にも立つし、日常の生活でも教訓は多いと思える。


( 広島商4-2浦和市立 )

286名無しさん:2018/10/14(日) 10:22:30
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1988年8月22日  決勝  「 敗者の表情 」


涙するにしろ 笑うにしろ 勝者には どこか共通のものが見られるが 敗者の表情は 

実にさまざまである それは 自己の内なる期待の大きさと 比例するものかもしれないし

活躍の度合と 関係あるかもしれない 


わずか一点で敗戦投手となったエースは サバサバと いつにもまして明るく

最高の満足感を現わしていたのは 納得の行く快投がなし得たという 心の充足だろう


それに比べて 不発に終った巨砲の目からは 涙がとまることなく 場内を一周する時もなお

閉幕の現実を悔いるさまが見え 彼らが自らに課したノルマの大きさを 知らされた気がする


そして 一周の行進を遠く 松葉杖で見つめる負傷退場の土屋の 声なき慟哭とも思える表情は

男が泣く時の原点を感じさせた  第七十回記念大会 決勝戦  広島商1-0福岡第一


美を誇る刃物のような光もなく 天の存在を失わしめる高い空もなく どこか冷えびえと 鬱々と

季節の鬼子のように過ぎて行ったが 甲子園の中はまぎれもなく夏で ふんだんな感動と

たっぷりの涙で 十四日間を飾った



今年は十校あまりの学校に優勝のチャンスがあった。 図抜けた一校を中心に大会が進行するのではなく、
実力伯仲の複数校が、球運と、大会へ入ってからの進歩の度合をプラスにして競り合う、珍しい大会であった。

どこにもチャンスはあったが、結局優勝したのは広島商で、この高校野球の古豪は、
金属バット以後の野球の変化の中で、常に議論の中心に置かれていたが、また一つ、実証してみせた。

広島商の野球には哲学がある。 作ったチャンスの時より、貰ったチャンスを大事にする。
スリーバントを確実にやる。これは不利、不確実の時に、どれくらい、有利確実に出来るかということで、
見事に一貫性を持っていたと云える。



1988年の出来事・・・ソ連ペレストロイカ  アフガン撤退、 瀬戸大橋 青函トンネル開通、 リクルート事件

              ダイエーが南海ホークス買収、 ソウル五輪

287名無しさん:2018/10/14(日) 11:12:44
幻の甲子園



戦中の1942年夏、甲子園球場で選手権大会は開かれなかった。
代わりに文部省が甲子園で催したのは、戦意高揚のための全国中等学校錬成野球大会。
選手権史には記録されず、「幻の甲子園」と呼ばれる。

甲子園100勝を達成した平安も出場16校の一つで準優勝だった。
当時の選手が思い出を語った。


平安中は1、2回戦と準決勝を勝ち上がり、決勝は準決勝と同日。
徳島商に延長十一回、押し出しで7―8でサヨナラ負けした。 捕手だった原田清さん(91歳)
「平安の100勝に私たちの3勝が含まれないのは寂しい。幻なんかではなく、確かに甲子園の土を踏んだんだ」。


スコアボードには「勝つて兜の緒を締めよ」 「戦ひ抜かう大東亜戦」というスローガンが掲げられた。
選手は「選士」と呼ばれた。 突撃精神から死球を避けることは禁止。 選手交代も許されなかった。

試合中、その日に召集令状が来た観客の名前が読み上げられ、「ご自宅にお戻りください」と呼びかけられた。
原田さんは「観客から拍手がわいたが、本人にしたらたまらんかったやろうな」と話す。


原田さんは39年に平安中に入学してすぐに野球部に入り、甲子園を目指した。
戦時色が強まった41年7月の地方大会中に、文部省はその年の選手権大会中止を決めた。
野球部は43年に休部。 それでも原田さんは、授業の合間に、仲間とキャッチボールをした。
心のどこかで開催を期待していた。  錬成野球大会の開催は一度きりだった。 


戦時中は軍事教練で模擬の手投げ弾を投げ、銃を担いで行軍する日々。 
学徒動員で軍需工場に通い、火薬づくりを続けた。 44年に平安中を卒業した後は海軍入り。
広島県呉市の島で特殊潜航艇に乗る訓練を受けた。 沖縄に出撃するはずだったが命令はなかった。
兄はインパール作戦で死亡した。


終戦後に立命館大に入り、野球を再開した。「物資も食料も乏しかったが、野球ができるだけでうれしかったね」。
卒業後は8年間、プロ野球の東急(現日本ハム)でプレーした。母校の活躍はテレビで見守っている。
「平和やから野球ができるし、母校が終戦の日に試合をする。もう戦争はあかんよ」。

龍谷大平安の原田監督(58歳)はこの日、「先輩たちが戦中も思いやりとやり通す気持ちをつないでくれて、
今がある。 第100回大会で終戦の日に野球ができるぼくらは幸せ」と話した。



第1回(1915年)〜第3回まで開催。 

第4回 代表校は決定していたが米騒動により本大会中止。

第5回〜第26回まで開催。

第27回(1941年)〜1945年、第二次世界大戦で中止。

第28回〜中止なし。

288名無しさん:2018/10/14(日) 12:52:40
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月9日  一回戦  「 早過ぎる夏の終り 」


奇跡の春は 夏には無情の蜃気楼となった 連覇の夢は どこかかけ違えたボタンのように

嚙みそこねた歯車のように おそらくは切実感を伴わぬままに スルリとすり抜けた行ってしまった


勝者の誇りを胸に飾って行進してから わずか数時間 君らが敗者となって去る姿を 誰が予想しただろう

しかし 絶対のないのが現実で 可能と不可能は どちら側からも焦点が合うという教訓を 

酷薄なまでに知らしめて 試合は終ってしまったのだ


野球というゲーム 同じ一点が日によって グラムとトンほども違うもので だからこそ 一点にこだわるべきだと教える

そして それは まさに 生きることそのままで 春にミクロの運命線を突破した 東邦高ナイン 夏は教訓のページを数枚めくった


君たちに もし 悔いるところがあるとしたら 完全燃焼の炎を 自覚することが出来なかったことだろう

さらば 春の勝者 早過ぎる夏の終り グラウンドから一瞬の闇の通路を通って 引き上げて来る君らに

それでも夏は灼きついたと 声かけたかった



人で埋めつくされたスタンドは、豊饒な光を分解して描く点描画に見える。 緑の芝生は、夏の日に既に葉先が焦がすものと、
土から新に芽吹くものが、数刻で入れかわる。 鉄塔で雀が遊びつづける。 青空はないが、光はたっぷりとある。

そのグラウンドから、勝者も敗者も同様にくぐって退場して来るトンネルがあって、当然のことに逆光線である。
ドラマの後の主人公たちを迎えるには、効果があり過ぎる自然の仕掛けである。 多くを考えようとすると、いくらでもひろがる。

倉敷商と東邦高の試合の直後、ぼくは、その中に立って、勝者と敗者を見た。 不思議なことに、勝った者も、
敗れた者も全く同じように呆然としている姿が印象的であった。 とにかく、波乱の幕が開いた。


( 倉敷商2-1東邦 )

289名無しさん:2018/10/14(日) 13:58:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月10日  一回戦  「 88年目の歓喜 」


心を一つにする困難さを 現代人の誰もが知っている 心を一つにされたくないが 

心を一つにしてみたいと思っている そういう意味で 甲子園に出るということは

いちばんわかりやすい アイデンティティなのだろう


もしかして 成東高校に 追いつかせ 追い越させたのは 人の歓喜と興奮であったかもしれない

これほど グランドとスタンドが一体となって まさに るつぼと呼ぶにふさわしい 

熱狂の場をつくった試合を 近頃見たことがない


父がいて 母がいて きょうだいがいて 学友がいて 先生がいて 校長がいて 町長がいて

町議員がいて 顔見知りがいて そして 顔見知りでさえない町の人がいて 祈りは声になり

声は手ぶりになり 手ぶりは陶酔をさそい ドウッと云い ウォーッとうなり 雪崩となって

アルプスに駈けおりたのだ その昂揚が 何かを起さない筈がない


悲運の と云われ 悲願の と求め ついにやって来た甲子園で 圧倒的な人の和に火をつけて

燃えに 燃え 一勝までかち得た 八十八年間待った人々は 甲子園を満喫しただろうか



朝一番の試合で、観客の数も、おそらくは二万と少々。外野席などはポツポツと数えられる程であったのに、
成東高校の応援は、超満員の決勝戦かと錯覚させる活気で驚かされた。

代表校の性格がかつてと少し異なり、必ずしも町ぐるみで熱狂するという空気ではなくなりつつある中で、
本当に素朴な、たとえば、一村一品的高校野球と云えるような、また、校住接近の高校への愛着が感じられて、
これが原型かと思った。 

これでこそ、人々は、夏の高校野球に限りなく故郷を感じ、技術や勝敗の面白さ以上の心の祭りを求めていたのであろう。
しかし、現実には、なかなか、その町の顔をした子供たちだけでは登場出来なくなっているのだ。

さて、成東高校選手諸君、この一回戦では主役の座を、少々、人々に譲った気がする。
二回戦では完全な主役になってほしい。


( 成東2-1智弁和歌山  延長11回 )

290名無しさん:2018/10/14(日) 15:12:08
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月11日  一回戦  「 誇りと無念 」


先行し 追いつかれ また追いこし さらに つき放し 抵抗を受け それでも 強くしりぞけ

ゲームは終盤へ さあ 大丈夫と感じた瞬間 ビック・イニングが待っていた 学法石川

強豪の京都西を向うにまわして 圧倒しつづけながら たった一回に 価値ある勝利を落してしまった


たぶん 勝利というものは 限りなく確信に近いところへ 落し穴を作るものらしい それまでの

心地いい回転が 微妙な軋みを見せ始め 一ころがりで 裏目 裏目に出てしまう


エラーにも意味があり 四球にも意味があり 美技になるか グラブの先をかすめるかも 

それなりの心技の嚙み合いの意味を持ち もう そうなると 相手の集中力が 

運命を味方にするほど上まわったとしか云いようがない


試合終了後 グランド整備のホースの水が 光を受けて跳ねまわる竜に見え それは

健斗の敗者の そこに残した 誇りと無念の化身に思えた



それは感傷だと云われるかもしれないが、高校野球は、美点さがし、値打ちさがしだと思っている。
たとえ、大差で敗れたゲームでも、そこで戦った意味がゼロであるとは思えない。何か美点が、
他では得られない価値がある筈で、それをさがすことは、決して感傷や甘やかしではないと思うのである。

第一試合、16安打を打たれながら、得点を許したイニングがわずか二つ、新潟南の渋倉投手の打たれ強さと、
決して完全崩壊しない精神力にもうたれたし、10点差で敗れた盛岡三の応援団のねぎらいの大拍手も美しかった。

失敗は引き算でいいのに、マイナスの掛け算をしてしまう風潮が世の中にあるが、甲子園にはそれを持ち込みたくない。
だから、学法石川の去った後に、水の竜の幻影を見たのである。誇りと無念さの。


( 京都西6-4学法石川 )

291名無しさん:2018/10/20(土) 10:11:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月12日  一回戦  「 白い風が吹く 」


土佐高は甲子園を 忘れていませんと 監督からのメッセージ いやいや 甲子園こそ

土佐を忘れていなかった 


縁ある人も 無い人も 全く同じように 自分の心の中の原風景との出会いを喜んだのだ 

何の飾りもない純白のユニホームが 全速力で駈けるだけで 涙ぐみたくなるのは何だろう


純朴とか 懸命とか 真摯とか 健全とか ついつい片隅に押しやってしまった 言葉の数々を

大急ぎでかき集めながら 何かを再発見したのだろう 


そう かつて少年はこのように 光の中を白い風になって走った 驕ることなく おもねることなく 

不必要にお道化ることもなく 時代がどうであれ 流行がどうであれ 少年は少年だと 

小さいからだを躍らせたことがあった 


たぶん みんな どこか懐しく 土佐が十四年ぶりに持って来た 小さい楽園を 見つめているのだろう

全くいい風が吹いた 走る 走る けれんと関係なく 走る 走る



これほど試合経過や勝負が気にならないゲームも珍しい。戦略とか戦術とか、大器の活躍とか、
展開の妙とか、常なら心躍る要素が空しく思え、ただ、土佐高と、それと立派に対した東亜学園との
キビキビとした動きそのものに酔わされていた。

土佐高の姿に、何か忘れてしまっていた大切なものを見つけた喜びももちろんだが、それに、
たとえば、故意にぺースを崩すような戦略を用いなかった東亜学園に、同量の拍手を送りたいと思う。

「甲子園の詩」の連載を始めて十一年目、十年前との一番の違いは試合時間が長くなったことであるが、
この試合は、たぶん一時間三十分ぐらいであっただろう。 高校野球の原型を再証明してくれたように感じる。

わずか一時間三十分で甲子園を去って行った十四年ぶりの土佐高の、
人々の心に残したものは果てしなく大きく、いい夏と感じた人はぼくだけではないだろう。


( 東亜学園2-0土佐 )



この年を最後に、夏は出場が叶わない。 外人部隊の明徳が席巻するようになっては仕方なしか。
元祖全力疾走、純白のユニホームも実にいいね。 近郊なら練習試合でも観戦したい。

練習場の記念碑に「右文尚武の理想 いたぶる全力疾走 純白の土佐 とわに輝け」と書かれている。
昭和22年創部。 夏の甲子園に4回、春6回出場。 準優勝2回、ベスト4に1回、ベスト8に2回。
(昭和28年夏、昭和41年春に準優勝)

292名無しさん:2018/10/20(土) 11:38:17
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月13日  二回戦  「 青森に夏が 」


弘前工の一勝は 今年の一勝ではなく 実に 二十年間の 屈辱と 無念と 

答えの見つからないジンクスを破る 価値ある一勝であった


夏を 甲子園に限って云うなら 青森県代表にとっては 短い夏すらなく 土にへばりつく重たい影の

鬱々とした季節であったに違いない なぜ勝てないのか 時うつり 人変わり それぞれが

新たな気持で挑戦するのに 気の重い記録を更新するばかり 


今年こそ 今年こそが 去る時は 来年こそきっとになり がんじがらめにする決意を

次の代表に手渡しながら 二十年が過ぎてしまったというわけだ 


いつの間にか 二十年前の最後の勝利の時 まだ誕生していなかった選手たちが 登場するようになり

誇りに満ちた三沢神話も そして 語りついだ太田幸司も 本当の伝説になりそうな頃 ついに 弘前工は勝った

ゲームセットの瞬間の 一種異様なたかまりは 歴史の節目とも云いたいもので 

これで 青森の夏も堂々の夏である 



もしかして、最後の勝利、三沢高校の印象があまりに鮮やかで、強烈であったために、よけいにその後の
二十年の不振が目立ったと云えるかもしれない。

ジンクスは、そもそもは、単なる偶然の積み重ねで始まるものだが、それが、何度目かからか真実味を帯び、
人間の心持ちや、運命さえしばるようになるのである。 これは、なにも野球に限らない。

それにしても、二十年というのは大変な歳月で、たとえば高校野球でも、今日対戦した青森県と沖縄県では、
すっかり立場が逆転してしまっているのである。 特別の好意の目で拍手を受けていた沖縄代表は、
今や、堂々の野球強豪県なのである。 

ちなみに、二十年前、昭和44年は、学園紛争で荒れに荒れ、アポロが月面着陸し、
東名高速道路が全線開通し、つまり、70年の前半の波乱に満ちた時代であった。


( 弘前工5-1石川 )

293名無しさん:2018/10/20(土) 15:08:13
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月14日  二回戦  「 魔物のとまどい 」


甲子園に棲む魔物のために 何人が運命を変え 何人が泣いたか あり余る才能をもってしても

限界の練習の成果をもってしても 魔物のいたずらには 勝つことは出来なかった


それが甲子園の歴史で だからこそ そこに立つことは 晴れがましくもあるが 恐くもある

だが 時折 毎夏 一人か二人 全く魔物を寄せつけない素質の子がいて 驚かされることがあるのだ

自信なのか 無邪気なのか 彼らは 魔物の仕掛けを 跨いでしまう  


秋田経法大付高の一年生 中川申也投手 少年の度胸は何に根ざすものか 全く悠々と投げる

力まかせの熱投ではなく 柔軟な計算で噓をつく 


魔物は今日も舌なめずりして 劇的な出を待っていたに違いない しかし ついに最後まで

少年の無欲と無邪気の前に 悪意のパフォーマンスが出来なかった いや 待てよ もしかしたら

一年生投手の快投そのものが 魔物の仕掛けた 会心の傑作であったかもしれない



荒木大輔や愛甲猛は、たとえ一年生であっても、既に多くのキャリアを積み、それなりの修羅場も
経験した野球エリートに思えたものだ。

しかし、秋田経法大付高の中川申也一年生投手は、実際にはどういう野球歴か知らないが、
いわゆる懐しい野球少年の面影があって楽しかった。
ぼくの世代なら、こっそりと偵察に行ったとなりの町の名投手といったタイプなのだ。

それはともかく、甲子園というのは、たぶん、深海と同様の圧力を持ったところで、
その中で自由に振舞うには、余程、圧力をコントロールする能力を備えているか、
卓抜した力か技術かを持っていなければならない。

そんな條件の中で、あわや完全試合を期待させる快投を演じたのは並みのことではなく、
つまり、無欲と無邪気が、魔物封じに役立った気がする。


( 秋田経法大付5-0出雲商 )



中川申也・・・1991年に阪神より指名、公式戦出場なし、1995年に現役を引退。

愛甲猛・・・ロッテの投手で3年、通算0勝2敗。 ロッテ、中日の打者で通算20年、108本塁打、1142安打。

荒木大輔・・・ヤクルト、横浜、通算10年、39勝49敗。

294名無しさん:2018/10/21(日) 10:21:40
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月15日  二回戦  「 拝啓 元木大介様 」


きみにそそぐ熱い視線は 心の中で沸騰点に達した 熱い想いの噴出です ただ見つめるだけでなく

それぞれが思い描く 鮮やかなオーロラのような夢を きみに 投げかけているのです


時代が昭和から平成へ それと同時に 心を支えていた価値観が 大きく様変りしてしまいました

何が美しいのか 何を求めているのか 何になりたいのか 時代とともに消えたのです

そこで きみです いささか心細く 気弱になった男が願うルネッサンスです


男であることだけで ヒーローの資格のあった時代は去り むしろ 男であるだけで 

罪だと云われるようですが そんなことが あっていいわけありません


新しい時代の風に似合った 新しい強さや 頼り甲斐や そんなサンプルが きみから生れるといいと

みんなひそかに願っているのです まあ しかし きみは知らんふりをして ただ大きくなって下さい



かつて、王、長嶋がヒーローであった時に、二人は巨人ファンだけの英雄や偶像ではなかった。
ガチガチのアンチ巨人でさえ、王、長嶋に対する敬意や憧憬は絶大で、王、長嶋がホームランを打って、
巨人が敗れるという形を願いつづけたものである。

また、不幸にして、二人のホームランでひいきのチームが敗れても、彼らなら仕方ないと納得したものである。
元木大介を見ていると、全く久々に、敵方から、彼なら許せるというタイプのヒーローが出現した気がする。

それにしても、八回裏、この元木と高平投手の対決は見応えがあった。あえて敬遠の策を用いず、
堂々と勝負した。 先の土佐高戦といい、東亜学園は脇役をつとめる組合せになったが、
見事な美技をグランドに残したと思う。


( 上宮1-0東亜学園 )



元木大介・・・巨人、通算14年、66本塁打、891安打。

295名無しさん:2018/10/21(日) 11:22:06

「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月16日  二回戦  「 力 投 」


たぶん 君の快感は 九分割のストライクゾーンの ド真中に投げ込むこと バットが空を切ればそれでよし

たとえ 真芯でとらえられても 鈍くつぶれた音を発して 失速させればそれでよし

投げ込む力が 振り切る力を圧する証明が出来れば 全く云うことなし と そんな気がする


相手の力量を探り 気迫を感じとり 裏へ 逆へ 虚へ 九分割の全部を使うのも ピッチングの妙だろうが

ド真中だけで打ちとれれば それは快感だろう 


筋肉や細胞や 心臓が送り出す血液の噴出が 猛々しいまでに饒舌なら その肉体の言葉に従って 

力まかせだ ド真中だ それがいちばん美しい


仙台育英 大越投手 華麗でもなく 流麗でもなく 鋭く切れる印象もないが 久々に 力感あふれるとか

けれん味のないとか そんな言葉を思い出し ド真中の快感の時代が 長くつづけばいいと 願ったりする



大越投手のノーヒット・ノーランの夢は、九回、百八球目、代打筒井のセンター前ヒットで破れてしまったが、
ぼくの印象に何ら変るところはない。 思えば、大器と評判の大越投手が、はじめて甲子園で、
その凄みを証明してみせた一戦であったと云えるだろう。
しかも、術や、たくみさや、技ではなく、未完の荒々しさと力で、圧倒したのだからこれは楽しい。

若さや、肉体そのものの力は、技の前に屈服することが多く、その時にしか使い得ない貴重な宝を、
みんな早やばやと捨ててしまうのだが、一試合でも長く、技への転向を考えないで済む野球人生であったらなと、
思ったりするのである。 無秩序は困るが、選手が戦術のための見事な駒にだけなってしまうのも困る。
仙台育英の各選手は、駒を超えている。


( 仙台育英4-0京都西 )



大越基・・・ダイエー、投手で1年、勝ち負けなし。 打者で通算7年、1本塁打、50安打。

296名無しさん:2018/10/21(日) 12:36:29
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月17日  二回戦  「 証 明 」


旅立ちの季節は春に非ず 夏の終りの まだ表面的にはジリジリと照りつけ しかし

底にひそめた感傷や 来るべき秋と冬の厳しさを さりげなく暗示する


ちょうど今の頃 少年の第一幕に容赦なく幕が降り さて 今日までと さて 明日までと

何がどう違うか思案させるところに 旅立ちの意味がある


好投手 佐野日大・麦倉投手の 幕切れ直前の緊迫は そんなことを感じさせ

あぁ旅立つ少年がいると思った 


一回戦を完封 決勝点は自らのホームラン 無失点記録は48と伸び それだけを見ると 

何ら不足はないと思えるが おそらく 不足を感じる人があるとするなら それは 彼自身 

こんなものではないという誇りが この試合の 最終回のピッチングに さらに 

三振に打ち取った最終打者に集約された


体のキレといい 気迫といい 思い描くイメージといい 短い時間ではあったが 

満点の 自己表現と自己主張をし 第一幕を閉じた



中日までは、やって来た少年たちであるが、それ以降は、去って行く少年たちである。
たとえ、勝ち残ったとしても、やはり、去って行く少年であることのに変りない。

空の色や、雲の形や、風の流れも、ちょうど中日を境にして変化を見せ、なおさら、
この子たちは、みんな、それぞれに何かから去って行くのだと感じさせる。

一回戦では、幕切れの表情というものをそれ程感じないが、二回戦の終りからは、
どう去るべきか考えているように思える。 ほとんどが無意識だろうが、夏の甲子園には
そうさせるものがあるのである。

大仰な云い方をするようだが、九回一イニング、普通の調子で過ぎたのと、今日のように、
目が覚めたように、体内で何かが叫んだように引き締り、力を証明してみせたのでは、
将来、まるで違った甲子園になると信じるのである。


( 福井商3-2佐野日大 )



麦倉洋一・・・阪神より3位指名。 2年目に2勝、右肩を故障し手術を2回受けるが回復せず引退。
         通算2勝4敗。 2017年4月より母校の佐野日大の監督。

297名無しさん:2018/10/21(日) 15:12:32
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月18日  三回戦  「 名乗り 」


名乗りを上げる 東北の鉄腕や 大阪の神童だけでなく ここにも堂々の候補がいると

腕つき上げ 胸張って 声高らかに宣言する 帝京高校 

西高東低の冷えびえとした風の中で そう 逆風を順風に変える勢いを 今日 示して見せた


振ると 振りきると 投げると 投げ込むと 走ると 走りぬくと その差は

目に見えない動作の終了の一瞬の気合で 時間にして何分の一秒のこと その何分の一秒かの違いで

ボールは 生きて転がるか 魂のない物理のままのものになるか つまり 夢とか 勝利とか 奇跡とか

そんな不確かなものに対するには 乗りうつったものが必要で 帝京にはそれが感じられた


あの小さなボールは 物体を超えた哲学の持主で 注ぎ込むものを持たないと 実に平凡な振舞いしか

してくれないものなのだ だから 振りきる 投げ込む 走りぬく それは帝京高校の

出馬宣言のメッセージを秘めた 何分の一秒の集中であった



大会の中でも三回戦、つまり、ベスト16は特別な色合いを持つ。 ぼくは、三回戦は成層圏だと云っている。
これを突破出来るか出来ないかの重味は、一、二回戦とは全く別次元になる。

順当勝ちと、敢斗勝ちが、ここに来て顔を合せるのであるから、
思いがけない大差の試合ということもままある。一回戦、二回戦を勝ち抜いた実力校同志の対戦であるから、
伯仲の試合をと思いがちだが、それは皮相に見過ぎる。

順当勝ちと敢斗勝ちの方の力の差を残酷なほどに見せつけるのも、この三回戦である。
成層圏と呼ぶのはそれで、これを突破するには、一段上のエネルギーが必要なのだ。 その代り、
奇跡を見るのも、また、三回戦である。
さて、その成層圏での初戦、大差ながら、帝京がいい緊張感を見せた。


( 帝京10-1桜ヶ丘 )

298名無しさん:2018/10/27(土) 10:07:25
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月19日  三回戦  「 振り逃げ 」


すべては 振り逃げから始った 試合の流れも そして ヒーローの誕生も それからだった

この どこか面映ゆい 愛敬あるアクシデントが こんなにも大きな結果をもたらすとは

誰が考えただろう スタメン大抜擢の倉敷商 山本選手 


一回表の第一打席 満々の打ち気と烈々の闘志も スライダーにバットは空を切り 

与えられたチャンスも これで砕けたかと思えた直後の出来事だった

振り逃げ それは まるで 成功者たちが 人生に於ける ターニング・ポイントとして語るような

小さくて大きい神の贈り物だった 


それにしても 試合の流れ 人間の運命 ともに 砂漠を割りながら進んで来る 大洪水の流れのようで

方向を変えるきっかけが 何によって選択されるのか 全く予測がつかない


もし 吉田高にとって不運な 倉敷商や山本選手にとって幸運な ちょっとした出来事がなかったら

勝敗の行方もわからず ヒーローの誕生もわからず そう思うと 空おそろしくさえある



この試合、感心したことが二つあった。 一つは、県大会、一回戦出場なし、二回戦延長十二回、二死後、
代打に出て内野安打を打ち、サヨナラのきっかけをつくった山本選手をスタメン一番に起用したこと。

山本選手は、振り逃げをはじめ、5打席全部出塁、3安打を打っている。
チャンスを与えた者と、与えられた者のキャッチボールで、その呼吸の乱れを調整するのが運である、と思う。

もう一つの感心は、11対1という大差でありながら、一方的な無残な印象を受けなかったことである。
それは、攻める倉敷商も、守る吉田も、毎回の一点の攻防に懸命で、
終ってみれば10点の差がついていたという試合であった。 攻める方の勢い、守る方の混乱、
途中からの戦意喪失は辛いが、この試合はそれらの大差試合とは全く内容を異にしていた。


( 倉敷商11-1吉田 )



倉商史上最高成績。 2-1東邦、3-2鶴崎工、11-1吉田、
次は0-4と尽誠学園に敗れたが、天晴れな夏だった。

299名無しさん:2018/10/27(土) 11:11:13
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月20日  準々決勝  「 対決のあと 」


それを気迫と見るか 平常を失った昂揚とみるか 眼に熱い光を持ち

動作の一つ一つが跳ねる 仙台育英 


それを余裕と見るか 劇的な興奮を避けた姿と見るか トゲ立つところが一つもない

落着いた動きをする 上宮 それが対決する前の両校の 炎と風の印象だった


闘志は空まわりすると硬直し 余裕は火をつけ損うと 圧する気迫に至らない 

そのどちらに転ぶかは 勝負のアヤ 人間の運命 時の勢いの流れ方 力は五分

しかし 結果が五分でないところが高校野球


一人一人を評価して行くと おそらく コンマ以下の差であろう両校が 片や 夏に吠え

片や 夏に跪き 熱風と草いきれの中で 季節の猛々しい踊りの中で 狂おしいオペラは幕を閉じた

序曲から 間奏曲をはさんで 終曲まで 予想させ 予想を裏切り 長い長い一日は 

仙台育英の夏をのばし 上宮の夏を終らせた



準々決勝、朝から超満員。 晴れた空の下、一人一人の興奮のどよめきが五万倍に増殖され、
スッポリと超音波のドームを作る。
組み合せ抽せんの結果に、人々は、予想されるドラマの組み立てに忙しい。この瞬間が、たぶん、
最も楽しい時であって、各校の戦力分析をなし、アクシデントの予測までして気をもむのだ。

団扇の動きが、草原の風の移動のように、点描画のスタンドの表面を揺らすのも、試合直前のこの時間で、
始まってしまうとピタリと止まる。 準々決勝第四試合、最高のカードと思われる仙台育英と上宮は、
それこそ、朝から、このような長い序曲を奏でつづけて、そして、始まった。

それにしても、この展開、この結果を誰が予想しただろうか。
戦力分析の行間にさえ読めるヒントはなかった。


( 仙台育英10-2上宮 )

300名無しさん:2018/10/27(土) 12:27:26
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月21日  準決勝  「 代打主役 」


最後の波乱の数十分は これまで 全くの脇役だったきみから始まり そして きみで終った

みじかい夏をさらに凝縮した ラストシーンで きみなしでは語れない ドラマが構築されたのだ


劣勢で迎えた九回裏 代打に指名されたきみが 燃えたのか 震えたのか 闘志をたぎらせたのか

怯んだのか それは知る術もないが レギュラーが打ちあぐんだ 豪腕投手の速球を 

たった一度のチャンスの思いで叩くと 白い蒸気の線となって 三塁ベースの上をぬけ 

反撃の口火を切る二塁打となった


きみの足は一塁ベース上で少しもつれ しかし 二塁ベースへ駆け込んだ時は 

主役が巡って来たと感じた筈だ 尽誠学園 塩田道人選手 代打二塁打 同点のきっかけを作る 


だが 延長戦にもつれ込んだ熱戦の 幕を引く役まわりを演じたのも また きみだった 

ベスト4までの主役は大勢いたが この最後の試合の 最後のみじかい一景の主役は 

巡り合せもあろうが たしかに きみだった いい想い出を作れたね



想い出作りなどと云うと、ひどく感傷的で、甘いと思われるかも知れないが、高校野球はそういうものだと思う。
三千九百校の、さらに四十九代表の学校の中で、栄冠を手にするのは、どうあがいても一校なのだから、
その栄光と同じ重量の想い出をどう作るかが意義ある出場である。

一校をきらめかせるために、四十八が埋れてはならないのであって、だから、それぞれが、
主役に感じる想い出を作ってほしいと感じるのである。

代打でヒットを打つ、そんな晴れがましさは、まあ少ないだろうが、何かで存在を示し得る方法はある筈で、
一人一人、ぼくの甲子園は、と語れるものを持ち帰って貰いたいとしみじみ思う。 
それもこれも、準々決勝の祭の頂点が過ぎ、後は厳粛な儀式に移行する、少し硬ばった季節のせいであろう。
もう二校だけなのだ。


( 仙台育英3-2尽誠学園  延長10回 )

301名無しさん:2018/10/27(土) 15:11:28
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1989年8月22日  決勝  「 敗者がない 」


限界に達した肉体は 心の中の笛吹きが 純粋な思いで 熱いメロディを奏しないかぎり

動くことはありません 笛吹きが不埒をきめ込むと もう ただ疲れただけの 重い肉体なのです


炎を思わせる熱射の下で ぎりぎりの挑戦を試みた肉体は 喘ぐだけがせいいっぱいなのに

きみたちが この日 新鮮な活力で展開して見せた 緊迫の好ゲームは 感動的な心の笛吹きの存在を感じました


みちのくに深紅の大旗をと 夢見ることもロマンでしょう 春二度準優勝の壁を 飛び越えることも悲願でしょう

しかし 若さだけ示し得る力の誇らしさと 自己を昂揚させ得る無限の可能性は 結果を念じることより

はるかに はるかにロマンでした


秋を思わせた雲の形と 紗幕を通したような陽の光が 試合の緊張とともに逆戻りし 気がつくと

ジリジリと照りつける熱い夏 左翼後方には 高い 高い 入道雲さえありました

優勝帝京 準優勝仙台育英 勝者があって敗者がない 記憶にも 記録にも そう書き込むべきでしょう



四十八試合の最後であることはあっても、四十八試合の頂点であることは少ない。 
それは、決勝戦のどこか宿命のようなもので、過酷な条件のもとでのトーナメントでは、
意外に対等のぶつかり合いは望めないものである。

ともに勝ち上って来た強豪と云われながらも、その潜在的な力に於て、あるいは、
この日に蓄えた余力に於て、大きな差があることはままある。猛打の熱戦の形はとっても、
疲労から、ノーガードになり、乱打戦に過ぎないことも、ままある。

しかし、今年の帝京、仙台育英の決勝戦だけは、正真正銘、四十八試合の最後の試合であり、
頂点の試合であったと思う。 そして、この試合に限って云うなら、誰が素晴しく、
誰がヒーローでと名をあげることは避けたい気がしている。 頂点は一人では作れない、そんな思いである。


( 帝京2-0仙台育英  延長10回 )



1989年の出来事・・・昭和天皇崩御、 消費税導入、 NHK衛星放送開始、 天安門事件、

              ベルリンの壁崩壊、 日経平均株価が史上最高値

302名無しさん:2018/10/28(日) 10:13:33
{ あと10年余りで中学校の野球部員は皆無に }



野球をする子どもが減っている。 中学校の軟式野球部員は7年間で12万人減少した。
このペースで行くと、野球部の中学生は10年後には0人になる計算だ。

多くのプロ野球選手を輩出してきた中学硬式野球連盟「 リトルシニア 」で審判を務める粟村哲志氏は、
「 リトルシニアでも、名門チームの廃部や休部が相次いでいる。
“プレーする野球”の人気低下は深刻で、いよいよ後がなくなってきた 」と指摘する。


日本中学校体育連盟では、加盟校数と在籍生徒数について毎年詳細な数字を公表している。
最新の資料によれば、実は加盟校数では2010年から2017年まで一貫して軟式野球部が1位になっている。

だが、その数は毎年少しずつ減り続け、2012年には全国で8919校だったものが、2017年には8475校になった。
生徒数の減少はさらに顕著だ。 毎年1万人以上ずつ減り続け、29万1015人から17万4343人まで減少した。

その間、生徒数ではずっと2位につけているサッカー部は2013年まで逆に毎年1万人ずつ増え続けている。
それから下降に転じるが、それでも2017年で21万2239人であり、2013年時点からさほど変わっていない。
少子化による就学人口の減少を考えるとむしろ健闘していると言えるだろう。

対して軟式野球部員は7年間で12万人と、これまでにないスピードで減っている。
このペースでいけば、10年余りで中学校の軟式野球部員は0人になってしまう計算だ。


あくまでも計算上の話であってほしいけれど、少子化は顕著です。
2018年4月1日時点の日本における子供(15歳未満)の人口は前年同時期に比べて17万人少ない、
1553万人となり、37年連続して減少している。

303名無しさん:2018/10/28(日) 11:02:25
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月8日  一回戦  「 初 球 」


投手が その試合の第一球を決定するまでに どのくらいの 思考の旅をするのだろう

それは たぶん 地球を一回りするほどの 光速の速さと長さだろう 

または 巨大迷路に踏み迷い 知恵と勇気と克己で試みた 必死の大脱出か いずれにしても 

あのボールにこめた思いは 天文学的な回数の試行錯誤の 結果に違いない 


ことに ただの試合ではない 夏の甲子園の開幕第一試合の 最初に投げる一球は 大仰に云うと 

人生にも匹敵する重さで決定され 投げこまれたものに違いないのだ

たとえ 投手自身が それは無心ですと云っても 無心へ至るまでの旅路は おそろしく複雑で長い


そして 1990年 夏の甲子園の第一球は 死球で始った それが試合の戦術の上で 

取り返しのつかない一投だとしても 隠された大きなドラマを思うと 胸が熱くなるのだ 

ぼくは そんな想いで野球を見たい



ぼくの「瀬戸内少年野球団」という小説の中に、成田高の前身の成田中のことがチラッと出て来る。
戦後復活第一回の全国中等学校野球大会(昭和21年)のことが書いてあって、その記述はこうなっている。

「歴史的な意味合いを持つ戦後の中等野球のプレーボールは、京都二中と成田中学の一戦で幕を開け、
京都二中・田丸、成田中学・石原の投げ合いの末、一対零で京都二中が勝っている」

今年の開幕第一試合に登場し、快勝した成田を見ながら、ふとそんなことを思い出し、感慨にふけったが、
思えば、平和の時代の高校野球がそこから始まったかと思うと、実に意味深い。
高校野球には、有視界の興奮や感動とともに、既に歴史の中に入ってしまった感激を呼び起こす力もある。


( 成田6-2都城 )

304名無しさん:2018/10/28(日) 12:16:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月9日  一回戦  「 ベストプレイ 」


ベストのプレイが ベストの結果を生むとは限らないから 野球はこわい それを機微と云い

アヤと云い 運命の女神の悪戯とも云う 


もし 最後の一打の 三遊間を襲った猛ゴロに対して サードの動きが緩慢で つまり プレイがベストでなかったら

ボールは速い球足のままレフトへ飛び 二塁ランナーの本塁突入は ならなかったかもしれない


カラカラに乾いた土が 突然の雨をゴクゴクと呑みほして グランドの表面はゆるんでいた 気合のこもった打球は 

その泥をはねて少し弱まり 絶対の執念でさし出したサードの グラブの先端に触れて 急激に勢いを落した 

それが 憤死と生還の岐路で 勝利と敗北を分ける 何秒かの差となった


しかし それは誰のせいでもなく ベストの勲章は あくまで ベストの勲章で 光ることはあっても 曇ることはない

敗れたとはいえ 八戸工大一高 突然変異のない実力試合は さわやかで 美しくもあった 



記録はいつか呪縛となり、記憶は無意識の暗示となる。 たとえば、青森代表は夏に勝てないというジンクスが
二十年もつづいたり、もっともこれは、昨年、弘前工の健斗で破られたが、まだ、青森県勢だけが甲子園で
ホームランがない、というのが生きている。

暗示の方は、境高に考えられる。昭和五十九年、無安打無得点で延長戦に入り、許した初安打がサヨナラ・ホームランという、
劇的というより、悲劇か悪夢に近い敗戦の記憶があって、これは、暗示にならなければいいがなどと考えていた。

呪縛の継続の中の青森代表の八戸工大高と、暗示を危惧される境高。 この両校の対戦は、しかし、呪縛も暗示も関係なく、
実に、ぼくらが思い描く高校野球そのものの、突然変異というアゲ底のない好試合であったと思う。
素顔で、裸で、決してそれ以上でないのも、また、心地よい。


( 八戸工大高2-3境、サヨナラ勝ち )

305名無しさん:2018/10/28(日) 13:25:27
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月10日  一回戦  「 夢発進 」


去年の夏の終りは まだ熱く 鮮烈な色あいの記憶として残っている あと一歩で夢を逸した口惜しさと

ここまで成し得たという満足感が 汗を噴き出させ 汗をあふれさせ 思えばあれは 去年の終りの儀式ではなく

今年への夢の猛々しい伝承式だった


そこで 先輩から 未完成の夢を手渡されたきみたちは 重さにうめきながら やり甲斐にうちふるえながら

秋に走り 冬に挑み 春に立ち上がり そして また甲子園へやって来た 去年は連れて来て貰った甲子園 

今年は自分でやって来た甲子園  そして 仙台育英の夢は 如何にも夢らしい劇的な展開で 見事に発進した


みちのくへ深紅の大旗をの悲願は あまりにも思いが強く ともすれば 夢をこわばらせてしまう性質のものだが

きみたちは 手渡された未完成品を 完成に近づける誠意と情熱だけで つっ走ってほしい

夢をやわらかいまま 掌にのせて走ることが出来たら きっと応えてくれる そういうものなのだ



去年の決勝戦は、甲子園にいた。 まれに見る緊迫した決勝戦で、東東京と宮城の代表の、つまり、
地元とは無縁な学校同士の一戦にもかかわらず、途中からスタンドに客が増え、勝敗が決する頃には超満員になっていた。
天気さえ、薄ぐもりが快晴に変ったくらいである。 そこで、仙台育英は確かに敗者で、帝京の栄光を見守る立場にあったが、
満員になったスタンドの観客の反応は、もう一歩だよ、あと一段だよ、というものであった。 

今年、帝京は、主将ただ一人が深紅の大旗の返還にやって来て、一つの区切りがついたことになるが、
仙台育英には、まだ興奮と期待が継続している。 東日本に雨台風の11号が上陸した日。 
全く無関係に去年の終った瞬間が思い浮かび、ふと、こんなことを感じたのである。


( 仙台育英4-2藤蔭 )

306名無しさん:2018/11/03(土) 10:06:24
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月11日  一回戦  「 二千試合目 」


Never Never Never Quit  そんな言葉を思い出す 決して 決して 決して諦めないだ

夏の大会二千試合目を飾る一戦は 高知商・大宮東 乱打戦に見えてそうではなく まさに

諦めないことが 空々しい教訓ではないことを証明し また それを実感させた 壮絶な一戦だった 


彼らには 大会のメモリアルを飾る気持など さらさらなく それを思う余裕などなかっただろうが

結果として どんな儀式よりも見事で華やかな 記憶に残る飾りものを 二千試合にプレゼントしたのだ


諦めないことは信じることであり 信じることは責任を取ることであり 試合の流れに左右されて

一方的に傾くことなく 大差を追いつき また 追いつかれたからといって狼狽せず さらに一歩前へ出 


しかし もう一転して 結局は差がつき勝敗が決したが 誰一人として 流れに主役を譲らない戦いぶりは 

たとえ 二千試合目ということを外しても 記憶にとどまるに違いない 記念ボールに 壮絶と書き加えたい



Never Never Never Quit ぼくの記憶に間違いがなければ、これは、チャーチルの言葉の筈である。
この後に、「未来の王国とは、精神の王国のことである」とつづくのだが、今は関係ない。

一回を終った段階では、期待に反した乱戦になるかと思われたが、流れをそこでピタリと断ち切り、
後は、投げるも、攻めるも、また、試合を組み立てるも、決して諦めない姿勢で立ち向い、ついには、
大味な凡戦の形を緊迫の接戦にしたのである。 それは、点を取り合うスリルをはるかに超えていると思う。

それにしても、交通渋滞にまき込まれた大宮東の応援団が到着したのが、九回裏、最後の打者の時で、
アルプス・スタンドに立って一分か二分でゲームセットとなった。
彼ら、彼女らの甲子園は何であったかと、よけいなドラマを考えてしまう。


( 高知商11-7大宮東 )

307名無しさん:2018/11/03(土) 11:11:06
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月12日  二回戦  「 最後の場面 」


それにしても 何という試合をやってくれるのかと 汗ばんだ背中を冷たくさせながら 見入っていた

しかも 最後の最後の場面 打つとか おさえるとかの 技術の勝負だけではなく

決断といった 心に関わる一景が挟まれたのだから 息苦しくさえなる


八幡商 高田工 同点 九回裏 二死三塁 ベンチの指示は何で 投手の本心は何だったのか

もちろん うかがい知ることも出来ないが 何を投げるかより まず 当然のことに 

この打者と勝負するかどうかが 問題になって来る 


たとえば 確率だけを頼りに分析すれば 疑問の余地なく敬遠だろうがそれを 潔しとしない気持が

働いたのだろう いや もしかしたら 今度は勝てるという 自信であったかもしれない


見る人間には 投手の心の美しさとうつる そして 短かくも長い決断の時間の後 

美学は確率に敗れたかのように 快打が飛び サヨナラで敗れた 



劣勢を土壇場で追いつき、熱狂させた試合の幕切れは、意外なほどにあっけなく、四番打者芝田の
4安打目で八幡商の勝利となったが、その一瞬前の戦略と心の動きとの葛藤は、妄想させるに充分であった。

初出場の高田工は、前半大きなリードを許しながら、ついに九回に追いつき、しかし、
その勢いのままリードするに至らず、結局はサヨナラ負けを喫してしまった。 負けて悔いなしも、
明日があるも、どこか嘘っぽいが、百パーセント嘘でもないと思う。 立派な甲子園だったと思うのだ。

それにしても、この日の三試合は、どれも、何という試合をやってくれるのか、とうならされるものばかりで、
これを書こうという気持を二転三転させられた。 古豪平安の鮮やかな復活や、済々高の驚異の大逆転も、
既に数行の詩になっていたが、土壇場で、これに変った。


( 高田工5ー6八幡商、サヨナラ勝ち )

308名無しさん:2018/11/03(土) 12:28:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月13日  二回戦  「 大逆転 」


ドラマの作家が 劇的展開の知恵をしぼっても この台本を持って行ったなら おそらく

お膳立の整い過ぎた絵空事だと 却下されてしまうだろう

現実はドラマのように運ばないと リアリティーが壁になって このドラマは陽の目を見ない


しかし 甲子園に限って云えば 絵空事がリアリティーを超えることが 何度も 何度もあって

だから 誰も彼もが熱中し 現実の隙間の光を見ようとするのだ 

山陽高・葛生高 まさに絵空事そのものの あり得ない展開で山陽が勝った


八回を終って90パーセントの人が 九回二死となって100パーセントの人が もう葛生の勝利を

確信し 腰を上げた次の瞬間 面白過ぎることが欠点のドラマが 始ったのだ


一点差 二死満塁 カウント ツースリー 何から何まで整った條件の中で 結果もまた

奇跡の大逆転の快打が飛ぶというもので 勝者も 敗者も 興奮のどよめきの中で ただ呆然とした

あと一つのアウトを残して 一体 甲子園の空に 何の風が吹き過ぎたのだろうか



二死から、というのは、むしろ、この日の葛生の攻撃の特徴だった。 六回の勝ちこしも、八回の、
一時はダメ押しと思われた得点も、簡単に二死を取られた後から鮮やかな足の攻撃を見せて、奪っている。
いわば、二死からは葛生が作り出したこの試合におけるペースだったわけだが、それが、最終回、
相手側にまわるなどとは思ってもいなかった。

