したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

【早実】名勝負・思い出の試合を語る【感涙】

1甲子園に忘れ物:2002/05/04(土) 17:24
負け試合ほど印象が強い。
96年甲子園2回戦「三重海星」。
9回のサヨナラホームランが忘れられない。
自分の早実野球好きはこの試合から始まった・・・。

2ALY:2002/05/04(土) 17:50
あのときの三重海星の4番バッターは、
大学進学後、白血病で亡くなったそうです。
ご冥福をお祈りします。

3余計なことですが:2002/05/04(土) 19:38
卒業して早22年敗者の美学という言葉を教えてくれたのもわが母校です。東京のなかでは早実の壁に何度泣かされた事かとあちこちから怨念めいた声を聞かされてきましたが事甲子園での負けっぷりの良さも他の追随を許しません。印象に残っているのは全国制覇を期待されながら今治西の三谷投手にやられた辛い一戦です。

4紺碧の空:2002/05/05(日) 00:40
あの当時(=VS三重海星)、私は高校1年生でした。
応援委員会に入ったばっかりで甲子園出場だったのでとても印象に残っています。
もちろん、あの最後のサヨナラホームランも…
今でも弾道が頭に残っています。
あの客席の異様な雰囲気も、涙を流しておられた先輩も、絶対に忘れることはないと思います。
それにしても、自分たちを破った選手にこそ頑張って貰いたいですね。
そういった意味で当時の三重海星の4番の方の訃報は悲しいです。
ご冥福をお祈りします。

あとは、自分が高校3年の時のVS帝京戦(たしか東東京準決勝)です。
最後の一球を友人が見逃した瞬間はこれも自分が生きている限り忘れないと思います。
あれはボールだろう…

5mori:2002/05/05(日) 07:47
>>4
 あの帝京戦は忘れられない。
 紺碧の空さんが應援委員会,私が吹奏楽部の高三でしたね。
 クラスメートの希がエースとしてがんばっていた大会でした。
 この試合は当時一年生であった道生君が先発だったと思います。
 試合が終わってから應援委員会の幹部数人とテレビ(への道)の前でレビューを行い,
 「これはボールだろ」なんて話をしていました。
 今さら判定に不服を言うわけではありませんが,
 高校生最後の夏。。。とにかく懐かしいです。

6OB:2002/05/07(火) 00:29
三重海星との試合、ベンチの中で見ていたものです。
4番の彼とは3年になってからも練習試合で対戦し、
三重海星の選手たちとは仲良くなっただけに、訃報に驚いています。
彼はどこの大学に進学していたのでしょうか。
野球は続けていたのでしょうか。ご存知の方、
教えていただけると嬉しいです。

それから、あの甲子園でのカクテル光線に照らされた
サヨナラホームランの軌道は一生忘れられません。
もちろん、その翌年、13−15という乱打戦に
負けた瞬間のこともです。

7ALY:2002/05/07(火) 21:31
2で書き込んだ、ALYです。
三重海星で亡くなったのは、4番の彼ではなく、
サヨナラホームランを打った稲垣くん(?)だそうです。
情報訂正します。

8mori:2002/05/07(火) 22:55
>>6
 97年東東京大会決勝【岩倉】戦では,
 一塁側の應援席で吹奏楽部員として應援していました。
 超長時間のゲームで,
 試合の終盤には神宮がライトアップされた記憶があります。
 早実最後のバッターは確か花又さんだったと思います。
 バットに弾かれたボールが放物線を描いて岩倉高校の選手のグローブに入った瞬間、、、
 私たちの夏は終わりました。
 あの年は本当にあと一歩で甲子園だったんですよね。

9FK:2002/05/07(火) 23:28
やや古い話で恐縮です。
勝った試合なのですが
私は82年の東東京大会決勝戦、対修徳戦が
一番印象に残っています。

修徳 0200000000 2
早実 1100000001 3
延長10回表修徳の攻撃
2死3塁から一花の打球は遊撃左を襲った。
本人曰く「完全に抜けたと思った」痛烈なゴロ、
エース穂満を継いで好投した藤沢も
「あれで勝てたと思った」打球だった。
早実のエース荒木も「もうだめだと思った」
ところが!黒柳の超美技に阻まれた。
逆シングルで捕球すると一塁へ好返球。間一髪アウト。
「みんなが一つのボールに集中した」(和田監督)
ことがその裏のサヨナラのドラマを作り出す。
池田、板倉が連打した1死1・2塁、
腰痛を患い整骨院から球場に駆けつけ
守備固めに入っていた萱原に打席が回ってくる。
「手ごたえはあったけど抜けるとは思いませんでした」
右中間を抜く決勝の2塁打。

5シーズン連続甲子園出場を決めた試合でした。

10一卒業生:2002/05/08(水) 12:38
FKさんより古い話ですが、他スレに思い出の試合として
昭和53年夏の海城との試合を挙げておられた方がいらし
たので、この試合を観戦した一人としてカキコさせていた
だく次第です。20数年前の話、若干の記憶違いはお許し
ください。

この試合、控えの投手が海城打線にメッタ打ちされ、コー
ルド負けの可能性すらあった圧倒的不利のゲーム展開の中、
大黒柱の山岡投手を出さない理由が僕には全く理解できな
かった。
そして9回二死走者なしで5点差負けの場面、やっと山岡
が代打で登場。監督さんも逆転できるなどとは全く考えて
いなかったと思います。3年生で高校生活最後の試合、出
してやる気になったのでしょう。
ここで山岡が試合に出てこなかった理由がはっきりとわか
った。セカンドゴロを打ち、片足を引きずって懸命に走る
姿を見て………。
二塁手がこれをトンネルして山岡は一塁に生きた。
しかし、如何せん二死で5点差。試合終了時間がちょっと
延びたくらいにしか感じなかった。
それから、怒涛の反撃が始まった。反撃の最中、同点に
追いつくまでの間、早実ベンチは全員総立ちで、「堅くな
るな、堅くなるな」と打者に向かって必死に声を嗄らして
いた。
そして、延長に入って逆転した。10対9であった。
試合が終了して、あまりの興奮感動に選手達を励まそうと
神宮球場の出口で待っていた。出てきた荒木健二選手に
「ご苦労さん」と声を掛けると汗と泥にまみれた顔で
「5試合分やった」とその場にへたりこんでしまった。

