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日蓮・法華経関係
17
:
希望
◆1Mf4u1QB3c
:2007/07/20(金) 22:23:38
※『日蓮 その生涯と思想』(久保田正文 講談社現代新書 1967年)
「はじめに」P5〜7より抜粋
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日蓮が、絶対の帰依をささげた経典は、法華経であるが、この法華経には、いろいろの人間類型が出てくる。この中で、望ましきものとされているものが、菩薩と名づけられるものである。菩薩は法華経においては、泥沼に咲く蓮華にたとえられている。蓮華は、泥沼――人間の現実世界――をいとわずその中に咲いているのであるが、清浄な花は、塵や汚れをとどめず、すがすがしく匂っている。自身は、清浄であるけれども、泥沼をいとわずしてとどまり、泥の中にはあるが、周囲の汚れに染められぬところが、蓮華の蓮華たる所以であって、この花が一つでもあることによって、庭全体が、清らかなものとなるように、一人の菩薩の存在によって、家や村や町や、職場が、そして、国全体が清らかなものとなるであろう。
これが、菩薩と名づけられる人間類型であるが、法華経によると、これにも、また、二つの類型があるという。
一つが、迹化他方来の菩薩で、他の一つが本化地涌の菩薩である。
迹化の菩薩は、歴史上の釈尊を尊敬はするが、それを媒介として、本仏を見るに至っていない人々である。本化の菩薩とは、同じ釈尊を通して、本仏を見る目の具わった人である。だから、この二つは、人における自覚の問題である。前者は、仏教を観念的に把えようとしているのに対し、後者は、仏教を実践的に把えようとしている人間類型である。
法華経の第十五章、従地涌出品の初めに、この迹化の菩薩たちが、釈尊に向かって、後の世に、この経を弘める大任を命ずるよう懇請した。時に、釈尊は、これを止めて、この人間の世界には、当然、その任に当たるべき人々があるといった。そして、地下から涌き出てきたのが、本化地涌の菩薩たちである。これは、何を意味するか。
これは、人間の現実界の問題は人間自身が解決すべきであって、誰れかが、また、何かが、救ってくれると思って待っていたのでは、結局は解決されないということである。
そして、この人々は、地の底から涌き出てくるのである。この世で、高い地位や権力をもっている人々ではないのである。大衆と共に住み、大衆と共に苦しんでいる人々である。ただ、人たるの筋道は、ふみはずずことのないよう心がけている人々である。
このような人々が、地から涌き出すように、立ちあがることがないならば、世界の問題は、ほんとうには、解決されないというのが、法華経の精神である。これを示そうとしたのが、日蓮の本旨である。
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