ぼくの情緒的スコアブックには、冷静な早川投手の投球や、生沢宏選手の見事な脚や、葛生礼賛のメモが
書き列ねてあったのだが、そのチームが敗れることに不思議な気持になっている。

月の引力で潮の満干があるように、たしかに夏の甲子園には何かの引力が作用し、今年は、
殊の外それが激しく、大逆転の異常引力が満ちている。


( 葛生4-5山陽、逆転サヨナラ勝ち )



初出場校対決は、3点差、9回二死無走者から、猛攻で山陽(広島)が葛生(栃木)を逆転。

309名無しさん:2018/11/03(土) 15:18:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月14日  二回戦  「 等身大の野球 」


無名であっても あの強豪ひしめく激戦区を 勝ち抜いて来たのだから 只者であるわけがない

しかし この只者でない理由は 奇策を弄することでもなく 秘密兵器が球運を呼ぶことでもなく

また 異常な闘志で 相手を威圧することでもなく あるがままの姿で あるがままの力を

充分に発揮するだけという 等身大の野球そのものであった


等身大は無力だとか 等身大では平凡だとか ともすれば 自分の大きさが信じられない時代で

レベルとか ニュートラルとか 心と肉体に無理を強いない 等身大の力を証明してみせたことこそ

甲子園の一勝より はるかに価値あることなのだ


初出場 渋谷高校 全く きみたちは 只者ではなかった いや それどころか 実力という言葉の意味を語り

闘志という心の意味を描き 実に 実に 見事だった もう 誰も シブヤとは読まないだろう



数え上げただけで、春の優勝校の近大付をはじめ、昨年のセンバツ準優勝校の上宮、それに、北陽もいれば、
あのPL学園もいるという激戦の大阪を勝ち抜いて来たのだから、何かがある筈だと誰もが思う。

野球に関しては、全く無名であっても、ただの初出場校であるわけがないと、この四十九番目、
一番最後に登場して来た渋谷高校を楽しみにしていた。 そして、決して牛になろうとはしなかった蛙のような、
不思議なイソップを自分で作って、納得したのだ。

ドラマチックを希みながら、全試合がドラマチックになって来ると、少し恐くなる。
この日は、魔物のお休みの日かと思っていたら、宇部商・松本選手の、延長戦の決勝満塁ホームランというのが出て、
渋谷は敗れた。 しかし、そこに至る試合そのものは、決して、魔物の掌の上でのものではなかったと、思っている。


( 宇部商8-4渋谷  延長10回 )

310名無しさん:2018/11/04(日) 10:07:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月15日  二回戦  「 逆境効果 」


逆境を危機に変える天才とは 誰の言葉だったか 本来なら パニックを起しそうな状況の中で

それぞれが 大いなる覚悟をきめて 逆境の中の天才となった


天才とは マイナス思考を瞬時に払拭し いま 何を為すべきかだけに 心と技を集中させ得る人のことで

まさに 松山商の選手たちは ポッカリあいた本塁の穴に 狼狽することなく 落胆することなく

力を発揮し快勝した 松山商 太田捕手 闘志あふれるプレイでフェンスに激突 負傷退場


人間の力の不思議を見る 力と精神が連動していることを知る 集中や 昂揚や 土壇場の使命感が

大事を楽々とやってのける 可能性の存在を証明する


突如マスクをかぶった三塁手の 自信に満ちた本塁死守の姿に そして ホームランに

思いがけないチャンスに恵まれた 代役三塁手の初ヒットに 調子に乗りきれなかった投手の

見違えるほどの緊迫した投球ぶりに 夏の日の降りそそぐ朝 人間が ある時 天才になれる光景を見た



さあ大変だという時に、大変さに引きずられてガタガタになってしまうのと、大変さが潜在能力まで目覚めさせ、
大いなる力に変るのとは、実は紙一重のことではないかと思う。
とはいっても、そういう状況の時に、スイッチをプラスとマイナスと切り換えるわけにはいかないわけで、
結果を見るまで、果してどちらに転んだのかわからない。

結果として素晴らしい活躍で証明されると、これは、何か日常の、生き方の会話などで
蓄積されていた力ではないかと感心したりするだけである。

太田捕手の負傷は、まことに気の毒で、復活の早いことを祈るのみだが、彼の闘志の代償としての負傷は、
チームメイトに、大変な力を与えた気さえするのである。
さて、大会第八日、四十五回目の終戦記念日に、今年もまた甲子園が平和で美しいことを感謝している。


( 松山商3-1竜ヶ崎一 )

311名無しさん:2018/11/04(日) 11:17:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月16日  二回戦  「 好試合・名試合 」


劇的な試合の幕は 初球カーブをスタンドに打ち込んだ 宮下のホームランで開いた

まだ 誰も 試合に集中する呼吸が整わない そんな時間の出来事で 一瞬

何が起ったかと唖然として 颯爽のプロローグを見送った


いきなりのクライマックスは その後の乱打戦を予想させたが 荒れることなく 乱れることなく

また 我を忘れることなく 全く対等の力で 投げ 打ち 守り 稀に見る好試合となった


鹿児島実・高知商 讃歌は両校に贈りたい 絶頂の夏が中天にとどまり あかあかと照らした光の中で

緊張する快感を きみらは与えてくれた


好試合を名試合に変えたのは 幕が引かれる寸前の 橋本のホームランだった

2点差 二死からの二球目 試合のグレードを一段引き上げる 貴重な一発がレフトへ飛んだ


エピローグは 書きかえなければならない 二本目のホームランは 幕開きと幕閉めの

これ以上はない華々しさで飛び出したが 好試合であり 名試合であったりするのは

勝敗が決するまで 自分でありつづけた両校であった



何年前になるのであろうか、もう伝説の勝負となってしまった箕島・星稜戦を思い出した。
ぼくは、あの時興奮して「最高試合」という詩を書いたが、この鹿児島実・高知商に対しても、
それに近い、それ以上のものを書きたいと思った。

詩の中に勝敗を書き込まなかったのは、好試合、名試合が、最高試合とまた違う意味合があると思ったからである。
混乱や失敗が試合を動かしたのではない心地よさを大事にしたかった。

夏の盛りで、いつまでも異常な猛暑は去らない感じだが、しかし、よく見ると、どこかに秋の色がある。
その秋を押し隠して、いい試合が行われた。
思うに、プロのスカウトが、今年は不作だと嘆く年ほど甲子園は面白い、
というぼくの日頃の説を今年は見事に証明してくれている。


( 鹿児島実4-3高知商  延長12回 )

312名無しさん:2018/11/04(日) 12:26:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月17日  三回戦  「 去り行く少年に 」


まだ 夏の中に置きたい少年が 去って行く 夢や 希望や 悲願を たっぷりと詰め込んだ夏を思うと

少しばかり早い終りで 少年はクリクリとした目に 甲子園の巨きさと 勝利の困難さを焼きつけながら

しかし 肩を落すことなく甲子園を後にする 

陽のかげったグランドには しょう然と後を追う影はなく それが救いだ


秋田経法大付高 中川申也投手 去年一年生で 無邪気とも思える大胆さで 

甲子園の魔物を手玉にとった少年は 身長で二センチ 体重で一キロ 胸囲は六センチも大きくなり 

それにつれて 無欲と無邪気は度胸と冷静さに変り あきらかに 大人になった姿を見せてくれた


ただ 無邪気ですりぬけられた危機を 意志で打ち負かそうとする大人の業が 

きみを 勝利から遠ざけてしまったが それは もう あたりまえのことで 去年の方がよかったとは 

誰も思いはしない 来年 また逢おう 中川申也君



仙台育英につづいて、秋田経法大付が敗れ、かなり夢ふくらんだ感のあった、みちのくへ大旗の悲願も
一気に消えた。 熱い東北に熱い視線が集まり、いくらかロマンティシズムも手伝って、
今年はチャンスとぼくなども思っていたが、やはり、四千校を超す参加校の頂点に立つことが、
如何に大変かということだろう。

勝ちつづけて不思議でない戦力と、雰囲気を備えた両校でも、まだ、他に、サムシングが必要だということで、
甲子園というのは、宿題を出しつづける。 去年の宿題の解答だけでは満足しないものらしい。

しかし、宿題がない人生も青春も、考えようによってはつまらないもので、大いなる宿題を鞄に詰めて帰ってほしい。
東北は急激に秋になるだろう。 球児たちの背景に故郷を思うのは、三回戦以降のことである。


( 横浜商3-2秋田経法大付  延長12回 )

313名無しさん:2018/11/04(日) 15:15:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月18日  三回戦  「 鶴の詩 」


まさに 金属音だ やや冷たさを秘めた甲高い響きが 緊張に重苦しく淀んだ空気を

メスのように引き裂く 打球は 音の鋭さとやや違う印象で 

直線よりは 大きな放物線を描いて ライト・スタンドへ飛び込む 


いちばん欲しい時の いちばん欲しいホームランは まるで 日大鶴ヶ丘のベンチで翼をたたむ千羽鶴 

いや 原色に彩られた万羽鶴が いっせいに舞い上るような 華麗で 価値ある一発だった 


延長10回 日大鶴ヶ丘 石井選手 決勝スリーラン それにしても ホームランの威力は 知力や 胆力や

あるいは 必死に踏みとどまろうとする精神力や それら全ての頭越しに 決定してしまうのだから

球場に静寂が訪れるのも無理はない


日大鶴ヶ丘 初陣でありながら風格を備え 堂々の戦いぶりは見事で 球児たちの悲願を背負った

折鶴の舞を やや雲の多い甲子園で 存分に演じさせた 夢のように・・・



花は、勝敗を決するホームランであっても、試合というものは、それを仇花にしないためのファンデーションが
より大切になる。 つまり、最後のドンデン返しや、劇的な終局を迎えさせるためには、
呼吸困難を感じさせるような地味な押し合いが必要である。

ポンポンと花火のように乱打される試合の中で、仮に決勝点となるホームランが出たとしても、
それは単なる巡り合せということになってしまい、重い空気を引き裂くような、とはならない。

石井選手のホームランは、もちろん見事ではあったが、これを見事に見せたのは、難波投手の力投をはじめ、
クライマックスへの基礎固めをした全員にあったと云いたいのだ。

どうやら、騒ぎ過ぎた甲子園の魔物も、いささか疲れたらしい。波乱や、殊勲があっても、それは、
魔物のしわざではないと思えるここ何試合かである。


( 日大鶴ヶ丘5-3徳島商  延長10回 )

314名無しさん:2018/11/10(土) 10:08:09
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月19日  準々決勝  「 内之倉 翔ぶ 」


時代を動かし 国を変えた郷土の先輩がいるのだから 試合の流れを変えるくらい 何でもないと

きみの一撃は 五万五千の大観衆を沈黙させる鋭さで レフト・スタンドへつき刺さり

翔ぶが如く 舞うが如く きみは駆けた


鹿児島実・内之倉隆志 時代が時代なら 野望とロマンに満ちた そして どこか大らかな 

青年として生きただろうにと そんな幻想さえ抱かせ 真夏に立つ


時として甲子園は 競技の場を超えて ロマンの荒野と化す 郷土という色分けも 学校という意識も忘れて

自由な目で見つめられる一瞬がある それは 秀れたもの 美しいもの 才あるものとの遭遇の時で

きみが打席に歩を運ぶと 甲子園は まさに 束縛から解かれた夢の荒野になるのだ


そして きみは充分に期待に応え 飢えた大人の渇いた心に 一瞬の風を吹かせた

きみは いま 甲子園を去りながら きみ自身の前にひろがる荒野を 熱い瞳で見つめていることだろう



まだもう少し見ていたい逸材が、いつの場合も惜しまれながら去って行くのが、甲子園の宿命である。
かつてのPL学園の桑田、清原のように、最後まで甲子園に居残り、何もかも手に入れ、
たっぷりと人の目にその姿を焼きつけた例は少いのだ。

大抵は、少々の感傷と、大いなる期待の中で、いくらかし残した感じを、本人も、見る人も、
ともに抱きながら去って行くものである。 この、残した感じが実にいい。 誰も皆し残すもので、
完全燃焼などというものは、一試合に限ってならあったとしても、少年の才能にあるわけがないのだ。

内之倉選手は、充分にその力を発揮したが、それでも、まだ、し残した感じが残るのは、
早過ぎる敗退ということもあろうが、それだけ大物だということである。


( 西日本短大付4-3鹿児島実 )



内之倉・・・ダイエー 通算6年、2本塁打、40安打。

315名無しさん:2018/11/10(土) 11:11:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月20日  準決勝  「 未踏の階段 」


もどりの夏が 感傷を運ぶ秋をせき止め グラウンドの土を灼き アルプスを焦がし 熱風となって吹き過ぎる

夏がいちばん似合う沖縄球児に まるで エネルギーを注入するような 季節のはからいで 

きみたちは 実にいきいきとプレイし 未踏の階段を一つ昇った


きみたちにはきみたちの 世代としての思いがあり もしかしたら 大人たちが胸痛くする感慨とは

少し異っているかもしれないが それでも とうとう此処までやって来た


夢と悲願への接近は 悲痛なスローガンではなく 現実のものなんだという感激は 同じものに違いない

きみたちの一勝は きみたちが思うよりはるかに大きく ましてや 優勝の二文字が夢ではなく

手が届くところにあるとすると これは もう 歴史なのだ


勝つか 敗れるか いずれにしても快挙に違いなく 光まぶしい ブルーの色濃い空の下 

きみたちは 幻想を現実に転換する スイッチに手を掛けた 沖縄水産高校 はじめての決勝進出 



沖縄水産が決勝に進出した感慨とは別に、この試合で印象的なことが二つあった。
一つは、高校野球の監督さんが、実に選手たちのことをよく見ているということである。
気力とか、調子とか、意欲とか、記録の数字以外の活躍要素を見抜くには、余程の観察が必要になって来る。

突然先発に起用された沖縄水産横峯、山陽児玉両選手の活躍を見ながら、見つめること、
見落さないことの重大さを感じたのである。 目をそらしては人を育てられない。

もう一つ、九回、マウンドを三年生投手に譲り、レフトへ下った山陽川岡投手が、目を細めてスコアボードを見やる姿に、
とても十六、七歳とは思えない、何か人生の一山を越えた男のような、安堵と落胆の入り混った哀愁を感じたのは、
あまりに作詞家的感想に過ぎるであろうか。 いずれにしても、あと一日で秋になる。 


( 沖縄水産6-1山陽 )

316名無しさん:2018/11/10(土) 12:26:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1990年8月21日  決勝  「 笑顔に 」


泣けて泣けて仕方なかったのです 何故の涙が ゲームセットの一瞬から 

目蓋を押し上げる熱い涙を 止めることが出来なかったのです


敗者となり 大きい夢を取り逃したきみたちの 実に晴れ晴れとした笑顔に

なお一層こみ上げるものを覚え しばらくは声もなく ぼやけた視界を見つめていたのです


昭和四十七年 本土復帰の年に生れたきみたちが 悲願達成への主役となったのは 

何やら因縁も感じます しかし そのような背景を抜きにしても きみたちは立派なチームで 

見事な戦いぶりで それが あの 明るい笑顔になったのでしょう 


ぼくらが いささか感傷過多で流す涙が もう間違いだと知らされたようで

新たな野球の歴史の始りを 嚙みしめたのでした 


それにしても 最後の打者横峯のバットが発した いつまでも耳に残る快音

天理のレフト小竹の 奇跡的攻守でのゲームセット 夢が実るにしろ 夢がついえるにしろ

これ以上はない幕切れで 時間にして数秒の間に 大きな大きな感慨を凝縮した一瞬でした



決勝戦は動かないままに短い時間で終ってしまったが、その間の緊張と、内なる波乱を数えると、
乱打戦のシーソーゲームをはるかに超えていたに違いない。

ゲームという視点で見ると、攻撃面でのミスも多く、準決勝までとはいささか違う状態がうかがわれたが、
このような一戦を、スコアブックでチェックしても仕方ないだろう。
短いが、見えないヤマをたくさん含んだ稀に見る好試合だったと云いたいのだ。

さて、こんなに暑い大会も珍しいが、こんなに熱く昂揚したことも初めてである。
前評判の静かさを、試合自体の面白さで盛り上げて行き、入場者総数も九十万を超す新記録となった。
無名校の無名選手が、夏の日を浴びて、虚名のスターを超える一瞬も何度も見たし、
満足の行く夏だったと云いたい。


( 天理1-0沖縄水産 )



1990年の出来事・・・ソ連ゴルバチョフ初代大統領 ノーベル平和賞受賞、 第一回大学入試センター試験、

              イラクがクウェート侵攻、 東西ドイツ統一、 今上天皇即位の礼、 雲仙普賢岳噴火

317名無しさん:2018/11/11(日) 10:05:02
☆ 倉敷工業34のスレッドより 


2018/09/09(日) 01:54:00


10年前の秋だったかな、関西に逆転勝ちして中国大会出場を決めた時、
その当時の倉工スレに関西OBの「ワシじゃ」というコテが書き込んだんだよ。

この「ワシじゃ」さんはいい人で、関西がやや不運な負け方をしたにもかかわらず、
「中国大会出場おめでとう。」と書いてくれたんよな。あれは嬉しかった。
「ワシじゃ」さんお元気ですか?

更に驚いたことに、「ワシじゃ」さんも少年時代に倉工ユニフォームごっこで遊んだと書いてあった。
あのユニになった昭和43年に小学生だった人は現在56歳〜62歳だな。

丁度この世代には和泉さんや中山さんも含まれる。
高田は若いから分からんじゃろうが、この世代にはあのユニがえろうカッコよく見えた。
半袖の下に太目のダボっとした白い長袖ババシャツを着たようなあれが懐かしいね。



コピーさせて貰いました。 同世代の方でしょうね。
「ワシじゃ」さんではないのですが、同感で、懐かしいです。
こちらのスレは、図らずも、ワンマンになっていますが、昔話など書き込んで頂ければ幸いです。

さて、秋の中国大会で部員16名、鳥取県内屈指の進学校、米子東が決勝に進出。
23年ぶり、9回目のセンバツが確実になりました。 伝統の純白のユニがいい、身体が大きく見える。

阿久悠さんの甲子園の詩に、「同じユニホームで登場して来ると、時代を超えてつながってしまう。
甲子園のファンというものは、そういう風に忘却を知らない感傷を持ちつづけているのである」。
久しぶりに出場することが出来ても、あのユニでは、魔物も、あの倉敷工とは認識してくれないでしょう。

318名無しさん:2018/11/11(日) 10:15:01
☆ 矢野監督、2軍で育てた秘蔵っ子右腕・守屋の方程式入りに期待



矢野監督(49歳)が6日、2軍監督として手塩にかけて育てた守屋投手(24歳)に勝利の方程式入りを期待した。
高知・安芸での秋季キャンプでシート打撃に登板したスリークオーター右腕は、打者7人に無安打無四球の3奪三振。
指揮官は「使えるんやってホンマに。 きょうもすごいピッチング。 あいつが一番光っていた」と絶賛した。

切れ味鋭いストレートは、MAX149キロを計測。 主軸候補の大山のバットもへし折り、三ゴロに仕留めた。
矢野監督は「首を振って自分で考えて、味方相手にインサイドにいけたのはすごい」と、植え付けてきたメンタルの強さを評価した。


守屋はプロ4年間で通算9試合で未勝利。 だが、今季は2軍でチーム最多の39試合に登板。
2勝2敗2セーブ、防御率3・35の成績で、ファーム日本一に貢献した。
「結果は良かったです。逆球が多かったのが課題です」。
足もとを見つめながら、初の開幕1軍入りを目指す。



矢野監督になった幸運を、生かしてほしいですね。 来年は勝負の年、結果を出さないと・・・。

319名無しさん:2018/11/11(日) 11:26:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月8日  一回戦  「 はじめての甲子園 」


はじめての甲子園はどうでしたか 未知と神秘の惑星でしたか 酷薄な試練を強いる魔女の棲む

イバラの園でしたか それとも 可能性をやさしく鼓舞する女神が舞う 夢の園でしたか

遠かったですか 大きかったですか 平常心という言葉は 心のエネルギーになりましたか


緊張というプレッシャーは 快感になりましたか 遠くが見えましたか 

暑いと熱いの違いが 実感できましたか 感激は見つかりましたか 感動は手に入りましたか

口惜しさはどうですか 悔いは残りますか 


さて はじめての甲子園は きみたちにとって何でしたか 理想を掲げ 禁欲の美しさを説く父でしたか

手ごわさを示し 力を見せつける強い兄でしたか それとも 全てをゆったり包み込む

大きなあたたかい胸を持つ 母のような存在でしたか


二時間 その場に立っただけで そんなにも沢山の心の襞が生れる それが甲子園なのです

北照高のきみたちへ 甲子園からの伝言です



ある夏の、ある日の早朝、無人の甲子園の投手マウンドに立ったことがある。
テレビ取材で、その場から、僕が、外野方面を、グルッと見まわして観客席を、そして、
明けたばかりの空をふり仰ぐというものであった。

その時感じたのは、観覧席が人で埋った時の空おそろしさで、妄想するだけで震えそうになったほどである。
そして、此処で力を発揮する少年たちは、ましてや、殊勲を立てる少年たちは、たいしたものだと感心した。

甲子園というのは、単に野球場というだけでなく、もっと精神的な、神がかり的な、聖地である。
神の声を聞くことも出来る。 はじめての甲子園ともなると、神の声が重なり、
ワンワン耳を打つに違いない。 北照高を見ながらそんな風に思った。


( 沖縄水産4-3北照 )

320名無しさん:2018/11/11(日) 12:53:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月9日  一回戦  「 やまびこ神話 」


もう それは 神話になっている 頑強な肉体と旺盛な闘争心を 金属バットそのものにして

白球を宇宙遊泳させた おそるべき子供たちがいた


ダイヤモンドの野球を フィールドの野球に変え 爽快なロマンとドリームを 甲子園に持ち込んだ

高校野球の革命児たちを 夏はおぼえている


金属音のこだまに 悲鳴に似た歓声があがり 入道雲の姿に 男の雄叫びを証明した

あの大きな子供たちは たしかに たしかに時代だった それほど昔ではなく それほど近くでもなく 

しかし 過去のスクリーンの中に その時代はメラメラと存在したのだ


記憶は薄れ やがて消えるものだが 夏と甲子園をキイワードにすると あの神話は 永久に不滅になる

そう それほど強烈だった 徳島代表 池田高校 その池田が帰って来た

ただ それだけでときめく やまびこなのか さわやかなのか どちらでもいい 甲子園は待っていた



高校生だから三年で人は入れ替わる。 英雄やスターがいても、三年を過ぎるといなくなる。
だから、同じ学校でも、同じチームではないわけで、プロの球団のように、一つのイメージを求めることは無理なのである。 
そんなこと百も承知で、学校のそれなりの健闘を応援するのだが、何校かには、ついついイメージを期待する。

その最たる例が池田高校で、もう九年も前の、江上、畠山、水野の時代の強烈な印象を思い描いてしまうのである。
今年、金属バットから金属音が消えた。 野球が変わったように思える。 
その年に、池田が復活して来たのは何か象徴的な思いさえするのだ。

そして、ぼくの見た目では、姿を変えたと云われる池田の本質は、やはり、やまびこ神話の精神そのものに思えた。
やまびこも、さわやかも、ともに生きていたのだ。


( 池田5-4国学院久我山  延長10回 )

321名無しさん:2018/11/11(日) 13:56:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月10日  一回戦  「 サヨナラの演出 」


サヨナラが二度あった 女神のためらいなのか 悪戯なのか それとも 熱戦に酔ったあげくの失敗なのか

劇的であるべきサヨナラを 二度演出した 佐賀学園・春日部共栄


劇的というのは 勝者と敗者を瞬時に区分けする 実に残酷な結論のことで 好試合も熱戦も

女神の唇の一吹きのあとは 勝って喜ぶ人たちと 敗れてうなだれる人たちに 引き離してしまう

劇的でなければ退屈で 劇的であれば心痛む 試合とは かくも因果なものなのだ


肩の痛みに耐えながら むしろ後半に力を発揮して来た投手と 去年の大敗の屈辱を

見事にそそごうとしている投手が 投げ合い 投げ合い そして 何度か訪れかけた幕切れを

好守がひきのばす


延長に入って ポツリと雨 そして 不安な風 落着きのない女神の動向 どれもこれも

勝敗に関わるなと云いたいような 緊迫の ドラマたっぷりの熱戦だった



十回裏、二死走者二塁で、若林の打ったボールは高い内野フライだった。
一塁手が追い、風に流され、今度は三塁手が追い、やや目測を誤った感じで捕球が出来ず、
ボールは投手マウンド近くで大きく弾み、ファウル・グラウンドへ転がった。

二塁走者の実松は一気に本塁を駈けぬけ、その時点でサヨナラかと思えたが、
ボールに野手のグラブが触れていなくて、ファウルの判定が出され、サヨナラ勝ちは一度は消えたのである。

これだけの短い時間の間に、一喜一憂が何度か入れかわり、その都度、歓声と悲鳴が入り混った光景も珍しいだろう。
しかし、熱戦の最後がこれでなくて本当によかったと思っている。
サヨナラの仕切り直しでも運命は変らなかったが、好試合であっただけに、
雨や、風や、女神の手は借りたくなかったからである。


( 春日部共栄2-3佐賀学園、延長10回サヨナラ勝ち )

322名無しさん:2018/11/17(土) 10:08:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月11日  一回戦  「 教 訓 」


Many Many Chance  One Pinch チャンスは山のようにあり ピンチは一回しかなかったのに

Many Many Pinch One Chance が勝ってしまった


昨年の覇者に対し 力を誇る挑戦者がぶつかり 大器の噂の巨漢投手に 三回まで七安打を浴せ

たとえば それは 名声に対する実力 自負に対する自信 候補に対する黒馬

本当に強いのは誰かと 誇示しているようなものだった


覇者はたじろぎ 大器は揺らぎ スコアブックの上では ワンサイドの様相を呈していながら しかし

覇者は倒れず 大器は挫けず 宇都宮学園は 絶対の候補の天理を倒しそこねた


まさに青春訓がそこにあって チャンスにこそ戦き ピンチにこそ寛ぎ 実力とは それを個々が持つことではなく

ワンチャンスに 一つに集めることだと 甲子園は また語ったようだ



勝負に、「もしも」、はあり得ないが、一回裏・宇都宮学園・無死一、三塁の好機に、三番中山の放った強烈な一打が、
投手谷口のグラブに偶然のように入るということがなかったら、そのまま大差で押し切るような展開になったかもしれない。

天理の谷口投手は、四回からは別人のように安定し、本領を発揮し始めるのだが、この、「もしも」、がわずかに
ズレてヒットになっていたら、その立ち直りも考えられなかっただろう。
しかし、詩にも書いたように、チャンスとかピンチとかいうものは、訪れる回数によって幸運や不運、幸福や不幸が
決まるのではなく、訪れた時の対応によるのだと教えられた試合だった。

まさに人生である。 大魚を逸した宇都宮学園ナインに贈る言葉もないが、たぶん、多くの警句が数年後に
よみがえるに違いないと確信している。


( 天理4-1宇都宮学園 )

323名無しさん:2018/11/17(土) 11:21:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月12日  二回戦  「 きょうは晴れたか 」


きょうは晴れたかと呟く きょうは暑いかと訊ねる 入道雲は湧いたか 陽炎の舞はあったかとも

やはり 夏の甲子園は ギラギラの陽ざしの中で 芝の匂いが充ちた方がいい

その夏が きょう戻って来た そして 戦いも熱くなった


ドクターKを向うにまわし 知恵と度胸と余裕で投げる 秋田の菅原投手 時に遊び 時に焦らすかに見える

この少年にとって 二十六年ぶりの勝利という悲願も また ゲームセットへのプレッシャーも

およそ無関係に思えたが 一点リードの九回二死 あと一つストライクを取れば あと一つ

そこで打たれて同点になった


勝利への道は 長いとか 険しいとか しかし 本当は 道が姿を消して さあどうすると迷わせることで

たぶん 知恵と度胸と余裕の少年も 恐さを実感したに違いない

戻って来た夏の日の熱戦は 一瞬のドラマのあと ふたたび秋田に微笑んだ



今年の大会でうれしいのは、大差の試合がないことである。 晴れ舞台で、悲惨な打ち砕かれようとする少年たちを見るのは、
とても辛いことで、試練とかの言葉を与えても、慰さめにもならない。 そして、毎年、そういう試合がかなりの数ある。
しかし、今年は違っている。 1点差の試合も多いし、地味ながらも、心地よく緊迫していられるのだ。

さて、東北勢の健斗が目立つ。 東北は、今日接戦の末敗れたが、お返しのように秋田がサヨナラ勝ちした。
専大北上が強豪村野工に勝ち、弘前実も外崎監督に甲子園初勝利をプレゼントし、学法石川も毎回奪三振で勝った。

敗れた米沢工も、山形県勢連続無得点をストップという最低の目的は達している。
これらと関係あるかどうか、高校野球が高校野球に戻っていることも強く感じる。


( 北嵯峨3-4秋田、サヨナラ勝ち )

324名無しさん:2018/11/17(土) 12:30:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月13日  二回戦  「 一瞬にして鮮烈の夏 」


二年生よ そして 一年生よ いま ぼくらの 一瞬にして鮮烈の夏は終った 

無念の砂ぼこりの中に 色褪せて行く虹を見送りながら それこそ 季節が変るように終ったのだ


熱戦といわれ 健闘と称えられ 好試合と喜こばれても 敗者は敗者で センターポールを仰ぐことも

校歌を歌うこともなく ぼくらは甲子園を去るのだ


夢は達成するごとに 新たな夢となってふくらみ 逃げ水ような夢を追いながら 甲子園までやって来たが

それも いま消えた もうぼくらはこの場所に立てない


必死と懸命の代償に 心の中に得たものは ここまでやったという満足と ここまでだったという衝撃で 

それは同時に ここでなければ手に入らない 大きな教科書なのだ 

その満足と衝撃をきみらに伝えよう 教科書を持ち帰ろう


一瞬にして鮮烈の夏の 瞼と皮膚が吸収した教訓を 来年のきみらのために 読んで聞かせよう

市立沼津ナインの思いは たぶん こうだろう



メンバー表を見たら、市立沼津は、ベンチ入り十五人が全部三年生だった。これは、かなり重要なことである。
高校野球にこのように熱中し、感傷的になる大きな要素の一つに、三年生にとってはラストチャンスだという思いがあるからで、
その意味では、三年生を優先してあげたいと、以前から思っていた。

そして、熱戦の末敗れた市立沼津を見ているうちに、三年生からのメッセージという形で詩を書いてみたくなったのだ。
星稜、市立沼津は実力伯仲、全く互角で進行して来たが、その膠着状態をつき破ったのは、
星稜の1メートル84、90キロの巨漢松井の二盗、三盗であった。 
これは、運命を突破するような勢いにさえ見え、流れを変えた。詩の中の、衝撃という言葉には、これも含まれている。


( 星稜4-3市立沼津 )

325名無しさん:2018/11/17(土) 15:05:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月14日  二回戦  「 2時間14分の緊張 」


緊張はいいものだ 時間の中に無駄がない 一呼吸をおろそかにすると 状況が変わってしまう

二時間十四分の試合の中で 何度の呼吸をしたか その数だけの 好機と危機が そして

成功と失敗の可能性が あったってことだ  


我孫子高・西条農  夕映えの中で緊張は始まり ピイーンと張りつめたまま 照明が灯り 

さらに波乱の予感をひそめながら きみらは戦いつづけた


荒井投手 堀投手 きみらに感動し感服するのは 内なる動揺も 内なる昂揚も 

全てを制御する知恵と精神力を しっかりと持っていたことで それこそ 一呼吸 一呼吸 

そう 緊張と格闘したのだ  試合は動く 動くと結果が出 途中が忘れられる

しかし 懸命に引き合った緊張の綱の美しさは 忘れない



はじめは、ついつい、マウンドに立つ息子と、ベンチで見つめる父親、その間はどのくらいの距離かはわからないが、
父と子が存在し合うにはちょうどいいな、などと思っていた。

我孫子の監督とエースは父子だということは、かなり話題になっていたし、それは現代に於ける”父と子”は、
今のぼくにとって最大のテーマでもあるので、興味を持って、表情の動きや、向き合う角度などを追っていたのだ。
しかし、それも最初の何回かで、それこそ、緊張の中にはまり込んでしまった。

さて、勝敗のキイになったのは、八回裏、代打の浪川が選んだ四球であるが、この大切な場面で、
予選すら打席のなかった選手を指名する監督の眼力と度胸、これには凄いものだと感心させられた。
ぼくの肩は、まだ凝っている。


( 我孫子6-3西条農 )

326名無しさん:2018/11/18(日) 10:12:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月15日  二回戦  「 麦藁帽子 」


舞い上り 舞い落ち 捨てられた麦藁帽子は いったい何なのでしょうね もしかして

ひまわりになりたかった麦藁帽子が ひまわりになれなくて そっと身を隠したのかもしれません

今日は本当に暑いから そんな風景もいくつかあって 甲子園の麦藁帽子 

ああ ちょっと無念な少年の心なんですね 


学法石川の川越投手は なぜ打たれたのでしょう そして なぜ敗れたのでしょう

いきいきと のびのびと 小気味よく投げ込み 勝利を呼び込む気迫も 満点だと思えたのに

突然何があったのでしょう  


流れが変わるとは そんなにも 人間を呪縛するものでしょうか 技や力や魂も 流れには溺れるのでしょうか

小さい大投手の 堂々の晴舞台は 一瞬の不運で暗転しました


そして 麦藁帽子です やはり 少年の心でしょうか  もうちょっとで ひまわりになれたのにと

スタンドの椅子の下に ひしゃげて落ちているのです



第二試合の五回終了時点で、ちょうど正午になり、黙とうを捧げた。 四十六回目の終戦記念日である。
戦争と全く無縁に生れ育った球児たちも、今年は、湾岸戦争もあり、少しは違う意識で目を閉じ、
そして、平和の充満した青空を仰いだかな、と思った。

そして、ぼくら大人は、この青空の厚味はどれくらいだろう、表皮一枚きりで、
すぐ下は黒雲ではあるまいかと考えてしまうのだ。

野球に目を向けよう。大会も後半に入った。ここから先は、例年のことだが、アッという間に過ぎてしまう。
ところで、今年は、熱戦や、接戦が、どうして、一瞬にして大差の試合になってしまうのだろうと不思議に感じている。
前半の緊迫は何だったのだろうと思うほどである。
偶然の成り行きではなく、何か根本的な理由がある気がしてならない。


( 宇部商8-3学法石川 )

327名無しさん:2018/11/18(日) 11:12:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月16日  二回戦  「 伝令走る 」


伝令走る 絶体絶命の危機に伝令が駈け寄る そこで いったい 何が伝えられるのだろうか

ほんの一言 おそらくはわかりやすい言葉の 再生の魔術に感動させられる 


落着け だろうか 頑張れだろうか 伝令走る 幸福の使者のように エネルギーの補給者のように 輝いて走る 

八回表 一打逆転の大危機 彼の役割りは立派に果せ エースは一点差を守った


郷土が嵐に包まれた日 沖縄水産は 快晴の甲子園にいて あたかも決勝戦のような熱気の中で

明徳義塾と対戦した 壮絶な打撃戦で しかし 乱戦に非ず キリッと引き締り カッと照り返す

まさに夏型の熱風戦だった


先行され 逆転し 引き離し 快勝かと思われた八回 彼らに嵐が訪れたのだ ここで 伝令走る

落着け だろうか 頑張れ だろうか それとも 天理に出会うまで・・・ だっただろうか



午前十時に、甲子園球場から「満員通知」が出され、そればかりではなく、決勝戦のような空気が
満ちていると思えた。 暑く、快晴だった。 球場は白く、銀紙に包まれたようにまぶしく、全てが
熱戦の条件を整えていたと言える。

沖縄水産にとっては、目の前の明徳義塾しか意識になくて、この試合を勝つことが全てであっただろうが、
見る人間の頭には、どうしても天理がチラつく。 

昨年、沖縄水産は、たった一点の、最小で最大の壁に遮られ、準優勝に甘んじた。 
その一点を超えることが、絶対の目標で、絶対のロマンであると信じたくなる。
意識の底の渇望、天理との再戦が、この戦をものにしたエネルギーだと考えたいではないか。
しかし、その天理は、佐賀学園の若林の快投と、若林の一振りで、甲子園から姿を消した。


( 沖縄水産6-5明徳義塾 )

328名無しさん:2018/11/18(日) 12:23:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月17日  三回戦  「 架空のヒーロー 」


帝京よ 池田よ 池田よ 帝京よ 八月十七日はいついつまでも きみたちの胸に

そして ぼくたちの心に 色鮮やかな記憶として残るだろう 


勝ってよかったも 負けて口惜しいも やがて いい試合だった 凄い試合だった

ただ この心の震えだけが 記録を押しのけて記憶として 残るに違いない


帝京よ 池田よ 池田よ 帝京よ 面白過ぎる罪というやつは 誰を責めたらいいのか

完璧な青空を取り戻した復活の夏か 五万三千の熱狂の客か それとも 劇的な昂揚につき動かされ

筋書きのないドラマを自作自演した きみたちか 


いや いや 面白過ぎる罪は誰にも責められない そのときのきみたちは あたかも 架空の世界に舞う

架空のヒーローにさえ見えた そして いつか 架空のヒーローが高校生に戻り 普通の大人になった時

八月十七日は たぶん 架空の意味を語るだろう きみたちは ともに 最高だったと・・・



このようにヒーローがいっぱいいて、ヒーローになかなかなれない試合も珍しい。 監督の大抜擢に応え、
見事に先制の二塁打を放った池田の池住も、超美技でピンチを救った池田の外野手の三ツ川も、南も、
普通の試合であれば、ヒーロー・インタビューを受けていておかしくない。

三ツ川は、八回に、一度はダメ押しかと思われた二点本塁打を打っているのだから、
本来なら文句なしである。 もっと凄いのは、八回、大逆転の満塁本塁打を打ち、
九回のピンチにふたたびマウンドに上り、二者を三振に打ち取った帝京の三沢が、
大ヒーローになれなかったことである。

結局、大見出しのヒーローは、十回裏にサヨナラ二点本塁打を放った稲元ということになるのだが、
これを見ただけでも如何にドラマチックで、もの凄い試合だったかがわかる。


( 池田6-8帝京、延長10回サヨナラ勝ち )

329名無しさん:2018/11/24(土) 10:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月18日  三回戦  「 アッから アアまで 」


ぼくが詩人でなかったら 泣くな井出元と書く 

激闘三時間四十六分 熱投二百三十二球 無念の死球と書く


ぼくが詩人でなかったら 敗れて悔いなしと云い うつむくな 胸を張れ 肩を落すな

眉を上げろ 瞳を濡らすな きみは完全燃焼だと云う 本気でそう書き 素直にそう云うだろう


ぼくが詩人でなかったら エースの意地を称え 孤独のマウンド 黙々と投げる 

左腕唸る 悲運のサウスポー ついに力尽く 力尽く 延長十六回 井出元の夏は終ったと


だがしかし この日のぼくは 心は詩人であったから 井出元の指を離れた 二百三十二球目の 

その瞬間から 打者の肩にあたるまでの何秒か そこに詰め込まれた 

IC回路のような膨大な思いを 知りたいと思う


アッから アアまでの間 時間は無限で 空間は宇宙ほども広く・・・ 

そこに 井出元投手は立っていたのだ



延長が続くと、決着はどういう形でつくのであろうかと予測する。 
これこそ、小説の筋立てを考えるように、あらゆる場面を想定して見ている。 

早い回には、どこかで劇的な終りを期待しているが、だんだんと、波乱も、劇的要素も、
意外性もない方がいいと思うようになり、この試合のように、十六回にもなると、
平凡に終了する方法はないものかとさえ考えるようになっていた。無理な話である。

ずいぶんとたくさんのケースを予測していたが、満塁、押し出しデット・ボールというのは、
考えになかった。 劇的度を計ると、ぼくが願ったように、平凡な結末の部類に入るかもしれないが、
平凡なだけに悲劇性や、残酷度が増すということを知らされた。
それにしても、アイドル不在の大会は、こんなにも面白い。


( 四日市工3-4松商学園、延長16回サヨナラ勝ち )

330名無しさん:2018/11/24(土) 11:12:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月19日  準々決勝  「 贈る言葉 」


春も夏も 大活躍でした 春も夏もさわやかでした 少しばかり懐かしい感じが 

心の原風景をかすめたような そんな印象の 市川高校でした 


夏の陽ざしに灼きついたような 強烈な記憶ではありませんが いつまでも心に残る 

心地いい想い出をつくって 甲子園を去って行きました

たとえば 風 そして 風に運ばれた青葉の匂いでした


高校野球は 等身大に心うたれるものです 野球に於けるさわやかさとは 

自分の等身大をよく心得 それを数センチ超えようとする 懸命の努力がうかがわれる時に 

心が浄化されるものです 


数センチの成長 数センチの進歩が 少年たちに感じられると 心が熱くなるもので 

それが 市川高校でした その彼らが勝つと 失われた価値観が復活したような 

心強さを感じたものでした


市川がどこにあるかも知りました 花火の町であることも 甲府盆地の南の端にあることも

そこには やがて秋が来るでしょう その頃 彼らの胸で 花火がきっとはじけます



台風の影響のようで、強風が吹いている。 朝は青空と思えたのに、
時間が経過するごとに雲の量が増えて行き、それも、かなりぶあつい雲で、波乱を思わせる。 

波乱といえば、この試合が始まる直前に、大変な波乱のニュースが、それこそ、音よりも、
光よりも速く世界を駈け巡る。 ソビエトのゴルバチョフ大統領が失脚したとか、
非常事態宣言がソビエトの一部に発令されたとか、これはもう、波乱などという表現では済まない大事である。

しかし、ここで、波乱の値打ちくらべをしても仕方ない。 激動の世界に心を動かしながら、
また、高校野球の懸命さに感動しても悪いことではない。 そんなことを考えながら、
鹿児島実の猛攻に耐える市川を見ていたら、やけに、美しく、涙ぐましいほどにさわやかに感じたものである。


( 鹿児島実7-3市川 )

331名無しさん:2018/11/24(土) 12:15:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月20日  準決勝  「 青春の達人 」


この日 きみたちは まぎれもなく 青春の達人だった

鹿児島実の選手諸君に 達人の称号を贈りたいと思う あと一点 あと一歩及ばず 


決勝の場に臨めなかったが 後半の怒濤のような追撃 マグマのような活力

そして 大差にも挫けず 執念を燃やした瞳のきらめきは 拍手に価する


きみたちは 大きく たくましく 強く 激しく 太陽に灼かれ 砂に磨かれ 

闘いつづける肉体と 闘うことの心を鍛えられた 迫力の少年たちだった 


あり余るエネルギーにつき動かされ 行き場を求めて疾駆する 壮絶で 危険で 

どこかうっとりする 若い 若い馬の姿を ぼくらは見た それが青春だと思う

だから 青春の達人と呼んだ 夏が終った きみたちにはメダルはない 

それでも きみたちを見つめた人々から 勲章は贈られる



九回裏の鹿児島実の攻撃、云いかえれば、沖縄水産の守り、この一景には、
ずいぶんといろんな要素が詰め込まれて、興味深かった。

如何にも、九回裏の攻防という言葉がピッタリの状況になり、逃げ切り、延長、
逆転サヨナラと、同じくらいの確率で予想され、正直なところドキドキした。

一死二、三塁で、打席に入ったのが一年生の中釜で、彼は、九回表、
大野の打球をランニング・キャッチ、この超美技で追加点を阻んでいたから、ラックが感じられたのだ。 
そればかりではなく、この一年生には、どことなくラッキー・ボーイ的な雰囲気があって、
沖縄水産から見ても、さぞいやだろうと思えた。

力と力、執念と執念に加えて、運のあるなしもからまって来て、充実した一イニングとなったが、
鹿児島実の頑張りも、ここで終った。


( 沖縄水産7-6鹿児島実 )

332名無しさん:2018/11/24(土) 13:22:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1991年8月21日  決勝  「 その瞬間を 」


躰を揺すりながら 指笛を鳴らしつづけたおとうさん 

気合で勝利を引き寄せようとした 空手衣のおにいさん


祭の実現を信じて疑わず 祭バンテンで踊っていた子供たち 

鉢巻をしめ 膝を強く抱いて見守っていた 野球部員たち


そして 全国からスタンドに集まり その瞬間を 息をつめて見つめつづけた 

沖縄県出身の人たち 抱き合い 喜び合い 胸の中の思いを噴出させる 

その瞬間は また一年延びてしまいました


悲願という言葉を もう横に置いても 充分に頂点に立ち得る実力を 

選手たちは備えて来たのです いつかが やがてになり 

この次こそはと確信出来る 強豪県になったのです


待ちましょう ほんの少しです 連続準優勝を称えて 選手たちを迎えて下さい 

指笛のおとうさん 空手衣のおにいさん 祭バンテンの子供たち 

鉢巻の部員たち そして あなた あなた



連載十三年目、今年も四十八試合、大仰に云うなら全球を、目をこらして見た。
目ばたきの間に、とんでもない感動を見逃してしまうのではないかと、半ば怯えながらである。

そして、ふと、ぼく自身の、高校野球を見る目が大きく変っていることに気がついたのである。
甲子園の中に、キラキラとした才能を見つけようとしていた目が、今年は、はっきりと、
今の社会の中で見失われ、軽んじられている当り前の価値観を、
懸命に探し出そうとしていたことにである。