この試合、隠れたエピソードが多い。観戦していた
激情家 故島岡明大監督が強豪早実をあと一歩まで追
い詰めた海城のエース小島君に感激し、「明治に来な
いか」と強く勧誘した話。(4年後小島は明大のエー
スとなる)日頃冷静沈着な和田監督が武蔵関に戻ると
「花火を買って来い」と花火を打ち上げさせた話。
僕には大舞台での横浜との決勝戦よりも、また他のど
の試合よりも、この昭和53年夏の都予選初戦の方が
はるかに強く思い出として残っているのです。

11ai:2002/05/10(金) 19:04
第63回夏の全国高校野球選手権大会の対報徳学園。
8回表を終わって得点は4−0。
試合の流れは完全に早実に傾いていた。
8回の裏に1点与え、4−1。早実リード。
9回に無死から金村の二塁左内野安打、西原四球で一二塁。
ここで岡部が初球を痛烈に三塁線を破って金村生還。
なお二三塁と、一気に一打同点機をつかんだ。
フィナーレは延長10回裏の二死からやってきた。
主砲金村が、早実・荒木の内角低めのシュートを引っ張って左翼線二塁打。
金村のこの日3本目のヒットに報徳応援団は総立ち。
サヨナラ劇の予感に、球場全体が異様なまでのどよめきを繰り返す。
右打席に西原が入った。横浜戦で打順を5番から7番に下げられ、
この日は元の5番。第一打席で左前打したのをはじめ3出塁。
「絶対に打ってみせる」という気迫がマウンド上の荒木を脅かす。
このとき北原サヨナラ打はワンストライク後の2球目だった。
荒木の手を放れた球は肩口から入るカーブ。
西原が見逃すはずがない。銀色のバットが鋭く回転した瞬間、
白球は必死に追う早実の芳賀功左翼手の左をあっと言う間に抜け、
緑の芝生の上を転々とした。金村が三塁を回ったところで、早くもガッツポーズ。
ベスト8進出を決めるホームベースをしっかりと踏んだ。
奇跡の大逆転劇だった・・・
この夏報徳学園が全国優勝した。


このあたり早実の荒木投手にははっきりと疲れが見え、
場内は一転して報徳の逆転ムードが漂う。
若狭三振の一死後、甲子園初打席の代打、
チーム一小柄な浜中がどえらいことをやってのけた。
荒木の初球。外角球を鋭く振り抜くと打球は三塁線を抜ける二塁打!
西原、岡部が帰り、試合は4−4の振り出しに戻った。
殊勲の選手・浜中は二塁ベース上でガッツポーズ

123年F組:2002/05/13(月) 23:37
初めまして。
荒木大輔投手の甲子園での雄姿に憧れ、中学部に入学。
在学中は彼に3度の甲子園と「女子校」と化した文化祭、そして漫画「ドカベン」
の中でしか知らなかった、ドラフト当日の喧騒を経験させてもらった
「3年F組」と申します。以後よろしくお願いします。

野球部でも応援部でもなかった私に皆さんのように詳細に覚えている記憶は
なく、卒業後しばらくしてから愛校心に目覚めてしまった私にとっての
印象深い試合とは、前回夏の甲子園に出場したときの決勝戦(vs国士館)と
甲子園で負けた三重海星戦がいまだに忘れられません。
特にこの年は恩師である中澤先生が亡くなられた年であり、「澤さんを甲子園へ!」
と一人で盛り上がっていただけに余計に強烈なイメージで残っています。
(ついでにこの年の秋には荒木投手も選手生活から引退をしました)

神宮では偶然であった元得意先の母校の先輩と盛り上がり、
甲子園では三重海星の稲垣君の打球を見るまで「負けるとは露にも思わなかった」
程入れ込んだことを思い出します。打球がスローモーションの様に私の目の前を
飛んでいくのをみながら、「え?これスタンドインしたらサヨナラじゃないのか?」
なんて思ってました。野口君がショートのポジションで立ち上がれずに
泣いていた姿も印象的でした。

ALYさんへ。
間違いではないです。三重海星の4番打者=サヨナラホームランを打った人
=稲垣君(当時2年)です。そうですか、彼亡くなったんですか。残念です。
ご冥福を心から祈ります。
現在でも私の会社の机には「荒木投手の最後のマウンド」「早実が国士館を破って
甲子園出場を決めた試合」の新聞記事を貼っています。
(しばらく前までは稲垣君のサヨナラホームランの記事も貼っていました)

この後、「夏の大会」だけは都合の付くかぎり応援に行くようにしています。
特にここ数年は普段使うことのない有給休暇をここぞとばかりに消化して
毎試合顔を出すようにしています。「甲子園休暇」と名づけている「夏休み」は
ここ数年取ることができていませんが、「夢よもう一度」の願いを込めて、
今年の夏も試合会場に足を運ぶつもりです。

長くなりまして、失礼いたしました。

13mori:2002/06/07(金) 17:04
 96年秋の東海大菅生戦,
 あの悔しさといえば言葉になりません。
 もう一つで選抜が決まったんですよね。
 当時の菅生は本当に強かった気がします。

