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わめの独り言

1 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/07(木) 15:36:28
今日はgizmoさんって方のお話を聞けて、お返事した後すぐ仕事で、その行き帰りの車の運転中にgizmoさんのおっしゃってたことを考えてみた。
それと同時にわめは、自分の今の主張とも比べ考えてみた。
どうもわめは、わめも皆も「人間釈迦の教え」に向かうべきであるとの思いが強かったように感じる。
それはわめは悪いことじゃないと思うし、今もそうあるべきだとも思っているが、その先にあることはあまり考えていなかったことに気がついた。
それは「人間釈迦の教え」を源と自覚としていけば、大乗教だって小乗教だって、創価学会だって他教団だって、また宗教じゃないなんだってすべてを、生かしていけるってことを。

そのことに気が付いたからって、わめの何が変わるわけではないかもしれないけど、何か大きなことを学んだように感じる。

2 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/07(木) 17:20:13
↑とはいえ、宗教を生かす・活用することはいいとしても、人間釈迦は信仰を捨てよ説いている。

しんこう ―かう【信仰】
(名)スル
〔古くは「しんごう」とも〕
神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
「仏教に厚い―を寄せる」「神を―する」

4 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/11(月) 12:09:19
さっきメールを書いててふっと思った事。

宗教・信仰って薬物みたいなものかもしれないと・・・

毒にもなるし薬にもなる、誤飲すると危険だしw

でもほんとに病気を治すのは、自らの治癒力で、薬はその助けをするだけにしか過ぎない。

人間ブッダは、薬に頼らないで治療する方法を教えたのではないかな。

5 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/11(月) 13:03:59
>>4
激しく同意のメールが飛んでキター━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━>
ご意見は雑談スレにでも書いてくれたらいいのに・・・wボソ

気をよくして続きを書こう。♪〜(・ε・ )

宗教・信仰って薬物みたいなもの、だからその怖さもある。
あるひとつの薬だけを最高の万能薬と思い込み(薬効にそう書いてあるのだが)、薬物中毒になる方が多いのではないかと。
あるいは薬物の作用に溺れ、色んな薬物を服用(注射もw)したくなり、四六時中薬物の影響が体に必要になってくる。
こうなってしまうとその後遺症や依存症がなかなか治らないし、精神をも破壊しかねない。

しかし薬物もよく考えてみると、自然物の中から抽出され加工・調合されたものである。

人間ブッダは、宗教・信仰という薬物も、縁起の法のひとつの表れ方と説いたのではないか。

6 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/19(火) 03:34:05
人である以上、誰もがそうであるように、私もまた自分自身を意識できる。
私はこの意識を自らの生命と感じる。
この肉体が滅んだ時、肉体と共にこの意識は消え去るのであろう。
つまりは無意識であり、生命の死である。
だが本当に我が意識は滅び去り、無に帰するのであろうか?
我が意識が肉体と共(少し遅れてだが)に生まれ、この世を知る。
生まれる前も、また死後も、この世の存在は知覚出来ないから推測でしかないが、この世は、私が生まれる前から存在し、私の死後も存在するであろう。
我が肉体は、突然何も無いところから生まれたのか?
そうではないことは言うまでもない。
我が肉体が死する時、突然無に帰するのだろうか?
そうではないことも言うまでもない。
生物としての生体活動を終え、我が肉体は焼かれ煙となり、灰となり土に返り、この世に何かしらの形で残っていく。
我が意識、我が遺物もまた、他者の意識に何かしらの影響を与え、この世に何かしらの形で残っていく。

私の心情は、理性に従う。理性は、真実なるものを指し示す。
心情は、個性の現れであり、個々の心情は広がり続けていくものであろう。
云わば水面に投げ入れた石ころと、そこから広がる波紋のように、理性は波紋の源を探り、心情は波紋が広がるように。

この世とは、云わば人間ブッダの説いた「縁起の法」のようなものである。
仏教において、無我・空・無常と表わされることはあるが、これは皆縁起の思想を指し示す言葉と認識している。
縁起の法とは、すべてのものは依存関係(以下関係性と略す)にあると説く。
個としての存在のように見えるものすべて、この関係性の中でのみ存在していると言えよう。
この関係性の中で私は生まれ死んでいくのである。
否、生まれたのも死んでいくのも私の意識だけなのである。
私を司る有機的なものすべては、関係性の中で生体としての形を整え、関係性の中で私という意識を芽生えさせ、関係性の中でやがて衰え生体活動を終え、私という意識は消え去るのである。
この関係性こそが、私の意識の生みの親であり、私の意識の帰る場所なのである。
それ以上でもなく、それ以下でもない。それだけなのである。

