したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | まとめる |

歴史妄想

1 紋章官 :2014/06/04(水) 22:43:46
あちこち豪雨やら猛暑やら、みなさん、くれぐれもおきをつけを!さて友人と金曜日から
熊本旅行!熊本城やら八代城、あと宇土城かフェリーを使って島原城に行けるのか?

そのため繰り上げての書き込みです。新シリーズ歴史妄想!歴史の醍醐味のうちですね〜
この妄想は!手近なところは架空戦記など最たる例!完全に一ジャンルになっています。
何しろ塩野七生先生曰く「歴史はフィクションである!」と喝破したように、妄想、想像、
脚色はどうしても伴ってしまうところ。歴史系マンガも脚色はあるので、当然、このうち。
それで個人的な歴史仮説と称する妄想をつらつらと書き連ねていきますので、よろしく
お願いします。

まずはお手軽なところ、豊臣秀吉は刀鍛冶だった?から。
豊臣秀吉が織田家に仕えるまで、さまざまに仕事を渡り歩いたとされています。
針を売り歩いた、との有名な通説からは、彼が行商人として旅したことが想像
されます。そのため江戸時代の絵本太閤記に始まる様々な諸説では、大工、小坊主、
鍛冶屋など、実に様々な職業についています。
しかしながら、織田家に仕える前の事を紹介している同時代資料はない!
わずかに今川家の家臣松下加兵衛に仕えたことくらい。秀吉は自分の功績を誇るため
「信長公記」を書いた大田牛一、連歌師の神職の大村由己などに自身の武功記を書か
せていますが、残っている部分や内容は織田家に仕えて以後の事だけで、意識的に
それ以前を消し去っています。
そのため、さまざまな職業はすべて江戸時代以降に創作されたといえます。
ただ、その中に、何気ない内容のなかに、おや?と思われる記載がある。
そのひとつが「がんまく」なる人物。創作のなかですが、秀吉が父の知り合いの
人物の伝手で織田家の小者として入ります。その伝手になる人物や世話になる
人物の名前に「がんまく」が出てきます。横山光輝のまんが「太閤記」でも
ひらがなで「がんまく」という人物が出てきますが、これは名前?と首をひねる
人が大多数でしょう。そして戦国好きや織田家ファンでも。
でもこれが刀剣の愛好家、それも美濃・尾張地方で活躍した刀剣鍛冶の研究家や
愛好家であれば、これに気がつく人がいるかと思われます。
「がんまく」これは「岩捲鍛冶」と言って、戦国時代から江戸初期くらいまでは
活動した刀鍛冶集団、関ヶ原近くの南宮大社には、岩捲鍛冶による江戸初期に
注文でうたれた奉納太刀があります。
美濃・尾張地域と言うと、どうしても関の孫六で知られる関鍛冶が有名で、岩捲
鍛冶は地味で、野鍛冶に近いものだったと言われます。
当時ですらそうなら、今は更に影が薄い!刀剣愛好家でもほとんど知られて
いない存在。さて、そんな知名度の低い存在がなぜか、すでに江戸時代の「太閤記」
ものに名前が出てくる。しかし上記のように地元の鍛冶集団であれば、織田家に
「がんまく」がいてもなんらおかしくない。
そこで問題になる。この「がんまく」がなぜ取り込まれたのか?なんらかの
「がんまく」と秀吉の関係を示唆する記憶が、その頃まで残っていた(あった)
ことが想像できます。
また「がんまく」は小者秀吉が所属した組の頭だったともされます。
そうなると、この「がんまく」が刀鍛冶の一族であれば、彼は城の専属に
鍛冶の技量で召抱えられていた人物で、当然、その所属する組が技能集団
だったとしたら?
つまり秀吉も鍛冶技能者「がんまく」の配下の鍛冶専門の小者だった、という
仮説を立てることができます。
ただし、妄想の仮設。あまりに証拠がすくなすぎる。でも、何か示唆しているように
思えます。それでは

2 紋章官 :2014/06/28(土) 01:48:06
6月も終わりです。あちこちで雷雨どころか、雹が積もる・・・その時間、その地域のお客さんと電話で話していたのですが、そこでは雨も降っていない、ただまっ黒な雲というだけとの事でした。数百メートルの差でそんな状態。出かけるのも怖い!