14名無し:2002/06/08(土) 05:37
悔しさといえば
95年の秋、春、夏と対戦した帝京は強かった。
特に夏は惜しかった。

15暮野鬼54:2002/06/08(土) 07:42
ホント壮烈な打撃戦でしたね。村上君が一人で投げて一人で打ったかの様な印象が残っていますが甲子園でわ帝京が優勝し王さんがスポーツ紙で「優勝校に負けた学校は全て準優勝に等しい。」と言っていたので甲子園でも活躍の期待出来たチームでしたね。応援も確か校旗入場があり背筋が伸び早実復活を実感した年でした。

16名無し:2002/06/08(土) 07:58
それと、もうひとつ。
92年秋の都大会準決勝の世田谷学園戦。
ナイター照明があれば・・・と思うのは自分だけでしょうか?
雨も降ってて厳しい試合でした。

翌93年夏の大会は帝京に敗れました。
その時のレフトの選手が気の毒だったなあ・・・

17Marige_20:2002/07/04(木) 00:26
横浜 X 早稲田実

1年生からマウンドに立っている愛甲と、
彗星の如く現れた1年生エース荒木。

しかし、決勝は思わぬ打撃戦となり、
安打数で劣った横浜が6:4でV達成。

しかし、愛甲・荒木の投げ合いも見応えがありました。

18Marige_20:2002/07/05(金) 15:02
荒木大輔は・・
俳優にでもしたくなるような端正なマスクで・・
太田幸司・島本講平・原辰則らこれまでの美男人気選手を上回る
それもロングラン人気!!
1年夏から3年夏まで5季連続甲子園は不滅の金字塔。

その後強豪が出現して、甲子園ではベスト8止まりでしたが・・
3年春の時の、三浦(横浜商)との
投げ合いが印象に残る試合でした。

希望通り、早大に進んで神宮を沸かせてもらいたかったが・・
でもヤクルトだから、荒木まで巨人に取られなくてよかったが・・(--)(__)

19mori:2002/10/19(土) 17:27
良スレなので上の方へ。
次は春の選抜大会を占う上で非常に重要な準決勝。
相手校は世田谷学園高等学校に決まりました。

******************************

私が高校生であった時代,
世田学とは春・夏・秋の大会を通じて数多く対戦しました。
その当時,早実は世田学との相性が抜群で,当方に敗れた記憶はございません。

当時の両校の関係を示す印象的な出来事がありました。
早実第一シードで迎えた平成9年度の夏の予選大会,
選手名簿における世田学の”大会への抱負”欄に以下のようなフレーズが記載されたのです。
『今年のチームは,例年以上に「基本に忠実なプレー」をモットーに練習を行ってきました。
 三季連続で早実に敗れているので,目標は「早実に勝手甲子園に出場する」ことです。
 夏初出場を目指します』
世田学にとって,早実は本当に憎ったらしいライバル校であったのでしょう。
誰もが両校の対戦を期待したのですが,あいにくその年の対決は実現しませんでした。

今の現役高校生にとって世田学は,正直印象の薄い学校だと聞きます。
もはや予選地区も違いますし,無理もないことかもしれません。
しかし,当時を知る両校のOBにとって,この試合,まさに因縁の対決です。
・・・5年ごしの果たし状,しかと受け止めましょう。

20mori:2002/10/19(土) 17:36
>>19失礼しました。訂正です。
(×)「早実に勝手甲子園に出場する」
        ↓
(×)「早実に勝って甲子園に出場する」

21たにっこ!!:2002/10/19(土) 20:07
96年夏 東東京優勝 対国士舘
96年秋 準決勝敗退 対東海大菅生
97年夏 東東京決勝敗退 対岩倉    
97年秋 ブロック敗退 対城西大城西
98年夏 東東京準決勝敗退 対帝京   
98年秋 準々決勝敗退 対駒大高 
99年夏 東東京準決勝敗退 対都城東 
99年秋 準決勝敗退 対創価
00年夏 東東京準決勝敗退 対日大豊山  
00年秋 準々決勝敗退 対創価
01年夏 西東京準々決勝敗退 対創価 
01年秋 準決勝敗退 対日大三
02年夏 西東京準決勝敗退 対桜美林

ごめんなさい、見ていない試合は、97年秋 ブロック敗退 対城西大城西だけです。
来週も行きますが、今年こそ、頼む!変なジンクスを崩してくれ!

22名無しの権兵衛:2002/10/19(土) 21:42
準決勝敗退が多いですね。
そろそろ長年のジンクス打破を!

23甲子園:2002/10/21(月) 00:13
86年夏の準決勝は今だに夏になると思い出します。準々決勝で芝草投手の帝京に競り勝ち迎えた準決勝。荒法師・関東一に4-0とリードしながら、中盤に肩痛を堪えて力投していたエース中川投手がついに捕まり逆転。しかし、早実も粘り2点差の最終回に1点返し尚2死2塁。次打者の打球は鋭いライナーで左中間へ。同点だっ!と思った瞬間センターがミラクルキャッチ。2塁ランナーが(多分中川さんだったと思う)ホームベース直前で崩れ落ちていたのが印象的でした..敗れはしましたが、帝京戦もこの試合も本当に好試合で歴史に残る名勝負でした。

24OB:2002/10/24(木) 10:07
ちょっと時間が空いたので、見ているうちに三重海星の稲垣君が亡くなったとの記事を見つけました。
今でも私の記憶の中には、ポール際に消えた彼の打球はスローモーションのままです。
もう1度歌うはずであった校歌も心の中に残ったままです。ご冥福をお祈りします。あれから6年が経ち私は今あの当時と逆の立場にいます。
今は、甲子園に行けるチームでもなく、早実のように力のあるチームではありませんが、子供たちには好きな野球を楽しくやらせたいという思いで
また野球にのめり込んでいます。そして、ブロック1回戦で負けた子供たちは、早実と練習試合ができる日を楽しみにしながら練習をやっています。
この間、久しぶりに神2で試合を見ました。OBとして、指導者としてみる野球はとても勉強になるものでした。今度の準決勝みることはできませんが、
きっと彼らなら勝ちあがって優勝して甲子園を決めると信じています。是非、甲子園の素晴らしさを味わって欲しいです。
応援に行くみなさん、彼らに力を、勇気を与えてください。僕もみなさんの応援で力と勇気をいただいた一人です。

25氏名無記入:2002/10/24(木) 11:01
>>24さま
次戦は必ず
勝って校歌をうたいましょう!
そしてHome Groundでも
甲子園でのあの日、応援席も校歌を歌わずに帰ってきました。
早実の歴史始まって以来のことだったでしょう。
みなさん。
さあ、忘れ物をとりにいきましょう!