努力が報われるとか、正直者は馬鹿を見ないとか、そういったものを、
プレイや勝敗の動きの中で追いかけていた。 たぶん、スター不在と云われた今年の大会が、
これだけ盛り上ったのも、ぼくと同じ思いの人が増えたからではないかと思う。


( 大阪桐蔭13-8沖縄水産 )



1991年の出来事・・・湾岸戦争、 バブル景気終わる、 東京都庁が新宿に移転

              ソ連崩壊、 千代の富士引退、 ジュリアナ東京オープン、



2010年の興南の春夏連覇はご覧になれず。 
2010年の「甲子園の詩」も拝読したかったものです。

333名無しさん:2018/11/25(日) 10:07:02
☆ 沖縄水産・大野倫 右腕折れても…“ナイチ”に挑んだ反骨773球



前年に続く準優勝。 地方大会から右肘の激痛を抱えていた大野倫投手は、
4連投を含む全6試合、773球を完投し、大会後に骨折が判明した。

沖縄勢初優勝の悲願達成へ右腕を振り続け、
甲子園の決勝で投手人生を終えた悲劇の主人公が「夏」を回顧した。


死力を尽くした。決勝の幕切れを告げるサイレンの中、大野は「やっと終わった」とまず思った。
体は、肘はボロボロだった。 「気力も体力も乾ききっていた。悔しさは、後で来ました」。

その1年前。2年生の夏に県勢初の決勝に進み、右翼手として準優勝に貢献した。
守備中にアルプスに目をやれば「指笛のおとうさん」「鉢巻の部員たち」の大声援。
大会後は那覇空港で約5000人の県民が出迎えた。


沖縄は今も昔も甲子園に熱狂する。地元校の登場日は県道の渋滞が収まる。
みんな仕事そっちのけでテレビにかじりつくからだ。 
大野も「テレビの前で空き缶を太鼓代わりにして、祖父らと一緒に沖縄の学校を応援した」と幼少期を思い出す。

沖縄返還翌年の73年生まれ。 大人が応援に込める“本土に負けるな”という思いを感じて育った。
意識付けを決定的にしたのは、栽弘義監督(07年死去)との出会いだ。
豊見城を4度全国8強に導いた指揮官は、沖縄水産に転じて上原晃(元中日)らを育てていた。


「栽先生は戦争で家族を亡くされた。 野球の指導者になっても、“どうせナイチには勝てない”と
周囲から言われ続けた。沖縄でも全国でやれる。 そう示したかったんだと思います」
気鋭の「沖水」に憧れて入学。 厳しさは覚悟していた。


「いつも緊張感を与えてきた。 “ボーッとしてたら手りゅう弾が飛んでくるぞ”と。夏への練習は殺気立っていた」。
2年秋からエース。 腕組みしたまま動かない監督の前での最長4時間の投げ込みなどで鍛えられた。
球速は145キロまで伸びた。

だが、3年生の5月。 投球練習中に「変な音がして右肘が吹っ飛んだ」。 勝てる投手は自分だけ。
仲間に「痛い」とは言えず、隠した。 沖縄大会は準決勝前に痛み止めの注射を打って乗り切った。
甲子園に行くと、栽監督が宿舎に呼ぶ医師や整体師の施術を受けた。


「結局は骨が折れていたわけですから。 何をやっても効かなかった」。
懸命に投げた。勝つ。頭にあるのはそれだけ。

「甲子園のマウンドで一瞬一瞬が必死で、将来のことなんて考えられる余裕がなかった」。
773球を1人で投げきった大会後、検査で剥離骨折が分かった。 軟骨も欠けていた。


「投手は、もうやめておきなさい」とのドクターストップ。 小学1年から右腕で勝負してきた男は、
栽監督に「お疲れさん。 よく頑張ったな」と初めてねぎらわれた決勝を最後に、投手生活に別れを告げた。

九州共立大では強打の外野手。
巨人入りし、99年春に沖縄尚学の日本一を神宮室内練習場のモニターで見た。
「信じられなかった。沖縄もここまで来たかと」。 
10年夏の興南の春夏連覇は沖縄で高校時代の球友と見守った。

58年にパスポート持参で首里が挑んだ初の甲子園に始まり、興南、豊見城、沖縄水産…。
挑戦を繰り返し、「強豪県」になった。 今では、むしろ有力選手の県外流出が激しい。



大野倫・・・1995年、巨人5位指名、通算1本塁打、5安打。 現在は九州共立大学の沖縄事務所長。

334名無しさん:2018/11/25(日) 11:21:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月10日  一回戦  「 予感 」 


嵐が過ぎた 聖火が消えた さあ 夏の陽よ 陽炎よ ここから 今から 日本の少年たちが主役だ

少年の証明は熱風の中で 感動と奇跡の織りなす 極彩色の絵模様が 

そう 光が降りそそぐ芝生の上に どうだとばかりにひろげられた 

どうだ どうだ これが主役たちのただ一つの台詞で 心萎えた大人たちを圧倒したのだ


八月十日 オリンピックのために二日間 譲り渡した夏の日を惜しむように 

少年の心も魂の祭典は 開幕試合から火を噴いた

熱い 熱い とても序曲とは思えない興奮の試合で 長い激闘に完全燃焼した


勝った沖縄尚学よ 敗れた桐蔭学園よ 迷走する女神の奪い合いは 

ほんのわずかな力と運の差で  去る者と残る者に分かれてしまったが 試合の記憶は勝敗を超えて

少年に対する大いなる期待として 大人たちの胸に残った


予感がする とてつもなく素晴しい予感がする 試合の中で脱皮する少年を見 

四時間の中で自己発見する  何人かの少年たちを見 陽炎の彼方に未来を見た気がした



明け方四時までマラソンを見ていた。 閉会式を見ようとしてこれは果たせず、
うつらうつらと仮眠のような形で眠って目を覚ますと、
わずか五時間で、昂揚と興奮の舞台は甲子園に移っていたのである。

オリンピックでは、どう見ても少女たちの方が元気が良く、結果の如何によらず、
かつての男たちが躰の芯に備えていた美意識を持っていた。
お道化ることなく、真直ぐで、硬質の美が彼女たちには見られた。 
それは嬉しくもあり、半面、少年たちに淋しさを感じたのも事実である。

だから、甲子園を、少年復活の場としてひそかに期待していた。 
その折が、開会式直後の第一戦から証明され、途中で自分を見切らない少年たちに出会えて、
いささか興奮したわけである。 四時間は長く、しかし、一瞬でもあった。


( 桐蔭学園4-5沖縄尚学、延長12回サヨナラ勝ち )

335名無しさん:2018/11/25(日) 12:23:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月11日  一回戦  「 満足 」


投手は満足そうな顔をしていた それは ほとんど 見る者の身勝手な感想だろうが

たしかに 投手の表情の やわらいだ目のあたり 結んだ唇のあたりに

一瞬の満足が浮かんで消えたと思えた


郡山高 池上投手 延長11回 サヨナラ負け だが しかし 敗者の満足とは何だろう

勝てば明日があり 負ければ今日で終るトーナメントでは 

美しい敗者が 醜い勝者に優ることはめったにない


やはり 勝ち残ってこその満足で 敗れれば一瞬の感傷に終る 

それでも 11回を投げぬいた投手には 満足が感じられたのだから よほど

美意識にそった勝負をしたか 体内の酸素が燃えつきるほどの 肉体の限界を見極めたか 


何やら 薄ぐもり 懸命な少年の動きを追う影がなく モワッとかすんだような甲子園で 

敗戦投手の一瞬の表情だけが 心に残った あれは満足だったのだろうか 極度のくやしさが 

あんな表情にさせてしまったのだろうか おそらく 誰にも 本人にもわかるまい



少年がどんな顔をしようが、それは、二時間を超える試合の中でのほんの数秒で、
本人にしてみても無意識である。 その無意識の数秒を取り出し、焼き付け、拡大して、
あれこれ深読みするのは滑稽なことであるが、ぼくはそれを楽しみに見ているのである。

高校野球四十八試合の間には、勝敗と無縁に反応する無意識の表情、
それも、劇的な深読みを誘うものがいくつもあって、心惹かれるのである。

たとえば、この試合、勝敗の分岐点や、機微や、あやを追って行けば、
一回表の郡山の攻撃の結果が全てだと云えなくもないし、
また、十一回裏二死からの上杉の一打がポテンではなく、目のさめる快打であったなら、
勝敗の決はまだ先であったかもわからないと考える。 
しかし、今日、ぼくは、スコアブックに書きようのない戦評外の表情を書いた。


( 郡山1-2延岡工、延長11回サヨナラ勝ち )

336名無しさん:2018/12/01(土) 10:01:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月12日  一回戦  「 追伸のように・帝京へ 」


持ち物のどこかからこぼれ落ちた そんな砂を大切にしなさい 彼らこそ 本当の現場を知る砂たちだから

相手を賞める時は 笑いながら賞めないこと せっかく示した賞める勇気が 無駄になってしまいます


試合のことは忘れていいでしょう でも 何回までは勝てると思い 何回から もしやと危うんだか

それだけは確認して下さい 将来の役に立ちます 


勝った時に得た友情は 80%が形式だが 負けた時に得た友情は 80%が真実です 

ご苦労さんという言葉には 素直にありがとうと返して下さい


しばらく過ぎたら 何が満足で 何が不満足か 思い出してみて下さい 

また しばらく過ぎたら アルバムを見て下さい  もっと過ぎたら ビデオを見て下さい 

最低十人には 甲子園についての ハガキを書いて下さい  帝京高三年生殿



春の優勝校ということもあって、帝京の前評判は圧倒的であった。
中には、死角なしと断言するものさえあった。
事実予選で戦いぶりなどを見ると、そういう予想が立つのも無理はないと思われた。

しかし、オリンピックで、鳥人と称えられている棒高跳びのセルゲイ・ブブカは、
進行の不手際で集中力を欠き、ついに一度もバーを越えることが出来ずに、記録無しという結果に終った。

また、金メダルを期待された谷口浩美(男子マラソン)は、転倒し、シューズが脱げて、
大きく優勝争いから後退した。

要するに絶対ということはないわけで、死角なしのV候補でも、それを上まわる相手に出会うと敗れるのである。
ブブカや谷口は、多少なりとも自分の側にもミスがあったが、ミスがなくても、
相手が何かで上まわればこういう結果になる。
それで、甲子園が本文なら、それの追伸を書きたくなったのである。


( 尽誠学園1-0帝京 )

337名無しさん:2018/12/01(土) 11:05:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月13日  一回戦  「 背番号 1 」


エースナンバーの1を背にして マウンド遠く外野の果てにいるのは 気持としてどうなのだろうか

1が光り輝く舞台は 明らかにダイヤモンドの真中で 矜持に満ちた恍惚が用意され 

生命に似た緊張もまた集中する


それを考えると 外野手の背番号1は 軽過ぎるのか 重過ぎるのか 

果して彼の晴舞台は 外野であるべきなのか マウンドであるべきなのか 

時に 高校野球は そんなことまで考えさせる


背番号1がマウンドに駆け上る  胸の泥は 打者としての勲章であっても 背番号1に似合わない

晴舞台に立って 自己を顕示し 相手を威圧するには 敢闘の証しの泥の汚れは邪魔になる


県岐阜商 背番号1 高井公洋 八回表 絶対絶命の無死満塁 遅過ぎた登場であったが 

真価という勲章を求めて 危機を切りぬけた 意地というものだろうか プライドというものだろうか

それとも もっと素直な 無心というやつだろうか いずれにせよ 見事な1の証明



激しい雨が直前まで降っていたということで、試合開始は一時間八分遅れた。 雨こそ初めてだが、
ギラギラに照っていたのは第一日だけで、その後は、グランドに選手たちの影を見たことがない。
やはり、二日遅れた開会が、何やらいつもと違う季節感で高校野球を迎えているのだろうか。

さて、雨という条件が加わると、予期せぬ劇的な展開にもなるのだが、それは同時に、
悲劇性を帯びたものになる可能性もある。 もうすっかり心やさしいヒトになっているぼくは、
心痛めたくないものだと案じていた。

しかし、雨もやみ、劇的要素を加えることなく好試合になり、その第一試合で、
感じ入る場面と人にぶつかって、よかったと思っているのである。 背番号は便宜的な表示なのだろうが、
何かの事情で場違いを感じさせると、便宜を超えた人生ドラマのようにさえ思える。


( 鹿児島商工2-3県岐阜商、逆転サヨナラ勝ち )

338名無しさん:2018/12/01(土) 12:08:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月14日  一回戦  「 苦い薬 」


去年の ちょうど同じ八月十四日は 大会最高の五万一千人の客の前で 

3回1/3で7点を奪われ 呆然とマウンドを降りた投手が 今年 颯爽と投げている


去年の八月十四日 なぜか 初めて蝉の声が甲子園に響いたが そんなことは知る筈もないだろう

だが もし 今年であったなら 青空の彼方から降りそそぐような 激しい蝉の声を聴く余裕を
 
持っていたに違いない 樹徳高 戸部浩投手 三年生


何やら出来過ぎた物語のように きちんと 三百六十五日で復活し 

苦い苦い薬の効果を見せている 残酷に思える仕打は 大体は薄情な毒になる 

才能に疑問を持たせ 運命を呪わしく感じさせ 二度と這い上ることの出来ない衝撃を 

若い体と心に与えてしまう 毒にもなり 薬にもなる


惨敗の経験から立ち直り 克服し成長した姿を見るのは 何とも頼もしい限りで 

単なる抽せんの結果と云いながら ちょうど三百六十五日 このきりの良さに 

苦い薬を与えた神の 好意に満ちた甘い微笑みを 感じてしまうのだ



去年のノートを見ると、大会七日目の八月十四日、樹徳は大阪桐蔭と対戦し、
11対3の大差で敗れている。
そして、その試合の先発が、二人いる三年生の投手ではなく二年生の戸部浩で、
ぼくも、意外にもと書いている。

結果は、相手の大阪桐蔭が最終的には優勝した実力校ということもあって、
二年生投手には、本当に苦い薬となったのである。
しかし、一年過ぎ、今年の戸部投手の成長ぶりを見ると、あの先発が過ちでも、
奇策でもなかったことがわかるのである。

作戦に対する賛否が、一年、二年過ぎてから立証出来るところが、
また高校野球の面白さであり、恐さでもあろう。

桐蔭学園、帝京のまさかの敗退、創価も秀明もはやばやと姿を消して、
関東勢の旗色は大いに悪かったが、樹徳が一勝してまずはよかった。 
決して地域的ナショナリストではないが、
勝った学校が列島に散らばっていた方が最後の興味も大きいというものだ。


( 樹徳8-1近江 )

339名無しさん:2018/12/01(土) 13:06:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月15日  二回戦  「 妥協のない父親 」


やはり甲子園は父親なのだ それも 既に死語になり 幻想になっている 頑固で 酷薄で 妥協のない 

憎悪の対象ですらあった父親  腕の太さで圧し 無言の説得力で蹂躙し 背中の大きさで拒絶し

だが しかし どこかに絶対の愛情を秘めていた存在 


たとえば 声を荒らげての叱責のあと 時に 頬を打ち また 足を蹴って理不尽の限りを示し 

殺意に近い抵抗を感じさせながら 尊敬する人は 父 と書いたような そんな父親が甲子園なのだ


今やもう 世の中に そのような姿の父親はいない たとえ求めても現われない 荒らぐだけならいても

澄んだ魂で子を拒みはしない 少年たちは ぶつかる物もなく大きくなる それが幸福か 不幸か


そんな中で 野球を志す少年たちにだけは 無言で 大きい  絶対の父親が存在し 愛されたり

鍛えられたりしている  弘前実 一年生 二年生諸君 今年の甲子園は まだ無愛想だった 

でも もしかしたら 来年は ものわかりのいい父親で 迎えてくれるかもしれない



正午にサイレンが鳴った。 第二試合の六回表の途中で、スタンドもグラウンドも頭を垂れ、目を閉じ、
数十秒石になり、影になった。 一景として見るなら、四十七年前の玉音放送を聴く人々の姿に似ていた。
ただし、あの時は、誰もが飢え、やせ細り、疲れていた。

今は、五万人のほとんどが豊かで、平和を満喫していた。 願わくば、数十秒の黙考の行きつく先が、
飢えていた日にまで届けばいいが、などと思ったりした。
さらに、高校球児たちには、「野球と平和」の講座を必須とすべきではないかと考えを飛躍させた。

さて、その次の試合、去年にひきつづきの顔合せで、池田と弘前実、去年は13対4で池田が勝ち、
今年もまた貫禄勝ちのように8対1となった。 ただ、一年生、二年生の多い弘前実に、
甲子園で学べ、遊べ、という精神を感じて、贈る言葉を書いてみた。


( 池田8-1弘前実 )

340名無しさん:2018/12/02(日) 10:21:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月16日  二回戦  「 無念の夏か 」


あなたは たぶん 怨みごとを云ったり 作戦を誹謗したりはしないだろう

無念さは おそらく 青春期の総決算のような形で 猛々しく噴出を待っているだろうが

あなたは それを制御し 次なる人生への勲章にし エネルギーにしてしまうに違いない


感情を小出しに爆発させ その時その時の微調整をくり返し 如何にも活力あり気に振舞う人とは

あなたはスケールが違う ドンと受けとめて いつか やがて まるでこの日の不運が

最大の幸運であったかのように 変えてしまうことだろう


バッターボックスの中で 微動だにしなかった態度を称える 

ブーイングに便乗しなかった克己心を何よりも立派だと賞める 照れたり くさったり 呆れたり

同情を求めるしぐさを 欠片も見せなかったことを賛美する


一振りも出来ないまま 一塁ベースに立ち 瞑想していた男の顔を 惚れ惚れと見る

あなたの夏は いま 無念の夏かもしれないが 流れの中で自分を見失わない 

堂々の人間を証明してみせた 圧倒的に 輝やく夏だったのだ



松井の蔭に隠れてしまっているが、星稜にはもう一人、山口哲治という素晴しい選手がいる。 
投手としても、打者としても、その野球センスは並々でないものを感じる。 特に、精神的な強さ、
ここ一番の集中力を作り出す能力は、野球選手としての最大の能力であると思うのである。

一点をリードされた最終回、既に二者が凡退して、打順は山口である。 
次打者は怪物と称ばれる松井で、この試合、それまでに四回も敬遠されている。 
その松井がウエイティング・サークルに入る。

勝敗の行方も、人々の期待も、松井に打席をまわすことにかかっていて、
つなぐことだけの使命を負った立場で打つことは、並大抵の精神力では出来ない。
素晴しいというのは、山口が、この状況で左中間を破る大三塁打を放ったことで、
結果は、松井がまた敬遠され敗れたが、印象に残る時間、場面、選手であった。


( 明徳義塾3-2星稜 )



松井秀喜・・・巨人 通算10年、332本塁打、1390安打。 
       ヤンキース、エンゼルス、アスレチックス 通算10年、175本塁打、1253安打。

山口哲治・・・神戸製鋼で8年プレー、プロ入りの夢は叶わず。

341名無しさん:2018/12/02(日) 11:26:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月17日  二回戦  「 生れたての 」


生れたてのチームだから 晴舞台に立てば大人になる 一つでも勝てば それはもう歴史の始まりで

輝やかしい未来へ向っての 記念碑を建てたことになる さらに 既に立派な歴史を持つ学校と

試合をしただけで成熟を得られ 千の言葉や 一万のノックにも勝る財産を 作ることになるのだ


生れたての 若い若いチームは 雨で色を変え 風で形を変えて行く花のように 全てのことが活力の源となる

あの開会式の入場行進の時と 二つ戦った後で今では 同じに見えてまるで違う


歴史の第一走者となった誇りが 胸に満ち 体にあふれ 瞳にきらめいて そう もう生れたてではないのだ

第一走者たる権利を得た者は 堂々と 第二走者にバトンを渡せる そして それは未来につづくだろう


この小さな行為の積み重ねが 伝統という言葉になるのだ このようなことを確認しただけでも

甲子園は凄かったじゃないか 値打があったじゃないか

創部四年の 生れたての 静岡代表・桐陽 さわやかに戦い さわやかに去る



九回表の桐陽の攻撃は、レギュラー外の陰の選手を三人並べた。
おそらく、同じように練習し、苦労して来た控え選手たちに、甲子園の空気を吸わせ、
確かにバッターボックスに立ったという実績を作らせてやろうとする、指導者の親心であろうと思えた。
よくある、ちょっと感傷的な美談で、これもまた甲子園か、と感じただけであった。

しかし、九回に登場したこれらの控え選手たちが、親心などということでは済まない大活躍をしたものだから、
桐陽は、素晴しい財産を得ることになったのだ。負けは負けであった。

二点差が一点差になっただけであるが、尻すぼみの感傷的美談だけで終ることを考えると、
大きな違いで、ぼくは、九回の一打同点、もしくは、逆転という好機を経験したことこそが、
甲子園の実績ではないかと思うのである。 九回は、1/9のイニングではなかった。


( 広島工3-2桐陽 )

342名無しさん:2018/12/02(日) 12:31:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月18日  二回戦  「 連続完封 」


きれいに整備され 乾いたように見える土の数センチ下は 台風11号の雨を含んだ 泥濘でした

見上げると恐いような雲の重なりで ほんの二、三ヵ所 青空と膜に包まれた光の層が見えました


風は八メートルから九メートル 左から右へと旗をちぎって吹きました 数時間 雨がやんだ時があって

その細い隙間に収まるような 一時間三十九分の試合でした


条件は気の毒なほどに最悪で 数多くのエラーが出ました 雨と風と泥が 実力を奪い 夢をこわしました

にもかかわらず この日のヒーローは 全く揺らぐことなく キッと立って 目を見はらせました

彼が足を踏み出す場所も 七十キロの体重を支える位置も 軟弱さに変りはないのに 万全の地盤かと思わせました


途中から降り始めた雨も また 打球の運命を左右する風も 彼の集中力とは無関係で 

ただの一度も動揺することなく 美しく 力強く 実に気持よさそうに快投しました 

尽誠学園・渡辺投手 連続完封 あまりに たやすく見え 人々は 拍手も 讃辞も 忘れてしまったほどでした



第一試合だけが行われ、残り二試合は中止となった。台風11号接近の影響を受け、強い雨が降った。
アルプス・スタンドに延岡工と日大山形の応援団を残しただけで、甲子園球場は空っぽになり、
不思議な光景として目にうつった。

肩透かしを食い、予定が狂ったのは選手だけではなく、ぼくらもそうで、突然ポカッと午後の時間が空いてしまうと、
他の仕事をする気にもならず、やっぱり高校野球のことを考えた。 
どうやら、松井敬遠問題だけでなく、いろいろと考える時期に来ているようである。

オリンピックにアメリカが、勝つために、人間技を超えたプロ・バスケットの達人たちを出場させたが、
凄いと思うと同時に、これは違うという思いも強かった。 同様に高校野球の存在意義も、
勝つためだけではない、現代に通用する新しいストイシズムの発見にあるように思うのである。


( 尽誠学園7-0能代 )

343名無しさん:2018/12/02(日) 13:37:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月20日  二回戦  「 未完成 」


スマートとか 洗練とか 耳ざわりのいい言葉の陰で 力強さとか 荒々しさとか

粗けずりとか 未完成とか そんな要素が失われ 本来の野性の魅力に出会うことは 

ほんの稀なことになってしまったが きみは 違う


投げ込むとか 押し込むとか ねじ伏せるとか なぎ倒すとか 全く久々に 

素朴な力の快感を味わったのだ  熊本工・坂田正樹投手


計算も必要だし 要領も掛け引きも重要だし 相手を混乱させる技も 心理的読みも不可欠だが

まず 力感あふれた 肉体の躍動こそが全ての始まりで きみを見ていると 

胸にズシンと響く原始のこだまを感じた


目うつりのいい姿や 耳ざわりのいい言葉を弾き飛ばし あるいは 捕手のミットの中で 

粉々に砕くだけのインパクトを きみの速球は持っていた 


力感は最大級の自己表現 粗けずりは運動の本質の誇示 

未完成は 描ききれない壮大な完成図という意味 どれもこれも 羨しいほどの讃辞なのだ 

きみは 野性を いつまで持ちつづけてくれますか



これだけ賞め称える坂田投手が、結局は敗戦投手となった。
県岐阜商の下手投げの技巧派投手・高橋雅己との投手戦は、無得点ながら、
野球のスリルや興奮もたっぷりと含んで、実に高校野球らしい好試合となった。

そして、延長戦も必至かと思っていた。 0行進が果てしなくつづくような予感さえした。 
ところが、勝敗はあっさりと、サヨナラ・スクイズで決してしまったのだ。 
スクイズに至るまでの、坂田と打者石田の一球一球で変わる立場も面白かったが、
これは多少作戦も関わって来るので触れないことにする。

とにかく、フル・カウントからの石田のバントは、三塁線に磁気誘導でもされたように
正確に転がって行き、決勝点となった。 スクイズという、地味だが実に効果のある必殺技が、
トーナメントから大器を消し去った一瞬であった。


( 熊本工0-1県岐阜商、サヨナラ勝ち )


坂田投手・・・亜大、NTT九州。

344名無しさん:2018/12/08(土) 10:05:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月21日  三回戦  「 野球大国 」


ミラクルという言葉の響きに 神がかり的な幸運とか 思いがけない順風とか とかく 実力と無縁の 

突然変異を感じるが 県岐阜商に冠せられたそれは まことに地味な 実力そのものを称えるもので

不思議のニュアンスは含んでいなかった


それでも 勝ち進んで来た結果を見ると ミラクルはミラクルで 劣勢からの逆転サヨナラ

緊迫の投手戦に幕を降した サヨナラ・スクイズ そう サヨナラが二つも続けば ミラクルを拒むことは出来ない


県岐阜商のミラクルは やれば出来る人たちが やって出来ただけのことで 裏付のない劇的展開ではないのだ

もしかしたら 日々の練習の中で 培って来た自信に比べたら 奇跡でさえ不足かもしれない


まさしく やれば出来る人たちが やって出来ただけのことなのだ ミラクルを 平凡な言葉に思わせたことに

敬意をはらいたい 天からの贈り物は 努力する人への必然なのだ 野球王国は 間違いなく復活するだろう



サヨナラで二戦勝ち抜いた県岐阜商が、サヨナラで東邦に敗れると、何やら因縁めく、成り行きや、
結果からだけ見ると、そんな風にも思えるが、この試合に限っていうと、お互いを知り尽した同志だし、
奇跡とか、幸運とか、そんな甘い言葉、夢見る情緒の入り込む余地はなかったと思えるのだ。

もしかしたら、県岐阜商のファンの中には、後攻であったなら、サヨナラのお膳立がこちら側に出来ていたらと、
考える人もいるかもしれないが、この試合は、運命論と無縁のシビアなものだったと思っている。
お互い大胆な強攻策を取っていたが、あれは、強攻の形をとった金縛りかもしれない。
いやいや、悪口ではない、実力を知る者同士の戦いとは、そういうものなのだ。

さて、県岐阜商の印象的な活躍は、かつて野球王国といわれた岐阜県に、希望の灯をともしたように思える。
ぼくが少年の頃、岐阜の野球は本当に強かったのだ。


( 県岐阜商0-1東邦、サヨナラ勝ち )

345名無しさん:2018/12/08(土) 11:16:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月22日  三回戦  「 この一球 」


”この一球が” がテーマだそうだ この一球が作り出す次の瞬間の 明と暗 幸と不幸 

希望と絶望 勝者と敗者 ほんの何秒かが引き裂く運命を そして 素晴しさと恐ろしさを

”この一球” という言葉で教えているのだろう


百五十球もの投球の中の どれが いつ この一球になるのかわからないが それを知り

それに対し それに賭ける心は たぶん 野球を超えることだろう 

神港学園の選手諸君は 今年の夏 甲子園で それぞれの ”この一球”を 発見したことだろう


明につながるものもあれば 暗につながるものもあった 暗で終ってしまった池田戦も やがて

真実の言葉で語るに違いない 神経を注いだ一球が 願いと真反対の結果になっても

この一球をおろそかにしたことには 決してならないのだ


もどりの盛夏にギラつく甲子園 ややその陽も傾いた頃 天晴れ 初出場神港学園の

敢闘の夏は終った この一球のドラマを残して・・・



久しく遠ざかっていたような明るさと暑さの復活、それに土曜日が重なったせいか、
スタンドが人で埋ってホッとした。 この二、三日、何やら空席が目立つ感じがして、
既に季節は秋かと、心さびしくなっていたのである。

そんな中で、まず、広島工と対戦する明徳義塾に対して、まさかと思うが、
心ない人の悪質な振舞いがあったらどうしようと、いささか気遣っていたが、幸いなことに、
それはなかった。きっとなかったと信じる。 
世の中、何が恐いといって、心ない人が正義を信じた時ほど恐いものはない。

さて、第三試合、初出場校で唯一勝ち残っていた神港学園は、土壇場で逆転され、姿を消すことになってしまった。
決勝打のセンター前ヒットにダイビングした西浦と、後方に無情に転がった白球、
そして、マウンドの上で呆然とセンター方向を見やっていた井上投手の顔が、ENDマークに重なった。


( 神港学園3-4池田、逆転サヨナラ勝ち )

346名無しさん:2018/12/08(土) 12:23:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月23日  準々決勝  「  実力伯仲 」


五万五千人が泣いた 延長戦に入ってからはみんなが泣いた 号泣でもないし 

すすり泣きでもないが心臓の隣りが痛くなり それが涙腺につながったかのように

いつでも噴き出せる涙を用意した 


熱戦であった 実力伯仲とはこういうことか 少年たちの必死の攻防に 涙という 

実に素直な表現で応えた この日 陽は照り 気温高く 雲が湧いて 完全な夏であった 


熱戦故に季節が戻ったか 戻りの夏が熱戦を誘ったか 東邦と天理の一戦は 

久々の暑さに似合う熱い戦いだった 伝統校ではあるが ビッグ・ネームはなかった 

よく鍛えられた高校生が 実力の二倍を示そうと 体を膨張させる姿が見られた


必死という言葉が 心地よく響くような好試合で 余裕のなさも 重大なミスも それはそれ 

必死と懸命さで許された そして 勝つことはぶち当ることで 決してたくらむことではないと納得し 

五万五千人は 目で 肩で ひそかに 胸で それぞれの泣き方をした



これは、たぶん、ぼくの感情過多による見間違いだと思うのだが、最後の瞬間、
天理・井上を三振にうち取る前の東邦・山田貴志の目は泣いているように見えた。 
泣きながら投ずる最後の一球などは、あまりに劇画的だから、
これは、ぼくの、都合のいい感じ過ぎだろう。

それはともかく、真夏日の日曜日、超満員のスタンドの白い波を、一球一球で揺らしたのは、
東邦・天理の十一回裏の攻防で、この場面で、五万五千人が泣いたと感じようが、
投手の涙が光ったと見ようが、全く不思議のない緊迫の幕切れであった。

何やら、長い長い期間に感じられた大会も、ベスト8が勢ぞろいする準々決勝を迎えると、
もう帰りの日が決った旅行のようなもので、さびしさと、落着きのなさを感じ始める。 
そして、V候補が全て消えた大会といいながら、残った顔ぶれを見ると、
これがもっともだと感じるから不思議である。


( 東邦5-4天理  延長11回 )

347名無しさん:2018/12/08(土) 13:32:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月24日  準決勝  「 最終回の全員野球 」


エースが降りて もしかしたら その時に もう勝利に対する拘泥は捨て 甲子園とは何かに

テーマは切り換っていたのかもしれない  エースの快投を中心に 九人野球を貫いて来た信念が

その時点で別の目を持ち 別の歓びを探そうとしたのだ


勝つための師の顔が 贈り出す親の顔に変わった時に 甲子園は やさしく 理解深く 

初めての出番の少年たちに味方した

尽誠学園・九人野球  最後の試合の最後の場面で 全員野球に変わった


強敵にリードを許した最終回 代打がコールされても 人々は 切札のスラッガーだとは思わない

代走が指名されても 足のスペシャリストとは考えない 

ただ やさしげな瞳で チャンスを得た少年を見守るだけだ


しかし この日 この試合 代打は打ち 代走は走り 勝利さえ呼び込みかねない勢いを 示してみせたのだ

最後の総力戦 最終回の全員野球 息苦しさを秘めた準決勝戦で 何やら パッと開けた風景のようであった 



八回終了時点では、拓大紅陵の強さの魅力を、前日の池田戦の逆転ホームランの印象も含めて書くつもりであった。
今年の拓大紅陵は、たとえば、やまびこ打線と云われた時代の池田、桑田、清原のPL学園、
吉岡で勝った時の帝京らに匹敵する大型チームで、久しく甲子園には現われなかった力の魅力である。

それに、自信のなせるわざか、劣勢から一気に幸運を呼び込む運気も備えていて、
奇跡などという言葉も使える学校である。

このダイナミックな魅力を押しのけてぼくに詩を書かせたのは、実にこれとは対極的な、
五試合目にして初めて甲子園で出番を得た尽誠学園の背番号⑩から後の選手たちの活躍で、
無名の晴舞台には心をうたれた。

結局勝つには至らなかったが、もし、尽誠学園が勝ちの状態にあり、九人野球を貫いていたら、
この場面はなかったわけで、そう思うと、奇妙な幸運を感じたりするのである。


( 拓大紅陵5-4尽誠学園 )

348名無しさん:2018/12/09(日) 10:16:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1992年8月25日  決勝  「 最後の一球 」


力に頼らず 技に溺れず 状況をよく見きわめ 自身の感情をコントロールし 

同時に 力の配分を心得 過酷な夏の猛暑にも 肉体的限界を知る四日連投にも
 
最少の消耗と 最大の効果のピッチングを見せ  まるで 熟練の名手のように 

あるいは 正確無比のマシーンのように そんな風に思われていた森尾投手の 顔が歪んだ


この一球で 栄光に手が届くといった一瞬 激情が大きな塊になったのか 

初めてことの重大さが襲って来たのか 実に素直な感情のほとばしりで 迷い 喘ぎ 身悶え 泣いた


その突然の変貌と 予想を超えた動揺に ぼくらは 初めて この戦う少年の健気さと

勝利への正直な執念を見 勝たせてやりたいと 感情移入したのだ


投げようとして投げられない最後の一球 それは夏を過ぎ 既に秋となった甲子園の 

本当の幕切れにふさわしい 小さくて大きいドラマで これがあってこそ 好意の喝采が集まったのだ



一年は四季で四分割されている。 単純な計算で一つの季節で三ヵ月である。
およそ九十日の季節の中で、四日のズレぐらい何程のことがあろうかと思うのだが、これは大違いで、
今年の大会は常に季節の不一致を感じながら見つづけていた。

夏でなければならないし、夏は暑くなければならないし、その表面の酷暑の奥の微妙な変化、
盛りから、傾きまでの気配が、四十九の代表が八校になり、四校になり、二校になり、
一校になる仕組と一致して風物になり、大人もまた心動かすのである。

それが今年はいささかズレた。ズレると上等の感傷になりにくいもので、いつもとは違う心持で書くことが
多かった。しかし、この決勝戦には不足はなかった。

一人の投手では優勝できないという最近の定説を占うような対戦で、結果は一人の投手の方が
投げ勝ったが、これでもって短絡に逆行すべきではないかもしれない。


( 西日本短大付1-0拓大紅陵 )



1992年の出来事・・・東海道新幹線のぞみ運転開始、 国家公務員の週休二日制始まる、

            PKO協力法成立、 バルセロナ五輪、 就職氷河期突入、

            長谷川町子死去 国民栄誉賞、 ヤクルト14年ぶりセ優勝

349名無しさん:2018/12/09(日) 11:16:03
☆ 小沢監督  甲子園初采配  ( 昭和32年  第29回選抜高校野球大会 )


左右の両エースを前面に打ち出したチーム。


1回戦  倉敷工 2−1 市沼津 (静岡)
2回に取った2点を守り切る。
2年生、左腕、渡辺が5つの三振を奪う。

2回戦  倉敷工 2−0 育英 (兵庫)
5回と8回に1点ずつ得点。
3年生、右腕、小野が2安打完封した。

準々決勝  倉敷工 4−0 高松商 (香川)
4回に1点、7回に3点を上げ、勝負を決める。
倉工14安打。 渡辺が7安打完封した。

準決勝  倉敷工 1−3 高知商 (高知)
2回が終わって、3点の失点がひびく。
小野から渡辺へ投手リレー、好機を生かせず。



決勝進出なら、早実の王貞治投手と対戦でしたね。

王貞治・・・巨人22年、 868本塁打、 2786安打、
      首位打者:5回(3年連続)、 本塁打王:15回(13年連続)、 打点王:13回(8年連続)
      最多出塁数:12回(12年連続)、 三冠王:2回、 MVP:9回

監督・・・巨人で5年。 ダイエー、ソフトバンクで14年。
国民栄誉賞受賞者第一号。 福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長。

350名無しさん:2018/12/09(日) 12:12:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月8日  一回戦  「  宣 誓 」


今年の夏は 少し違った目できみたちを見ている 愛してやまないきみたちの野球が 

なお 今も 光り輝やき 精気に満ち 興奮に震え みずみずしく美しいか 猛々しいまでに新鮮か

それを確かめたくて 息を詰めて見ている


時代という風の吹き方が変わり 社会という砂漠の紋様が描きなおされ 人々は 新しい魅惑に心ときめかせ

そちらへ走ろうとしている だから 今年の選手宣誓は 果すべき役割がいつもと異る

全力を尽くすことや 正々堂々では済まない何かがある


今年は 風を呼び 光を招き そして いくらか拗ねた夏までも 引き寄せなければならない 実に大役だ

佐野日大・金子知憲主将の 「さわやかな旋風を 巻き起すことを誓います」は まさに 

そんな祈りと願いを込めた言葉で 甲子園の空は 1/4だけ青空になり とぎれとぎれだが

予告篇のように光がさした よかった  あとは 少年たちが 美しく走るだけだ



選手宣誓は、かなり時代の証明になる。裁判所の宣誓のように、定型を読み上げるだけというのは、
とうの昔に終わり、選手たちが、自分たちの感性で作り上げていると思える。

指導という名の大人の知恵も加わるのだろうが、発想の原点の部分は、選手たちのものであろうと信じる。
言葉遣いの変化や、そこに組み込まれる言葉自体の変化も面白い。
いつだったか、英文混りということもあった (87年春、京都西・上羽主将)。

さて、今年は、政治の激変や、経済状況の後退や、スポーツに限っても、サッカーの異常なほどの台頭や、
そんな中で、少年の選ぶキイワードは何であろうかと興味を持っていたら、「風」であった。
佐野日大は、残念ながら初戦で敗退してしまったが、言葉で、立派に今年を証明し、幕を開けたと思っている。


( 京都西7-2佐野日大 )

351名無しさん:2018/12/09(日) 13:26:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月9日  一回戦  「  希 望 」


ふるさとに光を 希望と呼べそうな明るい話題を たとえ一瞬でも 苦悩の表情に微笑を

閉ざされた唇に小さな歌を そして 決して悪いことばかりではないと 信じてみる心を

そう おそらく 鹿児島商工の選手たちは 甲子園の一勝に このような願いを託したに違いない


ふるさとへ送り届けるニュースが 一勝を超えた価値があることを 感じていたに違いない

とにかく一勝を グッドニュースを 九回二死を数えた時 きみたちは何を思っただろう


強い強い願望に がんじがらめになっていたものが 突然解き放たれて自由になり

まるで 神の子のように無心に ただ一球との勝負とでも云うように 奇跡を起した


代打逆転サヨナラ打 劇的な決着によって 歓喜は倍の大きさになり 幸福も 希望も

さらに その倍になって ふるさとへ走ったことだろう 

もっと もっと 何度も 何度も 送り届けねばならない



甲子園を去って行く東濃実の選手たちの背中へ、誰かが、おそらく、スタンドの客からだと思うのだが、
「ありがとう」と、云ったそうだ。 普通の場合だと、「よくやった」 「残念だったな」 「来年また来いよ」
と云った種類の言葉で、おおむねが、なぐさめか、激励である。

敗者に対して、感謝の表現というのはめったにないことである。
そのくらい、感じるもののある試合であったと解釈したい。見る側からいえば、全く困ったと云いたい試合で、
初出場の東濃実の形にこだわらない気持の野球も応援したいし、強豪校を押し込んだ力も称えたい。

また、鹿児島商工に対しては、選手たちと同様に、明るい話題を作らせたいという気持になる。
実に、高校野球が何故成立しているかを証明しているような試合で、
それが、「ありがとう」であったかもしれない。


( 東濃実3-4鹿児島商工、逆転サヨナラ勝ち )


豪雨により鹿児島で死者71名

352名無しさん:2018/12/15(土) 10:11:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月11日  一回戦  「 初勝利 」


この甲子園という 器であって器でない 場所であって場所でない 世界であり

時代であり 心と技と若さが練り合された イメージがあり つまり こんな不思議な

巨大なところで勝つということは 何に喩えたらいいのだろう

勝利の値打ちだけで 一冊の本になり 歓びの表現だけで 万語を要する


延長12回勝利の瞬間から 校歌を聴き 校旗を見上げ 

そして 感泣の儀式の終わるのを待って 応援スタンドへ走った 


智弁和歌山の選手たち その足取りの軽さと 跳ね上げた腿の高さと

躍るように舞った姿に 値打ちも 歓びも それから 待ち望んだこの日の

大きさ 遠さ 厳しさも 同時に感じた


台風一過 夏の陽がさした 雨は蒸気となって雲に変わった 一日遅れ 一時間遅れだが

自己表現の舞台は整った さあ 一勝 智弁和歌山 夢ほとばしる初勝利

今日から後 甲子園は 違った顔に見えることだろう



大抵のことは、想像がつく。人の気持にしたところで、本人が気がつかない死角の部分に
目が行き、描写することが出来る。
 
詩や小説を書いているから、自分の経験以外のことも書けるし、
自分以外の人間になって考えたり、行動したりもする。 歌の詩では女心のことも語るし、
小説では殺人者になりきって心理を語ることもある。

しかし、一つだけ、これは予想もつかないし、読み取ることも困難だと思っていることがある。
それは、甲子園初勝利の歓びの実感である。
「嬉しいです」 「感動です」と言葉にした時は、たぶん、もう相当に冷めている時で、
その瞬間に必要な言葉がわからない。

智弁和歌山も、いつの間にか、甲子園では勝てないという呪縛を意識し始めた頃で、
だから、優勝候補東北を延長で破っての初勝利は、格別であっただろうと思う。
気持の再現は到底出来なかったが、彼らが伝えようとした気持は、感じられた。


( 東北1-2智弁和歌山、延長12回サヨナラ勝ち )

353名無しさん:2018/12/15(土) 11:11:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月12日  一回戦  「 壁の向うに 」


壁の向うに いや 今年は 壁のこちらに 何がありましたか 壁ごしに唇嚙みながら

幻想し夢想していた甲子園と どこがどう違いましたか それとも 同じでしたか


あなたたちは 圧倒的な戦力を誇るライバル そう 大きな大きな壁に立ち塞がれ

十八年もの間 来ることも 見ることも 出来なかったのです


壁は全く偉大でした その間二度も頂点に立ったのです この勇姿を目にするにつけ

ますます 甲子園の夢は 膨張し 重さも増した筈です いつか壁をこえて

壁の向うに その願いが今年叶いました


遊園地のような甲子園なら 渇望した値打ちがありません どこか過酷で 薄情で

思い通りにならない頑固さが 何より魅力なのです そして 誰よりも誠実に戦った人にだけ

一瞬の微笑みをくれるのです


まばたきの間の幸運のヒントと 執念が一致すると 勝利になります

郡山高 いい試合でした 甲子園と会話が出来 しかも 堂々の 勝利者となりました



たった一本のヒットが、これほどまでに、選手はおろか、観戦する人間の心までも解放するとは知らなかった。
享栄谷川投手の前に、七回一死まで無安打に封じられていたのだが、大内の一打がセンター前に転がると、
それだけで、全ての人間から緊張が解け、急に沸き立つような空気になったのだから面白い。

郡山の大応援団のブラスバンドの音さえ、その時はじめて熱狂の演奏に気がついたほどである。
緊張は、それが解けた時になって、気がつくものなのである。

さて、天理、智弁学園の前に、出場の機会を阻まれていた郡山、久々の甲子園での対戦相手は
強豪校の享栄であったが、好試合を見せた。
恋い焦がれていた甲子園に、いささか硬直した感じもしていたのだが、一本のヒットを境にして、
アッと云う間の勝者となったのは、やはり執念だろう。夢か。


( 郡山2-1享栄 )

354名無しさん:2018/12/15(土) 12:20:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月13日  二回戦  「 元気をありがとう 」


心うたれたのは 球場を包み込むほどに満ち満ちた 元気であった

その多くを発して戦った 掛川西の元気を称えたい 元気こそ最大の発見で
 
何よりも尊く 心地よく 人間を幸福にするものだと きみたちは教えてくれた


元気は単純なハツラツさとは違う もっと もっと重要な 根本的なエネルギーで

大地でいうならマグマ 人でいうなら血と熱 それを感じさせたのだから 

諸君 凄いことじゃないか


辞書にある「元気」とは 心やからだの活動力 心やからだがすこやかなこと

また 誰かの言葉も思い出す 元気を出せば何でも出来る!


