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○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について
313
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/01(日) 15:03:48
くまりんさん、皆さん、明けましておめでとうございます。^^
昨年は、くまりんさんやLibra師匠やLeoさん他皆さんから多くを学ぶことが出来て感慨無量です。
本年もよろしくお願いいたします。
音楽、ギターの縦えがでてきましたのわめはちょっとうれしい。♪
同じ曲を忠実に弾いても弾き手で音色や曲調が大きく変わるように思います。同じ人が同じ曲を弾く場合にも、その時々で音色や曲調は変わってくるようにも思いますし、また聴き手によっても変わってきます。
これはブッダの悟りのご説明での縦えと思いますが、体験主義的に捉えることは非常に危険を感じてしまいます。ブッダの悟りとはブッダ一人のものだと思いますし、ブッダの悟りを他の方がそっくりに体験することは不可能に思いますし、一人ひとりの体験を悟りとするなら悟りは悟りを開いたと”思う・言う”人の数だけあるように思います。また仏教徒でもなく悟りを悟りと知らないまま体験する人もいるかもしれません。(悟ったかどうか、あるいはその悟りのレベルを判定する方法はあるのかもしれませんが、それもあるひとつの概念での判定法でしかないように思いますし。)
「仏教を超えて」との表現はちょっとまずかったかもと反省していますw汗
仏教の枠を超えてと言うのがわめ的には正しい表現であったように思いますので訂正させてください。 ってことで仏教を誹謗する気など毛頭ありませんのでご容赦ください。<(_ _)>
但しブッダご自身があるひとつの方法でしかこの悟りを得ることができないなどともしも言ったとしたら、あるいはこれが一番の近道だと言ったとしたら、それは悟りを開いたはずのブッダ自身がその方法に固執してしまって矛盾するように思いますので、その場合はわめの「仏教を超えて」との表現もまんざらまずくないかもとも思います。
いずれにしましても悟りや涅槃が目標でないとしたならば悟りや涅槃に拘る必要などないように思いますし、それが目標だとする方には頑張ってくださいとしかわめには言う言葉が見当たりません。
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