26氏名無記入:2002/10/24(木) 19:08
なんかワクワクしてきました。こどもが早実生になってくれたからこんな風に思えるのですね。幸せ。野球部の皆さん力いっぱい頑張って。早実の大応援団がついてる!

27氏名無記入:2002/10/24(木) 20:51
24番のOBって野口さんですか?

28たにっこ!!:2002/10/24(木) 22:25
野口(元)選手は武蔵工大付属高校で指導者になっているんですね。
大学でも活躍したのはもちろんですが、
やはり高校2年、3年時の野口選手の活躍は記憶に残っているところです。

特に3年生の夏、都大会で投手なのに腰痛などが原因で、マウンドに立てなかった悔しさ。
それを晴らすかのごとくの、甲子園でのマウンドでののびのびした投球。
そして、ご本人(でしょう)も述べていますが、あのときの最後の姿。
セカンドの守備位置から動くことができませんでしたよね。
あのシーンは本当に1早実OB(野球部ではないですが)として、忘れられません。

才能豊かながら、多くの苦労、喜び、いろんなことを選手として体験した野口選手なら、
選手の気持ちを理解できる、よき指導者になれると思います。
今年の秋は、↓のような結果だったようですが、
この冬、鍛えていいチームにして、
来年の夏に一つでも勝利をおさめられることを祈っています。

第9ブロック1回戦
15日  武工大 001 000 101 3
    駒場学 000 062 00X 8

29祝 選抜出場:2002/10/26(土) 00:38
投手やったのは、野口順平君じゃなかったっけ?

30氏名無記入:2002/10/26(土) 09:18
>>29
曽根岡くんとね。
昔、西武にいた郭 泰源みたいでかっこよかった。

31OBの母:2002/10/26(土) 10:22
野口順平さん! そうですか、今は指導者という立場なのですね。
私もあの年、東京大会からずっと早実の応援にかけつけました。
国士舘戦での勝利に大応援団が歓喜しました。
そして家でビデオを見たら前エースの村上君の涙、涙の場面。
この村上投手の年の帝京との壮絶な戦いも忘れられません。
確か国士舘に勝ち東東京代表決定の瞬間が朝日新聞のポスターになり野口さん
の嬉しさいっぱいのガッツポーズが写っていましたよね。

そうあの甲子園でも暗くなった球場で信じられないサヨナラホームランにその
場にへたりこんでしまった貴方の姿を私も忘れられません。
「曽根岡は責められない、彼のお陰で甲子園に来れたのだから」という内容
の貴方のコメントも私の中に生きています。
早実OBがいろいろな学校で指導者としてがんばっておられることを嬉しく
思います。

32F。M。(OB②):2003/01/08(水) 18:05
順平君の代で、三重海星戦は6回途中でベンチに下がり、
稲垣君の打球をベンチから呆然と見送ったOBです。
稲垣君の訃報は昨年知った時には、しばらくパソコンの前から動けませんでした。
心からご冥福をお祈りします。
残された自分たちが精一杯がんばっていくしかないですね。

このホームページをたずね、
自分たちの代を含め、早実野球部がこんなにも多くの人たちに応援され、
支えられてきたことに驚くと同時に、感激しました。
これから先、僕自身、今度は応援し、支える側として、
早実野球部を少しでも役に立つことができたらと思っています。

まじめな話から一転しますが、僕たちの代は皆、
あの試合(海星戦)の敗因は「早実が先攻だったから」だと思ってます(笑)。

33:2003/01/09(木) 08:54
F。M。さん
「早実が先攻だったから」名文句ですね。
球場に着いて見て、先攻後攻の違いほどその日の応援の気分を変える物は
無いと僕は思います。
サヨナラ負けの思い出はいっぱいあるのですが、サヨナラ勝ちの思い出は
何か無いんですけど・・・・・・・

すいません。初めて(本当は2度目)書かせていただきます。
あー、OBです。
中学部に入る直前に甲子園の春の大会に出て、
在学中はずーっと甲子園には縁が無く
大学在学中にやっと念願がかなった年代です。

忘れられない名勝負は
1.大学時の甲子園決定になった国士舘戦東東京大会決勝(号泣)
2.その時の三重海星戦のサヨナラ負け試合(呆然)
3.秋の大会の世田谷学園相手の日没コールド試合(怒号)
4.次の年の同級生たちが頑張ってた時の帝京戦サヨナラ負け(おつかれ)
ですかね。

今年こそ、甲子園で紺碧を歌いましょう!
え?紺碧じゃ甘い?
「栄光は緑の・・・・・・・」
歌いましょう!

