したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

299くまりん:2005/12/31(土) 01:30:36
こんばんは。お久しぶりです。
 年内最後の書き込みになると思います。
『ブッダ論理学五つの難問』の著者マニカナエムさんと仏教思想のソフトランディングの方向性について拙サイトとマニカナエムさんのサイトで意見交換をしています。よろしかったらご覧下さい。

http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=891#comment-12406
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/12/post_4fba.html

 僕は拙サイトで大乗仏教を批判していますが、基本的なスタンスとしては大乗仏教が非大乗を小乗というモノイイで論じている点についてのみ大乗を批判しています。実際のインド仏教の流れの中では部派と大乗は連続しているんです。14世紀のインドの哲人宰相 Maadhava はその著『全哲学綱要(Sarvadar;sanasa.mgraha)』 において仏教徒は〈Maadhyamika(中観学派)〉 〈Yogaacaara(実修行派)〉 〈Sautraantika(典拠学派・教量部)〉 〈Vaibhaa.sika[Sarvaastivaadin](選別学派・説一切有部)〉の四種の〈bhaavanaa(教え)〉によって優れた人間の目的を説くと仏教を解説しています。実際彼らは〈caaturdi;sa-sa.mgha(四方僧伽・全教団)〉という仏教徒としての制約の下議論を続けたのです。

 実際仏教の中に大乗、小乗などと区分を設けたのは中国での話であって実際には議論の中である意図〈vivak.saa〉の元に発せられたナーガルジュナの叫びを実際の議論と流れを理解できなかった智ギ、神会、宗密などが大乗、大乗と小乗を蔑んだだけでしょう。少なくともインドにおいては六波羅蜜ですら大乗と小乗を区別するキーワードにも成りませんし、名称としての菩薩行はともかく、実際の仏教上の呼び名で言えば慈悲行は原始仏教の時代から苦行の一種としてブッダに推奨もされ部派においても仏塔信仰とともに大いに為されたものです。

 ナーガルジュナは優れた思想家ですが彼の卓越したところは論理であって無自性は議論における意図〈vivak.saa〉でしかありません。仏教という豊かな思想の流れのなかでは1/4に過ぎないんです。それを智ギ、神会、宗密がそれぞれのやり方で引き継いだからといってなんか意味がありますか?それは単に仏教の中国的変容という視点で検討するべきテーマで、なにが正しい仏教かの俎上にのせる話ではありません。ブッダの体験としての「さとり」を排除したような仏教は仏教ではなくなってしまいます。ナーガルジュナの思想とて一緒です。彼は明らかに「さとり」の体験をしています。だから涅槃がないと言えるんです。つまらないこだわりはお捨てになって仏教を白紙から見直したほうがずっと楽しいですよ。

では、お幸せでありますように。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板