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阿修羅
:2016/02/08(月) 14:38:38
『御触書』と刀の長さ
「武家諸法度」自体に「二本差し」のことは、触れられていませんが、 いまの「通達」である「御触書」において詳しく書かれ定めています。
幕府は寛永十五年(1638)に大刀二尺八寸(84.8cm)、脇差一尺七寸(51.5cm) という武器の最大刃長寸を定めて、お触書を出したが治安上の効果がなかった。
正保二年(1645)に「浪人者」の取り締まりのため、武士・浪人・町人の区別を明確にした。
「槍」や「野太刀」の市中携帯を「幕府令」で規制し、武士の「髭」や「髷」の形も規制した。
このときに刀の大鍔や角鍔(忍び対策上)も禁止しています。
大刀の刃長を二尺八〜九寸(85〜87.6cm)
小刀を一尺八寸(54.5cm)と定めています。
これに違反する者には厳しく対処し、時には死罪にすることもありましたた。
寛文八年(1668)から天和三年(1683)にかけては、 町民の帯刀を禁止したことで、「二本差し」が「武士階級」の象徴となりました。
その後も幕府は幾度も刀の長さを規制していますが、大名や武士とは違って、 町民や無頼者の間には中々定着しなかったようです。
最終的に大刀の定寸は、二尺三寸〜二尺三寸五分(約69〜71.2cm)、
小刀は一尺三寸(39.4cm)〜一尺六寸(約48.5cm)と定め、
これが「刀の定寸」となっていったようです。
幕府御家人(30俵2人扶持)の伊賀組同心平山行蔵(宝暦9年・1759―1829・文政11年)は背丈が低かったが、3尺8寸という長い刀を差していました。
勝海舟の父、勝小吉は平山行蔵の弟子で3尺2寸を差していました。
御触書
江戸時代の成文法のこと。『武家法度』『禁中公家法度』のような支配階級向けの法令と異なり、老中が将軍の裁可を受けて配下に下達志、必要に応じて一般に触れて書きとめさせた。諸藩でも同様、一般向けの法令を触書きと呼んで公布した。
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