このばかばかしいほど当たり前なことに、今頃ではあるが気付けたことは、私の生きた証になるのかもしれない。
そして私の心情も、すべては関係性との答えに、至上の喜びを感じ満足し、飛び跳ねているようだ。

7 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/19(火) 03:35:57
↑酔いが醒めたら速攻削除かも・・・w汗

お(ノ ̄0 ̄)ノや(o ̄・ ̄)oす(。_ _)。みzzz..

8 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/19(火) 13:08:02
>>6
そんな変じゃないな・・・ 消さないでおこうw笑

でもちょっと修正しないとw

誤 つまりは無意識であり、生命の死である。

正 つまりは生命の死である。

9 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/21(木) 13:05:10
きょうこさんちにコメント書こうと思ったら、丁度いい感じのわめの投稿発見♪

ペガサス師匠の掲示板から、わめの書き込みを転載(一部割愛)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
投稿者 : わめです 投稿日時 : 2005/07/06 10:45

わめはもう、宗教に対しての信仰心は微塵もありません。
人としての釈迦のように、あくまで形而下で人を救おうとした方から学んでいこうと思っております。

宗教に真理はないと思います。例えあったとしても、それが真か偽か判断の下せない形而上のことだと思いますし、真偽が判明してしまえば宗教としての役割を失ってしまうのではないでしょうか。
ただ宗教を含む形而上学は、皮肉にも人間が覚知できる形而下の実存を、相対的に証明する有用性があると思います。

人類が始まって以来、人には未知なるモノへの恐怖心がつきまといました。今でこそ天災を自然現象と捉えられますが、それを知らなかった大昔の人たちは、自分や家族や種族が、地震や洪水や台風や飢饉などに被災し、命を奪われていく現実を目にし、形而上学的に答えを捜し求めたのは無理からぬことだと思います。

現代に至っても、人は皆それぞれ何かに悩んだり苦しんだり悲しんだりし、それらから逃れたいと必死にもがき苦しみ、形而下において解決できない場合、またその苦しみなどの大きさの度合いにより、自殺や、自暴自棄になり、酒や薬物に溺れたり、脳のブレーカーが飛ぶ(精神障害)などの行動や症状が現れます。

アメリカなどでは予防医学が進み、多くの人は精神障害など起こす以前に、カウンセラーや精神科医にかかりますが、日本では発症してから対症療法を受ける場合がほとんどで、これらの問題の解決に至らないケースが大半です。

このような状況下は、昔も今も苦しむ原因は違えど、形而下では解決できない事柄と捉えることが出来ます。
大昔の天災などは人間の知恵が及ばなかったが為、現代は精神的苦痛に対する個々人の弱さや、社会的にそれらを解決するための環境が整っていないこと、また教育の問題などもあるかもしれません。

こうした形而下で解決できなかった方が、宗教に救いを求め、仮想的な宗教思想を信じることになっていくのではないでしょうか?
もちろん、宗教を信じる動機はそれ以外にも様々でしょうが、形而下において不満足な精神状態であることは共通点かもしれません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

10 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/28(木) 11:07:22
自分と向き合える人

自分と向き合える人は、孤独であり孤立する。
孤独や孤立を好むのではなく、そうならざるを得ないのである。
それは、身に降りかかる諸々の諸現実には色が無いからで、それを受け止める自らが、色を付けていることを知っているからである。

また自分と向き合える人は、身に降りかかる諸々の諸現実から、何かを学び取ろうとの思いが強く、例えそれが気心知れた近しい友人であろうと、自らを見つめるための格好のユニットとして映ってしまい、今後もそうあってもらいたい程度の気遣いはしても、友情を育むといった思いは二の次になってしまう。

だが自分と向き合える人は、もう既に気付いているのかもしれない。

他者をも含む自らを取り巻く諸々の諸現実は、自分とは元来切り離せない密接な関係にあることを。

だから余計な労力を使わないのかもしれない。

自分と向き合える人が、惜しみなく労力を使うのは、さりげない言葉に秘めた、他者への深い思いやりだけかもしれない。

自らの心が悲鳴をあげていようと、何度も何度もあきらめることなく、さりげない言葉に思いを込めて。

私は、自分と向き合える人を、自分と向き合える人と認め、私が認めていることを、何らかの手段で伝えることだけが、自分と向き合える人の孤独や孤立を、少しでも癒す最上の贈り物としている。