P.S.OBの母様。
予選の応援で何回かお逢いしていりません?
僕は在学中は両手にビールを飲んでいたんですけど。

34OBの母:2003/01/11(土) 20:32
>すさん
私への返信があってびっくりしています。私は今や熱烈な早実ファンで早実
の試合へは万難を排して(?)応援へ行っていますので、きっとどこかですれ
違っているかもしれません。
ただ両手にビールの青年・・・思い出せません。
夏の神宮だとビールを飲んでいる人多いですしね。
私は我を忘れて大きな声で応援してしまうことがあるので一緒に座って
いる友人にときたま「元気ねぇ」とあきれらています。

35:2003/01/12(日) 01:11
F。M。へ、まさにその通り!先攻だから負けちゃったんだよね。うちが後攻だったら絶対サヨナラ勝ちしてるもん。働き始める前にまた教えにきてよ。

36三城:2003/03/29(土) 11:50
たった今、NHKの「センバツ球春譜」で、昭和32年、早実優勝の映像が1分間ほど流れていましたね。
王投手、顔が凛々しい。

371996の夏:2003/08/13(水) 15:48
三重海星のサヨナラホームラン試合が、朝日新聞社より「夏の甲子園 不滅の名勝負」甲子園 戦国時代のなかで紹介されているそうです。
でも、次の甲子園出場まであのシーンは見れません。

38たこぼうず:2003/08/13(水) 16:49
週刊ベースボールの今週号の、「人国記・三重県編」にも↑の試合が
少しですが取り上げられています。

39教えて下さい:2007/09/25(火) 01:47:34
かれこれ約20年前のこと、私達の代でセンバツに出場したのですが、そのときの主力に伊藤くんっていましたよね。甲子園では三番を打ってました。
彼は元々は右打ちで、高校に入ってからスイッチに転向したのだと記憶しています。

対戦校がどこだったか、夏だったか秋だったのかは憶えていません。
相手のピッチャーは右投げでした。
回は終盤、早実は負けていたと思います。
ここで一発欲しいという場面、彼は右打席に入りました。
すると和田監督に呼ばれ、左打席に入りなおしました。
その打席で彼はホームランを打ったように記憶しています。
私の記憶は正しいでしょうか?
この試合、観ていた方はいらっしゃいますか?
在学時代、彼は間違いなく私のヒーローでした。

40正しいかどうか:2007/09/26(水) 19:12:19
わかりませんが
伊藤選手が大事な場面で
勝ち越しHRを打ったのは
62年秋「勝てばセンバツ確定」
の準決勝 修徳戦では?
楽天にいった酒井選手からだと
思います。延長11回4対3で勝利。

といっても 
私も神宮2の現場にいないで 
隣の 全く盛り上がらない
早慶戦の応援をしていました。
応援せざる得ない立場でしたので
仕方なかったのですが。
「勝ったぞ!」と高校の同級生が
伝えにきてくれた時は 
早稲田大学ピンチの場面でしたが 
周りの観客を巻き込んで バンザイ三唱。さすがに同期に怒られました。 

あの時も 
夏は 都立江戸川に初戦敗退から
あれよあれよと 甲子園。

この秋も 
野球部君たちの頑張りに期待します。

41氏名無記入:2007/09/26(水) 21:49:16
ありがとうございます。
秋の大会の準決勝、修徳戦だったのですね。
伊藤君の打席の記憶はあるのですが、相手を含め、試合の記憶がおぼろげでした。
すっきりしました。
ありがとうございます。

42山下和宏:2007/09/27(木) 23:30:10
平成4年の10月だったと記憶していますが、世田谷学園に日没コールド負けした試合、打撃戦の接線でした(雨が降っていました)がナイター照明が無く、惜しくも敗戦。
今でも、忘れられない悔しい試合です。
当時は、第一試合の開始時刻を9時位にしてくれれば良いのにと悔やんだものです。

43氏名無記入:2007/09/30(日) 07:12:34
平成2年の夏かな〜。
前年吉岡投手で全国優勝した帝京との試合も印象的です。第1シードの帝京と確かノーシードの早実との試合。
神宮第2が最初に札止めになったような気がします。
結果は勝ちでした。

44Aさん:2007/09/30(日) 11:46:46
記憶に間違いがなければ(間違っていたらどなたか訂正をしてください)
この試合、投手はたしか増田君でしたね。飄々と投げているように見えて、勝ってますね。こんなに早くに両校の対戦があるのは惜しいというような報道があったかと思います。
神宮第二がはちきれそうな観客でした。

45教えてください:2007/09/30(日) 11:58:09
39サン、42サン、43サン、私もリアルタイムでそれぞれの一戦を観戦していました。
ただ一試合一試合が終わる度に次戦に気が行きはっきりとは平成何年だったかかは失念していることばかりです。
同じ頃ですが実は自分の野球勝負観に影響を与えてくれた一戦があります。
それは秋の都立大山高校との試合です。
あれはいつの事だったでしょうか、
九回の裏ノーアウトからの三塁打でスクイズで一点をとるばかりとなった大山高校に和田監督が満塁策をとっての投手と打者との真剣勝負!
その後延長を制したのは早実でした。
江戸川高校に初戦敗退したときはあまり感じませんでしたが大山高校とのこの試合で都立のモチベーションの高さを意識しはじめた試合でした。
平成何年だったか・・・観戦していた方がいらっしゃったら教えてください。
先攻でねじ伏せるようにして勝つ野球が多かった早実が守りのなか攻め勝った一戦でした。

46神宮2は:2007/09/30(日) 12:10:25
86年の夏 準々決勝 
中川投手の早稲田実対芝草投手の帝京の時も札止め。延長で勝利。
さらに それ以前 81年秋
準決勝日大二高との日没引き分け再試合も当時の報道で見る限り満々員。

その後 05年秋の明治神宮で
駒大苫小牧と早稲田実が神宮2から神宮1に球場を変更したように
江戸川でやる予定の早稲田実対帝京戦を当然のように神宮1に移した93年の夏準々決勝とか。サヨナラ敗退。

その前のことは さすがに知りませんが 早稲田実はそれだけ人気があるという事でしょう。
他でこんな事書いたら 自惚れんな!と怒られますが。
この秋も 素晴らしい戦いを期待します。抽選は明日。