掛川西の印象は まさにその通りのもので きみたちの肉体や きみたちの眼差しや

きみたちの躊躇ない行動や きみたちのおそれのない判断や それらの全てがメッセージとなって

見る人の 聞く人の 心に響いたのだ

そして 高校野球の明確な定義は 元気の実証であると 敗者の掛川西がきょう定めた



元気などという言葉を使うと、如何にも子供っぽく、単純な思考のようで、少々気恥ずかしい。
しかし、この掛川西と高知商のような試合を見ると、他のどのような言葉を持って来ても
適当でない気がするのだ。 そして、いろんな高校野球論が展開されているが、
この一戦などをサンプルにして、元気論をやるべきではないかと思う。

さて、どのようにほめ称えても、掛川西は一歩及ばず、二十九年ぶりの勝利の校歌を歌うことは
出来なかったわけで、残念ということになるのだろう。

だが、高知商という、元気を増幅させてくれる相手と巡り会った幸運を考えると、
無念と思う必要は一つもない。 人口七万の都市から、八千人が駈けつけた熱狂の大応援団も、
きっと、ぼくと同じ感想を抱いたに違いない。


( 高知商4-2掛川西 )

355名無しさん:2018/12/16(日) 10:06:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月14日  二回戦  「 光るもの 」


好試合とは 集中心の継続くらべ 心の緊張を持ちつづければ いつかチャンスが来る

そして チャンスの女神は 集中心に対して必ず応じてくれる

市立船橋の八回の攻撃は まさに そういった 眠らない神経の勝利のようなもので

快打 快打 貴重で絶対の2点を獲った


降り始めた雨が早々に止んだのは グランドの黒い土の上の 白いユニホームの戦士たちに

これ以上はない好意を示したからで それも これも 飾りのないほんものの試合を

両校がくりひろげたからだ


キビキビと 実に キビキビと 自然体で駈け巡る姿は 胸熱くなり 1点が・・・

ホームベースを一踏みするだけの攻防に 少年たちの気が満ち 上質のドラマを見る気がした


両校とも平凡と見える しかし 平凡の強さと魅力は どんな場に立っても 

日常の自分であり得ることで それは さかのぼると 如何に日常を意味深く 

積み重ねたかなのだ 太陽は照らなくても 光るものはあった



八回は、三本松に幸運が訪れてもおかしくない状況だった。 
走者を置いて、高田の打った強烈なサード・ライナーが、右か左か、もう少々のズレがあったら、
勝敗はどうなったかわからない。 

象徴的な場面が八回までの何回か、やはり、見えない何かとの綱引きという緊張があって、
これが高校野球なのかとも思わされた。
快刀乱麻を断つような快速球投手でもなく、怪物と呼ばれる豪打の持主でもなく、
平凡といえば平凡だが、それなら、どこにでもいる少年かというとそうではない。

そういう特別に見えない特別の少年たちの、充分に実力を発揮した試合が退屈な筈はない。
また雨かと、何となく気持が湿る思いの中で、いい風を得たような、
つかの間の陽ざしを浴びたような好試合であった。


( 市立船橋2-0三本松 )

356名無しさん:2018/12/16(日) 11:21:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月15日  二回戦  「 炎の復活 」


たとえ ネバー・ギブアップを 口にしていても 7点の大差で 残り2回となれば

本当のところは諦めている ただ ぶざまに切れることを怖れ

自分をいやしめることを嫌い 辛い辛い思いの中で ネバー・ギブアップを言葉にする


そして チリチリと小さな火花になり すぐにも消えてしまいそうな火種に 息を吹きかける

炎の復活は無理としても 最後まで燃えつづけさせようと・・・


徳島商 7点の大差をはね返す 残酷なほどの逆転劇 サヨナラの瞬間

歓喜で小躍りしながら群れる勝者 そのわずか数メートルの向うに 信じられない敗戦を喫した投手が

呆然として立ち竦む まだ涙は流れない 涙が噴出するのは数分後なのだ


歓喜と悲嘆を分けたものは 一体何だったのか 誰も説明出来ない ただ 勝者の論理は

奇跡は訪れて来るものではなく やはり自らが演じるものだということを 徳島商が見事に実証した

小さくなった火を 全員で懸命に息を吹きかけたのだ それが燃えた 恐しいほどに燃えた



久慈商が大量のリードを奪い、宇部投手が見おろしのピッチングをしている時、一つの感慨を覚えていた。
二十年前なら、徳島商・久慈商の組合せで、久慈商優勢の予想をする人はいない。

四国の強豪校に対して、東北の初出場校では勝負にならないと、選手自身ですら思っていた筈である。
ところが、久慈商が圧していた。 政治よりも一足も二足も早く、地域格差はなくなり、もはや、
野球に於ける地方分権は確立したかと思っていたほどである。

結果は、詩に書いたような逆転で、野球県名門校の強さを示すことになったが、かつてのように、
名前や歴史に怯えることはなくなっているように思う。

さて、快晴の特異日である終戦記念日も、雨が降った。
強い雨は第一試合の中頃でやんだが、霧のような小雨は降りつづいた。 
平和の祈りの黙とうの時の空は、奇跡的な青空であってほしかった。


( 徳島商8-7久慈商 )

357名無しさん:2018/12/16(日) 12:36:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月16日  二回戦  「 ボールを味方にする 」


ボールは あなたにとって 敵ですか 味方ですか 

敵だから力をこめて 遠くへ 速く 投げるのですか それとも 最良の味方だから

一心同体となって ボールに魂をこめるのですか 


桐生第一 渡辺順高投手 あなたの答えは たぶん 後者 ボールとともに楽しみ
 
指先を離れる瞬間まで同体だと 答えてくれるでしょう


全く あなたのマウンドでの姿は 見る人間を快感に誘うもので それは

あなたの心の奥の奥が 歓びを求めて投げているからです

苦悩の力投は ボールを殺します 快気で投げれば 気持がいいから

ボール自身が生きるのです そう どこまでも味方だからです


あなたの躍動 あなたの勢い あなたをそうさせるバネ 信じていることの強さ

投げたい意識の素直さ 甲子園のマウンドの上で 孤独という悲壮さもなく

圧倒的なパフォーマンスで ぼくらを酔わせました 今日はボールを味方に出来ました

次もそうであるように ボールを理解し 愛して下さい 



展開としては、全く予想外のものになった。 
この試合を象徴するのは、桐生第一が先取点をあげた二回の攻撃で、無安打での得点、
あたかも、サッカーのような運動量、といってもいいくらいであった。

立ち止まる部分の多い野球が、いささかマイナーの気配が生れて来た時、このように、走る、走る、
ただひたすらゴールの方向へつき進む戦法が、もっとあっていい筈だと思ったほどである。

これが、快打による一点であったなら、宇和島東の平井投手の動揺も、
それほどではなかったのではないかと思う。 とにかく、試合開始前までは、ともに好投手といいながら、
剛腕平井投手の方が主役であった。 しかし、終わってみて、マウンド上のハイライトを浴びたのは、
完全に、桐生第一の渡辺順高投手であった。 九回裏も、よく踏んばったと感心する。


( 桐生第一7-2宇和島東 )



平井投手・・・オリックス1位指名、オリックス、中日、通算21年。 63勝43敗 41セーブ

358名無しさん:2018/12/16(日) 13:51:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月17日  二回戦  「 横綱対決 」


それは 既に 抽せんの場で始まって 近代付・常総学院の組合せに 他校の主将が鳥肌立ったと

興奮を隠さずに話していた 東の横綱といい 西の横綱といい 要するに クジの悪戯か

それとも好意か 早過ぎる決勝戦だと 誰もが思ったのだ


さて 過大な前評判は とかく野球の自由を拘束する 敵はどこにあるかというと 実に それらの

人々の空想や願望で作り上げられた 前評判の中にある 普通でいい 普段通りでいい


両横綱というのも言葉のアヤで しょせんは 同じ年齢の 似たような体格の少年たちの

ベースボールなんだと そんな風になかなか思えない 大きくなろうとする 立派にやろうとする

かなり かなり重かったことだろう


常総学院の勝利は どうやら 思うに ただの高校生の意識を 早く取り戻したことで

倉投手の自然な表情と投球に 背負うものは何もない きみの好きなように投げなさい

という哲学を感じた



こういう顔合せが、最後で出会うといいのだが、抽せんの妙で早く当ると、その部分の要素が大きくなって、
試合が崩れてしまうことが多い。 対決への過剰な意識が、何かで外れてしまった時、
一方的な大差になることが、まず高校生の野球では普通なのだ。 

ともに一回戦で圧勝し、前評判を派手に実証したものだから、この二回戦での顔合せは大変だったと思う。
それでも、好試合の範囲でおさまり、人々の期待に反しなかったのは、やはり、
相当な実力の両校ということが出来るだろう。

願わくば、もっと遅く、両校自然に勝ち上り、自然に頂点を争うという形を見たかったのだが、
それは云っても仕方がない。 両横綱も間違った表現ではない。 ただ、横綱の看板を、
常総学院の方が少し早目に下ろしたように思う。


( 常総学院4-1近大付 )

359名無しさん:2018/12/22(土) 10:01:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月18日  三回戦  「  百七十一球目の満足 」


安井謙一投手の夏は 百七十一球を投げ終わった数秒後に 突然去った

その瞬間の彼の 何とも晴れ晴れとした笑顔が 忘れられない

まるで それは 勝者のように輝き マウンドを降りる足取りも 決して重くはなかった


延長12回 気合をこめて投げつづけ 時に してやったりのポーズを取り

あるいは 精神の集中のために天空を仰ぎ 自らを鼓舞し ナインにムードを与え

投げて 投げて そして 敗戦投手となった彼の笑顔は 間違いなく満足だと思う


勝者の校歌が流れ校旗が揚がる時 整列して見守るちょっとした瞬間

涙ぐみ体もよろけるチームメイトを 最も衝撃の大きい筈の彼が 微笑みながら支える

これは 場面 誰にも演出しきれない場面で ああ 高校野球と 思ったものだ


敢闘の東海大四高ナイン そして 安井投手 満足の笑顔に恵まれる人生は

めったにないものだよ ましてや 敗戦の中で・・・ と云いたい



四時起床で八時の試合に備えていたら、また雨で、スケジュールが変更になり、
五時間遅れの十三時プレイボールとなった。 四試合が二試合になり、こういうことになったのだが、
起床から数えて九時間も緊張させていたかと思うと、気の毒でならない。

一日二試合になるのなら、いっそ、一試合目と二試合目のカードを明日に延し、
三試合目と四試合目を消化するわけには行かなかったものかと思ったりもする。
これなら、試合時間だけでも予定通りということになり、一試合目、二試合目の学校は
緊張や苛立ちから解放され、明日を期せる。

いずれにせよ、この異常な雨つづきで、運営やりくりも大変だろうが、そんなことを考えてみたりした。
太陽と、汗と、土埃と、陽炎と、さらに、熱も、光も、
それらの言葉が使えない「甲子園の詩」は初体験である。


( 東海大四3-4修徳、延長12回サヨナラ勝ち )

360名無しさん:2018/12/22(土) 11:32:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月19日  三回戦  「  晴れた日に 」


晴れた日に 野球をやろう 涙は涙 汗は汗 それぞれに違う光を発し 

こんないい試合が出来るのだから 野球は やはり 晴れた日に 晴れた日に


水入りのあとの 何やら因縁めいた再試合 しかし 幸運とか 不運とか 大魚を逸したとか

奇跡の生還とか そんな思いは試合が始まるまでの ゆれ動く時間の感傷で
 
サイレンが鳴ってしまえば 久々に空に太陽があり 雲を散らしているが青空もあり

常総学院・鹿児島商工 まこといい試合をした 


華々しく打ち合うことも にぎにぎしく塁上を駈け巡ることも 歓喜と興奮に沸き立つことも

そんな そんな 目に見えた面白さはなかったけれど 静かに見えて 激しく 

ヤマがないと見えて全てがヤマの 水面下の緊迫に 目をそらすことが出来なかった


時の勢いや 流れで舞った踊りではなく 真実の闘いだったと思う 晴れた日に

心をうついい試合があった 勝者と敗者に分けるのが 切なくなる試合だった



鹿児島商工の二年生バッテリー・福岡と田村が魅力的だった。
コンビネーションとはどういうことをいうのかを、この少年バッテリーに教えられた気がするのだ。

投げたいと、投げさせたいの間合が絶妙で、ポンポンと投げ込んでいるだけに見えながら、
実は、気持の上でも、計算上でも、ピタリと呼吸が合っていることがわかる。
相手をたぶらかす技能派ではなく、自分たちのペースに引き込む頭脳派であると云えるだろう。

そればかりではなく、三振を取った瞬間に全力疾走でベンチへ走る福岡、
冷静さと度胸が一体となった眼鏡の田村、この二人の来年は実に楽しみである。
この好試合、誰がその空気を作ったかというと、二人の、快適なのに息苦しい、
緊張づくりが大きな役割を果したと思う。


( 常総学院1-0鹿児島商工    降雨ノーゲームの再試合 )

361名無しさん:2018/12/22(土) 15:02:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月20日  三回戦  「 大黒柱 」


掌一杯に盛り上げた 勝利という名の砂の粒が 少しずつ 少しずつ こぼれ落ち

もうあと一吹きの風で 最後の何粒かまでが飛ばされると 心も体も硬直した瞬間

大黒柱の投手は 顔付きを変えて踏んばり 二者を三振に取った 八回だった


勝負事で最も危険な心理は まだ勝っていながら もう負けている気で狼狽することで

それは 流砂のように なかなか止められない しかし 小林西の笹山投手は それを止めた

そして 勝利の砂一粒を残して勝った


大黒柱とは たぶん チームの運命を背負って立つとか 圧倒的な活躍で 大いに花を咲かし

手柄をひとり占めにするとか それもあるだろうが 揺らぎそうな場面の中で 

逆風に対して胸を出す人のことで それは目立つこともあるし 目立たないこともある


ただ その心強さを一番知るのは ともに闘うチームメイトで だからこそ 大黒柱の名が似合う

頼りになるのは こういうことを云うのだろう



八月三日に代表が決定し、翌四日には出発して甲子園入りしたのだから、宮崎県代表の感激を
ふっ飛ばして、いきなり全国区の感激につながったようだ。

初出場の小林西のベスト8進出は、実に新鮮な活躍で、一回戦の学法石川戦の奇跡の逆転から、
二回戦の長崎日大を一蹴、三回戦では、V候補の一つ高知商までも破り、今年の顔になった感じがある。

前評判も、代表決定が遅れたこともあるが、大したものではなく、印象としても地味なもので、
高校野球ファンが語らう時も、誰も話題にしなかった。

しかし、それは初出場校のための資料不足によるもので、このチームをじっと見つめていると、
地味どころか、なかなか派手なこともやらかしているし、笹山投手を中心にした戦力も侮れない。
それに、大黒柱を真中に据えたチームワークも心得ていて、実力校であると云える。


( 小林西5-4高知商 )

362名無しさん:2018/12/22(土) 16:57:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月21日  準々決勝  「  肝ッ玉 」


甲子園のど真中で 大事な大事な準々決勝で その日を決するかもしれない第一球に

超スローボールを投げる自信は 何から発するのか 恐れ入った肝ッ玉だ

まずは 敵も味方も大観衆も 空気までも 自分のものにしておいてから どうだと速い球を投げ込む


春日部共栄 二年生エース 土肥義弘 少年の自信は 恐いものを超えた大胆さか

恐いものを知らない強味か それは知る術もないが とにかく不敵に投げる

たぶん 打たれるという不安よりは 打たれる筈がないという自信の方が 常に心を支配しているのだろう


しかし 得意を崩すには  得意を叩くことで さすがの肝ッ玉も 四回の連打には我を忘れたが

さて それからで この少年投手の全く非凡なところは 試合の途中に於て 自信すら修正することで

一人で投げ勝つ投法を みんなで守り勝つ投法に 実に 実に 見事に変えてしまった
 


世界では、東西対決の冷戦構造というのはとっくになくなっているのだが、今年は、
甲子園の準々決勝に於て、見事なくらいの東西戦になった。 東から四校、西から四校残り、
上手なクジの組合せで、四試合とも、東対西の図式になる。 こんなことも珍しい。

準々がいちばん面白いという専らの評に、東西何勝何敗かまで加わったのである。
結果は、やや予想に反して、東の三勝一敗ということになった。

さて、いちばん面白い一日かどうかということになるとやや疑問で、常総学院と小林西の
一戦こそ身震いするような感じで見ていたが、他の三試合は、いささか興ざめの大差となってしまった。
しかし、試合が興味薄なら、人間がいるじゃないかと、何やら心に響く選手を懸命に探していた。


( 春日部共栄11-4徳島商 )

363名無しさん:2018/12/23(日) 10:01:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月22日  準決勝  「 誰かが見ている 」


きみは勝利に貢献したか いや きみに栄誉は与えられたか いや しかし

きみは拍手を聴いただろう 万雷とはいえないまでも 心のこもった強い拍手を

思いがけない不調でエースが降り 大量リードを奪われたあとの きみは リリーフ投手


こわれてしまいそうな試合を しっかりと引き締め 小さい 小さい可能性だが

逆転の期待を抱かせたのは ただただ甲子園で投げることに 大いなる歓びを感じているような

きみの力投 無心なのか 無欲なのか 


一球一球投げるきみの表情は チャンスへの感謝とでもいいたいもので 気負わず 気張らず

それでいて 力強く 正確に いつでも打てるという自信の相手に対し 真向から勝負した


常総学院 佐藤一彦投手 六イニング 無失点 目立つのは 何も 勝利に関わる人だけではない

自分に与えられた仕事やチャンスに 最大の意味を感じ 懸命に努める人にも

誰かが注目する 誰もとはいわないが 誰かが見ている



試合がこわれるほど、切なく、辛いものはない。 最後でこわれてしまうとそれまでが全部否定されてしまう気がする。
つまり、敗戦にも、敗戦分の引き算で済むものもあれば、マイナスの掛け算になって、
全てをマイナスにしてしまうものもあるのである。 

V候補の常総学院も、思いがけない展開で、下手すると、試合をこわしてしまい、昨日までの健闘を
無にするところであったが、それを支えたのは、リリーフの佐藤一彦投手の好投であった。

勝敗には関係なかったが、この試合を惜敗という結果で終われたのは、大変重要なことだと思うのである。
さて、もう一人の佐藤選手。 市立船橋の佐藤則満選手の、最終回、ヘッドスライディングで泥に汚れた顔で
意地を示したのが、印象に残っている。


( 春日部共栄5-3常総学院 )

364名無しさん:2018/12/23(日) 11:06:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1993年8月23日  決勝  「  この夏いちばん青い空 」


甲子園は孵化器で育児器で 卵の時では予想もつかない 大きな大きな子を育てる 

甲子園での成長は何割増ではなく倍増であるということを 育英・春日部共栄が証明した


代表となり学校をあとにした時と 一夏過ぎた今では 全く違う大きさになっているのだ

その意味でも 甲子園は 見事な孵化器であり 育児器であった


太陽のない夏にいくらか心が冷えた 灼けた土が舞い上るさまも ホースの水に虹が立つことも

さらに 投手の顎に 汗の滴が重そうに垂れることも 第一 目の眩むまぶしさの 激情の空もなかった


しかし 決勝戦 この夏いちばん青い空の下で 実力伯仲 一進一退 

力と自信にあふれた好ゲームが 光の粒のように躍った 


連投の春日部共栄土肥投手に 栄光を与えたいとか 負傷退場の育英安田主将に 大旗を持たせたいとか

人それぞれ 目にしみる青空を背景にしながら ドラマの恍惚と残酷に 酔っていたに違いない 

この夏いちばん青い空 それは好意に満ちた 少年たちのためのフィナーレであった



感傷的なドラマを好むなら、負傷退場のやむなきに至った、育英の安田主将のことを書く。
守備で傷ついた直後の第一打者が彼であるという巡り合せ。 長い時間をかけて手当した後の打球が、
三遊間のヒット性の当り、これを全力疾走がかなわず、思わず涙ぐんでしまった無念さ。

さらに、治療のため球場を去っていたと思っていた彼が、八回のチャンスにはベンチにいて、
その時の目の光り方、思いつめた表情に心うたれる。 
そして、傷ついた主将に手渡される深紅の大旗、劇的である。

ただ、それも包み込んでの、四十八試合の総決算。 加えて青い青い空の、とてつもなく大きい背景と、
季節を見送る歓送曲にも似た風の音のドラマを思い、いい試合の感謝を書きたくなった。
気がつくと、遅ればせながらの蝉しぐれである。


( 育英3-2春日部共栄 )



1993年の出来事・・・曙が初の外国人横綱、 江夏覚醒剤で逮捕、 Jリーグ開幕、 皇太子御成婚、

            政権交代 細川内閣発足、 サッカーW杯予選ドーハの悲劇、 EU発足、

            法隆寺 屋久島が世界遺産に。

365名無しさん:2018/12/23(日) 15:12:00
☆ 祝 日本野球連盟 ベストナイン



日本野球連盟(JABA)は、2018年度社会人野球表彰の受賞者を発表。
倉敷工OB、JFE西日本の三木大知選手がベストナインに輝きました。

社会人野球日本選手権で2004年以来の決勝に進んだJFE西日本。
三菱重工名古屋との決勝は、延長13回、1対2で惜敗した。
三木選手は、打率3割5分、6打点をマークし、打撃賞を受賞。

4月のJABA岡山大会で打率5割。
5月のJABAベーブルース杯では4割3分の高打率をマークした。


倉敷工時代は中山監督のもと、秋の中国大会優勝。
4番打者として悲願の選抜に出場。


「 来年は、必ず都市対抗に出場して優勝できるように頑張ります。 
ベストナインも取りたいです。 応援よろしくお願いします 」と三木選手。

366名無しさん:2018/12/23(日) 16:35:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月8日  一回戦  「 超の字 」


甲子園の少年たちの戦いを 息を詰めて見つめているのは 力を超え 技を超え

練習ですらやったことのないような 神がかりのプレイに遭遇出来るからだ


そして それは 時に運命を決する 運命は勝敗の行方だけではなく

この炎暑の甲子園から始まる 人生といったものまで決めてしまう もの凄さにも繋がるからだ 


長崎北陽台 唯一最大の危機は こういう神がかりで救われた 超の字を付けたい 

超美技と呼びたい 超を付ける値打ちがあるのは プレイの軽業的妙味ではなく

運命のテストに勝ったかどうかをいう


世の中大袈裟になって 何かというと 超の字を付けて煽るから 最大級の表現も色褪せているが

しかし 小江選手の バックスクリーン前の美技は 正真正銘のウルトラスーパーであった


背走から 腹這いの転倒 好捕 そして 起き上る早さ 異次元体験したような表情 きっと 少年は 

何分の一秒かで 神を見たに違いない もしも それがなかったら 好投手の冷静な快投も 

勝利に邁進していたチームも 熱風の中の苦い夏を 経験していたかもしれないのだ



去年のノートを見ると、太陽と汗と土ぼこりを書かずして、高校野球の感動を色づけられるかと嘆いている。
パラパラとめくると、気温がやっと二十度を超えた程度の日がつづいていて、まぎれもなく冷夏であった。

ひんやりとした夏、雨ばかりの甲子園を見つめながら、高校野球もこれまでか、と嘆いている記述がある。
しかし、今年は暑い。 暑いが熱いにかわることも期待出来る。
そして、光高校杉村衡作主将の長文の宣誓も、高校野球の好ましい姿の変貌を感じさせる。

誓うより発信するに意義があり 今の子らしく瞳を光らせて などという短歌を詠んでみる。
また、光眩しいアルプススタンドの光景に、
金管のマウスピースが灼けぬ間に 「狙いうち」吹く子の恍惚の顔 というのも詠む。
とにかく、他ではいざ知らず、甲子園は暑さが「超」を産むようだ。


( 長崎北陽台2-0関東一 )

367名無しさん:2018/12/29(土) 10:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月9日  一回戦  「  メッセージへの返信 」


おそらく きみたちは 今夏最も注目された野球少年たちで 人々の気持に響きました

劇的な勝者でもないのに 勝者にまさる感動を与えたのは 心でしょう


人の心 少年の心 野球の心 甲子園の心 さらに 青春という壮大な 時代の心

季節の心 それらをきみたちはメッセージとして さわやかに発信したのでしょう


まさに 青空への発信で 遠い遠い人の心まで揺さぶったのです 風を見たような

光にあふれたような 本の間から忘れていた手紙を 偶然発見したような

そんな気持になったものです


光高校野球部の諸君 きみたちの甲子園の夏は 一瞬といっていい短かさで

敗者のまま去って行ったのですが 感動の返信として賛辞を ささやかなお礼を

心ばかりのはげましを そんな思いになった人は大勢います


野球を愛したままですね 友情を信じたままですね 青春を感じたままですね

そうです たしかに たしかに きみたちが云ったように 青春と友情の輪は広がった筈です

それが甲子園ですから



二日目は、劇的要素の多い日で、三十年ぶり勝利の北海も書いてみたいし、
初出場盛岡四の歓喜も詩にしてみたいし、さらに、近江と志学館の死闘も綴ってみたいと、
あれこれ迷い、ぎりぎりまで決めかねていたようなところがあったのだが、やはり、
今書かなければその機会が失われると、光高校を取り上げることにした。

選手宣誓で、あれだけのことを投げかけられると、やはり、歌でいうならアンサーソング的な
ものが必要ではないかと、思ったからである。 

スポーツの心というものが「心」という字で括ってしまうと、天と地ほどにひらきが出て来る。
指導者は道だと思い、選手は愛だと解釈し、ますます離れる。そんな不確かさで悩んでいる時、
あのメッセージと称する宣誓は、なんだ、こんなわかりやすいことだったのかと思わせた。
宣誓というのもどうかな、とさえ考えさせたほどである。


( 市川4-2光 )



ファイト、フェアプレー、フレンドシップの頭文字の「F」のマークをあしらった高校野球連盟のもと、
私たち選手一同は、苦しいときはチームメイトで励まし合い、つらいときは、
スタンドで応援してくれている友人を思い出し、さらに全国の高校へと友情の輪を広げるため、
ここ甲子園の舞台で一投一打に青春の感激をかみしめながら、さわやかにプレーすることを誓います。

( 宣誓文    山口県立光高校野球部主将  杉村衡作 )

368名無しさん:2018/12/29(土) 11:15:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月10日  一回戦  「  八戸高の二年生へ 」


三年生には誇りと想い出を 二年生には怒りと悔しさを 同じように甲子園を去るとしても

そのくらいの違いがあっていい 三年生が持つ甲子園の土は これからの心の支えであっても

二年生が手にするそれは ほんの一年の預り物なのだ

来年また甲子園のグランドに パッと勢いよく撒くがいい


八戸高の二年生へ 甲子園を瞳の奥と心の襞に しっかりと灼きつけよう あれは何だと考えよう

何者なんだと思い出してみよう 何を要求し 何を語りかけて来たかを 一年かけてたずねてみよう


そして さらに 見えない襞の彼方の勝利を くり返し幻想してみよう 二つ勝つ夢も見よう

三つ勝つ場面も想像しよう 優勝行進の晴れ姿だって構わない


小さい目標設定は 身の程を知った美しさだが、小さい目標は からだも意欲も小さくさせてしまう

いっそ 巨大風車に挑む ドン・キホーテのように 壮大な幻想を見る方が たとえ滑稽であっても

甲子園に対して誠実なんだと 自信に満ちた決意しよう

八戸高の二年生へ 来年勝とう きっと勝とう



初戦突破という言葉には、必ず、悲願のというのがくっつく、そのくらい、甲子園での一勝は難しく、
値打ちがあるということである。 

予選を勝ち抜いて代表となり、甲子園の土を踏むというだけで快挙だと思うし、
到底他の場所では経験出来ないものを実感して帰ることだろうが、これに一勝が加わると、
倍にも十倍にも脹らむに違いない。 

一勝があるかないかで、同じ快挙の中で、天と地ほどに違う筈で、だから、悲願の、という言葉も使われる。
勝利至上主義はとかく批判を浴びせられるが、それは方法論の間違い、時代錯誤、
また、何のための勝利かという目的の志の問題であって、勝つことが悪いことではない。

とにかく、誰にも彼にも、あの大きな器の中で勝ったという経験をさせてやりたくて、
そのためには、勝つことを美しく念じることが必要で、まずは八戸高に気持を伝えた。


( 関西4-0八戸 )

369名無しさん:2018/12/29(土) 15:01:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月11日  一回戦  「  大いなる証明 」


甲子園って何でしょうね と問われたら そうですね やっていたことがやれない子と

やったこともないことがやれる子と 少年を二種類に分けることでしょうね と答える


あの場に登場した少年たちで やった通りのことをやるという普通は 一人もいないといっていい 

誰もみな 甲子園がさし出した踏み絵の前で 倍になり 半分になりしているのだ


江の川高校の春は まさしく やっていたことがやれなくて 完全試合を喫してしまったが

夏のきみたちは まぎれもなく やったこともないことをやれる可能性を 見事に証明した


敗色濃厚の最終回の 嵐のような逆襲は 目のかがやき 気の昂り 不可能を可能に近づけて行く勢い

可能を鷲摑みにする勇気 それらの全てを出して 春の無念をきれいに洗い流した


勝利のこそ見放されたが 甲子園って何でしょうね やったこともないことをやれる子に

たった今 変わりましたね そういう答を持って帰ることは 何よりの収穫じゃないか

きみたちは 倍の大きさになったのだ



センバツで、金沢高の中野投手に、完全試合を喫したということが頭にあるので、妙な感情移入で、
江の川を見ていた。 
一回表、佐古、富永がレフトフライで凡退した時には、重い十字架がつづくような気持になり、
三人目の森永が死球で出塁すると、やっと完全試合から解放されて、落着いて試合を見ることが出来た。

その後は、ヒット一本がいつ出るか、得点がいつ入るかと、見る目的を変更する。
江の川を応援していたということではない。 
しかし、多くの高校野球ファンというものは、そういう思いで見ているもので、対戦とは別に、
少年と甲子園との闘いに、あたかも、神話の戦士を見るように願いをかけている。

春の完全試合の枷が徐々にゆるんで行き、自由に手脚が動くようになり、自分になり、さらに、
追いかけた最終回に自分以上になった変化は、もう一つの甲子園、本当の甲子園も見た気がした。


( 江の川5-6砂川北、サヨナラ勝ち )

370名無しさん:2018/12/29(土) 16:03:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月12日  一回戦  「 九十年目の新芽 」


雪の下で長い長い時間 芽を出す機をうかがいながら 土の精を吸い 水の生命を取り込み

決して焦ることなく生きて来た 草の根のように 中越高校は きょう光を見た 季節は夏だった

空は眩しかった 九十年目の新芽は顔を出し 出したと思ったら次の瞬間 もう花を咲かせたのだ


今年の選手たちは 晴れがましく陽を浴びて 歓喜の歌を聴く 美しい芽の役どころだが

その彼らを土の上に押し出す役目の 大勢の先輩たちの 根の時代を忘れてはならない 


土を知り 雪を知り それでも挫けることなく いつもみずみずしく生きつづけ 明日は出よう

芽を出そう 光も見よう 空も見ようと 思いつづけた人たちがあって この初勝利

今年の少年たちの唇が 誇りと愛着の校歌を歌えたのだ


さて 芽を出してしまったら恩返し 土の精や水の生命の代わりに 大気の中の希望という養分を

土の中へ送り返そう たっぷりと吸って たっぷりと届けよう 何といっても財産は 

長い年月をかけた根なのだから



中越と坂出商。 試合は実に淡々と経過して行ったのだが、スコアブック上の平凡さとは別に、
何かズシンと重いものを感じた。 気が重いとか、心が弾まないといった意味の重さではない。
重厚さとか、感じることの多さとか、そういうことである。それは、学校の持つ歴史と無関係ではない。

たとえば、豪雪地域の学校といっても、今では、それに対処する設備も整い、
ほとんどハンディキャップがなくなっているのが現状だろうが、
しかし、かつて、明らかに不利な條件にあった時代が存在したのである。

目の前で試合をする選手たちは、北であれ、南であれ、遠隔地であれ、誰もみな見事な現代の少年で、
何ら不利を感じさせるものはないのだが、しかし、甲子園の高校野球を見るファンの目には、
歴史が重なって来る。 未だ勝利のなかった中越、輝かしい実績のあった坂出商、
ともに長い歴史を有し、だからこそ淡々が、ズシンと響いた。


( 中越2-1坂出商 )

371名無しさん:2018/12/30(日) 10:10:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月13日  一回戦  「  嵐の使者 」


かつては きみたちの先輩が 伝統校や優勝候補と対する時は いくらかの怯みも見られたし

反対に過剰な気負いも感じられた 巨獣に立ち向う 勇気のある犬のような健気さも

確かにあった その代わり 涙ぐみたくなるような温い声援が どこの県の代表よりも多かった


しかし いつの頃だろうか 特別な感情の拍手はなくなり 健闘を称える賛辞もなくなり

それと同時に きみたちの先輩たちから 怯みはもちろん気負いも消えた


堂々の高校野球王国 真の強豪の仲間入りをしたのだ だから この日 優勝候補の一つ

全国最大の激戦区を制した横浜の 大旗の夢を打ち砕いても 意外でもなく 快挙でもなく

ごく普通に受けとめられた 那覇商快勝


嵐は前ぶれの使者を走らせる 沖縄に接近した台風が 遠く離れた甲子園に

強く激しい雨を降らせる 何かを感じなくてどうしようか 

試合途中で駈けぬけた使者の 豪雨に託したメッセージは 何だったのか



昔、プロ野球の広島カープが優勝することが、ある種の歴史の総括になると云われたことがあった。
そして、初優勝の時の興奮と感動は、そういう役目を充分に果した。

それと同じような気持で、沖縄県代表の学校が、いつ深紅の大旗を手にするかと、願いつづけている。
興南の時も、数年つづいた沖縄水産の時も、優勝の詩をイメージしつづけていた。
しかし、まだ書けないでいる。

何とか、この「甲子園の詩」の連載がつづく間に、歴史と心の総括を野球でつけてみたい、
詩を書いてみたいと思っているのである。

それにしても、那覇商ー横浜戦の試合途中で何度か降った雨は、何だったのだろうか。
いやいや何でもない、単なる雨で、台風が近づけばああなることはあたりまえ、
と云ってしまえばそれまでだが、これは不思議だ、何かが起るに違いないと考えるのも、
高校野球の楽しみ方の一つである。


( 那覇商4-2横浜商 ) 



以前にも書き込んだけれど、2010年の興南の春夏連覇はご覧になれず。
2007年に他界されているので、あと3年あればとつくづく思います。
「歴史と心の総括を野球でつけてみたい」と云う願いを叶えて頂きたかったね。

372名無しさん:2018/12/30(日) 12:16:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」 

1994年8月14日  二回戦  「  ぽんぽこ打線 」


高校野球に 力と元気が復活した気がする 台風一過の青空に 久々刺激的な

無邪気なほどに明るく響いた 筋力と活力が一つになって 白球を弾き飛ばす快感は

やっぱり 汗に似合うし 夏に似合う 


小松島西高 きみたちが見せた野球は スポーツの原点に通じるもので 強く叩く

遠くへ飛ばす 激しく対う 疾く走る それらを肉体と精神に覚え込ませて

見事なかたちでパフォーマンスし 見る人の心の汗をかかせてくれた


背も高くないのに大きく見ゆる子の マグマのごとき気魄にたじろぐ 鍛えられた人には

鍛えられた人にだけ与えられる 崇高にさえ思える威圧があって 

それを証明することに遠慮はいらない むしろ そのことの本質を知ることで 美しく輝くことがある


純粋素朴に 真直ぐに バシッと打てば カンと響く さらに強ければ キンと高鳴る
 
そういう野球がもっと見たい 

きょう 大きく見えた少年たちよ この次はもっと大きく そして 響かせてくれ



「ぽんぽこ打線」というのは、小松島が狸の市だというので命名しただけで、他意はない。
何でも、全四国を制した伝説の狸がいたそうで、そういえば、ぼくの育った淡路島にも、
芝右衛門という有名狸の話があった。

それはともかく、ぽんぽこが、ぽんぽこ打ちまくるということでも構わない。
実に久々という感じで、鍛えた肉体の力をバットからボールへのり移らせるというチームを見た。
大仰にいうなら、同じ徳島の池田高校のやまびこ打線以来かもしれない。

高校野球にも傾向があって、広島商の野球、箕島の野球、それから、
小さな巨人たちを集めたような池田の野球、桑田、清原ら天才たちのPL学園の野球、
そのあたりは、甲子園に金属音が響き渡っていた。

しかし、それ以後、力の野球は主流でなくなる。やまびこの音も忘れていたが、
小松島西の打線に、何やらそれを思い出させるようなものを感じたのである。


( 小松島西6-5海星  延長10回 )

373名無しさん:2018/12/30(日) 13:50:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月15日  二回戦  「  口惜しがる少年 」


いつも どこか 口惜しげな顔をしている少年が 私は好きだ

他人から見ればうまく行っているのに それどころか いくらか得意がっていいことでも

口惜しげな顔をする少年がいる 


不機嫌ではない 嘆いているのでもない  どこか どこか ただ口惜しいのだ 

市川高 樋渡勇哉投手 私にはなぜかそう見える 


口惜しさは 決して 不満の表われではない 自分が設定した理想の高さに

なかなか届かないもどかしさと 安易な満足と妥協したくない 誇り高さが

口惜しいという感情になって 胸から顔へつき上げる それが 口惜しいということだ


不機嫌は他者との兼ね合いだが この感情は自分のことで 他を不幸にすることはない

だから 私は 口惜しがる少年を好ましく思う


市川高にミラクル起らず 夢は粉々に砕け散り 樋渡投手もまたここで散ったが

たとえ この日快投 快勝したとしても この少年は どこか 口惜しがったに違いない



まず、空の青さはどうしたことだろうと思うほどのもので、一点の雲もなかった。
その絵具を塗ったような、いくらかわざとらしい青空を見ながら、
ああ、八月十五日なのだと気がついたくらいである。 
ぼくの記憶では、終戦記念日は晴の特異日である。

市川ー北陽戦は、正午にまたがった。 五回裏、市川の攻撃を中断して、黙とうが行われた。
五万の観客も、グランド上の少年も頭を垂れる。 影になった感じがする。
あまりに影が黒々としていて、そのままグランドの土に帰してしまうのではないかと思ったほどである。

平和を考える。 毎年のことだが、平和という言葉の具体性をだんだん問われて来た気がする。
少年たちと重なるとなおである。 
それにしても、この青空、この重大な日、この好カードと重なっていながら、
信じられないような大差の試合が三つつづいたのは何故なのか。 ミラクルもなかった。


( 北陽10-2市川 )

374名無しさん:2019/01/05(土) 10:02:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月16日  二回戦   「  さらなる大志 」


第四はダイシと読み 大志に通じる それを実らせて甲子園へやって来た 

盛岡第四高 その姿と心意気は 熱風のきれ間にさっと吹く さわやかな風を思わせた


大志は肩肘張ったものではなく 野球を愛する心を歪めずに 愛したままで頂点に昇ること

なぜか そんなメッセージが 一挙手一投足から伝わって来るようで いきいきと

のびのびと 明るく 楽しげで さらに やる時にはやる集中力と 見事な志を証明して見せた


よく打つとよく守るとは才のもの 才かなわねば 走る 守る 大志が夢に過ぎなかった時があり

夢は夢でしかない時があり しかし 自分の力で 夢を果して甲子園へ乗り込み

最後まで借り物でなく 自分でありつづけた戦いぶりは おそらく 多くの人の心をうつ 


それは きみたちが 野球を愛しつづけたことへの 純粋な評価と賛辞で 

胸を張って受けとめればいい 一回戦の衝撃的な登場 二回戦の惜しみても余りある敗戦 

盛岡第四高 きみたちの さらなる大志を



気圧の関係かどうか知らないが、荒れる日と引き締まる日があって、そういえば、
プロ野球でもホームランがよく出る日、というのがある。

八日目は荒れる日で、どうにも手がつけられない状態になったが、九日目は、違う競技を見るように、
いくらか小ぶりではあるが、キュッと引き締まって気持よかった。 荒れたり、乱れたりすると、
予測の出来ない面白さはあるが、感情移入のしようがなく、言葉も挟めなくなるのである。
思いを馳せるという作業がいくらか滑稽になる。

しかし、この日は、中越と浦和学院の緊張の投手戦、スリリングな結末。
愛知と大垣商も立ち上りの明暗を除けば投手戦。 そして、水戸商と盛岡第四も、
一回戦ともに猛打を爆発させた両校でありながら、魂を削り合うような投手戦を展開した。
こういう時は、一球一球に思いが沸き、言葉が踊るのである。


( 水戸商1-0盛岡四 )

375名無しさん:2019/01/05(土) 11:07:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月17日  三回戦   「  夏は終わらない 」


どうせなら深紅の大旗を抱いて 津軽海峡を越えて来てくれ 北海道の野球が頂点に立つ夢を

きみらが実現してくれ きみらならそれが出来るし その値打ちが充分にある


思えば 史上初の北海道対決という偶然も 何かの予言かもしれないじゃないか

あの甲子園球場に 五万五千人ものも大観衆を集めて 北海道の学校同士が対戦したのだ


ともに勝ち上っての試合だ 全国の目を一点に集めて そう 注目の一戦というやつをやったのだ

凄いことだし 素晴らしいことだ だから 勝ったきみらは ぼくらの夢の分までふくらまし

そして 勝たねばならない 一つや二つでなく全部勝って 大旗を手にしなければならない


強いんだ 本当にきみらは強いんだ 札幌が那覇より気温が高く ニューデリーよりも暑かった今年

燃えた北海が暴れたって 何の不思議もない 打って 打って 勝って 勝って 

どうせなら深紅の大旗を抱いて 津軽海峡を越えて来てくれ


北海道の野球が頂点に立つ夢を きみらが実現してくれ きみらが勝ちつづける限り 

北国の夏は終わらない



北海道対決で敗れた砂川北の選手たちの気持の中には、もしかしたら、こういう思いがあるかもしれない。
いくらか後進的に見られていた北海道の野球を一気に頂点に引き上げる大きなチャンスがやって来たのだから、
これは北海高だけの夢ではないだろう。
きみらがやれ、ぜひやれと励ましたくもなるだろうと思うのである。

今年の大会で顕著に証明されたことは、名門地域とか、強豪県といったものがなくなったということである。
激戦区を勝ち抜いたから即優勝候補ということはあり得ない。 どこの県の代表も、
優勝の可能性を実際に持っているわけで、一戦二戦の加速の付き方しだいで、巨大な存在になり得る。

埼玉、神奈川、千葉、広島、静岡は野球が強かった。
それが全て敗退したのは、サッカーブームと関係があるだろうか。
これらの県、みんなJリーグのホームタウンとなっているところである。


( 北海14-5小松島西 )

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377名無しさん:2019/01/05(土) 15:05:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月18日  三回戦   「  両者に拍手を 」


勝者があり 敗者があり 勝者は先に進み 敗者はここから去るという 

厳然とした現実がありながら 両者は決して同じでないと知りながら 

やっぱり 両校に拍手をとか 両校に乾杯とか云いたくなる


仙台育英・北陽 仙台育英サヨナラ勝ち ガップリと組み合った時 相手の強さと大きさがわかる

たとえ勝敗は どのような形で決しようが おたがいが ただならぬ強者であることを知る


拍手も乾杯も 選手同士では拘泥わりなく 心から叫べるに違いない
 
半分の青空と半分の黒雲と 半分の夏と半分の秋の下 昂るだけ昂り 意気込むだけ意気込み

リラックスするより興奮の極にあれと 壮絶な試合をくりひろげた 


勝つためか 残るためか それもあろうが真実は おたがいの強さと大きさに対する

敬意と畏怖 計算を超えた 純粋な闘志を生んだのであろう 

ひたむきに勝る 感動はない だから 両者に拍手を



圧倒的な優勝候補はないといわれた大会であるが、それでも、この二校の対戦となると、
張り詰めた空気が伝わって来る。 
両校とも優勝を目ざすには、大きな関門となる相手であると意識している。

重大な試合の時、選手をどういう精神状態にするか、緊張を解いて平常心を保たせるか、
それとも、昂揚を強いて異常な興奮のもとで戦わせるか、どちらであろうかと思っていたが、
ともに後者であった気がする。 そのため、何でもない一投一打までが、スパークしそうな感じがして、
ボルテージの高い試合となった。

平常心も貴いが、しかし、平常心だけでは勝てない時と場がある。
そんな時には平常であろうと心を込めて鎮めることを捨てる。 落着きがなく、恐く思えるなら、
そのまま、興奮や恐怖を増大させて力にする。 これは、何も野球の試合だけのことではない。
人生は平常と異常の組み合せで、重要なのは選択である。


( 北陽5-6仙台育英、サヨナラ勝ち )

378名無しさん:2019/01/05(土) 16:20:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月19日  準々決勝   「  ハートコンタクト 」


それは ひらめきなのだろう 目と目が合うのがアイコンタクトなら 心と心が一瞬に感応する

ハートコンタクトに違いない 監督の脳裏に突然芽生えた いくらか危険な賭けのような閃光が

選手には 最も信頼出来る決断として伝わる 


三回の代打ホームランがそうだ あの決断と結果の鮮やかさは何だ あんなことがあり得るだろうか

そして 仙台育英の猛追に浮き足立ち いくらか暗く沈んだ時 マウンドに送り出したのは キャプテンだ

公式戦の記録もなく 肩ならしもやっていない内野手に 突然の大役を与えた


柳ヶ浦高 監督と選手の 他からは窺い知れない 信頼に根ざしたひらめきが 見事な勝利につながったのだ

ひらめきは思いつきではなく 見つめに見つめた結果 知りつくした上での決断と知る


キャプテンのリリーフは 土手の穴に手をさし込んで 洪水から町を守るような姿で 痛々しくもあり 

健気でもあり また スリリングでもあったが それは見る側の感想で 実は もっと確固とした

自信に裏付けられていたかもしれない 奇跡のような ハートコンタクトを見た 



八回からあとの、攻め合い、守り合いは、劇画のような涙ぐましさに満ちたものだった。エースが負傷し、
二枚看板のもう一人の投手も早々に交代させ、一点を死守するマウンドに立ったのが内野手で、
しかも、予選でも投げたことがないと知らされると、救世主待望的な感情を持つ、
まさに、これこそ、劇画的なのである。

柳ヶ浦のヒーローは、前半では、代打3ランの梶原であったのだが、終わってみると、地味に黙々と
最後のマウンドを守ったキャプテンの村子になった。

しかし、そういう誰がヒーローであるかは関係ないかもしれない。なぜなら、甲子園にやって来て、
一戦一戦重ねるうちに、よくまとまったチームという平凡な評価から、
底知れぬ潜在力の恐るべきチームという、特別の評価に塗りかえて来たのは、
全員の成長が一致した結果であるからだ。 強くなる、うまくなる、大きくなる、そして、バケる。


