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日蓮考察

113わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 02:39:33
 Libra師匠、こんばんはです。^^

>  せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。

 o(゜▽゜o)(o゜▽゜)oニパニパッ

 師匠、私のテキストがダメダメなのでちょっと論点がずれてしまったように思います。汗
 >>104 は思想・主義等についてのことじゃなく信仰についての議論のつもりで書いたもので、師匠は「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」と分けられましたが、この二つに使われた「信仰」は両方とも「サッダー」という語句を使っているとのことで、師匠のように「信仰」という言葉に別々の意味をつけてこそ理解が出来ますが、ブッダが何故意味の違う信仰について同様に「サッダー」と言う語句を付けたか、また意味が違うなら意味が違うという説明を何故つけなかったのかということに、師匠の説明でもその見解には私は疑問が残ります。

 そこで >>104 で書いたことは「サッダー」の指す信仰に区別はないのではないかと推測してみたのです。
 仏教という思想も他の思想(仏教以外の宗教等)も信仰対象という意味では同じだと思います。筏の喩えからも読み取れるのが、ブッダは正しい思想も誤った思想に対しても信仰対象とすることを否定されたのではないかと私は考えます。
 師匠のお示しくださった『ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)』で、『比丘たちよ、かくも清らかで明瞭なこの見解でさえ、あなた方がこれにしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着するならば、あなた方は、われわれの教えが筏に似たものであることを理解していないのだ。筏は流れを横切っていくためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。』との言葉にある「執着するならば・・・」は信仰を指す言葉と私は解釈しました。
 なので「かくも清らかで明瞭なこの見解」がブッダの教えであり、信仰(しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する)することを諌められているように思うのです。勿論「かくも清らかで明瞭なこの見解」は捨て去るものではないと思います。
 「かくも清らかで明瞭なこの見解」に対して信仰するものではなく、反駁しようのない教えであり納得するのが当たり前といったことではないでしょうか。


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