11 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/28(木) 15:29:04
忙がなくていいじゃん。

染み付いてるのが分かっただけでもすごいことだよ。
無理してゴシゴシ擦っちゃうと肌まで傷つくよ。
そこにまた違う変な色が付いたら何してるかわかんないし。
染み付く時間と同じくらい、時間をかけて落としていけばさ。

16 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/07/29(金) 15:50:49
わめはボス

わめに友達が出来たことを母は喜んだ。少々のことは目をつぶってくれてたし、学会活動で留守がちだったことも幸い?し、中学2年の頃より、わめの家は不良の溜まり場と化した。

わめの部屋から出る大量のタバコ+αの煙に火事と勘違いした近所の方が、消防署に通報し、消防車が来たこともあった。近所で火事か?とびっくりしたのは、当の本人わめ達であった。(冗談のようなホントの話w)

市内にあるすべての中学校の不良は、わめの家に足を運ばないと、他の学校の不良から軽く見られるからか、名の知れた市内の不良はわめの家に溜まるようになる。
わめの部屋は、仲間が万引きしたもので溢れていた。高級な蟹缶などもう見たくもないほど食べた。
わめはいつも家にいたから、それぞれのグループと個別に話ができた。だからグループ同士が揉めた時も、わめの仲裁は説得力があったし、それを聞かないと、はぶしになり大きな顔ができなくなることをみんな知っていた。

そしていつの間にかわめは傲慢になった。
わめに気を使わない奴を殴ったり、生意気な奴を刺して傷付けることもした。
中学卒業後働かず、夕刊配達のアルバイトを始めたのも、仲間たちに配らせてバイト代を稼ぐためだった。

この後地域の大B長(今で言う地区部長)の登場で、わめは更生するのだが、その話はいずれ・・・(しないかもw)

17 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/08/02(火) 04:55:36
僕は死にましぇん、あなたが好きだから、僕は死にましぇん!!
ドラマ101回目のプロポーズの、武田鉄矢の言葉です。
最近また観てみましたが、やっぱりまた感動もし、純粋に人を愛するって素敵だと思いました。


んじゃわめも叫んでみるか!

わめはあきらめましぇん、あなたの心の扉が開かれるまで、わめはあきらめましぇん!!

18 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/08/03(水) 11:31:04
多元(二元)論(相対関係・不二)的思考

goo辞書 たげん-ろん 2 【多元論】
(1)世界が唯一の原理から成り立つと考える一元論に対して、相互に独立な二つ以上の根本的な原理や要素によって世界をとらえる立場。
(2)ある対象領域を説明する複数の異なる理論が共存することを認める考え方。

多元論と相対関係と不二をごっちゃにして考えるわめです。(^^;;

上下・左右・表裏・静と動・明暗・善悪・精神と肉体.....etc

これらの片方が無い(覚知できない)と、もう片方も無い(覚知できない)と言うこと。
この宇宙のすべてがそうなのかは分からないが、人間の認知能力はそんなものだと思う。
認知できないものは、認知できない人にとって、どうでもいいことだと思う。何故ならその人は、自らが認知できる世界でのみ生きているのだから。

不二は、上下不二とか明暗不二とか善悪不二って書けば分かるように、それぞれが独立することはできないから不二と考えていいと思う。依正不二も環境と自分とはそれぞれ独立した関係では無いってことで。
ただし凡夫と仏などの相対関係はあり得ないと思う。単に人の呼び方ですからw汗
また人と神というのも、神自体が相対関係を見出せない(神悪魔不二じゃどちらも証明できないw)から相対関係に至らない。

19 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/08/03(水) 12:52:22
試しに無理やり独立させて、想像してみるテストを忘れてたw(^^;;

左右の右を認知不能とし、強引に左のみ認知してみるテスト。
左は左でなくなってしまい、左はやっぱり認知できない。

光と闇の闇を認知不能とし、強引に光のみ認知してみるテスト。
光は光でなくなってしまい、光はやっぱり認知できない。

善と悪の悪を認知不能とし、強引に善のみ認知してみるテスト。
善は善でなくなってしまい、善はやっぱり認知できない。

依正の依(環境)を認知不能とし、強引に正(自分)のみ認知してみるテスト。
自分は自分でなくなってしまい、自分はやっぱり認知できないw怖

云わば絶対(相対する対象が認知できない)とは認知不可能なのである。
絶対は絶対に無いw=( ・_・;)⇒ アレ?