( 柳ヶ浦6-5仙台育英 )

379名無しさん:2019/01/06(日) 10:28:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月20日  準決勝   「  ジス・イズ・高校野球 」


甲子園の土かき集める子らの背に 雲たれこめて 遠雷ひびく

惜敗の佐久高校が 八部の満足と二分の悔恨で やや足取り重く甲子園を去る時

さしもの猛暑の夏も 不安定な気圧配置に揺るぎながら 秋へ傾いて行ったのです。


しかし それは ただ感傷に満ちた景色ではなく 夏を駆けぬけた少年たちへの

充分な賛辞を含んだもので 熱さは半分残っていました

きみたちの第一戦を記したノートに ジス・イズ・高校野球と 私は記しました


高校野球は高校野球であり ベースボールでも 野球でもないのです 

独特の美意識と品性が 勝利の価値に優先する 心の野球が高校野球です

時代とともに変化するものがあっても それはそれ当然です

しかし 決して風化させてはならないものが そこに存在するのです 


きみたちのこの夏の活躍は それを証明したと云えるでしょう  ジス・イズと書いたのは

それ故のことです 佐久高校 見事でした 

プロの子とクラブ活動励む子が 好敵手たり得る 今であれば



準決勝というのは、残酷な一日である。勝ち残って来てはいるものの、三試合、四試合を
戦ったあとであり、肉体的疲労からいうと極限状態にある。 
しかし、精神的には、勝ち進んだ自信と、この先もまだ行けるという昂揚で、一種のハイ状態にある。

残酷な一日というのは、それらの結果が、極限状態であらわれるのか、ハイ状態であらわれるのか、
誰にもわからないことである。 肉体の疲労を自信の勢いが補ってくれそうな気がするし、
疲労が精神の緊張を断ち切ってしまいそうな気もする。
わからない。ちょっとしたプレイ一つで、どちらの目が出るかもしれないからである。

毎年、準決勝は、死闘か大差のゲームかのどちらかである。 佐久と佐賀商は、
緊張のままに好試合を作り得たが、樟南と柳ヶ浦の一戦は、全く反対のケースで、
一方的な試合になってしまった。


( 佐久2-3佐賀商、延長10回サヨナラ勝ち )

380名無しさん:2019/01/06(日) 11:28:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1994年8月20日  決勝   「  完全燃焼 」


百三十六球目は 魂そのものだった 打者のバットを空を切らせるに充分の 祈りがこめられていた

百三十七球目は 力のある低目のストレートで しかし 魂も祈りもいくらか薄らいだか

打者の一振りは快音を残して 満塁ホームランとなった 佐賀商8-4樟南


一球の明暗は 勝者に赤いリボンを 敗者に青いリボンを与えることになった 

おそらく 魂が炎となり 蒸気となり 次なる集中が行われる前の ちょっとした空隙の一球が

劇的であり 残酷でありする 決定的瞬間になったのであろう 


だが それは 人知を超えている 誰も責められない 天文的順列組み合せが

そこで合致したとしか云いようがない とにかく とにかく 稀に見る好試合の決勝戦であった


二十七・三度 くもり 時々小雨 熱波の夏は遠く去り 何か切なげな風も吹く中を 胸を張り

手を振り 足を上げ 堂々と行進しているのは 佐賀商高であった



一日でも長く、仲間と一緒に甲子園で野球をやっていたい、という選手のコメントをよく聞く。
監督もまた、子供たちと、と云い換えて、そういうことを云う。

この言葉が真実であるなら、佐賀商は、この夏最も長く甲子園にいて、最も長時間野球をやったことになる。
開会式直後の第一試合に登場し、最後の最後まで残ったのだから、これ以上の幸福はないに違いない。

おまけに、降雨中断とか、延長戦とかも組み込まれているのだから、滞在時間、実働時間の長さは大変なものである。
しかし、幸福とばかりは云っていられないこともあって、峯投手は、この間の七百八球を一人で投げた。
最大の幸福の優勝の感激が少し冷めたら、疲労回復を心掛けてほしい。

初日が三十八・八度、最終日が二十七・三度。 その差十一・五度、もう秋である。
そして、今年の高校野球は、ある意味で、「元年」だったなと感じている。



1994年の出来事・・・ リレハンメル冬季五輪 (夏冬隔年開催に)、 ルワンダ大虐殺、 松本サリン事件、

             大リーグでストライキ、 大江健三郎ノーベル文学賞。

381名無しさん:2019/01/06(日) 12:35:02
☆  1994年  決勝   「 佐賀商 8—4 樟南 」   



記録的な猛暑に見舞われた1994年夏の選手権は、
神がかり的ともいえる満塁本塁打によってフィナーレを迎えた。

4—4で迎えた九回表。 二死満塁で打席に立った佐賀商の西原は、不思議な感覚を味わった。
「 ボールが投手の手を離れてから少しずつスローモーションになっていったんです 」。


初球から積極的に打つタイプではなかった。 しかし、初球の低め直球に体が勝手に反応。
ボールがバットに当たる瞬間まで、はっきり見えたという。 究極の集中状態だった。
打球が左中間席に届く前から西原は右手を突き上げていた。

西原は後の取材で「 試合直後は『直球を狙っていた』と言いましたが、興奮して思わず出た言葉。
直球がくる予感はあったが、本当はなぜ初球から打ったのかも分からないんです 」と振り返った。
ベンチに戻ると手がぶるぶると震えていたという。 「 野球人生で一度きりの体験でした 」。


24年前のシーンを、エースの峯は「 一瞬、グラウンドの歓声が消えた 」と記憶している。
裏の投球に備えて一塁ベンチ前でキャッチボールをしていて、満塁本塁打の打球がよく見えなかった。
「 何が起こったんだろうと・・・。
そしたらまた歓声がワーッとなって、それで初めて満塁本塁打だと分かりました 」。

峯にとって、周囲の音が耳に入らなくなるほど強烈な瞬間だったのだろう。
2年生だった峯は、佐賀大会では背番号「11」。
甲子園で「1」を背負ったが、スタミナに自信があったわけではない。


冬場に練習過多で足がはれあがり、2カ月ほど練習できなかった。 そこで、投球術の改善に取り組んできた。
「 全力投球は頭になかった 」。 マウンドで次打者の 素振りにまで目を配り、狙い球を外す技術を磨いた。

甲子園で努力が実った。 準々決勝から3連投のマウンド。 体が重く二回に3点を失い、
あと1失点で投手交代だったという。 そこから立ち直った。
途中から疲労のため軸足に力が入らなくなったが、打者への集中力は研ぎ澄まされていった。


「 七、八回は投球内容もはっきり覚えていない。なぜ抑えられたのかもよく分からない 」。6試合で708球。
峯以降、マウンドを一度も譲らずに夏の全国選手権の頂点に立った投手は出ていない。

九州勢同士が決勝を戦ったのは、この大会だけだ。 大方の予想は「 樟南有利 」だった。
樟南は前年春夏の甲子園でも活躍した福岡と田村の強力バッテリーを擁し、大会前から優勝候補に挙がっていた。
佐賀商は「 無印 」で、田中公士監督は試合前から「 大差で負けるかも 」という不安でいっぱいだった。


当時の朝日新聞鹿児島版に掲載されたエピソードが、両校の「 格 」を如実に表していて面白い。
開会式リハーサルで、樟南バッテリーを佐賀商の控え選手数人が遠巻きに見ていた。
居合わせた記者が「 声をかけてみたら? 」と促すと、
佐賀商の選手は「 いえ、後ろから見ているだけで十分です 」と答えたそうだ。

 

〈みね・けんすけ〉 1977年、佐賀県多久市出身。
佐賀商2年の夏、6試合を投げ抜き優勝投手となった。
JR九州を経て、現在は同県小城市の医療法人ひらまつ病院ひらまつクリニック事務長。

382名無しさん:2019/01/12(土) 10:03:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月7日  一回戦   「  種まく人 」


甲子園とは何だ 才能の種まく人の夢の農場か 種で才能はわからない 芽でも未来は予測出来ない 

ましてや 木の高さ 花の大きさは しかし 種まく人の心の中には 巨木に育つ夢があり

満開の花に酔う幻想があり だから 来る年も 来る年も 丹精こめた一握りの種を摑んで

甲子園を訪れ そこに夢いっぱいの祈りとともに 種をふりまく 


他では決して育たない種が 他ではゆるやかにしか伸びない芽が 他では ささやかにしか咲かない花が

この豊饒の陽と風と土の甲子園で 奇跡のように 育ち 伸び 咲くことを 種まく人は知っているのだ

甲子園は栄光の舞台ではない 甲子園は夢の培養器なのだ


仙台育英 竹田利秋監督 この人もまた たくさんの種をこの地にまいた 

そして 去る 東北に大旗の夢は あと一歩で届かなかったが しかし 

まきつづけた種は確実に甲子園の芝の間にひそんでいる



試合としてのレベルが高かったか、低かったかは別として、開会式直後の第一戦、
仙台育英と関西のシーソーゲームは、何かを予感させるドラマティックさを含んでいた。 
予感とは、祈りや願いに通じるもので、今年は何が何でも面白く、熱く、劇的で、
見事であってほしいと思っているからである。

高校野球にこれほどまでの期待を抱くのは、もしかしたら、終戦後の復活第一回以来のことかもしれない。
それほどに、人々は暗く、萎えて、日常の中に歓喜や興奮を見出せなくなっているのである。

まず感じたのは、ブラスバンドが戻って来た、という思いであった。
春のセンバツ大会では、阪神大震災を受けて自粛であった。

賛否両論いまだにいろいろとあるだろうが、今年の夏だけは、明るく、にぎやかな方がいい。
そして、夢とか、希望とか、自信とかいった言葉を、もう一度思い出させたい。


( 仙台育英7-8関西、サヨナラ勝ち )

383名無しさん:2019/01/12(土) 11:10:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月8日  一回戦   「  伝統と変化 」


伝統を維持することは 上手に変化を取り込むこと 決して変わらないという頑固さでは

伝統は枯れてしまい生命を失う  ただし 変化が表立ってしまっては 

これは違うものになってしまうから  そこのバランスが難しい 


高校野球も七十七回となると これはもう立派なスポーツで あれやこれや良いことも悪いことも

確立してしまった部分がある そのイメージから少しでも外れると らしくないと云われがちだが

だが これから先も 伝統の名のもとに生きつづけるなら 変化に寛容で 

変化を面白がる精神が必要になる


たとえば 山梨学院大付高 このチームのこの日の試合は 高校野球の一つの変化

甲子園戦法の大いなる破調 つまりは その伝統を時代の中で孤立させ 

精気のない陳列物にしないため 記念すべき一戦と云えるかもしれない 


おそらく 甲子園雀は バントを一度も試みない戦法に しばしば啞然とするだろうが

のびのび走りまわる選手たちの 失敗をおそれない勢いに ああ これが時代なんだ

時代の中の高校野球だと 納得するに違いない 風が吹いたのだ 変化につながる風が



何も、これからの高校野球は、すべてこうならなければならないということではないのである。
たった一つのイメージ、たった一つの戦法しかないという思い込みが、硬直させるのであって、
マニュアルを捨てよ、自らの目で甲子園を確認しようと言いたいのである。

たとえば、野球というゲームの解釈にしても、とにかくホームへ接近するゲームだと
理解している人もいれば、アウトにさえならなければ何点でも入ると考える人もいる。

一人を生還させるために一人は犠牲になるというのも、また、何とかみんなが生きようと考えるのも、
野球の哲学である。 どちらであってもいい。

甲子園という巨大な場、高校野球というもの凄い伝統、これらに立ち向かうために、
それぞれの学校が、それぞれの指導者が、それぞれの哲学でぶつかることが、
「高校野球は永遠です」につながると思っている。


( 山梨学院大付7-5鳴門 )

384名無しさん:2019/01/12(土) 12:17:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月9日  一回戦   「  奇跡ふたたび 」


この青い青い夏空は いつかどこかで見た記憶がある 黒い土の上でさらに黒く

くっきりとした影法師もまた 心の襞からはい出して来る記憶である 


そして ふくれ上ったアルプススタンド 一球一球の歓声 愛して愛してやまない母校という熱狂 

勝利の瞬間のバンザイ バンザイ  そうなのだ いつかどこかで見た幻想の高校野球

そう 韮山高校は 初出場でありながら そんな懐かしい懐かしい思いを 見る者に感じさせた


静岡県代表 韮山高校 初めてであって初めてでない 高校野球ファンの記憶の中に

伝説的に棲みついた名門校 たった一度の春の奇跡を 人々は忘れることが出来ないから
 
初めてであって初めてでない いつかどこかで見たという思いに 思わず涙ぐみたくなる


春の奇跡は四十五年前 長い長い空白は 国を変え 時代を変え 人間を変え さらに

野球を変えているのに なぜか 韮山の野球は タイムマシーンそのままで 空白の時も何のその

またまた同じ奇跡を 起しそうな気がする しかも さりげなく さわやかに



韮山高校の春の奇跡は昭和二十五年、ぼくが中学生の頃である。
それなのに、大変なことのように記憶している。 その時のバッテリーが東泉、鈴木であったことも覚えている。
初出場初優勝の快挙というのが衝撃であったのかもしれない。

その三年後、高校生になったぼくは、自分の通う高校が同様の初出場初優勝の偉業を成しとげる経験もする。
洲本高校である。 しかし、それによって、韮山の記憶が薄れたり、衝撃が消滅したわけではない。
ちゃんと生きつづけていた。

四十五年前というと、テレビの無い時代であるから、試合っぷりの細部に心うたれたということではない。
あくまでも、大摑みの情報によってそんな気持になっているのだから、人間の記憶は不思議なものである。
そして、今年、韮山はまたやりそうな気がする。 ぼくは伊豆の住民になっている。


( 韮山12-2田辺 )

385名無しさん:2019/01/12(土) 15:05:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月10日  一回戦   「  ワンチャンス 」


その時 フッと すぼめた唇で羽毛を吹くように 神様はチャンスをくれた

風に舞う金色の羽毛に 気がつくもつかないもセンス次第 それを手に出来るか出来ないかは

まさに 力次第 初陣の旭川実は 思いがけなく目の前を掠めるチャンスを 見事にものにした


ワンチャンス 価値あるワンチャンス そして 選手たちにとっては この試合だけではなく

次の試合も いや 将来までも 大きく試されるような 神様が仕掛けた踏み絵

たった一度の力試し運試しに きみたちは勝った


四回裏 打者10人 一挙5点 金色の羽毛をしっかりと口に銜え この時とばかりに走ったきみたち

大きく運命を支配する気の力と 体の中に満ちたエネルギーが 一体化する快感を知ったに違いない


それを感じるために 野球をやり 甲子園に来 戦っているのだと知ったなら 大旗に勝る宝物かもしれない

初出場が 古豪を相手に あざやかに勝利を得た瞬間 きみたちは 神のテストに合格したのだ



その一回だけ、あまりに見事過ぎて、思わずこんなことを思ってしまう。 しかし、野球とは、甲子園とは、
常にそういう一瞬をはらんでいるから面白い。 要は、その一瞬をドラマティックに仕上げるセンスと
能力があったかどうかということで、旭川実には、それがあったということである。

四回の猛攻のきっかけとなったのは、坪崎の内野安打であったが、バントで二進したところまでは
セオリーの中の出来事である。 その次の三盗で、いわば、音楽が鳴り始めた。
三盗が野球をドラマに変えたのである。

試合のことにもう少しふれるなら、旭川実のリリーフの川村の冷静さと、計算高い投球を評価したい。
助演賞だろう。 それにしても、松山商というと、高校野球のビッグネームである。 かつてなら、
初出場の高校などは名前に怯んだ。 怯まない者は意識過剰になったが、今は違うらしい。


( 旭川実5-4松山商 )

386名無しさん:2019/01/13(日) 10:02:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月11日  一回戦   「  誇りと自信 」


ありがとう ありがとう ありがとう 好試合 緊迫の 白熱の 壮絶の 劇的の

それでもまだ言葉足りない 究極の好試合をありがとう


勝った観音寺中央には もとより絶賛の拍手だが それよりも 春の王者を追いつめ 追いつめ

勝利の90%を掌中にしながら 無念の涙を呑んだ宇都宮学園に くり返し ありがとうと云いたい

「高校野球は何処へ?」 と憂えて問う人たちに 「高校野球は此処に」 ときみたちは答えたのだ


それにしても 嗚呼! 勝つことが如何に難しいことか 少なくとも三度 これで勝ったと思えた時があり

そもそも 突然の黒雲 ポツリと来る雨 一瞬のちの豪雨 四分間の中断 そして 同点 逆転

流れはすべてきみたちにあった だが しかし 勝利の女神は微笑まなかった


残念か 口惜しいか 無念でたまらない思いもあるだろう しかし ここで 勝者に学ぼう

彼らが流れまでも逆流させたのは 一つは 誇り 一つは 自信 この二つにほかならないことを



青空は消えたが、気持は晴れ晴れとした。今大会初と云っていいくらい、裏表十八回のすべてに緊張が
満ちていて、これこそ高校野球という思いがしたからである。 それまでは正直なところ、いくらかの心配と、
失望もあったのである。

観音寺中央は春の優勝校ではあるが、それまでは誰も知らなかった。 カンノンジではなく、
カンオンジだというのも、四国以外の人では初知識という人も多いはずである。

春の優勝も、何となく微笑ましい感じのそれで、ぼくなども、何となく青春小説ふうの気分で見つめていて、
夏の出場は危ういだろうぐらいの見方をしていたのである。

しかし、日本一になるということは、只事ではないことで、選手一人一人の、さらに、
その細胞の一つ一つにまで誇りと自信が組み込まれているように思えた。
それは同時に、ぶざまになれない責任でもあるようだ。


( 観音寺中央8-6宇都宮学園 )

387名無しさん:2019/01/13(日) 11:06:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月12日  一回戦   「  記念日 」


たぶん 数年後 一人のスラッガーが時代に君臨していて その彼の鮮烈の記念日が

平成七年八月十二日だと 語り合うに違いない

特に この日 甲子園球場を脹らませた 五万四千人の人々は 瞼の裏にやきついた英姿を

何度も何度も再生し 一代の自慢のように話すことだろう


「そうだよ あの日なんだよ」  「あの日のヒーローと認知されたんだよ」 

記念日とは 記念の誕生日ではなく 人々の心に衝撃的な印象を残した その日その時のことを云う


PL学園 福留孝介 超満員の客の熱い視線の中で すごいことをやってのけた

それも 偶然の殊勲打ではなく 誰が見ても 力そのもの 才能そのもの センスそのもの


疑いようもない見事さで 甲子園は一瞬静かになった 納得したのだ 戦慄もあっただろうが

より多くの快感に 敵も味方も酔いしれたのだ そして この場に居合せた幸運を嚙みしめ

近い将来 今日この日を 記念日と呼ぶだろうと思ったのだ



今年の大会には、いくつかの不満があった。 本塁打が少ない。 完封試合がない。
本格派投手がいない。 エラーが多い。 ちょっとしたことで試合がこわれ、大量点を許してしまう。

スターがいない。 客が少ない。 応援団も寂しい。 三者凡退が少ない。 1対0の試合がない。
試合時間が長い。 投球の間合も長い。 魅力ある敗者と感じられない。
順不同で不満を書きだしてみると、こうである。

そして、これは、高校野球にとっては由々しき問題であると思っている。
一時間五十分くらいで終わる試合があっていい。 三者凡退まで魅力に思えるのでは困るのである。

しかし、福留孝介選手の衝撃の活躍で、本塁打が少ないも、応援団が寂しいも、解決されたように思う。
特に、スターに関しては、胸ときめくものがある。 スターと人気者は違う。
人気者は時代の中の玩具だが、スターは、時代を玩具に出来る存在で、彼にそれを期待する。


( PL学園12-3北海工 )



福留孝介・・・中日、阪神、270本塁打、1808安打、現役中。

       インディアンス、ホワイトソックス、42本塁打、498安打。

388名無しさん:2019/01/13(日) 12:06:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月13日  二回戦   「  不死鳥 」


友へ 見てくれましたか 兵庫県は不死鳥です 何度でも生命を復活させる

奇跡の鳥です はばたけば風が起ります 飛べば明日が見えます 鳴けば元気がとび散ります


友へ ぼくらもまた 決して挫けることのない 生命の子供です それが証明出来たと思います

絶体絶命の危機を脱した時の 小さなガッツポーズを ほんの一握りの挙だけの

しかし 充分に力と心のこもった 快心のポーズを


元気が伝わりましたか 感謝が届きましたか 甲子園発のメッセージです 

いま ここにいることの幸運と ここで野球をやれることの幸福を そして 

多くの人の愛を感じたことの歓びを ぼくらはプレイすることで 表現したいと思っているのです 


友へ やりましたよ ぼくらは 三時間二十分も めいっぱいの健闘を見せましたよ

元気です 元気です あいつらオバケだと 手を叩いて下さい

震災地兵庫代表 尼崎北高 延長13回サヨナラ負け しかし 拍手 拍手



九回裏、同点に追いつかれて、なお二死満塁、勢いからいってサヨナラのけはい濃厚であったが、
救援の二年生投手山内はがんばって、三振に取る。
その時の、誰に見せるでもない小さなガッツポーズが、すべてを云いつくしているように思えて、
あたかも、彼が語るかのような詩を書いた。

全国49代表の中で、ここにいることの幸運と、ここで野球をやれることの幸福を、
実感している人たちは、そんなにはいない。
しかし、唯一、尼崎北の選手たちはそれを知っている筈である。
幸運は本当に幸運であり、幸福は本当に幸福であると、彼らはわかっているのである。

そして、この一戦、敗れはしたが、それらのメッセージは充分に伝わったと思う。 
延長戦になってから、甲子園へ急ぐ客を大勢見かけたと報道していたが、
まさに、心が届いたということだろう。  


( 尼崎北6-7青森山田、延長13回サヨナラ勝ち )

389名無しさん:2019/01/19(土) 10:06:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月14日  二回戦   「  優良試合 」


小さくあれとは云わないけれど 窮屈であれとは求めないけれど 自然で正直な野球もあっていい

ボールを返されたらすぐに投げ ボックスに入ったらむやみにははずさず 

その瞬間の勝負に目を輝かせ 火花を散らすことのみに専心する 


奢らず 悪びれず ただひたむきに 慌てず 怯えず 逆上せず かといって 過剰に余裕を示さず 

軽々しく自慢せず あくまで謙虚に自分を知り 黙々と闘う姿も美しい


強い打者だからといって逃げず 何かというと 寄り集まって相談することもなく ベンチの顔色も読まず

よけいなパフォーマンスもせず キビキビと全力を尽くす そんな高校野球をぼくは見たい


星稜・県岐阜商 一時間四十五分の優良試合 気持に遊びを加えず プレイの無駄をはさまず

必要以上の笑顔や これ見よがしのポーズがなければ 一つの試合は 一時間四十五分で終わるという見本

よく鍛えた若い肉体が 理にかなった動きをするのは それだけで気持がいい 星稜・県岐阜商 まさに 優良試合



いくらかは気のせいもあるのかもしれないが、高校野球の試合時間がどんどん長くなっている。
この連載は十七年目だが、当初は、一日四試合の日でも五時半には終了していた記憶があるから、
気のせいばかりではないと思う。

ぼくは、高校野球の試合は短ければ短いほどいいという暴論の持ち主である。
どうすれば、短い試合が出来るかと考えることが、強くなるもとにもなると考えている。
そして、美しくも、面白くもなる筈だと信じている。

無駄ダマ、悪しきコンビネーション、無意味な牽制球、過剰なシフト変更・・・
緊張の糸が切れる要素がいっぱいある。 自らが切って、力を失わせている。そんなことを思っていたら、
一時間四十五分の、それでいて中味の濃い試合を目にし、思わず「優良試合」と書いたわけである。


( 星稜3-0県岐阜商 )

390名無しさん:2019/01/19(土) 11:02:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月15日  二回戦   「  終わらない祭 」


長い長い 熱い熱い 終わらない祭の中にあって 身も心も水分を使い果したような そんな試合であった

夏の陽は傾き 影は伸び しかし 沈むことを忘れて 甲子園はギラギラと 祭の興奮をかき立てつづけた


旭川実・鹿児島商 想像を絶した死闘熱闘は 15対13 まるで書き過ぎたドラマのように 劇的に幕に近づき

そして 意外な結末の幕を下ろした 八回までは もしかしたら 只の乱打戦であったかもしれない


しかし 2点をリードされた 旭川実の九回表の攻撃は 祭であれ ドラマであれ 戦慄しそうな成り行きで

この回だけで見た甲斐はある 鹿児島商のレフトの超ファインプレーで 走者ともども併殺となり

敢闘もここまでかと思われたが 


次の瞬間 岡田の放ったホームラン それでもまだ1点足りない状況で

三塁線の打球の神がかりのバウンド 執念が幸運を呼ぶのか 祭はふたたび上り 

ついに逆転となった 旭川実・鹿児島商 この一回の攻防をもって 長く記憶に残るに違いない



今日は、五十回目の終戦記念日である。 特に、五十年、半世紀という区切りの年にあたり、
あらためて戦争とはと問い返し、この五十年とは一体何であったのかと、考えるべき時に来ていると思う。

毎年、正午に、試合を中断して黙とうを捧げるが、今年の感慨はまた格別で、
少年たちに語るべき多くのことを思いながら、影になったような選手たちを見ていた。
そして、五十年前 誰が 投げ 打ち 走ったか という詩を書くつもりにしていたのである。

旭川実ー鹿児島商の派手な打ち合いを面白がって見ながらも、まだ、頭の中には、
どう書くべきかと考えつづけていた。 そして、九回である。 この一回を見た途端に、今、
この場の野球の興奮を書くことが、平和のメッセージになるとテーマを変えた。


( 旭川実15-13鹿児島商 )

391名無しさん:2019/01/19(土) 12:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月16日  二回戦   「  怪物封じ 」


どうせやるなら 強い相手がいい 猛練習の成果を試すには 頂点を臨むようなチームと

ぶつかることが望ましい 力は勝ったか 技はどうか 精神力は対等だったか

それを知るためには 強い強い相手に 正々堂々の戦いを挑まなければ 答が出せない


どうせ投げるなら 凄い打者がいい 天才とか 怪物とか あるいは 人の心までもつかんいるスターとか

気迫で圧して来る打者がいい 五万人の目の中で 一球たりとも気の抜けない思いで

投げ込むことが出来たなら 投手としての何よりの幸福だ


かわすとか はぐらかすとか 危いから敬遠するとか そんなことを思うくらいなら 初めから勝負を望まない

気持が逃げたら 体が逃げる 体が逃げたら ボールが逃げる だから 目をそらさず 間合いも作らず

平然といちばんいい球を 心とともに投げる 


城北 楢木貴晴投手 PL福留選手を二三振 無安打 魂の投球の怪物封じ 静かな決闘は福留に勝ったが

試合は無念にも敗れる  だが いつか 怪物を封じた男といわれるだろう



甲子園に客が戻って来ている。 満員札止めで、なお、ウエイティングの人たちが行列を作っているという。
もちろん、PL学園人気、中でも、前の試合で十年ぶりの逸材と力を誇示した福留人気ということもあるのだろうが、
前日の旭川実と鹿児島商の壮絶な試合をはじめとして、高校野球の面白さの再認識ということがあると思う。

さて、その過剰な期待の中で、注目の福留選手は、正直なところ、不発であった。
しかし、これは、城北の楢木貴晴投手の投球を評価したい。 実に見事に投げた。

一回戦の桐生第一戦では、安打も十数本打たれているし、
これといって印象に残るところのない平凡な投手に思えた。 ところが、この試合では見違える。 
それはおそらく、目標があったことと、逃げないという決心がそうさせたのだと思う。


( PL学園3-1城北 )

392名無しさん:2019/01/19(土) 13:05:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月17日  三回戦   「  ライバル 」


ナンバーワンはどっちだと ともに思ったに違いない そして ひそかに 熱いものを呑み込みながら

それは自分だと マウンドに立った筈である ともに ここまで勝ち ともに左腕 その上

遠い少年の日からの ライバル意識を背負ってだから 負けるわけにはいかないのだ


星稜 山本省吾  関西 吉年滝徳  いつもあいつがいたと 思ったことだろう

いつか決着をつけなきゃと いくらか劇画めいて考えただろう 舞台は夏の甲子園である

左腕ナンバーワンは 譲るわけにはいかないと・・・


ライバルがいると少年は伸びる ライバルに対すると アドレナリンが倍になる 力が出る

技が磨かれる 目が輝きを持つ 心が大きくなる しかも 決して退けない 危機感も同時に持つ


星稜・関西  どっちが勝って どっちが負ける ナンバーワンもどっちかの胸に飾られる

しかし この日 この時 ライバルを感じて投げ合った ピカピカの勲章は 両者の心に飾られる



ぼくが、この試合に夢見たのは、1対0の試合であった。 今年の大会、まだこの1対0がない。
こだわるようだが、高校野球の大会には、この胃の痛くなるような投手戦が不可欠で、
そういうのが何試合かあって、乱打戦も、奇跡の逆転も興奮するのである。

その貴重な1対0が、もしかしたら、星稜と関西の一戦では見られるかもしれないと、
期待したのである。 関西の吉年、星稜の山本、今大会を代表する左腕投手で、
彼らが、本領を発揮するなら、青い火花がチリチリと散るような展開ののちに、1点が如何に大きく、
重いかを知らせて終わる、そんな試合になる筈だと思ったのである。

しかし、残念ながら、そのようには運ばなかったが、両投手をかき立てる内なる闘志を核にして、
いい試合になった。 特に、九回裏の星稜山本の三者三振は、1対0の緊迫さえ思わせて感動した。


( 星稜4-2関西 )



山本省吾・・・近鉄ドラフト1位、近鉄、オリックス、横浜、ソフトバンク、通算13年、40勝42敗2セーブ。

吉年滝徳・・・広島ドラフト2位、広島で1999年に4登板のみ。勝ち負けなし。2000年に戦力外通告。

393名無しさん:2019/01/20(日) 10:02:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月18日  三回戦   「  満足の夏 」


朝のけはいの中で既に 気温は三十度 もどり夏の酷暑にまみれて 延長十五回

百九十三球を投げた敗戦投手の顔は 晴れやかとはいえないまでも 満足感にあふれたものであった


柳川高・花田真人投手 唇こそ固く結ばれて 大いなるくやしさを表わしているが 黒々とした瞳の奥の奥に 

悲しみをこえた和みを見た きっと 彼は 恍惚とするほどの満足を 自分の中に感じたのだ


投げられない投手 走るだけの投手の期間を 黙々と耐え いつの日にかという思いを

かすかな希望の灯として 泣かず 嘆かず こぼさず 挫けず 黙々と 黙々と 

過したに違いない投手の晴舞台 見事に 見事に復活して 熱投を見せたのだ


敗れはしたけれど 多くのことを証明した もう大丈夫 これならやれる 

甲子園は 黙々の努力に報いるに充分の 少年の美しさを称え 投手としての輝く素質を認め 

彼を送り出した 百九十三球 まさに満足の夏 



準々がいちばん面白いというのは定説であるが、今年に限っていうなら、準々より一日早く、
三回戦の二日目が異常な昂りを見せた。 延長十五回を投げ合った敦賀気比の内藤と柳川の花田の力投。

その静かだが緊張に満ちた長い試合を幕あけとして、四試合がそれぞれドラマティックに展開し、
中には意外な結末もあった。

第七十七回大会を盛り上げた今年の華が、すべて顔をそろえた一日であるから、面白くないわけがない。
「忘れ物を取りに来た」と豪語するだけあって、スキのないチームとなった敦賀気比。
自分の世界を持っているという韮山。 古豪を全部打ち破った初出場旭川実の奇跡的な快進撃。
逸材の福留が注目される候補のPL学園。

彼らがすべて彼ららしく、最後の猛暑の中に躍ったにぎやかな一日。 
ぼくはいちばん静かな花田投手に魅せられた。


( 柳川1-2敦賀気比、延長15回サヨナラ勝ち )

394名無しさん:2019/01/20(日) 11:07:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月19日  準々決勝   「  PL敗戦 」


ゲームセットの瞬間の 何ともいえない悲鳴を含んだどよめき それが一つの決着を示して鎮まると

勝利を称える喝采と 強敵を倒した歓喜がオーバーラップして 甲子園を包んだ 


PL学園敗れる いや 智弁学園勝利する いずれの感じ方をしようが 人々はこの時に 

これは事件だと 思ったに違いない どんな時であっても PL学園が敗れるということは

高校野球にとっては 大きな 大きな事件で 何かが変わる一瞬かとも 重大に考えてみる


直接に対戦しようがしまいが 四千校をこえる高校のほとんどが PLを仮想敵として

チームづくりをしてきたといっていい 敵という言葉が過ぎるなら 到達したい理想でも

打破したい壁でもいい だから PL学園には普通を求めない 普通の高校生といってほしくない 


数少ない特別を 彼らに求め 夢見つづけてきたのだから そういう時代が もう二十年にもなる 

事件とは 自らの理想を失うのではないかと 恐れることである



PL学園は八年ぶりの出場である。 空白の期間がずいぶんと長い。 
このくらい長いと、時代はすっかり変わり、もうPLの時代ではないといわれる筈なのに、
新しいリーダーが誕生しなかったのか、そのまま八年前に繋がって、イメージとしては格別であった。

四十九代表は全て対等で、いや、厳密にいうと四千九十八校がみんな同格で、と考えるのが
正しいことなのだが、それでは、進歩にもつながらないし、活況が生れることもない。
どこか、誰か、特別の力で引っ張るところがあってこそ、大きなうねりとなって前進するのである。

それがここ二十年近い年月の間は、PL学園であったということで、
そこが敗れると「事件」になるのも当然である。 しかし、何から何まで特別であったPL学園チームに、
ずいぶんと普通の顔がのぞいたことを、どう考えるべきか悩んでいる。


( 智弁学園8-6PL学園 )

395名無しさん:2019/01/20(日) 12:06:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月20日  準決勝   「  今年の華 」


読唇術ができるなら あぁ 読唇術ができるなら 孤独のマウンドの投手のひとりごとを

聞いてやることも可能なのに 握りしめた白球に強い視線をあて 小さく唇が閉じたり開いたり


それは 明らかに語りかけ 投手とボールが一体となるための 神々しいほどに孤独な儀式

何を願うのか 何を祈るのか それとも 何かを命じるのか 投手以外の誰も知らない


敦賀気比 内藤剛志投手 酷暑の中の三日連投 二百十三球 百二十九球 そして この日

百十二球 若い肉体を削るようにして投げた 三日間合計四百五十四球が光る


試合がどう展開して行くのか ドラマがどこで仕掛けられるのか 勝敗は何によって決するのか

そして 勝つのは誰か 敗れるのは誰か いろいろと心を魅了するものはあるが 投手のひとりごと

群衆の中の一つの顔が 誰にも聞こえない本心を発するさまは 胸が痛くなるような

涙を誘われるような感じさえする


野球とは 九十九の激情と 一の感傷の組み合せ そして 一の印象が勝ることもある

内藤剛志投手 今年の夏の華でした



美しさには、いたいたしさが伴う。 いたいたしいから美しいともいえる。
連続酷暑日の中での三日連投を、悲壮感だけで絶賛するのは、一方では問題を含んだことかもしれないが、
内藤剛志投手には、悲劇を超えた凄さがあった。 
だから、ほめて書く。 可哀相になどとは、とても云えないのだ。

さて、準決勝は引き締った。 常識的に考えると、疲労も極に達し、ともすれば一方的な試合か、
乱打戦になりがちなのだが、星稜と智弁学園も、帝京と敦賀気比も、ともに緊張感の満ちた好試合で、
一回戦あたりで感じたさまざまの不満や不安も解消してくれた。

一試合目が終わって星稜の決勝進出が決定した時、多くのロマン好きの甲子園ファンたちは、
敦賀気比との「日本海決戦」を夢見たに違いない。 それを打ち砕いた帝京は、ちょっと損な役まわりだが、
一試合目に比べて別チームのように仕上げたのはさすがである。


( 帝京2-0敦賀気比 )



花田真人(柳川)・・・中央大学、ドラフト5位でヤクルト。通算10年、10勝7敗2セーブ。

内藤剛志・・・駒沢大学、JR東海。

396名無しさん:2019/01/20(日) 13:16:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1995年8月21日  決勝   「  夢・全国制覇 」


「全国制覇」の道は近くて遠い 「全国制覇」の壁は薄くて厚い 「全国制覇」の夢は軽くて重い

しかし 「全国制覇」のゴールは決して逃げない 


近づいて行く熱と力があればいい だから 星稜高校 今日の涙で明日も走れ もう一歩

もう一息 もう一段 もう一押し 優勝と準優勝の差は実に このもう一歩にあり

それは九十九歩よりはるかに困難で 考え深い一歩だと知らされる


重々しい一歩の痛々しい経験は 必ずや 栄光を踏みしめるための 一歩になるだろう

もうきみたちは神に予約したのだ 
 

帽子に書いた「全国制覇」の文字は きっと汗でにじんだことだろう 道の遠さ 壁の厚さ

夢の重さ それらを嚙みしめ 嚙みしめ にじんだ文字を 心と体にプリントしよう


北陸へ大旗の夢は 正夢を八割見させて 満身創痍の星稜ナインたち きみらが彩った

平成七年の夏は おぞましい世相をしばし忘れさせる 熱くて 涙ぐましくて さわやかなものであった

まだ 夏 今年は芝生に赤とんぼも舞わない 暑い暑い 熱い熱い



思えば、平成元年、あの大越投手を擁して仙台育英が、「みちのくへ大旗を」の夢のもとに快勝をつづけたが、
それを最後の最後、打ち砕いたのが帝京であった。
そして、今年、北陸の雄の星稜が、「北陸へ大旗を」と、高校野球史の色を塗りかえるほどの力を発揮したが、
それもまた、帝京によって阻まれた。

巡り合せの問題ということもあろうが、別の考え方をすると、新しい夢を実現するためには、
帝京を打ち破らなければならないという現実があることに気がつく。

PL学園以後、仮想の敵が存在しないと書いたが、帝京は、イメージまでリードできるかどうかわからないが、
厳然とした「壁」になっていることは否定できない。 
帝京で感心するのは、いつも、決勝戦でベストになることである。 象徴的なのは白木投手で、
最後で堂々のナンバーワンになった。


( 帝京3-1星稜 )



1995年の出来事・・・阪神大震災、 野茂が大リーグ移籍、 地下鉄サリン事件、 1ドル=79・75円

            殺人の時効廃止、 高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩

397名無しさん:2019/01/20(日) 15:21:03
☆ 江夏の夢



甲子園に出場しなくても「 伝説 」は生まれる。
阪神のエースから優勝請負人と呼ばれ、球界のレジェンドとも言うべき江夏豊は高校時代、
あこがれの甲子園大会への出場は叶わなかった。
大阪府大会6試合で計81三振を奪った「 あの年 」を江夏が振り返る。


毎年8月の甲子園大会、その開会式を江夏は自宅テレビの前で正座をして見守るという。
阪神のエースから日本ハム、広島で不敵な面構えからの投球術で相手打者を翻弄した江夏がだ。

「 70にもなってな。 恥ずかしいんだけど。 最近は膝が痛いので正座はなかなかできないんだ。
それでも背筋を伸ばして真剣な気持ちで見ているのは本当だよ。 そりゃあ、そうだろ。
甲子園はあこがれだったし、夢だったし。 出ることが最終目標だったよ。
あれが、やっぱりオレの原点なんだな 」。


高校は当時、有名ではなかった大院大高。
その頃の話になると、江夏は「 オレたちは『 私学6強 』と言ってたな 」と述懐する。
PL学園、明星、興国、大鉄、北陽、浪商・・・。
大阪で甲子園に出るのはこの学校のうちのどこかに決まっていた、と強調する。

そんな有名どころには行かず「 のんびり野球をやっていそうや 」
という理由で選んだのが大院大高だった。 甲子園にもっとも近くまで迫ったのは1966年の夏。 


江夏の活躍で準決勝まで進んだ大院大高を始め、北陽、大鉄、そして公立の桜塚が残っていた。
大阪・豊中市にある桜塚は、下手投げのエース奥田敏輝を中心に勝ち上がってきていた。

「 どこと当たるんかなと思ってたな。 抽選で桜塚に決まったとき、みんな、いや〜な気分になったもんだ。
PL、北陽、大鉄なら練習試合もしていたし、どんなチームか知っていたから。 自信もあった。

でも桜塚か。 元々は女学校だったらしいぞ。 勉強はできるらしい。 いろいろな話をした。
勉強では負けるけど野球では負けんぞ。 そう思っていたけど、みんな、いやな感じは受けていた。
奥田はそこまでオール完封。 相手が桜塚に決まったとき、みんな、下を向いてたわ 」。


江夏は66年のドラフトで阪神入りしたが、この奥田もその年にドラフトで指名されて阪神入り。
同期生になっている。 プロでの成績は大きく差がついたが2人は親友と呼べる仲になった。
故人となった奥田の話をするとき、江夏は柔和な顔になる。
だが、このときは甲子園を目指しての真剣勝負だった。


大阪・日生球場。その3回だ。 大院大高は遊撃の失策で走者を出してしまう。
江夏は一塁にけん制球を投げ、走者を誘い出すことに成功したが一塁手が二塁に悪送球。

次打者は送りバント。 三塁手がさばき、三塁カバーに入った江夏に送球したが、これも悪送球になった。
これで走者は生還。 決勝点になり、0-1で江夏の夢は散った。



江夏豊・・・阪神、南海、広島、日本ハム、西武、通算18年。 206勝158敗193セーブ。 MVP:2回。
      シーズン401奪三振(1968年)の記録は、たぶん破られないでしょう。

      奥田さんは通算2年で勝ち負けなし。2006年、57歳で逝去。

398名無しさん:2019/01/26(土) 10:10:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月8日  開会式  「  メッセージとして 」


それは もはや 儀式としての宣誓ではなく 幸運なクジを引き当てた人に許される

代表メッセージであると 考えた方がいいかもしれない 

このように致しますという 恭順の誓いというより こうしたいのだという 明らかな意志の表明 

荘重な言葉を探す姿勢は 若者を感じさせて嬉しい


中越高 儀同謙一主将 一分二十秒のメッセージ 如何にも自分の言葉だと云いたげな

語る言葉 告げる言葉 よかったですよ 


言葉を発する時に 緊張と興奮と歓喜と誇らしさで 身震いを感じることなど めったにない

考えに考え 練りに練り 一晩熟成させた大切な言葉を 1996年の夏を彩るために

堂々と声にするとなると 震えも来るし こわばりもする


しかし きみは 唇に粘りつく言葉を 力強く空に飛ばした 主役 仲間 表現 信頼 自信

キイワードは確かに 胸に届きましたよ



宣誓の最初の言葉が、アトランタの熱い感動の舞台は、であるように、確かに未だ、
オリンピックの余韻があり、残像が消えないでいる。

感動という言葉も、奇跡という表現も、いささか食傷するほどに使われた後なので、
今年の甲子園は、いくらか違った感じに見える。 
どうしても、世界一を競った驚異の人間たちが重なってしまうのである。

しかし、選手宣誓が主役の座を取り戻すと宣言したように、やがて、球児たちが夏に染まりながら、
興奮の劇場を構築してくれるだろう。 そのうち残像も消える。

アトランタで、砂を見た。 走り巾跳びで、勝者のカール・ルイスは、甲子園球児のように砂を持ち帰り、
敗者のマイク・パウエルは砂に埋もれて泣いた。 
世界一を競う人も、球児たちも、一瞬の激情に変わりはない。それを見たい。



( 倉敷工9-0中越 )  二回戦も5-3で東筑を破ったが・・・。
中原、福原のバッテリーは良かったね。 ガッツマンもいた。

それ故に、春の覇者、鹿児島実との試合は残念。 
スタミナ抜群の中原で行けば好勝負になった筈、相手はとても嫌がっていた。

中原君のようなタイプが夏の頂点へ立てる投手だと思う。
前年の佐賀商、峰投手が同じようなタイプだった。 二年連続の奇跡、一人の投手で頂点へ挑戦・・・。
この時に、一世一代の勝負をさせてあげたかった。
その後、どんな野球人生を送ったか知らないけれど、高校時代がピークだった投手は多い。

阿久悠さんの甲子園の詩にあったように、ワッショイ、ワッショイとエースを担ぎ上げて、
魔物の力も借りて、チャレンジしてほしかったね。 

この年は、強力な候補がいなかっただけに、今更ながら悔いが残る。
ベスト4 全て県立となった夏。 松山商、福井商、前橋工、熊本工。 
ここに倉敷工の名があっても、不思議ではなかった。

399名無しさん:2019/01/26(土) 11:05:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月9日  一回戦  「  勝利と健闘 」


全く 勝利とは何だろう 甲子園の一勝とは 如何なるマニュアルで得られるのか 訊ねてみたくなる
 
富山商にとって 九回二死まで掌中で実感していた 勝利という名の生きものが 

一瞬にして羽ばたいてしまったのだ そして 勝利という晴れがましさは 健闘という重々しさに変わった


史上五校目の 春夏連覇の偉業をめざす強豪校に 印象として圧勝し 現実として惜敗した

ああ この差の何と大きいことか 健闘という言葉は美しい 惜敗という言葉は涙ぐましい


拍手は勝者より大きい 賛辞も おそらくは倍する そして 自分自身 満足を覚える値打ちもある

歓びを見付けることも可能である 


しかし しかし 富山商の選手諸君 どうか 価値ある想い出としないで 本気で口惜しがってほしい

ほめられても ほめられても 口惜しがってほしい

やっぱり 勝利より大きい歓喜はないと これを機に感じてほしい



四年に一度、オリンピックが開かれる度にプレッシャーという名のお化けが顔を出す。
それから逃れるために、「オリンピックを楽しむ」という呪文を考えだしたが、これはうまくいかなかった。