47大山戦は:2007/10/01(月) 00:09:42
平成2年。つまり90年。43で 話題に上った帝京戦の次の試合4回戦。
余裕こいて臨んだら トンデモナイ試合に!!帝京に勝って都立に負けたらどうなのよ??といった感じ。
(当時は今のように都立がソコソコという時代ではありませんでした)
あの年は初戦城西 次岩倉 で帝京。
組合せを見た瞬間「なんつーくじ!」と思いましたが。
で 最後は当時強かった修徳に準決勝で玉砕するのですが
新聞には「古豪復活」とか「早実台風の目」と注目の的でした。
って ココのところ 丁寧にお問い合わせに答えすぎなアタクシ。40も46もだしね。

わからなければ 図書館行ってでも
調べてきますので
お気軽にお問い合わせを〜。

さてさて
誰か 都立八丈に負けそうになった
あの試合。観戦していた方いたら
フツーの人がどう感じていたか 書き込みして欲しいです。

48銀鎚男:2007/10/01(月) 03:06:20
平成2年の夏が話題となっておりますが、個人的には帝京戦の前の岩倉戦が思い出深いです。
この時は下馬評が圧倒的に不利でしたが、打ちあいの末に確か8-6で勝ったと思います。
(実を言うと、当時高3だった妹の中学での同級生が岩倉でクリーンアップ打ってまして、彼の高校時代の最終戦になったために妹にひどく恨まれたのがほろ苦くも懐かしい思い出です。)

49平成2年のチームは:2007/10/01(月) 07:49:06
秋の大会で準決勝で関東一高に負け、春の大会は第2シードでありながら、関東高校に負け、夏はノーシードでした。
47さんの書かれているとおり、最悪?の組み合わせで、48さんも書かれています岩倉高校は前年度の東京都準優勝校(優勝は帝京)でした。
帝京後の都立大山は確か9回2死まで負けていたと思います。そこからHRで同点。満塁策のときは、相手の4番と勝負したはずです。

50ありがとうございます。:2007/10/01(月) 08:27:42
大山戦についてお尋ねしたものです。
ご回答を賜りありがとうございました。
海城高校との試合と同じくらいのピンチだったと記憶していました。
あまり話題になったことはありませんでしたが和田采配と高校野球逆転の醍醐味を堪能した一戦でした。

52氏名無記入:2008/06/04(水) 22:30:37
>42
平成4年秋都大会準決勝
早稲田実業 100 206 1 =10
世田谷学園 420 008 × =14 (7回裏2死、日没コールド)

>40
昭和62年秋・準決勝
早実 000 002 010 01=4
修徳 001 010 001 00=3

>46
>86年の夏 準々決勝 
早実 000 010 000 002=3
帝京 001 000 000 000=1
>81年の秋 準決勝
早稲田実 001 213 000 00=7
日大第二 012 030 001 00=7(引分再試合)
>93年夏 準々決勝
早実 031 010 110=7
帝京 002 040 002x=8

53Aさん:2008/06/21(土) 11:38:27
どのスレに書き込みするか、迷いましたが、名勝負を何回もして5季連続も
甲子園へ行った先輩の話題ということで、ここに書きます。
今朝の朝日新聞朝刊に”甲子園夢トーク、憧れ”の中で甲子園出場が叶わなかった選手として古田敦也さんと小宮山悟さんの対談が載ってました。
私のヒーローで二人共に荒木大輔の名を挙げています。
小宮山「ドンピシャの世代。激戦区の東東京で5季連続出場なんて、今じゃあり得ない」この小宮山さんは早稲田入学のために2浪したそうですね。
古田「一歳上。東京から男前のすごい
やつが甲子園に来たみたいな感じだったので」
古田さんは対戦したい相手に斎藤佑樹の名も挙げています。

この他、甲子園出場がかなわなかった主な選手に野村克也、長嶋茂雄、星野仙一、落合博満、野茂英雄、上原浩治、青木宣親などなど・・・
やはり甲子園出場出場って大変なこと。先輩達はすごい記録をたてたものです。

54おっさんOB:2008/06/21(土) 12:54:48
私の近年で最も印象にある試合は、2000年夏の東東京大会準決勝の日大豊山戦です。一方の試合では国士舘vs東農大一で、私の友人の息子さんがベンチ入りでした。
早実vs日大豊山では、6-3でリードした9回表に道正くんの制球が甘くなり同点に追い付かれたんですよね。
10回表には2点を勝ち越され、物凄い死闘となったのはその裏。堀内くんらのヒット等で1アウト満塁のサヨナラのチャンス。3番星野くんがフライを上げて2アウト。
面白かったのは次の4番米田くんのときに「一見勝負をしているかのように見える押し出しの敬遠」でした。相手投手の加藤くんも息が上がってましたが、わざと1点差にしてまで秋山くんとの勝負を選んだようです。もちろん一打サヨナラの場面。
秋山くんはその日本塁打を放っていましたが、全体的に加藤くんにタイミングが合わず、むしろ米田くんが3安打と当たっていたから敬遠を選んだのでしょう。
秋山くんはショートゴロに倒れてしまいました。
試合終了間際の土壇場で同点にされ、延長で勝ち越された後での白熱した戦い。あの駆け引きはすごかったです。あれほど手に汗握ったのは初めてかもしれません

55おっさんOB:2008/06/22(日) 03:03:05
連続になってしまいまして申し訳ございません。
Aさん、私も朝日の記事読みました。古田氏と小宮山氏が揃ってヒーローに荒木大輔の名を挙げていることに嬉しく思いました。西東京、東東京共に強豪校が集まるが故に、5季連続甲子園出場は偉業ですよね。それだけ荒木大輔の力、打撃の力が圧倒的だったということです。
そして、Aさんおっしゃるように古田氏が対戦したい選手に斎藤くんを挙げていましたね。古田ほどの打者と今の斎藤くんがプロで鉢合わせていたらどのようなドラマになったか。まだアマチュア野球にいる斎藤くんがプロの代表的な捕手であった古田氏に名前を挙げてもらうなんて、斎藤くんは本当にすごい。実力を認められているということなのでしょうね。
上原、青木、長嶋氏、星野氏など、球界トップクラスの選手でも甲子園ならず、ということはやはり甲子園は夢の夢なのですよね。ある1、2人が優れていても甲子園は非常に難しい。その点で、近年で言えば96年、06年のチームは、才能のある子たちが本当に努力をした証ですね。

