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異説奇説

8紋章官:2017/09/01(金) 21:55:12
この夏はおかしなもので、暑さよりも急な雷雨の方が気になるところ。今度の日曜日は湯島天神で落語祭り!いつのまにか再開していたとは。久々に見物に行くかな〜お金があれば!

さて異説奇説。用明天皇の豊後訪問説。彼がなんらかの関わりあいを豊後など九州地方にもっていた可能性は十分あります。前回書いたように彼の名乗り「橘豊日(チバナノトヨヒ)」が手掛かりとなります。古代の名前には関わりあいのある地名を持つことが知られます。
それは生誕地、領地、それに部民。用明天皇の場合、「橘」は宮を営んだ地名によります。そのあとの「豊」と「日」に着目すると「豊の国」「日の国」すなわち、豊前・豊後や日向の国が示されてくる。では彼が九州にそのような所領や部民をもつことが可能だったか?といえば可能である。となる。それが最初に触れた磐井の乱により献上された領地。通常、4つの屯倉(直轄領)が置かれたとされますが、本当にそれだけだったのか?と言う事と、この遠征にあたりヤマト朝廷は交通に便利な地を直轄領として確保していたらとしたら?それは輸送に利便性の高い、瀬戸内航路に面した国。そうなると豊後やすこし南の日向にあったと考える事はおかしくもない。磐井の乱後に整備獲得したそれらの場所を王族が管理所有する事は不思議ではない。この屯倉ですが、西に磐井の乱があれば、東にも武蔵国造の乱で知られる争いがあり、そこでも屯倉の関東での設置が語られる。
この時期、ヤマト朝廷が真に全国の統治者として整備される時期のように思われます。
それが屯倉の設置であり、各地に直轄領を配置して目に見える形で行っていたように思われます。時代がさがり、用明天皇の孫山背大兄王の時代、蘇我氏の襲撃から逃れた山背大兄王に近臣が東国にある領地に逃れて兵を起そうとすすめる話があります。王はこれを退け、一族での自殺となりますが、一方で王、すなわち用明天皇の王家は東国に領地をもっていることを教えてくれるところです。但し、出典の作成が壬申の乱の後なので、天武天皇の事績を元に創作した可能性もありますので、そこはいくらか割り引いてもいいでしょう。それに東国もどこまでを示すかが問題。あ、聖徳太子が黒駒で富士山を往復した、という伝説もなしにして考えましょう。ただ彼の乗馬「黒駒」が東国からもたらされた馬ですので、何かしら彼と東国との関係があったように思われます。まあ、厩戸皇子なので、馬に関わる話があってもおかしくなく、古代、馬の産地は東国。信濃、甲斐、上野それに相模や上総で後に朝廷の直轄牧場といえる「御厨」が散在します。ちなみに、相模武蔵におかれた御厨のうち2か所の推定地が横浜市なのは意外に知られていないところ。古代の横浜は馬の産地だったのですねえ〜さて、話が明後日ならぬ東国から戻しまして西国、豊後に戻します。それで用明天皇が欽明天皇の皇子として豊後や日向の国の領地を管理、もしくは与えられてもおかしくない。それゆえ、その領地を示す文字が名前に入る。そして欽明天皇は幸いにして子だくさん、皇子も彼の兄敏達天皇、弟崇峻天皇、穴穂部皇子と男兄弟も4人いる。そうなると、これらの皇子たちが地方領地を視察に出掛けてもおかしくない。それゆえ、磐井の乱を契機にヤマト朝廷が確保した豊後や日向の直轄領を欽明天皇から用明天皇が譲られる、もしくは管理担当になり、それを彼が見に行くことがあった、としても何もおかしくありません。実際、古代王朝での皇族将軍が遠征に出ることはヤマトタケル伝説からもあったことは想像がつきますので、用明天皇が豊後に出かけた可能性は十分あるものと思います。記紀の記載がすべて正しいわけでも、すべて記録しているわけでもありません。抜け落ちたものや削られたことが多いでしょうから、このあたり、もう少し可能性として考えてみてはどうでしょうか?ちなみに、丹後半島の間人(タイザ)も用明天皇皇后「間人(ハシヒト)皇女」が中央の乱をさけて滞在、その後、帰られた(退座)ので、この地名になった、という伝説を持つ地名です。このあたり、用明天皇、間人皇后、聖徳太子が地方伝説、来目皇子の九州出征とこの一家は地方に伝説を持つ特徴を持つのは面白いところです。それでは


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