するとまた、心やさしい人たちは、プレッシャーの存在を気付かせないようにしましょう、などと云っている。
大体、「楽しむ」という言葉を誤解している。 オリンピックを楽しむとは、メダルを狙うこと、記録を更新すること、
期待に応えることも可能であって、決して、オリンピックを楽に過すということではないのである。

プレッシャーのないオリンピックや、プレッシャーのない甲子園があるわけない。
プレッシャーがあってこそ成立する話なのである。 だから、高校球児も、選ばれてプレッシャーと対するのだと、
重圧と緊張を誇らしく思ってほしい。 
一勝することも、歴史的な春夏連覇を狙うことも、ともに、上等のプレッシャーである。


( 鹿児島実6-4富山商 )



Microsoft Edge(Internet Explorer)では、画数の多い漢字の一部が変換不良となっています。
Google Chromeの方で、正常にご覧になれます。

前項(398)の佐賀商は、前年ではなく、前々年の誤りでした。従って二年ぶりが正しい。

400名無しさん:2019/01/26(土) 12:23:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月10日  一回戦  「  投手の日 」


この日は投手の日でした 投手が目立つ日でした 

優勝候補のPL学園から いきなり四者連続の三振を奪った 旭川工 鈴木貴志投手 

その力投をさらに上まわり 12奪三振で完封した PL学園の前川克彦投手


一年生からエースで 三年生で甲子園の夢を実現し 圧倒的な投球術を見せた 海星 寺谷悠投手 

夏の予選を投げず 意表をついて先発して来た 早稲田実 野口順平投手


しかし これらの怪腕剛腕を押しのけて 誰よりも注目されたのは 背番号8 公式投手記録無しの

代役投手 唐津工 中上大介投手でした

公式戦初登板は晴れがましい甲子園 こんもりとしたマウンドから見る 山脈のようなスタンドは

美しかったか 恐しかったか 突然の主役は胸を張り 堂々に見えました


第一球ストライク 先頭打者三塁ゴロ 初回1失点 結果は8安打 5失点の敗戦投手でも

八回を完投 立派に役目を果しました 甲子園の素晴らしいところは 一途さと懸命さに対して

拍手を惜しまないことです



入場行進は49校784選手。 ところが今年は783人で、その欠けた一人が、
甲子園練習中に骨折した、唐津工のエース江里雅寛投手であった。

大体、安定したエースがいる場合、予選から一人で投げきるというケースが多いから、
このような悲劇的アクシデントに見舞われると、代案が立たなくなる。

健康のためにも、戦力強化のためにも、同等の力量の投手を二人以上育てるべきだと理屈では簡単だが、
現実では、同等の力量が揃うなんてことはめったにない。 選手の数にも限りがあるし、そもそも、
生徒の数に限りがあるようになっているのである。
だから、試合6日前に、たった一人のエースを欠いた唐津工の苦悩は想像がつく。

そして、いよいよ試合当日、劇的な感じで代役投手が登板し、立派に投げたことは喜ばしい。
試合を緊張のまま成立させた手柄は、とても大きいことだと云いたいのだ。


( 海星5-0唐津工 )

401名無しさん:2019/01/26(土) 15:12:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月11日  一回戦  「  ワンプレイ 」


流星のようにというのは 古いかもしれない レーザービームのようにといった方が

その凄さと壮快さが伝わる センターからホームまで百余メートル 実に美しいラインが

真夏日の光を受けて描かれた


ワンプレイ この素晴らしきワンプレイ 新野 福良中堅手の返球は ダイレクトで捕手のミットに届き

生還を確信した三塁走者を 二メートル手前で立ち竦ませた


日曜日の客を集め 33度の気温に膨張した甲子園が 奇妙なほどに静まりかえり 数秒後どよめいた

ワンプレイの値打ちとは それが演じられた瞬間には 敵も味方も 勝ちも負けも 有利と不利も

忘れてしまうことで 啞然がいいか 呆然がいいか 結果を理解するまでに 不思議な時間を要した


リードはしていたものの 終盤に来ての八回 試合の流れは明らかに傾きかけて

小さな刺激を与えるだけで ドッと相手の勢いが増しそうな時 そう このワンプレイ

運命の行方さえ決定づけた強肩の美技 せめて言葉で拍手に代えたい



眩しさに目がチカチカし、耳鳴りをさそうような どよめきが満ちていないと、夏の甲子園の感じがしない。
応援のアルプス・スタンドだけが満員で、外野席はガラガラでは実に寂しい。
出場校関係者は熱狂するけれど、普通の高校野球ファンは減ってしまったのかと、少々悲しく思っていた。

4日目になって、日曜日ということもあるし、お盆休暇ということもあるが、人間が満ちているという感じを味い、
唸り声のようなノイズも聞こえて、安堵した。 

また、オリンピックだが、いろいろ問題のあった大会だが、唯一素晴らしかったのは、
どの競技の会場にも観客があふれていたことで、ソフトボールなどは感動的な光景にも思えた。
応援ではなく、ゲームを楽しむ人がいたからである。 人が満ちると、いいプレイもきわ立ち、光り輝く。
印象に残るワンプレイに出会えて、いい日曜日になった。


( 新野2-0日大山形 )



福良・・・ドラフト4位で広島へ。 2000年に一軍に上がったものの、翌年の2001年に引退。

402名無しさん:2019/01/27(日) 10:16:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月12日  一回戦  「  野生の子 」


161センチ 60キロ 背番号16の一年生 

さあ このデータから どんなイメージの少年を思い描くか 初々しさか 健気さか

痛々しさか 子供っぽさか いや いや そんな生やさしいものじゃなかった


益田東 大畑吉生選手 きみは まさに 甲子園の土にまみれにやって来た

野生の子のように 歓喜 歓喜 元気 元気 太陽がしぼり出す汗に光り 

勲章のように黒土を飾った きみは めげなかった 


思いがけない試合の成り行きも 挽回不能と思える大量リードも 闘志を殺ぐものではなく

活力を失わせるものではなく 激しい気合を常に示し 強いエネルギーをほとばしらせ

打った 走った


ともすれば遠慮がちの一年生が 最後の火種となって 劣勢の益田東にふたたび火がつき

甲子園に 学校の存在を残すことは出来た


161センチ 60キロ 背番号16の一年生

ヒーローでもなく スターでもなく しかし 一人でも諦めない選手がいることは

反撃の可能性があることだと 立派に証明してみせた



よく野球をドラマにたとえるが、ドラマよりさらに劇的なことは、結末の予測がたたないことと、
途中から主役が変わってしまうことである。

益田東と東海大菅生の試合も、ひそかに思い描いていた主役は別にいて、その主役の華麗な実績が、
甲子園でどのように実証されるかと楽しみにしていたのである。

主役は、不運も手伝って、必ずしも実力が発揮出来ず、チームもまたドラマの筋立を失ったように
なってしまったが、そんな中で、いつの間にか主役を演じている超脇役を発見したのである。

ランク16番目の選手が、終わってみればトップの印象を残したのだから、これを書かずにどうしよう。
それにしても、この試合でもそうだったが、野手の送球エラーが目につく。
的を失ったような高投は、甲子園が景色を変えてしまっているからだろうか。


( 東海大菅生8-7益田東 )

403名無しさん:2019/01/27(日) 11:18:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月13日  二回戦  「  初戦突破 」


何年越しだろうか ようやく手に入れた甲子園切符を しっかりと握りしめて そして 六日目

いくらか待たされ過ぎたが 緊張も 不安も 逆上もなく 実に堂々の初陣であった


長崎県代表 波佐見高校 おそらく一万六千人の町民の期待と 熱狂的声援に

重たく責任を感じただろうが それはそれ 戦うのはぼくらだとばかりに のびのびと

いきいきと 甲子園を我がものにした 


そして その力と勢いは 只物でない匂いを 嗅がせたのだ ただ元気なだけではなく

よく云うところの無欲の勝利でもなく 充分な練習に裏うちされた 並々ならない自信が窺われ

それが只者でなく思わせる


さらに 一瞬を決する勇気があり 躊躇しない度胸があり 幸運もまた味方して 

満点の初戦突破であった  さあ 一つ勝った さあ 次だ 次だ 次の自信は何か 

次の勇気はなにか 次の度胸は何か 楽しみに待つ



無名と云っては失礼だが、少なくとも、高校野球に関しては、ほとんど名前を知られていないことは事実である。
しかも、県立高校ではあっても、所在地は人口一万六千人の小さな町である。
焼き物に詳しい人には馴染みの町名であろうが、そうでない人なら、まず知らない。

波佐見町は、佐賀県との県境に近いところにある。、人口二万足らずの焼き物の町である。
小説の書き出しならこうなる。 それはともかく、波佐見に興味を持ち、何となく共感を覚えるのは、
町と高校との関係が理想的で、これこそ高校野球の原点と感じられるからである。

現代ではなかなか難しいことだが、甲子園に出て来た高校と故郷とが、同じ匂いを発していることが
望ましいのである。 そして、そんな高校ではないかと感じた。
小さな町の猛者たちは、大きな町と思わせる活躍をした。


( 波佐見4-2秋田経法大付 )

404名無しさん:2019/01/27(日) 12:21:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月14日  二回戦  「  さらば栄光の日 そして来れ 」


その記憶があまりに鮮明で あまりに華やかであったため その後も常に 

強豪の名をほしいままにしていたと ついつい思いがちだが 実は長い長い道程に

ここにはここの苦しみがあったのだ 神奈川県代表 横浜高 15年ぶりの初戦突破


有名校 強豪校にとって 甲子園の初戦など 何ほどのことがあろうかと思えるが

この横浜にして ふたたびの校歌を聞くまでに 15年もかかった おそらく それは

有名の呪縛というものだろう


勝たねば なのか 勝って当然なのか 知らず知らずの間に 高い意識が鎖となって

無邪気で自然な野球を がんじがらめにしていたのではないか 誰の罪でもない

それは一種の宿命で 半分は神の領分のことだ


だが勝った これでもう何らの拘束もない 有能な選手と 秀れた技術が そのままの形で

甲子園に躍るだろう さらば栄光の日 そして 来れ 栄光の日



15年ということは、優勝の翌年に勝利して以来ということになる。長い。
あの愛甲と荒木大輔が投げ合ったのが16年も前のことなのか、とあらためて驚く。

感覚としては、ほんの数年前という鮮やかさでとらえている。 
それほど華々しく、まさに、高校野球フィーバーのきっかけとなる優勝戦であった。
しかし、現実には、それだけの年月が過ぎている。 

プロに進んだ愛甲も荒木も、もうベテランと呼ばれているのである。確かに、16年が過ぎた。
そして、横浜高が14年、甲子園勝利から見放されていた。
高校野球も、愛甲、荒木からの熱中期が数年つづき、それに比べると、
いくらか熱を下げた形で現在に至っている。

横浜高も、この日の勝利で、来るべき新時代に踏み出した気がする。
踏み出しさえすれば、きっと16年前に直結する。


( 横浜3-1北嵯峨 )

405名無しさん:2019/01/27(日) 15:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月15日  二回戦  「  帰って来た早実へ 」


何という結末か これ以上はない戦慄の幕切れに ただ身体をこわばらせているが

勝った海星には驚嘆を そして 敗れた早稲田実業に オマージュを贈りたい

無念とか残念とかの感傷ではなく もっと冷静に 素晴らしいチーム 

美しい野球であったことを 称えたいのだ


好試合が見たかった 好投 好打 攻守 好走 必ずしも大向うを唸らせる 怪投

豪打でなくていい 天才 名人 達人が寄り集まっての 啞然呆然のドリームチームを

誰も期待していない


普通の少年たちがよく鍛えられて 普通をこえたプレイをすることを ぼくらは待ち望んでいた

そう 等身大の人と野球だ 


大きな夢と大それた夢は違う 慎重と臆病は同じではない 堅実だからといって

地味で目立たないわけではなく 先の先だが 結果が約束されている 久々の早稲田実業

いくらか荒れた感じのする高校野球に きみらが ぜひぜひ必要だと ぼくは云いたい



詩の中にも書いたが、野球が荒れていると見えてならない。 エラーが多い。
中でも、一つのエラーに狼狽して、二次、三次のエラーを引き起す、いわゆる連鎖失策である。
それは、必ず大量失点につながり、試合そのものをこわしてしまう。

管理野球は望まないが危機管理野球の練習は必要かもしれない。
つまり、一つのエラーを一つのエラーでとどめる練習である。 そんなことさえ思ってしまうのである。

しかし、早稲田実ー海星の試合を見たことで、いくらか、心は晴れた。 キビキビもいいし、
ガッチリも新鮮である。 両校とも、等身大の意味を理解しているのであろう。

さて、終戦記念日である。 中等野球が西宮球場で復活して50年目になる。
感慨深い。 正午の黙とう。 
黙とうに 球児はしばし石になる 平和で産湯につかった子らが などとポツンと詠んでみる。


( 早稲田実3-4海星、逆転サヨナラ勝ち )

406名無しさん:2019/02/02(土) 10:03:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月16日  二回戦  「  美技ありて 」


スラッガー今井の一振りが 異常なほどに高い金属音を発し 夕闇迫る空を引き裂いて飛んだ時

全てが終わったと誰もが思ったが 背走よく三枝がチャッチし これで希望がつながれた

3点差 まだ最終回が残っている まだ甲子園にいつづける可能性がある その通り

一つの美技は美技にとどまらず 希望を点灯する役目も果す


そして 九回裏 東海大菅生高 きみたちは目を輝かせ 可能性から希望へ 希望から現実へ

猛反撃を開始した スラッガーの一打が 満塁の走者を一掃していたら この試合の評価はどうだろう

戦い終えて何が残っただろう 


おそらく 最終回も 瞳を光らせる内なる気魄で 投手に対することは あり得なかっただろう 

それを思うと ただの敗者を 満足も 誇りも 自負も 充分に持ち得た敗者に変えた

あれは実に大きかった  松山商6-5東海大菅生 勝った初戦よりはるかに光って見えた



初戦に勝ち、二戦目に敗れると、普通なら初戦の勝利を称え、二戦目の敗戦を残念と云うのだろうが、
東海大菅生の場合、おそらく逆の気持ではないだろうか。 
もっとも、勝ったればこそ二戦目があるわけだから、初戦勝利の価値は当然のことだが、
精神的評価としてである。気持とか、思いとか云ってもいい。

選手諸君の心の中での満足度は、きっと松山商戦で敗れた方にあるのではないかと、勝手ながら思うのである。
それにしても、甲子園とは何て処なんだと、きっと感じたに違いない。
まるで、残酷な神が悪戯半分にテストをするように、次々と難題を持ちかけ、困らせた。
大抵なら、それで屈服する。

東海大菅生の幸運だったところは、それでも勝ち、宿題を提出する機会を得たことである。
そして、初戦の失敗の八割は修正出来た。 二年生が残っている。きっと一年間で、全克服することだろう。


(  松山商6-5東海大菅生 )

407名無しさん:2019/02/02(土) 11:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月17日  三回戦  「  伝統校対決 」


伝統はひきずるほど重いし 歴史も肩が凝る 古豪と呼ばれることも 

ありがた迷惑なところがあるし この三つが重なると 自由な野球も 新しい野球も出来なくなる


もしかしたら 両校の選手たちの胸の奥の 正直な気持を質してみると そういうことかもしれないが

でも 諸君 歴史や伝統も なかなかのものだと感じてほしい 


何と云ったらいいだろう 諸君の意識がどうであれ 培った実績と誇りは まるでDNAのように

諸君の中で生きているのだ 強い野球もあれば 面白い野球もある それはそれでいいが

品性のある野球もあっていい たぶん 歴史や伝統は そんなかたちであらわれる


熊本工・高松商 巨大スタンドが客であふれるのも 5対1の試合が 緊迫の熱戦に思えるのも

あの熊本工が あの高松商がという あの のおかげかもしれないじゃないか



ほんの少しばかり時代を逆行させると、この両校の組み合せは、心ときめく、夢の黄金カードということになる。
歴史の中に名を刻み、幾多の名選手を輩出し、戦前から戦後、中等野球から高校野球へ、
学生の野球の伝統をしっかり支えて来た両校である。

先輩には、川上哲治がおり、水原茂がいる。まさに、歴史である。
熊本工にも、高松商にも、それらがしっかりと染みついている。 それは、高校野球ファンにとっても
同じことで、今がどうであれ、学校名を聞いただけで黄金カードと思ってしまうところがある。

甲子園の高校野球には、そのような信条の支えが必要なのだと思う。
時代とともに薄れていくだろうが、しかし、薄れさせない愛情を持たなければならないだろう。
新勢力、新名門とまじり合って、伝統も古豪も共棲出来るように、特に、今日は、このカードを選んだ。


( 熊本工5-1高松商 )

408名無しさん:2019/02/02(土) 12:02:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月18日  三回戦  「  夕陽に染まって 」


顔が真赤に染まって見えるのは 燃えつき 燃え落ちようとする 夏の太陽の照射のせいだが

そうと知っていても 投手寺谷の内なる興奮と 炎にも似た闘志のためとも思えた


勝利へのカウントダウンの中で 必死の攻防の決着をつけるのは 自らの右腕だと云わんばかりに

魂を投げ込んだ 海星・仙台育英 総力戦のまさに死闘 肉体も精神も 極限に達したような状態に於て

なお 貪欲に 勝利への執念を 競い合った


勝ちたいという思いは同じだった 勝つという意志も同じだった 勝てるという自信も同じだった

引きはなしても 追いつき 差をつけても 縮めて来る そして とうとう並ぶ  また必死でつき放す


永久運動のような競り合いは 力も技も精神力も 全く同じだということだ 差があるとするなら

何分の一か上まわる元気と 何グラムか重い希望ぐらいか だから 投手は

最終回のマウンドで 自らも気がつかないほどに昂り 赤く染まったのだ



三回戦、ベスト16で戦う二日目は、まるで準々決勝のようであった。
昔から、準々がいちばん面白いとよく云われるが、それが一日早く訪れたような感じである。

よく晴れ上がった夏らしい空の色のせいかもしれない。日曜日ということもあって、五万人の大観衆を
集めたせいかもしれない。 とにかく、興奮を誘う条件が整い、各カードともそれに応えて面白かった。

PL学園が高陽東に敗れた。 少しだけ時代が変わったかなと思うのは、高陽東に勝って当然の感じさえ
窺われたことである。 昨年、PL学園が敗れた時は、これは一つの事件だと、ぼくも書いている。

ついに甲子園で頂上に立てなかったPL学園のエースで四番へのメッセージを、今まさに書こうとする時、
海星ー仙台育英戦が風雲急を告げ、テーマはそちらへ移ってしまった。
決勝打の藤村選手が、藤村富美男氏の孫だなんて、やはり、胸がキュンとする。


( 海星7-6仙台育英 )

409名無しさん:2019/02/03(日) 10:18:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月19日  準々決勝  「  奇策ではない 」


当然のことに 今大会のヒーローが マウンドを守る筈だと思っていたのに そこに立っていたのは

全くり未経験の二年生 背番号10だった 奇策ではないと云われても その時 その場を考えると

やはり 奇策か そうでなくても 窮余の策には思える


海星・加藤彰投手 きみが感じたものは 信頼と責任の重さだろうか それとも

チャンスに恵まれたことの歓喜だろうか 白球を握りしめ 第一球を投げる直前の心は

張り裂けそうな興奮か 無に近い状態か 探れるものなら探ってみたい


それにしても 土壇場で踏みとどまる きみの精神力は何から発するのか 

あの絶対の危機のスクイズに対し 躊躇なくグラブトスした感覚は 天晴としか云いようがない


そして、7回1/3 きみは非凡を証明し頑張った それは また チャンスを与えた人たちの

信頼に応えることであり 「奇策」の二文字を 消すことにもなった



完封勝ちが多いといって話題になった大会だが、それは、実力差があったということで、
決して投手力が勝っているということではなかった。 
投手戦というのは実に少なく、点数上それらしく見えるのを含めても、
東筑ー盛岡大付戦、前橋工ー前原戦、新野ー日大山形戦ぐらいのものである。

しかし、数多く並ぶゼロが、無でも空でもなく、また、何も起らなかったということではなく、
息が詰るような緊張が秘められ、爆発寸前のエネルギーを必死に圧え込んでいる投手戦は、
めったに見られない。

そのめったに見られない投手戦が、前橋工斉藤義典投手、海星加藤彰投手によって演じられ、
久々に充実感を覚えた。 評判の高い斉藤投手と互角に、初登板二年生の加藤投手が
度胸よく好投、このような形で才能を大舞台に立たせることは大変だろうが、大成功だと思う。


( 前橋工2-1海星 )

410名無しさん:2019/02/03(日) 11:17:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月20日  準決勝  「  炎と風と 」


きみたちは 炎だった 炎は情熱だった 情熱は力だった 力は自信だった

自信は勝利を呼び込んだ きみたちは また 新しい風でもあった 風とは方向を示し

道を作るものであった その道を精気に満ちて 少年は走るのであった


福井商の快進撃は 炎と風の合体だった 強いと感じさせた 激しいと思わせた

安定性もあれば意外性もあった 絶望の淵から奇跡的に這い上がり 

さらに スックと立って 勝者になるという凄味もあった


きみたちの左肩には 燃えさかる炎のエンブレムがあった それは心と連動した

心が萎えると色褪せ 心が昂ると色づくというもので きみたちの心は 

一夏とうとう色づかせつづけた


そして 敗れたこの日 それでも炎の色は赤かった きみたちは エンブレムを 

左肩から胸へ移しかえたのだ 福井商の夏は終わった だが 炎と 炎が起す風は残った



決勝戦は、熊本工と松山商の間で争われることになった。
高校野球の原点がえりが叫ばれている今、何やら、その象徴的なカードになったことが、面白いと思う。 

松山商は10年ぶりの決勝進出だが、熊本工となると、昭和12年以来だというから、
59年ぶりということになる。 

年齢がバレてしまうが、昭和12年というと、ぼくの生れた年で、その長さに呆然とするところもある。 
そのぼくでさえ知らない中等野球の気分を、決勝戦で味わえたら、などと楽しみにしているところがある。

この二校に敗れた前橋工と福井商の両校も、決勝の場にあって何ら不思議はないと感じられる実力校であった。
一つの形に執着しつづけた前橋工と、圧する力を身に付けた福井商、これに波佐見を加えると、
今年の夏に存在を証明した学校ということになる。 
それにしても、はや、あと一試合。 秋が門の外でウエイティングしている。


( 松山商5-2福井商 )

411名無しさん:2019/02/03(日) 12:21:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1996年8月21日  決勝  「  熱血感動小説 」


最後の最後 最も重要な場で この時 ここでしか出来ないことを きちっとやってのける選手に 

敬意を表したい それは おそらく 突然の神がかり的美技ではなく 身体にも 心にも

頭にも 本能のように貯えられたものが 発揮されたことだと思う


選手交代の監督の決断 それに完璧に応えた選手 信頼とはたぶん

九百九十九回の退屈な練習が 千回目で開花することによって 生れるものなのだろう


延長十回裏 松山商矢野右翼手 超美技 これで勝った それにしても 何という

素晴らしく 面白く 緊張する 決勝戦であったことか 

古豪同士の対決の さすがと思わせる風格と そして 一転 次々とくり出される劇的展開に

ただ 感動し 血を熱くし 震えるほどであった


松山商・熊本工 この一戦は間違いなく歴史の中の 最も充実した試合にランクされる

そればかりではなく 高校野球を再生した 記念碑的一戦だったともいえる

ああ たっぷりとした 熱血感動小説であった



号泣しながら甲子園の土をかき集める熊本工選手の横を、
閉会式のためにスタンバイするマーチングバンドが通り過ぎる。
当然のことに、マーチングバンドは、泣いている選手をふり向かない。

松山商の優勝が決った直後、甲子園には、そんな余韻のシーンがあった。
そして、ぼくもまた、砂を集めるような気分で、たった今終わったばかりの熱戦の、
劇的な場面の数々を再生していたのだ。

九回二死からの沢村の同点ホームランも凄いことだが、やはり、十回裏の危機に対しての
松山商の大胆な満塁策、ライトの守備を新田から矢野に代えたこと、そこへ大飛球が
予定したように飛んだこと、矢野が期待通りに三塁走者を本塁で憤死させたこと、
この一連の流れの中に全てが集約されていた気がするのである。

とにかく終わった。 これが終わるとぼくは、一つ年齢をとった気が毎年する。


( 松山商6-3熊本工   延長11回 )



1996年の出来事・・・羽生善治 将棋タイトル七冠独占、 世界初のクローン羊ドリー誕生、 アトランタ五輪、

            ドジャース野茂ノーヒット・ノーラン、 オリックス初の日本一

412名無しさん:2019/02/03(日) 16:21:03
☆ 1996年  決勝    松山商 6-3 熊本工    「 奇跡のバックホーム 」



27・431メートル先にある栄冠へ。
熊本工の三塁走者・星子崇は右翼手が飛球をつかむと同時にタッチアップのスタートを切った。
本塁へ滑り込んだその時、目の前に白球が現れ、捕手のミットが顔をかすめる。

4万8千人の観衆が沸き返ると、星子は本塁上で灰色の空を仰いでいた。 歓喜と落胆が入り交じった甲子園。
十回裏1死満塁から起きたこのプレーは、「 奇跡のバックホーム 」として語り継がれていく。


1996年8月21日。熊本工は悲願へ王手をかけていた。 59年ぶりの決勝進出。
熊本勢としても初となる深紅の大優勝旗が手に届くところまで迫っていた。

試合前からベンチ内には緊張感が漂った。「 独特な雰囲気にみんな圧倒されていた 」と星子は振り返る。
準々決勝、準決勝と1点差を制して勢いに乗っているはずのチームだが、選手たちの会話は普段より少ない。
一回、いきなり先発の園村が松山商打線につかまった。 2者連続の押し出し四球もあり3点を失った。

打線も元気がない。 相手の2年生右腕・新田を攻略できず、1点差で九回へ突入した。
2者連続三振であと1人に。 だが、主将の野田はわずかな期待を抱いていた。


「 あいつなら何かやってくれそうな気がした 」。 視線の先には、6番打者の沢村だ。
中学時代に軟式野球で全国制覇し、部員100人超の名門で定位置をつかんだ1年生は「 まだ終わりたくない 」。
初球を振り抜くと、左翼ポール際へ起死回生の同点ソロが飛び込んだ。

ベースを一周した沢村に抱きついた星子は「 流れは完全にこっちだ。 いける 」。
延長十回の攻撃はその8番星子から始まった。 カウントは3ボール。
2球「 待て 」のサインのあと、フルカウントから左中間への二塁打で出塁した。


この打席、星子に変化があった。 「 じつは初めて監督のサインを見た 」。
身長180センチで50メートルを走れば5秒8。 野球センスは誰からも認められていたが、
「 監督の言うことをまったく聞かずに反発ばかりしていた 」と星子。
新チーム発足時は中軸を打っていたが、自分本位のプレーが目立ったため打順は徐々に下がっていった。

「 初めて本気でチームを勝たせたいと思った 」と言う星子が次打者のバントで三塁へ進むと、松山商も動いた。
敬遠の四球二つで満塁策をとった後にもう一手。
星子に打たれた直後に右翼に回っていた新田に代えて、守備固めに矢野を送った。


直後。 一死満塁から3番の本多大介が初球をとらえる。
快音を残した打球は高く上がり、そのライト後方へ。 だが、浜風で定位置近くまで押し戻された。

打球が落ちてくるまでの間、三塁走者の星子は冷静に考えた。
「 風があるから返球は伸びる。 フライング気味にスタートを切ろう 」。
タッチアップを狙い、左足で三塁ベースを蹴った。 およそ4秒後。

滑り込んだ瞬間にノーバウンドの返球を受けた捕手のミットが触れた。
「 足の方が先 」と思ったが、球審の両手は広がらない。 アウト。 そのまま倒れ込み、拳を振り下ろした。
サヨナラ勝ちを阻まれた熊本工は、十一回に3点を勝ち越され、敗れた。


熊本に帰ると、「 ちゃんと走ったのか 」 「 回り込んだほうがよかった 」 
「 おまえのせいで負けた 」などと非難の声が待っていた。
同級生は気を使って星子の前では決勝の話はしなかった。

それから10年後。 反抗的な態度を謝ることができないまま、田中監督は病気で59歳で亡くなった。
転機は13年末。 星子のもとを、旅行で熊本に来ていた松山商の矢野が共通の知人の紹介で訪れた。
あの日、生還を阻んだ右翼手だ。
立場は違えど、互いに「奇跡」の当事者であることが重荷となった人生を語り合った。


後輩の甲子園出場にも興味がなくなるほど野球から遠ざかっていた星子の心が動く。
「 一生、背負っていこう 」。 半年後、熊本市内に野球バー「 たっちあっぷ 」を開いた。

16年4月に熊本を大地震が襲うと、星子は「 県民に元気を 」と立ち上がった。
当時のメンバーを集め、秋に藤崎台県営野球場で20年前の決勝の再戦を企画した。

「 バックホーム 」の再現では、矢野の返球より先に星子が肉離れした足を引きずりながら本塁へ。
みんなが笑顔で迎えてくれた。

いま、胸を張って言える。 「 あの試合、あのワンプレーがあったから今がある。 おれの人生の原点 」だと。
22年前の夏、本塁上から見上げた光景はいつまでたっても色あせない。



ほしこ・たかし 1978年、熊本市出身。
小学4年から野球を始め、熊本工卒業後は松下電器で2年半プレーした。
現在は熊本市中央区で野球バー「たっちあっぷ」を経営。 熊本工野球部の青年部OB会長を務める。

413名無しさん:2019/02/09(土) 10:21:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月8日  一回戦  「  1点の哲学 」


きみは 1点を知っているか 1点がどれほど重く 1点がどれほど大きく 

時に絶対の壁になることや 光り輝く栄光にもなることを きみは 甲子園で覚えたか 


そう 勝負とは 人生とは 重大なものほど小さく見え 大切なものほど 軽く感じられるものなのだ

1点を惜しむか 1点を愛でるか 結局はそれなんだね


松商学園 田中健太郎投手 豪腕 快速 だが 1点に泣く 

2点が入り 2点を返し 3対3になった時 甲子園球場は一瞬 真空に似た状態になった 


次の1点は まだまだ先 もっともっと苦労して入るものだと 誰もが考えた その時 

ポンとホームランになった そして 1点が 宇宙より遠く 地球より重くなった


しかし きみは その1点の哲学を きっと学習したことだろう
 
重大なものほど小さく見え 大切なものほど 軽く感じられるものなのだと・・・ 



高校野球も、さま変わりするのかとふと感じる。 入場式の司会進行を現役の高校生がやり、
国旗掲揚を主将ではなく、各校の記録員がやったことなどから、そう思ったのかもしれない。
何かしら、新時代へ突入したな、という印象を受けた。

「高校生が主役」ということは、たぶん、過剰な虚飾を剥がして等身大に戻るということなのだろう。
信じて渡したとも、いくらか大人が手を引いたとも思える。 とちらかわからないが、
新時代を期待するなら、ここから始まるのもいいことだろう。
などと考えながら試合を見ていたら、ぼくも、キマジメなメッセージを送りたくなった。

その相手が、松商学園の田中健太郎投手である。
たぶん、彼は、この日の敗戦で、逆に大きな財産を得ただろうと信じる。
「人生は1点ですよ」などといつか云ってくれると嬉しいのだが・・・。


( 西京4-3松商学園 )

414名無しさん:2019/02/09(土) 11:12:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月9日  一回戦  「  「あ」の字  」


ぼくは「あ」の字を探している だから 甲子園に目を向ける 

夏の日 ここには 「あ」の字が陽炎のように舞う


新湊がやって来ると なぜか 「あ」の字が数を増す いつかの春もそうだった

そして 今年もそうだった 「あ」の字は波のように躍り 風のように吠え 虹のようにきらめいた


「あッ」という発見と驚き 「ああッ」という感嘆と納得 「あああッ」という落胆と悲哀

そして 「ああああッ」という大いなる興奮と感動 一つ 二つ 三つ 四つ

「あ」の字を重ねながら 人間はいきいきと 心と頭を波打たせて生きる


「あ」を忘れてはつまらない 感じる心を失っては 世の中は暗く重くなる

街では見えない「あ」の字も 甲子園にはまだ群れている


選手も探す 応援団も探す ロマンチストのファンも探す 

新湊が来ると 「あ」の字が出迎える あッ ああッ あああッ ああああッ

「あ」のフルコースだったね



恐しい瞬間を見た。「あッ」と叫んだが、それは、発見でも驚きでもなく、まぎれもなく戦慄だった。
徳島商の加藤の打球が、新湊の境投手の顔を直撃する。

いや、直撃したとわかったのは少しあとのことで、その瞬間、境は投手の本能でグラブを出しており、
捕ったかに見えた。 しかし、境投手は倒れる。 ボールがコロコロと転がる。

その時でもまだ、グラブから落ちたと思っていたが、結果から考えると、顔を直撃していたのであろう。
危険な状態が迫って来るのに、身をかわすよりも、グラブを反応させることが
優先するスポーツマンの本能に驚く。 「あ」で感じるべきなのだろうか。

それはともかくとして、今は境投手の回復を祈るのみである。
戦慄の瞬間から試合は動く。 新湊の”気”のようなものを見せつけられる。
敗れはしたが、多くの感じるものを残した。


( 徳島商7-5新湊 )

415名無しさん:2019/02/09(土) 12:28:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月10日  一回戦  「  初勝利への道  」


細く長い甲子園への道は 過酷に照りつける太陽と 汗もを乾かす熱と そして 夢を砕く風の礫と 

誰はばからず泣いた涙のしみと 多くの先輩たちの無念の声で 埋められている 


それぞれの夏に それぞれのベストメンバーが 秘かに抱いた自信と あり余る闘志で挑戦したのに 

甲子園の女神は 一度も微笑まなかった しかし 函館大有斗高校 きみたちは 今年 とうとう

ぶあつい扉を開き 気難しい女神の顔に 微笑みをうかべさせたのだ


もしかしたら 勝ってみると たやすいことに思えたかもしれない 道の遠さも 扉の頑丈さも 

不思議に思えるかもしれない 呪縛とはそういうものなのだ それさえが解けると

歓喜と希望がたちまちひろがるのだ


夏の甲子園 堂々の初勝利 おめでとう 函館大有斗高校  明日のために 未来のために 

メッセージを送りたい  きみはきみらしく きみ以上のものを求め きみはきみを信じ 

されど きみ以上の才も認めて



印象とは不思議なものである。函館大有斗も宇和島東も、甲子園の常連校のように思い込んでいる。
毎年のように登場して来ているように信じているのである。
しかし、函館大有斗は7回、宇和島東は5回で、毎年のようなというわけでもない。

さらに、これにイメージが加わると、函館大有斗は弱い学校のように思え、宇和島東は逆に
実績以上の強さを感じさせる。いつも優勝を争っていたようにさえ記憶しているのだから、
妙なものである。

だから、今年も当然組み合せを見た段階では、宇和島東の有利と見ていたのだが、
実際に試合が始まると、序盤に於て、すっかり違うものに修正しなければならなくなった。

今年の函館大有斗は違っていたのだ。 激しさと落着きが同居している。
それは自信と確信として伝わる。 幸運な一勝ではなく、次へつづく一勝を予感したのだ。


( 函館大有斗4-1宇和島東 )

416名無しさん:2019/02/10(日) 10:05:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月11日  一回戦  「  青空の原点  」


青空だ 青空だ 水に溶かして飲みたいような 濁りのない美しい青だ

それを大きな背景とする 高校野球の原点を見た


秋田商・浜田 光と白はよく似合う さらに少年はもっと似合う そんな心の野球に

いつしか忘れていた光景を 誰もみな 思い出したに違いない

派手なパフォーマンスはいらない プロの値踏みもいらない 


ぼくらが 夏の暑い日 眩しさに目を細めながら 胸苦しい思いで見つめるのは 

いちずさ けなげさ まっすぐさ ハツラツさ 如何にも若いと感じる キビキビとした身のこなし

澄んだ瞳の色の強さ こぼれて見える歯の白さ そして そして 

時々神様が仕掛けて見せる 小さな奇跡・・・ それらをこよなく愛しているのだ


秋田商・浜田 きみらの今日の戦いは まさに 原点 失敗も成功と同じ意欲の後の失敗

許される 原点を知り 原点を確認し 何ともいえない嬉しさを 嚙みしめる



おそらく、9回裏の波乱の逆転がなかったとしても、ぼくは、秋田商と浜田の試合を詩にしたことだろう。
詩にとっては、試合上のスコアの展開はほとんど意味がなく、ましてや、
勝ったの負けたのには心が動かないものなのである。 

淡々としていてもいい。平凡な推移であってもいい。
そこに、目に見えない心地いい緊張が満ちているなら、詩心が起きるのである。
今日は、まさにそうだった。

さて、試合が決した瞬間、押し出しサヨナラという劇的な結果にも拘らず、甲子園球場には、
不思議な静寂が訪れた。 我を忘れた歓喜の絶叫はなかった。 妙にシンとした。
敢闘の敗者を思いやる気持が、球場全体を支配したということだろうか。

ワァッと勝利を称え、祝う声が挙ったのは、秋田商の校歌が流れ終わってからである。
それもまた、試合が感じさせた原点意識の働きではなかろうかとさえ思うのである。


( 浜田3-4秋田商、逆転サヨナラ勝ち )

417名無しさん:2019/02/10(日) 11:10:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月12日  一回戦  「  紅く燃えて  」


甲子園が 鮮烈な紅に包まれた クライマックスでは アルプスを駆け下りる炎の雪崩になり

興奮に火をつけながら走る 野火のようになった 豊田大谷高 


この衝撃のデビューは 夏の日の熱い記憶として 人々の心に 強く強く灼きついたことだろう

そして 称賛の試合であるからには 称賛の相手が必要で 長崎南山高 

このしたたかなチームと戦ってこそ 紅は映え 紅は輝き 白日の勇者の色になったのだ


塁上に常に走者があった 熱戦と乱戦は紙一重で 危うい評価の一線で 熱戦に踏みとどまったのは

決して傾かない意志と 揺らがない勇気で その緊張は細く張りつめたまま 十二回の最後までつづいた


一度も崩れることがなかった 一度も諦めることがなかった それが炎の試合を作った

グランドにしゃがみこみ 土をかき集める長崎南山 

その同じ時間 晴れやかな笑顔の豊田大谷が 凱旋道路を引き上げていた



幕開けは、豊田大谷の二番打者大井のランニングホームランだった。
まだ球場全体の空気が、熱を持っていないプレーボール直後にそれは出た。
レフトのオンラインに打球は落ち、やや複雑にバウンドし、レフトが処理に手間どる間に、
大井は走りに走り、サードのベースをも蹴ってホームに駆け込んだ。

この一打が、もし、常識的な判断に従ってサード止まりであったなら、
このような熱い試合にならなかったかもしれない。 思えば、試合全体の雰囲気を決する、
大きな決断であったといえるかもしれない。

そして、土壇場から、最後の幕閉めにかけて、紅いバトンを渡されたように別のヒーローが登場する。
同点ホームランと、決勝ホームランとなるツーラン二本を打った古木克明である。

この二人で繋がれた紅い線を全員で太いものにして、最後は試合全体も紅く染めたのである。
夏の日に紅に燃えて、彼らは走るかもしれない。


( 豊田大谷6-4長崎南山   延長12回 )



古木克明・・・横浜1位指名。 横浜、オリックスで通算10年。 60本塁打、312安打。

418名無しさん:2019/02/10(日) 12:08:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月13日  二回戦  「  二年生諸君  」


二年生諸君 一年生諸君 甲子園は何に見えましたか あれは野球場ではなく 人を産み 

人を育て 人を鍛え 人を惑わし そして 人に踏み絵を強いる 巨大な生き物なのです


ふり仰いだ時 何が見えましたか 空ですか 空は上にありましたか

それとも きみたちの立っていた場所が 深い深い底に思えたのじゃないですか 

そういうところなんです 甲子園は意志のある怪物 異次元の未知の空間なんですよ


酒田南高の 二年生諸君 一年生諸君 旅をした気分だったでしょう

しかし きみらには 来年があり 再来年があり その時には怪物も未知の空間も

蔦の絡まるやさしい建物と 芝のやわらかな夢の球場に 変貌していることでしょう


敗戦の悔いは薬になりません 敗戦の中でそれぞれが示した 一瞬の力と技が膨張するのです

美技もあったじゃないですか 点も取ったじゃないですか 


後半には夢中遊泳から覚め しっかりと試合を作り 五回以後は同点だったじゃないですか

さあ 二年生諸君 一年生諸君 甲子園を一年がかりで思い出そう そして 来年 お礼を云おう



2点、1点、5点、2点、おまけに、連続ホームランまで加わると、正直、これは気の毒なことになると思った。 
気の毒な試合というのがいちばん辛いのである。

強豪校、しかも、春の優勝校の天理を破って代表になった智弁学園と、春夏通じて初めての甲子園、
先発メンバーの八人までが、一、二年という酒田南との対戦であるから、
どうしても智弁学園が優位に思える。 しかし、酒田南の敢闘を期待する。

ところが、始まってみると、2点、1点、5点、2点である。既に前半で試合がこわれた。
ぼくは、メモ帖に、「目を覚ませ、これは夢じゃない」などと書き、
別に縁のある学校でもないが悲痛になっていた。 

それなのに、詩を書いた。 五回以後、こわれかけた試合を見事に修復したからである。
たしかに力の差はあったが、力のある者にとって恐いのは、
力のない者の応用のきかない生真面目さである、とさえ感じたからだ。


( 智弁学園12-3酒田南 )

419名無しさん:2019/02/10(日) 15:58:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月14日  二回戦  「  九回裏  」


残されたイニングが たった一回であれば その一回にすべてを注ぎ込む

野球に対する哲学 高校野球の方法論 考えぬいた作戦 鍛えに鍛えた技術

残されたイニングが たった一回であるから 試合はめまぐるしくなる


動く 動く 一試合分を一回に詰め込んで 早まわしのダイジェストのように 

面白い場面が カタカタと踊る 専大北上・履正社 九回裏 履正社の攻撃


一打逆転の危機に 一年生をリリーフに送る これも また ドラマ

信頼を得て度胸の一年生が 堂々と投げる 臆することなく 怯むことなく


それならばと 攻撃は手を変える 「打たずして点を取る」 セーフティスクイズのトライ

そして そして ホームスチールのトライ めまぐるしさは 読み難い筋書きのように

試合を終わらせた 逆転ならず 九回裏は野球が見え 人間が見え 人生が見える



今大会はどういうわけか、最終的に逆転することが多い。最終回でないまでも、
終盤に大きな動き、あるいは、乱れに生じて、ひっくり返ってしまう試合を何度も見た。

これを、攻撃側の決して諦めない精神と解釈するか、守る側の、
踏みとどまれない脆弱さと見るか、どちらだろうか。 結構、今の時代の気質、
体質を象徴している気がしてならない。 つまり、守勢に立った時の弱さと、
調子づいた時の強さである。

魔物が棲むといわれる甲子園的云い方をすると、「最終回に罠がある」ということになるが、
運命ばかりではなさそうである。 そんな思いで、この試合も最終回を注目していた。

静かに推移していながら、よくよく考えてみると、実にさまざまな要素が盛り込まれた大ドラマの
最終回であった。 ただ、一年生の投手と、一年生の代打の対決は見たかったな、
というのが正直な感想ではある。


( 専大北上2-1履正社 )

420名無しさん:2019/02/16(土) 10:17:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月15日  二回戦  「  球 児  」


球児という名前は 予感で命名したのだろうか それとも 予言の意図で付けたのだろうか

きみを見ていると そんなことすら考えてしまう 夢の結実の感じさえする

高知商・藤川球児投手 きみには 甲子園が 実に実によく似合う


この日 甲子園は膨張する 青空もある 眩しい光もある 風物と化して満喫する

五万の客もいる いい時の いい気分の甲子園だ その中で きみは投げる


大型左腕を向こうにまわして 対等の力を見せる 少年のまっすぐさで投げこみ

動物の機敏さで反応する 体が投手なのだ


ふと すべての人が錯覚する スコアボードの一回表に 重たい4の字が入っていることを忘れ

0対0だと思いこんでいることに 今更のように驚く 緊張も快感も0対0だった


8回 6安打 10三振 1四球 失点5の敗戦投手 だが 人々は 既に 来年を待っている

「来年また来いよ」は 決してなぐさめの言葉ではない



5対0の試合は、もしかしたら、投手戦とは云わないのかもしれない。しかし、詩にも書いたように、
一回表の4点はなかったことにしてしまいたいほど、それ以外のイニングに於ては、
堂々の投手戦であった。

平安の左腕川口知哉投手は、前評判の高さを実証するかのように、隙のない、しかも、
力のあるピッチングをして、文句なしの完封劇を演じたが、二年生藤川球児もそれに負けるものではなかった。
競って三振を奪い合う。 今大会いくらか投手に関して欲求不満になっていたが、相当の満足を感じた。

弟が投手で、兄が捕手で、兄弟バッテリーだと、そのもの珍しさばかり喧伝されていたが、
そんなレベルの取り上げ方だと気の毒に思うほどの力を持っている。

大型捕手の兄の順一も負傷をおして頑張った。 
さて、あと一年、どういう成長を示してやって来てくれるだろうか。 楽しみに待つ。


( 平安5-0高知商 )



翌年の夏は、明徳義塾が出場、藤川はこの夏のみ。

藤川球児・・・ドラフト1位で阪神へ。 50勝31敗223セーブ。現役中。
       カブス、レンジャーズ通算3年、1勝1敗2セーブ。

川口知哉・・・4球団から1位指名、オリックスへ。 3年、0勝1敗。

421名無しさん:2019/02/16(土) 11:38:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月16日  二回戦  「  祭のあとの好試合  」