56中等部2年父:2008/06/29(日) 15:22:05
はじめまして。
甲子園物が大好きな中等部2年父です。
さて、今月から朝日新聞が「週刊甲子園の夏」を発売。
01号KKコンビ、02号松坂に続き、
03号はいよいよ早実・斉藤祐樹君VS駒苫・田中のエース対決を再現しています。
また、09号荒木大輔、彗星デビュー。
13号熱投快打、王貞治。
と続きますのでお見逃しなく。

58ジャマーズ:2009/05/12(火) 10:52:55
連休中の新聞を整理していたら掲載があったことを思い出しましたので
紹介しておきます

5/6(祝)日本経済新聞(最終面)交遊抄
菅原一秀先輩(衆院議員、S55卒)のコラム「努力と思考の礎」

今から30年前。甲子園の常連、早稲田実業の野球部に入った私は〜
当時「早実地獄」と呼ばれた厳しい練習〜
同期の和泉監督にもふれられていらしゃいます

早実野球部から学んだ努力や思考の大切さ、と結ばれています

59:2009/07/23(木) 18:45:23
97年の決勝について校外からの感想がありました。
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000010907010001

大会中なのでsageで。

60SHOCKBARカラット:2009/07/27(月) 23:27:37
増田兄弟(二人とも少年野球部出身)の弟さんがエースの代(平成2年?)で、
絶対不利と思われていた帝京高校に10−9の激闘で勝利。
スコアだけみると打撃戦ですが、私が観戦していて一番感動したのは、増田投手の粘投でした。
当時の帝京高校は手のつけられない超強力打線で、都内で10点以内に抑えられる投手は皆無でした。
その帝京高校を相手に、打たれても打たれても一球一球丁寧にガマンの投球を9イニング続けて大崩を防ぎました。
スコアは10−9ですが、私の感想では、まさに増田投手のガマンの投球が一番光った試合でした。

61ALY:2009/07/28(火) 00:58:28
>>60
あの時の勝利は、まだ準々決勝くらいだったはずですが、スポーツ新聞の裏1面を飾ってましたね。

同じように我慢比べの試合ということでいえば、和泉監督就任後にエース村上君を擁して決勝に進出した95年夏。
惜しくも13対15で負けてしまいましたが、今ほど戦力が揃っていないチームでタレント軍団の帝京相手によく粘りました。

この敗戦があったこそ、96年夏、野口君、曽根岡君、長島君を擁して、決勝で国士舘に8対6という粘り勝ちしての久しぶりの甲子園につながったんだと思っています。

翌97年夏は比留間君を擁して、決勝まで進出しましたが、惜しくも、岩倉に12対14で負けてしまいました。
結果的には負けてしまいましたが、この試合も4回裏に岩倉に5点取られた直後の5回表に6点を取り返すという粘りがありました。

最近のチームを見ていると、この頃の粘りや執念、選手ひとりひとりが頭を使ったプレーや、チームとしての一体感が見られないかなと思います。
選手の気質が変わってしまったということもあるかもしれませんが、あのころの粘りの豪打が好きだったので、和泉監督には、またああいうチームを作って欲しいと思います。

62こけちゃいました:2009/07/28(火) 03:14:38
確かに全国制覇にはずば抜けた投手力も必要なのかもしれませんが、あの頃のように、5〜6点取られてもまだまだいける!と思える粘り、執念があれば、試合の流れを再度自分達に引き寄せることができるのではないかと思います。

コーチとか他地区からの掘り出しとかよりも、まずは現有戦力の強化をしてほしいですね。

63OB:2009/07/28(火) 09:35:26
平成2年の早実対帝京の試合は準々決勝ではなく、ノーシードから城西、岩倉と勝ってのまだ3回戦です。
新聞がほとんど取り上げてました。

64氏名無記入:2009/07/28(火) 12:06:43
平成2年夏の戦い振りは、僕も大変印象に残ってます。
最近のように、中学時代に実績を残した特に優秀な選手が集まったわけではなく、まとまり、根性、勢いで勝ち進んだチームでした。
初戦城西、2回戦岩倉ともに甲子園経験校で、3回戦が前年全国制覇の帝京と、そこまでで、どこに敗退しても決しておかしくない実力でしたが、まさにど根性野球で、感動を与えてくれたチームでした。
特に帝京戦は乱戦の末の勝利で、増田投手の気力のピッチングに痺れました。終了後の挨拶で、敗れた帝京の選手が余程悔しかったのか早実の選手達を物凄い形相で睨みつけていたのも記憶に残っています。
その後、都立大山、正則学園と勝ち進み、準決勝で修徳に「刀尽き矢折れる」といった形でコールド負けしましたが、当時、他の強豪校に比べ決して恵まれているとは言えない状況の中で大健闘の大会でした。
こんなチームは心底、応援したくなりますね。

65S61年卒:2009/07/28(火) 21:09:35
95年の帝京戦は忘れられないです。現地で応援していましたが、決勝進出も13年ぶりでしたよね。万年準決勝どまりなんて言われてずいぶん悔しい思いをしましたよ。

あの時の帝京の前田監督は、優勝インタビューで早実の粘りは素晴らしいですねと連発していました。最後の打球も抜けていれば、同点に追いついたところでしたよ。相手の確かセンターに好捕されました。村上君も連投だったんですよね。よく投げてくれましたよ。

そこから、三年連続決勝進出もすごいですよ。

96年は、14年ぶりの甲子園。
このスレッドにもありますが、三重海星戦、私は、甲子園のネット裏で見ていましたよ。最後のサヨナラホームラン、忘れられません。その瞬間、セカンドの守備についていた野口君が崩れ落ちたのも忘れられません。

