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日蓮考察

104わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/31(火) 16:37:45
 Libra師匠、こんにちは。^^

 信仰について議論したいことがいくつかありますので、論点別に時間をかけて投稿したいと思います。

>  『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
> 〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
> が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
> ー」です[*4]。

 ブログ記事の『自灯明法灯明』*1のコメント欄、ひゃっきまるさんとのお話の中で「筏の喩え」*2の話で「目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。」との意見が出てきたのですが(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 00:19)、この「筏の喩え」*2と師匠の書かれている「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とは同じような意味があるように感じるのですが、ひゃっきまるさんは「比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)

この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。」(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 14:55)とおっしゃっており、この見解の「教え(法)を捨て去るべき」を「信仰を捨て去るべき」と解釈するならば師匠の言われる「仏教的信仰」も捨て去るべきものとなりましませんか?

*1『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html
*2 『信仰とその周辺スレから「筏の喩え」について』 http://wame.seesaa.net/article/9016740.html


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