あれは夏の夜の祭典だったのか それとも 寝苦しい悪夢であったのか

初戦の歴史的大逆転は 派手といえば派手だが いささか度外れの試合であった


だが 高校野球は一夜限りではない あとにつづく 次の試合がある

はしゃぎ過ぎた祭のあとのように 摑み難い現実が生れるもので それにどう対するのか

夢をどう絞りこめるのか 注目は市立船橋の今日であった


きみらが見事であったのは 大きさも 意外性も望まず しっかりと地に足を着け

強く踏ん張り 目の高さを平常に定めて戦ったことで どこから見ても高校野球であった


黙々と粘投する松尾直史投手 一回戦の乱調を 正調にひき戻した殊勲者は 

この試合でもまた 決して自分を失わずに投げる


燃えさかる火の中で 火勢を食い止め 勝利への道を開いた前試合の自信か 淡々と 

しかし 力強く 心うつものがあった

祭典でも 悪夢でもなく 現実の力と力がぶつかり合い 好試合になった

ぼくは なぜか ほっとする



終戦記念日が過ぎると、それがきまりごとのように、正確に秋になる。
甲子園の気温は32度弱、完全な真夏日ではあるが、湿度が50%を切っており、
それは空の青さや、雲の流れ方でも感じられる。

この日の三試合で、ベスト16が出そろう。最後の三つの席を争って、緊張した好試合が演じられた。
特に、第二試合、市立船橋がどういう戦いぶりを見せるか注目した。

一回戦の文徳高との、歴史に残る大逆転、云い方を変えれば、歴史に残る大乱戦を
制したあとであるから、ちょっとやそっとでは、平常の感覚では戦えまいと思っていたのである。

ブンブン振る。 グイグイやる。 自分の力や大きさがわからなくなる。
そうなることを心配していたのだが、全くの杞憂であった。 
決勝点を初球スクイズで奪ったのも、意識のあらわれのように思える。


( 市立船橋4-3仙台育英 )

422名無しさん:2019/02/16(土) 12:31:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月17日  三回戦  「  自信満々  」


一度逃げた勝利の運を 強引に引き戻したのは きみたち自身だ 

運は明らかに相手側にあったのに 懸命に耐え 必死に守り 

一つ間違うと大量点になる危機から 立ち直った 前橋工・智弁学園 


一回表裏の勝利の岐れ道 攻撃で見放された運を 前橋工は 守備でねじ伏せた

そう まさに こっちへ来いと引き寄せ ねじ伏せたのだ

一死満塁は絶体絶命 そこに弛みがあったなら 強豪校の豪打に火をつけただろう


前橋工のナインには 並々ならぬ自信がうかがえる 既に彼らの頭の中では

高校野球の勢力地図が 塗りかえられているかもしれない


陽がどこから昇るのか 風がどちらへ吹くか わかっているかのようだ

「自身」は決して 軽々しいビッグマウスでは生れない 


やり尽くした満足感と戦っての体感からのみ生れる それが彼らにあるようだ 

どうせなら 自信満々陽を頭上に昇らせ 風を起したらどうだろう

いたずらな運が苦手とするのは 若者の「自身」なのだ



ぼくのように、十九年間も全試合を見て、時代時代の変化がわかっているつもりの人間でも、
やはり、古い地図が捨てられないところがある。 強い地域、強い学校という意識は厳然と残っている。

しかし、それは、歴史を知るオールドファンの、いわばロマンティシズムで、
選手たちの地図は全く新しくなっていることを感じないではいられない。
前橋工にそれを感じるし、敦賀気比や、西京や、沖縄の浦添商の戦いぶりにも同様の自信がうかがえる。

試合だから、この先の結果はどうなるかわからないが、これらの学校が目立つ色に塗られていることは確かである。 
そして、「全国制覇」を、てらいもなく口にする選手も多いようだ。
それが決して、伝統校でも、名門校でもないところが面白く、新時代の現実になっている気がする。
さあ、ぼくも、新しく地図を描いてみよう。


( 前橋工6-1智弁学園 )

423名無しさん:2019/02/16(土) 15:23:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月18日  三回戦  「  沖縄の熱い風  」


沖縄の風がまた吹き始めた 旋風だ そして 熱風だ 勢いづくと手がつけられない

驚異の集中力だ その上 何よりも 誇らしげにプレーするさまが 魅惑に思える


いくらか秋に傾いた陽光の下で 駆け巡るよく灼けた少年たちに 心から拍手を送ろう

それは強者への喝采だ 勝利を手にする者への賛歌だ 沖縄県代表・浦添商 

台風13号が中国大陸へ去った日 見事な逆転勝利で ベスト8進出


いま 夢は中天にある 自らの手で中天に引き上げた まっすぐ引き下ろして

その腕に捉え 胸に抱くことも 不可能ではなくなって来た 

黒い瞳よ 白い歯よ 夢を手にして微笑むがいい 


そのためには これまでがそうであったように 一試合一試合の 完全燃焼マイナスワンだ

完全とマイナスワンは 矛盾を感じるが しかし それが勝つための心で

マイナスワンは 明日への切符になる

台風13号が中国大陸へ去った日 あっぱれ浦添商が 自らを嵐にして勝った



昨日の文章でもちょっとふれたが、浦添商は「自信」を感じさせる学校の一つである。
それは、初戦から見せつけていたし、二戦ではさらにふくらみ、この日の春日部共栄戦でも
証明してみせた。 とにかく、見えないエネルギーを発しているのである。

それでも、この試合では、いくらか硬直して、せっかくの先取点をひっくり返されたりして、
エネルギーもここまでかと思ったが、六回に、「自信」とは何を根拠にしているものか、
わからせてくれた。

同点に追いつく快打を放ったのは、代打の上地である。 そして、その裏から救援に立って、
四イニングをほぼ完全に封じたのが、渡久山投手である。 いちばん重要な場面で、
代打と救援投手が最高の働きをする空気というものは、決して偶然では生れない。
浦添商のベンチには、まだそういう空気があるような気がする。


( 浦添商7-4春日部共栄 )

424名無しさん:2019/02/17(日) 10:18:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月19日  準々決勝  「  投手戦あり  」


この夏の最高試合と問われたら ためらいなく この一戦と答えるだろう 

平安・徳島商 稀に見る緊迫の投手戦 息詰るというもよし 手に汗握ると語るもよし

戦慄に震えると伝えるもよし とにかく とにかく 金属バットの豪打の時代に

それぞれ たった一人の投手が 十回を投げぬいた


平安 川口知哉投手  徳島商 中山利隆投手 堂々の左腕の完璧の快投

片や この試合で 生涯ベストピッチを見せた左腕 

静かな静かな決闘の 胸にしみる興奮に酔う


そして 静かさの凄味に 時間の経過を忘れてしまう 投手戦はいいものだ

投手戦には心がある 白球に寄りそう少年の 火照った魂を感じる


時間が過ぎるもよし 回を重ねるもよし あたかも それは 決着を望まぬかのように

ピリピリと張りつめたまま 延長十回に突入した 平安5-1徳島商  

気温三十三・四度  観衆四万三千人 人は酔い 地は燃え 空は高くなる



大会ナンバーワンと評価の高い平安の川口投手については、また書くこともあるだろう。
久々に見る大型左腕は一人で投げる逆革命を起している。彼は特別なのだ。

その川口と九回まで、全く互角に投げ合った徳島商の中山投手のことにふれたい。
徳島商はこの試合まで三戦に勝っているが、5点、3点、8点と得点を与え、
中山投手も好調とは云い難かった。 
その投手が、ベストピッチを見せたのである。心に響く。

西京戦の大詰、一死二、三塁逆転の危機に、三振を奪って二死、あと一人となった時に、
中山投手は何ともいえない表情で天を仰いだ。 ほんの数秒であったかもしれないが、
ぼくには、かなりの時間、天と話をしているように思えた。

それが印象に残っていたものだから、この日の平安戦の、別人のような快投には、
感じるものが大きかったのである。


( 平安5-1徳島商   延長10回 )

425名無しさん:2019/02/17(日) 11:30:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月20日  準決勝  「  ありがとう  」


二時間三十四分 昂揚と緊張で踊っていた肉体が ゲームセットの瞬間に 力を失う

立っていることも出来ず その場に膝をつき 上体を倒し しばし 緑の芝の上の動かぬ石になる


泣いているのか 悔やんでいるのか やがて審判に促され 立ち上がり 走る 

勝者を称えるために 勝者に礼を尽くすために・・・ 夏の陽は眩しい 影は長く 影は重たい

そんな浦添商ナインを 勝者にまさる拍手が迎える


智弁和歌山・浦添商  延長10回  サヨナラの瞬間  それにしても 少年たちの

果てしもない力を どう感じたらいいのだろうか 


力は衰えない 心は萎まない 意志は挫けない 夢は諦めない それどころか 

回を重ねるごとに大きく見え 強く見え 美しく見え これはもう 劇的な場面が育てた 

奇跡の少年たちだといえよう  


勝利の立場の少年も 去り行く立場の少年も 忘れ得ぬ誇りを胸に刻んだ 

いい試合をありがとう  ありがとう
 


例年、準々決勝からあとは、疲労の関係もあるだろうが、意外な乱戦になることも多いのだが、
今年は、急に引き締まった。
「最高試合」と称えた詩を書いたあとに、それを上まわる好試合が続出する。

準決勝の第二試合、智弁和歌山と浦添商の組合せで、投手戦を予想した人が何人いただろうか。
おそらくは、壮絶な打撃戦を思い描いたに違いない。 それも、0が19も並んだ。
見事な投げ合いである。 
貧打、凡打の連続ではなく、ヤマ場もたっぷりあり、その都度緊張させられた。

七回、背番号1の代打高塚、いろいろ思うとこれだけで詩になる。
八回裏、強烈なライトライナーで、三塁ランナーは突入出来なかった。

九回表、決勝点確実とみられたレフト大飛球を、鵜瀬が背走のままキャッチした。
いろいろある。いろいろあるが、浦添商上間投手の熱投を称えたい。 いい試合だった。


( 浦添商0-1智弁和歌山、延長10回サヨナラ勝ち )

426名無しさん:2019/02/17(日) 12:52:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1997年8月21日  決勝  「  今年の夏は  」


絶対のエースに 甲子園は微笑まない 何年に一人の逸材も 力尽きる時がある

涼しげな顔をしていても 首筋には光る汗が流れる 


左腕の振りもいささか重く 球威も心なしか鈍る しかし 絶対のエースの誇りと意地は

嘆いて俯くことも 救いを求めて天を仰ぐことも 怒りで土を蹴ることも

決してしなかった それがエースであろう それが大器の証明であろう


平安高 川口知哉投手 今年の夏はきみとともにあった だが しかし 

川口の夏は一瞬の通過点 終わりにならないことを 全国の野球ファンが知っている 

また逢おう また逢おう さらに大きなきみと逢いたい


智弁和歌山6-3平安  力と力  熱と熱  コパカバーナ響き 

セントルイスブルース・マーチ流れ 五万四千人の大観衆が揺れ 青空は夏を復活させ

攻防めまぐるしく 四千九十三校の頂点を決する一戦は 人も舞台もすべて整って
 
堂々の決勝戦であった 両校に拍手を



絶対の投手への絶対の信頼で勝ちぬくか、それぞれの役割を背負った複数の投手で戦うか、
決勝戦は、投手に対する両極の考えの学校の対決になり、結果としては、複数投手の
智弁和歌山が勝った。 これは、一つの大きなガイドラインになるであろう。

ぼくも、健康面、また、連戦が条件になっていることを考えると、複数制に一票を
投じたいのだが、しかし、ロマンチストとしては、圧倒的な存在の投手も見たいし、
涙ぐましい力投とやらに泣いてみたい。 
なかなか難しいところで、おそらく、高校野球人気とも関わって来るだろう。

智弁和歌山が、合理的な複数投手制で優勝したのは事実だが、しかし、ぼくは、
初戦の高塚先発という非合理的な賭けが、全員の力を発揮させたことになったと思っている。
心を燃え立たせることと、合理性の両立、このことが重大であり、優勝に繋がった。



1997年の出来事・・・神戸酒鬼薔薇事件、 消費税5%、 ペルー日本大使公邸人質事件、

ダイアナ元妃事故死、 臓器移植法施行、

            温暖化防止京都議定書採択、 トヨタ ハイブリッド車発売

427名無しさん:2019/02/23(土) 10:06:03
☆ センバツに金属バット導入  第47回大会 (1975年)



大会通算本塁打数は、従来の最多記録、8本をあっさり更新して11本になった。
( 倉敷工は2本。 野田、石原 )
開幕戦は、16点を挙げた倉敷工、15点の中京を破るという凄まじい打撃戦で開幕。

高知、東海大相模の決勝戦も壮絶な打ち合いになった。
5-5で延長に突入すると十三回、高知が一気に5点を挙げ、高知県勢初のセンバツ優勝を果たした。
両チーム合わせて26安打、15得点は決勝戦記録を更新。
木製に比べ飛距離が出、球足が速い金属バットの登場は、高校野球の戦い方にも大きな影響を与えた。



以前にも書いたが、開幕戦で高熱の兼光投手を登板させたのは無茶、塚岡投手で十分。
東海大相模の原辰徳を3三振とキリキリ舞いさせたのは痛快だったが、0-1(自責点0)で惜敗。

この大会も惜しかったけれど、もっと惜しかったのは、前年の第46回センバツ。
居郷投手で3試合目、9回まで1失点なれど、押され気味だった。(延長12回、1-2で敗退)
後半から、兼光君に代えていれば、11人の池田に負ける筈はなかったと思う。

そして、和歌山工、決勝は因縁の報徳学園。 残り二試合、兼光君で行けば、紫紺の大優勝旗を・・・。
この年が勝負だったね。 小沢さん、のちに悔やんだ筈。 もう1年待つことはなかった。

木製バットでは、当時の兼光君の球を外野まで飛ばすのは容易でなく、
阿久悠さんの「甲子園の詩」に時々登場した怪童が、まさに故障する前の二年生時の兼光君だった。
夏も、代表決定戦で先発させず、0ー1で惜敗、怪童を生かせなかった。

46回大会のエースだった居郷は法政大、プリンスホテルで活躍し、現在は西武ライオンズ球団社長。
ドラフトで指名されなかったのが幸いしたか、プロ野球関係では出世頭となっている。

428名無しさん:2019/02/23(土) 11:02:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月6日  一回戦  「  サヨナラの瞬間  」


転転と 転転と さらに 転転と 果てしなく 転転と 無情のボールが赤土を転がる

さえぎる物はなく 彼方へ 彼方へ それは 勝利が逃げて行く 人生の縮図に似た悪夢だ


ボールはきっと善意の言葉で オレを行かせるな オレを捕えろ さもないと

きみらの負けだと 絶叫していたに違いないのだが そんな思いを振り切る早さで

ボールはバックネットに達する  広過ぎたのだ 甲子園は広過ぎたのだ 


だから ワイルドピッチで 二塁走者がホームを駆けぬけた もうボールはしゃべらない 

なぜなら ボールは運命の指揮者ではなく ただの用具に戻っていたからだ


明徳義塾ー桐生第一  サヨナラの瞬間  熱戦は長く 決着は短い 勝者は勝った瞬間を

時間の中から切り取って思い 敗者は長い戦いの一本の道を ゆっくりと辿ればいい

どちらも価値あることなのだ 大会の熱さを予感させる 開幕試合だった



出場校が多く、大会期間も長く、従って、例年よりも二日早い開会となった。
八日から始まるのが通例だが、今年は六日である。人間の体の中には、
体内時計と同様に体内暦があるようで、この二日の違いがなかなか馴染めなかったのだが、
開幕試合によって、まずは修正された。

これが熱のない試合であったなら、いつまでも二日のズレを引きずりながら、
イライラしつづけたのに違いないのである。 ワイルドピッチで勝敗が決する、
しかも、延長で、サヨナラでとなると、なかなか感動詩にはし難い。

勝った方も手放しで喜び難い拾った勝ちという思いがあるし、敗れた方は当然のことに
落した負けという気持で、納得し難いものがあるからである。 しかし、あえて書いた。
それは、決着の瞬間のドラマの多さとともに、その瞬間だけを試合と思うな、
と云いたかったからである。


( 桐生第一5-6明徳義塾、延長10回サヨナラ勝ち )


ワイルドピッチで二塁から生還。

429名無しさん:2019/02/23(土) 12:03:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月7日  一回戦  「  雨と甲子園  」


雨は 目に見える 運命の女神だ ただし 善意なのか 悪意なのか

どちらに微笑むのかさえ わからない


それにしても 自然という舞台装置家は なんという技術を駆使するものか

のどかな陽の射す甲子園を ほとんど一瞬といっていい素速さで 暗黒に変え 雨を降らし

稲妻を走らせ 雷鳴を轟かせ スタンドに滝を作り グランドを海にした


このすさまじさの前では 奇跡という言葉も 劇的という表現も 気恥ずかしくなってしまう

少年よ この雨を何と感じるか 晴れたらいいとただ思うか それとも これこそ

天と地の間に人のいる スポーツそのものだと 強く大らかに受けとめるか


きみらは短い時間だが 戦う相手との間に 手強い運命を置く貴重な体験を したと思わないか

雨で負けた人がいる 雨で泣いた人がいる しかし きみらには ふたたびのチャンスがある

専大北上ー如水館  同点でよかった



雨のシーンは、これまでにもずいぶんと見た。 当然きれるべきボールが、雨でぬかるんだ土の上に
停止してしまい、決勝点を許してしまうということもあった。

あと一回を残して、無念のコールド負けとなった学校もある。 ぼくは、その学校には、
甲子園に一イニングの貸しがあるという詩を贈った。 大量リードが、雨で中止でふいになり、
翌日の再試合では全く逆の展開になったということもあっただろう。

雨も、風も、不公平である。 しかし、公平にするために、雨を遮る設備と、同じ温度に保たれた巨大な
容器の中で戦っては、ゲームではあっても、スポーツではなくなる気がするのである。
ましてや、人生と重ねるなどということもなくなってしまう。

ものすごい雨が降った。 この世の終わりと思えるような稲妻が光った。
しかし、それは同点の時だから、善意である。


( 専大北上6-6如水館 )   七回裏二死、降雨コールド、再試合となった。


再試合は、如水館が10-5で勝利。

430名無しさん:2019/02/23(土) 17:25:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月8日  一回戦  「  ミラクル発進  」


なんだか思い出す なんだか定かではないが 遠い日 心地よい風が吹いて 

最後に虹のように煌く つむじ風になり 八月の甲子園の空に 駆け昇って行ったことを

たしか そう 虹色の風を見送る大合唱があった


そんな記憶のように そんな伝説のように きみらはまた風になり 虹になり

空を走ることが出来るだろうか 桜美林の選手たち 1976年の奇跡を きみらは知らない


それなのに まるで 遺伝子として受け継いだように さわやかに 何かやる 小さくて 

大ごとをなす そんな匂いを 一人一人が発しているのだ 試合は一日雨で流れた 


そして この日晴れた 青い空と夏の雲があり やっと目を細めて見る季節となった 

そんな幸運の中 風だ 風が吹く ミラクルが発進したと思える



創部25年目、初出場の桜美林高校が優勝したのは、昭和51年のことである。 22年前である。 
この「甲子園の詩」を連載し始めて今年が20年目であるから、それほど熱中して
高校野球を見ていたわけではないのだが、なぜだか桜美林の優勝は記憶に残っている。

初出場で初優勝ということもあるだろうし、決勝の相手がPL学園であったということもあるが、
それだけではない何かがあった気がする。 
その何かが今年確認出来るかと楽しみにしていたのだが、初戦で少しだけ見えた。
次の試合ではもっと見えるだろう。

ところで、昭和51年で何をご記憶だろうか。 モントリオールでオリンピックが開催され、
ナディア・コマネチが人気をさらい、ソ連のミグ戦闘機が函館空港に強行着陸、大さわぎになり、
長嶋巨人が初優勝し、レコードは「北の宿から」とか「横須賀ストーリー」が売れた。 ずいぶん昔である。


( 桜美林5-0敦賀気比 )


優勝時の主将が、この大会の監督だった(片桐)。

431名無しさん:2019/02/24(日) 10:03:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月9日  一回戦  「  空翔ぶベースボール  」


甲子園が空であるなら 誰よりも高く 誰よりも遠く 夢に体をふくらませて 翔んで行けるだろう

そして 誇らしく翼を振り 晴れがましく宙返りすることも きっと許されるに違いない


そうだ 甲子園は空なんだ 空と思えばいいんだ 空はいい 空は凄い 空はきれいだ

それと同じように 甲子園は広い 甲子園は熱い 甲子園は手強い そう思ってテイクオフしよう


さて 諸君 空と甲子園 果してどちらに 大きな夢が隠されていたか それを訊ねたい

甲子園は空だったか 空と思うことが出来たか


日本航空高校 キビキビとさわやかに  しかし 無個性ではなく それぞれがそれぞれの

果すべきことを果し・・・ ぼくは一瞬  ちょっと夢を見た 「空翔ぶベースボール」と 書きたくなった
 


不順な天候のせいもあって、野球に落着きがない。 過密ダイヤのスケジュールが、これから先、
ますます変更を余儀なくされ、落着きのなさも一層かと思うと、心配になる。

打って、打ってと感じる打撃戦が、実は、打たれて、打たれてという逆境の弱さの露呈に過ぎないとわかると、
とても熱戦と称えるわけにはいかないのである。 
そこで、ついつい、ようし、しばらくは点数の少ない試合を書こうなんて依怙地さも生れて来る。

サッカーのような点数の試合を緊張して見たいのである。 メジャーリーグの無策の力持ち野球に飽きて、
高校野球の本質に気がついたところもある。 豪快なんてものは、しょせん底の浅いものだと思う。

関大一と日本航空、併せて6点というのは投手戦の中に入るのかどうか、ちょっと多目に思えるが、
ぼくは両軍4人の投手が持ち味を見せた投手戦であったと評価している。 空を翔ぶような超美技もあった。


( 関大一4-2日本航空 )

432名無しさん:2019/02/24(日) 11:07:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月10日  一回戦  「  駆けた 駆けた  」


この踏み込み難い甲子園を わが庭のようにした きみらは 天晴れだ

初陣の気負いをエネルギーにかえ 啞然とさせるほどのびのびと 駆けた 駆けた


本来ならオズオズと 多くの場合 甲子園に呑まれ 身も心も強張らせてしまうのに

きみらは プレイボールの瞬間から いつも通りのきみらで 駆けた 駆けた


時にやり過ぎ また 時にしくじり ピンチを招くことがあったとしても 前進する心の勇み足は

怯えた慎重さよりよほどいい 初陣 滑川高校  あたかも わがままな風のように  吹いて 吹いて 

吹きまくり 元気を示し 意欲を見せ さらに さわやかな思いも伝え 価値ある一勝を手に入れた


初陣の初陣ゆえのハツラツさか 初陣の恐いもの知らずの疾走か 一つの勝利がもたらすものは 

自信と希望と活力 さあ 次なる試合も あの甲子園を庭にしてみてくれ

その体に 純な心と元気をみなぎらせて



スコーンとした青空というわけではないが、とにかく晴れた。 一日四試合がきちんと行われ、
ようやく大会の進行も順調になり、そうなると試合そのものが落着きを示して来て、
異常な乱戦ではなくなった。 あとは、ギラギラとした夏の太陽だけだ。

滑川と境の一戦は、一歩間違うと乱戦になりそうなけはいであったが、最後を引き締めたのは、
滑川のリリーフ投手久保田智之であったと思う。 いや、リリーフ投手という云い方には違和感がある。
なぜなら、彼は、その直前までマスクをかぶった捕手であったからである。

いくらか劇画的な展開と思えなくもないが、自分が対面していた場所に立ち、全く逆の世界を見て
投げるのだから大したものである。 ボールも速かった。

七回の途中から投げたのであるが、1点リードしたあとの九回裏の球速がいちばんあって、
見事に勝利投手となった。 フォームは野茂を思わせる。


( 滑川7-6境 )



久保田智之・・・阪神で11年、41勝34敗47セーブ。

433名無しさん:2019/02/24(日) 12:03:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月11日  一回戦  「  Kの舞い  」


さほど大柄ではないが よく発達した腰と脚 見事な体重移動を可能にする バネのある全身 

いっぱいに伸ばし 最大の弧を描いて振られる腕 そして ボールを離す最後の瞬間に

鞭先のようにシュッと鳴る手首 それらを一点に集めると魂になり 願いのこもったボールが走るのだ


キレのある速球で驚愕させる 打者は泳ぎ バットは次々と空を切る

鹿児島実 杉内俊哉投手 奪三振16のKの舞いと 準完全ノーヒットノーラン


夏の光が甲子園に戻って来た日に さらに光り輝く記録を達成 ウツウツとした大人の心まで

発泡性の水を飲んだような スッキリとした気持にさせた


杉内俊哉投手 きみは巨人になった 巨人のようにマウンドに聳えた

しかし 最後の打者を打ちとった瞬間の ガッツポーズと はにかみを含んだ笑顔は

まぎれもなく少年のもので また 嬉しくなった  おめでとう  ありがとう 



横浜高の松坂投手のことを書こうと半分は決めていた。 どうやら絶不調に近い出来であったようで、
「こんな松坂見たことない」という嘆きも聞こえて来たが、終わってみると、6四死球はあるものの、
3安打、9三振、1失点と、波の投手なら大好投に入る結果で感心したのである。

大多数の成長過程の選手の中で、松坂は唯一成熟過程であると思えたのである。
そんな思いを半分頭の中で巡らせながら、次の試合をみていたのであるが、
だんだん次の試合に引っ張られて行った。 

最初は、驚くべきペースで三振を奪うので、正の字などを書きながら増えていく数を楽しんでいたが、
五回に完全試合のペースであることに気がつき、胸騒ぎを感じ始めた。

結果は無安打無得点で、鹿児島側から思えば何とも残念な四球の一つであるが、
八戸工大一側から見ると、大きな意味を持つ四球の一つで、快挙の感想は実は難しいのである。


( 鹿児島実4-0八戸工大一 )



杉内俊哉・・・ダイエー、ソフトバンク、巨人で通算14年。 142勝77敗。

434名無しさん:2019/02/24(日) 13:03:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月12日  一回戦  「  投げぬいて  」


たぶん 強い相手が発する圧力は 実際に対した人間でないと わからないことかもしれない

目に見えない壁が ジワジワと迫って来るような 一球たりとも見逃さない 鋭い視線に

見つめつづけられているような もう安心と緊張を解く時間が 数秒も許されない過酷さ

それが強い相手というものだろう


PL学園を向うにまわし 八千代松陰 多田野数人投手 その強者の圧力に耐えながら

怯えることなく 最後まで投げきった


肉体と精神力とともに 頭脳もフル回転させ さらに 一球一球に 悔いない思いを籠め

静かな闘志で投げ込む姿は 勝敗を超えた 勝負の美しさで 四万五千の大観衆を納得させ

さらに多くの人の感動を呼んだ 


打たれても 好投であった 敗れても 好投手であった この重さと息苦しさに耐えぬいて

きみは そして きみの仲間は 何まわりか大きくなったことは 確信出来る 

敵は大きい方がいいのだ



鹿児島実の杉内投手のように、快刀乱麻を断つといった劇的なピッチングではなかったが、
八千代松陰の多田野投手の自制のきいたマウンド態度とピッチングには、心うたれるものがあった。 

13安打で6失点は、もしかしたら、打ちのめされたという表現が適当な数字かもしれないが、
そんな印象は少しもなかった。 いつ見ても、マウンド上でベストピッチを探る姿勢を示していたし、
また、揺るがない闘争心も静かに見せつづけていた。

特別に強いチームと普通に強いチームとの違いは、相手の勝負球、決め球をカスるか、
空振りするかの差で、カスられると、勝負の組み立てがゼロになってしまう。
そう思って見ると、PL学園はやはり特別に強いチームであるようである。

よく晴れていた。 客も多かった。 試合も引き締って来た。 
そろそろ余裕をもって、高校野球の風物詩も見つけたい。


( PL学園6-2八千代松陰 )



多田野数人・・・インディアンス、アスレチックス 通算2年、1勝1敗。

        日本ハム 7年、通算18勝20敗。

435名無しさん:2019/02/24(日) 17:03:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月13日  一回戦  「  突破と敗退  」


何か大事が起る直前に 何秒かの空白の時間が生れる 緊張の場面なのに 

フッと空虚になり 呆然としていることがある  おそらく ほんの二、三秒 その時もそうで

音のしない戦場を見る気分でいたら 大逆転の本塁打が出た 


それでもまだ 信じられない飛行物の軌跡を 目で追っている状態で 

右中間スタンドの深いところで 運命の白球が跳ねた時 ことの大事を悟った 


投げたのは 沖縄水産 新垣渚  打ったのは 埼玉栄 大島裕行 もしかしたら

これは 名勝負であったのかもしれない


「初戦」につづく文字は 「突破」 と 「敗退」 突破には未来を語る資格が与えられ

敗退はその瞬間から過去になる その何秒か前まで 別のチームが持っていたのに

本塁打一本で 持ち札を入れ替えてしまった 突破の手に敗退を 敗退の手に突破を 

未来と過去も 歓喜と落胆も それぞれ入れ替わる 本塁打一本で・・・ 



188センチ、79キロで、MAX151の速球を投げる新垣渚のボールを、右中間深く
打ち込んだ4番打者大島裕行は、180センチ、78キロである。

結果があまりに重大過ぎて、逆転本塁打ということにのみ目が行くが、個人の対決として見ても、
充分に興味がある。 わざわざ身長、体重を紹介したように、堂々の体格と力量の持ち主で、
こういう別格の才にうっとりするのも高校野球の楽しみなのである。

とにかく、この一発で、優勝候補沖縄水産は姿を消すことになった。
沖縄に悲願の優勝旗を持って帰るのはいつか。

沖田幸司がいた興南が強かった時から、上原晃、大野倫と好投手がつづいた沖縄水産の時代へと、
ずっと注目しつづけて来たが、可能性としては今年が一番強いのではないかと思っていた。

しかし、敗れた。夢は持ち越しになる。
一方、埼玉栄は、初戦の圧力にも負けず、堂々と戦ったことを称えたい。


( 埼玉栄5-4沖縄水産 )



新垣渚・・・ダイエー、ソフトバンク、ヤクルト 通算12年、64勝64敗。

大島裕行・・・西武、通算10年、23本塁打、232安打。

436名無しさん:2019/03/02(土) 10:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月14日  一回戦  「  光りと影  」


勝敗を決する打球が 自分の頭上を襲って来た時 外野手は一体 何を思うのだろうか

九回裏 4対4 無死満塁 深い深い当りは たとえ好捕をみせたところで 犠飛となって負けになる


それなら 諦めて 最初から見送ってしまうか それでも結果は同じことだが しかし やはり

外野手は好捕の途を選んで 捕ろうとした 捕れなかったが 捕ろうとした 本塁に背を向けている


本塁には 勝者となったチームの祭がある 抱き合う選手たち ベンチから突進して来る選手たち

夏の光が強く 影まで祭に加わっている 歓喜 歓喜 歓喜 おそらくは歓喜の祭


外野手はそれに背を向けたまま じっとうずくまる まるで石になったようだ 佐野日大・宇和島東 
 
宇和島東 サヨナラ勝ち  勝敗が決する瞬間には 光と影がある 光は眩しいし 影は愛しい



もう既に勝敗が決したあとの、外野の芝の上に背を向けてうずくまる外野手の姿に、不思議に心をひかれた。 
本当に石と化してしまうのではないかと思ったほどである。 外野手に敗戦の責任はない。
ただ大飛球が彼の頭上を越えて行っただけである。

この姿を書きとめておくスコアブックはない。 記録に何の関わりもない。 記憶だって果してどうだろうか。
しかし、ぼくは印象的な場面としてメモに残したのである。

大器と呼ばれる選手が、150キロのスピードを誇るのもいいし、怪物とおそれられるスラッガーが、
スタンド奥深く打ち込む姿ももちろん快感である。 光が満ちている。

しかし、勝負、勝敗と関係ないが、少年がふと見せる感傷も、高校野球では、安打1、四球1と同じ価値を
持っているものだと思う。 それにしても、いい試合であったということが大前提で、
試合に緊張感がなければ感傷も目につかない。


( 佐野日大4-5宇和島東、サヨナラ勝ち )

437名無しさん:2019/03/02(土) 11:02:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月15日  二回戦  「  九回裏表  」


激走 好走 本塁を駆けぬけ 決勝点を刻んだヒーローの姿を 五万二千人の大観衆の

ほとんどの人が見ていない 


視線は焼けつくようにボールを追い ボールが二塁手のグラブの中で ちょっとだけジャッグルし 

歓喜と吐息 一喜一憂している間に 二塁走者は三塁へ走り ベースを蹴り 何らの躊躇もなく

勝利のシューズで 本塁ベースを踏んでいたのだ


桜美林高 安江亮選手 五万二千人の死角の中で ヒーローになった類い稀な選手だ

桜美林・智弁学園  九回の表と裏に 高校野球のすべてが集約された


淡々と過ぎて来た試合の 最後のヤマ場が表に作られ そのヤマ場をもう一度崩す 

新たなヤマ場が裏に用意された そして 敗色濃い中で 執念と思える同点打 果敢な二盗

本塁への快走と 一人の選手がやってのけ その晴れがましさを 誰も見ていないのが

如何に凄かったかの証明でもある 拍手を!



この試合に限らず、第一試合の京都成章と如水館も、第三試合の尽誠学園と関大一も、
キュッと引き締った好試合で、超満員の観客を満足させた。
共通しているのは、いずれの投手も、「決して逃げないこと」を前提にピッチングを
組み立てていたからではないかと思う。

打高投低の傾向以来、投手ははぐらかすことに腐心し、そのため一球一球に時間がかかり、
試合そのものを崩してしまうことが多かったが、この日の試合ではそういうこともなく、気持よく運んだ。

乱れた試合から、本塁打以外のヒーローを探すことは難しいが、緊迫した試合からは、
快投でも快打でもない代わりに、真に勝利に貢献したヒーローを見つけることが出来る。
安江選手の場合がその好例であろう。

さて、この試合の四回途中で、終戦記念日の一分間の黙とうがあった。 誰のため、
何のために野球をやるかと問われたら、この環境にある幸福感のためと答えてほしいものだ。


( 智弁学園3-4桜美林、逆転サヨナラ勝ち )


9回表に2点差を逆転、3-2となったが、9回裏に再逆転した。

438名無しさん:2019/03/02(土) 12:12:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月16日  二回戦  「  敗戦投手への手紙  」


藤田修平君 延長十五回を一人で投げぬいた きみの熱投には 思わず目頭が熱くなるほどの

感動を覚えました きみの華奢とも思える躰のどこに あれほどのタフネスが潜んでいるのか


ぎりぎりの攻防に耐えた精神力は 何によって培われたのか そして 戦いの最中の

涼しげとも見える表情は まさに 驚き以外の何物でもありません


きみの正面の姿は アッパレ好投手の風格でしたが 背後から見ると いたいたしいほどに少年でした

その少年が 炎熱の夏の日の甲子園で 五万を超える観衆に見守られ 二百十球も投げぬいたのですから

心うたれて当然です 藤田修平君 しかし きみは 敗戦投手になりました


幕切れは 熱闘のフィナーレにしては あっけないものでした ゲームセットが宣せられた瞬間の  

初めてくずれたきみの表情が 忘れられません きっと永く忘れられないでしょう

1998年の夏を終わらせる きみの哀しい表情でした 藤田修平君 来年また逢いましょう



いかにもタフネスを誇り、表情も豊かな豊田大谷の上田章広投手と、対照的に少年の面影を残す
宇部商の藤田修平投手が、延長15回をともに一人で投げきった。 長い試合であったが、
途中からはその長さも忘れ、ただただ二人の投手の強さに感心していた。

上田投手228球、藤田投手も210球を投げている。 快晴、真夏日であった。
藤田投手の記録上の投球数は210球であるが、211球目に心が行っている時にボークとなった。
意識だけの一球で敗れた投手の心情を思うと胸が痛くなるが、仕方ない。

藤田投手は二年生である。 そういえば、今年の大会は、昨年甲子園で痛い目にあった二年生投手の、
一年後の「恩返し」が目立っている。

鹿児島実の杉内投手も七回の壁の前でくずれたがノーヒッターになり、
押し出しでサヨナラ負けの浜田の和田投手も勝った。 藤田投手も来年「恩返し」をするだろう。


( 宇部商2-3豊田大谷、延長15回サヨナラ勝ち )



藤田修平・・・次の夏は、山口大会の準々決勝で敗退。

439名無しさん:2019/03/02(土) 16:33:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月17日  二回戦  「  エースの証明  」


何やら きみの中で眠っていたものが それも多くのものが 回を重ねるごとに

一つずつ目覚めていって 花開いたように思える 責任感とか 自信とか 壁にぶつかっていた技術とか

これまでにモヤモヤしていたものが 何もかも答を出して きみをつき動かした気がする


いくらか畏れを含んだ表情が 途中で消えた 気のせいか狭まっていた胸が どんどん張りを見せ

手の振りも鋭くなった それが成長ということじゃないのかな


甲子園の大舞台で きみは代役の責任を果しながら 主役になった 佐賀学園 江口佳宏投手

エース負傷の悲壮感の中で 最高と思える自己表現をした


それは 決して 幸運な巡り合せではなく きみが集中し きみが手に入れた 力と心によるものだ

骨折の腕を抱えて 背番号1が必死に応援する マウンドの上の背番号10が それに答えて力投する

甲子園というのは 何もかも美しく見せる 不思議な場所だ



12日目である。 12日目というと例年なら準々決勝の日で、大いに盛り上がるとともに、
最終章に向かって足を急がせる淋しさも、また感じる日である。

しかし、今年はまだ二回戦で、これからが大ヤマというところ、淋しさを感じている場合ではないと、
熱中の姿勢を保つ。

さて、佐賀学園のエース山口樹投手が腕を疲労骨折し、もちろん今大会は絶望、6週間の加療が
必要ということで驚いたが、この日も、岡山城東の中野圭一郎投手が、試合途中で足がつって
退場するアクシデントがあった。 緊張と疲労によるということだが、
甲子園の重圧という理由ですましてはいけないものがあるのかもしれない。

佐賀学園の江口佳宏投手は、その山口樹投手の代役のようなかたちでマウンドに立ったのだが、
その投球といい、打撃といい、「代役」という言葉への静かな挑戦が感じられて、ぼくに詩を書かせた。


( 佐賀学園4-2埼玉栄 )

440名無しさん:2019/03/03(日) 10:10:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月18日  三回戦  「  神様がくれたバランス  」


右足首をテーピングして 痛み止めを二錠飲み 全治三週間を診断された 負傷の投手がマウンドに上がる 

しかし その表情にも 姿にも 傷ついてなお戦うといった 悲壮な気負いは感じられない


あくまで静かで穏やかで 痛みを感じる筈の足首に 体重をのせて投げる やわらかかった

やわらかく見えた  明徳義塾 寺本四郎投手 傷だらけのという表現はあたらない

傷ついたと 悲しがるのもおかしい


神様は 足首に小さな爆弾を仕掛けた代わりに 気負いのない心と 力まない筋肉と 

美しいほどのバランスを 与え給うたか 豪打を誇る打線を翻弄し 先制のホームランまで打った


まさに エースで四番で 野球少年なら誰もが夢みる エースで四番の責任と貫録を

晴れ舞台で示してみせた 足首の痛みに耐えさせたのは テーピングか 二錠の痛みどめか

それとも エースで四番のプライドか 誰も知らない



全治三週間という情報のあった、明徳義塾の寺本投手の先発には驚いた。
高校野球界屈指といわれた逸材も、運に見離され、今大会は絶望かと思っていたからである。

しかし、彼は出て来た。ということは、全治三週間という診断に誤りはないとしても、
たとえどのような傷であっても投げぬいてみせるということか、それとも、人並はずれて優れた若い肉体は、
おそるべき回復力をもっているということか、そのどちらかになるが、ぼくは、後者であることを
信じたい。 きっと驚異の回復を示したのだ。

さて、その明徳義塾は、今大会爆発的打棒を誇る日南学園と対した。 そして、見事に勝った。
ヒーローは寺本選手であったことはまぎれもない事実で、驚かされたのである。

一方、日南学園は、打っても打っても、点にならなかった。
なぜか、強く吐きつづけるだけの呼吸のような感じで、息を吸い込むことを忘れているように思えた。 


( 明徳義塾5-2日南学園 )



寺本四郎・・・ロッテ、ドラフト4位。 投手で3年、勝ち負けなし。 打者で6年、1安打。

441名無しさん:2019/03/03(日) 11:17:05
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月19日  三回戦  「  一つのバント  」


ホームランを打った顔は やっと出たという安堵と少々の照れ しかし バントを決め 自らも生きようと

ヘッドスライディングして 砂煙の中に立ち上がった時の顔は 快心の笑顔だった 古木克明 


バントが手固い策だなんてとんでもない 時と人によって 何より攻撃的に思えるし 意志をも統一する積極策だ

意気が高揚する 本気が伝わる 勝つために今何が出来るか そう 何が出来るか それがベストだ


三番のバントに奮い立った四番は ただ執念だけという一打を放って 逆転した 前田悠貴 

豊田大谷の九回表の集中 試合の終わりを 自分で決めてはならない


何点差があろうと ゲームセットが宣せられるまでは 試合が継続しており 試合がつづいている限りは

勝利もまだそこに居残っている それを摑むのだ 摑める可能性を信じて いっぱいに手を伸ばすのだ

一つのバントが 一つのバントがそう語る



この前の試合、延長15回を戦い、勝利を手にしていながら、人々の注目は宇部商に集中、悲劇的なボークで
敗戦投手となった藤田投手への同情しきりで、豊田大谷にはちょっと気の毒であった。

そういえば、もう何十年も前、徳島商と魚津の延長試合で、坂東、村椿両投手が投げ合い、
敗れた村椿に拍手が集まったことを思い出す。 

坂東投手にしてみれば、堂々と投げ、バッタバッタと三振を奪い、
ヒーローとなったのに悪役扱いは理不尽であっただろうと思う。 そのことをちょっと思い出した。

ただ、この三回戦の相手が、前年優勝校の智弁和歌山であったことが、豊田大谷には幸いして、
新鮮な挑戦者として見ることが出来たのである。 大会にはそういう妙味のようなものもある。
それにしても、上田投手のタフネスには驚かされる。


( 豊田大谷7-6智弁和歌山 )

442名無しさん:2019/03/03(日) 12:37:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月20日  準々決勝  「  未来宣言  」


高校野球というものに いささか翳りを見ていた人 さらに 時代が移り 

二十一世紀という未来の中で この魂の祭典は存在するものかと 深く危惧していた人


この試合がさまざまの憂いに対して 希望に満ちた答を出した 永遠に不滅ですと 

声高らかに宣言したいほどの 熱闘であり 死闘であり その上 さわやかにあふれたものであった


横浜 PL学園 延長17回に及ぶ 激しく めまぐるしく 切なく 息苦しく 胸ふるえ ときめき誘う最高試合

高校野球史に燦と光り かくあれば未来もあると 身をもって示した名勝負に とどまる夏はなお燃えて

眩しい光で祝福したのだ


勝った横浜も 敗れたPL学園も ともに高校野球の明日のために 多くの球児を先導する 役目を果した

八月二十日 木曜日 ここにすべてがあった 夏という季節も 高校野球も そして 少年たちも

ぼくらはそれを凝縮して見たのだ



ぼくの最高試合は、20年前の箕島ー星稜戦であった。 この試合は今や、伝説になり神話になっている。
この「甲子園の詩」の連載を始めた最初の年に出会った熱闘で、ぼく自身の思い入れも激しく、
その後20年、最高試合はこれだと云いつづけて来たのだが、今日、修正しなければならなくなった。

横浜とPL学園の一戦である。 それほどに、この延長17回を戦った両校の試合は価値あるものであった。
試合は、予想と全く異った展開になり、スコアだけを見ると乱打戦かとも思えるが、実は、
洪水のような攻撃に必死に耐えた投手戦と思えなくもない。

そういうところが、緊張につながり、興奮や感動を呼んだのだと思う。 長い試合が終わったあと、
勝った横浜の選手の目に涙が光り、敗れたPL学園の選手に満足の微笑があったのが、印象的であった。 
正直、高校野球の未来に不安を持っていた。 しかし、これで晴れた。


( 横浜9-7PL学園   延長17回 )

443名無しさん:2019/03/03(日) 17:37:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月21日  準決勝  「  語りつぐ場面  」


エースがマウンドにくずれ落ち 身を捩って号泣する 内野手も外野手も それぞれの守備位置の

芝生の上に転がった たぶん そうしなければ いられなかったのだろう


単なる脱落感ではない もっと重要な何か 彼らにとってかけがえのないものが その瞬間消えたことを悟った 

明徳義塾高校 敢闘といった賛辞で 決して埋められないものであることを 彼らは知っていたのだ


およそ二十四時間前 高校野球の未来を約束させた 同じチームが また それにもまさる

興奮に満ちた試合を行い 人々を熱狂させた


あまりにも 昨日が激しく 既にもう完全燃焼かと思えたのに その灰の中から 

羽ばたきながら復活するように 土壇場で追いつき そして 勝った 


彼らには「奇跡」は似合わない 「奇跡」は強者に味方しない 真に強かったのだ 

明徳義塾 横浜  陽炎ゆれる真夏日の中の めくるめく好試合 これもまた永く語られる



やはり、松坂は投げない。 当然のことだろう。 昨日は250球投げ、一昨日は148球投げている。
二日で398球投げた投手に三日連投があるわけない。

そう思うことが健全な良識であり、近代スポーツの常識であると納得しながら、
ほんの何パーセントか、松坂のいないマウンドを淋しく思っている。

誤った考えであることは云うまでもないことだが、この何パーセントの感傷が、
高校野球人気を支えて来たメンタリティだと思うと、難題でもある。

レフトを守る松坂の頭上を越えて、二本もホームランが飛ぶ。象徴的な場面である。
明徳義塾が勢いづき、藤本がサイクル安打を記録、この時点で6点差がつき、やはり、
横浜の夏は昨日で完了、あれ以上のものはもはや望むべくもないのだと思った。

そこからの逆転である。どういう表現をしたらいいのか。
何が起るかわからない程度の感想でいいのか。 九回、松坂が投げた。


( 明徳義塾6-7横浜、逆転サヨナラ勝ち )   8回表終了、6-0から逆転。

444名無しさん:2019/03/09(土) 10:02:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1998年8月22日  決勝  「  怪物の夏  」


少年はやさしい顔をしていた かつての怪物たちのように 射すくめるような眼光や
 
猛々しい鼻っ柱や 意志的な厚い唇で 威嚇するようなところはなかった その上
 
体中から発する獣の匂いや 鋼鉄のような筋肉で 異形と思わせるものは 一つもなかった 


あくまでも やさしい顔をし しなやかな体をし 平凡をよそおいながら しかし 

圧倒的な非凡であった 力もあった 技もあった タフネスもあった もちろん 闘志もあった

それなのに ギラギラと誇示しないのが 新しい怪物の凄さであった


横浜高 松坂大輔投手 この夏は彼とともにあった それは同時に 彼を信じ彼とともに戦った

仲間たちとともにあったことであり 彼を標的にし彼にぶつかった 対戦相手と ともにあったことでもある


決勝戦は静かだった 五万五千の大観衆がいながら どよめきが固っていた

そして あろうことか彼は ノーヒット・ノーランで幕を閉めた 怪物の夏であった



海草中学(和歌山)の嶋清一投手というと、ぼくの年代でも既に伝説の人であった。
昭和14年に準決勝、決勝と連続でノーヒット・ノーランをやっている。 

その後、決勝戦のノーヒット・ノーランはなく、59年ぶりに松坂投手が記録した。
どこまでも松坂の夏であったと云えるだろう。

過剰な個人礼讃はどうかと思われるが、今年ばかりは仕方がないだろう。
何十年に一度かの怪物の誕生を目撃していながら、平均点に引き下げて評価することは、
どこか間違っていると思うのである。

高校野球の面白さは、クラブ活動の部員からメジャーリーグのタマゴまで混在しているところで、
前者を中心に見れば教育の場になり、後者の興味で見ると才能の見本市になる。

このどちらかに偏向することを望まない。 混在と共棲が今後の高校野球の鍵で、
ハバのある気持と知恵で、未来を考えてほしい。 記念大会はその意味で元年になったと思う。


( 横浜3-0京都成章 )



松坂大輔・・・西部、ソフトバンク、中日 計10年。 114勝64敗1セーブ。 現役中。

       レッドソックス、インディアンス、メッツ 計8年。 56勝43敗1セーブ。



1998年の出来事・・・長野冬季五輪、 サッカー フランスW杯日本初出場、 和歌山毒物カレー事件、

            北朝鮮テポドン日本上空通過、 黒澤明死去、 横浜38年ぶりセ優勝&日本一、

            CD売上げのピーク。

445名無しさん:2019/03/09(土) 10:25:03
☆ 第91回選抜高校野球(3月23日開幕)注目校



名実とも優勝候補に挙げられるのは、星稜だろう。奥川投手は最速150キロの直球が武器の右腕。
春は8強、夏はタイブレークの末に延長十三回で済美に惜敗した。

昨秋の明治神宮大会は準優勝、15回1/3を投げて、7安打1失点(自責点0)26三振。
同校はこれまでの甲子園最高成績が夏準V。 今春は悲願の優勝へ一番近いところにいる。

横浜は関東大会8強ながら、関東・東京の6校目に入った。
選考委員会は153キロ左腕・及川を挙げ、神奈川大会で東海大相模や慶応から2桁三振を奪った能力を評価。
甲子園での実力発揮に期待がかかる。


注目したいのは昨秋の大会で強豪校を撃破したチームだ。
盛岡大付は岩手で“大谷二世”大船渡・佐々木を攻略するなど、東北大会準優勝。12試合90得点と攻撃力が高い。

広陵は、チーム打率・338と強力で、河野、石原、森の3本柱という投手陣の充実度は出場校でも屈指だろう。

明治神宮大会決勝で星稜を破り頂点に立った札幌大谷は甲子園初出場ながら、
西原投手が決勝で星稜を1失点完投。準決勝は太田投手が筑陽学園を八回まで無安打無失点に抑えるなど、
昨秋のチーム防御率1・51と投手力が高い。チーム打率も・357と安定している。

智弁和歌山は中谷監督が甲子園で初めて指揮する。
自身も捕手として96年春準優勝、97年夏に優勝し、プロでもプレーした。

その監督から捕手のDNAをたたき込まれた秘蔵っ子がドラフト候補・東妻捕手。
昨年春夏と甲子園に出場し、春は準優勝。あと一歩で届かなかった紫紺の優勝旗を取りに行く。
チーム打率・372と猛打も健在だ。

履正社は、出場校中2位の11本塁打(1位は東邦の14本)と長打力が魅力。
主砲・井上外野手が打線の中心。 投手陣では最速145キロ左腕・清水が柱だ。

21世紀枠にも注目だ。 石岡一(茨城)は最速147キロの岩本投手を擁する。
普通科のほか造園科、園芸科のある農業系高校は、昨夏準優勝した金足農をほうふつさせる。
岩本が“第2の輝星”として旋風を起こす可能性も十分ある。

ひと冬越えて、毎年新たなスターが誕生するセンバツ。今年も数々のドラマが生まれそうだ。

                       (デイリースポーツ・中野裕美子)



石岡一など、県立校の活躍を期待したいですね。
優勝候補が一回戦から激突はよくあること。 15日が抽選日。

446名無しさん:2019/03/09(土) 10:50:03
☆ オープン戦  楽天7-1阪神   8日 倉敷マスカット

守屋、島本、飯田「いい競争」中継ぎ陣に高評価



阪神3番手守屋功輝投手が故郷倉敷で快投した。
6回から2イニングを投げ、許した走者は味方の失策のみ。

倉敷工時代から愛着を持つマウンドで「懐かしかった。
(昨年7月の西日本豪雨で)被災した人がたくさんいる。元気になってくれれば」と力を込めた。

2番手の島本浩也投手は1回2奪三振で「真っすぐは走っていた。
ストライクゾーンで勝負していきたい」と手応えをつかみ、
4番手飯田優也投手も1回2奪三振で無失点リレー。

福原投手コーチも「いい競争をし合ってくれている」と中継ぎ陣に高評価を下した。



今年は、一軍で良い結果がほしいですね。
競争相手が多いけれど、一軍に定着出来ますように!

