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日蓮考察

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:10:24
このスレッドでは、日本では馴染みの深い、日蓮をテーマに議論していきたいと思います。
日蓮の呼称は、大聖人とか、聖人とか大菩薩など様々ですので、敢えてスレタイは日蓮とさせていただきました。
わめもここでは配慮して、日蓮と書く場合が多いかもしれませんが、配慮以外の他意はないことを予めお断りしておきます。
皆さんは馴染みある呼び方でも、日蓮とだけでも自由にお書きください。

それとわめの掲示板での議論のルールを説明します。
ネチケット尊守は当然して、ここではポパーが提唱する「可謬性」をお互いが認知し、「批判的合理主義」に則って議論をし、互いの知識を高めあっていこう、互いの誤謬を発見し合い、喜びとしようとするものです。
なので、自らの論の正当性を、訴えることに終始したり、他者からの批判を、攻撃されているように受け止めることは避けてください。
それと皆さん限られた時間の中での書き込みになるかと思いますので、レスを催促したりすることは避けてください。レスはむしろテキストエディター等で作成し、何度も読み返す&時間をおいて書き込む等を心掛けてください。

またテーマに関する範囲でその自己認識を提出し、誤謬がないかを指摘してもらうのもいいかもしれません。
ということでよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>

最後に「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説を載せておきます。

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう。

92Libra:2006/01/31(火) 02:00:37
2.中村説批判

 さて、中村先生は、「信仰を捨て去れ」という表現を解釈される中で、「最
初期の仏教は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった。何となれば、信ず
べき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。」[*1]と
主張されています。

 このご発言からは、《仏教には「信ずべき教義もなかった」》という中村先
生の独特のお考えが、中村先生が上のような解釈を肯定される根拠のひとつに
なっていることがわかります。しかしながら、この《仏教には「信ずべき教義
もなかった」》という説は、松本史朗先生の批判[*2]に耐えていないとわたし
はおもいますので、上のように解釈すべき根拠にはならないとおもいます。

 そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込まれて
いる文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬新な見解
に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写したものである
と捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込まれている文脈から、
《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般をすべて否定している》
という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもいます。

 そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の諸宗
教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとおもいます。
中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定されています。

 「当時の諸宗教に対する信仰を捨てよ」ということは、「仏教を信仰せよ」
ということとなんら矛盾しません。矛盾しないどころか、全く同じことをいっ
ていると主張することさえ可能だろうとおもいます。

 『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
ー」です[*4]。この詩が「遅い層」であるという証拠はありませんから、この
点においても、中村先生の解釈には無理があるとおもいます。

 中村先生は、『ダンマパダ』第333詩に付された註においては、「信仰―
―saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、正しいことを信ずるの
である。これが仏教における「信」の特質である。」[*5]といわれています。
わたしもこのご意見に賛成ですが、中村先生のこのお考えは、「最初期の仏教
は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった」とされるご自身のお考えとは
両立しないとおもいます。中村先生は矛盾しているとおもいます。

93Libra:2006/01/31(火) 02:01:15
3.仏教的信仰とは

 上記したように仏教がある種の「信仰」を肯定しているからといって、仏教
がすべての「信仰」を肯定しているわけではもちろんありません。「当時の諸
宗教に対する信仰」が否定されているのはもちろんのこと、たとえそれが仏教
に対するものであれ、何に対するものであれ、なにかを権威として絶対視する
ようなある種の「信」のありようは明確に否定されていたとおもいます[*6]。

 わめさんもお認めになられたように[*7]、「信仰」には「盲信」[*8]と「そ
うでない信」とがあるわけですが、「ブッダは、〔中略〕ブッダ自身の教えに
もまた執着するなかれと説いている」のだとすれば、このようなブッダの説を
信じることをも含意する仏教の信仰が「盲信」でありえないことはあきらかだ
とおもいます。仏教は、「盲信」を否定するものであるとわたしはおもいます。

 では《仏教において肯定される「信仰」》(以下、「仏教的信仰」と略記し
ます)とはいったいどのようなものなのかということがあらためて問題となり
ます。

 仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分の確かめたことだ
けを信ずる」[*9]ということなのだろうとわたしはおもいます。すなわち、シ
ャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないも
のとして説」[*10]かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なの
だろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、《教えは「反駁
し得ないものとして説」かれなければならない》などということが強調されて
いるのではないでしょうか。

 もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それは、牧口常三郎の考
え[*11]にもつながるし、三証[*12]を強調する日蓮の立場ともつながるとおも
います。

 藤田正浩先生は、「原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであ
り、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信であ」り、「慧に基づいた信」である
が、「浄土教における信」や「如来蔵思想に見られるような性格の信」は、
「自己の理解し得ないものを信ずる」という構造を持つ「慧を絶した信」であ
るといわれ、両者は「同じ信とはいうものの全く次元を異にする」といわれて
いますが[*13]、わたしはこの藤田先生の説を支持します。


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