さて歴史妄想、そんな天候不安定にちなみ桶狭間合戦。磯田先生司会の番組で織田信長の判断を討論していましたが、面白いものでした。今まで降伏策を考えた事はなかったな〜
しかし、相変わらず織田信長の立場でしか検証しないのが、残念なところ。今川義元の立場で検証してみてほしいところです。あの合戦、孫子の兵法「攻撃は最大の防御」の実践者織田信長の人生の中で、先手を取られ自領に侵攻され戦った唯一といってもいい戦。
他の合戦、もちろん尾張統一戦時期も含め、小なりといえど相手方の領内や城に攻め込んで合戦に及んでいます。たとえ負けても!
もちろん、警戒して国境に砦を築いていたとはいえ、二万もの大軍が動員され、襲いかかってくるまで、なんら動きを取っていないのは、その証。
いくら戦国時代とはいえ、隣国で万を超える大軍の動員が図られていることを全く察知できない、などという事はあるのでしょうか?今川家の寄親寄子制度は基本的に半農半武士の兵力動員!大軍ほど動員時間がかかるものと思われます。それも二万もの兵力になれば、駿河、遠江、三河の豪族に動員がかけられ、集結地を指示した情報が事前に入ってもおかしくないはず。
信長公記の記事、事前の状況についての故意に消されているのか、それとも本当に不意打ちを受けたものなのか、知っていれば信長は攻めてくるのを待っているような人物ではないのは周知の事実。それだけに完全に不意打ちを受けた、と考える方が自然。
知っていれば事前に出陣して陣を張り、牽制の攻撃(襲撃)を別方向に行うなどして、今川軍の警戒を促し、簡単に砦を攻撃させるような事はさせなかったと思われます。
この合戦、今川義元は孫子の兵法に忠実に相手を圧倒する大軍を動員、着実に戦を進める堅実な用兵を行っています。義元の本陣単体の兵力も信長軍と同等か、多い人数を持っていたとみられています。そのため信長は急な雷雨という天候不順の僥倖に恵まれ、義元本陣に気がつかれることなく肉薄、この事で兵力差も分散した大軍の本陣のみ、という各個撃破の条件を整えたとはいえ、乱戦で信長が先に討ち死もありえたものと思われます。
また信長公記に対する三河物語では、当時今川方である松平勢の伝聞で得た情報(話)、義元が旗本衆に守られ後退しようとしていた、との記載は義元が奇襲を受けた自陣の状態を把握、混乱を嫌い撤退することを判断していた事がわかります。決して奇襲に浮足立ち、散を乱して逃げ出し追い首を取られたとは違うのです。
それだけにこの合戦の勝敗は紙一重。今川義元が無事に別な陣営に逃げ込めば、本陣の合戦で消耗した織田軍は敵中に孤立、それこそ包囲攻撃を受けて、壊滅する可能性が高ったものと思われます。かつては桶狭間は名前から谷間と思われていましたが、現在は丘だったと考えられており、それだけに居場所が暴露されれば、あとは包囲も可能になります。もちろん、地の利は織田軍にあったかもしれませんが、一戦した兵力が同等の程度の他の複数の部隊から集中攻撃を受ければどうなるか?ということです。
総大将の今川義元が無事ならあとはどうとでも巻き返せる!何しろ、この時点でまだ今川軍には戦に参加していない無傷の兵力が存在、その後の岡部勢の奮戦は織田軍も勝った勢いで圧倒できる余裕がなかった事がわかります。
それだけにこの合戦、あまりに僥倖としか言いようがない、ところではあります。もちろん織田信長が本陣のみに集中することで、兵力差の不利を埋めわせ、さらに基本的に兵農分離によりの武芸の習熟度で優れた自軍の力を最大限引き出したとしても、それは雷雨を隠れみのに奇襲接近の成功という要素がなくては成立しないもの。
すべては自軍の接近を気がつかれない、という条件あってのものです。なにしろ、以後の合戦において、こんな危険な手を信長自身が二度とやっていないのがその証拠。
それだけに、仮に今川義元撤退成功の時の展開は妄想のつきないところです。それでは。

3 紋章官 :2014/07/12(土) 10:36:12
なにやら台風が駆け抜けていきました。みなさま、被害はありませんでしたが?
気がつけば、コミケカタログ発売日!ただ今日はまだ買えません。買ってしまうと
読み始めるので、原稿が止まってしまいます!もう少しお預けです!

さて歴史妄想。織田信長の話続き。この人は、まあ、よくネタになりますねえ。
それだけ存在感が圧倒的なんでしょうけど。当人ではなくて、アレンジして
この間までは「ノブナガ・ザ・フール」、今季は「信長のシェフ」「信長協奏曲」、
途切れないわ・・・孔雀王まで信長さんが出てくる。ところがこれが気弱な信長さん!
どこでも使えるマンガ、アニメ、戦国ファンタジーものの大スター!
ブランド「信長」!。織田家では、名称使用料をもらえないのですかねえ。
ひさびさにギャグマンガ「総理大臣織田信長」でも読みましょうか。
「真田幸村」とどちらが多いかな〜