447名無しさん:2019/03/09(土) 12:23:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月7日  一回戦  「  あざやかな二人  」


弾けて飛び出すのと 破れてこぼれ出るのとは 似たところがあったにしても 根本的に違う

充ちて 充ちて 弾けるなら 打撃戦も壮快だが そうでないのなら 静かなる闘いの

投手戦に興奮する


桐生一 左腕の正田投手  比叡山 右腕の村西投手  投手とはかくあるべしという姿を

甲子園の大舞台で披露する 力と技と頭脳と その三つをコントロールする 自らの精神力と

さらに さらに そのことを楽しめる余裕と すべてを見せてくれた


圧倒的な投手戦であった 静かだが退屈でない 波乱がないのが不満足でない

淡々と進行しても軽くない また 薄くもない 手を握り 息を詰め 背中に少しだけ冷たい汗を流し

ただ瞳だけを見開き そういう戦慄で見た投手戦は 久しぶりだ


それにしても一人が去る なんともったいない 一人の夏は終わり 一人の夏はつづく

一九九九年 千年の単位の終わりの年 あざやかに二人が飾った



この連載も、ついに21年目に入る。 題名も「新甲子園の詩・21世紀の君たちへ」と変わった。
この春、21年間の甲子園の詩に対して、スポニチ文化芸術大賞が与えられ、たいへん嬉しく感じたのだが、
その嬉しさを意欲と緊張に変えて、次なる世紀の高校野球の旅人にならなければならない。

メジャーリーグのホームラン・フィーバー以来、「真向勝負」などという美しい言葉で、
投手をピッチング・マシーン化してしまう傾向にある。打者が打ちたいと思うと同様に、
投手には打たせたくない使命があるのであり、その工夫をあたかも卑怯な所業のように云うのは理不尽である。

そんな単純化したベースボールに、野球もまた悪しき影響を受けてつまらなく感じていたのだが、
「野球は甲子園にあり」か、すばらしい投手戦を見ることが出来て、実に満足した。
それにしても、村西投手、春につづき不運だとしか云いようがない。


( 桐生第一2-0比叡山 )



正田投手・・・ドラフト1位で日本ハム。 日本ハム、阪神、ヤクルトで計9年。 25勝38敗(阪神では1年、一軍登板なし)。

村西投手・・・ドラフト3位で横浜。 2年で勝ち負けなし。


メジャーリーグのホームラン・フィーバー・・・98年、年間記録61本を更新する熾烈なホームラン王争い。

                      マグワイア(70本)がサミー・ソーサ(66本)を破った。

448名無しさん:2019/03/09(土) 15:05:04
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月8日  一回戦  「  怪物のいない夏は  」


あらし遠ざかり 暗雲かき消えて 夏のひかり晴れ晴れと照り きみらの純白の帽子

純白のユニホームが 緑の芝にあざやかに映え 目の汚れを洗う


この甲子園の壮大な祭は 白から始まったことを いまさらのように思う

少年が白いと影が黒くなる 黒い影は元気を証明する 山口県代表・久賀高校


きみらの姿に原点を見る 圧倒する体格の選手も プロの目を惹く技の持ち主も

きみらのチームにはいない バッタバッタの奪三振ショーも 耳をつんざく快音の響きも

何一つない あるのは 少年の体の 少年の力の 少年の技の 高校野球そのもので

それは きっと 少年の心の発信ということでもある だから 白が似合う


勝つ力量は足りなかったが 存在する価値は立派にあった 怪物のいない夏は 少年を見よう

怪物に驚嘆することもいいが 少年の顔と姿に出逢うことも なかなか捨て難い



昨年の大会は、怪物松坂大輔で熱狂した。 その余韻は今も残っている。
だから、今年の高校野球を見る心構えとしては、如何に松坂を忘れるかにあると思う。

昨年と同じように怪物探しをしていたら、落胆するに決まっているからだ。 落胆だけならまだいい。
へたすると、松坂と違う才能、異る魅力をすべて見落としてしまうことになってしまう。

そこで、今年を、「怪物のいない夏は」と位置づけ、それにつづく言葉をみんなして考えることをおすすめする。
ぼくは、この日、「怪物のいない夏は」につづけて、「少年を見よう」というコピーを作った。 久賀高である。

瀬戸内海にある島の高校というだけで、ぼくには少々感慨がわく、ぼくは淡路島で高校卒業まで過し、
そこを舞台にした「瀬戸内少年野球団」という小説も書いた。 それを久賀高に重ねてみる。
重ならないところもあったが、重なる部分も多く、嬉しく思った。


( 旭川実5-1久賀 )

449名無しさん:2019/03/10(日) 10:01:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月9日  一回戦  「  重さと誇りと  」


春 四月 外に桜 内に人の波 歓喜と祝福のウエーブが 甲子園球場を一巡りした

あの感動の日から四ヵ月 彼らは何を摑んだか 彼らは如何に変わったか


健気な少年たちが頂上をきわめ 王者の日々を嚙みしめたのち どこまで強く

どこまで大きくなったかと 人々は期待する  沖縄尚学・酒田南


同じ夢でも沖縄の夢は大きい 同じ歓びも沖縄の歓びは大きい 高校野球の頂点に立つことが

生きることと同じ意味を持ち 悲願という言葉が 単なる飾りの言葉で終わらない

きみらは それらのすべてを あの春の日に実現し また この夏の日にもかち取ろうとする 


凄い 凄い しかし 重い 重い まさに この日の取り取られ 離し迫られする厳しい一戦は

王者の重さに戸惑い 王者の誇りに立ち直った 真に強い少年たちの姿であると 強く思った

さあ 漕ぎ出した 夏の海の黄金の海の中へ ふたたびの挑戦者となって



たとえば、沖縄尚学のトップバッター荷川取のいきなりの一打が、結果ファールであったとしても、
あの快音、あの打球の鋭さを肌で感じると、これはまさに王者の一撃であると思うに違いない。

それだけで、王者の呪縛をかけてしまう力がある。 そのあと、結局、四球を与えてしまうのだが、
単なるコントロールのミスというより、快音が心と体を縛ってしまったのだと思った。

そして、これはもしかしたら、ワンサイドになるかと心配したのだが、そこから先春の王者を
向うにまわしての酒田南の戦いぶりは見事であった。 

力の差を見せつける呪縛に対して、三年生二人、二年生五人、一年生四人という若いチームが、
あたかも鏡で呪縛をはね返すように、沖縄尚学を再三追いこんだのだ。 

一歩先を行く王者に三歩以上離されないようにと懸命に戦う姿が、健気で美しかった。
詩で沖縄尚学を称え、文章筆で酒田南に喝采を送る。


( 沖縄尚学8-4酒田南 )

450名無しさん:2019/03/10(日) 11:06:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月10日  一回戦  「  恐るべし! 」


その時スタンドは何を信じ 何を期待して叫んだか まさか勝鬨ではあるまい

誰の目にも敗色濃厚で 第三者から見れば空騒ぎに思える


しかし どうだ 新湊の応援席では誰一人として 不利とすら感じていなかったのだ

ましてや 敗れるなどとは・・・ そして 始まった 伝説の人津波 アルプスの人雪崩

いやいや 流れるだけでなく そのエナジーをグランドに伝える 人間発電所

エナジーが集まり 膨らみ 爆発するものだと その瞬間に証明した


新湊・小松戦 5連打5点の驚異の同点劇 さらにさらに 延長戦での逆転劇

恐るべし 恐るべし それ以外の感想が持てようか


小雨がパラつく 傘の花が咲いて萎んで また咲く その中で たった一球のボールを

取り返しのつかない失敗に思わせる 歓喜の睡眠術 恐るべし 恐るべし しかし

それらを自らに点火させて 奇跡を演じた選手諸君 また 恐るべしであろう



8回まで2安打0点に封じ、その上に5点のリードを得ていた投手には、同点にされること自体
信じられないことである。 その信じられない過酷なドラマを演じさせられたあとは、もう魂もぬけて、
姿が影のように揺れて見えても不思議はない。

好投手の評価と勝利投手の栄誉を、一瞬に奪ってしまった分岐点がどこにあったか、
試合として考えると、それは9回の連続エラーということになるのだが、それにしても、
こうまで逆流するというのは信じ難い。

たとえば、人生とかいったものと比べてみて、ああいうことが起こり得るかもしれないと考えると、
恐しくさえある。

新湊の元気いっぱいの恐るべしとともに、ヒーローになり損ねた小松の竹田純投手が強く印象に
残る試合であった。 きみを忘れないと云う人が大勢いるに違いない。
新湊旋風、ふたたび吹くか。 吹くかもしれないと、そんな気もする。


( 新湊9-5小松   延長11回 )

451名無しさん:2019/03/10(日) 12:15:03
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月12日  一回戦  「  夕陽の熱闘  」


人間の予想なんてたかが知れている こうなるであろうという予測を 嘲笑うように試合は展開する

それは しかし 裏切ることではなく 予想や予測をはるかに超えた 稀に見る熱闘であった


緊張と戦慄のサスペンスが 波乱万丈のアクションに変わり さらに 結末にも謎を秘めて

勝利の女神さえも戸惑わせたのだ  滝川二・東邦


もしも雨で二日の順延がなかったら 投手戦であったかもしれない 名刀と剛刀の鍔ぜり合い

息を呑ませるたたかいが 進行したに違いない  だが シナリオは変更された


緊張は興奮に置き換えられ 主役は途中で打者になり 四万の観客の目も心も奪ったのだ

面白い 面白い 精気のあふれた好試合 


さて 結末は 結末は 残酷な一景の筆を 誰に委ねることになるのかと 回が終わりに近づくごとに

胸が痛くなった  夕陽があかあかと照っていた  やがて黄昏が迫り 照明が白く空気を染めた 

その中で 決勝打が出た 勝ったのは滝川二だった



高校野球を見る時、多くの新しい発見を期待する。 無名の球児の一瞬のきらめき、あるいは、
知られざる才能の芽ぶきに遭遇することが、いちばん望ましい。 嬉しくもある。

しかし、新しい発見ではなく、既に評判の高い選手の実力を、この目で確認したい気持ちもある。
どれほどに秀れているのか、この目でしっかり見てみたいではないか。

そういう意味では、滝川二と東邦の一戦は、東邦の岡本、朝倉、滝川二の福沢という超高校級投手の、
確認と期待の試合であった。 おそらく、八回ぐらいまで両軍無得点の試合になるであろうと、
勝手なイメージで見つめていたのだが、これが違った。 違ったが、予想よりも、予測よりも興奮した。 

ただ、願わくば、この対戦の投手戦版を見てみたいものだという思いは残っている。
決勝打の中村公選手、打つ直前にふっと顔を上向けた。 あれは祈りか、決断か・・・。


( 東邦5-6滝川二、サヨナラ勝ち )



岡本投手・・・阪神ドラフト3位。 通算1年、勝ち負けなし。

朝倉投手・・・中日ドラフト1位。 通算16年、65勝70敗1セーブ。 

滝沢投手・・・中日ドラフト2位。 通算2年、勝ち負けなし。

452名無しさん:2019/03/10(日) 13:56:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月13日  二回戦  「  甲子園はいいところだ  」


甲子園はいいところだ ちょっとした宇宙だ 広い 広い そして 奥深い神秘がある

神の掌のようだ 走っても走っても終わりのない広さの 甲子園はいいところだ

もっと もっと みんなが その思いを表現すべきだ


そう 表現 自分たちが何者で どこからやって来て 自分たちの思う野球が何で

どうするつもりなのか ここでは精一杯表現すべきだ そういう場所なんだ 

だから ここへ来ることが あれほどに晴れがましく 嬉しかったのだ 


都立城東高校 きみたちの歓喜の野球に きっと いつか 甲子園は 素晴しい返事を寄越すだろう

きみたちは 充分に自分たちを表現した 自分たちの存在が 思うより大きいことも知っただろう

自分たちの力が 信じていいものだと気づいただろう


それは まさに 自分たちが何者であるかを 確認した証拠なのだ 甲子園はいいところだ

甲子園へ行ってよかった



都立城東の試合を見ながら、ぼくはメモ帳の思いうかぶ言葉を書き列べる。
無欲、自然体、歓喜、自信、誇り、活気、精気、幸福、冷静、明朗、満足、そして、表現。

もちろん、試合経過もメモしているが、それ以上に、この試合に限っては、言葉が優先する。
たぶん、城東高には、人間の、特に大人の心の中に眠る美しさ、清々しさ、真面目さを
刺激するものがあるのであろう。 それは、現在失われた言葉だ。

久々の都立校の出場ということで大いに注目を浴びたが、その扱いは、いささかピント外れで、
大東京の代表校をまるで過疎地の高校が甲子園にやって来たような、健気さと涙ぐましさを
強調するものが多かった。

それにはいささか抵抗を覚えていたので、うかんだ言葉の中から、無欲とか自然体とかを消す。
そして、歓喜と自信と誇りと満足、それに、表現を残した。


( 智弁和歌山5-2城東 )

453名無しさん:2019/03/16(土) 10:02:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月14日  二回戦  「  されど 好試合  」


昨日の赤とんぼは どうしたのだろう 今日は赤とんぼのことを 誰も云わない

赤とんぼは勝者の先導役であり 敗者のなぐさめ役であり どちらの選手にも そっととまってほしかった


好試合の余韻は 人の心だけでは持ちきれない 勝者には近寄り難く 敗者には辛過ぎて 言葉の掛けようがない

そんな時 赤とんぼが 勝者の帽子のひさしに 敗者の肩にとまるだけで 勲章の役目を果すのだ


桐生一・仙台育英  思いがけない大差となったが これもまた好試合であったと あえて呼びたい

思えば訪れた一回のチャンスの その運命のような絡み合いが 勝敗の行方をj決した


しかし 希望がある限り いきいきと体を躍らせ 選手たちは瞳を光らせつづけたからだ

いい試合とは点差ではなく 弛緩することを許さない ピンとした空気で たしかに それがあった

さあ 試合が終わった あとは敬意を抱くこと 認めること



「一つ勝ちたい」と誰もが思う。 「一つ勝ててよかった」と誰かが云った。 そうなのだ。
甲子園のいちばんの喜びで、それゆえに最も困難なことが、この、一つ勝つなのだ。

二回戦の後半に入り、一つ勝った同士が対戦することになる。 これは別の意味で、つまり、
心の問題で難しくなる。 「一つ勝ったから二つ勝とう」か、「一つ勝ったから目的はもう果した」か、
心の奥底のモチベーションは見えないが、その差ははかり知れないものがあると思う。

桐生一、仙台育英の両校は、「一つ勝ったから」と安心を抱くチームではない。
それだけに高い意欲でぶつかり、面白かった。 ふと、チャンスということを考える。

チャンスは気難しいスターのようなもので、演出が悪いと、すぐに舞台を下りる。
しかし、知恵と意欲と誠意を示すと、驚くほどに応えてくれるものだと。 
チャンスは数少ない。 試合とはチャンスとの戦いでもある。


( 桐生第一11-2仙台育英 )



451: 最終行の滝沢投手は福沢投手の間違いでした。

454名無しさん:2019/03/16(土) 11:02:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月15日  二回戦  「  九回裏  」


おそらく この試合をみつめる人のすべてが 九回裏 先頭打者が凡退したところで

一つの興奮を冷ましただろう そして 今日もまた10三振を奪った怪腕に 

陶然とした視線をあて 彼こそヒーローと思っただろう 


その通り 彼は100パーセントのヒーローであり 疑うものは何もなかった やっぱり 凄い

それ以外の感想があっただろうか 静岡・甲府工 時折雨がパラつく 8月15日の熱戦 


思いがけないことが起る それが野球だ 思いがけないことが起る それが九回裏だ 

100パーセントのヒーローが交代する 誰が予想しただろうか 思いがけないことはまだまだある 


ヒーローのいないマウンドは 不安と失望が渦巻く筈なのに 新たなヒーローが誕生した 

堂々と 力強く さりげなく それは全く奇跡ではなく ごく当たり前のことのように 

しっかりと存在したのだ 信頼があり 渡された敬意と友情があり・・・ いい試合を見た



高木康成投手は交代したが、それは試合の上でマウンドを譲ったのであり、ヒーローの座を明け渡したわけではない。
彼に対する評価も敬意もそのままで、ただ、市川治由投手という新ヒーローが加わっただけである。

ぼくらは、一回戦の17奪三振の印象があまりにも強烈で、彼が交代することなど有り得ないと思っていたのだが、
どうやら、それは観客の勝手な思い込みで、静岡高では奇異なことではなかったようである。だとすると、このチームは強い。

天気不安定で、試合開始が二時間半も遅れた。ましてや一試合目で、早朝から試合の可能性を思いながら
待っていたのは、過酷な条件である。もしや、このことによって乱れた試合になるのではないかと心配したが、
全くの杞憂であった。
引き締ったいい試合をした。敗れた甲府工の粘りのある攻撃、再三の美技を見せた青沼、清水ら、感動的ですらあった。


( 静岡3-2甲府工   延長10回 )



高木康成・・・近鉄ドラフト2位。 近鉄、オリックス、巨人、通算12年。18勝26敗。

455名無しさん:2019/03/16(土) 12:06:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月16日  二回戦  「  2時間38分  」


マウンド上に選手が集まる 激励か 秘策か 思いがけなく長い時間が過ぎる

時間が停まる 重大な場面が重大な場面のまま 凍結される 声があったかなかったか


選手がマウンドから それぞれの守備位置へと散る 心が強くなったか それとも秘策が見つかったか

時間が動き出す 重大な場面が解凍される そして・・・ 次の場面は言葉を失う


とにかく一コマ動いただけで 試合終了のサイレンが鳴った 2時間38分の熱戦が終わった

長崎日大・明徳義塾 ふたたびの夏の陽ざしの中の 波乱に満ちた試合は 延長11回裏

既に陽は斜めに傾いた時間の 数分の場面に集約される


勝った者 敗れた者 ともに思うことだろう 心の動きとボールの運の 恐しいほどの繋がりを

2時間38分が 数分に凝縮され さらに数秒で決した結末を どう考えたらいいのだろう

サイレンの響きわたるを聞きながら ぼくは誰より無口になった


長崎日大・明徳義塾。 この試合、語るべき多くのことがあった。 最後の最後を迎えるまで、

ぼくは、両校ともに代役選手が活躍するさまを喜んで見ていた。



リリーフにしろ、ピンチヒッターにしろ、途中交代出場ししろ、与えられたチャンスをものにする光景は、
気持が躍るものである。

明徳義塾の三木田投手は救援して、チームの劣勢を立て直す基盤を作ったし、
長崎日大の山中投手は、エースから引き継いで一度は逆転を許したが、
その次の回から五イニングをパーフェクトにおさえ、見事であった。

その時点では、ぼくの詩のテーマは「代役の栄光」であった。 「チャンスと栄光」でもよかった。
どこか幸福な思いで、試合の成り行きを見守っていた。

しかし、それらの光り輝くテーマを捨てなければならなくなった。
劇的な幕切れはどこか残酷なものだが、残酷をも含めて野球であり、勝負であるからである。


( 明徳義塾5-6長崎日大、延長11回サヨナラ勝ち )



敬遠か、勝負か、円陣で決めた勝負直後、捕逸 パスボールで決着した。

456名無しさん:2019/03/16(土) 13:06:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月17日  三回戦  「  野球地図  」


全国の諸君 頭の中の野球地図を すぐさま描き変えよう 大きな地殻変動が起きていて

形も高さも違っている 温度も違っている だから 地味な色の目立たぬところを

思いきり派手な色に塗り変えよう 


それが終わったら 野球王国とか 激戦区という言葉も 置き場所を考えよう 

もう昔の地図では 通用しなくなっているのだ

全国の諸君 強い野球 弱い野球を 普通の地図の上で選ぶ愚を 今日限りでやめにしよう


一つ勝った 二つ勝った 青森山田が三つ勝った 今日のこの 重く 熱く 長い一戦を制したから

まだまだ勝つかもしれない 彼らは大きい 彼らは自信に満ちている 怯むことなく闘う


そして 堂々の力を技を発揮する 善戦とか 敢闘とか 敗者好みの言葉は似合わない

強いのだ さあ 青森山田 全国野球ファンが待つ 地図は変わったぞ



思えばこの試合、プレイボールを告げるサイレンが、まだ何ごともないかのように、のんびりと鳴り響く中から、
波乱の予感が隠されていたのだ。 初球を狙った鎌本の一打はセンターを越え、駿足を飛ばして三塁へ達した時に、
まだサイレンの尾は球場の空にあった。

それにしても、青森山田・日田林工、おそろしい試合を展開してくれたものだ。 古い野球地図でいうなら、
どちらかというと地味に思われる県の両校が、一段も二段も上のレベルの戦いを見せたのだ。

堂々たる体躯風貌の松野投手、前半の投げ合い、後半のしのぎ合い、感動的なマウンド姿であった。
印象は、まさに、強豪同士の死力を尽くした熱戦であった。 決して、スコアが並んだというだけではない。
長い死闘、あのサイレンの中の一打が遠いことのように思えた。


( 青森山田7-4日田林工   延長11回 )

457名無しさん:2019/03/17(日) 10:10:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月18日  三回戦  「  壁の向うで  」


何かをやりそうな気にされる そんな雰囲気を漂わせているのは 得難い財産です

あの時がそうでした ミラクルと云われました そして 今年も ミラクルの再現かと 期待させました


二つ勝ったということより 何かをやりそうな 気迫と 活力と まだ隠されている未知の魅力

それらがそう思わせたのです  旭川実・三回戦敗退 満足と不満足 その総括は

一足早い秋の中で行われるでしょう また始まります


去る人の代わりに新しい顔を加えて 長い 長い 甲子園の道が始まります

今年の勇者たちは何を語るでしょうか ミラクルについてでしょうか それとも 明日の壁についてでしょうか


一回戦の壁 二回戦の壁 そして 突然高くなる三回戦の壁 この不思議な高さの壁を 

明日の壁と云います それについて語りましょう 目標は明日の壁です もうミラクルは捨てましょう 

来年 また燃える夏 壁の向うで待っています  



やはり、どこかに秋がある。 照っても、曇っても秋がある。 ちょうど大会は十一日目、
準々決勝への勝ち残りを賭けて三回戦を戦っている時であるから、なおさら、寂しさや無念さの方に目が向く。
ほうって置けない気持になるのだ。

勝った学校にはあと三日の中で言葉を贈る機会もあるということで、歓喜や興奮や、
快投や大殊勲はちょっとお預けになる。 それで、この時点で、甲子園の土をかき集め、影のようになり、
満足と不満足を半々に去って行く少年たちに、一言かけたくなる。

それも、ご苦労さま、よくやった、という言葉よりはもう少し重いメッセージを届けたくなるのである。
旭川実はいい試合をしていた。
ただの勢いの加速ではない、実力での勝ち進みを感じていた。 しかし、三回戦で立ち停った。 
それが何かを自分のことのように考えながら、「壁」について書いた。 三回戦は教訓である。


( 柏陵6-0旭川実 )

458名無しさん:2019/03/17(日) 11:08:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月19日  準々決勝  「  DAISUKEの心  」


少年はいつも口惜しい 口惜しさを抱いて生きる 云いかえれば 口惜しさを感じない少年は

少年はでないのだ 理想への距離を考える 美意識の姿を思う 大きくなりたい 強くなりたい

凄くなりたいとも願う そのための努力は惜しまない 自らを磨くことも忘れない


二十四時間 三百六十五日 同じ夢を見る 夢を本気に思うと理想になり 一本の道が示される

その道しかないと決心する だが それでも口惜しい そうなのだ 志ある少年は

そのように口惜しがるものなのだ


柏陵高・清水大輔投手 ぼくはきみを知らない 甲子園のマウンドで 小さい大投手の異名を取る

その姿でしか知らない それなのに なぜか感じてしまう 


敗れたから思うのではなく 三振の山を築いた時でも 完封をした時でも 心の奥底で見悶える

口惜しさのエネルギーと それが発光する美しさを見たのだ 

今年の大輔は 太陽を睨みつける 心の強い向日葵だった



今年の大輔というからには、去年の大輔があったからで、それは説明するまでもなく松坂大輔である。
向日葵は松坂にこそ似合であるが、清水大輔の詩にもそれを使いたかった。

松坂は太陽をサンサンと浴び、太陽をひとり占めにしたかのように華やかに咲くのが個性だが、
今年の大輔の清水は、その太陽を睨んでいるかの感じがした。 
こういう空想も、高校野球の楽しみの一つである。

それにしても、今年の大輔は清水大輔だけではなく、メンバー表を見てみると、なんと18人もいた。
数え間違いがあるかもしれないが、それはともかく、この数は驚くべきことである。

おそらく、そのほとんどが荒木大輔にあやかったものと思えるから、甲子園の夢というのは凄いものだと思う。
命名して18年後に花咲く夢である。 他に、塁という名の選手が二人、辰徳という選手もいた。


( 智弁和歌山7-2柏陵 )

459名無しさん:2019/03/17(日) 12:27:00
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月20日  準決勝  「  逆転サヨナラ  」


逆転サヨナラ なんという響きのいい言葉だ 劣勢をひっくり返し そのまま勝者になれるのだから

逆転サヨナラ それにしてもなんという重さだ 夢を描けば晴れがましく 現実を思うと

責任の重さに身が竦みそうになる 日本一不運な少年か 九回裏 二死満塁が クジ引きを迫る


岡山理大付 馬場雅央選手 足の負傷を押して打席に立つ 交代はなかった 信頼が与えられた

運命を託してくれた 甲子園に満ちた緊迫の空気と 信頼された歓喜と どちらが重く感じられるか

信頼だ 信頼が緊迫を払う お前が打ての言葉は すべてのプレッシャーに勝る 


あと一日 甲子園にいたい もう一試合 ここで戦いたい さあ 何も考えまい ボールを見るだけだ

ボールが小さく見えたら負け ボールが大きく見えたら勝ち 九回裏 二死満塁 大きなボールが迫る

打った 響いた 逆転サヨナラだ 



準決勝ともなると、疲労も極限を越えていて、意外なほどに大差の試合になることが多い。
どうしても優勝するのだという学校と、ここまで来たら上出来だと感じている学校の差でもある。

もういいと思うと、力というものは脱ける。 そして、一度脱力すると復活不能のもので、それが大差になる。
しかし、今年は、そんなことは全くなかった。 

勝ち残った四校すべてが、明日の試合への意欲を抱いていたから、準決勝二試合とも、スキのない、
それでいてスリルをはらんだ好試合であった。

第一試合、優勝経験のある智弁和歌山の風格勝ちかと思われた次の瞬間、劇的なドラマが生まれたのだ。
二死満塁、逆転サヨナラ、これはあまりにも劇的過ぎて、ドラマにも小説にも使うことが憚られるシチュエーションである。
虚構であり得ないとされることが、現実では起る。 だから面白い。


( 智弁和歌山4-5岡山理大付、逆転サヨナラ勝ち )



岡山県勢が決勝初進出。 二回戦からの登場となり、くじ運に恵まれた。 
5-4学法石川、6-0水戸商、5-2滝川二、5-4智弁和歌山。 ジャンボ宝くじの2等が当たった感じだね。

春の1等は、半世紀以上前に東商が当てた。 夏の1等は、倉工だ!と魔物は決めている筈。
甲子園最多勝、最高勝率、数々のドラマチックな試合を演じた倉工が、夏の頂点に最も相応しい。

460名無しさん:2019/03/17(日) 15:11:01
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

1999年8月21日  決勝  「  目頭熱く  」


二十一世紀になってふり返り 1999年の夏のことを思う時 きっと きみたちの英姿が

あざやかにうかんで来るに違いない 時代の最後のページに 堂々とその名を残したのだ


勝者の栄光は 永久にセピア色に変わらない この日この時の鮮烈さのまま 記録され 記憶される

それが優勝の特権なのだ 桐生第一高校 初優勝 多くの人々の目頭を熱くさせ 

歓喜と興奮を分け与え 晴れ晴れと夏の幕を引いた  
 

きみたちの成功は きみたち自身が作ったもので きみたちが きみたちでなくなる時がなかった

自分の大きさを知っている強さ 理想を幻想に肩代わりさせず 為し得る理想を しっかりと体得していることだった

だから きみたちの勝利は夢でなく 自分の理想を貫いただけである それが正しかったと 大きな舞台で証明されたのだ 


エースがいた エースは卓抜した投球を見せ 勝利の第一殊勲者であったが 決して 決して

怪物視しないところに きみたちの全体の強さがあった 来年は もう 2000年だ



高校野球はよみがえったと思える。 昨年の後半戦から松坂大輔人気で、熱狂が甲子園に戻って来たが、
あれは特別なことと考えられないでもなかった。 しかし、今年もまた昨年と同等か、それ以上の人気を呼んだ。

高校野球の復活を感じるのは、一人のスーパースターの出現で異常な人気を煽ったことではなく、
怪物もいない、優勝候補もない、そんな状態の中で、高校野球の面白さの原点帰りのような
ところがあったからである。

ぼくは、二日目の詩に、「怪物のいない夏は少年を見よう」と書いた。
まさにそのような大会になったことが嬉しいし、それを支持する人がこんなにもいたことがわかって、
二十一世紀にも高校野球は存在すると確信したのである。

決勝戦は、意外な大差になった。 準決勝でどこか燃焼しつくしたところがあったのかもしれない。
そうなることも含めて、高校野球というものである。 ぼくの夏も終わった。


( 桐生第一14-1岡山理大付 )



1999年の出来事・・・統一通貨ユーロ導入、 全日空ハイジャック 機長を刺殺、

            王ダイエー26年ぶりパ優勝&35年ぶり日本一、 東海村JCO臨界事故。

461名無しさん:2019/03/23(土) 10:06:01
☆ 記憶に残る選手宣誓  (  NHK シニアアナウンサー  小野塚  )

【 第83回春 (2011年)   創志学園(岡山) 野山慎介 】


「 宣誓。 私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。
今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。

被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。
人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることが出来ると信じています。

私たちに今、出来ること。 それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。
「頑張ろう! 日本」。 生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います 」。


小野塚・・・「 発声、滑舌が完璧で、前日のリハーサルとは別人と思ったぐらいです。
1日のトレーニングで、ああいう風にしゃべれるようになったのなら、すごい努力だと感動を覚えましたね。

内容も文句なし。 「感謝」って言葉は嫌いですけど、野山君が言ったのはいいと思います。染みました。
大震災直後で神経を使わないといけない大会。 プレッシャーがあったと思うけど、堂々としていた。

本当に彼が被災地を代表しているような錯覚を覚えました。
トーン、響き、間合い、1語1語大切に、小さい体いっぱいに表現していました。魂と迫力を感じました 」。



なかなか見事な宣誓だったね。 高校野球ファンの記憶に残った筈。
この小野塚アナは倉敷工ー金光大阪のテレビ実況を担当していた。
シニアになったけれど、名調子は衰えない。 テレビの方では少し喋り過ぎの感はあるけれど・・・。

テレビを消音して、ラジオの実況を聴くとアナの実力がよくわかる。さすがに、全国放送のアナは、皆さん上手い。
岡山大会のアナは、ヘタクソ過ぎて、大笑いするしかないが。
全国放送でラジオ実況出来るアナは、生まれ持った才能のような気がする。大したものです。 


ついでに解説者のことを書くと、昔は名解説者がいて、解説を聴くのも楽しみだった。
山本英一郎さん、池西増夫さん、松永怜一さん、光沢毅さん・・・。(山本さん、松永さんは野球殿堂入り)

内容といい、声といい、間合いといい何とも云えない味があった。
この方々を、知らない人が多くなったけれど、聴かせてあげたかったほどの名解説でした。
ちなみに、倉敷工ー東海大相模のテレビ解説は池西増夫さんだった。

残念ながら、今は楽しみにしている解説者がいないのだが、河原崎哲也さんが名解説者に一番近いと思う。
元社会人野球三菱自動車京都の監督だったらしい。この人はなかなかいい声で上手い。


どこの試合だったか、忘れたけれど、小沢さんが全国放送のテレビ解説をしたことがあってね。
偶然に見たんだけれど、解説は、元、倉敷工業監督の小沢馨さんです・・・。

かなり緊張されていたのでしょう。 とてもとても・・・ 岡山県大会なら、あれでもいいのでしょうが、
聴いてて、こちらが恥ずかしくなったことだけは覚えている。 たぶん、この年だけだったのでは?
元々、口下手の方でしたから、全国放送ではきつかったと思います。

462名無しさん:2019/03/23(土) 10:23:01
☆ 「今ありて」   作詞: 阿久悠   選抜高等学校野球大会  3代目大会歌(1993年より)  



1、新しい季節のはじめに  新しい人が集いて  頬そめる胸のたかぶり  声高な夢の語らい

  ああ 甲子園 草の芽 萌え立ち  駆け巡る風は  青春の息吹か

  今ありて 未来も扉を開く  今ありて 時代も連なり始める

2、踏みしめる土の饒舌  幾万の人の想い出  情熱は過ぎてロマンに  花ふぶく春に負けじと

  ああ 甲子園 緑の山脈  たなびける雲は  追いかける希望か

  今ありて 未来も 扉を開く  今ありて 時代も連なり始める

  ああ 甲子園 緑の山脈  たなびける雲は  追いかける希望か  今ありて 未来も 扉を開く 

  今ありて 時代も連なり始める  今ありて 時代も連なり始める



「今ありて」は、平成5年と30年に入場行進曲にも使用された。

平成最後のセンバツが開幕。 本日の履正社ー星稜は注目の好カードですね。

463名無しさん:2019/03/23(土) 11:26:02
「 甲子園の詩  ( 阿久悠 ) 」

2000年8月8日  一回戦  「  21世紀とキャッチボール  」


たしか きみは 宣誓の最後に 日本中の夢 希望 感動を与え 

21世紀への架け橋とすることを 誓いますと云った 青空だった 夏そのものだった

光がきみの言葉に絡みつき キラキラと発光しながら 多くの人々の心に届いた


今世紀最後の夏 20世紀最後の高校野球 晴れがましくも重々しい

この言葉に飾られた大会は きみたちにのしかかる しかし 夢だ 希望だ 感動だ

20世紀が食いつくしたこれらを きみは宣誓で再生してくれた


さあ ここからは 21世紀とのキャッチボールだ その最初の一投を 育英高 上野浩一主将

きみが堂々と投げたのだ  春につづき 夏もまた 開幕試合の育英高 


春は敗れたが 夏は快勝した 選手宣誓の文章を 部員一人一人の言葉でつないだようだ

試合もまた気が満ち 心がリンクしてエネルギーとなった 


20世紀最後の高校野球の 歴史の重さを背負いながら 新世紀への窓を開け 

高校野球よ永遠なれと きみらが合唱した気がした いい夏になりそうだ

キャッチボールが出来そうだ 21世紀が受けてくれそうだ



ぼくにとっても22年目の夏である。 まさか20世紀の終わりまで書きつづけていようとは、
思ってもいなかった。 それだけに、感慨もあるし、興奮もある。 興奮は不安と同じで、
すべてが未知であることである。 何が起るかわからないからである。だから、興奮し、不安も感じる。

果して、21世紀にも高校野球はあるのだろうかと思うことがある。
世の中に「少年の証明」が不在になると、高校野球の証明も不毛ではないかとおそれるのである。

しかし、逆に考えると、日常で見失いつつあるものを甲子園で発見し、魂の原型を知るということもある。 
それを期待したい。

初日三試合、すべてが大差となった。 試合の流れの中で劇的場面を見つけ、感じることはできなかった。
しかし、開会式から第一試合へ、宣誓の言葉のストレートさから、育英の勢いにかけて、
大舞台の昂揚を覚えたので、夢と希望と感動で書いた。



( 育英8-1秋田商 )

464名無しさん:2019/03/23(土) 15:01:01
「 甲子の詩  ( 阿久悠 ) 」

2000年8月9日  一回戦  「  青春の匂い  」


試合の始まる前から 甲子園に満ちた熱い空気は何か アルプススタンドが 

ラベンダー色に染まっていくスペクタクル それも また ホウッと息をつく驚きだったが

そればかりではないだろう 
 

きみたちの登場に 何かしら少し懐しい青春の匂いを 嗅いでみたかったに違いない

それは まさに 純粋な精神を詰めこんだ タイムカプセルの開扉の期待で そう そんな気分だ


札幌南高 六十一年ぶりの甲子園 きみたちは経験した しっかりと体感した 

円型の中で渦巻く情熱の風も シューズの底で聞く芝のささやきも そして とてつもない魔物の存在も

ここにいなければ 絶対に遭遇出来ないさまざまな師と きみたちは出会ったのだ 


技術を 力を 大きさを 強さを 賢さを 平常心を 甲子園に散らばっている見えない師が

一人一人に教えてくれたのだ きみたちは きみたちの青春の匂いを発した 先輩たちの青春とはまた違う 

きみたちの 2000年の 今だけにある青春を 手にしたのだ それでいい



ぼくは63歳になる。 だから、札幌南高が61年ぶりの出場だと聞くと、ああ、ぼくが2歳の時という思い方をする。
昭和14年のことである。 

どんな年であったかと年表類を見ると、双葉山70連勝ならずとか、「父よあなたは強かった」のレコード発売とか、
戦闘機の「零戦」誕生とか、「少年戦車兵募集」とか、なかなか意味ありげな年である。

それはともかく、そのような時代と現代を直結させるには、あまりにかけ離れていて、今の少年たちには
正直とまどいもあったことだろうと思う。 青春の匂いを嗅ごうとする大人たちの中で、しかし、
少年たちは結果、立派に自分の青春を発したと思うのだ。

「四回 0」スコアボードにPL学園が初めて0を記してから、札幌南は違う人になったようにのびのびと
動き始めた。 嬉しかった。 価値ある自己の確認で、先輩も理解してくれるに違いない。


( PL学園7-0札幌南 )

465名無しさん:2019/03/23(土) 16:35:01
「 甲子の詩  ( 阿久悠 ) 」

2000年8月10日  一回戦  「  代打と救援  」


混じりっけのない青空は 混じりっけのない夏で それは少年を愛する 季節の心のあらわれだ

そんなとき ヒーローは あたかも光の玉のように ポンと飛び出す 


代打と救援 満を持して控えにいた二人が 今か今かの昂る思いで待ったあと 

運命を託されて甲子園に立った 宇都宮学園劣勢の六回裏 一打逆転の二死満塁の好機に 

百八十七センチ 百キロの巨漢 和田祐輔が代打に送られる 


そして 軽々と打った いや 軽々と見えたが それは余りにも大きい価値ある一打で

試合の流れはそれを機に 大きく変わった  突然のヒーローは二人いた 


攻めるよりも困難な守りの責を その両肩に受けてマウンドを踏んだのは 一年生だった 

泉正義投手 怯むところはなかった 大胆で慎重だった 若くて老獪だった


彼を知らない人は不安を抱いても 彼を知る人はそうではない 混じりっけのない青空の下の

甲子園のマウンドが実に似合った  驚いたことに最後の九回は 初球 初球 三球三振と 

たった五球で終わらせた  流れは人間が変えるのだ



今日は人間を見た。 運命を見ることが多いのだが、時々、運命と戦ったり、運命に押し出されて
夢を実現する人間をじっと見つめることがある。 新発田農の五十嵐卓也投手は、175球も投げ、
22本も安打を打たれ、14点も取られたが、最後の最後三者凡退に仕留め、光りを見た。

ネバーギブアップと粘りの違いのようなもので、五十嵐投手には、自らを持ちつづける粘りを感じた。
これは何より尊い資質であると思う。

そして、次の試合では、詩に書いたような二人を見た。 運命の光がグルグルまわっている。
一度行き過ぎるとしばらくやって来ない。 しかし、現実に進行している試合は、光りのまわりとは
無関係に人間に役を与える。

人生に於ても、役を与えられたその時に運命の光がちょうど射すなんて幸運は、めったにない。
宇都宮学園の代打和田、救援泉、この二人を見ていると、まさにドンピシャリという感じさえした。
今日は人