サヨナラのとき、後ろのほうにいたおっさんが「早稲田なんか怖くないぞお!!」と叫んでいたのを、にらみ返したことも忘れられません。

初戦の近江高校戦も見に行きました。予選に故障で投げられなかった野口君の躍動するピッチング、忘れられません。
リリーフした曽根岡君のパーフェクトリリーフも忘れられないです。

こうした早実野球の歴史の積み重ね、が好きなんです。

荒木投手のあと、一時期スポーツ推薦やめたようですよね?そのなかで、常にと言っていいほど、上位に食い込んできたのは素晴らしいですよね。

私は、S61年OBとして、胸を張れます!
五期連続甲子園出場等で沸かせた荒木投手と入れ替わりで入学しましたので、14年ぶり夏の甲子園出場は死ぬほど嬉しかったです。

三年前の夏の全国制覇、感涙したのは言うまでもありません!!

66氏名無記入:2009/08/01(土) 04:02:49
平成2年夏の帝京戦は熱かったなぁ。
早実は4試合連続ホームランの田中や増田など、中等部あがりが結構活躍してました。
帝京のショートが小学校時代の同級生だったんだけど、そのショートのエラーが試合を決定づけた事もあって微妙な心境でした。

67氏名無記入:2009/08/02(日) 13:26:20
中等部ではなく、中学部ですね。
当時は。

68氏名無記入:2009/08/02(日) 16:23:09
あの頃はまだシニアとかは今ほど活発でなかったので、少年野球部出身が主体でも、勝負できたんですよね。
今は野球がうまい子は中学から硬式にながれるので、厳しいですね。
早実でも少年野球部に入らないで、シニアに入る子が結構いるとか

69氏名無記入:2009/08/03(月) 09:06:09
http://hb-nippon.com/blog/braban/archives/25

帝京OB、杉谷くん記事です。
あの神宮第二の大逆転試合の大進撃の
恐ろしさを語ってます。
高島くんもこれでKOだったそうで。
確かに凄かったですね。

70氏名無記入:2009/08/03(月) 10:38:13
神宮第二は屋根があって音が反響するので、更に迫力が三割増ですよね。
昨年の明大中野なんかも、あの初回の押せ押せの応援で、一気に意気消沈してしまった感じがします。
皆さんの応援で、秋も他高を圧倒しましょう。

71氏名無記入:2009/08/03(月) 10:52:21
杉谷君、紺碧と勘違いしてるかもしれないですね。
大進撃は今や定番ですし、早実の大進撃が特に凄いって感覚はあまりないですね。
それよりみんなが立ち上がって、肩を組んで左右に揺れる紺碧は、何か追い詰められる感じがして相手からしたら嫌でしょうね。

72Ginkakusi:2009/08/03(月) 19:25:59
早実投手陣が不安定で猛打帝京/剛球高島投手相手に劣勢と予想されたあの試合、展開的にも負けてもしょうがないと思って観戦していました。
阿久津と中野の踏ん張りと、7回の反撃、確かに3塁側は紺碧の空で燃えていました。怒涛の攻撃で高島投手を叩きましたね。
9回の帝京攻撃、ランナーを背負って火の出るような1塁ライナーを森が飛びついて勝利を得ました。
次戦で、関東一高に3塁線バントでかきまわされ選抜甲子園の夢は消えましたが、帝京戦は素晴らしいゲームでした。

73氏名無記入:2015/04/17(金) 02:26:19 ID:qAy54ZeU0
>45
私は当時の対戦相手です。

74ALY ◆W7umcYfatI:2015/06/13(土) 12:42:38 ID:Vwem.MHw0
今日の朝日新聞に荒木大輔さんが特集されています。
http://www.asahi.com/articles/ASH6B4HKWH6BUULB007.html?iref=sp_spotop_baseball_list_n

75氏名無記入:2015/06/15(月) 21:36:26 ID:iK3H5rrc0
決勝の対修徳戦、懐かしいです。荒木投手も凄かったが、黒柳君の守備は、
今だに忘れない。あの頃の鉄壁の守備は凄かったね。

76KH:2017/06/13(火) 20:54:27 ID:79q/.gbI0
>>9黒柳知至の娘です。父をこんないい感じに書いてくれてありがとうございます。私は父の高校野球について全然知りません。よければなにかお話を聞かせていただけたら嬉しいです!

77昭和53年卒:2017/06/13(火) 22:35:36 ID:BbTQBpV20
>>76
1982年夏東東京大会決勝での黒柳選手の試合を決めたに等しいファインプレーについては、9番の方が詳細に記載されている通りです。
試合後のインタビューで、故和田監督が黒柳選手の好守備が、その裏の早実の攻撃で代打萱原選手のサヨナラヒットを生んだという趣旨の話をされて、翌日の新聞に掲載されていました。
荒木投手の5季連続の甲子園出場も、東京都公式戦無敗の怪記録も、黒柳選手の美技あればこそ。
あなたのお父様は、そんな素晴らしい選手でしたよ。小生の5年下でしたから、今は52才か53才でおられるかと思います。

78ニューアルカイック:2017/06/17(土) 09:53:12 ID:4eflnCF.0
>>76
尊敬する黒柳先輩と同年代を過ごした者です。

百聞は一見に如かず。
早実の文化祭実行委員会が作成した、当時の貴重な映像が見つかりました。

3分45秒くらいから東東京の決勝、黒柳先輩の超絶ファインプレーが流れ、
その後、甲子園でのご活躍が記録されています。

https://www.youtube.com/watch?v=XyRNU-oZD3g
1982年早実夏の甲子園ハイライト(その1)開会式~1回戦 宇治高校戦

時は流れ、男子校(バンカラ)の応援風景は少し変わりましたが、
早実のDNAは変わりません。
機会があれば、応援席で一緒に紺碧の空を歌いましょう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板