さて、織田信長をして戦国の革命児、天才など冠されますが、実像はどうでしょうか?
堅実な応用者というのが私個人的なイメージ。ただし、徹底さは激烈。
まずは戦術について、先の桶狭間合戦で書いたように、信長は攻撃こそ最大の防御
という、孫子の兵法の忠実な実践者。
それに常に敵軍よりも大軍を準備して、物量も整えたうえで戦う。
これまた孫子の兵法での「戦う前に勝つ」条件を整える行為。また鉄砲の
使用については、今谷明先生が紹介されているように、京都で足利義輝と
三好家の争いで、鉄砲傷の死者の記録があるように、すでにあちこちで
使われている。経済政策での撰銭令も三好家の先例があり、楽市楽座、
検地も今川家に先駆的行為が知られます。
そうなると、そこにでてくるのは、織田信長は、それらのさまざまな情報を
得て、それを拡大、応用して実施した、という側面がでてきます。
このあたり、織田家が尾張津島、熱田の商業地を押さえ、その商人の
師弟などを取り込んだことで、各地の情報を多く集めていた事は自然な
事と思われます。それを信長は吸収していき、それを取り込んだのでは
ないでしょうか?
ここまで言ってしまうと、信長の魅力が減少してしまうかもしれませんが、
意外と、そんなこともあるのです。それでは今日はここまで。

4 紋章官 :2014/08/01(金) 22:07:00
8月です。コミケまであと2週間です!冊子は準備できましたか?
先週の土曜日に強引にコピーに出かけ、日曜日はワンフェスで不要
模型たたき売りで、資金を作ったつもりが、交通費とJAFの会員費振り込みで
消えてしまいました・・・・明後日は中野ブロードウェイのお店を回って切り売りしてきまーす!
そんなワンフェスですが、烏帽子、腹巻、長刀をもった伴類(雑兵)が歩いていました。
思わずお話を聞きまして、手作りの腹巻とのこと。良くできていました。
いいですねえ。私も作ってみたい。年代は南北朝期のスタイルとの
ことでした。そういや長刀に鍔がついていたし、腹巻の草摺が細かくなっていた。

さて歴史妄想。古代史も好きな者にとって、古墳出現期のヤマト王権というもの
は大変、また妄想を広げるところ。古事記、日本書紀の欠史8代といわれる天皇
たちと、先代旧事本紀などの古史古伝と呼ばれる一連の書物類の世界。
事実上、この時点で妄想の時代ですが、紐解いていくと、何か姿が浮かび上がって
くるように思えます。
良く知られているように、箸墓に始まるヤマト国中を囲むように点在する前期大型古墳
の存在。延喜式に未記載ながら、堂々たる大王墓である茶臼山、メスリ山、そして当初
の埋葬者が消えてしまった西殿塚、そしてヤマトトモモソヒメの箸墓、ミマキイリヒコの
行燈山、オオタラシヒコの渋谷向山と前期古墳でもごく初期の時期に集中する建造。
これらの配置を見て、当初の「大王」は、単一家系ではなく、ヤマト盆地南部の有力首長
の持ち回りでなかったか?との論説があります。
実際、茶臼山の玉杖、メスリ山の巨大埴輪、そして埋葬施設を区切る壇の存在は、発掘
できない、陵墓指定古墳を想像させるに十分なものがあります。
また古事記のイワレヒコの東征による長脛彦討伐での話にも脚色にしては、奇妙
な点があることも知られます。
何しろ、打ち滅ぼした長脛彦が奉じる「ニギハヤヒ」が自分と同じ天孫、それも自分
の家祖の兄(この場合は年長で上位)である、と記している。
普通正当性を示すなら「偽物」とか「弟」の家系とか、自分たち有利に記すはずのと
ころが、なぜか打ち負かした方にも利や正当性も根拠のないものではない、と書い
ている。面白いところです。
それゆえ、前期古墳が築かれた頃の「大王」が、地域有力首長の持ち回りで、そこ
で、いわゆる「ヤマト大王家」の家系に集約される争いがあった、と考える説があり
ます。東征神話自体、本来はその屈服した首長家のもので、その家系である
「物部氏(王家)」は北九州に一族を持っている。と。もちろん、論争の多いところでは
ありますが。九州に物部が多いのも、筑紫君磐井の乱平定の功績で、北九州に
一族を置いたことが本当の起源で、それが途中で古くされたともいわれます。
また、このあたりの「大王」の有力首長持ち回り説に絡めて、欠史8代とされる天皇
(大王)たちは地名にかかわる添え名などをもつので、この大王を出す有力首長家の
地元の祖霊神もしくは地主神を「大王」として擬人化したものともいわれます。
このあたり、初代「カムヤマトイワレヒコ」も「磐余」の地神を擬人化して、初代大王に
ふさわしい遠征譚を他から、もってきた、とも言えます。
さて、どういうことが真実に近いのやら。まあ、わからないからこそ面白いのですが。
ちなみに最近、知ったのですが、茶臼山古墳には長脛彦の墳墓という話もあるよう
です。なかなか意味深ように思えます。何しろ茶臼山古墳は通常、桜井市にあるの
で「桜井茶臼山古墳」と呼ばれますが、地元の地名では「外山茶臼山古墳」と
呼びます。読み方は「とびちゃうすやまこふん」と「外山」を「トビ」と呼び、鳥見山の
ふもとに存在。「鳥見山」?はて、長脛彦の本拠地とされるのも「鳥見(トミ)」とよば
れる場所ではなかったか?偶然なのか、遠い記憶の痕跡なのか、まさに妄想の
世界です。それではまた。