20 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/08/08(月) 00:47:12
...ψ(。。)メモメモ...

ちょっと悩んだ末のわめの結論。
何より尊ぶべきことは残すことかもしれない。

またわけわかめだ......

21 わめ ◆TJ9qoWuqvA :2005/12/12(月) 00:06:42
 ブログのボツ記事(途中までしか書けなかったがw)を捨てるのはもったいないのでここに書いとこう。(^^;;

 主体者とはくまりんさんがおっしゃっている「時間の先頭に立って未来を選択し峻別しゆく認識主体」とか、ユングの言う(意識層の)ペルソナ(仮面・演技者?)みたいなもので、自己の言動の司令塔の役割を担っているようなモノを指します。
 わめの中ではこの主体者が完全にではないでしょうが独立を果たし、その独立した主体者が今までわめとしてやってきた心的作用までも引き抜いていった感じで、言わばわめは抜け殻で主体者に操られている状態のようなものです。(^^;;
 っていうか、主体者もわめの一部なんだから変な説明になってますが、要はわめという肉体と主体者という心が分裂した状態というのか、主体者に持って来れなかった本能とか我欲とか無意識的な一部とかはわめと言う肉体とともにまだあり、意識的な心とそれ以外の無意識的な心はすべて主体者にお引越しをした状態となっているような感じです。やっぱ心の様はイメージですから表現は難しいな・・・w

 わめはと言う(書く)時のわめは主体者で、わめはキーを叩いたりしゃべったりする従者なのです。そしてわめの主体者はわめの従者の心の様を観察したり話しかけたり満足感を与えてくれたりしているのです。生まれた時から事業に燃えていた青年期までは、主体者と従者の力関係は今とは逆転していたと思います。この青年期はわめも自己の欲求とか願望とかの達成のためただむしゃらに走り続けていたように思います。このような時は壁にぶち当たり悩んだり苦しんだりした時に少し顔を覗かせるだけの今の主体者だったと思います。
 それがある時、命以外のほとんどのモノを短期間に無くし、少し期間は掛かりましたが無くしたモノすべてが結局自分のモノじゃなかったんだと気付くことができ、無くすことの苦しみがいつしか心の解放となって喜びへと変わりました。この頃から変化しだしたと思うのですが、自分のモノは無いという感覚が度を超し”その自分までもが自分のモノでは無い”とそのように思えてきてしまったのです。いつの間にかわめは主体者から切り離される状態となったのです。わめの主体者から観るとわめ(従者でもありますが)は他者のようなモノで、主体者から観るとわめも他の方達もみんな他者的な感覚になってしまうのです。完全に分離していないと思う時もあるのですが、それはお腹が空いたりのどが渇いたりやストーブに乗ってるやかんにうっかり手を触れてしまって熱っ!って感じる時など、主体者には五感がないのでそれはわめという従者を通して知る以外にないからかもしれません。
 主体者に五感がないということは致命的なことで、なんぼ従者であるわめを他者に感じてもこれだけは従者の手を借りる以外にないわけで、他者をまったくの他人とはできないわけです。
 だからか主体者は他者の重要性を強く認識して、他者を他人と思うことを殊更嫌うのです。ましてわめという他者が死んでしまう時は、主体者も共に消滅してしまうわけで他者とは切っても切れない関係にあるのです。また従者であるわめと主体者は元々ひとつなんだから切り離す思考をやめてしまえばいいとの考えもあるかもしれないし、事実そんなことも考えたことはあるのですが、そう考えた時は従者のわめが考えたわけですが、そのわめからみるとこの主体者はとんでもなくすごくいい奴で、自分とひとつにすることはダイヤモンドを泥の中や汚物の中に突っ込んでしまうような、あるいは悪魔達の集団に手足を雁字搦めに縛り付けて投げ込むようなそんなイメージを持ってしまったのです。ですからそんなことはできなくて、名案としてそれよりも自分を主体者の側に持っていこうと決めて主体者側にお引越しをしたのです。すると当たり前かもしれませんがわめにとってはすごく不思議なことで、主体者に自分が乗り移って(憑依の感覚かも)そして今までの自分は抜け殻のように見えるようになったのです。
 わめは関係性を重視していますがわめ(主体者)からは、わめ(抜け殻兼五感器官?)もそれ以外の他者も同じ他者の感覚になるわけで、また、わめ(主体者)はわめ(抜け殻兼五感器官?)を通じて他者と関わりをもっているのですが、これらみんな関係性がなせる業(わざ)なのです。この関係性がなければ抜け殻であるわめの五感も役に立たず、他者さえ認識することもできなくなってしまいます。