5 紋章官 :2014/09/13(土) 00:31:55
あちこちゲリラ豪雨が襲っております。くれぐれもお気を付けください。イギリスでは
いよいよスコットランド独立の可否を問う投票目前で騒然、これに刺激されスペイン
でもカタルーニャ州で独立運動がわきあがってきています。
カタルーニャはかつてバルセロナ伯から始まるアラゴン王国の中心地として
歴史的にもスペインとしてより古く、繁栄してきたという自負があります。
そのためカスティリャ王国との合同によるスペイン王国誕生以来、しばしば中央政府
、それが王政だろうと共和制だろうと反抗、抵抗してきた歴史があります。
なにしろスペイン内戦時にはカタルーニャ共和国として独立宣言と自治政府まで
樹立したんですから。歴史というものは根深いものです。

さて歴史妄想、そんなイギリスのストーンヘンジの、古代巨石遺跡の代表格。
この周辺地下調査で、埋葬施設や他の施設遺構があることが判明したとの事。
いや〜誘惑されますね、古代遺跡!欧州の巨石文化は各地で独特の大型遺構
を残しています。アイルランドのニューグレンジ、ブルターニュのカルナック列石、
ヘブリティーズ諸島の石積み住居群、マルタ島の巨石神殿、どれもこれも、紀元前
5000年や4000年のオーダーで建設されています。
またサルディニア島のヌラーゲ、知名度で少し劣りますが、石積みの円塔住居遺跡
なのですが、構造や配置が中世城郭用語をそのまま用いることになる、城郭遺構
ともいえるもので、古代城郭と言いたくなるものです。
これら巨石文化は統一的なもの、というより各地で交流はあったにしても、独自に花開
いた多様性のあるものです。それゆえ、これが仮に共通した思想により、連携するもの
だったら、と妄想したくなるもの。基本的に多くの場合、共同祭祀施設、それが宗教という
概念になる前の段階における共同行事や信心の場として機能していたことが考えられて
います。それこそ映画「紀元前1万年」ではありませんが、何かファンタジー風に古代巡礼
冒険物語でも作れそうな舞台装置ではあります。

それではまた〜

6 紋章官 :2014/10/24(金) 22:29:55
10月もまもなく終わり。明日から神田では古本まつりが始まります。さあ、行くぞ!さて上野のウフィツィ美術館展、初日に行ってきましたが、解説パネルのメディチ家の家系図を見ていたら、妙なところが。ロレンツィオ・イル・マニフィコの子供のところがおかしい。第一子が男子名、それに生年を1440年・・・・あれ?ロレンツィオ1歳で子供ができた?もう直っているかな〜まあ、男子名にしてしまったのも、嫁ぎ先の旦那の名前がマリアとくれば、間違えるか。男とは思わなんわな。でもマリアって時折男子名でも使うのですよね〜。ミラノ公マリア・スフォルツアとか・・・

さて歴史妄想。艦隊コレクション人気で、艦船模型も息を吹き返し、おかげでウオーターラインシリーズ処分が順調です。海戦の勝敗のイフは架空戦記で散々やっていますので、十分なところ。それよりも、この船が完成していたら、というところで、もし、この船が完成していたら、という妄想にて切り込みたいところ。
ネタは「橿原丸」!いわゆる空母「隼鷹」の客船名です。表向きは当時の逓信省による太平洋航路用大型客船建造の打診、その実は海軍省の依頼による空母予備船としての建造。
この打診は、即日諾否回答を求める強引なもの。要請を受けた日本郵船は緊急役員会を開いて、採算不可能を見通しつつ、受諾を決定して回答したものです。
これをうけて逓信省と海軍は大蔵省を動かして、建造費とその後の運航費を含む助成金法案を通して資金援助、起工に至ったものです。
排水量2万7千トン、速力24ノット、乗客数約1000人、それが完成時の要目でした。この客船がいかに飛びぬけていたかは、その前のNYK船、新田丸急3隻が1万7000トン、乗客数300人、さらに前の鎌倉丸が約1万8千トン(浅間丸に始まる姉妹船3隻の秩父丸の改名、ただし、各船ごとに改装等で微妙に異なり、本船が戦没商船で最大の船)乗客数500人だった事を見れば一目瞭然。
姉妹船「出雲丸」と2隻完成した暁には、日本の大型客船として太平洋航路を運航するはずでした。ただし、運航助成金がついたように、当初から赤字船。
一般的な紹介で、東京オリンピックにむけての建造とされますが、実際は、政府による商船充実助成政策の一環で、海運会社からの助成申請を受けたあとで、追加として依頼を出したもので、オリンピックボートというのは、いささか間違い。
さてこの巨船が運航されていれば、日本の大型船運航の技術や港湾整備もまた違った方向になったかもしれません。客船がつけられる大型ふ頭の整備や港湾浚渫などのインフラ、同時に、他の貨物船などの大型化にもこの時点でつながったかもしれません。
ただし、あくまで日本国内での話。このころ、欧州ではフランスのノルマンディー(7万5千トン)、イギリスのクィーン・メリーとエリザベス(各8万トン)が建造中や就航中、ドイツにはブレーメンとオイローパ、イタリアにレックス、フランスのイル・ド・フランスが4万〜5万トン級で運用されており、北大西洋でブルーリボンをめぐり競っていたのに比べると、どうしても見劣りするところ。それに、これらの客船が最大の軍艦より大きいのに比べ、日本では大和級以前でも最大の商船は最大の軍艦より小さい。
このあたり、戦前の日本の限界点をみるようです。
さて結局、「橿原丸」「出雲丸」の両船は空母への変更を余儀なくされ、幻と終わります。そして日本が再び本格的な客船に挑むのは戦後も戦後、平成を迎えて「飛鳥」が建造されるまでかかるのです。もちろん、その間に輸送の中心が航空機となり、客船苦境の時代が長く続いたこともありますが。そんなわけで、この幻の客船も妄想してみるのも面白いものと思います。それでは

7 紋章官 :2015/01/23(金) 22:18:48
インフルエンザ流行のおり、くれぐれも体調にはお気を付けください。さてシリアでの日本人人質事件。来るべきものがきたとしかないようです。ただ無事を祈るばかりです。前回のイラクの時のヒステリックな自己責任論は今回はないようで、それだけは安心。逆に冷めすぎているのかどうなのか。

さてイスラム教でよく知られているのは偶像崇拝の禁止と預言者への敬意として肖像を禁じていること。そうなると、昔1本だけイスラム圏でマホメットの生涯を描いた映画があったのですが、あれはどうなのか?かえって現在の方が保守化しているというべきか。
ただこの偶像崇拝の禁止はそもそもいわゆる三大宗教根源では同じです。
イスラム教とキリスト教も偶像禁止。それは共にユダヤ教の影響があるためで、ユダヤ教が偶像禁止を定めた旧約聖書を尊重すべき聖典としていることに起因します。
このため、イスラム教以前のアラブ人は偶像崇拝をおこなっていました。
それがわかるのは、マホメットが旧来のアラブ支配層を破り、メッカに入場した際、カーバ神殿にあった偶像を破壊したことが伝えられています。
一方の仏教、こちらでも原始仏教から長い時代、仏像はなく仏足石や仏舎利をおさめた仏塔を崇拝の対象としていたことが発掘で知られています。
キリスト教も原始キリスト教から潜伏時代の長い間、ひそかな信仰という事情もあったとはいえ、キリストのシンボルに魚や十字架を信仰の対象としていました。
この仏教とキリスト教が偶像を製作し始めたのは、共にギリシャの影響。キリスト教は同じ欧州圏との事で当然ながら、仏教もギリシャの影響。これはアレキサンダー大王の遠征でギリシャ文化がインドに到達、そこに当然ギリシャの神像ももたらされる。そしてその影響のもと、仏像が誕生する。仏像誕生の地はガンダーラ地方、そして中央アジアの遺跡ではヘラクレス像と仏像が揃って出土しました。
このあたり偶像の普及とギリシャ文化の影響は重要な関係をもっています。しかし、かりに仏教もキリスト教もギリシャの神像の文化を受容しなかったらどうなったのか?また逆に、イスラム教がメッカ入城時に祭られていた偶像の文化を受容していたら、どのような方向になっていたか。いずれも興味深い可能です。それではまた。

8 紋章官 :2015/02/27(金) 22:37:10
2月も終わりです。先日、織田信長の書状の番組がありましたが、見ましたか?しかし書状だけで特番、それも民放というのは驚きでした。永青文庫にそんな力があるとは思えないし、観光客誘致に熊本県とJR九州が仕組んだのか、あるめんミステリー