22 わめ ◇TJ9qoWuqvA :2010/04/27(火) 14:28:32
わめのトラウマその一

昨夜(本日未明かw)、coco師匠から「他人のなかに見い出したものが 自分自身のなかにも確実に存在している」とアドバイスを頂いた。(TдT) アリガトウ
ところがわめは、そのアドバイスに、わかってると事もなげに返事した。マジこのアドバイスを読んだ瞬間の反応だった。
眠かったけど(午前4時前だもんw)、不思議に感じてコーヒーを飲んで考えてみた。
coco師匠はそれはとっても難しいことと言われてた。わめはcoco師匠の言われたことを、浅く取ってお返事してしまったのかとも考える。(これはcoco師匠に後日聞いてみようと思う)
それと同時にわめが幼い頃、ある意味特殊な子だったことを思い出す。

わめは9歳くらいまで、何をしていたかあまり記憶に無い。もちろん自分の中での大きな出来事は記憶にあるのだが、それ以外の記憶が薄いのです。
それは母に起因することが多いと思う。わめは幼稚園に入る年頃の頃、近くに愛護園と言う宗教系の幼稚園?しかなく(お寺の敷地内にあった)、創価学会命の母はそこに入園させなかった。なのでわめは小学校が最初の集団との交わりであった。母は自分や家族のためと、必死に学会活動をやっていたようだ。わめの幼い頃の記憶には、母親と姉は家にいた記憶が少ない。姉は母親が連れ歩いていたようである。
小学校に入学した時の記憶は鮮明である。正直恐ろしかった。わめの知らない沢山の子供達が、思い思いに他の子達とワーワー騒いでいるのである。わめはきっとその時に学校は怖いところと認識したのかもしれない。そんなところに行くより、今までのように一人遊びしていたほうが、どれだけ楽しいか・・・
朝学校に行く時間にはわめは毎日嫌だと泣き叫んでいたように思う、母親は学校に通わせようと、近所の高学年の子達を家に入れ、わめの手を握らせ通学させた。わめは高学年の子達をみるとすぐに泣き止み、抵抗できなかった。だから高学年の子達が家に上がってくる前に、母に必死に行きたくないと訴えていたのである。
学校に行っても、こっそり早引けばかりをやっていた。家にはもう誰もいないから咎められる事はなかった。また、担任の先生が心配になり、見に来たりはしたが、家に居るのを知り優しい言葉をかけ、わめをおいて学校に帰って行ってくれた。

わめは人の心が分からない子だった。一人遊びの上手な子だった。母親の心さえ分からなかった。ただ母だけはわめが頼れる唯一の人と思っていたのは間違いないと思う。

小学校の頃の出席日数は覚えてないが、休んだ日のほうが多かったと思うし1年間留年もしている。中学3年間の出席日数は明確に覚えている。遅刻・早引けを出席に含め3年間で○○日(2桁)だった。
病院は数え切れないくらい行った。総合病院は行ってないところがないくらいに。当時のわめは、原因不明の高熱が出る病気にかかっている、子を思う母親の気持ちもわめには感じ取ることが出来なかったのである。分かっていたのかもしれないが、それより一人でいたかったのかもしれない。
中学2年の頃、わめにも不良友達が出来た。シンナーを教えてもらった。18歳くらいになるまでシンナーの常習はやめられなかった。シンナー中毒による飛び降り自殺と、バイク事故での不良仲間2名の立て続けの死から、やめることができたのかもしれない。

わめは対人恐怖症?だったのかもしれない。それは相手の気持ちが分からなかったことが原因だと思う。
今は新聞の悲惨な事件をみても、加害者に、なんてバカなことをやったんだと、わめの日頃隠れた心と照合・確認できるようになってきた。

一応終わりw 自分の生い立ちを書くのってすごく恥ずかしいw汗
バッサリ削って再々投稿w爆
1行削除(2010/04/27)


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