さてそれにちなみ、今回の妄想は明智光秀中国出陣!
知られているように本能寺の変では明智光秀は急な織田信長の命令で、徳川家康の供応役を外され、出陣したことになっています。
しかし、今回の紹介された本能寺の変、直前の書状で細川幽斎に中国出陣につき、光秀と相談するように、との指示が織田信長から出ています。そして、変の時、幽斎親子は丹後に滞在。そうなると、全く別な可能性が出てきます。
元来、光秀の方面への出陣は予定されており、それに呼応して丹後から細川軍が出陣する予定があったのではないでしょうか?その際、細川軍が京都を経由して信長などと合流、山陽道を向かったか、それともそのまま山陰方面に向かったのかは定かではありません。
もう一つは、畿内の主力、明智軍が信長と共に羽柴軍の後詰に向かうので、代わりに洛ちゅ警護のため京都進駐との可能性もあります。その出陣準備をしていたことを知っていたからこそ、光秀は何より細川家をあてにして働きかけた可能性もあります。
それに細川家は足利幕府の重臣一族として京都に明るく、権威もある。この時点で幽斎親子は細川一門といっても、管領になれる宗家京兆家ではなく、守護を務める分家筋の立場。細川諸流を統合、継承して宗家をも受け継ぐのは忠興の代でまだ先の話。
しかし、それでも尾張守護代筋でしかない織田家、さらに事実としても美濃の豪族でしかない明智家に比べれば、よほど京都で名もしれ、重みもあった家名。そんな看板や信用を含め細川家を頼りにしたのは事実だったと思われます。
但し、知ってとおり藤孝は出家して様子見を選びましたが。さて、とはいえ明智光秀の中国表への出陣が決して唐突ではなかった、と考える方が自然に思われます。
但し、供応役変更から急な予定変更だった事は十分、考えられ、そのさいの仕打ちによる恨み説はまずは排除していいものと思います。それではまた!

9 紋章官 :2015/05/29(金) 21:49:51
鹿児島での火山噴火。さいわい島民のみなさんは避難したようでなにより。連休後半から箱根小涌谷の活動活発化やら、浅間山やら、桜島やら続いております。
歴史を学ぶものにとって災害の史料は少なからず目にします。昨年の痛ましい御嶽山噴火、先の雲仙普賢岳火砕流、浅間山の天明噴火による鎌原観音堂石段発掘で検出された逃げ切れなかった母娘の遺骨、榛名山噴火での甲冑をまとった武人、近くの子持村には度重なる噴火で埋没した集落遺跡。火山被害の歴史もまた多く残されています。

さて久々の歴史妄想。先日、今川義元をやっていましたが、NHKの歴史バラエティは本当にお軽くなりまして。「桶狭間戦記」が元ネタかい、と脚色ぶりを見ておりました。
どうせ脚色するなら、いっそ今川幕府とかーあ、織田信奈の野望ネタだ・・・
さて織田信長は今川義元を打ち取りましたが、この一戦で一気に成長したわけではありません。今川家は動揺していますが、そちらは徳川家康の領分。織田信長は美濃とにらみ合いのままです。そこで仮説。もし、ここで織田ー徳川同盟が成立しなかったら?
確かに東海の大大名今川義元を打ち取ったことで、織田家中や尾張、美濃など周辺での信長への評価と地位が高まったのは確かです。
しかし、領土が増えたわけでも、収入を得たわけでもない。あくまで侵攻軍を退けただけ!信長の成長は美濃を獲得してからです。この時点では美濃に斎藤義龍がいます。その美濃攻略に集中できるのも、徳川家康との同盟が成立してからこそ。
そこで妄想。徳川家康、この時は松平元康が今川家に臣従を継続、今川家の重臣として織田信長を攻撃してきたら?という仮定が成り立ちます。
みなさん、そんな可能性はない、というかもしれません。長い人質生活と今川家の扱いに反発してすぐ独立したではないか。と結果論を見ていれば否定でしょう。
しかし、元康の岡崎入城も今川の城番が退去したことで、自分が入らなければ三河を失う、との防衛目的での行動が考えられます。
それに人質竹千代の扱いは決して一般に思われているほど低いものではありません。むしろ人質の中では厚遇の部類に入ります。戦国時代、多くの人質が存在し、さまざまな扱いを受けました。中には上杉謙信の養子三郎景虎のように後継者候補になった例もありますが、これも例外中の例外。とはいえ人質は殺される前提ではなく、預かる方も自分に利するよう手名づけるため、それなりに厚遇していました。また主従関係で家臣が子供を小姓などに差し出すのも、一種の服属の証で差し出した人質。この場合、主君は自分に忠実になるように教育を施します。武田信玄と真田昌幸、上杉景勝と直江兼続などはこの代表例といえ、それぞれ教育を受けたことで才能を発揮したものです。
さて今川義元と松平元康。人質時代の逸話のいくつかは人質の不遇の一方で厚遇されている面をうかがさせます。まずは教育係が雪斎とされていること。直接師事したか、異論も出ていますが、教育に今川家が配慮したことをうかがわせます。
また正月の宴席への参列。たんなる人質が重臣連なる儀礼行事である正月の宴席に席を与えられることなどありません。正月挨拶で終わるものです。それが宴席への参加を許されたことは、三河を代表する存在として松平竹千代を処遇していた事を意味します。
このような当時の宴席は重要な身分儀礼でもあるのです。席次、杯、配膳、すべてで扱いが厳格なものです。それだけに、そのような儀礼の席に奉仕役ではなく、参加者として出ていたことは冷遇ならぬ礼遇を意味します。そして妻に与えられたのは、今川家重臣に連なる関口家の娘。この縁組、関口家の席次と地位をよく検討する必要はありますが、事実上、今川家との縁組とも言われています。そして最近出ている説が、元服時の甲冑とされる金ダミ具足。この全面金箔押しの具足について安倍川の砂金を持っていた今川家からの祝賀品、もしくは本来、今川義元か氏真所用品の下賜品ではないか、との説も出ています。一方で、この具足、甲冑のランクとしては低いものなので、どうなのか?との論もありますが、埼玉県にある同時期の関東公方所用具足も同じような形式をとっており、実用性優先の具足も所有していてもおかしくない、と考えられます。
それらこれらを考えれば、松平元康の地位は決して人質扱いではなく、十分重んぜられた存在だったと考えられます。そして桶狭間合戦後、松平元康が今川一族の若手重臣として台頭、しかも今川家には義元の母寿桂尼が健在、彼女の後見で軍事を任せられ、松平・今川連合軍で再度、尾張へ侵攻。その際には美濃と結び、斎藤義龍も兵を起し挟撃していたらどうなっていたか?
これまたありえない光景ではありません。まあ、歴史はそうはなりませんでしたが。それではまた。

10 紋章官 :2015/06/26(金) 23:37:41
あちこち大雨です。くれぐれもお気を付けください。
アニメ「レーカン」も終わり、よく読んでいたので、何かあわない回もあったりしてほどほど見ていました。案外、山田の鋭いセリフがあったのは驚きでしたが。歴史マンガ、アニメのセリフで、思わぬところを気がつかせてもらうことがあります。

先日、「信長のシェフ」を読んでいまして、織田信長の正親町天皇への譲位圧力について、考え方次第では朝廷側の希望だった可能性があることに気がつきました。
すなわち「院政の再開」。白河法皇以来、天皇に対し上皇が「治天の君」として政務をつかさどるのは朝廷の姿となっていました。それが途絶えたのは、応仁の乱以後のこと。
その途絶えた理由は、戦乱による朝廷の収入激減で、生前譲位による上皇と天皇の2つの宮廷と即位大礼の費用など捻出できるわけがない。なにしろ天皇崩御においても、葬儀費用の準備が整わず、葬送まで数十日も放置される、皇位継承は行うも即位礼を行うため費用の準備がととのわず、即位大礼を20年目でやっと行えた後柏原天皇(大礼後5年で崩御)、続く後奈良天皇は16年目、次の正親町天皇は3年目で行えたのは一気に短縮というところ。ちなみに後奈良天皇は大内義隆、正親町天皇は毛利元就の莫大な献金が大きな意味をもっています。
朝廷には他にも伊勢神宮遷宮、御所修築等の費用もあり、即位礼費用すらままならぬのに、生前譲位など思いもよらぬもの。そして天皇と上皇と2つの御所を維持するなどまずは不可能。戦乱による経済的理由から生前譲位と院政が途絶していたのです。
しかし、織田信長による畿内の安定化と財政的裏付けが可能になった時に、天皇の生前譲位による院政再開の可能性が出てきたのです。
そこで、安定してきた朝廷内で院政再開の動きや意見が出てきてもおかしくないのではないでしょうか?白河法皇以来、天皇が生前譲位して上皇として院政をおこなうのは常識。それは承久の乱で3上皇流刑後に、後高倉院が即位しなくても天皇実父として院政を行い、南朝による北朝の2上皇と天皇、東宮拉致にあたり、上皇の実母、天皇祖母である広義門院西園寺寧子をもって事実上の「上皇」待遇、その名前をもって後光厳天皇即位を実現、公式には認められていなくても事実上の「広義門院院政」を行っています。途中で偶発的に途絶えることがあっても、朝廷にとっては上皇による院政は身に着いていたといえます。
それゆえ、織田信長という新しい保護者を得て、朝廷内に院政復活を望む声がでてきてもおかしくありません。
また織田信長自身、旧時代の破壊者と言われつつも、案外、古い権威を尊重しています。朝廷、天皇の名前による和睦や降伏勧告などは、その良い例。自分に都合がよいのと同時に、相手にも朝廷という伝統権威の名前による勧告、仲立ちという体面を保てる点を担保しているのです。
このあたり、織田信長の朝廷利用の視点を考え直してもいいのではないでしょうか?
そこで改めて織田信長の正親町天皇への譲位要求も、朝廷の古式に復帰する、すなわち戦乱が終わって、上皇と天皇が並び立つ平和な時代に戻ったことをアピールする方策だったともいえるのです。
その引き換え条件としての官職就任も、代変わりにあたる就任として格好がつきます。何より、朝廷を古式の正常な姿に戻したことで、さらに織田信長の力をアピールもできます。そして古式を尊重する公家や朝廷の人々にとっても、上皇による院政再開は期待するところがあったのではないでしょうか?
振り返りみれば、足利義満も事実上の「上皇」として朝廷権威を取り込もうとしました。
可能性として織田信長も同じ手を取ろうとしていたのかもしれません。
その舞台装置に安土城に信長が居住する天守、天皇の行幸御殿、と視覚的に両者の力関係をみせつける設備を整えた、というものだったら?
なかなかに誘惑されるところですが、ひとつの可能性としてどうでしょうか?それでは。

11 紋章官 :2015/09/05(土) 22:15:36
涼しいのか、暑いのか、天候不安定な今日この頃、くれぐれもお気を付けください。
さて再来年の大河ドラマが発表になりました。「井伊直虎」!戦国物が続くこととなりました。但し主人公は女性、女地頭次郎法師直虎。はあ、10年前までほぼ無名、ここ5年ほどで急に紹介されるようになった女性です。それが大河ドラマの主人公にまで到達。
幕末維新の女性物では限界を感じたのでしょうか?なりふりかまわないのか、なんなのやら。ちと地域性が強すぎますかな〜6月末に、彼女の生きた井伊谷へ行ってきたところ。もしも発表後だったら、祝やらなんあやらのポスターがたくさんあったでしょうね。

そこで歴史妄想。井伊直弼、生存!ごぞんじ、井伊家の人物で代表格は幕末の大老井伊直弼。幕府体制強化と開国をおこなった人物。安政の大獄で反対派の弾圧をおこなったことで、桜田門外の変にて暗殺されます。
もし、彼がここで殺されなかったら?近年の研究で彼は、早くから暗殺について警告を受けていたようです。なにしろ、桜田門外の変の中心となった水戸藩士たちの主君、水戸藩主から直弼あてに下級家臣の不穏をつたえ、危険を警告している書状が井伊家文書から出てきているほど!そのため、井伊家側も、それなりに気をつけていたはず。
但し、江戸城門前というもう、あとわずかというところだったのはもしかすると、気が抜けたところを狙われたともいえます。
また井伊家の記録と血のついた座布団から、襲撃開始直後の銃撃で直弼が駕籠の中で足腰を打ち抜かれ、動けない状態だったことが判明しています。
そのため、襲撃に駕籠から動くことが出来ないため、首を取られました。
そこで2つの回避がおきたら?1つめ、水戸藩主の連絡と探索で、襲撃犯たちが、井伊家ではなく、水戸藩佐幕派に先に襲撃され、捕縛され、襲撃事件は未然に防がれる。
2つめ。襲撃時、銃撃は駕籠にあたらず、直弼は無傷、そのことで駕籠から抜け出た直弼は家臣と共に桜田門内に駆け込めたら?また護衛の別働隊が存在して、その加勢で襲撃側が人数で不利になり、直弼がたすかったら?
桜田門外の変は幕府大老が江戸城目前で暗殺されたことで、幕府権威を失墜させています。もちろん、後の坂下門外の変では襲撃された老中は助かりましたが、失脚しています。それゆえ、直弼も助かってもけがで引退、失脚の可能性は残りますが、むしろ取り締まり強化に走った可能性は十分あります。
それに井伊直弼は強権主義者のようですが、それは立場上のこと。人物としては幕末諸藩主のなかでも指折りの人物、かれの存在で幕府体制がもうすこし、伸びたかもしれません。但し、開国で欧米列強の技術と武力、経済力の前に幕藩体制の限界は露呈することは避けられず、いずれ体制崩壊にいたったでしょうが。それでは。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)


■ したらば のおすすめアイテム ■

ARMORED CORE DESIGNS 4 & for Answer


この欄のアイテムは掲示板管理メニューから自由に変更可能です。


掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板 powered by Seesaa